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◆◆◆島原の乱 Simabarai felkelés
<◆◆治安
<◆江戸時代(徳川幕府期)
戦史FAQ目次


(こちらより引用)


 【質問】
 島原の乱は何故始まったのか?

 【回答】
 天草四郎の帰依者2人が,代官に捕らえられ,処刑されたのを契機として,キリシタンたちが,代官はじめ,僧侶,神官,果ては行きがかりの旅人までを惨殺したり,磔(はりつけ)にしたため.
 以下引用.

 寛永14(1637)年10月,島原有馬村の二人の百姓が,天草へ行き,そこで「天の使」として布教を始めた益田四郎という16歳の少年(天草四郎)に帰依して,キリシタンが礼拝する絵像を持ち帰り,村人を集めて布教を始めた.

 四郎は習わぬのに文字を読み,キリシタンの講釈を行い,また海上を歩いて見せたという.
 そして,次のような檄文が流布されていた.

 キリシタンになり申さぬ者は,日本国中の者ども,デウス様(神)より左の御足にてインヘルノ(地獄)へ,御踏みこみなされ候間,その心得あるべく候.

 島原・天草地域は,30年ほど前まで有馬晴信,小西行長というキリシタン大名に統治され,領民の多くはかつてキリシタンであった.
 二人の百姓の布教で,10月23日の一晩だけで7百人あまりの男女がキリシタンに「立ち帰った」という.

 翌日,代官がこの二人を捕らえ,島原城に連行して処刑した.
 しかし,キリシタンたちは集会を止めず,殺された二人を「天上し(天国に行き),自由の身になった」と礼拝した.この集会を解散させるために赴いた代官たちを,キリシタンたちは殺害し,「代官,僧侶,神官らを殺害せよ」と近隣の村々へ触状を回した.

 これに呼応して,各地で立ち返ったキリシタンたちが,代官はじめ,僧侶,神官,果ては行きがかりの旅人までを惨殺したり,磔(はりつけ)にした.「島原の乱」の始まりである.

【ロシア政治経済ジャーナル】,7 Mar 2006
同ジャーナルが参考文献としたと推測されるもの:神田千里著『島原の乱』,中公新書,H17


 【質問】
 一揆の主因は,キリシタン信仰への迫害と,飢饉と重税への反発だったのか?

 【回答】
 そうではなく,一度棄教した元信徒達が,再びキリスト教信仰に立ち返り,その信仰の自由を求めたのが原因であるという.

 以下引用.

 従来の歴史研究では,島原・天草での一揆の原因は,キリシタン信仰の迫害と,同地方の領民を苦しめていた飢饉と重税への反発であるとされていた.

 しかし,この説では説明のつかない事実がいくつもある.

 まず,キリシタン迫害は一揆の26年も前に開始され,10数年前にはキリシタン信仰はほぼ終息していた.
 キリシタン迫害に対する反発というには,時期が離れすぎている.
 一揆勢は一度,信仰を捨てたキリシタンたちが「立ち帰った」ものであった.

 また飢饉と重税に対する反発というにも不審な点がある.
 後で見るように,一揆勢は,同じく飢饉と重税に苦しんでいる民衆にキリシタンへの改宗を武力で強制し,改宗を拒んだ村々には攻撃を加えている.
 後に籠城した際には,幕府軍から
「将軍や島原藩主に何か恨みがあるのか,その恨みに理があるなら和談をしても良い」
との矢文に対して,こう答えている.
「我々は上様(将軍)への言い分もなく,(藩主)松倉殿への言い分もございません.宗門(信仰)のことで籠城しているのです.
 もし我々に憐みをかけて下さるなら,是非我々の宗門をお認め下さい」

 確かに,この地方では3年来の飢饉に見舞われていた.
 そこで思い起こされたのは,天草大矢野でかつて旱魃(かんばつ)に襲われた時,キリシタン住民たちが,3日間の断食と十字架の前での苦行,祈祷を行った所,3度に渡ってたっぷりと雨が降り,救われたという経験であった.
 イエズス会宣教師は,このことによって「非常の場合はデウスにすがるという必須の信頼」が生じたと記している.

 この事を覚えている百姓たちは,現在の飢饉は,迫害に屈してキリシタンの宗旨を「転んだ」事に対する「天罰」と捉えたのだろう.
 こういう意識のある所に,「天草四郎」が出現して,キリシタンへの「立ち帰り」が一気に広がったと考えられる.

【ロシア政治経済ジャーナル】,7 Mar 2006
同ジャーナルが参考文献としたと推測されるもの:神田千里著『島原の乱』,中公新書,H17


 【質問】
 島原藩領内の村は全て一揆に加わったのか?

 【回答】
 最初に蜂起したのは7カ村.
 各村は自治的に運用されており,一揆方につくか,藩方につくか,判断を迫られた.
 藩方に味方して,一揆勢と戦った村も少なくない.

 以下引用. 

 10月26日早朝,有馬村をはじめとする7ヶ村の立ち帰りキリシタンらが一斉に蜂起し,島原城下に押し寄せた.
 戦国時代の気風が色濃く残る時代らしく,各村は自治的に運用されており,一揆方につくか,藩方につくか,判断を迫られた.

 島原に近い安徳村(現・島原市)の村民たちは,荷物を牛馬に載せ,子供たちを抱きかかえて城に避難した.
 城下町の住民は藩側に味方するとして,武器の貸与を申し入れた.
 藩側は警戒して,人質をとったうえで,武器を貸し与えた.
 武士だけでなく,こうして百姓が戦に参加するのも,戦国の遺風である.

 押し寄せた一揆勢は,城下町で放火・略奪を行い,逃げ遅れた女性を拉致した.
 城下の寺院,神社を焼き払い,住持の首を切り,指物にして,城の大手口に押し寄せた.
 藩方は城に立てこもり,防戦に努めた.

 26日の晩には,湯江村,多羅良村,茂木村,日見村,西古賀村の住民たちが,藩方に加勢すべく,応援を送り込んで来た.
 こうした加勢もあって,一揆勢は数日間に渡って城を攻め立てたが,落とすことはできず,それぞれの在所に引き揚げた.

【ロシア政治経済ジャーナル】,7 Mar 2006
同ジャーナルが参考文献としたと推測されるもの:神田千里著『島原の乱』,中公新書,H17


 【質問】
 一揆軍の当初の計画は,どんなものだったのか?

 【回答】
 強制的にキリシタン改宗を迫りつつ,長崎を制圧し,それから島原城を攻めるというものだった.
 以下引用.

 有馬地域の村々に立ち帰った一揆勢は,天草四郎に使いを送り,今後は四郎を「キリシタン大将」として従う旨を伝えた.
 四郎は
「自分は大将として方々へ押し寄せ,キリシタンにならないものは誅伐して宗門を守るつもりであるから,どこへ攻めるにも命令には従ってもらう」
と指示し,それぞれの村から従軍する人数を申し出るよう,指示した.

 四郎は,長崎に1万2千ほどの軍勢を送って,キリシタンへの改宗を迫り,拒否した場合は放火・殺害を行って制圧し,それから島原城を攻めるという作戦を立てた.
 長崎は最も近い幕府の拠点であった.

【ロシア政治経済ジャーナル】,7 Mar 2006
同ジャーナルが参考文献としたと推測されるもの:神田千里著『島原の乱』,中公新書,H17


 【質問】
 島原の乱(1637)では,原城跡に篭城した4万人の一揆軍に,鎮圧軍12万人が大苦戦していますが,なぜでしょうか?
 検索の結果,キリシタンの一揆軍とはいえ,ほとんどは重い年貢に苦しむ百姓たちの集まりだと分かりました.
 そんな集団が鉄砲や騎馬,鎧で武装した12万人の鎮圧軍を相手に優勢に立てるわけがない.
 いくら篭城しても,百姓には鉄砲や弓が無いし,戦術だって素人同然なわけだから,意味が無い.
 普通に考えれば,鎮圧軍は簡単に鎮圧出来るはずでは?

 【回答】
 まず軍事の一般側として,陣地に立て篭もっている側を攻撃するには,攻撃側は対等な戦闘に持っていくだけで防御側の3倍の兵力が最低限必要だとされる.
 この場合の「陣地」とは野戦陣地(地面に穴掘って補強した程度)のことだから,要塞化された所に篭っている相手なら,更なる攻撃側兵力が必要とされる.
 したがって,一揆軍4万に対し鎮圧軍12万ではどうにか互角という程度の兵力差でしかない.
 篭城する相手には兵力が不足していたといえる.

 また,日本は古来から野戦重視で,攻城兵器の研究が殆ど行われなかった.
 故に騎馬も鉄砲,篭城した相手にはあまり役に立たず,幕府側は結局力攻め以外に方法が無かった.
 攻城用の投石器や攻城砲でもあれば戦況は随分違っただろう.
 その上,島原の乱当時は,既に戦国時代も過去のものとなっており,攻城戦術が全般に低下している.
 なにせ攻城櫓の作り方を誰も知らず,大坂の陣に参加した経験のある老兵の記憶を頼りのそれっぽいものをでっち上げたレベル.

 さらに,幕府軍は,総大将の板倉重昌があまりにも軽んじられていたことが,統率の乱れとなっている.
 幕府軍の主力部隊は鹿児島藩島津・佐賀藩鍋島・柳川藩立花と,地元の有力大名だった.
 重昌はたしかに将軍家光の寵愛を受けた人だが,石高1.5万石で幕府での地位も低く,地元主力部隊は重昌の作戦にほとんど耳を貸さず,得手勝手に攻略する事態に陥った.
 知らせを聞いた松平信綱は,総大将を代わってやろうと重昌に申し出るが,重昌はそれを更迭と早合点,自ら先陣を切って総攻撃をかけ,数少ない鉄砲に撃ちぬかれてしまう.
 重昌を見下していた諸侯もさすがに信綱には逆らえず,一糸乱れぬ統率が回復し,幕府軍は実力をようやく発揮して乱を鎮圧,参加者を皆殺しにし,薩摩・大隅から強制移民を実施し,島原藩を存続させた.

 第4に,一揆軍は素人ばかりではない.
 島原領主有馬晴信,天草領主小西行長のもとで働いた郷士たちがかなり混じっている.
 晴信も行長も熱心なキリシタン大名であり,行長が関ヶ原後に斬首,晴信も収賄容疑で斬首となり,新しい領主は過酷なキリシタン弾圧ができる者が派遣された.
 晴信や行長は戦上手な上にキリシタンの盟主だったから,郷士は主君譲りの統率力と戦術を維持し,素人を上手く使いこなせた.

 第5に,島原の乱では一揆軍側も鉄砲や弓を持っていた.
 一揆が発生した初日,一揆軍は島原城を攻略し,武器および籠城に供えた物資を強奪,打ち合わせどおり原城に運び込んだ.
 乱の発端は,隠れミサに役人が乱入して刃傷沙汰になったものだが,その日の夜には,もう島原城は襲撃されていた.
 武器は島原城から奪う,運がよければ落城までできればいい…くらいの段取りが用意されていた.

 蛇足.
 堅牢に見える島原城があっさりと一揆衆に攻め取られたのは,未完成だったから.
 晴信の居城だった日野江城を解体し,その資材で島原城を作っている最中だった.
 一方,原城は日野江城の出城だったが,本隊の解体に忙殺されて,あらかじめ無力化されていなかったため,一揆衆は城の機能をフル活用できた.

(鷂 ◆Kr61cmWkkQ他)


 【質問】
 島原の乱の際,幕府側の第1陣の大将,板倉重昌の死に方ってどんな討ち死にの仕方か,どなたか知りませんか?

 【回答】
 この頃,松平信綱が上使として江戸を立ち九州に向かっていた.
 これを聞いた徳川軍の兵士達は,
「重昌がなかなか攻め落とせないので派遣されたのだ」
と噂し始めた.

 実際はまったく関係がなかったのだが,これを知った重昌は焦り,冷静さを失った.
 そのため彼は,諸将に持久策を命じていたにも関わらず,なんとしても城を落とさなければならないと考え始めた.

 そこで,正月なら敵も油断しているだろうと勝手に思い込み,全軍に対して総攻撃を命令.
 徳川軍の兵士達は,いきなり変更された命令に唖然としながらも,全力で城を攻撃したが,一揆勢は万全の態勢で待ち構えており,なんら状況は変わらなかった.

 それを見た重昌は,陣頭に立ち指揮したが,胸に銃弾を浴び絶命してしまった.
 享年51歳.
 この正月の戦いでの戦死は覚悟の上だったらしく,出陣の朝に辞世の句を残している.
『あら玉の としにまかせて 咲く花の 名のみ残すを さきがけと知れ』

日本史板,2002/12/23
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 なぜ一揆勢力は原城に篭城することになったのか?

 【回答】
 本渡で唐津藩兵に対して大勝した後,勢いに乗って富岡城を攻めたものの,攻め落とせず,退却の際,寝返った農民から痛打を受けたため.
 以下引用.

 そこに唐津藩の軍勢が天草に到着し,本渡で一揆勢と交戦したが,惨憺たる敗北を喫し,富岡城に籠城した.
 唐津藩と言っても,少数の武士に多数の百姓が付き従うという,これまた戦国らしい構成だった.一揆方も多数の百姓が牢人に率いられたものであり,武士対百姓という階級闘争史観では捉えられない構図であった.

 一揆方は勢いに乗って富岡城を攻め立てたが,落とすことはできず,退却した.
 この様子を見て,今まで一揆勢に荷担していた村々は,今度は手のひらを返すように退却するキリシタンたちに攻撃を加え,多大な損害を与えた.
 戦国時代には「百姓は草のなびき」と言って,各村とも生き残るために優勢な方に加勢するというのが常態であったが,ここでもそれが見られた.

 天草四郎率いる一揆勢は島原に引き揚げ,12月1日に南有馬地区にある廃城・原城(はらのしろ)に籠城した.その人数は一説に,3万7千人と言われている.
 ここから翌年2月28日の落城まで,4ヶ月に渡る幕府軍との攻防が繰り広げられる.

 四郎は「それぞれの持ち場をぬかりなく持ち固めよ.そうすれば天国へいけるであろう,しかしそれを怠れば地獄へ堕ちるであろう」と籠城の一揆勢に督戦した.戦って死ぬことで天国へ行ける,という教えである.

 幕府軍は当初,強引な攻撃をしかけて,総大将・板倉重昌が戦死するという大きな被害を受けると,その後は城を包囲して,兵糧攻めにする作戦に出た.
 上述の矢文のやりとりも,この時に行って,懐柔に出ている.この間に,一揆勢からは約1万人ほどが,水汲みなどで城を出た際に,幕府軍に投降している.

【ロシア政治経済ジャーナル】,7 Mar 2006
同ジャーナルが参考文献としたと推測されるもの:神田千里著『島原の乱』,中公新書,H17


 【質問】
 なぜ幕府は,平戸にいたオランダ船に原城砲撃を依頼したのか?

 【回答】
 松平信綱によれば,
「一揆指導者たちが,やがて南蛮国から援軍がやってくる,などと百姓を騙しているので,南蛮船に砲撃させることにより,それが嘘である事を示そうとした」
ためだという.

 以下引用.

 この作戦については幕府内からも「外国船を動員するのは,日本の恥」という批判が出たが,作戦を立てた幕府上使・松平信綱は次のように答えている.

 拙者が異国船を呼び寄せたのは,一揆の指導者たちが,我々は「南蛮国」と通じているのでやがて「南蛮国」から援軍がやってくる,などといって百姓を騙しているから,
 その「異国人」(つまりオランダ)に砲撃させれば,「南蛮国」さえあの通りではないかと百姓も合点が行き,宗旨の嘘に気がつくのではないか,と思ったからであり,日本の恥になるとは思いもよらなかった.

 カトリック国ポルトガルからの援軍を頼むキリシタンたちを,プロテスタントのオランダ船が攻撃するというのは,まさに欧州における両宗派の代理戦争という趣である.

【ロシア政治経済ジャーナル】,7 Mar 2006
同ジャーナルが参考文献としたと推測されるもの:神田千里著『島原の乱』,中公新書,H17


 【質問】
 篭城したキリシタン達は皆殺しになったのか?

 【回答】
 投降者も少なくなかったという.
 以下引用.

 2月28日,幕府軍は総攻撃を仕掛け,原城を攻略した.
 激しい戦闘で,幕府軍総勢12万人のうち約1万2千もの死傷者を出した.
 従来の研究では,籠城したキリシタンたちは皆殺しにされたとされているが,「城中の者の生け捕りは多い」などという報告もあり,投降者も少なくなかった.

【ロシア政治経済ジャーナル】,7 Mar 2006
同ジャーナルが参考文献としたと推測されるもの:神田千里著『島原の乱』,中公新書,H17

 それ以前の戦いでも寝返り者が多数出ていることから考えても,こちらのほうが信憑性は高いと思われる.


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