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総記
WW1 FAQ 目次

カナダ軍の装甲車

 【link】

Encyclopaedia of the First World War(英語)

First World War.com(英語)

Staatsmänner und Offiziere aus dem ersten Weltkrieg
 第1次世界大戦の関係者の肖像がずらり.

The World War I Document Archive(英語)

「ストパン」■ハプスブルク帝国の国民統合と軍隊――極東に囚われた俘虜たちを通して

第1次世界大戦期プロパガンダ・ポスター・コレクション

「第1次大戦」(総合,相互リンク)

「ワラノート」:やるおで学ぶ第1次世界大戦 〜開戦前夜編〜

『朕が作戦』(独帝カイゼル著(?),大正3年)

 おもすれえ(笑)
 何でも,フランスの一軍事探偵がポツダム宮殿の奥深く忍び込んで盗み出し,フランスのクリユール氏なる人物が私費を投じて出版したものらしい.
 初っ端に開設されているこの経緯だけでも笑えるのだが,朕は大芸術家,朕は小なる全知全能,朕は・・以下略
 なんか「俺スゲー」感がビンビンですよ.
 日本のを気にかけている節があって,日本は黄禍の原菌なりとか,日本おそるるに足らずとか,読んでいてニヤニヤが止まりません.
 これと似た匂いを漂わせている書籍にシオンの議定書があったけど,もしもこれが本当なら,カイゼルは変な人だったんだなー.

――――――名無しの愉しみ in 軍事板,2009/10/13(火)
 カイゼル=ヴィルヘルム2世は大分アレな人だったとか.
 ニコライ2世を焚き付けて日露対立を煽ってみたり,軍艦で仏領モロッコに乗り込んでみたり.出典は忘れたが,「軽燥で才走った小人」というのがベルリン駐在各国外交官達の評価だったとか.

 何年か前には,真面目にアメリカ東海岸侵攻プランを研究させたって資料が見つかった.
 バーバラ・タックマン「決定的瞬間」によれば,
「日本は客船に兵隊を山ほど詰め込んでメキシコ占領しようとしている!
 メキシコは我がドイツと同盟して黄色い猿に立ち向かおう!」
って大真面目に書いてるとか……
(まあこの人,基本的にいつも真面目なんだが)

――――――軍事板,2009/10/13(火)

 【質問】
 WWU発生以前もWWTは「第一次」と呼ばれていたのでしょうか?

 【回答】
 「the great war」と呼ばれていました.


 【質問】
 『八月の砲声』(バーバラ・W・タックマン著,ちくま学芸文庫,2004.7)を読了したのですが他にWWT関連で良い本はありますか?

 【回答】
 学研のムック『図説第一次世界大戦」』上下(瀬戸利春著,2008.2)はなかなか良いよ,
 軍事だけでなく,政治や経済も含めた全体像を手軽に理解するには最適.
 『八月の砲声』で描かれている前後の各国の動きもわかるし.

 これ読んでからリデル・ハートに進むと,より理解が深まると思う.
 あとは,図書館に死蔵(笑)されている旧軍編纂の『欧州戦史』とかだな.

軍事板
青文字:加筆改修部分

 ただしリデル・ハートは,戦前(WW2前)の『第1次世界大戦,その戦略』(原書房,1980.9)と,定本の分厚い『第一次世界大戦』(中央公論新社,2000.12)があります.
 借りたり購入の時は混同しないように注意なり.

 資料的には当然,戦後の方が高いですが,戦前版は,あくまでも戦前の見方なので,資料的というよりは当時の考え方を読み取ると言う意味で,ものすごく面白いです.

Lans ◆xHvvunznRc in 軍事板
青文字:加筆改修部分

 リデル・ハートの読むなら,石津朋之の『リデルハートとリベラルな戦争観』もお勧め.
 なんとなく,上等な兵頭二十八?という印象を受けた.

 また,第一次大戦だけがテーマの本ではないけれど,クレフェルト著『補給戦』(中央公論新社,2006.5)は,シュリーフェン計画について考えるときは,読んでおいたほうがいい.

 シェリーフェン計画で思い出したが,ドイツ視点のみだと『ドイツ参謀本部興亡史』(ヴァルター・ゲルリッツ著,学研M文庫,2000.11)の記述も興味深いよな.
 英軍視点は『戦略の形成』ぐらいなのかな?

 他には,
A.J.P.テイラーの『第一次世界大戦 目で見る戦史』(新評論,1986)
ジェームズ・ジョルの『第一次世界大戦の起源』(みすず書房,2007.6)

 紙媒体では無いがこれも外せない.
石津 朋之「シュリーフェン計画」論争をめぐる問題点(PDFファイル)

 もちろん基礎的なとこで『西部戦線異状なし』は読んでるよね?

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 リデル・ハートの『第一次世界大戦』読んだことあるやつ感想おしえてくれ.

 【回答】
 概説本ではなく戦略論,
 アフリカ戦線を除く各戦線を陸海満遍なく,時折「こうした方が良かった」といった私案や,将軍ら指導者に対する批判も交えながら,主観的にではあるが,それなりに詳しく網羅したもの.
 戦略批判,戦術考察は興味深い.
 地図も付いてて便利.

 ただし,欧州あたりでは「偉い著者による過去の書」というとこらしく,史学的な価値はいまひとつらしい.
 つまり,つまり今日に至っては「歴史書」としての価値は今ひとつということ.
 「戦略戦術書」としては別の見解があるということで,そこを混同すると混乱すると思う.

 彼が書いたときから随分経っているし,その間に研究が進んで色々と新しい史料や見解も出てきている.
 無論,誤認やそれに基づく推論もある訳で,死後であるからそういったものがフィードバックされて改訂されることもない.
 しかも,その著書を踏み台にして新しい史家が,新たな視点から述べているので,陳腐化してしまっているので「いまひとつ」ということ.
(しかも,その新しい史家の書いたWW1ものは翻訳されてないとorz)
 あと,歴史書としてはいささか主観的に過ぎると個人的には思う.

 つーか,リデルハートの意見を記した 「戦略戦術書」そのものだと思う.
 だから歴史書としてはいささか主観的に過ぎるのは,ある意味当たり前(笑)
 そもそもリデルハートの著書に出てくる「歴史的事実」ってのは,リデルハートの意見を上手く説明するための「喩え話」以外の何物でもないしな.

 ヘイグ将軍や海軍に関して個人的には意見が異なるけれども,石津さんの『リデルハートとリベラルな戦争観』の該当部分も,読んでみると別視点も得られるかも知れない.

 高度に抽象的な話が主題の本なので,素人にはお勧めしかねるかも?

軍事板
青文字:加筆改修部分

 りでる☆はーと の第一次世界大戦は上下巻の分厚い奴の他に,【第一次大戦,その戦略】(The War in Outline)という,1936年(つまりWW2前)に書かれ一度,昭和14年に刊行され,1980年に原書房から復刻された本があります.
 「高度に抽象的な話が主題の本」というのは,もしかしてこちらじゃないですか?

 りでる☆ハート「第一次大戦,その戦略」については,第2次大戦直における,当時の第一次大戦についての考察・評価がそうであった点を今読めるというのが最大の意義であり,資料性などとは別の問題だと思います.
 戦前の人間のWW2を経験する前のWW1に対する声が読めるのですよ.
 その考え方をもって彼らはWW2に突入してるのです.
 単に「古い」とか「資料性」とか「正確性」と別に,当時の欧州の声(それも軍事面に限った)を聞ける数少ない書物だと思います.

Lans ◆xHvvunznRc in 軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第一次世界大戦が始まった当初,国民は「数週間で戦争は終わる」と思っていたそうですが,これはなぜなのでしょう?
 当時は,戦争というのは相手国を滅ぼすまで戦わなかったということなのでしょうか?
 それとも相手が非常に弱いと誰もが考えていたのでしょうか?

 【回答】
 戦争を始める時は誰でも,自分の国にとって都合のいい筋書きを想定しているのです.
「クリスマスまでに終わる」といって始まったはずの戦争が,何年も何年もダラダラ続くなんて話はよくあることで,第一次大戦に限った話ではありません.

 第1次大戦の場合,戦争が長期化した一因に兵器の,特に野砲の性能向上があるそうです.
 そのせいで塹壕から出ないから戦争が長期化.

>当時は戦争というのは相手国を滅ぼすまで戦わなかった
というのは,あながち間違いではありません.
 日露戦争,米西戦争,ボーア戦争,バルカン戦争と,第一次大戦前の欧米の戦争は,相手国を滅ぼすまで戦ったりはしませんでした.
(アジアやアフリカで植民地を建設する時は別.その場合は容赦なく在地勢力を滅ぼしましたが)

世界史板


 【質問】
 戦争神経症が第1次大戦で急にクローズアップされたのはなぜ?

 【回答】
 兵器の威力が向上し,且つ戦争期間が伸びた為,戦闘時に兵士に掛かるストレスが質,量共に激増したからです.
 今までの戦争は精々3〜4回会戦して蹴りが付いたり,戦争が長期間に及んでも戦闘自体は断続的でした.
 しかし第1次世界大戦になって,野砲の性能向上や機関銃により塹壕から出られなくなる事により,砲火と環境の悪い塹壕でのストレスに長期間,しかも連続して晒され続ける事で,神経症を患う者が激増しました.
 大戦初期の頃は無理解から,神経症を患った者は戦意を失った臆病者とされて,寧ろ処罰対象となり,見向きもされませんでしたが,流石に無視できない数でしたので,何かしらの原因があるのではないかと思われ,注目を浴びる事になりました.


 【質問】
 WW1って「死者に民間人を巻き込んだ大戦争だ」って教科書にあったんですけど,偶発的なことを除いて,民間人を殺して生産力を下げる等を目的とした攻撃なんてありましたっけ?

 【回答】
 後方に対して生産力を下げさせるほどの攻撃を行う能力はありませんでした.
 そうではなく,安全と思っていた自国の中心に対して被害を受けることで戦意を喪失する,民意が離れる効果を狙っての戦略爆撃です.

 とはいえ,戦争が戦線に留まらなくなった,もはや銃後はない,という認識は衝撃的であり,参戦国の多さと併せて「世界大戦」の名が産まれました.
 一部では「最後の戦争」とすら言われていたのですが,すぐに「その1」に格下げされてしまったわけで.

 また,ロイヤルネイビーによる海上封鎖は,ドイツの銃後の経済…ひいては戦争経済に大打撃を与えました.
 さらに,戦争末期にはドイツ国内は栄養失調に倒れる国民も出てきましたし,乳幼児死亡率も極めて高いレベルになりました.
 しかも,停戦してからも,この海上封鎖はしばらく続き,国民生活を相当に悲惨なレベルに押し下げています.

 ついでに言いますと,WWIがそれまでの戦争とちがう総力戦と呼ばれるのは,民間人の死亡というよりは
「生産・補給し続けなければ戦争ができなくなった」
という点が大きいです.
 それまでの戦争って原則的には,戦争前の備蓄+現地調達でなんとかなってたんですが,兵力の膨大化・弾薬の消費量の劇的な増加・長期戦化で,後方でも全力で兵器・物資を生産し続けて,前線に送る輸送網を整えないと,とてもじゃないがやってられなくなってしまったのです.


 【質問】
 「戦争社会主義」とは?

 【回答】
 ポール・ジョンソンによれば,事実上ドイツ軍の独裁者だったルーデンドルフ将軍が,第1次大戦時のドイツの社会システムを呼んだあだ名.
 ヨーロッパ諸国は,その経済と人材を全て戦争に注ぎ込んでおり,全ての産業に渡って,国家が経営を引き継ぐか所有権を握っていたが,特にドイツではこれを最も効率良く進めていたため.

 ちなみに,こうした社会システムを絶賛し,後にこれをロシアに持ち込んでロシア全体の経済を「ソヴィエト化」するための基盤としたのが,かのレーニンである.

 詳しくはポール・ジョンソン著『アメリカ人の歴史』第3巻(共同通信社,2002.7),p.40を参照されたし.


 【質問】
 第一次世界大戦であれほど戦線が膠着したのに,なぜ双方とも講和や和平をしようと思わなかったのでしょうか?
 講和の機会や妥協点はなかったのでしょうか?

 【回答】
 妥協点は低地諸国(ベネルクス三国)の回復にあったと思われる.
 イギリスの参戦を招いたのが中立国ベルギーへの侵入だから,ここからのドイツの撤退がイギリスにとっての交渉のスタート地点.
 しかし,当時ドイツを牛耳っていた参謀本部の連中は,占領地を手放そうとしなかったから,話にならないと言う事.
 彼らは,軍事的な成功が外交的な成功に繋がると信じていた.
 つまり,彼らはこの期に及んで,パリを落とし,フランスを屈服させようと考えていた.
 いかにも軍人然とした考えだが,大きな誤り.
 戦略が外交を縛り続け,長々と戦争が続く事になった.


 【質問】
 『撃墜王リヒトホーフェン』を手に入れて楽し読んでいますが,英仏側視点のものも読みたくなりました.
 WW1の空か陸もので,生活感やエピソードに富んだ,日本語の本は何かありませんか?

 【回答】
 自分が読んだ事ある中で該当しそうなのはこの辺り.
 詳細はそれぞれググってみてくれ.

・陸
「ガリポリ」(アラン・ムーアヘッド)
「戦場の一年」(エミリオ・ルッス)
「銃声のやんだ朝に」(ジェイムズ・リオーダン)
・空
「天翔けるバカ」(須賀しのぶ)
「ヴィンターの朝」(レン・デイトン)

 ちなみに「ヴィンターの朝」は「宣戦布告」所収の短編.
 あと,
「西部戦線異状なし」や
「さらば古きものよ」(ロバート・グレーヴズ)
・ソルジェニーツィン「一九一四年八月」
ダグラス・リーマン「栄光の海兵隊 紅の軍旗」
エルンスト・ユンガー「鋼鉄の嵐の中で」
『ドイツ戦歿学生の手紙』(ヴィットコップ編)
とか.

 「西部戦線異状なし」は生活感に溢れてるからいいと思う.
 飯の話,死体の話,円匙マジ最強な話などなど.

 『ドイツ戦歿学生の手紙』については,序文より.

――――――
 本書は,第一次世界大戦において戦歿した学生五十余名の手紙を抜萃し,戦死した日付順に配列したものである.
 明日しれぬ戦場にあって,文学や哲学に親しんだ学生達が,人間精神に関することに深く思いを寄せていたことは,悲壮な戦闘の記述に劣らず感動的であるばかりでなく,戦争の最も忠実な記録と言えよう.
――――――

軍事板,2009/07/02(木)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 WW1で毒ガス・戦車・飛行機が登場しましたが,これら新兵器は戦争の勝敗を左右するものだったのですか?
 もし,正しいのであれば,どのようにでしょうか?
 もし,正しくないのであれば,なぜでしょうか?

 【回答】
 いずれも当時決定打とはなっていない.

毒ガス:
 膠着する戦線を打開するために開発された.致死性の猛毒ガス(青酸ガス)は持続性を持たせられず,ホスゲン,イペリット等が多用された.死者はそれほど多くない反面,負傷者は多数(数十万人単位.ヒトラーもその一人と自称している)で,効果は絶大.反面,条約で禁止されるまで延々とお互いに使用しあう泥仕合だったので,どちらか一方の勝敗の決定打とはいえない.

戦車:
 敵塹壕を強行突破するために開発された.イギリスのマークIが元祖で,ソンム会戦で多少の戦果を挙げるも,主に信頼性にまだ難があったため,大局を変えるには至らず.
 ただ,心理的効果は大きかったらしい.
 別の流れとして,ルノー軽戦車があるが,こちらは終戦半年前位にようやく実戦投入された程度なので,こちらも大きな影響を与えてるとは思われない.

 1919年まで戦争が行われていたら,戦車はまた違った評価になったと思う.
 ドイツ軍の最後の反攻作戦が失敗した後,戦車隊を中心とした逆襲が行われている.
 また,フラーなどの手によって攻撃計画「1919計画」が企画され,上層部で承諾を得ていた.
 もし仮に反乱が起こらずに1919年までドイツががんばっていたら,戦車は戦争を終わらせた決戦兵器として名を残し,その後の戦術理論も違ったものになっていたかもしれない.

飛行機:
 最初は偵察機として運用され,その行程で敵戦線にちょっとした爆弾を落とす「嫌がらせ爆撃」が発達して爆撃機へ.
 それを撃ち落すための戦闘機が生まれ,戦闘機同士の空中戦が発生.
 が,基本的に地上軍と連携して動く戦術そのものが未発達だったので,こちらも戦局を変えるには至らず.

 なお,その後,破竹の侵攻速度を持った陸空共同のドイツ電撃作戦や,一式陸攻でPOWを葬ったマレー海戦までは,まだ飛行機は軽く見られていた.
 あの強大な戦艦が,ぶんぶん飛び回る飛行機「ごとき」に沈められるというのは,当時としては凄い衝撃だった.

 まあ戦車にしろ戦闘機にしろ,それまでに使った事がない代物なので,どう使えば効率がいいか,どの程度使うとどの程度で故障が出て,どの程度お手入れに手間がかかるか等等,全く未知数だったのです.
 要するに,機械はできたけど運用ノウハウがゼロで,これから実地で学習しなきゃならない状態だったのです.

 純粋に考えてみて,出てからたった数年しか経ってない複雑な兵器を,全面に押し出して戦う訳が無い.実戦経験が無いんだし.もともと軍隊は保守的なもの.
 戦車にありったけのリソースを投入して勝てる保証もないから,段階的に導入するのが妥当なのでは.
 で,その結果まだまだ故障が多くて課題が残った,と.


 【質問】
 第一次世界大戦では毒ガスも戦車も飛行機も決定打となっていないそうですが,それなら何が決め手となって勝敗が決まったのでしょうか?

 【回答】
 武器弾薬の製造能力,人員の動員数,それらを動かすインフラ,資本力と言った総合的な国力,その全てが世界最強であったアメリカが参戦したから連合国側が勝利しました.
 厳密には無制限潜水艦作戦に怒ったアメリカが参戦した際に,
「アメリカが本格的に参戦したら絶対負ける
 →なら今の内に勝負を決めないとマズイ」
と言った感じで,焦ったドイツが攻勢を仕掛けて失敗してしまったのが,決定的な敗因となっています.
 この敗北で,攻勢前はほぼ互角だった兵力差が一気に逆転してしまった為,銃後の反乱を含めて一気に前線が瓦解していしまいました.
 第一次世界大戦において,極一部の例外を除いけば攻勢を仕掛けた側が負けると言う構図が展開されていますので,その不文律を犯さざるを得ない状況に追い込まれた時点で,ドイツの敗北は決定付けられていました.

ue◆WomMV0C2P in 軍事板

 詳しいことは,A.J.P.テイラーの名著が出てるんで,それを読みなさい

軍事板


 【質問】
 第一次世界大戦の時に流行したスペイン風邪は,大戦にどれくらい影響を与えたのでしょうか?

 【回答】
 大流行で,ただでさえ公衆衛生のよくない前線で猛威を振るったと伝えられている.
http://ww1.m78.com/honbun/kaiser%20battle.html
を参照.

 両軍ともインフルエンザによる被害は甚大で,戦闘単位として不適切なまで兵員が減少した部隊が続出した.
 ドイツは予定していた攻勢の延期を考えるくらいだった.
 戦争の遂行に悪影響があると恐れたのか,各国とも被害の情況を隠し,アメリカ以外に正確な被害の記録は残っていない.
 全世界で2000万〜6000万人が死亡.
 大戦による栄養状態の悪化が,流行に拍車を掛けた公算が高く,この事が大戦末期に両陣営で蔓延した厭戦気分に影響した可能性は高い.


 【質問】
 「スペイン風邪」の最初の発生はスペイン?

 【回答】
 いいえ.

 インフルエンザ・ウイルスに対抗する手段としては,インフルエンザ・ワクチンがあります.
 これは毎年2月にWHOが,前年の状況,南半球の状況などを考慮して,その年に流行するであろうと思われるインフルエンザの種類を決め,そのワクチンを作る様に各国に要請するものです.
 そのワクチンは,鶏卵を使って作成しますが,大量生産が効かない為,日本の場合は11〜12月の接種期にやっと間に合うかどうか,と言う綱渡りな状態となります.

 日本の場合,接種は任意ですから未だ数的に何とかなりますが,今回の様なインフルエンザの蔓延状態で,全員に対して接種しなければならないとなると,日本の製薬会社を総動員しても到底間に合わなかったりします.

 で,このWHOの要請によるワクチンと,実際に流行したインフルエンザ・ウィルスが全く違っていたらどうなるか.
 …答えは,「無力」です.
 全く抗体が違うので効き目はありませんし,ワクチンを作るにも一朝一夕に作れるモノではないので,結局間に合いません.
 今回の新型インフルエンザの場合は,更に感染力が弱い為,ワクチンを作るのも一苦労だそうです.

 インフルエンザ・ウィルスに感染した場合,宿主の細胞内に入って増殖を行うのに必要なのが赤血球擬集素とノイラミニダーゼの2つが重要な働きをします.
 抗インフルエンザ薬は,この2つの酵素を叩くのが主要な任務です.
 ワクチンが接種されていなくとも,酵素が弱い内は,抗インフルエンザ薬が効果があります.
 その増殖行為は,内部に潜り込んだウィルスが遺伝子(と言うかRNA)を脱核し同じ遺伝子のコピーを作る所から始まります.
 そのコピーはノイラミニダーゼの作用によって細胞から外界に送り出されていきます.
 そのコピーが別の細胞に取り付いて,再びコピーを行い…それが延々と繰り返されるのがインフルエンザ・ウィルスの増殖と言う事になります.

 抗インフルエンザ薬,中でもオセルタミビル(通称タミフル)は,ノイラミニダーゼの作用を阻害し,細胞の出口を閉じて新しいウィルスを外に出さない様にする働きを持っています.
 つまり,外に出さない事で,インフルエンザ・ウィルスのこれ以上の増殖を抑えると言う働きをする訳です.

 但し,このオセルタミビルは万能ではありません.
 このオセルタミビルが効力を持つのは,インフルエンザに罹患してから僅か48時間以内に使用しないといけません.
 それ以上の時間が経つと,既に体内に蔓延しており,そうなってからでは効き目がありません.
 何処かの風邪薬の宣伝ではありませんが,「くしゃみ3回」の段階でないと駄目だそうです.
 ところが,実際に,インフルエンザ・ウィルスに感染したと言っても,何時感染したかが判りません.
 特に素人なんかはそうですね.

 オセルタミビルは,従来の薬品と異なり,経口服用薬です.
 従来は英国で開発されたザナミビル(通称リレンザ)が有効とされましたが,これはスプレーで鼻腔や口腔から気道に吸入する必要が有りました.
 スイスのロッシュ社で開発されたオセルタミビルは,経口服用薬となった事から,従来より手軽に服用出来る様になっており,しかもA型,B型の何れにも薬効があります.
 しかし,既に述べたように投薬のタイミングが徹底的に重要で,早すぎれば効かないまま,薬効が衰えてしまいますし,遅すぎれば薬で対応出来ないほどウィルスが増殖します.
 これには専門医の判断が重要となる訳です.

 因みに,予防の為にオセルタミビルを飲むなんて言うのは,全く馬鹿げた話だったりします.
 更に最近では,オセルタミビルをも寄せ付けないインフルエンザ・ウィルスも出て来ているので,予断を許さない状況でもあります.

 尤も,こうしたウィルスは,形を自在に変え,毒性を高めて,抵抗力のない人,鳥,豚を襲うものですが,宿主が全滅しては自らも全滅してしまうので,必ずと言って良いほど相手を全滅させる事はありません.
 一度出現しても,何時の間にか去り,人々が忘れた頃に,また牙を剥くという繰り返しです.

 1918〜20年に掛けて猛威を振ったインフルエンザは,全世界で数千万人とも呼ばれる死者を出し,第1次大戦の戦死者1,000万人を大幅に上回る猛威となり,20世紀最大の人的被害の1つとなりました.

 このインフルエンザは,良く「スペイン風邪」とか「スペイン・インフルエンザ」と呼ばれています.
 しかし,最初に発生したのは米国でした.

 1917年7月以降,連合国側に参戦した米国は,兵士達を大動員し,召集された彼等は兵舎に缶詰にされて訓練を受けていました.
 1918年3月4日,カンザス州のキャンプ・ファンストンの軍病院に発熱と頭痛を訴えた兵士が押し寄せたのが,記録上最初のインフルエンザ症状を持った患者出現とされています.
 11日には,同じカンザス州のフォート・ライリーで,炊事当番のアルバート・ギッチェル二等兵が,朝食前に熱,喉の痛み,頭痛を訴え,昼までにその地の病院には107名,週末には522名の患者を数え,4月中に患者数は1,000名を超えました.
 因みに,キャンプ・ファンストンでは春の間に死者48名を数えていましたが,報道されることもなく,大部分は症状が数日で消えてしまった為,この病気は"three day's fever"(三日熱)と言う名称が与えられました.

 同じ時期に同じカンザス州ハスケルの学校で集団感染が発生し,デトロイトのフォード自動車工場で1,000名以上の病欠者を出し,4月から5月にかけて西に移動してサンフランシスコ北方のサン・クェンティン刑務所で1,900名の囚人の内500人が罹患し,3人が死亡しました.

 このインフルエンザはどこから来たかは,現在に至るも判っていません.
 現在では,このインフルエンザ・ウィルスは渡り鳥によって持ち込まれたとする説が有力です.

 他にもカリフォルニア,フロリダ,ヴァージニア,アラバマ,サウス・カロライナ,ジョージアの兵営でもインフルエンザ患者が出たことが判っていますが,当時はインフルエンザは報告義務がある法定伝染病ではなく,そればかりか幾つかの州では死亡者の原因別報告をワシントンに送る義務さえ有りませんでした.

 こうして,1918年の「春の先触れ」は深く,静かに始まりました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/09/28 22:24
青文字:加筆改修部分

 1918年春,カンザスで新兵達の間で大量の死者や入院患者を出した熱病は,何時の間にか治まりました.

 その不思議な熱病は,4月,台湾に現われます.
 当時,大相撲の興業は,東京大相撲と大阪大相撲に分かれていましたが,それぞれから力士が加わって,合同地方巡業を行っていました.
 その地方巡業の1つが,当時日本領土だった台湾巡業で,台北,台中,台南,高雄(当時は打狗)の4つの都市でそれぞれ取り組みを行いました.
 この時,尾車部屋の三役候補で,東京大相撲で人気が高かった真砂石が発病し,4月5日に台中の病院で死亡しています.
 真砂石以外でも,東京方の長洲洋,大阪方の若木山が死亡,東京方の前頭柏戸や逆鉾,獅子ヶ嶽,大阪方の力士数名が入院し,外にも関係者20数名が病気に罹ったと言われています.

 この症状は,悪寒,発熱,四肢の倦怠痛,腰痛,38〜40度の高熱を発し,5日で快方に向かうと言うもので,当地で屡々流行していたデング熱とも違い,発疹を伴わず,伝染性であり,対岸の香港などでも流行していると言う情報がありました.
 この症状,正にインフルエンザの症状そのものです.

 因みに,台湾対岸の香港や中国南部では,人,豚,鳥が一つ屋根の下に暮らしており,渡り鳥などの糞に混じってインフルエンザ・ウィルスが鶏に取り付き,それが変異して豚や人に感染すると言うインフルエンザ・ウィルスの発生源地域の一つとなっています.
 4月に日本でも海軍の軍艦周防に患者150名が発生し,それは海兵団を通じて横須賀や横浜に拡がり,紡績工場の操業停止なども発生しています.
 また,靖国神社で臨時に土俵を作って「晴天十日」の条件で行われた大相撲夏場所でも,休場者が続出し,「角力風邪」と名付けられました.

 同じ型のウィルスが,米国や中国で同時に発生したとは考えられませんが,渡り鳥によるウィルスの運搬は考えられる経路です.

 ところで,この風邪をスペイン風邪と呼んだのは何故か….

 スペインでは既に2月頃からビスケー湾に面し,フランスに近いサン・セバスチャン市でインフルエンザが流行していました.
 これは局所的なもので,長期に亘るものではありませんでした.
 しかし,5〜6月にかけて「フランスから入ってきた」(とスペイン政府がは発表している)インフルエンザの第一波が,スペインを襲いました.
 これに対しフランスは,「スペインから入ったものだ」と反論していますが,兎に角,この2ヶ月間にスペインでは約800万人の国民が罹患し,国王アルフォンソ13世や大臣達も病臥するほどでした.
 政府の機能や都市機能は完全に麻痺しましたが,病状自体は比較的軽く,マドリードに於ける死者も,5月で56名,6月で220名とそれほどではありません.
 当時は「インフルエンザ」という言葉は一般的ではなく,スペイン国民は,当時上演中のオペレッタからこの病気を,「ナポリの兵士」と呼んでいたそうです.

 当時,周辺は第一次世界大戦の真っ直中で,スペインは,北欧諸国やスイス,オランダ,アイルランドと並んで中立国でした.
 大戦参加の各国は,自国に不利な情報は流しません.
 しかし中立国であったが故に,流行の状態は世界中に知れ渡ってしまいました.

 こうした情勢のため,スペインにとって,不幸にもインフルエンザは,「スペイン・インフルエンザ」と名付けられることになった訳です.
 尤も,悪いことは何でもスペインの所為にすると言う,欧州の悪弊もあった訳ですが….

 ただ言える事は,スペインはそのインフルエンザ発生源ではないと言う事です.

 その頃,西部戦線では,ルーデンドルフにより第二次のマルヌ会戦が繰り広げられていました.
 一時的に戦線を突破し,パリに迫ったドイツ軍は,列車砲でパリを砲撃します.
 しかし,7月になると明らかにドイツ軍の攻勢や反撃の勢いが削がれ始めました.
 その原因が,長期間の戦争で物資欠乏,栄養不良状態にあったドイツ兵の間に蔓延したインフルエンザです.
 体力の低下した状態で,罹患したインフルエンザにより将校が「突撃!」を命じても,兵士達は立ち上がることが出来ませんでした.
 ルーデンドルフはその回想録の中で,こう語っています.

――――――
 参謀長がインフルエンザの患者数を報告し,自分達の部隊の弱さについて零すのを,毎朝効かなければならないというのは,誠に嘆かわしいことだ.
――――――

 そして,
「ドイツ軍が西部戦線においてマルヌの戦いに敗北したのは,新しく参戦した米軍の所為ではなく,ドイツ陸軍の戦力を弱めたあの忌々しいインフルエンザの所為なのだ」
と述べていたりします.

 この異状は,6月下旬にニューヨークタイムズに掲載され,東京朝日新聞に転載されましたが,7月15日付京城日日新聞には,ロンドン電として,インフルエンザがドイツ軍の進撃能力を奪っていると言う記事を載せていました.

 当然,ドイツ軍も悩んでいたのなら,連合国側も同様に悩んでいました.
 4月にインフルエンザはフランス軍においては第6軍(シャトー・ティリ,ソワソン)に,次いで第3軍(モンディディエ)に到達し,戦闘地帯を席巻し,5〜10月の間に139,850名の患者と7,401名の死者を出していました.
 英国軍も約200万人の兵力の内,6〜8月の時点で120万人がインフルエンザに罹患し,戦闘どころではありませんでした.
 その震源地とも言うべき,欧州派遣米国軍へは4月15日にボルドーの陸軍病院で患者発生が報告されたのを皮切りに,米軍の上陸地であるサン・ナゼールには5月の10日間で54名,ソンム地区近くでは60名の患者が発生していました.

 インフルエンザが無ければ,ドイツ軍はパリに入城出来ていたかも知れませんし,連合軍から見れば,1918年夏までに大戦は早くに終わっていたとも考えられます.

 やっぱり,ルーデンドルフはこう言いそうですが….
「総てスペインの所為!」

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/10/02 22:47


 【質問】
 「スペイン風邪」のウィルスが分離されたのは,いつになってから?

 【回答】
 昨今,巷を賑わしているのが,インフルエンザと言う代物.
 その病気が発症するのは,インフルエンザ・ウイルスが原因だと言うのは,報道されている通りです.
 インフルエンザ・ウイルスとは,鳥(特に渡り鳥,水禽類,鶏など),豚(厳密に言えば哺乳類であり,馬やフェレットなども含む),人の細胞を宿主にするものです.

 インフルエンザ・ウイルスの大きさは直径100ナノメートル(1mmの10,000分の1)程度なので,肉眼は勿論,顕微鏡でも見る事が出来ません.
 この構造が明らかになったのは,1930年代に電子顕微鏡が開発されてからで,これによって初めて白日の下に曝されました.
 インフルエンザ・ウイルスは,表面に2種類の蛋白突起を持ち,内部に8つのRNA遺伝子の分節を持っています.
 このインフルエンザが猛威を振った1919年には,こうした事が全く判っておらず,古い人体の組織片からその頃のインフルエンザ・ウイルスが分離される様になったのは,更に時を経た1990年代になってからでした.

 最近は,こうした遺伝子研究も発展してきたので,インフルエンザ・ウィルスにはA型,B型,C型の3種があることが判りました.
 この「型」はインフルエンザ・ウイルスを構成する基質蛋白の種類によって分かれますが,最も感染力が強く,人類を含む動物にとって脅威となるのはA型で,今回流行しているのもA型です.
 因みに2005年に日本で流行したのはB型ですが,これは変異が少なく致死率の低いものでした.

 このウィルスの表面には赤血球擬集素(Hemagglutinin)蛋白とノイラミニダーゼ(Neuraminidase)蛋白の2つの突起があります.
 前者の種類は16種類,後者は9種類あり,理論的にはこの組み合わせを考えると全部で144種類になりますが,実際に人に感染するインフルエンザ・ウイルスには,3種類のH蛋白と2種類のN蛋白の組み合わせであり,合計6種類しかありません.
 しかし,鳥に感染するインフルエンザ・ウイルスには144種類総てがあり,豚や馬にも特有の亜種があります.
この特性から,ウィルスはH1N1型,H3N2型,H5N1型等と言う様な亜種に分類されます.

 現在,少しずつ流行が見受けられるのは,H1N1型,つまり,1919年に全世界で大流行したものになります.
 因みに,H3N2型は1968年に流行した香港型のインフルエンザ,H5N1型は俗に2005年以降に時々感染者が出ている鳥インフルエンザ・ウィルスです.

 更にこの中でも同じ亜種の中で,人にとって毒性の強い(或いは弱い)型への変化することもあります.
 これを「不連続抗原変異」と呼んでいます.
 また,2種類以上のウィルスが細胞の中でH突起とN突起を交換し,新しいウィルスを作ると言う事もやってのけます.
 例えば,H1N1型とH3N2型からH1N2型やH3N1型を作ると言うものです.
 こうした変異を起こすのは,インフルエンザ・ウイルスの遺伝子がDNAではなく,RNAであるからです.
 これは非常に不安定なもので,人間のDNAに比べると1億倍の速さで変異すると言うものです.
 従って,これがH突起やN突起の性質を変え,ワクチンなどの効果を低下若しくは無効にしてしまうことが最も恐るべきシナリオです.
 こうなってしまえば,人類は対抗する手段を持っていません.

 インフルエンザ・ウイルスは鳥,豚,人に感染すると冒頭書きましたが,例えば鳥インフルエンザのウィルスを人が吸い込んでも通常は無害です.
 鳥インフルエンザの持っているH突起は,人間の細胞のレセプターとマッチしません.
 つまり,そこにカポッと巧く嵌り込まなければ,普通は感染することは無い訳です.
 しかし変異の頻度が高くなったり,豚に感染すると,鳥インフルエンザ・ウィルスは変異して,人の細胞レセプターに適合する厄介な存在に成ります.

 この鳥インフルエンザ・ウイルスも,鳥の種類によって棲みやすい場所が異なります.
 水禽類,即ち家鴨とか鴨の場合は消化器に好んで棲むので,一見した場合,鴨や家鴨がウィルスを持っているかどうかは判りません.

 人の場合はどうか.
 人の場合は,鼻腔から咽頭部にかけての呼吸器の上気道が最適な住み処となり,身体の内部に達することが出来ます.
 ウィルスは宿主の細胞の中で増殖する訳ですが,咳やくしゃみで吐き出された組織や飛沫に何分も,場合によっては何時間も生き延びることがあります.
 それを吸うと次の宿主の中で増殖し,感染すると言う訳で,これが俗に言う「空気感染」の正体です.
 因みに,インフルエンザ・ウイルスは状況によっては1日に100万倍にも増殖します.
 つまり,宿主自身の細胞や宿主となる他者への感染力が非常に強くなります.
 しかも,他のウィルスと異なり,このウィルスは子供や老人の様な弱者のみならず,身体強壮な青年層を好んで襲う場合もあるのが始末に負えなかったりする訳です.

 ところで先述の様に,1919年に全世界で大流行したインフルエンザ・ウイルスの型が同一であることが判ったのは,1990年代になってからでした.
 米国では,J.K.タウベンバーガーと言う人が中心と成って,米国陸軍病理研究所において,同研究所が保管する1862年以来数百万に及ぶ病理剖検組織から1919年のインフルエンザ大流行で死亡した人の肺に存在した遺伝子篇を分離し,1995年に初めて当時のインフルエンザ・ウイルスの中核である遺伝子が発見されました.
 それ以前には,アラスカでは,スウェーデン出身の医学者J.ハルティンが,1949年に,1919年のインフルエンザ大流行で死亡し,凍土に埋葬されたイヌイットの遺体からインフルエンザ・ウイルスが見つかるのではないかと考え,発掘を行いました.
 しかし,当時は遺伝子分離方法が無かった為に発見には至りませんでした.
 1995年の発見の報を聞いたJ.ハルティンは,再び同じ遺体を掘り返し,今度はその遺伝子情報解読に成功したのです.

 更に英国でも,米国陸軍病理研究所のメンバーが英国人研究者と協力し,王立ロンドン病院に保管されていた死亡者の剖検組織からウィルス遺伝子を分離しました.
 そして,この異なる地域から採取されたウィルス遺伝子の突合の結果,総て同じ型の遺伝子であることが判明した訳です.

 ただ,1918年から20年にかけて猛威を振ったインフルエンザ…これは俗にスペイン・インフルエンザと呼ばれていますが…は,最初に発覚した型と,後に猛威を振った型とは,違うのではないかと言う疑念は未だあったりします.
 要は,最初の型から変異して,更に凶暴化したのが全世界で流行した可能性があると考える向きもある訳です.
 兎に角,敵は容易にその形を変化させるのですから,場合によっては更に凶暴化する可能性も無きにしもありません.
 それは,神のみぞ知る,と言う領域なのかも知れません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/09/27 21:41


 【質問】
 第1次大戦の時も,いわゆる大本営発表と言うのはあったのでしょうか?

 【回答】
 大本営は設置されていませんから有りません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
青文字:加筆改修部分

 比喩表現としての「大本営発表」という意味でなら,あったと言わざるを得ない.
 戦時下の報道なんてのは自由主義,報道の自由が許された社会においても正確,公正である保証は無い.

 特に酷かったのがソンム戦におけるイギリスの報道.
 50万人以上の損害を出して,僅か10kmそこら前進しただけの戦いで,
「情況は有利に進んでいる」
ってのはどうかしてる.
 流石に戦後に政府は謝ったがな.

 他にも末期に流行したスペイン風邪の被害状況は,アメリカ以外ほぼ隠蔽されていて,正確な被害状況が分かってない.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第1次大戦以前の米独関係は,どういう状況にあったのか?

 【回答】
 ポール・ジョンソンによれば,当初は,アメリカのドイツ系移民は1785年頃には,全米人口の9%に達していたり,プロイセンが北軍を支持していたことなどから,アメリカは統一ドイツ出現を好意的に見ていたという.
 だが1870年以降,経済,通商,植民地,海軍力での競争により,米独関係は悪化.
 特にサモア諸島を巡る論争は,1899年の領土分割まで収まらず,後には対独不信が残ったという.

 詳しくはポール・ジョンソン著『アメリカ人の歴史』第3巻(共同通信社,2002.7),p.35を参照されたし.


 【質問】
http://kiwi-us.com/~knp3/judge/cs.shtml
によると
『第一次世界大戦に中国が参戦したのは一般常識』
らしいのですが,そうなんですか?

 【回答】
 19世紀末から中国本土にドイツの租借地がありました.
 中国が対独国交断絶と宣戦布告となると,当然,中国国内に於けるドイツの諸権益は没収されることになります.
 1917年8月14日に中国は三国同盟の独墺に正式に宣戦布告をしています.
 その付属書で日本に対し,
「支那と独墺両国との間に締結せる一切の条約は,何種の事項に関するに論無く等しく一律に廃止し,1901年9月7日締結の条件及び其の他同類の国際協議にして支那と独墺両国との関係あるものに至りては同時に廃止し,尚支那政府はハーグ平和会議の条約及び其の他国際協約に対しては戦時文明皇后に関する一切の条款を遵守して渝ざる旨を以て生命致候」
としています.
 つまり独墺両国と中国間の条約は無効で,日本支配の山東半島利権は総て中国に帰すと言うことを言ってたり.

 ちなみにその前の2月6日の時点で,米国大使が中国に国交断絶を進言しています.
 この時点で宣戦布告をしていたら,対華二十一箇条は無かったかもしれませんが.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板


 【質問】
 ロマン・ロランって誰?

 【回答】
 ロマン・ロラン(1866〜1944)は,ブルゴーニュ地方クラムシー生まれの作家・劇作家.
 1880年パリに移住エコールノルマルで歴史を学び優秀な成績で卒業し,選ばれてローマに留学後,母校とソルボンヌ大学の音楽史の教授となり,多くの戯曲を書き,また,「ベートーベンの生涯」などの偉人伝を発表.
 第一次世界大戦中,国際赤十字運動に従事し,反戦論文を書いたためにスイスに亡命,レマン湖畔の山荘で次々と作品を書き,反戦メッセージを送り続けた.


 【質問】
『戦場の一年』エミリオ・ルッス著 白水社刊
 大日本絵画の『大陸の機甲戦闘演習』と『鍾馗戦闘機隊』を買いに行ってふと目に止まった.
 そういえば,第一次大戦のイタリア軍物ってあんまり読んだ事無いな,と思ったのでついでに購入.
 まださわりしか読んで無いけど,なかなか面白い.
 第一次大戦のイタリア軍物で,何かオススメが有れば教えて下さい.

 【回答】
 1917年のカポレット戦については,歴史群像No64の記事がよくまとまってる.
 あと,ヘミングウェイの『武器よさらば』はカポレット戦時期のイタリアが舞台.

 オスプレイだと,The Italian Army of World War I と,ドイツ突撃部隊をまねて作った突撃隊についての Italian Arditi って本がある.

 通史としては Isonzo: The Forgotten Sacrifice of the Great War というのがあるらしい.

 マーレー『戦略の形成』の上巻にも,イタリア軍の戦略について触れた論文がある.
 「決定的影響を行使する戦略」だったかな.
 ことごとく失敗している点は興味深いな.

 ウェブだと別宮さんとこか
La Grande Guerra
http://www.worldwar1.com/itafront

 ちなみに主敵であるオースリア軍の本も,全然ない気がする(笑)

 海軍ならhttp://aahaus.exblog.jp/が,オーストリア視点だが日本語で読める.
 参考資料は海外文献みたいだ.

軍事板
青文字:加筆改修部分

 確かムッソリーニが日記を書いていたはず.
ムッソリーニ全集の9巻「我が塹壕日記・其他」下位春吉訳 改造社 昭16刊

 あと,同人誌でだけど,ムッソリーニの「我が従軍記」なんてものもある.
 ムッソリーニが一兵卒として従軍し,ヤオルチェックを越えてロムボン頂上へとか,雪のアルプス山岳戦だとかモンファルコーネを越えてカルニア山中の1ヶ月だとか,そんな感じの日記.
 嘘か誠かはしらない.

名無しの愉しみ in 軍事板
青文字:加筆改修部分

 第一次大戦のRumania戦線の話だったら,小説だけど,Hans Carossaの『ルーマニア日記』はある程度,実体験を元にしていましたっけ.
 あと,Turkey戦線の話だと,『平和を破滅させた和平』一推し.
 そう言えば,最近ムスタファ・ケマルの伝記だったかが出てましたっけねぇ.
 結構分厚いのにリーズナブルな価格だったような気がする.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
青文字:加筆改修部分

 「トルコ狂乱」なら今年ベスト.
 伝記ってよりは群像劇.

 75mm砲に77mm砲弾が入らないのは判る.
 判るけど,炸薬が入ったまま・信管ついたままの砲弾の外側を,グラインダーで削るか?,おい.
 他に手が無いったって…….

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 イタリアは第一次世界大戦でもヘタリアだったのでしょうか?

 【回答】
 その通りだった.
 トリエステと南チロルに釣られて連合側に参戦したのはいいが,装備は旧式,定員も将校も定員割れしていたイタリアは,大戦を通じて勝利と言うものに全くと言っていいほど縁が無かった.
 相手が殆どオーストリアのみだったにも関わらずだ.
 特に1917年10月に行われたカポレットー突破戦では60万人以上の大損害を受けて,英仏の援助なしでは戦線を維持できないほどにまで戦力が落ち込んでる.
「敵よりも恐ろしい味方」
と言うのは当時も健在だったようだ.

 因みに,唯一の勝利といえるのが休戦条約が発効した後に攻勢に出てオーストリア軍から30万人ほどの捕虜を得た時.
 第一次世界大戦サイトの別宮氏はこの勝利を
「ただ捕虜の収容経費のみ負担したようなものだが,イタリー人は何か勝利が欲しかったのだろう.」
と,評してる(笑)

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青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ナンセン・パスポートとは?

 【回答】
 国籍を失った難民達に外国へ出ることを認めるパスポート.
 第1次大戦後,難民対策の一つとして,著名な科学者・探険家のフリチョフ・ナンセンによって始められた.
 以下引用.

 第1次世界大戦のときには多くの人が犠牲になり,自分の家や国を追われた人達もたくさんいました.
 国際連盟は,この人達の援助活動をしなければならないと,ノルウェーの北極探険家のフリチョフ・ナンセンを初代の難民高等弁務官に任命したのです.
 ナンセン高等弁務官は大変活動的で,探険家として科学者として,ヨーロッパ中の尊敬を集めていました.
 彼は各国の政治的な指導者に会い,「難民をほっておいてはいけない」と訴えました.
 この活動によって,大戦の捕虜達,ロシア革命で国外に逃れた人々,ロシア国内の飢餓難民,トルコに逃れたギリシャ人など数百万人が援助を受けたのです.
 また,もう一つナンセンの活動で大きなものは,国籍を失った難民達に外国へ出ることを認める「ナンセン・パスポート」を発行したことです.
 彼の死後もこの機関は活動しましたが,他にも幾つかの機関がそれを受け継ぎ,1951年にUNHCRが国連総会の決議によって設立されたのです.

野中聖子〔国連難民高等弁務官東京事務所広報室職員〕 from 「地球行ボランティア11人」
(つなん出版,2005/2/15),p.39


 【質問】
 フリチョフ・ナンセンって誰?

 【回答】
 フリチョフ・ナンセン Fridtjof Nansen (1861〜1930)は,ノルウェーの北極探検家.
 クリスチャニア(現オスロ)で弁護士の子として生れ,現在のオスロ大学であるクリスチャニア大学において動物学を学ぶ中でグリーンランドを旅し,帰国後も博物館などで動物学の研究を継続して1888年には学位を取得.
 その後グリーンランドをスキーで横断,同島内陸部の研究を進めて探検家としての知名度を高め,国や国民からの財政支援をもとに海軍の造船技術を導入した強化船フラム号を建造し,1893年にオスロを出航,北緯86度14分へ到達し,1896年に帰国した.


 【質問】
 ポーランドにおけるボルシェヴィキ兵の士気は高かったのか?

 【回答】
 以下の記述を信頼するならば,「弾薬と食糧は殆ど底を尽いていた」にも関わらず,「執拗な抵抗」ができるほどには高かった模様.

 以下引用.

 ポーランド戦線で厳しい試練に晒されたボルシェヴィキ部隊の残兵が,戦前,スイスのある実業家がコヴォに創設した古い織物工場に立て篭もっていた.弾薬と食糧は殆ど底を尽いていた.
 それでもかなり豊かで,彼らの貯えはその後,私達を救出したポーランド師団の到着まで持ち堪えるのを助けてくれた.
 ヴェルナー織物工場は浸水地域の真ん中に位置していた.
 くすんだ空の下の,ひどく屋根の低い格納庫のような建物の列が,今でも目に見えるようだ.
 灰色の川水にもう浸されていたが,最後の雷雨以来,増水は災害に転じていた.
 沼の鴨を追う猟師のように,臍の辺りまで浸る泥の中で,何人かの部下が溺れた.
 再び水位が上がったとき,赤軍の執拗な抵抗がやっと止んだ.5年間に及ぶ悪天候と,無人のまま打ち捨てられていたために腐ってしまった一部の建物が押し流された.
 その工場を襲撃し占領することが,まるで敵への古い恨みを晴らすことであるかのように,部下達の攻撃は熾烈を極めた.

Marguerite Yourcenar ユルスナール著「アレクシス とどめの一撃 夢の貨幣」
(白水社,2001/10/10),p.199-200


 【質問】
 シベリア出兵って何?

 【回答】
 シベリア出兵 Siberian Intervention は1918〜1925年,連合国が
「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」
という大義名分でシベリアに出兵した,ロシア革命に対する干渉戦争の一つ.
 日本が兵力7万3000人(のべ人数では22万人),アメリカが7950人,イギリスが1500人,カナダが4192人,イタリアが1400人の兵力を投入したが,各国の政情とその政略目的に大きなくい違いがあり,各国にとって意味のない出血に終わった.
 殊に日本は,事態の見通しと撤兵時期を大きく見誤り,酷寒の地での苦闘と2千余の生命,9億余の戦費を無にしながら軍事的,政治的にほとんど得るところなく撤兵した.

 【参考ページ】
http://ww1.m78.com/sib/siberian%20expedition.html
http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai/kindai-siberia.html
http://www.c20.jp/1918/08siber.html
http://kids.gakken.co.jp/jiten/3/30023370.html
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1110918236

【ぐんじさんぎょう】

1918〜24年のシベリア出兵時の組み写真

 おそらくウラジオストック上陸後の各国部隊の集合写真と思われますが,日本海軍陸戦隊や米軍,仏軍に混じってなんとイタリア・カラビニエリ(軍警察)部隊の集合写真が!!

 いやー,これは大収穫!

 立ち襟に,グレー迷彩カバーを掛けたカラビニ独自のイカ太郎帽,まだ一次大戦直後なのでベルトの左右に付けた弾薬嚢など,見せてくれます.
 それにしてもこの連中は,上海か北京駐留部隊から連れて来られたものなのか,今後の調査が必要ですね.

 もともと上海には在留イタリア人保護の目的でサン・マルコ海兵部隊やベルサリエリ部隊が駐留していたので,カラビニエリも居たとは思いますが,まさかウラジオにも居たとは意外でした.

 今もユーゴやイラクの紛争地帯にまっ先に送り込まれるのは,カラビニエリ空挺だったりしますね.
 伝統は続いている訳です.

 こういう物が売られているので,コンベンション通いは止められない….

 そして更にハンティングは続く(^。^)y-.。o○

よしぞうmaro' in mixi,2007年05月28日02:26
〜05月28日 20:43


 【質問】
 1916年のカザフ蜂起はなぜ起こったのか?

 【回答】
 ロシア人農民の大規模な入植と,第1次大戦で戦場での労役を課せられたことによるという.
 以下引用.

 カルムイク人やバシキール人に続いて,ロシアは西アジアに住む中心的な遊牧民と対峙した.
 彼らは現在カザフ人と呼ばれているが,帝政時代にはロシア人から「キルギス人」と呼ばれていた.
 これらの人々の抵抗も1850年までに平定され,その後,その地域でも入植が始まった.
 カザフ・ステップ地帯の植民地化は1890年代に急激に早まり,1905年の革命後にはさらに早まった.
 「無人」のカザフ・ステップに対する大規模な植民地化は,20世紀初めの体制側にとって,ヨーロッパ・ロシアやウクライナの各地で人口過剰な農民を貧困から救い,それによって帝政ロシアの農業政策に対する農民の不満に対処するという計画の,極めて重要な要素だった.
 1914年に先立つ10年間に,300万人のスラブ系移民がカザフ地域に押し寄せた.
 1891年のいわゆるステップ法によって,遊牧民の追い立てに道が開かれた.というのも,先住民には一人当たり僅か40エーカーの土地しか与えられず,遊牧生活を送るには,とても不充分だったからだ.14

 この結果,1916年に先住民による蜂起が発生したが,政府がカザフ人を徴用して<第1次大戦の>戦線での労役に就かせようとしたことも,原因の一つだった.
 蜂起は鎮圧され,20万人以上のカザフ人が殺害された他,それ以上の人々が国境を越え,貧しい中国領トルキスタンへと逃れていった.
 トルキスタンでは入植者の存在は,まだ大して問題化していなかった.
〔原注〕
 14. M.B.Olcott, The Kazakhs, Hoover, Stanford, 1987, p.86.

Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)下巻,p.33


 【質問】
 もしロシア革命がなかったら,ロシア軍はドイツを破ることができただろうか?

 【回答】
 その可能性は非常に高かったようである.
 以下引用.

 戦争がロシア帝国を崩壊に導いたが,これは軍が敗北したからではなく,銃後が崩壊したからだった.
 1917年の革命に先立つロシア軍の戦いぶりは,西側同盟諸国に引けをとらなかった.
 たとえロシア軍が概してドイツ軍より劣勢に立っていたとしても,フランス軍やイギリス軍にも同じことが当て嵌まった.
 さらに,1916年のロシアの経済的・軍事的業績にも目を見張るものがあった.46
 ブルシーロフはオーストリアとドイツの軍を敗走させたが,それは1918年以前の協商国側の攻撃では最大の戦果だった.
 さらに,オスマン軍に対してロシア軍は,イギリス軍よりも遥かに善戦した.
 イギリス軍が1915年にゲリポル半島とメソポタミアで敗北したのとは対照的に,ロシア軍はオスマン軍に連戦連勝を収め,ロシア革命が発生した時点で,アナトリアに深く侵攻してもいた.

 1917年に革命が勃発したのは,一つには銃後での戦時経済の苦境のためであったが,それ以上に,殆どのロシア人エリートや都市部の大衆の間で,帝政への信頼が完全に破綻したからに他ならない.

 皮肉なことに,1917年2月時点のロシアには,戦争で勝利を収めるあらゆる可能性があった.
 1916年にイギリスの軍事的な潜在能力がようやく日の目を見たことで,ドイツへの圧力は圧倒的になっていた.
 さらに,敗戦の可能性に絶望したドイツは無制限潜水艦戦に突入し,その結果,間もなくアメリカの介入も招いた.
 これにより,協商国側の最終的な勝利はほぼ確実になったのである.
「勝利を手に掴みながら,その国(ロシア)は地に倒れた」47
とのチャーチルのコメントは正しかった.

 はたして帝政が,第1次大戦後に避けられそうになかった政治的危機を切り抜けられたかどうか,また戦後に体制が崩壊した場合,ロシアの政治がどのような形態をとったかを評価するのは難しい.
 同様に,ロシアが戦勝国として参加したであろう,第1次大戦後の国際体制の特質や長期安定についても評価は難しい.
 しかし,聡明で保守的な閣僚達が常に予言していたように,君主制の正統性,軍や警察の抑圧的な力がなかったら,ロシアの社会と経済のエリートは革命的社会主義の猛攻撃に耐えられなかっただろう.
 既に述べたように,もしこのようなプロセスが1914年以前の平時に起きていたら,ドイツ軍を先頭にヨーロッパの一致した軍事介入が続いていた公算が大きかった.
 金融的にも地政学的にも列強諸国がロシアに有していた権益は極めて大きかったため,ロシアがヨーロッパの資本主義およびバランス・オブ・パワーから脱退し,債務の支払いを拒み,おまけに自国を国際的な革命の基地とすることは許せなかっただろう.
 さらに,ロシアのエリートも戦争で弱体化していなかったため,社会主義の革命政権が国内外の反革命に直面したまま,長期に渡って権力を掌握できた可能性も殆どなかった.
〔訳注〕
 ※ ブルシーロフ=1853-1926.ロシア軍人.第一次大戦で南西戦線軍司令官を務め,オーストリア軍を破った.二月革命後は臨時政府から軍最高司令官に抜擢された.

〔原注〕
 46 例えばファーガソンは,「ロシアが生産性を増加させた点から見れば……ロシアの戦時経済は最も成功を収めた」と述べている.Ferguson, Pity of War, ch.9, p.263.
 47 W.S.Churchill, The World Crisis, 1911-1918, Four Square Books, London, 1964, p.776.

Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)下巻,p.148-149


 【質問】
 第一次世界大戦中のスペインについて誰かご存知ですか?
 なにか同盟とか参加してましたっけ?

 【回答】
 第一次世界大戦中のスペインは中立政策.
 しかし戦前戦後のインフレやらなんやらで貧民増大,左翼運動や民族運動が激化し暴動やテロが頻発.
 やがてクーデターが起きて軍部独裁になったり共和政になったり,ろくな時代ではなかった.
 戦前の日本みたいな感じだな.

 ちなみに「スペイン風邪(インフルエンザの大流行,死者4000万人以上)」はちょうど世界大戦末期に起きたが,アメリカのシカゴが発生源にも関わらず,流行の情報が中立国スペインからだったため,不幸にもスペイン風邪と命名された.

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第一次世界大戦の時のスイスの中立政策は真っ当な中立だったのでしょうか?
 第二次世界大戦の時の中立のようにドイツに肩入れしたりとダーティーだったりしたのでしょうか?

 【回答】
 一次大戦中のスイスは結構まっとうに中立国として機能しています.
 戦争当事国の外交官も自由に出入りできるため,各国の公式/非公式の会談の場(ついでに言えば亡命者とスパイもいっぱい)として機能していました.

 ただ,その代償として,フランス系住民とドイツ系住民の緊張が,けっこうヤバいレベルまで高まったり,国境警備に大幅に動員した結果,労働力の低下や戦後に退役した兵士の失業問題が発生したりしています.

軍事板


◆開戦原因関連


 【質問】
 第一次世界大戦の原因は,
●世界を動かしていた植民地帝国イギリスに対し,新しく力を持ってきたドイツが資源と植民地を求めて戦いを挑んだ
↑色々調べた結果,こんな感じで合ってるのかなと思ってるんですが,他に何かあったら是非教えてください.

 【回答】
 第一次大戦の原因は植民地や資源や経済じゃないぞ.
 そもそもドイツは英国が中立化することを期待していたし,英国議会もドイツがベルギーの中立を侵すまでは,戦争に消極的だった.

 大戦に至る原因は大小様々にあるが,大きいのはドイツ統一後のナショナリズムがもたらした他国との不和と,当時のヨーロッパのパワーバランスそのもの.

ドイツ・・・仏露2つの隣国を同時に敵にしたら勝てないと思い込んだ
フランス・・ドイツより人口が少ないので単独で戦争になったら負ける
ロシア・・・ドイツ・オーストリアより工業力が劣っており単独では(ry
英国・・・・ドイツかフランスがこれ以上強大化したら本国の安全保障が脅かされる

 この構図が何十年も続いており,様々な外交が展開され,植民地より本土が大事ということで,英仏が数百年の対立に終止符を打ち,ナショナリズムが原因でドイツは英仏露を次第に敵に回し,そして最後に”運悪く”破綻した.
 ロシアはブラフのつもりで総動員を始め,それが引き金でドイツは自国を守るためフランスに先制攻撃をかけ,イギリスはベルギーを渡さないために参戦し,最初の原因だったはずのオーストリアは,何が起こってるのか分からないまま流されていく.
 ロシアは,対墺動員だけなら恐らく戦争はなかったが,それではドイツに対し無防備になる.
 ドイツはシュリーフェン・プランの都合上,ロシアが対独動員を始めたら自動的にフランスに宣戦するしかなかった.
 ニコライ2世とヴィルヘルム2世の往復電報には,戦争をする気も無いのに,互いの事情がよく分からず,戦争に向かっていく悲哀がよく表れている.

(世界史板)


 【質問】
 第1次大戦は,軍拡競争の果てに,それが原因で戦争になった例だと言えるのでは?
 第一次世界大戦前のイギリスとドイツの建艦競争が,イギリスのドイツに対する猜疑心を高め,容易に発火しやすい状況を作り出したのでは?

 【回答】
 第一次大戦の開戦原因に英独関係はごく小さい関係しかないでしょう.

 英国がどっちに付こうが,仏露に攻め入ることはドイツの既定路線でしたから.
 少なくとも,シュリーフェン計画の内容を見る限りではそうです.

ゆきかぜまる & JSF(青文字部分) in mixi
黄文字:補修部分


 【質問】
 1914年にサラエボで,オーストリア皇太子がセルビア人テロリストに暗殺されなければ,第一次世界大戦は起きなかったのか?

 【回答】
 「第一次世界大戦」はともかく,オーストリアとセルビアの戦争はほぼ不可避だったのではないだろうか.
 オーストリア皇太子・フランツ・フェルナンド大公の暗殺は,口実であり,本質的な理由は,バルカン半島における,ナショナリズムの台頭・高揚であった.

 以下,ナイ教授の文章を引用.

「最終的にオーストリアはセルビアに対して開戦するが,セルビア人テロリストによるフランツ・フェルディナンド大公の暗殺が,その理由だったのではなく,セルビアを弱体化させ,バルカンのスラヴ民族のナショナリズムの磁力の中心にさせまいとしたことが理由だったのである.」

「オーストリアの参謀総長,コンラート将軍派,明確にその意図開陳している『暗殺への復讐ではなく,まさにこの理由で,オーストリアはセルビアに対し剣を抜かざるを得なかった(中略)我が帝国は,首筋をつかまれていた.絞殺されるのを許すか,最後の力を振り絞って滅亡を阻止するかの選択に迫られていたのだ』ナショナリズムによる帝国崩壊(の懸念)が,戦争の親の直接原因であった」

 また,これが世界大戦に発展したのは,ドイツの「シュリーフェンプラン」が,鉄道の発達により,破綻するという,ヴィルヘルム二世の恐怖が(自業自得ではあるのだが),オーストリアへの全面支援の表明を呼び,これが世界大戦への発展へのきっかけともなった.

 詳しくはジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第3章を参照されたし.

 補足.
 そもそも,シュリーフェンプランは破綻してると思うんだが・・・シュリーフェンは「軍事」に限定して,作戦を考える人だからなぁ.

「いずれにせよ彼は自らの職務にさえ忠実でありさえすれば,なすべき義務は果たしたと考える軍事技術者,テクノクラートであった.
このことは,二つの問題点を引き起こした.第一は政治に対する無関心であった.参謀総長はカイゼルの筆頭軍事顧問である.だが,総長たるシュリーフェンは,カイゼルの冒険的な世界政策がもたらす軍事的な危機について,警告することもしなかったし,ベルギーの中立を侵犯することが世界世論において,どのような批判をドイツが被るのかについて,顧慮することもなかった」
 「戦略思想家事典」(芙蓉書房出版,2003.10),204ページより引用.

ますたーあじあ in mixi

 ナイ教授以外の資料で同様の記述を見つけましたので,補足として紹介させて頂きます.
 簡単に言うと…

墺「セルビア人が,汎スラブ主義の旗印となって反抗しないかな…」
墺「でもセルビアは友好国だし大丈夫だろ,たぶん」

 1903年,親墺だったセルビアの国王が暗殺され,反墺な人が国王になり,セルビアは親仏・親露に走り出す.

墺「…(・・;)」

 1906年,墺はセルビアからの豚の輸入をストップ.(←豚戦争)
 しかし効果は無く,セルビアは墺から離反…

墺「……(〜〜;)」

 1908年,墺はボスニア・ヘルツェゴビナを併合.スラブ系から反発を買う.

墺の軍部「スラヴうぜー! セルビアうぜー!(`Д´メ)」

という経緯があった.

 以下引用.

 しかし皇帝は不安をぬぐえなかった.彼ら(セルビア人)が不満をつのらせ,そのうち汎スラヴ主義をかかげるようになるのではないか,とおそれたのである.

 この恐れは,ボスニア・ヘルツェゴビナを占領・併合した後は,当然大きくなった.
 とはいえ帝国がセルビア人を支配している間は,すべてうまくいくように思えた.カールノーキーは1881年にこう述べている.
「いかなる手段をとるにせよ,もしセルビアがわが国の勢力下にあるならば,あるいはもっと望ましくは,もしセルビアをわれわれが支配しているならば,ボスニアと住民をわが国が所有することについても,下ドナウとルーマニアにおけるわが国の立場についても,心配は無用となる.
 その場合にはじめて,わが国がバルカン諸国におよぼす権力基盤が固められ,重要な利害が一致するだろう」

 しかし1903年,ベオグラードでオブレノヴィッチ王朝が倒され,1906年に豚戦争が勃発し,1908年ボスニア・ヘルツェゴヴィナが併合され,セルビアとロシアがその後屈服すると,帝国がこうした立場からすべり落ちたのはあきらかだった.
 こうなると,軍部,とくにコンラートは予防戦争を迫った.

「図説ハプスブルク帝国衰亡史―千年王国の光と影」(アラン・スケッド著,原書房,1996.5),p295

 後は長くなるので省略しますが,この本によると,それでもまだコンラートのようなセルビア先制攻撃論を抑えることができており,それが皇太子暗殺によって皇帝も吹っ切れたようです.

 またこの本では,帝国のこういったスラブへの恐れを痛烈に皮肉ってます.
 同書p291より引用――

 しかし最後の最後まで,皇帝軍は戦い抜いた.
 11月3日と4日に,皇帝軍のうち35万人から40万人がイタリア軍に降伏したが,ドイツ系オーストリア人はわずか3分の1にすぎない.
 残りはチェコ人とスロヴァキア人が83000人,南スラヴ人が61000人,ポーランド人が40000人,ルテニア人が32000人,ルーマニア人が25000人,イタリア人が7000人だった.

 イシュトヴァーン・デアークによれば,
「これが最後の皮肉だった.つまり,ハプスブルグ帝国のために戦った最後の軍隊は,スラヴ人とルーマニア人とイタリア人がほとんどだった.理屈のうえでは,これらの人たちは連合国側に立っていたはずなのだ」
(略)
 最後まで戦っていた兵士の大半は,南スラヴ人だった.

使徒むーちゃ in mixi

▼ 国際紛争第7版の仮想現実を元に論を組み立てると,大体以下のとおりになる.
(尚,第5版から大きな変化はないと思う)

 まず,これを語るには,口実である「フランツ・フェルディナンドの暗殺」というファクターから,逆算する必要がある.
 もちろん,フェルディナンド暗殺は単なる口実であり,WW1の大きな要因とは言えない.

 ただ,口実がなく,そのまま2年間過ぎていたら,ドイツの「シュリーフェンプラン(改版)」は確実に破綻する.
(最初から破綻しているという突っ込みはナシで)

 理由:「ニ正面作戦」自体が鉄道の発達により,全く成り立たなくなるから.

 こうなると,ドイツも
ニ正面を相手取って戦う=いきなりの戦線拡大
の可能性が相当減少するのではないだろうか?

 といいつつ,第二帝国参謀本部の連中が,それを指をくわえてみているかは微妙.
 何かしら口実を見つけて,開戦に踏み切らざるを得ないようにするかも知れず.

 次にイギリス.
「当時,イギリスはアイルランドに大きな問題を抱えており,もう2年あれば,イギリスは国内問題で,仏露と協調を取れなくなったのではないか?」
という可能性.

 ただし,イギリスはヨーロッパに覇権国家を作らないっていうのがドクトリンだから,ドイツを放置するとは考えにくい.
(当時のアイルランド問題について詳細を知らないので,どれくらい深刻なのかがわからないです)

 ここまでが「戦争」自体が起こらない可能性.

 正直,これは可能性が低いと思う.
(ただ「確率が高い」=「確実ではない」ということをナイは言いたかったのだと思う.
 結局は,他の選択肢を放棄したということを強調しているように思える)

 次に,「戦争」が世界大戦に発展しない可能性だが,これは確率がそれなりに高いと思われる.
(これも「2年間開戦が遅れていたら」という,仮定の元で話す)

 この戦争の直接的原因は,オーストリアの対セルビア予防戦争なんだけど(だから,ロシアが動員を始めたわけで)ドイツがオーストリアに全面支援を表明しなかったら,単なる「オーストリアvsセルビア」の局地限定戦争で済んだのではないだろうか?

 この時点で,ドイツは2正面作戦を放棄せざるをえず,2極化していた同盟にも,何かしらの変化が起きた・・・
 すくなくとも,両方を同時に相手取って戦うという可能性は,相当低くなっているはず.

 予想として,オーストリアvsセルビアの限定戦争で,ロシアとドイツが口を出してきて適当なところで手打ち,というのが精精じゃーなかろうか?

 そもそも,ヴィル閣下は戦争に耐えられるほど神経太くないし.

 第3に,「単一方面戦争」の可能性.

 ドイツはシュリーフェンプランに固執したが,これは小モルトケとか軍部の意向が相当に強いと思う.

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 ロシアが軍隊に動員をかけると,ドイツも動員した.
 カイザーはフォン・モルトケ将軍に,東側正面だけに戦争準備をとどめることはできるかどうかを尋ねた.
 フォン・モルトケは,部隊および補給品の集合の計画に変更を加える事は兵站に対する悪夢であるとして,それは不可能と答えた.

(略)

 しかしながら,戦後になってドイツ陸軍の鉄道部門を担当していたフォン・シュターブ(Von staab)将軍が認めたところによれば,動員のスケジュールを滞りなく変更する事は,実は可能だったかもしれないのである.
 カイザーがこれを知って主張し続ければ,1正面だけの戦争に終わったかもしれない.
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

※ これに関しては,正直疑問がある.
 カイザーの力だけで,参謀本部が動かせたとは考えにくい.
 ドイツの皇帝は,ロシアのツァーほどの権限は持っていないし,ボンボンのヒステリー皇帝の言う事を参謀本部の連中が聞き入れたかどうかは・・・.

 第4の可能性として,イギリスが参戦しない状態でのニ正面作戦.

 ・・・まぁ,しかしこれはベルギーを通り道に使った時点でないな.
 うん,色々書いているけど,ナイ教授の書き方自体も消極的だし,俺もこれはなかろうと思う.

 最後に,これはいいまとめだと思うので,引用する.
 第五版よりも洗練されている感じ.

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 第一次世界大戦は,既に多くの神話ができあがっている,
 例えば,第一次世界大戦は偶発的な戦争だったという人がいる.
 しかし,第一次世界大戦は純粋に偶発的だったわけではない.
 オーストリアは意図的に開戦した.
 それに,どうせ戦争をするのであれば,ドイツは後でするより1914年にしてしまおうと考えていた.
 戦争の期間がどれくらいになるとか,どの程度深刻なものとなるのかについて計算違いがあったことは確かであるが,それと偶発的戦争とうことは違うのである.

 また,この戦争がヨーロッパの軍拡競争の結果とて起こったという見方もある.
 しかし1912年までに軍拡競争は終わっており,イギリスが勝っていたのである.
 ヨーロッパで軍隊の強大化についての懸念があったことは確かだが,この戦争が軍拡競争から直接に引き起こされたという見解は,あまりにも単純である.
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 問題は,硬直化した同盟がどう変化するか?ということになりそう.
 ドイツがもし,シュリーフェンプランを放棄するとしたら,世界はどうなっていたのか大変興味がある.
 仏・露によって閉塞状況に陥ったとしても,経済では大成長していたドイツが,それによって膨張が止まるのか?
 仏と英の植民地問題はどうなるのか?
 ロシアの国内状況は?
 これらのファクターを考える必要はある.

 ただ,ヨーロッパの全土が戦火に巻き込まれ,数千万人が(スペイン風邪の影響が大きいとは言え)犠牲になるような戦争は避けられたのではないか.

 そして,そうなるとWW2自体も,あのような形では起きなかったのでは?
 仮想現実は,危険ではあるが,蓋然性から組み立てると,それなりに合理性があると思う.

ますたーあじあ in mixi,2009年07月27日22:04


 【質問】
 皇太子の暗殺は「口実」だったんですか?

 【回答】
 少なくとも暗殺事件以降,オーストリアは最初からセルビアに戦争をしかけることを前提に最後通牒をしていますね…

 以下,「図説ハプスブルク帝国衰亡史―千年王国の光と影」(アラン・スケッド著,原書房,1996.5),p287より引用――

 あるハンガリー歴史学者によれば,ティサはセルビアの反応が交渉で解決できると思っていた,という.表向き,ベルヒトールトの言葉からはそうとしか思えなかったのだ.
 しかしベルヒトールトは,この最後通牒がかならず拒否されるよう細心の注意を払っていた.かならず戦争に突入させるため,彼はベオグラード駐在大使に「単純明快な」受諾を要求させた.

同じく,p276より引用――

 後にベルヒトールト夫人はこう語った.
「かわいそうにレオポルトは,セルビアに最後通牒を送った日には眠れませんでした.セルビアが最後通牒を受け入れるかもしれない,と気をもんでいたのです.夜中に何度も起きあがって,絶対受け入れられないように言葉を変えたり,つけくわえたりしてました」

使徒むーちゃ in mixi


 【質問】
 「オーストリアとセルビア」の戦争が,第一次世界大戦に発展しない可能性はあったのか?

 【回答】
 十二分にあったと言える,原因の多くは,皇帝ヴィルヘルムに帰せられるだろう.

 1890年代には,ロシアが全ての軍隊をドイツ国境に輸送するには,少なくとも2,3ヶ月はかかった,
 この時点では,シュリーフェンプランはそれなりに妥当性があったと言える.
 しかし,1910年には,この時間は18日にまで短縮された.
 1916年になれば,もはや二正面作戦の時間そのものが消滅し,ドイツは,二正面作戦を放棄せざるを得なかっただろう.

 逆の見方をすれば,1914年に暗殺が起きず,1916年まで戦争が起きなければ,ドイツは二正面作戦を放棄せざるを得なかったはずである(それ以降にオーストリアとセルビアは戦争になった可能性は高いが).

 イギリスの歴史家A.J.P・テイラーに至っては,戦争さえなければ,ドイツはヨーロッパの覇権さえ握っていたかもしれないと主張している.
 ドイツは圧倒的な力を持って,フランス・イギリスはそれに対抗できなくなっていたという理論だ.

 余談ではあるが,ヴィルヘルムの問題行動をもう一つ上げておこう.

 以下,ナイ教授の文章を引用

 「初期にカイザーは,1908年-1909年のボスニア危機の再演を考えていた.
 この危機の時には,ドイツがオーストリアを支援し,その結果,オーストリアはバルカンからロシアに手を引かせることに成功した.
 1914年にカイザーはオーストリアに全面支援を約束し,これですんだとして彼は休暇をとって出掛けた.
 かれが船旅(クルーズ)から帰ってみると,オーストリアは何と彼の残していった白紙小切手にセルビアへの最後通牒を書き込んでいたのである.
 これに気が付いたカイザーは,八方手を尽くして戦争が拡大しないようにした.
 (省略)
 もし彼の工作が成功していれば,この戦争のことを第一次世界大戦という名で記憶するのではなく,1914年8月のオーストリア=セルビア戦争と言う小戦争として記憶することになったであろう」

 ・・・伍長閣下もそうだが,ドイツ人って・・・.
 まぁ,他に要因もあるけど,やっぱりヴィルヘルムに要因の大部分があるとしか思えない.

 詳しくは 詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第3章を参照されたし.

ますたーあじあ in mixi

 おそらく皇太子の暗殺だけなら,セルビアに適当に粘着して終わったでしょう.戦争しようにも金がありませんので(笑).
 最終的に開戦の決断をさせたのは,やはりドイツの支持が取り付けられたからのようです.
 ドイツが「ロシアの膨張を食い止めるには今だ」と思ったのと同様,オーストリアも「バルカン問題でドイツの助力を得るのは今しかない,今を逃さず敵(セルビア)を排除すべし」と思い込みましたので…

 以下,アラン・スケッド著「ハプスブルグ帝国衰亡史」(原書房,1996.5),p284より.

 一九一四年にルーマニアとロシアが和解したことは大きな脅威だが,最も気になるのはドイツの態度で,一九〇九年以来変化したのはまぎれもなかった.
 いまではドイツは独墺二国同盟のことなど忘れたようで,トルコとバルカン諸国において,経済面で帝国とはりあっていた.
 また戦争の際も援護せずじまいで,援護する代わりに,軍事介入をすべきでないと言ってきた.
 オーストリアが介入したので,第一次バルカン戦争後,ドイツはブルガリアに対する支援を拒否した.また領土にかかわる講和条約を実行する責任も引き受けようとしなかった.
 そこで一九一四年七月,オーストリアの外務局はドイツへの苦情を書き並べ,もしドイツがやり方をあらためないなら二国同盟は更新しない,と暗に脅しをかけてベルリンに送りつけようとした.
 しかしこの覚え書を送る前に,新たな危機が発生した.ボスニアの首都サライェヴォで,皇太子フランツ・フェルディナント皇太子夫妻が暗殺されたのである.

(中略)

 開戦擁護の根拠は何か? まず第一に,暗殺事件によってオーストリアは道義的に有利な立場に立ったということがある.
 けれども犯人の証拠が不十分である上に,宣戦布告までに一カ月がたってしまっては,有利とはいえない.
 戦争は拡大しないだろうという希望もあった.しかしこれも一カ月遅れたためにあやしくなった.

 開戦を決定した本当の理由は,ドイツが支持を申し出たことである.
 バルカン諸国にかんするかぎり,こんなことは二度とあるまいと思われた.
 実際,奇妙にもたがいに状況は似ていた.ドイツも孤立をおそれていたのだ.
 もしこのチャンスに乗じて敵をつぶしておかなければ,ロシアが一九一七年に再軍備を最大にすると,ドイツ軍はヨーロッパで自由に動けなくなるだろう,というおそれもあった.
 したがって,バルカン諸国におけるオーストリアと,全ヨーロッパにおけるドイツは,ある意味で同じ立場にあると思われた.
 こうして,戦力を強めつつある敵国を前に,両大国はできるうちに戦争に突入する決定を下した.これだけではない.
 両国が戦争に出ざるをえなかったのは,外交政策がつたないことも大きな理由だった.

使徒むーちゃ in mixi


 【質問】
 コンラート将軍の様な勢力と,そうでない勢力が均衡状態だったのですから,「あの時点で」テロが起きなくても,結局のところ,何らかのテロがあり,それに対する紛争がおきた可能性はかなり低いのでしょうか?

ますたーあじあ in mixi

 【回答】
 とても微妙なラインのため,「こうなっていただろう」という予測は,どうとでも言えるので否定も肯定もできません.
 ただ…コンラートの対セルビア予防戦争論は,皇太子暗殺が起こるまでは却下されており,防ごうという意図があれば防げたレベルであると思います.
 たしかにセルビアは,オーストリア帝国のボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合に反発して軍の総動員までしていますし,それはコンラートの「セルビアはもう武力で分からせるしかない!」という強硬論の原因ともなっています.
 しかしセルビアはロシアの助力が得られないと分かると,結局はオーストリア帝国に屈服しています.

「セルビア,必死だな(失笑)」
という態度で臨むのがベターだったのでは.
(それ以前にボスニアを併合する必要性があったかどうかも怪しいですが.ロシアの援助がないとセルビアのボスニア併合はどのみち不可能ですので.)

 セルビアにしたところで,軍部は大セルビア主義に汚染されていましたが,政府は必ずしもそうではなく,少なくとも穏健派との協調を目指せば脅威を減らせれる可能性はあったと思います.

 外交でロシアとの修復不可能な不仲(とオーストリアは思った)に頭を抱えているところに皇太子暗殺がおきて,
「セルビアに対して道義的に優位に立てる」
「ドイツの援助も得られる」
「前から何かと生意気なセルビアを,徹底的にボコるチャンスがきた」
という誘惑に負けたのだろう,と思います.

 しかも,ロシアの参戦で世界大戦になる可能性についてはある程度理解しておきながら,
「相手(ロシア)が世界大戦を避けようとして譲歩してくれるだろう」
という無責任さでした…

注)
 ・ゼルビアはボスニア・ヘルツェゴヴィナを自国の領土と主張しており,オーストリアの併合(当時すでにオーストリアの行政管理下にあり,名を実にあわせただけとも言える)に対して激しく反発した

 ※オーストリア帝国史に詳しい方,違っていたらツッコミよろしくです

使徒むーちゃ in mixi


 【質問】
 第一次世界大戦の頃の各国の戦争計画が硬直していた理由に,鉄道のダイヤが挙げられていましたが,総動員と鉄道のダイヤにはどんな関係があるのでしょうか?

 【回答】
 ダイヤを単に時刻表と勘違いしてない?
 ダイヤ(ダイヤグラム)ってのは鉄道の運行計画を図示したもの.
 この場合は単に運行計画のことを指している.

 総動員計画のある国なら,平時のダイヤが総動員を考慮したものになっている.
 鉄道ってのは路線の接続や相互乗り入れがあったりして,運行計画を立てるのは結構手間.
 ましてや総動員のための運行計画なんて一度立ててしまうと,細かい変更は不可能なわけ.
 当時は鉄道の運行は蒸気機関車で,石炭の手配も大変だったからね.

 機会があるなら,日本の鉄道路線のダイヤグラムを見てみな.
 こいつに兵員や兵器,物資の輸送を割り込ませるんだから,綿密な計画がないと大混乱に陥る.
 JRでも青函トンネルと瀬戸大橋線開通以降で全国規模の大幅大や改定がないって事を考慮すれば,ダイヤの変更が難しいものと分かるはずだ.

 そしてWW1のヨーロッパだと,兵隊の移動から補給まで鉄道に依存してる関係上,駅が補給拠点になって,そこから,物資を持ってける範囲でしか戦ってなかったんだよ.
 だから,総動員しても鉄道ダイヤが乱れてると,前線に兵力を持っていけないんだよ.

 ただ,計画そのものに間違いが無いかと考慮する必要性はある.
 例えば第一次大戦時のオーストリアの動員計画は,兵員輸送の際に安全性を考慮して運行速度を落としていたとか,主要幹線鉄道をラッシュ時の混雑を避けてあまり利用しなかったとか,不備な点が幾つかあったりする.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第一次世界大戦においてドイツやフランスは,シュリーフェンプランやプラン17のように,かなりトンデモな戦争計画を持っていましたが,他の国はどうだったのでしょうか?

 【回答】
 差はあれど,第一次世界大戦に参加した国々は似たような戦争計画を持っていた.
 共通していたのは皆,総動員の計画が第一であった点.
 シュリーフェンプランやプラン17が他国と比較して特異なのは,動員後,積極的に軍を敵国に進軍させている点.
 他の国は動員後は国境線に配備させる程度だった.

 ただし,イギリスは明確な戦争計画や動員の計画は持っていなかった.
 強いて言うならフィッシャー提督のバルト海作戦が戦争計画のひとつと言えるかも.
 個人の提案と言うか妄想に過ぎないが.トンデモ具合は前述のものを超越している.
 google検索してみれば,その詳細は分かる.

 オーストリアとか,ロシアも開戦後どうするかという計画はあったものの,基本的に「鉄道を用いた動員計画」が全てだったと言われております.
 どうやら普仏戦争で,ドイツが鉄道を利用して動員しフランスに勝ったのがよっぽど印象に強かったのか,とにかく動員さえ敵国より早く終われれば戦争に勝てると思っていた模様.
 まあ,4年間も塹壕戦,総力戦が続くとは誰も想像せず,ナポレオン時代みたいに大平原に大軍が終結して,一〜二回会戦をやれば勝敗がつくと思っていたので仕方ないですが.

 とりあえず一番有名(であろう)参考文献:
バーバラ・タックマン「八月の砲声」
 ヨーロッパ各国が大した見識もなしに大戦になだれ込む様子がよく分かります..


 【質問】
 第一次大戦は,列強の植民地の奪い合いで起きた抗争じゃないのですか?

 【回答】
 植民地を含めた勢力圏のせめぎあいが背景にあったことは確かだが,別に植民地の奪い合いを直接原因として勃発したわけじゃない.
 どの国も積極的に戦争を拡大しようとしたわけではなく――積極的に戦争を回避しようと努力した国もないが――,短期戦を想定していたのに,大戦になってしまったという意味で,「何が原因で起きたのか分からない」という評価になる.
 大戦に至った経緯が,動員合戦から始まって,戦時計画に基づいてまるで自動的に戦争に突入してしまったような感覚で,各国の当事者の思惑を超えてしまったのだから.
 直接の原因はオーストリア皇太子がセルビア人に暗殺されたのが発端だが,オーストリア皇帝が珍しくブチギレしてドイツを道連れに宣戦布告して,意固地になって戦い続けて,そうこうするうちに「敵の敵」やら「味方の敵」やら,いろんな国がわらわらと参加してなしくずしに「世界大戦」化していったから,どうしてそうなったのか当事者にもわからないという結果に.
 最初は単なる局地戦で短期決戦で終わるつもりだったのに.

 だから,よく言われるのは,
「軍事同盟が複雑に絡み合っていて,一国が戦争を始めるとその同盟国が自動的に参戦することの連鎖反応で,ヨーロッパ全体が戦争になってしまった」
という説明.
 もともと,各国の政治家にとっては,その複雑な軍事同盟は戦争をするためというより,できるだけ戦争を回避し,もし戦争が始まったら孤立せず自国に有利に展開させるための同盟のはずだった.
 実際に条約や密約に基づいて動員令や戦争準備を始めても,開戦するかどうかは,最後までコントロール可能と考え,また戦争が始まっても都合で停戦は可能と考えていたのに,一旦はじまると各国の軍はそれぞれの仮想的の開戦準備状況に対応して相互にエスカレートしていき,政治家から見ると追い込まれるような形で開戦せざるを得なくなり,あとは収拾がつかなくなったというのが実態.

 簡単に言えば,
「敵の敵だから援軍を送ります」
「敵の敵の敵の領地がガラ空き,獲得のチャンス!」
「なにやらわからない連中が来た,攻撃」
「味方だと思っていたのに攻めてきた,全滅させたれ!」
「であの国を滅ぼした暁には分割しましょう」
「貴国は来週から敵国となります,おたっしゃで」
「反乱が起きました,革命です」
「敵の敵の敵に向かって突撃!!」

世界史板


 【質問】
 WW1は,いわゆる「帝国主義の戦争」なんでしょうか?(’’*

 少なくともおっぱじめたオーストリアには,セルビアを併合する気なんか無く,ただただ脅威を潰したかっただけだし.
 動員かけたロシアだって嫌々だし.
 ドイツだって頭にあるのは「とにかく勝つには即効で動員」だし.
 フランスは受けて立っただけだし,英は独が巨大化してほしくなかったからだし.

 ただ途中から参戦してきた連中は,領土拡大のチャンスと燃えていたし,二枚舌もあったけど.

 少なくとも列強の間には,最初から列強同士の戦争を望んでいた国なんか皆無だと思う.

むーちゃ in mixi

 【回答】
 「戦争を望んだ」かどうかはともかくとして,3B政策やら,モロッコでの領土問題を見ていると,ドイツに関しては,少なくともそう思われてもしょうがないんじゃないかと.

 我らがヴィルたんは,そうする事でイギリスへのバランス・オブ・パワーを取ろうとしたんだけど,それがお互いの敵視を深める結果になった・・・と.

 オーストリアにしても,自らの「帝国」を維持せんがために「戦争」を仕掛けようとしたのでは?
 領土拡張はともかくとして.

ますたーあじあ in mixi


 【質問】
 第一次世界大戦は,連合国側が「デモクラシー対オートクラシー」と意義付けていた,という記述を参考書か何かで読んだのですが,これは「デモクラシー」が連合国で,「オートクラシー」が同盟国ということでしょうか?

 【回答】
 それで正しいです.

 第一次大戦は,なぜ発生したのかいまだに議論があるほど,「誰も望んでいなかった戦争」なのです.
 しかもヨーロッパ諸国,とりわけ英仏にとっては,第二次大戦と比べて比較にならない大量の戦死者を出した悲惨な戦争でした.

 このため,何のための戦争なのかを国民に説明する必要があり,たまたま同盟国側の政治体制がドイツ,オーストリア・ハンガリー,トルコとも,帝政であることを取り上げて,民主主義と専制軍国主義との戦いと位置付けた,ということです.
 もともと,政治体制の違いで対立していたわけではないですし,戦前は協商国側にもロシア帝国が存在していたわけで,後から言い訳として持ち出した論理にすぎません.

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 フィッシャー論争って何ですか?

 【回答】
 1960年前後,ハンブルク大学のフリッツ・フィッシャーによる第1次大戦期ドイツの戦争目的政策に関する研究に端を発する論争のこと.
 それまでの伝統史学が
「バルカン半島の局地紛争が,サラエボ事件を契機に世界戦争へと発展し,ヨーロッパ列強はそれらに引きずり込まれたのであって,特定の国家に勃発の責任を帰することは出来ない」
としていたのに対し,フィッシャーは
「ドイツは第1次大戦の勃発に明白な責任あり」
とのテーゼを立て,宰相ベートマン=ホルベーグの戦争目的政策からルーデンドルフの併合政策,第2次大戦期の侵略政策にいたるまでのドイツの積極的な紛争への関与を提唱.
 このドイツ第二帝制から第三帝国までの連続性を認めるフィッシャー論は,ヒトラーと第三帝国は否定するが,ビスマルクと第二帝制を擁護するドイツ伝統史学の潮流とは対立する思想であり,保守派の歴史家からリベラル派まで広く批判を受けることになった.
 西ドイツでは連邦議会や政治家までもが論争に介入し,戦後(冷戦時代)ドイツにおける世代間のナショナリズムの変化と伝統史学に対する史料批判,新たな社会史の構築の必要性を象徴する事件となった.

 詳しくは『歴史学事典6』pp.540-541を参照されたし.

世界史板


◆◆オーストリア・ハンガリー


 【質問】
 なぜオーストリア=ハンガリー軍は絶えず予算不足だったのか?

 【回答】
 ハプスブルク帝国軍は民族よりも王朝や帝国のために存在したため,ハンガリー人は,軍が自分達に向けられるのではないかと恐れを抱き,そのためにハンガリーの議会・政府は一貫して,少なくとも1912年まで軍事支出を故意に抑えたからだという.
 以下引用.

 ハンガリー人が犯した最大の罪は,帝国の対外政策や国際的立場を弱めていったのと同時に,帝国の軍事力の土台までも劇的なまでに突き崩していったことである.
 ハプスブルク帝国軍は民族よりも王朝や帝国のために存在したため,ハンガリー人は軍を嫌い,自分達に向けられるのではないかと恐れを抱き(この懸念は,全く非現実的というわけではなかった),フランツ・ヨゼフから譲歩を引き出そうとして,絶えず軍を資金不足に陥らせた.
「1850年代から1914年まで,オーストリア・ハンガリーの軍事予算は,ヨーロッパ全ての列強諸国の中で最少だったが,帝国経済の財政能力から言っても極端に少なかった.
 ……ハンガリーの議会・政府は一貫して,少なくとも1912年まで軍事支出を故意に抑えたのであり,それをやめたときには,もはや遅すぎたのだった」34

 軍が弱かったために,帝国の支配者はますます悲観し,逆に敵国はますます希望を募らせていった.
 国家が生命力を維持していくための「国家のエゴイズム」の力強さが称賛されていた時代において,軍の弱さは,民族紛争が引き起こす危機感や不安感をいっそう強めた.
 帝国の支配者達は,旧来の社会的エリートの出身者として,近代性は自分達の敵であるとか,未来に希望はないかもしれないと疑ってかかるきらいがあった.
 こうした要素全てから,再び権力を主張しなければならない,あるいは,長期的な災難を避けるためには,内外の敵の集団を威圧しなければならない,といった感覚が強まり,これら全ての感情が,1914年のセルビアへの攻撃の引き金になったのである.
 34 G.Lundestad (ed.), the Fall of Great Powers. Peace, Stability and Legitimacy, Scandinavian University Press, Oslo, 1994所収のI.Deak, 'The Fall of Austria-Hungary. Peace, Stability and Legitimacy', ch.4, p.89.

Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.352-353


 【質問】
 WW1における多民族国家の軍って,どうやって部隊間の意思疎通を図ったのでしょうか?

 【回答】
 二重帝国の共通軍やOttoman-Turkeyの特に海軍の場合,士官は兵士の言語を習得することが奨励されていました.
 後者の場合は,海軍兵士の多くがギリシャ人だったので,主にギリシャ語の習得をするようにして,意思の疎通を図っています.

 前者の場合は,ドイツ人が25%,マジャール人が23%で,両方合わせても半分になりません.
 残りは,
チェック人が12.5%,
スロヴァキア人が3.5%,
ポーランド人7.7%,
ウクライナ人7.6%,
スロヴェニア人が2.5%,
セルビア・クロアチア人が9.7%,
ルーマニア人6.8%,
イタリア人1.7%,
ブルガリア人
と言う構成です.

 こうした民族構成であることから,軍隊での使用言語を三種類に分けています.
 先ず,指揮に用いる語彙,「前へ進め」「撃て」など基本的なもの,これを指揮語と呼んでいましたが,これにはドイツ語を充当しています.
 次いで,軍務に必要な専門用語である服務語も,ドイツ語です.
 最後は,連隊内の会話や教練に使われる連隊語で,これは連隊を構成する兵士の母語が使われました.
 なお,連隊構成は徴兵区を規準にしており,その徴兵区の民族構成が其の儘,連隊の民族構成になっています.

 1897年の調査では,共通陸軍歩兵102個連隊のうち,連隊語が1つなのは55個連隊,2言語が44個連隊あり, 3つに上る連隊も3個連隊ありました.
 例えば,Transylvania地区の連隊では,マジャール人47%,ルーマニア人46%なので,この2民族の言語が連隊語に採用されました.
 従って,教練にはその言語に対応しなければなりませんでした.
 将校は,数カ国語に精通しなければ成らず,1904年時点の調査では,将校1名当り平均2.55言語を話せると言う統計が出ています.

 なお,将校の構成は,ドイツ系が圧倒的に多く,78.7%を占めており,次いでマジャール系9.3%,チェック系4.8%で,ドイツ語以外の言語が話せる割合は,チェコ語が47.0%,マジャール語が33.6%,ポーランド語19.3%,セルビア・クロアチア語15.3%,以下,ルーマニア語,イタリア語,ウクライナ語,スロヴェニア語,スロヴァキア語となっています.

 二重帝国共通陸軍では,使用するドイツ語は指揮語,服務語を合わせても80の単語しか無かったので,例え,全く他国の言葉を知らない人間でも,これらの言葉を覚えれば,兵士として働かせる事は可能だと考えられていました.
 ただ,チェック人連隊の様に,指揮語や服務語がドイツ語なのに,それに反して,チェック語を使い続ける運動 が展開されたケースはあったりします.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板,2007/09/16(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 オーストリア二重帝国国内のスラヴ人は分離主義者だったのか?

 【回答】

(・ω・)<オーストリア二重帝国にとって,国内の『スラヴのクソ野郎ども』は,帝国を崩壊させる分離主義者たちだったのですか?

(ーー)<そうやって悪いイメージを先行させるから,必要もない対セルビア宣戦布告をする羽目になるのですよ.
 オーストリア帝国からの分離を唱えていたのはイタリア系住民であり,スラヴ系住民は少なくとも上層部が危機感を抱くほどに,過激な分離主義者ではありませんでした.
 実際,WW1になったら最後までハプスブルグ家のために戦ってくれましたからね.
 彼らの要求は,「俺たちスラヴ系少数民族にも,ハンガリー人みたいな“自治”をキボンヌ!」でした.

(・ω・)<独立したいとか思わなかったんですか?

(ーー)<隣にロシア帝国やドイツ帝国があるのに??
 帝国主義な列強のそばで少数民族が独立して,今までどおり暮らしていけると思うほどには,彼らは脳内お花畑の住民ではありませんよ.
 それに経済的にも,それなりに食っていけるレベルでしたので.
 念願(?)かなってWW1後に独立しましたが,後でヒトラーやスターリンに征服されてしまったのは皮肉ですね.

以下,アラン・スケッド著「ハプスブルグ帝国衰亡史」(原書房,1996.5)より引用――

 他ならぬマサリク自身が,一九〇九年に次のように述べた.
「我々が欲するのは連邦制のオーストリアであります.我々はオーストリアから独立できません.強大なドイツの隣に位置し,我々の領土にもドイツ人がいるのですから.」
 ついに一九一四年にフランツ・フェルディナントが暗殺された後,クラマージは
「……われわれが帝国に敵対するのはスラヴ主義を信じ込んでいるせいだ,と考える輩には,われわれは断固抗議します――,帝国の外のものはまったく頼りにしていないのです」
と語った.
 こういうわけで,アメリカ人歴史学者ヴィクター・S・ママティはこう結論づける.
「第一次世界大戦前夜,ハプスブルグ帝国でのチェコ人は失意の底にあったが,帝国外で生きようなどとは考えられなかった」
――p247より

※筆者補足
 「マサリク」…WW1後にオーストリア帝国から独立したチェコスロヴァキアの初代大統領
 なおチェコ人はスラブ系です.

 帝国の他の諸民族と,彼らが王家に示した忠誠にかんしていえば,政治や文化の面で不満を持っていたにもかかわらず,ほとんどの場合,帝国をつぶそうとか,王家と絶縁しようとかいう欲求はなかった.
(中略)
 ハンガリー人歴史家のディオセギ・イシュトヴァーンはこう書いている.
「民族主義が帝国の崩壊を招いたのではない.
 ハプスブルグ帝国内で,無条件の離脱を求めていた民族はイタリア人だけである.
 それ以外は,経済・政治・外交政策の思惑から,彼ら民族の目的を実現する場としては帝国がふさわしい,と前向きに考えるようになった」
――p257より

(・ω・)<でも南部のスラヴ系住民は,とかく過激なスラヴ主義で破竹の勢いなセルビアに隣接しいてたし,彼らに影響されて,オーストリアが崩壊して独立することを望む人も多かったのでは?
 それにセルビアはオーストリア領内のスラヴ系住民を自分の同胞とみなし,そこを統合することも考えていたんでしょ?

(ーー)<それにはロシア帝国の助けがないと無理ですし,んなことを本気で期待するほどには,セルビアも馬鹿ではありません.

以下引用――

「本当に急進的なのは,青年党『プレポロド』だけで,彼らは,帝国が解体し,スロヴェニア,クロアティア,セルビアが合併してユーゴスラヴィア人の国家をつくる,という考えに賛成していた.
 しかし,この党が代表するのは少数派の保守派カトリック農民にすぎない.
 一九一四年以前には,スロヴェニア人がハプスブルグ帝国の滅亡とユーゴスラヴィア国家の創設を支持して大きな運動を起こしたことはない」
――p235より

 セルビアは民族全体の統合を目的にかかげ,オーストリアの南スラヴ人も,力を増した民族国家に引きつけられていた.
 しかしこの魅力も,オーストリアのドイツ人が新興ドイツ民族国家に抱く関心ほど強くはなく,全帝国にとっての意味で比べればはるかに小さかった.
 セルビアは,南スラヴ人の民族的統合という思想を持ちつづけていたが,外国の援助なしにこの計画が実現できるとは思えなかった.
 大国によって希望がもたらされること,つまりセルビアの利益を増すためにロシアがオーストリアに対して戦争をすることは,合理的に考えればありそうにもない.
――p286より

(ーー)<「『敵』はこちらが最悪のケースと考える事を実現するかもしれない.」
「そうなったら俺たちはおしまいだ!」
「だったらその前にヤっちまえ!」
 ナイ教授が言うところの「囚人のジレンマ」ですね.
 真面目に帝国の保全を考えれば考えるほど,それとはかけ離れた結論になってしまいました…

使徒むーちゃ in mixi


 【質問】
 第1次世界大戦でオーストリアの死傷者,捕虜,行方不明者が人口の割りに多いのはなぜでしょうか?

 【回答】
 多民族国家であるオーストリアは兵に命令を下す際に多数の言語が必要だったそうです.
 その為,徴兵した兵に行なう訓練の効率が,他国と比較して非常に悪いものでした.
 これは兵器,弾薬,人員の補充能力が大きなウェイトを占めていた第一世界大戦において,致命的な欠点でした.

 更に大戦初期にガリシアの戦いで,ロシア軍に惨敗して40万人程の人的損害を受けてしまいました.
 この際に軍隊の背骨となる訓練された兵や下士官,下級将校が根こそぎ,しかも一度に失われてしまいました.
 その為,前述の訓練効率の悪さも祟り以後,前線に練度の低い部隊を送らざるを得ず,また大きな損害を受けると言った悪循環を繰り返す事になり,大戦が終わるまでそこから抜け出す事は叶いませんでした.

 また,他の列強と違い,国民が国家に対して明確なナショナリズムを見出す事が出来なかったのも,捕虜の多さの要因となっています.

ue◆WomMV0C2P.


 【質問】
 第一次大戦後,ハンガリーがオーストリアから分離したのは何故か?

 【回答】
 ハプスブルク帝国の存在理由が,ハンガリー人にとってはなくなったためだという.
 以下引用.

 ハンガリー人にとって,帝国の主な存在理由はロシアへの敵意だった.
 ハンガリーの指導的政治家で,後に帝国の外相を務めるアンドラーシ伯爵<1823〜90.67年にハンガリー首相.71年にオーストリア・ハンガリーの外相>は1870年,このように述べた.
「全てのハンガリー人の意見と同様,私もオーストリア・ハンガリーとロシアの衝突は避けがたいと考えている」18
 ハンガリー人達は,1849年にロシアの介入で革命が潰された事を許していなかった.
 それより遥かに重要だったのは,マジャール人はハンガリー王国の約半数しかいなかったのに対し,東・中央ヨーロッパ全体ではスラブ人のほうがずっと多かったことだ.
 これらのスラブ人の背後にはロシアが立ちはだかり,スラブの大国として,その人口と資源はハンガリーより遥かに大きかった事を,ハンガリー人はしっかり認識していた.
 多くのハンガリー人にとって,ハプスブルク帝国は好ましくなく,悩みの種であったが,それでも指導者達は,マジャール人が敵意に満ちた世界で生きていくためには,帝国が地政学的に不可欠だと信じていた.

 それゆえ,1917年の革命で,大国としてのロシアが消滅したかに見えた際,ハンガリー人エリートがハプスブルク帝国に忠誠を誓う大きな理由も力を失ってしまった.

 〔略〕

 1848年に遡るが,チェコの指導者は,帝国の主たる目的は,ドイツあるいはロシアの支配から東・中央ヨーロッパを守ることにあると協調した.
 少数民族であるチェコ人は,ヨーロッパの支配者になる可能性を秘めたドイツ,ロシアの両民族に対抗して,自分達だけでは独立を維持できないと心得ていた.
 だからこそ,自分達を守ってくれるハプスブルクが必要だったのだ.
 しかし,その保護の真の価値は,チェコ人が文化を維持し,帝国に住む他の民族と平等に暮らすことが許される場合だけに限られた.
 そのため,帝国内部でドイツ人と衝突するようになると,チェコ人はロシアに共鳴するようになった.

 同じ事が,ハンガリーに支配されていた南スラブ人の多くにも当て嵌まった.
 帝国末期の数十年間にハンガリーの支配が抑圧的になり,したがって汎スラブ主義の共鳴が高まっていくにつれて,事態はますます悪循環となり,逆にロシアに対するハンガリー人の敵意も高まったのだった.

Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.321-322

 一方,Joseph Rothschild著「大戦間期の東欧」(刀水書房,1994.10)PP.136〜137では,マジャール人貴族と言う存在がそもそもの原因だったとしています.
(以下引用)

「戦争が明らかに敗北と判ったときでさえ,支配層はまだ,その領土の歴史的国境と,其処での自分たちとの支配的地位を保持し続けようと望んでいた.重要な改革や一連の妥協を行うことに依ってではなく,唯単にドイツとの戦時同盟や帝国との立憲的連合を放棄し,マジャールは,これまでずっとチュートン・ドイツ人の奴隷的犠牲者であると西欧に触れ込むことによって.」

 マジャール人貴族は,王権や,非マジャール系諸民族や,土地を奪われ実質的には何の権利も持たないマジャール人農民を含む他の社会階層に対して,その支配的地位を主張し,維持するために戦ってきた.
 マジャール貴族は,土地と政府行政機構を支配することによって,その地位を絶えず守るための力と回復力を引き出していた.
 貴族は,一言で言えば,マジャール王国の「政治的民族」であった.
 彼等は,20世紀初頭までに人口の半数を占めるようになった他の少数民族の代表者の要求を認めなかったばかりか,自分と,「自分の所有物である」農民との間に介入しようとする如何なる中産階級をも容認しなかった.
 アウグスライヒの時期に於ける「重商主義的」な商業や工業の拡大でさえ,貴族出身の官僚層が担うことによって,貴族の政治権力の社会的基盤を掘り崩す方向ではなく,それを補完し,強化する形で実行された.
 しかし,歴史的な特権や行動様式を体現し守り続けるマジャール貴族のこうした忍耐力と先見性こそが,第一次大戦前の2,30年間に,二重帝国の中で長い間続いた些細な憲法上の抗争にマジャール貴族を巻き込み,目先だけの内政的小細工や抑圧に政治力を消耗させる現況であった.

 マジャール貴族は,政治参加の拡大はマジャール人の覇権を危険にするという排外主義的な考えに立って,民族的にはマジャール人である大部分の人々さえ,公民権から排除した.
 「民族を存続させる」という表現が,貴族の社会的・政治的特権を守るイチジクの葉として使われたのである.
 同時に,都市の経済と知的分野の主導権の大部分は,主にユダヤ人からなるブルジョア層に譲り渡された.
 マジャールは,歴史や,地理や水運や経済において,驚くほどの一体性を有していたが,一千年にわたる政治機構は次第に孤立し,偏狭となり,崩れやすくなっていた.

 でもって,1918年10月31日の民衆革命とカーロイ・ミハーイ政権の登場に続くわけです….
 可成りはしょりますが….

 敗戦時政権を担当していたティサ・イシュトバーン伯は,自国が敗北していると言うのにすっごく頑迷だったのですが,無血クーデターによって新しく政権の座についたカーロイ・ミハーイは,ドイツとマジャールとの提携関係を,フランスとの協調関係に変化させ,オーストリアに対するマジャールの自治を主張した上,結果的にマジャールの内政と社会生活を民主化することで,各地に点在する少数民族との融和を図り,ベルリンとウィーンに対抗しようとします.
 こうすれば,ウィルソンの民族自決の理念に則るものになった筈で,最終的にはマジャール王国部の緩やかな連邦形成を目指していたのですが,前政権が余りに酷い仕打ちをやりすぎたために(何事もやり過ぎはいかん),周辺諸国や連合国の受け容れられるところになりませんでした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in FAQ BBS


 【質問】
 ベラ・クーンの共産政府はなぜ誕生したか?

 【回答】
 1918年11月16日,クン・ベーラはソヴェトの命令でマジャールに帰国し,扇動家として少なからぬ才能を発揮し,ソヴェト・ロシアの援助を受けて,革命を「発展」させる任務に当たった.
 11月20日,露西亜からの帰還者,国内左派社会主義者,革命的社会主義者によって,マジャール共産党が結成され,12月7日にはカーロイ派と社民党穏健派に対する挑発的論文を掲載した,党機関紙「赤色新聞」が発行された.

 こうした挑発に対し,戦前からの社民党員や労組幹部はこういった共産党の宣伝をかわす免疫を持っていたが,政治に無関心な層から社民党に入党した,戦時組の党員,失業兵,知識人は影響を受けた.

 12月12日,共産党は,武装解除に不満を持っていたブタペシュト駐屯部隊を利用して圧力を掛け,カーロイ政権の国防大臣を辞任に追い込み,兵士評議会に浸透した.
 しかし,社民党員が勢力を扶植していた労働者評議会に対しては大した影響を与えられなかった.

 そこで,翌年2月までに幾度と無く騒動を起こし,それを宣伝して1919年2月までにブダペシュトで1万5000人,地方で2万5000人の党員を獲得し,ドイツに復員する途次,フォン・マッケンゼン元帥の部隊がマジャールに遺棄した3500挺のライフル銃を手に入れ,2月3日と6日の赤色新聞紙上で,武装蜂起を呼びかけた.
 是に対抗して,社民党は2月9日に臨時党大会を開いて,「共産党分裂主義者」を党と労組から排除することを決議,2月20日には,社民党機関紙「人民の声」編集局前で,失業者のデモと警官隊が衝突,多くの死傷者が警官に出た.
 また,ベラ・クーンには政府から公秩序侵害と叛乱教唆の容疑で逮捕状が出されたが,社民党指導部が徹底的な弾圧を行うのには,戦前のノスケ主義を想起させ,躊躇いがあった.

 また,二重帝国崩壊後のマジャールに於いて,首相のカーロイ・ミハーイ伯は軍隊の解体を行い,次ぎに農地改革に手を付けた.
 最初に範を示すべく,彼の領地に住む農民に自分の土地を分配したが,これは,政治的に無益な行動だった.
 農地改革は彼の内閣の農務大臣によって準備され,土地所有上限を500ヨーク(1ヨークは0.575ha)とし,これを越えた土地は没収して農民に分配することとなり,没収された土地は1913年の価格を基準に旧地主に保証金が規定されたが,これも,政権与党の社会民主党によって反動的であることと反対された.
 貴族達は賢明にも表だった反発は控え,これにより,社会民主党への国民の反発は強まり,これに依拠していた,カーロイ・ミハーイ内閣は崩壊した.

 その後,マジャール社会は急激にプロレタリアートの力が増大し,それを抑えるべき暴力装置たる軍隊が消滅していた為,容易に赤色革命が達成される余地が生まれた訳であり,そこをベラ・クーンは突き,大衆の支持を得たのである.

 協商国側もベラ・クーンに味方した.
 第一に,戦勝国は,1000年に渡るマジャール王国の領土諸地域を要求して, 軍だけでなく,行政機関も送り込んでいる,チェコ,ルーマニア,ユーゴの行為を正当と認めた.
 第二に,近隣諸国の利益に沿う形で休戦協定の境界線を何度も改訂した.
 第三に,その領土問題に関して譲歩を引き出す為に,経済封鎖を継続したのである.

 こういった面を利用して,クーンは第一に,カーロイや社民党の様にフランスの寛大さに期待することはオーストリアやドイツと結んだかつての「妥協」(1867年の二重帝国発足のこと)と同じ位虚しいモノであって,マジャール民族なら,そう言ったくびきを脱して,今こそ,ボルシェビキ・ロシアとの革命的同盟を基礎とすべきである.
 また,第二に,ロシアの様に,干渉戦争や国内の反動から自らを守るには,民族的な革命のエネルギーを重視すべきである,としたのである.
 愛国主義と,革命,この2つの訴えは,イデオロギーに無知な兵士,大衆は言うに及ばず,社会民主党の下部活動家,一般党員,果ては一部の社会民主党幹部にまで影響を与え,新共和国の軍兵士は,クーンの急進的命令を直ちに受入れ,マジャール駐留戦勝国代表のフランス陸軍中佐,ヴィクスがルーマニアの要請に応じて,その領土割譲を通知した時,かくて,国民の堪忍袋の緒は切れ,カーロイ政権は崩壊,3月21日,共産党と社会民主党の即時合同が為され,マジャール・ソヴェト政権が樹立されたのである.

眠い人 ◆gQikaJHtf2
(出展:Joseph Rothschild "East Central Europe"
(刀水書房から「大戦間期の東欧」という邦題で出ています.)
 これの第四章の抜粋….)

 【質問】
 ベラ・クンの共産政府ってあっさり崩壊したけど,よほど軍隊が弱かったのかね?

 【回答】
 ↓を見る限り国民に愛想をつかされたのだと思われ.
http://www.vanguardnewsnetwork.com/temp/TerrorTimeline/1919_BelaKunThe133Days.htm
 しかも肝心の国土防衛は放棄してトンズラかよ.
 ナジもこのとき政権に参加していたらしいが.

(世界史板)

 また,羽場先生の「ハンガリー革命史研究」によると旧ハンガリー王国国防軍(ホンヴェード)の軍隊6万人を引き継いだとあり,これが共産軍の母体ですが,この人達は決して皆が皆,共産政府に賛意を表していたわけではなく,隣国の軍隊にハンガリーが分割されるという危機感から参加したと書かれてますね.
 あとは工場労働者・農民を赤軍として組織化してますが,この人々も旧軍の軍人達同様,チェコ軍・ルーマニア軍の侵攻に危機感を抱いた人達だったようです.

 元々,共産主義に賛意を表していない人達と共産主義者の混合体ですから,うまく機能しなかったのではないでしょうか・・.
 しかも,クンはクレマンソーの通告を受けて,赤軍を国境線から後退させる決定をしてしまいましたから,彼らの心は共産政権から離反していったのだと思います.

 しかし,後にホルティ提督の下で首相を務めるストーヤイみたいな人物が赤軍に参加していたとは驚きました・・.

(ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w in 世界史板)


◆◆ドイツ


 【質問】
 第1次大戦に至るまで,なぜドイツはもっとましな戦略をとれなかったのか?

 【回答】
 ドイツの政体上,対外政策を調整する権限は国王またはその代理人だけにあったが,ウィルヘルム2世やその臣下には誰もそのそんな能力がなかったためだという.
 以下引用.

 戦争に先立つ20年間のドイツ政治は,こうした欠点〔政策を調整したり,目的と手段の調和を図ったり,相対立する政治的・軍事的・外交的な優先順位と圧力のバランスをとったりする個人や機関の欠如〕を数多く抱えていた.
 イギリスとロシアを同時にドイツから遠ざける政策は,ドイツの安全保障・利益・国際的影響力にとって危険であった.
 ヨーロッパを支配するための動きにおいても,それは全くの愚行でしかなかった.

 優先順位を決定し,目標を決め,政策を調整することができなかったのは,ドイツという国家を運営した個人の誤りのせいであったが,ドイツの政体にも根ざしていた.
 プロイセン=ドイツのエリートは民主主義を軽蔑し,自分達の利益とは両立しないと概ね誤った見方をしていたため,人民主権の原則を受け入れようとはしなかった.
 唯一,〔政治〕正統性があったのは,歴史的に続いてきた君主制の原則であった.今やドイツ皇帝であるプロイセン国王には絶大な権限があった.最終的には国王だけ,あるいは国王が確固たる支持を与えている代理人だけが,ドイツの対外,国内,軍事政策の調和と一貫性を保証できたが,ウィルヘルム2世の下では誰一人,ビスマルクのようには,これを行えなかった.38

 とはいえ,ドイツがわがままで自滅的な対外政策を行った理由は,それだけではない.
 下からの急進的な圧力がビスマルク時代よりも強まったため,合理的な対外政策が難しくなったのである.
 しかし,政治システムの頂点に位置する個人や制度上の弱さも重要だった.

Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.143

「ベンチがアホやから,外交ができへん」


 【質問】
 ドイツのヴィルヘルム二世の失敗の中で,一番問題なのは何か?

 【回答】
 正直ありすぎて,判断するのも難しいが,わざわざ他の国に敵対を促すような政策を取ったことだろう.
 彼は,ハードパワーに依存しすぎて,ソフトパワーを無視してしまった.
・海軍軍拡競争を始めて,イギリス人の敵対を深め
・トルコ・バルカンも問題でロシアを怒らせ
・モロッコ保護領を巡ってフランス人の敵対感情を強めさせた

 以下,ナイ教授の文章を引用

「実はカイザーは,イギリス人にショックを与えて友好を獲得しようとしていた.イギリス人を怖がらせることで,ドイツの重要性とドイツとの友好関係の必要性をイギリス人に認識させることができると信じていたのであった.
 結果は逆で,怯えたイギリスはまずフランスと,ついでロシアと手を結ぶことになったのである.
 したがって,1914年までには,ドイツはこの包囲網から何とか抜け出す必要を感じるようになり,戦争の危険もあえて冒すというところまで立ち至っていた,
 すなわち,ナショナリズムの勃興,自己満足の増大,社会ダーウィニズム,それにドイツの政策全てが,国際システムのプロセスから節度を失わせるのに貢献し,第一次世界大戦の勃発に力を貸したのである」

 なんというか・・・まぁ,思い込んだら一直線のドイツ人らしいとは言えるかも知れないかもしれないけど,マジでビスマルクが泣くなぁ・・・.

 詳しくは, 詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第3章を参照されたし.

ますたーあじあ in mixi


 【質問】
 第1次大戦の頃の帝政ドイツでは,初めから軍部の力が強かったのか?

 【回答】
 軍部の台頭は無制限潜水艦戦をやる前後のことで,それまでは議会の力が強かったりします.

 「平和を破滅させた和平」(デイヴィッド・フロムキン著,紀伊国屋書店,2004.8)と言う本を読んでからこちら,第一次大戦関連の本を良く読んでいたりするのですが,今は,「ドイツ海軍の熱い夏」(三宅立著,山川出版社,2001.5)と言う本を読んでいます.
 第一次大戦に関しては,余り研究も成されていないし,私自身も余り興味を持っていなかったのですが,調べれば調べるほど面白い世界だと思ってみたり.

 さて,この本はドイツ海軍大海艦隊に於ける,1917年夏の叛乱事件を扱っているのですが,ドイツ史を学んでいる人は常識だったのでしょうが,第一次大戦中のドイツという国は,確かに軍人がのさばってくる形に段々となっていくのですが,それは無制限潜水艦戦をやる前後に漸く成ってくる訳で,それまでは,意外にも議会の力が強かったりするのですね.
 特に,議会の多数派を占めているのは,社会民主党,つまり,一種の社会主義(其処までいかないけどフェビアン主義的か)政党なので,軍部も彼等の意向に従って,前線部隊の食糧補給に関する糧食委員会と言う組織の一部に,下士官や水兵を参加させる様にし,艦内に届けられる新聞には,社会民主党の機関紙も含まれると言う状態だったりします.

 ただ,彼等が政権の座に付いているかというとそうではなく,あくまでも,政権は皇帝の輔弼として振る舞っており,議会はそのチェック機関的な形になっていた様ですね.

 第一次大戦に加わる際にも,苦悩の上,民衆の熱気に浮かされるように参戦を支持したりしていますが,政府と軍部が,こうした議会の動向に敏感になっていた為もあってか,戦争方針は悉く裏目,裏目に出て行ってます.

 それが高じて,追い詰められると最終的には軍部独裁に至る訳ですが,更に生活が逼迫すると,社会民主党を始めとする左派が打倒軍部で結束し,最終的には軍港の叛乱に至っていく訳ですね.

 今の世の中でも,「軍靴の音が…」とか何とか寝言を言う人もいますが,そうした世の中に成って行っているのは,民衆の熱気と,議会政治の動向であることを認識して欲しいものですね.
 社会主義を標榜する政党が,率先して戦争を始めたと言う事実は記憶しておいて良いと思いますが.

眠い人◆gQikaJHtf2 in mixi,2006年04月25日


 【質問】
 この計画の現実性は?

ドイツ皇帝,アメリカ本土侵攻を計画

 2002/5/8発売のドイツ週刊誌ツァイトは,同国の公文書館で見つかった資料から,19世紀末に 当時のドイツ皇帝ウィルへニム2世が,米国本土への侵攻作戦計画を策定していたことが わかった,と報じた.
 計画は1897年に立案が命じられ,1900年に完成.艦艇60隻で10万人の兵士をニューヨークと ボストンに上陸させ,米東部を制圧するとしていた.
 作戦を立てたドイツ海軍当局者は,米国と開戦した場合,海上封鎖や艦隊決戦よりも本土に 上陸して戦う方が効果的と判断.
 理由として
「米軍の士気や練度は低い」
と分析があり,米中枢部を占領した上で,ドイツ側に有利な講和条約締結を迫る戦略だった.

 【回答】
 艦艇60隻で10万人・・・・って所に限りなく無理を感じるが.
 食料・武器・弾薬・消耗品は全部現地調達か?
 まさに10万人の盗賊の群だな.

 このカイザーのおもしろ大作戦ですが, カイザー自身の壮大なネタでしょう.
 当時のドイツにはアメリカと戦う理由は何一つありません.
 アメリカは人口過剰で食い詰めたドイツ人が一旗上げる夢の大地であり, 実際的利害でも対立していたことはありません.

 作戦自体を「どのような組織」が立案したのかはよく分かりませんが,仮に参謀本部とするならば,シュリーフェンが首を縦に振らなければ,こんな作戦は立てられません(反対していたら,スキャンダルとして世間に知れていたはず).
 シュリーフェンがこんな代物に首を縦に振ったということ自体,この作戦が初めからお遊びだったことを示していると思われます.

 また,参謀本部以外の組織が立案していたのなら,そんなものは正式の作戦計画でもなんでもないのではないでしょうか.

 ちなみに,第一次大戦中は日本侵攻のプランもドイツにはあったようです.
 ユーラシア大陸を横断する壮大華麗な大戦略だそうですが・・・
 数年前,某仮想戦記作家が,古本屋で文献を見つけたのだそうです.

45 名前: ドイツ皇帝ウィルへニム2世 投稿日: 02/05/10 11:17
 艦艇60隻に10万人の兵士を乗せてニューヨークとボストンに上陸させて
米東部を制圧する計画立てたけど,どうよ?
 米国と開戦するなら,海上封鎖や艦隊決戦よりも本土上陸が一番だろ?
 どうせ米軍の士気や練度は低いし,米中枢部を占領すれば有利に講和できる
優れものの戦略だよ.

 俺って頭いい.
−−−−

 もし当時のドイツに2chがあったら,こなスレッドが立ったに違いない・・・
 そして「10万でアメリカ占領太郎」と伝説が語り継がれるに違いない(笑)


46 名前: 名無し三等兵 投稿日: 02/05/10 11:18
>45
「がっちり東海岸太郎」(藁


(ナポレオン他 in 軍事板)


 【質問】
 WW1でドイツに勝ち目はあったの?

 【回答】
 かの名著,マーチン・ファン・クレフェルトの『補給戦』を読む限りでは,マルヌ会戦でドイツ軍が勝っていたとしても,補給の問題から,いずれは国境線近くまで戦線が押し戻されるのは不可避だったように思う.
 そうなってしまっては,ドイツの勝ち目はなかっただろう.
(痛み分けには持ち込めたかもしれないけど.)

 ただ,確かドイツが勝つ可能性(ドイツは勝てた,ということ)を論考した本あったな.
 残念ながらタイトルやら著者やら忘れてしまったが…

世界史板
青文字:加筆改修部分

WW1ドイツ軍


 【質問】
 WW1ドイツの戦費調達は,どのようにして行われたのか?

 【回答】
 第一次大戦の欧州,その戦費調達は,殆どの国で国債を発行して,賄っていました.

 特にドイツの場合は,顕著にそれが行われています.
 これは,1870〜71年の普仏戦争の様に,ドイツが勝利することで,敵国から取り立てた賠償金で国債が償還できると考えていたためです.

 その戦費は,第二次大戦中の日本の特別軍事会計の様に,別立てで調達され,その総額は,1913年度の一般会計歳出32億マルクの50年分,約1600億マルクに達しました.
 このファイナンスは,政府短期証券と国債で賄われ,当初は短期でこの戦争が終わると楽観視していたことから,政府短期証券発行後に国債を発行して,政府短期証券の方を償還することを考えていました.
 この債券は殆どが国内で発行されましたが,1915年3月には米国で,満期9ヶ月,割引率5%の短期証券1000万ドル分を発行しています.
 米国で発行された分は,1916年5月に満期を1917年4月,割引率6%として借換えを行いましたが,1917年になると米国の対独感情悪化により,償還の止むなきに至りました.

 短期債務の償還のために発行された国債には2種類があり,片方は償還期限のない長期国債で,1924年10月迄の据置期間後に政府が任意償還する条件で,867億マルクが発行され,第一回は1914年9月に額面100に対し97.5,利回り5.64%で35億マルクが発行されています.
 もう一つは,償還まで6〜7年の中期国債である国庫債券で,当初5%利付で発行され,1916年3月から4.5%利付となりますが,8回にわたり,128億マルクが発行されています.
 但し,戦争が長期化するにつれて応募額が低くなり,第5回発行の1916年9月には応募額が政府短期証券残高に達せず,1918年3月からのMichael作戦の実行中に売り出された,8回目の発行時にも戦勝への期待から,応募数は多かったのですが,これまた残高に達することはありませんでした.

 こうして,政府短期証券の発行残高は,1917年3月末で187億マルク,1919年3月末638億マルク,1920年3月末916億マルクと加速度的に膨らむことになります.

 でもって,こうした短期証券を購入したのが,中央銀行であるライヒスバンクで,開戦と同時期に金兌換を停止した後,発券に関する制限を取り除き,その紙幣を使って,短期証券を購入することになりました.
 こうして,発券制限が解かれた為,発券残高は,戦前に20億マルク程度で推移してきたのが,1915年3月末で56億マルクと3倍近くに達し,1918年には120億マルクに達します.

 これくらい巨額な債務があったから,戦後ハイパーインフレが発生したというのは早計で,これくらいの国債依存は,第一次大戦を戦った国々では,それなりに起きていた事象だったりします.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年02月16日23:36


 【質問】
 どこかのサイトで,
「第1次世界大戦末期のドイツはすでに限界だった,
 例え,アメリカが参戦しなくても,ドイツは,イギリス・フランスに敗北していた」
というようなことが書いてあったんですが,これは事実ですか?

 【回答】
 ドイツの末期的状況を作り出したのが,アメリカ参戦による焦りから行ったカイザー攻勢の失敗.
 その為,アメリカ抜きってのは前提条件が大きく変わってしまうので,状況の予測が難しい.

 以下は私見だが,アメリカ参戦前の状況としては英仏の総被害の方がドイツより大きかった.
 特に将校等の基幹要員の被害の差は大きかった.
 ドイツは将校が前に出るのを禁止していたから,この差が出た.

 この状況でロシアが革命で抜けて,東部戦線の兵が西にやってくると言うのは,連合国側の状況は厳しいと言わざるを得ない.
 とは言え,ドイツの参謀総長のルーデンドルフは攻勢防御派なので,積極的に攻めてくる可能性は低いかと.

 以上のことから,連合国側がやや不利だが,ダラダラと塹壕戦が続く状況に変化はないかと思われる.
 厭戦気分の蔓延や世論,ロシア革命の推移次第では講和の可能性もあるだろうが.

 で,何かしらの理由でどちらかが先に攻勢を掛けた場合,そちらが非常に不利になる可能性が高い.
 史実通りドイツが先に仕掛けたのならば,ほぼ史実通りなるだろうが,英仏だけでヴェルサイユ条約がごとき屈服を強いる条約が結べたかというと,疑問符がつくところ.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第一次世界大戦敗退後の,ドイツの領土面積を教えてください.

 【回答】
 メーメル地方の面積を含んでいるのかもしれません(厳密には1923年までドイツの領地ではあった訳で)けど,第二次大戦前は,823,544km^2.
 そこから,
1939年に併合したチェコ地域140,508km^2,
1936年に併合したオーストリア83,868km^2,
ザール州2,570km^2,
ダンツィヒ自由市1,952km^2
を引くと,残りは594,646km^2となりますね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2006/09/16(土)


◆◆USA


 【質問】
 アメリカが第一次世界大戦に参戦したのはルシタニア号事件が原因と学校では習ったのですが,事件のあった日と実際に参戦した日には随分開きがあるみたいです.
 本当にこれが原因なのでしょうか?
 ほかに原因があるのでしょうか?

 【回答】
 アメリカが参戦を決めたのはドイツの無制限潜水艦作戦の「再開」,特にルシタニア号事件と,メキシコに同盟側への参戦を呼びかけた電報がアメリカに漏れた,「チンメルマンノート事件」が要因.
 戦争したり国境紛争が絶えなかった反メキシコ感情の強いアメリカにとって,後者の影響は特に大きかった.
 何せ,チンメルマンノートの全文はアメリカの歴史教科書に出るくらいの代物.
 これにより,連合側への参戦の世論が一気に高まった.

 因みにメキシコの回答はもちろん否.
 回答する前にアメリカは参戦決めちゃったしね.

 なお,この電報の内容は暗号解読でイギリスが情報を手にしたものを,暗号解読の手法を知らせない為に,ワシントンD.C.のドイツ大使館から電報のコピーをパクって,アメリカに知らせると言う,かなり遠回りなルートで送られている.

 近々,ちくま学術文庫から,『決定的瞬間 暗号が世界を変えた』(バーバラ・タックマン著,筑摩書房,2008.7)という本が再刊されるので,一読をお勧めします.

 ちなみに,当時の時点でアメリカを含めた諸外国が「どー見ても偽電だろ」って代物を,
「いや,これ本物だよ」
って当の本人が認めてるんだよ.

 ツィンメルマンが,問題の電報が本物だと認めたのは,まだ米国の参戦前なのだが,電報の内容が漏れた時点では,ドイツはこれが重要な問題だとは認識していなかった.
 第1次大戦後明らかになったドイツ側の資料を見ても,ツィンメルマン電報の内容については,戦時中に公表されたものと同一だったと見て,ほぼ間違いはない.

 ビスマルクは草場の陰で泣いていただろうな.
 我々の祖先は次の戦争でこんな国と,何で同盟しようと考えたのだろうか?…

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第1次大戦参戦後のアメリカの経済体制は?

 【回答】
 ポール・ジョンソンによれば,財務長官ウィリアム・マカドゥーの指揮の下,戦争金融公社を作り,民間企業の軍需産業転換を助成し,ヨーロッパ諸国の例にならって,産業のあるものは国家が経営を引き継ぎ,産業のあるものは所有権を国家が握ったという.
 連邦政府は直接の国家運営のために約1120億ドルを投じ,その他,米財務省は同盟国政府へ100億ポンドを貸し付けている.

 なお,戦争金融公社は後の大恐慌において設置された復興金融公社のモデルとなったという.

 詳しくはポール・ジョンソン著『アメリカ人の歴史』第3巻(共同通信社,2002.7),p.40-41を参照されたし.


 【質問】
 アメリカの動員兵力は?

 【回答】
 ポール・ジョンソンによれば,1917年1月には20万だった米軍は,戦争終結時には400万人に増加しており,そのうち200万人が欧州派遣米軍に勤務し,その75%が実戦を経験した.
 これを可能にしたのは1917/5/18の選抜徴兵法であり,この法律では2390万人以上の男性が自動的に兵役に登録され,このうち280万人が兵役につき,徴集兵は陸軍兵士の53%,軍隊全員の45%を占めた.
 そして,そのうちの11万2432人が戦死した.

 詳しくはポール・ジョンソン著『アメリカ人の歴史』第3巻(共同通信社,2002.7),p.41-42を参照されたし.


◆戦後


 【質問】
 第1次大戦後当時の集団安全保障の概念は?

 【回答】
 アメリカ大統領,ウッドロー・ウィルソンが考えた,国際秩序のシステムのことだった.

 基本的にリベラルの考え方で,今まで主流だった「バランス・オブ・パワー(均衡勢力)」に対して,国際的なルールを作り,多数の国で「非侵略国家連合」の様なものを作り,侵略国家へ,この連合をもって対抗しようと言う考えである.
 根底には,第一次世界大戦があまりに悲惨であり,バランス・オブ・パワーを維持するための戦争に,世界は耐え切れないというところから出てきた考え方だろう.

 ただ,色々な問題点がある.

1.そもそも,提案したアメリカが集団安全保障の国際連盟に参加しなかったこと.

2.各国家の主権を認めすぎたゆえ,拒否権が各国にある状態であり,強制力にあまりにも乏しかったこと.

3.全会一致が原則であり,権力の発動としては利害調整の作業があまりにも煩雑なこと

 まぁ,1.の時点で,相当怪しい体制ではあったと思う.

 詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ著「国際紛争」第4章を参照.

ますたーあじあ in mixi


 【質問】
 第1次大戦後の米英には,どのような利害対立があったのか?

 【回答】
 まずアメリカは,オスマン帝国時代にアメリカが帝国政府と交わした通商特権「カピチュレーション」の既得権の他,旧オスマン帝國領でのダーダネルス海峡の自由航行権,キリスト教布教活動を保護育成する権利,考古学調査や商業活動を十分行う権利を求め,英国と対立した.
 なかでも,アメリカが強硬に求めたのは,自国の石油会社の権利だった.

 その後,ギリシャ=トルコ紛争の結果,アナトリア地方でのキリスト教徒やアルメニア人の虐殺が起こると,英国はその責任を主にアメリカに押し付けようとしたが,アメリカは介入を拒んだ.

 以下,『平和を破滅させた和平』における,英米対立関係記述.

−−−−−−
 1919年,アメリカ国務省は法律を盾に,トルコの占領地域で行使されるアメリカの権利を主張し始めた.
 そこにはオスマン帝国時代に交わした一種の治外法権とも言うべき通商上の特権「カピチュレーション」の既得権にとどまらず,ダーダネルス海峡の自由航行権,キリスト教布教活動を保護育成する権利,考古学調査や商業活動を十分行う権利が含まれていた.
 なかでも,アメリカが強硬に求めたのは,自国の石油会社の権利だった.
 これがアメリカとイギリスに利害の衝突をもたらすことになった.

 発端になったのがニューヨーク・スタンダード・オイルの権利である.
 スタンダード・オイルは戦前から中東で油井探索を行っており,旧オスマン帝国からパレスチナとシリアにおける独占的な石油採掘権を与えられていたが,イラクでの採掘権は持ち合わせていなかった.
 中東の地域で最大の供給量を誇るスタンダード・オイルは,なんとしてもイラクでの石油採掘権がほしかった.
 それというのもマーケティング戦略上,顧客にできるだけ近いところで供給を確保する必要があったからである.

 ニューヨーク・スタンダード・オイルは1919年9月,2人の地質学者を調査のためイラクへ派遣した.
 その一人が妻に送った手紙の中に,うかつにも
「私が向かっているのは世界で一番石油埋蔵量の多い場所」
で,
「このパイはとてつもなく大きい」
から,何がなんでも
「採掘権を手に入れて,もともとアメリカ市民のものであるべき権利を確保しなければ」
と書いていた.

 この手紙は,連合軍が占領していたイスタンブールでイギリスの検閲官に差し押さえられ,写しがロンドンに送られた.
 イギリス政府はイラク駐在の高等弁務官サー・アーノルド・ウィルソンに命じて,地質学者らの調査を即刻中止させた.
 アメリカ国務省はニューヨーク・スタンダード・オイルから要請を受けて抗議を申し入れたが,イギリス外相カーゾン卿は,まことしやかな口実をもうけてこれをはぐらかした.
 戦時の取り決めにより,平和が回復するまでこうした行為は全ての国に禁じられている,と.

 さて,次に登場したのがニュージャージー・スタンダード・オイルである.
 ニュージャージー・スタンダード・オイルは首席地質学者は,早くも1910年の時点で,イラクで石油を掘り当てる可能性は高いと考えていた.
 しかし戦争が終わるまで,ニュージャージー・スタンダード・オイルは何も手を打たなかった.
 ようやく1919年2月,社長がイラクの油井探索を取締会に提案し,1ヵ月後,海外生産担当役員がパリに赴き,講和会議に臨んでいる政府代表団にこの問題を託した.

 その後,会長のA・C・ベドフォードが,自らヨーロッパへ渡った.
 中東の石油については,戦時中に戦後を見越したイギリスとフランスが,両国で独占しようという協定をいくつか結んでいた.
 協定は内密のものだったから,アメリカ政府は,自分たちを締め出すようなことは何も決まっていないと思っていた.
 ベドフォードがじきじきにヨーロッパへ向かったのは,そのことを調査するのが狙いだった.
 1920年4月27日,イギリスとフランスはサンレモ会議の席上,石油に関する秘密協定を制式に結び,将来中東で算出される石油を事実上,全て両国が独占することで合意に達した.
 ベドフォードはこの協定書の写しを,フランス代表団の一人から手に入れ,アメリカ大使館に提示した.

 イギリスとフランスが石油の独占をたくらんでいるという情報は,アメリカに大きな衝撃を与え,政府はこのサンレモ協定書を,アメリカの石油会社にとどまらず,アメリカの国益に反するものと見なした.
 第1次世界大戦に参戦したアメリカは,その経験から,陸軍にとっても海軍にとっても石油が欠かせないことに初めて気づいていたが,ひとたび戦争が終わると,そのアメリカが石油不足パニックに陥っていた.
 原油価格は高騰し,国内の石油埋蔵量がいずれ底を突くのではないかという不安が広がった.
 国務省の経済顧問は,海運会社や海軍に供給する燃料用重油を確保するためにも,石油ならびに石油製品の供給でアメリカが世界一の座を確保し続けるためにも,
「国外での石油供給源を確保することは(中略)経済的にきわめて重要である」
と書いている.

 1920年夏,サンレモ協定書が公にされると,その存在を確認したアメリカは抗議した.

 これに対してカーゾン外相は,イギリスは世界の石油生産のわずか4.5%を支配しているに過ぎないが,アメリカのそれは80%を閉めており,しかもアメリカは,自国の企業が開発を手がける地域からアメリカ以外の企業を締め出している,と論駁した.
 国務長官のベインブリッジ・コールビーは,アメリカの石油埋蔵量は,現在世界で確認されている埋蔵量の12分の1に過ぎず,国内の石油需要は供給を大幅に上回っており,今後予想される需要の伸びに応えるには石油資源の自由な開発が必要だ,と応酬した.

 アメリカとの関係がこじれたことを知ったイギリス政府当局は,アメリカが石油に関心を示すのは,イラクで相次ぐ反英暴動や,トルコで高まりを見せるケマリスト運動を支持しているからではないかと疑心をつのらせた.
 イラクでイギリスの公安当局に逮捕された暴動の首謀者の一人が,スタンダード・オイルが差出人の手紙を隠し持っており,その手紙には,アメリカの資金はバグダードのアメリカ領事が仲介して,イラク中部の聖地カルバラを拠点にするシーア派に回されている,と書かれていた.

 バグダードのアメリカ領事は,確かにイギリスのイラク統治に反対していた.
 だが,ワシントンは違っていた.
 いや,まるっきり逆だった.
 アメリカ国務省と石油会社は,イギリスが中東で支配権を握ることを歓迎していた.
 アメリカの石油会社が油田の探索,開発,生産に乗り出していたのは,自分たちから見て安定した信頼できる政権が存続している地域に限られていた.
 ニュージャージー・スタンダード・オイルの社長は,イラクはただの好戦的な部族の寄せ集めだ,と国務省に報告している.
 この人物に言わせれば,イギリスが牛耳るイラク政府という存在があって始めて,イラクに法と秩序を期待できるのだった.
 国務省近東局長アレン・ダレスも,アメリカ政府当局者の多くが恐れていたのと同じく,イギリスとフランスは中東から手を引くかもしれないし,本当に手を引けば,アメリカの国益は大きく損なわれると懸念していた.
 ダレスの話では,ガイ・ウェルマン(イラクにおける石油開発に一枚噛みたいと策を凝らしていたアメリカの石油会社の代理人)も,独自で開発事業を進めるよりは,イギリスの石油会社と共同で行うほうが,成功の確率は高いと考えていた.

 1920年夏,イギリスとアメリカの関係修復が始まった.
 イラクにおける石油の採掘は,当初の見込みよりリスクが高いと,地質学者がイギリス政府に知らせたのだ.
 しかしまた,石油が見つかった場合,その埋蔵量は莫大なものだから,イギリス一人の資本ではとても開発は困難で,アメリカの資本参加を呼びかけざるを得なくなるだろうと,一言申し添えることも忘れなかった.
 そのため――そこには政治的な理由もあったが――イギリスの石油業界の重鎮サー・ジョン・カドマンがアメリカに派遣され,両国の話し合いが緒についた.
 1922年6月22日,国務省を尋ねたニュージャージー・スタンダード・オイル会長のA・C・ベドフォードは,イギリスが所有するイラクの石油採掘会社に資本参加する件で,アメリカの石油会社7社を代表して交渉する運びになったと報告する.
 国務省に異論は無かったが,資本参加を希望するアメリカの石油会社を平等に扱うという条件をつけた.
 交渉は直ちに始まった.

 こうしてアメリカとの論争に決着はついた.
 しかし,中東の当地という厄介な任務をアメリカに押し付けられたイギリスは,その重荷をひとりで背負い込むことになったのである.

――――――p.804-808

 続き.

−−−−−−
 (1922年末までに,アナトリアに侵攻したギリシャ軍は駆逐され,トルコ領内にいた少数民族,キリスト教徒は,復讐心に駆られたトルコ人に家を焼かれ,あるいは殺害される.
 ギリシャ人だけで150万人がトルコから逃げ出す)

 フランス,イタリア,ボリシャヴィキ・ロシア,なかんずくアメリカに(この大惨事の)責任を押し付けるのは,イギリスの常套手段である.
 19月にチャールズ・エヴァンズ・ヒューズ国務長官と会談したワシントン駐在のイギリス大使によれば,中東を分割することで合意を見た連合国が,国際連盟から委任統治を受任するという手間隙のかかる手段を編み出し,その手続きに従ったのは,ひとえにアメリカを満足させるためだったという.
 そのアメリカは当時,既に中東の和平問題からすっかり手を引いていた.
 イスタンブル,ダーダネルズ海峡およびアルメニアを委任統治領として占領し保護することに同意したアメリカは,その2年後には,約束を反故にしていた.
 イギリス大使はさりげなく指摘した――1919年,連合国はおそらく自前の解決策を押し付けて,事の一件落着を図る腹づもりだったろう,しかしイギリスは,アメリカの意向を聞き入れ協力を確実なものにするため,数年も時間をかけて新たな責任まで引き受けたというのに,今は委任統治という大きな重荷をひとりで背負い込んでいる,委任統治はそもそもあなた方が言い出したことなのだ,と.

 ヒューズ国務長官は,次のように反論した.
『アメリカ政府に何がしかの責任があるという見解は,承服いたしかねる.
 (中略)
 わが国は勢力圏の分割を求めたことも,(中略),イスタンブルで策謀に手を染めたことも無い.
 (中略)
 この1年半に渡るギリシャ軍の悲劇にも責任はない.
 (中略)
 その件については,責任はもっぱらこの1年半のヨーロッパの外交にある』

 こうした非難の応酬の背景には,アメリカの外交政策の抜本的な変化があった.
 それは,ウッドロー・ウィルソンからウォレン・ガマリエル・ハーディングへと政権が交代したときのことである.
 ウィルソン大統領の中東政策は,キリスト教,特にアメリカの不況団体とその活動を支援することに狙いがあった.
 しかしハーディング大統領は,ウィルソンの推し進めた政策に興味を示さなかった.
 トルコ軍がスミルナに侵入したとき,メソディスト聖公会協議会をはじめとするアメリカの宗教団体は,キリスト教徒の虐殺を止めるために軍隊を派遣するようアメリカ政府に要請したが,ハーディングはヒューズ国務長官に,
「正直なところ,教会の関係者にはあまり寛容になれない.
 平和を促進するのは結構だが,最後は宗教の違いで争いになるのだから……」
と言っている.

 ウィルソンの中東政策にはもう一つ,主たる目的があった.
 現地の民族の自決を保証することだが,ハーディングはこれにも関心を示さなかった.
 ハーディングは,政府の行動を国益の擁護に限定した.
 中東においてアメリカの国益を守るということは,アメリカの民間企業の利益,基本的には石油会社の利益を守ることを意味した.
 トルコではアンカラ政府が,アメリカの企業グループに石油採掘権を与えるばかりになっており,アメリカの石油会社が要求する国内の治安と安定したビジネス環境をアンカラ政府が提供するのは確実に見えた.
 アメリカの企業に進んで門戸を開放しようとするアンカラ政府の態度が,アメリカ国務省に好感をもって迎えられ,アメリカの認識に好ましい影響を与えたのも無理はなかった.

 10月にボストンで演説に立った国務長官のヒューズは,スミルナの町が蹂躙されてギリシャ人,アルメニア人をはじめとするキリスト教徒が余儀なくされた窮状について触れ,
「トルコ軍の残虐な行為には,いささかの弁解も酌量の余地もない」
と述べている.
「だが同時に,状況を正しく評価するためには,ギリシャ軍のアナトリア侵攻が引き金となったこと,悲劇は戦争のさなかに起きたこと,そして撤退するギリシャ軍が町や村を幾つも焼き討ちしたり,市民に対して残虐行為を重ねたりしたことも考慮に入れなければならない」
 国務長官は,ギリシャ軍もトルコ軍も残虐行為を犯したことに注意を促した上で,アメリカは介入すべきだったという意見を否定して,すべては戦争の結果であり,アメリカはその戦争の当事者ではないことに聴衆の注意を喚起した.
 責任の一端を免れない連合国が介入しない以上,アメリカには介入する義務はない,というのである.
 アメリカ政府がトルコにおける自国の国民を守ることに専念したのは適切だった,とヒューズ長官は言った.

−−−−−−p.824-826

 ただし勘違いしてはいけないが,この当時,どの国もどの国とも互いに,利害関係を巡って外交的衝突を起こしており,連合国というのは事実上,瓦解していた状態であって,特に米英のみが衝突していたようなものではない.


 【質問】
 アメリカは国際連盟提唱しといて,上院の反対で参加しませんでしたが,この出来事の原因は授業では「伝統的相互不干渉」とだけ教えられました.
 他にも原因はあるんですか?

 【回答】
 国民レベルで存在する大戦への幻滅を,
 一部の孤立主義者が政治的に争点化した.(伝統的相互不干渉≒孤立主義)
 さらに共和党が,それを20年の大統領選に向けて,民主党政権批判として国政レベルで動員した,ということじゃないのかな?
(ここで悪役は上院外交委員長ヘンリー・カボット・ロッジ.)

 アメリカが国際連盟に不参加だったのは,南北アメリカの問題に域外国家の口出しを許すことになることをいやがったためでしょう.汎アメリカ主義です.
 アメリカは実は,好き勝手に介入して自国の利益を優先させていました.
 この現実に,理想主義が破れたのです.

 汎ヨーロッパ主義を唱えたクーデンホーフも,連盟に対しては懐疑をもっており,域外の大国,日本やアメリカが欧州に介入してくるとして批判的でした.
 汎ヨーロッパ主義というのはヨーロッパ・ナショナリズムです.これもまた孤立主義といえる.

 日本が国際連盟に参加したのはたぶん失敗でしょう.
 現実に理想がやぶれて脱退することになったわけですが.最初から参加しなかったほうがよかったと思われます.
 脱退したのは,大アジア主義的主張が強くなったからですが,これは東洋モンロー主義ともいわれていました.孤立主義ですね.

(世界史板)

 また,ジョゼフ・S・ナイも,アメリカがモンロー主義に走ったからだとしている.

 アメリカ人は「平常」を望んでいた.
 アメリカの利害は西半球に限定して,もつれた同盟関係によって,巻き込まれるのを嫌った.
 国際連盟参加反対の指導者的立場たるヘンリー・ガボット・ロッジは,国際連盟憲章16条がアメリカの主権侵害にあたると主張した.

 以下,ナイ教授の文章を引用

「上院の決定や国民の意思ではなく,集団安全保障を実施しようとする国際連盟の意志に基づいて,アメリカが遠方の戦争に巻き込まれるかもしれないとロッジは疑ったのである」

 また,ウィルソンがロッジとの論争を頑なに拒否したのも問題だったのだろう,ウィルソンの言い分にも,それなりに正当性があったはず.
 以下,ナイ教授の文章を引用.

「ロッジの孤立主義は,ヨーロッパでのバランス・オブ・パワーに対するアメリカの長年の態度を反映していた.
 ヨーロッパ諸国はバランス・オブ・パワーの名の下で汚らわしいことをしており,アメリカはそこまで身を落としてはならないというのである.
 しかし実際には,アメリカはイギリス艦隊の影でただ乗りしていたから,19世紀にバランス・オブ・パワーを無視することができたのである.
 事実,アメリカは中米やメキシコ,キューバと言った弱小の隣国の問題に干渉する時には,孤立主義とは無縁であった.
 第一次世界大戦の終りに際し,アメリカは2つの形態の道義主義に引き裂かれ,ヨーロッパのバランス・オブ・パワーに対する孤立主義の衝動が勝利した.
 その結果,第一次世界大戦でバランス・オブ・パワーの帰趨を決したこの国は,戦後秩序への責任を放棄したのである」

 詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ著「国際紛争」第4章を参照されたし.

ますたーあじあ in mixi

▼ 一方,ポール・ジョンソンによれば,上院外交委員長ヘンリー・キャボット・ロッジ上院議員の反対を,孤立主義の産物と考えるのは間違いだという.
 以下引用.

――――――
 彼はいつも敵役に擬せられるが,それは公平ではない.
 ロッジは孤立主義者ではない.
 ボストンの名門の出で,ボストンの名門というのはいつの時代でも,国際主義者である.
 ヘンリー・アダムズとセオドア・ルーズヴェルトという良き指導者に恵まれたが,そのどちらも歯に衣着せぬ国際主義者だった.
 ロッジは,その人たちならよしとするに違いない保証や連盟を目指していた.
 すべての証拠がそれを物語っている.(43)

 彼は考えた.
 この条約は善意のものではあるが,草案は下手だし後半にわたりすぎている.
 国家は,存続に関わる利益が危機に晒されない限り,戦争などしない.
 だから,実際問題として加盟国が連盟の決定を実施させるために戦争することはないだろう.
 いったいどんなものが,あるいはどんな人間が,国境を無制限に保証できるというのか.
 国境線は現実の軍事力の変化をそのまま反映する.
 アメリカは英領インドの国境や,山東半島の日本の領土を守るために戦争をするだろうか.
 するはずがない.
 そしてアメリカのイギリスとフランスとの取り決めは,存続に関わる利益の相互の恩恵に基づいていなければならない――その上で何らかの意味を持ってくる.

 アメリカ国民は,ロッジが高く評価しているように,自国の加盟に反対ではなかった.
 当時行われた投票結果によると,アメリカ国民は4または5対1の割合で,恒久的な平和維持団体に加入することを望んでいた.(44)
 上院の共和党員の大多数は,ある種の連盟に賛成だった.
 共和党内の真の孤立主義者はせいぜい10人あまりだし,さらにそのうちの何人かはすでに説き伏せられていた可能性もある.
 ロッジ自身,条約が圧倒的多数で批准されることを望んでいた.
 また,連盟の批准も望んでいたが,ウィルソンが考えたものとは違う形にしたかった.
(43)
 W. C. Widenor: Henry Cabot Lodege and the Search for an American Foreign Policy (Berkeley 1980)
 ならびにロッジ自身の著書 The Senate and the League of Nations (Boston 1925)参照.

(44)
 D. F. Fleming: The United States and the League of Nations ( New York 1932 ).
――――――ポール・ジョンソン著『アメリカ人の歴史』第3巻(共同通信社,2002.7),p.50

▼ そして同書によれば,ウィルソン大統領はロッジと元々そりが合わなかったためか,ウィルソンはいかなる変更も拒み,その非妥協的態度でウィルソンは孤立したという.
 上院では,ウィルソン支持派はロッジ案に反対票を投じ,条件主義者たちはウィルソン案に反対票を投じた.
 その結果,条約批准は流れたのだ,と説明している.

 詳しくは同書,p.51-53を参照されたし.▲


 【珍説】
 〔パリ講和会議で〕日本は「人種平等案」を提出した!
 これは歴史上初の快挙で,それまでの白人専用の伝統的国際法の秩序を打ち破る観念だった.

 大戦には,各国の植民地人やアメリカの黒人など多くの有色人種が参戦.
 常に第一線に立たされ,負傷しても治療は白人優先にされ,有色人種から死んでいった.

 また,アメリカの移民排斥問題も切実で,日本は,この機にぜひとも人種平等の原則を打ち立てたかったのである.

 ところが「人種平等案」は賛成多数で通過したのに,米英が強硬に反対し,全員一致でなければ認められないと,強引に否決してしまった!

 ウィルソンは「14ヶ条」で「民族自決」を提唱していたが,それはあくまで東欧の民族だけで,アジア,アフリカの民族など眼中になかった.

 しかも大統領選挙のときにはこんなことを言っていた.
「私は移民禁止政策を支持する!
 白色人種と融合しない人種から同質の住民を作ることはできない!」

 世界で初めて「人種平等」を提唱したのは日本であり,それを力ずくで潰したのがアメリカ,イギリスだった!

小林よしのり「戦争論」3(2003/7),p.211-212

 【事実】
 人種平等決議を平和条約に盛り込むことを拒否した張本人はオーストラリアです.
 それは国防上の見地に基づくものでした.

 オーストラレーシア人の立場は〔殆ど外的脅威のないカナダとは〕異なっていた.
 地域の果てで孤立した,比較的小規模の白人社会だったため,イギリスがヨーロッパの列強諸国,そしてとりわけ日本から防衛してくれることを望んでいた.
オーストラレーシアの繁栄は程度の差はあれ,白人以外の先住民から収奪し,アジアからの労働者の移住を厳しく排除することに依拠していたため,世界で唯一の有色人種の列強国である日本の興隆を恐れるのももっともだった.
 オーストラリアはベルサイユ条約策定のパリ講和会議で,日本が呼びかけた人種平等決議を平和条約に盛り込むことを拒否した張本人であった.

Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.223

 オーストラリアも当時は英国領でしたから,「英国が強硬に反対し」たと言えないこともありませんが,そういう意図で書いたのだとしても,事実の歪曲にしかなりません.

 ちなみに,移民禁止の件にもツッコミどころがあるのですが,それはまた別の話.


 【質問】
 第1次大戦後,ドイツが天文学的賠償金を支払う事となったのですが,実際の支払いはどのような形で行われていたのでしょうか?
 想像では
1 ドイツマルクの紙幣を直接戦勝国に引き渡していた.
2 ドイツマルクを戦勝国の貨幣に両替してフランなりポンドなりで引き渡した.
3 賠償金の額に見合うだけの金銀・資源・製品等を引き渡していた.
のどれかだと思うのですが.

 【回答】
 最初の頃は3.の現物支払いです.
 特に鉱工業製品による支払いが行われており,有名なところでは,フランスによるデュッセルドルフ,フランクフルト地区の保障占領とか,ライン川西岸地区,ザール地方の国際連盟による3地域分割で,最長15年に及ぶ占領と,炭田の所有権,採掘権のフランスへの譲渡が行われています.
 このほか,現物支払いでは,1,600t以上の商船,漁船の1/4,家畜,石炭,ベンゾール,機関車,鉄道車輌,機械,海底電線などがあります.

 現物支払い分以外は,2,690億金マルク,これは42ヶ年の年賦で国家財政より支出します.
 但し,ドーズ賠償協定の締結後は,米国からドルの借款を受け,それを短期資金市場で運用し,租税収入と共に年賦を整え,返済していました.
 従って,2.の変形でしょうか.

(世界史板)


 【質問】
 ドイツがヴェルサイユ条約に基づいて,2020年まで賠償金を支払い続ける,というのは本当ですか?

ソース
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/column/opinion/189201/

ぴぴ in 「軍事板常見問題 mixi支隊」
青文字:加筆改修部分

 【回答】
 その対外債務の支払いの為に発行されたのが,Dewes-Anleiheで,1924年10月から11月にj掛け,8カ国で合計8億マルクが発行されました.
 発行条件は7%利付,償還期限は1949年10月15日,発行価格は額面の92%で,担保は関税,たばこ,ビール,砂糖への課税収入が充てられています.
 償還価格は欧州募集分は額面で,ニューヨークで発行された1.1億ドルは額面の105%です.
 ニューヨーク,ロンドンでは募集額の10倍,アムステルダムでは100倍の応募があり,プレミアムが付きます.
ポンド建てでは1,200万ポンドが発行されました.

 恐慌後,1930年のヤング案に基づいてYoung-Loanが発行されています.
 これは1930年6月発行で,5.5%利付,満期は1965年6月1日,発行価格は額面の90%で,ドイツを含む9カ国で3.5億ドルが発行されました.
 ポンド建ては1200万ポンドで,担保はドイツ鉄道会社に対する37年間に渡る年6.6億マルクの課税で,元利支払金は毎月国際決済銀行に支払われることになりました.

 因みに,この2種類の国債は,第二次大戦中もロンドンで取引が行われていますが,その価格は1939年9月22日にDewsは額面の3%,Youngは額面の5%に暴落しました.
 これは利払いの停止と元本返済の可能性が無くなった為です.
 その後,D-Dayなどのドイツ不利の状況が出て来るにつれ,その額面価格は上昇しました.

 1953年の協定で,ドイツ連邦政府は,盗難に遭いソ連で流通していた債権を除き,全ての公債の元利金支払いに同意しました.
 元本の返済はドイツ連邦政府が1969年まで行うとされ,利払いは東西ドイツ統一が実現するまで延期されることになっています.
 その当時で,Dewsが4.2億マルク,Youngが12.11億マルク残存していますが,1995年1月4日付の金融紙の報道で,DewsとYoungの利札を2010年10月3日に満期を迎えるドイツ国債と交換すると言う記事を掲載しており,その後,2020年に満期を迎えるドイツ国債と交換したりしたら,未だに利払いを続けている事になるのかも知れません.

 借り換え借り換えを重ねていくので,結構国債って長く保つものだったりします.
 日露戦争に発行した日本の国債も償還は1960年代だった筈ですしね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第1次世界大戦後,ドイツではどのような少数民族問題が起こったか?

 【回答】
 現在,ドイツ連邦に於て国内の少数民族として認められているのは,4つの民族です.
 これらの民族は何れも欧州評議会に於ける『国内少数民族保護枠組条約』の対象となっており,彼らの使用する6つの言語は,『欧州地域言語・少数言語憲章』に基づき,様々な保護や援助対象となっています.

 まずは,1864年以来ドイツ領となったシュレスヴィヒ・ホルシュタインに居住するデンマーク系ドイツ人約5万人.

 2つ目が,オランダのフリースラントとドイツの東フリースラントに1世紀頃から居住し,7世紀に今はシュレスヴィヒ・ホルシュタイン州の一角であるヴィーダウ川,アイダー川間の細長い海岸地域とハリゲン群島から成る北フリースラントに移り,10〜13世紀頃にエムデン南方のザーターラントに移住したフリース人で,彼らは居住地域により北フリース語とザーターフリース語を話し,両地域で2万人(自分をフリース人と考えている人は7万人強ですが).

 3つ目が14世紀初頭の文書から登場し,大都市の人口密集地や全国各地の比較的小規模な街でも暮らしているシンティ・ロマ人で,彼らは所謂,ジプシーと呼ばれる人々で,ドイツ籍を持っているのは約7万人おり,彼らはロマニー語を話します.
 因みに,世界ロマ民族会議の本拠地は,ドイツのハンブルクにあります.

 最後が,旧東ドイツ地域であったカソリックのスラブ系民族であるソルブ人で,7世紀にゲルマン民族が移動した後のエルベ川とザーレ川に進出し,ドイツ東端のポーランド国境に近いラウジッツ地方に住んでいる人々です.
 この地域は1815年以来,ブランデンブルグ州とザクセン州に分かれており,ブランデンブルグ州のニーダーラウジッツには,ニーザーソルブ語を話す2万人が住み,ザクセン州のオーバーラウジッツには,オーバーソルブ語を話す4万人が住んでいます.

 第一次大戦で帝政ドイツが敗北すると,ポーランドやチェコスロヴァキアが独立すると共に,これら少数民族のうち,ソルブ人はチェコ人やポーランド人の独立を見て,ソルブ国の独立を求めますが,余りに人口が少なく連合国からは独立要求を無視されてしまいます.
 ワイマール共和国でも,その地位の向上を求め,ドイツ少数民族連合を1925年に設立するなど,その動きは当局を刺激し,1923年には政府部内にWendenabteilungという対ソルブ人監視部局を設置し,これが後にナチス台頭と同時に,ソルブ人の弾圧に繋がり,1935年からはバチカンとの政教協約で保護されていたカソリックの出版物以外,全てのソルブ語文書の出版が禁止され,焚書も行われ,大戦中は,ソルブ人の強制移住も検討された程でした.

 一方,シュレスヴィヒ・ホルシュタインとデンマークとは,元々ケーニヒス・アウ川の線が国境線でした.
 Versailles条約の結果,この地域の帰属は3回の住民投票で決められる事になりました.
 1920年2月10日,ケーニヒス・アウ川の線とクラウゼン線(トンデルン南部とフレンスブルク北部を結ぶ線)の間の地域に於て,1900年1月1日以前に生まれ,以来同所を居所とする者を対象に,地域の全投票を一括集票する住民投票が行われます.
 その結果,7万5183票対2万5329票でデンマークへの帰属が認められました.
 北部農村部では90%の賛成票を集めましたが,南部では半数を辛うじて超えた地域やドイツ票多数の地域がありましたが,一括集票の為異議は認められませんでした.

 3月14日,今度はクラウゼン線の南側北半分の地域で住民投票が行われました.
 これは町や村毎に集計する方式で行われ,こちらは,5万1303票対1万2859票でドイツ残留に賛成しました.

 更にクラウゼン線の残りの部分でも住民投票が行われる事になっていましたが,これは結局デンマーク側の要請で取り止められ(飛び地になりますから),クラウゼン線を以て,国境線とすることになりました.
 これが現在でも,ドイツとデンマークとの国境線になることになります.

 この結果,ドイツにはデンマーク系ドイツ人が残り,デンマークにはドイツ系デンマーク人が残る事になりました.
 そのデンマーク系ドイツ人に対しては,1920年にデンマーク首相Niels Neergaardが,
「我々はあなた方を忘れない」
と呼びかけ,以後,現在に至るまで様々な援助を行っています.
 1999年でも,Poul Nyrup Rasmussen首相は,デンマーク系ドイツ人と会談した時に,
「あなた方が我々と繋がる限り,我々もあなた方と繋がっている」
と連帯を表明しています.
 こうした援助を受け,デンマーク系ドイツ人は,域内ではシュレスヴィヒ連合という民族文化団体と立ち上げ,デンマーク復帰運動を起こす事になります.

 ところが,ソルブ人と同じく,1933年に発足したHitler政権は少数民族の動きを激しく弾圧し,彼らの言うアーリア系種族として少数民族としての扱いは受けたものの,デンマーク人としてのアイデンティティは押し殺す事を余儀なくされた訳です.
 これが,彼らをしてドイツ敗戦後に様々な動きを見せる事の伏線になります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年07月08日21:43


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