cc
「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ サイト・マップへ
◆1983年〜
<戦史FAQ目次
◆1983年以降
「Togetter」◆(2011/02/26)小倉秀夫弁護士と「合衆国,パナマ侵攻」編
『外交証言録 湾岸戦争・普天間問題・イラク戦争』(折田正樹著,服部龍二・白鳥潤一郎編,岩波書店,2013/2/27)
【質問】
大韓航空機撃墜事件って何?
【回答】
1983.9.1,大韓航空のボーイング747が,ソ連領空を侵犯したため,ソ連軍戦闘機によって撃墜された事件.
乗員乗客,269人全員が死亡した.
同機のブラックボックスは,事件後間もなくソ連当局によって回収され,ソ連当局は,コックピットボイスレコーダーとフライトデータレコーダーの分析を即座に済ませ,1983年11月28日には極秘報告書においてスパイ行為説を否定していたが,当時,外交の舞台でソ連が唱えていた,『スパイ飛行説』の反証となりうる可能性があるため,その事実が公表されたのは,冷戦終結後のことだった.
ところでぐぐると,いまだに陰謀論説を唱えるサイトだらけなんですけど……
【参考ページ】
http://ja.wikipedia.org/wiki/大韓航空機撃墜事件
http://en.wikipedia.org/wiki/Korean_Air_Lines_Flight_007
http://ru.wikipedia.org/wiki/Инцидент
с южнокорейским Боингом
(1983)
【ぐんじさんぎょう】,2011/04/15 20:40
を加筆改修
【珍説】
一九八三年,ソヴィエトが大韓航空機を撃墜したのは,アメリカが,大韓航空機を盾にして自国の偵察機を飛ばしたからだ.
(Anne Morelli 「戦争プロパガンダ 10の法則」,草思社,P115)
【事実】
当時,よくサヨクの方々が唱えていた説です.
確かRC135が近い時間帯にそこらへんを飛んでいたので(もちろんソ連領空外ですが),そこからこねくりだした説でしょう.
日本が傍受したソ連パイロットの通信記録は公開されてますから,お読みになったらどうでしょう.トンデモでしかないことが分かると思います.
(軍事板)
ちなみに引用元の本は大体,全編同じような調子です.
「あらゆる戦争に共通するプロパガンダの法則を解明し,そのメカニズムを示すことが本書の目的である」
といいつつも,件の珍説のような怪しい話を無批判に論拠に取り入れている点で非常に信憑性に欠け,むしろ本書がプロパガンダそのものではないかと思えるほどです.
一貫しているのは,戦争を絶対悪視する視点と,国家や企業に対する不信感.うける人にはうけるでしょう.
他にも,珍説がてんこ盛りですが,信じてしまう人は信じてしまうのでしょうね.
【質問】
コロンビアの麻薬カルテルは,どのようなものだったか?
【回答】
1991年当時,コロンビア政府は助けを必要としていた.
コロンビアの主要麻薬カルテルは,国家内国家と化していた.
パブロ・エスコバルやロドリゲス・ガチャといった大ボスは,選挙で選ばれた政府よりも強大になりつつあった.
我々〔SASから成る顧問〕がコロンビアに到着する直前には,エスコバルは投獄すると脅かされ,コロンビアの対外債務を全て自分が肩代わりして払うと申し出ていた.
カルテルのリーダー達は,合法的な行政職に立候補するという脅しまでもかけていた――しかも,彼らが選挙で勝つ可能性は,現実のものだった.金さえあれば,権力の座に就くために必要な票を買えるのである.
もし住民を買収できない場合には,テロで屈伏させるのだ.その対象は政治家・判事・警察官はもとより,もっと身近な人間にも及んでいた.
地域によっては,社会奉仕の精神をカルテルは発揮して,住民のために学校や医療センターを建設したところもあった.
カリ・カルテルに子供の病気を治療してもらった上に,教育まで与えてもらえば,普通のカンペシーノ(インディオ農民)なら,大統領よりもエスコバルのほうが良い未来を与えてくれそうな気がしてもおかしくない.
さらにカルテルは,労働階級の家庭から頭の良い若者を集め,教育を与え,大学の入学金や授業料を払ってやり,大学にいっている間の面倒まで見てやった.
それは一種の投資だった.実質上は麻薬で稼いだ金で買われたこうした子供達は,戻ってくると,科学者や弁護士,会計士など,必要とされる職域で,カルテルのために働くのである.
もし民心獲得工作が上手くいかず,地域社会がコカ栽培を拒否したら,カルテルのテロリスト達が,住民達に考え直すよう促すことになる.
各地で脅しと暴力が猛威を振るった結果,多くの人々が土地を離れ,ボゴタやカリ,メデジンのスラム街を膨れ上がらせた.
コロンビアに,良く訓練された,有能で腐敗していない麻薬取締部隊を設立することで,SASは,世界規模の麻薬取引を食い止める努力に,多少なりとも寄与することになった.
コロンビアの麻薬取締部隊は今や,高度にプロ化された有能な戦闘部隊で,トップ・クラスの指揮官を戴き,麻薬カルテルを完全に打ち破るとまではいかないが,これを封じ込めることに目覚しい成果を挙げている.
最近は,警察があまりにも勝ち過ぎていると言いたがる者達もいる.例えば,警察の待ち伏せで射殺されたエスコバルのような地元カルテルのボス連中を潰したところで,コロンビアの麻薬取引が細分化されるだけの話で,かえって新しい血統の犯罪者達を台頭させる結果にしかならないというのである.
その筆頭がロシア・マフィアだ.
こうした類いの批判に対しては,小さな汚染の染みは,大きな染みより簡単に踏み消せると,私は言いたい.
大切なのは踏み消し続けることである.
以上,ソースはGaz Hunter著「SAS特殊任務」(並木書房,2000/11/1),p.222-223
& 256.
◆グレナダ侵攻
【質問】
1983年,なぜ米軍はグレナダに侵攻したのか?
【回答】
グレナダが第2のキューバとなるのを阻止するため.
1983年,かねてから政治不安定だったグレナダに軍事クーデターが発生.革命軍事評議会が設立され,元軍人,ハドソン・オースティン司令官を中心とした革命政権が樹立した.
直後に24時間の外出禁止令が発効され,首相を含む閣僚数名が射殺された.
CIAの調査によれば,評議会を援助しているのはソ連とキューバであり,北中米地域に対して,キューバに次ぐ共産化の一大拠点構築を画策しているものと見られた.
島内にはキューバ軍が駐留して塹壕を構築し,さらにソ連経由の軍事援助が行われていた.
そこで1983/10/25,レーガン大統領はグレナダ侵攻作戦「Urgent
Fury」を発動したのである.
以上,ソースは「世界の特殊部隊」(宝島社,2005/3/1),p.88.
ただし,迂闊に信用していいソースではなさそうなので,複数文献と比較検討されたし.
また,「世界戦争事典」(G. C. コーン著,河出書房新社,1998/3)によれば,経緯は以下のようになります.
1979年,無血クーデターでCuba型社会主義を目指すBishop政権が誕生しますが,1983年10月19日,マルクス主義者からなる軍事政権がBishop首相を殺害して政権を奪取.
東カリブ海諸国機構とGrenada総督(当時も英連邦に留まっていたので)サー・ポール・スクーンは,Cubaを始めとする共産圏諸国の影響が島内で強まるのを恐れ,米軍の軍事援助を要請.
米国は,それに応えて10月25日に,Grenadaにいるアメリカ人(その殆どが医学生)を保護すると言う名目の元,海兵隊,陸軍レンジャー部隊,海軍SEAL部隊,第82空挺師団の分遣隊,中米6カ国の連合軍など当初1,200名,後に7,000名の兵力で,同島に侵攻しました.
Grenada軍は,ポイント・サラインズで大規模な空港の建設に当たっていたCuba軍兵士と労働者の支援を得て,数日間の抵抗を行いますが,兵力が増強された侵攻軍に太刀打ちできず,ジャングル内に逃走します.
その後1ヶ月足らずで軍の指導者が逮捕され,キューバ人,北朝鮮人,リビア人,東ドイツ人,ブルガリア人及びGrenadaに居住する住民で,共産党員と目された人は一斉に検挙,拘禁されました.
12月半ばまで連合軍は同地に駐留し,総督は9人で構成される顧問委員会を任命し,暫定政権を発足させ,情勢を回復させました.
【質問】
グレナダ侵攻の戦闘経過は?
【回答】
米軍は,大量の海軍と空軍の支援を受けた,1800名の兵員を投入した.
1983/10/25未明,SEALs数個チームが,障害と地雷を探知するため,海岸と港湾を偵察.
その後2個チームが,ラジオ・グレナダの送信所と知事官舎を占領.
午前5時30分,キューバ軍が守る建設中の軍事空港である,南部サリネス岬の滑走路に対し空中攻撃.
さらに,パールズ空港に対してヘリボーン攻撃.
レンジャー1個中隊が攻撃の先導部隊となり,サリネス岬航空基地に低空からパラシュート降下を開始.
6時15分,第1,第2レンジャー大隊が投入され,空港でキューバ軍の精鋭600名と交戦.
その後,サリネス岬に降着,滑走路を確保.
キューバとグレナダ軍の抵抗を排除し,北の方向に圧迫した.
8時30分,セント・ジョージ医科大学のキャンパスを占領し,米国籍の600人を含む学生と職員を解放.
翌26日,レンジャーと第82空挺師団は北進し,フリクエンテを占領し,セント・ジョージ方面に敵を圧迫.
しかし16時頃,グランドアンセン・キャンパスが敵に再占領されたため,学生をヘリで救出.
セント・ジョージを航空攻撃後,奪還.
28日,海兵隊と空挺による掃討作戦は続いていたが,レンジャー部隊は夜間にジョージア州スチュアート基地に帰還.部外連絡協力部隊と心理戦部隊は残留し,軍事作戦終了後,グレナダ人の適格性の審査と,再教育の活動を行った.
デルタ・フォースも派遣されたが,活動内容は不明.
以上,ソースは「世界の特殊部隊」(宝島社,2005/3/1),p.88-89.
ただし,迂闊に信用していいソースではなさそうなので,複数文献と比較検討されたし.
【質問】
GrenadaでのSEALsの活動は,どんなものだったのか?
【回答】
「世界の特殊部隊」(M.ライアン著,原書房,2004/2),P.166〜167に,その記述があります.
その概要は以下の通りです.
1983年のグレナダ侵攻は,急遽実施されたため,SEALsは大きな被害を受けた.
SEALsチーム4は,パールズ空港近くの海岸は上陸に適さないと見抜いていたものの,偵察任務を負っていたSEALsチーム6は,ポイント・サリネス沖で2回も事故に遭い,4名の兵士が溺死してしまった.
SEALsチーム6の隊員はGrenada総督サー・ポール・スクーンの救出にも乗り出したが,適当な上陸地点を中々見つけられなかった.
SEALsの2個小隊が,総督の捕らわれている建物へロープで侵入しようとしたが,グレナダ軍とキューバ軍の部隊から狙い撃ちにされた.
ガンシップAC-130が援護してくれたとは言え,「救出隊」は攻撃に耐え続け,漸く24時間後にアメリカ海兵隊に救出された.
この苦戦がきっかけで,1986年のUSSOCOM(米国特殊作戦軍団)の整備に至った.
◆パナマ侵攻
【珍説】
パナマのノリエガ将軍は,反米闘争の英雄である.
「米軍のパナマ進攻は日本の影響力拡大が引き金」とノリエガ元将軍は,語っている.「米国人の凶暴さに対抗して資金力のある日本をパナマ運河に引き込むことで,アメリカをけん制」しようとした.そのため,パナマ運河の将来の管理が日本の支援でパナマの手に落ちるのを阻止することが狙いで,米軍は侵攻したという.
【事実】
柘植久慶によれば,ノリエガ将軍は徹底した営利主義者であるという.
以下引用.
80年,キューバは13万の難民の中に紛れ込ませる形で,麻薬ビジネスを開始する要員を送りこんだ.
キューバの商品の仕入れ先は,間違いもなくコロンビアだ.種類としてはコカインとメタクァロンが主力となっている.もちろんマリファナも含まれていたことは言うまでもない.
キューバから直接フロリダに運び込むのは,かなりの危険が伴ってくる.
そこでサッカーで言うなら,関節フリー・キックの運搬方法が考えられてくる.アメリカと友好関係にある第三国を経由し,疑われる可能性を低くしての搬入である.
それには,パナマを牛耳る実力者ノリエガ将軍は格好の人物と言えた.民族主義者としてアメリカからの評価が高く,政府高官との交際も深い.中央アメリカの要であるパナマ運河に,幅5kmのカナル・ゾーンを領有するアメリカにとって,そっぽを向かれたら絶対に困る存在だった.
最高の地理条件の中,パナマの麻薬通過斡旋ビジネスは驚くほど急成長する.
ノリエガ将軍がパナマの実質上の権力者たる軍司令官となったのは,83年以来のことだった.少なくとも彼は,これまでに460万ドル以上のキックバックを,コロンビアの麻薬業者達から受領したと推定されている.
麻薬の中継地として国土を提供し,大きな利益を得つつ,彼はアメリカ政府要人とも親密に交際した.
83年にアメリカ軍がグレナダに侵攻する直前,ノリエガ将軍は当時のブッシュ副大統領から電話を受けている.用件はただ一つ,侵攻作戦の際にキューバ軍が介入しないよう,カストロ首相に警告する役目だった.これは実行された.
飛行場建設に訪れていたキューバ人労働者を含めたキューバ人捕虜の本国送還は,実に手早く行われた.その辺りは今度はノリエガ将軍が一役買い,カストロ首相のメンツを保つため,アメリカ政府と交渉したはずである.
後に明らかにされたところでは,85年にノリエガ将軍は2度に渡り,オリヴァー・ノース中佐と会ったと言われる.
中佐はノリエガ将軍に対し,ニカラグア反共ゲリラ,コントラの訓練基地を,パナマ領に設置させるよう要請した.これを将軍は快諾している.
ところがこれとほぼ同時に,将軍はエルサルバドルの反政府ゲリラ(共産派)のために武器を売却している.これが事実としたら,それこそ徹底した営利主義者だと言えよう.
ノリエガ将軍がコロンビア第2の都市,メデジンの麻薬業者グループと交渉したときの裏話も凄い.
麻薬業者は密輸に使用する飛行機の保護に,3万ドル支払う旨を提示してきた.
ところが将軍は笑って相手にせず,最初の便について前渡し金10万ドル,2度目は15万ドル,3度目は20万ドルを要求したと伝えられる.
こうしてみると,ノリエガ将軍は,キューバやニカラグア,そしてコントラやCIA等を,全て自分の利益のために利用してきたことが分かる.
その元政治顧問だったホセ・ブランドンは,アメリカ上院外交委員会テロ麻薬取締小委員会で,将軍の腐敗ぶりを暴露した.それによると,パナマ国内に自宅12軒,フランスに別荘,BMWなど高級乗用車多数,自家用飛行機やヘリコプターなどを所有していたそうである.
またその際,将軍自身が大規模な麻薬取引を統括し,カストロ首相とも密接な関係を有している,との証言を行った.
さらにパナマの国家予算から,年に300万ドルを横領し,その資産は10億ドルに達するとも付け加えた.
このブランドンは,パナマのニューヨーク総領事を辞任,反ノリエガの立場を明らかにした人物だ.その証言は信頼性が極めて高いと評価された.
これに先立ち,フロリダ州の連邦大陪審は,ノリエガ将軍を麻薬取引容疑で起訴しており,小委員会の公聴会は,この起訴に関連して開かれたものである.
一方のノリエガ将軍は,カストロ首相などの支援に心を強くしたのか,辞任要求を拒否している.直ちに民衆の不満を反米感情に結びつけ,鉾先をかわす動きに出た.
カナル・ゾーンには,アメリカ南方軍1万人と民間人4万人の,併せて5万人が在住している.その辺りもまた,微妙な問題を含んでいると言えよう.
キューバやニカラグアは,そこをクローズ・アップして,反米闘争の英雄にノリエガ将軍を祭り上げた.
かくしてビジネスの友情は,反米というもう一つの共通の利害関係を持つに至ったのである.
1989年12月,米軍はノリエガ将軍逮捕のため,パナマに侵攻作戦を実施した.手早く制圧に成功したものの,肝心の将軍の行方は杳として知れなかった.将軍はヴァチカン大使館に逃げ込んでいたのである.
一部では長期戦になると予想されたが,数日してノリエガ将軍は米軍に投降した.
このパナマ侵攻作戦は,コカイン流入ルートを絶つ上で,アメリカにとって不可欠な軍事行動だったと言える.これによって麻薬に甘い態度をとったり,国家ビジネスとして関わりを持つことの危険さを,はっきり認識させた点も大きい.
(「麻薬戦争地図」,銀河出版,'93,P.199-204,抜粋要約)
【質問】
1989年,なぜ米軍はパナマに侵攻したのか?
【回答】
パナマはマニュエル・アントニオ・ノリエガ将軍が敷いた独裁体制により,国内秩序は安定せず,麻薬カルテルが横行する無法地帯となっていた.
80年代に入ると,米国への大量の麻薬流入が問題となり,米国世論は日増しにパナマ批判を強めていた.
ブッシュ大統領は就任直後から麻薬組織に対する断固たる姿勢を示し,経済制裁のみならず,89年5月には海兵隊をパナマに派遣するなど,ノリエガ将軍に対する牽制を盛んに行った.
1989年12月,ノリエガ将軍は「米国との戦争状態」を宣言する演説を行い,12/16には,米海兵隊隊員が基地の外でパナマ軍兵士に殺害されるという事件が発生する.
これに対し,米国は即座に,パナマに対する軍事行動を決定する閣議が開かれ,パウエル統合参謀本部議長(当時)の提案により,ノリエガ将軍の捕獲,パナマ国軍壊滅,民主的国家樹立のための作戦「Just
Cause」が承認されたのだった.
以上,ソースは「世界の特殊部隊」(宝島社,2005/3/1),p.90.
ただし,迂闊に信用していいソースではなさそうなので,複数文献と比較検討されたし.
【質問】
パナマ侵攻作戦時の兵力は?
【回答】
米軍の投入兵力は
在パナマ米軍 :1万3000
派遣された部隊: 7000
特殊部隊 : 7000
▼の合計2万3000.
の合計2万7000.▲
なお,パナマ本土に米国は幾つも基地を持っていた.2000年にパナマに返還されるまで,パナマ運河の管理権は米国が有しており,その防衛のためのものだった.
対するパナマ国防軍は約1万3000.ただし,実質的な稼動人数は,この数字を遥かに下回った.
以上,ソースは「世界の特殊部隊」(宝島社,2005/3/1),p.90.
ただし,迂闊に信用していいソースではなさそうなので,複数文献と比較検討されたし.
【質問】
パナマ侵攻の戦闘経過は?
【回答】
1989/12/20午前1時前後,パナマ各地に先行していた米軍は,一気に侵攻開始.
放送局,銀行などの拠点を占拠し,DEA(連邦麻薬取締局)との連携で,麻薬製造工場にも攻撃を加えた.
第82空挺師団の3個連隊は,パナマ市内の国防軍総司令部への攻撃と,米国大使館の救援を担当.
総司令部の守りは頑強で,米軍はヘリ3機が損傷したが,最終的には「アパッチ」攻撃ヘリからの集中砲火により,総司令部は瓦礫の山と化し,陥落.
18時にはパナマ国防軍は完全に壊滅状態となる.
しかし,肝心のノリエガ将軍はヴァチカン大使館に逃げ込んで亡命を申請.結局,交渉の末,DEAの手により将軍は逮捕された.
将軍の逃亡を許したこと等について,当時の特殊部隊隊員の証言によれば,
「当時はまだ特殊部隊に対して無理解な将官も多く,あまり目立った行動はできなかった」
という.
以上,ソースは「世界の特殊部隊」(宝島社,2005/3/1),p.91.
ただし,迂闊に信用していいソースではなさそうなので,複数文献と比較検討されたし.
【質問】
パナマ侵攻に於ける空挺作戦について教えられたし.
【回答】
米軍が保有した最後の空挺戦闘車両である「M551シェリダン」.
このシェリダンを実際に空挺降下させたのは,パナマ侵攻におけるジャスト・コーズ作戦です,
この作戦は
第1段階にて,第75レンジャー連隊がトクメン/トリホス空港及びリオハト空港を空挺強襲にて奪取空港を制圧
第2段階にて第82空挺師団を降下させ,パナマ中心部へ向かう敵軍を阻止するのを目的としておりました.
第1段階である第75レンジャー連隊は,トクメン/トリホス空港及びリオハト空港へ空挺降下し,空港を完全制圧するべく作戦行動を開始,空港を占拠しました.
この時トクメン飛行場にはノリエガ将軍がおりましたが,捕縛するチャンスを逃す失態を犯しております.
続いて第2段階にて,第82空挺師団の装備&部隊を満載した輸送機が,パナマ沖に飛来.
まず最初に重量物を投下.
この重量物の内訳は
シェリダン 10輌
ハンヴィー汎用車 74輌
105o榴弾砲 4門
CDSコンテナ貨物 60個
この中でもっとも重いシェリダンは,8個のG11パラシュートが取り付けられ,パレットに梱包されていました.
しかし,いざ投下してみると,実に60%弱の重量物が予定降下地点から外れてしまい,中でも虎の子であるシェリダン 2輌が破損,内1輌が全壊し,部品が空港に散乱.
残る1輌は部品取りとして保管されました.
どうもパラシュートが上手く開かなかったようです.
その後,第82空挺師団を乗せた輸送機が,飛行場に着陸せずに,空挺降下しました.
ここで疑問に思うのが,何故飛行場を先に確保しているのに輸送機を着陸させなかったのかという所でしょう.集結に時間が掛かり,負傷の可能性があるのに隊員を空挺降下させ,なおかつ前途したように物資の投下失敗してもいます.
推測になりますが,空挺降下させたわけとしては
(1) パナマ国軍・国民に対する示威行為
(2) 飛行場に着陸すると積荷の荷卸に時間がかかるため
が上げられます,
特にこの作戦においては,到着した空挺師団には短時間で周辺の攻撃目標に対して,攻勢をかけるのが狙いでしたから,(2)の方が理由としては合っているでしょう.
ただ,数千人の米軍の精鋭部隊は空挺降下してくるのは,パナマ国軍・国民に対する示威行為と映っても可笑しくはありません.
裏を返せば,米軍は何時でも何処へでも,武力を持って介入できるという実例なのですから.
【参考文献】
『図説 アメリカ軍対テロ戦争部隊の戦い』
河津 幸英 (著)
……とまぁ,このように米軍の戦史を取り上げてみたわけですが,空挺車輛の本家と言えるソ連/ロシア空挺軍では,投下した際の車輛の故障を,どのように見積もっているのかが気になる所ではあります.
でも,あの力の入れようを見ると,故障率が極めて低そうですが,果たして?
CRS@空挺軍 in mixi,2010年09月13日23:45
青文字:加筆改修部分
<上記項目と矛盾が生じるため,現在保留中>
【質問】 第82空挺師団は,1983年のグレナダ侵攻では空挺降下したの?
【質問】
第82空挺師団は,1983年のグレナダ侵攻では空挺降下したの?
【回答】
第82空挺師団はグレナダ侵攻では空挺降下を実施していません.
パラシュートによる空挺降下を実施したのは,第1レンジャー大隊と第2レンジャー大隊のみです.
これはレンジャー大隊が空港の制圧に成功したからです.
レンジャーがグレナダ正規軍の抵抗に苦戦していたので,当初は82空挺もパラシュートで戦闘降下する予定でした.
しかし,レンジャーの2個大隊が制圧に成功したので,82空挺を載せた輸送機は,空港に着陸することができ,重装備も空港で降ろすことができました.
82空挺師団では第307野戦工兵大隊の一部が降下したらしいのですが,そのときの詳細は分かりません.
どうも特殊作戦部隊の支援だったようですが.
第82空挺師団が戦闘降下したのは,1989年12月のパナマ侵攻の時だけです.
このときは,第82空挺師団の第1戦闘歩兵旅団第504パラシュート歩兵連隊の第1大隊と第2大隊から編成される戦闘団が,パナマTorrijos国際空港にパラシュートで戦闘降下を実施しました.
あらかじめ同国際空港を制圧し,あらかじめパナマに緊急配備してパナマアメリカ領からパナマ国領へ侵攻を開始していた同504連隊の第3大隊と合流支援し,戦闘行動を行なうためでした.
これが第2次世界大戦以後の第82空挺師団唯一のパラシュートによる戦闘降下とされています.
アメリカ軍はベトナム戦争のジャンクションシティ作戦以後,100名以上の大規模な空挺作戦としてグレナダ(レンジャー大隊),パナマ(82師団),アフガニスタンのカンダハル(レンジャー大隊)と行なっていますが,すべて空港制圧を目的としたものでした.
軍事板,2003/03/07
青文字:加筆改修部分
◆ユーゴ内戦
【質問】
チトー死後,なぜユーゴスラビアは内戦となったのか?
【回答】
チトーの相対的な甘やかしが,反対勢力を骨抜きにし,東欧の他のどこより状況はましだという幻想が,反対勢力を封じ込め,全ての個人が平等の権利を有するようなリベラルな選択肢は,ユーゴには存在しなかった,という.
そこにきて,民族主義的被害妄想が募った結果が内戦になったと思われる.
以下引用.
振り返ってみると,ユーゴにおける市民社会の相対的な自由さが,実はその弱さの源だったことは明らかなように思われる.反対勢力はお情けで存在し,チトーの巧妙な甘やかしの一つだと言うことを,自ら心の底では弁えていた.それは文化的な反対勢力であって,政治的反対勢力ではなかった.はっきりと民主主義的ヴィジョンを掲げて,体制に異議申立てをした試しはなかった.
チトー治下では東欧の他のどこより状況はましだという幻想が,反対勢力を封じ込め,反対派が民衆を市民として結集することを妨げた.ティモシー・ガートン・アッシュの言葉を借りれば,「逆境の効用」で鍛えられていなかった.チトーの相対的な甘やかしが,反対勢力を骨抜きにしていたのである.
彼らは「同胞愛と統合」に替わる民族間の呼びかけの説得力あるレトリックを見つけ損ねていた.
1990年には,ユーゴ国民の1/4以上が自分を「ユーゴスラヴィア人」と見なしていた.この有権者は本来なら,連邦内各共和国の反対勢力が多民族政治を守るために結集できたかもしれない.
だが,その頃には既に共産主義体制が政治を共和国ごとにすっかりバルカン化していたため,各国の市民反対勢力は,連邦を分裂させつつあった民族ナショナリズムに対して市民的価値観を守る共同防御線を敷くために団結することができなかった.
共産主義は当時もう破綻しかけていて,時のヒーローは,共産主義下で苦汁をなめた者達,ユーゴの場合はクロアチアのツジマンのような民族主義者達だった.
80年代半ば,チトーの死後,地位に留まっていた共産党のエリート層は,独裁者の死去と共産主義の内部崩壊によって,大衆受けする新しい呼びかけの言葉を考え出す必要に迫られていることを認識した.一党独裁国家と言えども,国民大衆を結集するには,新たなレトリックを必要としたのである.
南西部の高原地帯コソヴォでセルビア人が徐々に少数民族の地位に転落していたことが,セルビア人指導者ミロシェヴィッチに正にそうしたスローガンを提供することになった.
アルバニア系住民がコソヴォ自治州の人口の9割を占めており,彼らは独立か,隣のアルバニアへの併合を要求していた.
同地にはセルビア正教では最古に属する,美しい中世の教会が幾つか存在し,また,コソヴォは,5世紀間のオスマン帝国による占領へと繋がる1389年のオスマン軍との運命的な戦いの古戦場でもある.
セルビア人の想像力の中で,あのように中心的な地位をコソヴォが占めていなかったら,セルビア人は少数派の地位に甘んじていたかもしれない.
1980年代まで,大方のセルビア人は後進地域コソヴォの同族達が置かれた状況を無視していた.
だが,コソヴォでの敗戦600周年を好機として,ミロシェヴィッチは,コソヴォには実際はもうセルビア人は僅かしか住んでいないにも関わらず,この地は依然としてセルビア人の国民生活の心臓部だと主張した.
ミロシェヴィッチがコソヴォ問題を本当に真面目に考えていたのかどうかは疑わしい.彼にとって民族主義的な煽動は言葉のゲームであり,チトー路線後の後継争いの混沌の中で選挙に勝ち残るための舌戦の戦略だった.
彼は勝利の呪文を偶然見つけて,自分でも驚いていたようだ.
アルバニア系住民の独立ないし自治の要求に反対する,コソヴォのセルビア人達との会合で,どうやらものの弾みで,ミロシェヴィッチは,
「君達が連中にやっつけられるようなことは二度とないだろう」
と発言した.
セルビア人よりアルバニア系住民のほうこそミロシェヴィッチは以下の警察に手ひどくやられていたのだから,この発言は現実の奇妙な転倒だったが,セルビア人の自己憐憫の深い溜め池をまんまと利用する結果になった.自由のためにトルコと戦い,オーストリアと戦い,ウスタシに迫害され,ユーゴスラビア連邦を牛耳ることをクロアチア人のチトーに阻まれ,そして今は,自民族の心臓部とも言うべき地で,多数派のイスラーム教徒に苦しめられている,受難の民族という意識.
掛け値無しの不満と自己憐憫的な被害妄想のこの引火性の混合物が,ミロシェヴィッチの発言と,コソヴォの自治権を停止し,セルビア共和国に再吸収するという,彼のその後の方針とによって発火した.
おまけに80年代半ばには,セルビア人の自己憐憫と,昔の威光の再現という見果てぬ夢に,深まる経済危機が重なった.
セルビア人を一つの国に再統合しようとする民族主義的な夢は,共産党エリートに有権者結集のための言辞を提供しただけでなく,注意を逸らす手立てにもなった.それは,現実離れした幻想の政治であり,深刻化するセルビアの経済的窮乏や,南部バルカン諸国の抜き難い後進性といった現実問題から,国民の目を逸らすものだった.
大セルビア計画は,別の面でも幻想だった.周辺の共和国にセルビア系住民が分散しているため,セルビア民族の(それを言うなら,他のどの民族集団にしても)再統合という計画は,強制的人口移動,民族浄化によってしか達成できないものだった.
多数派が優性に乗じ,国家機関を自民族中心の依怙贔屓や偏った正義の道具にしない限りは,少数民族は多数派と仲良く暮らせる.
いかなる民族集団も,それ自体としては集団的な支配力や特権を持たず,全ての個人が平等の権利を有するようなリベラルな選択肢は,ユーゴには存在しなかった.
セルビアの拡大化を見て,ユーゴ連邦の各共和国は離脱独立を求め始めた.
クロアチアが1990年に完全独立に向けて動き出したとき,クロアチア新政府によって地元警察からセルビア人警官達が放逐された.そして,クロアチア人民族主義者達はいかに否定しようと,クロアチア国内のセルビア人達を連邦共和国の建国の民という地位から,多数派に支配される少数民族に格下げする意図が,彼らには確かにあった.
新クロアチアは,その新憲法の中でクロアチア民族の国家と自称しているではないか.そうなると,クロアチアに棲んでいてクロアチア人ではない人々は,どういう立場に置かれるのか?
この点がだんだんはっきり分かってきたことが,全体の経緯の中で転機になった.
それぞれの国内の少数民族は,今度は誰が自分達を守ってくれるのかと,不安を抱くようになった.
クロアチア人にとっての民族自立は,クロアチアのセルビア人にとっては少数民族の従属を意味した.セルビア人の意識に被害妄想を植え付けたのは,支配されることへの恐れだった.第2次大戦中のヤセノヴヴァツ強制収容所で,クロアチア人がセルビア人に加えた残虐行為を始めとする,残虐行為の諸々の逸話が,自己憐憫の集団的神話を生み出している.ベオグラードからのセルビア語ラジオ放送と,ミロシェヴィッチの息がかかったテレビ放送は,セルビア人は自国でしか身の安全は保障されないという主張を繰り返しがなり立てた.
1990年の末頃には,クロアチアの警察署からはセルビア人は一掃され,その地域一帯の各町議会は,ツジマン率いるクロアチア民主同盟に忠実なクロアチア人議員団が支配していた.
クライナ・セルビア人と呼ばれる,クロアチアのセルビア人少数派の間では,クロアチア人達が武器を備蓄し,完全独立を宣言する日に備えて密かに夜間訓練をしており,それに対抗してベオグラードから戦車が送り込まれていると噂されていた.
この時点で,地元のセルビア人軍事指導者達が――主として元警官や軍人だが――登場し始め,チトーは死に,クロアチア人達が権力を握っているので,お前達を守るのは我々しかいないと彼らに言い聞かせた.
間もなく彼らは軍事指導者達に仕えるようになった.
ここで因果関係の順序に留意して欲しい.
まず全体を束ねる国家の崩壊があり,次いでホッブズの言う自己保存の闘争の恐怖が芽生え,それから初めて民族主義的被害妄想が募り,戦争へと至る.
人々は不安に駆られるとき,「民族主義的」になる.すなわち,
「これからは誰が自分を守ってくれるのか?」
という疑問に,
「我が民族だ」
という答しか出なくなるのだ.
(Michael Ignatieff, a writer & journalist,
「仁義なき戦場」,
毎日新聞社,1999/10/30,p.55-56,抜粋要約)
【質問】
旧ユーゴスラビア式の国民皆兵制度は,内戦にどんな影響を及ぼしましたか?
【回答】
ユーゴが短期間であれだけ泥沼化した原因の一つに,「すべての国民がもともと準軍人だった」という特殊事情がある.
要するに,準先進国なのにアフガン的状況.
これは「全民衆防衛」という理念に基づいたもので,「いつソ連が攻めてくるかわからない」という緊張のなかで,有事に備えた民間抵抗組織(パルチザン)を,平時から編制しておいたため.
全ての市民は,高校生になると民兵としての軍事訓練(実弾射撃を含む)を受けた.
各地域には,平時から「防衛委員会」が組織されていて,有事になればただちにパルチザン部隊を編成できるようになっていた.
また,中央政府が機能不全になった場合に備え,小火器と爆薬は防衛委員会の決定だけで使えるようになっていた.
このため,民族対立が火を噴くと,各地域の防衛委員会は,完全に合法的に「有事」を宣言し,武装抵抗をはじめてしまった.
軍事板,2011/03/06(日)
青文字:加筆改修部分
【質問】
ユーゴスラヴィアへの介入は,どのような問題があったのか?
【回答】
国際法や安保理決議という「正当性」が見出せないことや,各国で介入についての意見が違うこと.
ユーゴスラヴィアで行われた虐殺などは,基本的に内戦であり,これらの紛争で,最も問題になったのがボスニア・クロアチア・セルビア勢力間での「民族浄化」だった.
この内戦で,ボスニアは塗炭の苦しみを味わうことなり,ハーグで虐殺の責任を追求する裁判が開かれたが,この時期,NATOも国連も,どう対応するかで意見が分かれていた.
中国はマケドニア問題に絡んで批判的だったし,ロシアは冷淡だった.
これについて,ナイ教授は以下のように述べている.
--------------------------------------------------------
国際社会にとって,ボスニアでの戦争を非常に難しいものにした理由の一端は,この紛争がどの程度ボスニア,クロアチア,セルビアとムスリムとの間の内戦であり,どの程度セルビアによる介入なのかを判定するという問題にあった.
もしこれが単なる侵略でなければ,介入の唯一の根拠は虐殺の阻止であった.
ルワンダと同様に,国際社会は虐殺を非難する点では一致しても,後に1995年の紛争でNATOが平和維持活動を紛争地域に派遣するまで,効果的な共同行動について合意することはできなかった.
--------------------------------------------------------
ボスニアにおけるセルビア人とイスラム勢力間の内戦が,1995年のデイトン合意で解決した後も,民族自決問題は,バルカン半島を苦しめた(これは,今に始まったことではないだろうが)
コソヴォは,アルバニア系ムスリムの人口が多く,ヨシフ・チトーが死去して以来,独立運動が高まり,1997年には,コソヴォ解放軍と呼ばれる武装勢力が,セルビアの治安部隊を攻撃し,ミロシェビッチ大統領(セルビア人)による,報復・弾圧を引き起こした.
セルビアで状況が悪化するにつれて,欧米の外交官は,この地域を注意深く見るようになり,クリントン政権は,コソヴォを第二のボスニアにするつもりはないと言明した.
セルビアとの交渉・経済制裁が事態の打開に失敗したため,1999年春にNATOとアメリカは,78日に渡って,セルビアを空爆し,同年6月には,セルビア軍をコソヴォから撤退させることに成功した.
まとめると,
・バルカン半島に関する介入には,正当性という意味では,かなり薄いが,介入しないと,虐殺が続く可能性が極めて高かった.
・介入に際しての合意は,かなり難航する.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授『国際紛争』(有斐閣,2005.4),第6章を参照されたし.
【質問】
ユーゴ紛争について伺いたいのですが, クロアチア側は自治警察が軍隊の代わりになって,抵抗運動して独立に導いたと聞いた事があるのですが,重火器などはどうしていたのでしょうか?
マフィアなどから横流しで補給していたのですか?
【回答】
ユーゴは,その成立の経緯からして連邦制を敷いており,軍事力に関しても,中央政府の管轄する連邦軍と,戦時中のパルチザンに範を取り,各共和国政府が指揮権を持つ国土防衛隊に分かれていました.
当然,90年の自由選挙前にそう言った治安を乱す可能性のある因子は排除され,国土防衛隊が持つ武器,特に重装備を連邦軍の駐屯地に保管させられていました.
しかし,スロヴェニアの場合は,政府がシンガポールなどから自動小銃や対戦車砲を大量に密輸し,備蓄しています.
その上で独立戦争を仕掛けた形になっています.
また,各部隊にいるスロヴェニア人が装備を持って共和国側に寝返ったと言うことも起きています.
ついでに,連邦軍駐屯地に保管されていた自軍の武器を「返還」してもらったりもしていますね.
クロアチアも同様の対応を取っていますが,クロアチアの場合は,国土防衛隊内に連邦軍のシンパを作っていたので,更に緒戦の武器調達に苦労しています.
ただ,スロヴェニアが独立してからは,そちらから武器の調達が出来るようになったので,可成りマシになっていたようです.
勿論,連邦軍の駐屯地から接収されている武器を「返還」してもらったことも大きいですが.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/01/13
青文字:加筆改修部分
当時のクロアチア国防相が直々にハンガリーからカラシニコフを買い付けたのが,ベオグラードのテレビ局にすっぱ抜かれたりしてますね.
密輸の他ですと,旧ユーゴの体制を嫌って国外で亡命生活を送っていた連中が,民兵となって舞い戻った際に持ち込んだってのも.
自前の部分では,通常の軍隊=連邦人民軍の他にも,有事に備えて(ソ連軍の侵攻とかね), 69年以後,ユーゴでは全人民防衛体制が敷かれており,オプシュティナという行政単位ごとに,武器が備蓄・保管されておりました.
これを利用することで,あのような短時間で各勢力ごとに重武装の“民族軍”が結成され,内戦が一気に激化したわけです.
もふぁずさん ◆3RWR.afkME :軍事板,2005/01/13
青文字:加筆改修部分
最後になんとなく,ユーゴ内戦についての意外な良書を紹介してみる.
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4087473368/249-7300394-2936310
軍事板,2005/01/13
青文字:加筆改修部分
【質問】
セルビア人とクロアチア人の見分け方は?
【回答】
数の数え方で見分けたという.
以下,抜粋要約.
自分〔高部〕が「ビッグ・エレファント〔傭兵部隊〕」に着いた時,手で数字を数えるときの注意を受けたことがある.3を数えるとき,間違っても人差指と中指と親指を立てるな,と.
この3本の指を立てること,それはセルビアのピース・サインなのだ.虐殺死体を見ると,その中の多くが小指と薬指を切断されていた.
それに,カソリックのクリスマスは12月25日だが,セルビア正教会のクリスマスは1月7日だ.
だから,クリスマスの日を聞かれて1月のほうを答えると,間違いなく殺されると聞いた.
(高部正樹「傭兵の誇り」,小学館,2001/12/20, P.161-162)
【質問】
イランはボスニア内戦にどのように関与したか?
【回答】
ムスリム勢力支援のため,1000人規模の革命防衛隊を派遣している.
同時期,アラブ・アフ【ガ】ーンやトルコ人義勇兵を始め,多くの義勇兵が中東イスラーム諸国から参戦してきたが,中でも組織的な戦闘舞台として多いに活躍したのが革命防衛隊だったと言われている.
また,イラン情報部(200人以上という情報もある)が入り込み,地元のムスリム兵士にテロ技術指導を行った.
96年2月には,国連部隊がフォジニッツァのテロリスト訓練所を急襲,イラン人教官3人を含む11人を逮捕,オモチャ型爆弾などを押収している.
ムスリム側でイラン情報部と連携していたのは,ボスニア政府国防次官ハッサン・センジッチだったが,のちに罷免された.
詳しくは,黒井文太郎〔『軍事研究』誌アナリスト〕著
「イスラムのテロリスト」(講談社,2001/10/20),p.70-7を参照されたし.
【質問】
イスラーム義勇兵はボスニア内戦にどう関与したか?
【回答】
アフ【ガ】ーン義勇兵のベテラン達が,開戦1年後の93年春頃から続々とやってきて,ムスリム政権軍に合流した.
特に,ゼニッツァのボスニア政府軍第3軍には,アルジェリア人とエジプト人を中核とする約300人が,義勇兵として参加.
彼らは「ゲリラス」または「ムジャヒディン」と呼ばれた.
こうしたイスラーム義勇兵は,短期滞在者も含めて述べ3000人(常駐で最大1000人程度)と見られ,ゼニッツァの他,トラブニク,ザビドビッチ,カカニヤに展開した.
中東の十数カ国から参加し,アルジェリア人,エジプト人の他,トルコ人,サウディアラビア人が主力だったと言われる.
外国人義勇兵は,好戦性・残虐さにおいて際立っており,94年1月にゼニッツァ近郊で発生したイギリス援助団体職員殺害事件は,「ゲリラス」の犯行と見られている.
「ゲリラス」は,ボスニア政府軍の指揮系統を離れ,独自の動きを示すようになっていた.
また,同じ頃,パキスタンの偽造旅券を持つアラブ人3人が,サラエボの検問を突破しようとして,ボスニア政府警察に射殺されるという事件も発生している.
彼らの1部は停戦後も何故か居座り,97年11月〜12月,ボスニア警察は,テロの犯人として「ゲリラス」と仲間のボスニア人20人を逮捕した.
詳しくは,黒井文太郎〔『軍事研究』誌アナリスト〕著
「イスラムのテロリスト」(講談社,2001/10/20),p.100-101を参照されたし.
【質問】
ユーゴ内戦でティーガーは投入されましたか?
【回答】
ティーガーがユーゴ紛争もしくはナゴルノ=カラバフ紛争で目撃されたという話はある.
ただし本物ではなく,映画撮影用にT-34/85あたりを改造した偽虎であるという説が有力.
本物だったら弾が無い,交換部品が無い,もったいない,と運用するには問題がありすぎる.
【質問】
ユーゴ内戦における傭兵の立場は?
【回答】
扱いは酷かった.存在は隠され続け,正規軍の支援もなく,常に危険な任務に就かされた.
傭兵部隊「ビッグ・エレファント」がボスニア中央部の前線で任務についていた頃,
「ボスニア・ヘルトェゴビナ領内には,クロアチア正規軍も外国人兵士も一兵たりともいない」
という声明が出されていた.
傭兵を使っていることを認めれば,対外的イメージが悪くなるからだ.
チャプリーナという町の基地にいたときなどは,クロアチアのトゥジマン大統領が視察に来る日に突然,基地から離れた演習場に移動を命じられた.
見たくもないツラをした旅団幕僚の少佐が,空を指した.
上空にミル8ヒップ輸送ヘリが飛んでいる.
「いいか,あのヘリの足が地上に触れる前までに,基地から出ていけ.お前らの吐いた息が大統領にかからないようにな.
それに,お前らの顔は,大統領閣下にお見せするには余りに品がなさ過ぎる」
内部的にも,存在を隠しておいたほうが都合いい.何かあったときに簡単に切る事ができるように,命令系統は簡素だった.
「ビッグ・エレファント」は,旅団長から直接伝達される命令のみで動いていた.
旅団長にとっては,自由に誰にも気がねなく使える部隊が常時,手駒としてあるのだ.しかも軍の編成外だから,被害を気にすることもない.さぞかし重宝しただろう.
楽をさせたら損とでも思っていたのだろうか,ご丁寧にも,危険度の高い任務に毎回「厳選」して派遣されていた.敵主力正面での監視ポスト配置,敵地内での拠点確保や敵戦車破壊,敵勢力優勢地域での偵察やパトロール.どれもタフな仕事だった.
監視ポストは,敵が動けば真っ先に叩かれる場所にあった.戦車の侵攻が予想されるときでさえ,小銃と60mm携帯ロケットのみで任務に就かされ,負傷した奴もいる.
パトロールや偵察は,1日行動すれば5〜6回は必ず敵の姿を見るような,そんな危険極まりない所ばかり行かされた.
そんなときは決まって,
「バック・アップに正規軍がついている」
と,旅団幕僚からそんな作戦説明があった.
が,それを信じる傭兵は一人もいなかった.
何しろ正規軍には,最前線で戦闘中の傭兵部隊に連絡もなく,すぐ後方にいる部隊を勝手に後退させた前科がある.
しょせん傭兵は見殺し可能なのだから,正規軍を信頼するわけにはいかないということだ.
こちらから攻勢に出る作戦では,必ず真っ先に傭兵部隊が行かされる.1995年,セルビア人地区だった西スラボニアやクライナ地方への電撃的な奇襲作戦の最先端の一端は,傭兵部隊が受け持っていた.
傭兵に回されるのは,こうした危険な仕事ばかりだ.
だが,それをいつも完璧にこなすことが求められていたかというと,必ずしもそうではない.傭兵に期待されていた役割が,正規軍のための露払いであるからだ.作戦主力を務めることではなく,主力たる正規軍の行動を戦術的にサポートするような補助的役割だった.
傭兵に対する差別も,またあからさまに酷いものだった.補給品は常に後回しで,余り物しか回ってこない.
被服支給なんかでは,それが如実に現れる.傭兵に回ってくるのは中古品ばかりだった.戦死者の着ていた戦闘服を洗い,弾丸が突き抜けた痕を繕ったものだ.
正規軍の奴らは,いつも新品の戦闘服を着込んでいた.
前線でもそんな差別は変わらない.
トラックで運ばれてくる食事に最初に手をつけるのは,必ず正規兵だ.
あるときなど,残り物のマッシュ・ポテトとパンだけを食べて外に出ると,目の前で皿にステーキを3枚も載せ,のんびりと野良犬にやっている正規兵を発見した.
そいつが,激怒したフランス人にフクロにされたのは,その日の夜のことだ.
煙草の配給も正規軍優先で,我々にはいつも「アストラル」というくそまずい煙草しか回ってこなかった.
しかも,一人1カートンずつ配給すると,残りは既に一人3カートンずつ渡っている正規軍に持ち帰っていく.
詳しくは,高部正樹著「傭兵の誇り」(小学館,2001/12/20),
P.62-67を参照されたし.
高部正樹
【質問】
ユーゴ内戦での国連軍の働きは?
【回答】
「兵力分断」を名目に,両勢力の間に入り込んでいた国連防護軍
UNPROFOR だが,砲撃が始まれば,ご自慢の白いAPC(装甲兵員輸送車)で一目散に逃げていき,双眼鏡でないと見えないような場所まで下がってしまう.
いざ事に及ぶと役立たずの邪魔者でしかなかった.
詳しくは,高部正樹著「傭兵の誇り」(小学館,2001/12/20),
P.151を参照されたし.
【質問】
NHKのドキュメンタリー「世界を変えた戦場」でのユーゴ紛争の回で,オランダ軍が避難民をセルビア人勢力に空け渡す内容が放送されていましたが,あの件でオランダ軍に対する国際的な評価は変わったのでしょうか?
【回答】
明け渡したんじゃなく,何もしなかったんです.国連の現地当局者の指示が無かったから動けなかった.
法的には問題ありませんでしたが,虐殺を傍観する事になってしまいました.
それにより,国際的にも非難を受けたが,むしろ国内における批判の方が大きかったようですね.
これにより,オランダはPKO等国際派遣への関与の方法を明確化しています
http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/document/2005/200504.pdf
ちなみに,法的に責任がある国連現地当局者は無論批判を受け,彼がカンボジアでも失態を行っていた事を踏まえ,二ヵ月後に辞任に追い込まれ(実質的に解任)されました.
彼の名を明石康と言います.
【質問】
ユーゴへの介入は,アメリカ側にはどのようなメリットがあったのでしょうか?
【回答】
ユーゴへの介入はヨーロッパ主導.
アメリカは当初消極的だったが,ヨーロッパに押し切られる形で参戦.やる気がなかったのは最後まで地上軍を投入しなかったことにも現れている.
メリットとしては,
・EU単独介入を許すと,NATOが形骸化しかねないこと,
・コソボのイスラム教徒保護によるイスラム圏への印象改善
などが言われていた.
で,始まってみたら,ヨーロッパ諸国はアメリカなしでは何も出来ないことを思い知らされたわけだが.
【質問】
90年代末のユーゴスラビア内戦に米・独が介入したけど,この2国はどんな国益上のメリットを得た,もしくは得ようとして武力行使に踏み切ったの?
独はともかく,米がセルビアと戦うメリットなさなんだけど.
【回答】
米独,というかNATOが介入した.
バルカン半島は欧州の火薬庫なんて言われるくらいで,昔から 欧州全体に影響を与える不安定地帯.
なのでEUの指導的立場になりつつあるドイツとしては,EU確立に向けて不安定要因を取り除いておきたかった.
あと,セルビアはロシアの影響下にある国なので,当時まだロシアと信頼関係や協調関係が築けていなかったアメリカとしては,ロシアの影響力が大きい国に,東欧で影響力を持ってほしくなかった,というのが大きい.
【質問】
コソヴォ空爆において,ユーゴ軍はほとんど損害を受けていなかった,という話をしばしば聞きます.
しかし
http://www.defenselink.mil/pubs/kaar02072000.pdf
の86ページにあるグラフによれば,戦車181両,APC等317両,軍用車両800両,火砲857両を撃破したとあります.
これだけの被害を「ほとんど損害は無い」と言うのには無理があると思いますが,
「ユーゴ軍はほとんど損害を受けていない」
という公的なソースはどこにあるんでしょうか?
【回答】
全土に亘ってチョボチョボとだろ.
歩兵の乗っていないAPCをぶち壊したってねぇ.
実害は戦車181両だろうけど,コレも数の上ではT-55が主力だしね.
ソレに以下参照って話も有ってな.
------------
報告によると,NATO軍機はコソボに展開したユーゴ軍の戦車181両を攻撃し,うち93両を破壊した.
標的にした戦車のうち,9両はプラスチック製の模型だったことも判明した.
このほか装甲兵員輸送車153台,軍用車両339台,火砲または迫撃砲389門を破壊したとしている.
http://www.asyura.com/sora/bd3/msg/585.html
------------
まぁ,「破壊」した実数はその半分.
特に注目したいのは
> 報告書は6月10日の空爆停止後,出撃した航空機の操縦室内のビデオ,操縦士の証言,コソボ入りした調査団が収集した証拠などをクロスチェックして作成したという.
自己申告の上に,「9両はプラスチック製の模型だったことも判明した」だけじゃなく,これ見よがしに展示してあった壊れたT-55とかも含まれるのはお約束だろう.
また,「戦場の現在」(加藤健二郎著,集英社新書,2005/3)によれば,コソボから撤退してきたユーゴスラビア軍の数をカウントしていたイギリス兵は
「ほとんどユーゴスラビア軍の戦力は打撃を受けていない.撃破した戦車は20両程度だろう」
「陣地構築や偽装,移動などで手抜きをしなかったユーゴスラビア軍は,大規模空爆下でも健在だった.部隊の動かし方から見て,指揮通信系統も機能していた」
とコメントしている.
プラスチック製やスクラップもどきの戦車を加えれば,100両近く壊したともいえるが,実質的な損害と言えるのは,さて何両だろうか?
空爆では参謀本部ビルや内務省ビルなんかもフッ飛ばしてるから,単純に戦術目標のみを見ても仕方がないだろうケド.
http://www.afa.org/magazine/July2000/0700kosovo.asp
ここに引用されているセルビア側の主張とニューズウィークの記事に対する反論も,判断材料となるだろう.
それによると戦車14両,APC18両,砲20門の戦果をあげたということになる.
航空攻撃についてはコソボ領内の野戦軍のみならず,ユーゴ国内の軍需産業基盤,火薬,銃弾,装甲車生産施設,河川橋梁,変電所などにも攻撃が加えられている.
ランドの報告書によると,これらに対する攻撃はそれなりに有効だったそうだ.
ただし,コソボ内におけるユーゴ軍の活動を,航空攻撃のみでは阻止出来なかったと評価している.
ということで,公式の米軍側ソースのほかにセルビア側主張,ニューズウィークの記事,そしてこの反論などが存在する状態.
ここから先は,どの情報が間違いかと言うより,どの情報を信じるかだろうな.
ちなみに,物的被害ではなく「セルビア国民の士気は挫かれなかった」という話は,前に軍事研究で読んだな.
軍事板,2005/12/19(月)
青文字:加筆改修部分
【質問】
ユーゴ空爆において,中国大使館誤爆事件の後に起きた反米デモは,自然発生的なものだったのか?
【回答】
ガチで官製デモ.江沢民がゲロってる.
〔『江沢民文選』によれば〕1999年5月に北大西洋条約機構(NATO)軍所属の米軍爆撃機が駐ユーゴスラビア中国大使館を誤爆した後,中国全域で発生した反米デモについても,江氏が直接指示した官製デモであったことを明らかにしている.
北京=チョ・ジュンシク特派員 in 朝鮮日報 2006/08/11/08:40
【珍説】
アメリカのB-2爆撃機がユーゴで中国大使館を爆撃した事件は誤爆ではなく,裏で紛争の糸を引いていた中国の地下基地を爆撃するのが目的だった.
「コソボ紛争での中国大使館への誤爆は意図した爆撃だった」
http://www.dlareme.org/archives/000237.html
「正確に“誤爆”された中国大使館」
http://sekitori.web.infoseek.co.jp/war/war_yugo_beo_china.html
今月〔2006/12〕の「日高義樹のワシントンリポート」でも,アメリカの軍人さんが,中国大使館を「狙って撃った」と断言している.
http://homepage3.nifty.com/pla_ne_ten/nikki_0608.html
http://piza.2ch.net/log/news/kako/940/940460627.html
【事実】
ええと・・・・メチャクチャです.
大使館に地下指令所を作る意味が不明ですし,米にしたって本気で地下を攻撃する気ならJDAMではなくGBU-37等を使います.
中国が裏で手を引く理由もありません.
紹介されているページ内にも,ソースと呼べるものがありません.
事実は,精密誘導であるが故に起きた誤爆です.
目標設定時に誤った情報が入力された為,「正確に」中国大使館を誤爆してしまいました.
ま,陰謀説ってのはどこにでも出てくるものです.
日高レポートにしても,問題の映像そのものが出てこないと.考察のしようもない.
複数の誤認・歪曲が重なっただけの可能性もある.
ちなみに,英語のWikipediaには
The bombing strained relations between China and NATO countries and provoked angry demonstrations outside Western embassies in Beijing. According to one news source, unnamed high ranking NATO sources confirmed in 2005 that the attack was in fact deliberate:"The NATO sources told Defense & Foreign Affairs that the attack was based on intelligence that then Serbian leader Slobodan Milosevic was to have been in the Embassy at the time of the attack.
The attack, then, was deliberately planned as a "decapitation" attack, intended to kill Milosevic." [19]
とある.
一部のメディアで疑念が沸き起こっていて,そこの”NATOソース”によると,中国大使館に逃げ込んでいたミロシェビッチを暗殺するために,攻撃が意図的に行われたってことだな.
はて?,上と話が違うな.
軍事板
そもそもソースが…
米軍兵士の「狙って撃った」という発言を持ち出しているが,これはあくまで
「大使館じゃなく,攻撃目標と思って“狙って撃った”」
という意味であって,別に大使館だと気づいていて狙ったとは明言していないと思うが?
情報とは見方によっていろいろ変わるものだが,これは明らかに情報操作.
誤爆の定義すらあやふやだったりするような輩が,2ch.軍事板にはしょっちゅう沸くが,これはもうそれ以前の問題.
762 :名無し三等兵 :2006/12/09(土) 22:55:28 ID:???
アメリカ人の方がアメリカ政府批評は活発だからね.
ちょっとぐぐったら,平気でオイルマネーだのアポロ疑惑だのという話が出てくる.
763 :名無し三等兵 :2006/12/09(土) 23:37:02 ID:???
アポロ疑惑ってーと,NASAがキューブリックに撮らせたってやつか.
リアリティにこだわって現地ロケまでしたってやつ.
765 :名無し三等兵 :2006/12/10(日) 00:04:41 ID:???
完璧主義者で,凝りまくり撮影遅れまくりのキューブリックに撮れるわけないじゃん.
準備段階込みで何年かけたんだよ(笑)
766 :名無し三等兵 :2006/12/10(日) 00:51:26 ID:???
むしろバリー・ゾンネンフェルドかエメリヒあたりで
767 :名無し三等兵 :2006/12/10(日) 01:25:31 ID:???
>765
特撮だと時間がかかりすぎるもんだから,ケネディが渋々,現地ロケ許可したんじゃなかったか?
768 :名無し三等兵 :2006/12/10(日) 12:59:17 ID:???
配役が地味なのは,キューブリックらしいと言えるのか,らしくないと言えるのか.
769 :名無し三等兵 :2006/12/10(日) 13:40:56 ID:???
地味〜な船長が,月面に降りて偉そうなこと言うのはキューブリック的かも.
770 :名無し三等兵 :2006/12/10(日) 21:07:02 ID:???
月着陸は,最初の作品はともかく,続編が乱発されたのは痛かったな.
アポロ Part13っていうキワモノがおかげで大ヒット.
後にリメイクまでされるとは思わんかったけど.
「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ サイト・マップへ