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「MURAJIの戯れ言」◆(2010/05/24)貨幣に見る中国の歴史

「Togetter」◆(2011/04/29)芝村裕吏さんによる解説「隋(国家)の寿命はなぜ縮んだ」

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「VOR」◆(2012/06/17)万里の長城 考えられていたよりも2.4倍長かった

朝目新聞」●毛沢東がいつのまにかイケメンに・・・   (of アルファルファモザイク)

「あんそく」:やる夫が五胡十六国時代の覇者になるようです 【序章】

「あんそく」:やる夫が五胡十六国時代の覇者になるようです 【第1話,第2話】

「あんそく」:やる夫が五胡十六国時代の覇者になるようです 【第3話】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第一話 【仕官】 その1

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第一話 【仕官】 その2

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第二話 【家族】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第三話 【流星】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第四話 【兄弟】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第五話 【戴冠】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第六話 【再会】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第七話 【来訪】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第八話 【進軍】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第九話 【離別】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第十話 【転機】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第十一話 【初陣】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第十二話 【誤解】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第十三話 【亀裂】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第十四話 【覚醒】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第十五話 【虎狼】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 総集編 【幕間】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第十六話 【意地】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第十七話 【刺客】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第十八話 【開戦】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第十九話 【英雄】

『西太后』(加藤徹著,中公新書,2005.9)

「それにつけても金のほしさよ」◆やる夫が李斯なようです

「大陸浪人のススメ」:中共の建国以降に帝位についた皇帝たちを挙げたいと思う

「大陸浪人のススメ」◆(2011/02/15)幻の都・パンサン ―謎の中国もどき政権に関する解説―

謎の世界史(中国史)

中国史人物事典

『中国文化大革命の大宣伝 上』(草森紳一著,芸術新聞社,2009.5)
『中国文化大革命の大宣伝 下』(草森紳一著,芸術新聞社,2009.5)

「時は来た!それだけだ」◆(2010/05/02)櫻井よしこ 「歴史上,日本は中国に負けたことがない.日本人の方が勇敢である」

「何かを斬る」:清と中国の関係

原田実 in twitter (2012/07/20)◆
 宦官で色目人の手柄は国の恥ということで,著書まで焼き捨てられたのに.
@yamamoet 最近の中国人は海に関心を持ち鄭和を持ち上げるけど,彼がイスラム教徒だって知らないのだろうか?
 インド洋圏を千年に渡って支配してたのはイスラム教徒であって,決して中国人じゃない^^;

「北京東京趣聞博客(ぺきん・とうきょうこねたぶろぐ)」◆(2010/06/16)ウーアルカイシ氏の望郷

「山形浩生 の「経済のトリセツ」」◆(2010/05/15)竹内実『毛沢東』(岩波新書)

●三国志

「D.B.E. ミニ型」「三国志」の英雄・曹操の墓発見…中国テレビ報道
>中国だからどうか… などという偏見混じりで見たものの,結構マジっぽい感じ?

D.B.E. ミニ型」:諸葛亮

D.B.E. ミニ型」:中国で銃器約188万丁など押収
>押収したのは,このほか軍用銃弾385万発,雷管1317万個,放射性物質2176個など

D.B.E.三二型」:【三国志】もしも馬謖が 松岡修造だったら 【泣いて馬謖を斬る】

D.B.E. ミニ型」(2010/10/16)◆(情報元everything is gone) 横山三国志の「むむむ」を全て集めてみた

「SLPY」:曹操喫茶って絶対売れると思うんだ・・・

「SLPY」:特攻の拓風に三国志を語るスレ

「VIPワイドガイド」:りょ・・・・・呂布だー!!呂布が出たぞー!!!!うわー!!」

「朝目新聞」関係ないAAに三国志の台詞を喋らせるスレ  (of SLPY)

朝目新聞」●日中で違う三国志についての認識 曹操編  (of 「日中文化交流」と書いてオタ活動と読む /by D.B.E三二型)

朝目新聞」(2010/09/30)●暇だから孔明ん家と赤壁行ってきた

「おはようwwwお前らwwwwwwww 」:三国志の時代に2ちゃんがあったら立ちそうなスレ

「戦国・三国ちゃんねる」:実は三国志で一騎打ちなんてやってないんだよバ〜カ

「メガとんトラック」◆(2010.2.21)「日中文化交流」と書いてオタ活動と読む:日中で違う三国志についての認識 呂布編 - livedoor Blog(ブログ)

●書籍

『五胡十六国〔新訂版〕』(三崎良章著,東方書店,2012/11)

『文字の大陸 汚穢の都 明治人清国見聞録』(草森紳一著,大修館書店,2010.4)

『私は「毛主席の小戦士」だった―ある中国人哲学者の告白』(石平著,飛鳥新社,2006.10)

 失意を抱いて留学した日本で彼が出会ったものは,祖国から消えうせた「論語」であり,「礼節」であり,「江南の春」の風景であった.
 自分たちがゴミのように投げ捨てたものが,日本には息づいていた・・・.
 共産党政権に洗脳され,騙され続けた知識人の慟哭と,祖国への決別の手記.

 著者は哲学者です.
 岡崎久彦さんの紹介を通じて知った本ですが,そのご指摘どおり,著者の日本理解の深さは刮目すべきものです.

――――――おきらく軍事研究会,平成18年(2006年)12月18日

●天安門事件

「Military Photos」:Tiananmen 4th June 1989
 天安門事件の写真.グロ注意.

「YouTube」:天安門事件 1/3
「YouTube」:天安門事件 2/3
「YouTube」:天安門事件 3/3

「古森義久」:天安門事件の大虐殺をアメリカ政府は当初から把握していた

「古森義久」:天安門事件の真相は――装甲車がデモ隊をひき潰した

「古森義久」:「なぜ中国人が中国人を撃つのか」――天安門事件の目撃証言から

「古森義久」:額の真ん中に銃弾を受けた――天安門事件のアメリカ政府報告(4)

「古森義久」:人民解放軍は機関銃の激しい射撃を続けた――天安門事件報告(完)

「大陸浪人のススメ」:北京の20歳前後の連中に天安門の話を聞いてみた

「大陸浪人のススメ」:中国の30代「俺,天安門事件のときに小学生だったんだけどさ」

●劉暁波ノーベル平和賞受賞

「D.B.E. ミニ型」(2010/09/29)劉氏受賞阻止狙い,中国次官がノーベル委に圧力?

D.B.E. ミニ型」(2010/10/10)(情報元;移譲記章) 平和賞,規制くぐってネット上に歓喜の書き込み 反発も

「Togetter」◆(2010/10/08)劉暁波氏ノーベル平和賞受賞,中国側の様子&日本のチャイナウォッチャーTL(追えた分のみ)

「ストパン」■(2008-12-12)[にゅーす]中国の知識人,民主化を掲げた「08憲章」を発表

「スパイ&テロ」◆(2010/10/10)中国民主化運動家がノーベル平和賞

「大陸浪人のススメ」◆(2010/10/09)劉暁波,ノーベル平和賞受賞と「中国の分裂」

「大陸浪人のススメ」◆(2010/10/14)中国女子「ノーベル賞のお礼に万博ノルウェー館に献花してくるわw」→「おや,ホテルに公安が…」


 【質問】
 中国史にどうやって面白さを見出せばいいのか教えてください.

 【回答】
「また反乱で王朝潰れてるよプギャーwwwwwwwwwwww」
な感じで.

世界史板


 【質問】
 中国の王朝名が多すぎて覚えきれません.どうしたらいいですか?

 【回答】
 歌に乗せて覚えるのが楽.

殷周秦漢
三国晋南(北朝)
隋唐五代(十国)
宋元明清
中華民国(中華人民)共和国

夏殷周春秋戦国秦前漢新後漢三国晋南北朝隋唐
五代十国宋元明清中華民国中華人民共和国

殷周 東周 春秋戦国 秦 前漢 新 後漢
ア ル プ ス 一万尺 こ  やり の 上で

魏 蜀 呉  西晋 東晋  宋 斉 梁 陳 隋(南朝)
ア ル ペン 踊  り を  さ ぁ  お ど  り  ましょ

五胡十六  北魏 東魏 西魏 北斉 北周(北朝)
ラーラ ラ ラ  ララ  ララ  ラーラ ララ  ラララ

隋 唐 五代十国 宋 金 南宋 元 明 清
ラーラ   ラ ラララ   ラ ラ  ラーラ ラ  ラ  ラ

(世界史板)


画像引用元:「海月の時間」


 【質問】
 わが国では,在位中の天皇に元号付けて呼ぶのはタブーとなっており,国民は,今上と添えてと呼ぶようになっています(注:この議論がしたい訳ではない)が,中国では(特に明〜清)在位中の皇帝は,どう呼ばれていたのでしょうか?
 やはり,諱なのでしょうか?

 【回答】
 昔の中国王朝で皇帝の諱を呼ぶなんて,とんでもない不敬.
 へたすりゃ,それだけで首がとびかねない.

 現代日本だって,たとえば,ある会社の社長が鈴木一郎という名前だったとして,平社員がその社長を「一郎」って呼んだら,場合にもよるけど普通は失礼にあたるでしょ?
 普通は役職で「社長」と呼んだり,「鈴木社長」って呼ぶよね.
 「一郎」って呼んでいいのは,親や親友など,目上か少なくとも対等で,かつ非常に親しい人だけだ.

 それと同じで,というか,それ以上に,昔の中国で大の大人を諱で呼ぶのは失礼なことで,そんなことをしても許されるのは,親とか目上の親族とか師とか,とにかく親しくて目上の人だけ.
 さっきの例で「社長」と呼ぶように,高い地位の役職のある人は,その役職で呼ぶのが無難.
 だから皇帝は「皇帝陛下」とか「天子」と呼ぶ.
 天皇とか皇帝というのは,原則としてその国にただ1人の存在(南北朝時代とかの例外はあるけど)だから,陛下とか天子と言えばそれで通じる.

 ただ,故人の皇帝は複数いるので,故人の天皇や皇帝はただ天子と言うと誰のことだかわからないので,死後には彼らを区別するために名前をつける必要がある.
 つまり,それが「煬帝」とか「昭和天皇」などの諡号.
 これは死んだ後につけられる名前だから,まだ生きている皇帝や天皇をたとえば「平成天皇」などと呼ぶのは,もう死んだものとして扱っていることになり,とても失礼な行為なわけ.
 おわかりかな?

世界史板,2010/02/20(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 中国の軍隊に関する質問なんだけど
(1) 日本やヨーロッパのように5〜6メートルの長柄の歩兵密集陣はなかったのか?
(2) 常に遊牧民による侵攻に頭を悩ませているイメージがあるのだけど,対騎兵用の編成は生まれなかったのか?
(3) 遊牧民系の王朝は騎兵が中心となるのだろうけど,非遊牧民系のそれは歩兵が中心ということはあったのか?
 実際の中国はどんなんだったのかなー,と「レッドクリフ」見ながら思ったもので.

 【回答】
(1)  向こうじゃそのくらいの長さの槍矛類は珍しいものではなかったので,あるにはあったが.特筆されるようなものでも無かったのだろう.

 創作だが,「水滸伝」には鈎鎌槍という特殊武器で,宋の重装騎馬隊を撃破した話があるな.
http://j.peopledaily.com.cn/2003/12/17/jp20031217_35039.html

 また,16世紀半ばの福州での記録だそうだが,

――――――
フアン・ゴンザレス・デ・メンドーサ 『シナ大王国史』 第二部第一巻

 ビレイ(巡撫)はこの日からエスパニャ人たちに何度か見物に出かけることを許可し,そして一行を 特別に歓待することを部下に命じた.
 そのひとつは,月の初めの何日かにわたって,全国内でいっせいにおこなわれる習慣になっている,閲兵の儀式に一行を連れて行ったことで,これはまことにたいへんな見ものであった.

 この閲兵は市の城壁に接している広場で,次のようにしておこなわれた.
 およそ二万名の槍兵(ピケーロ)と火縄銃手(アルカブセーロ)が,ラッパと太鼓の音にあわせて,じつに機敏に行動した.
 まず,合図と同時に進軍隊形をつくり,つぎの合図では密集隊形となり,そのつぎの合図では火縄銃隊が本隊から散開して,整然と射撃をおこない,ふたたびもとの位置にもどった.
 これが終了すると槍隊が散開して,まことに巧妙に目標に襲いかかった.

 その有様を見てエスパニャ人たちは,この軍隊が世界のどの軍隊よりも優秀であり,もしもかれらの士気が旺盛で,その訓練と兵員数と同様に優っているならば,容易に全世界を征服することができるであろう,と思ったほどである.
――――――

 しかし火器をもたぬ歩兵軍が,騎馬遊牧民の軍隊とオープンスペースで正面からやりあっても,まず勝ち目はない.
 それゆえ万里長城などの途方もない防衛警戒システムを,国家予算を傾けてまで維持したり,内部分裂しがちな遊牧民の一派を,漢土に帰服させたりと,涙ぐましい努力を二千年も重ねてきた.
 それでもやられる時はやられちゃうんですけどね.

(2)  戚継光や孫承宗の編成がそれに当たるかな?
 しかしそれ以前に,小競り合い程度ならともかく,遊牧民のみで構成された軍と戦うようなケースのほうが稀で,たいていは中原の国と遊牧民が手を組んでたり,片方がもう片方を従えてたりってケースの方が多いはず.

 黄仁宇『万暦十五年』に紹介されてた戚継光の対モンゴルの軍編成.

――――――
 敵を迎え撃つ時は,騎兵が前方で敵軍を阻み,戦車が戦闘隊形をつくるに十分な時間を稼ぐ.
 そして敵軍が接近してくると,騎兵は戦車隊の中へ退却する.
 敵の騎兵が百騎以下の場合,この混成旅団はがんとして交戦しない.
 大軍の敵騎兵が襲撃してきて,火器の射程の中およそ二百五十尺以内に入った時に初めて,仏朗機・鳥銃・「火箭」などの一斉射撃を加える.

 火器がその威力を発揮したあとは,歩兵が戦車の後ろから跳び出し,肉弾戦の波状攻撃を加える.
 その際,ラッパの音で歩調が合うよう指揮をとる.
 敵の攻勢が挫かれ,その隊形が乱れ始めると,騎兵も全員,戦車の後ろから出撃する.
 この騎兵は,事実上むしろ馬上の歩兵とも言うべく,地上の歩兵と同様,鴛鴦陣の隊形をとり,さまざまな武器を手に戦う.
 隊伍を組んで突撃し,烈しく迅速に相手を圧倒するモンゴルの騎兵戦法を,戚継光は真似しなかった.
――――――

 ここでの戦車ってのは「車輪付きの大楯」.
 フス派の戦車と似たようなもん.

 ちなみに紹介しといてなんですが,この史料は鵜呑みにするのはちょっとどうかなと思ってます(笑)

(3)  どちらもそんなことはない.
 外来の王朝とみなされるであろう元や清も 多数の歩兵を内包していたし,唐や宋も多数の騎兵を擁していた.
 どちらが中心となるかは,華北と華南どちらに勢力を持っていたかが,分かれ目になると思う.

世界史板,2009/04/13(月)
青文字:加筆改修部分


 【珍説】
「時は来た!それだけだ」◆(2010/05/02)櫻井よしこ 「歴史上,日本は中国に負けたことがない.日本人の方が勇敢である」
http://tokihakita.blog91.fc2.com/blog-entry-1344.html

 【事実】
 ν速民にまで引かれてるやん.

2010年05月04日 03:37,HASU

 美式中国軍がアップを始めたようです.

2010年05月04日 02:15,島の人

 今,天智天皇が顔を真っ赤にして走っていったんだが.

2010年05月04日 08:09,ゆずこせう

 あの〜,白村江で,既に負けてるんですけど.

2010年05月04日 16:06,鉄底海峡

>白村江

 それは『唐』だから違う「中国」じゃない,って言い出しそう.

 さてー,じゃあ,「中国」との対戦成績は,っと.

対中華民国

⇒第二次大戦で負けた.
 降伏文書に中華民国代表の署名があるのは,まるっと無視ですかい……

対中華人民共和国

⇒対戦歴無し.

 ダメジャン.他に「中国」って国はありましたっけ?

2010年05月04日,ゆきかぜまる

>ゆきかぜまるさん

 櫻井よしこ曰く,

> あの時は米国に負けたのであって,中国には歴史上負けたことがない

だそうです.
 ポツダム宣言受諾して降伏したのに,そのポツダム宣言はどの国が出したのかとか,ミズーリ号で降伏文書に調印したときどの国の代表がいたとか,負けてないなら蒋介石が,発生しないはずの対日賠償をなんで放棄できたのか,とかさっぱり説明つきませんけどね(笑)

 ついでに言うと,さすがのよし子さんも日中戦争に「勝った」とは言えないみたいですから,それで清朝以前の王朝を「中国じゃない」と規定すると,中国も日本に負けたことがないことになるんですよね(笑)

2010年05月04日 19:32,HASU

 クライン孝子ファンの僕としては,櫻井さんの人気ぶりに激しく嫉妬しています.

>国民党との戦いは連戦連勝でしたし,人民解放軍は日本軍を見て逃げていきました.

・・・八路軍ってならともかく.

2010年05月04日 20:14,ぴぴ

>人民解放軍

 なるほど,60年余前にタイムスリップした人民解放軍と旧軍が(ry

2010年05月04日 20:18,島の人

 国民党軍は士気が低かったと言われてますが,地方の軍閥の中には士気旺盛で勇敢なとこも有りましたし,八路軍の場合は,へたれだから逃げていたのでは無い訳でして.
 櫻井さんみたいな人が指揮官になったら大変だと思う.

2010年05月04日 20:50,遠吠犬

「戦争は負けたと思ったほうが負けなのだ」

 つじ〜んのくせにいいこと言う.
 うう悔しいビクンビクン.

2010年05月04日 21:14,ゆずこせう

以上,「軍事板常見問題 mixi別館」より
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 『史記』ってまるで見てきたように書いてあるけど,春秋戦国時代の記事なんて司馬遷から600〜400年ぐらい前の話でしょ?
 紙もなかった時代に,どうやってあんなに資料を集めたの?
 実は司馬遷の作り話が多いのでは?

 【回答】
 左氏伝もあれば戦国策,その他いろいろ参考文献が存在してるし,司馬遷は諸国を巡って裏付け調査を行ってるんだがな.
 甲骨文が解読される以前は妄想だと思われてた殷代の記事でも,王の系譜が史記の通りだったことが分かったりもしている.

 第一,司馬遷の作り話ってどんだけ不信感抱いてるんだよ.
 しかもどんだけ紙に拘ってんだよ.
 後漢代に紙が発明されるまで,中華では記録はなされて無かったとでも言いたいのか?
 既に出てるが記録する素材は竹簡,木簡,場合によっては絹や石碑とかもあるんだが・・・

 春秋戦国どころか神代のエピソードまで書いてあるけど,
「史料にこうあるが信用できない」
とか,
「この神話はいろんなところに類型があるから,真実じゃないにしても何らかの歴史的背景があるのかもしれない」
とか評価を書いてる.
 とても2千年以上前の人間とは思えないよ.



166 :世界@名無史さん :2009/01/07(水) 23:39:54 0

 司馬遷はその後も孜々として書き続けた.
 この世に生きることをやめた彼は,書中の人物としてのみ活きていた.
 現実の生活ではふたたび開かれることのなくなった彼の口が,魯仲連の舌端を借りてはじめて烈々と火を噴くのである.
 あるいは伍子胥となって己が眼を抉らしめ,あるいは藺相如となって秦王を叱し,あるいは太子丹となって泣いて荊軻を送った.
 楚の屈原の鬱憤を叙して,そのまさに汨羅に身を投ぜんとして作るところの懐沙之賦を長々と引用したとき,司馬遷にはその賦がどうしても,己自身の作品のごとき気がしてしかたがなかった.

中島敦 『李陵』 より

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 司馬穰苴って誰?

 【回答】
 司馬穰苴(しば・じょうしょ)は中国春秋時代の斉の国の将軍.
 生没年不詳.
 姓は?,氏は田,諱は穰苴.
 斉の景公(BC547-490)に仕えて大司馬となったことから,司馬氏を称した.

 名宰相晏嬰の推薦により,景公に登用された.
 当時の斉は晋と燕により攻められ,領土を奪われ,景公はこれを何とかしたいと思っていたからである.

 出師前,彼は遅刻した監軍・荘賈を処刑しようとする.
 それを知った景公は使者を出して,公の腹心であった荘賈の助命を命ずるが,このとき穰苴が述べたのが,後世に伝わる有名な言葉,
「将,軍に在っては,君令も受けざる所有り」
(将が軍中にいる時は,たとえ主君の命令であろうとも受けない事がある)
 彼は処刑を実行させ,これにより軍規が厳正になったという.

 司馬穰苴は,軍中にあって,「仁を根本とし,仁によって勝つ」を実践した.
 すなわち,
常に兵士と行動し,
兵士と同じ宿舎で眠り,
将軍用の兵糧や物資は全て兵士に分け与え,
食事も兵士と同じものを食べ,
井戸や竃の管理を自ら行い,
病気の者を見舞って薬を与え,
弱い者にも優しく接する
と言うものであった.
 その結果,司馬穰苴は全将兵に信頼され,病人までもが出陣したいと願い出るほどだったという.

 また,彼は戦闘においては,「五慮」の条件を満たすよう配慮した.
 すなわち,
「順天」→有利な天時と時機をつかまねばならず
「阜財」→十分な物資を準備しておかねばならず
「懌衆」→みなぎる士気がなければならず
「利地」→有利な地形を選ばねばならず
「右兵」→優良な兵器を保有して各種の兵器を組み合わせて使用する.
の5つである.

 斉軍が士気旺盛である事を聞いた晋軍は,直接的な戦闘を回避することにして撤退を開始し,燕軍も解散を決めた.
 司馬穰苴はこれを追撃し,失地をすべて回復した.
 なおかつ彼は,首都へ帰り着くまでに武装を解き,軍令も解いて,誓いを行ってから入城した.
 景公は諸大夫を連れて郊外まで出迎え,兵を労い,礼をなし,宮城へ帰り,穰苴を大司馬に任命した.
 こうして田氏は斉においてますます尊敬を集めることとなった.

 しかしその後,司馬穰苴は古くからの貴族である鮑氏,高氏・国子らに讒言を受ける.
 田氏の隆盛を妬んだためである.
 そして司馬穰苴は,讒言を信じた景公に疎んじられ,解任され,その後病気になって死去した.
 中国史ではよく見かける光景である…

 司馬穰苴の無念の死により鮑氏・高氏・国氏を恨んだ田一族は,その後,田常が斉簡公を殺した際に鮑氏・高氏・国氏らも共に抹殺.
 その後,田氏は田因の時代に斉の国権を,建国の祖である太公望呂尚に連なる姫氏より奪いとり,田因は斉威王となり,司馬穰苴の兵法を研究させて「司馬法」の原案を制作した.
 そして田因は,用兵において司馬穰苴の方法を真似たため,諸侯は皆,斉に入朝した.

 同書は全部で百五十五篇あったとされるが,現存するのは『仁本』・『天子之義』・『定爵』・『厳位』・『用衆』の五編のみである.
 司馬遷は『司馬法』を評して
「その内容は広く深く,三代(夏・殷・周)の戦争についてこれほど詳しく書いてあるものは無い」
と書いているが,現在残っている編は残念ながら兵法そのものより,戦争に於ける儀礼的なことを書いた部分が多い.

 【参考ページ】
http://dic.nicovideo.jp/a/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E7%A9%B0%E8%8B%B4
http://juei.kakurezato.com/t-shibajousyo.html
http://www.geocities.jp/sei_taikou/shibajousyo.html
http://kanpihistory.blog.fc2.com/blog-category-22.html


 【質問】
 殷や周の時代の武将が,戦いの最中使ったことになっている幻術の正体って,何なんでしょう?
 催眠術の類ですかね?

 【回答】
 当時の社会は,当たり前ながら非常に宗教色が強い.
 国王や将軍といった人々は,同時に部族の神官でもあり,彼らにとっての戦争とは,現実の世界で人々が闘争するのみならず,神々の世界で互いの部族の神同士が争う,一種の宗教的儀式に近いものだった.
 もちろん,当時の人間だってホモサピエンスでしかないし,神様なんて実在する証拠は(今と同じく)ない.
 しかし,あくまで当時の人々は,常識以前の問題で神々と奇跡を信じていたし,君主の神聖性も信じていたので,そういう意味で,彼らの現実認識が現実以外のものを見せてしまった,ということはありえるかも.

世界史板


 【質問】
 孫ピンの兵法書と孫武の兵法書(孫子の兵法)との,それぞれの特徴や差異などあったら教えてください.

 【回答】
 簡単に比較すると

 孫武
「兵は神速を尊ぶ」「兵は詭道なり」など,精錬された言葉で軍事の基本を簡潔に表す

 孫ピン
「防塁が出来る前に敵に攻められたらまずマキビシをまき,馬車や盾で仮の防塁をたて,長槍兵,短槍兵,剣兵,弓兵の順に並べて・・・」
など,かなり具体的で実戦的に書かれてる.
 また,孫武と違って迷信的なことも書かれてるのも大きな差異.
 さらっと流し読みした感じでは,風水や五行説に基づいた兵の運用を書いた書物,という感じ.
 現代日本人が読んでも理解できない部分は多いかも.
 もっとも,その書物が書かれた時代の人間は,そういった事象に行動を左右されていたのは確かなのだから,無意味なものだったとは思わないけど.(現代でも,占いとかそういうものに行動を左右される人間は多いけどね.)
 しかも,現存してるものは1つ(銀雀山の)しかなく,保存状態も良いとは言えない為,虫食い状態で肝心な所が分からない.
 徳間書店から出てるから読んで見てください.

(世界史板)


 【質問】
 古代中国の都市について研究しているんですが,都市を囲ってる城壁ってあるじゃないですか?
 あれって古代はどんな形をしてたんですか?
 現在,南京とかに残っている高さ10メートルぐらいの壁が長方形に何キロも街を囲ってるっていうスタイルは,漢代辺りから変わらないのでしょうか?

 【回答】
 自分の記憶では春秋時代頃には,既に城壁で四角い形に都市を囲っていたと思うよ.
(都市の規模については大から小まで様々)

 一応,四川省成都市郊外にある龍馬古城宝敦遺跡は,長辺110m,短辺600m,高さ7〜8mの長方形の城壁に囲まれた,巨大な遺跡であることが判明している.
(約4500年前に形成されたと言われている)

 また,湖南省の城頭山遺跡も龍馬古城宝敦遺跡と同様に,高い城壁(最大高5m)を持った城塞としであることが分かっている.
 城頭山遺跡は直径360mのほぼ正円の城塞都市で,東西南北に城門があり,周りを環濠に囲まれていた.
 その環濠は現在も西側半分が残っていて,中国の発掘調査で,この城壁の最古の物は今から6300年前に築造されたことが判明している.

 中国の城壁都市の形は,前17世紀のエン師遺跡(商のハク?)で固まった.
 この都市から,東西南北を意識した方形の城壁を築き,碁盤の目の道路網を整備し始めた.

 しかしそれ以前(〜夏)は違う.
 前26〜23世紀の初期の都市は,方角を完全に無視していて,形も楕円形のものすらあった.
 しかも垂直に城壁を築いていたのではない.
 台状に土地を盛り上げて,すり鉢状に凹ませたところを都市にしていた.

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 漢代を初めとして,中国の都市は基本的に超巨大な城砦都市ですよね?
 なのに,なんで超巨大で分厚い城壁がいま残ってないんでしょうか?
 あれだけでかければ漢代どころか春秋時代のもあっていいんじゃないですか?

 【回答】
 城壁なら一部は残ってるが・・・
 超巨大じゃなくても,中国からヨーロッパまでユーラシア大陸では,都市を城壁で囲むのは防御のための基本.
 大きいものからショボいのまでいろいろ.
 「超巨大」とまで言っていいのは秦の咸陽,唐の長安ぐらいじゃないかな.
 どちらも滅んだときに破壊しつくされた.

 近現代に入ると城壁が都市発展を阻害し始めたから,洋の東西を問わず一部を史跡としてのこしたりしつつも,基本的には全部ぶっ壊すのが主流.
 ウィーンとかも近代に入ると,城壁ぶっ潰してる.
 北京のもでかかったけど,近代になって邪魔だから壊した.

 また,春秋〜漢代は板築.
 土をつき固めていく方法で,秦代の万里の長城もこれ.
 都市が放棄されたら土に還(かえ)っていく.
 後にレンガを積んで作るようになった.

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 春秋戦国時代や漢の時代の攻城戦について,漫画とかで見ると
「完全に包囲してる」
とか書いておきながら,包囲中に簡単に外交使節を他国に送ったりしてます.
 一体,あの頃の攻城戦はどんなものだったんですか?

 【回答】
 包囲,といっても城の外周をぐるりと取り巻くようなことはしない.
 せいぜいで,城門前に各部隊を配して交通を遮断.部隊間を哨戒するというのが普通.

 強襲する場合も,城門からそんなに離れた場所を攻めるわけじゃない.
 城門を乗り越えるための攻城装備や衝車,投石器といった城壁の破壊兵器を駆使して,城内に何とか兵の一団を送り込み,城門を中から奪取して開け,本隊を呼び込むというのが普通の攻め方.

 まあ,特殊な攻め方としてはトンネルを掘って,中に兵を送り込もうとしたり,城壁をそこへ落とし込もうとしたり……あとは水攻めに火攻め……

 それと,中世までの中国や欧州,中東で,「城」といった場合,たいていは,「都城」であって,都市一個を丸ごと囲ったもの.
 現存する日本の城だって,ほとんどは天守閣だけが残っているせいでちっぽけに思えるが,実は城下町の中心市街地のほとんどを丸抱えで囲っていた.

 そういった都城をぐるりと,本当の意味で水も漏らさぬように囲い込むのは,中世までの兵隊の動員規模を考えれば,かなり困難.
 まあ,城(都市)の規模にもよるけどね.

包囲中


 【質問】
 質問です.
 中国の春秋戦国時代,燕の侵略を受けた斉は,田単将軍の下,墨城に2年にわたって篭城して反撃,失地をすべて挽回したとありますが,これほど長期間にわたって一城に篭城し,その間も戦力を保つというのは可能なのでしょうか?
 食糧,武具などはすぐに底をついてしまうような気がしますが.
 日本では三木合戦の際に2年間篭城していますが,食糧輸送できずに最後は食糧が尽きて飢え死に寸前となって降伏ですよね.
 その他の篭城作戦はほとんど数ヶ月です.
 何か食糧輸送などの後方支援部隊がいたということなんでしょうか?

 【回答】
 完全包囲ってのは当時の動員数や戦術では難しく,大抵は包囲側の隙を突いて物資の搬入を行っていたりする.
 三木合戦も2年篭城できたのは支城からの支援と,連絡線が保たれていたから.
 それが断たれたから最後は食糧が尽きて,飢え死に寸前となって降伏する事になった.
 日露戦争の旅順要塞でもそんな感じだったから,戦国時代でもそんなもん.

 後,田単の戦いぶりを見ればわかるが,彼は軍の士気の維持に腐心してる.
 当時の篭城戦は武器や兵糧よりも先に,守備側の士気崩壊の方が先に訪れる.

 また,中国の城は,城というより城塞都市で,都市1個を中に囲んでいる.
 そのうえ,長期戦を想定して1年〜数年分の食糧・武器・資材を貯めこんでいる.
 都市だから貯めこんだ資材が尽きるまでは,中で色々な物を作れるし,住民が普段から生活している場だから,日本の城のように城内に避難した領民の居住環境が悪化ということもさほどではない.

軍事板
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 【質問】
 スープが原因で大敗した国について教えてください.

 【回答】
 鄭の隣にあったのが宋という国.
 両国とも小国で,大国の晋と楚の間に挟まれています.
 こうした小国であれば,両国とも連携し合って大国との距離を取って,相手が倒れるのを見ていれば良いのに,何故かどちらも大国の保護を当てにして,相手を蹴落とそうとします.
 結果,宋は晋と,鄭は楚との同盟を結成し,両国は晋と楚の代理戦争を起こす羽目になりました.
 特に,楚の庄王は宋が晋の側に立ったのに腹を立て,鄭に宋を攻撃させることにしました.

 決戦を前に,宋の最高司令官である華元は,部下の士気を奮い立たせる為に,「羊の羮」を振る舞います.
 この羮というのは,米入りのスープで,米を煮ることで澱粉がスープに溶け込み,ポタージュやクラムチャウダー状のものになります.
 ところが,これに有り付けなかった奴がたった1人いました.

 さて,いよいよ出陣の時.

 華元は戦車に乗り込み,意気揚々と部下に出陣命令を下そうとします.
 しかし,戦車を操る御者の羊斟が,「羊の肉を配ることは貴方が仕切ったが,今この戦場では私が仕切る!」と叫ぶや,華元が乗った戦車を敵国である鄭の陣地のど真ん中に突っ込ませました.
 華元は呆気なく捕虜となり,宋は大敗を喫してしまいます.
 『春秋左氏伝』によれば,この戦いで宋が失った戦車は460台にも達したそうです.

 そう,たった1人「羊の羮」に有り付けなかったのは,華元の御者である羊斟だったのです.
 たかが1杯のスープが大敗を呼び込んだ訳で,正に「食い物の恨みは恐ろしい」を地で行く話です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/01/16 22:13


 【質問】
 秦が中国初の統一王朝とか言いますが,なんで統一できたの?

 【回答】
 秦=プロイセンとイメージすれば分かり易いな.
 現在「ドイツ」とイメージされる国を作ったのがプロイセンであるように,現在想起される「中国」という範囲を作ったのが秦.
 国のあり方も成立の仕方,全国の「統一」の経緯も良く似てる.
 両国とももともと非中国,非ドイツでほとんど外国.
 まっとうな中国人ドイツ人とは扱われず,よくて中央の文化地から離れた辺境の野蛮人.

 プロイセンの軍国ぶりとそれを支える軍隊と国家システムは有名だが,秦も国家体制を整備していく過程では富国強兵が主軸.
 人口増加促進,取った首の数で出世が決まる等,プロイセン張りの富国強兵政策を取って強大化した.
 ただでさえ蛮地に入植した状態で,王族自体が西戎出身じゃないかという説があるぐらいで,自民族や軍隊の構成員が,異民族の蛮族出身者である所に,この半文明の野蛮な民族が完全に文明化されず,もとの荒々しさ,野性が温存された状態であるため,軍隊も精強で戦争に強い.
 国の政策もそれに拍車をかけた.

 プロイセンは厳格な法秩序や体制重視,峻厳な社会体制で知られるが,秦もそれに劣らず「体制」バリバリの国家権力がものすごかった,
 人民にとっては重苦しく,しんどい国だった.

 これら「半スラブの野蛮人」「半西戎」が次々にドイツ諸国,中国の諸国を併合していき,それによって逆に中国化,ドイツ化されていき,固有の言語や文化も喪失していったのも似ている.

世界史板


 【質問】
 始皇帝以外の兵馬俑って発見されていないの?
 戦国時代の君主なんて腐るほどいるんだがら,少しぐらい見つかってもいい気が…

 【回答】
 始皇帝の兵馬俑の発見自体が,偶然の産物だからね.
 単に見つかるチャンスが無いだけなんでしよう.

 一応,木製の俑なら陝西省韓城市梁帯村にある周代墓地より発掘されている.
(始皇帝の兵馬俑より500年くらい前の物)

 ちなみに陶俑を副葬品とするのが盛んになるのは秦・漢〜隋唐頃だそうだよ.
 漢〜隋・唐代は王侯の墓に俑を副葬品にするのは普通で,その中には軍隊を表した兵馬俑もある.
 ただ,サイズがかなり小さい.
 「人形」といって丁度いいぐらい.
 等身大のものは今のところ始皇帝のものだけ.

 また,春秋時代には馬を生きたまま副葬品として墓に埋葬していたとの事.

世界史板
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 【質問】
 陳勝・呉広の乱はなぜ大きな叛乱となったんですか?

 【回答】
 当時,秦では労役の召集期限に遅れたら理由に関わらず死刑,というめちゃくちゃ過酷な体制をとっていた.
 陳勝と呉広の率いていた部隊は目的地への途上,水害に遭って,期日に間に合わないことが確実となった.
 二人は「どうせ殺されるなら,戦ってやる」ということで部隊を率いて反乱を起こした.

 それに,陳王の部隊は元六国の民で,元から秦に忠誠も誓ってなければ,秦軍として登用されていたわけでもない.
 それに当時は,国家に対する忠誠心で戦うという概念がほとんどなくて,基本的に直属の将軍に従うという私兵の集まりに近い集団だった.
 陳王も,自分個人への忠誠心を高めるため,いろいろ小細工をしている.

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 【質問】
 中国の反乱の歴史見てるといつも思うんですが,通信設備が未整備の時代に,あれだけでかい国の中で,どうやって反乱に呼応して蜂起したりできるんですか?
 陳勝の乱,黄巾の乱,紅巾の乱,太平天国等々,一斉に蜂起している気がするんですが…

 【回答】
 陳勝・呉広の乱は場合は呼応してる訳じゃなく,単にキッカケに過ぎない.
 元々,不平不満が募っていたから便乗,各地で爆発しただけ.

 大体は発生した周囲のみでまず同調勢力を吸収して,プロパガンダを流して遠くの勢力も同調させるパターンが多いかな.
 陳勝や黄巾,太平天国などどれも一枚岩じゃなくて,混乱を聞きつけた各地の軍閥などの勢力が混乱に乗じて勝手に名乗ることもあるし.

 黄巾の乱,紅巾の乱とかは宗教ネットワークで繋がってたからな.
 檄文飛ばしたり,色々根回ししていた.
 まあ,こちらも勢いに便乗してる勢力も多々いる訳だが.

 つまり,表面上全土で100万人の一斉蜂起!だとしても,内部では反乱のお題目だけ頂戴して好き勝手やってる地方勢力が多いってこと.
 これなら別に反乱軍の首魁が反乱の申し合わせをするわけじゃないので,それほど通信が発達してなくともどうになかる.

 あと,全く通信設備が未整備って訳ではない.
 公的じゃなくても裏社会で結構ネットワークが完成してたりするし,それに少なくとも秦代にはそこそこ通信設備が整っていたはず.
 さすがに華北と華南で同一勢力が呼応して反乱することはない.

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猫の乱

(作・ミリグラム)


 【質問】
 劉邦は朱元章と同様,最下級身分から成り上がった,という記述があったのですが,貧農で家族が餓死し乞食となった朱元章は分かりますが,劉邦は何者ですか?
 唯の農民が,配下を集めて反乱は困難ですよね?
 中華では農民が最低身分なんですか?
 劉邦は『丁長』だかそんな役人という記述も見たのですが,それなら全然最下級じゃないじゃないですか?

 【回答】
 劉邦は豪農.
 唯の農民でも,配下を集めて反乱を混乱時のどさくさまぎれになら起こせる.
(陳勝・呉広の乱)
 他に農民じゃないが,塩の密売人の黄巣や駅夫の李自成も反乱を起こしている.
(黄巣の乱・李自成の乱)

 それと,沛では劉邦は仲間に担ぎ上げられた.
 いざとなったら劉邦に全てなすりつける為.
 亭長は簡単に言えば,町の町内会長レベルの役人で,なる事はそんなに難しくは無い.

 最低身分つーか下層階級の農民から皇帝にまでなった人物は,歴代統一王朝の中で劉邦と朱元章ってだけで,農民より下の身分は存在するし,後趙の石勒のように,奴隷から統一王朝じゃないが皇帝にまで登り詰めた人物も存在する.

世界史板
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 【質問】
 張良は劉邦の配下としてすごく活躍したのに,なぜ彼は劉邦の死後,ショウカやソウサンみたいに出世しなかったのでしょうか?

 【回答】
 保身のためと考えるのが妥当だろう.
 張良は,劉邦や呂后の性格をよくわかっていたし,また,たとえば呉が楚に勝った後に伍子胥がどんな運命を たどったか,越が呉に勝利した後に范蠡どうしたかなどの,歴史知識も当然あった.
 だから彼には,この先,漢王朝創業の功臣達,その中でも特に,後から加わったいわば外様の家臣たちが,やがてどうなるか,容易に予測できた.
 劉邦に疑われたり,呂后に嫌われたりしたら最後だ.
 だから,「狡兎死して走狗にらる」ことにならないよう,先手を打って事実上隠遁し,
「自分は老荘思想に傾倒しているので,世俗的な権力欲はありませんよー,無害な存在ですよー」
とアピールすることで保身した.

 張良は呂雉の複雑さをよく知ってたから,呂雉が自分を頼ってくるように仕向けたとも考えられる.
 呂雉は,蕭何や曹参のような沛県勢力ではないし,張良自体も,韓の新鄭の出身で「親藩」の沛県勢力ではない.
 保身を図るためには,いろいろ考えがあったのかと思うが.

世界史板,2010/05/27(木)
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 【質問】
 殷の時代の中国人は白人っていうのは本当ですか?
 あと漢民族は漢王朝とともに消滅したらしいのですが,今いる連中となにか差異はあるの?

 【回答】
http://sayer.lab.nig.ac.jp/~saitou/japanese/human.html
ここの<第12回春秋戦国時代に欧州人?>って記事のことかな.

 白人も当然居たはず.
 紀元前6000年〜3000年の間に絹の製法という秘匿技術が開発され,その交易があったからね.
 ただ,全員が白人という話ではないでしょ.

 殷の人々は白人かどうかは分からないけど,元々中原の民では無いと言われてるな.
 あと中華は多民族の寄り合い所帯.
 中原と呼ばれる地域に後から後から周りの地域が進攻.
 進攻した側が中原に合併・吸収され,始皇帝統一の時の領域が中華の元となった.
(秦・楚・燕・呉越は元々は外国だった)

 その後さらに他の地域も併合されて,清代には現在の中華人民共和国の領土とほぼ同じ大きさになって行った.
 秦の後を受け長期統一王朝を樹立したから,また塞内に住まう民族を漢民族と呼ぶ様になったと思う.

 しかしこの漢民族と言う括りも,五胡の流入に依り崩壊.
 民族が対立するのは元々,全然関係ない民族の寄り合い所帯なのと,塞外の異民族流入(流入した異民族も多くは漢化して同化するし).
 南船北馬と言う言葉がある様に,地域に依って習慣,風習,食物etcが全然違うからで,しかも力で無理やり抑えて統一しているのが段々と緩んでくるから.

 それに中華の歴史は裏切り,騙し合い,集合離散,破壊と創造の繰り返しだからな.
 寧ろ上手いこと治まってる状態を維持する方が難しい.

世界史板
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▼※
>しかしこの漢民族と言う括りも,五胡の流入に依り崩壊.

という部分は,かなり不足しているものと考えます.
 この回答者は,おそらく,西晋の崩壊時あたりを想定して,「五胡の流入」という表現を使っているものと推察致しますが,この時代,既に匈奴や鮮卑,(テイ)族などはその領域内に漢族と共に居住しておりました.
(テイ)族は「斉万年の乱」を起こしています)
 例えば,太原では匈奴と漢族の混淆が進んでいたことがわかっています.(晋書 匈奴伝)

 晋の江統は,こうした領域内に居住する異民族を,塞外の地に強制移住させ,以て治安の安定を図ろうとしました.これを徙戎論と言います.

http://www.3guozhi.com/zaka2/ss2.html
こちらのサイトで訳されていますが,『關中之人百余萬口,率其少多,戎狄居半』とありますように,その数は無視出来るものではありません.

 つまり,「五胡の流入」と言うよりは,当時,既に晋の領域内に居住していたこれらの民族が,傭兵として八王の乱のときに活躍したり,反乱を起こしたりしたわけです.

●=「低」の右側

名無しルーデル神教教徒 in FAQ BBS,2011/6/9(木) 12:55
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 【質問】
 中国の新(8〜23)の時代に起こった赤眉の乱で,眉を赤く染めたのは自軍と敵軍とを区別するため,漢を表す色の赤を塗った,と本で読みました.
 しかし,後漢のときに起こった黄巾の乱では張角が
「蒼天(漢王朝)すでに死し,黄天(黄巾軍)まさに立つべし」
と唱えています.
 ここでの漢の色の違いはどこから来るのでしょうか?
 おそらく,陰陽五行説からきているのではないかという意見がありますが,よく分かりません.
 どなたかわかりませんか?

 【回答】
 五行における色の対応は, 火:赤 水:黒 金:白 木:青 土:黄

 漢は最初水徳だとしていた.
(三皇五帝→夏→殷→周→秦と続き,秦が永遠に続く…として始皇帝は水徳を名乗った.漢はそれをそのまま継承した)

 後に,この後はまた最初に戻るとされ,それで土徳になった.
 元々の伝説関係の由来から,漢は火徳にもゆかりがあった.
 というわけで,漢王朝が何徳の王朝かは見解が色々ある.

 他方,蒼という字には年老いたという意味があり,黄という字には若いという意味がある.
 張角は新王朝樹立の意思表明をしただけ,という説もあったり.

 ちなみに宋王朝の時には,王朝内部で「宋は何の徳を祭るべきだ」のような議論がなされたりもしてます.
 国の重要な職務とされた祭祀の問題で,それに政治的な意図も加わって色々あったようです.

 また,眉を赤く染めたのは,たまたま赤い染料が大量にあったからで,漢王朝の色とは関係ないと言う話もあるんだけどね.
 もし青や他の色だったら赤眉の乱ではなく,青眉の乱とかと呼ばれていたかも知れない.

世界史板
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 【質問】
 「三舎を避く」って何?

 【回答】
 晋の文公が,城僕の戦いの前に軍を三舎(90里)後退させたという故事からできた言葉.
 晋の文公は亡命中に楚の成王に厚遇され,その返礼として,中原で相対した場合に軍を90里後退(三舎を避け)させるという約束をしていた.
 現在では相手を一目置く,敬遠するという場合に用いられる.
 出典は『春秋左氏伝』.


 【質問】
 古代中国の墨家はあらゆる分野の最新の技術と科学を研究し,依頼があれば誰にでも無償で軍事の指導を行っていたと言われていますが,無償で軍事指導をしていて,どうやって研究費を捻出していたんでしょうか?

 【回答】
 墨家の開祖墨子が工匠であることに象徴されるように,元々墨家は職能氏族の集団(ギルド)をベースとしてできたもの.「墨」が指す本来意味は建築,築城の専門集団と言われてる.「墨」は大工が持つ墨壷(墨糸で線を引くもの)から来ている.
 活動の根源は宗教の例にもれず,信徒等からの寄進・布施が主体だが,質素を旨とする教義形態から,それ程大きな予算は必要ではなかった.
 また,特徴として特に農工業分野での技術指導を行うことで,
信徒の経済的な底上げ→信徒と寄進増
のスパイラルができていた.
 墨家はかなり広大な本拠地(名称失念)を持ち,そこで自給自足していた.
 戦闘部隊から,農耕,薬品,動物や虫を操る専門家までがいたそうな.

 初期の技術的優位性は主に各国・地域の技術を収集・応用することで,中期以降はこれに加えて信徒の優秀な子息を集め育成することによる.
 それと,軍事指導は防衛戦・策に限定されていた.
 但し,末期には兼愛・非攻を実現する為には強力な中央集権体制による統一が必要,として教義を変更し,奏・漢帝國の成立に協力する.
 漫画の「墨攻」は,この中期末〜末期初を描いてる.

軍事板

 なお,漫画の「墨攻」ですが,あれはもともと酒見賢一氏の同名の小説の漫画化です.
 そんで小説版からして作者の創作てんこもり(なにしろかの「後宮小説」の作者ですから)な上に,漫画版はさらに脚色が加えられているので,この作品の名前をあげるのはどうかなあと思ったり.
 いや,抜群に面白いのでぜひ読んでもらいたくはあるのですけれども.

唯野 in mixi支隊


 【質問】
 三国志はそんな詳しくないんだが,演義か正史かで,カトリックとプロテスタントくらいには違うのか?

 【回答】
 『三国志』は,陳寿の著した歴史書.
 司馬遷の史記と同じ様なもので,中国の官製の歴史書.
 俗に『正史』と呼ばれてるのはこっち.

 『三国志演義』は,羅貫中の著した小説作品.
 上の『三国志』を元に,七割が正史・三割が創作とされてる.
 日本の吉川英治の小説は,こっちを元にしたもので,横山光輝やコーエーは,更にこの吉川作品を元にしてる.
 このため紛らわしいが,日本で『三国志』というと,この演義の方を指すことが殆ど.

 ちなみに例外は蒼天航路で,正史を元にしてる.

漫画板,2013/07/12(金)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 曹操が暗記するほど読んだといわれる書は孫子ですか?

 【回答】
 Yes.
 しかし暗記なんてレベルじゃない.完璧に理解した上で,孫子の完成度をぐーんと高めたのが曹操.
 現在テキストとして用いられる孫子は,大抵の場合,曹操が孫子に注釈をほどこした「魏武注孫子」.

 そんなわけで,
「そもそも孫子を著したのは曹操なんじゃねぇの?」
なんていう人までいたりする.
 ま,さすがにそりゃないだろうけどね.

(世界史板)


 【質問】
 ウィキペディアには,
>後漢末・三国時代を舞台とする説話や講談は古くからあり,
>すでに北宋の時代には劉備と蜀漢を善,曹操と魏を悪役とするイメージが
>定着していたという記録がある.

とあるんですが,なんで蜀が善という考え方が広まったんでしょうか?

 【回答】
 劉備は漢の皇室の分家の末裔だから,後漢の正当な後継者で,曹操は後漢から天下を簒奪した悪党,という構図.
 これが日本だけの見方ではない証拠に,中国人は長年関羽を関帝(神様)として祀ってきた.
 っていうか三国志演義はまさにこの構図.

 曹操は宦官の孫だったり,徐州で大虐殺やったり,儒者を弾圧したりしたので,在世当時から大悪人としての風評が大きかった.
 劉備はまあ,やってることはただの弱小軍閥の親玉なんだが,「漢朝・劉氏」で売り込んだので,当時から評判はよかった.
 シナ人の多くは今も漢民族と自称するし,孔明・関羽・張飛とか民衆に人気のある武将もいるし,判官びいきもあるし.
 陳寿が『三国志』を書いたのは晋の時代だが,晋は魏から禅譲された形で簒奪しているので,前代の魏はあんまりよく書かれず,陳寿の母国であった蜀漢は,正統王朝に準ずる形式(先主伝など)で書かれた.

 また晋が江南へ移ると,もといた華北よりも江南文化をひいきにするようになったが,孫呉をあまりもちあげると治安上よろしくないので,民間に人気のある蜀漢を持ってきて称揚した.
 習鑿歯という人は,蜀漢に仕えた人物の子孫だったが,東晋の末に軍閥の桓温が帝位を簒奪しようとしたので,
「魏は簒奪者であり,晋が蜀漢を滅ぼして,ようやく漢が滅んだ」
という蜀漢正統論を説いたという.

 まあ,蜀を実際に倒したのは魏の軍なんだが,すでに司馬氏が完全に実権を握っていた頃.
 漢人が北方民族に圧迫されてたのと,魏が漢を簒奪し蜀を苦しめたのを重ね合わせ,北伐を繰り返した蜀の孔明を善玉にしたのが,原因のひとつではあろう.

 ただし,関羽が神格化されたのは意外に遅く,唐宋の頃にようやく護法神として信仰された程度.
 「関帝」とされて,信仰が国家規模で盛んになるのは,南宋以降になる.

世界史板,2010/05/20(木)
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▼ 上記回答ですが,誤解を招きかねない点,説明が不足している点があると考えます.

>っていうか三国志演義はまさにこの構図.

まず,この箇所ですが,宋代に三国志を題材としたものは「三国志平話」であって,演義ではなく,しかもこの違いは無視できるものではありません.
 三国志平話においては,高祖に粛清された韓信,彭越,英布が曹操,劉備,孫権に,加害者である高祖と呂后が献帝と伏皇后に,そして天界での裁判において,韓信らの冤罪を証言した?徹が諸葛孔明に,裁判を進行させた司馬仲相が司馬仲達に,それぞれ生まれ変わると言う設定から話が始まるもので,「三国志演義」とは色彩がかなり異なります.

>陳寿が『三国志』を書いたのは晋の時代だが,
>晋は魏から禅譲された形で簒奪しているので,
>前代の魏はあんまりよく書かれず,陳寿の母国であった蜀漢は,
>正統王朝に準ずる形式(先主伝など)で書かれた

 蜀志における劉備の伝が,諡号の昭烈帝を使わず,「先主伝」とされていることからも明らかなように,陳寿の「三国志」は蜀漢を正統王朝とはしていません.
 また,漢魏革命は「魏武輔漢の故事」とも言われ,後世の禅譲の模範となっており,その影響は,「清室優待条件」の
「大清皇帝辞位の後尊号猶を存して廃せす,中華民国は各国君主を待つの礼を以て待遇す」
にも見ることが出来ます.
 これは東漢の献帝が魏の文帝に禅譲し,山陽公となったあとも,皇帝としての自称などを許されたことに由来しています.

 蜀漢正統王朝説を大成させたのは,南宋の朱熹でしょう.
 司馬光が「資治通鑑」において,三国時代の年号を魏のもので統一したのに対し,朱熹は「資治通鑑綱目」で蜀漢のそれを使い,蜀漢こそが正統王朝であるとの立場をとっています.
 こういった流れで,元代には科挙に蜀漢正統王朝説が取り入れられ,この文脈上に,明代に劉備を善玉とする「三国志演義」が成立したのです.

名無しルーデル神教教徒 in FAQ BBS,2010/7/27(火)
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 【参考ページ】
三国志平話 - Wikipedia
三国志平話とは?
三国志平話とは
資治通鑑綱目 とは - コトバンク
中国社会の変化と北方民族の進出
〜 曹操の評価 〜


 【質問】
 軍師という熟語は,諸葛亮の軍師中朗将からというのは本当ですか?

 【回答】
 いいえ.

 中国では,周の文王が呂尚を師に立て,子の武王のときついに殷を滅ぼしたことが『史記』+に見えるように,古くから軍師にあたる者が存在しました.

 ある程度効力のある官職として文献に始めて出てくるのは魏志の武帝紀の中にある
「三年春正月,公許に還り,初めて軍師祭酒を置く.」
のくだりかと思われますが,光武帝の時代,隗囂が反乱を起こした際に部下を「軍師」に任命してるということがあったようなので,単純に一番最初というとこっちになるのかな?^^

(「はてな」)


 【質問】
 三国志には,劉備玄徳が田舎の農家で人肉を食べる生々しいシーンが出てくるけど,中国で人肉食はありえたことなの?

 【回答】
 「三国志演儀」は創作,脚色てんこ盛りで資料には成り得ない.
 中国では昔から三国志は人気のある話で,数多くの「三国物語」と言える話があり,曹操を主人公にした物,孫権を主人公にした物,劉備を主人公にした物と様.
 どの話も主人公の敵は悪逆非道な人として書かれ,敵の人格をおとしめるエピソードも数多くある.
 劉備の人肉食のエピソードは,そのネガティブ・キャンペーンの一つと思われる.

 しかし正史三国志,魏志ゾウコウ伝(字が出ない)には,袁紹に攻められた軍閥の主・ゾウコウが篭城のさなか,最後に自分の愛妾を殺して肉を入れた粥を作って配り,感激した兵士達は全滅するまで戦ったという記述がある.

 また,マンガの「蒼天航路」には,董卓が反逆者の目をくりぬいたり腕をぶっちぎったりして,さらに釜茹でにして余興とし,列席者は恐怖に青ざめるが,董卓だけは一人平然と煮えた人肉を食う!……というシーンがあるが,これと全く同じ記述が正史の董卓伝に登場する.
 初期の「蒼天」は,こういう正史ネタが細かくちりばめられてあって感心したもんだなぁ.

 さらに,「魏志」の太祖武帝紀(曹操の伝記)なんかを通読すると,
「なんたらの何年に飢饉が発生し,人が人を食い合った.」
「ひどいありさまで,人が人を食い合い…」
とかサラっと出てきたりする.
 正確な引用は出来ない…ちくまから出てる三国志・魏志(1)だが,ダンボール箱の底に埋まってるだろうから掘り起こせない(°∀°)
 もちろん飢饉のときに人肉食が流行るのはその他の世界の地域でも似たようなものだろうが,中国の場合は前述のゾウコウ伝に限らず,晋の文公に介子推が腿の肉を裂いて献じた話とか,敵を辱めるためにそいつの死体を料理する,漢の彭越の話とかあって,「嫌悪すべきもの」とは限らず「忠誠や愛情を示すポジティブなもの」として描かれることも多いのは否めない.

 16世紀に著された有名な漢方の研究誌「本草綱目」では,人間の各所の肉のみならず,髪の毛や排泄物や精液に至るまで,その薬用としての利用方法・効能が書き記されている.

 薬用以外だったら「両脚羊」というものが,宋の「ケイ肋編」(だったかな? また漢字が出ないが,鶏に似た字)という本
http://www.aozora.gr.jp/cards/000372/files/4270_14876.html
に,食材として登場する.
 昔,立ち読みした本に同じ出典でその製法まで記してあってウボァーって思った事がある.
 農村で女性を捕まえたり買ったりして,手足頭を切り落として腹を割いて,内臓全部出して塩をすり込んで干すんだったか.

 で,そこには結びとして

 經傳詩文によつて,支那人の長所美點を會得するのも勿論必要であるが,同時にその反對の方面をも,一應心得置くべきことと思ふ.
 食人肉風習の存在は,支那人に取つては餘り名譽のことではない.
 されど儼然たる事實は,到底之を掩蔽することを許さぬ.
 支那人の一面に,かかる風習の存在せしことを承知し置くのも亦,支那人を理會するに無用であるまいと思ふ.

と,書かれている.

 それから,これはもう最近の話になっちゃうが,文化大革命では「反革命分子」「資本家」「階級の敵」をリンチし,八つ裂きにして肉やら臓器やらを民衆が我先にとつかみとり,家に持ち帰って食ったとか,そのような指摘が中国人自身からされていたりする.
 ソースは「食人宴席」(鄭義著,)
 著者は天安門事件で指名手配されたバリバリの民主化運動家,訳者は大陸大嫌いの台湾人・黄文雄なので,いささかバイアスがかかっているかもしれんが,しかし,記述としては,西洋人や日本人の支那旅行記に散見される,
「死刑のあと,死刑執行人や見物人の間で人肉の売買が始まる」
というヤツと一致しており,まるきりガセネタと言い切れない面がある.

 平時から市場に人肉が並んでいる様子
http://hk.geocities.com/ennet369/
(グロ注意)

 中国の人肉食は,普遍的とまでは言いきれないものの,他地域の文明と比べてハードルが低いのは明らか.
 それを決定付ける,たったひとつの究極的な証拠,などというものはないが(というか不可能だ),しかしそれを裏付ける膨大な史料や証言には事欠かない.

軍事板

 武帝紀の該当部分,抜き出しますね.

「この年(興平4年=西暦194年),穀物は一石五十余万銭に高騰し,人間同士が食い合うほどだった.そこで軍吏や兵士の新たな募集を取りやめた」

 この光景を目の当たりにしたあと,曹操は屯田を推し進めていくようですね.

 次にゾウコウ伝.
 ()は私の入れた分で,[]は本文中の挿入です.ちなみに筑摩書房の世界古典全集版です.

「袁紹はゾウ洪の手紙を読み,降伏の意が無いことを知ると,兵を増強して激しく攻め立てた.
 城中では料米が底を突き,(中略:内容は城中の一致団結振り)最初はまだ鼠を掘り出し,[獣の]筋や角を煮て食べていたが,後にはもはや食べられるものはまったくなくなってしまった.
 主簿が,内むきの台所に米三斗(漢代の斗は今の升に近い:約5.4リットル)があるから,半分に分けて少しずつ粥を作りたいと言上した.
 ゾウ洪はためいきをついて,
『わしだけがこれを食べてなんとする』
といい,薄い粥を作り,みんなに分けてすすらせ,自分の愛妾を殺して将兵達に食べさせた.
 将兵達はみな涙を流して,顔を上げられるものも無かった.
 男女七,八千人が枕をならべて死亡したが,離反したものは一人も無かった」

 さらに董卓なのですが,董卓自身が人肉を食う,と言うのは蒼天航路のほうだけで,正史にはありませんでした.おそらくレス主の方が言うのは

「かつてビ(眉+おおざと,董卓の本拠地)に出かけ砦を巡察することになり,公卿以下そろって横門の外において送別の宴をもよおした.
 董卓はあらかじめ幔幕を張って準備しておき,酒宴となると,反乱した北地郡の降伏者数百人を中へ引き入れ,席上,まずその舌を切ってから,手足を切ったり,眼をくりぬいたり,大鍋で煮たりした.
 まだ死にきれない者が,杯やテーブルの間を倒れて転げまわり,集まった人々がみな慄然としてさじや箸を取り落としても,董卓は平然として飲み食いを続けていた」

というシーンをアレンジした,「蒼天航路」の宴席のシーンだと思われます.
 私,この漫画読んだのですが,人を食っていたか失念してしまいました.なんにせよ,「漫画の話」です.

 んで,個人的に興味深いのは曹操の幕僚グループ,程イク(日の下に立)の話.

「『世語』にいう.
 そのむかし,太祖(曹操)が食料に欠乏したとき,程イクはその出身の県を略奪し,3日分の糧食を提供したが,人間の乾肉をかなりまぜた.
 その結果,朝廷における人望を失った.
 だから官位は公にまで上らなかったのである」

 世語は,註にに引かれた野史の中では比較的成立年代が古いようですので,比較的当時に近い時代,人肉を食料とすることは余りよい印象をもたれていなかった,すくなくとも公卿のすることでは無いと思われていたことの証左になると思います.

 その他,王忠は飢饉のときに人をたべたことを,曹丕が馬の鞍に髑髏を下げてからかったと言うエピソードがあります.

黒木竜 in 「軍事板常見問題 mixi別館」

▼ なお,中国語の「人肉」には,「人間の肉」以外の意味もあるので,注意が必要.
 現代の,ネット社会での話限定ですけどね.
 以下引用.

――――――
4) 人肉
 昔々,犯人を指名手配し,各賞金稼ぎが賞金首を狩っていた.
 この賞金首は人肉と呼ばれた.
 今,「人肉」は様子を変え,最短時間である背後の真相の「致命的な奥の手」を暴き出すという意味になった.

 「人肉」,正式名称は「人肉捜索」は,現代の情報テクノロジーを用い,全国各地のインターネット利用者の力を集めて,各自が各種のルートを使ってターゲットの断片的な情報を入手,その後,すべてを取りまとめて「人肉」ターゲットの完全な資料をつくることである.

 従前のネットのサーチエンジンと比較して,「人肉捜索」は人と人との間の情報伝達にさらに依存するもので,したがって,これでようやく真の「人を基本にする科学技術」であると言う人もいる.
 「人肉捜索」は中国のインターネットでは何年も行われていることだが,少しも衰える気配はない.
 昨年発生した「人肉捜索」は,高級たばこを吸っていることで問題になった南京市江寧区不動産管理局の周久耕局長,一夫二妻で問題になった江蘇省徐州市泉山区区委の董鋒書記等である.
 中国のネット利用者が成長し続ける限り,このような人間の力による捜索体験は発展し続けるだろう.
〔聯合早報,2009年1月25日〕

――――――電子マガジン《中国最新情報》  No.476 2009年2月17日


(朝目新聞より引用)


 【質問】
 唐の府兵制による徴兵制が崩壊して,節度使の常備軍に軍事力を頼るようになったのはなぜですか?
 徴兵制でまかなっていた中央で統制できて信頼できる軍事力を,軍閥のような節度使の軍事力に置き換えるのは,国内の安定上危険と思うのですが.

 【回答】
 府兵制によって国境を防衛することが困難になったから.

 まず,徴兵で集まるのは戦闘の素人な農民兵ばっかりで,国境にはりつけて防人にするのがせいぜい.
 しかも兵役は義務なので,その間の収入とか給金というものはなく,手弁当で辺境へ行くしかない.
 大事な働き手をひっこぬかれた農家は,納税や労役が果たせず貧窮し,均田制で割り当てられた本籍地を捨てて逃亡するか,大土地所有者の小作人になってしまう.
 そうすると税収そのものも減るし,徴兵すべき成人男子がいなくなる.
 すでに防人にされていた人々は,交代要員が徴兵されなくなるので長い間故郷に帰れなくなる.
 こうして,府兵制システムそのものが国を食いつぶすようになってしまった.

 遠征の時は,こうした防人よりも臨時の募兵の方が役にたち,「行軍」と呼ばれた.
 彼らは騎馬戦闘もこなす戦闘のプロで,お上から給料も出た.
 辺境に置かれた都護府の兵は,だいたい行軍だった.
 そのうち行軍は臨時雇いではなく常備軍となり,彼らをまとめる連中が節度使(藩鎮)となっていく.
 節度使を中央政府が統御できているうちはよかったが,ついに安史の乱が勃発して統制が効かなくなったわけ.

 そもそも,府兵制といった国民皆兵制度は,本来農耕民族には向かない,騎馬遊牧民族向きの制度.
 兵農一致が騎馬遊牧民族に適していて,兵農分離が農耕民族に適しているということ.
 それは世界史的に明白.
 どの騎馬遊牧民族も,農民・武士(騎士)といった職能分離が起きなかった.
 騎馬遊牧民族は成員一人一人が農民でもあり,武士(騎士)でもある.

 それに対し,どの農耕民族も農民・武士(騎士)といった職能分離が起きた.
 それはなぜか.
 騎馬遊牧民族は土地を個人所有しないから.
 領土全体が集団所有の牧場と同じだからだ.
 草原を移動しながら家畜を食べさせていけばよいので,個人所有の意味も無いし,定住が不可能だからだ.
 よって騎馬遊牧民族は,生業と兵役をいつでも切り替えられることができる.
 兵役が終われば,すぐに生業に復帰可能.

 ところが,農耕民族はこうはいかない.
 兵役についている間に,土地が荒れ放題になるか,誰かに奪われるかどちらか.
 兵役から戻っても,生業に復帰することができない.
 種を撒いて,これから収穫に入ろうかという時期に,兵役に借り出されれてしまえば,残された女子供だけでは間に合わない.

 だから府兵制は,農耕民族である漢民族には大変評判が悪かった.
 兵役に動員しても,戦場を離脱して元の土地に舞い戻ってしまう.
 こうして府兵制は機能しなくなってしまった.

世界史板,2010/05/26(水)〜05/27(木)
青文字:加筆改修部分



 【反論】
 遊牧民は確かに移動性に優れるだけど,遊牧民が府兵制を導入していたわけじゃないから説明になってないかと.
 府兵制は唐の専売特許じゃないし,国民皆兵制度が「農耕民族に対して」上手く機能していた状況は,東西の区別無しにある.
 共和制ローマの市民軍も,ハンニバル戦争位までは問題なく機能していた.
 近代ではフランスの徴兵制もある.
 フランスは工業化もしたけど,それでも欧州随一の農業国でもある.
 中国の府兵制の元祖は西魏だけど,その時点では上手く機能していたようだ.

 というか,本来なら農地と一体の農耕民を戦わせるために府兵制がある,つまり農耕民用の制度なわけで,それを語るのに遊牧民を用いるのは違うよね.
 府兵制が立ち行かなくなった理由を語るなら,システム自体の歪みや崩壊について述べるべき.

 【再反論】
>国民皆兵制度が「農耕民族に対して」上手く機能していた状況は東西の区別無しにある.

 一時的になら,どんな制度であろうと巧く機能することは有り得る.
 しかし農耕民族には,本質的に無理があると説明したのだ.
 共和制ローマも自由市民が没落して,軍制改革を余儀なくされた.

 府兵制は,兵農一致の騎馬遊牧民族と,兵農分離の農耕民族の制度を,折衷したような制度だが,それでも漢民族には無理があった.
 無理があったから,システム自体の歪みや崩壊が起こったのだ.

 何が「べき」か知らないが,「システム自体の歪みや崩壊」が何に起因するかを説明して悪い理由が分からない.
 騎馬遊牧民族が兵農一致で何も問題ないのに対し,農耕民族はどんな制度を導入しても,あちらを立てればこちらが立たず,二律背反の問題が生じて,必ず破綻する.
 4000年の中華文明でも,軍制については四苦八苦して,ああでもない,こうでもないと制度を変えまくりだ.
 結局,農耕民族にしっくりくる軍制は無いのかもしれない.

 西魏の府兵制は,もともと職業軍人(府兵)を数家族が共同で支えるというような仕組みだった.
 府兵は納税と労役が免除され,名誉ある自弁の戦士として戦ったので士気も高かった.
 それ以前の魏晋・北朝でも,職業軍人の家は「兵戸」「鎮」として,一般の農民より高い地位を得ていた.

 しかし,隋唐ではこの特権を取り払って,すべてを一般の民戸とし,しかも成人男子3人に1人という高い割合で徴兵した.
 広がりすぎた国土を防衛するために,兵員を増やさざるを得なかったのだが,これでは歪みが生ずるのも当然.
 カラカラ帝がローマ市民と属州民の区別を撤廃してしまったような失政ではなかろうか.

 【再々反論】
 だーからぁ,胡と漢が入り混じってたのが当時の現状なの.
 漢人だってこんな戦乱時代に,農耕しかしないわけないじゃないの.
 馬超みたいに混血だってするわさ.
 胡人にも没落したり混血したりして,農民だか牧畜民だかやってたのが山ほどいたの.
 そういうのに職を与えて,国内外を安定させるためにやったことなの.

 兵の身分が低いっても,何万人もの官営武装集団に発言権がないてか?
 遊牧民にしか戦闘はできんてか?

世界史板,2010/05/26(水)〜05/27(木)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 安禄山の乱とは?

 【回答】
 755年,楊貴妃の従祖兄の宰相・楊国忠との対立から,平盧・范陽・河東の3つの節度使を兼ねていた安禄山が起こした反乱.
 玄宗皇帝は楊貴妃と共に四川にのがれようとしたが,途中,兵士達は楊国忠を殺し,さらに楊貴妃を殺せと要求.
 皇帝はやむなく宦官の高力士に命じて,楊貴妃を仏堂の中で絹で絞殺させた.

 安禄山は洛陽・長安を占領し,「大燕国雄武皇帝」を称したが,次男・安慶緒に殺害された.


 【質問】
 宋は兵士をたくさん雇用対策で雇ってたから,軍事費がかさんだの
 あと,宋の軍隊は対外戦争向けじゃなくて,反乱軍や盗賊向けの国内の敵に備える軍隊だったの

 【回答】
 いや,対外戦争向け(防衛主体)でもあった.
 遼や西夏と盟約を結ぶ前段階では,何度も戦争があり,そのたびに宋の兵士の数が増えている.
 西夏は一時は長安まで攻め取ろうとしたし,契丹は燕雲十六州にとどまらず,華北への侵攻を重ね,宋が成立する以前には開封を占領したことすらある.
 結局は維持できず撤退したが.

 盟約を結んだあとも,宋で内紛などがあれば,周辺諸国は歳幣を吊り上げるためもあって,何度か攻め込んできた.
 そういうときに,
「平和なので軍隊がありませんでした」
では,国が滅びるか,それこそ属国にされる.
 最後には金に滅ぼされて,皇帝が捕虜にされ,南へ移らざるを得なくなったわけだが.

世界史板,2010/05/02(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 遼はモンゴル高原を根拠地としてしっかり抑えてたけど,金はどうしてモンゴル高原を部族ごとの自治に任せた,間接支配したんでしょうかね?
 遼の領域を引き継いだ金が,モンゴル高原の直接支配だけはしなかった理由が良く分からない.

 【回答】
 契丹が高原に進出したとはいえ,河川があり牧畜や農耕に適した,比較的肥沃な部分を囲い込んだ程度.
 また,契丹とモンゴル系諸部族はともに遊牧民で,言語も文化習俗もよく似ていた.
 しかし女真族は,森林の民であって遊牧民ではなく,草原よりもずっと肥沃なシナへの進出が優先された.
 だから遼はシナの北辺しか支配できなかったが,金は華北のほぼ全域を支配し,征服王朝となった.

 契丹が滅んで圧力が弱まると,遊牧民たちは勢力を増し,モンゴルのカブル・カンを筆頭に金へと攻め込んだ.
 しかしケレイトやメルキト,タタルなどの遊牧国家も強大化していたので,金はこれらを相争わせて間接統治を図った.
 ただ,金の隷属下におかれていた契丹人はのちに南下するモンゴルと合流し,金軍を連戦連敗させている.

世界史板,2010/05/20(木)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 明王朝の明って国号って,マニ教の中国名称である明教から取ったって本当ですか?
 確かに呉とか漢みたいに,歴代王朝では一度も使われたことのない国号だけど…

 【回答】
 単に縁起のいい字をとっただけ.
 宋以前は,初代の皇帝が皇帝になる前に封じられたり,根拠地としたりした土地の名を国号としたり,あるいは かつて自分と同じ姓の皇帝がいた王朝と同じ国号にしたりする(劉姓の者が国を興すと,たいてい国号を漢にした)というのが原則だったが,モンゴル人の征服王朝はそういう土地や先の王朝がなかったので,原則を無視して,縁起のいい漢字を選んで「元」王朝とした.
 元の次の明も,貧民出身の朱元璋が興したので,やはりそういう土地はなく,同じように縁起のいい漢字から国号を「明」にした
 次の清も,火徳の王朝である明にかわるものという気概を込めて,さんずいのついた漢字を国号にした.
 太平天国にいたっては,もう漢字1文字の国号ですらなく,趣味で国名をつけている.
 とにかく,元が前例を示して以降は,国号は好きにつけてよくなったといっていい.

世界史板,2010/02/24(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 朱元璋の参謀,劉基と椎茸の関わりについて教えられたし.

 【回答】
 中国語で椎茸のことを「香磨vと呼びます.
 これは明代以降,高級食材として用いられ,つい近年も,香港に日本の椎茸が輸出されて凄い高値で取引されていたそうです.

 日本だと本当に掃いて捨てるくらい有るような椎茸を何で中国人が有り難がるかと言えば,明の時代に遡ります.

 明の初代皇帝と言えば洪武帝こと朱元璋.
 元朝が農民軽視,重商主義で末期には叛乱が相次ぎ,最終的には朱元璋によって北へ追われました.
 その朱元璋が明朝を作り上げた直後,旱魃が続いて農作物に甚大な被害が生じました.
 このままでは飢饉となり,一旦手中にした王朝が再びするりと抜けていくかも知れない.
 そう考えた朱元璋は,その対策として必死に手を打ちました.
 最後には,天命を待つべく,天に向けて必死の祈りを捧げました.
 百官の先頭に立って数ヶ月間の雨乞いをしたのです.
 こうした行為を続けたが故に,さしもの彼も過労気味となり,遂には箸をも取れぬ病に陥りました.

 その朱元璋の側には,参謀役である劉基と言う人が常に控えていて,朱元璋を巧みに制御し,作戦を進言したりして朱元璋の政権取りに協力しました.
 やがて,朱元璋が明朝を打ち立て,南京を都に据えて洪武帝となると,劉基は中央政権から退いて,浙江省の竜泉県に赴任して行きます.
 その朱元璋の病が篤いという知らせを聞いて,劉基は矢も楯もたまらず,あるものを携えて,南京に駆け戻りました.

 そのあるものとは,竜泉県特産である香魔ナした.
 即ち,干し椎茸です.
 当時,香魔フ産地は,浙江省の竜泉,景寧,慶元の3県でした.
 水で柔らかく戻した香魔ヘ,「紅焼香磨v,つまり,椎茸の醤油煮込みと言う料理となり帝に献上されました.
 洪武帝は何とか病床から起き上がり,一口を口に含みます.
 続いて二口目,次第に気力が湧いてきて,三口目で「食べた」という実感が身体にわき上がってきたと言います.

 この紅焼香魔ヘ,戻した香茹500gに薄切りにした冬笋(冬筍)50gを使います.
 熱した鍋に少量の油を入れて筍を加えて炒め,香魔ニ醤油,砂糖,鮮湯を加え,最初は強火,後に弱火にして15分ほど煮ると香魔ノ味が染み,煮汁が絡むようになると出来上がり.
 濃厚な味と香りを持ち,口に入れると火傷しそうな熱さに仕上げられて,弱っていた洪武帝には異常なほど旨く,食欲の出る料理となったみたいです.
 尤も,現在の干し椎茸は機械乾燥ですから,当時の天日乾燥のものとは味が比べものにならないくらいではあったのでしょうが.

 やがて,この料理の力もあってか,洪武帝は健康を取り戻し,祈りの甲斐あってか,帝の人徳か,旱天に慈雨が降り,農民達も救われました.
 以後,洪武帝の毎日の食卓や宴席では必ず「紅焼香磨vが出されるようになりました.
 その伝統は,清代でも上品な珍品としてメニューに残され,特に乾隆帝は大好物だったと言います.

 後に香魔ヘ鴨料理にも用いられるようになり,香蕈鴨や炒冬魔フ名で残っています.
 冬魔ヘ,春や秋と言った旬に採れるものでは無く,冬に出た香魔ナす.
 肉厚で調理すると歯応えがあり香りが最も良い椎茸で,明の宮廷ではこれを食用菌類の上位に位置づけ,?枕c后と言う称号,即ち皇后の茸と言う名前を与えていました.

 宋代には茸は枸杞の葉の新芽,筍と共に山家三脆の美味として,元代には?魔竢シ茸を総称して香蕈と呼ばれていました.
 現在の北京料理でも,椎茸や筍を使う事が非常に多いのですが,これは明代の宮廷料理の影響もあります.
 特に寒冷地の北京では,椎茸や筍が手に入り難い事から高級食材として扱われていました.

 最後に,劉基と言う洪武帝の戦友ですが,確かに彼は洪武帝の寵臣となりました.
 しかし,それは他の人物から見れば邪魔な存在でもあり,結局毒殺されてしまいました.
 それが切っ掛けで,洪武帝は臣下を次々に粛清していったと言われています.

 さて,椎茸ヨーグルトを作る作業に戻りますか.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/10/20 22:42


(画像掲示板より引用)


 【質問】
 土木の変って北京版「ウィーン包囲」って感じでですか?
 教科書見てて,そんな感じがしたんですけど.

 【回答】
 土木の変の方が遥かにやばい.
 ウィーン包囲の時は,神聖ローマ帝国軍は健在だったし,皇帝はオスマンに捕まってたわけじゃなかった.
 だから,普通に粘って援軍を待って,退却に追い込むことができた.

 だが土木の変では,明軍主力壊滅,皇帝はオイラト Oirat 軍に捕まり,北京防衛軍は,乏しい兵力,皇帝が敵中にあるという状況で,オイラトの大軍の包囲に耐えなければいけなかった.
 ▼援軍の当ても無く,あまりの状況の厳しさに北京放棄論まで出たほど.
 あまりの状況の厳しさに北京放棄論まで出たほど.▲
 強引に新しい皇帝を立てて,包囲を耐え抜いた北京防衛軍の頑張りが無ければ,明はオイラトに宋並みの屈辱外交を強いられる羽目になってたかも知れん.

世界史板,2005/01/27

▼ 上記回答には言い過ぎている点があると考えます.

>援軍の当ても無く,あまりの状況の厳しさに北京放棄論まで出たほど. 

 徐有貞が,もともとの都であり副都でもあった南京への遷都を主張したのは事実ですが,援軍のあてがなかった,というのは言い過ぎでしょう.
 明史列伝五十八にある于謙の伝には,河南の軍,山東及び南京の沿海備倭軍(倭寇に対抗するための部隊),江北及び北京の運糧軍(補給部隊)を北京に呼び寄せて各部署に充当し,以って人心をわずかに安んじた,とあります.

 つまり,援軍はちゃんと来ていたのです.

名無しルーデル神教教徒 in FAQ BBS,2012/5/15(火) 13:31

Emperor Yingzong, who was taken prisoner by Yexian, chief of the invading Oirat tribe.
(こちらより引用)



 【質問】
 この時代でも騎馬民族の脅威が凄かったんだなぁ.
 明・清時代では重火器はなかったんでしょうかね?
 あっても てつはう ぐらいとか?
 【回答】
 明は爆弾も火器も豊富に装備していた.
 もちろん銃も.明軍の銃は,火縄銃よりも扱いづらい代物だけどな.

 そんな先進的な軍隊50万が土木堡でオイラト騎兵に殲滅されたのは,事実上の総司令官だった王振が,敵を見ただけでビビって全軍退却を命令するような奴だったから.
 全軍逃げ腰なら,どんなに装備が良くても勝負にならん.

 北京防衛軍の場合は指揮官が優秀,士気も旺盛だったんで,火器を有効に生かせた.

世界史板,2005/01/28

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 万里の長城は本当に無用の長物だったのか?

 【回答】
 長城は,援軍を呼び出す&時間稼ぎが主な目的.
 また,侵入自体を防ぐよりも,侵入後の敵を本国と分断し,戦い易くする効果が大きい.

 確かに,騎馬民族は簡単な壁ぐらいなら壊せるし,明代の立派な長城でさえ,壊すことは無理でも壁に登るスロープを作る程度のことはできる.土を掘って壁際にどんどん積んで固めりゃいいだけなんだから.
 ただ,工事に時間をくわれて,その間に反撃の態勢を整えられる.
 特に,長城の南に侵入する時より,帰りが危険.あちこち転戦してると,来るときに確保した侵入ポイントに戻れるとは限らない.そうなると,逃げるに逃げられず,工事をしている間に全滅する危険もある.

 ただ,やってきた援軍が弱かったらどうにもならない.
 土木の変の敗北は,呼び出されてきた援軍がアホの英宗だったからで,長城がどうこうという問題ではない

(世界史板)

The Great Wall, China's premier tourist attraction.


 【質問】
 王陽明(おうようめい)って誰?

 【回答】
 王陽明(1472〜1529)は中国浙江省,上海の南の余姚という所で生まれた,明代の儒学者・政治家.
 会試に合格して役人となり,兵法や詩文や禅宗を学びながら遠く戦線に出かけ,各地で流賊の反乱を鎮圧して功を立てた.
 「知行合一」「致良知」という学説を唱える陽明学派を打ち立てる一方,新健伯(大臣)となるが,病気中に流賊反乱鎮圧を命じられ,出征中に病死.


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