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◆◆◆一揆
<◆◆治安
<◆江戸時代(徳川幕府期) 目次
戦史FAQ目次


(画像掲示板より引用)


 【質問】
 江戸時代の百姓一揆の実際は?

 【回答】
 百姓一揆の多くは,単独か少数あるいは多数の農民の越訴行為であった.

 近世では,「越訴」とは訴訟の法に定められた順序を乱す違法な直訴(じきそ)の様々な方法を広く指す言葉だった.
 武士・公家から庶民に至るまで,一方では私的な争論を禁じ,他方では順を踏まない越訴を禁じて,訴訟の制度にもとづき大小の紛争を解決するというのが江戸幕府のたてまえであったが,実際には越訴は根絶できず,それへの対処も変化した.
 1603年(慶長8)に徳川家康が定めた郷村掟(ごうそんおきて)では,直訴を原則として禁じたが,代官が不当であるときは特別に認めた.
 実際には農民の領主に対する直訴は止まず,また手続を踏んだ訴訟も増えた.
 1633年(寛永10)に幕府は訴訟手続を制度化したが,反面で直訴は全面的に禁止した.
 しかし,村役人が村の利益を代表して越訴することは,17世紀の百姓一揆の特徴となり,18世紀に入ると,惣百姓が直接に集団で越訴する強訴(ごうそ)が増加した.

(日本史板)


 【質問】
 佐倉惣五郎って誰?

 【回答】
 佐倉惣五郎は,江戸時代下総国(千葉県)佐倉藩領内の庄屋.
 俗説では,重税に苦しむ農民達を見かねて,将軍に直訴し,農民達は圧制から解放されたが,宗五郎は処刑されたといわれる人物.

 wikipediaでは,生没年まで慶長10年(1605年)? - 承応2年8月3日(1653年9月24日)?と,やけにはっきり書いているが,実際のところ生没年不詳.
 それどころか,確実な史実すら乏しい.[1]

 とりあえず,
・下総佐倉城主堀田正信が,1660年(万治3)に改易になった事,[1]
・地押(じおし)帳,名寄(なよせ)帳の記載によれば[2],その当時,領内の公津台方村に惣五郎という,かなり富裕な農民がいたこと[1][2]
は事実.

 俗説では,藩主堀田正信(まさのぶ)の重税にたえかね,農民を代表して将軍に直訴.
 租税は軽減されたが,承応(じょうおう)2年(異説あり)8月3日磔刑(たっけい)になったといわれている.
 しかし,この時の一揆を証明する史料も,実は無い.
 惣五郎が藩と公事(くじ:訴訟)して破れ,恨みを残して処刑されたこと,その惣五郎の霊が祟りを起こし,堀田氏を滅ぼしたことがあり,人々は彼の霊を鎮めるために将門山(まさかどやま)に祀ったという話が,公津村を中心に佐倉領内に民間伝承としてあるだけである.[2]

 ただ,事実として,正信の弟正盛の子孫正亮が1746年(延享3)に佐倉城主として入封して後,将門山に惣五郎をまつって口の明神と称し,1653年(承応2)8月4日に惣五郎とその男子4人が死んだとして,1752年(宝暦2)はその百回忌相当のため,口の明神を造営し,以後春秋に盛大な祭典を行っている.[1]
 このことから,やはり何らかの事件があっただろうことだけは,容易に想像がつく.
 そこへもってきて,江戸時代中期以降,『地蔵堂通夜物語』や『東山桜荘子』などの物語や芝居に取り上げられたことで,俗説が史実を離れて独り歩きを始めたらしい.
 いつの世にも,話を大げさに創ってウケを狙いたがる者はいるのである.

 【参考ページ】
[1] http://kotobank.jp/word/%E4%BD%90%E5%80%89%E6%83%A3%E4%BA%94%E9%83%8E
[2] http://tounourekisi.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/702004324-2463.html

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 ビートたけしの母ちゃん,サキ氏が,フライデー裁判でたけしが有利になるよう,宗吾霊堂にお参りに行ったの,思い出しました.

水上攝提MIZUKAMI_Settei @mizukami_settei in twitter◆(2014/07/27)


 【質問】
 正徳一揆について教えられたし.

 【回答】
 最近は小藩の資料やら,旗本,御家人の資料なんかをとろとろと見ているのですが,江戸期を通じて交代寄合を務めていた旗本の山名家…と言えば,応仁の乱を演出した山名宗全なんかが有名ですが,その末裔は秀吉の但馬攻めの時に山名祐豊が秀吉に腰を折って,毛利に味方した家臣一同から追放され,流転の末に家康の世に召し出されて,6,000余石の旗本として名を連ねています.
 これが幕末に高直しをして,大名家に滑り込んだ訳ですが….
 ここから分かれた分家筋で,徳川幕府の名家復興政策で,御家人から旗本に格上げされた人々も多数いました.

 その山名家の分家の一つが,何と赤松家と婚儀を整えたりしています.

 赤松家と言えば,赤松満祐が嘉吉の乱を起こして,将軍を弑逆した後,山名宗全に攻められて,敗亡した事件がありましたが,こちらも下克上の憂き目を見て,流転の末に秀吉に拾われ,四国で大名になったのも束の間,関ヶ原では西軍に付いてしまい,御取潰しの目に遭った家です.
 こちらも,徳川家に拾われ,3,000石を得た旗本として一家を為しました.

 謂わば敵同士の家が,良く婚儀を整えられたものだと思ってみたり.
 因みに,その山名分家と,赤松家は家が隣同士だったそうです.
 時代が下って平和になったとは言え,良く反対が無かったなぁ,と.

 さて,そんな話はまた何時かすることにして,大聖寺前田家の話に戻ります.

 1712年8月15日,午前10時から南風が激しく吹き荒み,やがてそれは西の大風となって作物に大損害を与え凶作になってしまいます.
 この為,領内の農民は幾度となく十村役や肝煎に,年貢の税率引き下げを願い出ました.
 この結果,今年の収穫予想を立てる為,9月18日に大目付堀三郎左衛門,郡奉行守岡新右衛門,前川宇右衛門,郡目付斉藤四兵衛,那古屋作左衛門の5名が郡付足軽と目付十村の石村新四郎,小塩辻村文兵衛,組付十村の島村五郎右衛門,小分校村半助,保賀村宗左衛門,山中村清兵衛,大聖寺城下町平野屋五兵衛,片山津村次郎兵衛を従え,西の浜から上木村,永井村,瀬越村,吉崎村,塩屋村の順番に水田の調査を始めました.

 調査結果は大目付から藩政を審議する御用所で審議されます.
 その審議結果は,大方の農民の予想に反して,「作柄は良好」として引下げないことに決しました.
 この結果を聞いた農民達は激怒し,10月4日夜,矢田野村の福原の宮に数百名が集合して那谷村に泊まっていた役人宅を襲撃しようと計画,6日夜半に4名の役人が泊まっていた那谷村の肝煎権四郎宅を襲撃して大目付の堀,郡奉行守岡,郡目付の斉藤と那古屋が居並ぶ中,税率引き下げの直談判に及びます.
 しかし,激高した農民の一部が,権四郎宅の柱を打ち切ったり,瓦や石を投げるなどした為,役人達はそそくさと裏口から退散し,観音山裏手の三光院に避難しました.

 役人達を追い払った農民は彼らの御用箱から書類を取り出し,火を付けて焼いたのみか,用いていた弁当箱や夜具の類まで焼いたと言います.

 次いで農民達は,不動院に泊まっていた郡奉行の前川を襲撃しようとしましたが,前川も既に逃れた後で,住持の居間や仏殿,書院,庫裡を探していないと判ると,収まらない農民達は,寺内の戸障子を打毀し,天井を突き落とし,諸道具や夜具を庭前に出して焼き捨てました.

 この状態を見た三光院の5人は,那古屋に脱出を命じ,那古屋は十村役の1名を道案内にして山伝いに迂回し,藩庁に駆け込んで事の次第を報告しました.
 因みに,郡付足軽だった干野喜兵衛,角浦孫左衛門,田辺半平は打毀しの中を突っ切って7日午前10時に大聖寺城下に辿り着きました.

 これが大聖寺前田家を震撼させた正徳一揆の始まりでした.

 翌7日,三光院に避難し,先行した那古屋を除く4名は,菩提村から山越えで脱出を図り,大功山に辿り着いた所で農民に包囲されてしまいます.
 農民は十村の新四郎,那谷村肝煎の権四郎を使者として数度に亘って税率の引き下げを談判し,遂に郡奉行と郡目付は連名で,農民に対し60%の税率引き下げを承知しました.

 一方,藩庁には7日午前8時に那谷村での打毀しの報が届き,不動院からも寺僧により,寺社奉行生駒修理,国沢新八に注進がありました.
 藩庁の重臣は,「驚愕一方ならず」と言う状態で,御用所に重臣や諸役人が集まって鳩首協議をしている最中に,那古屋作左衛門の報告があり,漸く実情を知った訳です.

 そこで,藩庁からは勘定頭の吉田庄市カ,宮部新兵衛,大目付渡辺治兵衛を那谷村に派遣します.
 3名は数千人に達した一揆勢が見守る中,那谷寺の花王院で農民代表の肝煎と事態の収拾について交渉を開始しました.

 農民側の要望は40%上納,60%免除を繰返すと共に,串村茶問屋の廃止,大聖寺城下町町人による紙問屋の停止を要求しました.
 この頃,更に前田家は代表として,安井万兵衛,福島軍兵衛の2名を追加派遣し,総勢5名で交渉に再び臨み,結果として,農民側の要望を受入れ,40%上納,60%免除を承諾すると共に,茶問屋と紙問屋については藩庁で重役と相談の上返答すると言う事で決着しました.

 この頃,領内に流行った落首にこんなのがあります.

――――――
堀かけて井戸にはならぬ前川の清き流をくめや守岡
那谷谷はいかなる深き谷やらん名越が落て音聞えけれ
――――――

 7日午後4時,一揆勢は那谷村を引き払い始めましたが,杉木街道から大聖寺道に行く途中で,茶栽培農民から串村の茶問屋襲撃が提案されました.
 「茶を栽培する者は一人も帰ってはいけない.帰った者のいる村は焼き討ちにする」と言われ,農民達は杉木街道から一斉に串村に進みました.

 串村の途中で,茶問屋が茶畑を監視してその横流しを詮議する小屋を焼き討ちし,一気に串村茶問屋の甚四郎宅に押し寄せて居宅内を荒らし,家財道具を放り投げて火を付けています.
 因みに,1756年には金沢で打毀しが起こっていますが,此の場合はリーダーがいて,囲炉裏の火を消して火災に配慮した上,「盗賊ではないから盗むな,人も殺してはならない」と説いて,家人を逃してから打毀しをしています.
 これが,都市での打毀しの作法なのですが,この場合は,リーダーは存在せず,農民の恣意に任せた者と考えられています.

 串村には遊郭があったのですが,この打毀しの御陰で,客達は右往左往しながら逃げたと言います.

 この報を聞いて,前田本家の領内である能美郡今江村の十村三右衛門は,大聖寺前田家領民の越境もあるかも知れないとして,御幸塚の下の切通に人数を配置し,警戒を強化しました.

 8日,勅使村の願成寺で数千人の農民が取り囲む中,一部の肝煎が藩庁への要求事項として,武家奉公人の臨時差出し中止,種物及び農産物の初収穫物代銀徴収の停止,山代村河原屋安右衛門所有地の新高免税,領内一体の増税中止を掲げ,傘連判状を作成しました.
 傘型にするのは発起人が誰か判らない様にする為で,逮捕されても仲間の名前を言わぬことを誓い,逮捕者が出て入牢した場合は,大聖寺城下に入り込み牢舎を襲撃して救出すると共に,不参加の村を焼き討ちにする事も申し合わせました.

 一揆参加の農民達は勅使村での交渉中に集団を抜けて,諸村の上層農民を襲撃しました.
 庄村で絹屋を営んでいた京谷三四郎と餅屋太三郎は那谷村に集合しようとした北浜の橋立村,西ノ庄の塩屋村の農民を阻止しようとしたとして襲撃を受けましたが,実際の理由は,近隣農村の娘を作業場に集めて低賃金で酷使した事だと言われています.
 両人とも逃げ去った為,家人が一揆勢に土下座し,酒肴を供したことで漸く許されたと言います.

 また,滝ヶ原村の喜九郎,菩提村の助右衛門は何れも一揆に村人を参加させなかった為に,家を襲撃し踏みつぶすと言う噂が流れたことから,両人は願成寺に駆けつけて陳謝しました.

 夜になると山代村の河原屋安右衛門宅が襲撃され,宿泊中の山代御藪役人は一揆勢に追い回されて這々の体で逃げ出しました.
 此の後,一揆勢は更に山中村の元十村堀口右衛門宅を襲撃します.
 堀口は,十村を務めていた頃,茶や紙に寡聞の運上銀を上納させた為でした.

 9日には一揆勢が,大聖寺城下町の紙・塩問屋で,十村を勤めている平野屋五兵衛,願成寺に集合しなかった山田町領の肝煎扇子屋三郎兵衛,紙生産地の紙屋谷の目付役を勤めながら,紙漉農民から搾取した徳田屋清兵衛,他に米を買い占めて価格を上昇させ利益を得ていた米仲人や,郡奉行2名,目付2名,十村の町宿,番代,手代など,農民を食い物にしていたと見られた役人達の屋敷や居宅襲撃の噂が城下に流れ,町民の避難が慌ただしくなりました.

 夕方には小塩村の十村源太郎と文兵衛宅を襲撃すると噂され,実際に周辺の村々の農民が鳶口,熊手を持ち,胴蓑を着けて小塩村を包囲したりもしています.
 この騒ぎは菅波村,敷地村,高尾村,深田村,田尻村,千崎村,塩浜村,野田村,山田村の肝煎が駆けつけ,彼らを説得してやっと引き取らせました.

 8日,藩庁は本家の加賀前田家に事の次第を報告すると共に,江戸表に早馬を走らせ,9日に当主の利章にも正式に報告を入れました.
 早速,当主の前田利章は本家の当主前田綱紀と共に幕府老中の秋元但馬に報告しています.
 これほどの大一揆になると,家中取締不行届きとして,御取潰しにもなりかねない失態ですから.

 加賀前田家では,足軽頭,馬廻頭各1名に足軽の1隊を添えて大聖寺前田家に派遣しますが,これは一揆が平静になった11日に到着し,そのまま引き返しています.
 12日になると,郡内を二手に分け,徒,足軽,捕手,長柄中間数十名が村々を巡回しました.

 11月2日,家老の生駒源五兵衛,勘定頭宮部新兵衛,会計奉行二松半重郎が金沢城内を訪れ,重臣達に対し年貢について話し合いを持ちます.
 9日,算用場に領内の十村を参集させ,米は年貢分を納入し,不足分を貸米とすると通達しましたが,農民は約束が違うとして誰一人承知せず,那谷村での藩庁使者達の証文や,勘定頭吉田庄市カ等の約定を盾に誰もその通り納入する者がいませんでした.

 11月21日に保賀村の十村宗左衛門と勅使村,河原村,宇谷村の農民との間で年貢米の納入について論争があり,肝煎と話し合いたいとして三村の肝煎を招いた所,三村の農民達は肝煎が入牢させられると勘違いし,勅使村の農民が中心となり,二子塚村,栄谷村を始め近くの村々から人手を出して保賀村の襲撃を企てました.
 彼らは,山代村に入ると大戸や蔀などを打ち破りますが,保賀村に着くと既に足軽や捕手が到着すると共に,宗左衛門宅は一門や村民に厳しく守られていて,一揆勢は面罵するだけだったと言い,結局,夜明け前に騒擾は収拾されました.

 この騒擾に再び重臣が驚き,早駕籠で本家及び江戸在府の当主に通報しましたが,越前の方では,国境を厳しくし,自国の領民が山中温泉や山代温泉に湯治に行くことを禁じ,大聖寺城下町への往来を禁じると言った対策を取っています.

 とは言え,これだけの騒擾があっても,時代劇に見る様に,強圧的な態度で弾圧したりはしていません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/01/04 23:38


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