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総記
<WW1 FAQ 目次

【質問】
WWU発生以前もWWTは「第一次」と呼ばれていたのでしょうか?
【回答】
「the great war」と呼ばれていました.
【質問】
第一次世界大戦の原因は,
●世界を動かしていた植民地帝国イギリスに対し,新しく力を持ってきたドイツが資源と植民地を求めて戦いを挑んだ
↑色々調べた結果,こんな感じで合ってるのかなと思ってるんですが,他に何かあったら是非教えてください.
【回答】
第一次大戦の原因は植民地や資源や経済じゃないぞ.
そもそもドイツは英国が中立化することを期待していたし,英国議会もドイツがベルギーの中立を侵すまでは,戦争に消極的だった.
大戦に至る原因は大小様々にあるが,大きいのはドイツ統一後のナショナリズムがもたらした他国との不和と,当時のヨーロッパのパワーバランスそのもの.
ドイツ・・・仏露2つの隣国を同時に敵にしたら勝てないと思い込んだ
フランス・・ドイツより人口が少ないので単独で戦争になったら負ける
ロシア・・・ドイツ・オーストリアより工業力が劣っており単独では(ry
英国・・・・ドイツかフランスがこれ以上強大化したら本国の安全保障が脅かされる
この構図が何十年も続いており,様々な外交が展開され,植民地より本土が大事ということで,英仏が数百年の対立に終止符を打ち,ナショナリズムが原因でドイツは英仏露を次第に敵に回し,そして最後に”運悪く”破綻した.
ロシアはブラフのつもりで総動員を始め,それが引き金でドイツは自国を守るためフランスに先制攻撃をかけ,イギリスはベルギーを渡さないために参戦し,最初の原因だったはずのオーストリアは,何が起こってるのか分からないまま流されていく.
ロシアは,対墺動員だけなら恐らく戦争はなかったが,それではドイツに対し無防備になる.
ドイツはシュリーフェン・プランの都合上,ロシアが対独動員を始めたら自動的にフランスに宣戦するしかなかった.
ニコライ2世とヴィルヘルム2世の往復電報には,戦争をする気も無いのに,互いの事情がよく分からず,戦争に向かっていく悲哀がよく表れている.
【質問】
第1次大戦は,軍拡競争の果てに,それが原因で戦争になった例だと言えるのでは?
第一次世界大戦前のイギリスとドイツの建艦競争が,イギリスのドイツに対する猜疑心を高め,容易に発火しやすい状況を作り出したのでは?
【回答】
第一次大戦の開戦原因に英独関係はごく小さい関係しかないでしょう.
英国がどっちに付こうが,仏露に攻め入ることはドイツの既定路線でしたから.
少なくとも,シュリーフェン計画の内容を見る限りではそうです.
ゆきかぜまる & JSF(青文字部分) in
mixi
黄文字:補修部分
【質問】
1914年にサラエボで,オーストリア皇太子がセルビア人テロリストに暗殺されなければ,第一次世界大戦は起きなかったのか?
【回答】
「第一次世界大戦」はともかく,オーストリアとセルビアの戦争はほぼ不可避だったのではないだろうか.
オーストリア皇太子・フランツ・フェルナンド大公の暗殺は,口実であり,本質的な理由は,バルカン半島における,ナショナリズムの台頭・高揚であった.
以下,ナイ教授の文章を引用.
「最終的にオーストリアはセルビアに対して開戦するが,セルビア人テロリストによるフランツ・フェルディナンド大公の暗殺が,その理由だったのではなく,セルビアを弱体化させ,バルカンのスラヴ民族のナショナリズムの磁力の中心にさせまいとしたことが理由だったのである.」
「オーストリアの参謀総長,コンラート将軍派,明確にその意図開陳している『暗殺への復讐ではなく,まさにこの理由で,オーストリアはセルビアに対し剣を抜かざるを得なかった(中略)我が帝国は,首筋をつかまれていた.絞殺されるのを許すか,最後の力を振り絞って滅亡を阻止するかの選択に迫られていたのだ』ナショナリズムによる帝国崩壊(の懸念)が,戦争の親の直接原因であった」
また,これが世界大戦に発展したのは,ドイツの「シュリーフェンプラン」が,鉄道の発達により,破綻するという,ヴィルヘルム二世の恐怖が(自業自得ではあるのだが),オーストリアへの全面支援の表明を呼び,これが世界大戦への発展へのきっかけともなった.
詳しくはジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第3章を参照されたし.
補足.
そもそも,シュリーフェンプランは破綻してると思うんだが・・・シュリーフェンは「軍事」に限定して,作戦を考える人だからなぁ.
「いずれにせよ彼は自らの職務にさえ忠実でありさえすれば,なすべき義務は果たしたと考える軍事技術者,テクノクラートであった.
このことは,二つの問題点を引き起こした.第一は政治に対する無関心であった.参謀総長はカイゼルの筆頭軍事顧問である.だが,総長たるシュリーフェンは,カイゼルの冒険的な世界政策がもたらす軍事的な危機について,警告することもしなかったし,ベルギーの中立を侵犯することが世界世論において,どのような批判をドイツが被るのかについて,顧慮することもなかった」
「戦略思想家事典」(芙蓉書房出版,2003.10),204ページより引用.
ますたーあじあ in mixi
ナイ教授以外の資料で同様の記述を見つけましたので,補足として紹介させて頂きます.
簡単に言うと…
墺「セルビア人が,汎スラブ主義の旗印となって反抗しないかな…」
墺「でもセルビアは友好国だし大丈夫だろ,たぶん」
1903年,親墺だったセルビアの国王が暗殺され,反墺な人が国王になり,セルビアは親仏・親露に走り出す.
墺「…(・・;)」
1906年,墺はセルビアからの豚の輸入をストップ.(←豚戦争)
しかし効果は無く,セルビアは墺から離反…
墺「……(〜〜;)」
1908年,墺はボスニア・ヘルツェゴビナを併合.スラブ系から反発を買う.
墺の軍部「スラヴうぜー! セルビアうぜー!(`Д´メ)」
という経緯があった.
以下引用.
しかし皇帝は不安をぬぐえなかった.彼ら(セルビア人)が不満をつのらせ,そのうち汎スラヴ主義をかかげるようになるのではないか,とおそれたのである.
この恐れは,ボスニア・ヘルツェゴビナを占領・併合した後は,当然大きくなった.
とはいえ帝国がセルビア人を支配している間は,すべてうまくいくように思えた.カールノーキーは1881年にこう述べている.
「いかなる手段をとるにせよ,もしセルビアがわが国の勢力下にあるならば,あるいはもっと望ましくは,もしセルビアをわれわれが支配しているならば,ボスニアと住民をわが国が所有することについても,下ドナウとルーマニアにおけるわが国の立場についても,心配は無用となる.
その場合にはじめて,わが国がバルカン諸国におよぼす権力基盤が固められ,重要な利害が一致するだろう」
しかし1903年,ベオグラードでオブレノヴィッチ王朝が倒され,1906年に豚戦争が勃発し,1908年ボスニア・ヘルツェゴヴィナが併合され,セルビアとロシアがその後屈服すると,帝国がこうした立場からすべり落ちたのはあきらかだった.
こうなると,軍部,とくにコンラートは予防戦争を迫った.
「図説ハプスブルク帝国衰亡史―千年王国の光と影」(アラン・スケッド著,原書房,1996.5),p295
後は長くなるので省略しますが,この本によると,それでもまだコンラートのようなセルビア先制攻撃論を抑えることができており,それが皇太子暗殺によって皇帝も吹っ切れたようです.
またこの本では,帝国のこういったスラブへの恐れを痛烈に皮肉ってます.
同書p291より引用――
しかし最後の最後まで,皇帝軍は戦い抜いた.
11月3日と4日に,皇帝軍のうち35万人から40万人がイタリア軍に降伏したが,ドイツ系オーストリア人はわずか3分の1にすぎない.
残りはチェコ人とスロヴァキア人が83000人,南スラヴ人が61000人,ポーランド人が40000人,ルテニア人が32000人,ルーマニア人が25000人,イタリア人が7000人だった.
イシュトヴァーン・デアークによれば,
「これが最後の皮肉だった.つまり,ハプスブルグ帝国のために戦った最後の軍隊は,スラヴ人とルーマニア人とイタリア人がほとんどだった.理屈のうえでは,これらの人たちは連合国側に立っていたはずなのだ」
(略)
最後まで戦っていた兵士の大半は,南スラヴ人だった.
使徒むーちゃ in mixi
【質問】
皇太子の暗殺は「口実」だったんですか?
【回答】
少なくとも暗殺事件以降,オーストリアは最初からセルビアに戦争をしかけることを前提に最後通牒をしていますね…
以下,「図説ハプスブルク帝国衰亡史―千年王国の光と影」(アラン・スケッド著,原書房,1996.5),p287より引用――
あるハンガリー歴史学者によれば,ティサはセルビアの反応が交渉で解決できると思っていた,という.表向き,ベルヒトールトの言葉からはそうとしか思えなかったのだ.
しかしベルヒトールトは,この最後通牒がかならず拒否されるよう細心の注意を払っていた.かならず戦争に突入させるため,彼はベオグラード駐在大使に「単純明快な」受諾を要求させた.
同じく,p276より引用――
後にベルヒトールト夫人はこう語った.
「かわいそうにレオポルトは,セルビアに最後通牒を送った日には眠れませんでした.セルビアが最後通牒を受け入れるかもしれない,と気をもんでいたのです.夜中に何度も起きあがって,絶対受け入れられないように言葉を変えたり,つけくわえたりしてました」
使徒むーちゃ in mixi
【質問】
「オーストリアとセルビア」の戦争が,第一次世界大戦に発展しない可能性はあったのか?
【回答】
十二分にあったと言える,原因の多くは,皇帝ヴィルヘルムに帰せられるだろう.
1890年代には,ロシアが全ての軍隊をドイツ国境に輸送するには,少なくとも2,3ヶ月はかかった,
この時点では,シュリーフェンプランはそれなりに妥当性があったと言える.
しかし,1910年には,この時間は18日にまで短縮された.
1916年になれば,もはや二正面作戦の時間そのものが消滅し,ドイツは,二正面作戦を放棄せざるを得なかっただろう.
逆の見方をすれば,1914年に暗殺が起きず,1916年まで戦争が起きなければ,ドイツは二正面作戦を放棄せざるを得なかったはずである(それ以降にオーストリアとセルビアは戦争になった可能性は高いが).
イギリスの歴史家A.J.P・テイラーに至っては,戦争さえなければ,ドイツはヨーロッパの覇権さえ握っていたかもしれないと主張している.
ドイツは圧倒的な力を持って,フランス・イギリスはそれに対抗できなくなっていたという理論だ.
余談ではあるが,ヴィルヘルムの問題行動をもう一つ上げておこう.
以下,ナイ教授の文章を引用
「初期にカイザーは,1908年-1909年のボスニア危機の再演を考えていた.
この危機の時には,ドイツがオーストリアを支援し,その結果,オーストリアはバルカンからロシアに手を引かせることに成功した.
1914年にカイザーはオーストリアに全面支援を約束し,これですんだとして彼は休暇をとって出掛けた.
かれが船旅(クルーズ)から帰ってみると,オーストリアは何と彼の残していった白紙小切手にセルビアへの最後通牒を書き込んでいたのである.
これに気が付いたカイザーは,八方手を尽くして戦争が拡大しないようにした.
(省略)
もし彼の工作が成功していれば,この戦争のことを第一次世界大戦という名で記憶するのではなく,1914年8月のオーストリア=セルビア戦争と言う小戦争として記憶することになったであろう」
・・・伍長閣下もそうだが,ドイツ人って・・・.
まぁ,他に要因もあるけど,やっぱりヴィルヘルムに要因の大部分があるとしか思えない.
詳しくは 詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第3章を参照されたし.
ますたーあじあ in mixi
おそらく皇太子の暗殺だけなら,セルビアに適当に粘着して終わったでしょう.戦争しようにも金がありませんので(笑).
最終的に開戦の決断をさせたのは,やはりドイツの支持が取り付けられたからのようです.
ドイツが「ロシアの膨張を食い止めるには今だ」と思ったのと同様,オーストリアも「バルカン問題でドイツの助力を得るのは今しかない,今を逃さず敵(セルビア)を排除すべし」と思い込みましたので…
以下,アラン・スケッド著「ハプスブルグ帝国衰亡史」(原書房,1996.5),p284より.
一九一四年にルーマニアとロシアが和解したことは大きな脅威だが,最も気になるのはドイツの態度で,一九〇九年以来変化したのはまぎれもなかった.
いまではドイツは独墺二国同盟のことなど忘れたようで,トルコとバルカン諸国において,経済面で帝国とはりあっていた.
また戦争の際も援護せずじまいで,援護する代わりに,軍事介入をすべきでないと言ってきた.
オーストリアが介入したので,第一次バルカン戦争後,ドイツはブルガリアに対する支援を拒否した.また領土にかかわる講和条約を実行する責任も引き受けようとしなかった.
そこで一九一四年七月,オーストリアの外務局はドイツへの苦情を書き並べ,もしドイツがやり方をあらためないなら二国同盟は更新しない,と暗に脅しをかけてベルリンに送りつけようとした.
しかしこの覚え書を送る前に,新たな危機が発生した.ボスニアの首都サライェヴォで,皇太子フランツ・フェルディナント皇太子夫妻が暗殺されたのである.
(中略)
開戦擁護の根拠は何か? まず第一に,暗殺事件によってオーストリアは道義的に有利な立場に立ったということがある.
けれども犯人の証拠が不十分である上に,宣戦布告までに一カ月がたってしまっては,有利とはいえない.
戦争は拡大しないだろうという希望もあった.しかしこれも一カ月遅れたためにあやしくなった.
開戦を決定した本当の理由は,ドイツが支持を申し出たことである.
バルカン諸国にかんするかぎり,こんなことは二度とあるまいと思われた.
実際,奇妙にもたがいに状況は似ていた.ドイツも孤立をおそれていたのだ.
もしこのチャンスに乗じて敵をつぶしておかなければ,ロシアが一九一七年に再軍備を最大にすると,ドイツ軍はヨーロッパで自由に動けなくなるだろう,というおそれもあった.
したがって,バルカン諸国におけるオーストリアと,全ヨーロッパにおけるドイツは,ある意味で同じ立場にあると思われた.
こうして,戦力を強めつつある敵国を前に,両大国はできるうちに戦争に突入する決定を下した.これだけではない.
両国が戦争に出ざるをえなかったのは,外交政策がつたないことも大きな理由だった.
【質問】
コンラート将軍の様な勢力と,そうでない勢力が均衡状態だったのですから,「あの時点で」テロが起きなくても,結局のところ,何らかのテロがあり,それに対する紛争がおきた可能性はかなり低いのでしょうか?
【回答】
とても微妙なラインのため,「こうなっていただろう」という予測は,どうとでも言えるので否定も肯定もできません.
ただ…コンラートの対セルビア予防戦争論は,皇太子暗殺が起こるまでは却下されており,防ごうという意図があれば防げたレベルであると思います.
たしかにセルビアは,オーストリア帝国のボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合に反発して軍の総動員までしていますし,それはコンラートの「セルビアはもう武力で分からせるしかない!」という強硬論の原因ともなっています.
しかしセルビアはロシアの助力が得られないと分かると,結局はオーストリア帝国に屈服しています.
「セルビア,必死だな(失笑)」
という態度で臨むのがベターだったのでは.
(それ以前にボスニアを併合する必要性があったかどうかも怪しいですが.ロシアの援助がないとセルビアのボスニア併合はどのみち不可能ですので.)
セルビアにしたところで,軍部は大セルビア主義に汚染されていましたが,政府は必ずしもそうではなく,少なくとも穏健派との協調を目指せば脅威を減らせれる可能性はあったと思います.
外交でロシアとの修復不可能な不仲(とオーストリアは思った)に頭を抱えているところに皇太子暗殺がおきて,
「セルビアに対して道義的に優位に立てる」
「ドイツの援助も得られる」
「前から何かと生意気なセルビアを,徹底的にボコるチャンスがきた」
という誘惑に負けたのだろう,と思います.
しかも,ロシアの参戦で世界大戦になる可能性についてはある程度理解しておきながら,
「相手(ロシア)が世界大戦を避けようとして譲歩してくれるだろう」
という無責任さでした…
注)
・ゼルビアはボスニア・ヘルツェゴヴィナを自国の領土と主張しており,オーストリアの併合(当時すでにオーストリアの行政管理下にあり,名を実にあわせただけとも言える)に対して激しく反発した
※オーストリア帝国史に詳しい方,違っていたらツッコミよろしくです
【質問】
第一次大戦は,列強の植民地の奪い合いで起きた抗争じゃないのですか?
【回答】
植民地を含めた勢力圏のせめぎあいが背景にあったことは確かだが,別に植民地の奪い合いを直接原因として勃発したわけじゃない.
どの国も積極的に戦争を拡大しようとしたわけではなく――積極的に戦争を回避しようと努力した国もないが――,短期戦を想定していたのに,大戦になってしまったという意味で,「何が原因で起きたのか分からない」という評価になる.
大戦に至った経緯が,動員合戦から始まって,戦時計画に基づいてまるで自動的に戦争に突入してしまったような感覚で,各国の当事者の思惑を超えてしまったのだから.
直接の原因はオーストリア皇太子がセルビア人に暗殺されたのが発端だが,オーストリア皇帝が珍しくブチギレしてドイツを道連れに宣戦布告して,意固地になって戦い続けて,そうこうするうちに「敵の敵」やら「味方の敵」やら,いろんな国がわらわらと参加してなしくずしに「世界大戦」化していったから,どうしてそうなったのか当事者にもわからないという結果に.
最初は単なる局地戦で短期決戦で終わるつもりだったのに.
だから,よく言われるのは,
「軍事同盟が複雑に絡み合っていて,一国が戦争を始めるとその同盟国が自動的に参戦することの連鎖反応で,ヨーロッパ全体が戦争になってしまった」
という説明.
もともと,各国の政治家にとっては,その複雑な軍事同盟は戦争をするためというより,できるだけ戦争を回避し,もし戦争が始まったら孤立せず自国に有利に展開させるための同盟のはずだった.
実際に条約や密約に基づいて動員令や戦争準備を始めても,開戦するかどうかは,最後までコントロール可能と考え,また戦争が始まっても都合で停戦は可能と考えていたのに,一旦はじまると各国の軍はそれぞれの仮想的の開戦準備状況に対応して相互にエスカレートしていき,政治家から見ると追い込まれるような形で開戦せざるを得なくなり,あとは収拾がつかなくなったというのが実態.
簡単に言えば,
「敵の敵だから援軍を送ります」
「敵の敵の敵の領地がガラ空き,獲得のチャンス!」
「なにやらわからない連中が来た,攻撃」
「味方だと思っていたのに攻めてきた,全滅させたれ!」
「であの国を滅ぼした暁には分割しましょう」
「貴国は来週から敵国となります,おたっしゃで」
「反乱が起きました,革命です」
「敵の敵の敵に向かって突撃!!」
【質問】
WW1は,いわゆる「帝国主義の戦争」なんでしょうか?(’’*
少なくともおっぱじめたオーストリアには,セルビアを併合する気なんか無く,ただただ脅威を潰したかっただけだし.
動員かけたロシアだって嫌々だし.
ドイツだって頭にあるのは「とにかく勝つには即効で動員」だし.
フランスは受けて立っただけだし,英は独が巨大化してほしくなかったからだし.
ただ途中から参戦してきた連中は,領土拡大のチャンスと燃えていたし,二枚舌もあったけど.
少なくとも列強の間には,最初から列強同士の戦争を望んでいた国なんか皆無だと思う.
【回答】
「戦争を望んだ」かどうかはともかくとして,3B政策やら,モロッコでの領土問題を見ていると,ドイツに関しては,少なくともそう思われてもしょうがないんじゃないかと.
我らがヴィルたんは,そうする事でイギリスへのバランス・オブ・パワーを取ろうとしたんだけど,それがお互いの敵視を深める結果になった・・・と.
オーストリアにしても,自らの「帝国」を維持せんがために「戦争」を仕掛けようとしたのでは?
領土拡張はともかくとして.
【質問】
フィッシャー論争って何ですか?
【回答】
1960年前後,ハンブルク大学のフリッツ・フィッシャーによる第1次大戦期ドイツの戦争目的政策に関する研究に端を発する論争のこと.
それまでの伝統史学が
「バルカン半島の局地紛争が,サラエボ事件を契機に世界戦争へと発展し,ヨーロッパ列強はそれらに引きずり込まれたのであって,特定の国家に勃発の責任を帰することは出来ない」
としていたのに対し,フィッシャーは
「ドイツは第1次大戦の勃発に明白な責任あり」
とのテーゼを立て,宰相ベートマン=ホルベーグの戦争目的政策からルーデンドルフの併合政策,第2次大戦期の侵略政策にいたるまでのドイツの積極的な紛争への関与を提唱.
このドイツ第二帝制から第三帝国までの連続性を認めるフィッシャー論は,ヒトラーと第三帝国は否定するが,ビスマルクと第二帝制を擁護するドイツ伝統史学の潮流とは対立する思想であり,保守派の歴史家からリベラル派まで広く批判を受けることになった.
西ドイツでは連邦議会や政治家までもが論争に介入し,戦後(冷戦時代)ドイツにおける世代間のナショナリズムの変化と伝統史学に対する史料批判,新たな社会史の構築の必要性を象徴する事件となった.
詳しくは『歴史学事典6』pp.540-541を参照されたし.
【質問】
第一次世界大戦が始まった当初,国民は「数週間で戦争は終わる」と思っていたそうですが,これはなぜなのでしょう?
当時は,戦争というのは相手国を滅ぼすまで戦わなかったということなのでしょうか?
それとも相手が非常に弱いと誰もが考えていたのでしょうか?
【回答】
戦争を始める時は誰でも,自分の国にとって都合のいい筋書きを想定しているのです.
「クリスマスまでに終わる」といって始まったはずの戦争が,何年も何年もダラダラ続くなんて話はよくあることで,第一次大戦に限った話ではありません.
第1次大戦の場合,戦争が長期化した一因に兵器の,特に野砲の性能向上があるそうです.
そのせいで塹壕から出ないから戦争が長期化.
>当時は戦争というのは相手国を滅ぼすまで戦わなかった
というのは,あながち間違いではありません.
日露戦争,米西戦争,ボーア戦争,バルカン戦争と,第一次大戦前の欧米の戦争は,相手国を滅ぼすまで戦ったりはしませんでした.
(アジアやアフリカで植民地を建設する時は別.その場合は容赦なく在地勢力を滅ぼしましたが)
【質問】
第一次世界大戦においてドイツやフランスは,シュリーフェンプランやプラン17のように,かなりトンデモな戦争計画を持っていましたが,他の国はどうだったのでしょうか?
【回答】
差はあれど,第一次世界大戦に参加した国々は似たような戦争計画を持っていた.
共通していたのは皆,総動員の計画が第一であった点.
シュリーフェンプランやプラン17が他国と比較して特異なのは,動員後,積極的に軍を敵国に進軍させている点.
他の国は動員後は国境線に配備させる程度だった.
ただし,イギリスは明確な戦争計画や動員の計画は持っていなかった.
強いて言うならフィッシャー提督のバルト海作戦が戦争計画のひとつと言えるかも.
個人の提案と言うか妄想に過ぎないが.トンデモ具合は前述のものを超越している.
google検索してみれば,その詳細は分かる.
オーストリアとか,ロシアも開戦後どうするかという計画はあったものの,基本的に「鉄道を用いた動員計画」が全てだったと言われております.
どうやら普仏戦争で,ドイツが鉄道を利用して動員しフランスに勝ったのがよっぽど印象に強かったのか,とにかく動員さえ敵国より早く終われれば戦争に勝てると思っていた模様.
まあ,4年間も塹壕戦,総力戦が続くとは誰も想像せず,ナポレオン時代みたいに大平原に大軍が終結して,一二回会戦をやれば勝敗がつくと思っていたので仕方ないですが.
とりあえず一番有名(であろう)参考文献:
バーバラ・タックマン「八月の砲声」
ヨーロッパ各国が大した見識もなしに大戦になだれ込む様子がよく分かります..
【質問】
第一次世界大戦であれほど戦線が膠着したのに,なぜ双方とも講和や和平をしようと思わなかったのでしょうか?
講和の機会や妥協点はなかったのでしょうか?
【回答】
妥協点は低地諸国(ベネルクス三国)の回復にあったと思われる.
イギリスの参戦を招いたのが中立国ベルギーへの侵入だから,ここからのドイツの撤退がイギリスにとっての交渉のスタート地点.
しかし,当時ドイツを牛耳っていた参謀本部の連中は,占領地を手放そうとしなかったから,話にならないと言う事.
彼らは,軍事的な成功が外交的な成功に繋がると信じていた.
つまり,彼らはこの期に及んで,パリを落とし,フランスを屈服させようと考えていた.
いかにも軍人然とした考えだが,大きな誤り.
戦略が外交を縛り続け,長々と戦争が続く事になった.
【質問】
http://kiwi-us.com/~knp3/judge/cs.shtml
によると
『第一次世界大戦に中国が参戦したのは一般常識』
らしいのですが,そうなんですか?
【回答】
19世紀末から中国本土にドイツの租借地がありました.
中国が対独国交断絶と宣戦布告となると,当然,中国国内に於けるドイツの諸権益は没収されることになります.
1917年8月14日に中国は三国同盟の独墺に正式に宣戦布告をしています.
その付属書で日本に対し,
「支那と独墺両国との間に締結せる一切の条約は,何種の事項に関するに論無く等しく一律に廃止し,1901年9月7日締結の条件及び其の他同類の国際協議にして支那と独墺両国との関係あるものに至りては同時に廃止し,尚支那政府はハーグ平和会議の条約及び其の他国際協約に対しては戦時文明皇后に関する一切の条款を遵守して渝ざる旨を以て生命致候」
としています.
つまり独墺両国と中国間の条約は無効で,日本支配の山東半島利権は総て中国に帰すと言うことを言ってたり.
ちなみにその前の2月6日の時点で,米国大使が中国に国交断絶を進言しています.
この時点で宣戦布告をしていたら,対華二十一箇条は無かったかもしれませんが.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
【質問】
第一次世界大戦の時のスイスの中立政策は真っ当な中立だったのでしょうか?
第二次世界大戦の時の中立のようにドイツに肩入れしたりとダーティーだったりしたのでしょうか?
【回答】
一次大戦中のスイスは結構まっとうに中立国として機能しています.
戦争当事国の外交官も自由に出入りできるため,各国の公式/非公式の会談の場(ついでに言えば亡命者とスパイもいっぱい)として機能していました.
ただ,その代償として,フランス系住民とドイツ系住民の緊張が,けっこうヤバいレベルまで高まったり,国境警備に大幅に動員した結果,労働力の低下や戦後に退役した兵士の失業問題が発生したりしています.
軍事板
【質問】
WW1で毒ガス・戦車・飛行機が登場しましたが,これら新兵器は戦争の勝敗を左右するものだったのですか?
もし,正しいのであれば,どのようにでしょうか?
もし,正しくないのであれば,なぜでしょうか?
【回答】
いずれも当時決定打とはなっていない.
毒ガス:
膠着する戦線を打開するために開発された.致死性の猛毒ガス(青酸ガス)は持続性を持たせられず,ホスゲン,イペリット等が多用された.死者はそれほど多くない反面,負傷者は多数(数十万人単位.ヒトラーもその一人と自称している)で,効果は絶大.反面,条約で禁止されるまで延々とお互いに使用しあう泥仕合だったので,どちらか一方の勝敗の決定打とはいえない.
戦車:
敵塹壕を強行突破するために開発された.イギリスのマークIが元祖で,ソンム会戦で多少の戦果を挙げるも,主に信頼性にまだ難があったため,大局を変えるには至らず.
ただ,心理的効果は大きかったらしい.
別の流れとして,ルノー軽戦車があるが,こちらは終戦半年前位にようやく実戦投入された程度なので,こちらも大きな影響を与えてるとは思われない.
1919年まで戦争が行われていたら,戦車はまた違った評価になったと思う.
ドイツ軍の最後の反攻作戦が失敗した後,戦車隊を中心とした逆襲が行われている.
また,フラーなどの手によって攻撃計画「1919計画」が企画され,上層部で承諾を得ていた.
もし仮に反乱が起こらずに1919年までドイツががんばっていたら,戦車は戦争を終わらせた決戦兵器として名を残し,その後の戦術理論も違ったものになっていたかもしれない.
飛行機:
最初は偵察機として運用され,その行程で敵戦線にちょっとした爆弾を落とす「嫌がらせ爆撃」が発達して爆撃機へ.
それを撃ち落すための戦闘機が生まれ,戦闘機同士の空中戦が発生.
が,基本的に地上軍と連携して動く戦術そのものが未発達だったので,こちらも戦局を変えるには至らず.
なお,その後,破竹の侵攻速度を持った陸空共同のドイツ電撃作戦や,一式陸攻でPOWを葬ったマレー海戦までは,まだ飛行機は軽く見られていた.
あの強大な戦艦が,ぶんぶん飛び回る飛行機「ごとき」に沈められるというのは,当時としては凄い衝撃だった.
まあ戦車にしろ戦闘機にしろ,それまでに使った事がない代物なので,どう使えば効率がいいか,どの程度使うとどの程度で故障が出て,どの程度お手入れに手間がかかるか等等,全く未知数だったのです.
要するに,機械はできたけど運用ノウハウがゼロで,これから実地で学習しなきゃならない状態だったのです.
純粋に考えてみて,出てからたった数年しか経ってない複雑な兵器を,全面に押し出して戦う訳が無い.実戦経験が無いんだし.もともと軍隊は保守的なもの.
戦車にありったけのリソースを投入して勝てる保証もないから,段階的に導入するのが妥当なのでは.
で,その結果まだまだ故障が多くて課題が残った,と.
【質問】
第一次世界大戦の時に流行したスペイン風邪は,大戦にどれくらい影響を与えたのでしょうか?
【回答】
大流行で,ただでさえ公衆衛生のよくない前線で猛威を振るったと伝えられている.
http://ww1.m78.com/honbun/kaiser%20battle.html
を参照.
両軍ともインフルエンザによる被害は甚大で,戦闘単位として不適切なまで兵員が減少した部隊が続出した.
ドイツは予定していた攻勢の延期を考えるくらいだった.
戦争の遂行に悪影響があると恐れたのか,各国とも被害の情況を隠し,アメリカ以外に正確な被害の記録は残っていない.
全世界で2000万〜6000万人が死亡.
大戦による栄養状態の悪化が,流行に拍車を掛けた公算が高く,この事が大戦末期に両陣営で蔓延した厭戦気分に影響した可能性は高い.
【質問】
ナンセン・パスポートとは?
【回答】
国籍を失った難民達に外国へ出ることを認めるパスポート.
第1次大戦後,難民対策の一つとして,著名な科学者・探険家のフリチョフ・ナンセンによって始められた.
以下引用.
第1次世界大戦のときには多くの人が犠牲になり,自分の家や国を追われた人達もたくさんいました.
国際連盟は,この人達の援助活動をしなければならないと,ノルウェーの北極探険家のフリチョフ・ナンセンを初代の難民高等弁務官に任命したのです.
ナンセン高等弁務官は大変活動的で,探険家として科学者として,ヨーロッパ中の尊敬を集めていました.
彼は各国の政治的な指導者に会い,「難民をほっておいてはいけない」と訴えました.
この活動によって,大戦の捕虜達,ロシア革命で国外に逃れた人々,ロシア国内の飢餓難民,トルコに逃れたギリシャ人など数百万人が援助を受けたのです.
また,もう一つナンセンの活動で大きなものは,国籍を失った難民達に外国へ出ることを認める「ナンセン・パスポート」を発行したことです.
彼の死後もこの機関は活動しましたが,他にも幾つかの機関がそれを受け継ぎ,1951年にUNHCRが国連総会の決議によって設立されたのです.
野中聖子〔国連難民高等弁務官東京事務所広報室職員〕
from 「地球行ボランティア11人」
(つなん出版,2005/2/15),p.39
【質問】
1916年のカザフ蜂起はなぜ起こったのか?
【回答】
ロシア人農民の大規模な入植と,第1次大戦で戦場での労役を課せられたことによるという.
以下引用.
カルムイク人やバシキール人に続いて,ロシアは西アジアに住む中心的な遊牧民と対峙した.
彼らは現在カザフ人と呼ばれているが,帝政時代にはロシア人から「キルギス人」と呼ばれていた.
これらの人々の抵抗も1850年までに平定され,その後,その地域でも入植が始まった.
カザフ・ステップ地帯の植民地化は1890年代に急激に早まり,1905年の革命後にはさらに早まった.
「無人」のカザフ・ステップに対する大規模な植民地化は,20世紀初めの体制側にとって,ヨーロッパ・ロシアやウクライナの各地で人口過剰な農民を貧困から救い,それによって帝政ロシアの農業政策に対する農民の不満に対処するという計画の,極めて重要な要素だった.
1914年に先立つ10年間に,300万人のスラブ系移民がカザフ地域に押し寄せた.
1891年のいわゆるステップ法によって,遊牧民の追い立てに道が開かれた.というのも,先住民には一人当たり僅か40エーカーの土地しか与えられず,遊牧生活を送るには,とても不充分だったからだ.14
この結果,1916年に先住民による蜂起が発生したが,政府がカザフ人を徴用して<第1次大戦の>戦線での労役に就かせようとしたことも,原因の一つだった.
蜂起は鎮圧され,20万人以上のカザフ人が殺害された他,それ以上の人々が国境を越え,貧しい中国領トルキスタンへと逃れていった.
トルキスタンでは入植者の存在は,まだ大して問題化していなかった.
〔原注〕
14. M.B.Olcott, The Kazakhs, Hoover, Stanford, 1987, p.86.
Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)下巻,p.33
【質問】
もしロシア革命がなかったら,ロシア軍はドイツを破ることができただろうか?
【回答】
その可能性は非常に高かったようである.
以下引用.
戦争がロシア帝国を崩壊に導いたが,これは軍が敗北したからではなく,銃後が崩壊したからだった.
1917年の革命に先立つロシア軍の戦いぶりは,西側同盟諸国に引けをとらなかった.
たとえロシア軍が概してドイツ軍より劣勢に立っていたとしても,フランス軍やイギリス軍にも同じことが当て嵌まった.
さらに,1916年のロシアの経済的・軍事的業績にも目を見張るものがあった.46
ブルシーロフ※はオーストリアとドイツの軍を敗走させたが,それは1918年以前の協商国側の攻撃では最大の戦果だった.
さらに,オスマン軍に対してロシア軍は,イギリス軍よりも遥かに善戦した.
イギリス軍が1915年にゲリポル半島とメソポタミアで敗北したのとは対照的に,ロシア軍はオスマン軍に連戦連勝を収め,ロシア革命が発生した時点で,アナトリアに深く侵攻してもいた.
1917年に革命が勃発したのは,一つには銃後での戦時経済の苦境のためであったが,それ以上に,殆どのロシア人エリートや都市部の大衆の間で,帝政への信頼が完全に破綻したからに他ならない.
皮肉なことに,1917年2月時点のロシアには,戦争で勝利を収めるあらゆる可能性があった.
1916年にイギリスの軍事的な潜在能力がようやく日の目を見たことで,ドイツへの圧力は圧倒的になっていた.
さらに,敗戦の可能性に絶望したドイツは無制限潜水艦戦に突入し,その結果,間もなくアメリカの介入も招いた.
これにより,協商国側の最終的な勝利はほぼ確実になったのである.
「勝利を手に掴みながら,その国(ロシア)は地に倒れた」47
とのチャーチルのコメントは正しかった.
はたして帝政が,第1次大戦後に避けられそうになかった政治的危機を切り抜けられたかどうか,また戦後に体制が崩壊した場合,ロシアの政治がどのような形態をとったかを評価するのは難しい.
同様に,ロシアが戦勝国として参加したであろう,第1次大戦後の国際体制の特質や長期安定についても評価は難しい.
しかし,聡明で保守的な閣僚達が常に予言していたように,君主制の正統性,軍や警察の抑圧的な力がなかったら,ロシアの社会と経済のエリートは革命的社会主義の猛攻撃に耐えられなかっただろう.
既に述べたように,もしこのようなプロセスが1914年以前の平時に起きていたら,ドイツ軍を先頭にヨーロッパの一致した軍事介入が続いていた公算が大きかった.
金融的にも地政学的にも列強諸国がロシアに有していた権益は極めて大きかったため,ロシアがヨーロッパの資本主義およびバランス・オブ・パワーから脱退し,債務の支払いを拒み,おまけに自国を国際的な革命の基地とすることは許せなかっただろう.
さらに,ロシアのエリートも戦争で弱体化していなかったため,社会主義の革命政権が国内外の反革命に直面したまま,長期に渡って権力を掌握できた可能性も殆どなかった.
〔訳注〕
※ ブルシーロフ=1853-1926.ロシア軍人.第一次大戦で南西戦線軍司令官を務め,オーストリア軍を破った.二月革命後は臨時政府から軍最高司令官に抜擢された.
〔原注〕
46 例えばファーガソンは,「ロシアが生産性を増加させた点から見れば……ロシアの戦時経済は最も成功を収めた」と述べている.Ferguson, Pity of War, ch.9, p.263.
47 W.S.Churchill, The World Crisis, 1911-1918, Four Square Books, London, 1964, p.776.
Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)下巻,p.148-149
【質問】
ポーランドにおけるボルシェヴィキ兵の士気は高かったのか?
【回答】
以下の記述を信頼するならば,「弾薬と食糧は殆ど底を尽いていた」にも関わらず,「執拗な抵抗」ができるほどには高かった模様.
以下引用.
ポーランド戦線で厳しい試練に晒されたボルシェヴィキ部隊の残兵が,戦前,スイスのある実業家がコヴォに創設した古い織物工場に立て篭もっていた.弾薬と食糧は殆ど底を尽いていた.
それでもかなり豊かで,彼らの貯えはその後,私達を救出したポーランド師団の到着まで持ち堪えるのを助けてくれた.
ヴェルナー織物工場は浸水地域の真ん中に位置していた.
くすんだ空の下の,ひどく屋根の低い格納庫のような建物の列が,今でも目に見えるようだ.
灰色の川水にもう浸されていたが,最後の雷雨以来,増水は災害に転じていた.
沼の鴨を追う猟師のように,臍の辺りまで浸る泥の中で,何人かの部下が溺れた.
再び水位が上がったとき,赤軍の執拗な抵抗がやっと止んだ.5年間に及ぶ悪天候と,無人のまま打ち捨てられていたために腐ってしまった一部の建物が押し流された.
その工場を襲撃し占領することが,まるで敵への古い恨みを晴らすことであるかのように,部下達の攻撃は熾烈を極めた.
Marguerite Yourcenar ユルスナール著「アレクシス とどめの一撃 夢の貨幣」
(白水社,2001/10/10),p.199-200
【質問】
第一次世界大戦では毒ガスも戦車も飛行機も決定打となっていないそうですが,それなら何が決め手となって勝敗が決まったのでしょうか?
【回答】
武器弾薬の製造能力,人員の動員数,それらを動かすインフラ,資本力と言った総合的な国力,その全てが世界最強であったアメリカが参戦したから連合国側が勝利しました.
厳密には無制限潜水艦作戦に怒ったアメリカが参戦した際に,
「アメリカが本格的に参戦したら絶対負ける
→なら今の内に勝負を決めないとマズイ」
と言った感じで,焦ったドイツが攻勢を仕掛けて失敗してしまったのが,決定的な敗因となっています.
この敗北で,攻勢前はほぼ互角だった兵力差が一気に逆転してしまった為,銃後の反乱を含めて一気に前線が瓦解していしまいました.
第一次世界大戦において,極一部の例外を除いけば攻勢を仕掛けた側が負けると言う構図が展開されていますので,その不文律を犯さざるを得ない状況に追い込まれた時点で,ドイツの敗北は決定付けられていました.
ue◆WomMV0C2P in 軍事板
詳しいことは,A.J.P.テイラーの名著が出てるんで,それを読みなさい
軍事板
【質問】
第1次大戦後当時の集団安全保障の概念は?
【回答】
アメリカ大統領,ウッドロー・ウィルソンが考えた,国際秩序のシステムのことだった.
基本的にリベラルの考え方で,今まで主流だった「バランス・オブ・パワー(均衡勢力)」に対して,国際的なルールを作り,多数の国で「非侵略国家連合」の様なものを作り,侵略国家へ,この連合をもって対抗しようと言う考えである.
根底には,第一次世界大戦があまりに悲惨であり,バランス・オブ・パワーを維持するための戦争に,世界は耐え切れないというところから出てきた考え方だろう.
ただ,色々な問題点がある.
1.そもそも,提案したアメリカが集団安全保障の国際連盟に参加しなかったこと.
2.各国家の主権を認めすぎたゆえ,拒否権が各国にある状態であり,強制力にあまりにも乏しかったこと.
3.全会一致が原則であり,権力の発動としては利害調整の作業があまりにも煩雑なこと
まぁ,1.の時点で,相当怪しい体制ではあったと思う.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ著「国際紛争」第4章を参照.
ますたーあじあ in mixi
【質問】
アメリカは国際連盟提唱しといて,上院の反対で参加しませんでしたが,この出来事の原因は授業では「伝統的相互不干渉」とだけ教えられました.
他にも原因はあるんですか?
【回答】
国民レベルで存在する大戦への幻滅を,
一部の孤立主義者が政治的に争点化した.(伝統的相互不干渉≒孤立主義)
さらに共和党が,それを20年の大統領選に向けて,民主党政権批判として国政レベルで動員した,ということじゃないのかな?
(ここで悪役は上院外交委員長ヘンリー・カボット・ロッジ.)
アメリカが国際連盟に不参加だったのは,南北アメリカの問題に域外国家の口出しを許すことになることをいやがったためでしょう.汎アメリカ主義です.
アメリカは実は,好き勝手に介入して自国の利益を優先させていました.
この現実に,理想主義が破れたのです.
汎ヨーロッパ主義を唱えたクーデンホーフも,連盟に対しては懐疑をもっており,域外の大国,日本やアメリカが欧州に介入してくるとして批判的でした.
汎ヨーロッパ主義というのはヨーロッパ・ナショナリズムです.これもまた孤立主義といえる.
日本が国際連盟に参加したのはたぶん失敗でしょう.
現実に理想がやぶれて脱退することになったわけですが.最初から参加しなかったほうがよかったと思われます.
脱退したのは,大アジア主義的主張が強くなったからですが,これは東洋モンロー主義ともいわれていました.孤立主義ですね.
また,ジョゼフ・S・ナイも,アメリカがモンロー主義に走ったからだとしている.
アメリカ人は「平常」を望んでいた.
アメリカの利害は西半球に限定して,もつれた同盟関係によって,巻き込まれるのを嫌った.
国際連盟参加反対の指導者的立場たるヘンリー・ガボット・ロッジは,国際連盟憲章16条がアメリカの主権侵害にあたると主張した.
以下,ナイ教授の文章を引用
「上院の決定や国民の意思ではなく,集団安全保障を実施しようとする国際連盟の意志に基づいて,アメリカが遠方の戦争に巻き込まれるかもしれないとロッジは疑ったのである」
また,ウィルソンがロッジとの論争を頑なに拒否したのも問題だったのだろう,ウィルソンの言い分にも,それなりに正当性があったはず.
以下,ナイ教授の文章を引用.
「ロッジの孤立主義は,ヨーロッパでのバランス・オブ・パワーに対するアメリカの長年の態度を反映していた.
ヨーロッパ諸国はバランス・オブ・パワーの名の下で汚らわしいことをしており,アメリカはそこまで身を落としてはならないというのである.
しかし実際には,アメリカはイギリス艦隊の影でただ乗りしていたから,19世紀にバランス・オブ・パワーを無視することができたのである.
事実,アメリカは中米やメキシコ,キューバと言った弱小の隣国の問題に干渉する時には,孤立主義とは無縁であった.
第一次世界大戦の終りに際し,アメリカは2つの形態の道義主義に引き裂かれ,ヨーロッパのバランス・オブ・パワーに対する孤立主義の衝動が勝利した.
その結果,第一次世界大戦でバランス・オブ・パワーの帰趨を決したこの国は,戦後秩序への責任を放棄したのである」
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ著「国際紛争」第4章を参照されたし.
ますたーあじあ in mixi
【珍説】
〔パリ講和会議で〕日本は「人種平等案」を提出した!
これは歴史上初の快挙で,それまでの白人専用の伝統的国際法の秩序を打ち破る観念だった.
大戦には,各国の植民地人やアメリカの黒人など多くの有色人種が参戦.
常に第一線に立たされ,負傷しても治療は白人優先にされ,有色人種から死んでいった.
また,アメリカの移民排斥問題も切実で,日本は,この機にぜひとも人種平等の原則を打ち立てたかったのである.
ところが「人種平等案」は賛成多数で通過したのに,米英が強硬に反対し,全員一致でなければ認められないと,強引に否決してしまった!
ウィルソンは「14ヶ条」で「民族自決」を提唱していたが,それはあくまで東欧の民族だけで,アジア,アフリカの民族など眼中になかった.
しかも大統領選挙のときにはこんなことを言っていた.
「私は移民禁止政策を支持する!
白色人種と融合しない人種から同質の住民を作ることはできない!」
世界で初めて「人種平等」を提唱したのは日本であり,それを力ずくで潰したのがアメリカ,イギリスだった!
小林よしのり「戦争論」3(2003/7),p.211-212
【事実】
人種平等決議を平和条約に盛り込むことを拒否した張本人はオーストラリアです.
それは国防上の見地に基づくものでした.
オーストラレーシア人の立場は〔殆ど外的脅威のないカナダとは〕異なっていた.
地域の果てで孤立した,比較的小規模の白人社会だったため,イギリスがヨーロッパの列強諸国,そしてとりわけ日本から防衛してくれることを望んでいた.
オーストラレーシアの繁栄は程度の差はあれ,白人以外の先住民から収奪し,アジアからの労働者の移住を厳しく排除することに依拠していたため,世界で唯一の有色人種の列強国である日本の興隆を恐れるのももっともだった.
オーストラリアはベルサイユ条約策定のパリ講和会議で,日本が呼びかけた人種平等決議を平和条約に盛り込むことを拒否した張本人であった.
Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.223
オーストラリアも当時は英国領でしたから,「英国が強硬に反対し」たと言えないこともありませんが,そういう意図で書いたのだとしても,事実の歪曲にしかなりません.
ちなみに,移民禁止の件にもツッコミどころがあるのですが,それはまた別の話.
【質問】
第1次大戦後,ドイツが天文学的賠償金を支払う事となったのですが,実際の支払いはどのような形で行われていたのでしょうか?
想像では
1 ドイツマルクの紙幣を直接戦勝国に引き渡していた.
2 ドイツマルクを戦勝国の貨幣に両替してフランなりポンドなりで引き渡した.
3 賠償金の額に見合うだけの金銀・資源・製品等を引き渡していた.
のどれかだと思うのですが.
【回答】
最初の頃は3.の現物支払いです.
特に鉱工業製品による支払いが行われており,有名なところでは,フランスによるデュッセルドルフ,フランクフルト地区の保障占領とか,ライン川西岸地区,ザール地方の国際連盟による3地域分割で,最長15年に及ぶ占領と,炭田の所有権,採掘権のフランスへの譲渡が行われています.
このほか,現物支払いでは,1,600t以上の商船,漁船の1/4,家畜,石炭,ベンゾール,機関車,鉄道車輌,機械,海底電線などがあります.
現物支払い分以外は,2,690億金マルク,これは42ヶ年の年賦で国家財政より支出します.
但し,ドーズ賠償協定の締結後は,米国からドルの借款を受け,それを短期資金市場で運用し,租税収入と共に年賦を整え,返済していました.
従って,2.の変形でしょうか.
【質問】
第1次世界大戦後,ドイツではどのような少数民族問題が起こったか?
【回答】
現在,ドイツ連邦に於て国内の少数民族として認められているのは,4つの民族です.
これらの民族は何れも欧州評議会に於ける『国内少数民族保護枠組条約』の対象となっており,彼らの使用する6つの言語は,『欧州地域言語・少数言語憲章』に基づき,様々な保護や援助対象となっています.
まずは,1864年以来ドイツ領となったシュレスヴィヒ・ホルシュタインに居住するデンマーク系ドイツ人約5万人.
2つ目が,オランダのフリースラントとドイツの東フリースラントに1世紀頃から居住し,7世紀に今はシュレスヴィヒ・ホルシュタイン州の一角であるヴィーダウ川,アイダー川間の細長い海岸地域とハリゲン群島から成る北フリースラントに移り,10〜13世紀頃にエムデン南方のザーターラントに移住したフリース人で,彼らは居住地域により北フリース語とザーターフリース語を話し,両地域で2万人(自分をフリース人と考えている人は7万人強ですが).
3つ目が14世紀初頭の文書から登場し,大都市の人口密集地や全国各地の比較的小規模な街でも暮らしているシンティ・ロマ人で,彼らは所謂,ジプシーと呼ばれる人々で,ドイツ籍を持っているのは約7万人おり,彼らはロマニー語を話します.
因みに,世界ロマ民族会議の本拠地は,ドイツのハンブルクにあります.
最後が,旧東ドイツ地域であったカソリックのスラブ系民族であるソルブ人で,7世紀にゲルマン民族が移動した後のエルベ川とザーレ川に進出し,ドイツ東端のポーランド国境に近いラウジッツ地方に住んでいる人々です.
この地域は1815年以来,ブランデンブルグ州とザクセン州に分かれており,ブランデンブルグ州のニーダーラウジッツには,ニーザーソルブ語を話す2万人が住み,ザクセン州のオーバーラウジッツには,オーバーソルブ語を話す4万人が住んでいます.
第一次大戦で帝政ドイツが敗北すると,ポーランドやチェコスロヴァキアが独立すると共に,これら少数民族のうち,ソルブ人はチェコ人やポーランド人の独立を見て,ソルブ国の独立を求めますが,余りに人口が少なく連合国からは独立要求を無視されてしまいます.
ワイマール共和国でも,その地位の向上を求め,ドイツ少数民族連合を1925年に設立するなど,その動きは当局を刺激し,1923年には政府部内にWendenabteilungという対ソルブ人監視部局を設置し,これが後にナチス台頭と同時に,ソルブ人の弾圧に繋がり,1935年からはバチカンとの政教協約で保護されていたカソリックの出版物以外,全てのソルブ語文書の出版が禁止され,焚書も行われ,大戦中は,ソルブ人の強制移住も検討された程でした.
一方,シュレスヴィヒ・ホルシュタインとデンマークとは,元々ケーニヒス・アウ川の線が国境線でした.
Versailles条約の結果,この地域の帰属は3回の住民投票で決められる事になりました.
1920年2月10日,ケーニヒス・アウ川の線とクラウゼン線(トンデルン南部とフレンスブルク北部を結ぶ線)の間の地域に於て,1900年1月1日以前に生まれ,以来同所を居所とする者を対象に,地域の全投票を一括集票する住民投票が行われます.
その結果,7万5183票対2万5329票でデンマークへの帰属が認められました.
北部農村部では90%の賛成票を集めましたが,南部では半数を辛うじて超えた地域やドイツ票多数の地域がありましたが,一括集票の為異議は認められませんでした.
3月14日,今度はクラウゼン線の南側北半分の地域で住民投票が行われました.
これは町や村毎に集計する方式で行われ,こちらは,5万1303票対1万2859票でドイツ残留に賛成しました.
更にクラウゼン線の残りの部分でも住民投票が行われる事になっていましたが,これは結局デンマーク側の要請で取り止められ(飛び地になりますから),クラウゼン線を以て,国境線とすることになりました.
これが現在でも,ドイツとデンマークとの国境線になることになります.
この結果,ドイツにはデンマーク系ドイツ人が残り,デンマークにはドイツ系デンマーク人が残る事になりました.
そのデンマーク系ドイツ人に対しては,1920年にデンマーク首相Niels
Neergaardが,
「我々はあなた方を忘れない」
と呼びかけ,以後,現在に至るまで様々な援助を行っています.
1999年でも,Poul Nyrup Rasmussen首相は,デンマーク系ドイツ人と会談した時に,
「あなた方が我々と繋がる限り,我々もあなた方と繋がっている」
と連帯を表明しています.
こうした援助を受け,デンマーク系ドイツ人は,域内ではシュレスヴィヒ連合という民族文化団体と立ち上げ,デンマーク復帰運動を起こす事になります.
ところが,ソルブ人と同じく,1933年に発足したHitler政権は少数民族の動きを激しく弾圧し,彼らの言うアーリア系種族として少数民族としての扱いは受けたものの,デンマーク人としてのアイデンティティは押し殺す事を余儀なくされた訳です.
これが,彼らをしてドイツ敗戦後に様々な動きを見せる事の伏線になります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年07月08日21:43
◆◆オーストリア・ハンガリー
【質問】
なぜオーストリア=ハンガリー軍は絶えず予算不足だったのか?
【回答】
ハプスブルク帝国軍は民族よりも王朝や帝国のために存在したため,ハンガリー人は,軍が自分達に向けられるのではないかと恐れを抱き,そのためにハンガリーの議会・政府は一貫して,少なくとも1912年まで軍事支出を故意に抑えたからだという.
以下引用.
ハンガリー人が犯した最大の罪は,帝国の対外政策や国際的立場を弱めていったのと同時に,帝国の軍事力の土台までも劇的なまでに突き崩していったことである.
ハプスブルク帝国軍は民族よりも王朝や帝国のために存在したため,ハンガリー人は軍を嫌い,自分達に向けられるのではないかと恐れを抱き(この懸念は,全く非現実的というわけではなかった),フランツ・ヨゼフから譲歩を引き出そうとして,絶えず軍を資金不足に陥らせた.
「1850年代から1914年まで,オーストリア・ハンガリーの軍事予算は,ヨーロッパ全ての列強諸国の中で最少だったが,帝国経済の財政能力から言っても極端に少なかった.
……ハンガリーの議会・政府は一貫して,少なくとも1912年まで軍事支出を故意に抑えたのであり,それをやめたときには,もはや遅すぎたのだった」34
軍が弱かったために,帝国の支配者はますます悲観し,逆に敵国はますます希望を募らせていった.
国家が生命力を維持していくための「国家のエゴイズム」の力強さが称賛されていた時代において,軍の弱さは,民族紛争が引き起こす危機感や不安感をいっそう強めた.
帝国の支配者達は,旧来の社会的エリートの出身者として,近代性は自分達の敵であるとか,未来に希望はないかもしれないと疑ってかかるきらいがあった.
こうした要素全てから,再び権力を主張しなければならない,あるいは,長期的な災難を避けるためには,内外の敵の集団を威圧しなければならない,といった感覚が強まり,これら全ての感情が,1914年のセルビアへの攻撃の引き金になったのである.
34 G.Lundestad (ed.), the Fall of Great Powers. Peace, Stability and Legitimacy, Scandinavian University Press, Oslo, 1994所収のI.Deak, 'The Fall of Austria-Hungary. Peace, Stability and Legitimacy', ch.4, p.89.
Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.352-353
【質問】
オーストリア二重帝国国内のスラヴ人は分離主義者だったのか?
【回答】
(・ω・)<オーストリア二重帝国にとって,国内の『スラヴのクソ野郎ども』は,帝国を崩壊させる分離主義者たちだったのですか?
(ーー)<そうやって悪いイメージを先行させるから,必要もない対セルビア宣戦布告をする羽目になるのですよ.
オーストリア帝国からの分離を唱えていたのはイタリア系住民であり,スラヴ系住民は少なくとも上層部が危機感を抱くほどに,過激な分離主義者ではありませんでした.
実際,WW1になったら最後までハプスブルグ家のために戦ってくれましたからね.
彼らの要求は,「俺たちスラヴ系少数民族にも,ハンガリー人みたいな“自治”をキボンヌ!」でした.
(・ω・)<独立したいとか思わなかったんですか?
(ーー)<隣にロシア帝国やドイツ帝国があるのに??
帝国主義な列強のそばで少数民族が独立して,今までどおり暮らしていけると思うほどには,彼らは脳内お花畑の住民ではありませんよ.
それに経済的にも,それなりに食っていけるレベルでしたので.
念願(?)かなってWW1後に独立しましたが,後でヒトラーやスターリンに征服されてしまったのは皮肉ですね.
以下,アラン・スケッド著「ハプスブルグ帝国衰亡史」(原書房,1996.5)より引用――
他ならぬマサリク自身が,一九〇九年に次のように述べた.
「我々が欲するのは連邦制のオーストリアであります.我々はオーストリアから独立できません.強大なドイツの隣に位置し,我々の領土にもドイツ人がいるのですから.」
ついに一九一四年にフランツ・フェルディナントが暗殺された後,クラマージは
「……われわれが帝国に敵対するのはスラヴ主義を信じ込んでいるせいだ,と考える輩には,われわれは断固抗議します――,帝国の外のものはまったく頼りにしていないのです」
と語った.
こういうわけで,アメリカ人歴史学者ヴィクター・S・ママティはこう結論づける.
「第一次世界大戦前夜,ハプスブルグ帝国でのチェコ人は失意の底にあったが,帝国外で生きようなどとは考えられなかった」
――p247より
※筆者補足
「マサリク」…WW1後にオーストリア帝国から独立したチェコスロヴァキアの初代大統領
なおチェコ人はスラブ系です.
帝国の他の諸民族と,彼らが王家に示した忠誠にかんしていえば,政治や文化の面で不満を持っていたにもかかわらず,ほとんどの場合,帝国をつぶそうとか,王家と絶縁しようとかいう欲求はなかった.
(中略)
ハンガリー人歴史家のディオセギ・イシュトヴァーンはこう書いている.
「民族主義が帝国の崩壊を招いたのではない.
ハプスブルグ帝国内で,無条件の離脱を求めていた民族はイタリア人だけである.
それ以外は,経済・政治・外交政策の思惑から,彼ら民族の目的を実現する場としては帝国がふさわしい,と前向きに考えるようになった」
――p257より
(・ω・)<でも南部のスラヴ系住民は,とかく過激なスラヴ主義で破竹の勢いなセルビアに隣接しいてたし,彼らに影響されて,オーストリアが崩壊して独立することを望む人も多かったのでは?
それにセルビアはオーストリア領内のスラヴ系住民を自分の同胞とみなし,そこを統合することも考えていたんでしょ?
(ーー)<それにはロシア帝国の助けがないと無理ですし,んなことを本気で期待するほどには,セルビアも馬鹿ではありません.
以下引用――
「本当に急進的なのは,青年党『プレポロド』だけで,彼らは,帝国が解体し,スロヴェニア,クロアティア,セルビアが合併してユーゴスラヴィア人の国家をつくる,という考えに賛成していた.
しかし,この党が代表するのは少数派の保守派カトリック農民にすぎない.
一九一四年以前には,スロヴェニア人がハプスブルグ帝国の滅亡とユーゴスラヴィア国家の創設を支持して大きな運動を起こしたことはない」
――p235より
セルビアは民族全体の統合を目的にかかげ,オーストリアの南スラヴ人も,力を増した民族国家に引きつけられていた.
しかしこの魅力も,オーストリアのドイツ人が新興ドイツ民族国家に抱く関心ほど強くはなく,全帝国にとっての意味で比べればはるかに小さかった.
セルビアは,南スラヴ人の民族的統合という思想を持ちつづけていたが,外国の援助なしにこの計画が実現できるとは思えなかった.
大国によって希望がもたらされること,つまりセルビアの利益を増すためにロシアがオーストリアに対して戦争をすることは,合理的に考えればありそうにもない.
――p286より
(ーー)<「『敵』はこちらが最悪のケースと考える事を実現するかもしれない.」
「そうなったら俺たちはおしまいだ!」
「だったらその前にヤっちまえ!」
ナイ教授が言うところの「囚人のジレンマ」ですね.
真面目に帝国の保全を考えれば考えるほど,それとはかけ離れた結論になってしまいました…
【質問】
第一次大戦後,ハンガリーがオーストリアから分離したのは何故か?
【回答】
ハプスブルク帝国の存在理由が,ハンガリー人にとってはなくなったためだという.
以下引用.
ハンガリー人にとって,帝国の主な存在理由はロシアへの敵意だった.
ハンガリーの指導的政治家で,後に帝国の外相を務めるアンドラーシ伯爵<1823〜90.67年にハンガリー首相.71年にオーストリア・ハンガリーの外相>は1870年,このように述べた.
「全てのハンガリー人の意見と同様,私もオーストリア・ハンガリーとロシアの衝突は避けがたいと考えている」18
ハンガリー人達は,1849年にロシアの介入で革命が潰された事を許していなかった.
それより遥かに重要だったのは,マジャール人はハンガリー王国の約半数しかいなかったのに対し,東・中央ヨーロッパ全体ではスラブ人のほうがずっと多かったことだ.
これらのスラブ人の背後にはロシアが立ちはだかり,スラブの大国として,その人口と資源はハンガリーより遥かに大きかった事を,ハンガリー人はしっかり認識していた.
多くのハンガリー人にとって,ハプスブルク帝国は好ましくなく,悩みの種であったが,それでも指導者達は,マジャール人が敵意に満ちた世界で生きていくためには,帝国が地政学的に不可欠だと信じていた.
それゆえ,1917年の革命で,大国としてのロシアが消滅したかに見えた際,ハンガリー人エリートがハプスブルク帝国に忠誠を誓う大きな理由も力を失ってしまった.
〔略〕
1848年に遡るが,チェコの指導者は,帝国の主たる目的は,ドイツあるいはロシアの支配から東・中央ヨーロッパを守ることにあると協調した.
少数民族であるチェコ人は,ヨーロッパの支配者になる可能性を秘めたドイツ,ロシアの両民族に対抗して,自分達だけでは独立を維持できないと心得ていた.
だからこそ,自分達を守ってくれるハプスブルクが必要だったのだ.
しかし,その保護の真の価値は,チェコ人が文化を維持し,帝国に住む他の民族と平等に暮らすことが許される場合だけに限られた.
そのため,帝国内部でドイツ人と衝突するようになると,チェコ人はロシアに共鳴するようになった.
同じ事が,ハンガリーに支配されていた南スラブ人の多くにも当て嵌まった.
帝国末期の数十年間にハンガリーの支配が抑圧的になり,したがって汎スラブ主義の共鳴が高まっていくにつれて,事態はますます悪循環となり,逆にロシアに対するハンガリー人の敵意も高まったのだった.
Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.321-322
一方,Joseph Rothschild著「大戦間期の東欧」(刀水書房,1994.10)PP.136〜137では,マジャール人貴族と言う存在がそもそもの原因だったとしています.
(以下引用)
「戦争が明らかに敗北と判ったときでさえ,支配層はまだ,その領土の歴史的国境と,其処での自分たちとの支配的地位を保持し続けようと望んでいた.重要な改革や一連の妥協を行うことに依ってではなく,唯単にドイツとの戦時同盟や帝国との立憲的連合を放棄し,マジャールは,これまでずっとチュートン・ドイツ人の奴隷的犠牲者であると西欧に触れ込むことによって.」
マジャール人貴族は,王権や,非マジャール系諸民族や,土地を奪われ実質的には何の権利も持たないマジャール人農民を含む他の社会階層に対して,その支配的地位を主張し,維持するために戦ってきた.
マジャール貴族は,土地と政府行政機構を支配することによって,その地位を絶えず守るための力と回復力を引き出していた.
貴族は,一言で言えば,マジャール王国の「政治的民族」であった.
彼等は,20世紀初頭までに人口の半数を占めるようになった他の少数民族の代表者の要求を認めなかったばかりか,自分と,「自分の所有物である」農民との間に介入しようとする如何なる中産階級をも容認しなかった.
アウグスライヒの時期に於ける「重商主義的」な商業や工業の拡大でさえ,貴族出身の官僚層が担うことによって,貴族の政治権力の社会的基盤を掘り崩す方向ではなく,それを補完し,強化する形で実行された.
しかし,歴史的な特権や行動様式を体現し守り続けるマジャール貴族のこうした忍耐力と先見性こそが,第一次大戦前の2,30年間に,二重帝国の中で長い間続いた些細な憲法上の抗争にマジャール貴族を巻き込み,目先だけの内政的小細工や抑圧に政治力を消耗させる現況であった.
マジャール貴族は,政治参加の拡大はマジャール人の覇権を危険にするという排外主義的な考えに立って,民族的にはマジャール人である大部分の人々さえ,公民権から排除した.
「民族を存続させる」という表現が,貴族の社会的・政治的特権を守るイチジクの葉として使われたのである.
同時に,都市の経済と知的分野の主導権の大部分は,主にユダヤ人からなるブルジョア層に譲り渡された.
マジャールは,歴史や,地理や水運や経済において,驚くほどの一体性を有していたが,一千年にわたる政治機構は次第に孤立し,偏狭となり,崩れやすくなっていた.
でもって,1918年10月31日の民衆革命とカーロイ・ミハーイ政権の登場に続くわけです….
可成りはしょりますが….
敗戦時政権を担当していたティサ・イシュトバーン伯は,自国が敗北していると言うのにすっごく頑迷だったのですが,無血クーデターによって新しく政権の座についたカーロイ・ミハーイは,ドイツとマジャールとの提携関係を,フランスとの協調関係に変化させ,オーストリアに対するマジャールの自治を主張した上,結果的にマジャールの内政と社会生活を民主化することで,各地に点在する少数民族との融和を図り,ベルリンとウィーンに対抗しようとします.
こうすれば,ウィルソンの民族自決の理念に則るものになった筈で,最終的にはマジャール王国部の緩やかな連邦形成を目指していたのですが,前政権が余りに酷い仕打ちをやりすぎたために(何事もやり過ぎはいかん),周辺諸国や連合国の受け容れられるところになりませんでした.
【質問】
ベラ・クーンの共産政府はなぜ誕生したか?
【回答】
1918年11月16日,クン・ベーラはソヴェトの命令でマジャールに帰国し,扇動家として少なからぬ才能を発揮し,ソヴェト・ロシアの援助を受けて,革命を「発展」させる任務に当たった.
11月20日,露西亜からの帰還者,国内左派社会主義者,革命的社会主義者によって,マジャール共産党が結成され,12月7日にはカーロイ派と社民党穏健派に対する挑発的論文を掲載した,党機関紙「赤色新聞」が発行された.
こうした挑発に対し,戦前からの社民党員や労組幹部はこういった共産党の宣伝をかわす免疫を持っていたが,政治に無関心な層から社民党に入党した,戦時組の党員,失業兵,知識人は影響を受けた.
12月12日,共産党は,武装解除に不満を持っていたブタペシュト駐屯部隊を利用して圧力を掛け,カーロイ政権の国防大臣を辞任に追い込み,兵士評議会に浸透した.
しかし,社民党員が勢力を扶植していた労働者評議会に対しては大した影響を与えられなかった.
そこで,翌年2月までに幾度と無く騒動を起こし,それを宣伝して1919年2月までにブダペシュトで1万5000人,地方で2万5000人の党員を獲得し,ドイツに復員する途次,フォン・マッケンゼン元帥の部隊がマジャールに遺棄した3500挺のライフル銃を手に入れ,2月3日と6日の赤色新聞紙上で,武装蜂起を呼びかけた.
是に対抗して,社民党は2月9日に臨時党大会を開いて,「共産党分裂主義者」を党と労組から排除することを決議,2月20日には,社民党機関紙「人民の声」編集局前で,失業者のデモと警官隊が衝突,多くの死傷者が警官に出た.
また,ベラ・クーンには政府から公秩序侵害と叛乱教唆の容疑で逮捕状が出されたが,社民党指導部が徹底的な弾圧を行うのには,戦前のノスケ主義を想起させ,躊躇いがあった.
また,二重帝国崩壊後のマジャールに於いて,首相のカーロイ・ミハーイ伯は軍隊の解体を行い,次ぎに農地改革に手を付けた.
最初に範を示すべく,彼の領地に住む農民に自分の土地を分配したが,これは,政治的に無益な行動だった.
農地改革は彼の内閣の農務大臣によって準備され,土地所有上限を500ヨーク(1ヨークは0.575ha)とし,これを越えた土地は没収して農民に分配することとなり,没収された土地は1913年の価格を基準に旧地主に保証金が規定されたが,これも,政権与党の社会民主党によって反動的であることと反対された.
貴族達は賢明にも表だった反発は控え,これにより,社会民主党への国民の反発は強まり,これに依拠していた,カーロイ・ミハーイ内閣は崩壊した.
その後,マジャール社会は急激にプロレタリアートの力が増大し,それを抑えるべき暴力装置たる軍隊が消滅していた為,容易に赤色革命が達成される余地が生まれた訳であり,そこをベラ・クーンは突き,大衆の支持を得たのである.
協商国側もベラ・クーンに味方した.
第一に,戦勝国は,1000年に渡るマジャール王国の領土諸地域を要求して,
軍だけでなく,行政機関も送り込んでいる,チェコ,ルーマニア,ユーゴの行為を正当と認めた.
第二に,近隣諸国の利益に沿う形で休戦協定の境界線を何度も改訂した.
第三に,その領土問題に関して譲歩を引き出す為に,経済封鎖を継続したのである.
こういった面を利用して,クーンは第一に,カーロイや社民党の様にフランスの寛大さに期待することはオーストリアやドイツと結んだかつての「妥協」(1867年の二重帝国発足のこと)と同じ位虚しいモノであって,マジャール民族なら,そう言ったくびきを脱して,今こそ,ボルシェビキ・ロシアとの革命的同盟を基礎とすべきである.
また,第二に,ロシアの様に,干渉戦争や国内の反動から自らを守るには,民族的な革命のエネルギーを重視すべきである,としたのである.
愛国主義と,革命,この2つの訴えは,イデオロギーに無知な兵士,大衆は言うに及ばず,社会民主党の下部活動家,一般党員,果ては一部の社会民主党幹部にまで影響を与え,新共和国の軍兵士は,クーンの急進的命令を直ちに受入れ,マジャール駐留戦勝国代表のフランス陸軍中佐,ヴィクスがルーマニアの要請に応じて,その領土割譲を通知した時,かくて,国民の堪忍袋の緒は切れ,カーロイ政権は崩壊,3月21日,共産党と社会民主党の即時合同が為され,マジャール・ソヴェト政権が樹立されたのである.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
(出展:Joseph Rothschild "East Central
Europe"
(刀水書房から「大戦間期の東欧」という邦題で出ています.)
これの第四章の抜粋….)
【質問】
ベラ・クンの共産政府ってあっさり崩壊したけど,よほど軍隊が弱かったのかね?
【回答】
↓を見る限り国民に愛想をつかされたのだと思われ.
http://www.vanguardnewsnetwork.com/temp/TerrorTimeline/1919_BelaKunThe133Days.htm
しかも肝心の国土防衛は放棄してトンズラかよ.
ナジもこのとき政権に参加していたらしいが.
また,羽場先生の「ハンガリー革命史研究」によると旧ハンガリー王国国防軍(ホンヴェード)の軍隊6万人を引き継いだとあり,これが共産軍の母体ですが,この人達は決して皆が皆,共産政府に賛意を表していたわけではなく,隣国の軍隊にハンガリーが分割されるという危機感から参加したと書かれてますね.
あとは工場労働者・農民を赤軍として組織化してますが,この人々も旧軍の軍人達同様,チェコ軍・ルーマニア軍の侵攻に危機感を抱いた人達だったようです.
元々,共産主義に賛意を表していない人達と共産主義者の混合体ですから,うまく機能しなかったのではないでしょうか・・.
しかも,クンはクレマンソーの通告を受けて,赤軍を国境線から後退させる決定をしてしまいましたから,彼らの心は共産政権から離反していったのだと思います.
しかし,後にホルティ提督の下で首相を務めるストーヤイみたいな人物が赤軍に参加していたとは驚きました・・.
(ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w in 世界史板)
◆◆ドイツ
【質問】
第1次大戦に至るまで,なぜドイツはもっとましな戦略をとれなかったのか?
【回答】
ドイツの政体上,対外政策を調整する権限は国王またはその代理人だけにあったが,ウィルヘルム2世やその臣下には誰もそのそんな能力がなかったためだという.
以下引用.
戦争に先立つ20年間のドイツ政治は,こうした欠点〔政策を調整したり,目的と手段の調和を図ったり,相対立する政治的・軍事的・外交的な優先順位と圧力のバランスをとったりする個人や機関の欠如〕を数多く抱えていた.
イギリスとロシアを同時にドイツから遠ざける政策は,ドイツの安全保障・利益・国際的影響力にとって危険であった.
ヨーロッパを支配するための動きにおいても,それは全くの愚行でしかなかった.
優先順位を決定し,目標を決め,政策を調整することができなかったのは,ドイツという国家を運営した個人の誤りのせいであったが,ドイツの政体にも根ざしていた.
プロイセン=ドイツのエリートは民主主義を軽蔑し,自分達の利益とは両立しないと概ね誤った見方をしていたため,人民主権の原則を受け入れようとはしなかった.
唯一,〔政治〕正統性があったのは,歴史的に続いてきた君主制の原則であった.今やドイツ皇帝であるプロイセン国王には絶大な権限があった.最終的には国王だけ,あるいは国王が確固たる支持を与えている代理人だけが,ドイツの対外,国内,軍事政策の調和と一貫性を保証できたが,ウィルヘルム2世の下では誰一人,ビスマルクのようには,これを行えなかった.38
とはいえ,ドイツがわがままで自滅的な対外政策を行った理由は,それだけではない.
下からの急進的な圧力がビスマルク時代よりも強まったため,合理的な対外政策が難しくなったのである.
しかし,政治システムの頂点に位置する個人や制度上の弱さも重要だった.
Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.143
「ベンチがアホやから,外交ができへん」
【質問】
ドイツのヴィルヘルム二世の失敗の中で,一番問題なのは何か?
【回答】
正直ありすぎて,判断するのも難しいが,わざわざ他の国に敵対を促すような政策を取ったことだろう.
彼は,ハードパワーに依存しすぎて,ソフトパワーを無視してしまった.
・海軍軍拡競争を始めて,イギリス人の敵対を深め
・トルコ・バルカンも問題でロシアを怒らせ
・モロッコ保護領を巡ってフランス人の敵対感情を強めさせた
以下,ナイ教授の文章を引用
「実はカイザーは,イギリス人にショックを与えて友好を獲得しようとしていた.イギリス人を怖がらせることで,ドイツの重要性とドイツとの友好関係の必要性をイギリス人に認識させることができると信じていたのであった.
結果は逆で,怯えたイギリスはまずフランスと,ついでロシアと手を結ぶことになったのである.
したがって,1914年までには,ドイツはこの包囲網から何とか抜け出す必要を感じるようになり,戦争の危険もあえて冒すというところまで立ち至っていた,
すなわち,ナショナリズムの勃興,自己満足の増大,社会ダーウィニズム,それにドイツの政策全てが,国際システムのプロセスから節度を失わせるのに貢献し,第一次世界大戦の勃発に力を貸したのである」
なんというか・・・まぁ,思い込んだら一直線のドイツ人らしいとは言えるかも知れないかもしれないけど,マジでビスマルクが泣くなぁ・・・.
詳しくは, 詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第3章を参照されたし.
ますたーあじあ in mixi
【質問】
第1次大戦の頃の帝政ドイツでは,初めから軍部の力が強かったのか?
【回答】
軍部の台頭は無制限潜水艦戦をやる前後のことで,それまでは議会の力が強かったりします.
「平和を破滅させた和平」(デイヴィッド・フロムキン著,紀伊国屋書店,2004.8)と言う本を読んでからこちら,第一次大戦関連の本を良く読んでいたりするのですが,今は,「ドイツ海軍の熱い夏」(三宅立著,山川出版社,2001.5)と言う本を読んでいます.
第一次大戦に関しては,余り研究も成されていないし,私自身も余り興味を持っていなかったのですが,調べれば調べるほど面白い世界だと思ってみたり.
さて,この本はドイツ海軍大海艦隊に於ける,1917年夏の叛乱事件を扱っているのですが,ドイツ史を学んでいる人は常識だったのでしょうが,第一次大戦中のドイツという国は,確かに軍人がのさばってくる形に段々となっていくのですが,それは無制限潜水艦戦をやる前後に漸く成ってくる訳で,それまでは,意外にも議会の力が強かったりするのですね.
特に,議会の多数派を占めているのは,社会民主党,つまり,一種の社会主義(其処までいかないけどフェビアン主義的か)政党なので,軍部も彼等の意向に従って,前線部隊の食糧補給に関する糧食委員会と言う組織の一部に,下士官や水兵を参加させる様にし,艦内に届けられる新聞には,社会民主党の機関紙も含まれると言う状態だったりします.
ただ,彼等が政権の座に付いているかというとそうではなく,あくまでも,政権は皇帝の輔弼として振る舞っており,議会はそのチェック機関的な形になっていた様ですね.
第一次大戦に加わる際にも,苦悩の上,民衆の熱気に浮かされるように参戦を支持したりしていますが,政府と軍部が,こうした議会の動向に敏感になっていた為もあってか,戦争方針は悉く裏目,裏目に出て行ってます.
それが高じて,追い詰められると最終的には軍部独裁に至る訳ですが,更に生活が逼迫すると,社会民主党を始めとする左派が打倒軍部で結束し,最終的には軍港の叛乱に至っていく訳ですね.
今の世の中でも,「軍靴の音が…」とか何とか寝言を言う人もいますが,そうした世の中に成って行っているのは,民衆の熱気と,議会政治の動向であることを認識して欲しいものですね.
社会主義を標榜する政党が,率先して戦争を始めたと言う事実は記憶しておいて良いと思いますが.
眠い人◆gQikaJHtf2 in mixi,2006年04月25日
【質問】
この計画の現実性は?
ドイツ皇帝,アメリカ本土侵攻を計画
2002/5/8発売のドイツ週刊誌ツァイトは,同国の公文書館で見つかった資料から,19世紀末に
当時のドイツ皇帝ウィルへニム2世が,米国本土への侵攻作戦計画を策定していたことが
わかった,と報じた.
計画は1897年に立案が命じられ,1900年に完成.艦艇60隻で10万人の兵士をニューヨークと
ボストンに上陸させ,米東部を制圧するとしていた.
作戦を立てたドイツ海軍当局者は,米国と開戦した場合,海上封鎖や艦隊決戦よりも本土に
上陸して戦う方が効果的と判断.
理由として
「米軍の士気や練度は低い」
と分析があり,米中枢部を占領した上で,ドイツ側に有利な講和条約締結を迫る戦略だった.
【回答】
艦艇60隻で10万人・・・・って所に限りなく無理を感じるが.
食料・武器・弾薬・消耗品は全部現地調達か?
まさに10万人の盗賊の群だな.
このカイザーのおもしろ大作戦ですが, カイザー自身の壮大なネタでしょう.
当時のドイツにはアメリカと戦う理由は何一つありません.
アメリカは人口過剰で食い詰めたドイツ人が一旗上げる夢の大地であり,
実際的利害でも対立していたことはありません.
作戦自体を「どのような組織」が立案したのかはよく分かりませんが,仮に参謀本部とするならば,シュリーフェンが首を縦に振らなければ,こんな作戦は立てられません(反対していたら,スキャンダルとして世間に知れていたはず).
シュリーフェンがこんな代物に首を縦に振ったということ自体,この作戦が初めからお遊びだったことを示していると思われます.
また,参謀本部以外の組織が立案していたのなら,そんなものは正式の作戦計画でもなんでもないのではないでしょうか.
ちなみに,第一次大戦中は日本侵攻のプランもドイツにはあったようです.
ユーラシア大陸を横断する壮大華麗な大戦略だそうですが・・・
数年前,某仮想戦記作家が,古本屋で文献を見つけたのだそうです.
◆◆日本
【質問】
何故,日本帝国は第一次大戦で,欧州に大兵力を派遣しなかったのでしょうか?
【回答】
まず,ドイツと日本との関係.日独関係はその当時もかなり友好的な関係にありました.このため,出来る限りドイツと事を構えたくないと言う考えが働いています.
また,欧州に兵力を送るとなると非常に費用がかかること,食体系が欧州のそれとはまるで違うので,その補給が問題となること,それに日本としては,欧州列強のいない間に中国大陸に出て,米国の利益とぶつからないように,揚子江に至る華北の諸権益を確保しようとしていたので,欧州に兵力を回す余裕が無かったこと.
ロシアとの間で1916年に日露秘密条約を締結し,中国防衛に関して日本とロシアは共同で防衛の義務を負ったこと.
また,幼児期とはいえ産業界でも,欧州の戦争で活況を呈していましたので,欧州に向けるような兵力調達状況(産業界でも労働力を必要とする)に無かったこともあります.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
詳しくは,
「第一次世界大戦と日本海軍 外交と軍事との連接」
平間洋一 慶應義塾大学出版会
をおすすめします.タイトルには「海軍」とありますが,政府首脳や陸軍の動きにも触れているし.
【質問】
以下のような記述があったのですが,日本が露に武器を輸出するなどは事実でしょうか?
日露戦争で仲のよろしくない印象しかないのですが.
第1次大戦のロシア軍で(1916年)
とくに日本経由での補給が功を奏し,ライフルは少なくとも全兵士に行き渡るようになった.
ブルシロフの軍は38式歩兵銃で戦うことになった.
砲弾も入ったが,日本の迫撃砲は好評だったが野砲は規格が会わなかったらしい.
【回答】
ロシアは第一次世界大戦では連合国に所属しており,日本もまた連合軍として参戦しました.
つまり,共にドイツとは敵対する関係にあったため,山県有朋らを中心に日露の同盟を主張する勢力がありました.
それらに応える形で,陸軍は小銃97万丁・小銃弾2億8,000万発・火砲823門などを供給しました.
また,海軍でもロシア海軍の要請に基づいて,日露戦争の戦利艦である宗谷・相模・丹後の3隻を,修理費を含めて1,550万円で売却しています.
ただし,これらの売却代金はロシアの公債でまかなわれており,ロシア革命により回収が出来なくなってしまいました.
名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE
日露戦争後から二月革命まで,日本とロシアは満州利権を北満,南満と住み分け,英米の満州進出に対抗する為,1907年の日露秘密協定を結び,仲良くパイを分け合うほどの仲です.
この協定は数々の追加事項を増やし,1916年までに4回,結ばれています.
梅本弘著「雪中の奇跡」(大日本絵画)の中で,フィンランドで売られている三八式歩兵銃が紹介されていますが,それも対露輸出の名残です.
そういえば,三八式歩兵銃用の銃弾を使用するフェデロフ自動小銃なんてのもありましたね.
【質問】
シベリア出兵は日本にとって失敗に終わりましたが,このシベリア出兵の日本側勝利条件といいますか,日本側が目標としていた戦の終わり方とはどのようなものだったのでしょうか?
【回答】
まずは,白衛軍の勝利です.
次いで,白衛軍の残党が打ち立てた,極東共和国と沿海州共和国の独立維持と,駐兵権,各種利権の維持(一種の満州化).
それが叶わなくなると,ポーツマス条約のソ連の承認による,日本側勢力圏の認定と,北部サハリン油田からの石油安定供給になっていきます.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
【質問】
対華21ヵ条条約について
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6515/Taisyou-naikaku/17-Ohkuma-vol2.htm
「そして中国におけるドイツの権益が日本によって一掃された後,有名な「二十一カ条要求」が中国政府に対して発せられる.
中国は全五号二十一カ条からなるこの提案を強硬に拒否,妥協と譲歩が繰り返される間に,この動きに気づいたのはアメリカである.
アメリカは日本が火事場泥棒をしているように受け取って態度を硬化し,イギリスも日本を猜疑の目で見るようになった.
それに慌てた外務省は要求妥結の方向に動き始め,結局ほとんど骨抜きになった形で締結された.日本にとって利の薄い外交で,しかも英米は日本を危険視するようになり,中国はこの日を国恥記念日とした.百害あって一利もなかったのである」
後の災いの元になったのは分かるんですが,最初から骨抜きの形で締結されたというのは本当ですか?
【回答】
5号が留保されただけで,骨抜きとはやや異なるかと.
◇ ◇ ◇
'15年1月,加藤高明外相は,日置益駐華公使を通じて袁世凱大総統に直接この要求書を手渡し,秘密保持と一括交渉を要求した.
イギリスやアメリカの干渉に期待した袁は,内容をアメリカ駐華公使に漏らし,また,中国の新聞にも報道された.
日本政府はイギリス,アメリカ,フランス,ロシア各国に要求内容を内示したが,第五号については曖昧な表現にとどめた.中国政府は,国際社会に対して殊更にこの第五号を強調し,日本は中国を属国にしようとしていると宣伝した.
しかしヨーロッパ戦況の重大化で,イギリス・フランス・ロシア諸国は干渉の余裕がなく,アメリカだけは日本政府に抗議したが,極めて妥協的なものに過ぎなかった.
中国民衆は,この日本の屈辱的要求に対し,日貨排斥・救国院金などの形で抗議運動を展開,民族運動は急速に高まった.
中国との交渉は,2月2日より二十数回に及んだが進展はみられず,日本は満州,山東,漢口の各駐屯軍を増強し中国を追詰めた.
一方,国際的な非難と列強の干渉を期待していた中国は,アメリカ等の一部を除いて支持を得られず,逆に欧州戦局に忙殺されていたイギリス,フランス,ロシアの公使からは,
「この時点では日本との武力抗争を避けるのが賢明である」
との忠告をされてしまった.
日本政府はイギリスの意見も取り入れ,アメリカを牽制し,第五号を削除(留保)して最後通牒を出すことになった.
5号についても将来を見据えて,いったん保留にしたもの.
5号が通っていたら,中国は日本の傀儡国家になっていた.通るはずがない.
5月7日,日置公使は陸徴祥外交総長を訪ね,9日午後6時を期限とする最後通牒を手渡した.
中国政府はこれを受諾せざるを得ず25日,正式な条約,交換公文とが調印された.
具体的には:
第1号は中国山東省の旧ドイツ利権の継承に鉄道新線要求など4ヵ条
第2号は旅順・大連の租借期限,満鉄安奉線の租借期限の99ヵ年延長と満蒙における日本人商租権など7ヵ条
第3号は漢冶萍煤鉄公司の日中合弁要求
第4号は中国沿岸港湾および島嶼の不割譲(以上の1〜4が絶対必要条項とした)
第5号は中国政府の政治・財政・軍事顧問に日本人を招くこと,日中兵器の統一等7ヵ条で,中国主権侵害の政治的要求であり,これを希望条件であるとした.
これに対する中国国民の怒りは大きなもので,5月9日を国恥記念日として激しい抗議運動を展開,各地で大規模な排日運動が起こり,袁世凱も民衆の支持を失っている.
アメリカも,中国の条約上の諸権利と門戸開放主義に反する場合はこれを認めないとの〈不承認主義〉を通告してきた.
21ヵ条要求の結果は,中国の民族運動(五・四運動)およびアメリカの利害との対立をいっそう深めたばかりか,1921・22年のワシントン会議により,21ヵ条要求の内,満蒙利権を除く,殆どの要求は無効におわった.
【珍説】
大総統の袁世凱は日本政府に対して,
「国内で理解が得られないから最後通牒を出してくれ」
と要請したらしい.
最初から日本政府は手玉に取られていた模様.
ソース:『シナ大陸の真相』カール・K・カワカミ
【事実】
1937年にロンドンで出版された.欧米における,日本の中国侵攻の正当化の宣伝本ですね.日本は共産主義者の陰謀と戦うために戦争しているという,おなじみの論調です.
割り引いて読んだ方が良いのではないかと思われます.
http://www.jiyuu-shikan.org/store/book/shohyou/shohyou0109.html
袁世凱は20数回の交渉で受託を拒否しつづけ,頼みとした欧米が,今は日本と戦わないほうがよい,との助言でやむをえなく受託したものです.
最後通牒形式を袁世凱から望んだと言う公式記録は,ちょっと知りませんが,どっちにせよ,21ヶ条要求を袁世凱が受託するメリットは何もありません.
あるとしたら,最後通牒だから,戦争できないから仕方なく受託したとの国民むけ言い訳ぐらいです.しかし,結果は,国民の信頼を著しく低下させています.
なぜ,それが日本が手玉に取られていたことになるのか理解できません.
【質問】
日本統治下の南洋群島について,統治内容等を知りたいのですが,ご存知の方がいらっしゃいましたらご教授ください.
【回答】
南洋群島は,Versailles条約で日本の国際連盟C式委任統治区域となりました.
これは,土着人民の利益の為に一定の保証を与えることが要件となりますが,受任国領土の構成部分として,その国法の下に施政を行なうものです.
但し,地域の詳細情報,施政諸般の措置は国際連盟理事会に報告する義務があります(これは,日本の連盟脱退後も継続されています.)
1922年の勅令第107号南洋庁官制により,パラオ諸島コロール島に南洋庁を設置,南洋庁長官は,一般行政は拓務大臣の指揮監督を受け,他に一部の行政に関しては逓信,大蔵,商工の各大臣の監督を受けます.
1942年,拓務省廃止の後は,大東亜省所管となります.
南洋庁の組織としては,最初は課制でしたが,後に内務部,経済部,交通部,そして各島に支庁を設置,大きな島には法院を置いています.
支庁は警察を兼ね,法院の無い島であれば,民事裁判を行うほか,軽微な刑事事件も即決裁判を開催します.
法院は1922年の勅令第133号南洋群島裁判令によって設置され,高等法院,地方法院の二審制となっています.
教育は内地人については,内地と同様とし,島民に対しては,初等教育機関として本科三年,補習科二年の公学校を設置します.
授業の半分は日本語の習得に充てられましたが,五年でも平仮名が書ける程度でした.
自治体は1931年に,南洋庁令第七号南洋群島部落規定により,部落と言う自治体が置かれ,総代を長官が任命し,総代の諮問機関として,協議会を置きます.
協議会員は,独立の生計を営む25歳以上の男子からの完全普通公選制です(但し,選挙民は内地人のみ).
島民に対しては,1922年の南洋庁令第三四号南洋群島島民村吏規程により,島民を村吏に任命,カナカ族は総村長,村長,チャロモ族は区長,助役を設置しています.
1938年には勅令第224号南洋群島地方費令が公布,南洋群島は一つの自治体となりますが,諮問機関,議決権は設けられていません.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
【質問】
なぜ第1次大戦が,日本において理研を創設する契機となったのか?
【回答】
日本の産業構造が脆弱であることを思い知らされ,また第1次大戦が科学戦となった結果,日本でも科学力の増進が意識されたため.
以下引用.
この大戦勃発こそが,高峰,桜井らの宿願を果たす決め手となるのだから,世の中は分からない.
生活,産業の必需品である医薬品や工業原料のヨーロッパからの輸入が,極めてシビアに制限されてしまったのである.
とくに,当時世界最強の工業国だったドイツからは全く途絶した.
この衝撃は大きく,今となって日本の産業構造がいかに脆弱であるかを思い知らされたのだ.
それに大戦は,毒ガスや潜水艦,航空機などの新種兵器を続々と出現させ,今後の戦争が軍事力のみならず,産業,経済,技術を一丸とした総力戦であることも知らしめたのである.
この年10月,この状況を憂えた高松豊吉を会長とする工業化学会は,政府に「化学工業の発達奨励に関する意見書」を提出し,農商務省もこれに応えて,高松,桜井〔錠二〕,池田〔菊苗〕らをメンバーに含めた「化学工業調査会」を設置した.
その第1回の会合で早くも,従前の高峰譲吉案とは別個に「化学研究所」の設立案が持ち上がり,直ちに農商務大臣に建議したのである.
こえて4年3月,第2会の調査会会合では,「化学研究所」だけではカテゴリーが小さ過ぎるから,物理も加えて「理化学研究所」とすべきだという意見が,調査会委員の中から出てきた.
宮田親平著『科学者たちの自由な楽園』(文藝春秋,1983/7/15),p.43-44
ところが大戦が終わってみたら,日本の脆弱な産業界でもそこから一儲けできた国内外の新規急造マーケットは,たちまち巻き返してきた欧米からの優秀な製品によって駆逐され,裏返しの不景気が襲ってきた.
寄付金はつきあい程度に終わって,寄付申し込みをしながら未払いの者も残したまま,財界の財布は堅く閉じられた.
一方で,インフレの昂進もある.
宮田親平著『科学者たちの自由な楽園』(文藝春秋,1983/7/15),p.51
その後,なんとか理研は発足するが,「理研ビタミン」発売によって一財産をこしらえるまでは,予算に苦しむこととなったという.
ひるがえって第2次大戦後の文部省予算の推移は,……見なかったことにしよう.
【質問】
内田信也は第1次大戦の際,どのようにして成金になっていったのか?
【回答】
第一次大戦で急成長した会社に,内田汽船という会社がありました.
この経営者の内田信也氏は,東京高商(現一橋大学)を卒業し,三井物産に入社,神戸の船舶部に配属されたのが船との関わり合いの始まりです.
元々,三井の船舶部と言うのは,三井鉱山で産出した石炭を輸送する目的であったもので,後年の商船三井とは似ても似つかぬものだったそうです.
此処で粉骨砕身働いたのを認められ,船舶部長から傭船係長に任命されました.
係長と言えど,部長以下10名程度の小所帯で,部長はまぁ謂わばお飾りですから,実質的な営業部長の役職にあったも同然.
これで,其の儘過ごしていれば,別の目も有ったかも知れませんが,10年働いた後,突如,この安定した地位を捨てることになります.
一説には,自分の意向を経ずに決められたシンガポール行きが気に入らないと言う話もあり,北海道炭砿汽船の営業部長就任に物産が反対して板挟みになりと言う話もあり,真相は藪の中ですが,とにかく,1914年に家賃250円の2階建築家屋を1軒借りる資力のない状態で,2階だけを100円で借りて独立し,予てから趣味にしていた柔道の道場から,仲間を2名引き抜いて社員とし,内田信也事務所を設立しました.
資本金は僅かに自身の退職金と兄からの借金合わせて2万円と言う状態からのスタートでした.
ところが,程なくして大戦が勃発.
海運業界は一種パニックに陥り,船賃が大暴落しました.
彼はその動きを一過性のものと見,八馬汽船の第八多聞丸を月4,200円で1年間傭船する事になりました.
この賭けは大当たりで,程なく運賃が高騰の気配を示し,他のブローカーがこの船を1ヶ月8,000円で1年間借用することを申し入れてきた為,これに又貸し,これで彼は月に3,800円の利を得,年間で5万円近い転貸料が濡れ手に粟で転がり込んできました.
これを皮切りに,彼は次々に船舶の傭船をしてはそれを転貸しすると,利が利を呼び込み,遂には1915年4月,自社の持ち船として,勝田銀次郎から4,500トンの大正丸を16万円で買い受けることに成功しました.
これを機にブローカーから足を洗い,内田汽船を設立して社長に納まりました.
さて,この大戦,長引くか短期終結するか,その見通しは不明.
彼も流石に判断しかね,斎戒沐浴,神棚に対して静坐し,無我の状態に陥った時に齎された神託が,
「戦争は長引く」
と言うもので,それを信じて,資金を東京海上から融通し,汽船は辰馬などから買い入れ,次々に転売して利益を得て行きます.
こうして資金を潤沢に得た後は,買船とチャーターの二本立てで,安定した収益を生み出し,1916年の配当は,実に60割配当と言う恐るべきものでした.
基盤を確立した後は組織固めで,内田信也事務所は発展的に解消し,内田商事として船を中心に世界中の商品を扱う商社に衣替えします.
本店は神戸,支店は東京,大阪,上海,New
York,出張所が青島,大連,Calcutta,San Francisco,Seattle,南米の各地に設けました.
其の後,実業に進出し,1917年に横浜で内田造船所を経営,佐賀県有田町で帝国窯業を設立,
このほか,明治海運,東京毛布,国際汽船などの重役も兼任し,僅か40歳で所有船舶だけで1億円,借金を差し引き,7,000万円の資産を作り上げました.
大体,いまのお金に換算すると,3,000億程度ですかねぇ.
途方もない金額です.
さて,実業の分野に進出した第一号の内田造船所は,元々英国人が経営していたYokohama
Engine Iron Worksと言う,横浜では中堅どころの鉄工所が前身で,それを1916年12月,石川島造船所の技師長が買い取って,横浜鉄工所と改名していたもので,内田はこれに資本参加し,更に造船所を設けて船舶建造に進出した際,完全に経営権を掌握して,内田造船所となったものです.
この内田造船所は,急ピッチで船台を整備すると共に,三菱から技師や工員を始め,目ぼしい人を引き抜いた上,技師に渡りを付けて,仕込船の設計図も盗みだし,その設計図を用いて,自社の船舶建造を始めた訳です.
これが,後に満州丸問題として,政友会と憲政会の間での政争に利用されました.
兎も角,船台を整備するや,1,200総トン級仕込み船2隻,2,200総トン級同型船4隻の建造に着手し,造船ブームの末期に間にあいました.
英国時代の職工数は300名,それが内田造船所では3,000人以上と10倍以上に膨らみ,如何にこの会社が急成長したかが判ります.
更に工場を拡大すべく,隣接地の埋立を行いました.
ところが戦後不況の深刻化から,結局この土地は利用されませんでした.
彼に1億という未曾有のあぶく銭を齎した第一次大戦は,1918年11月に終結します.
以後も欧州の復興までには時間が掛り,まだ戦時経済の余波が残っていましたが,1920年から恐慌が起き,バブルは崩壊します.
彼はこの予兆を掴んでいました.
1920年2月に興銀総裁と会談した際,財界の変調を注意されたのと,原敬を訪ねた際,経済界の様子が可笑しくなり,選挙資金が容易に集まらないと言う打明け話を聞いていたからです.
この話を聞くや否や,彼は思い切りよく,海外各支店宛に,営業活動を中止して,手じまいの連絡をすると共に,持ち船も借金を返済する為に,ロンドンで5隻ほど当時の相場以下の値段で思い切りよく売り払ってしまいました.
直後に恐慌が訪れ,山下汽船などはその手じまいが遅れた為に大打撃を被ってしまいます.
また,実業についても整理して1923年までに,内田汽船と内田商事のみを残して,全部売り払ったり閉鎖したりしました.
先の内田造船所も大阪鉄工所に売却されますが,大阪鉄工所は造船を切り捨て,船舶修繕に特化すると共に,元の陸上工事に進出しますが,経営陣の先頭を切っていた専務が事故死し,関東大震災で工場が被災したので,撤退の止むなきに至りました.
こうして内田信也氏が作った実業は殆ど消滅した訳ですが,この時思い切りよく事業の縮小を団交したお陰で,豊富な資金を其の儘保持し得た訳です.
因みに其の後,彼は政界に進出し,政友会の重鎮として海軍政務次官,逓信政務次官から,1934年の岡田内閣で鉄道大臣,1944年の東条内閣では農林大臣を歴任し,戦後も1953年5月に第5次吉田内閣では農林大臣に就任し,一方で明治海運社長として辣腕を振るい,戦後も91歳まで寿命を全うします.
好況の時は良いのですが,不況に切り替わる際に如何にその変調を上手く読み取り,転換をなし得るかが結構難しい,それが経営者の腕の見せ所なのですけどね.
今の経営者はどうなんでしょうか.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/03/17 22:56