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【質問】
軍部による対外宣伝機関はあったの?
【回答】
ありました.
第1次上海事変でH・S・ウォンが撮影したとされる「爆撃された上海南駅で泣く子供」,ヤラセではありましたが,反日プロパガンダに一役買った写真が配信されますと,対抗して「日本の主張を国際的に配信すべきである」との見解から,上海日本大使館,総領事館,海軍・陸軍の広報関係者,在中日本人有力者の手で,「プレス・ユニオン」なる,英文ニュースの配布機構が作られました.
実際は相当に軍部の息がかかった報道機関ではありましたが,ドイツ・ウルシュタイン通信社,アメリカ「ライフ」誌やブラックスター通信社など,海外にも広く写真を配信していました.
「フロント」という海外向けプレス誌も軍部は出していました.
「FRONT」は「東方社」の出版という名目でしたが,実際には陸軍参謀本部の「御用雑誌」ではありました.
しかし,カメラマンで木村伊兵衛氏がスタッフであったなど良質の写真を使っていた上,印刷技術には優れたものがあり,さらには97式中戦車の演習の写真で「貼り込み」で台数を増やすなど,当の発行者は認めていないにせよ,モンタージュ技術の上手さでも定評がありました.
軍事板,2005/05/08(日)
青文字:加筆改修部分
さらに,PFPという団体も存在しています.
例えばアマチュア写真家,桑原甲子雄氏は,「FRONT」を出していた「東方社」に誘われ,健康上の問題があるからと断っていたのですが,そのあと「太平洋通信社(PFP)」,外務省の外郭団体に入社しています.
PFPは主として大東亜共栄圏の国々に日本の実情を伝えるのが目的で,風景や風物など観光写真に近いものを配信しており,東方社ほど国策宣伝色の強い通信社ではありませんでした.
いずれにせよ,写真家にとって「白紙か赤紙か」,新聞記者や文化人の徴用令状は白紙,一般国民の召集令状は赤紙,国家総動員法による「徴用」として(建前でも)尉官待遇の軍属になるか,召集令状で一兵卒として徴兵されるかは,いわば「死活問題」でした.
このため,通信社や新聞社にとどまるカメラマンは少なくなかったのですが,濱谷浩氏のように「東方社」に入社しても上層部と対立して1年で退社,徴兵されたカメラマンもおられます.
なお,開戦と同時に新型カメラの輸入は止まっていましたが,「東方社」には日本に輸入されていなかった,最新型のライカも上海経由で入っており,加えて一般には入手不可能だったフィルムも,新聞社や通信社にいる限り不自由しなかったとか.
上記の出典は,
・ワールドフォトプレス「カメラスタイル」17号連載記事「カメラは時の氏神」第7回
・朝日新聞社「アサヒカメラ」2005年8月号特集記事「写真家と戦争」
からです.
さらにまた,雑誌「NIPPON」というものもあった.
同誌は昭和9年(1934)10月20日創刊.
四六四倍判・総アート紙・64ページからなる豪華グラフ誌だった.
文章は英・仏・独・スペイン語併用.
国内版定価は1円50銭,「週刊朝日」が一冊20銭の時代だから,その豪華さは自明だろう.
「NIPPON」は年4回の季刊誌として,敗戦までに計36冊発行された.
出版元は日本工房.ドイツ留学から帰国した名取洋之助が組織した会社である.
鐘紡や,外務省の外郭財団法人・国際文化振興会が,これを援助.国際的な孤立を深めるなかで,官民ともに危機意識が強かったためである.
詳しくは
「グラフィックデザインは戦争が作った」
を参照されたし.
【質問】
『写真週報』について教えられたし.
【回答】
さて,銀行とかに行くと,待合室に必ずグラフ誌が置いてあります.
それは殆どが新聞社の系列グラフ誌で,アサヒグラフ,毎日グラフが多いです.
戦前から戦時中に掛けて,こうしたグラフ誌は用紙統制などで満足に発行出来ませんでしたが,唯一まともに発行されていたのが,『写真週報』と言うグラフ雑誌でした.
この発行元は,内閣情報委員会,即ち国の機関です.
内閣情報委員会は,1936年7月に設置された機関で,国策に関する情報の連絡調整を行うのを目的としていました.
この内閣情報委員会が啓発宣伝(世論指導)の為に用いたのが,従来から刊行されていた『官報』雑報欄を独立させた『週報』と言う冊子です.
しかし,この『週報』,元々が『官報』の一部で,指導者向け政策読本と言う性格の出版物だった為に,内容・文体共に重厚すぎて,国民生活向けに,呼びかける為の冊子としては隔靴掻痒的なものがありました.
この為,内閣情報部(1937年9月に発展改組)が開催した思想戦講習会でも,大衆向けの政府メディアを求める声が相次ぎました.
こうした中,内閣情報部が注目した媒体は,「口ヨリ耳へ」(時局講演,インタビューなど),「耳ヨリ心へ」(音楽,ラジオ),そして「目ヨリ心ヘ」の3つがあり,最後の「目ヨリ心ヘ」の具体的手段が,映画であると共に,写真を多用したグラフ誌の導入でした.
写真を多用したグラフ誌であれば,小学校を卒業した程度の学力しかない者でも,内容を理解する事が出来ます.
こうして,「カメラを通じて国策をわかりやすく国民に伝える」ツールとしてグラフ誌が必要とされました.
又,国外向けとして,日中戦争が長期戦の様相を呈する中で,日本政府は,英国や中国側が行っていた反日写真宣伝,特に米国内で行われるそれに悩まされました.
例えば,王一哲による反日宣伝写真を,エレノア・ルーズヴェルトが取り上げて,日本製品ボイコットを呼びかけるなど,度々こうした宣伝には煮え湯を飲まされています.
内閣情報部内部資料は,こう書いています.
――――――
一枚の写真は千語の言葉より雄弁である.
日本のアジア大陸に於ける政策を説明する四千語も実際無用である.
仮令完全に書かれて居ても役には立たない.
何故なら其は単に,米国の大衆は其を読まないからである.
読むには,時間が掛かりすぎ,骨が折れすぎるのである.
――――――
となれば,日本側も対抗する為に,写真を収集して反日宣伝写真を打破しなければなりませんでした.
元来,日本政府が集めていたのは,観光誘致を目的とした風景主題のものであり,政策普及目的の写真を組織だって集める手段は整備されていませんでした.
こうして,1937年10月,宣伝事業に用いる写真を収集するべく,内閣情報部で写真報道事業が計画立案される事になります.
当初,内閣情報部が考えていたのは同盟通信社や朝日新聞社と言った既存報道機関から写真を購入し,米国に対して独占的に供給し,それらを用いて極東問題に対する写真報道冊子を作成・販売すると言うものでした.
尤も,これは政府直轄事業ではなく,官民合同による政府外機関の活用と言う当時の趨勢から,「営利事業にしない」とは言うものの,十分な収益が上がる可能性があることから,「写真宣伝に関する政府の代行機関」によって運営する事とされました.
これにより設立を計画されたのが,写真の購入・供給に加え,「記録及情報写真に依る対内外宣伝実施の官民合同の中枢機関」と言う目的が付与された「情報写真協会」であり,この機関が行う最初の事業として計画されたのが,『写真週報』の刊行でした.
当時,民間では昭和初年代後半に名取洋之助を中心とした日本工房,そこから派生した中央工房がグラフ誌を創刊しており,「ルポルタージュ」と言う言葉が「報道写真」と訳される様になって,人々に写真のパンチ力を知らしめる役割を果たしていました.
こうした報道写真と,時局の要請である写真宣伝が結びつき,『写真週報』が生まれた訳で,『写真週報』には,実際,名取洋之助を始め,木村伊兵衛,土門拳,梅本忠男と言った日本を代表するカメラマンの作品も収録されています.
もう一つ,『写真週報』が画期的だったのは,「写真週報の名義にて各種対外宣伝用写真の蒐集,撮影を行はしめ官庁の材料を蒐集してゐる事を少しでも『カムフラージュ』して効果的にする」と言う目的で,読者からの写真募集も盛んに行いました.
1938年7月,名称は「情報写真協会」ではありませんが,「写真協会」と言う組織が作られ,内閣からの補助を受けて『写真週報』の発行を担う事になります.
なお,『写真週報』そのものは,1938年2月16日に創刊され,既に発行を開始していました.
当初の担当部局は,内閣情報部第三事務室宣伝係で,担当は逓信省出身の森巌夫書記官でした.
写真協会の設立までは,国際報道写真協会を中心に個々の写真家が協力し,写真を提供しています.
とは言え,森書記官は,専任書記官として他の宣伝冊子や大元の『週報』にも目を配る必要があり,必ずしも『写真週報』に傾注出来た訳ではありません.
其処で,写真協会が出来た1938年7月に,鉄道省国際観光局出身の津田弘孝情報官が編集担当となりました.
元来,国際観光局は,観光誘致用の写真蒐集に力を入れてきた部署であり,津田情報官の下で,漸く誌面充実を果たすようになっていきます.
1940年6月,内閣情報部は局への昇格が予定され始めました.
これを視野に入れた改組が実施され,『写真週報』担当部局は,編集は第四課編集係,写真宣伝は同課事業係と分担される事になり,この責任者として,新聞記者出身の下野信恭,林謙一両情報官が担当する事になります.
元々,情報官は,設置当初は文官高等試験に合格した者が就く資格任用職でしたが,後に法改正で,時局の進展に伴う啓発宣伝の重要性が増した事を理由として,これに堪能な実務者を登用する必要性が主張され,普通任用の資格を有さない民間人を登用可能とする特別任用職となり,元々嘱託だった下野,林両氏が情報官となって,彼等プロによる運営が為されるようになった訳です.
1940年12月,内閣情報部は内閣情報局へと改組されます.
これにより,担当部局の課組織が部組織となり,編集係は第四部第二課,事業係は第五部第一課となりました.
第四部は出版検閲を主な業務とする部局であり,第四部長には警保局図書課長の福本柳一が着任しました.
尤も,第二課は相変わらず第五部第一課と同室で,課長も兼務,情報官も相互に兼務しており,検閲担当の第四部第一課とは一線を画していました.
この時期は,情報官4名と属官4名,嘱託26名という充実した陣容で太平洋戦争を迎えます.
1943年4月,機構簡素化を旨とする行政整理が行われ,情報局も五部制から四部制へと縮小されます.
両課は第一部に異動し,週報課として縮小されました.
課長には下野が就任し,実務編成へと変っていきました.
更に,1945年5月には情報局は三部制へと更に整理され,週報課は第二部第三課編纂室に改組され,敗戦に至ります.
なお,此の組織全体を通じて言えるのは,意外にも軍出身者や事務官出身の官僚を全く有さず,特別任用の新聞記者出身者によって編集部が組織された点です.
専門性の高さから言っても,こうした組織は独自性を保ち得たと言うべきなのかも知れませんが,逆に言えば,こうした対外宣伝と言う面を全く軽視していたのではないでしょうか.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/06/30 21:47
▼ 『写真週報』は,1938年2月16日に第1号が創刊され,1945年7月11日に第374/375号合併号を迎えて終刊となりました.
これは,何処で入手出来たか,ですが,創刊号の奥付には定期購読の申込先として,官報販売所,東都書籍株式会社,書店,駅売店,写真材料店が挙げられています.
写真材料店以外は,何れも『週報』が入手出来る経路で,大凡,その販路に乗せられたようです.
創刊当初は大日本印刷株式会社が印刷し,写真週報配送部が発送する形を採っていましたが,1938年11月2日の38号からは印刷が,コスト削減と効率化とを見込んで,『週報』と同じく内閣印刷局での印刷と発送をする様に改められました.
普及には,先ず新聞広告が使われました.
新聞広告は東京地区の場合,東京朝日新聞,東京日日新聞,読売新聞の三紙が交代で,毎週水曜日に掲載され,そのキャッチコピーは,「十銭の国策グラフ」と言うのが付いていました.
当時,アサヒグラフは定価80銭,新聞朝刊各紙が定価75銭ですから,その定価10銭は,正直,ダンピングです.
これで平均20頁程度の誌面ですから,庶民が結構手に出来る値段でした.
なお,特集号と1945年4月18日の366号以降終刊までは20銭,頁数は16頁に減っています.
官公庁の場合は,7銭(後8銭)と言う特別価格設定が為され,年間購読費用は一般でも4円80銭とする割引がありました.
但し,安いのは逆に言えば,用紙や印刷の質が落ちると言うのに繋がり,一般のグラフ誌に比べると質は低かった様です.
なので,陸軍が海外頒布用のプロパガンダ誌Frontを立ち上げるのも頷ける所ではあります.
新聞広告は不特定多数と雖も,新聞を買う人でないと効果がありませんが,ラジオでの広報も盛んに利用され(当時は民間放送はないから広告ではない),更に各庁府県に対しては,内閣印刷局長名で,『週報』『写真週報』普及の為のスライド上映が依頼されています.
また,普及の為のポスター図案募集も行われました.
ではこれがどれだけ刷られ,どれだけ売られたかと言えば,1938年の創刊当初は4万部余り刷られ,18,500部余りが売られました.
この時の1部当りの経費は4銭5厘.
非常時になるにつれて此の数値は伸びていき,1941年になると25.6万部余り刷られ,25万部余りが売れています…殆ど完売に近い状態.
この時の1部当りの経費は5銭1厘.
1942年以降は資料が失われているので,実態は判らないのですが,発行部数は用紙制限の関係で40万部に制限され,これ以上の予約が出来ないと言う記事がありますので,実態は30万部程度の発行と考えられており,見られない人は,これを回し読みしていたと考えられており,この回覧1部当り10名と考えると,写真週報の読者は300万人に達したと考えられます.
写真週報の読者層は,情報局の資料では,写真週報問答と言うコーナーや投書の内容から類推して,「万人向きの百万雑誌」と称された講談社の雑誌『キング』の読者層に食い込んでいるとの分析が為されています.
また,画期的なのが1941年7月16日の177号で行った『週報』と連動した読者調査です.
読者の実態,利用状況,編集への意見・希望を把握する為の調査は,読者全部だと収拾が付かなくなる可能性がある事から,各地域から2府県(中部地方のみ4県,今も昔も中庸と言うことか?)合わせて16府県に限定して,該当号に官製葉書状の調査票を挟み込み,それを回収する形式で行われました.
調査事項は,1冊の『写真週報』(あるいは『週報』)を何人で読んでいるか,その読者の学歴・職業・年齢,政府への希望(!),本誌への希望(!),『写真週報』)(あるいは『週報』)を毎号買うか否かなど5つの項目から成っており,回答率は21.1%でした.
調査の結果,1冊の『写真週報』は平均10.6人に読まれ,読者の属性は,学生生徒が45.4%,無職9.8%,工場・鉱山労働者7.5%,会社員等6.8%,商業6.7%,教員4.4%,技術者4.3%,官公吏4.3%と学生が意外に多く読んでいる事が判ります.
つまり学校,職場,隣組単位での購入が多いと言う事がうかがい知れます.
また,市町村長,小中学校長に『写真週報』を読まない者は居ないと言われたそうで,地域・学校・職域単位の啓発宣伝ツールとして十分な位置を占めていた事が判ります.
読者の学歴は,小学校卒業程度61.8%,中学校卒業程度26.6%,高専卒業以上が7.8%と,『週報』の読者学歴が,小学校50.6%,中学校36.6%,高専以上12.3%に比べると,『写真週報』が低学歴層への浸透が十分に行われ,『週報』との棲み分けが出来ている事が伺えます.
記事の要望については,『週報』が政治関係22.4%,国際関係18.4%,文化関係12.0%,国内情勢・解説10.7%に対し,『写真週報』では,軍事関係28.5%,体育その他16.7%,国際関係14.7%,教育文化関係13.5%で,政治関係は8.6%に止まりました.
具体的には,社会情勢を伝える写真記事,常会の運営に役立つ指導的記事,農村の活躍を伝える記事の掲載が希望されています.
こうした記事は,有効に活用されました.
今ほど著作権云々が厳しく言われない時代です.
『写真週報』が翼賛壮年団文化部に配達されると,筆自慢が何枚も清書し,その清書したものを各学校へ配り,先生がその記事を基に話をすると,上級生がその記事を筆写して,部落部落の立て札に貼り付ける,『時の立て札』と言う運動も起こっています.
この『写真週報』は国民の間に深く浸透したのですが,1945年7月11日を最後に刊行を確認出来ません.
この後,空襲により内閣印刷局が焼失し,刊行が不可能になった為です.
しかし,敗戦後もこの『写真週報』『週報』の刊行継続が模索されました.
9月1日の情報局改組の際,その編集機能は第二部第一課に存置されました.
その努力も叶わず,結局11月11日に内閣情報局は解体される事となり,編集組織そのものが此の時点で消滅,12月31日には内閣情報局そのものも廃止されます.
因みに,この『写真週報』に携わった情報官のうち,下野情報官は国民出版協会会長などを歴任し,林情報官は電気通信省宣伝主査を勤めた後,作家として成功を収め,他にも高野龍雄情報官の様に,日本放送協会を経て内閣調査室で政府広報を担当し,内閣調査官となった人もいます.
意外にも,この中でパージされた人はいません.
写真家達も,Frontに流れた人もいましたが,日本週報社などに流れた人,独立して写真家となった者など色々な人がいます.
こうした写真宣伝の手法は,戦後も綿々と続いていった訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/07/01 22:04
▲
【質問】
WW2当時,日本ではカメラは「兵器」扱いだったって本当?
【回答】
昭和14年の「アサヒカメラ」によりますと,
コンタックス ゾナーF1・5つき 1700円
コンタックス ゾナーF2つき 1280円
ライカVa ズマールF2つき 1040円
ロボット テッサーF3・5つき 480円
つまり,地価が安かったこともありますが,「外国製カメラ1台=家1軒」は大げさではありませんでした.
軍事板,2005/05/08(日)
青文字:加筆改修部分
コンタックスやライカなどの輸入カメラだとやはり非常に高価で,例えば昭和10年頃のダットサンの販売キャンペーンで
「当節は,ライカ・手風琴・ダットサン」
というフレーズがあったほどです.
つまりライカは国産車一台と同程度の価格・価値だったわけです.
ちなみにダットサンは当時一台1000円くらいはしたわけで….
ただし,軍人は上海などで国内よりもかなり安く買ってこられたようで,かの坂井三郎氏もライカを愛用して常に手元に置いておられたのは有名な話.
名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE :軍事板,2005/05/08(日)
青文字:加筆改修部分
日本では高価なライカやコンタックスも,香港や大連など当時の自由貿易都市では,免税で安く買い求めることができ,この恩恵に浴した高級軍人や航空機搭乗員は少なくありませんでした.
当時の月給が大卒クラスで50円位だったことを考えるとお高いモノではありますが,戦前でも中流層以上では趣味や行楽のお供として,カメラは割と広く出回っており,新聞等で素人写真コンテストが開かれたりしてました.
しかし,昭和15年の「奢侈品等製造販売制限規則」「経済新体制確立要綱」により,高額のカメラが販売を禁止され,それ以外のカメラも高額の物品税が課されたり,フィルムや感光材料に価格統制が実施されますと,カメラはアマチュアの手を離れ,軍需や体制翼賛目的にのみ供されていきます.
昭和17年には殆どのカメラ・感光材料メーカーの工場が軍部の管理下に置かれ,徴用令によって生産スタッフは全員現地徴用となりました.
「写真兵器」と位置づけられたカメラや感光材料はれっきとした兵器の扱いになり,民間にはごくごく僅かな量しか,流通することはありませんでした.
この頃には写真雑誌も全て廃刊,写真師も「全国写真撮影業統制組合」を通じてしか,民需用の感光材料を入手できなかったのですが,その主な仕事は出征兵士の留守家族に対する撮影奉仕でした.
撮影した写真に関しては,新聞社の従軍報道員が撮ったものなどは厳重な検閲下に置かれ,民間,あるいはそもそも高価なカメラを持つことのできた高級将校や航空機搭乗員が撮影したものでさえ,日本に送ろうと思えば,検閲の網から逃れることは至難の業でした.
軍事板,2005/05/08(日)
青文字:加筆改修部分
【質問】
当時の日本の写真機の性能は,どんなものだったの?
【回答】
JTBから昔出ていた写真集で,「ジュラ電からSL終焉まで」と言う一連の作品があります.
この本は1947年〜1970年代までの鉄道写真を掲載しているのですが,写真器材も此処に出てきます.
フィルムなどは,映写フィルムの缶の様なものに,20枚入りフィルムが入っている様なものですし,フィルムも円筒形の容器にきちんと収まっているのは稀で,軍のフィルムを用いて撮影する場合もあったようですが,偵察機用のカメラのフィルムは,高感度,中粒子,コントラストの強いもので,これを暗室でばらして,ロールに巻き付けたりしてたそうです.
ちなみに,ブローニコダックなんかの性能は,今の写ルンですより酷いで性能だったみたいですね.
この要因は「物資不足」,これにつきます.
定着液,現像液の入手も難しいですし,現像技術についてもちょっと,と言う面がありました.
カメラ,特に国産カメラそのものの性能も貧弱だったので,なかなか保存に耐えうる写真は撮れなかったりします.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2006/03/02(木)
青文字:加筆改修部分
個人で艦艇写真を撮りためてた堀元美氏は,『写真集連合艦隊』(朝日ソノラマ文庫,1986.11)のエッセイで,当時の写真機材(レンズとフィルム)は,戦後から振り返ってみると非常に貧弱だったと書いている.
場合によっては「写っていれば御の字」なんていう状況だった模様.
軍事板,2006/03/02(木)
青文字:加筆改修部分
【質問】
軍部報道映画班って何?
【回答】
映画による宣伝活動のための班で,映画は初め宣伝班が映画公社を設け,製作から配給まで受け持っており,満州事変のニュース映画は公開個所1501,公開回数4002,観衆は1千万人を記録しました.
その後,1942年12月に改組により宣伝部となり,庶務・宣伝・映画・新聞・放送の5課がもうけられ,映画は43年には民間に移管され,日本映画社が製作,映画配給社が配給を担当しました.
たとえば小津安二郎は戦争中は,軍部報道映画班としてシンガポールへ赴任し,同地で『風と共に去りぬ』など,接収された大量のハリウッド映画を観て過ごしたそうです.
【参考ページ】
http://www.masrescue9.jp/guest/back_no/maesaka5.html
http://www.waseda.jp/prj-m20th/activity/resume_0524_1.html
http://www.k5.dion.ne.jp/~moeko/goshuenoyobigoe.html
http://www.mube.jp/pages/ozu_2.html
http://sentence.exblog.jp/1297759/
【ぐんじさんぎょう】,2009/2/20 21:00
に加筆
小津安二郎
(画像掲示板より引用)
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