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「MURAJIの戯れ言so-net blog版」◆(2010/07/26)特高月報
「朝目新聞」(2013/03/12)●外務省幹部「日本の暗号はすこぶる幼稚」終戦後も国際舞台で「絶大な不利」を招くと警鐘
「神保町系オタオタ日記」■(2005-12-08) [民族学]国策プロパガンダ雑誌「FRONT」顧問としての岡正雄
「神保町系オタオタ日記」■(2005-12-18) [文藝]ミスターSF 福島正実
『戦後「翻訳」風雲録』(宮田昇著)から
「蘭」特務機関員
「神保町系オタオタ日記」■(2006-04-22) [スメラ学塾] 情報官鈴木庫三とクラブシュメールの謎(その6)
「神保町系オタオタ日記」■(2006-04-23) [スメラ学塾] 情報官鈴木庫三とクラブシュメールの謎(その7)
「神保町系オタオタ日記」■(2006-04-24) [スメラ学塾] 情報官鈴木庫三とクラブシュメールの謎(その8)
「神保町系オタオタ日記」■(2006-04-25) [スメラ学塾] 情報官鈴木庫三とクラブシュメールの謎(その9)
「神保町系オタオタ日記」■(2006-04-26) [スメラ学塾] 情報官鈴木庫三とクラブシュメールの謎(その10)
「神保町系オタオタ日記」■(2006-04-27) [スメラ学塾][文藝] 情報官鈴木庫三とクラブシュメールの謎(その11)
「神保町系オタオタ日記」■(2006-05-04) [トンデモ][スメラ学塾] 情報官鈴木庫三とクラブシュメールの謎(その12)
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「神保町系オタオタ日記」■(2006-06-29)[スメラ学塾] 情報官鈴木庫三とクラブシュメールの謎(番外)
「神保町系オタオタ日記」■(2006-06-30)[スメラ学塾][文藝] 情報官鈴木庫三とクラブシュメールの謎2(番外)
「神保町系オタオタ日記」■(2006-07-02)[スメラ学塾] 情報官鈴木庫三とクラブシュメールの謎3(番外)
「神保町系オタオタ日記」■(2006-07-03)[スメラ学塾] 情報官鈴木庫三とクラブシュメールの謎4(番外)
「神保町系オタオタ日記」■(2006-09-13)[スメラ学塾] 情報官鈴木庫三とクラブシュメールの謎
「神保町系オタオタ日記」■(2006-09-14)[スメラ学塾] 情報官鈴木庫三とクラブシュメールの謎
「神保町系オタオタ日記」■(2006-09-15)[スメラ学塾] 情報官鈴木庫三とクラブシュメールの謎
「神保町系オタオタ日記」■(2006-09-16)[スメラ学塾][出版] 情報官鈴木庫三とクラブシュメールの謎
「神保町系オタオタ日記」■(2006-09-17)[スメラ学塾] 情報官鈴木庫三とクラブシュメールの謎
「神保町系オタオタ日記」■(2006-09-18)[スメラ学塾] 情報官鈴木庫三とクラブシュメールの謎
「神保町系オタオタ日記」■(2006-09-19)[スメラ学塾] 情報官鈴木庫三とクラブシュメールの謎
「神保町系オタオタ日記」■(2006-12-02)[宮本常一][谷崎潤一郎]
宮本常一と谷崎潤一郎その他
『FRONT』関連
「神保町系オタオタ日記」■(2007-10-15)外務省情報部事務嘱託としての小野秀雄
「神保町系オタオタ日記」■(2007-11-24)[文藝]
李香蘭と堀田善衛
「昭和通商」関連
「神保町系オタオタ日記」■(2008-07-23)幻の内閣情報部婦人情報官
>「連続する情報戦争「十五年戦争」を超える視点」(『岩波講座 アジア・太平洋戦争 第3巻』)によると
「神保町系オタオタ日記」■(2008-10-03)甘粕正彦の南洋行
「神保町系オタオタ日記」■(2009-10-24)[柳田國男]一水会と柳田國男
>中村氏によると,情報交換の場,サロンというような性格の会で,
>同会に関する専門研究はないという.
「神保町系オタオタ日記」■(2010-06-16)内閣情報部情報官柴野為亥知
「神保町系オタオタ日記」■(2010-08-24)河豚計画と笹川良一
「神保町系オタオタ日記」■(2010/09/02)『満洲の情報基地ハルビン学院』
「神保町系オタオタ日記」■(2011-02-04)ポール・ケートの国際インターナショナル倶楽部と権無為
昭和初期.諜報関連?
「神保町系オタオタ日記」■(2011-09-01)内田樹の父内田卓爾のヒストリー
諜報関係?
「神保町系オタオタ日記」■(2011-09-27)[図書館]中條辰夫と中村屋サロン
エロシェンコ関連
「ほんとにあった修羅場な話」◆(2014/04/12) 父は未成年で徴兵された戦争経験者。その内容がとても修羅場だった…
『阿片王 満州の夜と霧』(佐野眞一著,新潮文庫,2008/7/29)
『阿片王』(佐野眞一著,新潮文庫,2008.8)書評――なぜ,アヘンを取り扱ったことに対して里見甫は悪びれた様子もないのか,その意味も解き明かして欲しかった.<浦辺登
『甘粕正彦 乱心の曠野』(佐野眞一著,新潮文庫,2010/10)
『暗号を盗んだ男たち』(檜山良昭著,光人社,1994.1)
日本陸軍の暗号開発の黎明期から末期までを,各関係者のインタビューを小説風にまとめた本 .
日本陸軍に暗号の基礎を教えたのが当時,共にソ連と緊張状態にあったポーランドの軍人だったのが意外だった.
ずっと,日本に教えたのはドイツだろうと思っていた.
末期にアメリカの暗号解読に行き詰まりを感じていた中央特殊情報部研究部が,アメリカの暗号はクリプトテクニックという暗号機を使用して作成されていることに気がつき,さらに民間の数学者にも解読に協力を依頼し,ついに暗号を解読するところは,出来のいい映画を見てるようだった.
日本軍についての書籍を読みあさるようになって十年以上になるけど,日本陸軍の主要な暗号は,米軍には解読されておらず,なおかつ米国務省の暗号を,末期には解読していたという事を,今まで知らなかった自分が恥ずかしくなった.
全体的に解読と暗号作成のエピソードが入り交じり,分かりにくかったが,日本陸軍の暗号開発の内情を知るにはお薦めの一冊だと思う.
――――――軍事板,2011/02/15(火)〜02/16(水)
『大川周明 アジア独立の夢』(玉居子精宏著,凡社新書,2012/08/12)
>大川周明を所長とする東亜経済研究所附属研究所.それは“スパイ養成学校"だったのか?
『開戦前夜の「グッバイ・ジャパン」 あなたはスパイだったのですか?』(伊藤 三郎著,現代企画室,2010.6)
『消えたヤルタ密約緊急電 情報士官・小野寺信の孤独な戦い』(岡部伸著,新潮社,2012.8)
『実録 陸軍中野学校』(2010/06/23)◆「スパイ&テロ」
『写真の裏の真実 硫黄島の暗号兵サカイタイゾーの選択』(岸本達也著,幻戯書房,2011.12)
『情報士官の回想 第二次大戦における海軍の通信諜報』(中牟田研市著,朝日ソノラマ文庫,1985.5)
実松氏の本を読んだ後には,ぜひ読んでみるといいですね.
実松氏の情報解析に関する考え方は間違いですと,実際にやっていた人が書いた本.
------------軍事板,2011/03/16(水)
『情報覇権と帝国日本2 通信技術の拡大と宣伝戦』(有山輝雄著,吉川弘文館,2013/7/29)
『深海の使者』新装版(吉村昭著,文春文庫,2011.3)
初出はかなり前だけれど,今読んでも遜色ない,完成度の高い内容だと.
惜しむらくは一部訳語が怪しかったり,その後判明した事実が,反映されなかった点かと.
後者は,解説にもあるとおり,著者が戦記から撤退してしまったんで,止む得ないけれど.
------------軍事板,2011/04/06(水)
『最後の忍者どろんろん』(藤田西湖著,新風舎文庫,2004.11)
中野学校でも教官を勤めた藤田西湖(甲賀流忍術14世)の自叙伝.
『全記録 ハルビン特務機関 関東軍情報部の軌跡』(西原征夫著,毎日新聞社,1980.10)
『戦地憲兵 中国派遣憲兵の10年間』(井上源吉著,図書出版社,1980.11)
その名の通り,華中・華南の戦線や後方の都市で憲兵をしていた著者の戦記.
戦地の憲兵が,本当に色々な職務を行っていたことが分かる.
俺がこの方面に本格的に入った時に,初めて読んだ戦記だったが,とても面白かった.
――――――軍事板,2011/04/24(日)
『第2次世界大戦期日本の諜報機関分析 8巻セット』(山本武利編,柏書房,2000.4〜)
『大本営参謀の情報戦記―情報なき国家の悲劇』(堀栄三著,文春文庫,1996/05)
読了.
大本営第二部(情報部)に所属し,主に対米の諜報を担当していた著者の作品.
読み終えた後に,もっと早くに読んでおけば良かったと後悔した.
アメリカが日系移民を収容所に入れたのは,
「日本軍が移民を用いて築いた対米諜報網の壊滅を狙ったもの」
という著者の解釈に目から鱗だった.
しかし,昭和18年の末になってからアメリカの戦力や戦法の研究を始めたという,大本営のあまりにの泥縄ぶりにはめまいがした.
------------軍事板,2011/03/16(水)
読了.
陸軍幼年学校,陸軍士官学校(46期)と進み,騎兵として満州で討伐戦に従事したのち騎兵学校の教官をやり,その後陸大に入学して1943年に卒業(56期),戦車兵として訓練を受けたのち,大本営の第2部(情報)に配属された著者の戦記.
割と有名な本なので,あらすじは端折るが,一言でいうと「情報版『海上護衛戦』」.
こちらの著者のほうが10歳以上若く,階級も下だが,基本的には
「自分がかかわってきたことの重要性,そしてその方面に関する軍の無知・無関心を知ってほしい」
という意識のもと書かれた本である.
書き方が3人称であることも共通点.
こちらは,旧軍の情報戦に注目が集まっているときに,要望に応える形で出したもので,また,戦中に戦地へ実際に出向して勤務しているため,中央部のグダグダや適当さがわかりやすく,例として実際の任務を取り上げながら語られるため,理解しやすい.
特に戦後の部分は,国勢比較などの背景説明があまり入らないため,情報任務に話が絞られている.
一方,まだ若い戦争直後に書かれたものをベースとしており,また問題意識が非常に強いため,「?」と思う部分や事項の誤り(例えば米軍が陸海の航空部隊を統合して,第2次世界大戦に臨んだとするなど),また煽っているような部分も少し見受けられるが,日本軍の情報に関する話をわかりやすく読めるという意味では,現在でも有用な本である.
個人的には,満州自体の集団長が,著者がさらっと流す割にとても良い人に見えたのと,ルソン島のイポの司令部で退職金の話をしていて,著者に怒鳴られる年寄りの大尉に同情してしまった.
書き方を見るに,山下将軍に諭されても,真面目に軍人として歩んできた著者には,死ぬまでこの大尉の気持ちがわからなかったのではあるまいか….
また,初期自衛隊の割と下の方(例えば陸上幕僚監部第2部長)まで,文官で構成されていたのに驚いた.
著者をはじめとする歴戦の部下を扱う,文官の第2部長はさぞ大変だったことだろう.
本の中で,日本陸軍中央特種情報部(特情)が,終戦前に海外放送を傍受して終戦を知り,資料を3日かけて焼却して暗号機を破壊,暗号表は土に埋めた.
ところが,アメリカによる参戦誘引をにおわせるような資料も含めて,全部燃やし尽くしちゃって,東京裁判で困ったという話が載ってる.
組織利益だけ考えて,焦って焼却しちゃった話だと筆者は締める.
俺は情報関係者じゃないけど,こういう形で過去のことが分からなくなっていくのは,歴史学を学ぶ者として非常に残念.
-----------------軍事板,2011/12/26(月)
「国際インテリジェンス機密ファイル」◆(2012/11/01)堀栄三『大本営参謀の情報戦記』を読み解く
『治安維持法小史』(奥平康弘著,岩波現代文庫,2006.6)
『諜報憲兵 満州首都憲兵隊防諜班の極秘捜査記録』(工藤胖著,潮書房光人社,2013.5)
『諜報の天才杉原千畝』(白石仁章著,新潮選書,2011.2)
『特務機関の謀略 諜報とインパール作戦』(山本武利著,吉川弘文館,1998.12)
『特高外事月報』(旧『特高月報』)
今日,図書館で確認しましたら,「外諜取締関係」のところに,当時の外国による諜報についての記事が若干ありました.
さらっとしか見てないので詳しいことはわかりませんが,昭和13年7月分には米国大使館が,武官や「ジャパン・アドバタイザー」社および米国系商社などによる情報収集をしているとの報告がありました.
------------軍事板,2001/09/20
『特高警察』(荻野富士夫著,岩波新書,2012/05/23)
『日本軍のインテリジェンス なぜ情報が活かされないのか』(小谷賢著,講談社,2007.4)
参考文献も豊富に引用されているし,情報関係の本を何冊か読んだ後に読むならいいと思う.
ただ,ある程度予備知識がないと,読んでいて苦痛だと思う.
------------軍事板,2011/03/16(水)
『日本陸軍「戦訓」の研究 大東亜戦争期「戦訓報」の分析』(白井明雄著,芙蓉書房出版,2003.2)
これも中々よろしい.
情報を集めることはいい.
細かいディティールまで,日本陸軍は情報を集める.
しかし,その情報のパーツを集めて,有効に生かすということができない.
作戦課と情報課の対立とか,情報収集に関して日本陸軍が,どのくらいやっていたかは分かる.
いくら戦訓を集めても,作戦部門が中々言うことを聞いてくれないという図式は,何も日本だけの問題ではなかったけどね.
------------軍事板,2011/03/16(水)
『秘録陸軍中野学校』(畠山清行著,新潮文庫,2003.8)
『続・秘録陸軍中野学校』(畠山清行著,新潮文庫,2003.8)
題材の性質上,当時の関係者(殆ど仮名)の証言のみがソースで,初出がサンケイ新聞(当時)の連載だけに「読み物」色が強いが,個々のエピソードはいずれも興味深い.
――――――軍事板
『まつろはぬもの』(シクルシイ著,寿郎社,2010.11)
「戦場の狗」の著者の新しい本が出ていたので読んでみた.
まつろはぬ・・は従わざる者といった意味らしい.
戦場の狗が戦闘詳報的なものとするとこちらは,人間の会話,心の動きといった,前著を補完するような内容.
個人的には大変ウレシイ.
「戦場の狗」では,著者にあまり人間味を感じなかったが,今回のは全然違う.
あとがきにもあるが,本の内容って編集者の匙かげん一つで,結構変わってしまうものなんだねぇ.
まあ,当たり前か.
ある種,映像制作なども一緒なのだろうが.
――――――軍事板,2011/03/06(日)
『「丸」別冊 不敗の戦場 中国大陸戦記』
その中の「日中金融戦争の舞台裏」が面白かった.
日本が中国の貨幣である法幣の価値を下落させると,米英の金融家が開戦前なのに中国を支援して,法幣を買い支えたり,偽札で中国経済を混乱させようと陸軍登戸研究所で作った偽造法幣が,本物と見分けが付かないほど精巧だったので,あまり効果がなかったりと,武力を用いない戦争の一面が見れてなかなか良かった.
国府側が最後の手段として,内陸部と沿岸部の経済切断の荒業を実行して終わるのが面白かったな.
――――――軍事板,2010/05/30(日)
『満州の情報基地・ハルビン学院』を読み解く (2013/03/26)◆「国際インテリジェンス機密ファイル」
『陸軍中野学校終戦秘史』(畠山清行著,新潮文庫,2004.6)
『陸軍登戸研究所と謀略戦 科学者たちの戦争』(渡辺賢二著,吉川弘文館,2012.2)
【質問】
戦前の日本にSISのような対外諜報機関は存在したのでしょうか?
また,陸海軍内に防衛庁情報本部のような部門は存在したのでしょうか?
存在したとしたら,その部門は正常に機能していたのでしょうか?
【回答】
国外諜報を担当する機関は,陸軍に統帥範囲外の軍事・外交情報を行う,俗に言う「特務機関」(正確にはこの名称は本来の意味ではありませんが)が,ソ連,中国大陸,満州に設置されていました.
他は,各国に設置されている外交公館で駐在武官,文官が独自に情報を収集する形で,動いていましたし,豪州のアラフラ海なんかでは,真珠貝採取船に擬装した船で情報収集をしていたりします.
但し,活用という面から言うと,余り活発ではありません.
寧ろ,蔑ろにされたケースが多かったりします.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】
日ソ中立条約があったころ,満ソ国境ではどんな諜報活動が行われていたんですか?
お互いにばんばん偵察機を飛ばしたりしてたのでしょうか?
【回答】
国境の監視所からの定点観察(向地偵察)でも十分情報を得られたのですが,日本側がソ連奥地の情報を得るためにはクーリエを利用していました.
クーリエ(外交伝書使)とは,日本からモスクワの日本大使館に連絡を付けるための外務省の特使便です.
モスクワへの往復の旅は,シベリア鉄道を利用して約一ヶ月かかりました.
この間に沿線の情報を可能な限り収集し,持ち帰って分析するのが彼らの真の任務で,外務省仕立てではありますが,実際は偽名を使った軍人が赴いていました.
当然,真の目的はソ連側も承知している危険な任務で,20年4月には,二人のクーリエがGPUによって毒を盛られて一人が死亡し,機密文章が盗み見られるという事件が起こっています.
かの瀬島龍三参謀も19年12月〜20年1月にクーリエとしてソ連に赴いています.
名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE :軍事板,2005/06/29(水)
青文字:加筆改修部分
【質問】
うちのじいちゃんは満州の特務機関に入る予定だったみたいなんですが,どういう部隊だったんでしょうか?
スパイ活動をする所だといってました.
じいちゃんは満州の依託学生として,毎月40円の月収で,横須賀(?)の学校で中国語を勉強していたらしいのですが,終戦で解散となったようです.
でももし終戦前に仕事についていたら,中国人として生きて日本の名簿からは消される予定だったみたいです.
じいちゃんに,なんで志願したのかを聞くと,
「当時はそういう考えが普通だった.
周りの友人は予科練など様々な分野で軍隊に入隊していったが,オレは目が悪かったから兵隊になれなかった」んだそうです.
【回答】
「特務機関」の元々の意味は,官衙,学校,軍隊以外の陸軍の機関で,元帥府,軍事参議院,侍従武官府,東宮武官,皇族王族公族付武官,陸軍将校生徒試験委員,外国駐在員.準ずるものとして,依託学生,生徒,外国留学生,大公使館付陸軍武官がそれに当たります.
しかし実際には,中国,満州,シベリアなどにあった謀略・諜報機関で,統帥範囲外の軍事・外交情報収集に当たる機関の意味が一人歩きしてしまいました.
1940年頃の満州には,哈爾浜,ハイラル,黒河,大連,牡丹江,延吉,チャムス,三河,密山,大同,西ウジムケン,張北などの各地区に置かれ,少将から大尉までが機関長となっていました.
質問者のお爺さんは現地に送られなくて良かったかもしれませんなぁ.
俺の祖母様の弟は,現在のメガバンクの前身に勤めていて,将来の幹部候補だとか言われたそうですが,中国語が堪能だったことから,その銀行の中国支店に転勤となり,現地で徴用.
特務機関に配属された所までは判っていますが,其処から先,何処でどんな風に死んだのか,全然判らなかったり.
行方不明の上,軍属だったので恩給も無く,その後,大叔母とその息子は相当苦労したみたいです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/08/05(金)
青文字:加筆改修部分
【質問】
F機関工作とは?
【回答】
植民地時代,イギリス軍はインド人を兵士として使った.イギリス軍兵士の7割はインド兵が占めていた.
大東亜戦争が始まる3ヶ月前,参謀本部第8課の藤原少佐が,インド人を味方につけるために,バンコクの大使館付武官であった田村浩大佐のもとにやってきた.
田村大佐がインド人をまとめるために拓殖大学出身の満州浪人神本利男を使ってハリマオ工作を進めた.
ハリマオはマレー語で虎の意味である.
ハリマオは日本名を谷豊(たにゆたか)といい,マレー人の部下が千人もいる匪賊の頭目だった.
〔略〕
マレーの匪賊だったが,日本軍のマレー半島攻略に協力しマレー解放のために戦った.
田村大佐はインド独立連盟の組織とも関係があった.
藤原少佐は大東亜戦争が始まると同時に,これらの人脈を受け継いで,F機関と名乗ってマレーに潜入した.
F機関とは,友(Friend),自由(Freedom),藤原(Fujiwara)
の頭文字で,イギリス軍中7割を占めるインド人将兵に働きかけ,インド独立のために立ち上がらせる事を目的としていた.
F機関員はたった9名(その後10余名に増える)で,参謀本部から中尉が二人・中野学校から大尉が一人と少尉が二人軍曹が一人・民間人通訳の石川と太田黒の9人でインド将兵を協力させる工作を行った.
インド独立連盟の書記長プリタムシンは,同志6人と共にタイ南部,ハジャイの街にF機関と共に入り込み,インド独立の旗を掲げてインド人相手に大演説を行った.
当時マレー半島には90万人のインド人がいたが,インド人は「ジャーヒンキー!(インド独立万歳!)」を合い言葉に心をひとつにした.
マレー人とインドネシア人は「ムルデカ!(独立万歳!)」を合い言葉にし,大人も子供もその言葉を挨拶にした.
▼ 〔略〕
〔大東亜戦争勃発後,〕タイ国境に近い山岳地帯には,英連邦軍がジットラ要塞を守っており,大変な激戦だったが,250数年白人に支配されていたマレー人は日本軍に味方し,情報や食料,薪や石炭をどんどん運んで協力してくれた.▲
〔略〕
マレー半島でのインド独立連盟の働きもすばらしく,国境のジットラ・ラインを越えてからは,プリタムシンは,ペナン島で一晩で数万人のインド兵を味方につけた.
おかげで日本軍はペナン島の無血占領に成功した.
また,後に独立インドの大政治家となる指導者たちを獲得した.
ジットラ・ラインを越えたアロースターでは,日本人の中宮と椎葉はマレー人に変装して,英軍に連れ去られたケダ州のスルタンを探して山の中に入り,山頂の寺院に籠もっていたラーマン王子を助けた.
ラーマン王子は,ペナンの放送局から,マレー全民に反英決起を促す放送をした.
――――ラーマン王子は戦後国民同盟を結成して民族運動を始め,1957年に独立,その後マラヤ連邦の初代首相になった.
日本軍がジットラ・ラインを突破してからは,F機関とインド独立連盟のメンバーがケダ州に入り,インド兵捕虜の説得に当たった.
インド兵は日本軍の主旨に賛同して次々と味方になり,インド兵捕虜が別のインド兵捕虜を説得してくれて味方が増えていった.
原住民からの情報で,マレーシア北部,ケダ州アロースター近郊のゴム園で約一個大隊の英印軍が孤立しているという情報を聞き,藤原少佐はプリタムシンと大田黒通訳の3人で,武器も持たずに自動車でゴム園に乗り込み,降伏勧告をおこなった.
大隊長だけがイギリス人中佐で,あとはインド人だった.
その中に,後にインド国民軍を編成して初代軍司令官となったモハンシンがいた.
藤原少佐とプリタムシンはモハンシンに,共にインド独立のために戦おうと説得した.
藤原もF機関も捕虜のインド兵も,朝昼晩同じテーブルで同じ食事をとった.
イギリス人は決してインド人と同じテーブルにはつかなかったのだ.
モハンシンと部下のインド兵は,藤原の
「共にインドのために戦おう,
我々は諸君の同志である.
この戦争はアジア解放戦争である」
という言葉を信じた.
〔略〕
日本軍はマレー占領と同時に軍政を敷き,真っ先に青年達の教育を開始した.
1942年(昭和17年)5月から翌年7月までの短い期間だったが,昭南訓練所で280名,マレイ興亜訓練所では1945年8月の終戦まで800名,日本留学17名,義勇軍の養成では2000名を訓練した.
その他に神本利男がハリマオと共にマレイ青年連盟を作って,マレー人に軍事訓練と精神教育をした.
ーーーマレーシアにはインドネシアのような独立戦争はなかった.
シナ,ポルトガル,オランダ,英国,日本と,列強の支配を受け続けてきたマラッカから独立運動が始まり,F機関の中宮中尉,マレー在住20年の老人椎葉が,マレー人に変装して山の中の寺院で出会ったラーマン王子=トンク・アブドゥル・ラーマンは,1956年2月20日,マラヤ連邦の独立宣言を英国人社交クラブで行った.
翌年8月31日,英国は独立を承認した.
トンク・アブドゥル・ラーマンはマレーシア初代首相となった.
マレーシア建国時の重要人物たちは,みなマレイ興亜訓練所や,日本留学経験者だった.
〔略〕
マレーシアの教科書では,日本のスパイ活動が巧妙であったという事が書かれているが,250数年間もイギリスの植民地にされていたマレーで,イギリス軍兵士として使われていたのはインド人だったから,インド人兵士に働きかけて無益な殺傷を避けるのは当然だったのだ.
〔略〕
日本のお姉さん in ≪ WEB 熱線 第899号 ≫2007/08/06_Mon
++++ ☆
なお,このメール・マガジンは転載自由
ただし上記の資料には一部に「わしズム」が含まれているため,その点は留意されたし.
【質問】
興亜院って何?
【回答】
1938年12月,対中国政策の一元化を図るため,内閣に設置された機関.
中央には総裁(首相)の下に政務,経済,文化,技術の4部,現地には連絡部が置かれたが,政務の実権は,現地軍の特務機関が握っていた.
1942年11月,大東亜省設置に伴い,廃止された.
これなら最初から,特務機関を強化したほうが良かったのでは?
【参考ページ】
『日本歴史大事典』2(小学館,2000.10.20),p.6-7
【ぐんじさんぎょう】,2011/01/04 21:20
を加筆改修
【質問】
「杉工作」とは?
【回答】
「杉工作」こと「対支経済謀略実施計画」は,偽造券によって国民政府の通貨「法幣」を崩壊させようとした,旧陸軍参謀本部第八課の工作.
昭和十四年夏から登戸研究所で本格的に始まり,印刷会社などの協力を求める一方,内閣印刷局の門外不出の秘伝とされた「黒漉(すき)入り」の技術を「盗みとる」など,試行錯誤を重ねて,同十五年夏には,本物そっくりの紙幣が完成し,量産体制も整った.
偽札は毎月二回ほど,長崎経由で上海に届けられ,現地では「松機関」が流通工作を担当した.
同機関の実質的責任者だった,軍の嘱託・阪田誠盛は流通工作のため,秘密結社「青幇(ちんぱん)」の幹部の娘と結婚して協力をとりつけ,青幇の首領で蒋介石の腹心でもあった杜月笙の家に,松機関の本部を置いていたという.
【関連リンク】
『陸軍贋幣作戦』(山本憲蔵,現代史出版会,1984.6)
▼ 2/20,陸軍登戸研究所で,戦争中に3科が印刷工場に使っていた木造建物が,取り壊しの前に説明会をするとのことで,行ってきました.
建物外観.「5」と付いてますが,当時から5号棟だったとのこと.googleマップでも5号棟となってます.
内部.建屋構造上,内部に柱がない設計となっていて,長大な印刷機が置けるようになっていたそうです.
ここには凹版印刷機があったそうな.奥の構造物は当時のままの手洗い場.
建物裏手.以前に5分の1ほど取り壊しをしており,床面のコンクリが露出しています.
排水口と鉄ふたは,当時のままの物で,印刷機が6ライン設置されていたらしいです.
Ai in 「軍事板常見問題 mixi別館」,2011年02月20日
▲
【質問】
「私も或る日,赤紙一枚で/太田俊夫」
陸軍の暗号は破られなかったと書いてある.
本当かと思ってちょっと調べた.
そうしたら「情報戦に完敗した日本/岩島
久夫」には,破られたということが書いてあるらしい.
他にも陸軍暗号について書かれた本ってありますかね.
【回答】
陸軍暗号については,昭和58年〜60年ころの「歴史と人物」で,岩島久夫と釜賀一夫の誌上論争が繰り広げられてるのが参考になるかも.
それぞれが,「破られてた」,「安泰だった」と対抗して論文を投じてる.
釜賀の記事は59年増刊号「証言太平洋戦争」,60年冬号(吉村昭らとの座談会).
あと,朝日ジャーナル1981年9月4日号に,発端となった岩島の論文があるようだ.
まとめて読んだ感じだと,以下.
・日本陸軍の暗号は方式として強度が高くて,いわゆる解読は困難だった.
・ただ陸軍でも船舶暗号や武官暗号などは,強度の低い方式の上,沈没船から乱数表などが回収されて,1943年半ばから一部解読されてしまった.
・一般陸上部隊用の暗号は,サイパンなどで機密資料が鹵獲されてしまい,それを元に「解読」(復号)されてしまった例が一部で見られる.
・米軍は通信傍受から相当に後,戦後まで復号作業を続けており,「読まれていた」といっても完全に時期遅れだったものが,かなり多い.
関連書籍についてだが,単純に暗号だけの話なら,『暗号解読』が一番かも.
一部に暗号の話が出てくる.
http://www.amazon.co.jp/dp/4584186413/
この本も資料的価値はすごい.
陸海軍の赤本の実物が載ってる.
軍事板,2010/01/11(月)
青文字:加筆改修部分
「暗号を盗んだ男たち」
という本もある.
1920年頃からの陸軍暗号と暗号解読の話.
ただしテクニカルな話は少なく,人物伝のような感じ.
アドバンスト杜聖 ◆REH634FRNQ in 軍事板,2010/01/11(月)
青文字:加筆改修部分
【質問】
部分的にワンタイムパッドを使っていたなんて話を聞いたような?
事実なら原理的に解けんね.
【回答】
重要電文には「無限乱数」「特別乱数」と称して広く使ってたようです.
特に前線部隊は,中隊レベルの通信までワンタイムパッド主体だったそうで.
おかげで,前線の電文をそのまま報道素材に使っても差しさわりがなく,アッツ島玉砕の電文とか,改変しないで新聞掲載にまわせたそうな.
ワンタイム(使い捨て)でない乱数表は,後方での重要度の低い通信や船舶暗号なんかで使ったと.
長期間離れて行動する艦隊に,ワンタイムパッドは採用しにくいとは思われるけど…
暗号システムそのもののよりも,運用の仕方の方が重要だったのかもしれない.
軍事板,2010/01/11(月)
青文字:加筆改修部分
【質問】
なぜ第2次大戦時の日本は,暗号をもっと解読困難なシステムにしなかったの?
【回答】
日本海軍の中枢については,現代で言えば素人的な,
「機構的にも欧米のとは違うし,また,鍵の組み合わせ数が無数にあるんだから解読は困難」
という発想でとどまっていたのが一点.
多くの機械式暗号は,そこらの人間だと
「こりゃ,解読は無理も同然」
と諦めてしまう程度には複雑だった.
(解読することは可能だが,恐ろしく手間と時間がかかるので現実的ではない,という思考)
また
「(部分的情報を元に)暗号システムを統計的・数学的など多角的に評価して,アルゴリズムを解析して云々」
という考えは一部であったが,単純な暗号機ならともかく,より高度な暗号機では現実的ではない,と評価されていた.
ただし,日本はあらゆる面で規格外のアメリカと戦争していた.
(陸軍は,外務省の九七式欧文印字機について学理評価を行ったところ,「こりゃ危ない」と結論づけてはいる)
【質問】
日本海軍には諜報機関はなかったのか?
【回答】
軍令部第3部が情報収集を担当していたが,それは主に暗号電文解読によるものだったという.
ただ,南城機関(G機関)なる特務機関が活動していた,とする話もあるが,確証は何もなく,噂の範囲を出ていないという.
詳しくは「軍事研究」2006年3月号を参照されたし.
なお,真珠湾攻撃に先立つ真珠湾についての情報収集は,駐在海軍武官が殆ど個人で行っていたという.
詳しくは,吉川猛夫著「東の風,雨」(朝日ソノラマ文庫)を参照されたし.
【質問】
日本陸軍には「シナ通」と言われる連中がいたそうだけど,陸軍はどの程度中国のことに精通していたの?
【回答】
『陸軍大学校』(上法快男編,芙蓉書房出版,1973/12)
によれば,悲しいことに,帝国陸軍は東南アジアどころか,中国の地誌すらよくわからないまま戦争をしていたらしい.
稲田中将によれば,漢口作戦時に昔の中国人はどうやっていたかを,部内外の歴史家に当たったものの,収穫無しだったとか.
このため作戦路の有無もわからず,地理の大まかな判断で,第2軍を西進させたとのこと.
『支那事変が始まって逐次拡大して行ったが,奥地の地理どころか,上海周辺でも,お先真暗』だったらしい.
稲田氏自身は東洋史に詳しくなかったそうだけど,探しても見つけられなかったのは問題だよなぁ.
個人個人で中国に詳しい人はいたんだろうが,資料や情報の共有が出来なかったんだろうか…
ちなみに,経歴をみると,漢口作戦時は参本作戦課長だったようだ.
この言葉をみて,これじゃあ日中戦争がああなったのも当然だわな……と俺は感じた.
この事には稲田氏も反省したようで,西ニューギニアに赴任したときは,全貌を空から観察してまわり,50万分の1の地図(稲田氏しか持っていなかった)ことで,なんとか迷わずに部下達と退却できたとか.
なんか,いろんな意味で泣けてくる.
軍事板,2012/03/09(金)
青文字:加筆改修部分
【質問】
「ベラスコの告白」はトンデモでしたが,NHKから出ているビデオ『NHK特集 私は日本のスパイだった 〜秘密諜報員ベラスコ〜』もトンデモなのですか?
【回答】
NHKの「秘密諜報員ベラスコ」は,東機関の諜報活動はどのようなものだったか,また日本側はその情報をどう処理していたかを,日本側の関係者のインタビューも交えて取り上げたもので,「ベラスコの告白」なるものとは全くの別物です.
実際にこのNHKの番組を見たことがありますが,陰謀論の類は出ませんでした.
東機関が報告したとされる情報も,米軍の反攻作戦の予兆やマンハッタン計画に関するものなど真っ当なものでした.
「ベラスコの告白」なるものは,高橋五郎という陰謀論本を多く出してる方の著書「超スパイ・ベラスコ」を主なソースとしたもので,NHKの番組とは無関係だと思われます.
2010年12月11日 22:01,フナムシ
2点ありまして,「NHKの番組とは無関係」というのは同意です.
私も放送を見ました.
実に感銘を受けました.
で,「ベラスコの告白〜高橋レポート」というサイトにはこんな記述が.
http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_hc/a6fhc106.html
>1984年の頃からベラスコは,回顧録の執筆を始めていた.
NHKのオンエアは82年9月21日です.
高橋氏がベラスコにインタビューしたのは,84年より後だと推認できますから,NHKがこれを参考にした,ということはありえません.
2点目.
高橋氏のことは承知していませんが,ベラスコも与太を吹きまくっていたのではないか,と思われます.
「昭和史の謎を追う 第十九章 失われた対米諜報」には,こんな記載が.
> 戦後すぐに祖国に帰り,1970年,陸軍情報部から引退したベラスコは
>回想録を出版したが,NHKテレビで紹介され有名になってから次の本を書いた.
> その中にはヒトラーの腹心だったボルマンを南米へ逃がしたとか,ドイツ
>製の原爆をロンメル将軍が米軍に引き渡し,広島に投下した原爆はその模造
>品だったとか,耳をそばたてるような「秘話」も出ているが,関係者は否定的である.
・・・まあ,秦先生が孫引きで書くとも思われないので,上記の,84年に書き始めたという回顧録には,そのような内容があるんでしょう.
大体ですな,マンハッタン計画に関する諜報活動を実際にベラスコがやっていたかどうかは,
「『東』情報に該当電がないので疑問は残る」(同書p.334)
なんですってよ,奥様.
なお,FAQには,
>……こんなのを諜報源としているようじゃ,そりゃ,日本は完敗するよ.
とありますが,同書では「東」情報を参考にした人が陸海軍,外務省にほとんどいない,という事実も指摘されています.
ベラスコの戦後の与太はともかく,戦時中は良質な情報を送っていたのも,公電(東京−マドリッド間のマジックサマリー)から判明しているので,この部分もどうかと思います.
〔ご指摘に従い,該当箇所は打ち消し線にて削除しました――編者〕
2010年12月14日 23:18,ぴぴ
以上,「軍事板常見問題 mixi別館」より
青文字:加筆改修部分
【質問】
高橋五郎っていう陰謀論者の本って,内容信用できるのかな?
特にベラスコの話.
【回答】
デタラメに決まってるでしょ.
欧州には,「WW2の秘話」とやらを飯のネタにしてる詐欺師なんて,ゴロゴロしてた.
ベラスコが日本の協力者だったのは事実だけど,大方戦後メシが食えなくなって,詐欺師稼業に精を出すようになっただけだろ.
落合ノビーも南米で,その手の詐欺師に騙されて,「20世紀最後の真実」なるトンデモ本を書いたけどさ.
疑い深く常に裏読みする癖のある奴は,自分が聞きたい情報を耳にすると,得てして一般人より簡単に,検証無しでトンデモ話を信じ込んでしまうもの.
軍事板,2011/06/01(水)
青文字:加筆改修部分
【珍説】
戦前の日本は,在米日系人を使った割とまともなスパイ網を持ってましたよ.
アメリカに完膚無きまでに潰されましたが.
(日系人全員を無差別に強制収容した)
【事実】
日系人を対象に諜報網を形成しようとする計画は実在しています.
松岡洋右外相が1941/1/30,在ワシントン大使館に当てた電報では,
「二世および日系人を利用すること」
という指示が出されています.
ただし日系人だけではなく,
「外国系アメリカ市民,反ユダヤ主義,共産主義,黒人運動,労働運動」
を調査し,利用する事を考えていました.
この活動に当たるべき諜報工作責任者,寺崎英成一等書記官は,着任後はこれらの他,アメリカ国内の非戦派人脈に対しても働きかけを試みています.
ただ,寺崎は,着任する前から米国諜報機関にマークされていました.外務省暗号が解読されていたからです.
結果として,これらの活動は殆ど成功していません.
例外として,黒人運動に親日派を作り上げることに成功していますが,これは寺崎よりも,国家主義結社「黒龍会」の1930年代からの活動の成果によるものです.
詳しい事は,春名幹男著「秘密のファイル」(共同通信社,2000/4/10)上巻の第2章あたりを.
(消印所沢 ◆z3kTlzXTZk in 「週刊オブイェクト」コメント欄)
【質問】
日本軍の対イスラーム工作について教えられたし.
【回答】
満州を独立させた関東軍は,蒙古聯盟自治政府を成立させますが,更に,外モンゴルとソ連を構成するカザフ社会主義共和国の南縁を環状に取り巻く寧夏,甘粛,青海,新疆の各省に住むムスリムに工作し,これらを日本の(と言うか関東軍の)影響下に独立させ,対ソ包囲網を構築すると言う壮大な目論見がありました.
その中でも特に甘粛と新疆に対する工作を重視し,此処を独立させた後は,中央アジアからイランにかけて日本の影響力を及ぼそうとしていました.
こうした構想を描いたのは,1933年頃に熱河省の承徳機関長を務めていた松室孝良でした.
彼は,満州国に次いで内モンゴル西部地方を蒙古国とし,それを梃子にして日本を盟主として中国西北地方に回々国,即ちイスラーム国家の建設を構想しました.
これに基づき,関東軍は先ずムスリムの好感を得て人心を収攬し,それによって彼等を懐柔する事に最大限の努力を行います.
その為,関東軍は信教の自由を保障し,モンゴル人の多数が信仰するチベット仏教は勿論,回民に対してはイスラームを尊重する方針で臨み,これと同時に外モンゴルでは共産主義によって反宗教政策が行われているので,彼等の影響下に入ると,自分たちの信仰が危うくなると宣伝を行いました.
また,内モンゴルの回民に対する工作活動を通じて満州国のムスリム達と相互連携し,これを日本のイスラーム政策に役立てようとします.
その一環として行われたのが,綏遠などの場所でモスク建設が積極的に行われました.
1938年1月8日,陸軍中央は,関東軍のこれ以上の満蒙地域への深入りを牽制すべく,新たに蓮沼蕃中将を司令官とする駐蒙兵団を編制,7月4日に駐蒙軍に改組して,北支那方面軍の戦闘序列に組み込みます.
以後,蒙疆政権のイスラーム政策は駐蒙軍によって推進されることになりました.
また,軍事面とは別に民間からこうした工作を行っていたのが,日蒙協会から発展した善隣協会でした.
この団体は1934年1月に設立され,理事長には井上璞退役陸軍中将が就任していますが,裏で糸を引いていたのは,前にも出てきた陸軍教育総監林銑十郎であり,海軍の宇垣一成でした.
彼等は,三井,三菱,住友,安田の各財閥から寄付を募り,それを基金にしてこの団体を設立します.
その年の8月から,善隣協会は満州国熱河省の多倫に内蒙支部を開設し,此処を拠点に教育と医療を中心とする活動を開始しました.
1937年8月に蒙疆政権が内モンゴルに成立すると,その活動を拡大させ,1938年4月には東京本部の他に張家口に在外本部を新設し,理事長の井上璞と総務部長のトゥラン主義者野副金次郎が常駐する体制となります.
この活動が可能となったのは,この団体に対する外務省からの補助金が日中戦争勃発に伴いいきなり潤沢になったことが挙げられます.
1937年の補助金は年額3万円だったのですが,日中戦争勃発により,近隣への工作活動を通じて日本の影響力を増すべきであると言う考えが国会を中心に強まり,外務省は翌年度の補助金額を一挙に10倍の30万円となり,以後も戦争の拡大により補助金額は青天井で拡大していきました.
因みに,所管部署は外務省から興亜院,そして大東亜省と変っていますが,所要経費は満額回答となっています.
更に元々徳川家正らによって細々と運営が続けられていた回教圏攷究所も,この善隣協会傘下に組み込まれ,こちらにも補助金が外務省から注がれることになりました.
一方,林銑十郎自身も,1938年9月9日に大日本回教協会が設立されると,初代会長に就任しました.
大日本回教協会は,善隣協会から日本におけるムスリム対策を実行する最高機関としての位置づけになります.
こうして,満蒙問題から日本はイスラーム政策に深入りせざるを得ない状況となっていった訳です.
軍事・政治面からは,駐蒙軍が対イスラーム政策を行う前線基地となりました.
回々国構想の具現化の為,内蒙古に隣接する西北5省のムスリムに働きかけ,この5省に親日的な防共独立国家を樹立させるべく工作を展開したのです.
彼等の基本戦略は,ムスリムに対し,本来的に共有する同じイスラームとしての強固な連帯感,団結心に訴えて反ソ,反共運動を起こさせると言うものでした.
この構想実現の為,駐蒙軍が設立したのが西北回教聯合会であり,張家口に本部が置かれ,蒙疆の他西北5省に居住する回教徒全体の交流の場と言う名目で活動を行いました.
この本部は後に西北地方に近いという理由で,厚和に移動し,支部が張家口,大同,包頭,厚和に設けられると共に,下部組織に各清真寺管下の教友をもって作られる分会がありました.
この団体が力を最も入れたのが,ムスリムに対する教育訓練で,初等学校の改革,即ち清真寺付属のアラビア語小学校に日本語科を設置すると共に,蒙疆政権下の各支部所在地で20〜30歳のムスリム青年を対象に,中等学校を導入していきます.
一方で善隣協会は,ムスリムの女子を対象に,善隣回民女塾を設立しており,それと軌を一にしています.
と言っても,この「青年学校」,単に中等学校としての機能だけではなく,「17〜25歳の概ね小学校教育を修了し,素質優良なる者」に対し,「特別教育」を施しています.
これは1期4ヶ月で年2回募集され,定員は張家口,厚和が各1回30名,包頭,大同が各1回20名となっていました.
更に,この中の成績優秀者10名内外が選抜されて,特別教育を行います.
その内容は,教練,教義礼拝に加えて満州電電公社発行のテキストを用いた日本語教育,更に比較的簡単な教科書である『世界の回教』または『回教の動き』をテキストに,イスラームの概説的な歴史を学ばせ,常識程度の地理,理科,算術(日本の小学校5〜6年程度)を学ばせました.
こうしたカリキュラムを修了した者は,「西北回教聯合会の中堅分子として働く義務を負う」とされましたが,実際には西北工作に於ける諜報活動に従事させていました.
また日本人工作者養成機関としては,興亜義塾と言う学校を作り,ムスリム工作の為の回教班を設けています.
これで対西北のムスリム工作は完璧になる予定でした.
しかし,国共合作と国民党のソ連連携とが情勢を変えていくことになります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/05/22 22:58
さて,昨日の続きですが,最初日本の西北工作は,内モンゴルから反ソ包囲網を西に向かって構築することを目的に行われていたのですが,日中戦争勃発による第2次国共合作により,中国共産党は陜西省を中心に甘粛,寧夏両省に跨る地域に陜甘寧辺区を成立させ,南から蒙疆政権下の内モンゴルとオルドス地方への攻勢を強めます.
また,蒋介石は重慶に逃れると共にソ連との関係改善に踏み切り,この結果,ソ連からの軍事,経済的支援のルートとして四川,陜西から甘粛を経て新疆,ソ連のカザフスタンに延びる西北ルートを開拓し,このルートを使って甘粛省の蘭州に精鋭軍を送り込み,寧夏から内モンゴル西部への攻撃を伺っていました.
これに対抗する為に,駐蒙軍が採った対策が,内モンゴル西境から寧夏,甘粛,青海諸地域に割拠するイスラーム系軍閥を手懐けるものでした.
当時,この地域には
内モンゴルの陰山山脈を南に据えた黄河沿岸の五原,
臨河地方に割拠した馬鴻賓,
寧夏省主席の馬鴻逵,
甘粛から青海に勢力を扶植する馬歩芳,
甘粛回廊のオアシス都市涼州周辺に拠る馬歩青
甘粛西部を根城とする馬仲英
がおり,俗に「五馬連盟」と称していました.
実際には,馬仲英は1931年に馬歩芳によって甘粛を追われ,新疆に亡命しますが,此処でも漢人軍閥の盛世才と争って敗れ,ソ連に亡命しており,この地にはいませんでした.
彼等自身は,長年中国国民党と交誼を保っており,どちらかと言えば反日に転ぶ確率が高かったのですが,日本軍が近づけば,容易に転ぶであろうと考えられていました.
この工作に邪魔になるのが漢人軍閥で,内モンゴル西部で未だに抵抗を続けていた,旧綏遠省主席の傅作義で,これを封じようとしてました.
ところが駐蒙軍よりも先に,関東軍の息が掛かった「イスラーム反共同盟」と言う政治団体が包頭に進出し,包頭を中心に過激な工作活動を展開しました.
彼等の活動は駐蒙軍を飛び越えて,関東軍,陸軍中央部,外務省を巻き込む形で展開されます.
当然,この動きに駐蒙軍は面白かろう筈はなく,1939年3月に駐蒙軍によって彼等の活動は止めを刺されました.
一方で駐蒙軍の工作活動は,余り表に出ることではなく,回民軍閥に対する工作は漢人を通じて,特に青幇に対する工作を行いながら,回民軍閥を懐柔しようとします.
回民軍閥と雖も,30〜50%は漢人が占め,その多くが哥老会,つまり青幇に入っている事から,搦め手から攻めるのが有効と判断した訳です.
実際,このルートでの工作に携わる人物は,この地域の交通を担う船頭や苦力が多く,黄河沿いの五原,臨河,寧夏,甘粛の動静や情報は事細かに入ってきました.
一方,紅幇も旧綏遠省,寧夏,甘粛に広がっており,こちらにも触手を伸ばしていたようです.
実際,馬鴻逵には合作を持ちかけ,色よい返事を貰っていたりします.
ところが,1940年2月3日〜3月20日に掛けて行われた五原作戦で駐蒙軍は,傅作義軍に手痛い敗北を喫し,以後,寧夏,甘粛方面への進出が出来ず,逆に,今まで合作に色気を見せていたイスラーム系軍閥が,掌を返した様に,国民党や共産党政府に取り込まれるのを指を銜えて見ているしか有りませんでした.
既に1938年6月の時点で,国民党政府は寧夏の馬鴻逵,甘粛から青海の馬歩芳に対して工作資金200万ドル,武器,弾薬,飛行機3機を供与し,共闘を持ちかけていました.
また,10月には蘭州に駐屯する朱紹良率いる精鋭軍を寧夏に移動させ,彼等を支援する体制を敷いています.
とは言え,彼等イスラーム系軍閥は未だその時点では自立の考えを捨てておらず,1939年4月の時点でも黄河沿岸の呉忠堡に税関を設け,朱紹良の不興を買ったりしています.
ともあれ,少なくとも彼等の目は日本の方を向いていませんでした.
中国共産党も負けず劣らず,彼等に対する工作を進めていました.
共産党はパルチザン活動を通じて,民衆に浸透すると共に,日本側に付いていた馬歩芳の元旅長で哥老会リーダーだった馬福山が起こした1942年末の暴動では,工作員を多数送り込み,武装蜂起を指導するようになっています.
何故,日本軍の工作が上手くいかなかったか.
それは,あくまでも関東軍,駐蒙軍が,対ソ戦略と言う政治面のみを重視してネットワークを作り上げようとしたからで,西北地方が渇望していた経済活動,取分け商業について少しも注意を払わなかった事です.
西北地方は羊毛,毛皮,アヘン,雑貨などを各地から集積し,それを回民の商人を介して,中国奥地もしくは北京を始めとする華北の国内市場や,天津を中心とする国外市場に売り歩く事で,深く諸地域と繋がっていました.
これを日本軍は理解しなかった為,商品の流れを断ち切ってしまい,結果的に回民の商人達が立ち行けなくなってしまいました.
国民党政府はこの点を理解していた為,逆に内モンゴルと寧夏,甘粛の通商路を遮断して日本とその勢力に屈した人々に打撃を与えると共に,ソ連に繋がる西北ルートを開拓することで,回民商人達の不満を吸収して,彼等を日本に靡くのを防いだ訳です.
1939年3月,この経済の流れに日本側は漸く気づき,蒙疆政権は西北保商督弁公処を包頭に設立し,キャラバン交易を模索することになりますが,それよりも諜報に重きを置いたが為に,回族商人達は一顧だにしませんでした.
また,共産党政府は国民党の更に一歩先を行き,回民を独自の民族と認めて大幅な自治を容認する政策を打ち出します.
これによって,寧夏,甘粛,内モンゴルの回民への影響力を増し,抗日運動に彼等を巻き込むことに成功しました.
こうして,日本の対西北工作は挫折を余儀なくされ,太平洋戦争の勃発は,中国よりも南方のイスラーム達に対する工作をする必要が生じて,西北工作は二度と試みられることは無かったりします.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/05/23 23:12
蒙疆地区から西北地区への日本の工作が失敗に終わった時期に,日本は南進政策へと舵を切ります.
そうなると,東南アジアに多くいるムスリムに対する宣撫工作が重要となってきます.
この時期に国内外のムスリムにとって重大な関心事だったのは,日本政府がイスラームを正規の宗教団体として認めるか否かと言う事でした.
1939年4月に,日本の宗教団体を政府のコントロール下に置く法律として公布された宗教団体法では,他の新興宗教団体と共に,宗教団体として必要な要件(教会数50,信徒数5,000)に達していないイスラームは正規の宗教団体とは認められませんでした.
この為,大日本回教教会が奔走した結果,1942年に興亜宗教同盟が結成された時には無事,イスラームもその中に入ることが出来ました.
東京モスクを日本イスラームのハードの象徴とすれば,回教公認問題はソフトな象徴であると見做すことが出来ます.
また,西北工作と並行した形になりますが,日本人ムスリムを育成する試みも参謀本部などがスポンサーになって行われていました.
そのうち,他のムスリムにも効果があるのは,ムスリムにしか入学が許されていないEgyptのal-Azhar大学に留学したり,Mecca巡礼に赴いて,ハッジの称号を得ることです.
ハッジの称号を得た最初の日本人は,1909年に巡礼に赴いた山岡光太郎ですが,この頃の巡礼者は何れも何らかのスポンサーを得て巡礼を行っています.
太平洋戦争時,Javaに派遣された鈴木剛は1934年(または1935年)を皮切りに3回巡礼していますが,このスポンサーは財閥,軍,南満州鉄道の後援でした.
また,Sulawesiに派遣された小林哲夫は,陸軍参謀本部の後援で1936年からal-Azhar大学に学び,1937年,1939年,1940年にMecca巡礼を果たしていますし,Burmaでの対ムスリム工作を行った菅葦信正も,al-Azhar大学に留学すると共に,1939年にMecca巡礼を果たしました.
こうした南方工作は,1930年代末から実施されており,1939年11月には,東京と大阪に於て,回教圏展覧会と言う催し物が開催されると共に,日本側が全面的に費用を負担して,蘭印を始めとした各イスラーム圏の代表者を招いた「世界最初」のイスラーム世界会議を開いていたりします.
とは言え,その研究は未だ緒に就いたばかりであり,先述の鈴木剛,菅葦信正らや,日本に滞在していたムスリムのクルバンガリーやイブラヒムなどが参謀本部第2部8課に出入りして策を練っていました.
この結果1941年3月に作られた『南方作戦ニ於ケル占領地要綱案』では,宗教尊重の方針が明確に打ち出されることになりました.
ただ,彼等を尊重すると言うものではなく,彼等の宗教に干渉してトラブルを起こさない様に周知徹底を求めただけで,住民宣撫には程遠い内容でした.
その後,1942年3月14日に定められた「占領地軍政処理要綱」ではもう少しマシになっており,既存宗教を尊重すると共に,イスラームを積極活用し,日本の宗教は進出させないとしています.
ただ,その活用は民心掌握の為の方策であり,国策の遂行を妨げない限りと言う前提がつけられていました.
因みに,その方針は対象宗教によって多少のブレが生じています.
イスラームはキリスト教文明に抵抗するものとして,最も寛容な政策が採られ,民心掌握でも最も有効に利用されていました.
尤も,日本人から見るとその価値観が異質である分だけ,意識的に政策関与したものと言う見方もあります.
仏教についても,日本と文化的にシェアするものとして寛大な政策が採られましたが,小乗仏教と大乗仏教の違いを理解しない無意識の干渉は有ったりした訳で.
キリスト教については,基本的に敵性宗教でした.
ただ,ローマカトリックについては,バチカンを中心に全世界が一つのヒエラルキーの元で固く結ばれているとして,もし,それに対する迫害乃至干渉を行えば,法王庁以下に波紋を生じる事になり,取り扱いに注意を要するとして,比較的寛容な政策を採っていました.
一方でプロテスタントについては,「敵性発揮の事実も遙かに熾烈」として危険視し,1943年8月16日に「基督教新教諸教会取締準則」を定め,教会主管者の選任に注意する様に通牒が出されていました.
ところで,イスラーム世界に日本の宗教を進出させないとしていましたが,それも現地機関の方針によってブレる事があります.
例えば昭南(Singapore)では,南方総軍によって1942年12月に,昭南神社が造営されましたが,この時の言い訳は,「所謂宗教政策以上に超然たる所」(つまり,神道は宗教を超えたものである)として,その建立を正当化しており,現地人には参拝を強制させないと言う立場が採られていますが,1944年5月に作成された馬来軍政監部文教科報告書では,各種学校の修身教育に宗教教育を採り入れ,昭南神社や忠霊堂参拝を実習させるべきであるとの方針が表明されていました.
日本軍の敗色が濃くなってくると,現地宗教を尊重する余裕が無くなってきたのでしょうか.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/05/24 21:28
【質問】
「偽札で中国経済を混乱させようと陸軍登戸研究所で作った偽造法幣が,本物と見分けが付かないほど精巧だったので,あまり効果がなかった」
とは,どういう意味?
偽物を見分ける努力を相手にさせられないから,効果が薄かったって事?
インフレ起こして経済を混乱させることは,できそうに思えるけど.
【回答】
偽札が精巧すぎて中国側が取り締まる方法がなかったので,ある程度価値下落に効果があったが,法幣を無価値には出来なかった.
本物と全く見分けのつかないので,偽造通貨が本物と同価値になったらしい.
本文にはなかったけど,恐らくインフレになるほど偽造通貨を用意できなかったのだと思う.
ちなみに著者は檜山良昭.
軍事板,2010/05/30(日)
青文字:加筆改修部分
【質問】
太平洋戦争直前に龍田丸を用いて行われた,真珠湾軍港情報収集活動について教えられたし.
【回答】
『撃沈された船員たちの記録』(土井全二郎著,光人社NF文庫,2008.5),p.20によれば,憧れの龍田丸に配属された三等航海士が,乗船三日で交代を命じられて下船.
しかし交代要員の二人は「東京高等商船学校の同期生」を名乗るが,この三等航海士には見覚えが無い.
(同期生は僅か三十人)
その正体は真珠湾の偵察を命じられた海軍軍人.
この時,龍田丸船長も軍の極秘命令により,潮流に流された振りをして軍港間近まで船を乗り入れたとか.
グンジ in mixi,2008年05月25日17:13
【質問】
第2次大戦中,日本軍は通信傍受だけでも,米軍の行動の予測が出来ていた,というのは本当ですか?
【回答】
暗号本文は読み出せなくても,発信符号とか発信系図をつくると,ぼんやりと敵の意図が見えてくるんだよ.
沖縄周辺で米潜水艦がさかんに偽電を発信して,ハワイ,サイパン方面でしきりに上陸船団編成と思われる指令発信と受領発信がくりかえされる.
「すわ沖縄上陸か?」
と皆,思うんだけど
「でも受領発信は海兵隊ばかりで陸軍の返信がない.
沖縄のような巨大な島を海兵隊だけで攻略するだろうか?」
と分析し,
「硫黄島じゃねえの?」
と分析する.
見事だと思った.
岡本喜八『沖縄決戦』でも昭和20年4月1日,沖縄現地部隊の敵信傍受班が
「今朝未明より,米軍は(HQ→各部隊へ)戦術呼出符号を呼び出し始めたり」
「右は硫黄島上陸,3時間前に告示しありて」
「今朝,敵は沖縄上陸を決行する算,きわめて大なり」
と分析.
こういうこと.
情報理論だと,つまり平文(作戦準備のさまざまな現象.船団の集積や部隊編成や通信量の多寡)があって,それにノイズ≒疑似乱数(別方面での偽電発信や,偽の船団編成の通信.本当の侵攻部隊は作戦発起時,通信を封鎖するから,減少した分の別な偽信発信)を被せると,全体が暗号化(混沌として作戦意図が敵から見えなくなる)されるんだけど,どうしても人間のする事だから,疑似乱数=偏差(前述,陸軍の発信がない)が起きる.
その偏差をみて,分析官は敵の意図を見破るわけ.
保険会社が統計的手法で,保険詐欺と本当の事故や盗難,偽装自殺を見破る手法もこれなんだが,まあそれは余談.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
日本で方言を暗号代わりに使用した例はあるのでしょうか?
【回答】
ある.
太平洋戦争中,潜水艦の派遣で欧州の大使館と連絡を取った時に,通信方法が国際電話しかなく,薩摩弁で機密事項を連絡したことがあったそうな.
盗聴した米国は会話を全く理解できず,世界中の言語を探したあげく,やっと薩摩弁とわかった時にはもう,潜水艦は欧州に着いていたとか.
【質問】
第2次大戦中,捕虜にされた日本兵から機密情報がダダ漏れだったと聞くけど?
【回答】
尋問対策教育のレベルが低かったため.
下は「尋問問答集」という,陸軍省が出した教育で使う本に出てくる内容.
想定尋問 | 適切な回答 |
日本軍はどのぐらいの規模か ? | 国民皆兵なので1億 |
機関車の速度はどれほどか? | 毎時80km |
何を目的でここに来たのか? | 大東亜共栄圏を構築保持するに辺り貴様等を倒す為 |
お前の部隊の任務は何か? | 大東亜共栄圏を構築保持するに辺り貴様等を倒す為 |
よく言われる,「全く尋問対策の教育がされていない」は嘘.
【質問】
海軍乙事件で暗号が流出したとわかっているんだったら,その裏をかく作戦を立てれなかったんでしょうか?
【回答】
それは史実の通り.
とにかく
「敵に捕まって重要書類を奪われた.
規定にある遭難時の処分もしなかった.
捕虜になったのに自決もせず,裏取引で無事に身柄を返された」
という大失態を隠すために,全て「なかったこと」にしてしまったので,対策もそれを見越した作戦も建てようがなかった.
建てたら理由がバレるからね.
そう言う軍隊だったんだよ.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
安江大佐はどのような人物だったか?
【回答】
学者肌タイプで,人を惹き付けるものがあったという.
以下に,大連特務機関員として間近に接していた蛯名治三郎の回想記を,孫引き引用する.
安江機関長は,いかめしい軍人というよりは学者肌のタイプであった.
それに,軍務公用で外出の他は,軍服を着ないで背広姿だったので,尚更その感が深かった.
一見いかにも短クに生気が溢れ,眼光は鋭い反面,潮の如き理性の静けさがあった.
語るときは太い声でユーモラスな表現は無類で人々を惹きつけた.
これらの印象が大連在住の外人達に親しまれ,それが拡大されて極東ユダヤ人達の人気を博するに至ったのであろう.
事実,安江機関長はその風貌の如く誠意と人柄と識見は自然にユダヤ人を惹きつけ,日本の友とならしめるに成功したと思う.
(安江弘夫「大連特務機関と幻のユダヤ国家」,八幡書店,1989/8,p.205)
【質問】
安江大佐は戦後どうなったか?
【回答】
ソ連軍に連行された後,シベリアに抑留,各地の収容所を転々とした後,同地にて病死したと伝えられる.
以下,各種証言.
8月23日夜,ソ連軍の戦車隊が轟々たるキャタピラの音を響かせて,大連の街に入ってきた.
その夜からソ連軍兵士による暴行掠奪が始まった.
日を置かずして安江家の門前に,ソ連のKP(憲兵)の車が止まった.
車から一人とぼとぼと坂を下りていく白系ロシア人の老人の姿があった.大連ロシア学校の校長で,無理に案内させられたらしい.
応接間に上がり込んだのは大尉を長とする兵士2人と,若い背広姿の通訳の4人であった.
彼らは,安江がロシア語に堪能であることを知らなかったのに違いない.
大尉の態度は穏やかでかつ紳士的であった.家探しするでもなく,ただ同行を求めた.
安江が和服だったので,洋服に着替えに2階に上がろうとすると,「その場で」と要求した.
〔略〕
安江はそのまま連行され,その夜は帰らなかった.
翌日,安江はひょっこり帰宅したが,夜通し調べられたとのことで,すぐ横になった.
その翌日,今度は大尉が一人で入って来て,
「もう一度話を聞きたいから来てください.明日には帰しますから」
とのことで,家族は少し気を許した.
門外まで送って出ると,坂の下に車が止めており,中に兵士が2人おり,はっとさせた.
以来,安江は家に帰ることはなかった.
〔略〕
安江の消息は,ソ連からの引揚が開始され,帰国した人々によって少しずつ伝えられ始めた.
その一部を示すと,
●昭和39年1月函館市・丸山正衛氏書信
「安江大佐と知ったのは終戦後の奉天で捕らわれの身になってからです.
10月の初め頃だったでしょうか,私が奉天署の特務主任をしていましたので,署長と共に捕らわれ,奉天大和ホテル前にあった三井ビルの地下室に数十名閉じ込められていたとき,関東州警察・憲兵隊・特務機関の要人達が到着し,安江大佐と州警の外本課長が同室となり,大佐がロシア語に巧みなので,十数名居る室長のような格で居りました.
毎日ソ連側の待遇が悪くて,大豆の煮たものばかり食べさせられるので腹を壊して,師団長とか要人の巡視のあった時,大佐から直訴して貰ったことなど深く印象に残っています.
毎夜毎夜,ビルの2,3階に呼び出されて尋問され,私共一同苦しい思いをしました.
大佐はソ連の事情にも通じ,話もできるので,我々が20年の刑を受けても実役大体3分の1で良いというような話から,ソ連の情勢についても教えられました.
大佐は25年の刑だとかご自分で言っておられたようです.
11月15日,全員一緒に奉天を引き上げると言って列車に乗せられ,新京,ハルピンからチタに到着,チタで一周間,その冬ウラルの山中に,翌春カメノゴルフスクに9月頃まで居られたように記憶していますが,その後老人組は南のタシケントに行ったとか聞きました.
私は25年2月舞鶴上陸でしたから,そのころ大佐はハバロフスクに居られたことを知りました.
〔略〕」
●昭和35年10月 三谷清(陸士同期,終戦時東満総省長)
「終戦後ソ連に送られてから,
(1) 21年10月〜4月 ウラル山中カザルマンカ収容所
(2) 同年4月〜9月 カザック共和国ウスキー・カメノゴルフスク収容所
(3) 同年9月〜23年8月 ウヅベック共和国チヤマ収容所
以上の収容所で起居を共にし,枕を並べて寝ていたので,ユダヤ人問題と白系ロシア人問題に全力を傾注してきたことを知りました.
〔略〕
シベリアで一時,私達の収容所に満州方面で捕らわれてきた白系ロシア人達と一緒のことがありましたが,彼らは安江君に長年満州で保護を受け世話になったことを忘れずに,よく日本人の部屋へ安江君を訪ねて心から敬愛の言葉を尽くして慰めているところを目撃しました.
このように各地の収容所を転々とする間,モスクワのセミヨノフ〔アタマン・セミヨノフ,在満白系ロシア人の統領〕の裁判に証人として出廷,彼のために有利な証言をしたことも伝えられている.
モスクワの法廷でセミヨノフに会った元関東軍第2課長浅田大佐によれば,
『憔悴の姿ながら悠々厳正な温容を持し,同志7名の首位として裁かれる彼と会い,目礼した.
この裁判において,彼は絞首刑を宣告されたと後で聞いた』
由である」
24年(1949)6月,ソ連からの引き揚げが始まってからは,船の舞鶴入港に先だって,船中での情報に基づく,収容所での死亡者リストが新聞に載るようになった.
20年代の後半の頃,ハバロフスク第21分所における死亡者のリストに安江の名が発見された.
その引揚船入港直後,長男は舞鶴に飛び引揚者収容所に,関東軍最後の報道部長長谷川宇一大佐を訪ねた.
〔略〕大佐は周囲の人々と,彼に向かって平伏して言った.
「私共がついていたのに申し訳ありません.亡くなられたのは確か25年の夏,暑い盛りでした」
安江家では終戦の日をとって,安江の命日と定めた.
(安江弘夫「大連特務機関と幻のユダヤ国家」,
八幡書店,1989/8,p.242-243, 255-258)
◆◆◆◆◆陸軍中野学校
【質問】
陸軍中野学校について教えて下さい.この学校ではどんな事を教えてたのですか?
【回答】
秘密戦要員の養成学校です.「後方勤務要員要請所」として昭和13年設立,防諜,諜報,謀略,宣伝,遊撃戦の要員を養成することを目的としていました.
第1期生には,以下のような教育が施されました.
学科 1110時間 (軍事学,外国語学 社会学 ほか)
術科 262時間 (武術 暗号 写真撮影 ほか)
術外 495時間 (細菌学 心理学 犯罪手口 自動車・航空機実習 忍術)
他に実習(実際に,味方である日本軍の基地へ潜入する,等)
また,大東亜戦争勃発後は,占領地行政に関する教育も併せて行いました.
中野学校という校名を口にすることは生徒にも禁じられ,校門には『陸軍省通信研究所』という表札が掲げられていました.部内では秘匿名称として『軍事調査部』とか『東部第三三部隊』と呼称されていました.
また,中野学校の職員及び学生は,軍服を着用することは認められず,偽名(防諜名)を名乗らされました.
昭和15年8月,『後方勤務要員養成所』は改組され,東京・中野駅前(現在の中野区役所)に『陸軍中野学校』として開校します.
この学校は最初,陸軍大臣隷下に属していましたが,昭和17年からは参謀総長の隷下に入りました.
昭和19年8月,遊撃戦部隊幹部要員の短期養成を目的とした二俣分校を静岡県盤田郡に開校.小野田寛郎などの残置諜者を輩出しました.
詳細は,
『秘録・陸軍中野学校』 新潮文庫 畠山 清行著
『陸軍中野学校の全貌』 展転社 加藤正夫著
あたりをどうぞ.
まちがっても,「陸軍中野予備校」を読んではいけません.
【質問】
陸軍中野学校には一体どうすれば入学できたのでしょうか?
【回答】
「軍人勅諭や典範令で軍人精神を叩き込まれた陸士出身者では複雑で臨機応変なる諜報活動は勤まらないであろう」ということで,最初は予備士官(幹部候補生)出身者から選抜採用されました.
のちに,陸士出身者も甲種学生として採用されるようになりました.
【質問】
卒業には何年掛かって,卒業後は一体どんな任務に就いたのでしょうか?
【回答】
以下の通り.
甲種は乙丙種出身優秀経験者を対象とした1年制の教育体系(実施されず)
乙種は陸士卒大中尉各部将校対象とした2年制の教育体系(実際は8ヶ月〜1年)
丙種は予備士官学校出身者を対象とした2年制の教育体系(実際は8ヶ月〜1年)
丁種は戊種出身の下士官を将校とする(実際は実施されず)
戊種は下士官候補者出身者対象の教育体系で1年制(実際は6〜8ヶ月)
昭和14年7月に第1期生18名が卒業(1名が中退)しますが,当初想定されていた長期外国駐在勤務務に対し,在外武官室勤務者は多くなく,むしろ戦局に応じて関東軍,支那派遣軍などの特務機関勤務者が多数を占めました.
中野学校になってからの卒業生は約2200名に達し,世界の至るところで諜報工作任務に就きました.
二俣分校卒業生は,日本軍が撤退地域に残留し,敵情報を発信する「残置諜者」となることが求められ,小野田寛郎のように戦後ずっと後になってから帰国したケース,ニューギニア奥地に消えたまま,今なお行方不明などのケースが続出しています.
【質問】
中野学校における勉強と訓練は,どんなものだったのか?
【回答】
午前の授業:諜報・防諜・謀略・宣伝.
午後の授業:各国の政治・経済・思想・宗教.
その他,一般教養,秘密通信,写真術,変装術,解錠術などの実技.
2つ以上の職業のプロになることを要求された.
ノートを取ることは禁止.
先生の話すことを一言一句,自分の脳裏へ焼き付けなければならなかった.
空手・剣道・柔道その他の格闘技.
忍術もあったというが,文献を見る限りでは役に立つような代物とは思われず.
語学;3班に分かれる
ソ連班=ロシア語・ドイツ語
中国班=中国語・マレー語・タイ語
南方班=スペイン語・英語・フランス語
【参考文献】
『秘録・陸軍中野学校』(畠山清行著,新潮文庫)
【質問】
第三書館の『ザ・暗殺術』って本に,「陸軍中野学校破壊殺傷教程」ってのが載ってるんですが,信用できるシロモノなんでしょうか?
【回答】
確かにおまけみたいに載っている.
信用できるかと言ったら正直解らない.
実際にマニュアル通りに破壊工作を実行して効果あるか?なんて解らない.
マニュアル通り成功した事例あるかも知らんが,当時は絶対公表しないだろうし,そもそも中野学校そのものが絶対秘密.
日本が負けたから戦後知られただけで,仮に日本が勝っていたら,依然として秘密にするし,内部資料を入手できるなんて不可能だったんじゃなかろうか.
過激な極左団体にとっては参考になるかも知らないが.
まあ,北川 明って第三書館の社長が赤軍派だから,出版して広く中核やら革マルなど極左のメンバー,シンパに破壊殺傷の参考書を与える意図が見え見え.
よくこんな本出すなって思う・・・・
名無し山砲兵 ◆rWCu99P2 :軍事板,2002/04/03
青文字:加筆改修部分
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