cc

「別館A」トップ・ページへ

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ   サイト・マップへ

国別 F〜L
Africa FAQ 目次


日本人的アフリカ・イメージ


 【link】

net bunker」:恐怖! ギニアで人気のテレビ番組!? - ENTERTAINMENT - X BRAND

「VOR」◆(2012/08/21)リベリア大統領 息子を中銀から更迭 汚職対策への協力拒否で

『マウマウ戦争の真実』(マイナ・ワ・キニャティ著,第三書館,1992.7)

●Ivory Coast コートジボワール

「AFP」◆(2010/12/29)西アフリカ3大統領がバグボ大統領に最後通告,コートジボワール

「AFP」◆(2011/03/01)バグボ氏派が国連調査団に発砲,緊迫の度を増すコートジボワール

「BBC」◆(2010/12/30)Ivory Coast 'on edge of genocide'

D.B.E. 三二型」(2011/04/06)◆仏軍と国連部隊,バグボ氏拠点を空爆 コートジボワール

「Guardian」◆(2010/12/17)Ivory Coast violence leaves 18 dead

「NY Times」◆(2010/12/19)Ivory Coast Strongman Orders Out U.N. Force

「Ventures Africa」◯(2013/01/12) China's Exim Bank Grants $500 Million to Ivory Coast for Hydropower Plant
中国輸銀,象牙海岸の275MW水力へ5億ドルローン

「VOR」◆(2012/05/15)ロシア コートジボワールを助ける

「WP」◆(2010/12/21)UN refugee agency says 6,200 flee Ivory Coast

「WP」◆(2011/04/06)U.N.: Ivory Coast leader Gbagbo’s top generals offer to halt fighting

「WP」◆(2010/12/24)Ivory Coast state TV signal cut off in some areas

象牙海岸にて

●Kenya ケニア

「Guradian」◆(2013/05/06) Top story = Kenyan Mau Mau victims in talks with UK government over legal settlement

「VOR」◆(2012/08/13)ケニア上空でウガンダ軍のヘリコプター数機が行方不明

「VOR」◆(2012/08/23)ケニアで民族間衝突 50人以上死亡
> ケニア南東部でポコモ族のグループ約200人がオラマ族の村を襲撃し,家に放火.
> 地元警察の署長によると,オラマ族の女性や子供たちなど多くの人は逃げる間も
>無く焼死するか,ナイフや弓矢で殺害されている.
> 地域発展を担当するケニア国家基金のスポークスマンは今回の事件について,
>1週間前にオラマ族がポコモ族の土地に勝手に放牧する事に抗議して,オラマ族の
>牧童を攻撃して多くの牛を殺した事が発端だ,としており,オラマ族はその際に
>報復としてポコモ族のメンバー2人を殺害した事から,今回の事件はその復讐だと
>説明している.
> その一方で紛争の目撃者は,オラマ族は襲撃の準備がなされている事を警察に
>通報したが,何の対応もしなかった,と証言して,襲撃には政治的意味合いが
>あるとしているが,ポコモ族の政治的動機については詳しく言及していない.

「VOR」◆(2012/09/10)ケニアの民族紛争で30人以上が死亡
> 赤十字国際委員会のキランデ代表が伝えた所では,ケニア南東部でタナ川地区の放牧地の管轄権を巡る争いが民族間衝突に発展し,警官7人を含む32人が死亡.
> ケニアでは先月,この地域における同様の衝突で50人以上が死亡した.

「VOR」◆(2013/03/09) 人間性に対する罪に問われている人物がケニア大統領に

「朝目新聞」(2013/06/08)● 日清がケニアで即席ラーメン市場を開拓し人気に.秋には「ニャマチョマ味」を発売

「孤帆の遠影碧空に尽き」◆(2013/03/06) ケニア大統領選挙  前回同様の混乱の懸念も


◆F〜L


 【質問】
 ギニアにおけるボーキサイト鉱山開発を巡るすったもんだについて教えられたし.

 【回答】
 西アフリカには,15世紀半ば以降,スペイン,ポルトガル,フランス,英国,米国などが奴隷貿易や象牙の採取などで進出しており,革命やナポレオン戦争などにより,フランスの進出は一進一退を繰り返しました.
 1849年,フランスは西アフリカに於ける橋頭堡としてボケ地区を保護領とし,ちょっとずつ領域を増やして,1893年,仏領西アフリカの一部として仏領ギニアを成立させることに成功しました.

 この仏領ギニアには,19世紀の王立工業学校の調査により,アルミナ分の高い鉱石があることが既に報告されていましたが,1917年にアルコアの鉱山技師が本社に報告書を出すまで,全く顧慮されていませんでした.
 アルコアは,この鉱山技師に更なる調査を依頼しましたが,彼は契約を履行しないままに終わります.

 1920年,英領ギニアにあるボーキサイト鉱山への技術者派遣が可能になったので,米国人5名と2名のフランス人からなるアルコアの調査団がコナクリに派遣される事になりました.
 ところが,一歩先に米国人が以前アルコアの技師が探鉱した地域の探鉱権を申請していました.
 その地区は,海岸沿いのロス諸島と内陸部のボケ地区でした.
 一方,アルコアの調査団は1鉱区直径3.5kmの探鉱権を20鉱区で申請し,2年間の探鉱が認められました.
 この探鉱権は,アルコア本体ではなく,そのフランス法人の名前で申請しています.

 1923年,2年間の探鉱権が切れるので,再度,その延長を申請し,今度は20鉱区中15鉱区の探鉱権を20年に渡って取得することに成功しました.
 また,一歩先に探鉱権を申請していた米国人が全く探鉱をしていなかったので,1924年にはロス諸島の開発権をも手に入れることに成功しました.
 この探鉱権による探鉱は殆ど行われず,1923〜27年に掛けて,幹部が毎年乾期になるとギニアに滞在して,新たに97鉱区の探鉱権を申請していました.
 この頃の改訂鉱業法では,20年という長期の探鉱権は認められず,申請当初から3年間有効とし,延長は各2年を2回,つまり通算7年間の探鉱が可能で,8年目には開発権に切り替える必要がありました.
 この開発権は50年間有効で更に50年間の延長が可能でしたが,期間中に実際の鉱山活動を実施することが定められていました.

 1932年にその8年目がやってきたのですが,大恐慌があったり,集中排除法により米国資本のアルコアは,アルキャンなどに分離し,事業の再編成をしていた時期だったので開発権に切り替える余力が無く,ギニアの植民地政府と交渉して7年間の探鉱権延長を認めさせることに成功します.

 その前の1930年に前の割り込んで入った米国人からカッサとタマラ両島の開発権を10万ドルで買収することに成功していましたが,権利関係の移転に手間取り,実際に全権が手に入ったのが1933年1月の事でした.

 1935年,仏領ギニアでは新鉱業法が施行されます.
 この法規では,鉱区を取得すると鉱業活動が自然と要求され,投資が行われ,鉱区の維持には資金投下が義務づけられる事になりました.

 1937年になると再編成に落ち着きが出てきて,資金的な余裕も出来た為,アルキャン(アルコアからこの権利を譲渡された)はロス諸島の探鉱を積極的に実施し,ボケ地区への投資も開始します.
 この見本が本国に送られ,分析された結果,1938年からタマラ島の2カ所で採掘が開始され,船積み用の岸壁がフランス業者の手で建築されることになりました.
 この採掘は,植民地政府の要望により,タマラ島の囚人を雇用することを義務づけられますが,船積み用岸壁が暴風雨で破壊され,囚人達は植民地防衛用施設の建設に徴用された為,再建の見通しが立たなくなりました.

 1939年9月,第二次大戦が勃発し,ギニアのフランス民間人は本国に呼び返されました.
 一時,此処の鉱山技師も本国帰国を余儀なくされましたが,一部はタマラ島の6,000トンに及ぶボーキサイトの処理の為に戻りました.
 ところが1940年6月,本国がドイツに降伏してしまい,本国とギニアとの通信が途絶し,送金も全く行われなくなり,技術者達は八方塞がりの状態に陥ります.
 仏領西アフリカの政府は,連合国に協力してボーキサイトを北米に送ろうとしましたが,船積み岸壁が破壊されている状態ではその実行は困難でした.

 こうして4年の月日が流れていきます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/07/09 22:26

 さて,ギニアのボーキサイト鉱山ですが,5年間放置された後,1944年11月になって,自由フランス政府と仏領ギニアとの通信が復活します.
 1945年2月,鉱山省のダカール支所は,アルキャン・フランス子会社のコナクリ事務所に対し,タマラ島のボーキサイト積出設備の完工とボケ地区の探鉱再開を要請し,1946年に期限が切れる探鉱権の再々延長は認めないと言ってきました.
 アルキャンは,大戦に於けるアルミニウム需要の拡大と,冷戦に伴う東欧のブロック化,それに米国内の高品位ボーキサイトの枯渇,それまで供給の主力だったジャマイカの資源枯渇,代わってアルキャンの主力鉱山となっていたのが英領ギアナしかないなどの要因から,西アフリカの資源が脚光を浴びる事だろうと分析し,ギニアでの活動に主導権を持つべきであると考えるに至りました.

 こうして,ギニアでのボーキサイト採掘として,先ず600万ドルを投資してのカッサ島のボーキサイト開発にゴーサインが出されます.
 この開発投資は,内陸部,特にボケ地区のボーキサイトの権益確保をフランス植民地省に認めさせる必要から行われました.

 1948年5月,戦前に開発が開始されていたタマラ島のボーキサイト1万トンの試験船積が決定しますが,これは大変な喜劇に終わりました.
と言うのも,タマラ島には船積設備が無く,艀どりして本船の船側から本船のギアとバケットを利用して搭載することになった訳です.
 船積にはGrafton Parkと言う船が使われましたが,どうした訳かこの船に搭載されていた艀は木製だったり.
 兎に角,船積が開始されますが,陸上の搭載用コンベアが故障して,艀への搭載は人力.
 この船はこの地に15日停泊しますが,積み込みは遅々として進まず,1万トンのうち700トンしか搭載出来ない始末.
 遂には船長が痺れを切らして出港してしまい,おまけに此の儘では利益が出ないと,途中トリニダード島に寄って南米のボーキサイトを其の上に追加して搭載してしまい,結局,このタマラ島のボーキサイトでの試験は完全な失敗でした.

 こうしたことから,タマラ島の開発は断念され,より大きな埋蔵量のあるカッサ島に650万ドルを投資し,年間25万トンの積出設備を整備することになります.
 とは言え,世の中は復興景気に沸いており機材が不足しています.
 しかも,頑迷な植民地政庁との交渉に始まり,風土病を押さえ込む為の上水道の敷設,下水の敷設,鉱山街を形成する為の学校,病院,住宅の建設,娯楽,スポーツ施設の整備や運営する人間の養成など様々な困難がありました.
 最大の問題は,ギニアには熟練労働者が確保出来ない事で,鉱山の熟練労働者はセネガルやトーゴから,経理の判る人間はダオメーから,機械工はシエラ・レオネや象牙海岸から呼び寄せています.

 1952年7月から採鉱が始まり,その月に早くも5,540トンのボーキサイトが採掘され,9月には第1船が9,800トンのボーキサイトを搭載してカナダに到着しました.
 この出荷量は年々増え,1954年には44.8万トンを出荷しています.

 アルミニウムの需要は年々急増し,1955年にはジャマイカのアルミナは全て消費し尽くされ,デメララ,ジャマイカ,ロス諸島のボーキサイトはここ4〜5年で枯渇する恐れがあり,ギニア内陸部の開発は急ピッチで行う必要がありました.
 1956年11月,アルキャンは当時の金で1億ドルを投資し,仏領ギニアにボーキサイト鉱山,アルミナ生産設備の建設と周辺施設整備,更に内陸部から港まで80マイルの鉄道建設投資を開始します.

 一方,アルキャン以外にフランス資本主導でコナクリ北東の街フリアに年産48万トンのアルミナ工場を建設する計画をぶち上げたり,コンコーレ河で水力発電を行い,その電力45万KWを使って年産14万トンの地金製錬計画をぶち上げる計画が持ち上がっています.
 アルキャンにはこれらの計画にもある程度投資し,1956年末には早くも工場が稼働し始めています.

 新たな鉱山探しはギニア内陸部20カ所の探鉱権を持つ場所の彼方此方で開始されます.
 探鉱部隊は6〜10名の欧米人技師(地質屋もしくは測量屋)と120〜180名の現地人からなり,水のある場所にキャンプを張り,そこを中心に周辺地域の探鉱を行います.
 現在の様に地質探査衛星や探査機材が充実していないので,人間の勘だけが頼りの世界です.
 食糧は,初期の頃は地元で調達する米と肉に頼り,その後,フランスとカナダに1年分の缶詰を注文してそれを携行する方式に代わり,最後はコナクリからの空輸による補給へと進化しました.

 地図はフランス作成の満足なものが無く,相当苦労したようですが,それでも台地そのものがボーキサイトから出来ている事が判り,見本がカナダに送られました.
 ところが,掘る場所掘る場所からボーキサイトが出てくるので,一々カナダに送っていたのでは分析が追いつかなくなり,カッサに分析所が造られました.
 1952年までにボケ地区南西部に数億トンのボーキサイトを確認しましたが,アルミナ含有40〜50%,シリカ2%程度の鉱石ばかりで,当時は低品位の鉱石(遠方の工場で処理するには損益分岐点は54〜56%のアルミナ含有が必要)とされ,余り捗捗しくありませんでした.

 1953年になると,地図は第二次大戦中に行った米軍の航空写真から作成した斜高地図に代わり,その地図から目測で,新たに2,000平方キロの地域の探鉱権を得ることになります.
 この地区,ブルキ地区では少しドリルで穴を掘っただけで,大変有望なボーキサイト鉱脈が有る台地が見つかりました.
 暫くして,この地区が極めて特異な地形で,その中に折り重なる様に数百万トン規模のボーキサイトの層が有ることが判りました.
 しかも,表土は全くなく,露頭でのボーキサイトの分析ではアルミナ分が58〜62%と損益分岐点を越える含有量であり,シリカは1%で鉄分が極めて低いと言う理想的な鉱石だったりします.
 更にこの鉱層の厚みは通常のボーキサイト鉱層では20〜30フィート有れば素晴らしいとされるのに対し,この地区では80フィート掘っても底に達せず,平均鉱床の厚みは100〜115フィートと実に分厚い鉱床であることが判明し,其の上,鉱石の結晶はジブサイトかラテライトでした.

 その全貌は,極めて均質の鉱石で,ジブサイト高品位鉱が2億トン以上埋蔵されており,今までこれだけのボーキサイト,高品位,均質,重層鉱体のジブサイトが発見されたことはありません.
 アルキャンは既にこの探鉱に400万ドルを費やしましたが,中,低品位のものを含めると40億トンのボーキサイトの所有者となったのです.
 正にアルキャンの経営陣にとって,それはエル・ドラドと言える地でした.

 この情報は当然のことながら極秘でしたが,問題はその場所でした.
 この地区は,海岸線から100マイルもあり,適当な商業港もなく,高湿の地での開発にアルキャンの経営陣は頭を抱えました.

 アルキャンの経営陣は1955〜58年の間,フランスの植民地省と現地の関係庁,それに穏健派で知られる象牙海岸大統領のHouphonet-Boignyの助言を受けつつ,開発の方策を慎重に検討しました.

 しかし,この頃,折からの植民地独立,そして民族主義の台頭から,現地労働者層が力を得てきます.
 ギニアでも例外でなく,Ahmed Sekou Toureと言うイスラム教徒の息子で極めて野心満満の指導者が出現し,力を得て来ました.
 彼は,1936年に1年だけフランス系技術学校に在籍しただけで,直ぐ食糧ストライキの指導をし,以後,何故か郵政省に雇われ,郵便夫組合の委員長となり,全アフリカ黒人郵便夫組合連合の委員長に登り詰め,1946年には全アフリカ民主連盟の創設者の一人でしたが,尖鋭なマルクス主義者であり,1956年には全ギニアのフランス民族連合の副代表兼コナクリ市長に選出されていました.

 以後,このアフリカのエル・ドラドを巡って,アルキャンとSekou Toureとの戦いが繰り広げられることになります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/07/10 23:14

 さて1958年6月1日,フランス救国の英雄,シャルル・ド・ゴールは,挙国一致内閣を組閣し,次いで11月30日の総選挙で大勝して,12月21日に大統領に選出されました.
 彼は翌年の夏,既に独立を選択したギニアを訪問します.

 其処にいたのは,例のセク・トーレ.
 セク・トーレは既にギニアの首班に就任していましたが,自身の政治力と人民の動員能力を誇示する為に,ド・ゴールが到着すると集まった大勢の群衆に,「ド・ゴール万歳!」を叫ばせ,セク・トーレはその後,大統領に行為に満ちた讃辞を送る大演説を開始しました.

 独裁者の例に良くありがちですが,こうした賞賛の嵐の後に,返す刀でその当人を色々扱き下ろすのが常道.
 この時も,いきなり反植民地演説を始め,全くフランスを無視し,如何なる連携も拒否し,「貧窮よりも独立を!」とか,その類のアジ演説を始め,群衆もそれに唱和して,ヒステリックに「独立を!」とか「フランスを倒せ!」「セク万歳」を絶叫します.
 その後,ド・ゴールは真っ青になって発言を求め,フランスの善政を宣伝し,其の上で独立を認めると,3分間だけ演説した後,"Sili Sili!"と大声で叫びながら会場を後にしました.

 因みにSiliとは当時,ド・ゴールが率いていた政党のスローガンで,象の事.
 会場のフランス人は,セク・トーレに反発する様に,「ド・ゴール万歳!」を叫んでいました.

 ド・ゴールは怒っていました.
 彼はアルキャンの現地法人責任者を呼び寄せ,色々問いただします.
 アルキャンの責任者は,セク・トーレの演説は何時ものやり方で,群衆は非常にド・ゴールを歓迎したではないか,と懸命になって説得しますが,矜恃の高いド・ゴールは大声で,
「フランスは大変な侮辱を受けた!
 私は我慢出来ない!
 即時に軍隊と行政官を引揚げるが,君の鉱山はどうする?」
と尋ねます.
 アルキャンの責任者は,
「鉱山はこの土地にあるので動かすことは出来ない.
 安全が脅かされ,活動が出来なくなるまでは,踏み止まるのが私の任務です」
と答え,それに対し,ド・ゴールは,
「それは良い.幸運を祈る,さようなら」
と答えたそうです.
 最後に,アルキャンの責任者は,
「この世紀に偉大な足跡を残した人に会う機会があったことを一生,記憶します」
と答えて,会見を締めくくりました.

 セク・トーレが大統領に就任すると共に,フランス語の使用は禁じ,それに対抗して宗主国のフランスは,軍隊と3,000人に及ぶ行政官と使用していた電話などの器材を全て引揚げ,裁判所,郵便,学校,気象観測などの業務も2ヶ月の猶予期間をおいて撤収されました.
 こうして教師,医者,行政官がいなくなったギニアでは,新たな人材を確保しようと八方手を尽くしますが,フランス本国はもとより西側の諸国からの人材の登用は,悉くド・ゴールが妨害したり西側諸国の政府もそれに合わせて逡巡したりしたので,共産圏の国々が喜んで援助を申し出ることになり,こうして,ギニアは共産圏諸国との友好関係を深めることになりました.

 ただ,東欧諸国の人々がギニアにやって来たのは良いのですが,フランス人に比べると無能で大した役に立たず,ボーキサイト関係の仕事で器材の輸入申請を出しても許可は出ず,部品の入手も困難で,外貨割当官庁は機能しない.
 更に困ったことには,公共事業は停止し,ストライキが頻発して,全く計画は進みませんでした.

 1959年,アルキャンは不況に伴うアルミ需要の停滞から,ボケ計画の延引を図ることになり,セク・トーレにその打診を行いますが,大統領側が難色を示すのが判った為,アルキャンだけでなく,他のパートナーを探そうと考えました.
 もしアルキャンが撤退してしまうと,東側諸国が進出してくる気配があり,現にチェコスロヴァキア政府が大統領にボーキサイトの購入希望を出していました.

 そして,アルキャンは遂にボケ計画の機密の封印を解き,競争相手と組んでギニアのボーキサイトを開発する事を選択しました.
 米国で共同事業を行おうとすれば,それは独禁法上,「謀議」となる恐れもありましたが,顧問弁護士達は,共同で開発し,より安い,より安定した原料の入手は違法ではないし,石油開発と同じであると言う結論を下していました.

 こうして1959年11月3日,アルキャンの社長の呼びかけで,アルコア,カイザー,オリン・マチソン,レイノルズ・メタルの経営陣がニューヨークに集まり,ボケ地区の資源開発に関する会合がもたれました.
 資金は世界銀行の借り入れで,ボーキサイトの輸出を年間300万トン,アルミナの現地生産は22万トンから開始すること,アルキャンのそれまでの直接投資2,700万ドルは現物出資とし,間接費は計画が成功した時に認めるとするなどの合意が為されました.

 この頃,セク・トーレはカナダ首相デイフェンベーガーの招待を受け,カナダを公式賓客として訪問することになっていましたが,米国訪問の後で突然カナダ訪問を破棄しました.
 この理由は一切明らかにされませんでした.

 12月10日,世界銀行のブラック総裁とアルキャン社長が面会し,ボケ計画の概要を説明し,世界銀行の返事を今すぐ求める訳ではないが,興味があるなら細目の検討をして欲しいと申し入れました.
 ブラック総裁は,アフリカのアルミニウム事業は,ガーナのボルタ河計画,ベルギー領コンゴのインガ河水力発電計画については承知しているが,ギニア政府からの正式な要請がないと世界銀行は動けないとし,セク・トーレと充分話し合いを行う様,勧告するに止まりました.

 更に,このコンソーシアムは呉越同舟であるが為に,各様に色々な意見が出たりしています.

 一方,ギニアではギニア人の大部分は熱心ではありませんでしたが,政府の上層部は,所謂ポピュラー・デモクラシーを讃え,ギニアのボーキサイト開発は国家事業として,東欧諸国の参加を許可すべきであると考えていました.
 東欧諸国など共産圏からの訪問団は後を絶たず,中国を含めて上級の政治家や技術指導者が訪れていました.
 援助は引きも切らず,例えば,東独は大型印刷工場を建設し,3エーカーの大きさでソ連製の機械を備えたギニア初の新聞工場が完工し,中国は大使館を建設中でした.
 アルキャン現地法人の責任者から見た所,一般民衆にとって東欧の人間はフランス語も話せないと親しみは感じていない様でしたが,原理教育とかパレード,警察制度は彼等の指導を受けていると思われました.

 帝国主義から今度は東西対立がアフリカに影を差し挟み始めた訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/07/11 22:24

 1960年3月1日,ギニア政府は一方的にフランス・フランの使用を停止し,国立銀行と外国為替庁を設置し,ギニア・フランを正貨とする事を宣言しました.
 しかし,これはセク・トーレら政府首脳の思いつきで行われた政策で,十分な容易無しに行われたので深刻な混乱を引き起こし,アルキャンでも必要資材の買い付けや,欧州人スタッフの生活費や給与の送金が不可能となりました.
 米国政府は,東側に接近するギニアをつなぎ止めることが出来ませんでした.
 ギニア政府と協議した数々の投資や商業協定は全く進展が無く,逆にソ連側がギニア政府に示した3,500万ドルの無償供与には対抗出来ません.
 と言うのも,これを認めてしまえば,他のアフリカ諸国にも同様に援助を迫られ,その援助は忽ち数億ドルに達することが目に見えていました.
 折しも,米国ではアイゼンハワー政権の後を継ぐ大統領選挙の期間中であり,上下両院も色々な思惑から外国援助の増額に消極的であるのも追い打ちを掛けていました.

 Foreign Affair誌のH.F.アームストロング編集員は,1960年4月,ギニア訪問をレポートに纏め,これを"Distrubing Pertents"(混乱の兆し)と題して,New York Timesに寄稿しました.
 この記事の中で,彼は,西側の誤謬と怯懦を共産側は資本化に利用しようとしているとし,ギニアを西アフリカに蔓延しつつある癌の原発としています.
 ギニアの経済はソ連とその衛星国が支配し,貿易は共産圏が8割に対して,西側は2割しか無く,また,ソ連の金融は工場の様な大衆の目に触れやすいものに集中し,またこれはギニアの誇りを擽るものであると書いています.
 そして,こうした事態を招いたのは,ギニア独立時のフランスの態度にあるとし,フランスはこの事態を防止するのではなく,ギニアの玩具を全て取り上げ,移せないものは破壊し,そして帰国した上,友好国に新ギニアを慌てて承認しない様に求めるなど,事態を悪い方向へ悪い方向へと進めていったと批判しました.
 一方で,東側諸国は手早くギニアを承認し,外交関係を樹立した訳です.
 また,米国の援助に関する現行制度は,国内向けには極めて効果がある反面,国際的な急展開に際しては全く役に立たないと論評しています.

 1960年11月,米国では政権交代があり,久々に民主党が共和党に代わって政権を担うことになります.
 即ち,J.F.ケネディが大統領に当選した訳です.
 ただ,新政権の対外方針は未だ不明確なままでした.

 例のボケ計画についても,この間,世銀との交渉は不調に終わり,米国のアルコアとオリン・マチソンは計画から脱落しました.
 米国の新政権のアフリカ外交はハリマンが担うこととなり,アルキャンはファースト・ボストンとカイザーを同行してハリマンに会い,ボケ計画に対しては,開発規模が大きい為,米国政府の財務援助が必要で一日たりとも延期出来ない旨を申し入れます.
 ハリマンは,セク・トーレの意見も聴いて善処すると答えました.

 当時,西アフリカではボケ計画と共に,ガーナのヴォルタ計画が進んでおり,ガーナについてはこのヴォルタ計画を進めることで,ガーナ大統領だったエンクルマを西側に繋ぎ止めておけそうな事が,アイク政権時代に判っており,米国政府や世銀も積極的に進めようとしていました.
 一方,ボケ計画はギニア政府の政体が不安定で,政治の危険と膨大なボーキサイトを秤に掛けるという,政治的と言うよりは戦略的な判断が必要となっていました.

 1961年1月5日,20日のケネディ大統領就任を前に,アルミニウム産業のリーダー達が新政権のアフリカ担当補佐官に任命されていたG.M.ウィリアムスに会ってガーナとギニアに関する討議を行いました.
 その会議で示された資料には,1975年以降のボーキサイトの消費に関して,控えめに見ても,西半球の確定埋蔵量は2000年にはゼロになり,ギニアのボーキサイトを勘定に入れないと,共産圏を除く自由世界の消費で,全世界のボーキサイトの埋蔵は同じくゼロとなると言う驚くべきものでした.
 アルキャンの社長はウィリアムスに対し,ギニアのボーキサイトは西側にとっても重要な資源だが,東側にとっても,これを取り込むだけでも西側に対するアドバンテージを有することになり,ギニアを東側に引き込む値打ちがあること,そして,ギニアを東側に追い込むか西側に引き留めるかは米国政府の態度如何であると迫りました.
 また,他のアルミニウム産業の経営陣も,通常の投資リスクは負うが,政治リスクは負いかねるし,現行の米国輸出入銀行の制度も役に立たないと説明しました.
 ウィリアムスは,アルキャンの社長に対し,アルキャンの属するカナダ政府がこのボーキサイト確保計画に助成をしないかと尋ねますが,アルキャン側は,カナダ政府は所謂旧英領経済圏では資源保護を行うが,ギニアは旧仏領であり,アルキャンの株は70%以上がカナダ以外で保有されているので,カナダ政府には期待出来ない,と説明しています.

 2月になると,ソ連政府とチェコスロヴァキア政府が150名の技術陣をギニアに送り,ボーキサイト,アルミナ,アルミニウム一貫生産に対する調査を開始しました.
 しかし,実際にはギニア側と彼等東側の技術陣との関係は上手くいっていなかったようです.

 最終的に,米国政府が決定を下したのが8月15日.
 ボケ計画に対しては,資金援助の否定を通知してきました.
 これに伴い,コンソーシアムは計画の棚上げを決定しました.
 セク・トーレは5年も引っ張られて資本主義の犠牲となったと詰りましたが,一方のソ連側も彼を満足させられませんでした.
 ギニアが希望する車輌,貨車,道路建設機材の代わりに2台の大型除雪機を送る(!)など,チグハグな行動が目立ち,11月になるとソ連から来ていた教師が扇動した(とセク・トーレ側は言っている)学生暴動が発生して,これに怒ったセク・トーレはソ連大使を追放しました.

 こうした偶然から,東側に寄っていたセク・トーレは再び大きく舵を切り,米国との関係は修復され,西ドイツがソ連など東側諸国に代わってギニア最大の貿易相手国に名乗りを上げてきました.
 アルキャンは西ドイツのVAWを利用してギニア政府と計画の続行を模索しますが,VAWに大型投資を行う体力はありませんでした.

 そして,再びギニアで爆発が起きたのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/07/13 21:41

 さて,1963年10月,今までギニアで探鉱,鉱山開発を続けていアルキャンを差し置いて,ボケ地区のボーキサイトは米国のHarvey Aluminium Companyと言う新興企業が一切の権利を取得することになりました.
 元々,この企業はアルミニウムの加工から参入し,オレゴン州で製錬に進出する前はアルキャンにとって押出ビレットの得意先の一つでした.
 しかし,アルキャンの幹部を引き抜いたことから,アルキャンが開発していたボケ地区のボーキサイトの存在を知り,更に丁度,この会社はヴァージン諸島にアルミナ工場を建設しようとしていたので,鉱石が必要だったことから,これに強引に割り込んだ訳です.
 しかも,この会社は家族経営で,アルキャンの様に多国籍企業ではなく,其の上,一家の娘の一人が民主党カリフォルニア支部長でワシントンに影響があったと言うのもあったりします.
 当時は民主党政権ですし,米加関係が必ずしもしっくり行っていない状態なので,米国の利益のみ追求しようとする動きが露骨に現れた訳で.

 ボケ地区に進出するに当たって,Harveyはギニア政府と共同出資(Harvey51%,ギニア政府49%)のCBGと言う会社を設立し,この会社がボケ・ボーキサイトを採掘し,年間100万トンを輸出すると共に,同社はギニア国内に日用品や屋根用板材の加工工場を設け,将来はアルミナと地金工場を建設する.
 引き替えに,ギニア政府は鉄道と港湾設備を整備するとしていました.
 実際には,Harveyはボケ地区だけでなく,ギニアのボーキサイト全体の権利を主張し,セク・トーレは,Harveyの権利を年間100万トンで上限は1億トン(それでも100年分あることになる)と主張しているなど若干の対立はあった様ですが….

 1964年6月,事態を重く見たアルコアの副社長一行がギニアを訪れ,セク・トーレと会談します.
 セク・トーレは,Harveyに独占権を与えていないと否定し,1964年の年末,アルコアとカイザーがワシントンで巻き返しを行い,米国国務省としては,資金については,AID(Agency for International Development)資金を利用する事に支持を表明すると言う言質を取ることに成功しました.

 1965年になって米国国務省は,Harveyの計画が進んでいない事から,ボケ計画に携わった各社が合同して進めるべきであるという勧告を行い,ギニアの駐米大使B.カリムも,米国政府のみならずカナダ政府も動かして計画の具体化を促進しました.
 更に世界銀行もギニア政府に賛同し,170万ドルの鉄道建設借款に同意します.

 最終的にアルキャンは,Harveyと同社が確保したボーキサイトを年間50万トン,任意に100万トンまで増量出来る買鉱契約を結び,CBGに関しても1966年,Harvey側の投資会社Halco Mining Inc.の株式17.5%を購入することで,この計画に参加することになりました.
 元々,ボケ地区のボーキサイト開発は一貫してアルキャンが行ってきたのに,この様な形での参加は,アルキャンにとっては非常に不本意なものであったと思われます.
 とは言え,アルキャンの参加により,アルコアも17.5%のHalco株を購入し,同量のボーキサイト買鉱に同意し,フランスのペシネーは6%の資本参加と年間50万トンの買鉱,西ドイツのVAWは5%の株と40万トンのボーキサイト,イタリアのモンテカテイニは3%と30万トンを契約して計画に参加しました.

 こうしてコンソーシアム全体の枠組みは決まったのですが,この計画の資金は2億ドルを必要とします.
 これでHarveyを中心とする各社が米国政府や世界銀行と折衝を行いましたが,Harveyの資力は両者に全く信用されず,Harveyが主幹会社になることに世界銀行は同意しませんでした.
 これもB.カリム大使の尽力の結果,HarveyはCBGの持ち株を20%に落し,アルキャンとアルコアが27%ずつ持ち合うことで決着,最終的に世界銀行から資金を得てコンソーシアムが成立したのです.

 ギニア政府の借款は24年分割,年利6.5%で,ギニア政府はCBGの課税対象利益の65%を受け取って,世界銀行の返済に充てることになりました.
 CBGは本社をピッツバーグとコナクリに置き,本社登記はギニアとデラウェアで行われました.
 この鉱山からの鉱石は,搭載量100トンの貨車に積み込まれ,港に送られます.
 この工事は1969年10月に着工されて,1973年半ばまで行われましたが,まずはインフラとして港の建設を開始し,ボケ地区まで鉄道を敷設,そして,鉱山開発と言う順番で行われました.
 1971年と72年の工事労働者は常時4,000名近くおり,欧米各地からはフランス語の喋れる熟練労働者が500名近く作業していました.

 最大の難工事はリオ・ヌネからカムサールに至る17kmの水路の浚渫で,延べ年間300隻の鉱石運搬船の往復と燃料や機材を搭載した貨物船を通す為,29フィートの深さが必要でした.
 しかし,海岸線はギニア人が"pot-pot"と呼ぶ沼沢地で覆われており,これを砂岩で固め,船積用桟橋の長さは260mに及び,300トンの船積施設は直径2mもあるコンクリートパイルを打ち込んで支え,埠頭は57,000総トン級の専用船が係留できるように,1,800mの桟橋の先に用意されました.

 こうした困難な工事の結果,1972年から第1船が船積を開始しました.

 ボケ地区で中心となるサンガルディのボーキサイト鉱山は長さ4km,幅2kmの台地を,12mの高さに及ぶ採掘用の階段(ベンチ)により掘り進め,ショベルを使用して貨車に積み込む最も簡単な方法を採ります.
 鉱量は年900〜1,200万トンを採鉱して,10年で1層を消費する程度で,こうした層は何十層に渡っています.
 鉱石を港に運ぶ鉄道は,標準軌で1編成400両の貨車を牽引出来る3,000馬力のディーゼル機関車を,5編成用意し,1日1往復の運転で年間900万トンのボーキサイトを輸出出来ます.

 港に着いたボーキサイトは,4in以下に砕いて70万トンの貯鉱場に置かれ,1時間4,250トンの船積スピードで船積みされます.
 この他,カムサールと言う都市に研磨材原料となる焼成ボーキサイトの工場があり,此処では20万トンの製品が,欧州向けに輸出されます.

 サンガルディには常時6,000名の住民が住んでおり,カムサールも計画では5,000名だったのが,今では30,000人の人口を誇り,コナクリに次いで第二の都市となっています.

 因みにセク・トーレ自身は,この世界最大のボーキサイトにより自身の地位を安泰にし,エンクルマの様にクーデターで失脚することなく,政府を弟など一族で独占し,長男はCBGの会長となり,1984年に自然死するまで,長期政権を維持していました.
 当初計画では,ガーナのエンクルマの方が安定していると見做されていたのに,歴史とは全く皮肉なものです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/07/15 23:22


 【質問】
 2008年のギニア政変について教えられたし.

 【回答】
 2008/12/23,ランサナ・コンテ大統領(当時74)が,その前日に病死したという発表があり,その直後,陸軍将校ムーサ・ダディス・カマラ大尉らが国営ラジオを通じて声明を出し,憲法停止や国家機関の解体などを表明,権力掌握を宣言した一件.
 彼らは,「身の安全を守るため」として閣僚らを国際空港近くの軍基地に招集し,また国民に対し,自宅にとどまり,略奪などの行為を働かないよう命じた.
 軍人出身のコンテ大統領は1984年,セク・トゥーレ初代大統領の死去直後にクーデターで政権を握り,軍や一族を足場にギニアを24年間支配していた.

 【参考ページ】
2008/12/23-22:30,AFP=時事通信


 【質問】
 ギニア・ビザウの公用語問題とは?

 【回答】
 ギニア・ビサウ共和国は,セネガルとギニア共和国との間に南北挟まれた形で位置する国で,国土面積は30,615平方キロメートル.
 その国土は,海と川と陸地の区別がはっきりしない沼地の様な国で,人が住める土地は更に少ない状況です.
 気温も湿度も高く,植民地時代,ポルトガル人達はその地を「白人の墓場」と称していました.

 カーボ・ヴェルデが,アフリカに於ける民主主義体制のお手本の様な国とすれば,ギニア・ビサウは全く対照的な国です.
 国土は10年以上の解放闘争を経て,1975年に独立を果たしたものの,1980年代には数回に亘るクーデターを経験し,1998年6月からはほぼ1年に亘る内戦を行い,2003年9月には再び軍事クーデターと,中々安定しない,最貧国の1つです.

 これは言語の面でも同じで,カーボ・ヴェルデが,ポルトガル語を公用語とし,その他の言語はカーボ・ヴェルデ・クレオール語だけと言う状態であるのに対し,ギニア・ビサウはこれまた複雑な構成になっています.
 20世紀前半,シモンイス・ランデルサットと言うポルトガルの行政官が,この国の言語状況の複雑さを評して,「黒いバベル」と言ったこともある位です.

 この国も公用語はポルトガル語であり,地域共通語として各民族が用いているのはクレオール語です.
 しかしカーボ・ヴェルデと違うのは,カーボ・ヴェルデが2層構造で済んでいるのに対し,更にこの下にもう1層,民族諸語と言うのが存在している点です.
 この民族諸語は国土を様々に分断しており,約20言語が存在しています.

 独立前,ポルトガルはカトリック教会と協力し,ポルトガルが人種主義的国家では無いことを世界に示す為に,「適度」にアフリカ人に対し,欧州式の教育を施します.
 その学校教育は,アフリカには文化,言語,歴史が無いと言う風に教えていました.
 そもそも,こうしたギニア・ビサウの学校教育が展開されたカトリック系ミッションスクールに通ったのは,カトリックに改宗したほんの一握りの現地住民だけであり,古くからの伝統に忠実な者達は,そうした学校に通うことは無かったのです.

 当時,ポルトガル人はギニア・ビサウでも先ずはポルトガル語を話そうとし,もし意思の疎通が成立しない場合のみ,クレオール語を口にしました.
 しかし植民地時代は,カーボ・ヴェルデと同様にクレオール語は蔑みの対象で,教育の場での使用を禁じていました.
 ポルトガル人は,少数の現地住民を「脱アフリカ化」させ,行政の場で利用しようというもので,その学校も庶民の世界とは隔絶されており,クレオール語が排除されるのは当然でした.
 また,ポルトガル人はアフリカの伝統を,「文明」の反対概念である「野蛮」と見なしていました.

 一方,独立運動を展開したPAIGCは,その解放地区に設立した学校の言語をクレオール語と設定しました.
 ポルトガル語より多く通用していたクレオール語は,解放指導部にとってこれこそ,ギニア・ビサウに相応しい言語であると認識するに至ります.
 と言うのも,先ほどの言語状況で触れた通り,民族諸語は数が多すぎること,そして,その言語は屡々国境を越えて国際言語になってしまうことになるからで,指導部はギニア・ビサウ人を1つに纏めてポルトガル人との戦闘に加えるには,植民地支配によって生まれた言語であるクレオール語を,解放の言語として押し立てる事にして,クレオール語を国民統合の象徴にすべきだと言う訳です.

 この様に,国民統合の象徴となったクレオール語ですが,それでも,この国ではそれが公用語化されることはありませんでした.
 公用語に関する議論が独立前に行われた時,PAIGCの指導者であるアミルカル・カプラルは,ポルトガル語を公用語に選択しました.
 アミルカル・カプラルは,カーボ・ヴェルデ人ですが,生まれはギニア・ビサウです.
 カプラルは,ポルトガルにも留学し,ポルトガル文化にも親しんだ人なので,ポルトガルの偉大さに憧れを持っていた部分も否定出来ませんが,実際には極めて現実的なものでした.
 その理由は,クレオール語や民族諸語には,近代社会に不可欠な語彙や表現が欠けていると言うものでした.
 つまり,カーボ・ヴェルデと同様,クレオール語には書記言語としての機能や語彙が作られていないと言う致命的な理由に依るものです.

 こうして,解放闘争中は教育の現場で使用されたクレオール語や民族諸語は脇に追いやられ,独立後はあくまでもポルトガル語の補助的存在として認識されてしまいます.

 独立後,公用語となったポルトガル語は,今日までずっと司法,行政,教育,マスメディアなどの公的機関で使用され,作成される文書類では独占的に使用されていますし,外国人を主な対象とするホテルやレストランではポルトガル語が通じます.
 とは言え,独立後1979年に唯一実施された言語調査では,ポルトガル語の話者は全人口の凡そ5〜6%程度,1991年に首都ビサウに住んでいたポルトガル人宣教師の調査では僅か2%,一番多い調査結果でも11%と,ポルトガル語圏のアフリカ諸国5カ国の中で,この値は最低に近い比率となり,どう見ても,ポルトガル語が国民の日常生活言語になっている訳では無く,また,植民地時代の分離主義的な教育政策が行われた為,現在でもポルトガル語に対する抵抗が根強く残っています.

 となると,ポルトガル語はエリート層だけの言語なのか,と言う疑問が湧きます.
 これに対しては,大統領,閣僚,高級官僚,そして所謂文化人と言われる人々は,確かにポルトガル語を話すことが出来ます.
 そう言った意味ではエリート層の言語ではありますが,日常生活で彼らがポルトガル語を自然体で話すことはありません.
 では,ポルトガル語はエリートの言語とすら言えないのが現状で,あくまでも名目的な公用語であるに過ぎません.

 また,独立後幾度に渡って行われた内戦やクーデターの御陰で,学校の数は増えても質は向上しておらず,独立から30年が過ぎても,国会議員の中でポルトガル語を話すことが出来ず,国会の場でクレオール語で話す議員も少なからずいますし,彼らには語学研修が行われる始末です.
 ただ,政府の文書,新聞,数年に1度の割合で発表される小説も,ポルトガル語で書かれます.
 ギニア・ビサウにとって,ポルトガル語と言うのは,話す言語では無く書く言語であると言うべきだったりします.

 ポルトガル語の普及をするのならば,政府がもっと積極的に行う必要がありますし,また,宗主国であるポルトガルもそれに関与すべきなのですが,特に後者の関与は消極的すぎるきらいがあるようです.
 ギニア・ビサウに於いては,ポルトガル語と言うのは社会上昇手段として認識されています.
 この為,ポルトガル語書籍市を開催すれば完売しますし,ポルトガル文化センター主催の語学コースは盛況です.
 しかし,ポルトガルとギニア・ビサウの文化交流は乏しく,此の点についてもフランスの後塵を拝していると言う状況になっています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/10/09 22:21
青文字:加筆改修部分

 さて,ギニア・ビサウの話の続き.
 この国も,セネガルと同様に欧州人の言語を公用語にしていますが,実際にそれを読み書き出来る人々は非常に少ない状態です.
 そして,この国には多数派となりうる民族語は存在しません.
 即ち,それぞれの民族間のコミュニケーションを司る言語が無いので,そのミッシングリンクを結合する言語が必要になります.
 これが,解放闘争が始まった1963年を境に広まっていったクレオール語(現地語でクリオル語或いはキリオル語)です.
 それは解放軍兵士が,農民達との意思を疎通する為に利用したのに始まり,ジャングルの解放地区に農民達が移動し,兵士達が解放地区から前線に移動すると言う領土内移動が頻繁になり,更にその利用範囲が拡大していく事により普及していきます.

 現在,クレオール語は,ビサウ,ジェバ,バファタ,ファリンと言った都市部では,住民が日常の交流で使用する唯一の言語になっており,テレビやラジオの娯楽番組,ポピュラー音楽の歌詞,漫画,映画などにも使用されることが多くなっています.
 また,その話者も,全人口の44%〜75%の範囲で(調査により異なるので定かでは無いにしろ)増えており,エスノローグ上は,クレオール語を母語としているのは10万人,第2言語以降に使用しているのが凡そ60万人となっています.
 因みに,民族諸語の中で最大の話者を誇るバランタ語は,全人口の25%程度ですから,下限の44%としてもほぼ倍の人数がクレオール語を解することになります.

 また,セネガル南部のカザマンス地方ではポルトガル語の語彙を持つクレオール語を使用しており,このクレオール語とギニア・ビサウのクレオール語は方言関係にあります.

 とは言え,あくまでも公用語はポルトガル語と仮に決められており,クレオール語は国民語という抽象的な地位を与えられているのみで,法的拘束力はありません.
 その結果,ギニア・ビサウの人々は,書かない言語を話し,話さない言語で書くと言う極めて不条理な状況に置かれています.
 これは,政情不安,内戦,公務員の給料遅配などもあり,学校が機能不全を起こしているのと,政治的に法的拘束力を持つ言語政策が存在していないのが原因です.
 と言うか,言語政策の不在は政情不安に原因がある訳ですが.

 クレオール語をカーボ・ヴェルデの様に書記言語にしようとする動きもあり,1987年に国民教育省が1言語=1音素の形でクレオール語を書き表そうと提案し,聖書の翻訳や民話の記述に使用されたことがありましたが,ポルトガル語の識字者達から反発があり,普及しませんでした.
 よって,クレオール語の文字表記は,各個人の好みで行われていると言っても過言ではありません.

 なお,沿岸に位置するビジャゴス諸島では,イタリア人神父であり言語学者でもあるルイジ・スカンタンブルロがクレオール語とポルトガル語の2言語併用学校教育を実施しており,1999年以降は独自の正書法も使用する事が始められたことから,これが国内全域に広まるかどうかが注目されています.

 カーボ・ヴェルデとギニア・ビサウが異なるのは,その地域に様々な民族諸語を持っているか否かです.
 カーボ・ヴェルデは元々無人島でしたから,クレオール語が形成され,普及すると民族諸語が消滅したのに対し,ギニア・ビサウには元々人々が住んでいたので,様々な民族が居住する事になります.
 エスノローグでは,ギニア・ビサウの言語数はポルトガル語とクレオール語を含め21とされています.
 最小の調査で15言語,最も多くの種類を挙げる学者の調査では,30のアフリカ諸語と方言が話され,東西南北何れも5〜60kmは知ると別の言語地域に達すると言われています.

 これらは何れもニジェール・コンゴ語族の大西洋諸語,或いはマンデ諸語に分類されます.
 エスノローグの分類に依れば,大西洋諸語が,バジャラ語4,220人使用,バニュン語8,170人使用,バランタ語367,000人使用,バサリ語475人使用,バイヨット語2,025人使用,ビアファダ語41,420人使用,ビジャゴ語27,575人使用,フェルップ語22,000人使用,ジョラ語5,996人使用,カサンガ語650人使用,コビアナ語同じく650人使用,マンジャコ語170,230人使用,マンカニャ語40,855人使用,マンソアンカ語14,300人使用,ナル語8,150人使用,パペル語125,550人使用,フラ語245,130人使用の17語であり,マンデ諸語がマンディンカ語154,200人使用,ソニンケ語6,470人使用の2つの言葉になります.

 使用比率的には1979年の調査では,バランタ語が全人口の25%,フラ語が20%,マンディンカ語10%の順となっています.

 この内,都市部ではクレオール語の普及が急速に進み,それを母語にする住民が増えつつありますが,農村部は今なお民族諸語の世界です.
 都会に移住したとしても,田舎に戻れば家族や友人達との会話は民族諸語で行いますから,完全にクレオール語が民族諸語を駆逐する事には成っていません.
 クレオール語と同じく,民族諸語も国民語としての位置づけであり,農村部を訪れる政治家や商人も,同じ集団の一員である事を示す為に民族諸語を使うことに躊躇いはありません.
 とは言え,民族諸語の公用語化は1980年代にバランタ語やマンディンカ語が,成人の識字教育に用いられた他は,いくつかのラジオ番組で使用されるだけです.

 因みに,この地が狭い割に言語の坩堝となっているのは,ギニア・ビサウの地理的な位置が関係しています.
 この地は瘴癘の地でありますから,敵は中々入ってきません.
 この為,西アフリカで勃興した帝国が周辺の地に侵攻してくると,各民族はこの地を避難場所に選んだ訳です.

 現在でもこうした国内移動者は多く,例えば首都ビサウ北部のアントゥラ・ボノ地区は,独立時はパペル人の土地でしたが,都市への流入でクレオール語が流れ込み,バランタ語の話者もまた入り込んできて,住民達は現在では3つの言語の話者となっています.
 では,クレオール語が他の民族諸語を駆逐しているかと言えばそうでもなく,住民はごく自然に,クレオール語と民族諸語を使い分けています.

 そう言う意味では,民族諸語の生きる力というのも案外強かだと言えそうです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/10/10 22:09


 【質問】
 ビエイラ大統領殺害事件とは?

 【回答】
 2009/3/2早朝,アフリカ西部ギニアビサウで,爆殺された軍司令官に近い国軍兵士複数が,ビエイラ邸宅を襲い,逃げようとした大統領を殺害した事件.
 同国では最近,大統領派と軍幹部との間で緊張が続き,1日には軍司令官が爆殺されていた.
 軍スポークスマンは,「大統領は司令官の死に責任を負っている1人だ」と指摘した.

 まあ,事実上の叛乱でしょうなあ.

 【関連リンク】
2009年3月2日18時23分,時事通信


 【質問】
 ギニアビザウ Guinea-Bissau の2012年クーデターについて教えてください.

 【回答】
 2012.4.29の大統領選挙決選投票を間近に控えた4.12夜,軍部隊が首都ビサウの市街地を封鎖し,ゴメス前首相宅や国営ラジオ局を攻撃.[2][4]
 ペレイラ大統領代行らを解任したと発表した.[6]
 ペレイラ暫定大統領や,次期大統領の最有力候補ゴメス元首相は拘束された.[3]
 ゴメスは12日夜,重武装の兵士らに自宅を急襲され,連れ去られたという.[7]
 さらにクーデター部隊は,政府の大物が外国大使館に逃げ込むのを防ぐため,大使館を立ち入り禁止とした.[9]

 ゴメスは軍の縮小計画を支持していたことから,軍から反感を買っていた.[3][6]
 クーデターを起こした兵士らは声明で,「ゴメス氏がアンゴラと密約を結んで軍を滅ぼそうとしていた」などと主張した.[6]

 16日には,軍司令官が国境や空港を封鎖すると発表.[3]
 これを受けて,多数の市民が首都ビサウを逃れるなどした.[3]

 クーデター派はトゥレ・クルマ Ture Kuruma 陸軍副参謀長を首班とする軍事評議会を設置.[9]
 軍事評議会は政党指導者たちと会い,暫定政府を結成するよう呼びかけたが,主要官庁や国防は軍事評議会がコントロールすることを条件とした.[9]
 3日間にわたる会合の後,野党連合は,民政移管のための暫定軍事政権という提案に合意したと発表した.[9]
 16日までに,35野党のうちの22政党が,これに合意している.[9]

 クーデターを受け,旧宗主国のポルトガルは「完全に違法」だと非難し,ギニアビサウに在住する自国民の避難に備え,軍を派遣したと発表.[3]
 これに対し,ギニアビサウの軍司令官は国境や空港の封鎖を命じ,同国を無許可で出入りする陸空輸送便に対して,軍事対応すると示唆した.[3]
 首都の銀行や政府機関は閉鎖され,かばんなどを抱えた旅行者らが,国内の安全な場所に逃れようと,バス乗り場に詰めかけたという.[3]

 一方,西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)は,同国に高官代表団を送り,クーデターは受け入れられないとする考えを,軍指導部に伝える方針だとした.[3]
 また,5/1にはECOWASは,マリやギニアビザウに対し,少なくとも3000名から成る軍事力を展開すると発表した.[8]

 ギニアビサウは,南米とヨーロッパを結ぶ麻薬の中継地点としても知られ,政情が不安定になっている.[4]
 まあ,麻薬ギャングにとっては,この混乱はますます思う壺か……

 【参考ページ】
[1]http://mike.air-nifty.com/d/2012/04/post-dc84.html
[2]http://sankei.jp.msn.com/world/news/120413/mds12041312310004-n1.htm
[3]http://jp.reuters.com/article/worldNews/idJPTYE83G00W20120417
[4]http://www.asahi.com/international/update/0413/TKY201204130710.html
[5]http://nofrills.seesaa.net/article/264415558.html
[6]http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120415/k10014456021000.html
[7]http://news.biglobe.ne.jp/international/0414/jjp_120414_9632744963.html
[8]West Africa- ECOWAS to intervene in Mali and Guinea Bissau coupe
[9]http://en.wikipedia.org/wiki/2012_Guinea-Bissau_coup_d'%C3%A9tat

ギニアビザウ位置
(こちらより引用)

【ぐんじさんぎょう】,2012/05/11 20:20
を加筆改修


 【質問】
 コートジボワール軍が国境封鎖するに至った,同国の大統領選を巡る混乱について教えてください.

 【回答】
 2010.11.28実施された同国大統領選の決選投票で,選管は2日,ワタラ元首相が現職バグボ氏を破って勝利したと発表.
 選管によると,得票率はワタラ氏が54.1%,バグボ氏が45.9%.
 手続き上の混乱で発表が遅れ,2日になって,暫定と断りつつも結果発表に踏み切った.
 しかしこれにバグボ派が反発.
 不正があったと訴え,同派の影響下にある憲法評議会が,選管の発表を無効と宣告し,軍は国営放送を通じ国境封鎖を宣言した.

 翌3日には憲法評議会が,現職のバグボ氏がワタラ元首相を破って当選したと発表.
 選挙結果決定では憲法評議会に最終権限があり,選管が2日発表したワタラ氏の勝利は取り消された.
 憲法評議会によれば,バグボ大統領の得票率は51.4%で,ワタラ氏は48.6%だった.

 国連関係者は決選投票は,全体的には正常に行われたとしており,潘基文・国連事務総長は3日,コートジボワール大統領選の決選投票について,ワタラ元首相が当選したとの同国選挙管理委員会の発表を支持すると表明した.
 潘事務総長は声明で,ワタラ氏に同国の平和と安定のため尽力するよう要請.
 敗れた現職バグボ氏には,円滑な政権交代への協力を求めた.

 【参考ページ】
2010.12.3,時事通信
2010.12.4,時事通信
2010.12.4,時事通信


◆Kenya ケニア


 【質問】
 ケニアの軍事力はどのくらい?

 【回答】
 2010年版「ミリタリーバランス」によれば,総兵力24,120人(陸軍20,000人,海軍1,620人,空軍2,500人)
 志願制.
 2012年度の国防予算は8億4300万ドルであり,これはGDPの5.3%に当たる.

 陸軍の装備は
T-72戦車×110両,ヴィッカース Mk.3戦車×76両,パナールAML装甲車×72両,BRM兵員輸送車×85〜105両,ハンビー×100両,その他.
 空軍の装備は,
F-5「タイガーII」戦闘機×22(練習機型含む),MD500汎用ヘリ×51,エアロスパシアル SA30「ピューマ」輸送ヘリ×21,対空ミサイル「レイピア」「ミストラル」,ZPU-4対空機関砲,その他.
 海軍の装備は,
Shupavu 級大型警備艦(スペイン製)×2,Nyayo 級ミサイル艇(英ヴォスパー・ソニークラフト製)×2,哨戒艇若干,「オトマート」地対艦ミサイル×167,IAI「ガブリエル」地対艦ミサイル×22

 【参考ページ】
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/kenya/data.html
http://en.wikipedia.org/wiki/Kenya_Defence_Forces
http://en.wikipedia.org/wiki/Kenya_Air_Force
http://en.wikipedia.org/wiki/Kenya_Navy
http://www.mod.go.ke/

ケニア海軍司令官ンゲワ・ムカラ Ngewa Mukala 少将
左は英国海軍のJohn Clink提督で,2人は英国海軍大学の同窓生
(こちらより引用)

【ぐんじさんぎょう】,2012/07/07 20:30
を加筆改修

 おおお,ヴィカースMKVなついな.
 まだ使ってる国あったんだ.

ゆずこせう in mixi,2012年06月28日 20:33

 ケニアは西側装備ばかりだったのに,ロシア製装備とか運用できるのかねえ.

バルセロニスタの一人 in mixi,2012年06月28日 20:38


 【質問】
 ケニアの言語状況は?

 【回答】
 ケニアと言う国は,東アフリカの中央部にあり,その国土を南北に分かつ様に赤道が走り,西端はナイルの源流であるヴィクトリア湖,東端はアラブ世界との交易が盛んに行われていたインド洋に面しています.
 北隣にはエチオピア,西はスーダン(今は南スーダンか),ウガンダ,南にタンザニア,そして東経41度線に沿って東にソマリアと国境を接しています.

 今回(2011年),ケニア軍はソマリアに侵攻した訳ですが,ケニアの言葉と言えば,スワヒリ語が有名です.
 そう言えば,学生時代使っていた教科書に,ケニアの話が出て来て,ケニアの学生が「ジャンボ」とか言って挨拶していた挿絵が載っていましたっけ.

 ところが,日本人が抱く様にケニアと言う国は,スワヒリ語だけを用いている国ではありません.
 ヴィクトリア湖からインド洋に至る赤道よりも南の地域では,世界最多の言語数を擁すると言われているニジェール・コンゴ語族のバンツー諸語に属する言語が多く使われ,国土の北東域には隣接するソマリアやエチオピア南部に広く拡がる諸言語と系統を同じくするアフロ・アジア語族のクシ系の言語が多く使われ,西域を縦断する大地溝帯の底に当たる平原にはナイル・サハラ語族のナイロート系の言語が多く使われています.
 この様に,ケニアと言う国は,他のアフリカ諸国と同じく決して1つの言語で構成されている訳では無く,アフリカ土着の4語族のうち,コイ・サン語族以外の3語族が,均等に暮らしている土地なのです.

 また,例によってエスノローグが出て来ますが,それに依ればケニアでは61の言語が話されているとされています.
 この内,公用語として用いられている旧宗主国の言語である英語と,植民地時代に移住し,都市部に居住しているインド系住民による印欧語族のグジャラティー語,カッチ語,コンカニ語,東部パンジャビー語の5つの言語を除く56言語がアフリカ土着の言語としてリストアップされており,国内で生まれたケニア人の多くは,その内の何れかを自らの母語としています.

 今回,ケニアが侵攻したソマリア国境からエチオピア近辺では,北アフリカ及びアラビア半島に広く分布するアフロ・アジア語族のクシ語派に属する言語12語が話されています.
 このうち,話者人口400名を数えるダハロ語以外の11語は東クシ語群になります.

 クシ系の言語は,エチオピア南部及びソマリアの広い地域で話されている言語ですが,話者人口15.2万人を数えるボラナ語は,ケニアのみならずエチオピア国境を跨いだ広い範囲で――因みに,エチオピアではオロモ語とかオロモ語ボラナ方言とか言われています――用いられています.
 また,この地域で最も話者人口が多いのが42万人を擁するソマリ語で,これはエチオピアやソマリア国境を跨いで,ケニア国内でも安定的に話されています.

 つまり,ソマリアの無政府状態の策源地と全く同じ言葉が,ケニア側でも話されている訳です.
 国境のこちら側とあちら側で同じ言葉が話されていると言う事は,双方で意思疎通が可能な訳で,国境を越えた密貿易のみくらいなら未だしも,武器や弾薬などの密輸,場合によってはソマリアを根城にしたテロリストの出入りも可能ですから,治安維持の側面から見ても,ケニアがこの地域に軍隊を送り込む位,神経過敏になっている訳です.

 とは言え,ケニアに於けるクシ系言語の話者数は,ケニア全人口比で言えば,僅か1割にも満たないと考えられています.
 中にはエルモロ語の様に話者人口が僅か8人にまで減ったり,20世紀初頭まではケニア山北域に母語話者コミュニティーを有していたのに,その地域にマサイ系の牧畜民が入り込んで,その言語に取って代わられ,僅か50名しか話者が残っていない,絶滅寸前のヤアク語と言う言語もあります.

 因みに,ヤアク語が衰退したのは,ヤアク部族が狩猟採集を生業にしていたのに対し,新たに入り込んできたマサイ系の集団は,財産として牛を所有しており,異民族間結婚の婚資としてそれが有効活用されて,ヤアクの女性がマサイの男性に嫁ぐ一方で,ヤアクの男性はそうした富として価値のある家畜を有さなかったことから,結婚して共同体を維持していくことが困難になり,結局,部族の長老会議に於いて,マサイ同様の牧畜生業に取り組むと共に,自らの母語の使用を止め,次世代の子供達には,マサイ語を第1言語として習得させる様に取り決めたと言います.
 とは言え,この言語交替は徐々に行われていたので,劇的な変化が訪れた訳ではありません.
 しかし,ヤアク語自体は失われ,今はその残滓が辛うじて,マサイ語の変種であるムコゴド・マサイ語として残っているだけです.

 話が脇道に逸れましたが,ケニアがソマリアに侵攻する理由はもう1つあります.
 国境の内と外にソマリ人がいると言うことは,東ケニアでも彼らが蜂起する可能性が十分にありますし,事実,1960年にソマリアが英国領ソマリランドを吸収して独立した際には,東ケニア,エチオピアのオガデン及びハウドの両地域,それにフランス領ソマリランドのソマリ人達が次々に蜂起して,衝突が次々に起こりました.

 そして,ソマリアはそれを支援して,独立間もないケニアと1968年まで.屡々国境で紛争を繰返した歴史があります.
 ソマリアは現在国家崩壊により,無主の地と化しておりますが,放置しておいて,また民族主義的に過激な政権が,この地に出来た場合は,再びこの地が不安定化する可能性がある訳です.
 そこで,ケニアとしては,こうした国境紛争の歴史を繰返さない為にも,敢えて侵攻に踏み切ったと言えます.

 ついでに言えば,ソマリアは1977〜80年にかけて,オガデンとハウドの両地域を巡ってエチオピアと戦争を行っています.
 エチオピアでは,唯一の海への出入口であるエリトリアが長年の戦争の結果分離独立してしまい,完全に内陸国になってしまいました.
 即ち,この国から製品や農産物を輸出しようとすれば,長年争ったエリトリアとティグレ自治州,そしてジブチのいずれかを通らざるを得ません.
 つまり,国際情勢が悪化すれば,直ぐに海への出口は閉じられてしまいますし,海に向かう運送費が加算されるので,生半可な生産物では太刀打ち出来なくなります.

 となると,エチオピアとすれば,ケニアかソマリアに目を向けざるを得ませんが,ケニアへの侵攻は,欧米を刺激する可能性が高い訳です.
 それで無くとも,エリトリアと屡々国境紛争を起こしているので,欧米諸国には余り良い印象を持たれていませんし.
 それに対し,ソマリアは国家崩壊してほぼ無主の地ですから,十分な兵力を用いて,モガディシオを抑えてしまえば,エリトリアやジブチに代る,新たな海への出口を確保することが出来ます.
 それは,ケニアにとっては安全保障上好ましくない事態なので,ソマリアへの侵攻を行ったのでは無いか,と考えてみたりする訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/10/18 23:31
青文字:加筆改修部分

マサイ族
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 ケニアの歴史を3行で教えてください.

 【回答】
 ケニアの歴史は紀元前2000年頃,北アフリカからケニア地域への民族移動が行われたことに遡る.
 西暦1000年ぐらいまでに,バンツー語系,ナイル語系の民族がケニアの地域に移動し,今日のケニア国民を形成する民族として定住.
 しかし19世紀には,英国の植民地となり,マウマウ団の叛乱を経て,1963年に独立回復を果たした.

<略年表>
BC2000年頃,北アフリカからケニア地域へ民族移動
7〜8世紀頃 アラブ人が海岸地域のモンバサやマリンディなどに,交易拠点を建設
1000年ぐらいまでに,バンツー語系,ナイル語系の民族がケニアの地域に移動し,今日のケニア国民を形成する民族として定住
1418頃 明の鄭和の艦隊の一部が,マリンディまで到達
15世紀末 ヴァスコ・ダ・ガマの来訪をきっかけにポルトガル人が進出するも,やがて撤退し,アラブ人が再進出
18世紀 アラブ人の影響力が内陸部にまで及び,奴隷貿易や象牙貿易などが活発に
1828 オマーン帝国のスルタン,サイイド・サイードがモンバサを攻略
19世紀,ケニア沿岸にはイギリスとドイツ帝国が進出
1883 ハンガリー人テレキ・サミュエルとオーストリア人ルードヴィヒ・フォン・ヘーネル,トゥルカナ湖発見
1885 ベルリン会議の結果,東アフリカはヨーロッパ列強によって分割されることに
1888 沿岸部が帝国イギリス東アフリカ会社 (IBEA) により統治されるように
1895までに,内陸部にまでイギリスの影響が及び,東アフリカ保護領確立
1901 モンバサからキスムまでの鉄道が英国によって完成
1903 鉄道,ウガンダまで延びる
1902 現在のケニア全域がイギリスの保護領となる
1920 直轄のケニア植民地となる
1944 キクユ青年協会が設立
1946 ケニア・アフリカ民族同盟(KANU)の前身である,ケニア・アフリカ学生同盟(KASU)設立
1952 マウマウ団の乱勃発
1952 マウマウ団の一味とされたジョモ・ケニヤッタ逮捕
1956 指導者デダン・キマジ逮捕により,マウマウ団の乱終結.キマジは絞首刑.
1959 ケニヤッタ,釈放されるも,ロドワー(Lodwar)で自宅監禁
1963 英国から独立
1964 共和制に移行し,ケニヤッタが大統領に就任
1969 ケニヤッタ,KANUによる事実上の一党独裁制を敷き,キクユ族優遇政策をとる
1978 ケニヤッタの死去により,ダニエル・アラップ・モイ副大統領が大統領就任(1983,1988,1992,1997年に再選)
1982 ケニア・アフリカ人国民同盟(KANU)による一党制法制化
1991 複数政党制再導入
2002 総選挙.キバキ大統領就任
2007 総選挙.キバキ大統領再選(任期5年) 選挙結果による争議から,7週間に及ぶ暴動発生

 【参考ページ】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%8B%E3%82%A2
http://en.wikipedia.org/wiki/Kenya
http://n.ashitane.net/%E3%82%B1%E3%83%8B%E3%82%A2
http://ja.wikipedia.org/wiki/ジョモ・ケニヤッタ
http://ja.wikipedia.org/wiki/マウマウ団の乱
http://www.kenyarep-jp.com/kenya/history_j.html
http://www.tsuko40.com/xforum/modules/kenia/details.php?bid=7&offset=12

ジョモ・ケニヤッタ
(こちらより引用)

【ぐんじさんぎょう】,2012/07/06 20:30
を加筆改修

 「ケニア」と聞いて“バトルフィーバー”が最初に思いついた私は,駄目な人でしょうか?(笑

コタロ in mixi,2012年06月27日 22:34


 【質問】
 ケニアの2007年年末暴動について教えられたし.

 【回答】
 2007/12/30夜から31日にかけ,最大野党・オレンジ民主党(ODM)の支持者らが,首都ナイロビなどで警官隊と衝突した暴動事件.
 ロイター通信によると,ケニアの地元テレビは,死者は27日以降,120人以上にのぼっていると伝えた.

 12/27に投票が行われた大統領選挙において,与党・国家統一党(PNU)の現職キバキ大統領(当時76)の再選が発表されたが,ODMのオディンガ候補(当時62)の陣営が,開票に不正があったと猛反発したことに起因する.

 西部の都市キスムでは,オディンガ支持者らが暴動を起こし,多数の死者が出たため,外出禁止令が敷かれた.
 ナイロビの貧困層地区でも,棍棒(こんぼう)などで武装した若者らが大統領支持者を襲撃,商店や車に放火.
 装甲車や治安部隊が配置され,上空にはヘリコプターが旋回して警戒した.
 また,政府は混乱が拡大するのを防ぐためと称し,テレビの生中継を禁止した.

 キバキ大統領は最大民族キクユ出身.
 西部の有力民族ルオ出身のオディンガは大統領選で,所得格差の拡大や汚職蔓延(まんえん)などを指摘,大統領の「キクユ優遇政策」を批判した.
 開票終盤まではオディンガ氏がリードし,勝利宣言まで行っていた.

 【参考ページ】
2008年1月1日8時1分,産経新聞(by 木村正人)


目次へ

「別館A」トップ・ページへ

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ   サイト・マップへ