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◆◆第2次世界大戦〜冷戦
<◆諜報史
<諜報FAQ・目次


【質問】
ゲシュタポって何?
【回答】
ゲシュタポ Gestapo とは,ナチスを裏から支えていた秘密国家警察のことで,「ゲハイメ・シュターツ・ポリツァイ
Geheime Staatspolizei」,国家保安本部第4局が正式名称です.
このうち,第4局E課が防諜を担当していました.
そのほか,ドイツおよびヨーロッパ占領地におけるレジスタンスの弾圧,ユダヤ人狩り,反ヒトラー陰謀の捜査を担当していました.
こんなの実際にはいません

【質問】
メヘレン事件とは?
【回答】
1940年,西部戦線での攻撃計画について記された計画書を持った独軍将校の乗った飛行機がベルギー領内に不時着.書類がベルギー軍の手に渡った事件.
『西部戦線全史』(山崎雅弘著,学研M文庫,2008.3),P.169の図解を纏めると,経緯は以下の通り.
空挺部隊のラインベルガー少佐が機密書類をミュンスターからケルンへ輸送する為に乗る列車をミュンスター飛行場の飛行クラブで偶然再会した旧友のヘンスマン予備少佐と酒を飲みながら待っていたが,気がついたら列車は既に出発した後.
ヘンスマン予備少佐が翌朝飛行機でケルンへ運ぶという提案に,ラインベルガー少佐は(軍の機密書類を飛行機で運んではならない,という軍の規則を無視し)その提案に同意.
そして翌朝,酒気帯び状態のヘンスマン予備少佐の操縦で離陸したものの,酷い悪天候のためライン河を視認できずオランダ領空へ侵入.
しかもエンジン不調で不時着した所がベルギーのメヘレン付近.
…という感じ.
確か独ソ戦のブラウ作戦でも似た様な事をしてなかったか?
グンジ in mixi,2008年05月04日16:55
【質問】
パウル・カレルの「焦土作戦」の中に,「ヴェルテル」なるコードを持つスパイの名が出てくるのですが,ヴェルテルが誰なのかは今では判明しているのでしょうか? それともまだ不明のままですか?
【回答】
ずばり言えばヴェルテルなる人物は存在しません.
ヴェルテルとは,実はドイツ軍の「エニグマ」暗号機の解読によって得られた極秘情報のことだったのです.
英国では,英国政府暗号学校と言う機関で「エニグマ」暗号の解読を行っていました.
ここで得られた解読情報が「ウルトラ」と呼ばれていたのは知られた話です.
「エニグマ」暗号の解読は1940年4月にはほぼ成し遂げられましたが,(完全解読は1943年になってから)イギリスはこの情報をソ連にも流していました.
スターリンは当初はこの情報を信じてはいませんでしたが,1941年6月のドイツのソ連侵攻以降は,この情報を重視するようになりました.
クルスク戦の際にも,「ウルトラ」情報はソ連首脳部に流されましたが,この情報が「エニグマ」暗号の解読結果によるものと知られないように,「ヴェルテル」なる人物の情報であるとして伝えられたわけです.
カレルが「焦土作戦」を執筆したのは1966年です.
事実がわかってきたのはそれからさらに10年位後です.これは米英が対日独の情報作戦に関する資料を解禁したからです.
カレルとしては,怪しげな噂を継ぎ合わせて推測するしかなく,そこで,
「ある騎兵大尉が怪しい」
という推測に到達したわけです.
もっとも,その某騎兵大尉が本当にスパイでなかったかは,今となっては分からないでしょう.
(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

【質問】
二次大戦中にイギリスは死体をイギリス将校の死体に偽装して潜水艦から流し,ドイツに偽の情報を流すという作戦を行いました.
潜水艦の乗組員にすら,直前まで気象観測用の器材だと教えていました.
そこで質問なんですけど,あの死体の遺族には何と説明していたのですか?
偽のラブレターを持たせ,それを数日間若い兵士に持たせたりもしていましたよね?
あのラブレターを書いた人や,ラブレターを持たせた兵士には何と説明していたのですか?
また,死体を持ち出す以上,警察とかにも許可を取ったりしたのでしょうか?
【回答】
その作戦(Operation Mincemeat)で使われた死体の身元は長く明らかにされなかったが,Glyndwr
Michaelというウェールズ人であったことが明らかになったようだ.
この人物はアルコール中毒の浮浪者だったが,親族の了解を得たかどうかまではわからない.
(家族がいなかったことも理由だったのでは?)
ラブレターは作戦に関わったMI5の女性職員が書き,死体が持っていた写真もこの女性のものを使用したようだ.
ラブレターを持った兵士云々についてはわからない.
作戦名でぐぐるとこの辺とか出てくるんで,もっと知りたければ読んでみて.
【質問】
D-Day開始前,敵側の混乱を狙って偽の情報をリークしたり,デマを流して陽動をかけたりしたのですか?
【回答】
欺瞞作戦はボディガード作戦と呼ばれた.
・寝返らせたドイツのスパイに偽情報を送らせる.
・架空の「合衆国第一軍集団」を作り上げ,その司令官にシチリアでの兵士殴打事件で更迭されていたパットンを据える.
・ドイツに解読されているとわかっている暗号やラジオ放送などを駆使して,上記の部隊の偽の移動情報などを流す.
など様々な手段を駆使して,連合軍の上陸目標がノルマンディではなくカレーであると思わせた.
これは非常に効を奏し,ドイツ軍はDデイ以降もしばらくノルマンディは陽動で本命はカレーと思い込み,手遅れになるまでカレー周辺の部隊を動かさなかった.
軍事板
【質問】
今日日曜洋画劇場で「U-571」がありますが,史実では実際にUボートに潜入したのは,米軍ではなく英軍だったというのは本当でしょうか?
あと,この話(Uボート潜入)について参考となる文献はあるでしょうか?
【回答】
英軍の戦果.実際には潜入ではなく捕獲.
Uボート捕獲作戦を含む,連合軍のドイツ暗号解読作戦については
「エニグマ暗号戦」広田厚司・光人社
「暗号攻防史」R・キッペルハーン,赤根洋子・文藝春秋
あたりが参考になるかと.
U-571(画像引用元:「Scale Claft」)

【質問】
「エニグマ」の運用は厳格だったの?
【回答】
かなりいいかげん.
エニグマはその日の暗号化コードを3文字のアルファベットを2回繰り返して入れて伝えることになっているのだが,
「ランダムなアルファベットを選ぶこと」
とマニュアルには明記されているのに,実際の現場ではAAAやXYZ,自分のイニシャルなどを,それも毎日繰り返して使う通信兵がほとんどだったとか.
エニグマって単なる会社名で,当初は業務用の秘密事項をやりとりするのに便利! と普通に売ってた.
それを採用した陸軍がガッ,外務省もガッ.
ワルシャワのドイツ大使館に外交行李で送ったら,鉄道のミスでいったん紛失.
ドイツ側があんまりうるさくどこに行ったか尋ねてくるので,不審に思ったポーランド軍情報部が,みつかった行李をあけて,
「エニグマ,ハケーン!」
おそらく暗号機だと思ったポーランド側はあらゆる角度から写真を撮って,その後ドイツ側にみつけたよん,と返還.
ちなみに初期は機械式計算機のおばけみたいなもので「エニグマ」解読を試みた.
ドイツに負けてからロンドン亡命政府に参加した者が,イギリス側に基本を伝授.
それでも解読は難航して,とうとうイギリス人は世界初の電気計算機コロッサスまで作った(いまだに秘密で写真もほとんど公開されていない).
ここでエニグマ使えて遊べるよ.
http://homepages.tesco.net/~andycarlson/enigma/enigma_j.html
【質問】
第二次世界大戦中バハマ総督だったウィンザー公(エドワード8世)が,ドイツに連合軍の情報をリークしてたとか聴くけれど,連合軍のどういう情報をリークしていたんでしょうか?
【回答】
FBIの資料があるようで.
バハマからアメリカに出かけていたときも,FBI
はずっと監視していたようだよ.
Roosevelt ordered surveillance of Windsors
Wallis Simpson, the Nazi minister, the telltale
monk and an FBI plot
たとえば
「ドイツ勝利後,ゲーリングは軍を掌握してヒットラーを追放し,ウィンザー公はイギリス国王への返り咲くとの密約が,ウィンザー公とゲーリングの間で結ばれた,とフーバーFBI長官に報告されている」
と上記の記事にはでている.
これが真実かガセかは,今後研究が進むと明らかになるのかもね.
エリザベス女王の母エリザベス皇太后の生前は配慮のため,ウィンザー公関係の機密文書は発表されなかったものが多いんだけれども,ウィンザー公が性的不能説,シンプソン夫人は二股(三股)かけていたなどなど
,最近になってワラワラといろんな事が分かって来てますな.
◆◆◆日本関連
【質問】
日ソ中立条約があったころ,満ソ国境ではどんな諜報活動が行われていたんですか?
お互いにばんばん偵察機を飛ばしたりしてたのでしょうか?
【回答】
国境の監視所からの定点観察(向地偵察)でも十分情報を得られたのですが,日本側がソ連奥地の情報を得るためにはクーリエを利用していました.
クーリエ(外交伝書使)とは,日本からモスクワの日本大使館に連絡を付けるための外務省の特使便です.
モスクワへの往復の旅は,シベリア鉄道を利用して約一ヶ月かかりました.
この間に沿線の情報を可能な限り収集し,持ち帰って分析するのが彼らの真の任務で,外務省仕立てではありますが,実際は偽名を使った軍人が赴いていました.
当然,真の目的はソ連側も承知している危険な任務で,20年4月には,二人のクーリエがGPUによって毒を盛られて一人が死亡し,機密文章が盗み見られるという事件が起こっています.
かの瀬島龍三参謀も19年12月〜20年1月にクーリエとしてソ連に赴いています.
【質問】
うちのじいちゃんは満州の特務機関に入る予定だったみたいなんですが,どういう部隊だったんでしょうか?
スパイ活動をする所だといってました.
【回答】
「特務機関」の元々の意味は,官衙,学校,軍隊以外の陸軍の機関で,元帥府,軍事参議院,侍従武官府,東宮武官,皇族王族公族付武官,陸軍将校生徒試験委員,外国駐在員.準ずるものとして,依託学生,生徒,外国留学生,大公使館付陸軍武官がそれに当たります.
しかし実際には,中国,満州,シベリアなどにあった謀略・諜報機関で,統帥範囲外の軍事・外交情報収集に当たる機関の意味が一人歩きしてしまいました.
1940年頃の満州には,哈爾浜,ハイラル,黒河,大連,牡丹江,延吉,チャムス,三河,密山,大同,西ウジムケン,張北などの各地区に置かれ,少将から大尉までが機関長となっていました.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
【質問】
陸軍中野学校について教えて下さい.この学校ではどんな事を教えてたのですか?
【回答】
秘密戦要員の養成学校です.「後方勤務要員要請所」として昭和13年設立,防諜,諜報,謀略,宣伝,遊撃戦の要員を養成することを目的としていました.
第1期生には,以下のような教育が施されました.
学科 1110時間 (軍事学,外国語学 社会学 ほか)
術科 262時間 (武術 暗号 写真撮影 ほか)
術外 495時間 (細菌学 心理学 犯罪手口 自動車・航空機実習 忍術)
他に実習(実際に,味方である日本軍の基地へ潜入する,等)
また,大東亜戦争勃発後は,占領地行政に関する教育も併せて行いました.
中野学校という校名を口にすることは生徒にも禁じられ,校門には『陸軍省通信研究所』という表札が掲げられていました.部内では秘匿名称として『軍事調査部』とか『東部第三三部隊』と呼称されていました.
また,中野学校の職員及び学生は,軍服を着用することは認められず,偽名(防諜名)を名乗らされました.
昭和15年8月,『後方勤務要員養成所』は改組され,東京・中野駅前(現在の中野区役所)に『陸軍中野学校』として開校します.
この学校は最初,陸軍大臣隷下に属していましたが,昭和17年からは参謀総長の隷下に入りました.
昭和19年8月,遊撃戦部隊幹部要員の短期養成を目的とした二俣分校を静岡県盤田郡に開校.小野田寛郎などの残置諜者を輩出しました.
詳細は,
『秘録・陸軍中野学校』 新潮文庫 畠山 清行著
『陸軍中野学校の全貌』 展転社 加藤正夫著
あたりをどうぞ.
まちがっても,「陸軍中野予備校」を読んではいけません.
【質問】
陸軍中野学校には一体どうすれば入学できたのでしょうか?
【回答】
「軍人勅諭や典範令で軍人精神を叩き込まれた陸士出身者では複雑で臨機応変なる諜報活動は勤まらないであろう」ということで,最初は予備士官(幹部候補生)出身者から選抜採用されました.
のちに,陸士出身者も甲種学生として採用されるようになりました.
【質問】
卒業には何年掛かって,卒業後は一体どんな任務に就いたのでしょうか?
【回答】
以下の通り.
甲種は乙丙種出身優秀経験者を対象とした1年制の教育体系(実施されず)
乙種は陸士卒大中尉各部将校対象とした2年制の教育体系(実際は8ヶ月〜1年)
丙種は予備士官学校出身者を対象とした2年制の教育体系(実際は8ヶ月〜1年)
丁種は戊種出身の下士官を将校とする(実際は実施されず)
戊種は下士官候補者出身者対象の教育体系で1年制(実際は6〜8ヶ月)
昭和14年7月に第1期生18名が卒業(1名が中退)しますが,当初想定されていた長期外国駐在勤務務に対し,在外武官室勤務者は多くなく,むしろ戦局に応じて関東軍,支那派遣軍などの特務機関勤務者が多数を占めました.
中野学校になってからの卒業生は約2200名に達し,世界の至るところで諜報工作任務に就きました.
二俣分校卒業生は,日本軍が撤退地域に残留し,敵情報を発信する「残置諜者」となることが求められ,小野田寛郎のように戦後ずっと後になってから帰国したケース,ニューギニア奥地に消えたまま,今なお行方不明などのケースが続出しています.
【質問】
F機関工作とは?
【回答】
植民地時代,イギリス軍はインド人を兵士として使った.イギリス軍兵士の7割はインド兵が占めていた.
大東亜戦争が始まる3ヶ月前,参謀本部第8課の藤原少佐が,インド人を味方につけるために,バンコクの大使館付武官であった田村浩大佐のもとにやってきた.
田村大佐がインド人をまとめるために拓殖大学出身の満州浪人神本利男を使ってハリマオ工作を進めた.
ハリマオはマレー語で虎の意味である.
ハリマオは日本名を谷豊(たにゆたか)といい,マレー人の部下が千人もいる匪賊の頭目だった.
〔略〕
マレーの匪賊だったが,日本軍のマレー半島攻略に協力しマレー解放のために戦った.
田村大佐はインド独立連盟の組織とも関係があった.
藤原少佐は大東亜戦争が始まると同時に,これらの人脈を受け継いで,F機関と名乗ってマレーに潜入した.
F機関とは,友(Friend),自由(Freedom),藤原(Fujiwara)
の頭文字で,イギリス軍中7割を占めるインド人将兵に働きかけ,インド独立のために立ち上がらせる事を目的としていた.
F機関員はたった9名(その後10余名に増える)で,参謀本部から中尉が二人・中野学校から大尉が一人と少尉が二人軍曹が一人・民間人通訳の石川と太田黒の9人でインド将兵を協力させる工作を行った.
インド独立連盟の書記長プリタムシンは,同志6人と共にタイ南部,ハジャイの街にF機関と共に入り込み,インド独立の旗を掲げてインド人相手に大演説を行った.
当時マレー半島には90万人のインド人がいたが,インド人は「ジャーヒンキー!(インド独立万歳!)」を合い言葉に心をひとつにした.
マレー人とインドネシア人は「ムルデカ!(独立万歳!)」を合い言葉にし,大人も子供もその言葉を挨拶にした.
▼ 〔略〕
〔大東亜戦争勃発後,〕タイ国境に近い山岳地帯には,英連邦軍がジットラ要塞を守っており,大変な激戦だったが,250数年白人に支配されていたマレー人は日本軍に味方し,情報や食料,薪や石炭をどんどん運んで協力してくれた.▲
〔略〕
マレー半島でのインド独立連盟の働きもすばらしく,国境のジットラ・ラインを越えてからは,プリタムシンは,ペナン島で一晩で数万人のインド兵を味方につけた.
おかげで日本軍はペナン島の無血占領に成功した.
また,後に独立インドの大政治家となる指導者たちを獲得した.
ジットラ・ラインを越えたアロースターでは,日本人の中宮と椎葉はマレー人に変装して,英軍に連れ去られたケダ州のスルタンを探して山の中に入り,山頂の寺院に籠もっていたラーマン王子を助けた.
ラーマン王子は,ペナンの放送局から,マレー全民に反英決起を促す放送をした.
――――ラーマン王子は戦後国民同盟を結成して民族運動を始め,1957年に独立,その後マラヤ連邦の初代首相になった.
日本軍がジットラ・ラインを突破してからは,F機関とインド独立連盟のメンバーがケダ州に入り,インド兵捕虜の説得に当たった.
インド兵は日本軍の主旨に賛同して次々と味方になり,インド兵捕虜が別のインド兵捕虜を説得してくれて味方が増えていった.
原住民からの情報で,マレーシア北部,ケダ州アロースター近郊のゴム園で約一個大隊の英印軍が孤立しているという情報を聞き,藤原少佐はプリタムシンと大田黒通訳の3人で,武器も持たずに自動車でゴム園に乗り込み,降伏勧告をおこなった.
大隊長だけがイギリス人中佐で,あとはインド人だった.
その中に,後にインド国民軍を編成して初代軍司令官となったモハンシンがいた.
藤原少佐とプリタムシンはモハンシンに,共にインド独立のために戦おうと説得した.
藤原もF機関も捕虜のインド兵も,朝昼晩同じテーブルで同じ食事をとった.
イギリス人は決してインド人と同じテーブルにはつかなかったのだ.
モハンシンと部下のインド兵は,藤原の
「共にインドのために戦おう,
我々は諸君の同志である.
この戦争はアジア解放戦争である」
という言葉を信じた.
〔略〕
日本軍はマレー占領と同時に軍政を敷き,真っ先に青年達の教育を開始した.
1942年(昭和17年)5月から翌年7月までの短い期間だったが,昭南訓練所で280名,マレイ興亜訓練所では1945年8月の終戦まで800名,日本留学17名,義勇軍の養成では2000名を訓練した.
その他に神本利男がハリマオと共にマレイ青年連盟を作って,マレー人に軍事訓練と精神教育をした.
ーーーマレーシアにはインドネシアのような独立戦争はなかった.
シナ,ポルトガル,オランダ,英国,日本と,列強の支配を受け続けてきたマラッカから独立運動が始まり,F機関の中宮中尉,マレー在住20年の老人椎葉が,マレー人に変装して山の中の寺院で出会ったラーマン王子=トンク・アブドゥル・ラーマンは,1956年2月20日,マラヤ連邦の独立宣言を英国人社交クラブで行った.
翌年8月31日,英国は独立を承認した.
トンク・アブドゥル・ラーマンはマレーシア初代首相となった.
マレーシア建国時の重要人物たちは,みなマレイ興亜訓練所や,日本留学経験者だった.
〔略〕
マレーシアの教科書では,日本のスパイ活動が巧妙であったという事が書かれているが,250数年間もイギリスの植民地にされていたマレーで,イギリス軍兵士として使われていたのはインド人だったから,インド人兵士に働きかけて無益な殺傷を避けるのは当然だったのだ.
〔略〕
日本のお姉さん in ≪ WEB 熱線 第899号 ≫2007/08/06_Mon
++++ ☆
なお,このメール・マガジンは転載自由
ただし上記の資料には一部に「わしズム」が含まれているため,その点は留意されたし.
【伝説】
太平洋戦争前からその中盤にかけて,米国は日本の外交暗号,海軍暗号を次々に解読していったが,陸軍暗号を最後まで読解することが出来なかった!!
【回答】
無限乱数を用いたモノに関しては,ほぼ本当.
戦後,陸軍暗号作成の関係者がGHQに尋問されたとき,尋問官に陸軍の暗号の総評を逆に尋ねたところ,
「コンプリート・パーフェクト」
と云って誉められたそうな.
無限乱数による暗号は,コードブックに書かれている数字を,日本本土の参謀本部と現地部隊のみが持つ,一対の乱数表の数字を足し算して出た数字を発信するもので,一度使った乱数表は二度と使われることはなく,破棄されていました.
乱数表自体は薄い紙で作られ,それを黒い紙と交互に挟んで一冊の乱数帳に纏められ,潜水艦等で現地部隊に配布されていました.
乱数帳の表紙に数字が書かれており,現地部隊は最初にその数字を参謀本部に通告して,どの乱数帳を使ってやりとりするかを決めていたそうな.
しかしながら,完全に解読されてなかったか? と云うと,そうではなく,昭和18年6月頃,米軍は沈没した輸送船から陸軍船舶用暗号のコードブックを回収し,これの解読に成功しています.
ただ,船舶暗号の場合,一日400通ぐらい発信されているのですが,米軍は,昭和18年6月から昭和19年2月までの約8ヶ月の間で4000通程度しか解読していません. 解読されたモノの中には,発信から数ヶ月後に解読されたモノもあったとか.
ソースは,「歴史と人物」60年冬号の座談会「日本陸軍の暗号はなぜ破られなかったのか」.
ベタ藤原 in mixi支隊
【質問】
なぜ第2次大戦時の日本は,暗号をもっと解読困難なシステムにしなかったの?
【回答】
日本海軍の中枢については,現代で言えば素人的な,
「機構的にも欧米のとは違うし,また,鍵の組み合わせ数が無数にあるんだから解読は困難」
という発想でとどまっていたのが一点.
多くの機械式暗号は,そこらの人間だと
「こりゃ,解読は無理も同然」
と諦めてしまう程度には複雑だった.
(解読することは可能だが,恐ろしく手間と時間がかかるので現実的ではない,という思考)
また
「(部分的情報を元に)暗号システムを統計的・数学的など多角的に評価して,アルゴリズムを解析して云々」
という考えは一部であったが,単純な暗号機ならともかく,より高度な暗号機では現実的ではない,と評価されていた.
ただし,日本はあらゆる面で規格外のアメリカと戦争していた.
(陸軍は,外務省の九七式欧文印字機について学理評価を行ったところ,「こりゃ危ない」と結論づけてはいる)
【質問】
日本海軍には諜報機関はなかったのか?
【回答】
軍令部第3部が情報収集を担当していたが,それは主に暗号電文解読によるものだったという.
ただ,南城機関(G機関)なる特務機関が活動していた,とする話もあるが,確証は何もなく,噂の範囲を出ていないという.
詳しくは「軍事研究」2006年3月号を参照されたし.
なお,真珠湾攻撃に先立つ真珠湾についての情報収集は,駐在海軍武官が殆ど個人で行っていたという.
詳しくは,吉川猛夫著「東の風,雨」(朝日ソノラマ文庫)を参照されたし.
【質問】
ゾルゲ・グループ以外に,ソ連のスパイは当時の日本にいたか?
【回答】
暗号名「エコノミスト」と呼ばれる日本人スパイが,日本政府内部にいたことが,近年明らかになっている.
以下引用.
対米開戦方針,ソ連に伝達 政府内の日本人スパイ
【モスクワ13日共同=松島芳彦】太平洋戦争が始まった一九四一年,日本政府内部に暗号名「エコノミスト」と呼ばれるソ連の日本人スパイが存在し,日本の対米開戦方針にかかわる重大情報をいち早く最高指導者スターリンに報告していたことが十三日までに,ソ連国家保安委員会(KGB)の前身である内務人民委員部(NKVD)の極秘文書から明らかになった.
同年十月には,東京でソ連のスパイ,ゾルゲらが逮捕されており,ドイツと日本の挟撃を恐れるソ連が,日本の中枢部に迫る重層的な情報網を築いていた実態を示すものだ.
共同通信が入手した内務人民委員ベリヤからスターリン,モロトフ外相への四一年九月九日付「特別報告」によると,「エコノミスト」は,当時の左近司政三・商工大臣が九月二日,要人との昼食で,日米交渉決裂なら開戦となり「九月,十月が重大局面」と明かしたと報告.また,対米関係悪化のためソ連とは和平を維持し,外交方針はこれらの原則を基礎に決めるとの商工大臣発言を伝えた.
その四日後の九月六日,日本は御前会議で「帝国国策遂行要領」を決定.対米交渉の期限を十月上旬,戦争準備完了の目標を同下旬とし,開戦方針を固めた.
「エコノミスト」の報告は,元海軍次官で機密に通じた重要閣僚の発言を詳細に報じ,御前会議の決定をおおむね先取りしており,対独戦に専念するため日本の対米開戦を期待していたソ連指導部には,極めて貴重な情報だったとみられる.
「エコノミスト」の正体は不明だが,大臣の昼食に同席,または会話内容を直接知り得る立場にあったとみられる.東京のソ連大使館にいたNKVD要員ドルビンと連絡しており,外交団と公に接触できる高い地位の公務員との見方もある.
同年十一月のベリヤからスターリンへの報告書などにも「エコノミスト」への言及があった.開戦後もソ連に情報を流していた可能性がある.
ソ連指導部が信頼,重視 外交官の可能性も
ソ連の情報活動に詳しいモスクワ大学のアナトリー・スドプラトフ教授の話
「エコノミスト」はスターリンへの報告書に何度も引用されており,当時のソ連指導部が信頼性が高い情報源として重視していたことが分かる.日本で活動したソ連スパイではゾルゲが有名だが,スターリンは「エコノミスト」も含め多くのスパイの情報を基礎に戦略を策定していたとみられる.
スターリンへのベリヤの報告を調べると「エコノミスト」周辺や,ルーズベルト米大統領周辺への工作を通じ,日米を衝突させようとしたことをうかがわせる記述もある.これはソ連指導部が「エコノミスト」を単なる情報提供者ではなく,政策決定に影響力を及ぼすこともできる重要人物とみなしていた可能性を示す.だが「エコノミスト」が官僚だとすれば,それほどの実力があったかどうかは疑わしい.外交官だったとの証言もある.
ドイツとの戦いで疲弊したソ連は,非常に厳しい状況にあった.日本がソ連ではなく対米開戦に向かうとの「エコノミスト」報告は高く評価されたのではないか.
当時日本で活動していたソ連内務人民委員部工作員のドルビンは,このほかにも複数の日本人スパイを担当しており,ベリヤ報告には「サトー」の暗号名で登場する日本人もいる.(モスクワ共同)
日本の情報に大きな関心 ゾルゲとは別のスパイ網か
下斗米伸夫(しもとまい・のぶお)・法政大教授(ロシア現代政治)の話
当時のソ連側からみると,日本が南進して対米開戦に踏み切るか,北進してソ連と対決するかは,ソ連軍のシベリア部隊をどのように動かすかを決める上で決定的な意味を持っていた.当時のソ連上層部内に,日本の情報を得ようとするピリピリした雰囲気があったことは容易に想像でき,
ゾルゲのような軍(ソ連赤軍第四本部)の統括下にあったスパイ網とは別系統の,内務人民委員部(NKVD)統括下のスパイ網があったことは大いにありうる.
一方で,日本の指導層にも,米内光政元首相や東郷茂徳元外相など日ソ中立条約を重視する人脈と,北進を唱える人脈の間の暗闘があった.ソ連側からの働き掛けを受けてのものかは分からないが,日本政府内部にもソ連にある種のシグナルを送っていた人物がいてもおかしくない.(共同)
政府部内にも左翼思想浸透 思想表に出さず情報提供
袴田茂樹(はかまだ・しげき)・青山学院大教授(ロシア政治)の話
一九三〇年代から四〇年代にかけての時代は,ゾルゲと情報を交換していた尾崎秀実(おざき・ほつみ)に代表されるように,日本の知識人層の多くがソ連の左翼思想の影響を受けていた.
日本の政府部内でも,自らの思想的立場を表に出さない形でソ連側に情報を提供していた人物がいたことは大いにありうる.
政府部内での左翼思想の浸透は「赤い三〇年代」ともいわれるぐらいで,欧米も含めた世界的な潮流だった.
ゾルゲは赤軍第四本部の指揮下で情報活動を行っていたが,「エコノミスト」という人物が情報を提供していたという内務人民委員部(NKVD)は,赤軍とはライバル関係にあった組織.
「エコノミスト」が,ゾルゲとの関係を持っていたかとなると,それは分からないだろう.(共同)
(共同通信,2005/8/13)
【珍説】
戦前の日本は,在米日系人を使った割とまともなスパイ網を持ってましたよ.
アメリカに完膚無きまでに潰されましたが.
(日系人全員を無差別に強制収容した)
【事実】
日系人を対象に諜報網を形成しようとする計画は実在しています.
松岡洋右外相が1941/1/30,在ワシントン大使館に当てた電報では,
「二世および日系人を利用すること」
という指示が出されています.
ただし日系人だけではなく,
「外国系アメリカ市民,反ユダヤ主義,共産主義,黒人運動,労働運動」
を調査し,利用する事を考えていました.
この活動に当たるべき諜報工作責任者,寺崎英成一等書記官は,着任後はこれらの他,アメリカ国内の非戦派人脈に対しても働きかけを試みています.
ただ,寺崎は,着任する前から米国諜報機関にマークされていました.外務省暗号が解読されていたからです.
結果として,これらの活動は殆ど成功していません.
例外として,黒人運動に親日派を作り上げることに成功していますが,これは寺崎よりも,国家主義結社「黒龍会」の1930年代からの活動の成果によるものです.
詳しい事は,春名幹男著「秘密のファイル」(共同通信社,2000/4/10)上巻の第2章あたりを.
(消印所沢 ◆z3kTlzXTZk in 「週刊オブイェクト」コメント欄)
【質問】
日本軍の対イスラーム工作について教えられたし.
【回答】
満州を独立させた関東軍は,蒙古聯盟自治政府を成立させますが,更に,外モンゴルとソ連を構成するカザフ社会主義共和国の南縁を環状に取り巻く寧夏,甘粛,青海,新疆の各省に住むムスリムに工作し,これらを日本の(と言うか関東軍の)影響下に独立させ,対ソ包囲網を構築すると言う壮大な目論見がありました.
その中でも特に甘粛と新疆に対する工作を重視し,此処を独立させた後は,中央アジアからイランにかけて日本の影響力を及ぼそうとしていました.
こうした構想を描いたのは,1933年頃に熱河省の承徳機関長を務めていた松室孝良でした.
彼は,満州国に次いで内モンゴル西部地方を蒙古国とし,それを梃子にして日本を盟主として中国西北地方に回々国,即ちイスラーム国家の建設を構想しました.
これに基づき,関東軍は先ずムスリムの好感を得て人心を収攬し,それによって彼等を懐柔する事に最大限の努力を行います.
その為,関東軍は信教の自由を保障し,モンゴル人の多数が信仰するチベット仏教は勿論,回民に対してはイスラームを尊重する方針で臨み,これと同時に外モンゴルでは共産主義によって反宗教政策が行われているので,彼等の影響下に入ると,自分たちの信仰が危うくなると宣伝を行いました.
また,内モンゴルの回民に対する工作活動を通じて満州国のムスリム達と相互連携し,これを日本のイスラーム政策に役立てようとします.
その一環として行われたのが,綏遠などの場所でモスク建設が積極的に行われました.
1938年1月8日,陸軍中央は,関東軍のこれ以上の満蒙地域への深入りを牽制すべく,新たに蓮沼蕃中将を司令官とする駐蒙兵団を編制,7月4日に駐蒙軍に改組して,北支那方面軍の戦闘序列に組み込みます.
以後,蒙疆政権のイスラーム政策は駐蒙軍によって推進されることになりました.
また,軍事面とは別に民間からこうした工作を行っていたのが,日蒙協会から発展した善隣協会でした.
この団体は1934年1月に設立され,理事長には井上璞退役陸軍中将が就任していますが,裏で糸を引いていたのは,前にも出てきた陸軍教育総監林銑十郎であり,海軍の宇垣一成でした.
彼等は,三井,三菱,住友,安田の各財閥から寄付を募り,それを基金にしてこの団体を設立します.
その年の8月から,善隣協会は満州国熱河省の多倫に内蒙支部を開設し,此処を拠点に教育と医療を中心とする活動を開始しました.
1937年8月に蒙疆政権が内モンゴルに成立すると,その活動を拡大させ,1938年4月には東京本部の他に張家口に在外本部を新設し,理事長の井上璞と総務部長のトゥラン主義者野副金次郎が常駐する体制となります.
この活動が可能となったのは,この団体に対する外務省からの補助金が日中戦争勃発に伴いいきなり潤沢になったことが挙げられます.
1937年の補助金は年額3万円だったのですが,日中戦争勃発により,近隣への工作活動を通じて日本の影響力を増すべきであると言う考えが国会を中心に強まり,外務省は翌年度の補助金額を一挙に10倍の30万円となり,以後も戦争の拡大により補助金額は青天井で拡大していきました.
因みに,所管部署は外務省から興亜院,そして大東亜省と変っていますが,所要経費は満額回答となっています.
更に元々徳川家正らによって細々と運営が続けられていた回教圏攷究所も,この善隣協会傘下に組み込まれ,こちらにも補助金が外務省から注がれることになりました.
一方,林銑十郎自身も,1938年9月9日に大日本回教協会が設立されると,初代会長に就任しました.
大日本回教協会は,善隣協会から日本におけるムスリム対策を実行する最高機関としての位置づけになります.
こうして,満蒙問題から日本はイスラーム政策に深入りせざるを得ない状況となっていった訳です.
軍事・政治面からは,駐蒙軍が対イスラーム政策を行う前線基地となりました.
回々国構想の具現化の為,内蒙古に隣接する西北5省のムスリムに働きかけ,この5省に親日的な防共独立国家を樹立させるべく工作を展開したのです.
彼等の基本戦略は,ムスリムに対し,本来的に共有する同じイスラームとしての強固な連帯感,団結心に訴えて反ソ,反共運動を起こさせると言うものでした.
この構想実現の為,駐蒙軍が設立したのが西北回教聯合会であり,張家口に本部が置かれ,蒙疆の他西北5省に居住する回教徒全体の交流の場と言う名目で活動を行いました.
この本部は後に西北地方に近いという理由で,厚和に移動し,支部が張家口,大同,包頭,厚和に設けられると共に,下部組織に各清真寺管下の教友をもって作られる分会がありました.
この団体が力を最も入れたのが,ムスリムに対する教育訓練で,初等学校の改革,即ち清真寺付属のアラビア語小学校に日本語科を設置すると共に,蒙疆政権下の各支部所在地で20〜30歳のムスリム青年を対象に,中等学校を導入していきます.
一方で善隣協会は,ムスリムの女子を対象に,善隣回民女塾を設立しており,それと軌を一にしています.
と言っても,この「青年学校」,単に中等学校としての機能だけではなく,「17〜25歳の概ね小学校教育を修了し,素質優良なる者」に対し,「特別教育」を施しています.
これは1期4ヶ月で年2回募集され,定員は張家口,厚和が各1回30名,包頭,大同が各1回20名となっていました.
更に,この中の成績優秀者10名内外が選抜されて,特別教育を行います.
その内容は,教練,教義礼拝に加えて満州電電公社発行のテキストを用いた日本語教育,更に比較的簡単な教科書である『世界の回教』または『回教の動き』をテキストに,イスラームの概説的な歴史を学ばせ,常識程度の地理,理科,算術(日本の小学校5〜6年程度)を学ばせました.
こうしたカリキュラムを修了した者は,「西北回教聯合会の中堅分子として働く義務を負う」とされましたが,実際には西北工作に於ける諜報活動に従事させていました.
また日本人工作者養成機関としては,興亜義塾と言う学校を作り,ムスリム工作の為の回教班を設けています.
これで対西北のムスリム工作は完璧になる予定でした.
しかし,国共合作と国民党のソ連連携とが情勢を変えていくことになります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/05/22 22:58
さて,昨日の続きですが,最初日本の西北工作は,内モンゴルから反ソ包囲網を西に向かって構築することを目的に行われていたのですが,日中戦争勃発による第二次国共合作により,中国共産党は陜西省を中心に甘粛,寧夏両省に跨る地域に陜甘寧辺区を成立させ,南から蒙疆政権下の内モンゴルとオルドス地方への攻勢を強めます.
また,蒋介石は重慶に逃れると共にソ連との関係改善に踏み切り,この結果,ソ連からの軍事,経済的支援のルートとして四川,陜西から甘粛を経て新疆,ソ連のカザフスタンに延びる西北ルートを開拓し,このルートを使って甘粛省の蘭州に精鋭軍を送り込み,寧夏から内モンゴル西部への攻撃を伺っていました.
これに対抗する為に,駐蒙軍が採った対策が,内モンゴル西境から寧夏,甘粛,青海諸地域に割拠するイスラーム系軍閥を手懐けるものでした.
当時,この地域には
内モンゴルの陰山山脈を南に据えた黄河沿岸の五原,
臨河地方に割拠した馬鴻賓,
寧夏省主席の馬鴻逵,
甘粛から青海に勢力を扶植する馬歩芳,
甘粛回廊のオアシス都市涼州周辺に拠る馬歩青
甘粛西部を根城とする馬仲英
がおり,俗に「五馬連盟」と称していました.
実際には,馬仲英は1931年に馬歩芳によって甘粛を追われ,新疆に亡命しますが,此処でも漢人軍閥の盛世才と争って敗れ,ソ連に亡命しており,この地にはいませんでした.
彼等自身は,長年中国国民党と交誼を保っており,どちらかと言えば反日に転ぶ確率が高かったのですが,日本軍が近づけば,容易に転ぶであろうと考えられていました.
この工作に邪魔になるのが漢人軍閥で,内モンゴル西部で未だに抵抗を続けていた,旧綏遠省主席の傅作義で,これを封じようとしてました.
ところが駐蒙軍よりも先に,関東軍の息が掛かった「イスラーム反共同盟」と言う政治団体が包頭に進出し,包頭を中心に過激な工作活動を展開しました.
彼等の活動は駐蒙軍を飛び越えて,関東軍,陸軍中央部,外務省を巻き込む形で展開されます.
当然,この動きに駐蒙軍は面白かろう筈はなく,1939年3月に駐蒙軍によって彼等の活動は止めを刺されました.
一方で駐蒙軍の工作活動は,余り表に出ることではなく,回民軍閥に対する工作は漢人を通じて,特に青幇に対する工作を行いながら,回民軍閥を懐柔しようとします.
回民軍閥と雖も,30〜50%は漢人が占め,その多くが哥老会,つまり青幇に入っている事から,搦め手から攻めるのが有効と判断した訳です.
実際,このルートでの工作に携わる人物は,この地域の交通を担う船頭や苦力が多く,黄河沿いの五原,臨河,寧夏,甘粛の動静や情報は事細かに入ってきました.
一方,紅幇も旧綏遠省,寧夏,甘粛に広がっており,こちらにも触手を伸ばしていたようです.
実際,馬鴻逵には合作を持ちかけ,色よい返事を貰っていたりします.
ところが,1940年2月3日〜3月20日に掛けて行われた五原作戦で駐蒙軍は,傅作義軍に手痛い敗北を喫し,以後,寧夏,甘粛方面への進出が出来ず,逆に,今まで合作に色気を見せていたイスラーム系軍閥が,掌を返した様に,国民党や共産党政府に取り込まれるのを指を銜えて見ているしか有りませんでした.
既に1938年6月の時点で,国民党政府は寧夏の馬鴻逵,甘粛から青海の馬歩芳に対して工作資金200万ドル,武器,弾薬,飛行機3機を供与し,共闘を持ちかけていました.
また,10月には蘭州に駐屯する朱紹良率いる精鋭軍を寧夏に移動させ,彼等を支援する体制を敷いています.
とは言え,彼等イスラーム系軍閥は未だその時点では自立の考えを捨てておらず,1939年4月の時点でも黄河沿岸の呉忠堡に税関を設け,朱紹良の不興を買ったりしています.
ともあれ,少なくとも彼等の目は日本の方を向いていませんでした.
中国共産党も負けず劣らず,彼等に対する工作を進めていました.
共産党はパルチザン活動を通じて,民衆に浸透すると共に,日本側に付いていた馬歩芳の元旅長で哥老会リーダーだった馬福山が起こした1942年末の暴動では,工作員を多数送り込み,武装蜂起を指導するようになっています.
何故,日本軍の工作が上手くいかなかったか.
それは,あくまでも関東軍,駐蒙軍が,対ソ戦略と言う政治面のみを重視してネットワークを作り上げようとしたからで,西北地方が渇望していた経済活動,取分け商業について少しも注意を払わなかった事です.
西北地方は羊毛,毛皮,アヘン,雑貨などを各地から集積し,それを回民の商人を介して,中国奥地もしくは北京を始めとする華北の国内市場や,天津を中心とする国外市場に売り歩く事で,深く諸地域と繋がっていました.
これを日本軍は理解しなかった為,商品の流れを断ち切ってしまい,結果的に回民の商人達が立ち行けなくなってしまいました.
国民党政府はこの点を理解していた為,逆に内モンゴルと寧夏,甘粛の通商路を遮断して日本とその勢力に屈した人々に打撃を与えると共に,ソ連に繋がる西北ルートを開拓することで,回民商人達の不満を吸収して,彼等を日本に靡くのを防いだ訳です.
1939年3月,この経済の流れに日本側は漸く気づき,蒙疆政権は西北保商督弁公処を包頭に設立し,キャラバン交易を模索することになりますが,それよりも諜報に重きを置いたが為に,回族商人達は一顧だにしませんでした.
また,共産党政府は国民党の更に一歩先を行き,回民を独自の民族と認めて大幅な自治を容認する政策を打ち出します.
これによって,寧夏,甘粛,内モンゴルの回民への影響力を増し,抗日運動に彼等を巻き込むことに成功しました.
こうして,日本の対西北工作は挫折を余儀なくされ,太平洋戦争の勃発は,中国よりも南方のイスラーム達に対する工作をする必要が生じて,西北工作は二度と試みられることは無かったりします.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/05/23 23:12
蒙疆地区から西北地区への日本の工作が失敗に終わった時期に,日本は南進政策へと舵を切ります.
そうなると,東南アジアに多くいるムスリムに対する宣撫工作が重要となってきます.
この時期に国内外のムスリムにとって重大な関心事だったのは,日本政府がイスラームを正規の宗教団体として認めるか否かと言う事でした.
1939年4月に,日本の宗教団体を政府のコントロール下に置く法律として公布された宗教団体法では,他の新興宗教団体と共に,宗教団体として必要な要件(教会数50,信徒数5,000)に達していないイスラームは正規の宗教団体とは認められませんでした.
この為,大日本回教教会が奔走した結果,1942年に興亜宗教同盟が結成された時には無事,イスラームもその中に入ることが出来ました.
東京モスクを日本イスラームのハードの象徴とすれば,回教公認問題はソフトな象徴であると見做すことが出来ます.
また,西北工作と並行した形になりますが,日本人ムスリムを育成する試みも参謀本部などがスポンサーになって行われていました.
そのうち,他のムスリムにも効果があるのは,ムスリムにしか入学が許されていないEgyptのal-Azhar大学に留学したり,Mecca巡礼に赴いて,ハッジの称号を得ることです.
ハッジの称号を得た最初の日本人は,1909年に巡礼に赴いた山岡光太郎ですが,この頃の巡礼者は何れも何らかのスポンサーを得て巡礼を行っています.
太平洋戦争時,Javaに派遣された鈴木剛は1934年(または1935年)を皮切りに3回巡礼していますが,このスポンサーは財閥,軍,南満州鉄道の後援でした.
また,Sulawesiに派遣された小林哲夫は,陸軍参謀本部の後援で1936年からal-Azhar大学に学び,1937年,1939年,1940年にMecca巡礼を果たしていますし,Burmaでの対ムスリム工作を行った菅葦信正も,al-Azhar大学に留学すると共に,1939年にMecca巡礼を果たしました.
こうした南方工作は,1930年代末から実施されており,1939年11月には,東京と大阪に於て,回教圏展覧会と言う催し物が開催されると共に,日本側が全面的に費用を負担して,蘭印を始めとした各イスラーム圏の代表者を招いた「世界最初」のイスラーム世界会議を開いていたりします.
とは言え,その研究は未だ緒に就いたばかりであり,先述の鈴木剛,菅葦信正らや,日本に滞在していたムスリムのクルバンガリーやイブラヒムなどが参謀本部第2部8課に出入りして策を練っていました.
この結果1941年3月に作られた『南方作戦ニ於ケル占領地要綱案』では,宗教尊重の方針が明確に打ち出されることになりました.
ただ,彼等を尊重すると言うものではなく,彼等の宗教に干渉してトラブルを起こさない様に周知徹底を求めただけで,住民宣撫には程遠い内容でした.
その後,1942年3月14日に定められた「占領地軍政処理要綱」ではもう少しマシになっており,既存宗教を尊重すると共に,イスラームを積極活用し,日本の宗教は進出させないとしています.
ただ,その活用は民心掌握の為の方策であり,国策の遂行を妨げない限りと言う前提がつけられていました.
因みに,その方針は対象宗教によって多少のブレが生じています.
イスラームはキリスト教文明に抵抗するものとして,最も寛容な政策が採られ,民心掌握でも最も有効に利用されていました.
尤も,日本人から見るとその価値観が異質である分だけ,意識的に政策関与したものと言う見方もあります.
仏教についても,日本と文化的にシェアするものとして寛大な政策が採られましたが,小乗仏教と大乗仏教の違いを理解しない無意識の干渉は有ったりした訳で.
キリスト教については,基本的に敵性宗教でした.
ただ,ローマカトリックについては,バチカンを中心に全世界が一つのヒエラルキーの元で固く結ばれているとして,もし,それに対する迫害乃至干渉を行えば,法王庁以下に波紋を生じる事になり,取り扱いに注意を要するとして,比較的寛容な政策を採っていました.
一方でプロテスタントについては,「敵性発揮の事実も遙かに熾烈」として危険視し,1943年8月16日に「基督教新教諸教会取締準則」を定め,教会主管者の選任に注意する様に通牒が出されていました.
ところで,イスラーム世界に日本の宗教を進出させないとしていましたが,それも現地機関の方針によってブレる事があります.
例えば昭南(Singapore)では,南方総軍によって1942年12月に,昭南神社が造営されましたが,この時の言い訳は,「所謂宗教政策以上に超然たる所」(つまり,神道は宗教を超えたものである)として,その建立を正当化しており,現地人には参拝を強制させないと言う立場が採られていますが,1944年5月に作成された馬来軍政監部文教科報告書では,各種学校の修身教育に宗教教育を採り入れ,昭南神社や忠霊堂参拝を実習させるべきであるとの方針が表明されていました.
日本軍の敗色が濃くなってくると,現地宗教を尊重する余裕が無くなってきたのでしょうか.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/05/24 21:28
【質問】
太平洋戦争直前に龍田丸を用いて行われた,真珠湾軍港情報収集活動について教えられたし.
【回答】
『撃沈された船員たちの記録』(土井全二郎著,光人社NF文庫,2008.5),p.20によれば,憧れの龍田丸に配属された三等航海士が,乗船三日で交代を命じられて下船.
しかし交代要員の二人は「東京高等商船学校の同期生」を名乗るが,この三等航海士には見覚えが無い.
(同期生は僅か三十人)
その正体は真珠湾の偵察を命じられた海軍軍人.
この時,龍田丸船長も軍の極秘命令により,潮流に流された振りをして軍港間近まで船を乗り入れたとか.
グンジ in mixi,2008年05月25日17:13
【質問】
第2次大戦中の,日本・ポーランドの情報協力関係はどんなものだったか?
【回答】
情報分野での日本とポーランドの協力は,20年代初頭に始まっており,濃淡の差はあったものの,戦争終了まで続いた.
1930年代半ば以降,日本は東欧の状況に鑑み,パリ,ベルリン,ワルシャワの大使館武官部を強化してソ連情報を収集することになった.
日本はポーランドの協力の下,ヨーロッパ北東部をカヴァーする情報網を築き上げた.
その中心はストックホルムにあり,中心人物は小野寺信武官だった.アメリカのヒレル・レヴィンが,「ヨーロッパ抜群の情報専門家」と呼んだ男である.
この情報機関の指令により,杉原千畝はカウナスに領事館を開設した.ドイツがケーニヒスベルクの日本領事館開設に同意しなかったための代替地だった.
杉原が受けた訓令は,ドイツ軍がソ連に侵攻するか否かを探れというものだった.
外務省では,杉原はヘルシンキで短期間,公使代理の職にあった他は,単なる書記官・翻訳官に過ぎなかったため,当初この人事に首を傾げた.
他方参謀本部は,カウナスでの情報活動をできるだけ目立たない形で進めることを要求していたので,外務省としても上級職の外交官を派遣することには抵抗があった.
杉原は周到に関係を築き上げていたので,すぐ情報活動を始めることができた.前の赴任地,ヘルシンキでポーランドの地下運動関係者とのコネを作り上げていたのである.
その中にヤン・ペレツ少尉ことスタニスワフ・ダスキエヴィッツと,ボレスワフ・ロツイキがいた.2人はミヒャル・リュビオコフスキイことR大佐の秘密グループに属していた.
R大佐はポーランドの軍情報機関の指導的人物で,杉原の貴重な情報提供者となる.
彼に近い連絡役は,ジェルジ・クンセヴィッツ大尉ことアルフォンス・ヤクビアニッチ,別名クーバで,これも杉原の任務にとって重要な人物となる.
杉原は領事の地位を利用して,彼らに日本や満州国の旅券を発給してこれに報い,後には通過査証を発給して,ポーランド系ユダヤ人の逃走を可能にすることとなる.
ポーランドの情報機関にとっては,杉原に軍事情報を供与する見返りとして,日本の外交ルートでロンドンの亡命政府との安定した連絡を確保することが重要だった.
しかし,カウナスの領事館は1940/4/29閉鎖.
杉原は1941年9月,プラハに赴任.
その後の1941/3/6,彼はケーニヒスベルクに着任.
両地での主たる任務も,ドイツ軍とソ連軍の動向を探ることだった.
杉原はここでもポーランド情報機関と協力した.
その何人かは彼の仲介で,ベルリンの満州国大使館または日本大使館から満州国の,時には日本の旅券まで手に入れた.
ゲシュタポは,彼らから見ると胡散臭い杉原の同行を観察していたが,手が出せるわけではなかった.
しかしドイツ側にとっては,ポーランドのスパイが日本に協力しているだけでなく,敵国であるイギリスにあるポーランドの亡命政権にも情報を送っていることが気に入らなかった.
ケーニヒスベルクはナチスの牙城だった.
東プロイセンの首都であるこの街の市長は,SSの北東地域本部長でもあったが,カウナスの公使館から杉原についての情報を入手していた.
彼は,杉原が情報活動をしていることにつき外務省に抗議したが,杉原のほうは1941年6月初め,とっくにドイツ軍の大規模な集中と物資輸送について東京に報告済みだった.
6/22,バルバロッサ作戦開始.
ポーランド協力者は定期的に領事館を訪れ,最新情報をもたらす.
しかし外務省は,これら情報には懐疑的だった.
戦争が進むにつれて,杉原の行動の自由も狭められる.ゲシュタポは,彼は外交官であるよりはスパイだと見ており,追い出そうとする.
翌年9月,東部戦線の状況のために領事館は閉鎖され,ドイツ側は目的を達する.
なお,1941年12月以降,形式的には日本はポーランドと戦争状態にあったにも関わらず,複数のポーランドの暗号専門家が終戦まで関東軍に勤務していた.
詳しくは,H. E. マウル著「日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか」(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.135-136, 140-142,
151-153を参照されたし.
【質問】
カウナスの日本領事館には,ゲシュタポのスパイはいたのか?
【回答】
グッジェというドイツ系リトアニア人がそうだった.これは戦後,ポーランドで八件された情報機関の記録にあった.
彼は領事関係書類の処理ができる唯一の職員だったため,杉原の通訳を務めていた.
「杉原リスト」に1225番で登録されているユダヤ人学生モシェ・ズプニクの記憶によると,グッジェは自分はナチ主義者だが,ナチスのユダヤ政策には反対だと述べたという.
ズプニクはタルムード学院の300人の学生の一人で,何日か領事館に座り込んだが,グッジェはいつも好意的,協力的だったという.
奇妙な話ではあるが,情報専門家の杉原は,グッジェの素性は知っていたであろうし,また,意図的に領事館に潜り込まされた可能性もある.
ゲシュタポはカウナスでの杉原の行動については細大洩らさず承知していたのだ.
詳しくは,H. E. マウル著「日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか」(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.145-147を参照されたし.
【質問】
第2次大戦中,日本軍は通信傍受だけでも,米軍の行動の予測が出来ていた,というのは本当ですか?
【回答】
暗号本文は読み出せなくても,発信符号とか発信系図をつくると,ぼんやりと敵の意図が見えてくるんだよ.
沖縄周辺で米潜水艦がさかんに偽電を発信して,ハワイ,サイパン方面でしきりに上陸船団編成と思われる指令発信と受領発信がくりかえされる.
「すわ沖縄上陸か?」
と皆,思うんだけど
「でも受領発信は海兵隊ばかりで陸軍の返信がない.
沖縄のような巨大な島を海兵隊だけで攻略するだろうか?」
と分析し,
「硫黄島じゃねえの?」
と分析する.
見事だと思った.
岡本喜八『沖縄決戦』でも昭和20年4月1日,沖縄現地部隊の敵信傍受班が
「今朝未明より,米軍は(HQ→各部隊へ)戦術呼出符号を呼び出し始めたり」
「右は硫黄島上陸,3時間前に告示しありて」
「今朝,敵は沖縄上陸を決行する算,きわめて大なり」
と分析.
こういうこと.
情報理論だと,つまり平文(作戦準備のさまざまな現象.船団の集積や部隊編成や通信量の多寡)があって,それにノイズ≒疑似乱数(別方面での偽電発信や,偽の船団編成の通信.本当の侵攻部隊は作戦発起時,通信を封鎖するから,減少した分の別な偽信発信)を被せると,全体が暗号化(混沌として作戦意図が敵から見えなくなる)されるんだけど,どうしても人間のする事だから,疑似乱数=偏差(前述,陸軍の発信がない)が起きる.
その偏差をみて,分析官は敵の意図を見破るわけ.
保険会社が統計的手法で,保険詐欺と本当の事故や盗難,偽装自殺を見破る手法もこれなんだが,まあそれは余談.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
ミッドウェイで日本海軍は暗号を読まれて敵空母に待ち伏せされましたが,インド洋で英軍にも暗号を読まれて待ち伏せされてたというのは本当ですか?
【回答】
極東合同局(FECB)は1942年時点で,日本海軍の暗号JN-25をある程度解読しています.
艦隊編成までは無理でしたが,攻撃目標と攻撃日時は解読されました.
日本海軍による昭和17年3月から4月のインド洋作戦において,日本艦隊は4月1日にセイロンのコロンボとツリンコマリを攻撃することを攻撃する事を知ってました.
しかし,日本海軍側の理由により攻撃は4月5日に延期されたため,イギリス側の努力は無駄に終わりました.
軍事板
青文字:改修部分
【質問】
第2次大戦中,捕虜にされた日本兵から機密情報がダダ漏れだったと聞くけど?
【回答】
尋問対策教育のレベルが低かったため.
下は「尋問問答集」という,陸軍省が出した教育で使う本に出てくる内容.
| 想定尋問 | 適切な回答 |
| 日本軍はどのぐらいの規模か ? | 国民皆兵なので1億 |
| 機関車の速度はどれほどか? | 毎時80km |
| 何を目的でここに来たのか? | 大東亜共栄圏を構築保持するに辺り貴様等を倒す為 |
| お前の部隊の任務は何か? | 大東亜共栄圏を構築保持するに辺り貴様等を倒す為 |
よく言われる,「全く尋問対策の教育がされていない」は嘘.
【質問】
安江大佐はどのような人物だったか?
【回答】
学者肌タイプで,人を惹き付けるものがあったという.
以下に,大連特務機関員として間近に接していた蛯名治三郎の回想記を,孫引き引用する.
安江機関長は,いかめしい軍人というよりは学者肌のタイプであった.
それに,軍務公用で外出の他は,軍服を着ないで背広姿だったので,尚更その感が深かった.
一見いかにも短クに生気が溢れ,眼光は鋭い反面,潮の如き理性の静けさがあった.
語るときは太い声でユーモラスな表現は無類で人々を惹きつけた.
これらの印象が大連在住の外人達に親しまれ,それが拡大されて極東ユダヤ人達の人気を博するに至ったのであろう.
事実,安江機関長はその風貌の如く誠意と人柄と識見は自然にユダヤ人を惹きつけ,日本の友とならしめるに成功したと思う.
(安江弘夫「大連特務機関と幻のユダヤ国家」,八幡書店,1989/8,p.205)
【質問】
安江大佐は戦後どうなったか?
【回答】
ソ連軍に連行された後,シベリアに抑留,各地の収容所を転々とした後,同地にて病死したと伝えられる.
以下,各種証言.
8月23日夜,ソ連軍の戦車隊が轟々たるキャタピラの音を響かせて,大連の街に入ってきた.
その夜からソ連軍兵士による暴行掠奪が始まった.
日を置かずして安江家の門前に,ソ連のKP(憲兵)の車が止まった.
車から一人とぼとぼと坂を下りていく白系ロシア人の老人の姿があった.大連ロシア学校の校長で,無理に案内させられたらしい.
応接間に上がり込んだのは大尉を長とする兵士2人と,若い背広姿の通訳の4人であった.
彼らは,安江がロシア語に堪能であることを知らなかったのに違いない.
大尉の態度は穏やかでかつ紳士的であった.家探しするでもなく,ただ同行を求めた.
安江が和服だったので,洋服に着替えに2階に上がろうとすると,「その場で」と要求した.
〔略〕
安江はそのまま連行され,その夜は帰らなかった.
翌日,安江はひょっこり帰宅したが,夜通し調べられたとのことで,すぐ横になった.
その翌日,今度は大尉が一人で入って来て,
「もう一度話を聞きたいから来てください.明日には帰しますから」
とのことで,家族は少し気を許した.
門外まで送って出ると,坂の下に車が止めており,中に兵士が2人おり,はっとさせた.
以来,安江は家に帰ることはなかった.
〔略〕
安江の消息は,ソ連からの引揚が開始され,帰国した人々によって少しずつ伝えられ始めた.
その一部を示すと,
●昭和39年1月函館市・丸山正衛氏書信
「安江大佐と知ったのは終戦後の奉天で捕らわれの身になってからです.
10月の初め頃だったでしょうか,私が奉天署の特務主任をしていましたので,署長と共に捕らわれ,奉天大和ホテル前にあった三井ビルの地下室に数十名閉じ込められていたとき,関東州警察・憲兵隊・特務機関の要人達が到着し,安江大佐と州警の外本課長が同室となり,大佐がロシア語に巧みなので,十数名居る室長のような格で居りました.
毎日ソ連側の待遇が悪くて,大豆の煮たものばかり食べさせられるので腹を壊して,師団長とか要人の巡視のあった時,大佐から直訴して貰ったことなど深く印象に残っています.
毎夜毎夜,ビルの2,3階に呼び出されて尋問され,私共一同苦しい思いをしました.
大佐はソ連の事情にも通じ,話もできるので,我々が20年の刑を受けても実役大体3分の1で良いというような話から,ソ連の情勢についても教えられました.
大佐は25年の刑だとかご自分で言っておられたようです.
11月15日,全員一緒に奉天を引き上げると言って列車に乗せられ,新京,ハルピンからチタに到着,チタで一周間,その冬ウラルの山中に,翌春カメノゴルフスクに9月頃まで居られたように記憶していますが,その後老人組は南のタシケントに行ったとか聞きました.
私は25年2月舞鶴上陸でしたから,そのころ大佐はハバロフスクに居られたことを知りました.
〔略〕」
●昭和35年10月 三谷清(陸士同期,終戦時東満総省長)
「終戦後ソ連に送られてから,
(1) 21年10月〜4月 ウラル山中カザルマンカ収容所
(2) 同年4月〜9月 カザック共和国ウスキー・カメノゴルフスク収容所
(3) 同年9月〜23年8月 ウヅベック共和国チヤマ収容所
以上の収容所で起居を共にし,枕を並べて寝ていたので,ユダヤ人問題と白系ロシア人問題に全力を傾注してきたことを知りました.
〔略〕
シベリアで一時,私達の収容所に満州方面で捕らわれてきた白系ロシア人達と一緒のことがありましたが,彼らは安江君に長年満州で保護を受け世話になったことを忘れずに,よく日本人の部屋へ安江君を訪ねて心から敬愛の言葉を尽くして慰めているところを目撃しました.
このように各地の収容所を転々とする間,モスクワのセミヨノフ〔アタマン・セミヨノフ,在満白系ロシア人の統領〕の裁判に証人として出廷,彼のために有利な証言をしたことも伝えられている.
モスクワの法廷でセミヨノフに会った元関東軍第2課長浅田大佐によれば,
『憔悴の姿ながら悠々厳正な温容を持し,同志7名の首位として裁かれる彼と会い,目礼した.
この裁判において,彼は絞首刑を宣告されたと後で聞いた』
由である」
24年(1949)6月,ソ連からの引き揚げが始まってからは,船の舞鶴入港に先だって,船中での情報に基づく,収容所での死亡者リストが新聞に載るようになった.
20年代の後半の頃,ハバロフスク第21分所における死亡者のリストに安江の名が発見された.
その引揚船入港直後,長男は舞鶴に飛び引揚者収容所に,関東軍最後の報道部長長谷川宇一大佐を訪ねた.
〔略〕大佐は周囲の人々と,彼に向かって平伏して言った.
「私共がついていたのに申し訳ありません.亡くなられたのは確か25年の夏,暑い盛りでした」
安江家では終戦の日をとって,安江の命日と定めた.
(安江弘夫「大連特務機関と幻のユダヤ国家」,
八幡書店,1989/8,p.242-243, 255-258)
◆◆◆USA関連
【質問】
「第二次大戦中にアメリカ軍は,作戦会議に民間人の専門家を呼んだ」みたいな話を聞いた事がありますが,詳細を教えて下さい.
【回答】
それはOSS(乱暴に言えばCIAの前の組織)での話でないかい?
OSSでは対日分析や宣伝工作にあたり,民間人を日本の専門家――
ハーバード大学教授セルジュ・エリセーエエフ博士,
元駐日参事官ユージン・ドゥーマンほか
日系人――
小出貞二
許斐氏信(このみ・うじのぶ,現在は許斐仁と改名)
坂井米夫(朝日新聞通信員)
藤井周而(ロスの邦字紙「同胞」発行人)
幸地新政(「同胞」スタッフ)
中村信義( 〃 )
芳賀武(横浜正金銀行――現・東京銀行――の元NY支店行員)
保忠三(画家)
貴田愛作
下村忠直
ケイ・スガハラ(戦後,海運王)他
――まで幅広く登用していました.
後の日本共産党の大物,野坂参三もこのとき協力していたそうナ.
エリセーエフ博士らは評価委員会のメンバーとなって諜略工作の内容を精査.
日系人は工作の実務に当たりました.
ちなみに,「狐を使って日本人をばかす」というアイディアを考えたのも,「日本学の大家」エリセーエフらしいとか,
まあ,戦前アメリカの対日認識レベルはその程度ですな.
詳しい事は,春名幹男著「秘密のファイル」(共同通信社,2000/4/10)上巻の第2章あたりを.
(消印所沢 ◆z3kTlzXTZk)
【質問】
ルーズ・ベネディクトの「菊と刀」を最初は名著と賞賛したホワイトハウスが,後に悪書に指定したという話をどこかで聞いたのですが,詳細が語られているページを教えて下さい.
【回答】
「悪書に指定した」という話は寡聞にして聞かないが,「菊と刀」批判自体は存在する.
http://www.j.u-tokyo.ac.jp/~shiokawa/ongoing/books/benedict.htm
によれば,ラミズは「菊と刀」を次のように批判しているという.
・彼女の分析が自らの方法論を裏切っている可能性がある.
実際,いくつかの個所では,自文化中心主義(エスノセントリズム)批判の視角が徹底されていないようにも見える.
また,
『二つの占領統治』と『セイモア・ハーシュの一撃』
というコラム(?)によれば,
”余談:マッカーサー占領軍はルース・ベネディクトの矛盾だらけで要領を得ない『菊と刀』をバイブルにしたおかげで,方針がたてられなかった”
,という.
【関連URL】
『菊と刀』の勉強(000)
マーガレット・ミードとルース・ベネディクト
【質問】
第二次大戦中に,アメリカ軍はナヴァホ語を暗号に使用しましたが,日本側はこれに対して,何の対策もとれなかったんでしょうか?
【回答】
なんでナヴァホ語を使ったかというと,日本人で理解できる者がいる可能性が極端に低い上に,文法が非常に複雑で習得が難しいから.
ナヴァホ語の動詞は,主語だけでなく目的語に応じても変化しました.
しかもその変化は,目的語が
「長い物(エンピツなど)」
「ほっそりして柔軟なもの(ヘビ,ひもなど)」
「粒状のもの(砂糖,砂)」
「束になったもの(干草など)」
「粘り気のあるもの(泥など)」
などをはじめ,実に多くのカテゴリーに応じて,動詞が一つ一つ変化するのです.
また,動詞には副詞までもが取りこまれており,たった一つの動詞がまるごと一つの「文」を表わすことさえあります.
もし,第二外国語としてナヴァホ語を習得しようと思えば,フランス語などとは比較にならない,おそろしいほどの動詞の活用を覚えなければなりません.
そのため,部族以外の人間がそれを理解することは不可能だったのです.
こんなわけのわからない言語じゃあ,何語か分かったところで兵士に習得させるのは無理でしょう.
分かったからといって,当時の日米の戦力差ではどうしようもなかったけど.
日本軍も鹿児島弁を暗号代わりに使ったという話がある.
ただ通信傍受や通訳を担当した日系兵士に,鹿児島出身の移住者がいて,内容が筒抜けだったとか.
そして,自分の活動により,多くの日本人が死んだので悩み,その人は自殺.
吉村明の「深海の使者」の中に,そのエピソードが出てきます.
日本もアイヌ人を暗号部門に大量徴兵すれば良かったとも思いますが,方言が多く,共通アイヌ語がなかったので暗号には使えなかったでしょう.
沖縄方言も,アメリカには沖縄から大量の移住者が行っているので無駄だったでしょう.
【質問】
日本の大学で,アメリカインディアンについて研究している関係者は皆無だったんでしょうか?
【回答】
いたかもしれないが,軍の担当者がインディアンの言葉だと気付かなければ無理.
まさか,「この暗号解ける人」みたいに一般公募する訳にも行かないし.
というか,ナヴァホ族の言語が選定された理由として,言語自体の複雑さに加えて, 「ドイツ及び日本の研究者が寄り付いてない」ってのがあったと聞く.
もちろん言語学者の中にはアメリカインディアン言語の専門家もいた.
しかし,もしナヴァホ語だと分かっても,研究室の数人で,文献と格闘しながらでは,意味はないだろう.
【質問】
SF作家のコードウェイナー・スミスことポール・マイロン・アンソニー・ラインバーガー博士ですが,訳された彼の作品の後書きを読むと,必ずと言っていいほど
「中国語で,"名誉"と"義務"に当たる単語をいくつか叫ぶと"I
surrender"という英語に聞こえるから,投降したい者はそう叫ぶように」
と宣伝する作戦を朝鮮戦争で立案し実行した,という逸話が載っています.
コードウェイナー・スミスの話に関しては,『ノーストリリア』の第六刷後書き原文は
「朝鮮戦争では,ラインバーガー中佐としてふたたび軍務についた.
彼の立案した作戦のひとつは,投降しても体面をたもてると中国軍兵士を説得することだった.それには中国語で"名誉"と"義務"にあたる単語をさけぶだけでよい.ただ,これらの単語は,正しい順序でさけんだ場合"私は降伏する(アイ・サレンダー)"という英語に聞こえる」
となっています.
また,同じくSF作家のジェイムズ・ティプトリー・ジュニアことアリス・B・シェルドン博士ですが,
彼女は
「女性として初めて空軍情報学校を卒業し,写真解析士官としてペンタゴンで軍務に就き,1945年にはドイツの科学技術や科学者たちを米国に連れてくるプロジェクトに参加.
その後プロジェクトの指揮官であったハンティトン・D・シェルドン大佐と結婚し,52年頃よりCIA設立に関わる」
という,なんだかよく分からない経歴の持ち主です.
この両者に関する逸話ですが,両方とも事実なのでしょうか?
「作品の訳書の後書き」とか,「そこから引用されたネット上の記述」といったソースしか知らないため,よく考えてみると信頼性があやふやな気がします.
スミス博士のほうはそれでもなんだかありそうな気はするのですが,シェルドン博士の方は若い頃左翼運動に傾倒していたという話もあり,そんな人が「写真解析士官」だの,ドイツの科学者を連れてくる云々だのといったプロジェクトに参加できるものなのだろうかと,以前からちょっと疑問でした(ましてやCIAの設立においてをや).
【回答】
コードウェイナー・スミスが米軍の心理作戦顧問だった時代の功績として有名な話だが,
ネタ元は J.J. PierceのThe Best of Cordwainer
Smithの序文.
今となっては真偽のほどは確認できないが,研究サイトでも否定はされていないので,あり得ないともいえない.
"I surrender" の中国語音訳はおそらく, 愛,責,仁,徳(アイ,サ,レン,ダ)
アメリカ人も
http://www.raygirvan.co.uk/apoth/2004_05_01_arc.html
中国人も
http://www.garyfeng.com/wordpress/2005/04/03/??仁コ-投降/
多分そうだろうと推定している.
Jame Tiptree Jr/Alice Bradley Sheldon もいろいろな意味で伝説的人物.
伝記はいろいろあるが簡潔なのはこのあたり.
http://mtsu32.mtsu.edu:11072/Tiptree/index.htm#bio
1915 年シカゴの上流家庭に生まれ,画家を目指したが成功せず,短期間で離婚して陸軍航空隊情報部(この時代空軍はまだない)に加わる.
そこで同じくウォール・ストリートから転じたエリート情報部員ハンティントン・シェルドン大佐と知り合い,結婚.
終戦時には少佐で退役した.
冷戦開始でワシントンに戻り,1952年設立中のCIAに夫婦で参加した.いつごろまでCIAに関係していたかは諸説あるが,東部・中部の良家のエリート子弟で構成された初期CIAで,この夫婦はかなり重要な地位にあったといわれている.
70年代から80年代にかけてジェームズ・ティップツリーのペンネームで旺盛な創作を続け,ネビュラ賞を受賞するなどトップSF作家となった.
80年代に入ると夫婦とも健康を害し,夫は失明して寝たきりとなる.87年「私がまだ私であるうちに…」という遺言状を残し,夫を射殺した後自らも頭を射って自殺.アメリカ文壇・SFファンに大きな衝撃を与えた.
【質問】
J.Wally Higginsとは,どんな人物か?
【回答】
『発掘カラー写真 昭和30年代鉄道原風景 国鉄編』
駐留米軍の軍属(CIA要員でもあったらしい)が,日本国中巡り巡って撮りためた鉄道のカラー写真集.
〔これを出版したのが〕J.Wally Higginsっつ〜お人で,大学卒業後に陸軍に勤務,朝鮮戦争中から後に掛けては海軍軍属,その後空軍軍属として勤務し,日本の永住権を得て,現在,JR東日本顧問だそうな.
軍での任務は情報関係だったそうだけど,三軍を転々とすると言うのは,珍しいのではないか,と.
彼はMichigan大学卒業で,大学での専攻は数学だった様です.
徴兵で,New Jerseyに行き陸軍に所属,
次いで,New Mexicoに移って空軍の軍属,
更に,1954年にWashingtonD.C.に行き,海軍の軍属となり,1956年4月に横須賀で2ヶ月ほど仕事,
1958年6月に府中(?)の海軍軍属となり,1959年に一度仕事でタイに赴任した以外は日本で過ごし,1965年に軍属を辞めて,大学で教鞭を取っていた様で,筑波大学客員教授にもなっているそうな.
1985年に日本の永住権を取得,一方で父親が貨物鉄道の技師だった関係から鉄道に興味を持ち,各地の鉄道の写真撮影を趣味として,海外に対して日本の鉄道紹介を行うなど,鉄道に対する造詣も深く,現在は,JR東日本総合企画本部国際部顧問になっているそうです.
数学を専攻している情報畑の人間とすれば,暗号解読などをやってたのかもしれません.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi
◆◆冷戦以後〜
【質問】
ラインハルト・ゲーレンは自国の諜報機関をどのように守ったのか?
【回答】
準備万端で敗戦のときに備え,その後は米軍との取引を持ちかけ,これに成功したという.
以下引用.
戦後ドイツの対外情報機関の父となったのは,ラインハルト・ゲーレン将軍である.
ドイツは第1次大戦での敗戦を受けて,ヴェルサイユ条約により対外情報機関の解体を余儀なくされたが,1919年には早くも新たな対外情報機関が密かに設立された.
陸軍内部に設置されたこの対外情報機関「東方情報部隊」の指揮官に1942年に就任したのがゲーレンであった.
1968年まで現役のBNDのリーダーだったゲーレンは,確かな先見性と行動力,そして強烈なまでの愛国心の持ち主だった.
ゲーレンは,ナチス・ドイツが崩壊するまで総統ヒトラーに仕える一方で,来るべき時に備え,「東方情報部隊」の主要人員と機密文書を密かにドイツ南部・バイエルンの山岳地帯へ疎開させた.
このときゲーレンは既に,ドイツ南部が米軍管理下に置かれることになることを察知していたという.
1945年5月20日,疎開先のヘリムで補足されたゲーレンは,捕虜収容所に抑留されるが,1ヵ月半後には早くも,占領米軍司令官サイバートとの面会に成功する.
ゲーレンは敗戦前より,ドイツの降伏後には米ソの対立が激化し,その中で自らとそのチームの類希な知識と諜報能力が役に立つと信じていたのだ.
米軍は当初,ゲーレンに強い印象を抱きつつも,直ちに彼とそのチームを実際に使うべしとの結論には達しなかったようだ.
ところが,ソ連が北ペルシアから1946年3月初旬までに撤退する旨の連合国同士の合意を破棄したことから,米ソ対立が徐々に顕在化していく中で,準備不足を否めなかった米国は,態勢の建て直しに躍起となる.
ここで再び歴史の表舞台へと踊り出たのが,ゲーレンとその同僚達であることは言うまでもない.
ゲーレンは米軍との協力を約す中で,またしても先見の明を発揮する.
ゲーレンは米国への協力を惜しまないとし,米陸軍傘下での情報部隊「ゲーレン機関」の設置に努力する一方で,6つの条件を書面にして米軍に呑ませる事に成功するのだが,その一つには
「ドイツ独立後には,新生ドイツ政府自身が,ゲーレン機関の継続の可否を判断する」
との条項が含まれていたのである.
「自分達が対外諜報活動をするのは,あくまでも最終的には新生ドイツのためだ」
という強い意思表示がここに見て取れる.
(原田武夫〔外交シンクタンク代表〕from「中央公論」2005年7月号,p.169-170)
【質問】
パワーズのU-2を撃墜したのはSA-2ではなく,ミグ21とか聞いたけど,真偽はどうなのか,ご存知の方,いますか?
【回答】
U-2がスヴェルドロフスク近くで撃墜されたのは,1960年の5月1日です.
撃墜したのはSA-2ガイドラインと言うのが定説.
当時はスパイ工作説初めさまざまな憶測がありましたが,アメリカに送還されたパワーズの証言やU-2の墜落した機体の状況,さらにペレストロイカ以降に出てきたソ連の関係者の証言などからも,この定説はまず動かないでしょう.
航空ファン誌で「ドリームランドの住人達」と言うU-2に関した長い連載があって,来月号あたりがまさにU-2撃墜事件になるはずです.
【質問】
'60年代,なぜCIAの対ソ作戦は低調だったのか?
【回答】
ミルト・ベアデン Milt Bearden の言葉を信ずるならば,防諜責任者ジェームズ・ジーザス・アングルトンの「魔女狩り」のため.
以下引用.
「CIA長官リチャード・ヘルムズと親しかったおかげで権力基盤は磐石だったから,アングルトンはそれを盾に,ソ連部の有力幹部達を取り込んでいった.
そして,彼らの管理するスパイは殆ど全員,KGBから送り込まれた二重スパイだと信じ込ませてしまった.
たちまち,ケース・オフィサー達はやたらに苦労する羽目になった.鉄のカーテンの向こうでエージェントをスカウトしようとするときは,この人物は追いかける価値があるとアングルトン一党に納得させなくてはならない.CIAを覆う妄想に抵抗したり反抗したりしようものなら,ケース・オフィサー自身がソ連のスパイではないかと疑いをかけられる恐れがあった.
アングルトンは,ソヴィエトはCIA内部に潜り込んでいると信じ,モグラ狩りに乗り出した.これは何年間も続き,有能な人材が次々に潰されていった.
遂には捜査の矛先は反転して,アングルトン自身がソヴィエトのスパイではないかと見なされて監視されるまでになっていた.
セーレムの魔女裁判そこのけの状況だったのだ.
こういうマインド・ゲームの結果として,1960年代のCIAは,ソ連に対する作戦を殆どまともに実行することができなかった.
アングルトンの被害妄想的な詮索に悩まされず,CIAのエージェントして働いた最後の大物ソ連人は,赤軍参謀の主任補佐官オレク・ペンコフスキイ大佐だった.62年に逮捕されるまで,60年からCIAのスパイとして活動した人物だ.CIA史上,最も重要なスパイの一人で,ソ連の最高指令部を覆っていたベールを剥ぎ取り,クレムリンが実は,怒号と空疎な恫喝で動いていることを暴露した最初の人物だった.
彼のおかげで,いわゆるミサイル・ギャップは幻想に過ぎず,ソ連の核戦力は到底アメリカに対抗できるレベルではないことに,ようやく西側は気付いたのである.
62年のキューバ・ミサイル危機の際,ケネディ大統領がニキータ・フルシチョフ首相より優位に立つことができたのも,一つにはペンコフスキイ情報のおかげだった.
しかしペンコフスキイ以後の時代には,主だったエージェント候補はたいていアングルトンに疑いの目を向けられることになった.
スパイ防止活動のトップの要求水準がやたらに厳しくなったため,世界中のCIAのオフィサー達が,ソヴィエト人をスカウトの標的にするのをあっさりやめてしまった.やっても無駄なのが分かっていたし,下手にスカウトすれば自分が疑われる羽目になりかねないからだ.なにしろソヴィエト人をスカウトしようとして動き出すと,必ずアングルトン一党と対決しなくてはならないのだ.
〔略〕
〔'70年,ソ連東欧部部長バートン・〕ガーバーは,15年以上遡ってファイルを分析した.協力を申し出たソヴィエト人の内,特にモスクワを始めとするソ連地域内の例を取り上げ,そのファイルを分析して,アングルトンの説が正しいかどうか検証した.彼の危惧を裏付ける証拠があるだろうか?
あえてCIAの記録を篩にかけ,これほど系統立てて調査を実施し,かのスパイ・ハンターの前提に挑戦しようとした者は,かつてただの一人もいなかった.
こうして得られたのは,単純ながら揺るがし難い答――妄想に基づく説は,精密な検証の前には無力だということだった.
ガーバーにいわせれば,記録に見える様々な事実がはっきり示しているのは,汚染を恐れるあまり,CIAがモスクワの真摯な志願者を次から次に門前払いにしてきたということだ」
(「ザ・メイン・エネミー」上,ランダムハウス講談社,'03,P. 43-45)
【質問】
日韓国交回復交渉にKCIAはどう関与したの?
【回答】
設立後,予備交渉の段階から,部長金鍾泌が積極的に関与した.
1962年晩秋,日本・東京に,壮年の韓国人が降り立った.
前年,朴正熙等と5・16軍事クーデターを起こし,情報機関・KCIAの長となった金鍾泌(JP)である.
国交回復交渉のための来日だった.
賠償額で双方の主張が埋まらない中,彼は,日本の外相・大平正芳に,日韓併合時の悪役の名を出し言った.
「私は,李完用(イ・ワニョン)になる.あなたは,伊藤博文になってくれ.」
自分より遥かに若いJPのこの言葉を受け,大平は,自分は今まで無駄に時間を過ごしていた,と彼の人物を認めた.
条文解釈の相違等あるものの,条約は締結(1965.6.22)発効(1965.12.18)し,北による赤化統一目前と言われた経済力を逆転させ,漢江の奇跡を呼び起こせたのは,このJPの言葉が,大きなきっかけの一つと言って良いだろう.
周囲の状況に翻弄されながら,昨年(2004年),JPは,政界を引退した.
2005年で条約発効から40年.
今日も,玄界灘は荒れている.
例に挙げられた李完用ともども,「本当の愛国・売国とは,何か?」,再考する必要があるのではないか?
「消火器ちゃん」 from mixi支隊
【質問】
これってマジでつか?
「小田実はべ平連時代,ソ連から援助してもらったことがソ連公文書から判明.
総連シンパ工作員であることも判明」
【回答】
べ平連に対する工作があったのは確かだが,小田実ではない.
その情報の出所はスタニスラフ・レフチェンコの"On
the Wrong Side" 1988.
その中で,
「KGBはベ平連事務局員一人をスカウトした」
と書いている.
レフチェンコは元KGBで1982年に亡命.
この事務局員とは吉川勇一事務局長とされているが,本人は否定.
「脱走兵の逃走ルートにソ連を使った交換条件として,べ平連ニュースに偽の"米兵手記"を載せるよう依頼されるなどしただけ」
としている.
まあ,KGBの了解もなしに,逃走ルートにソ連が使えるとは思えませんけどね.
(消印所沢 ◆z3kTlzXTZk)
【質問】
「学園浸透スパイ事件」(1971年)で,韓国にて逮捕された徐勝は,本当に冤罪だったの?
少し前のwikipediaでは,まるで冤罪のように書かれていたけど.
【回答】
『徐勝』(張明秀著,宝島社,1994.12)によれば,逮捕時に爆弾や乱数表などの物証が押収されており,本当にスパイだっただろう可能性は非常に高い.
当人も非転向政治犯だと自称しており,また,北韓へ密航して工作員教育を受けたことも認めている.
なお,「徐勝君を救う会」なるものが日本には存在したが,そのメンバーだった人たちがその件に関して何か釈明したなどという話は,寡聞にして聞かない.
【質問】
辛光洙とはどんな人物か?
【回答】
辛光洙は1929年,静岡県生まれ.
幼いころ,兵庫県尼崎市から,富山県高岡市に転居した.通名「立山富蔵」といった.
国民学校の同級生だった西田和夫(75)によれば.
「おとなしく,素直な感じだった.チャンバラごっこもしたけど,体が大きくて相撲が強かった.
高岡工芸学校に進んだものの,終戦の年に家族で帰国した.
韓国にいるものとばかり思っていたんだが……」
祖国の土を踏んだのもつかの間,光洙は朝鮮戦争がぼっ発するや,北朝鮮の義勇軍に入る.
戦後,ルーマニアのブカレスト工業大学に留学.平壌再建に身を投じるため,科学院の研究士の職を得た.
だが1971年,日韓の事情に通じ,インテリだった光洙は工作員に選抜される.
平壌の招待所で工作員教育を受けた経験のある在日商工人がこう証言する.
「うれしかったですよ.やったぞって感じで.血が熱くなって,燃えるんです.
そんな充実した思い,味わったことないですから.辛光洙もそうだったでしょう.わかります」
光洙は,1980年,大阪・鶴橋の中華料理店で働いていた原敕晁(はらただあき)さんを宮崎県の海岸へ連れ出し,拉致.自ら原さんになりすますためである.
拉致に至るまでにたっぷり時間をかけ,周到に準備した.
協力者も在日社会では知られた大物を引き込んだ.
その際,帰国している息子からの手紙を見せている.人質である.
その協力者(故人)が書いた自伝を入手した.「苦尽甘来」.苦しめば,幸せが来るという意味だろうか.全編,金正日への賛辞であふれ,愛国者としての自負に満ちている.拉致へのかかわりには触れてはいない.
2006年になって,横田めぐみ,地村保志夫妻拉致への関与疑惑も取り沙汰されるが,真相不明.
その後,韓国で逮捕され,死刑判決を受ける.
しかし,太陽政策によるミレニアム恩赦で韓国の獄から放たれ,北朝鮮に送還.※
北韓では英雄扱いされ,労働新聞に手記まで発表している.
詳しくは毎日新聞(2006年1月16日)の鈴木琢磨署名記事を参照されたし.
※恩赦嘆願書には菅直人ら日本の政治家も署名している.
【質問】
ゴルジェフスキイOleg Gordievskyのソ連脱出には,CIAも関与していたか?
【回答】
ミルト・ベアデン Milt Bearden の言葉を信ずるならば,
「これは全て英国が単独で実行した作戦だった.ゴルジェフスキイが英国のスパイだということはCIAも知っていたが,それはオールドリッチ・エイムズの分析を通じて自力で突き止めたことだ.
ゴルジェフスキイが英国のエージェントだと,ロンドンがCIAに公式に伝えたのは,彼が無事ソ連国境を越えた後,それも随分経ってからだった」
(M. Bearden他「ザ・メイン・エネミー」上巻,ランダムハウス講談社,'03,P.116)
【質問】
コズロフ事件とは?
【回答】
1980年1月,元陸将補が現職自衛官から軍事情報月報などを得,ソ連GRU(軍参謀本部情報総局)のコズロフらソ連大使館付武官に交付していた事件.
自衛隊関係の3人が自衛隊法違反容疑で逮捕されたが,コズロフ本人は発覚後に帰国した.
【質問】
キューバによる対米麻薬工作について教えてください.
【回答】
柘植久慶によれば以下の通り.
80年春,キューバ人13万が共産政権を嫌い,アメリカに難民として流入した.その多くは実際に反共的なキューバ人で,以前から出国を熱望していた人々だった.
ところが数千人は違っていた.アメリカに定住できた後,麻薬ビジネスを開始する要員として,キューバ当局の指示で動いた連中なのである.アメリカはお粗末にも,それを知らずに受け入れた.
もし2人の人物がいなかったら,その全貌は,外部に洩れるまでさらに多くの時日を要したであろう.
一人はメンデスというキューバの情報管理総本部の大尉で,彼は祖国を逃れてアメリカに亡命した.83年のことである.
もう一人は,密輸中に逮捕され,情報提供を約束してアメリカ側の保護を受けた,エステヴェスなる人物だった.
彼ら2人の証言は,殆どの点で一致し,信頼しうるものとして評価された.
(「麻薬戦争地図」,銀河出版,'93,P.198)
柘植には信頼性の問題があるが,
同書はブライアン・フリーマントルの著作を参考にしたと推測される.
【質問】
「1985年の損失」とは何か?
【回答】
1985年,ソ連諜報機関内部のCIAスパイが次々に逮捕され,CIAが大打撃を蒙ったことを指す.
これは,オールドリッチ・エイムズ,ロバート・ハンセン,エドワード・リー・ハワード,および,現在でも正体不明なKGB側スパイが,ソ連当局に彼らの名前を教えたためだった.
詳しくは,M. Bearden他「ザ・メイン・エネミー」上下巻,ランダムハウス講談社,'03を参照.
【質問】
FBIのオールドリッチ・エイムズがソ連のスパイだったことを,アメリカに亡命したユルチェンコは知っていたか?
【回答】
ミルト・ベアデン Milt Bearden の言葉を信ずるならば,絶対確実とは言えないが,ノー.
「エイムズを担当していたのはK局,すなわちKGB第1総局のスパイ防止活動部門である.
ユルチェンコは,85年1月にk局を不本意ながら去ったが,それは少なくともエイムズが志願する3ヶ月前のことだ.
その後は,第1総局のアメリカ部で数人の副部長の一人に任命され,カナダおよびアメリカの予備要員を担当している.
しかしKBGは官僚組織であり,何十人もの『副』部長がいて,責任範囲は細分化されている.自分の上官が何をしているのか知っている者は殆どいない,というのが実情なのだ.
エイムズがKGBのスパイだと知っている者が第1層局アメリカ部にいたとしても,それはまず間違いなく部長とその最も信頼する側近だけだろう.ユルチェンコがその一人だったとは考えにくい」
(M. Bearden他「ザ・メイン・エネミー」上巻,ランダムハウス講談社,'03,P.)
【質問】
エイムズはポリグラフ・テストをどうやって切り抜けたのか?
【回答】
長年,工作本部にいたおかげで,エイムズはポリグラフにかける側に立ったことがあり,その機械の限界を知っていた.テストする側になってみると,試験官が何を探そうとするかも分かった.テスト結果は技術者の予測と一致することも知っていた.
だから,ポリグラフ・テストにパスするのは,試験官と良い関係を作れるかどうかにかかっている.
エイムズは巧みに答えていったが,金に関する質問で躓いた.試験官がまたその問題に戻ったので,何か問題があったのが彼には分かった.
彼は,CIA退官後の職について話し始めた.
「ニューヨークとコロンビアにいる友人と一緒に輸出入の事業をするという,私がその場で思い付いた計画について,私達は長々と話した」と,後に彼は語っている.「それはただの計画で,結局計画だけに終わったが,引退前の計画や活動に関して,いかなる規則も私が破っていないし,破るつもりもないことを,試験管に納得させるには相当なやりとりを要した」
巧妙に視点を逸らす事で,彼は難を逃れた.
詳しくはM. Bearden他著「ザ・メイン・エネミー」下巻(ランダムハウス講談社,'03)P.312-313を参照されたし.
【質問】
エイムズやハンセンのスパイ行為が発覚したのは何故か?
【回答】
ロシア人エージェントによる情報があったためだという.
以下引用.
CIAはエイムズ逮捕以来一貫して,彼の正体が分かったのは綿密な分析調査の結果だと主張してきたが,実はこれには裏話があり,パズルの一片はその後10年近くも隠されたままだった.CIAはエイムズの件では,ロシア人エージェントの力を借りたのだ.エージェントはエイムズの名前を特定することはできなかったが,彼の提供した情報の,日時や場所などが,ある容疑者――オールドリッチ・エイムズの行動と合致したのだ.
(M. Bearden他「ザ・メイン・エネミー」下巻,ランダムハウス講談社,'03,P.393)
エイムズのときと同じように,ハンセン逮捕もロシア人エージェントの助けを借りた.ただ,エイムズのときと同じ人物ではない.
(同,P.394)
【質問】
ローントゥリー事件とは何か?
【回答】
モスクワのアメリカ駐ソ大使館で衛兵を務めていた海兵隊員,クレイトン・ローントゥリーがKGBのスパイであることが発覚した事件.1987年12月.
後,3月には,もう一人の衛兵,アーノルド・ブレイシーもKGBに手を貸していたことが発覚.
彼らがKGBに,大使館内のCIAソ連東欧部の最高機密への鍵を渡した可能性も十分にある.
詳しくはM. Bearden他「ザ・メイン・エネミー」下巻,ランダムハウス講談社,'03,P.79-80を参照されたし.
【質問】
冷戦末期のKGBとシュタージとの協力関係は?
【回答】
以下の書籍を信頼するとするならば,シュタージの膨大なデータをKGBもまた利用していたと考えられる.
そのころ東ベルリン郊外のカールホルストにある本部に,数千人のKGB機関員はリポートを送っていた.
ソ連軍の情報部もまた東独で活動していた.
しかし東独の諜報活動の大元は秘密警察シュタージで,この組織は数万人の市民を見張り,数百万の資料を管理していた.
この広範なシュタージのネットワークを,しばしばKGBは利用していた.
――江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.78
また,別項で述べられているウラジーミル・プーチンの当時の活動内容から考えて,独自ネットワーク構築も行っており,その構築過程でシュタージと対立することもあった模様.
written by ナポレオン・ソロ(うそ)
◆◆プーチン in KGB
【質問】
プーチンはどのようにしてKGBに入ったのか?
【回答】
1960年代のソ連では,ナチス・ドイツに対するソ連人スパイの活躍を描いた映画「盾と剣」や,それに関連する小説が大人気だった.
プーチンもそうした映画や小説の強い影響を受けていており,自分もスパイになりたいと漠然とながらも憧れるようになった.
プーチンの机には,当時のソ連人スパイの英雄の写真が飾られていたと言う.
プーチンも
「一人の諜報員が千人の運命を決めるといったシナリオに感動した」と当時を回想している.
9年生になったプーチンは化学の中等専門学校に進学した.
この決定に,教師のヴェーラ・グレーヴィッチは大変驚いたという.
一時期プーチンはスパイではなく,パイロットを目指していたらしい.
9年生の始め頃に,プーチンはレニングラードKGB支部をたった一人で訪れた.
事前に誰も相談せず,一人で決めたことだった.
親戚や周囲にKGB関係者がいなかったことも,彼を駆り立てた原因の一つでもある.
彼はそこで,KGBに入るにはどうしたら良いのか?と訊ねたところ,大学の法学部を卒業して出直すように言われた.
これがレニングラード大学法学部を目指す最大の動機になった.
プーチンの人生が大きく変わった出来事であった・・・
当時の様子を,KGBレニングラード支部に勤務していたユーリー・レシチェフ大佐はこう証言する.
「ワロージャ・プーチンはKGB支部にやってきて,KGBで働くためにはどうしたら良いかと関心を示しました.
当時,私が直接話したわけではありませんが,KGBに採用されるためには,まず高等教育を受けることが必要だと説明しました.
すると,彼はどんな教育が必要なのかと尋ねました.
当時は法律家が求められていましたので,法学部に入るよう提案したのです」.
化学の中等専門学校に進学したプーチンだったが,化学者になるつもりはなく,成績も文科系の科目が良かった.
プーチンは大学受験の必須科目を猛勉強した.
その後レニングラード大学法学部に一発合格を果たした.
彼はそこで熱心に勉強に励み,コムソモール(共産主義青年同盟)には入らなかった.
レニングラード大学には自由な雰囲気が漂っていた.
プーチンはフランスに作家カミュなど西側の文学の講義を受け,西側の法理論や複数民主主義なども学ぶ事が出来た.
ちなみにビートルズの音楽も好んで聴いていた.
彼の卒業論文は「国際貿易における最恵国待遇の諸原則」.
法学部の学生には異例の論文である.
プーチンは大学でも柔道を続けており,2年後には師範になり,1976年にはレニングラード市の大会で優勝する腕前になった.
大学時代の恩師であり,その後サンクトペテルブルク市長となったアナトリー・ソプチャクは当時のプーチンの様子をこう語る.
「勉強熱心な好青年で,優等の成績で大学を卒業しました.
品行方正で,学生によく見られるイザコザを起こした事はなく,学習を怠らず,いったん決心したことは必ずやり遂げるすべを心得ていました.
私が初めは助教授,次いで教授をしていた学部で学んでいまして,よくできる学生として記憶に残っております.
学生だった頃,彼は柔道をやっていました.
大変上手でレニングラードのチャンピオンになったほどですが,親しい友人の他には誰一人,そのことを知らないわけですね.
大学内でも,プーチンが柔道が得意でスポーツ・マスターのタイトルを持ち,大会で優勝したのを知ってる人は殆どいませんでした.
自分のことを喋り散らさない.
実際に手柄になることをしてもみだりに口外しない.
そういう性格なんです」
1975年,レニングラード大学法学部を卒業した.
プーチンは念願のKGBに入った.
大学4年の頃に待ちに待った誘いが来た.
望みを捨てて現実的な就職先を決めている最中にスカウトされたのだ,
その後,大学の就職決定委員会の割り当てで,KGBレニングラード支部へ配属が決定した.
この時大学からKGBに就職したのは僅か4人.
それ以降16年間KGBで働いたプーチン・・・
スパイ・プーチンの始まりであった.
KGBに正式採用された時にプーチンは友人を誘い,カザン寺院近くにあるコーカサス料理のレストランに行った.
二人でちょっとだけリキュールを飲んで,食事をした.
「何か重要なことが起きたとは感じた.
でも彼は,その件に関しては何も言わなかった」
と友人は振り返っている.
私情はどんな近い友人や家族でもあってもなるべく外には出さない.
KGBに入る前からそんな訓練を心掛けていたかもしれない,プーチンらしいエピソードの一つである.
【参考文献】
『ドキュメント・プーチンのロシア』(山内聡彦著,日本放送出版協会,2003.8)
『プーチン』(池田元博著,新潮社新書,2004.2)
CRS@空挺軍 in mixi,2007年08月12日20:45
▼ 佐藤優氏の著作『国家の謀略』(小学館,2007.12)に,プーチンKGB入りの裏話が載っていました.
プーチンはレニングラードのKGB支部で聞いたアドバイスを元に,レニングラード大学法学部を目指し猛勉強します,
そして見事合格し,学生としてKGB入りする準備をし,KGBからの勧誘を心待ちにしていましたが,なかなか接触がありません.
[quote]
「私は,KGBが積極的に働きかける人間を好まないことを覚えていたので,自分からは連絡しなかった.
(中略)
私が大学4年生のときに,一人の男が近づいてきて話をしたいと言った.その男は正体をあかさなかったが,私はすぐにピンときた.彼はこう言ったからだ.
『きみの就職について話しあいたい.まだ具体的には話さないがね』(中略)
『準備はすべて整っている』と彼は言った
『ワロージャ(プーチンのこと),少し先のことになるが情報機関で働かないかと誘われたら,どう思うかい?』
少年の頃からこの瞬間を夢に見てきたのだと彼に打ち明けることはなかった.そう話さなかった.というのは,以前にKGB職員に言われた,『我々は向こうから近づいてくる人間を好まない』という言葉を覚えていたからだ」
[/quote]
―――『プーチン,自らを語る』,扶桑社 2000年 56-57頁』 」
『国家の謀略』も面白い著作なのでオススメですよ.
チェチェン独立派指導者マスハードフ殺害に関する文が興味深かったり.
CRS@空挺軍 in mixi,2007年12月09日16:27
▲
なお,
プーチン自身,自らの諜報機関勤務を少しも後悔しておらず,「立派な人物は全て諜報機関から始まった」というヘンリー・キッシンジャーの言葉をよく繰り返している.
『プーチンの謎』(ロイ・メドヴェージェフ著,現代思潮新社,2000/8/30),p.87-88
という.
▼ ちなみにアレクサンドル・ソルジェニーティンも,プーチンと同様のことを述べているという.
太田述正コラム#1885(2007.7.30)より.
[quote]
「プーチンはKGBの一員ではあったけれど,KGBのスパイ(invetigator)でもなければ,強制収容所(Gulag)長であったわけでもない.
第一,諜報機関に勤務することは,どの国でも否定的に受け止めらるわけではない.
というより,時にはそれは称賛を引き起こすことさえある.
ブッシュ父はCIA長官であった経歴を米国でさして批判されていないと承知している」
[quote]
同コラムのこの部分に関しては,
http://www.nytimes.com/2007/07/23/world/europe/23spiegel.html?pagewanted=print
及び
http://www.atimes.com/atimes/Central_Asia/IG25Ag01.html
をソースとしていると述べられており,ゆえに普通程度の信頼度はあると愚考する.
▲
プーチン近影



【質問】
「盾と剣」とはどんな映画?
【回答】
「盾と剣」(Щит и меч)
・1967年,モスフィルム
・2部作(78分+103分)
主人公は,第二次世界大戦中の対独諜報員アレクサンドル・ベーロフ(Александр
Белов).
ヨハン・ワイスの偽名でSSに入隊.
NH「元諜報員」 by mail,2007年09月02日 10時30分
【質問】
プーチンは何年間KGBに勤務してたの?
また所属は??
【回答】
16年間KGBに勤務しています.
11年間はソ連国内でレニングラード支部に勤めており,
1970年代には海外派遣準備のため,モスクワにある「赤い星学校(現対外防諜アカデミー)」に派遣され
,そこでスパイ養成訓練を受けた.
彼の所属は第1総局,主に対外諜報を担当する部署.
【参考文献】
『ドキュメント・プーチンのロシア』(山内聡彦著,日本放送出版協会,2003.8)
『プーチン』(池田元博著,新潮社新書,2004.2)
CRS@空挺軍 in mixi,2007年08月17日18:26
ただし,正式のメンバーだったかどうかはともかく,1970年にはすでにKGBとの繋がりがあったという,比較的確度の高い情報もある.
以下引用.
〔プーチンは〕1970年にレニングラード大学法学部に入学した.
そのころ彼を教えていたワレーリー・ムーシンは同大法学部がKGB,内務省,官僚の養成所だったことを認めている.
1975年に大学を卒業する以前に,すでにKGBがプーチンの就職先として決まっていた.
彼自身が強い希望を持っていた.
すでに在学中からKGBとのつながりはできていて,学生時代,急に羽振りが良くなり,学生の身で乗用車を買い,乗り回していたとの証言もある.
〔略〕
プーチンの大学時代の法学部教授アナトーリー・ソプチャクは,ゴルバチョフ時代の改革派政治家の代表の一人だった.
ソプチャクがレニングラード市の評議会議長(市長)に選ばれると,プーチンは中佐でKGBを辞め,ソプチャクの政治担当顧問になった.
プーチンは学位論文を書きたかったが,ソプチャクに会って考えが変わったと述べていた.
しかしKGBの協力を望んだソプチャクに対し,KGBレニングラード支部が,教え子の一人だったプーチンを側近に送り込んだというのが真相だった.
――江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.78-81
同書では,後段の「真相」についての根拠は,何も示されていない.
しかし,その後の「シロヴィキ」とプーチンとの深い関係を見るに,今もなお関係は切れていないと見るほうが自然だろう.
現代の諜報界にあってさえしばしば似たことが言われるように,「忍びは死なねば抜けられない」のもまた一面の事実なのである.
消印所沢
▼ 以下,余談.
★★★同志スターリンと語らい合うスレ【72】★★★
より.
――――――
249 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/06/12(木) 19:22:10 ID:???
まだプーチンちんが大統領でなくてKGB職員だった頃.
なにかの用事でKGB職員という肩書きを隠し,使節団かなにかにくっついてアメリカのホワイトハウスに行ったとき,当時大統領顧問だったあのヘンリー・キッシンジャーがプーチンに近づいてきて,こう言った.
「君はKGBだろ」
プーチンは死ぬほど驚いて,思わず「なぜ?」と聞いてしまった.
するとキッシンジャーは「いや,眼光でわかる」とあっさり言って見せたという.
さらにキッシンジャーは,
「見たところ,君はなかなか見所がある.将来は出世するだろうからがんばれよ」
とプーチンを励ましたという.
将来そのKGB職員が大統領にまで出世すると見越していたのかは不明だが,プーチンもいまだに
「キッシンジャーは恐ろしい」
と,ことあるごとにぼやくそうだ.
亀の甲より歳のなんとかとはよく言ったものだ.
――――――
出典が「信じられないが,本当だ.」らしいので信憑度は・・・な所がありますけど.
眼光でわかるのか?普通
CRS@空挺軍 in mixi,2008年06月12日19:11
カマをかけられて,その上でからかわれただけでは?▲
KGB時代のプーチン,1976年

プーチン近影


【質問】
プーチンは何時頃東ドイツへ?
【回答】
1985年に海外転勤が決まり,行き先は東ドイツだった
旧東独のドレスデンにKGB支部があったので家族で赴任した.
プーチンは1990年1月に帰国するまで,5年間勤務した.
プーチン自身は
「行列とモノ不足のロシアから行ったかもしれないが,東独にはモノが沢山あった.
あそこで体重が12キロも増えた」
と振り返っており,赴任当初は
「電話が鳴るたびに.ドイツ人が何を言ってるのか分からなかったらどうしよう.まともにドイツ語で答えられなかったらどうしようと,びくびくしていた」
という.
【参考文献】
『ドキュメント・プーチンのロシア』(山内聡彦著,日本放送出版協会,2003.8)
『プーチン』(池田元博著,新潮社新書,2004.2)
CRS@空挺軍 in mixi,2007年08月17日18:26



【質問】
東ドイツでのプーチンの任務は?
【回答】
KGBドレスデン支部で,東ドイツの秘密警察シュタージと緊密に連絡を取りながら,NATO諸国の政治団体や政党指導者に関する情報を入手し,評価・分析する任務に就いていた.
当時プーチンが連絡を取り合っていた元シュタージ・ドレスデン副支部長イエームリッヒ氏の証言
「プーチンはKGBのドレスデン支部で,最終的には党書記として文化的政治的な仕事の責任者を務めていました.
私はKGBとの連絡要員で,プーチン達の仕事がしやすくなるようにあらゆる便宜を図るように命じられていました.
例えば,彼らが経済界や文化芸術分野の人々や何らかの施設に関心を示せば,そうした対象に接近できるように密かにパイプ役を務めたのです.
彼は非常にインテリで,上昇志向があり,目標に向かって努力する人物だという印象を受けました.
控えめで,いつも変わらず友好的で親切で,そして興味のある話をしたり,楽しくおしゃべりすることができました.
それに彼はドイツ語を上達させ完璧なものにしようとしていました.
ドイツの文化にも興味を示し,小説も読んでいて,ゲーテやシラーについても知っていました.」
またプーチンはシュタージを辞めた元諜報員を探し出し,KGBに役立てようとした.
プーチンに口説かれた元諜報員であるツーコルト氏は,ドレスデンの外国人専用ホテル「ネヴァ・ホテル」のフロント係に送り込まれた.
ツーコルト氏の任務は,ホテルに宿泊する西側のビジネスマンから精密機器に関する最新情報を手に入れることであった.
報酬は1000マルクから10000マルクだった
【参考文献】
『ドキュメント・プーチンのロシア』(山内聡彦著,日本放送出版協会,2003.8)
『プーチン』(池田元博著,新潮社新書,2004.2)
CRS@空挺軍 in mixi,2007年08月17日18:26
一方,他の書籍では若干ニュアンスが異なる.
ドレスデンの街のエルベ川を見下ろす小高い丘の上のアンゲリカシュトラセ4番地の灰色の2階建て住宅が,旧ソ連国家保安委員会(KGB)の少佐だったプーチンの活動拠点だった.
ここで80年代後半を過ごした彼は,東独やソ連の一般人をスパイ活動に勧誘していた.学者,ジャーナリスト,技術者など,西側に旅行できる可能性を持った東独国民が主な対象だった.
ドイツの情報当局者によれば,当時のプーチンのスパイとしての仕事は,西側の技術または北大西洋条約機構(NATO)の軍事機密を盗むことだった.
明かにされた資料では,プーチンはスパイ生活の最後の頃,無線通信の訓練を受けたスパイの発掘,養成に熱心だったとされた.
〔略〕
プーチンの活動拠点だったドレスデンのKGB本部は,シュタージの建物と通りを隔てて向かい合っていた.
プーチンのドレスデンでの活動の詳細については,情報はほとんどないが,スパイ活動への協力者の発掘,要請を含む幾つかの仕事が挙げられていた.
ドレスデンには当時「ロボトロン」というエレクトロニクスの大企業があ_が,この東側最大のコンピューター・メーカーも,プーチンの情報収集活動対象に入っていたと見られていた.
〔略〕
シュタージの協力者リストは東独内の数万人に上ったが,もちろんkGBの協力者としても可能性があった.
そこで背景のしっかりした外国と商売するビジネスマン,外国の学会に出席する学者などが,プーチンの情報収集の対象となった.
〔略〕
彼は表向きライプチヒのソ連の施設「友好の家」を運営する役目を持っていた.
専門家たちによれば,ホーネッカー政権崩壊に備え,彼は当時のソ連共産党書記長ミハイル・ゴルバチョフに共感する東独の人物と接触する使命を帯びていたのではないかとも言われた.
――江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.77-80
まあ,いろんなことをやらされるのは,中堅〜下っ端にはよくある話.
公になっていない部分もまだありそうだ.
消印所沢



【質問】
東ドイツでのプーチンへの評価は?
【回答】
上述のツーコルト氏はこう証言している
「シュタージを辞めて一ヵ月後,東ドイツの終焉が近づいてきた状況の下で,プーチンと諜報活動をどう再構築するのかを話し合いました.
そして,私はKGBのために働く用意があると告げたのです.
彼と話しているとすごく気分が良くて,彼が圧力をかけなくても,打ち明けてしまいたくなってしまうのです.
プーチンには人に秘密を打ち明けさせる才能があるのです
一見すると人と打ち解けない印象を受けるかもしれませんが,彼が笑うと,がらっと印象が変わりますから.
彼と付き合っていたとき間に2回か3回,彼が心底から笑う所を見ました.
その時はもう信頼関係が出来ていたので,その瞬間は諜報機関のお面をかぶっていなかったのですね.
通常は警戒怠りない人でしたが,それは彼の役職からしたら当然のことです,
マイナス面をできるだけ他の人に見せないようにします.
プーチンは他人をわずかな言葉だけで自分の味方にしてしまう才能を持っているのです.
彼が怒鳴り声を上げるのを聞いた事はありません.
言葉数は多くないですが,はっきりと物を言います.
こうしたことから,とてもまっすぐな人だと思っています」
【参考文献】
『ドキュメント・プーチンのロシア』(山内聡彦著,日本放送出版協会,2003.8)
『プーチン』(池田元博著,新潮社新書,2004.2)
CRS@空挺軍 in mixi,2007年08月17日18:26
否定的評価もある.
1989年3月,シュタージのドレスデン支部長だったホルスト・ベームは,プーチンの上官だったウラジーミル・シロコフにKGBの活動について抗議のメモを伝達した.
後に発見されたそのメモの中で,幾つかの名前が塗り潰されていた.
消息筋によると,その中にプーチンの名があったという.
ベームはKGB機関員が東独の退役軍人をスパイに誘っていると不満を述べていた.
ある退役軍人はドレスデンで,2人のKGBスパイからソ連の情報活動に協力するよう提案された.
その話の内容は無線通信の訓練と,3ヵ月に1回の仕事の誘いだった.
ベームはその者がすでにシュタージで働いているとして,KGBにその人物から手を引くよう要請した.
ベームは後に自殺したが,ベームの手紙は当時のプーチンの活動ぶりを示すものだった.
〔略〕
1987年,プーチンはシュタージとの協力関係への貢献で,東独の治安当局からブロンズ・メダルを貰っている.
しかしそのメダルは最低レベルから2番目ぐらいの賞であり,どこから見てもプーチンのスパイとしての評価が高かった証拠はなかった.
――江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.79-80
まあ,たとえ同盟国同士であったとしても,その両国の諜報機関までが関係良好とは限らないというのは,アメリカ―イスラエルのそれを見ても分かる話.
消印所沢
「俺の『プーチン』フォルダが火を噴くぜ」



【質問】
東ドイツでのプーチンの知名度は?
【回答】
無名で典型的な内務官僚の域を出なかった.
87年6月に第1総局のボスであったクリュチコフKGB副議長がドレスデンを訪問したことがあった.
しかしクリュチコフは,プーチン達の働きぶりには関心を示さなかったようである.
プーチンは海外赴任中に2階級分の昇進を果たしたが,クリュチコフに近い退役KGB幹部の一人はこう証言している.
「プーチンがドイツで働いていた時に,彼は全く有名な存在ではなかった.
スキャンダルもなかった代わりに,優秀な成績でもなかったのだろう.
仮にソ連がそのまま存続し,プーチンがそのままKGBに残っていたとしても,地方支部の部長程度の昇進が精一杯であっただろう」
【参考文献】
『ドキュメント・プーチンのロシア』(山内聡彦著,日本放送出版協会,2003.8)
『プーチン』(池田元博著,新潮社新書,2004.2)
CRS@空挺軍 in mixi,2007年08月17日18:26
この点では,他の書籍も一致している.
以下引用.
プーチンの活動は旧ソ連のスパイとしてはごくありふれたもので,彼を知る当時のドレスデン市長も「凡庸なスパイ」と印象を語っていた.
――江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.79
消印所沢



【質問】
プーチンが故郷サンクトペテルブルクに帰還したのは何時か?
また仕事は何をしていた?
【回答】
1990年一月頃.
東ドイツから帰国したプーチンにあてがわれた配属先は人事局.
もうKGBに憧れの職場ではなく,KGBには予備役として籍を残して,母校のレニングラード国立大学に戻った.
そこで見つけた職は学長の国際担任補佐.
この転職が彼の真の転機へとなった.
【参考文献】
『ドキュメント・プーチンのロシア』(山内聡彦著,日本放送出版協会,2003.8)
『プーチン』(池田元博著,新潮社新書,2004.2)
CRS@空挺軍 in mixi,2007年08月22日20:33
異説もある.
江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.80によればレニングラード大学に戻ったのは,KGBへ学生を勧誘する仕事のためだったという.
以下引用.
1990年,プーチンはレニングラードに戻った.
レニングラード大学の副学長補佐の職を得た.
実際はKGBのために学生を選び,勧誘するのが仕事だった.
彼は後にそれを認め,学長も承認済みのKGB将校としての隠れ蓑だったと告白した.
同様の記述は,他にも見られる.
レニングラードでプーチンといっしょに働いていた元諜報機関職員のひとりは,『コムソモーリスカヤ・プラウダ』のインタビューで
「プーチンが携わっていた仕事の分野は,諜報機関の中で最も責任が重く,緊迫した分野の一つだった.
彼はキム・フィルビーのような人を作り出す℃d事をしていた」
と語った.※68
これはプーチンが諜報活動だけでなく,その雇用にも携わっていたことを意味する.
レニングラードではジャーナリスト,西ドイツの旅行者,学生,ビジネスマンがそのような可能性があった.
※68 『コムソモーリスカヤ・プラウダ』2000年2月27日
――『プーチンの謎』(ロイ・メドヴェージェフ著,現代思潮新社,2000/8/30),p.88-89
本サイトでは原文の『プラウダ』記事は入手していないが,「最も責任が重く,緊迫した分野の一つ」を新米に任せるとは思えないので,この同僚は1990年以降のプーチンについて話している可能性が高い.
そうだとすると,後者の説でほぼ確定のように愚考する.
消印所沢



【質問】
何故プーチンはFSB長官に任命されたのか?
【回答】
エリツィンの意向.
コワリョフ長官がビジネスに捜査の手をのばしたのを,彼は嫌ったため.
そこで民主主義や市場改革に理解があるプーチンを採用した.
しかしプーチンは内心イヤだったらしい.
1998年7月に彼はFSB長官に就任した,
異例のスピード出世.
しかしこの人事はプーチンにとってショックだった.
同じ川に二度も踏み入れなくなかったと自伝で述べている.
何故エリツィンはプーチンをFSB長官に抜擢したのか?
彼は自伝でこう述べている.
「コワリョフ(前FSB長官)は良いプロのKGBマンだが,ビジネスや企業家に対して大きな反感を持っていた.
彼は金持ちが好きではなく,FSBは次第に新たな敵,民間銀行や個々のビジネスマンのスキャンダルを探すようになっていた.
1998年の夏,私はコワリョフの後任を誰にしようかと考えた.
答えは瞬間的に見つかった.プーチンだ!
第一に彼はこの機関で長く働いていた.
第二に大きな管理業務をこなしてきた.
しかも重要なのは,プーチンは民主主義や市場改革にも理解があり,国への忠誠心にあふれていたことだ」
当時のFSBは大きな問題に直面していた.
連邦崩壊後,優秀な人材が流出し財政難から民間会社に転出し,社会での権威を失っていた.
この権威を回復し,組織を立て直し,活動の内容をより政治色の薄いものにする必要があった.
プーチンはエリツィンから,FSBの再編成や市場経済で生まれた民間ビジネスを守る事,テロや過激な政治勢力の取り締まり,チェチェンを含む分離独立活動の阻止を命じられた.
FSB長官時代のプーチンについて前サンクトペテルブルク市長ソプチャクはこんなエピソードを語った.
「1996年のことです.
エリツィン大統領はプーチンを連邦保安長官に任命することにし,当時大佐※であったプーチンに将軍の称号を与えようとしました.
大統領が少将を素通りして中将の称号をプーチンに与えようとした際,プーチンはエリツィンにこう言ったそうです.
『私は将校です.将校の間では,実績もあげないのに昇格される人間をとても嫌います.
新任早々ニ階級特進だと,こう言われるのです.
私は連邦保安長官に着任したばかりですから,将軍の階級章は遠慮させていただきます.
今のところ,大佐が私に見合った称号ですから,大佐のままで勤務させていただきたい.
将軍に価するだけの仕事をしたら,将軍の肩章をお受けしましょう』
このエピソードはたちまち局内に広がり,プーチンは心から将校達に尊敬されるようになったということです.
将軍の官位を授与すると言われて,それを断る者は当節ではそう多くありません.
大統領はロシア軍の最高司令官ですが,その人間が今でも大佐なのです.このことは彼の人となりをよくも物語っていると思います」
CRS@空挺軍 in mixi,2007年09月01日20:47
事実,組織としてはかなり異例の登用であり,これによりプーチンの名前が西側でも知られるようになる.
治安機関トップになる人間は,将軍クラスが通例だったからだ.
消印所沢
※ 江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22)では,最終階級は中佐とされている.
【関連動画】
Man's Work
プーチンFSB長官(当時)のインタビュー映像.
CRS@空挺軍 in mixi, 2007年11月02日17:48
【質問】
なぜ最終階級中佐のプーチンが,FSB長官になれたのか?
【回答】
これもまたチュバイスの推薦だった模様だが,漠然とした状況証拠しか存在しない.
以下引用.
この人事もチュバイスのさしがねではないかとの憶測が出た.
連邦保安局長官の前任者だったニコライ・コワリョフも,チュバイスによって据えられた人物だった.
1996年大統領選の期間中,大統領府警護局長コルジャコフとの政争に勝って,チュバイスはコルジャコフをクレムリンから追放した.
この時コルジャコフの盟友だった連邦保安局長官のミハイル・バルスコフも解任させ,後任にコワリョフを据えていた.
だからコワリョフに代わって連邦保安局長官に就任したプーチンにも,チュバイスとの関係について質問が出た.
「コメルサント」紙とのインタビューで,彼は
「サンクトペテルブルク時代,チュバイスとは入れ違いで個人的にあまり知らなかった」
と,チュバイスとの個人的関係を否定する発言をした.
プーチンはチュバイスとの仲を公に知られることを警戒していた.
江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.86



【質問】
FSB長官としてのプーチンがやったことは何か?
【回答】
人事の入れ替えに力を入れ,後に「シロヴィキ」と呼ばれる,プーチン自身の側近グループを作り始めたという.
以下引用.
連邦保安局でプーチンが力を入れたのは人事の入れ替えだった.
KGBのサンクトペテルブルク時代の人脈が,モスクワに集められた.
上司だったヴィクトル・チェルケソフ,ニコライ・パトルシェフ,サンクトペテルブルク市政時代からすでに市の総務局長に登用していたヴィクトル・イワノフなどが,プーチンへの協力者として連邦保安局を動かし始めた.
人事登用で彼らが重視したのは,サンクトペテルブルク出身の地縁とプーチンへの忠誠心だった.
〔略〕
大統領府にいたときは,プーチンにはまだ側近グループはいなかった.
「セミヤー」グループの大統領府長官ユマシェフの忠実な部下として行動し,「セミヤー」から離れて自己のグループを作ることは謹んでいた.
しかし連邦保安局に移ると,一転してKGB時代の同僚や上司を主体にした自己の側近グループ形成に熱を入れ始めた.
このグループは後に「シロヴィキ」と呼ばれる政治・経済勢力に発展する.
「シロヴィキ」は武力関係省庁の出身者を総称する言葉だったが,プーチン政権下で特別な意味を持つことになる.
江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.87
私見だが,プーチンが強い上昇思考を持つようになったのは,この「シロヴィキ」作りを始めた頃からではないかと愚考する.
プーチン・フォルダはまだまだあるぞ



【質問】
プーチンが尊敬するKGBの人物は?
【回答】
ユーリ・アンドロポフを尊敬している模様.
彼に関する記念施設を,プーチンは復活させている.
以下引用.
1998年に連邦保安局長官に任命されていたV.プーチンは,ルビャンカの建物の中にY.アンドロポフ記念執務室を復興させ,1985年にここに据えつけられた記念銘板を,元の位置に戻す決定を下した.
『プーチンの謎』(ロイ・メドヴェージェフ著,現代思潮新社,2000/8/30),p.91
本書の全体のトーンはプーチン翼賛的であり,したがって,プーチンに対するマイナス・イメージを抱かせることになるだろう,この記述は,逆に信頼に値すると愚考する.
▼ ちなみに以下は元KGB,オレグ・カルーギン将軍のアンドロポフ評.
――――――
人間アンドローポフの評価は一筋縄では行きません.
彼がKGB議長に就任すると,体制批判派への弾圧がますます強まり,任期中に政治諜報活動の体制は完璧なものとなりました.
アンドローポフは党内序列についてあらゆる事を知っています.
彼は社会が求めていることと,ブレジネフやスースロフの目論見とのあいだをたくみに立ち回りました.
〔略〕
とはいえアンドローポフは政治的殺人には反対でした.
つねに別の方法を選びました.
――――――『不死身のKGB』(ナターリヤ・ゲヴォルキャン Natalija Geworkjan 著,エディションq,1998.9.10),p.22
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プーチン世界の旅


