c
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◆国別 A-D
<アフリカFAQ 目次
faq081029af.gif
(画像掲示板より引用)
The Soviet advisers in Angola, 1982
「VOR」◆(2012/08/28)アンゴラで中国人ギャング37人,国外追放
「VOR」◆(2012/11/24)インターポール 拉致・強制労働から400人の子供を救出
> 南アのサバ通信によると,治安維持諸機関の職員らはインターポールの指導下で国際作戦を実施し,ブルキナファソの金鉱山で強制労働に従事させられていた子供達,約400人を解放し,児童売買と労働法規違反の容疑で73人を逮捕.
> インターポールによると,子供たちはニジェールなど西アフリカ各国で拉致され,酸素が不足している地下70mの狭い坑道で,劣悪な条件で働かされ,賃金も支払われず,教育も受けられなかった.
> ガーナ警察の報道担当官によると,子供たちは避難所に収容されており,両親探しが始まろうとしている.
「孤帆の遠影碧空に尽き」◆(2013/06/02) ボツワナ:中国支援へ大統領が注文
「Novosti」◆(2010/11/15) Russia starts pulling air group out of Chad
「Strategy Page」◆(2013/05/27) CHAD: The Mali Gold mine
「Al Jazeera」◆(2011/01/10)Algeria vows to punish protesters
「Al Jazeera」◆(2011/06/26)Algeria's 'one-eyed' American general
「an Arms Watcher」◆(2010/06/06)アルジェリア,リビア 防空システム購入か −ロシア紙
「Strategy Page」◆(2010/05/07) ALGERIA: Crime Pays
「Strategy Page」◆(2013/04/17) ALGERIA: The Chinese Invasion
「Strategy Page」◆(2013/07/17) ALGERIA: False Comparisons With Egypt
「VOR」◆(2012/04/26)アルジェリアのイスラム高僧:選挙投票は宗教的な義務
「ダイヤモンド・オンライン」◆(2013/02/25) 途上国を中心とした建設現場では「慣れてしまうこと」が最も恐い 久保田隆・千代田化工建設社長ロングインタビュー
> 日本の専業エンジニアリング会社は,産油国・産ガス国政府などを相手に仕事をしてきたが,国内での認知度は低かった.
> 皮肉にも最大手の日揮がアルジェリアで内戦に巻き込まれて注目が集まった.
>一足早く海外に軸足を移した千代田化工建設の久保田社長に実情を聞いた.
「中東の窓」◆(2012/07/06)アルジェリアの2番目の女性准将の誕生
「中東の窓」◆(2012/08/14)エジプト政変(アルジェリアへの影響)
「中東の窓」◆(2013/03/10) アルジェリア製ドローンの開発
「中東の窓」◆(2013/04/16) ロシアのアルジェリア海軍基地要請
「中東の窓」◆(2013/04/27) アルジェリアの隣国との関係
「中東の窓」◆(2013/07/17) アルジェリア大統領の帰国
『アルジェリア戦争 フランスの植民地支配と民族の解放』(ギー・ペルヴィエ著,白水社文庫クセジュ,2012.2)
『アルジェリア戦争』を読み解く (2013/01/18)◆「国際インテリジェンス機密ファイル」
「BBC」◆(2013/03/25) Thirteen South African
soldiers killed in Central African Republic
as rebels seized capital, President Zuma
says
「CNN」◆(2013/03/25) What’s behind the
turmoil in the Central African Republic?
「VOR」◆(2013/03/25) 中央アフリカ共和国でクーデター
「D.B.E 三二型」(2013/03/24)◆反政府勢力が首都に進攻=大統領辞任を要求−中央アフリカ
「D.B.E 三二型」(2013/03/24)◆フランス,中央アフリカ共和国に軍事介入 首都空港を確保
「Strategy Page」◆(2013/03/28) POTENTIAL
HOT SPOTS: Rebels Win A Quick One In CAR
中央アフリカ情勢
「Strategy Page」◆(2013/04/23) CONGO: Bloody Katanga
「Strategy Page」◆(2013/05/22) CONGO: Peacekeeping Becomes War
「VOR」◆(2012/07/10)子供を愛したトマス・ルバンガ 14年の判決
> 国際刑事裁判所は,15歳以下の少年少女を徴兵してコンゴ愛国者同盟の兵士として
>戦闘に参加させた,としてコンゴの野戦司令官トマス・ルバンガに禁固14年を言い渡す.
「VOR」◆(2012/12/01)コンゴ イリューシン76型輸送機 人家に墜落 約30人死亡
>強風により
「孤帆の遠影碧空に尽き」◆(2012/05/31)コンゴ,武力衝突で増える避難民 国際刑事裁判所(ICC)を巡る動き
「孤帆の遠影碧空に尽き」◆(2012/10/29)ウガンダでマールブルグ病(出血熱)の発生 コンゴの“ブッシュミート”の実態
「孤帆の遠影碧空に尽き」◆(2012/11/21)コンゴ 武装勢力による混乱拡大 豊富な資源を有する最貧国 絶えない戦闘・病気・飢餓
「ニューズウィーク」◆(2010/08/25)兵器としての強姦が続くコンゴ
「ワレYouTube発見セリ」:French Special Forces in Congo
【質問】
アルジェリア海軍の現有勢力は?
【回答】
基本的にはアルジェリア海軍は,小型フリゲートなどを中心とする沿岸防備部隊である.
『世界の艦船』誌等によれば,2013年現在,
国防予算 93億7,000万ドル
人員 6,400名
艦艇;
コニ型フリゲート×3
ナヌチュカ型コルベット×3
キロ型潜水艦×4
(ロメオ型2隻は退役)
オーサII型ミサイル艇×9
高速艇×16
補給揚陸艦×2
中型揚陸艦×1
測量艦×1
練習艦×1
その他
航空機(固定翼)59機
ヘリコプター10機
他に,コースト・ガードが船艇48隻を有する.
【参考ページ】
http://www1.cts.ne.jp/fleet7/WSSt/WSSt132.html
C28A型コルベット|日本周辺国の軍事兵器
http://jaxonz.pv.land.to/wolfpack/archives/2629
スーマム級練習艦(T50A型) - 日本周辺国の軍事兵器
【質問】
アルジェリアのキロ型潜水艦について教えられたし.
【回答】
北アフリカのアルジェリア民主人民共和国(Democratic
and People's Republic of Algeria) 国は,ソ連邦時代からロシアと関係が深く,アルジェリア海軍(Marine
De La Republique Agerienne)もソ連製艦艇が大半を占めております.
そして,アルジェリア海軍も,キロ型ことワルシャワンカ型潜水艦を保有しています.
アルジェリアが保有しているのは,輸出型のプロジェクト877Eであり,1980年代後半に2隻が引き渡されました.
・012「ライス・ハジ・ムバレク」Rais Hadj
Mubarek(B-861)
1985年起工,1986年進水,1986年11月29日竣工
1986年12月,アルジェリアへ引渡し
・013「エル・ハジ・スリマネ」El Hadj Slimane(B-386)
1986年起工,1987年進水,1987年11月25日竣工
1987年12月,アルジェリアへ引渡し
例によって,アルジェリアへ引き渡されるまでは,ソ連潜水艦としての仮番号(Bナンバー)が付けられていました.
2隻は,1993〜1996年に掛けて,ロシアのサンクトペテルブルク市へ回航され,アドミラルティ造船所でオーバーホールを受けました.
修理後はアルジェリア本国に戻り,細々と活動していました.
2005年夏,ワルシャワンカ型を設計したルビーン設計局は,アルジェリアの877Eをアップグレードする近代化改装の契約に署名しました.
これを受けて「ライス・ハジ・ムバレク」は,2005年9月,アドミラルティ造船所で近代化改装開始.
一方,「エル・ハジ・スリマネ」は,2005年,アドミラルティ造船所から技術者を招き,アルジェリア国内のオラン造船所で近代化改装開始.
▼ 上記2隻の他,2006〜2007年に掛けて,アルジェリア向けのプロジェクト636M型(改キロ級)2隻が,アドミラルティ造船所で起工されました.
就役は,2008〜2009年を予定しています.▲
ロシアのサンクトペテルブルクで近代化改装中の「ライス・ハジ・ムバレク」
faq39m877Er.jpg
faq39m877Er02.jpg
Небесный бытьネベスニィ・ビィチ〜ロシア・ソ連海軍〜
2008/4/16(水) 午後 8:27
▼ これら636M型は2隻とも,2010年には就役しています.
[プロジェクト877EKM]
012「ライス・ハジ・ムバレク」:1985年2月14日起工/1986年7月26日進水/1986年11月29日納入/1986年12月就役
013「ライス・ハジ・スリマネ」:1986年7月26日起工/1987年7月10日進水/1987年11月25日納入/1987年12月就役
[プロジェクト636M]
022号:2006年起工/2008年11月20日進水/2009年8月28日納入/2010年3月31日就役
023号:2007年起工/2009年4月9日進水/2009年10月29日納入/2010年7月27日就役
これに続き,今度はプロジェクト636.1潜水艦2隻を購入するつもりのようです.
プロジェクト636.1はベトナム海軍向けに5隻が起工され(6隻建造予定),既に2隻は引き渡されていますが,これに続き,アルジェリア向けにも2隻を追加建造する事になるようです.
現在までにプロジェクト877/636(ワルシャワンカ/キロ級)シリーズは合計で65隻が建造される予定ですが(建造中の艦を含む),更に2隻が建造されることになります.
最初の「キロ」級潜水艦(B-248)が起工された1980年から38年後になる2018年に,アルジェリアへ引き渡されるプロジェクト636.1が,おそらくは最後の「キロ」級(ワルシャワンカ)になるでしょう.
「六課」ACS◆(2014/02/23)
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
harkiとは?
【回答】
フランスは第二次世界大戦後,ヴェトナムを始めとするインドシナ,そしてアルジェリアなど各地にあった植民地を維持しようと,様々な策を巡らせます.
結局,これらの植民地は次々と失い,第4共和制が倒れる切っ掛けにもなりました.
その植民地支配のための軍隊は,それぞれの植民地の現地住民を用いています.
ヴェトナムやラオスなどでの山岳少数住民は,その後,フランスが引き揚げ,米国が入ってくると又も尖兵に用いられ,甚大な犠牲を払いました.
アルジェリア独立戦争でも,フランスは同じ事をしています.
尤も,この地域はフランスが古くから植民地として統治してきたこともあり,コロンと呼ばれたフランス系入植者の数は100万名を超え,フランスからは対岸だった為に,コロン出身兵士の他,直接フランス本土軍も投入されました.
コロンのほぼ全員は,1962年のアルジェリア独立時にフランス本土に引き揚げることになりました.
引揚げ自体は,比較的平和裡に行われたのですが,約100万人のコロン達にとっては,この引揚げは故郷喪失を意味し,その後のフランス政治に暗い影を落としていくことになります.
しかし,アルジェリアから引揚げたのは,このコロンだけではありません.
独立戦争の際,フランス軍の補充兵として従軍した現地住民は「アルキ」と呼ばれ,今までの支配者側にいたために,迫害を恐れてフランス本国に亡命していきます.
彼等は,祖国アルジェリアからは裏切り者と見做され,フランス本国に渡っても,その存在を無視され続けて,「フランス人」としての資格も有しませんでした.
この現地人部隊は,1830年にアルジェに侵攻したフランス軍が,翌年に現地住民による軍隊の創設を,法律で定めたことに始まります.
以降,spahi(植民地騎兵),turco(植民地軽歩兵),zouave(植民地歩兵)など仏領アルジェリア(現在のアルジェリア,モロッコ,チュニジア)で様々な現地住民による部隊が編成され,これらの部隊は,クリミア戦争,普仏戦争,第1次世界大戦及び第二次世界大戦,印度支那戦争などに従軍しました.
因みに,2006年にカンヌで賞を取った『デイズ・オブ・グローリー』は,第二次大戦に従軍したフランス植民地兵の物語です.
「アルキ」と名付けられたのは第二次世界大戦で,元々アラブ語で「運動」を意味するharkaが,「機動部隊」と言う意味で使われ始め,この部隊のメンバーがharki(ハルキ)と呼ばれました.
勿論,フランス語ではhは発音しないので,「ハルキ」ではなく「アルキ」となります.
1954年に始まったアルジェリア戦争では,フランス軍の補助業務を担うため,4種類の現地人部隊が組織されました.
即ち,補充兵(アルキ),補充警察(モガズニ),地方警察機動隊(GMPR),自警団(GAD)です.
厳密には,「アルキ」とはこの補充兵のことを指しますが,広くアルジェリア戦争中の現地人補充兵部隊員全般を指すことも少なくありません.
更には,フランス軍側に付いた軍民問わず「親仏派」全般を指したり,アルジェリア系移民でフランスの体制を利する(と他のアルジェリア系移民に思われる)人を侮蔑的に呼ぶ場合にも,この言葉を使うこともあります.
アルジェリア戦争時,フランス側に付いた現地住民は,1991年7月10日の"Le Monde"紙によれば,1962年3月13日の休戦協定締結時,国連に提出された報告書の中で示された,FLNによって脅威に曝されている「親仏イスラム教徒」の数は26.3万名とされ,その内訳は,
政治家・元軍人・官僚(親仏名士)が5万名,
軍人が6万名(内,職業軍人2万名,召集兵4万名),
補充部隊15万名(内,補充兵5.8万名,補充警察2万名,地方警察機動隊1.5万名,自警団6万名)となっています.
アルキを狭義に捉えれば約6万名ですが,広義に捉えれば15万名となり,「親仏派」全体では26万名に達します.
また,この数字は1962年3月13日時点のものですが,戦争自体は1954年以来8年に及び,補充兵も負傷したり除隊したりする人々がいるので,延べ人数には実に25万名に達します.
つまり,全体の実数は現在でも把握できていない訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/10/21 23:21
青文字:加筆改修部分
【質問】
アルキの従軍動機は?
【回答】
アルキの従軍動機としては4つありました.
1つは,先に見た様に,フランス軍が植民地の現地住民を動員する事は19世紀以来行われており,アルキは数ある現地住民部隊の1つに過ぎません.
ただ,今までの現地住民部隊とアルキが異なる最大の点は,その敵が異国人では無く,民族独立を目指す同胞だったと言う事です.
勿論,19世紀には編成された植民地部隊が叛乱鎮圧の為に戦いましたが,その頃の戦いは「土着の支配者」と「外来の支配者」と言う構図であり,未だ「宗主国」対「被抑圧民族」と言う構図は成立していませんでした.
しかし,民族主義がこの地域に及ぶにつれて,独立戦争は,「アルジェリア人」としての民族意識を育んだ人々による宗主国からの独立を目指した戦いであり,此に於て,フランス軍への従軍というのは「民族への裏切り」と見做されました.
しかしアルキの大部分は,山岳地帯の農村に住む貧しい農民達でした.
学校も通信網も整備されていない山間の村に育ち,農業を生業とし,文字の読めなかった彼等には「アルジェリア人」というアイデンティティは希薄であり,それよりも地域や部族のアイデンティティの方が強かったのです.
これと同じ理由に依り,彼等の従軍動機は「フランスのため」でもありませんでした.
現在では,フランスでアルキの顕彰式典が行われる時には必ずと言って良いほど,「フランスのアルジェリア」を守るために貢献したという様なスピーチが行われるのですが,「親仏派」の中でその様な「大義」を意識していたのは,ほんの一握りに過ぎない政治家や官僚と言ったエリート層くらいでした.
学校教育と無縁で,フランスに関する知識も愛着も希薄な彼等の従軍動機が,フランスやフランス軍への忠誠でなかったとしても不思議ではありません.
では,どう言った動機で彼等は志望したのか?
最大の理由は経済的理由です.
アルジェリアの都市部での生活水準が,本国のそれと比べて少し低い程度だったのに対し,農村では慢性的な窮乏状態でした.
農業危機,失業,行政システムの未整備,学校教育の欠落などの問題が山積し,家族を養うにはフランスに出稼ぎに行くか,補充兵として働くくらいしか選択肢は残されていませんでした.
その次の理由としては,当時アルジェリア戦争を戦っていたFLNに対する復讐が挙げられます.
戦争が進むにつれ,FLNは農村住民に情報提供,物質的支援,FLNへの金銭的支援など様々な協力を要請してきます.
彼等は否応なくそれに従わざるを得ませんでした.
もし,それを拒否した場合は,拷問や殺害の対象とされてしまうからです.
住民の中には,迫害を避けるためにFLNへの従軍を志望した者もいましたが,逆にFLNによって身内の人間を殺され,復讐のために志願した者もいました.
最後の理由は,フランス軍による徴用です.
FLN同様,フランス軍も農村に於ける動員を強めていきます.
戦争が勃発した時点では,第二次世界大戦などでフランス軍への従軍経験を持つ者が数多く存在し,その慶県から自発的にフランス軍に従軍する者もいましたが,他方ではフランス軍による強制的な徴用もありました.
この4つの要因が重層的に重なり合ってアルキはフランス軍に従軍していきます.
ただ,彼等はフランス軍に正式に編入されることはなく,軍付設の部隊でフランス人士官の指揮により行動しました.
彼等の内,実際の戦闘行為に従事したのはほんの一握りで,大部分は左官や土木工事,調理,伝令,散髪屋,庭師,技師などの仕事に従事していました.
そもそもフランス軍司令部としては,アルキ達の従軍動機が「フランスを守るため」では無い事,彼等が兵士として訓練されていないこと,そしてFLNに寝返りしかねないことを理由に,彼等の忠誠心に対して懐疑的であり,アルキを組織化することについても,「アルジェリア軍」の結成に繋がりかねないとして消極的でした.
それ故,戦闘任務に就いても,作戦終了後に武器を回収されたり,夜警として任務に就く場合は,常に欧州系の兵士とペアにされるなど,アルキはフランス軍の周縁的な位置に置かれていました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/10/23 23:33
青文字:加筆改修部分
【質問】
アルキのその後は?
【回答】
1962年3月,エヴィアン協定の発効で,戦争は終結しました.
この協定に基づき,FLNからは裏切り者扱いされ,フランス軍からは継子扱いされた約2.5万人のアルキ達には,次の3つの選択肢が示されます.
1つ目はフランス軍に引き続き従軍するというものでした.
しかし,これは年齢,身体,健康状態等に制約があった上,家族はアルジェリアに残さなければなりませんでした.
その為,これを選択したのは約1,200名でした.
2つ目は契約職員としてフランス軍に半年間勤務するというものです.
しかし,こちらも契約開始まで故郷で待機させられる事になっていました.
これを選択したのは約2300名に過ぎません.
最後の選択肢は,特別手当を受け取って一般生活に戻るというものです.
1番目と2番目の選択肢を選べない大多数のアルキは,結局この3番目の選択肢を選ばざるを得ません.
残りの約21,000名がこの選択肢を選び,アルジェリアに残留することになりました.
FLNは当初,戦争責任があるのはフランス政府であり,アルキはその犠牲に過ぎないと言う立場を表明していました.
しかし,7月末から9月半ばに掛けて,突然何の前触れもなく,アルキに対する拷問やリンチが始まりました.
切っ掛けは民衆からの自然発生的な復讐概念だったのですが,10月半ばから1963年6月頃まで断続的に続いた虐殺は,FLN系の軍の指揮の下で行われたものでした.
この虐殺の犠牲者は正確に把握することは難しく,いくつかの説があります.
その多い方の数字で7〜14万人,少ない方の数字では1〜2万人とされています.
また,殺されないまでも刑務所に入れられて拷問されたり,強制労働に課せられた者もいました.
この強制労働は,アルキのみならず,フランスに逃れず,アルジェリアに留まった親仏派全員にも課せられています.
この時,フランス軍は未だアルジェリアに駐屯していました.
しかし,エヴィアン協定に縛られて,虐殺を傍観する立場を執りました.
また,フランス政府もアルキが大量にフランス本国に流入することを懸念し,政府の統制外で移住した補充兵の強制送還や,本国移住を手助けしたフランス人将校の処罰を表明するなど,迫害の危険に直面したアルキ達の,本国への亡命に対しても,厳格に制限しました.
「親仏派」全体は,先に見た様に約26万名に達していますが,政府の統制下に本国へ亡命できたのは僅かに2万人に過ぎず,それを上回る人々が,軍の禁止に背いてアルキを船に同乗させたフランス軍関係者達の支援もあって,非正規の手段で亡命を果たしました.
その数は,家族を合わせて凡そ20万名と見積もられています.
それでもなお,それ以上に多くの歩きが現地に留まることを強いられました.
一方で,アルジェリアに入植していた約100万名のコロン達はほぼ全員,休戦後,ごく短期間の内に本国に引き揚げていますからその落差は極めて鮮明でした.
因みに,本国に移住した彼等「アルキ」達ですが,行政機関では彼等のことを「イスラーム系フランス人引揚者」とか「北アフリカ出身引揚者」「イスラームのフランス人引揚者」など様々な名前で呼び,「アルキ」という呼称は未だに定着していません.
とは言え,アルキは元々アルジェリアに住んでいたのに故郷を追われた訳で,厳密な意味では「引揚者」と言うには無理があります.
結局,これらの言葉は行政用語としては用いられるものの,当事者達の間では定着せず,アルキというフランス軍内の部隊名がそのまま彼等の呼称として定着することになりました.
これはアルジェリアのコロン達も同様で,行政機関の「引揚者」と言う呼称を好まず,自らを「ピエ・ノアール」と呼んでいます.
本国移住後,彼等は数ヶ月から時には数年間,アヴァロン県のラルザックやピレネー・オリエンタル県のリヴザルト等南仏を中心とするフランス各地の収容所に滞在することを余儀なくされ,その後,多くの場合は,都市近郊の低家賃集合住宅に移住していきました.
そして,多くの場合,低賃金の肉体労働に従事し,失業や子供達の学校からのドロップアウトなどの問題に直面していました.
これは,コロン達も同様の扱いを受けていたりします.
ただ,コロン達と異なり,アルキ達にとっては,フランス軍への従軍がフランス社会によって充分に認識されず,他の移民と等し並に扱われることが不満となっていました.
一方,アルジェリアではアルキがどの様に見られていたかと言えば,2000年にフランスを訪れたブーテフリカ大統領がテレビ中継で行った演説に如実に表れています.
この演説で大統領は,第一次世界大戦及び第二次世界大戦でフランス軍に従軍したアルジェリア人に対し敬意を捧げる一方,アルキのことを,第二次世界大戦時に対独協力したフランス人の総称である「コラボ」に擬えて非難し,アルキ達に衝撃を与えました.
この様に,アルジェリア人からはアルキは「祖国の裏切り者」と見做され,その見方はフランスのアルジェリア系移民とその子孫にも受け継がれています.
それ故,アルキの家族と,非アルキのアルジェリア人との関係は屡々緊張したものになります.
とは言え,今やアルジェリア戦争が終結して半世紀余りが過ぎ,アルキも,フランスに移住したそれ以外のアルジェリア人移民達も,共に二世の時代になってきました.
特に1970年代以降,アルキは自らの地位や権利の向上を目指して様々な団体を組織し,社会運動を展開していきます.
最初はアルキの為の団体だったりしたのですが,より広く移民全体を包括する団体が組織されることもありました.
例えば1983年,移民2世の若者達が,移民の権利向上を求めてマルセイユからパリまで行進を行い,ミッテラン大統領に面会して要求実現に漕ぎ着けた通称「ブールの行進」はフランス移民史に於ける輝かしい勝利の記録ですが,その指導者であるトゥミ・ジャイジャを始めとする何人かはアルキ2世でした.
そして彼等が求めたのは,アルキのみならず,総ての移民の人権と平等が尊重されることでした.
つまり,此の場合,アルキと非アルキという立場を乗り越えて,互いに共闘し合っていたわけです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/10/24 23:21
青文字:加筆改修部分
1990年代に入ると,フランスはアルキの記念事業を度々実施します.
1995年に先ず元アルキ達に対してレジオン・ドヌール勲章の授与が行われます.
2002年には9月25日を「アルキへのオマージュの国民的記念日」に制定し,その日にはフランス各地でアルキ顕彰式典が行われる様になりました.
更に2005年には,アルキに関する1つの法律が制定されました.
「フランス人引揚者に対する国家の感謝(承認)と国民負担に関する法律」と言うこの法律は,その第4条に植民地主義の肯定的側面を学校で教える様求めた条項があった為,フランス中を巻き込む論争を引き起こした挙げ句に,この条項を削除する騒動があったことで知られていますが,この法律にはアルキに関する差別の禁止や経済的補償の条項も含まれていました.
つまりこの法律は,アルジェリアからの引揚者達…それは「ピエ・ノワール」も「アルキ」も含みますが…の貢献を国家として承認するためのものだった訳です.
しかし総てのアルキが,この国家の承認を求めているわけではないところに,この問題の複雑さが垣間見えます.
アルキが「フランスの為に」貢献したことに対して,国家の承認を求めると言うスタンスは,フランスによるアルジェリアの植民地支配を肯定するという論理に陥りかねません.
此の場合の「フランスの為」とは,突き詰めていくと,「フランスのアルジェリア支配の為」という事になります.
事実,2005年の法律には部分的に植民地支配の正当化が成されました.
ただ,アルキの中にはこの様な論理を支持しない人々もいます.
殆どのアルキは貧しく,仕方なしにアルキになったのです.
ですから,アルキにはフランスのアルジェリアを守るという意識が希薄でした.
その貧しさは何処から出て来たかと言えば,フランスの植民地支配にあった事は明らかなわけです.
ですから,アルキの子孫達は,2005年の法律制定に際し,特に第4条の撤回を求めて運動を展開したのです.
アルキ達がもし植民地主義を肯定的に捉えたのならば,アルジェリア独立戦争の終戦時に,国家はフランス人引揚者とムスリム引揚者の2つのカテゴリーを作らず,一纏めにしたはずですから.
このフランスの引揚者と言うのは,当事者達が公的に「引揚者」と呼ばれながら,当事者自身がその名を拒絶する点にあります.
ピエ・ノワールもアルキも,フランス本国を帰還すべき祖国とは見做しておらず,従って本国の移住は「亡命」であって「引揚げ」ではないと言う立場を持っています.
但し,前者はアルジェリアを祖国と見做し,引揚げ体験の特異性を重視する立場から,「普通のフランス人」と見做されることを拒否するのに対し,アルキ達は自らの存在理由を確保する為にフランス国家による承認…それが功労者であれ犠牲者であれ…を必要とします.
「ピエ・ノワール」が「普通のフランス人」をと見做されるのを拒否できるのは,彼等が既に「普通のフランス人」としての地位を享受できているからです.
しかし,アルキはその地位を充分に得ていないので,「普通のフランス人」と見做されることを拒否するという選択肢は有り得ません.
寧ろ彼等は,自分たちが全きフランス人である事,そして国家から承認されるべき存在である事を訴えている訳です.
この部分が,同じアルジェリアからの引揚者でありながら,「ピエ・ノワール」と「アルキ」の決定的な違いになっていると言えます.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/10/25 22:30
【質問】
アンゴラ内戦とは?
【回答】
アンゴラでは1961年以後,ポルトガルからの武装解放闘争が続いたが,ポルトガルは1975年3月に3つの解放勢力と休戦協定締結.
しかし1975年11月,ソ連に支援されて中部を支配下におくアンゴラ解放人民運動(MPLA)政権がアンゴラ人民共和国の独立を宣言.
これに対し,南アフリカとアメリカに支援されて北部と南部を支配下におくアンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)とアンゴラ民族解放戦線(FNLA)は,アンゴラ人民民主共和国の独立を宣言し,内戦が続いた.
これがアンゴラ内戦と呼ばれる.
http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/gendai/89-tojyoukoku2.html
MPLAはソ連・キューバをはじめとする東側勢力に支援され,
FNLA・UNITAはアメリカ・南アフリカなど,西側勢力によって支援されるという,東西冷戦の代理戦争の様相を呈した.
1976年にMPLAの政府が順次世界に承認されることになった.
1984年,FNLAは政府に降伏.だが,UNITAは西側勢力の支援の下,
ゲリラ闘争を続けた.
冷戦が終わって1991年になると,恩赦,国民統合軍の創設,そして複数政党制による大統領選挙及び議会選挙の実施を盛り込んだ和平協定が,サビンビUNITA
議長とドス・サントス大統領の間で締結.
1992年に国連(UNAVEM)の監視下,選挙が実施され,MPLAが半数以上を獲得.
だが,UNITAは選挙結果は不正によるものと拒否し,再び内戦突入.
MPLAは北部の油田を所有し,UNITAは北東部ザイール国境付近のダイヤモンド鉱山を支配するなど,冷戦後は一転,資源戦争という状況に.
翌年までに,外国勢力によるUNITAへの援助は正式に停止された.
1994年,MPLAとUNITAがザンビアで会談,再度和平協定に調印した.
1975〜1994年末までに戦争難民は360万人,殺害された者は50万人に達していた.
しかし,UNITA軍の武装解除は遅々として進まず,政府との小競り合いが続く.
1997年に入り,隣国ザイールが崩壊すると,UNITAは武器の供給が断たれ,ベルギーの会社とのダイヤモンドの取り引きも停止,戦闘続行が難しくなってきた.
1997年4月にMPLAとUNITAの統合政府が樹立し,20年以上続いた内戦が一応幕を閉じたが,UNITAは水面下で引き続き武力抵抗を続けた.
2002年3月末,UNITAリーダーのジョナス・ザビンビが暗殺され,UNITAは崩壊.
そうして同年4月,25年以上に及んだアンゴラ内戦が終結したのだった.
(MoReNa on Wire,
国境なき医師団報告書,2002/5)
アンゴラ民兵
(画像掲示板より引用)
【質問】
アンゴラ内戦について面白い本ってある?
米ソの代理戦争の面もあって,なかなか興味深い.
【回答】
・『アフリカ傭兵作戦 朝日ソノラマ新戦史シリーズ38』
片山 正人
1960年代から70年代初めにアフリカで起きた,3つの内戦を傭兵の動向を軸に解説している本です.
1章 カタンガ独立戦争
2章 ビアフラ独立戦争
3章 アンゴラ内戦
各章とも,政治情勢にもかなりのページを割いているので,その方面の参考にもなるかと思います.
逆に無敵傭兵戦記を期待していると,外れ扱いに・・・
傭兵マニアに貸したら,外れ本認定された過去がorz
アンゴラ内戦は分量的には一番少なく(ビアフラと同じだったかも?),アフリカでの傭兵時代の終焉の様な扱いで描かれていました.
このジャンルに興味が有る様なら,同じ作者による『コンゴ傭兵作戦』もお勧めです.
こちらはカタンガ独立戦争終了後の,シンバの反乱を扱っています.
・『ビアフラ戦争―叢林に消えた共和国』
http://www.amazon.co.jp/dp/463449180X
内戦の背景や各国の介入,傭兵の動向,飢餓や難民などビアフラ戦争について良く纏まった,分かりやすい本でした.
軍事板,2011/09/11(日)〜09/12(月)
青文字:加筆改修部分
【質問】
中国のアンゴラ進出について教えられたし.
【回答】
原油が最高値バレル140ドルをつけていた2008年7月をピークに,アンゴラに対して中国は経済介入を行っている.
しかし40ドルまで原油価格が急落した2009年初めには,アンゴラはこれ以上中国元の支援が得られない金融状況に追い込まれた,
慌てたアンゴラ政府は,支援先の多様化を模索.
日本企業も,アンゴラへの積極的進出に出始めたという.
他にも,中国の,余りにも無条件の経済支援に,その申し入れを受けた国々は,何の疑いもなく中国の資金力の膝下にひれ伏しているという.
【参考ページ】
「日刊 アジアのエネルギー最前線」,2010.12.26付
【質問】
ボツワナにおける日本初のレアメタル鉱区権益について教えられたし.
【回答】
これはボツワナ東部にあるディコロティ地域の鉱区.
精錬後にプラチナが約5トン生産できる鉱床が,すでに確認されている.
さらに鉱床が存在しそうな場所が10カ所以上あるとされ,採掘量の増加が期待できる.
2009年10月,独立行政法人「石油天然ガス・金属鉱物資源機構」は,同鉱区の100%の権益を持つオーストラリアの資源探索会社と共同調査の契約を締結した.
3年間で計300万豪ドル(約2億4千万円)の費用を負担することで,権益の60%を獲得できる.
獲得後は商社などの日本企業に譲渡する方針.
【参考ページ】
2009/10/07 19:14,47 News
【質問】
カーボ・ヴェルデ Cabo Verde という国の成り立ちを教えられたし.
【回答】
丁度西アフリカの世界を取り上げていた所で,ノーベル平和賞がリベリア大統領だったりするので,次はリベリアを取り上げたい所ですが,そこはぐっと我慢の子(ぉぃ.
同じ西アフリカに有りながら,全然違う道を進んだ2つの国を取り上げてみる.
旧ポルトガル植民地であるカーボ・ヴェルデとギニア・ビサウの2つの国は,1970年代半ばのカーネーション革命に端を発したポルトガルの政変により,独立を果たしました.
この地域は前に少し触れたことがありましたが,前者はセネガルから凡そ500km沖合に浮かぶ小さな島嶼国家であり,後者はセネガルの南部と国境を接する小国です.
この両地域では,主にカーボ・ヴェルデ出身者を指導者に,ギニア・ビサウの地で独立闘争を展開していた,PAIGC(ギニア・カボ・ヴェルデ独立アフリカ党)と言う政党が独立に際して,2つの国を統治すると言う変則的な形でポルトガルから独立します.
つまり,この両国は将来的には統合する事を目論んでいた訳です.
しかし,それから5年後には両国の政治的関係が悪化し,1つの国になると言う目論見が潰えてしまいました.
これは,1980年にギニア・ビサウで反カーボ・ヴェルデ感情が原因となったクーデターが起きた為です.
この為,両国の関係は一時かなり悪化しましたが,他の旧ポルトガル領のアフリカ諸国であるアンゴラやモザンビークなどの尽力で,2国間関係は修復へと向かいます.
とは言え,もう2カ国を統合すると言う夢想的な議論は雲散霧消してしまい,両国はそれぞれ別の道を歩むことになります.
さて,ポルトガルでは15世紀を「発見の時代」と言います.
日本では「大航海時代」と呼ばれるこの時代の中でも,カーボ・ヴェルデ諸島の発見はその初期の段階に属します.
この諸島をポルトガルの船団が発見するのは,早くも15世紀半ばです.
尤も,記録を紐解くと,ポルトガル人よりも先に,アフリカ大陸の住民達がこの島々を騒乱時の避難場所として利用していたり,アラブの旅行家がこの島々を船から目にしていた事などがあり,欧州人の「発見」とはとても言い難いものです…と言うか「発見の時代」とはいかにも欧州人らしい視点だなぁと思ってみたり.
アフリカ人やアラブ人は,この島々をあくまでも一時的な避難場所としか考えませんでしたが,その地に定住しようと考えたのはポルトガル人が最初でした.
ただ,その意志は気候の厳しさや土壌の痩せ具合から,早くも挫けていきます.
ところが,アメリカ大陸の発見が転機をもたらすことになります.
農業には向いていないものの,冒険の旅を続ける為に,またアフリカ大陸で捕獲した奴隷達を新大陸に運ぶ際の中継地点として都合の良い場所に,この島があった為です.
そこで,ポルトガル人は大陸から奴隷を連れてきて,定住を開始します.
なお,この時代は船乗りと言えば圧倒的に男性が多かったので,入植したポルトガル人も男性主体だったのですが,アフリカ大陸から女性を奴隷や同棲者として連れてきた事から,混血者が多く生まれます.
こうして,この島々には混血のプランテーション社会が生まれ,尚且つ,言語もポルトガル語の語彙を基礎とするクレオール語が誕生します.
カーボ・ヴェルデのクレオール語は,世界最古のクレオール語の1つだった訳です.
因みに,数多くの島々から形成されるカーボ・ヴェルデですが,この内,定住者がいる島は僅かに9つしかなく,残りは総て未だに無人島の儘です.
この様にクレオールを中心とした社会が出来たのですが,このクレオールはポルトガル人の奴隷でありつつも,ポルトガル人に協力する奴隷商人という顔も持っていました.
19世紀末以降は,クレオール達はアフリカ人とポルトガル人の中間に位置し,アフリカ人を管理する立場に置かれていました.
つまり,この地域の人々は,奴隷でもあり,奴隷商人でもあり,植民地主義の犠牲者でもあり,加害者でもあるという非常に複雑な立場だったのです.
アフリカ系の人々よりも社会的地位がある程度上である事を活かし,カーボ・ヴェルデの人々はポルトガル本国に留学し,政治的意識を向上させ,アミルカル・カプラルの様な優れた独立指導者を生みだし,彼らが中心になって,1960年代以降,ポルトガルから独立することを目的に戦いを開始します.
独立後は,大陸にある他の旧ポルトガル植民地が内戦による大きな被害に苦しめられる一方で,この国は比較的安定した政治運営を実現し,先進諸国や海外に移住した移民からの送金により,経済的な困難も克服してきました.
移民については,カーボ・ヴェルデ出身者は,現在では本国の人口より多くなっていたりします.
独立当初,一党独裁体制だった政治は,1990年代には憲法改正を実現し,複数政党制に移行すると,クーデターでは無く公正な選挙による政権交代をも経験しているアフリカでは稀な民主主義国家になりました.
ポルトガル支配から数えると500年間,全く戦争が無い国であり(植民地闘争は主にギニアの地で行われていた),世界でも稀な国であったりします…と言うか,そもそも戦争に巻き込まれる様な資源も無い,国力も無い,敵もいない国なのですが.
この国の人種構成は,欧州系とアフリカ系の混血,つまりクレオールが凡そ7割を占め,アフリカ系住民が3割弱,そしてごく少数の欧州系住民という形になっています.
ところが,その言語体系はクレオール語が主体であり,元となったアフリカ系諸語は長い間のポルトガル支配の内に消滅してしまいました.
また,フランス系植民地と同様に,ポルトガル語も公用語の1つとなっていますが,こちらもフランス系植民地と同様に,ポルトガル語を流暢に話せるのは多く見積もっても30%程度であり,実質的に使いこなせる人々は僅かに10%にも満たない状況です.
ポルトガル本国では,ポルトガルとの混血が多く,文化的にもポルトガルに近い,この国では誰でもバイリンガルで,ポルトガル語を話せると思い込んでいる人も多いのですが,現実はこんなものです.
ポルトガルの植民地だった時代,実質的な公用語は勿論ポルトガル語でした.
公教育は非常に限られた人しか受講出来ませんでしたが,この公教育もポルトガル語で行われていました.
と言う事で,1975年に独立を達成した際,公用語となり得たのが先ずポルトガル語であり,そして,植民地時代は差別的に扱われていたクレオール語でした.
しかし,クレオール語には正書法も,辞書も,文法書も無く,公用語になる為の資格が尽く欠けていました.
よって,独立語の公用語がポルトガル語になるのは必然的な動きでした.
そして,公用語をポルトガル語と定めたカーボ・ヴェルデでは,ポルトガル語が司法,行政,学校教育,文学,マスメディアの世界で圧倒的な存在感を示しています.
公文書は総てポルトガル語で作成され,学校教育も原則としてポルトガル語で行われます.
新聞もポルトガル語で書かれています.
この国に於いて,ポルトガル語と言うのは,旧フランス植民地に於けるフランス語と同じく,血筋の良さや知識人の証明であり,かつ身分の高さの印でもあります.
この国では,ポルトガル語の知識無しに,高収入を期待出来る就職先を探すのは先ず不可能です.
因みに,2005年に「ポルトガル語選手権」なる大会がポルトガル本国で行われました.
この大会に,カーボ・ヴェルデの人々は数百人規模で参加しており,ポルトガル国外では最大の参加人数となっています.
こうした熱心さを見て,ポルトガル人が「彼らはバイリンガル」だと誤解するのも無理の無い事です.
しかし,この国ではポルトガル語は,「ポルトガル人の前で話す言葉だ」と言われるくらいであり,普段生活する場合はクレオール語を用いるのです.
そう言う意味では,フランス語と同じく,余所行きの言葉だったりします.
クレオール語,この国ではクリオル語,或いはカボ・ヴェルデ語と呼ばれていますが,これは先に述べた様に,ポルトガル語とアフリカ諸語との接触によって生まれた言葉で,現在では国民の言葉として機能しています.
余談ですが,ポルトガル本国にはカーボ・ヴェルデの人々が多く移民で渡っています.
この移民の大半は,移民した後でもクレオール語で話し続ける為,現在ではポルトガルで2番目に多くの話者を持つ言語となっていたりします.
また,最近ではカーボ・ヴェルデ移民が多く暮らす地域の学校に通うポルトガル人生徒達が,逆にクレオール語を身につけるケースが出始めていると言います.
このクレオール語がどういった形で形成され,かつ,両地域で発展していったのかは諸説入り乱れてよく判っていません.
それこそ,卵が先か,鶏が先かと言う議論に似た様な経過を辿っており,カーボ・ヴェルデの人々に言わせれば,うちで発展してギニア・ビサウに伝えられたと言い,ギニア・ビサウの人々に言わせれば,うちで発展してカーボ・ヴェルデに伝わったと言い,両者を戦わせると,収拾が付かなくなると言います.
言語学者の説も,カーボ・ヴェルデのクレオール語を研究している学者はカーボ・ヴェルデ起源説を採り,一方,ギニア・ビサウのクレオール語を研究している学者はギニア・ビサウ説を採ると言う状態で,一定していません.
ま,兎に角,16世紀には既にクレオール語は成立し,カーボ・ヴェルデのプランテーションでの主要言語となっていた事だけは間違いないようです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/10/07 23:31
青文字:加筆改修部分
【質問】
カーボ・ヴェルデの公用語は,なぜポルトガル語になったのか?
【回答】
さて,カーボ・ヴェルデでは,15世紀以来,ポルトガル人とクレオール人がそれなりに交渉を持ち,平和的に共存していました.
しかし,帝国主義の時代,即ち19世紀末になると,本国による植民地支配が徹底するとポルトガル政府によるクレオール語の弾圧が始まります.
これは,ポルトガル帝国の統合を弱める要因として,クレオール語が敵視される様になった為です.
ポルトガル語は「言語」となり,クレオール語は「方言」となって,クレオール語の表向きでの使用は排除,蔑視され,学校や官庁,裁判所など公的機関ではポルトガル語の使用が強化,強制されることになります.
こうしたポルトガルの姿勢は,クレオール人にも伝わり,彼らは自らの使用する言語を,「腐敗したポルトガル語」と考える様になります.
その為,クレオール語は家庭や農園と言った私的空間に封じ込められてしまいました.
ただ,クレオール語にとって救いだったのは,同じ時期にクレオール語の文法記述が行われ,20世紀に入るとその言葉を用いて詩作を始め,それを発表する人々が現れたことで,書記伝統も長く,蓄積も少なくない状況にあった事です.
社会的にはポルトガル語が「統治」していたのですが,庶民の日々の暮らしの中ではクレオール語が「君臨」してきた訳です.
1975年7月5日,カーボ・ヴェルデはポルトガルからの独立を果たしました.
この国は先述の様に,複数の島々からなる小さな植民地であり,ゲリラ戦に適した密林の様な森林地帯も無い事から,この地域での独立戦争の舞台にはなり得ませんでした.
その割に,カーボ・ヴェルデの人々は,ポルトガルの反植民地闘争で重要な地位を占めます.
彼らは,ギニア・ビサウの人々と共にPAIGCを結成し,森林の多いギニア・ビサウで,ポルトガル軍を相手に独立闘争を行ったのです.
こうして独立を達成したカーボ・ヴェルデですが,その公用語はポルトガル語となりました.
独立前からカーボ・ヴェルデでは,クレオール語の地位を高める為に運動した文化人も,多くいたにも関わらずです.
文化人達は,クレオール語はカーボ・ヴェルデの文化の支柱であるとは考えていたのですが,公的機関で使用するべき言語では無いと言うスタンスでした.
日常生活では圧倒的にクレオール語の地位が勝っていますが,「腐敗したポルトガル語」と言う認識が深く浸透していた事,また弾圧による書記言語としての資源を欠いていた為に,独立時,70%がポルトガル語での読み書きが出来ない非識字者であったにも関わらず,カーボ・ヴェルデの国益に叶う言語はポルトガル語だと考えられ,ポルトガル語が公用語に選定されたのです.
他にもポルトガル語は宗主国と繋がる為,経済発展を保証する言語として重要だと考えられていましたし,他のポルトガル植民地との繋がりをも考えると,ポルトガル語を公用語似するメリットの方が大きいと考えられていました.
その決断は現実主義であり,未来志向であり,歴史重視でしたし,エリート層の間では,自らの思考や思想を文字化する際に使ったポルトガル語に対する,深い愛着もあったのも無視出来ません.
一方,クレオール語を公用語化しようと言う動きも,完全に封印された訳ではありません.
カーボ・ヴェルデの人々のアイデンティティの拠所であり,ポルトガルからの独立直後の熱気の中で,その自立を誇示する為にも,植民地の言語であるポルトガル語から距離を置こうという動きも見られました.
その公的使用の第1歩となったのが,1979年の北部にあるサンビセンテ島の港町ミンデロで開かれた会議です.
国の内外の研究者等が集まって,意見交換を行った程度の会議ではありましたが,アフリカ諸語の書記法を研究し,クレオール語正書法の試案を作ったと言う意味で,画期的な会議でした.
因みに,この国の文化大臣など多くの要職を歴任した,言語学者兼作家のマヌエル・ベイガが,1987年に出版した『オジュ・ダグ』と言う長編小説には,初めてこの正書法試案が用いられましたが,普及することはありませんでした.
1987年に次の動きが出て来ます.
スイスの協力機関の支援を受けた教育省が,成人の識字化運動を開始しました.
これは,クレオール語と共にポルトガル語の教育も視野に入れたもので,その教育の為にもクレオール語の正書法が考えられました.
この成果は1989年に提案され,その提案はミンドロ会議での試案よりも優れたものでした.
こうして,クレオール語は「方言」から「言語」への地位の上昇が見られましたが,これも政府の承認を受けたものではありませんでした.
1993年に新しい研究会が立ち上げられ,その成果が政府の認可を得るのは1998年になります.
こうして,1998年の成果が,政令67号「カーボ・ヴェルデ語表記統一アルファベット」(Alfabeto
Unificado para a Escrita do Caboverdiano)で,通称ALUPECと言うものになりました.
ALUPECも,最終的な正書法の決定案では無く,使用される文字,補助記号の種類とその使用法を定めただけのものです.
これは,それぞれの島で独特の進化を遂げてきたクレオール語の変異を無くし,統一化を目指すものでは無く,それぞれを尊重しようと言うものでした.
このALUPECは有用性を試す期間を5年と定め,その後の5年間をALPECの使用状況と,必要な変更を見定める時期としました.
こうして,2008年末のクレオール語に関する会合では,政府がALUPECの便宜性と社会文化的価値を認め,最終的な制度化は可能だという結論に達し,2009年1月22日には閣僚評議会に於いて,ALUPECの制度化に関する法令が承認されました.
遂に,クレオール語が公用語として昇格する準備が整ったと言えます.
因みに,ALUPECのアルファベットは,23文字と4つの二重字で構成されます.
二重字というのは,2文字で1音を表す表記で,批判されることの多かったポルトガル語正書法をモデルにした語源的正書法と,1音素=1文字を原則とする音韻的正書法の折衷案になります.
このアルファベットは次の様になります.
a b d dj e f g h i j k l lh m n nh n o p
r s t tx u v x z
cが無いのは,ポルトガル語では/k/の発音と/s/の発音に用いられるのに対し,クレオール語ではkが常に/k/であり,sが常に/s/と発音するので不要となるのです.
lhとnhはポルトガル語と同じ発音で,djはポルトガル語に無い破擦音/dz/を表記する為の記号です.
txはポルトガル語に無い破擦音/t?/を表す記号で,語源派の表記ではtchと3文字,音韻派はcを主張していましたが,1音に3文字を充てるのは非合理的であり,cを充てるとポルトガル語の学習に不都合を来すと言う事から,妥協の産物となりました.
最後のnは軟口蓋鼻音/n/に使われます.
このクレオール語の公用語化については,2001年から首相の座にあるジョゼ・マリア・ネーヴィスが,自らの任期中にクレオール語を公用語にしたいと表明しています.
また,副教育大臣もポルトガル語が公用語であることを認めながらも,クレオール語を母語とする教育の必要を訴えています.
因みに,1999年の改憲議論の際に,この際クレオール語を公用語にしようと言う提案がありましたが,この時は,クレオール語=「腐敗したポルトガル語」と言う考えが社会に未だ根強く残っており,公用語に至りませんでした.
勿論,現在でも公用語化に反対する意見もあります.
しかし,2002年7月に「カーボ・ヴェルデ語地位向上の道に関するフォーラム」が開かれ,改めてクレオール語の公用語化の必要性が指摘され,国会議長のアリスティデス=リマ氏が,クレオール語で学ぶ権利を国民に与えること,公的文書でのクレオール語の使用,クレオール語にポルトガル語に匹敵する尊厳を認めることを強く訴えました.
後は法制化を残すのみで,2009年2月の国会の改憲議論では,与党PAICVがクレオール語の公用語化を提案しています.
(但し,野党第1党の「民主主義の為の運動」は,どの島の変種を標準にするかについての住民投票を求めていますが)
近い将来,カーボ・ヴェルデ・クレオール語が公用語に昇格し,「ポルトガル語とクレオール語が共に統治し,君臨する」形になる可能性が高まっています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/10/08 22:20
青文字:加筆改修部分
【質問】
ボカッサって皇帝いたけど,バンツー王国と何か関係があるの?
【回答】
朕はボカッサ!
中央アフリカ共和国の終身大統領だったんだけど,それじゃツマラナイって,皇帝になったんだぜ!
戴冠式で,日本の天皇呼んだんだけどさぁ〜 来やがらなかったぜ! とんだチキンだ!
学生に制服の着用を命じたら,反乱になって,亡命するハメになったぜ!
まったく,これだから,アフリカの元首やってらんね〜ぜ!
というわけで全然関係ない.
ちなみに同国初代大統領ダッコの従兄弟.
自由フランス軍兵士上がりで,国軍参謀総長だったけど,1969年に従兄弟を倒して翌年に大統領就任.
ボカッサ
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq54m02.jpg
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq54m02b.jpg
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq54m02c.jpg
(画像掲示板より引用)
【質問】
コンゴの歴史を,簡単に教えられたし.
【回答】
現在,世界最悪の国と言われているアフリカの国はいくつかありますが,その中でも最大の国がコンゴ民主共和国です.
1884年から85年にかけて,列強によるアフリカ分割を行う為,ベルリン会議を主導したベルギー国王レオポルド2世の私有植民地として認知され,当時はコンゴ自由国という名称でした.
この「自由」と言うのは,私有地ではあるものの,他国の貿易業者や宣教師の自由な活動が認められると言う建前だったからです.
しかし,「赤いゴム」事件の様に,その統治方法が余りにも酷かったため,各国から非難が続出し,1908年にレオポルド2世はこの私有地をベルギー政府に譲渡します.
以後,ベルギー政府及び国民は,望まざる植民地を保有することになりました.
その消極的な植民地政策が,その後一貫して行われ,1960年6月30日にコンゴ共和国として独立させます.
しかし,この独立に於いて統治機構を整備することはせず,また,人材の育成も無く,更に奥地のカタンガ地域は,ベルギー資本による分離独立が図られるなど,当初から波瀾含みのスタートでした.
その後,1967年に国名をコンゴ民主共和国に変更しますが,1971年にモブツ・セセココ大統領のauthentisite政策により,国名をザイール共和国に改め,南部アフリカの強国の1つとして君臨します.
ところが,1996年から始まった内戦でモブツは失脚し,1997年にローラン・カビラが権力を掌握して大統領となり,国名を再びコンゴ民主共和国に戻しました.
現在は,ローラン・カビラの息子であるジョセフ・カビラが権力を掌握して大統領となり,政権を担当していますが,内戦は未だに続いています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/10/12 23:04
青文字:加筆改修部分
【質問】
コンゴの公用語は?
【回答】
コンゴ民主共和国も,他のアフリカ諸国と同じく,部族語,共通語,公用語の3層構造となっています.
2006年発布の現行憲法では,第1条に次の様な規定があります.
● 公用語はフランス語である.
● その国語はコンゴ語,リンガラ語,スワヒリ語及びルバ語である.
国家は,その促進を区別無く行う事を保証する.
● 国内のその他の言語は,コンゴの文化的遺産の一部を為すものであり,国家はその保護を保証する.
この国は面積234.5万平方キロメートルで,アフリカではアルジェリアに次いで2番目に大きな国であり,人口は約6,000万人になります.
この広大な国で話されている言語は,200以上あると言われていますが,大部分は系統からはニジェール・コンゴ大語族の中のベヌエ・コンゴ語族のバンツー系で,それが全国民の約80%を占めます.
後の20%は,ニジェール・コンゴ大語族の中のウバンギ族の言語と,ナイル・サハラ大語族の中のシャリ・ナイル語族に属する中央スーダン系,東部スーダン系の言語で,これらは主として国の北部,コンゴ川の北側に分布しています.
同一言語系と言っても,親縁関係が近ければ相互理解が可能ですが,遠い場合は聞いて判ると言う事には成りません.
勿論,同一系統から離れると,それぞれの言語を用いては相互理解は不可能です.
こうした民族語を補完し,地域でのコミュニケーションを図る為の地域共通語は大きく4つあります.
国の東部はスワヒリ語,南部はルバ語,北西部はリンガラ語で,西部はコンゴ語で,これらの言葉は,欧州人がこの地に来る以前から他部族間に於いて用いられていたもので,憲法上,この4つの言葉が「国語」として認められています.
スワヒリ語は,東アフリカのケニア,タンザニアを発祥の地とし,ケニア,タンザニアからコンゴ東部まで切れ目無く続いています.
これは,19世紀後半から20世紀にかけての,ザンジバルに本拠を置くアラブ人による内陸進出や,コンゴ自由国時代にザンジバルから兵隊を雇い入れたことが切っ掛けですが,実際の伝播はキリスト教の宣教師による布教と学校教育に依る所が大きかったりします.
また,カタンガ地域,現在のシャバ州では,鉱山開発の為に大量の周辺部族民を吸収した為,その共通語として,スワヒリ語が発達したと言う事情もあります.
この言語はリンガラ語と共に,コンゴでは唯一の国語を争う有力候補です.
その理由はリンガラ語と同様,部族的基盤が無く,リンガラ語とは異なり,書記体系等,言語の整備が進んでいる点が挙げられます.
但し,言語的整備は,東アフリカのスワヒリ語として進んでいると言う事であり,コンゴに於いて言語整備が進んだ訳ではありません.
これを国語として採用する場合は,国際連携的に東アフリカ地域との交流が活発になりますが,コンゴ1国でのコントロールが出来ないと言う問題が出て来ますし,元々,アラブ・スワヒリ商人の言語であったことから,リンガラ語話者からは,スワヒリ語を話す連中は抜け目なく,注意が必要だと思われています.
ルバ語は,主に南部の西カサイ州と,東カサイ州で話されています.
この言語は16〜19世紀にかけて,シャバ州も含めて王国を形成していたルバ族の言語で,その言語は威信が高く,周辺部族のクバ族やテテラ族も用いていました.
また,19世紀終わりにこの地に布教基地を置いたカトリックの宣教師も,この言語を利用しました.
とは言え,これが地域共通語として発展したのは,欧州人により鉱山開発や鉄道建設が行われ,現地人が流動化したの事が要因として挙げられます.
これにより,ルバ系諸民族や周辺民族が都市部に集まり,共通語の必要性が高まり,ルバ語が取り上げられたのです.
因みに,ルバ族は民族的にもコンゴ族,モンゴ族と共に,最重要部族の一つです.
植民地時代は,ルバ人は植民地行政官に従順であると言うので受けが良く,教育のレベルが高かったので,ルバ語はコンゴ唯一の国語候補でしたが,現在は使用範囲の狭さから,その可能性は全くありません.
リンガラ語は元々,キサンガニからキンシャサにかけてのコンゴ川中流域に発達した共通語で,ボバンギ語,モンゴ語,ロケレ語などこの地域の諸部族語をベースに成立したと言われていますが,コンゴ語やスワヒリ語からの借用語も多くあります.
首都のキンシャサは,コンゴ族の領域に接していますが,コンゴ川中流域からの流入者が多く,20世紀の早い段階に於いて,共通語は既にリンガラ語となっていました.
因みに,リンガラ語は独りコンゴ民主共和国だけでなく,北隣のコンゴ共和国の北半分,中央アフリカ南部,南スーダン南西部,アンゴラ北部でも共通語としての話者が拡がっています.
この言語の1つの特徴は,コンゴ民主共和国軍の公用語でもある点です.
植民地時代には,様々な地域から兵隊をリクルートした為,スワヒリ語やハウサ語も用いられていましたが,かなり早い段階から軍隊の公用語はリンガラ語と定められました.
なお,カビラ大統領は東部スワヒリ語圏出身者である為,現在では状況が変わっているかも知れませんが,モブツ時代は少なくともリンガラ語が公用語でした.
従って,コンゴ民主共和国国内ではリンガラ語とは軍隊のイメージと結びついているので,兵隊が粗野であっただけに,リンガラ語も粗野なイメージを持たれており,特にスワヒリ語圏ではそのイメージが強かったりします.
また,モブツ時代には唯一与党であった革命人民運動党の公用語でもありました.
但し,モブツ自身はバンツー系では無く,ウバンギ系のンバンディ族出身者ですが,極めて正統で流暢なリンガラ語を話しました.
この言語のもう1つの特徴として,音楽の歌詞は専らこの言語であると言う事です.
コンゴの音楽は,国内のみならず,ケニア,タンザニアの東アフリカ,カメルーンやマリと言った西アフリカに於いても,圧倒的人気を誇ります.
そして,この音楽の歌詞はリンガラ語で作られており,人々はリンガラ語で唄われる歌の内容を知りたいが為に,この言語に興味を抱き,知らず知らずのうちに覚えてしまいます.
従って,本来,リンガラ語とは全く関係の無い地域でも,歌でリンガラ語を覚えた人も多くいます.
ただ,この言語はスワヒリ語と比べると構造が貧弱です.
その主な理由は,文法と語彙の簡略化が行われており,バンツー系言語にある名詞のクラスが欠けている為です.
一方で,教会や学校では名詞のクラスを持っているリンガラ語があります.
こちらは,マンカンザに基地を置いたスヘウト派の宣教師達が周辺言語の構造を参考に,従来のリンガラ語に手を入れ,文法と語彙を整備したもので,学校リンガラ語とか文語リンガラ語,古典リンガラ語などと言われています..
コンゴ語は,コンゴ川下流域で話されるコンゴ族の言語です.
正確には,コンゴ語は20余りの言語・方言の集まりで,コンゴ系諸語はコンゴ・キンシャサのみならず,その南のアンゴラ北部や北側のコンゴ・ブラザビルにも分布しています.
共通語としてのコンゴ語は,様々な名前で呼ばれています.
大西洋岸ではフィオテ語と呼ばれていました.
これは,初期のポルトガル人商人との交渉の中で生じたピジンと考えられています.
その他,キトゥバ語,キクァンゴ語,商業コンゴ語,政府コンゴ語等とも言われていますが,これらは大西洋岸から離れたクイル・クワンゴ地方でコンゴ語の方言をベースに生じた共通語で,「政府コンゴ語」は,その名の通り,植民地行政官と現地人とのコミュニケーションの手段として発達したものです.
この言語は,コンゴ川対岸のコンゴ共和国のブラザビルから大西洋岸にかけての地域でも用いられ,そこではモノクトゥバ語と呼ばれています.
なお,この他地域言語には,北部のザンデ語の様に,もう少し限られた範囲で共通語として用いられる言語もあります.
ただ,こうした言語は「国語」には認定されていません.
また,スワヒリ語とリンガラ語はそれを母語とする部族が無いのに対し,コンゴ語とルバ語は,それぞれ元を質せばコンゴ族とルバ族の言語であり,此の点スワヒリ語やリンガラ語とは異なります.
ところで,コンゴ民主共和国の公用語はフランス語です.
この公用語は,法律,行政,学問など国の公的用途に於いて用いられる言語ですが,「国語」は4つの地域で分割され,国全体に亘る共通語が存在しないので,フランス語がその役を果たしています.
因みに,ベルギー本土も,ベルギー語なるものは無く,フランス語とフラマン語(=オランダ語),それにドイツ語の3つの言語が話されていますが,人口の1%しか話さないドイツ語は扨措き,フランス語とフラマン語の対立はコンゴにもそのまま持ち込まれています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/10/12 23:04
青文字:加筆改修部分
【質問】
ベルギー領コンゴ時代の言語政策は?
【回答】
一方,ベルギー領コンゴの場合について見ていきます.
この地は元々瘴癘の地であり,列強の誰も顧みる事が無かったのですが,ベルギー国王レオポルド2世の私的植民地としてこの地を獲得する事に成功します.
しかし,その支配は非常に残虐かつ乱暴なものであり,それに対する国際的非難の結果,私的植民地は取り上げられ,1908年に正式にベルギー領となりました.
そして,その国際的非難に対応する為にベルギー政府が掲げたのが,「アフリカ人の文明化」と言う建前でした.
事実,初等教育にはかなりの力が注がれ,ベルギー系カトリック宣教団の経営する学校に補助金を与える事で,教育を振興すると言う目的に対しては相当な成果を挙げています.
この為,他のどの国の植民地よりも初等教育就学率は上を行っていました.
ベルギー政府の言語政策の基本方針は,フランス語を最上位に置き,同時に地域共通語を標準化し発展させるというものでした.
その方針の下で,特に都市部に於ける初等教育の普及は,フランス語とともにリンガラ語,コンゴ語,ルバ語,コンゴ・スワヒリ語の4つの地域共通語の標準化と普及を齎しました.
とは言え,ベルギー政府が努力したのは初等教育までであり,フランス語に堪能な植民地エリートを育てる中等以上の教育は甚だしく遅れ,1960年の独立時点でも大学卒業者が僅か16名でしかありません.
この植民地エリートの不在が,独立直後から発生したコンゴ動乱の一因になる訳ですが,そもそも,ベルギー政府にとってフランス語は支配者の言語であり,アフリカ人には必要ない,と言う姿勢があったが故の問題でした.
これは逆にアフリカ人にフランス語への希求を育てる事になり,1962年には混乱の中でフランス語を総ての段階で教育言語とすると言う大統領令が出され,1965年のモブツ政権成立以降も,地名や人名始め植民地支配の影響を排除し総てをアフリカ化するという,「オータンティシテ」が唱えられたにも関わらず,フランス語の優位は寧ろ独立後に強まっていきました.
これはドイツ領からベルギーの支配下に入ったルワンダとブルンジでも同じで,ルワンダ語,ルンジ語がそれぞれ教育言語として使用され,書記言語としてある程度整備されましたが,この地の場合は,ツチ人とフツ人を差別する政策が採られた為,同じ言語を共有するにも関わらず,その人々を分断し,遂に1994年の大虐殺を引き起こす遠因になっていった訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/09/20 22:52
青文字:加筆改修部分
【質問】
ベルギーの「言語戦争」が,コンゴに与えた影響は?
【回答】
先述の様に,ベルギーと言う国は,フランス語とフラマン語の対立があります.
特に,フラマン民族主義のうねりは19世紀後半から大きくなっていきました.
この頃,本国からコンゴに来る宣教師は圧倒的にフラマン系が多く,従って,フラマン民族主義思想がこの地にも齎されることになります.
彼らの求めるものは,彼ら本来の自然性です.
それは歴史的必然であり,神から与えられたものです.
従って,彼らにとって不自然なもの,邪悪なものは常にフランス及びフランス語圏から来たもので,その象徴が,当時フランドル地方を含むベルギー全体で特権的に用いられていたフランス語でした.
例えば,フランドル地方出身の宣教師ヴィンケは,1882年にタンガニーカ湖西岸の教団基地に赴きますが,そこで他のフランス系神父が,当地の共通語であるスワヒリ語を重宝しているのを見て,違和感を覚えました.
元々,スワヒリ語が共通語であっても,当地の人間にとっては本来のものでは無く外来のものであり,しかもその導入が比較的最近であり,ヴィンケにとってはこのスワヒリ語がフランドルに於けるフランス語の様な存在に映ったのです.
そこで,彼はスワヒリ語を尻目に現地の部族語研究に精を出しました.
1893年,キンシャサの南部,コンゴ族の地に赴いたイエズス会のバン・ヘンフトーベンも同様でした.
この地ではコンゴ語,即ちフィオテ語が共通語として用いられていました.
これも,彼の目には現地人と欧州人を含む外来の人間との接触によって不純な言語と映り,彼は部族語としてコンゴ語の研究に打ち込みました.
1900年には北西部のモンゴ族の土地に赴いた聖心派の宣教師フルスタールトも,此処で共通語として用いられていたのがリンガラ語に違和感を覚え,現地人本来の言語であるモンゴ語の研究,普及に努めました.
とまぁ,この様に,フラマン系の宣教師は,現地でのキリスト教化や教育に部族語を推進した訳ですが,勿論,総てがこうした動きをしていたわけではありません.
東部に拠点を置いたフラマン系の教団は,スワヒリ語で宣教活動を行っていましたし,フルスタールトと同時に同じ地域で活動していた宣教師のド・ブークは,逆に部族語よりも共通語としてのリンガラ語の純化を図ろうとしています.
ただ,フルスタールトとド・ブークの様にリンガラ語に対しての見解は大きく対立するものの,フランス語に対しては一致して「問題外」としていたりします.
(とは言え,フルスタールトは膨大な著作を残したのですが,その大部分はフランス語で書いているという矛盾はあったりしますけど)
それはさておき,本国政府や実業界のコンゴに対する関心は,天然資源,労働力としての人的資源,そして製品の輸出先と言う市場性にありました.
そして,その目的を遂行する手段として教育を重視したのですが,植民地政府は本国の80倍に及ぶ広大な国土を統治するだけで手一杯であり,教育をするだけの余力がありませんでした.
そこで,その教育をキリスト教会の手に委ねました.
キリスト教会のコンゴに対する関心は,神の教えを理解させ,それを広める為に教育が重要だと考えていました.
その為のツールは,欧州のフランス語やフラマン語では無く,コンゴ語やリンガラ語と言った共通語でも無く,現地人の母語である部族語を用いるべきだと考えています.
片や実業界は,自分たちの仕事上の理由で,現地人がフランス語やフラマン語を習得することを望み,政府は政府で,多様な言語的背景を持つ現地人とのコミュニケーションの必要性から,共通語の有用性を認識し,地方行政官に地域共通語の習得を奨励していました.
とは言え,「教育」と言うツールで各層の利害が一致すると,政府と教会との間に幾つもの協定が結ばれ,様々な恩恵が教会に対して与えられる様になります.
1906年にコンゴ自由国とバチカンとの間に結ばれたものは,以下の内容でした.
------------
1. コンゴ国は次の様な条件で,カトリック教会にその宗教的目的の為に必要な土地を与える.
2. 此処の教会は現地人教育の為の学校を設立する.
3. 学科及び授業は植民地総督の意見に従う.ベルギーの2つの国語,フランス語とフラマン語は必須とする.
4. 教会は,学校の構成,生徒数,授業の進み具合などを総督に定期的に報告する.
5. 植民地総督は教会の監督官の任命権を持つ
6. 宣教師はできる限り,地理,民族,言語などの研究を行い,報告書を提出する.
7. 各教会は耕作地100ヘクタールを与えられ,必要な場合はこれを200ヘクタールまで増やすことが出来る.
8. 教会はその事業を行うのに必要な経費を,政府から与えられる.
9. 教会と政府はお互い調和を以て物事に対処する.
------------
この協定は,他の教団との協定の見本でもありました.
こうして,学校は行政的には政府が監督しているものの,現場は総て教会に任されることになりました.
因みに,この「教会」とは,原則ベルギーのカトリック教会に限られます.
コンゴ自由国の建前としては,あらゆる国のあらゆる宗派の活動を保証していますが,実際にはベルギーの教会だけを優遇する事で,外国の影響を排除しました.
ですから,英国や米国を中心とするプロテスタント系教会が進出するのは,独立前のほんの数年に過ぎません.
この教育の為の言語は,政府と実業界の要求と教会の主張との間で,様々に揺れ動きました.
1924年には,教育は母語で行われなければならないとされるのですが,同時に都市に住むアフリカ人は,欧州人との接触の必要性から,フランス語も教えるべきだとされました.
また,1926年,1929年,1938年の各年の法律では,フランス語を小学校3年生から学課として教え,中学校からはフランス語で授業が成される様になり,それまで用いられた部族語は,学課として教えられる様になります.
1948年にはまた立場が変わり,小学校では母語,しかし出来るならば共通語で教えるべきであるとされました.
この為,フランス語は農村部で教えられなくなりますが,都市部では一部教えられていました.
そして,1954年になると再び方針が変わり,小学校の最初からフランス語で授業が行われる様になりますが,ベルギーでの事情を反映して,フラマン語も第2言語として教えられ,更に共通語が学課として教えられる様になりました.
つまり,部族語が完全に蔑ろにされた訳です.
流石に,この方針は内外から批判を浴びることになり,1959年には中学校でアフリカの言語と文化を教える為のプランが立てられましたが,独立前後の混乱により,実行に移されることはありませんでした.
ところで,多くの植民地行政官にとって,部族語は発展への障害物と映りました.
その結果,いくつかの文化言語,即ち文字を持ち,科学も語れる言語の確立を目指して,統一言語作りの作業が進められる事になりました.
例えば,世界的に著名な民族学者で,王立植民地研究所の事務総長だったデ・ヨンゲは,コンゴで話されている4つの地域共通語のうち,ルバ語をコンゴ唯一の国語にするべきだと主張しました.
先述の通り,ルバ族は従順で植民地行政官に受けが良かった為です.
この意見を受けて,1930年代から40年代にかけて様々な討論が行われました.
因みに,フルスタールトの意見はこうです.
------------
1. 教育は母語で成されなければならない.
母語の代わりに外来の言語を用いることは,例えそれがコンゴの言語であるとしても,
価値の完全な逆転を招く.
2. 母語以外の言語で教育を行う事は,エリート層と一般大衆との差を益々大きな物にする.
3. コンゴの1つの文化語を優遇する事は,無視された言語の話してから反発を受ける.
特にモンゴ族とコンゴ族から,又リンガラ語やスワヒリ語が確立している都市の住民から.
4. その選ばれたアフリカの言語は,コンゴ人のエリートを惹き付けるだろうか.
寧ろ,行政や経済活動に於いて用いられているフランス語をより用いるのでは無いか.
5. ルバ語を国語として導入するに当り,どうやって何千人もの教師を集めるのか.
------------
まあ,このおっちゃんは先に見た様に,フラマン民族主義者ですから,部族語に固執し,言語的複数主義を支持します.
但し,彼は行政区画や教区に言語を合わせるのでは無く,前者を後者に一致する様に国を再編成すべきであると説いています.
と,これだけの議論があった割には,ベルギーが途中で統治を放り出して逃げた為,70年前と全く状況は変わっていなかったりします.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/10/14 23:58
青文字:加筆改修部分
【質問】
2008年前後のコンゴ内戦の勢力図は?
【回答】
いつぞやの軍研記事やらを参考にした感じでは,
CNDP…反政府勢力ローラン・ンクンダ軍.「人民防衛国民会議」.
ルワンダ系ツチ族が中心で推定兵力7000.
鉱山地帯を制圧し,その豊富な収入をもってルワンダ政府から支援を受けているとの疑惑がある.
FDLR.…「ルワンダ解放民主勢力」.
ルワンダ大虐殺の主犯と見られるフツ族武装組織.推定兵力1万.
ツチ族系のンクンダ軍と徹底対立するも,末端は完全に盗賊化している.
マイマイ…コンゴ土着の民兵組織.
多数の組織が乱立し,共闘体制が確立されてるとは言いがたいが,概ねンクンダ軍を敵視.
政府軍…コンゴ正統政府の軍.
しかし組織レベルもモラルも低い烏合の衆.
実態はコンゴ全域で暴れまわっていた各種武装勢力が寄り集まった寄せ集め.
市民の迫害,略奪などを堂々と行っている集団だが,装甲車や攻撃ヘリなど装備は一応整っており,中国の支援を受ける
MONUC…国連平和維持軍.
総数1万70000名の世界最大級の平和維持軍.
しかし,「わずか」1万7000ではコンゴ全域をカバーする事は不可能であり,中立を前提とするがゆえに盗賊や武装勢力を積極的に掃討する事も出来ない.
さらに悪いことに,食料と引き換えに少女に買春を強要するなど,モラル崩壊も甚だしいニュースをスッパ抜かれたりしている.
そういう不満が積もり積もって,
「国連軍は盗賊を追い払えもしない役立たずだ!」
と住人の不満が爆発し,逆に襲われそうになる事もしばしば.
<対立図>
FDLR
||
MONUC = 政府軍 ⇔ CNDP
||
マイマイ
⇔:敵対
=:共闘,同盟
※ただし,盗賊化した末端のFDLR兵などから住民を守るためにMONUCが地域をパトロールをしなければならない他,MONUC自体が少女買春を行っているなど現地はカオスっている.
北には真性基地外・LRA
東には普通のアフリカンな反政府軍・CNDP
そして普通のアフリカンな政府派民兵組織
アフリカクオリティ全開の寄せ集め政府軍
流石にコンゴ人が哀れになってきた.
北スーダン-南ア国境を結ぶ線のカオスっぷりは,アフリカの真髄だな.
301: 名無し三等兵 [sage] 2008/11/14(金) 19:16:42 ID:???
CNDP…ヒャッハー
FDLR.…ヒャッハー
マイマイ…ヒャッハー
政府軍…ヒャッハー
MONUC…ヒャッハー
302: 名無し三等兵 [sage] 2008/11/14(金) 19:17:41 ID:???
>299
わかりやすい説明乙.
303: 名無し三等兵 [sage] 2008/11/14(金) 19:22:13 ID:???
>301
超わかりやすい説明乙.
304: 名無し三等兵 [sage] 2008/11/14(金) 19:25:41 ID:???
>301
間違ってないから困る.
305: 名無し三等兵 [sage] 2008/11/14(金) 19:30:04 ID:???
アメリカよりも自由な国だな.
306: 名無し三等兵 [sage] 2008/11/14(金) 19:33:22 ID:???
スーパーフリーダムですね.
わかります.
てか,「LRA」ってウガンダの反政府勢力か.
神の抵抗軍(LRA:Lord’s Resistance Army)ってまた…
しかもコンゴの民兵組織と合流してるのか…
カオスってるなぁ…
307: 名無し三等兵 [sage] 2008/11/14(金) 19:42:14 ID:???
>301
だいたい合ってる.
308: 名無し三等兵 [sage] 2008/11/14(金) 19:47:16 ID:???
>301
…こまったもんだ.
309: 名無し三等兵 [sage] 2008/11/14(金) 20:07:29 ID:???
>301
これほど適切な解説文は初めてだ!
310: 名無し三等兵 [sage] 2008/11/14(金) 20:48:43 ID:???
>301
なんだろう,この気持ち.
軍事板
青文字:加筆改修部分
あながち間違っていないから困る.
アフリカ諸国に未来はあるのかないのか・・・
CRS@空挺軍 in mixi,2008年11月14日20:56
コンゴ内戦
(画像掲示板より引用)
◆チャド
【質問】
なぜ2006年4月頃からチャド内戦が激化しているのか?
【回答】
5月3日の大統領選を睨んでの戦闘激化である模様.
13日の共同電が,アフリカのチャドからの報道として以下のようなことを伝えています.
・内戦が激化している
・5月3日の大統領選を控えて戦闘が激しくなっている模様
・反政府勢力は13日,首都近郊まではじめて進出した
・反政府勢力の名前は「民主的変化のための共同戦線(FUC)」
・FUCは8つの反政府勢力による共同戦線といわれる
・FUCは,スーダン西部のダルフール地方,中央アフリカの拠点から進撃をは
じめている
・FUCの首都への進撃ルートは3方向あるらしい(未確認)
・旧宗主国フランスは,駐留部隊を増強し政権の支援に当たっている
・仏軍の増強規模は150,駐留部隊規模は1250
チャドはアフリカ中部の内陸国で,1960年にフランスから独立.
現大統領のデビ氏は,90年に亡命先のスーダンから進撃してクーデタを起こし政権を奪取.大統領に就任.
96年に大統領選挙で当選し,01年に再選されている.
任期は5年で今年選挙がある.
【質問】
ビラオ紛争とは?
【回答】
中央アフリカの町,ビラオが2006/10/30,ダルフールから越境してきたとされる反政府勢力に占領されたことで始まった紛争.
それ以前にもチャドはスーダンからの空爆を受けた,と主張しているが,これには疑問符も付いている.
中央アフリカは国連にPKF派遣を要請している.
以下引用.
スーダンが越境爆撃と非難 4カ村に被害とチャド政府
【アルジャジーラ特約28日】チャドのドゥムゴル通信・文化相兼政府報道官は28日,スーダン軍の空軍機が西部ダルフールに接するチャド領空を侵犯,4カ村を爆撃したと非難した.
これに対し,スーダン政府は同日,爆撃の事実はないとし,チャド側の主張を否定したほか,民間の人権団体もチャド側の主張に疑問を投げている.
同報道官は「スーダン空軍機はチャドのバハル,ティネ,カリヤニ,バミナの4カ村を空爆した」との声明を発表した.
その中で同報道官は,チャド政府は今回の事態に対し,アフリカ連合,国連などを通じて,罪もないチャド国民に加えられた爆撃の責任を問い,事態の再発を防ぐとも主張した.
さらに,「スーダンによるこの新たな侵略行為に対し,わが軍は国防に向けてその責任を果たす覚悟だ」と強調した.
しかし,同報道官はこの爆撃での具体的な死傷者数には触れていない.
これに対しスーダン政府外務省のサデック報道官は「チャドの主張は根拠を欠いている.チャド国境付近には空軍機を配備していない.チャドと緊張を高める意図は全くない.どうしてそのような主張をするのか,戸惑っている」と述べ,チャド側の主張を全面否定した.
チャドの首都ヌジャメナで活動する人権組織の関係者は,ドゥムゴル通信・文化相兼政府報道官の主張している「爆撃」を確認できないと明らかにした.
また,別の非政府組織も「チャド政府が主張する地区にはわれわれのメンバーが活動しているが,何も起きていないとの報告を受けている」と話していた.
チャド政府は,スーダン側が民兵組織を支援し,イドリス・デビ・チャド大統領を倒そうと画策していると非難し続けている.
一方,スーダン側は,チャド政府がスーダン西部ダルフールの反政府組織に対し避難所を提供していると反論している.
(翻訳・ベリタ通信=志岐隆司)
国際平和維持軍の派遣を要請 反政府活動活発化の中央アフリカ
【アルジャジーラ特約3日】アフリカ大陸で赤道のすぐ北に位置する中央アフリカは2日,同国北東部の都市が反政府勢力に占領されたとして,同国境地帯に国際平和維持軍の派遣を要請した.
中央アフリカ政府報道官によると,この反政府勢力は10月30日,紛争の続くスーダン西部ダルフールから越境し,中央アフリカ北東部のビラオを制圧,占領したという.
しかし,同報道官は政府側が今回の状況に対し,どう対応するかなどの具体的な方針は示さなかった.
スーダン政府は1日,中央アフリカ政府側の主張を否定した.
このため事態を重視したボジゼ大統領は2日,訪問先の中国・北京から急きょ帰国の途に就いた.
首都バンギの北東約800キロにあるビラオを占領した反政府勢力側は,権力分割に向けた交渉を開くよう政府に求めるとともに,政府軍側による反攻の可能性にも警戒を強めている.
同勢力のサボネ報道担当は「我々はビラオを占領している.政府に求めるのは権力割譲に向けた話し合いだ」と主張している.
中央政府は1960年8月にフランスから独立したが,政治が安定しないこともあり,国民の間では今も「世界最貧国」の生活水準が続いている.
また,中央アフリカ政府によると,旧宗主国フランスや北部の隣国チャドは同政府支持の姿勢を明らかにしているという.
と同時に中央アフリカ政府は,国際社会からのより確実な支援が必要とし,紛争地域に平和維持軍を派遣するよう求めている.チャドも同国反政府勢力をスーダン側が支援していると非難している.
一方,国連機関および国際救援組織などは,反政府勢力側が占領したビラオ地区で,住民らへの支援活動を既に開始している.
〔略〕
(翻訳・ベリタ通信=志岐隆司)
ぐずぐずと長引きそうな悪寒.
【質問】
チャドが外資石油会社を追放したのは何故か?
【回答】
デビ大統領は8月26日,チャドの石油生産を担っている大手石油会社3つのうち,米のシェブロンとマレーシアの国営ペトロナス関係者に対し,国外退去を命じました.理由は「法人税の不払い」です.
残ったエクソンと,現在設立準備中のチャド国営石油会社が今後の石油生産を行なうそうです.
⇒チャドでは2003年に石油生産が開始されていましたが,分け前が少ないということで,チャド政府はこれまでも不満を示していたそうです.
なんだか,金の分配で仲間割れした強盗団のようですね(笑).
ダルフールの混乱と関連していると見られますが,同国南東部では,反政府勢力が和平合意のあとも活発に活動を続けています.
ダルフールからの大量の難民流入(数十万人といわれる)への対処にも,政府は大層困っているらしいです.
旧宗主国のフランスが軍を展開させていますが,焼け石に水のようです.
フランスは,レバノンへの部隊派遣でごたごたしていましたが,こちらの件があるからなんでしょうね.
【質問】
チャド平和維持軍とは?
【回答】
スーダン西部ダルフール地方で国境を接するチャドに対し,EUは平和維持軍を展開するようです.
2008/1/11金曜日にブリュッセルで行なわれた会議で,ヘリと医療機器の不足という問題にけりをつけました.
何ヶ月にもわたりEUは,平和維持任務をチャドで展開するに十分な資材の手当てに苦労していました.
しかしついに金曜日,ブリュッセルで行なわれた軍事担当者の会合で
「軍の協力による資材不足解決」
という形でけりがつき,各国は派遣に同意しました.
今月中に展開するようです.
派遣部隊は昨年10月にチャド東部に入る予定でしたが,ヘリコプターと医療機器の不足により,見合わされています.
イタリアが医療面を担当することになりましたが,最後まで駄々をこねていたフランスは,金曜日の会合でついに必須の航空機の大部分の提供に同意しました.
4,000人のEU部隊がおよそ400,000人の難民(スーダンのダルフール地域からがほとんど)を保護するために派遣され,任務に当たります.
しかしEU部隊と多くのチャド人は,チャド・スーダン両国の反乱軍からの攻撃に直面することとなります.
フランスは軍隊(合計3,600)の大半を提供し,1月29日までに現地で任務に当たることとなっています.
派遣部隊は,アイルランドのナッシュ中将の指揮下に入ります.
アイルランドは精鋭の陸軍レンジャー50単位を含む400名を拠出し,オランダとポーランドなども含めた計14カ国が兵士を送ります.
ロイターによれば,
「我々がアフリカで始める作戦は,これまでで最も多国籍からなります」
と,EU外交官は言っているそうです.
EU指揮官は高価なヘリコプターを提供するよう,加盟国を説得するのに苦労したようです.
ヘリはチャドの厳しい地形を考えた場合不可欠な兵器です.
アイルランドのオディ国防相は,フランスがその貢献に同意したあとで,現地部隊に任務継続命令が下令されたと金曜日に確認しています.
「予想より長くかかったが結局成功した」
と,オディ国防相は述べています.
可能な限り任務を安全に遂行するため必要な装備のすべてを得るまでは,軍を関与させないとするナッシュ中将と,同国防相の意思は完全に合致していたようです.
オディ国防相は金曜日にダブリンで,アイルランドは,現地の反政府勢力が国連平和維持軍に対して,「めくら撃ち」をすることに懸念を持つ,と口にしています.
「現地の反政府武装勢力が,植民地として関わりがあるフランスと国連部隊を同一視することが危険である.
我々が現地に向かう目的のひとつは,明白なる国連部隊の一員としてのものである.
我々は平和を維持するために現地にいるわけで,いかなる植民地的意図を支援するものではない」
⇒欧州諸国は口ではキレイゴトを言いますが,どこも国連を信用していませんね.
これは米やロシアよりも徹底しているかもしれません.
今回の発言も,結局過去の植民地支配という負の遺産を打ち消すための「錦の御旗」にすぎません.
真の意図は,EUの現体制を護るためには,叶う限り前線に進出して火消しを行い,「EU」というプレゼンスを発揮しておく必要があるからです.
欧州諸国の歴史とわが国の歴史は全く異なっており,彼らの表面的な言葉を鵜呑みにする愚だけは避けたいものですね.
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