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◆北米
<米州FAQ目次
「D.B.E. 三二型」:北米滞在記:オタワ・カナダ航空機博物館その1
>いよいよ本放浪最後の(ミリ的な意味で)見せ場.ただしこのページはほぼ前座.
「D.B.E. 三二型」:北米滞在記:オタワ・カナダ航空機博物館その2
>カナダのジェット戦闘機中心.ホーネットのカナダ版とか,アローの遺品とか.
「D.B.E. 三二型」◆(2009/07/15) 北米滞在記:オタワ・カナダ戦争博物館その1
>帰路もミリネタは尽きなかったりします.今回の目玉は第一次大戦時英仏の孔明気取り.
「D.B.E. 三二型」◆(2009/07/15) 北米滞在記:オタワ・カナダ戦争博物館その2
>常設展,歴史展示に入る.総統閣下のメルセデスベンツなど.
「D.B.E. 三二型」:北米滞在記:オタワ・カナダ戦争博物館その3
>時系列順展示,後半.
「D.B.E. 三二型」:北米滞在記:オタワ・カナダ戦争博物館その4
>大物展示コーナー.パンターとか4駆とか,2号とか.
「D.B.E. 三二型」:北米滞在記:オタワ・カナダ戦争博物館その5
>戦争博物館ラスト,火砲展示.何故か日本の四一式山砲やドイツの特殊潜航艇も.
「VOR」◆(2013/05/21) カナダのムスリム人口 10年で82%増加
「WSJ」◆(2012/05/13)Resource-Rich Canada
Looks to China for Growth
天然資源に恵まれたカナダは,成長の期待を中国に賭ける
「 ワレYouTube発見セリ」:Canadian army
「ワレYouTube発見セリ」:Don't fuck with canada (カナダ陸軍)
「ワレYouTube発見セリ」:The Royal Canadian Navy at Sea
◆◆カナダ
【質問】
カナダの首都が決まるまでの経緯は?
【回答】
カナダと言えば,英連邦諸国の一国ですが,元々の入植ではフランス人が先行しました.
16世紀にフランス人探検家達がセント・ローレンス川を遡航し,沿岸をフランス王領と宣言し,17世紀以降フランス人の定住が開始されます.
その目的は,鱈と毛皮の確保であり,原住民との交易を求める毛皮商人や軍人・宣教師が主な入植者でした.
そして,1663年,フランス国王の直轄植民地とされました.
一方,英国人達はそれより南方に植民地を拓き,英国との抗争が始まります.
最終的には1754年に開始されたフレンチ・インディアン戦争で英国が勝利し,カナダ全域が英国領となります.
更に,米国独立戦争の余波を受けつつ,カナダ各地に英国植民地が形成されていきます.
そして,1841年に現在のオンタリオ州に当るアッパー・カナダ,現在のケベック州に当るローワー・カナダが統合されて連合カナダ植民地が成立し,1848年には連合カナダ植民地政府が樹立されます.
しかし,英国系住民とフランス系住民が屡々対立し,連合カナダ植民地は一旦解体され,1867年,オンタリオとケベックにノバ・スコシア,ニュー・ブランズウィックを加えて,4植民地の統合と言う形で自治領カナダが形成されました.
これが現在のカナダの核となる訳です.
その後,東西の植民地が順次加わり,1931年には外交上の自主権も獲得,領土的には1949年,ニュー・ファンドランドが参加して,現在のカナダが出来上がりました.
で,その首都ですが,1841年以来首都を何処に置くか,これまた米国と同様,問題になっていました.
米国の場合は北部と南部と言う経済的な対立だけだったので未だ何とか妥協が出来た訳ですが,カナダの場合は民族的な対立があるので始末に負えません.
首都の場所も,英国系住民はオンタリオ州の州都トロントを主張し,フランス系住民はケベック州の大都市モンレアルを主張します.
よって,連合カナダ植民地政府の首都も,アッパー・カナダと,ローワー・カナダの間を交互に行き来するキャラバン首都と成らざるを得ませんでした.
1841〜44年はオンタリオ州南東の都市であるキングストン,1844〜49年はモンレアル,1849〜51年はトロント,1851〜55年はケベック州の州都ケベック,1855〜59年は再びトロント,1859〜67年は再びケベックといった感じで腰の定まらない状態が続きました.
このキャラバン首都の時代でも,特に対立が酷かったのが1849年です.
先述の様に,この年までモンレアルが首都でしたが,その地にあった国会議事堂が炎上した為,改めて首都の選定が論議されることになりました.
しかし,度重なる評決の結果でも決着が付かず,遂に当時の元首であるヴィクトリア女王にお伺いを立てる事となりました.
その結果,1857年に女王の裁定で選ばれたのが,オタワと言う,オンタリオ州東端にあり,ケベック州と境界を接する当時人口約1.8万人の小都市でした.
このオタワと言う都市,英語圏の中心地域であるオンタリオ州トロントと仏語圏であるケベック州モンレアルとの中間地点にあり,英・仏語圏の境界に位置し,且つ,米国との国境線から200km離れていると言う軍事的な安全性(当時は未だ米国の脅威が身近にあった),公有地がその地にあること,自然景観が良いと言う理由が挙げられていますが,最初の英・仏語圏の境界と言うのが最大の理由でした.
こうして,1867年,オタワは自治領カナダの発足と共にその首都になりました.
オタワのある辺りの土地は,オタワ川とリドー川の合流点で,古くから先住民の狩猟と交易の場でした.
1613年,フランス人シャプランがこの地を探検しますが,長い間集落はなく,1827年に漸く,バイタウンと言う集落が形作られました.
この名前は,オンタリオ湖とオタワ川の間を結ぶリドー運河の建設を監理したバイ大佐に因んで名付けられたもので,この集落は木材の伐採・集散拠点として発展し,1855年に市に昇格するに際し,先住民の一派オタワ族の名を取って,オタワと改名されました.
オタワの人口は首都となってから急増し,1900年に約6万人,第二次大戦中に更に人口が急増し,1951年,フランス人建築家のクレベールの発案によるオタワ市の再開発計画が行われ,以後これに基づき,再整備が進められています.
2001年現在の人口は77.4万人ですが,オンタリオとかモンレアルに比べると小さな都市です.
この地には,ゴシック様式の国会議事堂,政府機関庁舎が建ち並ぶと共に,カナダ図書・公文書館,国立美術館,戦争博物館,国立自然博物館,国立科学技術博物館,カナダ・スキー博物館,オタワの歴史に関するバイタウン博物館などの文化施設が設けられ,オタワ大学やカールトン大学などの高等教育機関を持ち,ワシントンD.C.の様な政治・行政都市でもあり,年400万人が訪れる観光都市でもあり,ハイテク産業が立地する産業地域でもあると言う多面的な都市でもあります.
尤も,オタワは,元々都市があった地に重層的に首都を構えたもので,ワシントンD.C.の様に一から作り上げたものではありませんが….
トロントとモンレアルについても少し触れておきましょう.
トロントは,カナダ最大の都市です.
人口は2001年現在248万人で,都市圏人口としては426万人に達します.
オンタリオ州の州都で,オンタリオ湖の北西岸に位置します.
トロントと言うのは,「人の集まる所」と言う意味の先住民の言葉に由来するとされ,17世紀にフランス人が入り,18世紀には砦が築かれますが,18世紀末には米国独立に伴い,英国人による本格的な居留地形成が始まりました.
最初,この都市はヨークと呼ばれ,オンタリオ地方の中心都市となっていき,1834年にトロントと改称されました.
19世紀末以降,トロントの経済と人口は成長軌道に乗り,20世紀半ばには,商工業の中心地としての地位を固め,欧州,アジア,西印度諸島からの移民が多く入り,多様性のある都市を形成しています.
現在は,カナダ第一の金融,商工業の中心都市であり,北米ではニューヨークに次ぐトロント証券取引所や,主要カナダ企業の本社が立地しています.
モンレアル,英国風に言うならばモントリオールですが,こちらはケベック南部の大都市で人口104万人,都市圏人口は333万人と,トロントに次ぐ都市となっています.
トロントと並ぶ経済の中心都市であり,企業本社やモントリオール証券取引所,研究開発機関が数多く立地し,こちらにも製造業,商業,金融機関が集積しています.
モンレアルは17世紀中頃にフランス人が布教と交易の拠点として入植を開始し,毛皮交易で成長を続けました.
大西洋と五大湖を結ぶセント・ローレンス運河の出入口に当り,港湾都市としての機能も大きいものがあります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/12/04 22:50
【質問】
カナダ軍の概要を教えてください.
【回答】
1.概略
・カナダ国防のため,軍司令部は米北方集団司令部と作戦面で連携している.
・カナダ軍司令官は,参謀総長の指揮監督を受ける.
・060201に創設された軍司令部は,陸海空の統合司令部(在オタワ)であるとともに,北米大陸におけるカナダ軍の展開すべてを担任する機関である.
・軍司令官に直隷するのは,「統合救難センター司令官」3名,「地域統合任務部隊(RJTF)司令官」6名,航空支援任務に当たる「統合軍航空部隊指揮官」の10名である.
・統合救難センターは,カナダ全土に3つある捜索救難管区司令部に相当する.
・地域統合任務部隊は,全土を6つにわけた各管区の警備にあたる.
1.部隊
・統合任務部隊は「大西洋(海上部隊中核)」「東部」「中央」「西部」「太平洋(海上部隊中核)」「北部」の6つあり,それぞれ担当管区を警備する.
・捜索救難管区には「ハリファックス」「トレントン」「ヴィクトリア」の3つある.
1.海軍の現況
・アラビア海とインド洋で対テロ連合水上任務部隊に参加中
・ハイチ地震支援のため展開するカナダ軍部隊の構成単位として展開中
【参考ページ】
http://www.canadacom.forces.gc.ca/site/org-org-eng.asp
おきらく軍事研究会,平成22年(2010年)3月1日(月)
青文字:加筆改修部分
【質問】
カナダで陸海空を統合して,「えらいことになってた」そうですが,具体的にはどうなったのでしょうか?
また,統合軍にするのはデメリットの方が多いのでしょうか?
【回答】
統合軍の下にある実質的な編成は陸海空軍のまま,統合時に陸海空尽く反対したのを押し切ったので,将校の士気がもりもりと激減.
各軍の誇りだった軍服まで統合時に統一しちゃったので,下士官兵の士気ももれなく激減.
結論:大金投じて士気激減させただけ.
で,結局うまくいかなかったので,まあ事実上元に戻っているというか統合しても何も変わらなかった.
むしろ問題が増えたというか.
ただ,まだ組織上はカナダ統合軍・○○コマンドだったと思う.
うまくいかない理由としては,いろいろ考えられているが,そもそも本質的に陸海空は異なるものだって事が大きいようだ.
米軍は三軍の物理的統合なんてことはせずに,組織的な連携を強化している(上位レベルで統合軍ってのはある)が,それでも,各軍が共同するような領域(地上部隊を支援する空軍とか)ではトラブルが出ている
.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
カナダへの日本人移民の始まりは?
【回答】
明治時代,国内で食い詰めた日本人達は,広い土地での農業で豊かな暮らしを夢見て,海外に雄飛して行きました.
1つの方向は朝鮮半島であり,中国大陸,そして南方地域への進出,もう1つの方向は太平洋を渡って,ハワイから北米と中南米への移民です.
太平洋地域の移民としては,当初ハワイが主だったのですが,これはカラカウア王がアジア人移民を用いて農業の近代化に乗り出し,この国の主産業として砂糖黍の栽培を企てたのが切っ掛けです.
しかし,原住民のカナカ人は,農業をするのには性格的に適さない人々でしたので,当初は欧州人を雇い入れていたのですが,彼らは高い賃金のみ要求し,思う様に働きませんでした.
そこで,次に米本土の凡そ半分の賃金でも充分に働く中国人を雇い入れていたのですが,中国人は周囲に同化せず,自分たちだけが住むチャイナタウンと言う町を作り上げ,国の中に国を作る傾向にありました.
人数がどんどん増え,その中国人に脅威を抱いたカラカウア王は,1881年に訪れた日本人に着目し,1885年から3年契約の農業労働者である官約移民を受容れることになりました.
それから10年を経て,日本は1894年からの日清戦争に勝利し,中国人移民が全体的に下火になる一方で,日本人移民が急増しました.
そして,ハワイだけで無く,北米にも押し寄せることになります.
米国は扨措き,カナダの場合,1877年に密航で渡ってきた人が第1号でしたが,その数は極めて少なく,1897年頃でも僅か2,000名にしか過ぎませんでした.
しかし,1900年頃になると日本人移民の数は急増し,1隻の船で700〜1,000名程の移民がやって来て,バンクーバーでは数年で倍増する勢いになりました.
当然,米国とカナダは,この招かれざる移民について日本政府に抗議し,1900年に日本は米国とカナダへの移民を禁止することを各道府県に通達しました.
ところが,ハワイよりも本土の方が賃金が高いことが知れ渡ると,当然,ハワイよりも本土に渡ろうとする人が増えます.
ただ,直接渡航は出来ません.
そこで抜け道が考え出されます.
その方法とは,ハワイを経由する方法です.
ハワイからなら,米本土に簡単に入国できます.
もし,米本土の移民が困難であれば,ハワイからカナダへ渡り,国境監視の緩やかなカナダから米国に入れば良いと考えたのです.
こうして,ハワイへの移民が更に多くなりました.
ところが,1891年1月,日本人移民の後ろ盾となっていたカラカウア王が死去します.
後を継いだリリウオ・カラニ女王の下では,政府内に内紛が絶えず,1893年,遂に女王は退位を余儀なくされ,1894年に米国の後ろ盾で出来た政府が共和国を宣言しますが,1898年には遂にハワイは米国に併合されました.
これが日本人移民にどう影響したか.
ハワイに送られた日本人の契約移民はハワイと言う独立国との取決めでは合法的な存在でしたが,ハワイが米国領となると,話は異なります.
米国では1885年以来,契約移民を禁止しており,併合後,ハワイにいる日本人契約移民は非合法的な存在となります.
但し,国家間の約束事ですから,ハワイの継承国家となった米国が,一方的に日本人契約移民を非合法とする事が出来ません.
この為,併合後もこの取決めは有効と見なされ,ハワイへの契約移民は続けられました.
ただ,ハワイの日本人契約移民の賃金は,同じ労働をしている白人労働者よりも低く,その上,併合されてみると米本国との賃金格差が更にある事が露呈しました.
また,砂糖の国際価格も下落気味で,将来的に発展が望めない事が判ってくると,彼ら日本人移民達は合衆国本土への移住を希望する様になりました.
当時,米国本土では中国人移民排斥の影響で,中国人が減り,西部地区では当時底辺労働力の担い手が寡くなっていきます.
この為,本土の雇用主達は日本人移民を歓迎しました.
しかし,ここで契約移民禁止条項が引っかかります.
そこで考えられたのが,ハワイから転住する日本人移民は合法的であるとの考え方です.
日本人移民は先ずハワイに上陸し,数ヶ月を経て,本土に移住するという抜け道を採る様になります.
そうなると,今度は日本人契約労働者を当てにしていたハワイ政府が悲鳴を上げます.
ハワイ政府は,ハワイ以外に移民を斡旋する者には,年間500ドルと言う高額の税を課し,日本人契約移民をハワイで食い止めようとしています.
ところで,20世紀に入ると,1902年に日英同盟が締結され,カナダの対日感情が好転します.
また,1904年から1905年に起きた日露戦争で日本が勝利すると,日本人の株が更に上がり,日本人移民は特に好意的に見られる様になりました.
この様な追い風を受け,1907年5月から11月にかけて,東京移民会社は約1,500名の移民をカナダに送り,彼らはヴァンクーヴァーからカナダに移民の第一歩を記しました.
その内1,000名はカナダ太平洋鉄道会社に,残りの500名程はブリティッシュ・コロンビア州内の石炭鉱山に就職しました.
また,9月には広島市の海外渡航会社が,約100名の日本人をヴァンクーヴァー島のウェリントン石炭会社に送り込みます.
こうして,ヴァンクーヴァーを中心に日本人移民が徐々に増えつつありました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/03/13 23:42
青文字:加筆改修部分
1877年にカナダに日本から移民第一号がやって来て以来,カナダの日本人移民の数は,20世紀初めまで2,000名前後で推移していたのですが,ハワイでの官約移民が振るわず,しかも,北米大陸の方が稼げるとなると,ハワイをうっちゃって,彼らは北米大陸へと向かいます.
こうして,1907年4月から1908年3月にかけて,ヴァンクーヴァーを中心にハワイからの移民が洪水の様に押し寄せて来ました.
その数は在住のカナダの白人に脅威を与えることになり,今まで営々と築き上げていたカナダ在住の日本人にも少なからぬ影響を与えることになります.
先述の様に,ハワイに住んでいた日本人移民から見れば,自分たちに無断でハワイ王国は米国に併合され,その上,ハワイの砂糖産業は将来的な見込みが無い.
彼ら日本人は,労働者としてお金を稼いで,それを故国に送金し,家族を食べさせることが第一義であり,賃金の高い場所に移住すると言う行動は必然的なものだったのですが,ハワイ政府はそれを拒み,下手をすれば妨害して来さえする,と言う理由で,ハワイでの生活に,彼らはほとほと嫌気が差していました.
そんな折り,米国本土やカナダに住んでいる日本人の誰かから,本土への移住の手段を耳打ちされたと思われます.
米国では日本からの契約移民の窓口を閉ざし,ハワイからの転航者も締出しているものの,カナダからの入国は比較的緩やかである,と.
と言っても,カナダという国の存在すら判っていない人々であろうから,米国本土と同じ場所という認識しか無かったのかも知れません.
それは兎も角,1901年の人口調査でカナダ在住の日本人は,4,783名を数えており,4,515名がブリティッシュ・コロンビア州内に住んでいました.
その後,少しずつ移民も増え,1907年初めには凡そ5,000名ほどになったと考えられています.
ところが,1907年4月から1908年3月までの1年間にカナダに入国した日本人移民は,7,601名に達し,その殆どがハワイからの転住組でした.
例えば,1907年4月22日にハワイから294名の日本人がサンフランシスコに向かいましたが,此処では上陸を許可されず,ヴァンクーヴァーに着きます.
此処でも,白人のカナダ人達は上陸を拒否しましたが,ヴァンクーヴァーの日本人旅館組合が奔走し,全員の上陸が許可されました.
しかし,組合の奔走が逆にカナダに上陸すると良いことがあるという噂になって駆け巡り,次々に日本人移民がやって来る様になってしまいました.
5月13日にハワイから223名の日本人移民を乗せたモンタラ号がヴァンクーヴァーに到着し,これも上陸が認められます.
7月6日,241名のハワイからの転住者がやって来ました.
その内,10名は多分トラホームに感染しており,3名はパスポートすら持っておらず,61名は所持金が無いと言う有様で,ヴァンクーヴァー移民病院内に収容されました.
これも旅館組合の尽力で兎に角上陸が出来ました.
しかし,7月24日夜になると,更にハワイからに日本人移民を乗せた英国汽船クメリック号が入港しますが,これには何と1,177名もの多数の移民が乗船していました.
仏の顔も三度ではありませんが,この入港は,ヴァンクーヴァーの白人市民を動揺させました.
彼らの代表数十名はその夜に会合を開き,排日運動の目が徐々に広がって行きます.
衝撃は憶測を呼び,憶測はデマを生み出します.
英字紙は大きくこの事件を取り上げ,公的な場では排斥の演説となって現れました.
例えば,ブリティッシュ・コロンビア州の検事総長は,議会で
「5万人もの日本人が,この州に流れ込まんとしている」
などとデマを信じる始末です.
こうした大量の移民の襲来に,白人達は恐怖し,ブリティッシュ・コロンビア州が日本人に占拠されるのではと戦きました.
取り敢ず,カナダ政府は未だ冷静であり,日本人街の旅館組合も必死の奔走を行い,何とか検疫に引っかかった9名を除き,全員の上陸が許可されました.
それでも日本人が多く住んでいるパウエル街の旅館には,詰め込んでも350名が限度で,残りは漁業地ステヴストンのキャナリーに宿泊させ,順次各地への就職を斡旋して行きました.
こうして,日本人の在ヴァンクーヴァーの旅館組合は,ハワイの移民転航周旋会社に対して,最早カナダには日本人移民を受容れる余地が無い事を通知しました.
ところが,その通知も知らずか,8月17日夜に汽船インディア号が,ハワイから306名の転航者を載せてヴァンクーヴァーに入港しました.
幸い,今回は人数が少なかったので騒ぎにはならず,眼病で2名が引っかかったのみで,全員カナダに入国できて,それぞれの地に散っていきました.
ただ,この厚顔無恥な移民ラッシュは,今までの好感情を反故にして,逆に排日感情を高めたことに,日本人達は気がついていませんでした.
こうした住民の心を利用してその不安を扇動し,それによって政治家として自己の地位を固めようという野心家が登場します.
彼らは,アジア人排斥協会を結成し,同種の米国の協会と連携を取っており,時にはシティ・ホールで演説会を開いて気勢を上げ,時には白昼にアジア人排斥のデモンストレーションを実施し,そのデモには時には数千人の白人が参加したと言います.
1907年9月7日,アジア人排斥協会の扇動の下,シティ・ホール前に市民達が続々集まりました.
その数はみるみるうちに膨れ上がり,約5,000人に達しました.
彼らは口々に,「ジャップをやっつけろ」とか「白いカナダを」と叫び始め,更に数名の牧師が代わる代わる立って徴集を扇動する演説を行い,反日のボルテージは異常な程高まっていきました.
暗くなると,その活動は更に過激化し,遂にその一部は暴徒と化します.
アジア人排斥協会会員の内,数百名が暴徒となって,日本人が当時主に住んでいたパウエル街に向いました.
シティ・ホールとパウエル街の間にはチャイナ・タウンがありましたが,暴徒は中国人商店街の窓を次々に壊して気勢を上げました.
そして,遂にパウエル街に近付くと,3度街を襲いました.
第1波では日本人店舗,家屋凡そ50戸が壊されましたが,2度目以降は,日本人側も黙っていません.
自衛体制を整え,日本刀やピストル,棍棒や石迄用意して暴徒に対抗しました.
喧嘩では,白人よりも日本人の方が場数を踏んでいましたから,最終的に街は守り切られ,日本人移民によって建てられた国民学校も放火されましたが,直ぐに消し止められました.
ヴァンクーヴァー市内は騒然となり,警官は全力でこの暴徒を鎮めようとし,逮捕した白人は数十名に達しました.
市長は,ヴィクトリアの兵営に打電し,出兵の準備を依頼しました.
こうして一時的に小康状態を保ったのですが,日本人達は何時又白人が襲ってくるかも知れないと考え,義勇隊を結成してパウエル街をパトロールして警戒に当たりました.
9日,国民学校脇の広場で,在留同胞大会を開催し,オタワの日本総領事館に実情を訴えることを決めましたが,偶々その夜に太平洋沿岸の日本人移民の実情を視察する為に,ヴァンクーヴァーを訪れていた外務省の石井菊次郎通商局長(後外務大臣)がやって来ました.
本来は,歓迎会になる為の集会は,忽ち苦情の直訴となり,石井氏は直ぐにオタワの日本総領事館に実情を打電して,総領事館から正式にカナダ政府に対する抗議が為されることになります.
ところが,その余韻も冷めやらぬ内に,9月18日に汽船インディア号がまたも移民295名を乗せて,ヴァンクーヴァーにやって来ました.
ヴァンクーヴァーの日本人は万一に備えて警戒に当たり,暗夜,密かに上陸させました.
移民当局も,これにはとやかく言わなかった,いや,言えなかったようです.
石井局長の訪問の眼前で展開されたこの「ヴァンクーヴァー暴動」に,カナダ政府は慌てました.
時の労働次官は後にカナダ史上最長の任期を務めた首相となった,ウィリアム・マッケンジー・キングでしたが,彼に白羽の矢が立てられた訳です.
キングは,パウエル街の被害状況を調査し,10月には早くも損害保障協定を成立させました.
日本側への賠償金は,商品など11,000ドル,不動産の被害2,400ドルの合計13,500ドルであり,これは直ぐに支払われました.
こうして問題は沈静化したのですが,この問題の根底には日本政府の移民政策にあるとカナダ政府は判断し,10月,日本にロドルフォ・ルミュー労働大臣を派遣し,そこで移民問題を協議し,交渉を纏めることを命じました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/03/14 23:27
【質問】
「ルミュー協約」「ナタル移民法」とは?
【回答】
さて,ハワイからの転航移民がどっと入ってきたことで,ヴァンクーヴァーの白人達は脅威を感じ,遂には暴動にまで至りました.
この為,カナダ政府は日本政府との間で,移民についての取決めをする事になります.
中国人移民に対しては,高額な人頭税を課して締出すことに成功したのですが,日本人移民に対しては宗主国である英国と日本が,日英同盟と言うもので固く結ばれていたので,極めて慎重に事を運ぶ必要があったのです.
1907年10月,日本を訪れたルミュー労働大臣は,日本の林薫外相,マクドナルド英国大使の三者で会談を重ねました.
英国大使がこの会談に同席したのは,カナダはドミニオンであり,英国を宗主国と仰いでいた為です.
この為,カナダの重要案件の総てについては,英国政府の許諾を必要としていました.
この交渉は2ヶ月続きました.
日本政府としては,一部の日本人移民の質が余り良くないことを十分自覚していました.
日本人移民が殺到した国々から同様な抗議が来ており,現地にある日本の外交公館からも,日本人移民の質を改善しなければ,国際的な問題となるという悲観的な報告も多数寄せられていた為です.
また,日本政府は同時期に米国とも移民問題を交渉しており,1908年2月に「日米紳士協定」を締結する事になります.
それを横目で睨みながら,ルミュー労相は林外相に対して,カナダ,特にブリティッシュ・コロンビア州の実情を次の様に説明しました.
この州の人口は凡そ10万人だが,その内アジア系は2.5万人でその殆ど全員が強健な男子で,しかも彼らは1日に14〜15時間も働き,その上節約心に富んでいることから,カナダの白人一般労働者にとって極めて脅威に映っている.
州民の一部がアジア人に対して暴行を働いたことは全く許せないが,生きる為に立ち上がったことだけは理解して欲しい.
だから暴動はヴァンクーヴァーだけの問題では無い.
下手をすれば,ブリティッシュ…コロンビア州全体に拡がる可能性もある.
従って,日本政府は,今後カナダへの移民を認めないで欲しい.
そうすれば,カナダは現在在住の日本人移民の安全と生活は保障する.
当初は,こうした条件の受容れることを渋っていた日本側も,在外公館からの報告や対米交渉の進展により,次第にこの主張に耳を傾ける事になり,米国との「日米紳士協定」が締結される直前の1908年1月,「ルミュー協約」と呼ばれる協定が締結されました.
「ルミュー協約」は日本政府が自主的にカナダへの移民を制限するもので,移民を4種類に分け,先ず第1に在留者の妻子,第2に在留日本人家庭の家事使用人,第3に定着農業労働者,第4に再渡航者とし,在留者の妻子を除いてその総数は年間400名に制限して,それ以外の移民は一切認めず,ハワイからの転航移民も禁止することにしました.
なお,400名は1923年,更に150名に減らされます.
この頃から,日本政府の移民に対する考え方も変化し,旅券は移民専用の「移民旅券」と留学生や商人,旅行者などが持つ「非移民旅券」とに区別されました.
「ルミュー協定」や「日米紳士協定」の締結が,日本政府に移民に対する政策を明確にするのを迫ったことになります.
正に「ガイアツ」と言う奴ですね.
こうして,日本とカナダの間には移民制限が為される事になり,カナダ政府は漸く愁眉を開きます.
しかし,ブリティッシュ・コロンビア州では逆にアジア人排斥の声が高まりました.
その理由は,中国人や日本人が,ブリティッシュ・コロンビア州内に集中し,しかも彼らは国の中の国を形成していたことに有ります.
太平洋に面するブリティッシュ・コロンビア州の白人達は,太平洋を渡ってくる中国人や日本人を,建設期には重宝して使いまくったのですが,建設期が終わって白人労働力が満たされてくると,アジア系を目障りに思った訳です.
「ルミュー協約」締結前の1897年,ブリティッシュ・コロンビア州議会は,政府の特許を受けた鉄道工事,土木工事に,日本人と中国人を雇用することを禁止する法律を成立させます.
1900年には更に新しく「ナタル移民法」と言う法律を成立させました.
それに依れば,新しく入国する者は,英語若しくは欧州の何処かの国の言葉で,一定様式による入国願いを自署して提出することが求められました.
これに違反した場合には,罰金500ドル又は12ヶ月以内の禁錮刑に処せられます.
当然,カナダ政府は日英同盟の手前,この法律を認めませんでした.
しかし,ブリティッシュ・コロンビア州議会はこの「ナタル移民法」を実に3度も通過させました.
勿論,これに対して連邦政府は3度拒否しました.
こうした暴論が罷り通ったのは,1886年に制定されたと言われる選挙法にあります.
ブリティッシュ・コロンビア州選挙法には,「中国人,日本人及びインディアンたる者は,如何なる選挙区の投票名簿に登録することを得ず,又投票することは出来ない」とありました.
選挙権が無いと言う事は,公職に就くことはおろか,弁護士や薬剤師と言った特定の専門職からも締出される事になりました.
因みに,この悪法が廃止されたのは,第2次世界大戦が終結した後の1949年8月以降であり,それまで日本人や中国人,インディアンはブリティッシュ・コロンビア州内の大学の法学部,薬学部に入学することすら出来ませんでした.
更に1900年,州政府は総ての公営事業に中国人と日本人の雇用を禁止する法律を公布していました.
この法律は1902年に若干修正され,閣令として発布されました.
同じ年の6月には禁止の範囲は州有山林にまで拡張されました.
ただ,この閣令は有名無実で殆ど実行されませんでした.
ところが,1912年8月,急に州政府はこの閣令の厳格実施を決め,州有山林で働く中国人と日本人を解雇しなければ,伐採のライセンスを取消すと業者に警告し,程なく全員が解雇されるに至ります.
しかし,程なくして第1次大戦が勃発し,白人労働力が戦場に取られてしまうと,これ又有耶無耶になってしまいます.
それも束の間,戦争が終わった1920年3月には再びこの問題が浮上しましたが,今度は日本側が日本人排斥に強硬に抗議しました.
連邦政府は,州政府に対して,こうした措置が日英通商条約違反であるから,直ちに撤回する様に訓令しますが,州政府はこの訓令を不満とし,裁判所に提訴しました.
この裁判は結局,11月に州政府の敗訴となります.
これで懲りたかと思いきや,1921年4月,又も同じ様な法律が州議会を通過しました.
同じ様に裁判となり,1922年2月に大審院判決が下り,形式的には州政府の敗訴,実質的には勝訴と言う変な判決になりました.
そこで裁判争いは,英本国の枢密院にまで上訴され,1923年11月,英国枢密院は,「日本人使用を禁止する州の法規は日英条約に違反する」と判決して,やっとブリティッシュ・コロンビア州の敗訴が確定しました.
此処まで紆余曲折があった訳ですが,移民を制限する「ルミュー協約」にも関わらず,排日運動家にとっては頭痛の種は尽きませんでした.
実は,この「ルミュー協約」には大きな抜け穴があったのでした.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/03/15 23:21
青文字:加筆改修部分
日本とカナダとの間に移民に関する「ルミュー協定」が出来,移民の流入は食い止められたかに見えました.
その協約締結当時,即ち1908年のカナダ在住の日本人移民は,約8,000人程と推定されています.
本来なら,ハワイに契約移民としてやって来た彼らの大部分は,肉体労働によって金を稼ぎ,故郷に送金して,それが資産形成に十分だと感じたら日本に帰国し,稼いだ金を元手に商売などをするケースが多かった訳です.
従って,移民が事実上停止されたこの年からは,日本人移民の数は減少に転じるはずでした.
ところが,1921年の人口調査では,日本人の数は15,868人と,1908年の倍近くなっています.
「ルミュー協約」では,移民数は年間400人に制限されていたので,13年で倍に増えることはありません.
実は「ルミュー協約」には抜け道がありました.
「ルミュー協約」では移民を4種類に分類した事は先述の通りなのですが,移民400名の中に含まれていないのが,「在留者の妻子」です.
つまり,在留者の家族の呼び寄せは別枠だったのです.
ただ,在留者の家族と言っても,親の呼び寄せは認められず,妻子に限るとしていました.
これは欧州的な思考でした.
欧州の家族の単位は,アジアのそれと違って夫婦の親は原則として同居しません.
従って,家族の単位は夫婦であり,家族の中に親が含まれる事はありません.
それは兎も角,カナダに移住してきた人々の大部分は,一旗揚げる為にやって来た単身の男子でした.
しかし,移民達は今までは金を稼いで帰ることだけを目的にしていたのですが,カナダと言う土地で生活する内に「住めば都」となって,この国に定住しようと考える人々が多くなってきます.
帰化と言う手段を執ると言うのは,日本に住む日本人からすれば,「国を捨てるのか」とか「国の恩を忘れた」とか「婿養子に行く様なもの」とか言う目で見られがちだったのですが,移民制限が掛けられた今となっては,逆に移民の方に希少価値が出て来ます.
このまま帰国して,先の見えない貧乏な日本で生活し,不安定な商売に精を出すよりは,こちらの生活に賭ける方が良いと考える様になってきたのです.
この為,既婚男子で,妻子を日本に残してきていた人々は,この協約に保障されたことから,大手を振ってカナダに妻子を呼び寄せることにしました.
しかし,独身男子の場合は,そうは行きません.
当時のカナダで,日本人女子と言うのは江戸の初期の様に,稀な状態でした.
勿論,独身男子が結婚適齢期になっても,配偶者を見つけるのは極めて困難でした.
日本人移民の多くは,漁業,鉱山,山林,製材,農業などで働く肉体労働者であり,また,日本人移民相手の飲食店や旅館などで働く人々です.
そう言った立場の人達が,白人女性と結婚すると言うのは,相当の冒険です.
一方,日本に帰ってお見合いをして結婚するのも,往復1名分の費用に往路1名分の費用負担が加わり,時間的にも,往復に1ヶ月以上掛る事を考えるとリスキーです.
職場では長期休暇を取ることが出来ないばかりか,帰ってくるまでに,折角築いた地位も職業も捨ててしまう可能性の方が高いからです.
それを考えると,配偶者を日本に住む両親や親戚などの肉親に探してくれる様に頼み,その配偶者を日本からカナダに送ってくれた方が効率が良いと考えました.
当時は見合結婚が主流でしたから,独身男性達は写真と経歴を,両親などが選んだ女性と交換し,手紙の遣り取りを行い,やがて見合いをしたことにしてその女性を妻として入籍し,カナダに送り出して欲しいと願いました.
当の花嫁,花嫁の両親もそれを納得ずくで行いました.
これが所謂,「写真花嫁」とか「写真結婚」「写婚」と言われたものです.
当然,こうした写真だけの遣り取りだけでは,「見ると聞くとじゃ大違い」な詐欺的なものも横行します.
写真を修正してみたり,若い時に写した写真を送りつけたり,時には友人の写真を送ったケースもあったとか.
手紙も同じで,模範手紙集を真似したりするのはまだマシな方で,代筆もありました.
更に,カナダに来てからの履歴を偽ったり,資産の見積りも1桁上げたり….
服装も,貸衣装で山高帽やネクタイ,フロックコートを借りて写真を写し,如何にも紳士然と言った趣で送りつけるなどのケースもありました.
今と違って情報の遣り取りに時間が掛る時代,写真や手紙で判断するしか無いので,その写真1枚,手紙1枚を見て花嫁もその両親も夢を膨らませます.
その上,仲人も上手いことを言って話を纏める訳です.
斯くして,娘と親は写真婚を承諾し,妻となった娘は心細い思いで2週間を船に揺られ,ヴァンクーヴァーに着くと,写真を頼りに花婿を探します.
直ぐに見つかる幸運な妻もいれば,呆然とする妻もいた訳です.
夢破れた妻は,下船を嫌がったり,帰国したりする妻もいました.
…とまぁ,こう言った悲劇の側面が強調された御陰で,米国やカナダの女権拡張論者は,「人身売買」と決めつけて槍玉に挙げ,1920年2月25日,漸く日本政府は重い腰を上げて「写婚禁止」を在外公館に告示させました.
しかし,カナダでは写真妻は1928年まで続けられたりします.
最盛期の1913年には凡そ300〜400人が写真花嫁として入国し,1928年までに凡そ数千人に達しました.
その日本人移民達の生活は決して順調では無く,労働も厳しい状態に置かれていました.
しかし,この苦しみがあるからこそ,却って夫婦の絆が深まっていき,子宝にも恵まれて,1921年の人口調査で15,868人,1931年には23,342人を数えるに至ったのです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/03/18 23:24
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