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◆◆治安 Biztonság
<◆江戸時代(徳川幕府期) 目次
戦史FAQ目次


(画像掲示板より引用)


 【質問】
 江戸人口100万,うち半分の50万人の民間人の治安を司っていた奉行所の正式職員が100人.
 しかも南町,北町の2役所が月ごとのシフトで,余程の大事件が無い限り一緒に動くことがなく,非番の奉行所は先月の書類を作ったり次の月の準備をしたりして,だいたい時間余るからお昼で帰る.
 そんな人数で守られていた江戸の治安,すごい良かったのでは?

 【回答】
 奉行所の人員が少なかったのは,基本的に
「犯罪は身内で裁く.よっぽどのことが無い限り,おかみには頼らない」
が原則だったから.
 たとえば店の丁稚が何か悪いことをしたら,店が独自に制裁を加える.
 村の中で犯罪が起きたら,村の中で始末をつける.
 立件件数の低さ=治安の良さ,じゃないんだよね.

 村では人別帳や寺請制度や隣組や通行手形なんかで,超村社会システムを作って管理させてた.
 村の中で悪い事をしたら,村八分にされるけど,勝手に引っ越し出来ないから,村八分切れるまで大人しく住んでないといけない.
 勝手に出ても,村の人別帳にも寺の過去帳に名が無いと,生活が出来ない.
 手形が無いと別の国にも行けないし,仕事にも就けない.
 だから無茶苦茶は出来ない.
 とにかく,「村のもんは村で管理しとけ」システム.

(ちなみに幕府はケチなので,10万石規模の天領の代官所でも,代官が個人の金で雇った武士含めても,武士が4-5人しかいなかった.
 10万石ってことは少なく見積もっても3-4万人の人口があるわけで,一揆など起こって代官所が攻められたら絶対守れない.
 よって幕府のつくった運営マニュアルでは,不幸にして一揆が起こっちゃった場合,
「取るものとりあえず,さっさと全力で逃げようね」
と書いてある.
 どこぞのご老公に征伐される代官みたいに,不良浪人を数十人も囲っていたら,あれ全部代官が自費で出さなきゃいけないので,代官が破産する)

 これをおかみに頼ると,原告も被告も莫大な負担を強いられ,しかも連座制が適用されて親類縁者にまで迷惑がかかる.
 店なら財産没収・店主まで咎を受ける.

 しかも,江戸時代の刑罰って見せしめの意味が強くて,文面通りに行うと犯罪の重さに比べてもえらく厳しかったから,奉行所の連中も内々に処理することを推奨するというか,犯人がバレバレだったら,むしろ同心なりが中に入って解決のアドバイスをしたり,公式の刑に処するならもっと軽い刑罰で済むよう,大家なり主人なりにかけあってたりしたはず.
 八百屋お七がそのままだと火炙りだから,どうにか未成年である証拠を見つけてやろうと努力したのに,本人が未成年であることを否認し続けてる内に,成人であるという動かぬ書類が出てきてしまって,みんな泣く泣く火計にしたって話は,さすがにどうかと思ったが.

 さらに言えば,同心の主なあがりは「引き合い」.
 つまり,一定の報酬を貰って「内済」にすることがメイン収入だった.
 そんだけ大店(おおだな)やヤクザは「表沙汰」にすることを嫌ったんだよ.

 つまり,江戸で実際に報告された犯罪件数は,「表沙汰」にされた件数であって,実件数ではない.
 なので江戸で犯罪が少なかった,というのは必ずしも正解ではないかもしれない.
 まぁ,この内情は今も田舎の自治体や警察機構に引き継がれているような気もするな.

漫画板,2014/11/02(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 江戸時代の刑罰にはどのようなものがあったのか?
Milyen büntetés volt az Edo korszakban?

 【回答】

 江戸時代の日本は,地方分権の最たる形態ですから,刑罰に関しても各大名家が,言い方は悪いですが,好き勝手やっていました.
 江戸時代の刑罰について手がかりになるのは,1742年の『公事方御定書』上・下巻です.
 特に下巻は,現在では『御定書百箇条』として一般に知られているものです.

 『公事方御定書』に依れば,江戸時代の刑罰の体系は,正刑,属刑,閏刑に分かれます.
 更に正刑は呵責,押込,敲,追放,遠島,死刑に分けられ,属刑は晒,入墨,闕所,非人手下,吉原の廓内の犯罪に適用される大門口晒に分けられます.
 閏刑は身分毎によって科される刑罰が厳密に違っていて,士分には逼塞,閉門,蟄居,改易,預,切腹,斬罪が,僧侶には晒,追院,構が,庶民には過料,閉戸,手鎖が,婦人には剃髪,奴がそれぞれ課せられました.

 この『公事方御定書』は,厳密に形式に則って運用されることはありませんでした.
 但し,現在と違い,牢屋は懲役刑のための場ではありませんでした.
 自由を剥奪する刑罰は,基本的に自宅監禁が主であり,社会との隔離は追放によって達成されたからです.

 牢屋の機能は4つあります.
 第1の機能は未決拘禁所としての機能です.
 犯罪の嫌疑を掛けられた者は奉行所で簡単な取調を受け,その後,有罪の疑い有りとされると牢屋に入れられ,吟味されることになります.
 但し軽犯罪者については宿預,町村預とされたので,牢屋に入れられるのは重罪の者だけです.
 第2の機能は,有罪判決を受けた者を刑の執行まで拘置する場としての機能です.
 第3の機能は,無期禁錮である永牢,女性や15歳未満の者に対して敲刑の代わりに科す禁錮刑である過怠牢といった刑罰を執行する場としての機能.
 第4の機能は,入墨刑や一部の死刑執行の場,身体刑執行の場としての機能です.

 因みに,永牢は例外的な刑罰で,その適用は極めて制限されていましたし,過怠牢も30~50日程度の極めて短期間の禁錮刑でした.
 即ち,これらの牢屋の機能は,自由刑執行の場として想定されている現在の刑務所とは根本的に異なるものと言えます.
 尤も,江戸時代に自由刑が無かった訳ではありません.
 1790年2月19日に老中松平定信によって設けられた石川島人足寄場がその代表例であり,ここでは自由刑としての徒刑が行われていました.
 しかしこの場所は牢屋では無く,あくまでも人足寄場であり,刑事施設や牢屋だけが刑罰執行の場所では無かった訳です.

 先述の通り,江戸時代の刑罰は身分毎に異なっていました.
 死刑の運用も又然りです.

 庶民に対する死刑としては下手人が一番軽いものです.
 「下手人」と言っても,容疑者の事では無く,人殺しもしくは殺人を指揮した者に課せられる死刑のこと.
 江戸時代の死刑ですから受刑者は当然斬首ですが,下手人の刑に処せられた場合は,受刑者本人は首を斬られるものの,その死体が試し斬りに供されることは無く,受刑者の家屋敷や家財の没収と言った属刑は行われません.

 これが一段階重くなると死罪になります.
 これは斬首の後,受刑者の死体を試し斬りに用い,また受刑者の家屋敷や家財の没収も伴います.

 更に犯罪に悪質さが伴うと,斬首の前に処刑前に受刑者を馬に乗せ,紙幟に罪状を書き記し,江戸の場合は府内,そして犯罪者の住所地,犯罪のあった場所などで晒し者にする引廻しの刑も付加されました.

 死罪が一段階重くなると獄門.
 これは斬首の後,刑場に首を晒す刑罰です.

 なお,こうした庶民に対する下手人,死罪,引廻しの上の死罪,獄門の執行を担っていたのは,いずれも士分の者でした.

 士分の場合,一番軽い死刑は切腹です.
 切腹は自分で腹を斬った後,介錯人によって首を刎ねられる刑罰ですが,これが一番軽いとされたのは,介錯人の名を問うことが出来た為です.
 名のある武士に介錯して貰う事は,寧ろ名誉とされていました.

 これが一段階重くなると斬罪.
 これは庶民の死罪と同じ執行方法ですが,死罪が非公開なのに対し,斬罪は公開である事,そのしたいが試し斬りに用いられる事は無く,斬首の際に目隠しを施されないなどの違いがあります.

 この他,士分,庶民共通の死刑方法として磔があります.
 これは両者共に,江戸時代の死刑では最も重い刑とされていました.
 その理由は,執行人が士分では無く,下賤の者,所謂被差別民だった為です.
 つまり,死刑では執行される者の身分だけではなく,執行する者の身分も又問われていたのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/09/23 23:05
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 牢役人の職務について教えられたし.

 【回答】

 小伝馬町の牢屋は町奉行の支配に属していましたが,そこには俗に「牢屋奉行」と称する囚獄が配属されていました.
 この囚獄には,石出氏が代々石出帯刀を名乗って世襲していましたが,その職務は牢屋敷一切の監督取締であり,死刑,敲の執行,赦免や宥免の申し渡りに立ち会う事でした.
 因みに,これは現在の刑事訴訟法でも刑事施設の長若しくは代理人が死刑執行に立ち会うので,正に同じ職務と言えますが,これは死刑を自ら執行する訳ではありません.

 この囚獄の下に同心が配属されています.
 同心は欠員が出ると概ね組同心家族中から推挙されており,広く公募される職ではありませんでした.
 同心の職務は1716年の『本牢当番所法度書』で定められており,鎰役,小頭,世話役,打役,物書所詰,平番,物書役,賄役,勘定役と言った職務がありますが,この中で,打役が牢問,つまり笞打ち,石抱き,蝦責めと言う拷問や敲の打役を引き受ける他,遠島,入墨,死刑執行も司っていました.
 但し,この同心も,死刑に際して直接手を下す事はしていません.

 なお,打役同心は刑場の入口の警護をするだけで,実際の首討ちは,首討役同心と呼ばれる,町奉行同心の内,当番若同心が務めていました.
 『百箇条調書内々篇』には,
「死罪ハ申渡候上牢屋敷ニおゐて両御町組同心首を刎,死骸ハ取捨ニ相成」
とあり,他の資料にも,死罪は「首討役町同心討」とあります.

 斬罪でもこれは同じで,『御定書百箇条御仕置仕形之事』には,「於浅草品川両所之内,町奉行組同心斬之」とあり,『刑罪大秘録斬罪御仕置之事』には,「於評定所申渡,上下之儘羽がひ〆に致し,駕籠ニ乗せ,直ニ浅草御仕置場所江召連れ,目隠無之,染縄ニ而縛り候,羽がひ〆の儘,町方同心,首を討」とあります.
 また,『牢獄秘録』の打役の説明には,「拷問之時打役也,敲之時も打也」とあるだけで,死刑執行については特に書かれていません.

 要するに,斬首を伴う死刑執行は,牢役人では無く,町奉行同心によって行われていた訳です.

 牢屋には同心の他に下男,辻番,医師などがいましたが,日雇いとして非人も傭役していました.
 引廻しの上の獄門,磔,鋸挽き刑の執行の際には,数十名の非人が使役されていましたが,基本的に非人は死刑執行を担っていた訳では無く,罪人の身体に直接触れる作業を行っていました.
 例えば,死刑執行に際して受刑者を押さえつける等の役割です.
 但し,磔だけは例外的に非人が死刑執行を担っています.

 町奉行同心が行っていた死刑執行と,非人が行っていた死刑執行の大きな違いは,その道具です.
 『刑罪書』の磔御仕置仕法によれば,非人が磔の際に用いた道具は槍です.
 同書に因れば,槍は30回程突くとあり,斬首の場合のように一撃で首を落とす技術は必要とされていません.
 一方で,30回突くという死刑執行方法では,死刑囚の死に至るまでの苦痛の軽減は考慮されていません.
 しかも,身体のどの部位を突くのかについては取極めがあり,刑の終わりに漸く最初の突き手に命じて喉を左右から同時に突く「止めの槍」で完全に息を止めるやり方でした.
 とは言え,このやり方についても,特段の技術を必要とするものではありません.
 それが,何故,同心や他の下男などによって行われなかったのかと言えば,執行役が刑の軽重に影響したからに他なりません.

 良く,徳川政権の時代は,死刑を執行するのは非人ばかりと言う言説が学者から出て来たりして,それが一つの死刑廃止論の根拠になっていたりするのですが,実際には,斬罪の場合は士分の同心が担っていた訳で,非人が積極的に死刑執行を行っていた訳では無かったりします.

 ところで,代々麹町平河町に居を構えた山田朝右衛門,或いは山田浅右衛門と言う人物がいます.
 この人の生業は,刀の様斬りと鑑定であり,身分は浪人でした.
 様斬りとは,死罪に処せられた者の死体を用いて刀の切れ味を試す事でしたが,その内,死体を斬るなら首討ちもと言う事になり,死刑執行を兼務するようになりました.
 と言うのも,死刑執行役は先述の様に内当番若同心の役割でしたが,泰平の世が続くと柔弱になってきて,精神的苦痛と技術的困難から死刑執行を嫌がるようになったと言う事情があった為です.

 元々,斬首と言う死刑執行手法は,執行者が受刑者の身体に刀を直接接触させる行為であり,銃殺より抵抗感が強いものです.
 殺人への物理的距離が近ければ近い程,殺人への抵抗感は高まると言いますから,そう言う意味では,柔弱になった為とは一概には言えない面はありますが….

 余談ですが,1873年以降,死刑執行に用いられている絞架を用いた絞首では,執行者は受刑者の身体に物理的に接触しません.
 受刑者の首に縄を回す者は縄を回すだけで,それによって受刑者に物理的ダメージを与える事はありません.
 また,受刑者を所定の位置に直立させる者も,受刑者の身体に触れはしますが,矢張り受刑者との接触はありません.
 最後に機車柄を引く者も,矢張り受刑者との接触が有りません.
 そう言う意味では,絞首よりも斬首の方が精神的苦痛が大きいと言えます.

 また,首を斬るには相当な技術が必要です.
 例えば,三島由紀夫の割腹自殺の際,介錯を担当した森田必勝は,銘刀「関孫六」で三島の首を落とそうとしましたが2度失敗し,3度目の古賀浩靖の一太刀によってやっと首を離した位です.
 しかも,斬首の衝撃から「関孫六」は刃こぼれし,少し曲がってしまったと言います.
 これは刀が悪かった訳では無く,例えば,山田浅右衛門が使っていた刀は,70名以上の首を斬っても尚,毛程の傷も付かなかったと言います.
 つまり,山田浅右衛門の方が相当な技術を持っていたと言う事になります.

 首を斬る場合には,7つの骨で構成されている頸椎の内,第1椎骨と呼ばれる環椎部に刃を通す事が出来れば,余り骨に触れる事無く筋肉や腱を綺麗に切断出来ると言いますが,理論と実践には相当な乖離があります.

 で,斬首刑が決まると,首討役同心は礼金を支払って山田浅右衛門に首討ちを依頼し,その事を他の役人も黙許していました.
 良く,山田浅右衛門の事を,俗に「首切浅右衛門」と呼んでいますが,これは別に死刑執行を職業としている訳ではなく,庶民の付けた渾名です.

 先述の様に,磔を除けば,基本的に斬首は士分の者が行います.
 山田浅右衛門に依頼するのは,死体を斬るなら生きている死刑囚を斬るのも同じだろうという考えから生じています.
 勿論,死体と生者では,その技術や行為の意味する所まで違いますが,「斬る」と言う行為自体はどちらも同じで,人体に刀を通す事で刀の性能を試す意味も同じなのです.
 また,山田浅右衛門は浪人です.
 浪人というのは,身分が定まらないけれども,士分ですから,死罪・斬罪を担うのに相応しい立場にありました.

 この「斬る」行為と士分という身分,それに首を斬る確かな技術の3つの条件が揃った事で,山田浅右衛門は斬首の執行に従事する事になった訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/09/24 22:57
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 江戸時代の流刑者は,どんな罪を犯した人たちなのか?

 【回答】
 日本の流刑地と言うのは725年3月に定められたと言われています.
 その当時は,京都からの里程によって,遠流,中流,近流の3段階に分れていました.
 遠流と言うのは,伊豆,安房,常陸,佐渡,隠岐,土佐など日本の外れへの流刑を指し,中流は近流と遠流の中間になる信濃や伊予辺りになり,近流は越前とか安芸などちょっと都から遠いくらいの場所を指します.

 これは時代の変遷に伴って様々に変わっていきますが,交通が発達してくると,島である佐渡や隠岐は兎も角,他の地域では簡単に舞い戻ってしまう為,江戸期には余り陸続きの場所が選ばれることはなく,近流の地と言えば,大体,伊豆諸島となっていきます.
 しかし,伊豆大島,新島などの所謂伊豆七島では,交通機関の発達で年々拓けていき,本土に近く,島抜けなども容易に行える状態であり,また,島に移住した一般住民との軋轢などと言った弊害も出て来たことから,寛政期には流刑地を伊豆諸島の内の遠隔の地に限り,三宅島,新島,八丈島の3島だけと定められました.
 但し,幕末になると専らこうした流罪人は,黒船来航など多事多難な折,伊豆諸島に送るのが難しくなり,専ら蝦夷地に送る様に変わっていきました.

 流罪に処せられる刑がどの様なものか,については,幕政初期は特に定められていません.
 しかし,それでは奉行達の裁量に任される事が多い為,処罰を一定にすることを目的に,1742年に『御定書百箇条』が編纂され,流刑に処すべき犯罪を指定しています.

 それには,
江戸十里四方内や御留場で鉄炮を所持していた者,
廻船の難船時に荷物を横領した者,
幼女との不義,
女犯の寺僧,
邪宗の教祖,信者で改宗しない者,彼等を泊めた者,
三笠付点者(雑俳笠付の一種だが,賭事の種にもなった)と,その胴元に場所提供者(1726年には極刑に格上げ),
博奕打とその場所提供者,
取除無尽頭取とその場所提供者(1716年極刑に格上げ),
武家屋敷での博打打ち,
手目(いかさま)博打,
殺人を自首した者で情状を酌量すべき者,
実子や養子を短慮で殺した者,
指図を受けて殺人をした者,
殺人幇助をした者,
相手から不法の儀を仕掛けられ,是非無く刃傷に及んで殺人をした者,
渡船の水主で渡航の際に溺死者を出した者,
殺人で死者が出たのにそれを届け出なかった者,
口論の上で人を傷つけて再起不能にした者,
車(大八車や牛車)で人をはねて怪我をさせた者,
過失で弓矢鉄炮を放って殺人を犯した者で,過ちに間違いなく,且つ,被害者の親族が諾をした場合,
15歳以下で殺人を犯した者,
幼年で放火した者,
島で再犯した者で,且つその犯罪が重罪では無い者,
島抜け者(は基本その島で死罪),
辻番所で博打をした万人,
御仕置になった者の倅で遠島を申しつけられた者
となっています.

 因みに,15歳以下で遠島になる犯罪を犯した者の場合は,15歳まで親戚筋に預けられ,その後に遠島となりましたし,御仕置になった者の倅で遠島を申しつけられた者は,同じく15歳まで親戚筋に預けられ,その後,出家したい場合は,その出家を認める事で赦免することがありましたし,盲人の場合は親類に預けられ,居村の外,猥りに徘徊させないことで遠島を免れることもありました.

 また,御目見以上の流人や女流人は,船中別囲いで仕切ることを認めています.
 当然のことですが,遠島となった場合,田畑,家,屋敷,家財は闕所となりました.

 1600~1740年代までは,八丈島の流人は,比較的政治犯の類が多かったのですが,以後は女犯や賭博と言った犯罪者が多くなって,流人の質がぐんと低下して行っています.

 因みに,幕末期の八丈島流人の内訳はこうなっています.
1823年~1840年
  殺人(5) 盗賊(2) 詐欺(5) 喧嘩(13) 放火(11) 逃去(14) 賭博(44) 女犯(19) 他(21)
1841年~1851年
  殺人(0) 盗賊(2) 詐欺(5) 喧嘩(12) 放火(12) 逃去(2) 賭博(82) 女犯(47) 他(40)

眠い人 ◆gQikaJHtf2, 2009/05/30 22:12
青文字:加筆改修部分

(作・ミリグラム)


 【質問】
 江戸時代,流刑者が島に実際に渡るまでの段取りを教えられたし.

 【回答】
 遠島を申しつけられた者は,獄舎で島送りの日が来るのを待っています.
 いよいよ出帆日が決まると,流刑者で江戸に親戚のある者は,町奉行からその親戚に通知があり,前日までに届物が許されます.

 良く時代劇で流人舟を見ていると,流人だけが乗せられる様な印象を受けますが,流人に対する届物として,1人当り以下のものが認められていました.

 先ずは当座の食糧として米俵20俵まで(更にこの他に麦5俵),生活を得るまでの手当として銭20貫文(金だと20両まで),僧侶の場合は法衣,雨傘,木履(ぽっくり),煙筒(木と竹の管は除去)などです.
 一方で,刃物,書物,火道具の類は許されませんでした.

 江戸に親類縁者が無く,また,届物が無い場合は,御上から雑人(一般囚)1人に付き金2分,揚屋者(御家人とか大名,旗本の家臣,僧侶,医師,山伏)の場合は金1両,揚座敷者(500石未満の旗本)の場合は,金2両が支給されます.
 この手当金で買物を希望する場合は,1人当り400文の範囲まで可能となっていました.

 出帆前日には,牢屋見廻りが牢屋敷に行き,詰所前に莚を敷いて流人一同を呼び出して,手鎖,腰縄で下男が引率して来て,市中の髪結いに掛からせ,それが終わると,囚獄,鎰役及び医師が縁側に控えて,明日の出帆と島割帳,身寄りの届物,前述の手当などを与え,申し渡しをして,牢内で服用した薬や膏薬などを医師から交付します.
 つまり,医療面からの配慮も一応は為されていた訳です.

 そして,出帆の朝.

 囚人を牢屋前に引き出し,武家や出家は駕籠にて,雑人は持駕籠に乗せ,揚屋以上は羽交い締めにして青細引で縛り,物品や所持品は叺に入れて木札を附けておきます.
 準備が終わると,両奉行出役与力その他一同が立会い,鎰役が出牢証文にて罪囚を改め,出役与力に渡します.
 こうして,牢屋の裏門から伊豆代官手附の者に引き渡されて,船手番所の船手頭の手によって水手同心2~3名付き添いで三宅島へ渡ることになります.

 但し,直行する訳ではなく,出帆後品川沖で風待ちし,浦賀番所に船を留め,「七十五尋触れかかり」と言って,罪人送りの投錨箇所から75尋以内の他船の投錨を禁止して,流人改めを行いました.

 島送りの御用船は永代橋,万年橋,霊岸島の3箇所から順番に,年に春秋の2回,1隻ずつ送られることになっていました.
 その御用船は,三宅島,新島の両島が扱う500石程度の船で,船頭と水主が合せて8名ほど乗組んでいます.
 その中には櫓の前方に長さ3間,横幅6尺,高さ4尺の船牢があり,流人達は其所に入れられました.
 尤も,女流人や御目見以上の士は別囲にされましたが….

 流人改めの後,順風を待って下田,網代,洲崎方面に向い,新島,式根島を経て三宅島に渡ります.
 此処で初めて船手役人から三宅島島役所に引き渡され,その責任に於て,順風を待って,更に最終の流刑地である八丈島へと送られていきましたが,実はそのまま直ぐに八丈島に渡る訳ではなく,春船の流人は秋船で,秋船の流人は春船で送られる定めになっており,この間に相当数の死亡者や脱走者,島滞在中に所持品の殆どを失って生活に困窮するケースが度々出て,「流罪人渡島始末之請書」として,三宅島での風待ちを止めて欲しいと言う嘆願が流人側から出されるまでになっています.

 この三宅島の流人に対する仕打ちがどんなものかと言えば,その「流罪人渡島始末之請書」にはこうあります.

――――――
 御用船から放り出された流人達は,生活の仕様が分からないので,三宅島の流人頭なるものの世話になったのですが,先ず,彼等の荷物を流罪人の逗留場所に運ぶ事になります.
 俵物は1俵に付き運賃銭200文,味噌1樽運賃400文,風呂敷包1包運賃100文,足中草履1足運賃64文…まぁ篦棒な値段を吹っかけられます.
 その後,3~4日後に村割りによって滞在場所に落ち着くまでも費用が取られます.
 朝夕飯料が1日に付き1人前銭200文,湯銭として入浴料1日辺り200文,寝場所の支払いは1人前2朱,流人頭への付け届けが1人前金2分2朱….
――――――

 こんな感じで持たされた金額や荷物は悉く消滅し,八丈島に渡る時分にはスッカラカンになってしまう訳です.

 因みに,途中で船が難破をした場合は,流人が生き残っていれば,船が修理出来るのなら船を修理,完全に破船した場合は再び船を派遣して,島への渡航を継続しますし,行方知れずになった場合は,浦触として人相書を回すと共に,親戚など立ち寄り先に連絡し,戻ってきた場合は奉行に届け出る様に申しつけます.
 また,船中にて死亡した場合は番人に見分させて,死骸を片付ける様にしていました.

 風待ちが終わると,いよいよ三宅島から八丈島へと出立します.

 八丈島に船が着くと,地役人と五ヶ村名主,小役人立合にて浜辺で証文に引き合わせ,流人を初めて請取り,抽籤で五ヶ村に流人を割当て,村役人へと引き渡されます.
 流人は此処で,五人組百姓の組合に引き取られますが,後日,この組頭に伴われて陣屋に出頭し,島の御法度を申し渡されると共に,どんな仕事が出来るかを問われ,島の様子などを説明されて,最後に科書を提出して帰り,やっと島での生活が始まる事になります.

 その後は,「当人勝手に渡世すべき事」が原則なので,流人の才能や技能に応じて暮らしていく訳です.
 上手くいけば赦免が為されるかも知れませんし….

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/05/31 19:55


 【質問】
 八丈島に流された流人の暮らしぶりについて教えられたし.

 【回答】
 さて,八丈島に流された流人は,「当人勝手次第に渡世すべき事」と言う訳で,自分達の自己責任において生業を見つけ,暮らしていく事とされていました.
 しかし,秀忠から家綱の代までは,宇喜多秀家や御家人,陪臣と言った高位な人々が送られただけでしたが,綱吉から以降になると,町人や無宿人と言った所謂再犯者など刑法的な重罪人も送られる様になりました.

 従って,もし島で再犯をした者をどう扱うか,明確には規定されておらず,定まった牢屋も刑場もなく,ただ地役人の独自決定により死罪を決定していると言う幕府体制の慮外状態に置かれていました.
 本来,死罪と言うものは,奉行の一存でも決められず,老中裁可の上でやっとこ決まるものだった訳ですが,そこは遠隔地である島のこと,そうした手続きなどは端から無視していたと言うことになります.

 その死罪にしても,表向きは八丈島民の風習を尊重して,執行役として八丈島に住む百姓を臨時的に雇用し,血を見ないで済む突き落としの刑を行っている事になっていました.
 ただ,実際には島抜けに成功した佐原の喜三郎が著した『朝日逆島記』には,斧で首チョンパする刑とか,罪人の首に縄を付けて,両方から多人数で引っ張る縛り首と言った刑が描かれており,記録と実態には乖離があるようです.

 とは言え,1732年に宇右衛門なる者が,三根村底土と言う場所で突き落としの刑に処せられて以来,その場所が宇右衛門ヶ嶽と言われるようになり,以後の死刑はこの地で行われる様になった様です.
 「八丈島年暦」に「於底土死罪」とあるのはその場所での死刑執行を現わしているものと考えられています.

 吉宗の代以降になると,全国的に法治主義による統治が求められる様になり,1799年に代官に赴任した三河口太忠は,代官の命令無く罪を決定することを厳禁するとした触れを出し,八丈島の異常状態を否定します.
 ただ,流人が悪事を為しても,地役人達で適当に処分してしまい,後で行方不明とか病死と言った事にしてしまい,それを代官に届け出てしまえば,事済みになってしまいます.
 こうした事を称して,八丈島では「流人の命は紙一枚」と言われた訳です.

 享保以後は,それなりに法治主義が浸透し,無闇矢鱈に死刑が乱発されることはなくなりました.
 しかし,死刑を免れたと言っても,その場合の措置は,別の島に再遠島となりました.
 その場合は,罪の程度により八丈島より更に遠い青ヶ島であったり,小島だったり,伊豆諸島の御蔵島だったり,新島だったりします.
 当然,再遠島になると,赦免が遠ざかる訳です.

 赦免と言えば,昨日取上げた浮田家の赦免がありますが,浮田一族の赦免は,朝政御一新を言祝いで1868年正月15日以前の流人に対し,行われたものです.
 ところが,御一新の混乱に依るものか分からないのですが,この条件に該当しながら,なお30余名がその赦免から漏れてしまったりします.
 その30余名の中には,択捉探検で名を馳せた旗本近藤重蔵の長子である近藤富蔵も含まれていました.

 余談序でに近藤富蔵と言う人は,父である近藤重蔵が目黒に別荘を造ったのに,隣家の百姓塚越半之助と地所争いを起こし,ほとほと手を焼いていた事を聞き,何とか先方と交渉をしようとしたところ,半之助は博徒上がりで,素直にものを聞く相手でないことを知り,遂に1826年に半之助一家7人を皆殺しにしてしまったのが原因で島流しとなりました.
 近藤重蔵家は御目見以上の旗本ですから,通常ならこれは斬捨て御免で済まされるところだったのですが,重蔵は敵を作りやすい性格で,折りあらば彼を失脚させようとした人々が多数いた事から,事が大きくなり,重蔵は蟄居となり,大溝の分部左京亮光実に預けとなり,そこで客死し,富蔵は遠島となりました.

 島に渡ってからは,7人斬りを後悔し,一生殺生を厳禁して虱までも殺さないと言う懺悔の生活に入り,仏像を刻み,位牌入れを造り,絵を描き,石垣を築き,旧家の系図を整理し,経師やら畳屋まで様々な仕事をして食いつなぐ一方で,和歌,俳句を嗜み,旧家の古文書を漁り,島民の教育啓蒙に尽力すると共に,八丈島の地誌である『八丈実記』全69巻を編纂しています.
 残念ながら,この69巻の内,東京府が29巻を買上げ,現在も都公文書館に保管されていますが,残り40巻は八丈島に返された後,現在は行方不明となっています.
 この『八丈実記』は,八丈島の有りと有らゆる事項について書き留められており,この残部29巻を読まずに八丈島研究を行えないと言われる程の労作となっています.

 結局,彼が赦免されたのは1880年2月27日の事でした.

 因みに,明治に入っても新政府は流罪と言う制度を踏襲し,1871年迄八丈島へ流人を送り続けています.
 その罪人が全員赦免されたのは,実に1881年の事になります.

 八丈島にある,浮田家の菩提寺でもある宗福寺が大賀郷大里にあった時分,その境内の一角に墓があり,2株の蘇鉄が植えられていました.
 此の墓は,1747年に無実の罪で流された慈運法院を葬ったものです.

 慈運は,東叡山末寺で,糀町竜眼寺の別当にあった僧ですが,無実の罪に陥れられ,八丈島に流されました.
 その後も,慈運は執拗に身の潔白を叫んでいましたが許されず,1754年,断食して遂に衰弱し,5月17日に修羅の悪鬼となって他界しました.
 慈運死去の際,彼の魂が小児の様な姿となって,庭の松の木に昇り,其所から国地へ向けて飛び去ったのを多数の人が見たと言われ,またその時刻に彼を無実の罪に陥れた人が,正体不明の者に殺害されたとも伝えられています.
 …信じるか信じないかはあなた次第(笑.

 その後,彼の墓の近くには大きな蘇鉄の木が2本植えられており,その花が咲けば必ず赦免があると信じられていました.

 彼が死んでから,何回となくこの蘇鉄に花が咲き,その都度赦免の知らせが八丈島に届いた為,誰彼とも無く,この蘇鉄に咲く花の事を「赦免花」と呼ぶ様になったそうで,この赦免花が咲くと,流人にとっては限りない瑞兆であるとされていたそうです.

 死刑になるも,赦免になるも紙切れ一枚な訳で,その扱いは天と地ほども違ったのですね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/06/02 22:12

 さて,八丈島で暮らすのは,毎回書いていますが,「当人勝手次第に渡世すべき事」が基本でした.
 一番最初に島に来た浮田流人は別格として,それ以外の流人は,抽籤で村割が決まれば,預かった村々では,農家五人組で9尺2間の小屋を造ってくれ,彼等と一緒に働きさえすれば,何とか露命が繋げる様に取り計らってくれました.
 元禄期までは,流人と言っても比較的身分の高い者が多く,島役所の取締りも格別罪人扱いすることもしませんでしたし,島民も国人或いは国奴(何れもクンヌと読み,これは内地人と言う意味で,尊敬の意も含まれている)と呼び,親しく交際しました.
 流人が島民からズニン(流人)と呼ばれて軽蔑される様な存在に成るのは,享保以降,流人に下級階層が増えてきて質が低下してからの事です.

 何しろ,現在と違って,八丈島は当時は絶海の孤島です.
 船は半年に一度しか通いませんから,島に流された人々と言うのは,身分も高く教育もある人々でもあったことから,島では最新の知識を持っている人々であり,島民にとっては,江戸の様子や国々の事情が聞ける珍客と言う扱いでもありました.
 島民は度々流人達を読んで,内地の話を聞き,江戸の流行歌や踊りなどを舞わせたりして楽しんだので,そうした方面に教養のある流人達は,何もせずブラブラ過ごす事も出来たそうです.
 宇喜多秀家も,扇を持って舞奏でたそうな.
 因みに,1737年に佐野新蔵と言う御家人が徒党を組んで島の陣屋を乗っ取って,大規模な島抜けを企てた事が発覚するまで,武家の流罪人は帯刀すら許されていたりします.

 現在でも,八丈島の盆踊唄には内地の色々な地方色が織り交ぜられていたり,元禄以前の小唄を窺うことも出来る事から,流人が齎した文化が,色濃く残っている訳です.
 八丈節の歌詞にはこう歌われています.

「沖で見た時ゃ 鬼島と見たが 来て見りゃ八丈は 情島」

 正に,教養がある人から見れば,流罪人の別荘と言うべき地だったと言えましょう.
 …但し,これは飢饉が起ってない限りと言う但し書きが付くのですが….

 平穏な時期であれば,流人の生活は可成り暮らしよく,流刑地の内でも大島,三宅島に次いで暮らしよい島と言われていました.
 因みにワーストは,利島,神津島,御蔵島だそうです.

 これが一度飢饉になると,自給自足が出来ない島では文字通り命取りになってしまいます.
 従って,流人が少しでも暮らしよくするには,平素よく働き,常に他の農民と交わっておくことであり,もう一つは内地の親戚縁者から品物を届けて貰うことでした.

 内地との便船は,当初700石積の官船が2隻(幕末近くには700石積1隻を350石積2隻にしたので,都合3隻となった)あって,この船が江戸に出帆することが決まると,流人はそれぞれ親戚縁者に書状を書き,それをこの船に託したのです.
 幾ら自由とは言え,書状は島役所の厳重な検閲により改められ,余計なことは書けませんでした.

 一方,内地の親戚縁者から流人へ通信し,品物を送達する為には,伊豆国代官(島支配代官)の許可を得て,その便船に依頼しなければなりません.
 書状は披状,送り届ける品物は見届物と呼ばれました.
 浮田一族へは,隔年毎に加賀前田家から絶えず品物が送られていましたが,これは例外で,一般の流人は,公然と願い出たもの以外は送付出来ませんでした.
 この披状,見届物が到着すると,世話役人,神主,名主,年寄立合いの上でこれを村役人に渡し,流人達は品物や書状を受け取ると請取印を押して村役人に渡し,村役人はそれを島役所に届ける手続きが要りました.

 ただ,折角便船が来ても,その期間の長さからすれば,食料品を送る者は余りおらず,布地や半紙,金子と言った嵩張らないものが殆どだったようです.

 ところで,流人には付添人や子供の随従は認められていましたが,妻の渡島は認められていませんでした.
 従って,流人は炊事洗濯を一人で行わなければなりませんでした.
 しかし,幸か不幸か,八丈島はまた別名を「女護島」と呼び,女性の人口が男性を上回っており,また島の女性は,新人好みとも呼ばれて,外来者への好意の寄せ方も深いものがあったと言います.
 ですから,島の女童(大島のアンコと同義,娘のこと)は,男性流人の現地妻となる者もまた多かった様です.

 彼女たちのことを,俗に「水汲女」と呼んでいます.
 但し,浮田一族のそれは,「機織女」と名乗っており,これは宗福寺,長楽寺の寺僧が浄土宗であるにも関わらず,島にあるという特殊事情,子孫を絶やさないと言う理由から妻帯が許されており,これを機織女と呼んでいたものを援用したものの様です.

 島の人々は特に問題視することもなく,普通に夫婦生活が営まれていました.
 これが規制されたのは1777年の御条目御請書の時ただ一度だけで,理由は食糧事情の悪化というのが名目でした…ただ,この規制は島の為政者の無能ぶりを示した愚策で,特にこの禁止令で水汲女が減ったかと言えばそうでもなかったりして,どんどん有名無実化したのでした.

 ただ,島の女が恐れていたのは,その流人に御赦免が来る事でした.
 夫は当然赦免で本土に帰れますが,現地妻である水汲女と一緒に帰れるか,それは極めて微妙な事になります.
 夫が赦免されても八丈で生きていくことを選択するか,一緒に連れて行くことを選択すればそれは水汲女にとっては幸運ですが,妻子を残して帰国したり,子供だけを連れ帰る,あるいは男または女の子供だけを連れ帰る事は,水汲女にとっては非常に辛い選択となりました.

 こたび島を出行くに水汲ひとりあとに残りければ
 うち絶えて 鳴く友なしの島千鳥 我がまつま帆の浦に通へよ
                                 ~箕浦八郎右衛門義比が詠める~

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/06/03 22:46


 【質問】
 八丈島からの島抜けの例を教えられたし.

 【回答】
 良く,時代劇なんかで島抜けをする流人の姿が描かれますが,八丈島でも当然抜舟と言って,八丈島を抜け出すことを計画する流人もいないではありませんでした.
 抜舟の最初は,1722年に行われた神田三河町の与兵衛と橋本町無宿の万之助で,彼等は1721年に同じ船で流罪に処せられ,大賀郷に配流となりましたが,語らって大賀郷から菊池左門の漁船を盗んだものです.

 しかし,八丈島と御蔵島の間には黒瀬川,即ち黒潮の本流が流れており,これを抜けるのが困難でした.
 この為,抜舟が発覚しても,途中で力尽きて行方知れずになったり,追手に迫られて溺死したり,射殺されたりと殆どが失敗に終わっています.
 先ほどの与兵衛と万之助も,舟を盗んだまでは分かっていますが,以後は行方知れずになっています.

 本土に渡っても,結果的に捕まってしまって逃げおおせた者もいません.

 最も成功した抜舟としては,1838年7月3日未明に実行された,元料理屋の佐原喜三郎と元遊女花鳥一味のものがあります.
 喜三郎は,父親が本百姓,母親は酒造業の娘と恵まれた家庭に生まれ,江戸に出て浅草茅町の普化宗一月寺の老僧の指導を受け,相当な教養人でした.

 また,喜三郎は,当時門外不出とされた伊能忠敬作成の『伊豆七島実測図』を見て覚えていたと思われます.
 と言うのも,後に島抜け後に再捕縛され,牢に入れられていた時に著した『朝日逆島記』に,伊豆七島を含む伊勢から鹿島灘への略図を正確に描いているからです.
 これは,1828年2月12日に伊能忠敬の長孫である伊能忠誨が没して,伊能忠敬の嫡流家が断絶した際,後継者を選ぶのに御家騒動が起き,その際に忠敬地図が離散したことが挙げられます.
 当時,修行中だった喜三郎は,何処かの場所で,それを見たのかも知れません.

 佐原村に帰ってからは本百姓の傍ら,料理屋を経営していましたが,賭場胴取の科で1836年10月に配流されました.
 元々,計数にも長けていたので,こうしたもので副収入を稼いでのでしょうか.
 配流の後,中之郷村に配属され,朝日象限と名乗って虚無僧になりすましていた様です.

 その後,樫立村の山頂に気象観測所を設け,周辺の潮流や気象を観測し始めます.
 既に一介の博徒ではありませんな.
 また,料理屋を営んでいただけあって,美声で新内の名手でもあって,女性にも人気がありました.
 その中に,新吉原の遊女花鳥がいました.
 花鳥は,1828年に付け火の科で配流されたもので,配流当時は15歳.
 僻地である八丈島に送られてきた新吉原の遊女ですから,垂涎の的だった様です.
 そんなある日,24歳の花鳥は同じ新内を通じて,喜三郎と知り合います.
 2人は忽ち恋に落ち,何時しか一緒に生活する様になりました.

 ところで,喜三郎がいつから抜舟を計画したのかは不明ですが,気象観測所を開設するなど,事前に相当な準備があったことが伺えます.

 そして,喜三郎は花鳥の他に慎重に仲間を集めました.
 大賀郷の流人である佐原近くの香取郡大倉村出身で賭場胴取の科で同じ船で送られた無宿茂八,これも博打胴取の科で同じ船で送られた上総山武郡大網村出身の無宿常太郎,賭博の科で1837年配流となった上吉田村の無宿久兵衛,博打胴元の科で1832年に配流となった村上村出身の無宿万吉,木更津村出身で博打の科で1827年に配流となった百姓久兵衛の7名です.

 7月2日,順風が吹き出しました.
 順風は黒潮乗り切りに不可欠ですから,喜三郎は翌日を決行日と定め,先ずは樫立村の無宿万吉と百姓久兵衛を呼び出し,喜三郎の住む中之郷村の寓居で,白米5升を炊き結びとし,糒1升,鰹節200本を大賀村の無宿茂八に持たせて,夜5つ時(午後8時頃)に寓居を出発,末吉村の同志を誘い,山越えして三津根村に出て浜辺に達し,帆柱2本の船と,蓆帆,舵2梃,櫂8梃,手縄と真水を竹筒に入れ,明け4つ時(午前4時)に三根浜を出発します.

 7月4日の7つ時分まで順風に任せて,凡そ80里を黒潮を乗り越えて,大島と三宅島の間に来た際に,天候が急変,5日の4つ時分まで翻弄されています.
 そして,間もなく南の方からは大風が来て帆柱を打ち折り,難船状態に成りました.
 此の風は6日の8つ時分まで北の方に吹き流され,海上350里を乗り越えた結果,7月9日に陸地に到達.
 幸い人家があったので,其所へ助けを求め,遂に島抜けまでは成功した訳です.

 ただ,この7日の漂流の間に仲間は次々に死んだり行方不明になったりして,7名の仲間は喜三郎,花鳥,そして後1人の男だけになっていました.
 この最後の男だけは,とうとう捕まらなかったので,本当の意味で,唯一の島抜け成功者になりますが,記録が無く(当然,島抜け成功者とは声高に言わんでしょう),伝承からして無宿久兵衛ではないかと言われています.

 喜三郎一行が上陸したのは,常陸国鹿島郡荒野村(現在の茨城県鹿嶋市(旧大野村)荒野浜)ですが,喜三郎等が上陸した時には村の者はおらず,上総から漁場を転々として流れていた地引網漁の納屋の番人岩吉と言う者が,喜三郎達に味噌粥を与えて介抱しただけでした.
 7月12日,やっと歩ける様になった喜三郎と花鳥は,その納屋を飛び出し,鹿島の大船津から小舟に乗って徳島村に来て腹拵えをし,13日の夕方に喜三郎の生地である佐原村新田中川部落に辿り着いて,喜三郎の代貸しをしていた中川の彦兵衛家の際に小舟を係留して,其所を仮の住居とし,父親武右衛門等との再会を果たしています.

 7月22日に彦兵衛等子分に付き添われて,利根川を遡って,7月23日夜に江戸に入っています.
 此処で子分達が八方手を尽くして花鳥の両親を探し当て,浜町の花鳥の両親と再会を果たしました.
 流石に此処でも安穏としていられないので,普化宗一月寺の老僧を訪ねて相談した結果,長州下関の問屋で,父武右衛門の取引先でもあった宮崎屋利兵衛家に落ち延びることとなり,10月3日に,送別の杯を花鳥の両親宅で交わしている最中に,踏み込まれて再逮捕されました.

 そうして,花鳥の方は哀れにも1841年4月3日,遠山左衛門尉景元によって江戸市中引廻しの上,小塚原の刑場にて7代目山田浅右衛門によって斬首されています.
 享年27歳.
 因みに,首斬り浅右衛門として有名な山田浅右衛門は,晩年,山岡鉄太郎に対し,稲葉小僧新助と花鳥の処刑を首斬り生活での一生の不覚であったと語っているのは有名な話だったりします.

 一方,喜三郎は牢に繋がれましたが,既に八丈島からの島抜けを為した者として一目置かれ,東大牢では八丈喜三郎と名乗り,牢名主を勤めていました.
 それだけの勢望があったのか,1841年正月4日の小伝馬町牢獄での火災に際しては,3日間の切解が発令されましたが,喜三郎が牢名主を勤めていた東大牢では未帰還者はゼロでした.

 以後は真面目に牢での生活を勤め,1842年12月19日付の老中牧野備前守忠雅の差図書では,喜三郎の牢囚人の労病人手当,牢内取締,切解の時の帰牢等の功により,罪一等を減じられ,永牢となりました.
 また,喜三郎は,その牢名主としての生活では毎年800両のツル収入があったとされています.
 それだけ,人徳があったのでしょう.

 喜三郎は更に牢内での時間を利用して著作に励み,記憶のみで『朝日逆島記』を著して,寺社奉行,勘定奉行,南北両町奉行,火付盗賊取締役に提出しました.
 この文献は,当時の幕閣にも非常な感動を与え,1845年5月9日を以て,永牢から江戸十里四方追放で赦免となり,最終的に江戸深川富岡町の綿貫藤助(姪の夫)宅に身を寄せることになりましたが,その居候の八畳間が,全国の顔役からの出獄見舞品で一杯となったそうです.

 ただ,喜三郎は牢内で労病人手当をしていた為,自らも労咳を病み,出獄後僅か1ヶ月後の6月3日に病死しました.
 義兄の青柳甚兵衛と子分達は江戸で喜三郎を骨にして,佐原上宿の寺に葬ったそうです.

 喜三郎は,時々時代小説で取上げられますが,無頼の徒として扱われる事が殆どです.
 実際には,非常に稀なインテリやくざだった訳ですな.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/06/06 21:59


 【質問】
 江戸時代の八丈島の経済事情は?

 【回答】
 さて,八丈島に送られた流人は,様々な職業に就きました.
 また,元文期から本当の犯罪者の流入が増加する迄は,流人は一端の文化人として扱われており,様々なことを島民に伝えています.

 特に学識のある流人は,各村の書記である書役,島役所の陣屋での書記である大書役に就くことが多かったりします.
 彼等の採用は島民や島役人にとっても非常に便利であり,流人の利用方法としては最も妥当なものとして,1838年に代官羽倉外記がこれを禁じているにも関わらず,その命令は完全に無視されています.

 流人最初の書役は,1728年に配流された元御徒組の和田藤左衛門.
 藤左衛門は,樫立村預りでしたが,その博識を買われて,陣屋の大書役に任ぜられると共に,八丈島にある五つの村,小島,青ヶ島の書役も兼ねています.
 1753年12月11日に南京船が漂着した際には,乗組員総勢71名でその中に相当の学者や僧侶も混じっていたのですが,藤左衛門は彼等と筆談で用を弁じ,島人よりも彼等唐人からその博識を称賛されたと言います.
 結局,藤左衛門は赦免されることなく1769年に当地で没しますが,晩年は長楽寺に住み,島中の手習の師匠にしたと言われています.
 因みに,藤左衛門の功績は,甘藷を刻んでこれを乾かし,切干(きんぼし)と呼んで貯蔵食糧としたことです.
 その後,流人も島民も挙ってこの方法を習い,凶作の備えとして便利重宝なものとなっています.

 一方,兼務ではない流人最初の大書役は,1796年に配流された元小普請組の柳田鉞之助と言う人物です.
 八丈島において,大書役に就任するのは浮田家に次ぐ流人最高の名誉だったそうです.
 それだけ有能な人だった訳で,流人で大書役に就任した人は,以後12名を数えています.

 昨日も述べましたが,八丈島では貨幣の流通というのが1864年までありませんでした.
 1864年,長崎の公用船が漂着した際,金又は銀を6~7,000両散蒔いてから,島の現金取引が始まりました.

 それまで貨幣の代わりとなったのが,八丈島特産の紬(黄八丈)です.
 従って,島外との交易を行う場合は,米は金1両に付き何俵替としていても,更にこれを紬何反とかに換算せねばなりませんでした.

 また,枡の大きさも京枡とは違いました.
 京枡3升5合が島枡1合に換算されていますが,これは,紬1反が金1両であり,それを米に換算すると京枡4斗2升に当り,更にこれを八丈島の枡目で言えば,島枡1斗2升に当ります.
 で,これを島枡1升に換算すると,京枡3升5合となる訳です.

 こんな難しい方法で計算を行うのは,本土から来た流人達には大変で,これを改革したのが,常陸真壁郡の百姓で,賭博の科にて1827年に配流された鶴松と言う人でした.
 それまでの八丈島では,全ての交易諸支払いは,1ヶ年夏冬の2回でしたが,鶴松は金持の家からその時の相場で色々なものを買い,十四分之減六でこれを購ったそうです.
 これをサシガエ交易と言い,今までの夏冬の節季払いとは全く違う新しい方法で,島民は非常に便利になったと言われています.

 また,1828年に配流された火消役同心加藤稲五郎保道は,八丈島流罪当初は1銭の蓄えもなく,磯に出て漁でもしようとしていたところ,ある念仏者に出遭い,彼に影響を受けて釣り具を捨て,一向無上菩提を求める生活に入りました.
 ただ毎日念仏三昧の生活と言う訳ではなく,商業の心得もあったことから,島民の便を考え,為替手形の法を伝え,彼等に広めたと伝えられています.

 1847年6月,保道は赦免を受け,名を仁兵衛と改めて下谷山伏町にて米穀商を営みました.
 島での生活の所為か,その米穀商は誠実な商法で繁盛し,10年後には相当な財産を築くことが出来たそうです.
 そして,保道改め仁兵衛は,親しくしていた近藤富蔵に対し,米3俵,豌豆1俵,醤油1樽,大箱に中形木綿,半紙,刻み昆布,黒砂糖,氷蒟蒻,手拭地,黒線香,蘆窪茶,焼麩,干菓子,鬢付油,元結などを入れて,島で死に別れた水汲女を含めた人々の供養を盛大に行う様に依頼し,富蔵もまたこれを受けて,1857年8月3日から3日3晩,在島の流僧や念仏講中を集めて,盛大な供養会を行いました.
 これは念仏講が八丈島に広まって以来の供養会で,島民は挙って仁兵衛の善行を称したと言います.

 教育の分野では,刑部鞠獄司だった平川鉄蔵親義が1869年に流罪となり,末吉村預りとなりますが,1871年に長戸路敦行と語らって末吉夕学黌を開設し,子弟80有余名の教育に当りました.
 これは,八丈島の知識人に大いに刺激となり,三根村では近藤富蔵の肝煎で川平夕学館が開校され,他の3ヵ村にも夕学所を置くことになりました.
 末吉夕学黌は1872年,学制発布と同時に公立小学校となり,他の夕学所も1877年に公立小学校になっていました.

 他に,1847年に配流された上賀茂の社人で梅辻飛騨守規清は封鼠の法を教え,1843年に配流された上州高崎の無宿人蜂須賀寅蔵文敏は,八丈島に初めて暦算法を伝えています.
 ただ,折角伝えた暦算法ですが,八丈島では麦が収穫される5月を麦造,米や甘藷が収穫される10月を米造と言い,麦,米,甘藷を以て萬のものと交易し,麦造,米造,官船の出帆日を凡そ生活暦の目処としたので,誰も使う人がいなかったそうです.

 それにしても,無宿だからと言っても侮れませんね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/06/05 23:16


 【質問】
 江戸時代の八丈島の食糧事情は?

 【回答】
 八丈島に限らず,島というのは一般的に田畑が少ない土地柄だけに,島民の常食はかなりお粗末なものでした.
 弘化年間に流人鶴叟帰山の著した『やたけの寝覚草』と言う記録にはこうあります.

――――――
 平日の夫食はさつまいも,また,さつまの切干.夏は麦こがし.そのほか,あしたぐさ(あしたば)のたぐいなり.
 もっとも,両寺(宗福寺,長楽寺),神主,地役人,そのほか大家の主は年中米の飯を日用すれども,小前の人々は,ただ盆と正月と両度ばかり白米を食い,ふだんは一切これをば食することなし.
 ただし屋根がえ,そのほか普請の時などは,飯・酒をもって人の労を謝す.
――――――

 これは以前にも触れましたが,甘藷が導入されてからのことで,それ以前は朝と昼は里芋,夜食は粟や麦に野菜を混ぜた粥を作って食べていました.

 普段でもこんな状態ですから,一旦飢饉に襲われるや,それこそ地獄絵図が展開された訳です.
 恵まれた立場である宇喜多秀家ですら,臨終に際して,せめて米の飯を食べて死にたいと言ったそうですし,1681年6月21日,綱吉が親裁した越後高田三位中将松平越後守長家の御家騒動,所謂,越後騒動で一方の主犯格とされた永見大蔵は,飢饉に際して一粒の米を売ってくれる宛てもなく,徒に千両箱を枕にして餓死したと伝えられています.

 飢饉の年になると,流人は,金があっても穀物を買うことが出来ませんでした(因みに,八丈島の貨幣は黄八丈だったりする訳で).
 この為,野山に行って野草を求めるか,海岸に出て魚貝や海藻を採るなどの手段しか残されていません.
 故に,間違えて毒草を食べて死んだり,波に呑まれて溺死したりした人もかなりの数に上ったと言います.

 1834年の凶作の際は,八丈島と小島で合せて800名を越える餓死者を出しました.
 その様子を近藤富蔵は八丈実記にこう書いています.

――――――
 愚守真ハ,ソノ頃三根ノ救世堂ニアリシガ,二月十五日ニ,アシタババカリ一鍋食シテ甘味ナリ.
 同六月ニヤアリシ,日々朝暮ハ芋ガラヲ潮汐ニテ羹トシタルヲ食シ,中食ハ麦コガシヲ食セシガ,筋骨ユルミ,苦シキ故ニ,昼ヨリ休ミテ,僅カ十町ハナキ道ヲ,半日タドリカネテ,黄昏ニ大賀郷外稲葉ニヨウヨウ至リヌ.謫居ナル加藤氏,其ノ疲労ヲ驚キ,夕食ハ只今食シテ残リナシ,幸イ時ナラヌ初物アリトテ,サツマ芋ヲ一鍋モテナシテ,翌日ハ三度ノ米飯ニ魚ヲ添エテ食セシム.不思議ニモ筋骨モ人ノ如ク,其ノ夜ハマタタクウチニ三根村ノ宅ニ帰リヌ.
 此ノ年ノ事ナリキ.国船入船セシ処,米麦ノ類ハナク,稗籾バカリ積送ル.一俵ノ代金一両ニテ,コレヲ争ヒ求ムル人ハ多ク,穀ハ少ナシ.得ル者ハ稀ナリ.況ンヤ,半銭ノ蓄エナキ身ニオイテヲヤ.然ルニ,神主奥村氏,守真ヘ稗一俵ノ施シアリ.嬉シクシテコレヲ臼搗クニ,島バカリニテ,一升ノ本穀七合五勺ナシ.籾ノママ細末シテ青番椒ノ塩漬ヲ肴ニシテ好味トス.其ノ時ニ思慮シテ,モシ,秋米国熟ストモ,甘藷ノ外ハ望マジト観念ス.
 七月ニ至リテ牛ニ秣カウサツマ芋ノ葉ヲ一掬望ンデ珍肴トス.ホドナク甘藷一ツ二ツ貰イテ食セシ時ハ,天ノ甘露モカクヤトバカリヨロコビヌ.シカリト雖モ,凡情ノ悲シサ,喉モト過ギテ熱サハ忘レナド,再ビ稗ノ細末,一口モ喉ヲ通ラズ.
 又十月ニ至リテ,香米熟シテ,口中ニ入ルコト一タビスレバ,忽チ甘味ナリシ甘藷,二度トハ飽キテ,飯ニ魚ナケレバ口腹ニ満タズナドト,昨日今日ノ飢饉ニ必死ヲ遁レシヲ忘ル.天地ニ対シテ恥シキコトゾカシ.
――――――

 この時はこの程度で済みましたが,1836年の飢饉では,近藤富蔵自身,餓死一歩手前まで追い込まれています.

――――――
 天保七年丙申年,愚守真モ,茅屋ニ死ヲ待ツヨリハ,大家小児ニ素読ヲ教エテ,一飯ノ助成ニセントス.
 水汲女宇喜多氏ハ(近藤富蔵の水汲女は宇喜多家末裔のおいつと言う人だった),猶宅ニ五才ノ女子ト,二才ノ男子,己レトモ三人ノ露命ヲツナガントテ,山ニ登リ,野ニユキ,浜ニ走リテアサレドモ,人モ求ムレバ獲物ナシ.漸々ニ,二里バカリノ山奥ニヨジ登リテ,日々山桂(椨の事を八丈方言で「まだみ」と呼んでいた.),テフ(と言う)木ノ実ヲ拾ウコトニ,三合,コレヲ持チ帰リテ細末シ,餅ニナシ,我ガ身モ食シ,娘ニモ与ウ.
 殊ニ乳出ザレバ,二才ノ小児ニモ,コノアシキニオイアル,エガラキ餅ヲ与ウレドモ,小児ハ眼ニ見レド涙ニムセンデ少頃ハ口中ニハ入レズ.サレドモ,飢渇タエガタケレバ,是非ナク,後ニコレヲ食ス.其ノ苦シミヲスル小児ヨリ,コレヲ側ニテ見ル母ノ心ノ悲シサハ,ナニニカハタトウベキ.猶此ノ餅ヲ残シテ,夫ノ帰リヲ待ツココロボソサハ,イカナラン.斯クスルコト日々ナレバ,尋ヌベキ山モナク.身ハ疲レテ,終ニハ床ニウチ臥シヌレバ,女子ハセンカタナク枕モトニ泣キ,懐ノ小児ハ無心ニ,タダ乳ノ出ザルヲ泣キサケブ.母ノ心ハ活キタル心地モナク,頼ムベキ人モナシ.唯死ヲ待チテ,生キナガラ餓鬼道ノ苦患ヲ受ク.或ル夜,男,ワズカニ野郎ノ二寸ニタラヌ二片持チ帰リ与エテ,互ニ?々泣イテ,十方ニクレヌ.天命イマダ尽キズ.国地ノ船着岸シ,地役人ノ妻亀代,大麦二盃,島枡五合(京枡一升七合五勺ヲ施投アリ.守真妻,コレニ力ヲ得テ,疲労ノ身ヲ起コシテ,麦コガシトシ,親子四人,コレニ再生シテ喜ビケリ.
――――――

 この施しで何とか近藤富蔵も餓死の危機から救われたのです.
 そして,彼はこう筆を進めています.

――――――
 此ノ時節ハ,代物アリテモ交易ノ食物ナシ.或人ハ紬一端ニテ大麦一升(京枡三升五合)ヲ求メントテ,三根村ヨリ遙カノ深山幽谷ヲヘテ末吉村ニ至リ,終日尋ネテ,足ヲ空シウ帰リシホドノ困窮ナリキ.況ンヤ,貧人ハ一裂ノ絹モナシ.守真ガ水汲ハ勇気タクマシク,杖ニモスガラズ大賀郷ニ歩行,島枡五合(京枡一升七合五勺)ノ大麦ヲ得タリ.大イニ喜ンデ,稀有ノ命ヲ秋マデツナギシハ,今ココニ書スルサエ,胸セマリ,涙落ツ.

 守真モ人間ニアリテハ正齋老人(旗本近藤重蔵守重)実子惣領.禄ハ少ナケレドモ,財宝分ニ過ギ,美味ハ高貴ヲ欺キ,家宅モ美シカリシハ,其ノ頃ノ人ハ知ルトコロナリ.
 妻モ,実母ヨリ八丈丹後,国出シ年々二十端モアズカリ,自分モ紬少々ハ持チシ身ノ,夫婦トモ此ノ艱難ハ何事ゾヤ
――――――

 奥さんは名門宇喜多家,自らも旗本近藤家の御曹司であり,教養もあって島でも最高階級に近い人々であるのに,一度飢饉が来るとこうした悲惨な状況に陥った訳ですから,一般の流人なんかは推して知るべしと言う悲惨な状況にあったことは想像に難くありません.

 今の世の中,少なくとも毎日食べ物があることを考えると,非常に恵まれた環境にある訳ですね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/06/04 23:09


 【質問】
 江戸期くらいの敵討ちについて調べ物をしてて疑問に思ったのですが,決闘の届出をしたあとに,暗殺のような形で殺してしまう敵討ちというのはなかったのでしょうか?
 士道には反するような感じがしますが,とても効果的に思えます.
 特にレア・ケースとして,町民が敵討ちをする場合もあると聞いたのですが,その場合など弓矢の得意な者を雇って暗殺すれば,返り討ちに遭う可能性も低く,楽だったのではないかと思うのです.
 実際のところどうだったのか,わかる人がいたら教えてください.

 【回答】
 基本は暗殺とまではいかないにしろ,不意打ちよ.
 パターンとしては,いきなり背後に忍び寄り,
「どこそこの士,某である.○○の敵××,覚悟!」
とか何とか最小限の口上だけ述べて,振り向く前に有無を言わさず斬るの.
 時間を与えると逃げられるし,反撃されるし.
 別に正々堂々と立ち会う必要はないんだわ.
 とにかく本懐を遂げるのが最優先.

 ただし,人を雇ったりするのはダメ.
「誰それがやります」
と事前に届け出をした人間だけでやらないと.

日本史板,2009/08/07(金)
青文字:加筆改修部分

▼(えっと,時代や規模によっても違うのですが...)
 ただし 奇襲は認められるものの あまり卑怯な振る舞いはNGだったみたい.
 少なくとも周囲にあだ討ちだと認識させる必要はあり 大声で名乗りをあげないと ただの強盗なんかと勘違いされ あだ討ちに邪魔が入り 下手すると討手が捕らえられたり殺されたりします.
 だから通常は名乗りをあげ 人だかりを作って敵が逃げられぬようにし 役人関係の到着と見届けの上で勝負になったようです.

 あと 臨時の助太刀は割と多かったようです.
 特に討手が女子や若年のさいにはね.
 腕に覚えのある浪人にとっては 名をあげる絶好の機会ですから.

 とにかく仇討ちは 討手も大半が野垂れ死に.
 仇のほうも社会の底辺を逃げ回り 疲れきって 見つかったときは素直に討たれることも多かったようです.

 ソース:三田村鳶魚の著作など.

閻魔さくや in FAQ BBS,2010/2/19(金) 13:21
青文字:加筆改修部分

 あと,絶対のタブーが,仇のところに手下・奉公人として潜り込み,隙を狙う,という手段.
 形式上だけとはいえ,いっとき主従になるので,これでは主殺しになってしまう.
 敵討ちと認められないばかりか,罪人ですな.
 時代劇ではたまにあるけどね.

 町人についてはよく知らない.

日本史板,2009/08/07(金)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 大岡忠相は本当に名奉行だったのか?

 【回答】
 『大岡政談』についても,三方一両損,石地蔵吟味,花盗人,家賃裁判と言った話の元々は,『板倉政要』から持ってきたもので,でもって,その『板倉政要』の63の裁判例のうち,幾つかは中国の『棠陰比事』や『包公案』などが元になっていますし,『大岡政談』にしても,この中国の原典から引っ張ってきた話もあります.

 京都所司代を勤めた板倉勝重,重宗親子の名奉行としての活躍があり,その死後,庶民がこの2人に仮託して名奉行話を集大成して作られたのが,元禄期に成立した『板倉政要』.
 その後,名奉行として大岡忠相が出て,彼が死去すると,名奉行を伝える話は皆,『大岡政談』に集約され,大岡忠相が江戸町奉行の代表格になった訳で….
 とは言え,『大岡政談』の87話の中に,彼が町奉行の任に有った時の事件は,天一坊,白子屋お熊,直助権兵衛の3件で,天一坊事件を実際に裁いたのは,勘定奉行稲生政武であり,直助権兵衛事件は北町奉行中山時春の裁きで,大岡忠相が裁いたのは白子屋お熊の一件だけでした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/11/06 22:34


 【質問】
 大塩平八郎って誰?

 【回答】
 1793年生まれの,江戸時代後期の儒学者.
 父は大阪町奉行所与力(よりき)で大塩家は禄高200石の裕福な旗本だった。
 彼もまた,大坂町奉行所の与力を勤めていたが,1837年,武装蜂起.
 だが,乱は鎮圧され,大塩は逃亡後包囲されて自刃.
 その参加者もほとんど捕らえられ,多くが獄死した.

 しかし,この乱から2ヵ月後の4月には,広島三原で800人が「大塩門弟」を旗印に一揆を起こし,6月には越後柏崎で国学者の生田万(よろず)が「大塩門弟」を名乗って代官所や豪商を襲い(生田万の乱),7月には大阪北西部で山田屋大助ら2千人の農民が,「大塩味方」「大塩残党」と名乗って一揆を起こすなど,大塩に共鳴した者の一揆や反乱が,その後もしばらく続いた.
 幕府凋落を象徴する出来事として,後世には認識されている.

 【参考ページ】
http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic18.html
http://homepage2.nifty.com/bu-ra-ri/oosio-ran.htm
http://www.cwo.zaq.ne.jp/oshio-revolt-m/
http://burari2161.fc2web.com/oosioheihatirou.htm
http://y-hyouma.hp.infoseek.co.jp/history/oshio.html

【ぐんじさんぎょう】,2010/06/29 21:00
を加筆改修

▼ 大塩平八郎と云えば,幕府崩壊の狼煙火となるような 『大塩平八郎の乱』 の首謀者として歴史に名を刻む人物ですが,この人は元々大阪奉行所の与力でした.

 与力時代の大塩平八郎には二大功績と云うモノがあり,その一つが上司の汚職摘発であり,もう一つが隠れ切支丹の摘発です.

 ここで問題になるのが 『隠れ切支丹の摘発』 なのですが……

 この摘発が行われたのが,文政10年(1827).
 切支丹禁教令から200年近く経ち,大阪と云う人の出入りの激しい繁華な土地で切支丹が隠れていられるものなのでしょうか……

 さてさて,この隠れ切支丹摘発の発端となったのが,占いの礼金をめぐってのイザコザでした.
 占いを行っていたのは摂津国西成郡川崎村の 『さの』 と云う女で,怪しげな邪法をもって占いを行っていると嫌疑をかけられました.
 で,この占いを行っていた一団を捕縛したのが大塩平八郎でした.

 捕縛されたこの一団が,本当に切支丹かどうか疑問視されたものの,最終的には切支丹と判断され,さの,陰陽師豊田みつぎ以下6名が,市中引き回しの上獄門となり,京,大阪で65人が処罰されました.

 では,
   ∧_∧   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  (・(・・)・) <   この一団が本当に切支丹だったかと云うと……
  /JベタJ   \__________ 

 『稲荷明神下ケ』 と呼ばれていたこの一団の創始者,事件前に既に死亡していた水野軍記は禁書である 『天主実義』 や 『畸人十篇』 などの,中国人向けに書かれたキリスト教の解説書を読んでいたようなのです.
 水野はそこに書かれていたキリシタン用語を使って,自分の教義を展開していたようで,切支丹的なのは語句,表層的な部分のみであり,根幹的には加持祈祷や吉凶判断,呪術による病気治療や紛失物の発見等の,神道や稲荷信仰の影響が大きいものだったようなのです.

 つまりは,桃山期に布教されたキリスト教とは,完全なる別物の新興宗教だったワケなのです (w`;

 なのに,切支丹として処分か……

 でも,表層的には切支丹っぽいと云えば,切支丹っぽいんだよなぁ……

   ∧_∧   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  (・(・・)・U <   な,なんだかなぁ……
  /JベタJ   \__________

ベタ藤原 in mixi,2010年05月12日22:56

大塩平八郎肖像画
http://burari2161.fc2web.com/oosioheihatirou.htmより引用)

叛乱の図
http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic18.htmlより引用)

逮捕される大塩門弟
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 大塩平八郎の乱は,幕府崩壊の原因の一つと言えるでしょうか?

 【回答】
 原因の一つというよりは現象の一つ.
 商工業資本に農業資本が負けたわけだ.
 コップからあふれた水が大塩とか博徒横行で,コップが割れたのがその後の倒幕運動.
 タガがゆるめば色んな事件事象が出てくるよね.

日本史板,2007/11/15(木)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 遠山金四郎は本当に名奉行だったのか?

 【回答】
 元々北町奉行の任期は3年足らずであり,南町奉行の方が7年と結構長かったりするので,本来ならば南町奉行遠山金四郎になる訳ですが,丁度北町奉行の時は,水野忠邦と鳥居耀蔵のコンビが国政を牛耳っていたので,それと対立する形での遠山金四郎の存在が,庶民にとって有難い存在だったからかもしれません.
 しかも,1841年に,公事上聴と言って,将軍就任早々に吹上御庭で三奉行に実際に訴訟を裁かせ,上覧する儀式の中で,唯一上聴の2日後に将軍からのお褒めの言葉があったのもあり,生前から「名奉行」の名声がありました.

 その遠山金四郎の仕事については,『御仕置例類集』第5集(1840~1852年までの判例集)に収められていた筈ですが,この部は関東大震災で焼失してしまい,現在は残っていません.
 丁度,この第5集の時期は,遠山金四郎が北町奉行に就任し,南町奉行を辞任した時期に当ります.

 金さんと言えば,彫り物が有名ですが,この彫り物の話を記録したのは大坂の医者で,しかも江戸からの伝聞だったりします.
 この彫り物をしていた奉行としては,寧ろ随筆『耳嚢』を著わしたことで名高い,根岸鎮衛が江戸では有名でした.
 彼は,佐渡奉行として3年,勘定奉行として11年半,南町奉行を17年も勤め上げた能吏ですが,御家人出身で,その出自が判っておらず,腕に入れ墨をしていると言われていました.
 これだけ長くの奉行生活なので,大岡越前の後に名奉行と言えば,先ず彼を指しましたが,遠山金四郎が出て来たら,それらの逸話は何時しか,遠山金四郎に集約されていきます.
 とは言え,南町奉行与力見習として遠山金四郎晩年の2年間を共に過ごした佐々木長敬も,入れ墨が有ったことを書き残しているので,本当に入れ墨はしていたと思われますが,桜吹雪かどうかは定かではありません.

 明治に入った1883~1893年に掛けて一種の江戸ブームが起き,元軍艦奉行木村芥舟が1893年に書いた『黄梁一夢』で遠山金四郎の入れ墨は「左腕に花紋を黥する」との一文があり,更に遡ると,1893年に旧幕臣中根香亭が『史海』に発表した「帰雲史伝」での1頁程度の文が,余りに衝撃的だったので,これが元になって歌舞伎『遠山桜天保日記』が出来て人口に膾炙した訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/11/06 22:34


 【質問】
 史実の長谷川平蔵は,どのような人物だったのか?

 【回答】
 長谷川平蔵は一種世渡り上手で,田沼意次に取り入ったかと思えば,上手く立ち回って,田沼意次失脚後は松平定信によって火付盗賊改に任命された訳です.

 とは言え,胡麻擂りだけが能ではなく,長谷川平蔵が老中に差出した「御仕置伺」の中で大事なものとして判例となり,幕府の裁判記録である『御仕置例類集』の第1集(1771~1802年までの判例2,308件を収めたもの)のうち,201件,ほぼ10%は長谷川平蔵が下した御仕置でした.
 それだけ熱心に仕事をし,しかもきちんとした内容だった訳です.
 また,人足寄場と言う授産施設を作り上げたのも長谷川平蔵であり,彼は松平定信から米500俵,金500両を得て,これを開設し,翌年からは米300俵,金300両に削減されますが,長谷川平蔵自身は,私的に銭相場で稼ぎ,その稼ぎを私することなく,人足寄場に注ぎ込んでいたりしています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/11/06 22:34


 【質問】
 鬼平犯科帳の歴史を,3行以上で教えてください.

 【回答】
 「オール讀物」1967年12月号に,長谷川平蔵が登場する単発物として「浅草・御厩河岸」が発表されたのが,その始まり.
 この評判が良かったため,次号から連載となった.

 1969.10.7,『鬼平犯科帳』テレビドラマ化開始.
 いわゆる『鬼平犯科帳 '69』および『新・鬼平犯科帳』(『鬼平犯科帳'71』)は,主演を八代目・松本幸四郎(松本白鸚)が務め,1972.3.30までNETテレビ(現・テレビ朝日)にて放送された.
 作品を書くにあたって池波正太郎がイメージしていたのが,この八代目・松本幸四郎だったという.
 他に,「七人の侍」にて槍侍・七郎次を演じた加東大介が岸井左馬之助役を,また,第1シリーズでは粂八を牟田悌三が演じた.

 1975.4.2~9.24にNETテレビ(現・テレビ朝日)で放送された,いわゆる『鬼平犯科帳 '75』では,主演は丹波哲郎.
 丹波は『Gメン '75』と同時期に主演していたことになる.
 キャスト表には
おまさ:野際陽子
木村忠吾:古今亭志ん朝
岸井左馬之助:田村高廣
といった名が見える.
 木村忠吾=古今亭志ん朝は,松本幸四郎版から同じキャスティング.

 1980年4月~1982年10月にテレビ朝日で放送された,いわゆる『鬼平犯科帳'80』,『鬼平犯科帳'81』,『鬼平犯科帳'82』では,主演は萬屋錦之介.
 他のキャストは
佐嶋忠介:高松英郎(第1・第2シリーズ)
密偵相模の彦十:植木等(第1・第2シリーズ)
伊三次:堺左千夫
高萩の捨五郎:西村晃(第2シリーズ)
岸井左馬之助:田村高廣(第3シリーズ)
井関録之助:田村高廣(第2シリーズ)
など.
 割と目まぐるしく変わっている.

 1989年7月からフジテレビで放送されているものは,主演は二代目・中村吉右衛門.
 中村吉右衛門は,松本幸四郎版では鬼平の息子の長谷川辰蔵を演じていた.
 主なキャストは
佐嶋忠介:高橋悦史
酒井祐助:勝野洋(第3シリーズ〜)
木村忠吾:尾美としのり
伊三次:三浦浩一
相模の彦十:三代目江戸家猫八
小房の粂八:蟹江敬三
おまさ:梶芽衣子
大滝の五郎蔵:綿引勝彦(第1シリーズ第21話〜)
長谷川久栄(平蔵の妻):多岐川裕美
など.
 相模の彦十=三代目江戸家猫八は,池波正太郎からイメージぴったりと言われたという.

 なお,史実の長谷川平蔵宣以は,寛政元年(1789年)4月には,関八州を荒らしまわっていた大盗,神道(真刀・神稲)徳次郎一味を一網打尽にし,寛政3年5月3日(1791.6.4)には,江戸市中で強盗及び婦女暴行を繰り返していた凶悪盗賊団の首領・葵(あおい)小僧を逮捕,斬首するなど,やはり非常に有能だった模様.

 【参考ページ】
http://homepage1.nifty.com/gorozo/index.htm
http://chuukyuu.info/who/

mixi, 2016.3.16


 【質問】
 江戸期くらいの敵討ちについて調べ物をしてて疑問に思ったのですが,決闘の届出をしたあとに,暗殺のような形で殺してしまう敵討ちというのはなかったのでしょうか?
 士道には反するような感じがしますが,とても効果的に思えます.
 特にレア・ケースとして,町民が敵討ちをする場合もあると聞いたのですが,その場合など弓矢の得意な者を雇って暗殺すれば,返り討ちに遭う可能性も低く,楽だったのではないかと思うのです.
 実際のところどうだったのか,わかる人がいたら教えてください.

 【回答】
 基本は暗殺とまではいかないにしろ,不意打ちよ.
 パターンとしては,いきなり背後に忍び寄り,
「どこそこの士,某である.○○の敵××,覚悟!」
とか何とか最小限の口上だけ述べて,振り向く前に有無を言わさず斬るの.
 時間を与えると逃げられるし,反撃されるし.
 別に正々堂々と立ち会う必要はないんだわ.
 とにかく本懐を遂げるのが最優先.

 ただし,人を雇ったりするのはダメ.
「誰それがやります」
と事前に届け出をした人間だけでやらないと.

日本史板,2009/08/07(金)
青文字:加筆改修部分

▼(えっと,時代や規模によっても違うのですが...)
 ただし 奇襲は認められるものの あまり卑怯な振る舞いはNGだったみたい.
 少なくとも周囲にあだ討ちだと認識させる必要はあり 大声で名乗りをあげないと ただの強盗なんかと勘違いされ あだ討ちに邪魔が入り 下手すると討手が捕らえられたり殺されたりします.
 だから通常は名乗りをあげ 人だかりを作って敵が逃げられぬようにし 役人関係の到着と見届けの上で勝負になったようです.

 あと 臨時の助太刀は割と多かったようです.
 特に討手が女子や若年のさいにはね.
 腕に覚えのある浪人にとっては 名をあげる絶好の機会ですから.

 とにかく仇討ちは 討手も大半が野垂れ死に.
 仇のほうも社会の底辺を逃げ回り 疲れきって 見つかったときは素直に討たれることも多かったようです.

 ソース:三田村鳶魚の著作など.

閻魔さくや in FAQ BBS,2010/2/19(金) 13:21
青文字:加筆改修部分

 あと,絶対のタブーが,仇のところに手下・奉公人として潜り込み,隙を狙う,という手段.
 形式上だけとはいえ,いっとき主従になるので,これでは主殺しになってしまう.
 敵討ちと認められないばかりか,罪人ですな.
 時代劇ではたまにあるけどね.

 町人についてはよく知らない.

日本史板,2009/08/07(金)
青文字:加筆改修部分


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