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◆海軍
第1次世界大戦FAQ目次


 【Link】

HAUSの航海記(オーストリア=ハンガリー海軍)

K.u.K. Kriegsmarine(墺洪海軍,独語)

STEAMERS REQUISITIONED OR HIRED FROM LLOYD AUSTRIACO AND OTHER SOURCES
(二重帝国軍による徴発/雇い汽船リスト&船暦有,英語)

World War One - The Maritime War(英語)

ホルティ回想録(PDFファイル,英語)

リッサ海戦
http://www.kaho.biz/huousensou.html
http://www.d3.dion.ne.jp/~ironclad/Tegetthoff/tegetthoff1.htm


 【質問】
  ユトランド海戦で英巡洋戦艦が3隻も轟沈したのは何故か?

 【回答】
 ユトランド海戦では3隻の英巡洋戦艦が,命中弾により弾薬庫が誘爆して轟沈している.

 英巡洋戦艦の轟沈の原因として

1)
 大角度で落下したドイツ巡洋戦艦の主砲弾が甲板直下の装甲を貫通して弾薬庫に到達,そこで爆発して発生した火災が装薬に引火した.
 当時の英巡洋戦艦の欠点だった水平防御(甲板下にはられた装甲)の弱さが露呈した形だ.

2)
 砲塔を貫通した主砲弾により内部に火災が発生,その火が弾薬を揚げる揚弾筒を伝わって弾薬庫に達し,同じく装薬に引火した.
 防火対策にも不備があった.

といわれている.

 いずれも敵と撃ち合いを始めて数分,数発の命中弾で撃沈されている.
 いずれも数分で沈没し,1000名以上の乗員のうち数名しか生き残らなかった.

 これに対し,弾薬庫への注排水装置や揚弾筒内に防火シャッターを設置するなど,ダメージコントロール対策が充実していた,ユトランド海戦のドイツ巡洋戦艦は極めて頑強だった.
 巡洋戦艦ザイドリッツは全砲塔被弾,艦首は海面ぎりぎりまで浸水という状態にも関わらず沈没を免れ,スクリューを逆回転させて後ろ向きに進みながら母港に生還している.

ユトランド海戦でお亡くなりになった巡洋戦艦 Queen Mary


+

 【質問】
 WW1のギリシャ海軍について教えてください.

 【回答】
 ギリシャ海軍は,トルコに対抗して可成りの戦力を保持していました.

 装甲艦では,1889〜90年竣工のHydra級(フランス製/4,885t)があります.
 これは,砲塔艦として,10.8in34口径砲を2門,10.8in28口径砲を1門装備していましたが,流石に口径の違う砲では取り回しが難しく,1908〜10年に5.9in速射砲5門に換装されました.

 他に装甲艦は1860年代竣工の旧式艦がありましたが,これらは大戦前に退役しています.

 その後,Balkan戦争後の軍備拡張の際,ドイツに超弩級艦Salamis,フランスにProvence級の略同型艦を1隻発注していますが,これらは第一次大戦勃発のため,前者は工事中止となり,後者もキャンセルされています.
 戦艦Salamisは艦体はドイツのA.G.Vulcan,タービンはドイツのAEG,ボイラーは英国のYarrow,主砲と 副砲は米国のBethlehem Steel,主砲塔は英国で製造されるという国際分業の見本みたいな艦で,1915年3月竣工予定でしたが,主砲始め武装は米国製だったので,ドイツ製の砲熕兵器が装備できず――砲塔の口径が合わなかった――,接収は免れました.
 ちなみに,主砲塔のうち2基は,英国海軍のAbercrombie級Monitorに流用されました.
 同艦はその後,未完成のまま放置されましたが,1923年にギリシャ政府はこの艦の引き渡しを拒否します.
 これの支払いを巡って,裁判やら話し合いやらが行われ,結局,ギリシャはA.G.Vulcanに対して,建造前に提示された450,000ポンドのうち,30,000ポンドを支払い,1932年に漸く艦は解体されました.

 代わって入手したのが,米国では旧式化した前弩級艦のMississippiとIdahoで,前者がKilkis,後者がLimnosと命名され,軍籍に入りました.

 巡洋艦としては,Balkan戦争直前にイタリアよりPisa級装甲巡洋艦(1911年竣工,9,958t)を買収し,Georgios Averofと命名します.
 ちなみに,この艦名は,この装甲巡洋艦を購入する資金,300,000ポンドを拠出した大富豪の名前だったりします.
 この艦は,我が国の日進・春日のケースのように,Balkan戦争直前に海軍に編入され,旗艦として活躍しました.
 また,第二次大戦でも艦ごとAlexandriaに脱出し,インド洋で船団護衛に活躍した後凱旋し,現在では記念艦として展示されています.
 我が国の三笠並の扱いを受けているわけですね.

 巡洋艦はもう1隻,米国製のHelle(1913年竣工,2,600t)があります.
 元々は,日清戦争で海軍か壊滅した清朝が発注したものですが,革命で清朝が瓦解し,売りに出されたのをギリシャが1914年に購入したものです.
 この艦は,英国で武装を施す関係上,結構英国に止め置かれ,1916〜17年にかけてはフランス海軍の所属艦として任に就いていました.

 このほかに近代的な軽巡洋艦として,英国にAntinavarhos Kontouriotis,Lambros Katsonisの2隻が発注されましたが,これらは第一次大戦勃発によって,英国海軍に接収され,Birkenhead級として竣工しました.

 駆逐艦としては,
ドイツ製のNiki級(1906〜07年竣工/350t)が4隻,
英国製Thyella級(1906〜07年竣工/352t)が4隻,
アルゼンチンから買収した英国製Aetos級(1911年竣工/980t)4隻
があります.
 これらは,第一次大戦参戦時にフランスの指揮下に置かれ,その旗の下で活動しています.
 うち,1隻のDoxaは,Sicily沖でUB47に撃沈されました.

 駆逐艦には,更に,英国に発注したKriti級が4隻有りましたが,これらは巡洋艦と同じく,英国に接収されてしまいました.

 水雷艇としては,ドイツ製のAigli級6隻(1913年竣工/120t)がありました.

 潜水艇としては,フランス製のDelfin級2隻(1911〜12年竣工/310t)を保有しています.
 DelfinはBalkan戦争において,潜水艇による世界最初の雷撃をトルコの巡洋艦,Medjidiehに対して行っています.外しましたが.

 フランスには,このほか2隻の潜水艦を発注しますが,これらは接収され,Amazone級としてフランス海軍に就役しました.

 更に,ドイツからはU31級潜水艇を4隻購入する話が進んでいましたが,大戦で没になりました.

 他に,機雷敷設艇を2隻,砲艦10数隻を保有していました.

 このほか,Balkan戦争時には,9隻の仮装巡洋艦を使用しており,うち1隻は,トルコの巡洋艦,Hamidiyeによって撃沈されています.

 さて,ギリシャは1916年に連合軍側に参戦します.
 その参戦は可成り特殊で,軍艦は全てフランス海軍旗を掲げ,フランス海軍の指揮下で任務に就いていました.

 で,戦後の軍艦分配に際しては,ドイツ艦と共に,二重帝国海軍の艦も分配されました.
 駆逐艦Huszar級である,Ulanがそれで,先に撃沈されたDoxaの代替として,1931年まで使用されました.
 また,水雷艇Tb82F級のうち,Tb92F/94F/95Fが引き渡され,Prousa,Panormos,Pergamosとして使用され,1938年に座礁して失われたPanormosを除き,いずれも枢軸国のギリシャ侵攻で撃沈されています.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 世界史板)


 【質問】
 巡洋艦Averofについて詳しく教えてください.

 【回答】
 ギリシャは,1919〜21年のトルコ出兵で国内経済が疲弊し,国王の死(猿に手を噛まれて破傷風だか何だかで)によって国内が混乱した状況で,1924年に王制が廃止され,共和制に移行しました.
 その後も政権は目まぐるしく変わり(内閣平均寿命6ヶ月,最短が1日.),国内が混乱したため,1935年再び王制が復活します.

 この国はトルコと長らく対立していたので,海軍も空軍も,トルコを仮想敵国として編成していました.

 ただ海軍は,第一次大戦前にトルコが英国に発注した弩級艦,超弩級艦に対抗して,ドイツにSalamis級戦艦を発注したのが,第一次大戦で接収され(ドイツは工事を続けたものの,砲塔は米国,砲は英国だったので,ドイツ製の武器が載せられず断念),その後フランスに発注したのも工事中止となり,戦後の混乱で折角戻ってきたSalamis級戦艦も建造契約を破棄してしまい,結果的に当時中立国だった米国から前弩級艦2隻を購入する形でお茶を濁していました.

 さて,ギリシャと言えば,JFK夫人と再婚したOnassisが有名ですが,船舶の保有数が非常に多かったりします.
 なので,船舶関係で財を築いた人も非常に多かったりするわけです.

 そんな一人に,Georgios Averofと言う人がいました.
 彼は,愛国者で,トルコに比して自国の海軍の増強がままならないのを憂えていました.
 1909年,そこで彼は数十万ポンドを海軍に寄付し,この金額で海軍の増強を願ったわけです.

 丁度その頃,イタリアでは建造した巡洋艦をストックして売りに出すと言うことをしていました.
 Giuseppe Garibaldi級がそれで,1894年から建造を開始し,12隻が計画されましたが,当のイタリア海軍は3隻しか装備しておらず,改良を加えた4隻が更に引き渡されただけ.
 他は船台上で売りに出されました.
 ちなみに,4隻がアルゼンチンに売られ,1隻はスペインが購入しています.
 また,アルゼンチンはこの艦形を気に入り,更に2隻を発注していますが,この艦は途中で売却されました.
 ちなみに,購入したのは日本.春日,日進の2隻がそれで,この艦型は世界中に散らばっていた訳で.

 1894年から建造を開始した装甲巡洋艦ですが,リソースの少なさから建造ペースは遅々として進まず,最後に建造された艦が竣工したのは1911年.
 既に,世界では装甲巡洋艦の代わりに巡洋戦艦が有望な時代に入っていたりします.
 1911年のそれは装甲巡洋艦としては,日本の筑波級を除けば,世界最強艦だったりしますが.

 その一つ前に建造されたのが,Pisa級です.
 1905年頃から建造に着手したものの,完成が1910年と生まれながらの旧式艦でした.
 しかし,発展途上国から見れば,安くて武装が強力で,ある程度の旗艦機能もあるその艦は魅力的であり,丁度ストックもあったため,ギリシャ海軍は先ほどの30万ポンドで建造中の艦を買い取りました.
 このほか,ドイツとアルゼンチンから駆逐艦もその資金で購入したり.

 但しギリシャでは,主砲だけはイタリア製が信用置けなかったのか,25cm砲を英国Armstrongの23.4cm砲に換えています.
 こうして1911年に竣工した艦は,出資者の名前を取って,Averofと名付けられ,ギリシャ海軍の旗艦として,第二次バルカン戦争で活躍しました.

 また,第一次大戦ではフランス海軍指揮下で海上護衛に活躍し,戦後はフランス式の火器管制装置に換えたり,機関を交換して,弩級艦の無いギリシャ海軍の主力として活動しています.

 1940年にイタリアが参戦しますが,相手のイタリア海軍が不活発だったために,ギリシャ海軍は精々砲撃程度でお茶を濁していました.
 しかし,1941年4月にドイツが参戦するとドイツ空軍によってギリシャ海軍の軍艦は次々に沈没し,4月25日には遂に,Averofもアレキサンドリアに向けて亡命を余儀なくされました.
 彼の地では,インド洋向けの船団護衛に従事し,ギリシャからドイツが撤退すると,本国に戻って母艦任務に就きました.
 この時には,ご自慢の23.4cm砲を初めとする各種大口径砲は撤去され,3インチ砲8門,3インチ高角砲4門,37mm機関砲6門になっていました.
 完全な船団護衛艦艇になっていますね.

 1946年にこの艦は除籍されます.
 しかし,この数十年間,海軍の主力として活動した訳で,その功績からこの艦は永久保存となり,今でもアテネの南40マイルにあるポロス島に係留されているそうです.

 日本の三笠みたいなものなのでしょうね.

眠い人◆gQikaJHtf2 in mixi,2006年10月29日21:20


 【質問】
 WW1開戦前のオスマン海軍の勢力は?

 【回答】
 主力艦は,

・トルゴウト・レイス(1894)&ハイレディン・バルバロッサ(1891);ともにドイツの旧式戦艦,1万トン・17ノット,11インチ砲6門

・メッソウディ(またはメシュディエ);艦齢40年以上,1万トン・14ノット・9.2インチ砲2門
 「世界の艦船増刊第30集イギリス戦艦史」所収の「イギリス製戦艦輸出ノート」中名生正己著によると,1876年テームズ社で完成の中央砲郭艦メシュディエ(幸福をもたらすもの)は,9120トン・13.7ノット・254ミリ砲12門・178ミリ砲3門(要目の違いは改装?)
 なお二番艦メムドゥヒュド(賞賛に値するもの)は,1876年即位の新スルタン,アブドル・ ハミド二世にちなみハミディエと改名したが,露土戦争の開戦のためイギリスが買収,シュパーブとして1906年まで在籍.
 周知のとおりイギリスはこの手を何度も使っています.やはり国産しないと駄目ですね.
 メシュディエは老兵に鞭打ち,ギリシア海軍とダーダネルス海峡で交戦,1914年12月にチャンク沖で英潜B11の雷撃で撃沈されています.

・ハミディ&メジディ;軽巡洋艦(防護巡洋艦?),3800トン・22ノット・6インチ砲2門・4.7インチ砲8門

・他駆逐艦8,水雷艇9他
 大日本絵画「第二次大戦駆逐艦総覧」によると,WW1前のトルコ水雷戦力は,1911年時点で
仏製デュランダル級駆逐艦280トンを4隻(1909年購入),
98〜165トン級水雷艇15隻(伊との戦争で5隻喪失)
同年独より購入の新鋭ムヴァネティ・ミレート級が4隻. 607トン・34.5〜36.2ノット・10.5p砲2門・45.7cm魚雷発射管3.
 1914年英4・仏4・伊6の駆逐艦計14隻を発注するも,WW1開戦により,仏伊艦はキャンセル,英艦は徴発されています.

 開戦後の追加(購入)

・巡洋戦艦ヤブス・スルタン・セリム(独巡洋戦艦ゲーベン) ;22400トン・27ノット・11インチ砲10門・6インチ砲12門
・軽巡洋艦ミディリ(独軽巡洋艦ブレスラウ);4550トン・28ノット・4インチ砲12門

 なお,Ottoman-Turkeyの19世紀海軍に関しては,最近,「オスマン帝国の海運と海軍」という好著が山川から出ています.
 これの縮小版が山川ブックレットになってたか,と.

眠い人 ◆gQikaJHtf2他 in 世界史板

巡洋戦艦「ヤウズ・スルタン・セリム」


 【質問】
 ポルトガルの海防戦艦「ヴァスコ・ダ・ガマ」について,どういうスペックだったのかお尋ねします.
 googleっても本国では黒歴史なのか出ません(涙
 どうか詳しいことを教えてください.

 【回答】
 1875年1月12日竣工,Thames Iron Works建造
 排水量:2,384t 全長:60.96m 幅:12.19m(砲郭部14.17m) 喫水:5.79m
 機関:石炭炊きレシプロ機関 3000ihp 石炭搭載量:300t 速力:10.3kts
 装甲:鉄製 装甲帯 9〜4インチ 砲郭 10〜6インチ
 武装:10.2インチ/20口径砲×2 5.9インチ/25口径砲×1 9ポンド砲×4
 乗員:232名

 1903年に改装し,砲郭を撤去し,スポンソンに8インチ砲を装備,機関換装,船体延長を実施.
 排水量:2,972t 全長:70.86m 幅:12.19m 喫水:6.27m
 機関:石炭炊きレシプロ機関 6000ihp 石炭搭載量:300t 速力:15.5kts
 装甲:鉄製 装甲帯 10〜4インチ
 武装:8インチ/40口径砲×2 5.9インチ/45口径砲×1 12ポンド砲×1 9ポンド砲×4 3ポンド砲×6
 乗員:260名

 1935年除籍

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)


 【質問】
 ロシア海軍は日露戦争の痛手から,なぜ急速に回復できていたのか?

 【回答】
 偉大さへの渇望に基く意志の力だという.
 以下引用.

 ロシアの保守系紙「ノーボエ・ブレーミャ(新時代)」は1914年の新年号で,ロシア人は「依然として恐ろしいほど偉大さへの渇望」4にとりつかれていると記している.
 これは現実には,伝統的に帝国の代償を払ってきた農民大衆の感情というより,むしろロシアのエリートについて述べたものだった.
 たとえ軍の急速な再建が純粋に防衛的な措置だったと見なせたとしても,莫大な費用を必要とするバルト艦隊の戦艦隊を迅速に再建することを,同じように見なすことはできなかった.
 1907年に政府は高等教育に690万ルーブルを拠出したが,当時,戦艦1隻につき3000万ルーブルかかっていた.5
 1914年にはバルト艦隊の全く新しい戦艦隊が完成間近だった他,さらに数隻も建造中だった.
 こうした艦隊が建造されたのは,ロシアが威厳,戦略的な柔軟性,国際的な影響力を得るためであった.コンスタンチノープルを西方から威嚇するため,艦隊を地中海へ派遣する計画が進行していたのである.
 長期的に見れば,公海用に手強い艦隊を保有すれば,英独間の海軍力バランスを崩さず,ロシアが両国に対して潜在的な影響力を持つこともできた.
〔原注〕
 5 K.F.Shatsillo, Russkiy imperializm i razvitiye flota, Moscow, 1968, p.210

Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)下巻,p.114-115

 プーチンのスローガン「強いロシアの復活」も,この「偉大さへの渇望」の延長上にあるのかもしれない.
 まあ,軍備にカネがかかるのは,1907年に限った話ではないが.

 それにしても,基本的には大陸国であるロシアが,海軍力の必要性を当時はきちんと認識していたことは注目すべきだろう.


 【質問】
 第1次大戦までの建艦競争に英国が勝てたのは何故か?

 【回答】
 イギリスが,大陸の強国と同じ水準の資源を陸軍に投入する必要はなかったためだという.
 以下引用.

 イギリスは島国としての地理的条件のおかげで,最初はフランス,その後はドイツというヨーロッパの主要なライバルに対して決定的に有利な立場にあった.
 イギリスが抜群の海軍力を保有する限り,大陸の強国と同じ水準の資源を陸軍に投入する必要はなかった.
 フランスもドイツも,海上でイギリスに挑戦しようとしても,他の強国から陸上で攻撃を受け易いことを無視するわけにはいかなかった.
 かつて,フランスを負かしたように,1914年以前の海軍軍拡競争でイギリスがドイツより多額の資金を費やし,多くの艦を建造できたのも,こうした理由があったからだ.

Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.211

 イギリス海軍とイギリスの商業は共生関係にあった.
 18世紀の海軍はイギリスの貿易を保護し,新たな市場を開拓することによって,政府の歳入を増やし,イギリスの商船や造船業までも後押しした.
 逆に,これら3つの要素は海軍にとっても極めて重要だった.
 戦時に勝ち抜くために海軍は,訓練を積んだ水兵の予備兵力に頼る必要があった.
 海軍力,とりわけ武装艦隊の中でも,軍艦は近代技術の最先端を組み込んでいた. 

Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.213


 【質問】
 第一次大戦に航空母艦は投入されてたんでしょうか?

 【回答】
 第一次大戦ではイギリスの水上機母艦フューリアスが実戦に参加してますね.
 1918年に艦尾に着艦甲板を設置して着艦が出来るように改装されたフューリアスは,18年7月17日に7機のソッピース・キャメルでTondernトンデルンにあるドイツ飛行船基地を空襲し,二隻の飛行船を撃墜しています.
 これは空母艦載機による史上初の航空攻撃でした.

名無し軍曹◆Sgt/Z4fqbE

 このFuriousは,1917年7月に完成しますが,艦の前部のみに飛行甲板を設け,後ろは戦艦そのままの状態でしたので,着艦が難しく,8月2日に2回の着艦に成功した操縦士は,8月7日に失敗して死亡しました.
 以後,後部砲塔を撤去して後部にも着艦用飛行甲板を設け,その改装が完了したのが,1918年2月です.

 同じような改造を商船のCampaniaに対して行っていましたが,これは前部に120ftの飛行甲板を設けるもので,発艦した機体は,陸上に収用されるものになります.
 但し,発艦距離が短すぎ,200ftに延長され,1915年8月6日に初めての発艦に成功します.
 1916年当時の搭載機はSopwith11/2StrutterのN9722,A6919-6922,N5333,5635,5638の各機でした.ちなみに,この艦はJutland海戦にも参加(回敵はしませんでしたが)しています.

 余談ですが,帝政ロシアも数隻の水上機母艦を黒海艦隊で運用していたりします.

眠い人◆gQikaJHtf2

 なお,フューリアスは元18インチ単装砲2基搭載のハッシュハッシュクルーザー.
 前甲板を飛行甲板にした当時は,後甲板の18インチ砲は残っていた.まるでデスラー砲搭載のガミラス戦闘空母の如く(笑).

 で,後甲板をも飛行甲板にした当時は巡洋艦の檣楼がそのままだった.
 つまり前甲板から発艦して後甲板へ着艦,檣楼両舷の回廊を手押しで移動.
 しかも檣楼後部には激突防止のネットまで装備(笑)
 途轍もなく運用が難しそう,つか運用したくもない艦だった.

軍事板

 【質問】
 フューリアスから撤去された18インチ砲は一時期,シンガポールで要塞砲やってたってホント?

 【回答】
 ウソ.

 私の持っている本ではモニター艦〔戦艦並みの主砲を装備した,比較的小型の砲艦.その始祖的存在「モニター」の名に因む〕に搭載されたと書いてありました.
 ジェネラル・ウルフにはフュリアスの前部砲,ロード・クライブには予備砲が搭載された.
 プリンス・ユージンにはフュリアスの後部砲を搭載する予定であったが,砲架の製造がおくれ,十月に搭載工事を開始した直後に(第一次世界大戦が)休戦のため工事を中止し,未搭載におわっている.
 (省略)
 同(一九一八年)九月より,二隻はベルギー海岸地帯の砲撃にくわわり,ジェネラル・ウルフが八一発,ロード・クライブが四発を発射し,これが実戦でもちいられた一八インチ砲のすべてであった.
 これらモニターは,戦後そうそうに除籍されたが,三門の一八インチ砲のその後は,未搭載に終わったフュリアスの後部砲は実験目的で一九四二年まで用いられ,一九四七年にスクラップにされた.
 他の二門は,一九三三年まで保管されたのち,売却スクラップされた.
 よくいわれるシンガポール要塞砲への転用は事実ではない.
(引用元:石橋考夫著「艦艇学入門」(光人社文庫,2000.7))

90式改 in FAQ BBS

 先にmixi支隊において,

>わざわざ主砲なんていうドデカイ代物を〔英国からシンガポールへと〕運んでくるかなあ…という気がしますが.(by K)

と指摘を受けましたが,考えてみればその通りですね.

◆◆オーストリア=ハンガリー海軍


 【質問】
 第二次大戦のときのハンガリーの摂政,ホルティはなぜ海軍提督なのですか?
 ハンガリーに海はあったんですか?

 【回答】
 オーストリア・ハンガリー二重帝国時代には,ハンガリーには唯一の海への出口フューメ(現クロアチア領リエカ)がありました.
 ここのダヌビウス造船所では,元々帝国海軍の駆逐艦や水雷艇などの小艦艇しか建造されていなかったのですが,第一次大戦前夜に拡張され,新鋭軽巡洋艦ノヴァラ(ホルティ提督の艦)とヘルゴラント,フィリブス・ウニーティス級ド級戦艦の4番艦セント・イシュトヴァーンなどの大型艦も建造されるようになりました.

(HN "12")

 ホルティ・ミカローシュといえば,第一次大戦時に巡洋艦・駆逐艦部隊を率いてイタリア沿岸部やオトラント海峡の連合国封鎖線を襲撃した気鋭の提督として知られている.

第一次世界大戦勃発の翌1915年,ドイツ,オーストリア・ハンガリー二重帝国と三国同盟を結んでいたイタリアは,当時オーストリア領であったダルマチア(現クロアチア領),アルバニアなどの領有を狙い,5月23日に対オーストリア宣戦を行った.
 イタリア海軍は主力となるタラント軍港にド級戦艦と前ド級戦艦,アドリア海に面したブリンディジ港には巡洋艦と駆逐艦を配備し,またベネチアには前ド級戦艦2隻,装甲巡洋艦4隻を中心とした艦隊を進出させ,さらに英仏から派遣された艦艇も加えオトラント海峡の封鎖を行った.
 6月5日,イタリア海軍は仏駆逐艦4隻に護衛された巡洋艦4隻を派遣してダルマチア南部ラグーサ(現クロアチア領ドブロブニーク)・カッタロ(現モンテネグロ領コトル)間の鉄道を砲撃し,同日軽巡洋艦ニノ・ビクシオと仏伊駆逐艦4隻もリッサ島を砲撃した.
 これに対し,アントン・ハウス提督の指揮するオーストリア海軍は,戦艦の温存策をとりつつも,一方では軽巡,水雷艇,潜水艦などを活用したTip and run raidsと呼ばれる奇襲攻撃で敵に被害を与えた.
 まず1915年5月23日に,イタリアが対オーストリア宣戦するとホルティ提督の艦隊は即座に出動し,翌24日には軽巡洋艦ノヴァラ,駆逐艦1隻,水雷艇4隻を率いてイタリア沿岸,コルシニの敵水雷艇と信号場を襲撃.この襲撃時には,アントン・ハウス提督(二重帝国海軍司令長官)率いる本隊(ド級艦フィリブス・ウニーティス以下の戦艦10隻,駆逐艦4隻,水雷艇20隻)もアンコナを砲撃している.
 6月9日には潜水艦U4がアルバニア沿岸部で英巡洋艦ダブリンを雷撃して損傷を負わせ,同17日には装甲巡洋艦サンクト・ゲオルグ,水雷艇14隻がリミニその他のイタリア沿岸を,17・18日にはホルティ提督率いる軽巡洋艦ノヴァラ,アドミラル・スパウン,駆逐艦4隻,水雷艇4隻がアンコナとリミニの中間にあるファノとペサロを急襲して打撃を与えた.
 また7月7日には,潜水艦U26(独潜水艦UB14がオーストリア艦籍に編入されたもの)が北アドリア海に出撃していたイタリア装甲巡洋艦アマルフィを撃沈し,18日には潜水艦U4が南ダルマチアのラグーサを砲撃していた同装甲巡洋艦ジュゼッペ・ガリバルディを沈めた(オーストリアの潜水艦部隊はドイツの援助で強化され,大戦中に新たに20隻――計27隻――が就役した)
 一方オーストリア側は8月8・13日の戦闘で潜水艦U3とU12(艦長エゴン・レルヒ)を失っている.

(HN "12")

 余談ですが,イタリア・ロンバルディア北部にはガルダ湖という湖があり,1859年までオーストリアはここに,艦艇13隻よりなるガルダ湖艦隊を持っていたようです.
 1859年のイタリア統一戦争でオーストリアが敗れたために,同艦隊はロンバルディアとともにイタリア(当時サルディニア)に引き渡されたようですが.

 ・・それにしても,琵琶湖ほどの大きさしかないこの湖に,オーストリアが艦隊を保有していたとは驚きでつ.

(ハウス in 世界史板)

ホルティ Horti 略歴

1868年 ケンデレシュ生
ハンガリーの軍人・政治家
フィウメ(現,クロアチア リエカ)の海軍兵学校で学ぶ
第1次世界大戦中,オーストリア・ハンガリー帝国海軍提督
戦後,ハンガリーに帰国
1919(大正8)年 クーンの社会主義政府に対する反革命を指導 政権を奪取
ハンガリー国民軍総司令官
1920(大正9)年 国会で摂政に任命される
1921(大正10)年3月 前オーストリア皇帝でハンガリー王でもあったカール1世が復位を企図 これを拒否
 10月 再度カール1世の復位を拒否
1938(昭和13)年 ミュンヘン協定 トリアノン条約でチェコスロバキアに割譲したスロバキアの一部をとりかえそうとするが,失敗
ナチス・ドイツに援助を求める
 1938(昭和13)年 第1次ウィーン裁定 スロバキアの一部を獲得
 1940(昭和15)年 第2次ウィーン裁定 ルーマニア領のかなり広い地域(トランシルバニア北部)を獲得
 これらの見返りに,ハンガリーは第2次世界大戦でドイツ,イタリアに味方することを承諾
1942(昭和17)年 ドイツの敗戦を確信 連合国との単独講和を企図
1944(昭和19)年 ドイツ軍,ハンガリーを占領 親ドイツ政権を樹立
 10月 ソ連軍,ハンガリーに侵入 ソ連との停戦を企図するがドイツ軍に逮捕され,特別列車でドイツに連行される
終戦時,バイエルンでアメリカ陸軍に逮捕される
1945(昭和20)年 釈放
1951(昭和26)年 ポルトガルに移住
1957(昭和32)年没
 【質問】
 上のホルティ略歴を見ると,カール1世の復位を二度拒否していますが,摂政であるところのホルティに,そんな権限があったわけですか?
 それとも,カール1世が国民に不人気だったと言うことですか? (消印所沢 ◆z3kTlzXTZk)
 【回答】
 マジャールにとって,王制の維持は必要不可欠の状況でした.即ち,王制を維持することで,二重帝国時代の領土要求に対する正当性を持たせる事が出来る,と,支配層は考えていた訳です.

 本来,赤化したとしても,フランスのフォッシュ首相は可成り好意的で,スロヴァキアからマジャール赤軍が撤退すれば,ルーマニア軍が占領したトランシルヴァニア地方の還付も考慮に入れていたのですが,クン・ベーラ首相が利害得失を考えずに居座ったために,フランスとしても最後通牒を出し,ユーゴスラヴィア,ルーマニア,チェコスロヴァキア軍によるマジャール赤軍の掃討を行い,報復的措置として,領土を周辺諸国に割譲した訳です.
 その喪失した領土を返還させる為の方便としては,中世の条項におけるマジャール法で,「聖イシュトヴァーンの聖なる王冠の領土」であるという基礎が必要でした.即ち,王国を止めて共和国になるということは,領土放棄と見なすと判断した訳です.

 1919年の赤色政権崩壊時,反革命政府は,一時的に王国はハプスブルク家の一族,ヨーゼフ大公を摂政に選出しています.
 しかし,反革命政府は1920年1月に実施した選挙結果だけで,王政復古を保証する旨の宣言を行い,これが,協商国の心証を害して,結果的にトリアノン条約の過酷な処分に繋がった訳で,ハプスブルク王家の復帰は,本来はチェコスロヴァキアの様に戦勝国側に立っていたマジャールを敗戦国に落剥させた思いが指導層にあり,また,ハプスブルク家の復辟は,協商国,周辺諸国の脅威に映ったため,その外部からの圧力(マジャール赤色革命の転覆は周辺諸国軍隊によるものを想起されたし)により,最終的にカール国王の廃位に繋がった訳です.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)


 【質問】
 オーストリア・ハンガリーでは,オーストリアの帝国議会とハンガリーの王国議会が別々にあって,それぞれ別に内閣を持っていたが,外相と蔵相と陸相は同じ人だった,ということは陸軍は共同だったということですね?
 では,海軍はどうだったのでしょう?

 【回答】
 1867年の二重帝国成立後,何もかもが帝国と王国の二重支配を受けます.
 海軍も同様で,予算に関しては,帝国側と共に王国側の予算承認権がありました.
 これが故,海軍の予算が屡々王国側の反対で執行出来なくなったことがあった様です.

 このため,国防に関しては,帝国,王国の両方から独立させることとなり,1889年に二重帝国海軍が成立しました.
 純粋にハンガリー王国の支配が及ぶとすれば,ドナウ川河川艦隊くらいではないか,と思います.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2他 in 世界史板)


 【質問】
 開戦前夜時のオーストリア=ハンガリー海軍艦艇配備状況は?

 【回答】
 第1戦闘艦隊〔マクシミリアン・ニェゴヴァン中将〕
ド級戦艦(艦隊旗艦)フィリブス・ウニーティス〔アントン・ハウス大将(艦隊総司令官)〕,テゲトフ,プリンツ・オイゲン(第1戦艦隊)
準ド級戦艦エルツヘルツォーク・フランツ・フェルディナント,ラデツキー,ズリーニ(第2戦艦隊)
 第2戦闘艦隊〔フランツ・レイフラー少将〕
前ド級戦艦エルツヘルツォーク・カール,エルツヘルツオーク・フリードリヒ,エルツヘルツォーク・フェルディナント・マックス(第3戦艦隊)
ハプスブルク,アルパード,バーベンベルク(第4戦艦隊)

 巡洋艦隊〔ポール・フィードラー中将〕
装甲巡洋艦サンクト・ゲオルグ,カイザー・カール6世,カイゼリンウントケイニギン・マリア・テレジア,
軽巡洋艦(防護巡洋艦)ツェンタ,アスペルン,シゲトヴァール
 第1水雷艦隊
軽巡洋艦サイダ,駆逐艦12隻,水雷艇10隻 
 第2水雷艦隊
軽巡洋艦アドミラル・スパウン,駆逐艦6隻,水雷艇18隻
 
 沿岸守備艦隊
海防戦艦モナーク,ウイーン,ブダペスト(第5戦艦隊)
防護巡洋艦カイザー・フランツ・ヨーゼフ1世,
水雷巡洋艦パンター

 各軍港に配備
□トリエステ
 水雷艇4隻
□ポーラ(現クロアチア領プーラ)
 装甲艦マルス(旧テゲトフ),駆逐艦3隻,水雷艇15隻,潜水艦6隻 
□セベニコ(現クロアチア領シベニク)
 水雷艇10隻
□カッタロ(現セルビア・モンテネグロ領コトル)
 砲塔装甲艦クロンプリンツ・エルツヘルツォーク・ルドルフ,水雷艇6隻
□フューメ(現クロアチア領リエカ)にて,
 ド級戦艦セント・イシュトヴァーン,軽巡洋艦ヘルゴラント,ノヴァラ〔⇔ホルティ・ミクローシュ提督)が建造中
□中華民国・青島にて
 防護巡洋艦カイゼリン・エリザベートが寄港中
□ポーラ(現クロアチア領プーラ)
 装甲艦マルス(旧テゲトフ),駆逐艦3隻,水雷艇15隻,
 潜水艦U1,U2,U3,U4,U5〔艦長ゲオルグ・フォン・トラップ〕,U6 +U12(まもなく竣工)

From "The Naval Policy of Austria-Hungary 1867-1918"


 【質問】
 どなたか二重帝国の駆逐艦タトラ級の8隻目の名前を教えてください.
 イタリアに譲渡とされた7隻,リカ、トリグラフ、ウソツォク,オルエン,タトラ,セッペル,バラトンは,世界の艦船196911月号(数年前にJR水道橋から神保町へ向かう途中の古書店で1冊100円で20冊くらい買ったうちの1冊)でわかったのですが.
 大日本絵画の「第二次大戦駆逐艦総覧」のイタリアの項目にも譲渡のあった7隻しかのっていません.
 光栄の「艦船名鑑1939-45」も退役済らしくて載ってません,まあこれはもともと網羅されていませんが.
 素人でよくわかりませんのでご協力お願いします.
 しかしユーゴとルーマニアでは,二重帝国の旧水雷艇がWWU後も使用されているんですね.

 【回答】
 まずTatraClassの駆逐艦は6隻が,1912〜13年に掛けて6隻が建造されています.
 Tatra,Balaton,Csepel,Lika,Triglav,Orjen,
 いずれも,PortoRe(Kraljevica)にあるDanubiusの建造.
 ところが,このうちのLika,Triglavの2隻は,Durazzoで1915年11月29日に触雷,沈没しました.

 でもって,1917年に同じ造船所で,改型のTatraClassが4隻建造されました.
 これは機関出力を増大し,船型が僅かながら大きくなり,8mm機関銃が追加されています.
 これらの艦には,Triglav(II),Lika(II),Dukla,Uzsokと命名されています.
 つまり,TriglavとLikaはTatra級と改Tatra級の2艦が存在した,と.
 で,後者の内,Duklaだけは,フランスに引き渡され,Pierre Durandとなって,1936年に除籍されました.

 ちなみに,同型艦に同じ艦名を与えているケースは,前級のHuszar Classにもあります.
 ネームシップのHuszarが,1908年12月3日に座礁沈没したので,1910年にPola海軍工廠で建造された同型艦に同じ名前を付けています.
 この辺,不幸な沈没では名前を継承しなかった日本とは違いますね.

 後,駆逐艦としては,TatraClassの更なる改良型が4隻発注されましたが,これは建造着手で敗戦を迎えました.
 この艦は,タービンをAEG-Curtissから,Danubiusに変更し,主砲を10cmから12cmに口径を増大,対空砲も66mmから90mmに口径を増したものとなっていました.

 後,二重帝国の駆逐艦としては,先のHuszarとTatraの間に,Warasdinerと言う駆逐艦が1隻だけ建造されています.
 これは,STTが1911年に,清国政府から受注していたもので,Huszarをタイプシップとし,LuanTuanと命名された試作艦が建造された後,12隻が建造される予定でしたが,1912年に清朝が瓦解,で,二重帝国に譲渡され,Warasdinerと命名されて二重帝国仕様の武装に変更して1隻だけ就役したものです.
 ちなみに,この艦は大戦を生き抜き,1920年にイタリアに引き渡されてスクラップとなりました.
 もう少し清朝瓦解が遅ければ,もしかしたら日本海軍にこの艦が鹵獲されていたかもしれません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2

 大戦後,主力駆逐艦7隻が20年9月伊に戦利艦として移籍します.
 それらの艦名は以下の通り.

Tatra(タトラ),Fasana(ファサナ)と命名,23年除籍.
Balaton(バラトン),Zenzon(ゼンゾン)と命名,23年除籍.
Csepel(チェペル),Muggia(ムッジア)と命名29年3月15日廈門沖で台風で喪失.
Orzen(オルゼン),Pola(ポーラ)と命名.31年Zenzonを襲名.37年除籍.
Triglav(トリグラフ),Grado(グラード)と命名.37年除籍.
Lika(リカ),Cortellazzo(コルテラッツォ)と命名.39年頃除籍.
Uzsok(ウツォーク),Monfalcone(モンファルコーネ)と命名.39年頃除籍.

 [第二次大戦駆逐艦総覧:大日本絵画]および,[世界の艦船No147(1969年8月号)掲載の写真イタリア駆逐艦史第7回]参照.

 各艦の名前の意味は,
「Uzsok」→ウジョーク?(地名らしい)
「Huszar」→フザール(ユサール兵マジャール軽騎兵)
「Scharfschutze」→シャルフシュッツェ(狙撃兵)
「Csepel」→チェペル(ブダペストの川中島)
「Dukla」ドゥクラ(プラハのサッカーチームに同名のがあるが詳細不明)
「Orjen」→オルイェン?(ダルマチアの山の名前?)
「Csikos」チコーシュ(馬)
「Pandur」パンドゥール(パンドゥール兵軽歩兵の一種)
「Turul」トゥルル(ハンガリーの建国伝説上の鳥)
「Uskoke」ウシュコケ?
「Magnet」マグネート(磁石)
「Satellit」ザテリート(衛星)
「Komet」コメート(彗星)
「Planet」プラネート(惑星)

世界史板


 【質問】
 二重帝国の海軍戦艦は,どのように評価されているのか?

 【回答】
 でわ,福井静夫の二重帝国海軍戦艦評なぞを.

 それは,英国系の技術を基とし,またその戦艦の性格は極めて英国のものと類似している.
 アドリア海と言う制限された作戦海面のために,その装甲艦(戦艦)は,
(1)伊海軍の対応艦を目標とした.
(2)作戦海面の特徴である多島嶼,狭水路の運動に適するよう,比較的小型,高速を目的とし,主砲,副砲の配置に苦心の跡が見られる.

 英国式装甲艦は,多年二重帝国海軍の中核であって,ポプラーのサミューダ造船所で外国向きに多数建造された,所謂,エドワード・リード式装甲艦の系統であり,我が扶桑(初代)や,当時のトルコ戦艦の多数と同系統のものである.

 二重帝国の戦艦の特徴として,

 (1) リッサ海戦以後,特にラムを重視し,頑丈,かつ著しい艦首の突出ラムを有し,また重砲(主砲及び準主砲)の前方射撃を良好とした.
 その門数の50%以上は前方に発射可能である.この傾向は,第一次大戦時の弩級艦,即ち最後の主力艦まで一貫している.

 (2) 第一次大戦時の弩級艦は三連装30cm砲塔4基を背負式として搭載し,近代戦艦の主砲配置として,断然進歩した方法を率先して採用,
当時の列強海軍の注目の的となった.
 しかし,主砲の爆風が強く,また,その機構の作動など,色々の欠点があったようで,次いで第一次大戦末までに計画された(設計のみ)新大型戦艦及び巡洋戦艦は,この方式を廃止し,大戦前のドイツ戦艦の要領に近い方法にと転換を意図しつつあったようである.
(一方ではドイツ海軍は二重帝国海軍式の「Michigan」配置へと転換しつつあった.

 (3) 軍港としてはアドリア海北部のポーラと同南部のカッタロを主に使用した.
 前者は立派な大軍港で工廠もあり,後者は第一次大戦中に作戦基地として使用され,整備された.
 ポーラ軍港は二重帝国海軍の全艦隊を収容できる大軍港であった.

 (4) 戦艦の建造は,ポーラ工廠とトリエステの造船所で行った.
 トリエステのスタビリメント・テクニコ社は世界一流の大造船所で,付近にも大艦を建造できる分工場を有し(第一次大戦後はイタリアの大造船所となり,現在に至る),弩級艦などはここで建造された.
 他にも相当の施設があり,ポーラ工廠も巨艦を建造する様に拡張中であった.

 (5) 砲は主にクルップ系とシュコダ系を使用した.
 しかし,弩級艦の3連装30cm砲は,英国Vickersの技術を導入したという.

 (6) 魚雷は英国のホワイトヘッドが発明して実用化した直後に,その工場をフューメに設立し,此処で生産するホワイトヘッド魚雷は,世界の各海軍が使用し,我が国でも明治10年代より,ここから購入した.

 (7) 二重帝国の戦艦は,第一次大戦では優勢な伊および連合国海軍(主に英)にアドリア海入口のオトラント海峡を厳重に封鎖され,アドリア海内でも制海権を伊に抑えられて,ポーラ軍港に留まり,時折出撃するくらいであった.
 しかし,その性能より見るに,決してアドリア海のみの行動に我慢したようではない.
 殊にラデツキー型およびフィリブス・ウニーティス型弩級艦は,当時の一流戦艦であり,その7隻の存在は伊海軍にとって一大脅威であり,特攻的襲撃で弩級艦4隻中2隻を沈めることに成功した.
 しかし一般的に見て,航続力は他国の大戦艦と同じであっても,二重帝国海軍戦艦の居住性はかなり苦しく,長期の連続外洋行動は不必要のためもあるが,性能的に困難だったと思われる.
 その主因の一つは,立派なダメージ・コントロール装置と,防御区画法であったようだ.
 二重帝国海軍のダメージ・コントロールは第一次大戦中,独戦艦のそれに比肩しうる程であって,戦後押収した二重帝国海軍戦艦の艦内を調査した連合国技術調査団に,大なる感銘を与えている.
 例えば,前弩級艦ラデツキーの応急訓練及びそのダメージ・コントロール取扱書の完備などは,独戦艦以上のものであったという.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 世界史板)


 【質問】
 中華民国向けに建造されていた艦艇を,なぜオーストリア=ハンガリー海軍は接収しようとしたの?

 【回答】
 喪失艦艇の埋め合わせのためです.

 オーストリア海軍は1914年に防護巡洋艦「ツェンタ」と「カイゼリン・エリザベート」を失いましたが,こういった喪失艦艇の埋め合わせをする事がほとんどできず,中華民国用に建造されていた4900トン級大型巡洋艦と1860トン級巡洋艦3隻を接収しようと考えました.
 ちなみに,これらの艦艇を建造していたモンファルコーネ(トリエステ北西部)の造船所ですが,パイロンズオフィス編『未完成艦名鑑1906〜45』(光栄,1998/1)によると

 イタリアの参戦後に,一時イタリア軍に造船所ごと占領されるという事態に陥ったが,オーストリア軍が造船所を再占領し,ことなきを得ている.
 その後(上記大型巡洋艦は)オーストリア式の武装で再設計され,同海軍の巡洋艦として建造が続けられたが,結局竣工しないまま廃棄された.〔44頁〕

との事です.

HAUS◆Vsb1IJhbMs in 世界史板

 余談ですが,基本的にオーストリア・ハンガリー二重帝国の諸艦は,大多数がSTT(Stabilimento Tecnico Triestino)で,一部がDanubiusで建造されています.
 Danubiusは王国領のフィウメにあり,STTは帝国領のトリエステですね.
 あと,トリエステにはCNT(CantiereNavaleTriestino)とMonfalconeがあります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 世界史板


 【質問】
 開戦直後のオーストリア=ハンガリー海軍の行動は?

 【回答】
 オーストリア=ハンガリー海軍艦艇はサラエボ事件以来厳戒体制下に置かれ,7月下旬〜8月上旬には駆逐艦と水雷艇の一部がポーラからモンテネグロ方面に移動し,8月8日には軽巡洋艦(正式には防護巡洋艦でつが,ここではこれまで通り軽巡に統一させていただきます)ツェンタと姉妹艦のシゲトヴァールが,セルビアに味方したモンテネグロ沿岸部の封鎖活動を開始しました.

 だが味方であるはずのイタリアが局外中立を宣言したために海軍当局の方針に混乱が生じ,その間にも英仏は8月12日にオーストリア=ハンガリーに宣戦・即座に同海軍の行動を妨害するためにアドリア海に艦隊を派遣してきました.
 そして8月15日には,モンテネグロのアンチバリ沖で軽巡洋艦ツェンタと駆逐艦ウランが,フランスのド級・前ド級戦艦部隊11隻と英国の水雷戦隊に遭遇.
 これに対し駆逐艦1隻はカッタロ方面へ回避したが,軽巡ツェンタは退路を遮断され,仏ド級戦艦ジャン・バールなどの砲撃を受けて撃沈されてしまいます.

 この時ツェンタの乗組員は,一部の戦死者や自力で岸まで泳いだ人を除き,大部分が仏艦艇に拾われて手厚い?もてなしを受けたとのこと.オーストリア=ハンガリーはその時はまだ英仏に対し宣戦していませんでしたが・・

 8月22日にようやく英仏に対し宣戦布告し,同24日にはすでにカッタロへ移されていた海防戦艦モナーク,ウイーンがモンテネグロとその境にある英仏側の拠点を砲撃しました.

(ハウス in 世界史板)


 【質問】
 二重帝国の潜水艦技術って,どうだったのですか?
 WW1前に,デンマークへ潜水艦を輸出しているらしいのですが.

 【回答】
 保守的な体質(と言うか予算制限とか色々なファクター)があって,米英仏と言った主要海軍国が潜水艇を採用したことが明らかになるまで,潜水艇の採用はありませんでした.
 1904年に帝国海軍技術委員会(MTK)が,潜水艇の建造を提言しますが,それは種々の理由で却下され,1905年1月に改めて機密プロジェクトとして,潜水艇の実用試験艇を建造することになりました.

 1908〜09年に掛けて,
米国のLakeがポーラで建造したU1級2隻,
キールのGermania造船所が建造したU3級2隻,
リェカのWhitehead社がHolland社の設計に基づいて建造したU5級3隻(ノックダウン生産が2隻,国産化1隻)
の3クラス7隻により,採用が比較検討されました.
 これらは米国設計のものが単殻式,ドイツ設計のものが複殻式船体を持ち,ガソリンエンジンとモーターを装備していました.
 LakeのU1は,潜行性能,操舵性は良かったのですが,装備していたガソリンエンジンが出力不足で,それらの性能の良さが相殺されました.
 GermaniaのU3は,潜行性能が思わしくなく,装備したエンジンは屡々煙を吐き出すのですが,反面,居住性は最も良かったとされました.
 HollandのU5は,ガソリンエンジンによるガス中毒が常習的に発生しました.
 これら試験艇の評価の結果,二重帝国海軍は,排水量500t程度,複殻式船体とディーゼル主機により,水上速力16〜18ktsを発揮,武装は45cm魚雷発射管3〜5門を有する潜水艦を,WhiteheadとGermaniaに発注します.

 このほか,水中速力12Ktsを発揮できる500tの大型潜水艦をGermania造船所に発注しています.
 運用的には,従来の可潜艦と言うことで隠密性重視からすると,水中速力重視というのは全く新しい概念を模索していたと言えるでしょう.
 残念ながら,この艦は建造時に大戦が勃発し,ドイツに売却されましたが.

 ちなみにデンマーク向け輸出艦は,WhiteheadのFiume造船所製らしいです.
 3隻建造で,1911〜13年頃竣工,無事に引き渡されているとありました.
 この艦は,その前の1908年にDenmarkは初めての潜水艦をItalyに発注しますが,これも余りにも低性能&ガソリンエンジンの信頼性の無さで1隻だけに留まり,次にWhiteheadに発注した訳で,独自設計に近いと言えます.
 これらの艇(A級と後に呼ばれた)は,その後国産化され3隻(うち1隻は国民の献金で)建造されています.

 ちなみに,FiumeのWhiteheadでは,Peru,Portugal,Holland,Brazil,BulgariaにもU5クラスの潜水艦を売り込んたそうです.

眠い人◆gQikaJHtf2 in 世界史板


 【質問】
 開戦直後,アドリア海の外にいたオーストリア=ハンガリー艦船はどうなったの?

 【回答】
 第一次大戦勃発当時にアドリア海の外にあった海軍艦艇は計2隻でした.
 このうち,汽船「タウルス(Taurus)」は,コンスタンティノープルに停泊しておりましたが,これは即座に動いてオーストリア本国に戻ることに成功しました.
 そしてかの有名な防護巡洋艦「カイゼリン・エリザベート」は,1週間前の7月21日に中華民国のドイツ租借都市・青島に入港しておりました.
(同艦は1913年8月19日にポーラを出航していた)

 あと大戦勃発前に世界中にちらばっていたオーストリア・ハンガリーの商船群ですが,これは各港で拿捕・抑留されてしまいました.
 The Austrian Lloyd社は汽船8隻が海外の港に抑留(内英国4隻ポルトガル1隻中国3隻)され,Hungarian Adria Line社も8隻の大型船を失いました(内スペイン2隻ブラジル2隻オランダ・フランス・ポルトガル・ロシア各1隻).
 Austro-Americana社は特に多数の船舶の喪失に悩まされ,海外で抑留された船は計18隻にのぼりました(内アメリカ8隻スペイン5隻ブラジル2隻アルゼンチン2隻キューバ1隻).

 その一方,大戦勃発から2週間後には,Lloyd社の蒸気船「Baron Gautsch」が,ポーラ沖のオーストリア海軍機雷敷設域に迷い込むという事件が起こりました.
 同船は大戦勃発により,東地中海の様々な港に取り残された自国の行楽・保養客を満載して,カッタロ〜トリエステ間航路を航行中でしたが,最終的に船は沈没して147名が死亡,生存者は159名でした.

ハウス in 世界史板


 【質問】
 WW1でのオーストリア・ハンガリー艦隊の行動は?

 【回答】
 1914年6月24日,オーストリア・ハンガリー帝国の帝位継承者フランツ・フェルディナント大公は,ボスニア・ヘルツェゴヴィナ地方で行なわれる陸軍大演習視察のため,当時帝国の外港だったトリエステからド級戦艦「ヴィリブス・ウニーティス」に乗り込んで,ダルマチア沿岸部のネレトバ川河口まで行きました.
 大公はここで汽船「ダルマト(Dalmat)」に乗り換えて,川に沿って内陸部へと進みました.

 サラエボ近郊のイリッツェで陸軍大演習を3日間視察した後,フェルディナント大公はサラエボ入りし,ウイーンから汽車で来た妻のゾフィーと再会しました.
 しかし6月28日に,大公夫妻はサラエボ市街でオープンカーに乗っている時に,セルビア人の学生ガブリロ・プリンチップに撃たれて死亡しました.
 大公夫妻の遺体はサラエボからネレトバ川へと移され,そこから汽船「ダルマト(Dalmat)」によって河口へと運ばれました.

 フェルディナント大公暗殺の訃報を受け,オーストリア・ハンガリー帝国海軍長官&艦隊総司令官を務めていたアントン・ハウス提督は,ただちにポーラ軍港で汽船「ラクロマ(Lacroma)」に乗り,護衛艦2隻(ド級戦艦「テゲトフ」軽巡洋艦「アドミラル・スパウン」)とともにネレトバ川河口へと急ぎました.
 かけつけた護衛艦隊に見守られながら,大公の遺体は戦艦「ヴィリブス・ウニーティス」に移され,その後このオーストリア・ハンガリーの艦隊はゆっくりとトリエステに移動しました.
 艦隊が沿岸部のまちや村を通過するごとに,教会の鐘は祈りの文句を歌い,住民も去り行く艦隊に対し敬意を払いました.

 いわゆる7月危機と呼ばれるこの1ヶ月間,ハウス提督はポーラに留まっておりましたが,7月18日に彼は海軍をバルカン半島方面での戦争に備えて動員するようにとの指令を受け,22日には準ド級戦艦「エルツヘルツォーク・フランツ・フェルディナント」「ラデツキー」「ズリーニ」をカッタロへ派遣しました.
 当時砲塔装甲艦1隻と小型艦艇のみに守られていた同地を強化するためですが,2週間もしないうちに,3隻の戦艦はポーラへと引き下がり,カッタロへは駆逐艦・水雷艇数隻と水上飛行艇が送られました.

 セルビアに対する最後通牒が下された運命の7月23日,ハウスはドナウ(ダニューブ)川の河川艦隊を動員し,オーストリアがセルビアに宣戦布告したちょうど1時間後・同28日から29日にかけて,河川砲艦「テメシュ」「ボドログ」「ツァモス」はベオグラードを砲撃しました.

 対バルカン半島方面での戦争に備え所定の海軍力動員を行う中,ハウス提督はイタリア情勢と三国同盟内の海軍協定に基づくオーストリア,イタリア両国海軍の行動の見通しを考えていました.

 あいにくこの数ヶ月の間,オーストリア・ハンガリーとイタリアの関係は再び悪化の方向へと向かっていました.
 アルバニアを巡る両国の関係は,2度にわたるバルカン戦争を通し改善されましたが,1914年の夏には再び行き詰まりを見せていました.
 またイタリアは,オーストリアがダルマチア南部のカッタロへの影響力を強めていることにも強い懸念を示しました.

 1913〜14年にかけてイタリアは,オーストリアがモンテネグロ(セルビアの同盟国)のロヴツェン山(MountLovcen:カッタロに隣接している地域)を購入もしくは併合することを恐れていました.
 ロヴツェン山頂のモンテネグロ砲台はオーストリアにとっては厄介な存在であり,同国がロヴツェン山の潜在的な敵の戦力を排除することによってカッタロは安全な港となり,より多くの艦隊が停泊するオーストリア・ハンガリー海軍の根拠地となる道が開けるでしょう.

 イタリア海軍の提督達は,イタリア,オーストリア両国海軍の共同作戦計画が実施されることを想定しておりました.
 実際「イタリア海軍(ド級戦艦隊)の戦争準備と(燃料となる)石炭の蓄えられた状態が,ハプスブルクの艦隊のために使われる」という報告をハウス提督は受け取っておりました.

 しかしオーストリア側の期待は,7月31日にイタリア政府の返答
「オーストリアのセルビアへの宣戦は,三国同盟条約第7条により不当な侵略行為とみなし,その結果イタリアには参戦の義務はない」
というものを目にした時に打ち砕かれました.
 同日オーストリア・ハンガリーは総動員令を発しましたが,イタリアは8月2日に中立を宣言しました.
 その一方で,8月4日の早朝にはドイツ海軍・地中海艦隊の巡洋戦艦「ゲーベン」が,フランス領アルジェリアの港を砲撃(ドイツは8月3日にフランスに宣戦)しました.

 ドイツ地中海艦隊を率いていたウィルヘルム・スーホン提督【少将】は,フェルディナント大公暗殺の後ハウスよりポーラ軍港の使用を認められていました.
 スーホン率いる巡洋戦艦「ゲーベン」と軽巡洋艦「ブレスラウ」は大戦勃発時にポーラを出港し,8月2日にはシチリア島のメッシナに入りました.
 メッシナは,独墺伊の三国連合艦隊が非常事態時には集結する場所でしたが,スーホンはここでイタリアの中立宣言を知り,単独でアルジェリア沿岸部へ向かいました.

 8月4日早朝,スーホンはフランス領アルジェリアの港を砲撃(ドイツは8月3日にフランスと開戦)の後,再びメッシナへ向かいましたが,同日英国もドイツに対し宣戦しました.

 その後マルタから出撃した英国艦隊がメッシナ周辺部を封鎖しているという情報を耳にし,スーホンは8月5日にオーストリアの助力を求める嘆願をポーラへ打電しました.
 それはハウスにとっては厄介な問題でした.当時英仏はすでにドイツと開戦していましたが,両国はオーストリア・ハンガリーに対しては宣戦しておりませんでした.
 いずれにせよ,ハウスは「ゲーベン」と「ブレスラウ」を救うためにオーストリアの艦隊を動かすというリスクを冒す気にはなれませんでした.
 また,スーホンの電報がポーラへ到着した時,ハウスは(8月4日の時点で)すでにフランス艦隊がツーロンを出港・コルシカ島沖に到達していることも知っていました.

 電報が繰り返される中で,ハウスは地理的な面と速度の面という単純な理由により,自らの艦隊を港に留めておく正当性を強調しました.
 オーストリア・ハンガリー海軍艦艇の大部分はポーラにあり,メッシナからは580マイル(1マイルは約1609メートル)も離れていました.
 また,ドイツ巡洋戦艦は依然としてオーストリアのド級・準ド級戦艦隊よりも数ノット速かったので,「ゲーベン」の目的がただ単に敵の追跡から逃げきることなのであれば,オーストリア艦隊の護衛は無意味でした.

 再びメッシナに入っていたスーホンの艦隊は,8月6日の夕方に同地を出港し,アドリア海の入り口にあたるオトラント海峡へ向かいました.
 ベルリン政府はオーストリア側の方針変更を求め,ハウスの艦隊にアドリア海南部のブリンディジまで来ることを要求しました.
 そこは長靴の形をしたイタリア半島のかかとの部分にあたり,オーストリア艦隊と「ゲーベン」「ブレスラウ」との集合地点として指定されました.

 スーホンの艦隊がアドリア海での避難場所を捜し求めていると考え,8月7日アントン・ハウス提督は,ド級戦艦「ヴィリブス・ウニーティス」「テゲトフ」「プリンツ・オイゲン」準ド級戦艦「エルツヘルツォーク・フランツ・フェルディナント」「ラデツキー」「ズリーニ」装甲巡洋艦「サンクト・ゲオルグ」軽巡洋艦「アドミラル・スパウン」駆逐艦6隻,水雷艇13隻よりなるオーストリア・ハンガリーの大艦隊を,ポーラから出動させてアドリア海南部へと急がせました.
 それは危険な賭けでした.
 出動したオーストリア・ハンガリー艦隊と合流したドイツ軍艦2隻は,いざという時には英国艦隊を打ち破るだけの力は十分ありましたが,もし英仏艦隊が連合すれば,その勢力はオーストリア,ドイツ艦隊を圧倒することでしょう.

 しかしオーストリア海軍の作戦任務は,大艦隊がアドリア海中部をさらに南下しようとした所で突然の終わりを迎えました.
 7日の午後ドイツの海軍司令部はスーホンの艦隊に行き先の変更を命じ,「ゲーベン」と「ブレスラウ」はギリシャ南部のマタパン岬沖を通り,オスマン・トルコ帝国入り口に当たるダーダネルス海峡へ向かうこととなりました.
 最終的にハウスは彼の艦隊にポーラへ戻るよう命じました.

(ハウス in 世界史板)

(続く?)


 【質問】
 イタリア参戦に対し,オーストリア=ハンガリー海軍はどう対応したのですか?

 【回答】
 1915年5月23日にオーストリア・ハンガリー帝国に宣戦したイタリア王国は,主力となるタラント軍港にド級・前ド級戦艦,アドリア海に面した南部のブリンディジ港には巡洋艦,駆逐艦を配備し,ベネチアには前ド級戦艦2隻,装甲巡洋艦4隻を中心とした艦隊を進出させ,さらに英仏から派遣された戦艦,軽巡,駆逐艦も加えオトラント海峡の封鎖活動を始めました.
 これにより,南部に退いていた英仏海軍もブリンディジを根拠地として再びアドリア海内に進出し,6月5日,イタリア海軍は仏駆逐艦4隻に護衛された巡洋艦4隻を派遣して,ダルマチア南部のラグーサ(現クロアチア領ドブロブニーク)・カッタロ間の鉄道を砲撃し,同日軽巡洋艦「ニーノ・ビクシオ」と仏伊駆逐艦4隻もリッサ島を砲撃しました.

 これに対し,オーストリア・ハンガリー帝国海軍長官&艦隊総司令官のアントン・ハウス提督【大将】は,戦艦を中心とした主力艦隊の温存策をとりつつも,軽巡洋艦,駆逐艦,潜水艦を活用したTipandrunraidsと呼ばれる奇襲攻撃で敵に被害を与える作戦を取りました.

 6月9日にはルドルフ・ジングレ【大尉】の指揮する潜水艦「U4」がアルバニア沿岸部で英巡洋艦「ダブリン」を雷撃して損傷を負わせ,同17日には装甲巡洋艦「サンクト・ゲオルグ」水雷艇14隻がリミニその他のイタリア沿岸を,17〜18日にかけてはホルティ・ミクローシュ【大佐】の率いる軽巡洋艦「ノヴァラ」「アドミラル・スパウン」駆逐艦4隻水雷艇4隻よりなる艦隊が,アンコーナとリミニの中間にある軍事施設ファノとペサロを攻撃して打撃を与えました.
 ホルティの艦隊はさらに北上してリミニも砲撃しました.

 一方ドイツ本国からは分解した潜水艦(「UB1」「UB15」)が鉄道を通してポーラ港まで運び込まれ,オーストリア潜水艦「U10」「U11」として就役していましたが,6月10日に「U11」はベネチア沖でイタリア潜水艦「メドゥーサ」を撃沈し,また同26日には「U10」が同海域でイタリア水雷艇「PN5」を沈めました.
 そして7月7日には潜水艦「U26」(独潜水艦「UB14」がオーストリア艦籍に編入されたもので,乗組員は全員ドイツ人)が北アドリア海に進出していたイタリア装甲巡洋艦「アマルフィ」を撃沈し,18日にはルドルフ・ジングレ【大尉】の指揮する潜水艦「U4」が南ダルマチアのラグーサ・グラヴォサ沖で,同地の鉄道を砲撃していたイタリア装甲巡洋艦「ジュゼッペ・ガリバルディ」「ヴァレーゼ」「フランチェスコ・フェルッキオ」を急襲し,旗艦「ジュゼッペ・ガリバルディ」を魚雷攻撃で沈めました.
 これと同日,イタリア軽巡洋艦「マルサーラ」「クアルト」駆逐艦3隻よりなる艦隊も,別ののダルマチア沿岸部を砲撃していました.

 以上のように,オーストリア潜水艦部隊はドイツの援助で着々と強化されつつあり,ドイツ本国からは分解した潜水艦を鉄道を通してポーラ港まで運び込み,この地で組み立てて順次アドリア海での戦闘に参加させ,またポーラ工廠では独のUB型をもとに新しい潜水艦を順次建造・竣工させました.
(これによりオーストリアの潜水艦は大戦中に新たに21隻(計27隻)が就役しました.)
 一方オーストリア側は8月8・13日のベネチア沖と南アドリア海の戦闘で潜水艦「U3」と「U12」を失いました.

HAUS◆Vsb1IJhbMs in 世界史板


 【質問】
 オーストリア=ハンガリー海軍によるイタリア沿岸部砲撃作戦について教えてください.

 【回答】
 殆ど奥側のワンサイド・ゲームに.

 オーストリア・ハンガリー帝国の同盟国であるイタリア王国は,1915年5月4日に三国同盟を破棄しましたが,当時帝国海軍長官&艦隊総司令官を務めていたアントン・ハウス提督は,5月19日には軽巡洋艦・駆逐艦部隊をアドリア海中部に派遣してイタリアのガルガノ半島沖・ペラゴサ(島)・ダルマチアのラゴスタ(島)沖防衛線の哨戒活動を行わせ,同時に潜水艦部隊をトリエステ湾とリッサ島,モンテネグロ沖に展開させてこれに備えました.

 イタリアは5月23日の16:00pmにオーストリア・ハンガリーに対し宣戦しましたが,オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は全国民に当てて声明を出し,かつての海軍の英雄テゲトフの精神と諸民族の一致団結(ヴィリブス・ウニーティス)のもと,同盟に違反した新たな敵に全力で立ち向かう姿勢を示しました.

 同日20:00pm,アントン・ハウス提督の指揮する,戦艦12隻巡洋艦5隻駆逐艦17隻水雷艇30隻よりなるオーストリア・ハンガリー海軍の大艦隊がポーラからアドリア海に出撃,ハウスは艦隊をいくつかに分けてアドリア海の中部から北部にかけてこれを展開させました.
 ハウスの目標は,アドリア海沿岸のイタリアの都市と鉄道を砲撃してこれを破壊することでした.

 オーストリア艦隊のイタリア沿岸部に対する攻撃は,翌24日の3:00amに,ホルティ・ミクローシュ【大佐】率いる軽巡洋艦「ノヴァラ」駆逐艦1隻水雷艇4隻が最北部のコルシニ(nearラベンナ)を襲撃した事により始まり,
装甲巡洋艦「サンクト・ゲオルグ」水雷艇2隻がリミニ,
準ド級戦艦「ラデツキー」水雷艇2隻がポテンツァ,
その姉妹艦「ズリーニ」水雷艇2隻がセニガリア
をそれぞれ砲撃しました.

 そしてハウスとマクシミリアン・ニェゴヴァン提督【中将】の率いる,ド級戦艦「ヴィリブス・ウニーティス」「テゲトフ」「プリンツ・オイゲン」準ド級戦艦「エルツヘルツォーク・フランツ・フェルディナント」前ド級戦艦「エルツヘルツォーク・カール」「エルツヘルツォーク・フリードリヒ」「エルツヘルツォーク・フェルディナント・マックス」,同じく「ハプスブルク」とその姉妹艦「アルパード」「バーベンベルク」駆逐艦4隻水雷艇20隻よりなる本隊は,勢いよくアンコナへ進んで同地を砲撃しました.
 ハウス提督は自らの旗艦「ヴィリブス・ウニーティス」ではなく,戦艦「ハプスブルク」の艦上からこの作戦を指揮しました.

 一方他の艦艇は,イタリア艦隊の進攻を警戒するための偵察部隊としてアドリア海中南部に展開し,軽巡洋艦「アドミラル・スパウン」「サイダ」「ヘルゴラント」防護巡洋艦「シゲトヴァール」駆逐艦9隻がその任務を務めました.

 このオーストリア海軍の(主力艦隊を含む)全体が参加する作戦任務は,(ドイツ巡洋戦艦「ゲーベン」と軽巡洋艦「ブレスラウ」を救うために出撃して以来)実に9ヶ月と半月ぶりでした.

 リミニでは装甲巡洋艦「サンクト・ゲオルグ」が貨物輸送列車と鉄道橋に被害を与え,セニガリアでは準ド級戦艦「ズリーニ」が列車を破壊して鉄道駅と同橋梁に損害を与えました.
 同じくその姉妹艦「ラデツキー」もポテンツァの橋梁に損害を与えました.
 また最北部のコルシニでは,ホルティ・ミクローシュ【大佐】率いる軽巡洋艦「ノヴァラ」を中心とする艦隊が,沿岸部のイタリア軍事施設と信号場を破壊し,同時に沿岸砲台と戦闘を行いました.

 こういったオーストリア・ハンガリー艦隊の攻撃に対し,軽い防備が施されたイタリア沿岸部からは,ほとんど反応がありませんでした.
 ただし,イタリア軍の沿岸砲台と戦闘を行ったホルティ艦長の「ノヴァラ」からは6名の死傷者が出ており,これはオーストリア側の唯一の死者であり,「ノヴァラ」は損害を受けた数少ない艦艇の1つとなりました.

 一方アンコナは,ハウス【大将】とニェゴヴァン【中将】率いるオーストリア・ハンガリー海軍本隊(主力艦隊)の激しい砲撃にさらされており,これにより電気・ガス・そして電話サービスが一時的に途絶し,鉄道駅とアンコナ郊外の石炭・石油施設はそのほとんどが破壊されました.
 港湾部ではイタリア商船(汽船)3隻が損害を受けて1隻が撃沈されました.
 都市部の損害を受けた施設には,警察署・軍の兵舎・軍事病院・砂糖精製所・そして銀行も含まれておりました.
 これにより,30名の軍事施設の職員と38名の民間人が死亡し,その他150名が負傷しました.

 アドリア海中南部に展開していた巡洋艦・駆逐艦よりなる偵察部隊もまた,沿岸部の鉄道に沿った拠点を攻撃しました.
 バルレッタでは軽巡洋艦「ヘルゴラント」がイタリア軍要塞と貨物輸送列車を砲撃し,
テルモリでは軽巡洋艦「アドミラル・スパウン」が鉄道橋梁と貨物輸送列車に被害を与え,
カンポマリノの駅舎と貨物輸送工場を破壊しました.
マンフレドニアでは駆逐艦2隻が鉄道駅と構内を砲撃し,陸橋・商船・工場にも損害を与えました.

 その後,偵察部隊は巡洋艦2隻・駆逐艦2隻よりなるイタリア海軍艦艇と出くわしましたが,ペラゴサ島沖で軽巡洋艦「ヘルゴラント」と駆逐艦3隻よりなるオーストリア艦隊は,イタリア駆逐艦「タービン」を追い詰めて,これを撃沈しました.
 ただし,「タービン」の攻撃でオーストリア駆逐艦「セペル」も軽い被害を受けており,その乗組員数名も負傷させられました.
 その戦闘の後,「セペル」艦長ジャンコ・ブコヴィッチはその予想を遥かに超えていた≠ニいうイタリア国籍・同艦艇乗組員の奮闘を高く評価したようです.

 オーストリア艦隊の攻撃により,イタリア沿岸部の鉄道は長い間機能不能状態となりました.
 ただ,初日に軍用列車が中心部と南部から前線に向かうと同時に,イタリア側は別のルートへと方向転換せざるを得なくなりました.
 イタリア国民は意気消沈し,特に砲撃を受けた都市の市民とローマの代表者達は,オーストリア・ハンガリー海軍が300マイルもの海岸線にわたる多くの拠点を(ほとんど損害を受けずに)砲撃できた事,その艦艇を失う事なく自国の港に戻れた事に驚かされました.

HAUS in 世界史板


 【質問】
 ペラゴサ島攻防戦について教えてください.

 【回答】
 イタリア海軍は1915年7月11日にリッサ島の南80キロに位置するオーストリア領のペラゴサ島を急襲してこれを占領しました.
 オーストリア・ハンガリー海軍はアドリア海中部のイタリア・ガルガノ半島〜ペラゴサ島〜ダルマチアのラゴスタ島にかけて防衛ラインを設定しており,ペラゴサ島はオーストリア海軍の戦略上重要な拠点でした.
 イタリア側はアドリア海を南北に分断してオーストリア海軍を遮断するための足がかりとして,またダルマチア沿岸部に対する偵察拠点確保のためにペラゴサ島へ進出しようとしたようです.

 イタリア海軍はどのような艦隊構成でこの島を攻撃・占拠したかについては,手元に資料がないためよくわからないのですが,当時島にはオーストリア軍の通信兵が6名しかおらず,イタリア軍は40〜90名の兵を上陸させて3インチの銃砲2門たらずでこれを占拠したようです.
 以後イタリア海軍は,島とその周辺部に潜水艦部隊を配備するようになりました.
 また7月12日には,北東に位置するラゴスタ島をフランス艦艇が砲撃したようですが,フランス軍の同島占領を望まないイタリア政府は,これを拒絶しました.

 これにより,オーストリア海軍のアントン・ハウス提督はラゴスタ島の防衛ラインを強化するとともに,7月19日には水雷艇3隻でリッサ島沖での機雷施設を開始しました.
 早くも7月13日には,オーストリア駆逐艦「タトラ」が空中からの偵察機の支援により,ペラゴサ島のイタリア側の拠点砲撃を試みたようですが,これがフランス潜水艦「フレスネル」に阻止されたり,同艦がオーストリア水上飛行艇の攻撃を受けたりと早くも戦闘が始まりました.
 オーストリア海軍は7月27〜28日にかけては,軽巡洋艦「ヘルゴラント」「サイダ」駆逐艦(タトラ級)6隻,水雷艇4隻よりなる艦隊をペラゴサ島に派遣し,108名の兵を上陸させましたが,以後2週間にわたり抵抗を受けたようです.

 オーストリア・イタリア両国軍がどのような戦闘を行ったのかは資料不足でわかりませんが,ただこの時オーストリア駆逐艦「バラトン」がフランス潜水艦「アンペレ」の雷撃を受けました.
 まあ大事には至らなかったようですが・・.

 一方オーストリア海軍の根拠地ポーラからは,7月31日に準ド級戦艦「エルツヘルツォーク・フランツ・フェルディナント」前ド級戦艦「エルツヘルツォーク・カール」「エルツヘルツォーク・フリードリヒ」「エルツヘルツォーク・フェルディナント・マックス」巡洋艦3隻,駆逐艦16隻が出動したものの,48時間後には港に戻ってきております.
 これは外洋に出動しようとしていたのか,それともポーラ周辺部の哨戒活動に出ていたのか,詳しい事情や目的はちとわかりませんが・・.
 ただし潜水艦部隊はペラゴサ島方面に出動させたようで,8月5日にはゲオルグ・フォン・トラップ【中尉】の指揮する潜水艦「U5」が,ペラゴサ島沖合部に展開していたイタリア潜水艦「ネリーデ」と交戦してこれを撃沈しました.

 その後8月16〜17日にかけて軽巡洋艦「ヘルゴラント」「サイダ」駆逐艦4隻,水雷艇4隻よりなるオーストリア艦隊が再びペラゴサ島を攻撃しました.
 この時駆逐艦「ディナラ」が敵潜水艦の雷撃を受けたようですが,特に大事には至らなかったようで,イタリア側は貯水施設に被害を受けた後,この島から撤退していきました.

 ペラゴサ島を巡るイタリア・オーストリア両国軍の攻防についてですが,手持ちの『Thenavalpolicy〜』の文献によると,
「Thegarrison(イタリア軍守備隊は)withstood(よく持ちこたえた)an attack on 28July.(7月28日のオーストリア軍の攻撃に対し)〔281頁〕」という記述がある事から,両国間にそれなりの激戦?らしきものがあったと思われます.
その後
「Pelagosa was evacuated on 18 August, one day after a heavy shelling from the scout cruisers Saida and Helgoland and several destroyers.〔同頁〕」
とあり,イタリア軍がどのような形で島から兵を撤退させたのか興味がある所です.

 もちろんゲオルグ・フォン・トラップ【中尉】の活躍も,
「the U5-then still under Trapp's command-torpedoed and sank the Italian submarine Nereide.〔同頁〕」
という形で記述されております.

HAUS◆Vsb1IJhbMs in 世界史板


 【質問】
 オーストリア=ハンガリー海軍は,オスマン帝国への支援はしなかったの?

 【回答】
 検討されたが,実行はされていません.

 1915年2月下旬,連合国海軍によるオスマン帝国のダーダネルス海峡への攻撃が始まると,ドイツはハウス提督に対し,オスマン帝国に艦艇を送って援助するよう圧力をかけてきました.
 ハウスは(一時)新しく竣工した最新軽巡洋艦「ノヴァラ」とその姉妹艦「アドミラル・スパウン」に軍需物資を積み込んでトルコへ送る事を検討していたようで,
 特に,大胆さと勇気さを兼ね備えたホルティ【大佐】が艦長を務める「ノヴァラ」がその任務に適していると考えました.
 しかし最終的に,その任務はリスクが大きすぎると判断したようです.

 ドイツはまた,オーストリア海軍に対し潜水艦2隻を,ダーダネルス海峡へ派遣して,同地の連合国海軍に当たらせるよう要請してきました.
 しかし,当時のオーストリア海軍には戦闘に用いる事のできる潜水艦が5隻しかなく,ハウスが拒否したためにこれも立ち消えとなりました.

HAUS◆Vsb1IJhbMs in 世界史板


 【質問】
 軽巡「ノヴァラ」の独潜曳航作戦について教えてください.

 【回答】
 オーストリア・ハンガリー帝国海軍の改アドミラル・スパウン級軽巡洋艦「ノヴァラ」は1915年1月10日,フューメ(現クロアチア領リエカ)のダヌビウス造船所で竣工しましたが,ホルティ・ミクローシュ【大佐】が艦長を務める同艦に初の大仕事が回ってきました.

 ドイツは,オーストリア海軍に対し潜水艦2隻を,ダーダネルス海峡へ派遣して,同地の連合国海軍に当たらせるよう要請してきました.
 しかし,当時のオーストリア海軍には戦闘に用いる事のできる潜水艦が5隻しかなく,ハウス提督はそれを拒否.
 ドイツはそのため,自国海軍の潜水艦を同地に送る事を考えました.
 そこで,オーストリア海軍の水上艦がドイツ潜水艦をギリシャのイオニア海域まで牽引する事となり,5月2日にホルティ艦長の軽巡「ノヴァラ」はドイツ潜水艦「UB8」を伴い,ポーラを出航しました.

 その後2隻の艦艇はオトラント海峡を無事に通過しましたが,すでに同海峡を封鎖していたフランス巡洋艦隊が退いてから1週間近くが経過しておりました.
(4月26〜27日にかけて,ゲオルグ・フォン・トラップ【中尉】の指揮するオーストリア潜水艦「U5」が,同海峡を哨戒していた仏装甲巡洋艦「レオン・ガンベッタ」を撃沈した事による)

 とあるサイトによると,5月6日にホルティ艦長の軽巡「ノヴァラ」は,イオニア海のキファリニア島沖で,同海域に退いていたフランス艦隊と遭遇したらしいのですが,それを見事にかわし,独潜水艦を切り離した後,無事にアドリア海内の母港へ戻る事に成功したようです.
(潜水艦は11日にコンスタンティノープルに到着)

 ホルティが作戦任務を行った場所は,カッタロから約300マイル南の地にありました.
 その後,5月15〜16日にはオーストリア駆逐艦「トリグラヴ」が独潜「UB7」を伴い,ホルティの偉業に続きました.

 それから3週間後の5月24日3:00am,ホルティは軽巡「ノヴァラ」駆逐艦1隻水雷艇4隻を率い,オーストリア・ハンガリー艦隊の先陣を切って,アドリア海に面したイタリア北部のコルシニを襲撃,同地の沿岸砲台と接近戦を交えたのです.

HAUS in 世界史板


 【質問】
 戦艦「ツェント・イストヴァーン」の沈没までの経緯は?

 【回答】
 大戦もはや4年目に入った1918年の夏,アドリア海に閉じ込められた形でいたオーストリア=ハンガリー帝国海軍は,膠着した戦争の局面の打開を図った乾坤一機の大博打を打つことにした.
 陸ではイタリア軍に対してソエア戦線での大攻勢を行い,海軍もこれに呼応したからだ.

  海軍総司令官に任命されたミクロス・ホルティ・デ・ナギィバーニャ少将が立案した作戦は壮大なものではあったが,複雑極まるものでもあった.2つの攻撃部隊と7つの支援部隊が相互に連携しながら行動しなければならないからだった.
 計画ではオトラント海峡での主力艦隊の攻勢と共に,準ド級戦艦エルツヘルツォ−ク・フランツ・フェルディナント,ラデツキー,ズリーニを中心とする艦隊をベネチア沖に展開させ,また潜水艦部隊にブリンディジとヴァロナを襲撃させるつもりだった.

 プーラから出撃した戦艦部隊は二手に分かれて進撃することになったが,それに付けられる小型艦艇が不足していたので,その警護網は手薄にならざろう得なくなった.
 ホルティ提督自ら座乗する戦艦 Viribus Unitis ,Prinz Eugenと五隻の護衛艦艇は1918年6月8日にプーラを出港した.
 また戦艦 Szent Istvan,Tegetthoff は翌9日にプーラを出た.護衛に当たるのは駆逐艦1隻と魚雷艇5隻の少数であった.
 後者の出港が遅れたのは港の防潜網の移動,撤去に手間取ったためである.
 その遅れを取り戻すべく,艦隊は16ノットの高速で航行をすることとなった.
 しかし,そのため「SI」の機関は過熱してしまい,安全のために12ノットに減速して進むしかなくなった.
 しばらくして,また増速できるようになったが,「SI」の煙突からは盛大に煙が吐き出されることになり,遠くからでもひときわ目立つことになった.

 翌10日の未明には,プーラから東南へ100キロほど進んだ艦隊だったが,思わぬ事態に遭遇することになった.

 プレムダ島の沖合いで,たまたまイタリアの魚雷艇2隻,MAS15とMAS21が自軍の潜水艦のために,測深,機雷の有無などを調査していた.
 イタリアの指揮官ルイジ・リッツォ大尉は前年モナーク級の装甲艦「ウィーン」を撃沈した猛者であった.
 僚艇21号は「テゲットホーフ」を狙ったが,魚雷1本の発射に失敗,他の1本は命中したが不発に終わった.
 しかし,「SI」には「幸運の女神」は微笑まなかった.午前3時31分に2発の魚雷が相次いで,右舷の中央部に命中し炸裂.艦体外郭部と機関室の隔壁部に大きな損害を受けて,主機関室に大量の浸水を生じた.そのため艦は右舷へ大きく傾斜して停止した.
 軽微な損傷に留まった2つの補助機関室の動力を使用して,必死の排水活動が行われたが,傾斜を止めることはできなかった.
 次善の策である,付近のモーラ(Molata) 島への座礁策も失敗した.
 すべての主砲を左舷に向け,バランスを少しでも回復させようとしたが無駄であった.

 遂に万策尽き,総員退艦が命じられた.
 その間にも艦の傾斜は増してゆき,遂に横転した.数度転覆した腹を揺らしながらも,静かに艦首の方から沈み始めて,艦体全てが海に没したのは午前6時12分のことであった.
 最後まで電力を供給する作業に従事していた補助機関室に留まっていた機関員を含めて,89人の犠牲に留まったのは,不幸中の幸いであった.

 「ツェント・イシュトヴァーン」のその後

  冷戦が終わった後の1990年から足掛け8年をかけて,オーストリア,ハンガリーにクロアチアの合同チームが水深66メートルに眠る「SI」の残骸を調査した.
 それによると,艦体は裏返しになった状態で横たわっていて,着底した際の衝撃で艦首から約30メートルほどのところで破断しているそうである.
 主砲塔は沈没時と変わりなく,すべて左舷正面に向いたままだった.
 また艦体には大きな穴が4つ見つかったそうで,うち2つは魚雷によるもの,また1つも魚雷による可能性がある.
 そうなると被雷時の報告が誤っていたことになるが,結論はまだ出ていない.
 残る1つは着底時の衝撃によるものか,または内部の原因によるものか不明.
 前部弾薬庫は艦体の亀裂部分から入ることが出来るが,危険はある.
 かつて艦尾で帝国の誇りを象徴していたネームプレートは,引き上げられ,今はプーラの海事博物館に展示されている.

 なお,手元の資料では「SI」と同級の「テゲットホフ」の基本的数値は,
全長152・83メートル,
全幅27・336メートル,
喫水長8.741メートル,
満載排水量21,595トン,
最大速力20.3ノット(37.57キロメートル),
航続距離10ノットで4200海里(7774キロメートル),
乗員数1097人(士官31〜38人)
となっています.

 開戦後,戦訓から多少の改造が施されたとしても,10%もの排水量が増えるようなことが行われたかは不明.

(権兵衛さん in 世界史板)

  ホルティ提督の回想録より

 最高司令部よりの認可を受けて,[封鎖線打破]作戦は1918年6月11日に設定された.
 目的地の到達するには2晩の秘匿を必要とした.まず,グラボーサ?(Gravosa)港北のスラーノ(Slano)泊地から第1戦艦部隊から出撃を命じた.
 ザイツ大佐指揮下の第2戦艦部隊は目的地までの距離が半分のグロッサ(Grossa) は24時間の余裕があるので,それまで待機させることにした.
 原因不明の理由により,港湾の防潜網の移動が遅れ,更に戦艦テゲットホーフの機関のトラブル――これは,「ツェント・イシュトバーン」と混同しているようです―― により,艦隊の進行は遅れた.未明になって,イシュトバーンが闇にまぎれて接近してきたイタリアの魚雷艇の攻撃を受け,2本の魚雷を被雷した.
 3時間と経たずに同艦は沈没し,魚雷艇は逃げ去った.
 これは我々の意図が敵に知られたことを意味した.オトラント海峡の封鎖線が一層強化されるこ とは明らかであった.
重苦しい状況の中で,私は艦隊に撤収を命じた.

(権兵衛さん in 世界史板)


 【質問】
 提督アントン・ハウスはどんな人物か?

 【回答】
 提督アントン・ハウスは1851年6月13日にスロベニアのトルメインにて出生,1869年に海軍に入りました.
 その後フューメ(現クロアチア領リエカ)の海軍士官学校の指導者として,有名な書物「Oceanography andMaritime Meteorology」を公表したのですが,1900年にはアジアにて軍艦を指揮(自身は装甲巡洋艦マリア・テレジアの艦長だった),そして義和団の反乱の間他の欧米列強と共に海兵隊を中国(清国)の北京に侵攻させました.
 彼は1902年まで北京に留まり,1907年に海軍中将に昇進,そしてその年の5月から10月にかけてはオーストリア・ハンガリーの代表としてハーグの第2平和会議に参加しております.

 1912年より海軍及び艦隊の司令官,その後1913年2月22日にモンテクッコリが辞任した後,皇帝フランツ・ヨーゼフ1世より海軍長官(大将)及び艦隊司令長官に指名され,同年の独・墺・伊の三国同盟更新時には,彼が地中海の三国連合艦隊の総指揮にあたり,非常時には仏海軍などに対応する予定だったようです.

 彼は海軍の戦略家として高く評価されていたようで,
「帝国の艦隊は,敵を積極的に攻撃するために用いられるのではなく,あくまで地中海における連合国海軍の活動を抑止させるための手段として位置づけられるべき」
という考えを主張.
 第一次大戦時には戦艦を中心とする主力艦隊の温存策を採りましたが,大戦勃発直後の8月上旬には,ド級・準ド級戦艦6隻,巡洋艦2隻,駆逐艦・水雷艇19隻よりなる艦隊を,当時地中海にいたドイツ巡洋戦艦ゲーベン,軽巡洋艦ブレスラウ護衛&アドリア海南部の哨戒を目的として(英仏との正面衝突を避けつつ)一時出動させており,1915年5月23日にイタリアが対墺宣戦した直後には,戦艦12隻,巡洋艦5隻,駆逐艦17隻,水雷艇30隻よりなる大艦隊をアドリア海北部のイタリア沿岸部に出撃させ,自身はマクシミリアン・ニェゴヴァン中将と共にド級戦艦ヴィリブス・ウニーティス以下の戦艦10隻,駆逐艦4隻,水雷艇20隻の本隊を率いアンコナを砲撃しました.
 興味深いのは,彼が旗艦ヴィリブス・ウニーティスではなく戦艦ハプスブルクの艦上からこの作戦を指揮したことで,その後は軽,艦艇や潜水艦を用いたTipand run raidsと呼ばれる奇襲攻撃により,イタリアなどの連合国海軍を苦しめますが,彼はドイツの無制限潜水艦戦を支持した数少ないオーストリアの指導者の1人だったようです.

 1916年にはGrand Admiralの称号を得ましたが,肺炎により1917年2月8日にポーラのド級艦ヴィリブス・ウニーティス艦上で死去,享年66歳.
 彼の遺体は戦後7年を経て,1925年にウイーンに移されました.
 ・・余談ですが,彼は帝国内のいくつもの言語を話すことができ,またピアノに熟練し,珍しい植物収集を趣味とした知性的な紳士だったようです.

(ハウス in 世界史板)


 【質問】
 「サウンド・オブ・ミュージック」のトラップ少佐は,オーストリアの人なのに,なぜ海軍なのですか?

 【回答】
 トラップ少佐はサブマリンエースです.
 オーストリア・ハンガリー海軍では第一次大戦前に潜水艦部隊が編成されると,伝統にとらわれない気風と高給により,若い士官の関心を引きました.
 開戦時7隻の近海用潜水艦しか持っていませんでしたが,フォン・トラップ中尉はその中の艦長の一人でした.
 海軍上層部の無理解により,オーストリア・ハンガリー海軍の潜水艦作戦範囲は母港であるプーラ付近にのみ許可が出されていて,アドリア海南部での戦闘も困難でしたので,1916年末時点で中小型船を18艘しか沈めることが出来ませんでした.
 しかし17年になり,ようやく考えを改めた海軍は,随一の長距離作戦が可能なU-14と新型のU-10型2隻の潜水艦を南のカッタロに移動させて無制限潜水艦戦を宣言しました.
 ホルティ提督の艦隊のオトラント海峡の連合国封鎖線襲撃により,地中海に出撃可能となったU-14は,2ヶ月で合計3万トンの船舶を撃沈する戦果を挙げました.
 戦勝ニュースに飢えていた新聞はU-14の艦長フォン・トラップを盛んにエースとして取り上げ,国民的英雄扱いしました.
 映画「サウンド オブ ミュージック」のエピソードにありますように,ドイツがトラップ少佐を自軍に招こうとしていたのは潜水艦戦のエースである彼の実績と名声を欲していたからです.

(軍事板)

 トラップ少佐とイタリア海軍とのやりとりで印象的なのは,アドリア海中部のオーストリア領・ペラゴサ島をめぐる戦いです.
 ペラゴサ島はアドリア海の戦略上重要な拠点であり,イタリアはここを占領してダルマチア攻撃のための足がかりを築こうとしました.
 1915年7月11日,イタリア海軍はペラゴサ島を急襲してこれを占領し――当時,島にはオーストリアの通信兵が6名しかおらず,イタリアは難なくこれを占領――,以後周辺部に潜水艦部隊を配備するようになりました.

 これに対してオーストリア海軍は,巡洋艦・駆逐艦部隊を派遣して兵の上陸を試みましたが,これは伊仏潜水艦部隊と島の守備兵の抵抗によって阻止されたため,ひとまず艦隊を撤退させました.
 その一方,潜水艦を同地に派遣してこれに対抗させ,8月5日にはゲオルグ・フォン・トラップの指揮する潜水艦U5が,沖合部に展開していたイタリア潜水艦ネリーデと交戦してこれを撃沈してからは戦局はオーストリア側が有利となり,8月16・17日には再び派遣されてきた軽巡洋艦ヘルゴラント,サイダ,駆逐艦4隻,水雷艇4隻よりなるオーストリア艦隊の総攻撃により,島の奪回に成功しました.

(ハウス in 世界史板)

von Trapp


 【質問】
 トラップ男爵の最終階級は大佐ではないのか?

 【回答】
 トラップ男爵(正確には准男爵)だが,開戦時は上級中尉(英米軍でいう中尉と大尉の間の階級)だった.
 開戦後,武勲を挙げるに従って昇進したが,少佐で終わった.大佐には程遠いランクであった.

 今は亡き帝政オーストリア=ハンガリー二重帝国海軍の佐官は大佐,上級中佐,中佐,少佐の4段階であって,それぞれカピテーン・ツール・ゼー,フロッテイレン・カピテーン(戦隊指揮官),フレガッテン・カピテーン軽巡洋艦指揮官),コルベッテン・カピテーン(護衛艦指揮官)となるが,これらの呼称は略すと全て「カピテーン」になってしまう.そこを英語に置き換えれば,「海軍大佐殿」に化けてしまうことになる.

 今は絶版となっている三笠書房の「トラップ一家物語」(後妻のマリアが書いた自伝)でも,ナチ・ドイツによる「併合」が行われた夜,執事のフランツが「ヘル・コルベッテンカピテーン(海軍少佐殿)」と呼びかけるところがある.20年連れ添った旦那の軍歴と階級を間違える訳はない.
 また,ドイツで発行されている「世界海軍著名軍人略伝」の中でも「海軍少佐」と明記されている.

(世界史板)

 ゲオルク・トラップ経歴

 1894-1989海軍兵学校
 1898海兵隊少尉に任官
 1900義和団事件に従軍
 1908航海科に転科(階級・Linienschiffsleutnant)
 1908潜水艦隊に配属
 1911U4艦長に就任(階級・Kommandant)
 1915U5艦長に転任(階級・Kommandant)
 1915レオン・ガンベッタ撃沈
 1916U14艦長に転任(階級・Kommandant)
 1917貨物船ミラッツォ撃沈
 1918階級Korvettenkapitaen
 1918Uボートステーション・ゴルフvカッタロに転任(階級・Kommandant)
 1919予備役編入

 授章メダルは,
マリアテレジア騎士十字勲章
レオポルト騎士十字勲章
三級アイゼルネクローネ勲章
戦功銀章
三級軍事十字章
戦功銅章
ドイツ一級鉄十字章
ドイツ二級鉄十字章
オットー戦功章
カール勇猛章
WW1従軍記念章
義和団従軍記念章
勇猛勲章(義和団事件戦功)

(世界史板)


 【質問】
 トラップ少佐と同じように潜水艦で活躍したレルヒは日本じゃマイナーですが,戦後はどうなったんで? ドイツ海軍入り? 亡命?

 【回答】
 実はレルヒ Egon Lerch は戦後まで生きておりません.1915年8月の北アドリア海の戦闘で命を落としております.
 彼は14年12月末のオトラント海峡でフランスのド級戦艦ジャン・バール(防護巡洋艦ツェンタの仇)に魚雷2発をぶち当て,これに損害を与えた(大戦を通しオーストリアUボートが敵戦艦に損害を与えた唯一の例)ことで,戦史に名を残しています.

 また,彼はルドルフ皇太子の娘さんの愛人だったようで,塚本哲也著「エリザベート〜ハプスブルク家最後の皇女」文芸春秋 にもその事が出てきております.

(ハウス in 世界史板)


 【質問】
 トラップ少佐やジングレ大尉と共にマリア・テレジア騎士十字章を受賞したヘルマン・リジーレ(Herman Rigele)大尉の第一次大戦中の戦歴は?

 【回答】
 1918年9月に入るとオトラント海峡には駆逐艦31隻・水雷艇10隻・潜水艦8隻・駆潜艇36隻(米艦艇) ・ドリフター153隻といった,大小合わせて250隻を超える連合国艦艇が集結し,10月2日には伊戦艦3隻・伊英巡洋艦8隻・同駆逐艦16隻・水雷艇8隻・米駆潜艇と伊MASよりなる艦隊が北上,アルバニア沿岸部のオーストリア勢力下の都市ドウラッツオを砲撃しました.

 対するオーストリア側は,駆逐艦・水雷艇・潜水艦の小部隊が敵艦隊への襲撃を試みたようで,この 時ヘルマン・リジーレ(Herman Rigele)大尉の指揮する潜水艦U31が,英巡洋艦Weymouthに対し魚雷攻撃を行ないましたが,最終的にこれを沈没させるまでには至りませんでした.

 そしてその2週間後の10月17日にオーストリア潜水艦部隊に対し戦闘中止命令が下されました.

(ハウス in 世界史板)


 【質問】
 マリア・テレジア軍功十字章とは?

 【回答】
 1757年7月18日のコリーンの戦いの大勝利を記念してマリア・テレジア女帝により設けられた ,帝国内の士官への最高軍事勲章です.
 中央にオーストリアの紋章を配し,周りにラテン語で「勇気」と記されています.
 世襲の貴族称号も併せ持つ勲章であり,1918年11月まで授与されました.

 この章には,「大十字章」と「軍司令官十字章」と「騎士十字章」とがあります.
 しかし上の二つは,国家元首や最高司令官級や軍司令官などに贈られる「儀礼的な勲章」と考えたほうがいいので,実際上は3番目の騎士十字章が代表的な戦功勲章となるでしょう.
 110個が贈られたそうです.上は大将から下は中尉まで受賞者の階級は様々です.

  Uボートの艦長で受賞したのは3人で,トラップのほかはルドルフ・ジングーレ(Rudolf Singule)大尉とヘルマン・リジーレ(Herman Rigele)大尉です.
  リジーレ大尉は受賞者の最後の生存者として,1982年に101歳の生涯を閉じたそうです.
 養老院で慰問のために上映された「サウンド・オブ・ミュージック」を見て,かつての畏友トラップ少佐が「コケ」にされていると,彼はカンカンになったというエピソードが伝えられています.

(「権兵衛さん」他 in 世界史板)


 【質問】
 終戦時のオーストリア=ハンガリー海軍艦艇配備状況は?

 【回答】
◇終戦時のオーストリア=ハンガリー海軍艦艇配備状況◇

【ポーラ軍港】
 準ド級戦艦Radetzky,Zrinyi,Erzherzog Franz Ferdinand
 ド級戦艦Prinz Eugen,Tegetthoff,(×Viribus Unitis)
(以上軍港内の北西から南東にかけて並んでいた主力艦艇)

 前ド級戦艦Habsburg,Arpad,Babenberg
 海防戦艦Budapest,
 装甲艦Mars
 装甲巡洋艦Kaiserin und Konigin Maria Theresa
 防護巡洋艦Aspern,Szigetvar
 水雷巡洋艦Leopard
 駆逐艦Tatra[Balaton]Csepel,Blitz,Csikos,Dinara,Huszar,Orjen,Planet,Trabant,Turul,Ulan[Uskoke,Velebit,Warasdiner]
 水雷艇Tb8,10,74,77,78,81,86,94,98 [Tb51,59,64,67,68,70,75,80,90,92,95,99]

【カッタロ軍港】
 前ド級戦艦Erzherzog Karl,Erzherzog Friedrich,Erzherzog Ferdinand Max
 海防戦艦Monarch
 装甲巡洋艦Sankt Georg
 防護巡洋艦Kaiser Franz Josef I
 水雷巡洋艦Panther
 駆逐艦Pandur,Reka,Satellit,Scharfschutze
 水雷艇Tb6,9,15,54,62,73,76,79,82,83,85,87,88,89,93,97,100

(ハウス in 世界史板)


 【質問】
 オーストリア=ハンガリーの残存艦艇は,その後どうなったのか?

 【回答】
弩級戦艦Tegetthoff(テゲトフ)
 休戦と同時に独立を認めたユーゴに移管するも,伊の主張で賠償艦として同国に引渡.
 艦籍に編入せず24年解体.
 [世界の艦船増刊近代戦艦史]

弩級戦艦Prinz Eugen(プリンツ・オイゲン)Tegetthoffと同型
 ユーゴから賠償艦としてフランスに引渡,22年にツーロン沖で標的として撃沈.
 [世界の艦船増刊近代戦艦史]

準弩級戦艦Erzherzog Flanz Ferdinand(エルツヘルツォーク・フランツ・フェルジナンド)
 上記Tegetthoffとともに伊への戦利艦として19年3月22日ヴェネチアに到着.
  [世界の艦船No108(1966年8月号)掲載の「写真オーストリア戦艦史下」]

沿岸防御用小型戦艦Erzherzog Kronprinz Rudolf(エルツヘルツォーク・クローンプリンツ・ルドルフ)
 20年ユーゴに引渡(以後不明)
 福井静夫氏の「世界戦艦物語」によると1887年進水の老兵,すると早々に除籍か?
 どこで見たのか記憶が確かでないですが,ユーゴに譲渡された旧オーストリア戦艦,それをフランコパンナ?とか命名したと言う話,この艦のことでしょうか?
[第二次大戦駆逐艦総覧:大日本絵画]

Habsburg級前弩級艦 Habsburg/Arpad/Babenberg(1900〜02)
 全艦英国に引き渡されたが,1921年にイタリアで売却,解体.

Erzherzog Karl級前弩級艦 Erzherzog Karl/Erzherzog Friedrich/Erzherzog Ferdinand Max(1903〜05)
 3隻ともYugoslavia海軍に引き渡されたが,フランスと英国に賠償として引き渡され,売却,解体.

海防戦艦 Kronprinzessin Erzherzogin Stephanie(1887)
 1910年には除籍され,機雷学校の練習船になっていたが,1920年イタリアに賠償として引き渡し,
 1926年,繋留地で解体.

海防戦艦 Kronprinz Erzherzog Rudolf(1887)
 1919年にYugoslavia海軍に賠償として引き渡され,Kumborと改名.
 しかし,老朽化のため1922年に解体.

Monarch級海防戦艦 Monarch/Budapest(1895〜96)
 両艦とも英国に引き渡され,1920〜21年に掛けてイタリアで売却,解体.

軽巡洋艦Novara(ノヴァラ)
 仏戦利艦,巡洋艦Thionville(ティオンヴィル)として短期間使用.
 [世界の艦船増刊フランス巡洋艦史]

軽巡洋艦Saida(サイダ)
 20年9月19日イタリアに引渡,21年より巡洋艦Venezia(ヴェネチア)として使用.
 37年3月11日除籍

軽巡洋艦Helgoland(ヘルゴランド)Saidaの同型艦
 20年9月19日イタリアに引渡,23年より巡洋艦Brindisi(ブリンディジ)として使用.
 37年3月11日除籍
 [世界の艦船増刊イタリア巡洋艦史]

装甲巡洋艦 Kaiserin und Koenigin Maria Theresia(1893)
 老朽化のため除籍状態で,1917年に武装撤去(武装はイタリア戦線へ)され,
 ドイツ潜水艦乗員の宿泊船となり,1920年に英国に引き渡し,イタリアで売却解体.

装甲巡洋艦 Kaiser KarlVI(1898)
 1920年英国に引き渡し,イタリアで解体.

装甲巡洋艦 Sankt Grorg(1903)
 1920年英国に引き渡し,イタリアで解体.

防護巡洋艦 Kaiser Franz Joseph I(1898)
 僚艦Kaiserin Elisabethは青島で自沈.
 1917年に武装を撤去し,水上司令部として機能していたが,1919年にフランスに引き渡し.
 引き渡しの途次,大嵐によって1919.10.にCattaro湾のKumborで沈む.

軽巡洋艦 Panther級 Panther/Leopard(1885)
 英国に賠償として引き渡し,1920年,イタリアで売却解体.
 ちなみに,この艦は英国が提唱していた,雷装衝角艦を具現化したもの.

軽巡洋艦 Tiger(1887)
 1919年にYugoslavia海軍に引き渡されたが,1920年にイタリアが賠償として没収し,売却解体.

軽巡洋艦 Zenta級 Aspern/Szigetvar(1897〜1900)
 英国に賠償として引き渡し,1920年,イタリアで売却解体.

駆逐艦,主力駆逐艦7隻が20年9月伊に戦利艦として移籍.
 Tatra(タトラ),Fasana(ファサナ)と命名,23年除籍.
 Balaton(バラトン),Zenzon(ゼンゾン)と命名,23年除籍.
 Csepel(チェペル),Muggia(ムッジア)と命名29年3月15日廈門沖で台風で喪失.
 Orzen(オルゼン),Pola(ポーラ)と命名.31年Zenzonを襲名.37年除籍.
 Triglav(トリグラフ),Grado(グラード)と命名.37年除籍.
 Lika(リカ),Cortellazzo(コルテラッツォ)と命名.39年頃除籍.
 Uzsok(ウツォーク),Monfalcone(モンファルコーネ)と命名.39年頃除籍.
  [第二次大戦駆逐艦総覧:大日本絵画]
  [世界の艦船No147(1969年8月号)掲載の写真イタリア駆逐艦史第7回]

【水雷艇群】[第二次大戦駆逐艦総覧:大日本絵画]
 ギリシア,21年水雷艇6隻を獲得.20年に分配を受けたとの記述もあり詳細不明.
 92F,獲得後Proussa(プロウッサ)と命名.41年4月4日コーフー沖で独軍機の空襲により戦没.
 95F,獲得後Pergamos(ペルガモス)と命名.41年4月25日サラミス沖で空襲により戦没.
 95F,獲得後Panormos(パノロモス)と命名.38年3月トウルロス岬沖で座礁沈没.
 誤植なのかどちらも前艦名が95F,どちらが本当の95Fか不明.
 98M,獲得後Kyzikos(キジコス)と命名.41年4月24日サラミス沖で空襲により戦没.
 99M,獲得後Kios(キオス)と命名.41年4月22日アテネ沖で空襲により戦没.
 100M,獲得後Kidoniai(キドニアイ)と命名.41年4月26日モーレア南方で空襲により戦没.

 ポルトガル,水雷艇6隻を獲得.内2隻は19世紀,他4隻は一次大戦海戦前後の竣工.
 全て40年に除籍.
 ルーマニアの項では74Tの同型6隻との記述有り,こちらの方が正しいと思う.

 ルーマニア,水雷艇7隻を獲得.
 74T,Viforul(ヴィフォルール)と命名.32年予備艦.
 75T,Vartejul(ヴァルテジュール)と命名.32年予備艦.
 80T,Vijelia(ヴィジェリア)と命名.32年予備艦.
 81T,Sborul(スボルール)と命名.44年ソ連が接収,Musson(ムッソン)と命名.
 45年9月22日返還,原名に戻る.修理後46年再役.59または60年除籍.60年解体.
 82F,Naluca(ナルカ)と命名.44年8月20日ソ連軍のコンスタンツァ空襲で沈没.
 83F,Smeul(スミュール)と命名.44年ソ連が接収,Toros(トロス)と命名.
 45年9月22日返還,原名に戻る.修理後48年再役.59または60年除籍.60年解体.
 84F,Fulgerul(フルゲルール)と命名.回航途中にボスポラスで浸水沈没.

 ユーゴスラビア,沿岸用小型水雷艇4隻,近海用水雷艇12隻を保有.
 なお他に上述の戦艦,特務艦各種,モニター,小艇等を保有.
 76T,T1と命名.41年4月伊が捕獲.原名のまま伊が使用.43年9月脱出同年12月返還. Golesnica(ゴレスニカ)と改名し59年除籍.
 77T,T2と命名.39年頃登録抹消.
 78T,T3と命名.41年4月伊が捕獲.原名のまま伊が使用. 43年9月16日フューメで独が捕獲TA48として44年8月15日再役クロアチア所属. 44年12月14日独が再取得し,45年2月20日トリエステで被爆沈没.
 79T,T4と命名.39年頃登録抹消.
 87F,T5と命名.41年4月伊が捕獲.原名のまま伊が使用.43年9月脱出同年12月返還. Cer(セール)と改名し,63年予備艦.
 93F,T6と命名.41年4月伊が捕獲.原名のまま伊が使用.
 43年9月11日ケセナティコ北方10マイルに自沈.
 96F,T7と命名.41年4月伊が捕獲.原名のまま伊が使用.43年9月独が捕獲. クロアチアに引渡,以降不明.
 97F,T8と命名.41年4月伊が捕獲.原名のまま伊が使用. 43年9月11日ダルマチア諸島からの伊兵撤退時ブンタ・オリヴァで独軍機が撃沈. 独捕獲時にT3は改名,T'7は改名なしの理由不明.あるいは独軍への編入の有無か.
 12隻とあるが残り4隻の動向が不明,旧式で早々に除籍か,あるいは8隻が正解?

番外:弩級戦艦Viribus Unitis(フィリブス・ウニーティス)Tegetthoffと同型で本艦がネームシップ
 休戦直前の18年10月末ユゴー新政府が捕獲,Yugosiavia(ユーゴスラビア)と改名.
 同年11月1日早朝,ポーラで伊軍ロセッティ少佐とパオルッチ少尉の仕掛けた,人間魚雷から切り離された弾頭部の爆発で沈没.
 この撃沈の詳しい経緯は,歴史群像の2005年2月号にのっています.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2他 in 世界史板)

 余談だが,艦艇ではないが,商船(定期客船)「カイザー・フランツ・ヨーゼフ1世」は次のような運命を辿った.

 第1次大戦終結まで,オーストリアは海への出口と小さな海運を保有していた.
 1903年にコジルーヒ兄弟が創設したウニオネ・アウストリアカ社である.本船は同社の主力船であった.
 移民をアメリカに輸送する目的で建造され,一度南アメリカへの往復航海を行った.
 19年に戦後賠償としてイタリアに分配され,コジルーヒ・ラインの手に渡った.
 船名を「プレジデンテ・ウィルソン」「ゴング」「マルコ・ポーロ」と変えて運航.
 その後ロイド・トリエスティノ社,アドリアティカ社へと所有が移った.
 第2次大戦末期の44年,ラ・スペツィアで船体に穴を開けて沈められた.

トン数:12567総トン
主要目:145・55m×18・35m
機関:2軸4段膨張式蒸気機関12500馬力
巡航速度:17ノット
航路:トリエステ〜ニューヨーク
収容人数:1等125人2等550人3等1230人
造船所:トリエステ海軍モンファルコネ
材質:スチール

トニー・ギボンズ編著『ビジュアル版船の百科事典−紀元前5000年から現代まで−』
(東洋書林,2005/3)


◆◆ドイツ海軍


 【質問】
 帝政ドイツの「艦隊法」ってのはどんな内容だったのでしょう? なんか足枷になっていたみたいですが.

 【回答】
 Kaiser Wilhelm IIが発した艦隊法は二次に渡って制定されています.

 最初が,1898年で,19隻の戦艦,8隻の海防戦艦,12隻の大型巡洋艦と30隻の小型巡洋艦を,1903年までに建造するというものでした.

 第二次は,1900年で,その規模は倍増し,38隻の戦艦,14隻の大型巡洋艦,34隻の小型巡洋艦と,96隻の駆逐艦を1920年までに建造するというものになりました.

 1906年には弩級艦の誕生を受けて,第三次というか,第二次の第一次改訂案が作られ,更に6隻の弩級艦で3個戦隊を,また,植民地用に6隻の装甲巡洋艦を追加しています.
 更に,潜水艦,水雷艇の追加も為されました.

 かてて加えて,1908年に第二次改訂が加えられ,旧式海防戦艦8隻と前弩級艦4隻の代わりに,4隻の弩級艦の建造が計画され,1912年から1917年までに各二隻の戦艦が毎年就役するようになっています.

 1912年には第三次改訂が加えられます.
 これは3隻の大型巡洋艦の代わりに,3隻の弩級艦と2隻の軽巡洋艦が加えられました.

 あれやこれやで最終的に,1隻の旗艦,3個戦隊を維持する24隻の弩級艦,8隻の巡洋戦艦,18隻の軽巡洋艦,これが第一線戦力.
 予備役として,2個戦隊16隻の戦艦,2隻の装甲巡洋艦,12隻の軽巡洋艦.
 海外植民地警備用に,8隻の装甲巡洋艦,10隻の軽巡洋艦.
 水雷戦隊用に,3隻の水雷戦隊旗艦,108隻の水雷艇,54隻の潜水艦.
 水雷戦隊予備として,36隻の水雷艇,18隻の潜水艦,1隻の水雷戦隊旗艦.
 これらを建造する予定でした.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)


 【質問】
 第二帝政時代のドイツ海軍の編制を教えて下さい.

 【回答】
●開戦時の編成.

大海艦隊(Hochseeflotte)
 旗艦:FriedrichderGrosse
  第1戦隊(弩級艦8隻)
   Ostfriesland/Thueringen/Helgoland/Oldenburg/Posen/Rheinland/Nassau/Westfalen)
  第2戦隊(前弩級艦8隻)
   Preussen/Schlesien/Hessen/Lothringen/Hannover/Schleswig-Holstein/Pommern/Deutschland)
  第3戦隊(弩級艦4隻)
   Kaiser/Kaizerin/KoenigAlbert/PrinzregentLuitpold
  第1偵察戦隊(巡洋戦艦3隻+装甲巡洋艦1隻)
   Seydlitz/Moltoke/VonderTan+Bruncher
  第2偵察戦隊(小型巡洋艦7隻)
  第3偵察戦隊(小型巡洋艦5隻)
  第4偵察戦隊(装甲巡洋艦4隻)
   Roon/Yorck/PrinzAdalbelt/PrinzHeinrich
  第5偵察戦隊(大型巡洋艦4隻・但し予備艦の動員)
  第4戦隊(前弩級艦7隻)
   Wittelsbach/Wettin/Mecklenburg/Schwaben/Zaehringen/Braunschweig/Elsass
  第5戦隊(前弩級艦7隻)
   KaiserFriedrichIII/KaiserWilhelmII/KaiserWillhelmderGrosse/KaiserKarlderGrosse/
   KaiserBarbarossa/Brandenburg/Woeth
  第6戦隊(海防戦艦7隻)
   SiegfriedClassが7隻
  第1潜水戦隊(小型巡洋艦1隻+潜水艦)
  第2潜水戦隊(小型巡洋艦1隻+潜水艦)
  機雷戦艦艇(敷設巡洋艦2隻)
東海艦隊
  東海防備部隊(小型巡洋艦7隻+大型巡洋艦1隻)
  砲術学校(大型巡洋艦1隻)
  水雷学校(装甲巡洋艦1隻)
   Friedrich Karl
港湾防備隊
  エムス水域(Embden)(小型巡洋艦1隻)
  ヤーデ(Willhelmshaven)/ヴェーゼル水域(小型巡洋艦3隻)
  エルベ水域(Hamburg)(小型巡洋艦1隻)
東アジア巡洋艦戦隊(装甲巡洋艦2隻+小型巡洋艦3隻)
  Scharnhorst/Gneisenau+3隻
地中海戦隊(巡洋戦艦1隻+小型巡洋艦1隻)
  Goeben+1隻
東アフリカ派遣(小型巡洋艦1隻),米東海岸派遣(小型巡洋艦1隻)

●1916年12月1日現在の大海艦隊編成

 旗艦:Baden
  第1戦隊(弩級艦8隻)
   第1小隊:Ostfriesland/Thueringen/Helgoland/Oldenburg
   第2小隊:Posen/Rheinland/Nassau/Westfalen
  第2戦隊(前弩級艦6隻の予備戦隊後に解消)
   Deutschland/Hessen/Preussen/Hannover/Schlesien/Schleswig-Holstein
  第3戦隊(弩級艦4隻)
   Koenig/GrosserKurfuerst/Markgraf/Kronprinz
  第4戦隊(弩級艦5隻)
   FriedrichderGrosse/Kaiser/Kaizerin/KoenigAlbert/PrinzregentLuitpold
  第1偵察戦隊(巡洋戦艦4隻)
   Hindenburg(1917〜)/Seydlitz/Derflinger/Moltoke/VonderTan
  第2偵察戦隊(軽巡洋艦8隻)
  第4偵察戦隊(軽巡洋艦3隻+敷設巡洋艦2隻)
  水雷艇(7水雷艇隊76隻)
  潜水艦(小型巡洋艦1隻+水雷艇7隻+4潜水艇隊66隻)
  機雷戦艦艇,掃海艇,前哨戒隊,支援艦艇

眠い人◆gQikaJHtf2


 【質問】
 第1次大戦におけるUボート作戦は,賢明な選択だったのか?

 【回答】
 非合理的で向こう見ず,加えて非現実的であった,とDominic Lievenは述べる.
 以下引用.

 その決定は非合理的で向こう見ず,加えて非現実的であった.
 さらに,第1次大戦へのアメリカの介入と直結した政治的,外交的,軍事的,経済的,心理的要素のバランスを正しく取ったものでもなかった.
 ドイツ潜水艦戦の勝利の可能性すら現実的に計算されていなかった.

 このようになってしまったのは,ドイツの支配的エリートの利益やその思考様式,意思決定において軍部が突出していたからだが,それ以外にも,政策を調整したり,目的と手段の調和を図ったり,相対立する政治的・軍事的・外交的な優先順位と圧力のバランスをとったりする個人や機関がドイツに欠けていたためである.

Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.142-143


 【質問】
 第一次世界大戦のドイツの戦艦とかは敗戦でどうなったのでしょうか?
 やっぱり戦勝国に戦利品として分捕られたのでしょうか?

 【回答】
 弩級艦,超弩級艦,巡洋戦艦に限って言えば….

Nassau → 1920.4.7日本に引渡し,オランダで解体.

Westfalen → 1920.8.5 英国に引渡し,調査の上,同国で解体.

Rheinland → 座礁のため,賠償艦になったものの他国に引き渡されず,解体.

Posen → 1920.5.13 英国に引渡し,オランダで解体.

Helgoland→ 1920.8.5 英国に引渡し,調査の上,同国で解体.

Ostflrisland → 1920.4.7 米国に引渡し,Mitchellの指揮する爆撃機の実艦的となる.115kg〜1t爆弾13発命中もびくともせず,翌日500kg爆弾3発命中でも前後が沈んだだけ,翌々日に1t爆弾6発の至近弾で沈没.

Thuringen → 1920.4.29 フランスに引渡し,標的艦となった後,同国で解体.

Ordenburg → 1920.5.13 日本に引渡し,オランダで解体.

Kaiser級4隻 → 全艦自沈,1933〜36年解体.

Konig級4隻 → 全艦自沈,1936〜62年頃解体.

Bayern級4隻 → 全艦自沈,1921〜35年解体.但し,Badenは浅かったので浮揚し,英国の実艦的.

VonderTann → 自沈,1934年解体.

Moltke → 自沈,1929年解体.

Goeben → 1914.8.16除籍後,Turkeyに引渡し.

Seydlitz → 自沈,1930年解体.

Derflinger,Hindenburg → 自沈,1932〜36年解体.

眠い人◆gQikaJHtf2

 ちなみに駆逐艦は各国に分配され,中には第2次大戦でドイツ軍と交戦した艦も.
 詳しくは「第2次大戦駆逐艦総覧」(ホイットレー著,大日本絵画,2000.2)を参照されたし.

 イタリアに渡って海防艦となった装甲巡洋艦もある.

消印所沢


◆◆日本海軍


 【質問】
 第1次大戦時の日本海軍の実力は?

 【回答】
 WW1の時点では日本海軍は帝政独海軍と比べ3位はおろか,2位独逸とは比べるべくも無い劣勢でした.
 当時,帝政独海軍に対抗できたのは英大艦隊だけです.
 実戦力3位どころか,質量とも圧倒的に帝政独海軍が上です.

 日本海軍は,ハンマーである遊撃戦力としては金剛型があり,コレはかなり有力です.
 が,お伴となるべき駆逐艦隊が皆無に等しく,総合戦力として多くは期待できません.
 因みに英独供かなり有力な水雷襲撃部隊を有していました.

 また金床たるド戦艦群の内,使い物になるド級以上は,大戦中竣工の扶桑型が最初で改正型の伊勢型まで含めても僅か4隻.
 ド級艦に分類されている河内型は.究極の準ド級というべき艦で,多くを期待できる艦ではありません.
 その扶桑型も,成功作と呼べるような艦ではありません.

 因みに英独は,1916年のジュトランドに参加したド級と超ド級戦艦だけでも英28隻(日本艦を上回る15in砲艦6隻含),独16隻に達します.

 基準戦艦(三笠と同等レベル)なら,日本も鹵獲ロシア艦も含めて前ドは腐るほど持っていましたが,その腐ってた基準戦艦〜準ド級戦艦群が日本海軍の場合また曲者.
 66艦隊計画の残存4隻,香取,鹿島,薩摩,安芸,筑波,生駒,伊吹,鞍馬は多少の問題含み(2巨砲混載は運用が難しい,最有力の薩摩・安芸は同型艦なのに運動能力が違う等々)ではありますが,自国の要求仕様で造ってるからまだマシです.
 しかし,日露戦争で鹵獲・再整備した石見,肥前,丹後,相模,周防,壱岐は,相模と周防が同型(つってもドレッドノート・ショックの後では,基準戦艦はおろか装甲巡洋艦の価値しか事実上なくなっている)である以外,型も運動能力も速力も火力も全く別モノです.
 したがって,戦隊,艦隊といった戦術ユニットとしての一体性がまるで作れず,しかもそれらの整備再生にかけた労力予算は莫大でして,当然他に皺寄せが行きました.
 文字通り「腐っていた」と言えるでしょう.

 もちろん英独などは,そういう戦争によるアクシデント的なものがないので,それなりの斉一性を保ってます.

 唯一,日本海軍に後に繋がる利があったとすれば,「戦艦の定数」が増えたので,これらを廃艦にすると代艦を要求する名分が立つようになった位ですな.

 結論として,当時の海軍バランスは物凄く大雑把にあらわすと
英>>独>>>>>米仏日露墺伊(皆,脛に傷あり.どんぐりの背比べ)>>>>>その他.
といった感じ.

(世界史板)

 【質問】
 「第1次大戦時,日本海軍の駆逐艦隊は皆無に等しかった」ってどういうこと?

 【回答】
 まず,日露戦争までに造られた駆逐艦は数こそ多かったものの,基本的に日本海での活動しか想定されていなかったため,太平洋で活動するには凌波性と航続力が不足.まして大西洋まで行けるはずもなし.
 神風型なんて,その25隻の内23隻までもが日露戦争後の竣工(というか,日露戦争に間に合わなかった)だったのに,完成した途端に三等艦.とんだ無駄骨.

 太洋でも活動可能だったのは開戦当時
一等駆逐艦:海風型2隻
二等駆逐艦:櫻型2隻
だけで,たったこれだけでは「駆逐隊の編成すら不可能」(「日本駆逐艦史」(海人社,1992)という始末.

 大戦中に一等駆逐艦はさらに浦風型2隻が竣工するが,この型は蒸気タービンとディーゼルを混載して航続力を伸ばす計画だったのが,大戦勃発により,ドイツ・フルカン社製の減速流体継手の入手が不可能になって,ディーゼル搭載を断念.
 しかも浦風型2番艦の江風(かわかぜ)はイタリア海軍に譲渡.
 同型艦のなくなった浦風は駆逐隊編入が困難になり,専ら揚子江警備に従事した後,1940/4/1,除籍.

 そこで慌てて2等駆逐艦樺型10隻を量産.櫻型の図面を流用し,民間の造船所も総動員して1915年4月までに全艦完成.
 うち8隻が地中海で船団護衛に従事して,第1次大戦中の日本駆逐艦としては最も活躍することになる.

 その後,
一等駆逐艦磯風型4隻(1917/5/5までに全艦竣工)
二等駆逐艦桃型4隻(1917/5/5までに全艦竣工)
同楢型5隻(1918/6/30までに全艦竣工)
と急いで整備され,なんとか少しは格好がつくようになったとさ.

 以上,ソースは「日本駆逐艦史」(海人社,1992)より.

消印所沢 in FAQ BBS


 【質問】
 第一次世界大戦のとき,日本はヨーロッパに戦艦などの主力部隊を派遣したのですか?

 【回答】
 なんでも,英国から金剛級の派遣(貸与も?)を求められたそうだが結局,巡洋艦「明石」を旗艦とする第二特務艦隊を派遣するにとどまっている.
 その後の増派等を含め計18隻.
 戦死,病死を含め78名がこの派遣中になくなっている.

 他に
第1特務艦隊(巡洋艦部隊)をシンガポールとケープタウンに派遣,
第3特務艦隊(実質は巡洋艦戦隊)をシドニーに派遣しています.

 海外派遣どころか,WW1そのものに日本は新鋭戦艦を使っていません.
青島攻略は周防・丹後・石見などロシア拿捕艦,
南洋攻略には伊吹・鞍馬など前ド級巡洋戦艦,
シベリア出兵には三笠・敷島・朝日など
旧式戦艦を使ったに過ぎません.

(鷂 ◆Kr61cmWkkQ他)


 【質問】
 日本海軍地中海派遣艦隊の,輸送船護衛以外の任務について教えてください.

 【回答】
 この前,「マルタの碑」という小説を読んで,その辺の事を調べたくなったので,「日本海軍地中海遠征記」とか,その辺の書籍を買い込んで読んでいたのですが,日本海軍の第二特務艦隊に属する駆逐艦が,輸送船護衛からの帰還時,アドリア海の入り口を偵察する様命じられたくだりがあります.
 この時は,潜水艦の待ち伏せがある危険海域に,護衛艦船を入れて,万一失われたら大変だと言うことで,中止されました.

 また,休戦の後,1918年11月24日と26日の両日,第二十二駆逐隊の「桂」「楓」がマルタから出港し,イタリア半島の付け根にあるブリンジンに向かい,其処からアドリア海に入り,セベニコ,ザラを経て12月2日にポーラ軍港に入り,敵艦の監視任務に就いています.
 第二十三駆逐隊の「松」「榊」も同じくポーラ軍港で,敵艦船の監視と武装解除任務に就いていました.
 ポーラには12月8日まで滞在した後,ベニスに移動しています.

 ちなみに,「日進」と「楠」「梅」「桃」「樫」「柏」「栴檀」「橄欖」は,ギリシャからトルコのイスタンブールに入って,休戦監視の任務に就いています.

 その後,「楠」「梅」は,アドリア海に入って,12月下旬に先の「桂」「楓」と同じコースを通って,12月31日にフューメに向かったそうです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 世界史板


 【質問】
 アメリカの第1次大戦参戦は,日本の造船業にどんな影響をもたらしたのか?

 【回答】
 1917年,米国が第一次大戦に参戦すると,彼の国は巨大な兵器廠と化し,基幹たる鉄が必要となり,各国に輸出する余裕が無くなります.
この為,8月2日になると鉄材の海外輸出を停止する措置を執りました.

 これで大きな被害を被ったのが,鉄材の殆どを輸入に頼っていた日本です.
 元々,日本国内では自給体制に乏しく,第一次大戦前には英国やドイツなど欧州から輸入していたのが,第一次大戦でその輸入が途絶えた為,その調達先を種々探し求め,中立国の米国からの輸入に頼っていました.

 当時の日本は,1915年から1918年までの間に,輸出総額54億円,輸入総額40億円と日本では製品を作り,輸出して稼いでいた上,海上運賃や用船料の暴騰で運賃収入が増大,保険料収入も増加したので,貿易外収支も増大し,受取超過額が13億円と産業界にとっては空前の好景気.
 最終的に正貨が27億円流入した為,日本の立場は債務国から債権国に転じることが出来ました.

 この好景気を引張っていたのが造船業で,米国に発注した鉄の納品を目論見にして,船の発注を受けていましたが,米国の鉄材輸出停止は,その造船業にとってピンチとなります.
 何しろ膨大な受注を抱えながら素材を絶たれてしまい,生産継続が出来ませんから.

 浅野造船所はNew Yorkの浅野合資会社支店に技師を派遣し,絶えず輸入を促進すると共に,船主の東洋汽船に優先輸送と言う便宜を図って貰っていましたが,鉄が輸入出来なくなると,東洋汽船も船荷が無くなり,欠損が生じます.
 1918年になると昨年8月に比し,工事分量は58%,在籍工員数は65%へと激減しました.
 更に残業はなくなり,工員の実収入は減り,退職者が増加しました.

 この米国の措置は,日本にとって看過出来ないものであり,政府と関係民間諸団体は様々のルートを通じて米国の鉄解禁運動を進めました.
 関東側の中心となったのは浅野造船所,関西側では鈴木商店が中心となり,船腹不足の米国に船舶を提供する代わりに,米国から鉄材を供給すると言う現物交換のアイデアを創出して,米国からの鉄材供給を依頼する様に奔走します.

 浅野造船所はこの交渉の参謀本部として,連絡場所を提供するだけでなく,社長以下奔走し,通訳や通信手段の提供,交渉などの事務方まで担当していました.

 1918年3月,駐日大使モリスとの間に仮契約を締結し,第一次船鉄交換契約が4月に米国政府との間で成立します.
 これは,日本側が現有船舶を直ちに米国側の鉄材と交換する条件で,且つ,船舶建造経験として6,000重量トンのものを建造した事があるか,又は建造しつつあること事などが条件で,多数の造船所が交換を希望したものの,浅野,鈴木,三菱を筆頭とする大手造船所にしか鉄材の供給が行われませんでした.

 因みに浅野造船所では,そうして得られた鉄材を6隻に割り振り,1919年1〜5月に順次完工させて,ストックボートとして売ったのですが,丁度船価高の状況だった事もあり,純益が1,400万円に達しました.

 それに溢(あぶ)れた造船所は,5月中旬に行われた第二次船鉄交換契約に期待を繋ぎ,その確保に奔走します.
 第二次船鉄交換契約でも船舶建造経験は同様でしたが,その内容は些か緩和され,船台があれば可,しかも船2重量トンに対し新規鉄材1トンと言う交換比率になりました.

 こうして,この契約で日本は30隻,246,300重量トンの船舶を建造します.
 石川島造船所が2隻10,000トン,三菱造船所が2隻で16,600t,そして,浅野造船所は7隻を竣工させるに足る鉄材を入手し,横浜船渠も1917年下期に増資で資本金を1,000万円にし,これを船台整備に費やし,3隻で18,900トンの船と,余った鉄材で1隻の自前船を建造します.
 横浜船渠では,船舶修理も軌道に乗り,増資したのにも関わらず,1917年下期3割,1918年上期3割5分,下期3割と言う高配当を挙げ,毎期の利益は戦前の10期分と言う未曾有の好景気を生み出しました.

 また内田造船所では,全く建造経験のない小規模企業だったのにも関わらず,6,000重量トン級船台を一挙に3基整備し,第二次船鉄交換契約に食い込んだ上,2隻,17,000重量トンの船を引き受けることに成功しました.
 全く大型船の建造経験のない会社なのに,三菱並みの規模を誇った訳で,如何に好景気に沸いていたかが判ります.

 更にその余剰鉄材で,南満州鉄道向けの満州丸を建造します.
 この満州丸は,元々南満州鉄道が三菱が建造していた船鉄交換船と同型船を購入する予定だったのが,内田造船所のオーナーが横槍を入れて発注を取消させ,内田造船所の満州丸を購入する事になったと言う事で騒ぎとなり,政友会の代議士を通じて原敬首相に贈賄工作をして,不当の価格で南満州鉄道に売り込んだという事で,当時野党だった憲政会が倒閣運動をする騒ぎにまで発展しています.

 この疑惑捜査の過程で出て来たのが内田造船所のオーナーで,内田汽船の経営者である内田信也氏の金持ちっぷりでした.
 良く第一次大戦の日本の成金を皮肉った絵が教科書に掲載されていますが,正にその通りの人だったりする訳で….

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/03/16 20:54


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