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◆◆戦史
<◆USA
<米州FAQ 目次
「D.B.E. ミニ型」:ハリケーン「アイク」によって姿を現した南北戦争時代の戦艦の残骸 情報源エルエル
「gigazine」:1976年にアメリカ軍で発生した「豚インフルエンザ」の人間への集団感染事例とは?
「YouTube」:ゲティスバーグ ピケットの突撃 Part1
「YouTube」◆(2007/12/28)The Irish Brigade
南北戦争関連
『New Vanguard 79: American Heavy Frigates 1794-1826』 (Paperback)
簡単に言うと,コンスティチューションちう記念艦が米国にあるのだが,その由来を教えてくれる本.
44門フリゲートは他の38門フリゲートを火力で圧倒し,かつ自分に優る火力を持つ戦列艦からは優速で戦闘を回避できる,という了見で作られたらしい.
というより当時は米国が,艦隊を建造し始めたばかり(独立戦争は1776年あたりから.1800年に建造開始)で,イギリスがナポレオンにかまけきりになったのも預かっているらしい.
断面図は多少見難い.
細部の名称などはなぜその名称なのかなど不明で,名称から機能が分かる者でなければ,意味が通じにくいだろう.
ということで,帆走軍艦の話や初期のアメリカ海軍を知る上で手がかりをくれる本という位置づけならば,十分に元手はとれるように思う.
――――――軍事板,2009/09/26(土)
『アメリカ社会と戦争の歴史』(A. R. ミレット & P. マスロウスキー著,彩流社,2011.7)
ブックタワーの方でアメリカ史の所にあった.
軍事系ばかり見てて,見落とす所だった.
パラパラと見てみたけど……う〜ん,単にまとまった概説って印象だった.
思ってたよりも突っ込んだ内容ではなかったので,さすがにコレで一万円近くは払えそうにないと判断.
これ1冊買うより,自分が興味あるそれぞれの戦争で突っ込んだ内容のものを,何冊か買った方が正解かもしれない.
――――――軍事板,2011/07/04(月)
『史上最強のインディアン コマンチ族の興亡 最後の英雄クアナ・パーカーの生涯』(S. C. グウィン著,青土社,2012.5)
『南北戦争 49の作戦図で読む詳細戦記』(クレイグ・L・シモンズ著,学研M文庫,2002.2)
良い本です.うん.
作戦術を勉強するのに,ものすごくお勧め.
つか,もともとアナポリスの教材だし(笑)
――――――Lans ◆xHvvunznRc in 軍事板
『南北戦争記』(ブルース・キャットン著,バベルプレス,2011.4)
結論からいうと,タイトルに偽りなしの傑作.
開戦前の南北の政治的,社会的スタンスから始まって,戦争の経過やその間の南北双方の政治,社会,文化,経済,そして海外の動向などを,分かりやすく,かつ簡潔に纏めてある.
リンカーン,デイビスをはじめとする政治家やリー,グラントら軍人達の人物解説もついていて,これで1600円というのが素晴らしい.
学研M文庫の「南北戦争」と合わせれば,南北戦争の入門書としてこれ以上のものはないかと.
興味ある人は是非.
――――――軍事板,2011/08/10(水)
早速読んでるが,面白い!
今のところ,変な誤訳も出てないし,読みやすい日本語訳で,巻末には人名策引きも載ってるわで,久しぶりに良書に出会えた気がするわ.
図書館で借りたけど,読み終わったら自分で購入します.
――――――軍事板,2011/08/11(木)
第一版1960年という,あちらにおける南北戦争定番通史の初訳,というかいままで翻訳がなかったことのほうが大問題.
北部の勝利がほぼ確定するに至るまでの軍事的流れを,各登場人物に対する鋭い寸評を交えつつまとめた後,戦争の背景事情に触れてから,終戦と戦後処理までをまとめてある.
戦記書には欠かせない地図だが,ルイジアナまでの北米大陸をカバー裏に記し,重要戦役における付図も充実している.
これは原著にはなく,訳者が作成したそうな.
著者の軍事的見識については,ゲティスバーグにはさらりと触れるにとどめ,同時期に陥落したヴィックスバーグ攻防戦を,「ミシシッピ川の川筋を北軍が抑え,南部連合を2つに裂き,挽回不能の損害をもたらした」故に重視しているあたりで,察していただきたい.
本邦における南北戦争の軍事書籍というと,M文庫の地図で読む南北戦争がこれまでトップだったが,いささか高度な素養が要求される戦術書である同書に対し,こちらは,一般読者が読むことを想定し,戦術レベルから経済レベルまでを,トータルに概括する「戦争史』となっている.
広く一読をおすすめする.
-----------------軍事板,2011/12/15(木)
まあ,一応これまでにも太平洋戦争の海戦史なんかを書いてる,軍事方面に強い歴史家のサミエル・モリソンの
「アメリカの歴史3 ヴァン・ビューレンの時代―南北戦争 1837―1865年」(集英社文庫)
が,結構詳しく南北戦争を書いていて,これ以前に本邦でアメリカ南北戦争の通史が日本語で読めなかったわけじゃないけどね.
とはいえ,世界史的に重要な戦争なのに,あんまり本が出てない(「戦争指揮官リンカーン」とか,あるにはあったけどね) 歴史分野だった.
普仏戦争とかクリミア戦争とか,その辺もあんまり本が出てないよな.
クリミア戦争なんて七年戦争に次いで,プレ世界大戦みたいな戦争だったのに,通史がない.
-----------------軍事板,2011/12/15(木)
『南北戰爭の遺産』(ロバート・ペン・ウォーレン著,圭書房,2011.11)
南部連合に従軍した祖父を持つ,アメリカ文学の畑の人が,思い入れたっぷりに描いている.
南部のノスタルジアを,これでもかと表現している姿は,感情移入モノである.
戦闘の推移などを述べた資料と違って,精神風土,文化という面から南部を描き,北部と対立せざるを得なかった人たちの,傲慢と苦悩がそこかしこに…
「敗北して初めて,強固な南部が生まれた」
南部贔屓の著者の先入観もあるのだろうけど,敗れてもなお,ピケット将軍が言ったように,
「お前たちは,なつかしのヴァージニア出身だってことを忘れるんじゃないぞ…」
北部に敗れたヴァージニアではなく,南部連合として北部と対等に戦った誇りあるヴァージニア.
故郷に誇りを抱く指揮官は,今の世の中どれほどいるというのだろうか.
日本で言えば,
「お前たちは,日本国ではなく,懐かしの大日本帝国出身だってことを忘れるんじゃないぞ…」
と,誇りを込めて言う様な感じなのか(笑
これほど文学的な,精神的な側面から,南北戦争を述べる本もまた珍しい.
-----------------名無しの愉しみ : 軍事板,2011/10/30(日)
青文字:加筆改修部分
アメリカの戦争中毒(笑)の歴史 | |
この年表を見ると,アメリカ(合)という国がいかに多くの戦争を行ってきた国であるかがよく分かる. 建国以来の226年間で実に41回.(5年に1回!)第二次世界大戦後の57年間で19回の戦争・武力行使を行っている.(3年に1回!) 国際紛争・意見の相違を戦争・武力ではなく,話し合いと交渉で解決するというのが国際社会に求められている今日,アメリカは自制と政策転換が望まれる.このアメリカの戦争・武力行使に全面的・盲目的に協力・追随するということは,平和に逆行する道である. 今こそ,日本は憲法9条(戦争放棄・軍隊の不保持)の精神・決意を世界に向かって発信すべきではないだろうか. |
|
1507 | ドイツ人ワルトゼミューラー,アメリゴ・ヴェスプッチの名をとりアメリカ(大陸)と名づける. |
1675 | フィリップ王戦争勃発,この戦争によりニューイングランド地方の先住民,ほぼ制圧される. |
1676 | ヴァージニアでベーコンらの反乱. |
1677 | カロライナでカルベバーの反乱(〜80). |
1689 | ボストン市民,名誉革命に呼応、アンドロス総督らを本国に追放. ニューヨークでライスラーの反乱(〜91) |
1711 | カロライナ植民地,先住民タスカローラ族と戦争(〜13). |
1720 | 英仏,この頃からエリー湖,オンタリオ湖周辺に砦を築き,互いに勢力拡大を狙う. |
1753 | ペンシルベニアとヴァージニア,内陸部でフランス勢力と衝突. |
1754 | ヴァージニア植民地軍,五大湖周辺でフランス軍と交戦,北アメリカ大陸でのフレンチ・インデイアン戦争始まる(〜63). |
1763 | オタワ族のポンテイアック,蜂起. |
1773 | ボストン茶会事件. |
1775 | レキシントン・コンコードで戦争,独立戦争始まる. |
1777 | サラトガの戦い. |
1781 | ヨークタウンの戦い.アメリカ大陸軍勝利. |
1794 | 北部オハイオ,フォールン・テインバーズの戦闘で,北西部先住民諸族敗北. |
1812 | 対英宣戦布告,1812年戦争始まる. |
1814 | ジャクソン,南部先住民との戦いでクリーク族を決定的に破る.イギリス軍,首都に侵攻,ワシントン炎上. |
1815 | ニューオーリンズの戦いでイギリス軍に大勝. |
1832 | 北部先住民部族とのブラック・ホーク戦争. |
1836 | テキサス共和国独立宣言.アラモの戦い. |
1838 | 先住民チェロキー族の強制移住開始(涙の道). |
1845 | テキサスを併合. |
1846 | メキシコに宣戦,米墨戦争始まる. |
1847 | アメリカ軍,メキシコシテイを占領. |
1861 | 南北戦争始まる.(〜65) |
1886 | アパッチ族長ジェロニモ逮捕.対先住民戦争事実上終結. |
1898 | 米西戦争始まる. 米議会,ハワイ併合を決定. |
1899 | アメリカ・フィリピン戦争.(〜1902) |
1903 | ローズベルト,コロンビアに対するパナマ住民の独立運動支援を名目に,軍艦派遣を指示. |
1912 | ニカラグアに海兵隊を派遣. |
1914 | メキシコに海兵隊派遣し,ヴェラクルスを占領. |
1915 | ハイチに海兵隊派遣. |
1916 | メキシコに進軍. ドミニカに海兵隊派遣. |
1917 | 対独宣戦布告. |
1918 | シベリア出兵. |
1926 | ニカラグアに海兵隊派遣. |
1941 | 第2次世界大戦に全面参戦. |
1945 | ニューメキシコ州アラモゴルドで初の原爆実験成功. 広島に原爆投下. 長崎に原爆投下. |
1949 | 北大西洋条約調印. |
1950 | 朝鮮戦争始まる. アンザス条約調印. 日米安全保障条約調印. |
1952 | 最初の水爆実験成功. |
1955 | 南ヴェトナムに軍事顧問団派遣. |
1958 | レバノンに海兵隊派遣. |
1960 | U2型偵察機,ソ連領空で撃墜される. |
1961 | キューバと断交. 対キューバ,ピッグズ湾上陸作戦失敗. |
1962 | キューバ危機. |
1964 | 米議会,トンキン湾決議. |
1965 | 北ヴェトナムへの北爆本格化. 地上軍を投入. ドミニカに海兵隊派遣. |
1970 | アメリカ軍,カンボジャ侵攻. |
1971 | ヴェトナム戦争,ラオスにも拡大. |
1983 | グレナダ侵攻. |
1986 | リビアのトリポリなどを爆撃. |
1989 | パナマに侵攻. |
1990 | イラクのクウェート占領に対し,サウジアラビアに派兵. |
1991 | 湾岸戦争. |
1992 | ソマリア派兵. |
1994 | NATO,旧ユーゴ内戦に介入,空爆を行う. |
1996 | イラクに対し空爆. |
1999 | NATO軍,コソボ空爆. |
2001 | 米同時テロへの報復として,米,英と共にアフガニスタン空爆. 地上軍派遣. |
(J. アンドレアス作『戦争中毒』他)
曽村保信『地政学入門』(中公新書,1984年)154-8ページより.
(以上は,『USニューズ・アンド・ワールド=レポート』の記事を参考に作成)
【事実】
アメリカ独立戦争のそれぞれの戦闘を1回と数えても無意味.
また,湾岸戦争などでサウジ派兵と湾岸戦争を別々に数えるなど,この年表には水増しとしか思えない箇所もある.
それに,帝国主義時代に他の主要国はどうだったのか,冷戦時代にはどうだったか,比較対象も出さないで,特定の国の戦争の数だけ数えて多い少ないと言ってみても,それは主観でしかなく,無意味.
【珍説】
中央日報の記事です.
「人類歴史上戦争をいちばん多くやった国が米国」
というのは,よくぞ言ったと思いますが.
「韓国戦争で米軍3万人死んだ事実を宋室長に思い起させる」
----------------------------------------------------ここから引用----
「米国は韓国のために戦い,3万人を超える戦死者を出した国だという事実を思い出すべきだと思う」−−.
--------------------------------------------------------------------
人類歴史上戦争をいちばん多くやった国が米国」という宋旻淳(ソン・ミンスン)大統領安保室長の発言に対してドナルド・ラムズフェルド米国防長官が言及した.
--------------------------------------------------------------------
ラムズフェルド長官は20日,米国ワシントンで尹光雄(ユン・グァンウン)国防部長官と韓米年次安保協議会議(SCM)を開いた.米国防部消息筋によると,この席で,ラムズフェルド長官は尹長官に「(宋室長が)米国は戦争をいちばん多くやった国だと言ったというが,彼が言った米国の戦争のうちには3万人が戦死して10万人が負傷した韓国戦争もあるという事実を誰か彼に想起させてやらなければならない」と言ったというのだ.この言葉を聞いた尹長官側は「居心地の悪い」雰囲気だったと付け加えた.--------------------------------------------------------------------
ホワイトハウス事情をよく知る別の関係者は「ラムズフェルド長官とホワイトハウス国家安全保障会議の役人たちが宋室長の発言に大きく反発した」とし「米国は宋室長発言を通じて韓米同盟と北朝鮮を見る見方に韓国と深刻な距離があることを懸念している」と言った.
--------------------------------------------------------------------
彼はこれまで韓国政府や青瓦台の方から出たどんな発言よりも米国を「戦争するのが好きな国」と描写したことに対しては堪えがたいと強調した.
-----------------------------------------------------引用ここまで---
あつこば(小林アツシ) in mixi
(軍事学的考察上の必要性に鑑み,
引用権の範囲内で引用しています)
【事実】
>「人類歴史上戦争をいちばん多くやった国が米国」
そうは思いませんが.
イギリスのやった戦争
フランスのやった戦争
ロシアもすごいな,対トルコだけで7回もあるし.
これに西側欧米諸国との戦争や西・中央アジア,清,モンゴルとの戦争もいれたら何回になるんだろー.
成りあがりなヤンキーどもとは年季が違いますよ,年季が.
「人類史上もっと多くの戦争をやった国」とアメリカをイコールで結びつけるのは,よっぽど歴史に無知な人だけでしょう.
ローマ帝国なんて,一体何回戦争してるのかと.
あぁ・・・アメリカ論でありがちなのは,「戦闘の回数」と「戦争の回数」をごっちゃにしてる人ですね.
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/10/18/20061018000075.html
平和と安全を政争の道具にする愚劣さは,いずこの国も同じ.
国に限らず・・・mixiでもだな.
偏向管理人は言い逃げ続け?
じゃあ.あれだ. 「最も多く戦争で人を殺した国」というキャッチフレーズで.
…
…
……
第二次世界大戦戦没者数
どう見てもナチの方が多いです.
本当にありがとうございました.
【質問】
「人類歴史上,戦闘をいちばん多くやった国が米国」であれば間違いではないって事ですか?
あつこば in mixi
(軍事学的考察上の必要性に鑑み,
引用権の範囲内で引用しています)
【回答】
いえ,そういうことじゃなく,「戦争」全体じゃなくて「戦争のなかの戦闘」を,一つの戦争と混同する人がいるみたいなんですよ.
言ってみれば「真珠湾攻撃」と「ミッドウェー海戦」をそれぞれ一つの戦争として数えるようなものです.
「どの国が一番戦闘を行ったか」なんて,数えるのも馬鹿らしいし,数える意味があるとも思えない.
まぁ,第一次世界大戦では,一つの「戦闘」で100万人単位が死亡したこともあるわけですが.
【質問】
戦争で歴史上アメリカ人を一番多く殺したのは,どこの国なんでしょうか?
【回答】
アメリカ人を一番多く殺した戦争は南北戦争.
ゆえに,答は「アメリカ」.
【質問】
フィリップ王戦争とは?
【回答】
入植初期に起こった,入植者とインディアンとの間の戦争.
プリマス植民地の成人男子の8%が死亡.
一方,ニューイングランドのインディアンは人口の6〜8割を失うという大打撃を受けた.
以下引用.
イギリス人による北米植民史の初期を代表するのは,メイフラワー号から始まるマサチューセッツのプリマスへのピューリタンの植民です.
最初のうちはピューリタン達とインディアンとの関係は悪くなかったのですが,ピューリタン達が奥地へと進出するにつれて両者間の軋轢が高まっていきました.
1675年にはインディアンによるスプリングフィールドの焼き討ちが起こり,これが転換点となりました.
間もなくフィリップ王の戦争(King Philip's
War.フィリップはインディアン側の指導者のあだ名)と呼ばれる戦争が始まり,約2年間続きます.
この戦争によって,プリマス植民地の成人男子の8%が命を落とします.
しかし,インディアン側はそれどころではなく,壊滅的打撃を受けます.
ニューイングランド地方のインディアン人口は戦争前には約2万人でしたが,少なくとも2,000人が戦死し,3,000人が病気や飢餓で亡くなりました.
そして,1,000人が船に乗せられて奴隷として売られていき,推定2,000人が逃散しました.
すなわち,ニューイングランドのインディアン人口はその6〜8割を失ったことになります.
(以上,
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/05/04/AR2006050401617_pf.html(5月7日アクセス)
による.)
どうやら,米国史は最初から原住民殺戮の歴史だったようですね.
【質問】
ボストン茶会事件では,襲撃者は先住民の扮装をしていたということですが,扮装の狙いは何だったのでしょうか?
【回答】
先住民の扮装をしたと考えられる理由
・(インディアンの格好をすることで)
インディアンに罪を擦り付ける為
・(インディアンの格好をすることで)
インディアンの持つ不思議な力を利用する為
・(目立つ格好をすることで)敵と味方を区別する為
・規範の違犯者に対し,制裁と同調の儀礼として行われる
一種のシャリヴァリ(喧噪行為)としてインディアンを装った.
世界史板
青文字:加筆改修部分
【質問】
ジョージ・ワシントンって誰?
【回答】
アメリカ独立軍総司令官にして,独立語の初代大統領.
1732年にウェストモアランドの富裕なプランター(大農場主)の家に生まれ,17歳で測量技師となるも,英仏植民地戦争にイギリス軍の少佐として手柄を立て,軍人として知られるようになった.
1775年,独立軍総司令官に選ばれると,正規軍として確立していなかった寄せ集めの兵からなる民兵組織を再編し,1777年のサラドガの戦いではイギリス軍数千を降伏させ,1781年にはヨークタウンで英軍を破り,1783年にアメリカの独立を成し遂げた.
【質問】
強襲揚陸艦の艦名は過去の激戦地の名をとることになっているそうですが,
ワスプ級の艦名は
エセックス
キアサージュ
ボクサー
バターン
ボンノム・リチャード
イオー・ジマ
マキン・アイランド……
ボンノム・リチャードって地名じゃないよね?
【回答】
ボンノム・リチャードは,アメリカ独立戦争時の海将にして米海軍最大の英雄ジョン・ポール・ジョーンズ提督が将旗を掲げた,900トンの帆走フリゲイトの名前です.
ジョーンズ提督は1779年9月23日,英東海岸フランボロ・ヘッド沖の海戦で,英海軍の「セラピス」「カウンテス・オブ・スカーパラ」と砲戦二時間の激闘の末,128人が戦死した「セラピス」を降伏させ捕獲し,「スカーパラ」も捕獲しました.
(スカーパラの捕獲は指揮下にあった仏海軍フリゲイト「パラス」による)
しかし,ボンノム・リチャードも150人の戦死者を出した上,砲戦による損害も甚大で,元々旧式の中古艦だったリチャードは戦闘後に沈没しました.
この戦いは,米海軍が初めて挙げた本格的な海戦での勝利として記録されており,勝利の立役者となったジョーンズ提督と,その乗艦ボンノム・リチャードの名もまた,不朽の物となっています.
ちなみに,ボンノム・リチャードはフランス政府がアメリカに送ったフネですので,仏海軍にも「ボンナム・リチャード」の名を関した艦が有ります.
なお,上記の出典は
「世界の艦船 増刊49集 アメリカ海軍 昔と今(新版)」
「世界の艦船 増刊65集 アメリカ海軍のすべて」
です.
ローテU
読み方も,英語読みの「ボノム・リチャード」と,フランスから贈られた船という来歴を重視してフランス語読みする「ボノム・リシャール」の2つが書籍に見られます.
onomoto in mixi支隊
ちなみに,"Bon Homme Richard"
と書くと長すぎると感じるのか,米海軍のニュースサービスなんかでは頭文字を取って
"BHR" と書くことがよくあります.
例 : http://www.news.navy.mil/search/display.asp?story_id=16543
似たような例は,George Washington を "GW"
と書くなど,いろいろあります.
井上@Kojii in mixi支隊
【質問】
なんでアメリカは,時の大国,イギリス相手に独立することができたんですか?
【回答】
まず,イギリスの宿敵フランスをアメリカが巻き込み,英帝国内の内戦を国際戦争にしてしまった.
米仏VS英で,英国が少ししんどくなった.
また,アメリカの素人軍団の戦争のしかたが,ひたすらルール違反で,派遣されたイギリスの陸軍が,なんかしんどくなった.
3000マイルの海をこえてやってくるイギリス軍は,補給がとても困難だった.それでもインディアンを味方につけたが,アメリカ軍がインディアンの女子供を殺しまくって,インディアン自体の補給を断った.
戦争下手なワシントンは当初イギリス正規軍には歯がたたなかったが,補給の乏しいイギリス正規軍に,ドンくさいカリスマ・ワシントンに率いられた,アメリカ民兵が雲霞の如くおそいかかって,イギリス軍はだんだん嫌になってきた.
イギリス政府も長引く戦争で財政がしんどくなってきた.
イギリス商人も,はやく戦争おわらせてアメリカと貿易したくなってきた.
商人に突き上げられた国会議員は議会でも,やめようか,といいはじめた.
1782年ころ,イギリスで政変
1783年,講和条約
メル・ギブソンの「パトリオット」見ると良く分かるよ.
補給部隊への襲撃を繰り返す民兵.
襲う際は,まず将校から狙撃.
指揮官を狙うのはルール違反だとイギリスが抗議しても聞く耳持たず.
映画じゃ,イギリス軍が虐殺行為を働いていたから仕方なく将校を狙う,って言っていたけどデッチ上げでしょ.
アメリカが正義だ,星条旗万歳といったプロパガンダ臭が我慢できれば,見所満載の映画です.
【質問】
アメリカの首都の変遷は?
【回答】
米国の首都と言えばワシントン,公式にはDistrict
of Columbiaで,両者を併せてワシントンD.C.と言う名称が使われます.
人口は首都にしては小さく2006年度の推計で58万人です.
その米国は,1774年9月に13植民地の代表が会した第1回大陸会議を開催して,英国国王ジョージIII世に請願書を提出しますが拒否され,1775年4月19日のLexingtonの戦いから独立戦争が開始されました.
1776年7月にはジェファーソン起草による独立宣言が採択され,1781年10月にはYorktownの戦いで勝利して,最終的に1783年9月にパリ条約で独立が確定しました.
1777年11月,大陸会議は連合規約案を採択し,「連合会議」に外交,軍事などの国家としての最小限の権限を持たせ,他方,各州は独自で憲法や各種法律を制定する権限を認めました.
独立後の1781年以降,連合会議(大陸会議から改称)と言う名の中央政府は,特定の所在地を持たないまま,主要都市で持ち回り開催をしていました.
米国独立当初は,米国には明確な首都がなかった訳です.
1774年9月5日から1776年12月12日まではペンシルベニア州のフィラデルフィア,その後3ヶ月だけメリーランド州のボルティモアに移り,その後半年はまたフィラデルフィア,1777年9月27日の1日だけ同じペンシルベニア州のランカスターに移って,9月30日から翌年6月まで同じ州内のヨークへ,1778年7月2日から翌年6月まで再びフィラデルフィアに戻り,6月26日から11月初旬まではニュージャージー州のプリンストンへ行き,11月26日から翌年6月までメリーランド州のアナポリスへ,1784年11月からその年のクリスマスイブ迄はニュージャージー州のトレントンに移って,翌年から1789年3月までニューヨークに腰を落ち着け,合衆国憲法を制定し,ニューヨークには9月末まで居て,12月から再びフィラデルフィアに戻ると言う,猫の目首都とも言える状態でした.
独立当初,米国で最大の都市と言えば,フィラデルフィアであり,これにニューヨークが続き,初代大統領ワシントンの宣誓はニューヨークで行われています.
この移動首都の時代,議会関係者は大変でした.
常時旅行中の状態で執務したり,文書類を紛失することなく移動させたり,安全確保,宿舎確保などの問題が頭を悩ませる事になります.
更に,こうした風来坊首都だと,起債をするにしても貸手側が,米国の新興国としての存在感に不安を抱かせ,起債が困難になることが予想されました.
そうなると首都の設置気運が盛り上がり,1783年にフィラデルフィアで開催された連邦議会で,恒久的な連邦首都の建設が決定されました.
具体的な候補は,ポトマック河畔のジョージタウン周辺と,デラウェア河畔のトレントン周辺とし,調査が為されたのですが,何と言っても,初期の米国は13州の寄合所帯であり,其の決定までに至る道筋は決して容易なものではありませんでした.
各州とも首都の誘致合戦を行い,1783年にはメリーランド州やヴァージニア州が土地,施設,資金の提供を申し出ています.
また,当時の13州と雖も一枚岩ではなく,大別すると北部諸州と南部諸州に分かれていました.
既に,南北戦争に至る萌芽が見られた訳で,北部,南部とも双方に近い場所での首都設置を求めました.
北部諸州の最南端はペンシルベニア州,南部諸州の最北端がメリーランド州であり,両州の境界が南北の境でもありました.
1787年の合衆国憲法でも連邦政府所在地の設定に関する規定は設けられましたが,さて,具体的な事となると,各々の主張をして論議が続き,選定が難航しました.
更に,首都のあり方についても,連邦政府の権限を限定して地方分権を志向し,首都の大都市かを懸念する意見と,中央集権を志向して強力な連邦政府を求め,大都市を首都とすべきとの意見もあり,活発な論争が交わされました.
前者の意見は,主に農業中心の南部諸州の意見であり,後者は商工業が発達していた北部諸州で有力でした.
1789年3月の第1回連邦議会は,ニューヨークで開催されましたが,首都の立地を巡って審議が行われます.
下院は,先ずメリーランド州のボルティモアを,次いでペンシルベニア州のライツスフェリーを提案しますが,上院に拒否され,其の儘会期切れとなりました.
首都の位置については,各州も敏感であり,中には南北に2つの首都を設け,交互に連邦政府が移動する案や,各州で首都を持ち回る案さえ出て来ました.
中々結論が出ない問題に一石を投じたのは,南部を代弁する国務長官トーマス・ジェファーソンと,財務長官アレグザンダー・ハミルトンとの間での妥協でした.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/12/02 23:29
そう言えば,村興しとか,昔からの祭りで,綱引きで境界が決まるなんて話があったりしますが….
米国の首都を巡って,北部と南部が争い,南北に二都を設けるとか,各州で首都を持ち回るなんて案まで飛び出しました.
これでは,南北が啀み合って分裂しかねないと思った政治指導者達は,妥協を図ります.
それともう一つ,重要な問題だったのが,独立戦争時に各州が抱えた戦時債務の問題でした.
各州とも戦費を捻出する為に起債を続けており,利払いや償還が大きな負担となっていました.
この為,外交的な問題を懸念していた国務長官で,南部を代弁するジェファーソンと,財政的な問題を懸念していた財務長官で,北部を代弁するハミルトンとの間での妥協が探られ,連邦による各州債務の引受けと南部地域への首都立地をセットにした案が妥結しました.
独立戦争時の債務については,商工業が発達していたとは言え,その市場は余りに小さい為に,税収の少ない北部諸州での償還は進まず,農産物を欧州に輸出し,それで税収を確保出来ていた南部諸州は比較的財政状態が良い為,償還が進んでいました.
諸州の債務を連邦政府で肩代わりする事は,南部諸州からの連邦への税収で,北部諸州を救済する意味合いを持っていました.
1790年7月,遂にヴァージニア州とメリーランド州に跨り,ポトマック河畔に位置する地域を首都の建設予定地とする事を規定した「政府所在地法」が可決されます.
其の土地は,1辺10マイルの広さと定められ,10月に初代大統領ワシントンが,現在の首都の80マイル上流から数マイル下流に掛けてのポトマック河流域を視察旅行し,各地で熱烈な誘致の提案を受けています.
1791年1月,大統領は10平方マイルの土地を指定し,南部北端のメリーランド州が7割,北部南端のヴァージニア州が3割の土地を譲渡しました.
実際には土地の利用は,専らメリーランド州側に集中し,1847年にヴァージニア州側の土地は返還されています.
因みに,10月のワシントンの候補地視察は一種のやらせで,実際は既に地区の選定は決まっていたようです.
ただ,余りに露骨すぎると地域の不満を招きかねないと言う事で,候補地としてのチャンスは幅広く与えられている事を示すパフォーマンスが行われた訳です.
結果として,首都の立地は北部諸州と南部諸州の利害調整の配慮,防衛上の見地,内陸部への水運の便などから,南北両地域の境界上で,ポトマック河を遡航した地点で合意が形成されました.
これが現在のワシントンD.C.になるのですが,地域上の利便性は元より,人口分布上も当時の人口重心に近い地点でした.
序でに,ワシントンの邸宅は近郊のマウント・ヴァーノンにあったりするので,これも少しは影響したのかも知れません.
以後,1790年から新首都が建設されるまでの間は,ペンシルベニア州フィラデルフィアが暫定首都となり,1800年4月にワシントンD.C.への遷都が行われました.
この時の大統領は2代目のジョン・アダムズであり,1801年には3代目のトマス・ジェファーソンが就任式を行いました.
その新首都の建設に当っては,1791年1月,ワシントン大統領は米国人測量技師アンドリュー・エリオットに地理的な調査を依頼し,都市計画に対しては,フランス人建築家ピエール・ランファンに調査を委託しました.
当初,ランファンは市街地や建物の敷地に適した土地の調査だったのですが,段々それが膨らんで,首都の全体基礎設計に進んでいき,8月半ばに首都の基本プランを策定しました.
このランファンは,1777年に義勇兵として米国独立軍に加わり,1784年に除隊後,ニューヨーク市庁舎の債権などに従事し,ワシントンの信頼を得たものです.
ランファンの計画は,計画内の収容人口10万人とし,フランスのベルサイユに倣った幾何学的なデザインで,ストリートは東西南北方向に碁盤目状に配置し,対角線上にアベニューを通して,その交差点にはサークルやスクエアと言った広場を設けています.
都市の中心部にはモールと呼ばれる広大な緑地帯を設け,更に三権分立を象徴する様に,主要なアベニュー沿いに互いに離れて,連邦議会,大統領府,最高裁判所が配置されています.
実際には,連邦議会と大統領府は案通りに立地しますが,最高裁判所は,連邦議会の近くに建てられる事になりました.
しかし,この計画は余りにも壮大すぎ,ランファンにコスト意識が欠如していた事もあって,当局者と摩擦を生じ,プラン作成の1年後には解任され,其のプランもそれ以上の進捗をせず,1825年,不遇の内に生涯を終えました.
兎に角,1800年にホワイトハウスと議会の一部が竣工して首都としての機能が開始されました.
其の当時の人口は5,000人だったそうです.
1814年には米英戦争により,英国軍の侵攻と占領を受けて主要な建物は焼き払われ,都市建設を一層遅らせていますし,首都の人口も1850年でやっと52,000人だったのですが,1900年に米国が黄金時代を迎えようとする頃には市街地が北部に拡大し,25万人の人口を数えるまでに至っています.
1901年になると,上院議員J.マクミランを委員長として,ランファン計画を再検討して,人口20万を超えたワシントンD.C.に相応しい都市整備を進める為,総合都市計画「マクミラン計画」が策定されました.
これ以後,広大なモールや政府機関庁舎の整備が進み,都市景観保全の為に建築物の高さ制限が法制化されました.
現在のワシントンD.C.は,人口58万人で,メリーランド州,ヴァージニア州を含むボルティモア・ワシントン大都市圏を形成しており,その人口は820万人に達しています.
人種・民族構成は,意外な事に黒人が66%,白人30%と言うもので,これは南北戦争を避けた南部諸州からの黒人の流入や20世紀の郊外への人口移動の結果この様な構成となったものです.
この地には米国の首都に相応しく,連邦議会,連邦最高裁判所,大統領府と言う三権の府が揃っており,連邦議会議事堂は,ワシントンD.C.の区域のほぼ中央に位置する丘,所謂,キャピタル・ヒルの上に建っています.
この丘はDCの中で最も高い場所であり,議事堂は連邦国家の象徴として聳えています.
また,近くには既に触れた様に連邦最高裁判所があります.
其処から西北の方向にある小さな丘に,ホワイトハウス,つまり大統領府があります.
この丘の間にはペンシルベニア・アベニューが通り,DCの中心部に近い場所には国務省,商務省,FBIなどが立ち並んでいますが,ペンタゴンやアーリントン国立墓地は,ポトマック河を渡ったヴァージニア州内にあり,行政区画状は首都の外側だったりします.
新大統領を待つ街というのは,こんな顔を持つ都市な訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/12/03 21:31
【質問】
バレーフォージってどういう場所?
【回答】
バレーフォージ Valley Forge は,アメリカ独立戦争中の1777〜1778年にかけての冬の間、独立軍が宿営地とした場所で,フィラデルフィア
Philadelphia の北西約35kmのところにあります.
1776年7月4日にアメリカは独立宣言をしたものの,英軍に首都フィラデルフィアを占領されるなど,戦闘は依然続いており,その小康状態の時期に,ギザギザの寒さ(by
google翻訳)と窮乏とに耐えながら,この地で軍隊の訓練と休養,再編成を行いました.
この地が選ばれたのは,フィラデルフィアのイギリス軍の動きを監視でき,高台に位置し,北のスカイルキル川と相まって防御も容易であったためです.
現在では国立歴史公園として整備され,資料や当時の建物などが保存されているほか,キャンプも楽しめるそうです.
【参考ページ】
http://www.discoveramerica.com/jp/pennsylvania/valley-forge-national-historical-park.html
http://getdream.blog.so-net.ne.jp/2008-04-28
http://en.wikipedia.org/wiki/Valley_Forge
http://www.nps.gov/vafo/
http://www.ushistory.org/ValleyForge/
【ぐんじさんぎょう】,2008/11/10 23:00
に加筆
【質問】
エンタープライズって何?
【回答】
エンタープライズはアメリカ独立海軍のスループ型帆船です.
4ポンド砲12門他を備え,独立戦争初期には,シャンプレーン湖でアーノルド大佐の指揮下で旗艦をつとめました.
1776年,バルカー島海戦に参加後,アーノルドがタイコンデロガ砦に撤退する際に,他の残存艦船4隻と共に火をかけられて沈みました.
【参考ページ】
http://en.wikipedia.org/wiki/USS_Enterprise_(1775)
【質問】
映画「パトリオット」についてですが,決戦するにしてもなぜわざわざあんな前から順番に死んでいく,みたいなやり方なんでしょう?
ローマ時代や戦国時代にも,柵とか塀を作って防護してたのに,パトリオットの決戦ではヘルメットも被らず,弾の交換する時も突っ立ってやってます.なんの工夫も無いです.
あんな戦争,よくやったものだと思います.
【回答】
一つは指揮官の量と把握が出来ない事.
突撃にしても防御にしても,指揮官の声が届く範囲内で行うのが常でした.
それゆえ密集する.
また文盲率の高い当時では,一般的に将校の育成は貴族や富豪等限られた人対象にしかしか出来ません.
国民国家ができていない当時の一般人の愛国心や忠誠心はかなり怪しいものでした.
立って撃つことに付いては,立って撃った方が装填の手間がかからず,発射速度が速いのと,今と比較して射程の短い当時の武器では,相手の歩兵突撃を警戒しなければならなかった事情からです.
伏せてた時に相手が切りかかってきたら防げないでしょ.
さらに,当時の銃は正確にはライフルじゃありません.
銃身の内側に溝が切ってあって,それによって弾が回転して安定した弾道を得られるのがライフル銃ですが,独立戦争当時にはまだ実用化されていませんでした.
当時の銃は内側が平滑で,まっすぐ飛ぶ距離も極端に短く,30mも離れれば狙って当てれる代物じゃありません.
命中率は密集隊列同士で1000発に1発とかだったようです.
映画じゃバタバタ倒れてますけど,あれはあくまでも映画の演出(笑).
個人的には白兵戦もかなり怪しいと思っています.
あと,柵や塹壕は中世からありました.
伏せ撃ちや膝撃ちも独立戦争以前から欧州では行われてたし.
独立戦争ではどうかは良くわかりませんが.
【質問】
映画「パトリオット」についてですが,なぜ『平原での決戦』などやったんでしょう?
ゲリラ戦とか消耗戦で延々とやっていけないものでしょうか?
【回答】
散兵で自由に射撃させた方が射撃の効率は良いんだけど,何せ当たらない.
17世紀までの根性の入ったスコットランド高地人の氏族軍やら,ポーランド人槍騎兵やらが突撃してくると蹴散らされるだけ.
結局は有る程度の密集隊形で銃剣の壁を作らないと,商売に成らない.
でも,やっぱり歩兵同士の戦いでは銃撃で少しでも相手の戦力を削りたい.
したがって2〜3列横隊,突撃はじっくり歩いて,というのが18世紀半ばの軍隊でした.
アメリカ独立戦争では,上の段の「当たらない」って問題が少しだけ解決したんです.
アメリカの民兵はライフル(速射の必要が無い猟銃だから)を持って散開隊形(訓練してないもので(^^;)で戦闘をして,ワシントンの率いる大陸正規軍を支援した訳です.
そして,この次のナポレオン戦争で,散兵,横隊,攻撃縦隊を織り交ぜた戦術が完成したという感じです.
横隊や縦隊が使われなくなったのは,後装銃が開発された後で,日本で言えば明治に入ってからになります.
【質問】
1812年の米英戦争は何で起こったのですか?
【回答】
ナポレオン戦争による英仏の戦いの最中,両国とも中立国の権利を尊重せず,多くのアメリカ船を拿捕したが,英国は更に,拿捕したアメリカ船の船員を強制徴募し,旧北西部地方のNative
Americanを扇動して,合衆国の辺境地と入植地を襲わせた.
このため,合衆国西部と南部の強硬派が,「自由貿易と船員の権利」をスローガンに団結し,議会が英国への宣戦布告を僅差で可決した為に勃発した戦争.
【質問】
米海軍の巡洋艦レイク・エリーの名前は五大湖の一つエリー湖に由来するのでしょうか?
だとしたらにスペリオル湖,ミシガン湖,ヒューロン湖,オンタリオ湖の名前を冠した艦もありますか?
【回答】
湖そのものではありません.
1813年9月10日,エリー湖の戦い(BattleofLakeErie)と呼ばれる,米英の湖上艦隊の間で繰り広げられた激戦に由来しています.
米軍の指揮官O・H・ペリー提督が,旗艦「ローレンス」と,撃破されて移乗した「ナイアガラ」に,「艦を見捨てるな(Don't
give up the ship)」と大書された旗を掲げて全軍を指揮した事で有名です.
エリー湖の戦いは米軍の勝利に終わっています.
ちなみに,米艦には他に「レーク・シャンプレーン」ってのもあります.
【質問】
米英戦争って独立戦争に比べ,アメリカではマイナー?
【回答】
1812年の米英戦争なら現代の合衆国でも,めちゃ有名.
以下のエピソードを知らん奴は,アメリカ人じゃねぇと言われても仕方がない.
この戦争での武勲艦帆船のコンステレーションは保存整備されていて,200年たった今でも海軍の現役艦.
エリー湖の戦いでの英国海軍を破ったオリバー・ハザード・ペリー(浦賀ペリーの兄)は国民的英雄で,その名を現代のミサイルフリーゲート艦に残している.
1814年に本土決戦で首都ワシントンを英国軍に占領され,大統領府に火をつけられる.
その焼かれた後を隠すために白く塗られ,「ホワイトハウス」と呼ばれるようになる.
同年,マックヘンリー要塞の戦いで攻撃に耐えて,たなびく星条旗を讃える詩が出来て,曲がつけられて国歌「星条旗」が誕生した.
世界史板
青文字:加筆改修部分
【質問】
なぜ多くのアイルランド人がアメリカに移住したのか?
【回答】
日本では,お金さえ出せば,庶民でさえそこそこの食べ物が手に入ります.
ホームレスでも,コンビニで期限切れの弁当を手に入れる事も出来たりして,食については恵まれている方です.
しかし,その便利さは何処から齎されているかと言えば,海外の原料食物を買い叩き,労賃の安い人々を酷使して加工し,日本に持ってきて売っている訳です.
前にコーヒーの話を書きましたが,生産者には殆どお金が落ちず,専ら最終生産者だけが儲かる仕組みですな.
で,日本の食糧自給率は現在40%.
先日,東北大学でその食糧自給率で得られる食物で定食を作っていましたが,主食は芋と粥だったかな,兎に角悲惨なものだったりします.
現在は,放棄耕作地も多くなっており,更にこの数字が下がるのではありますまいか.
今回の餃子事件,決して他山の石とせずに,食糧自給率を上げるには消費者がどう行動すべきか,考える必要があるのではないかなぁと思ってみたりします.
さて,馬鈴薯と言う作物は,南米から渡ってきて,16世紀初め頃にIrelandに伝わり,彼らの食生活に定着していきました.
17世紀,グレートブリテンとの戦争の際には,農地が敵兵によって荒らされたにも関わらず,馬鈴薯は地中にあった為に難を逃れ,収穫する事が出来て,彼らを飢えから救いました.
馬鈴薯は成長も早く,早堀や時期遅れでも収穫が可能だった上,強風,寒さ,日照時間の短い悪天候,それに,地層も殆どが岩盤層で,農作物が真面に育たない土地でも栽培可能だったので,何時しか馬鈴薯の栽培面積は増え,Irelandの主食となりました.
当時の農民の生活は貧しく,あばら屋に住み,食物の種類は少なく,衣服も粗末なものであり,しかも,土地は悉く大地主の手に抑えられており,自由農耕は僅かな土地でしか認められませんでした.
その僅かな土地で家族を養う必要があった為,生育期間が短く,種芋を植えれば,放っておいても生育し,単位面積収穫量が高く,保存性も良くて,10月に収穫しても,翌年の5月位までは保存する事が出来ました.
そう言う意味では,馬鈴薯は実に効率の良い食物だった訳です.
5月に蓄えが底をつくと,春小麦の収穫が始まり,オートミールが主食に代るので,6月〜10月までの季節は,「ミールの月」と言われています.
この馬鈴薯によって,Irelandの人口は,18世紀末より増加し,1785年に285万人だったのが,1845年には850万人にまで膨れあがりました.
とは言え,人口が増えても国内に産業らしい産業はなく,農業のみに頼っていた庶民の生活は貧しかった.
こうした環境の中,1845年に馬鈴薯に疫病が発生します.
芋に黴が付いて腐ってしまう病気で,収穫しようにも,ピンポン球程度の大きさの馬鈴薯だったものからは,異臭を放ち,とても食べられたものではありません.
日本の天保期などに発生した米飢饉の場合は,餓死者も結構出ましたが,穀物が獲れなければ,芋類や根菜類を主食として代用し,極端な貧農以外は何とか凌ぐ事が出来ました.
しかしIrelandの場合,これだけが秋から春にかけての主食ですから事は深刻です.
政府は,必死になってIndiaからIndianmealと玉蜀黍を輸入します.
この二品が採用されたのは,ただ馬鈴薯に変わる最も安価な代替品だったからに他なりません.
これが1年だけなら何とかなったのですが,この病気は,何年もの間,発生し続けます.
幾ら健康な種芋を植えても,結果は同じだった訳です.
また,政府の採った対応で緊急輸入された二品も,Indianmealなら兎も角,玉蜀黍は人々の手に余りました.
と言うのも,彼らはそれを食べた事もなかった上,どの様に食べるのかが判る術が無かったからです.
当時,飢饉の救済委員会では,玉蜀黍の調理法を書いた紙を配りましたが,英語を読めない人々には理解出来ず,遠隔地には届いた験しがありませんでした.
その料理法は以下の様に書かれています.
1. mealにした玉蜀黍を熱したミルク,肉汁でよく混ぜる.
2. 小さな子供には水を入れ,朝食,軽い夕食の時に与える.
3. ミルクに玉蜀黍を入れる場合は,大人の朝食,又は軽い食事の時に使う.
4. 硬い挽き割りの状態の時には,ミルクや肉汁に入れ,良く噛んで食べる事.
暖かく美味しいmealは,胃を満たし,身体を強くする.
ところが,この玉蜀黍,殻が非常に固かったのですが,挽き割りにする為の道具が,彼らには無かった事が問題でした.
挽き割りの状態であれば,小麦粉やOatmealを混ぜて焼く事が出来ます.
しかし,そんな道具のない人々は,玉蜀黍を其の儘食べると言う事をせざるを得ない状態に追い詰められ,実際にそうやって食べた人々に重い胃病を患わせる原因となりました.
以後,玉蜀黍の黄色は,食べられないと言う意味と同義となり,「硫黄の皮」と言う言葉が生まれました.
1847年になっても未だ飢饉は続きました.
当時の"The Illustrated London News"にはこんな記事が掲載されています.
[quote]
新聞社が用意した馬車がClonakiltyに立ち寄った時,貧困の恐怖が明らかとなった.
数え切れない人々が施しを乞う為に馬車の周りに群がったのだ.
彼らの中に,痩せ細った子供の死骸を腕に抱いている一人の女性がいた.
彼女は棺を買ってその愛しい赤ん坊を埋葬できるように助けて欲しいと,私たちに痛切な哀願をするだった.
Clonakiltyを去った後,西に一歩進む毎に,悲惨さの真実が明らかにされていった.と言うのは,私たちがSheppentonの絵の様に美しい湖水地帯に近づくまで,100ヤード毎に葬式か棺に出会ったからだ.
葬儀に立ち会う人は殆ど居ない.
8人乃至10人の列席者のいる葬儀は滅多になく,多くて2〜3人であった.
次にBridgetownへと赴いた.
そして其処で見たものは,床の上で死にかかっている者,やっと生きている状態の者,そして死体が所構わず横たわっている情景だった.
彼らの上に掛けられた僅かなボロ布を除けば,人と冷たい土の間には何もなかった.
証拠を示すべく特別な家を取上げるには及ばないし,その様な事は時間の無駄となろう.と言うのは全てが同じ状況だからである.
500軒の内,死と疫病から免れていると言い切れる家は1軒も無かろう.
今此処に辛うじて生きているものでさえ,後6日間,いや3日か4日のうちに,他の死体の傍らに横たわる事になるだろう.
一体誰が,この死体を最後の休息の場へと運ぶ事が出来るだろうか.
[/quote]
追い詰められた人達は,此処で死ぬか,海外の新天地に掛けるかの二者択一を迫られます.
こうして新天地アメリカ大陸へと数十万人の人々が,大西洋を渡って行ったのですが,その移民船は別名「棺桶船」とも言われ,船内はぎゅうぎゅう詰めで,屡々疫病が発生し,中には半数以上が航海中に命を落としたケースもありました.
海外から食べ物が入ってこなくなった時,果たして日本人は生き延びる事が出来るでしょうか.
また,国内では生活出来なくなった場合,移民として受容れてくれる国はあるのでしょうか.
Irelandの馬鈴薯飢饉は僅か150年前の出来事です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年02月01日23:01
◆◆◆南北戦争以後
【質問】
南北戦争って何?
【回答】
1861〜65年に起きた,米国史上ただ一度の内戦です.
アメリカ南部の11州が合衆国から脱退して「アメリカ連合国」を結成(南軍),合衆国に残った23州(北軍)との間で戦争となりました.
双方合わせて62万人の死者を出したのち,北軍勝利で戦争は終わりました.
(画像掲示板より引用,元出所不明)
【質問】
南北戦争物でいい本ってありませんか?
昔,たまたま買った学研の『作戦図で読む南北戦争』ってのが面白かったので,他にいい本がないか?と本屋や図書館で探しても,南北戦争を取り扱った本が見当たらないので.
【回答】
通史っぽいものなら「合衆国の歴史 第6巻 南北戦争」(時事通信社)
がオススメ.
基本は社会全体の動きについてだが,軍事的展開についてもしっかり書かれている.
大判サイズなんで地図や図表,当時の戦場絵画やイラスト等も豊富.
但し古い本なので,図書館でも置いてある所は少ないかも.
相互貸し出しを利用すれば,多少時間が掛かっても取り寄せて貰えるだろう.
ちなみに自分は住んでる街の図書館に無かったので,県図書館まで行って借りた.
一兵士の視点では,小説なら「白球の王国」(トマス・ダイジャ/文春文庫),
児童向けの「少年は戦場へ旅立った」(ゲイリー・ポールセン/あすなろ書房)等がいい.
前者はストーリーそのものは御伽噺めいたファンタジーだが,当時の兵士達がどんな日々を送っていたのかが
よく描けている.
後者は平易な文章で,志願して戦争に行った少年の過酷過ぎる体験とその結末を淡々と綴っている.
あとは映画「グローリー」を見ろ.
燃えるから.
538 名前: 名無し三等兵 [sage] 投稿日: 2009/01/23(金) 23:05:16 ID:???
さあ,『風と共に去りぬ』の読破に挑戦するんだ.
軍事板,2009/01/23(金)
青文字:加筆改修部分
【質問】
ここ数年で刊行された,南北戦争関係の書籍ってないですかね?
『南北戦争 49の作戦図で読む詳細戦記』(クレイグ・L・シモンズ著,学研M文庫,2002.2)を購入しまして,巻末の参考文献から色々と集めてはいるんですが,如何せん,執筆年代が古い書籍が多いもので,最近の研究データなんかを反映した南北戦争本を探している次第です.
海戦・陸戦・回顧録いずれでも構わないのですが,日本語訳されているものですとありがたいです.
【回答】
『United States Army Logistics 1775-1992』
という全3巻の書籍で,南北戦争における補給に関して,1章(約100ページ)を割いている.
1997年刊行だから比較的新しいのでは?
日本語訳はありません.
軍事板,2010/06/07(月)
青文字:加筆改修部分
他に,検索した限りでは,以下のようなものが発見できる.
『アメリカ南北戦争時の外交 スワード外交による南部連合崩壊の経緯』(山田義信著,東京図書出版会,2010.3)
『アメリカのジャンヌ・ダルクたち 南北戦争とジェンダー』(大井浩二著,英宝社,2005.10)
『南北戦争の南軍』(フィリップ・キャッチャー著,新紀元社,2001.12)
消印所沢
▼ 最近,バベルプレスとかいう出版社が南北物を出してましたよ.
『南北戦争記』(ブルース・キャットン著,バベルプレス,2011.4)
5月頃に書店で見かけて確保積み.
ピューリッツァー受賞者ブルース・キャットンが著者という事ですが,内容は積んであるので,詳細の評価はできませんが,ぱらぱらっと捲った感じだと,南北戦争の全容を概観にるのはよさそうです.
内容も政治と戦記では,若干戦記寄りに思えます.
Lans ◆xHvvunznRc :軍事板,2011/07/09(土)
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
アメリカ南北戦争(1861-1865)が起きた原因は,奴隷解放のためだとか,それは大義名分であって本当は貿易政策(保護貿易か自由貿易か)による対立によるものだ,とか人によって違いますが,本当の原因は何でしょう?
【回答】
戦争の原因を一つの事象に求めることは,たいていの場合,非常に難しいと思います.
極論をすれば,米国南北戦争の直接の原因は,連邦からの離脱を宣言した南部連盟が,それを認めない連邦政府に対して,サムター要塞を包囲し砲撃を加える,という示威行為に出たためです.
ですが,歴史において戦争の原因を考える場合は,南部の連邦離脱は奴隷制によるプランテーション農業を中心とする州と工業化を促進する州が,連邦議会において,それぞれ鉄道建設路や貿易政策の選定といった「さまざまな」問題で対立し,それが大統領選挙の時期をきっかけに,比較的利害が一致する南部諸州選出議員が,次期大統領が共和党候補だったならば南部は連邦を離脱する,と宣言して対立が決定的となり,対立回避に消極的だった南北両政府が戦争へと突き進んだから,ということになるでしょう.
南北戦争の原因の「一つ」に奴隷制問題があったということは,現在アメリカの歴史教育ではタブーだったりします.それが最近の「実は南北戦争の原因は奴隷制ではなく経済問題」みたいな流れに影響している可能性があります.
なぜタブーかというと,奴隷制が原因とされると南部諸州が悪者で,北部諸州が善というイメージが生徒たちに植え付けられると南部保守層などは考えており,保守層に嫌われたら教科書が売れなくなるため,大手出版社は軒並み,南北戦争における奴隷制問題を載せないからだそうです.(ちなみにアメリカでは教科書選定も市民から選ばれた委員会が行うので,出版社はそういった委員会の顔色ばかりうかがっているそうで)
もちろん本職の研究者はそんな自主規制はしませんが,彼らは教科書の訂正には熱心ではないようで.
この話は「アメリカの歴史教科書問題」という本から知った物です.興味があれば読んでみてください.(高いですけど...)
【質問】
1861年当時,アメリカ南部諸州はなぜ連合国を樹立できなかったのか?
【回答】
当時の南部連合には,一つの国家に纏まるに足るだけのナショナリズムがなかったためだという.
以下引用.
1861年当時の大きな問題は,南部諸州が連合国の樹立に成功するか否かだった.
それが失敗に終わった一つの大きな理由,おそらく実に大きな理由として,多くのアメリカ人歴史家は,南部連合のナショナリズムの弱さを挙げている.
〔略〕
実際のところ,歴史的比較を重ねてみても,南部連合のナショナリズムは確かに弱かった.
例えば,18世紀末にポーランドは地図の上から消滅した.
ルソーはポーランド人に対し,
「(敵国が)あなたがたを呑み込んでしまうのは避けられないかもしれませんが,もしポーランド人が注意を払って誰一人として,ロシア人に絶対ならないようにすれば,ロシアがポーランドを隷属させてしまうことはないと保証します」
と述べた.
結局ルソーは正しかった.
ポーランドは100年以上に渡って,地図の上から消えたままだったが,ポーランド人エリートは民族的アイデンティティーを保ち,やがてこの感覚を大衆にも植え付けていったので,ポーランドの国民国家は遂に20世紀に入って誕生することができたのである.
しかしポーランドと比べれば,19世紀の「新世界」のどの白人植民地のナショナリズムも,非常に弱弱しく映る.
〔略〕
実質的に全てのアメリカ人が,アメリカ独立宣言および,大陸を開発,統合すべきだとする「運命顕示説」によって程度の差はあれ,定義されるアメリカ国民の欠かせない要素として,南部諸州を見ていた.
これこそ,南部の独立を阻止しようとして,北部の数万に上がる人々が死を厭わなかった最も基本的な理由である.
また,1860年代の南部では依然としてアイデンティティーの対象が混乱して,州や南部連合への忠誠心が互いに対立しており,さらに一部ではアメリカ全体へのナショナリズムが拮抗していたのも事実である.
〔略〕
南部の宣伝活動家達は,自分達が王党派の紳士 カバリエ・ジェントルマン<貴族や僧侶など,清教徒革命以前のイギリス王制を支えていた>の末裔であり,北部の人々は機械工の子孫だと想像したが,この事実が間違っていたと非難したところで,おそらく的外れだろう.ベネディクト・アンダーソンが言うように,とりわけ植民地ナショナリズムに関連して,国民というものはかなりの程度,想像の産物であり,そして作り出された神話は通常,歴史的事実よりも重要である.
南部連合の人々は,黒人を排除したばかりか,南部の白人ナショナリズムを黒人と対立するものとして,そのアイデンティティーを確立した.
〔略〕
南北戦争では南部連合軍の兵士3人に1人,25万8000人が戦死した.
軍務に就く年齢にあった全白人男性の75〜85%が戦争に参加したが,これは当時としても,それ以外の時代と比べても,信じがたいほど高い割合だった.
これに対して,北部で軍務に就いて戦死した人間の割合は,遥かに少なかった.
南部連合軍に動員され,その後戦死した男子の割合は,独立戦争を始め,他の全ての戦争におけるアメリカ人の損失よりも高いのである.
ナショナリズムと殆ど関係ない戦争に兵士が参加し,戦死したのには,多くの理由があるのはいうまでもない.
それにも関わらず,この統計が示しているのは,南部の人々の新国家への思い入れが大変強かったと言うことだ.
Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.135-137
実際に戦争が起こってからナショナリズムが高揚するというのは,まあ,よくある話.
【質問】
南北戦争では部隊規模はどのくらい?
【回答】
学研M文庫の「南北戦争 49の作戦図で読む詳細戦記」に,部隊の規模についての記述がある.
軍
北軍では少将,南軍では大将が指揮.
総兵力は状況,戦域により1万以下〜10万名以上
軍団
北軍・少将,南軍・中将
2〜3個師団からなり1万5000〜2万名程度
師団
北・南軍共に少将
2〜3個旅団からなり5000名程度
旅団
准将
2個連隊以上からなり1200ないし3000名
連隊
北・南軍共に大佐
10個中隊からなり各中隊の兵力は50ないし100名
前線にいた期間により連隊兵力は200〜800名程度とばらつきがあり,長期間転戦している連隊では50名程度ということもあった.
(画像掲示板より引用)
【質問】
映画「グローリー(Glory)」(1989年)に登場するマサチューセッツ第54歩兵連隊の詳しい構成についての質問です.
冒頭の母への手紙のシーンで,
「このたび大尉に任命され,中隊長として自分より年上の100人の兵に命令を下すことになりました」
と述べているので,1個歩兵中隊=100人の歩兵であることはわかるんですけど,召集初日の志願者への,馬上からの挨拶が終わってからのシーンで,
「各中隊長,部下を集めろ!」
と言われて,待機していた大尉たちがわらわらと出てきたので,第54(1個)歩兵連隊=7〜8個歩兵中隊だったんでしょうか?
連隊長=大佐(マシュー・ブロデリックが演じるロバート・グールド・ショー),
副連隊長=少佐(ケイリー・エルウェスが演じるフォーブス),
各中隊長=大尉
だったので,連隊と中隊の間にある大隊という単位は存在していなかったのでしょうか?
どなたか詳しい方,教えてください.
【回答】
何分,アメリカ南北戦争中,それも黒人部隊ということで,通常の編制がその部隊に当てはまるかどうかわかりませんが,とりあえず当時の通常の部隊の編成をもとにこたえたいと思います.
Wikipediaによりますと,第二次世界大戦以前のアメリカ軍の連隊は,基本的に一個連隊の指揮下に2個以上の大隊が,そして大隊の下に3〜5個の中隊が存在していた
(基本,アメリカはWW2までは,民兵主体の軽装備の部隊が各州に存在していただけだから,あんまり統一された編制がない)
とのことですから,映画の描写は十分に”あり得る”と言えるでしょう.
▼ また,副官が指揮下の部隊の指揮官より,必ずしも階級が高い必要はありません.
また,副隊長が指揮下の部隊の指揮官より,必ずしも階級が高い必要はありません.▲
(高い方が好ましいが,何分戦時において優秀な士官の確保は難しい.
いざとなったら戦時進級と言う手もありますが)
戦争・国防板,2009/10/15(木)
青文字:加筆改修部分
▼ 回答の「副官が〜」の部分なのですが,「副隊長」とかその他の表現が適切ではないでしょうか?
副官だと全然別の意味になってしまうと思うのですが….
副官でも文章上はあまり矛盾はないでしょうが(師団長に尉官の副官が付くような事は普通ですし),回答の内容にそぐわないと思われます.
名無し通りすがり in FAQ BBS,2010/5/8(土)
1:58
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
南北戦争での戦費調達状況は?
【回答】
「風と共に去りぬ」の背景には,米国内部の大規模な内戦,即ち,南北戦争がありました.
今更の話であれですが,南北戦争は,工業や商業が発達した北部連合政府(Union)と,農業を中心として産業が発達した南部同盟政府(Confederacy)の争いでした.
当初は,短期間で終結すると見られていた戦争で,その戦費は,北部においては,1861年7月に20年物6%利付国債5000万ドルを発行することで先ず調達され,8〜12月にかけて今度は国債ではなく3年物7.3%利付証書を発行するだけでした.
しかし,1861年7月の第一次ブル・ランの戦いで北軍は大敗し,戦争は長期化の様相を呈してきます.
また,12月にはトレント号事件で英国が南部連合政府を支援して参戦するとのニュースがニューヨークに届き,市民達は州法銀行が発行していた紙幣の金兌換を求めると共に,国債市場価格が下落.
こうして,銀行預金払い戻しは困難となって,遂に殆どの銀行での金兌換停止を宣言,金融市場の流動性は不足し,国債を発行しての戦費調達が困難になりました.
こうした事態を受け,1862年2月に北部連合政府は,1.5億ドルの政府紙幣を発行します.
そして,法定通貨としてこの紙幣に統一し,政府の国債利払いと民間の関税支払いを金にした他は,全ての債務はこの紙幣,"greenbacks"建てとしました.
北軍では,その経済安定手段としてGreenbacksと国債を用いたほか,戦費の安定調達の為に,7月に内国歳入法を成立させて所得税を導入します.
これは3〜5%の累進税率で,72年に廃止されるまでの10年で3.4億ドルの税収を齎すことになります.
更に物品税対象には,酒,煙草,ヨット,ビリヤード台などを加え,印紙税を導入したほか,徴税のために財務省に内国歳入庁を設置しました.
こうして税収は1862年の5000万ドルから,1865年には5.6億ドルとなり,62〜65年の累計税収は7.6億ドルになりました.
ところが,その同じ期間の歳出総額は33.5億ドルに達し,財政赤字は25.9億ドルになってしまいました.
その期間の資金手当は,国債10.4億ドル,利付紙幣8.9億ドル,一時借り入れ2.1億ドル,Greenbacks4.8億ドルの合計26.2億ドルになります.
1863年になると,戦費調達で紙幣増刷を余儀なくされ,それによるインフレを懸念したことで,全国通貨法を制定します.
これは,国法銀行は資本金の3分の1以上の国債を財務省に預託し,その市場価格の90%を限度に銀行券を発行出来ると言うものです.
これが伊藤博文によって研究され,日本に導入され,1872年の国立銀行条例に繋がっていく訳.
このGreenbacksの正貨兌換は戦争中行われませんでしたが,金は貿易決済などに必要であり,例外的な紙幣と金との交換は,ニューヨーク証券取引所ともう一カ所で行われていました.
当初は額面を保っていた交換水準ですが,1862年9月の奴隷解放宣言と,1863年1月の4.5億ドルまでGreenbacksを増刷すると言う決定を受けて,大きく値を下げ,1863年2月末に額面の60%となり,ゲティスバーグ会戦の勝利で80%まで戻るのですが,1864年7月に南軍がワシントンに接近して撃退されるまでは下落を続け,7月11日には35.09%まで落ち込みます.
最終的に額面の90%に戻るのは,戦争後の70年代半ばで,正貨兌換が開始されたのは79年まで待つ必要がありました.
国債については,初期に発行されたもの以外に,1863年と64年に1881年償還の6%利率国債が発行され,10年据置で40年以内に償還する40年物国債が1863〜65年に1.7億ドル発行,5年据置の20年以内償還の6%利付20年物国債が1862〜63年に6億ドル発行されます.
上記の国債は元本が金で償還されますが,それが保証されていない短期の借金として,利付証書が何度か発行されています.
その国債の金利ですが,額面100に対し,1861年に89.56,1862年は97.625,以後は額面越えになり,金利換算で61年は6.7%,62年6.12%で以後は5%台となって一見安定してます.
1861年7月の20年物6%国債は,額面の89.25%で発行されています.
この国債の利率は,7月21日のブルランの戦いによる北軍敗退で額面の83%に低下,1862年4月のシャイローの戦いで北軍勝利で回復し,1862年7月の第二次ブルランの戦い,1862年12月のフレデリックスバーグの戦いで値を下げますが,1863年7月のゲティスバーグ会戦とヴィックスバーグの戦いで額面を回復し,以後,そのまま推移しています.
面白いことに,1864年のグラント将軍の敗戦でも額面の110%前後での推移は変わっていません.
但し,この利率の安定は数字の絡繰り,つまり,この利率変動はあくまでもGreenbacksに対するものだったりします.
これが金価格換算すると事態は変わってきて,同じ国債を金価格換算すると,1863年5月に金利9%超で推移し,ゲティスバーグ会戦後に一時7%台に低下するものの,1864年1月に10%に再び上昇,7月には17%に達します.
1864年9月3日のアトランタ陥落では,Greenbacksでは額面の107%ですが,金価格換算になると42.1%にしかなりません.
金利換算だと16.47%に上ります.
これが一桁に落ちるのは1865年4月以降になります.
これは金での償還が行われるかどうか,投資家が判断したことによるものではないか,と言われています.
つまり,インフレリスク,デフォルトリスクが金価格換算で如実に表れる状態になっていた訳です.
ちなみに,この時期海外の米国国債保有率は,1866年に3.5億ドルで,ドイツ連邦からの投資が主でした.
1869年には10億ドルに拡大しますが,南北戦争の帰趨が決まってから,英仏の投資が行われた事によるものです.
ふと,これを書いていて思ったこと,ジオン公国の戦費調達はどうなってたんだろうか.
国債の利率は,コロニー落としの頃は良かったのに,ア・バオア・クー攻防戦ではどんと落ちたんじゃないだろうか,なんて思ってみたり.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年02月07日22:36
【質問】
奴隷解放宣言によって,北部での奴隷制度は解体されたのか?
【回答】
全く解体されなかった.
ニューヨーク州やニュージャージー州で発せられた奴隷解放宣言とは,その日以降に生まれた者に限り,女性であれば20代中頃,男性であれば20代後半になった時点で解放する,という措置に過ぎなかった.
北部においても19世紀の半ばまではまだ奴隷がいた.
また,北部では「解放」後,むしろ黒人差別はひどくなったという.
以下引用.
どこでも,そしていつの時代でも勝利者が自分にとって都合の良い歴史を書くのであって,米国で南北戦争に勝利した北部諸州が,南部諸州に対し,奴隷制に固執した人種差別主義者の巣窟という烙印を押したことはご承知のとおりです.
しかし,米国における最近の研究は,次第に北部も南部と同じ穴の狢であったことを暴露しつつあります.
18世紀のニューヨーク市では,人口の四分の一程度,そして恐らく労働人口の三分の一以上が黒人奴隷であり,南部のチャールストンやニューオーリンズなどを超える,北米の大陸部における最大の奴隷所有都市でした.
また,北部のハドソン渓谷やコネチカット渓谷,及び北部ニュージャージー・ロングアイランド・ロードアイランドは,このニューヨーク市を超える奴隷人口密集地だったと言っても過言ではないのです.
確かにニューヨーク州やニュージャージー州では,それぞれ1799年7月4日と1804年7月4日に鳴り物入りで奴隷解放宣言が発せられたのですが,それぞれの時点では一人の奴隷も解放されたわけではありません.
その日以降に生まれた者に限り,女性であれば20代中頃,男性であれば20代後半になった時点で解放する,という「まことに寛大なる」措置に過ぎなかったのです.
ですから,北部においても19世紀の半ばまではまだ奴隷がいたのです.
しかも,奴隷を「解放」した頃から,北部はタバコ・砂糖・そして特に綿花,の国際貿易の中継地となり,南部のプランテーションで奴隷が生産したこれら商品を取り扱った北部の同じ商人が,南部のプランテーションの拡大のための融資も行ったのです.
更に,北部では「解放」後,むしろ黒人差別はひどくなりました.
北部の多くの州では黒人に選挙権を与えませんでしたし,陪審員になる権利等も認めませんでしたし,そのうちのいくつかの州では,黒人が法曹になることさえ認めませんでした.
また,これら法的規制以外にも,北部では黒人を教会,学校,市民団体,そしてあろうことか墓地から閉め出したり,黒人を隔離し二級市民としての扱いをしたりすることがめずらしくありませんでした.
(以上,ワシントンン・ポスト(2006年2月12日アクセス)による.)
差別撤廃の図
【質問】
黒人部隊の存在が無かったら南北戦争は終結しなかったでしょう.
しかし人種差別は大2次世界大戦でもまだ残っていました.
アメリカの白人は懲りない性分なのでしょうか.物語は役に立つとは思えない黒人を立派な兵士に仕立てて,最後は白人兵士と同等の扱いを受ける感動的な映画です.
主人公も戦死するが,そのために他の黒人も奮起して志願して北軍の兵士の数倍に膨れ上がり,南北戦争での北軍勝利になった.
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0006GAWCY/249-5442442-1191538
上記レビューについて考察お願いします.
【回答】
手頃なソースが無かったんでキューバ史の年表で悪いんだが.この年表の1863年を見ると,
「1.1 リンカーン,奴隷制廃止宣言.以後1年間で北軍に参加した黒人兵は20万人に及ぶ.」
とある.20万人以上が1865年までに参戦した勘定になる.
ウィキぺディアで「南北戦争」の項目を引くと,
「最終的な動員兵力は北軍が156万人,南軍が90万人に達した.」
との記述があるので,ここに関しては大げさ.
ただし,20万人以上の兵力というのは馬鹿にならない数字だと思う.
【質問】
通常の歴史観では ゲチスバ−グでの戦闘で南北戦争は終わったと信じていましたが,まだ南軍には残存部隊がまだたくさんあって,それの攻略にも北軍はてこずっていました.
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0006GAWCY/249-5442442-1191538
上記レビューについて考察お願いします.
【回答】
ほぼ事実.
ゲティスバーグの戦いは1863年7月1-3日.
南軍の組織的な抵抗が終わりを告げるのが1865年4月.
南部連合の大統領ジェファーソン・デイビスの逮捕が同年5月.
ゲティスバーグの戦いは,東部における北軍の攻勢が不可能になったという点で,転機には違いないんだけどね.
それからも約2年にわたり南軍の抵抗は続いた.
南北戦争の列車砲
【質問】
南北戦争終結により武器が大量に膨れ上がり,その兵器は幕末日本へ輸出されることになり,戊辰戦争の終結にもなった.
かれら黒人部隊が南北戦争に加わらなかったら,日本の戊辰戦争も長期化していたことでしょう.
歴史の1ペ-ジをかいま見た気がしました.
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0006GAWCY/249-5442442-1191538
上記レビューについて考察お願いします.
【回答】
アメリカが盛んに幕末期の日本へ兵器を輸出したのは本当.銃砲だけでなく,砲艦「ストーンウォール・ジャクソン」まで売ったほどだ.南北戦争の余剰兵器も含まれていただろうことも想像に難くない.
ただし,当初のアメリカは幕府にも新政府側にも兵器を売ってるので,むしろ戊辰戦争の激化に加担したとも言える(笑)
さらに,上記項目との関連で,黒人兵部隊の活躍と結びつけるのはやや牽強付会な気がする.
【質問】
南北戦争時の北軍と南軍の火器は大体同じだったんですか?
それとも輸入とかの関係で違ってたりしたとか?
【回答】
北軍も南軍も緒戦では前装式滑腔銃が多く,次第に前装式ライフル(施条式マスケット)に切り替わっていった.
だが北軍は自前で前装式ライフル(M1855)を調達できたのに対し,南軍は数を揃えられなかったため,M1855の前身である英国製P1853エンフィールドライフルを輸入したり,鹵獲品を使ったりと,ただでさえ新旧取り混ぜた状況に拍車がかかり,数十種類もの小銃が入り乱れる複雑な状況になった.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
南北戦争の戦闘では,先込め式の銃を使用していたようですが,この場合,「マスケット」と「ライフル」では,どちらの呼び方が正しいのでしょうか?
【回答】
南北戦争では前装式パーカッションロックの滑腔銃・ライフルが主に使われた.
このうち,銃身にライフリングが入ってる銃が,ライフルと呼ばれる.
問題はマスケットの定義で,フュージル銃登場の頃(17世紀後半)は大口径マッチロックがマスケットで,小口径フリントロックがフュージルと呼ばれてたが,その後マッチロックが廃れると,フュージル銃がマスケット銃と呼ばれるようになった.
そう考えると,前装式パーカッションロックの銃は,マスケットと呼んでいいのかどうかが分からない.
ちなみにスペンサー・カービンやシャープス銃なども,南北戦争でも一部使われたが,普及は南北戦争の後.
というか西部開拓自体,敗者たる旧南軍将兵が代償として推進していった面がある.
パットン家あたりがその口だ.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
アメリカの南北戦争の時ってまだ,敵対する相手同士一列に並んで,合図と同時に互いに発砲してたんですか?
運動会みたいに.
何かで見た記憶があります.
【回答】
多分,映画「グローリー」とか観たんだろうけど,そんな風に横一列で撃ち合うなんてやってたのは最初だけ.
マスケット銃なら射程が短くて命中率が低かったから,ああしないと敵に当たらない.
ところが,この頃から既にライフル銃が出回り始めていて,射程も長くなって命中率もヤバいくらい上がった.
従来の戦法通り突撃した騎兵やら,敵横隊前での機動を行ったりした歩兵が,ばったばった薙ぎ倒された.
これが前後の戦争と比較して,南北戦争の死者が多かった要因の一つ.
そこで段々と塹壕や散兵戦術・野戦築城等を活用するようになっていったんだよ.
横一列の隊形なんかとってたら全滅しちゃうので塹壕も掘るし隊を分散して配置するようになった.
末期になると本格的な塹壕戦と攻城戦を行うようになった.
散兵突撃も用いられるようになった.
もっとも,現代の分隊突撃から比べればまだ詰め込みすぎで,第一次世界大戦では機関銃の餌食となる羽目になった.
軍事板
青文字:加筆改修部分
(画像掲示板より引用)
【質問】
南北戦争に出てくる南軍って,私服で戦闘に参加しているような描写ばかりな気がするんですがなぜ?
軍服が無かったの?
【回答】
南部連合軍(南軍)の軍服は灰色のコートと略帽,青いズボンだったが,支給数の不足から,実際には色も形も様々なものが着られることとなった.
例えば灰色の短い上着とズボン,スロウチ帽と言う格好のだったり,末期にはバターナッツの上着に北軍の鹵獲パンツ,裸足なんて格好もしていた.
世界史板
青文字:加筆改修部分
(画像掲示板より引用)
【質問】
「ハンレー」って何?
【回答】
南北戦争において,南軍が1863年に完成させた,ハンレー大佐発案の潜水艇.
古いボイラーを再利用した,リベット止めの鉄製で,全長10メートル余りの艇の前方に,外装水雷
Spar Torpedo =竿先に付けた爆雷を備えていました.
乗員は8人で,この8人が手でスクリューを回して前進させるというものでした.
【参考ページ】
http://goodlife.exblog.jp/1390625/
http://www5a.biglobe.ne.jp/~nkgw/az-sensuikan.htm
http://homepage3.nifty.com/adeno1/sci/hist2b.htm
http://www3.ocn.ne.jp/~y.hirama/yh_ronbun_senryaku_HisSub.htm
http://chikyu-to-umi.com/kaito/submersible.htm
ハンレー内部図解
(画像掲示板より引用)
【質問】
モニター艦「キオカク Keokuk」について教えてください.
【回答】
Keokukは677tの装甲モニターです.
1862年12月,竣工.
1863年3月,就役.
元の名前はMoodhaでしたが,竣工前に改名されました.
同年4月,サムター要塞 Fort Sumter を,他のモニター艦と共に攻撃し,要塞との交戦により沈没しました.
【参考サイト】
DEPARTMENT OF THE NAVY -- NAVAL HISTORICAL
CENTER
【質問】
USS Tecumseh って何?
【回答】
南北戦争中の1863年,ニュージャージーで建造され.1864年ニューヨークで就役した,北軍のモニター艦.
鉄で外周を覆われ,単装砲塔を1基備えていた.
1864.8.5のモービル・ベイ海戦で撃沈された.
【参考ページ】
http://en.wikipedia.org/wiki/USS_Tecumseh_(1863)
【関連画像】
faq060801b.gifへのリンク
(画像掲示板より引用,原出典不明)
【ぐんじさんぎょう】,2010/11/18 20:30
を加筆改修
【質問】
南北戦争後の急進派レコンストラクションが失敗した理由は何でしょうか?
【回答】
北部(連邦軍)が南軍支配地域を力で押さえて,徹底的な改革をやろうとする急進派と,南部人の自主的な改革に任せようとする穏健派に北部人が分かれてしまい,時の北部の支配的な勢力によって,(リンカーン暗殺後,共和党急進派の勢力が拡大),政策が二転三転.
結果的には,南部の州では奴隷制当時に州政府の高官であった者たちが,そのまま権力の座に残ることが許された.
さらには1896年に最高裁判所が,「分離すれども平等」であれば,公共施設における人種隔離は合憲であるという判決(プレッシー対ファガーソン判決)を下した.
そのため,南北戦争の正の遺産である
合衆国憲法修正第13条(奴隷制廃止 1865年)
第14条(公民権の定義等 1868年),
第15条(黒人参政権 1870年)
は形骸化.
北部資本家と南部資本家の妥協,北部が人種平等の主張を放棄し,南部が産業および資本の優位に執着するのを放棄することで妥協が成立.
これによって,南部は再び自治権を手にいれる事となった.
内訳はこんな感じでしょうか・・・
世界史板
青文字:加筆改修部分
【質問】
アンブローズ・バーンサイドって誰?
【回答】
アンブローズ・エバレット・バーンサイド
Ambrose Everett Burnside (1824年5月23日-1881年9月13日)は,南北戦争における北軍でもあった髭妖怪.
マクレラン将軍解雇後に大指揮官に任命され,ノースカロライナや東テネシーで作戦を指揮して成功したが,フレデリックスバーグの戦いやクレーターの戦いで惨敗.
1865年4月15日,軍を辞し,鉄道会社の役員や,合衆国上院議員などを務めた.
【参考ページ】
http://homepage3.nifty.com/~fwix7026/books/nap/civilwar.htm
http://www.civilwarhome.com/burnbio.htm
http://www.historycentral.com/bio/UGENS/USABurnside.html
http://www.aboutfamouspeople.com/article1156.html
http://ehistory.osu.edu/uscw/features/people/bio.cfm?PID=15
【ぐんじさんぎょう】,2012/01/28 20:30
を加筆改修
バーンサイドや,マクレラン,フッカー,マクドウェルといった前任者,後任者であるミードなんかは,ウィキペディアではまだ,不出来な英語版の翻訳しかあがってないんだな…….
リーやグラントやシャーマンのは,それなりに完成度高いんだけど…….
ソフトヒッター99 in mixi,2012年01月27日 08:21
英語のもみ上げ『サイドバーン(Sideburn)』の語源は,独特の髭スタイルで有名だった,北軍のバーンサイド将軍(Ambrose
Burnside)だという,うそのような本当の話.
すげーもみ上げ.
faq120124bs.jpgへのリンク
faq120124bs2.jpgへのリンク
faq120124bs3.jpgへのリンク
バグってハニー in 「軍事板常見問題 mixi別館」,2012年01月24日 04:28
【質問】
南軍のリー将軍は南北戦争終了後どうなったんでしょうか?
【回答】
リー将軍は降伏後,収監された(実施的には軟禁程度の待遇)が,戦後に恩赦されてワシントン大学の学長に就任した.
だだし,市民権は剥奪.
アメリカの場合,市民権がなくても許可があれば,いわゆる「国民」としての生活は可能なので.
(立場的には,「アメリカ生まれだが諸処の権利は在米外国人と同じ」という感じ)
1975年になって,当時のフォード大統領によって恩赦が決定され,議会で承認された.
死後105年後のことだった.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
サンドクリークの虐殺とは?
【回答】
1864年,サンドクリークのインディアン集落を騎兵隊が襲撃,女子供しかいなかったにも関わらず,200人以上が虐殺された事件.
コロラドは現在も人種偏見の度合いが比較的高い模様.
以下引用.
〔コロラド・スプリングスの〕金鉱に押し寄せた白人達は,この地に住んでいたシャイアン族のブラック・ケトル率いる部族を,荒れ果てたサンドクリークへと立ち退かせた.
ところが1864年,狂信的キリスト教徒のチヴィントン大佐率いる騎兵隊が,サンドクリークの集落を襲撃.
女子供しかいなかったのでインディアン側はただちに白旗を掲げたが,兵士達は無抵抗の彼ら200人以上を虐殺した.
虐殺を拒否し,命令違反で逮捕されたソウル大尉は,逆にチヴィントン大佐を虐殺行為で告発.
ところがソウルは,夜道で背後から何者かに射殺され,事件は闇に葬られた.
〔略〕
実際コロラドはKKKの力が強く,1920年代には州の政治を牛耳っていたほどだ.
昔の話?
いや,92年にはKKKの大集会がデンヴァーで開催され,97年にはネオナチの少年が黒人を,その肌の色を理由に射殺した.
町山智浩著「アメリカ横断TVガイド」(洋泉社,2000.9),p.104-105
無防備でもこの有り様.
【質問】
リトル・ビッグホーンの戦いとは?
【回答】
1876年に起こった,第7騎兵隊とインディアンとの戦い.
騎兵隊2千人が全滅した.
その後,騎兵隊は報復行為に走り,350人のインディアン虐殺などを行った.
以下引用.
イエローストーン国立公園からモンタナに入ってリトル・ビッグホーンの古戦場に行った.
1876年,カスター将軍率いる第7騎兵隊が,居留地から抜け出してキャンプしていたシッティング・ブル率いるスー族とシャイアン族を襲撃して返り討ちにされた場所である.
ガイドをするレンジャーの一人はスー族で,お祖父さんから戦闘の話を聞かされたという.
そう,ここで激戦があったのは明治9年,それほど昔の話ではないのだ.
〔略〕
〔騎兵隊の兵士は〕貧しい移民の次男三男坊で,平均年齢17歳の彼らは過酷な日々に耐えかねて,兵舎で自殺する者も多かったそうだ.
スー族のキッキング・ベアによるスケッチには,兵士達の死体が憎しみを込めて切り刻まれる様子が描かれている.
スー族のレンジャーは言う.
「白人は我々の土地を奪ったのではない.我々は土地を所有していなかった.人間は大地を所有することなどできないからだ.
大地を自由に放浪してバッファローを追うのがスー族の生活だ.
それなのに白人は,居留地と農具を我々に与えた.
しかしスー族は,偉大な大地に鍬を入れない.だから居留地を抜け出した.
それが白人には分かってない」
しかし,輝かしい勝利もリトル・ビッグホーンが最後だった.
カスターの復讐に燃える騎兵隊は,スー族を各個撃破し,1890年,非武装のスー族350人が騎兵隊にガトリング砲で射殺された「ウンデッド・ニーの大虐殺」で遂にインディアンの抵抗は途絶えた.
町山智浩著「アメリカ横断TVガイド」(洋泉社,2000.9),p.42-43
【質問】
第7騎兵隊の敗因は?
【回答】
カスターの過信と不用意な兵力分割が原因だという.
以下引用.
事件のあった6月25日に歴史番組専門のヒストリー・チャンネルが放送した「リトル・ビッグホーン/語られざる物語」は,実際の戦闘に参加したスー族の人々によって32年後の1908年に現場で撮影された再現フィルムを元にしている.
それによるとカスター全滅の原因は,まず彼が総勢600人の第7騎兵隊を3つに分けてしまった作戦ミスによるという.
また,カスターの片腕だったクロウ族の斥候が,その驚異的な視力で,
「すごい数の敵が見える」
と警告したのに,カスターは
「オレには見えない」
と作戦を強行した.
その結果,カスターと250人の部下は,2千人のインディアン戦士に全滅させられてしまった.
町山智浩著「アメリカ横断TVガイド」(洋泉社,2000.9),p.42
【質問】
アメリカに併合される前のハワイには,どの程度の軍備があったの?
【回答】
陸軍はよく分からないのですが,海軍に関しては,1871年に建造された砲艦"Kaimiloa"が唯1隻の軍艦らしい軍艦だったようです.
木造,三本マストの旧英国艦で,291総トン,40馬力の蒸気エンジンを搭載し,6〜8ktの速度を出しました.
武装は6門のBrass Canonと2門のGatling Gunです.
この艦は1886年にHawaii王国が購入しますが,翌年Inter
Island Steamship Co.に売却され,1910年に座礁するまで商船として使用されています.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
【質問】
この艦艇の名前は何ですか?
【回答】
19世紀末に建造され米西戦争のマニラ湾海戦でデューイ提督の旗艦を勤めた巡洋艦USS
Olympia.
潜水艦は第二次大戦期のUSS Becuna.
画像の左下に緯度経度があるので,それでぐぐれば場所がフィラデルフィアということがわかる.
そこでたとえば"Philadelphia Warship"でイメージ検索すれば,それらしい艦の写真がすぐみつかる.
……という風に手がかりがあるのだから,検索エンジンを駆使してみよう.
その方が色々わかっておもしろいしね.
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