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◆◆◆飫肥(おび)伊東家
<◆◆諸藩事情
<◆江戸時代 目次
<戦史FAQ目次
『飫肥藩分限帳』 野田敏夫/校訂 日向文化談話会
1974年《昭和49年》12月3日)
『藩史総覧』 児玉幸多・北島正元/監修 新人物往来社 1977年
『別冊歴史読本 江戸三百藩 藩主総覧 歴代藩主でたどる藩政史』
新人物往来社 1977年
『大名の日本地図』 中嶋繁雄/著 文春新書
2003年
『江戸三00藩 バカ殿と名君 うちの殿さまは偉かった?』
八幡和郎/著 光文社新書 2004年
【質問】
飫肥伊東家の,地方自治組織について教えられたし.
【回答】
現在でもそうですが,地方自治体にはそれぞれ中心となる役場があり,規模の大きな自治体だと更に支所など出先機関が設置されます.
江戸期の飫肥伊東家でも,こうした機構は全く同じで,城内に総会役所があり,地方に出先機関を置いています.
ただ,現代の地方自治体と異なるのは,江戸には江戸屋敷と言うものがあり,当主が江戸に在府している場合は,こちらが本庁の役割を果たすことになる訳です.
また,城内では公的な事を取り扱う機関である「表向」と,当主とその家族の私的なことを扱う「奥向」の2つの機関が並立しています.
前者には,家老や相談中と呼ばれる10名内外の重役が重要事項を相談する「会所」と,その人達の仕事を支える事務方役人が詰める政治の執行部署である「総役所」があり,それに様々な機関が付属していました.
中でも,郡代に代表される中枢機関が「代官所」で,一般に財務会計部門の機能を持っています.
各役所の勤務は,役付に応じて月と日によって当番が決められます.
番日の勤務は,大方朝五ツ時(午前8時)から四ツ時(午前10時)に登城して,夕方六ツ半時(午後7時)までに帰宅すると言うものですが,宿直を課せられる場合もありました.
とは言え,きちっと出退勤時間が決められていた訳では無く,例えば,飫肥ではありませんが,高鍋秋月家の場合は,「諸役人は毎日四時(午前10時)より役所に相詰め,面々の職分に滞なきように相勤め,退出の刻限は用の多少により遅速あるべき事」としていました.
どこでも,大体午前10時までに出勤して,各々の業務をこなし,仕事が多ければ夜遅くまで仕事をすると言う,今のサラリーマンと同じ感じの勤務体系でした…謂わばフレックスですね.
ところが,1678年11月18日,飫肥城に時鐘が登場します.
佐土原島津家でも,同じ年に城内の弁天山に太鼓を置き,時を知らせるようになり,高鍋秋月家も1686年までには時報を打つようになっています.
時鐘の登場により,人々の生活は一定の時間の枠に嵌められることになったのです.
従来,フレックスで適当に近かった役人の出退勤時間も,日の出や日没に関わりなくなり,一定の時刻にと決まっていきましたし,病気などで欠勤する場合には,書面にして届け出るようになりました.
この様に飫肥でも,戦国期の遺風を脱して,内政に重点を置くようになりました.
ただ,1662年9月,飫肥領内は日向灘を震源とする大地震と,それに伴う大津波に見舞われました.
後世の試算ではこの地震のマグニチュードは7.6であり,相当大きな地震だったようです.
大津波によって,震源地に近い清武では,本田畑460町,高8,000石,死者15名,水没家屋56軒,海没家屋123軒,被災者2,398名と言う大損害を受けました.
これ以上に損害が出たのが,現在の宮崎空港南側から青島方面に向かうバイパスの左右に広がる田園地帯である,加江田川両岸地帯です.
現在の東北関東大震災と同じく,清武川・加江田川に沿って津波が北上し,大きな被害を受けました.
因みに,この地域にある供養碑はその被害を物語っているのですが,この供養碑は50年毎に建立されています.
人間一代50年とすると,50年経つと世代が変わりその被害は忘れられがちです.
供養碑は災害の教訓として,その損害を忘れるべきでは無いと言う先人達の知恵が働いている訳です.
時に,飫肥伊東家では,役人の人事異動は毎年6月に行われ,7月から新しい職場で仕事に就きました.
7月は陰暦ですから,秋のとば口になります.
時期は陰暦なので前後しますが,これは日向国内の諸家でも大体同じです.
実は,参勤交代の時期が武家諸法度に於て,「夏四月中」と決められており,日向の外様大名家の場合は,当主が隔年毎に3月初めに出立して,翌年5月に帰国する為です.
江戸参勤にお伴する者,新たに江戸藩邸詰になる者は,前年の暮れに内示が終わっています.
高鍋秋月家の場合は,その年の正月に「例年の通り,江戸へ御供仰せ付けられ」ます.
飫肥伊東家では,「江戸御供」は江戸留守居で無い限り1年の勤務ですが,大坂蔵屋敷詰は2年の勤務が普通で,役付によっては「詰越」と称される勤務期間延長が行われ,長期に及ぶ場合もありました.
異動には,家格と家禄に応じて,当主自らが行う場合,家老が申し渡す場合,用人が言い渡す場合の3つのパターンがありました.
部長人事の辞令は社長が,課長人事の辞令は所長が,平の人事は課長が言い渡すのと同じです.
その異動の期間も,現在と大体同じで,凡そ2〜3年間隔で異動します.
仕事の内容や環境を変えることで,仕事に向かう意欲を創出すると共に,適所に有能な人材を配置して,行政の実を挙げることを狙いとしています.
また,当然のことながら,役付によって心配される汚職防止の狙いもありました.
但し,日向の諸家の場合,代官の人事異動だけは,6月の役付役人の異動とは別に行われることが多かったりします.
これは,代官が年貢収納の責任者であることから,年末に年貢収納が行われ,勘定事務を全て終わらせる必要がある為です.
この為,代官は1〜2月の異動となりますが,年貢未納や滞納と言った事故があった場合は,更に異動が遅れることがありました.
こうして見ると,江戸も現代でも,サラリーマンの生活というのは大して変わりないのですねぇ.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/03/18 23:47
青文字:加筆改修部分
【質問】
飫肥伊東家について教えられたし.
【回答】
飫肥伊東家の領地は,現在の宮崎市内を流れる大淀川以南の地で,日向灘の海岸沿いに七浦七峠を越えて南下する一元地続きの地で,現在の宮崎市のうち,旧宮崎市内南部,旧清武町,旧田野町,日南市の旧日南市内,旧北郷町,旧南郷町に跨がる地域になります.
北は延岡有馬家の飛び地である宮崎などに接し,南は高鍋秋月家の飛び地櫛間に,そして,西は薩摩島津家の北郷私領と接しています.
初代は伊東祐慶になります.
元々,伊東家は宮崎一円を領していた戦国大名でしたが,伊東義祐の代に島津家との木崎原合戦で敗れ,家臣の野尻城主福永丹波守が島津家に内応した事で,その領地を失い,伊東義祐,祐兵,義賢親子は豊後に逃れて大友宗麟を頼った訳です.
しかし,大友宗麟が耳川合戦で大敗した事と,大友家と伊東家の関係が悪化した事から,伊東義祐,祐兵親子は再び流浪の旅に出て,伊予道後の河野家を頼り,ここで親子別れて,義祐は瀬戸内を流浪し,祐兵は御家再興の機会を求めて姫路に出,1582年に今一番の出頭人であった,豊臣秀吉に30人扶持で仕える事になりました.
この時,随行する家臣は僅かに20余人だったと言います.
因みに,流浪の旅に出た義祐は,堺の浜で行き倒れになった所を,祐兵の手の者に見つけられますが,介抱の甲斐無く,病死しています.
その祐兵は,同じ年に行われた秀吉の中国攻めに加わり,その後,本能寺の変に端を発した秀吉の大返しでは,山崎合戦で武功を挙げ,槍を授けられています.
1583年には河内丹南郡で500石を賜り,1587年の九州征伐では軍勢の案内人として,黒田孝高の手にあって先陣を進み,日向の故地に戻って,最終的に曾井城と飫肥城を領して,日向国内宮崎・那珂の両郡で1,736町,後に36,000石を得ています.
これを「取立」大名と言います.
因みに,この時従っていた家臣もほんの16名しかいませんでした.
その後,関ヶ原の合戦では,武断派に与していたからか,大坂城で病んでいながらも石田三成に与せず,家臣を井伊直政に使いしていましたが,再三の催促により,京極高次の大津城攻めに参加します.
一方で,豊前中津の黒田孝高と連絡を取り合い,祐慶を大坂より帰国させ,西軍に属していた高橋元種の宮崎城を攻め,日向国内で唯一の東軍勢として活動し,関ヶ原の合戦が東軍勝利に終わった後も,1年間島津,秋月,相良,高橋の各軍勢と合戦を繰り広げていました.
戦後措置では,大津城攻めに参加したものの,日向での東軍方としての奮戦を認められ,1604年に57,086石を打ち出し,それが安堵されていました.
ただ,飫肥の地は余り地味が良いと言う土地では無く,無理な打ち出しは否めませんでしたが.
そんな飫肥伊東家の総人口は,江戸時代全期を通じて4.5万人で,飫肥3,清武1の割合で居住しています.
その職業構成は,「十中の一士,六農業,一半商工,一半漁」と言われました.
つまり,10%が士,60%が農業従事者,15%が商工業者で,同じく15%が漁業者と言う割合でした.
しかし,実際には複雑な様相を呈しています.
時代は下るものの,1828年の身分構成では,総人口が44,026名,うち百姓は13,094名で29.7%,浮世人9,455名で21.5%,町人1,894名で4.3%,水夫3,411名で7.7%,残り36.8%がその他ですが,その残りの内,33%の14,471名は士分階層であったと推定されています.
領内は城下を表わす麓と,地方に分かれています.
麓は大手,十文字,前鶴,中嶋田,永吉,釈迦尾ヶ野,西山寺,楠原,飛ヶ峰門前,吉野方,本町,今町の12箇所,地方は飫肥の西筋11ヶ村,南筋11ヶ村,細田筋12ヶ村,三浦筋11ヶ村の45村と清武の33ヶ村の合わせて78ヶ村となっています.
家臣団の方は,元々16名程しかいなかった為,近世初頭に秀吉や家康の命ずる過大な軍役と普請役に耐える為,日向を没落する以前から伊東家に縁のあった者を中心に緊急に編制したものでした.
この為,方々に無理があり,時には叛乱も発生しています.
ところで,19世紀初頭の身分構成で1.5万人に達した士分階層ですが,最初からこれだけの数があった訳ではありません.
18世紀の初めには飫肥や清武を合わせても1,600余名,飫肥城下の家中士は精々500名程度しかいませんでした.
1645年の記録では,城廻り屋敷として,大手32軒,十文字74軒,前鶴79軒と蔵が2つしか無かったとあります.
その屋敷も山地が海に迫ってきている土地柄故,余り大きな屋敷は作られず,300石以上でも屋地9畝となっていて余り広くはありません.
中堅役人である10〜20石の人々は3畝,つまり精々100坪が良い所です.
また,伊東家御抱えの職人は,士分として扱われますが,住居は,城下周辺や在方に住居を構えていました.
この他,18世紀初め頃には,500名以上の足軽は飫肥45箇所に分散して住み,平時には農業の傍ら地方の下役として活動し,戦時には国境警備や国土防衛に従事するもので,特に薩摩島津家領に近い北河内や西河内など他藩領境に多く配置されていました.
飫肥伊東家が他の大名家に比べて,大きな相違点があるのは,水主と言う階層がいることです.
飫肥伊東家の領内には飫肥の油津,大堂津,外の浦,目井津の4箇所,清武の赤江浦,折生迫浦の2箇所が港として機能しており,領外から様々な船が出入りしていました.
こうした浦や津に住み,海運や漁業に出入りする人を水夫(水主)と呼んでいます.
前述しましたが,浮世人と言う独特な制度もありました.
これは,各村にそれぞれ分散して住んでおり,本来浮免地と呼ばれる税が掛けられない土地を耕作して生活している人々です.
彼らは足軽や小人の下に班して,苗字帯刀を許され,平常は農業に従事するも,一旦事ある場合には戦闘要員以外の後方支援に回る事になっていました.
幕末には,兵具奉行付として火縄入箱・玉薬等品々入の受け持ちで44名,大砲牽き2挺と玉薬箱受け持ちとして48名,鳴物方付として太鼓と鉦預かりとして3名の合計95名の浮世人を付ける指示が為されています.
この他,小荷駄の掛りや,「組」毎の玉薬,鍛冶道具,幕,提灯等の運搬役としても動員されていました.
なお,船を利用する場合は,浮世人ではなく,水夫がそれを代替することになっていました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/03/19 23:12
青文字:加筆改修部分
【質問】
飫肥伊東家領地の生産力について教えられたし.
【回答】
さて,各大名家は幕府の枠内で適度な自治権を有していました.
しかし,彼らが恐れたのは,第一に嫡嗣がおらず,家が継承出来なくなる無嫡断絶,次いで収入に影響を与える天変地異や百姓一揆等の争乱,更に出費の増える幕府の御手伝普請に,転封と言ったものでした.
それほどでは無いにしろ,幕府巡見使の監察と言うのも恐れていました.
幕府巡見使の監察は,各地方に幕府から巡見使を派遣するもので,幕府御領(所謂天領)や大名領の政治・民情・軍備・地理を監察する為に行われます.
巡見使監察の重点項目は,その都度異なりますが,巡見使を迎える側は準備が大変でした.
以前,秋田佐竹家を取り上げた時も,巡見使の専用道路を整備した話が出ていましたが,同様に各大名家では巡見使の順路に当たる場所では,道路の普請を始め人夫の調達から,巡見使にヒアリング項目を説明する為の「演説書」の作成,更に巡見使が質問をした場合にどの様に回答するかを記載した仮想問答集などの作成も含め大わらわで行われていました.
1681年,九州筋の幕府巡見使として奥田八郎右衛門忠信一行がやって来ます.
彼ら一行は,筑前に入ってから,肥前,壱岐,対馬,五島,肥後,薩摩,大隅各国を経て,8月に日向にやって来ました.
日向国では薩摩島津家の都城寺柱から牛之峠を越えて飫肥酒谷に入り,飫肥城下から山仮屋を経て清武に至っています.
その後は佐土原島津家の新名爪,新田,高鍋秋月家の都農(津野),美々津,そして延岡有馬家の県,曾木,椛森,壱ノ水,河内を経て肥後高森に抜けていきました.
その間の薩摩,飫肥,佐土原,高鍋,延岡の各大名家の巡見報告については「九州土地大概」として纏められています.
この時の日向諸家に対する巡見使監察の要点は,治政に関しては農政の得失と役人の善悪を主要評価項目としていました.
特に貢租賦役の軽重による農民の安否に,監察の重点が置かれていました.
その評価は「美政」「中の美政」「中の悪政」「悪政」の4段階に分けられています.
飫肥伊東家は「中の美政」…要は可もなく不可もなしと言う評価でした.
その内容にはこうあります.
――――――
飫肥領は赤米の栽培が盛んである.
赤米は米としての質は悪く,収穫量も少ない.
しかし,赤米は干魃や台風などによる凶作には強い.
飫肥伊東家では凶年には,真米と同様に赤米での納入を認めている.
台風や干魃などの凶作の多い当地では,尤もな措置である.
また,年貢が完納出来ない分は,建築用の竹木や材木の伐り出しなどの労役で納入させている.
当領の地勢は海広く,高い山が多い.
そして領内に大きな川が流れ,農家の田畑はその流域に点在している.
近年は大雨で直ぐ川が氾濫する.
真米は疎か,赤米をも納める事が出来なくなる.
この様な領内であり,政治は半ば良くて半ば悪い.
しかし,地方を治める役人には,その行いが潔白で正直な役人を選んでいて,良く政治を輔けている.
近い将来,領民の生活は安泰になる事が期待出来る.
――――――
とまぁ,こんな具合で,巡見使の報告の評価が悪いからと言って,直ぐに領主が変えられる訳ではありません.
因みに,この年から9年後,延岡有馬家に於て,臼杵郡山陰村の百姓1,500名が,郡代の苛政に反対して逃散する事件が起きました.
幕府はこの山陰村一揆を以て,家政不行届として郡代を追放し,有馬家は1691年12月に越後糸魚川に転封となってしまい,此処に有馬家の九州との縁が切れてしまった訳です.
(ついでながら,後に有馬家は糸魚川城下町整備中の4年後に嘆願の結果か,越前丸岡に再転封し,やっと此処に安住の地を見つけた訳ですが)
飫肥伊東家の場合は,赤米の栽培評価には両面がありますが,既に日向では各地で赤米の栽培を許可しており,「唐法師」と言う品種が多く栽培されています.
因みに高鍋秋月家でも,凶作の年には赤米・野菜・粟での貢納を許しています.
真米と赤米,それに麦の石盛比率ですが,赤米の場合は真米に2割落,麦は赤米の2割落で年貢を取り立てています.
1804年と時代は下りますが,飫肥伊東家の「上着」(上方に送る事)穀物の内容は,飫肥で穀高7,016石1斗2升6合,その内訳は,白米が1,809石7斗9升2合,赤米が504石3斗3升4合,精麦85石,小麦152石,大豆148石となっており,清武は穀高4,317石で,内訳は白米2,756石,赤米が1,428石,精麦102石5斗,小麦30石5斗となっています.
飫肥の方は蔵入のものが家中士に給与される為,上着の分は少なくなっている上,大豆などの畑地ものも送っているのが特徴です.
また,日向では既に江戸中期頃には,早生水稲に近い時期に耕作を開始しているのも特徴的でした.
では,地味の乏しい飫肥が収入を得るには何をしたか,については明日にでも…停電が無ければ.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/03/21 21:56
青文字:加筆改修部分
先に見たように,地味の乏しい飫肥伊東家にとって,貢租が余り期待出来ないのは自明の理でした.
幸い,領内には東九州でも数少ない良港として知られる油津がありました.
荒海で名高い日向灘に面した油津は,古くから「油」とか「油之津」と呼ばれており,中世より中国や琉球との貿易港としてその名は高く,物資の集散だけで無く,人の往来も賑やかでした.
この為,油津は飫肥伊東家にとっても,飫肥城に最も近く,城付地を流れる酒谷川や広渡川流域の材木を始めとする林産物や農産物を上方や江戸に送る集散地として機能していました.
しかし,この場所は良港ではありましたが,地勢的には難がありました.
元々,油津は平野村石高1,333石余の内に含まれるとされており,飫肥城から油津までの距離は1里34町14間(約8km)とされていました.
この津自体は,約100艘ほどの船繋りが出来る港ですが,台風常襲地帯の港としては,設備が貧弱で,台風が来た場合には,この津に船繋ぎをする事が出来ないとされていました.
また,2つの川を利用して運ばれた領内の産物は,広渡川河口から一旦外海に出て,梅ヶ浜尾伏岬を回って油津に回漕する必要がありました.
この事から,岬を回って外海に出る余計な労力を割くよりも,川から直接油津に乗り入れられるようにする運河開削が計画されたのです.
計画では,乙姫神社前を掘り通し,璋子ガ島から広渡川の水を引き入れる全長492間(約984m),平均幅15間(30m)の堀川を開くと言うものでした.
この目的は1つは油津の港としての機能を高める事,2つには広渡川河口周辺の治水対策,3つ目に港を中心とした津町整備と考えられています.
この時期でも財政事情が厳しい飫肥伊東家としては大工事であり,堀川奉行には中村与右衛門,田原権右衛門の2名が充てられ,その下役に10名が付けられています.
1600年代後半と言うのは,秀吉時代からの軍役に始まり,その後の徳川幕府から命ぜられた度重なる御普請も漸く一段落しており,一方では飫肥城修築や城下町形成と言った内治にも力が注がれている時期です.
天下普請と呼ばれる1602〜62年に,13回以上課せられた工事は,確かに各大名家に財政の困窮は齎しましたが,他方ではその夫役を命じられた人々が,畿内などで行われてた先進の土木技術を習得し,それが日本全体の土木技術向上に役立てられたと言う面もありました.
ともあれ,1683年12月5日から開始された工事は日に夜を継いで行われ,28ヶ月を費やして1686年3月25日に完成しました.
途中,岩盤があったりもしましたし,この工事では堀川ばかりで無く,8艘入る船蔵や石垣まで完成する,相当の突貫工事だったと考えられ,人柱伝説もあったりします.
しかし,御陰で飫肥伊東家の収益基盤は,ある程度確保できたわけです.
この油津,江戸時代には漁港,町人の港町,藩庁の出先と言う3つの機能を有していました.
漁港としては,油津,大堂津,目井津,外浦の四浦,それに江戸末期には下り松が加わるのですが,これらの漁港の中心としての顔でした.
油津には浦地頭の下に下級役人が置かれていました.
水産物,特に水鰹とその加工品である鰹節は,飫肥伊東家の専売品として重要視され,幕末には節方役人の管理下に置かれています.
従来は漁業と言うのは,生魚を主体として,生業として成り立たせるのは難しい職業でした.
当時の保存技術に限界があり,普通には油津から2里の距離にある飫肥城下が生魚販売の触れ売りまでで,これが温暖な気候であり,夏なら更に距離は縮まります.
これが更に遠くなると塩漬け,酢漬け,干物となります.
現在でも,山間地域では,「無塩物」「一塩物」と言った言葉は塩干物よりも生魚に近い段階の物を表わしているのがその名残でもあります.
温暖な場所故に,加工技術が発達しなければ,幾ら大量にあっても,その魚には商品価値が余りなかったりします.
これが産業化出来るようになったのが,鰹節の加工技術の発達です.
これにより,保存の利く鰹節が大量生産され,人々に重宝がられるようになり,価値の高い産品となりました.
飫肥伊東家では重要財源として保護管理しましたが,四浦の中でも群を抜いて漁獲高,生産高の大きかったのが油津でした.
幕末の1865年では,14,132喉(尾に同じ)の鰹節を生産し,1866年には鰹の水揚げ総量290,165尾に掛けられる掛銀(1貫目に付き,銀7匁3分4厘5毛)の合計が1,563貫余で,鰹節としては11,606束64となって,1,566貫667匁3分3厘6毛とほぼ拮抗しています.
そして,この販路は断然大坂が群を抜き,8,869束24,次いで下関が2,053束96,長崎が151束20,地元消費が532束20と言う感じでした.
藩財政の中でも現銀1,566貫と言う数字は,決して無視出来る数字ではありません.
商業港としての側面は,町人の町として中世から発達した港町です.
当然のことながら,地元産の用材を生かした造船業も発達しており,漁業収入が大きな割合を占めるようになると,鰹を釣る専用船需要が出て来ます.
また,これを操る漁師も半農半漁と言った生活形態から,専業化する漁師集団となっていきます.
海産物の商品価値が大きくなり,需要が増すと,それを扱う商人の動きも活発化してきますし,商品を動かす輸送船が必要になり,それを動かす船の乗組員(水主)達が形成されていきました.
水主は,飫肥伊東家では早くから独立した身分階層となっており,船頭,宿老,浜散司などによって統率されていました.
当時,油津の人口は,19世紀頃で1,300名程度,大堂津は1,100名前後,目井津は700名弱,外浦は575〜700名を上下しています.
また領内に,水主階層は家族を含み,大体3,500〜4,000名前後となっていました.
藩庁の出先としての機能としては,当主の御座船,御用船を管理する他,物資の出入,集散管理が挙げられます.
物資出入については運上金の徴収というばかりでんかう,清武の年貢米もこの地に運ばれるので,その管理も必要でした.
御用船については建造,管理やその乗組員である船頭・水主の統率の為に,諸役所と下級役人が置かれていました.
因みに,御召船と言う御座船は4〜5艘,御用船としては御物天満(伝馬船)も同数,御物小早が5艘,御物荷船が4艘程度と大体20艘あり,平常はこの地で管理されていますが,参勤交代時は細島に回漕されています.
1804年の飫肥と清武の船の総数は,御用船を除いて300艘弱.
内訳は,漁船が58艘,小勢利21艘,網引船180艘,荷船26艘,伝馬船8艘,小廻船3艘,水入船1艘となっています.
此処に赴任する役人は,様々な役付になり,その役は幕末になるほど多くなってきます.
また,油津に赴任する場合は,「引料米」つまり,赴任手当が米1石分余計に支給されていました.
当然のことながら,この地は江戸,上方,長崎に直接通じている場所ですから,物資や人の出入りが多く,役付の上からも誘惑が心配される場所であり,身を持ち崩す役人も少なくなかったようです.
これら津や浦の短所は,台風や地震などの天変地異も勿論ですが,人家が密集した場所である事から,火災も大きな脅威でした.
町が発展するにつれて,大小様々な火災が起き,その発展を妨げていました.
油津でも,1742年,1746年,1790年,1799年と定期的に大火に見舞われています.
尤も,この火災の問題は,1945年に至るまで,日本の都市が抱えた最弱点でもあったりするのですけどね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/03/22 22:38
さて,桃山時代末期から江戸初期には文禄の役に始まり,慶長の役,隣国薩摩島津家の庄内の乱,肥後加藤家の改易,大坂の陣,島原の乱など,相次ぐ軍役が科せられました.
因みに,文禄の役では伊東家は700名,秋月家は388名,慶長の役では伊東家は500名,秋月家が300名,庄内の乱では伊東家100名,秋月家100名,肥後加藤氏改易では伊東家が2,496名,秋月家は2,087名と最大の軍役を課されており,島原の乱では伊東家に2,500名の軍役が課せられています.
それを上回る負担として,江戸初期の御普請役が挙げられます.
慶長年間のものだけでも,伏見城,江戸城,駿府城,丹波亀山城,尾張名古屋城など6〜7回,寛永期には3回課せられ,以後も継続して課せられています.
「飫肥藩節約金」と言う資料では,江戸期に飫肥伊東家は,軍役が合計9回,御普請役22回,御接待馳走役27回,奏者番等加役16回が課せられています.
こうしたものにどれくらい費用が掛ったかというと,1605年の江戸城普請では役夫600名に用銀96貫目,1607年の駿府城普請では役夫1,000名に用銀87貫目,更に1619〜20年の大坂城普請では,役夫1,000名と用銀245貫が記録されています.
また,御接待馳走役としては,秋月家の資料になりますが,1791年の院使御馳走役では御用金7,000両が掛ったとあります.
この様な莫大な数の役夫については,普請役そのものが大方農閑期である冬から春にかけての工事であり,自領の農民や足軽を動員するか,不足分は現地で買い入れるのが普通です.
飫肥伊東家では,この動員に大きな威力を発揮したのが浮世人でした.
用銀は江戸初期の飫肥伊東家では,山か海,或いは田畑から得られる収入が財源です.
確かに,貿易港としての油津を抱えていますが,入封したばかりの取立大名では,貿易から収益が上がったかどうかの資料はありません.
なお,高鍋秋月家の場合は,東南アジアとの貿易を行っていたようで,朱印状の写しが残っており,「御朱印蔵」なる建物もありました.
貿易に多くを見出せない伊東家としては,最も手っ取り早く現金収入を得られる手段が,領内にある広大な山林からの木材伐採でした.
しかし,江戸初期には天然林が揃っていた森林も,過大な伐採の挙げ句,早い時期から大規模な植林を必要とする事態が到来していました.
木材伐採による現金収入については,例えば1596年7月12日の大地震で京都東山の広大寺大仏が壊れ,その再興の為の鋳造の火が飛火して,仏殿を焼失すると言う事件がありました.
1609年にその仏殿を再興すると言う事になったのですが,1611年に飫肥領内北河内亀川内の山中から,大棟木に用いる長さ14間(約28m)の松丸太が駆り出されることになりました.
4月20日より杣人が山に入り,6月の晦日に油津障子ヶ島に引き出されました.
この材木は,実に人夫3,000名を37組に分け,広渡川を利用して引き出したと言います.
この材木は油津から大坂に送られ,請元の岸辺屋三郎右衛門,金屋了円手代等に引き渡され,飫肥家中の平川分右衛門,壱岐彦左衛門,松浦久兵衛等との間で代銀90貫目で売却の商談が成立しました.
その他,6〜9間の末口物を多く加えて,その代銀は銀子16貫目となりました.
つまり,丸太を数本売ることで,普請の為に用いる代銀を稼ぐ事が出来た訳です.
当時,丸太の需要は旺盛で,各大名家での城普請や幕府の城普請,更にそれに付随する城下町の建築に材木は欠かせないものでしたから,大木の需要は増大しました.
しかし,各地で大木を伐採して回った結果,元禄期には根元に近い切り口である元口4〜5尺(1.5m)のものは全国を探してもおいそれとは見つかるものではなくなり,品不足を来している状態に陥ります.
当然,需給関係のアンバランスにより,材木の値段は高騰し,山林を多く保有している諸家にとっては干天の慈雨となった反面,山林の乱伐に拍車を掛ける結果となります.
それでも,1703年には霧島山中の白鳥神社の裏山から,東大寺大仏殿に用いられている大虹梁2本の用材が伐り出されているので,全く大木が無いと言う訳では無かったのですが.
因みに,薩摩島津家と飫肥伊東家との数十年に亘る争い,「牛之峠論所」に於ても,その発端は飫肥伊東家が寛永年間に行った船材伐り出しを薩摩島津家が阻止し,逆に薩摩島津家はその場所の用材を献上の為に伐りだしたのが発端だったりします.
両家にとっては,単なる境界争いであっただけに留まらず,宝の山の争奪戦と言う側面を持っていました.
この為,論所関係者が「踏分け」と言う実地調査を行って,樹木1本1本を確認するまで細かに及んでいるのです.
また,江戸初期は江戸等,各都市に於て相次ぐ大火が発生しています.
これもまた,都市の再建の為に木材の需要を増大させ,木材市場に大きな影響を及ぼしています.
この需要に対応する為に飫肥では益々乱伐が進み,山林の荒廃が進むことになります.
そして,それは先ず洪水として現れる事となり,飫肥では大規模な植林が行われるようになりました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,作成日時 : 2011/03/25 23:3
さて,経営層の見栄という意味では,江戸時代でも全く同じです.
諸大名家の財政は,石高で表されている将軍から大名に宛がわれた領地からの収入にその基盤を持っており,その収入の核は,言わずと知れた農民が納める米を中心とした年貢です.
飫肥伊東家の場合,豊臣秀吉から1588年に宛がわれた「知行目録」では14箇所,1,736町歩で,これを石高に直すと28,000石余とされていました.
他の日向にある大名諸家と比べて有利だったのは,この領地は全て一円支配であり,飛び地は存在しません.
ただ,この一円支配地は領地の中央に人の往来を自由にさせない山地があり,この中央の山地をどの様に生かすかが飫肥伊東家の財政上の重要課題でもありました.
1593年に,所謂太閤検地が行われます.
飫肥伊東家では,石田三成の家臣である華田利右衛門と小寺休夢の家臣池田助右衛門が派遣されてこれに当り,伊東家中からは財政に詳しい平川分右衛門等が立会いました.
検地は10月10日から開始され,12月10日に完了しています.
この短い期間では,領内全ての村の土地丈量が行われたとは考え難いのですが,兎に角,石高36,000石が算出されました.
ところが当主であった祐兵は,折しも文禄の役の最中ではあったのですが,この石高では奉公するにも他家に見劣りするとして,自領内だけの独自の検地である内検を企て,1595年に45,000石を打ち出しました.
因みに,石高とは表高のことであり,これを元に軍役の軍勢や御普請役の人夫が割り当てられるのです.
打ち出しとなると,土地の広さは全然広がらないのに,石高ばかりが上がる,即ち,直接諸負担の増加に繋がる訳で,領民にとっては少しも喜ばしいことではありません.
その後,関ヶ原の合戦を経て徳川幕府の時代に入ると,1604年に再三の内検を行い,1605年3月,平川分右衛門が領内の検地帳を伏見奉行所に持参し,高57,080石余と定められました.
尤も,その内の6,000石は庶子に分知されたので,実質は50,000石となったのですが,最初の知行目録では28,000石,その土地が膨らみに膨らんで,遂にはその倍以上である57,080石余となった訳です.
検地を行うと言うのは,特に領内に元々の支配基盤を持たない取立大名の場合,領内の土地と領民の把握の為に実施し,支配体制の貫徹を行う事に意味があります.
しかし,再三の内検を実施し,その石高を幕府に披露して表高とするのとは意味が違います.
徳川幕府の体制になり,世の中が安定してくると,当初は生産高が低い土地であっても,その後の新田開発や農業技術の進歩で,生産高が上がって来て,表高に対して実高がかなり大きくなると言うケースが多くなります.
以前取り上げた,松江松平家などもその一つです.
ところが,飫肥伊東家の場合は,これ以降も戦争が続くと考え,戦場に給地高に応じて被官や従者を1人でも多く連れて行くと言う人々が家政を握っていました.
こうして,時代の読みを誤り,表高の高さのみに拘った諸家が,此の後,平和な世の中になっていくにつれて領民を苦しませることになるのです.
因みに,こうした打ち出しをするのは,太閤検地が,直接丈量せずに帳面を作製して提出する「指出」だけでも,大きな差になります.
面積の上では,隠田,検地漏れの落田,荒地の復旧田である起帰田,新開田を含めても,倍以上を打ち出すことは出来ません.
丈量の竿を変えるか,収穫高を多く見積もり田畑の等級を変えるかしたと考えられます.
こうした表高の増加は,先述の戦争に対応したものと言う側面もあります.
また,もう1つの側面として,幕府にとって軍役や御普請役は各大名家が持つ経済力や政治力を知る絶好の機会であり,各大名家の対応を試す機会でもありました.
当然のことながら,試されているのを知らない大名はいません.
それだけに,他家以上に功を上げ,忠誠を示す必要がありました.
特に,日向国内に於て,伊東家が当初の28,000石と言う石高のままでは,その石高が最も低い大名家となります.
中世以来,日向中央部を領してきた大名家としての矜恃もあったと思われますし,関ヶ原の合戦では,日向国内の他家が一斉に西軍に走る中,取立大名の御恩を蒙っていた豊臣家を早々と見限り,徳川家について,当時延岡領であった宮崎城を中心に周辺諸家と争って日向国内を不安に陥れ,伊東氏此処にありと示した見栄というのもあったでしょうから,それが日向国最小の大名に甘んじると言うのも許せませんでした.
更に徳川幕府が出来た後は,政権への忠誠を形で表す必要がありました.
1605年に家康が大御所となり,秀忠が征夷大将軍に就いて,「天下は回り物」と言う考えが明確に否定され,権力は徳川家の独占物となる事が確定します.
そうなると,各大名家は挙って秀忠に忠誠を示さねばなりません.
この年から,外様大名の中から人質を江戸に送る事が多くなり,高鍋秋月家では娘を江戸に送り,自らも参勤をするようになります.
同様に,飫肥伊東家でも祐慶の母と祐兵の三女,五男を人質として参向させています.
こうして,徳川家に忠誠を尽すことで,江戸幕府からの余慶を期待したのです.
しかし,期待した余慶は無く,過大な軍役と御普請役だけが残った訳です.
当然,この表高は家臣の給与である知行宛行にも反映されます.
先にも触れましたが,飫肥伊東家の知行宛行状には宛がわれる土地の所在地や面積を示す目録は,全く付いていません.
18世紀初めの「人給帳」に記載してある家臣の全知行高の総計は凡そ30,000石であり,これだけで表高の60%になります.
要は,会社の支出の6割が人件費で占められているのです.
元々,会社の大きさは中小企業並なのに,社員数だけは大企業並に多く抱えているので,その給料が財政を圧迫してしまう事になります.
その為,多くの大名家で行われたのが,1つは家臣数の削減であり,1つは家臣の棒給の削減でした.
例えば,元々40,000石だったのが53,000石に加増されて県延岡に入封した有馬氏の場合,寛永期に上士の数が325名だったのですが,寛文期には410名になり,その後糸魚川に転封となった時期には529名にまで膨らんでしまいました.
飫肥の場合は,多種多様の下級士分を抱えていた上に,家臣の禄高でも10石未満が少ないと言う特徴を有していましたから,余計に深刻な問題だったのです.
1804年の実高は60,580石余,この40%が伊東家の実収入になるので,24,067石余となります.
但し,この数字は本田,本畠全てを換算した数字であり,これを田畑の面積で見ると,田は耕地の約71.9%に当たる2,833町歩余,畠は約28.1%の1,109町歩余となります.
これを百姓の本役,半役,小役に割り付けて年貢を請け負わせます.
更には40石以下の下級武士にも宛がいます.
割付を受けた門百姓(高請百姓)は,その請高に応じて収穫の40%を年貢として藩庫に納めます.
藩庫に納められた年貢の一部は,物成として家中士に支給される仕組みでした.
飫肥の特徴は土地の公有制度と言うべきもので,限られた門と呼ばれる百姓家に,その家族の年齢,性別によって本役,半役,それに村の諸役を務める小役者に分け,土地を割り当てて年貢を請け負わせる制度を採っています.
一種の百姓株と言う制度と言えます.
例えば天保初年頃には,百姓の総人数は,男性7,176名,女性6,033名の合計13,209名,百姓門数3,075軒であり,1門につき4.29名となっていました.
つまり,1門とは平均的な農家1軒となる訳です.
当然,これにも増減があり,1830年には百姓門として割り当てられているものの,人がいない空門で,潰れ百姓を含む百姓禿門が311軒もありました.
天保初年で本役2,079名,半役が1,043名,小役者364名となっていましたが,このうち小役者は庄屋を始めとする士分の村役の下役として百姓階層の者が任命された者で,諸役負担が半減される農民を指します.
この様に飫肥では基本的に高請百姓と言う制度により,年貢収納の仕組みが作り上げられ,その年貢を核に藩財政が維持された訳です.
当然,これだけでは財政収入は十分ではありません.
そこで行われたのが今でも良く行われる人件費の削減,つまり,家中士の禄高の実質的削減でした.
てことで,次回はその話について少々.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/03/26 22:09
さて,収入の体制が決まり,それ以上の支出を続くとなると他に財源を求めるか,残るは家中士の禄高削減しかありません.
今でも会社の収支が悪くなって来ると,真っ先に手を付けるのは人件費です.
高鍋秋月家の場合は,早くから家中士に対して宛がった知行地を対象として知行地1反当りの臨時の出銀を課す「反銀」の制を採っており,薩摩島津家も度重なる「出銀」「出米」をしています.
この反銀は高鍋秋月家では,1610年に早くも「家中に反銀始る」と見え,1626年には「家中の知行を御借上にて騒動これあり」と書かれています.
つまり,財政難から給地面積に出銀を課した為,藩政の不安要素となった訳です.
飫肥伊東家の場合は,比較的人件費に手を付けるのは後になります.
今までは山の材木伐り出しで何とか財政破綻を先延ばしにしていたからです.
しかし,林産資源が尽きてくると,そうした手は通用しなくなり,1749年に知行3分の1を3年間,切米扶持米5分の1,1773年に知行5分の1を1年,1774年に知行2分の1を5年,地米3分の1,扶持米5分の1,1794年には知行5分の1を5年間,切米扶持7分の1,1800年に知行7分の1を1年,扶持8分の1,1814年に知行7分の1を1年,扶持を8分の1,1815年には知行2分の1を2年間と,毎年のように家中士からの借り米を繰返しています.
それでも破綻がやって来ました.
1800年に「東海道筋川々御手伝普請」を命ぜられた時に,費用を借銀で調達し,やっと納銀出来たのですが,今度はその借銀の債権者に返済が出来ないと言う窮状に追い込まれています.
藩の会所はこれを家中士からの借米で切り抜けようとしますが,家中士の生活は既にその様な状態にありませんでした.
この状態は,「山尽き候ても才覚尽きず」,つまり,知恵を絞って切り抜けるしかありませんでした.
その才覚の中でも一番単純な借り米,つまり人件費に手を付ける事は最早無理です.
そこで,まず採られたのが「増紙」でした.
簡単に言えば,紙と楮の増産でした.
ところが,町人が腰を上げません.
これには,これまでの藩政に対する不信があったからです.
1802年に藩の会所が出した「御書付」ではこう書かれています.
――――――
当家の領地については,もと27,000石余であったのに,2度に渡って石高を上げられて57,000石の差出高となった.
その内から,分家である「築地」と「本所」の両家へも分知されたので内検さえも一円に行えなくなった.
分知された松永村と南方村は後に幕府領となった.
その上,古くから家中士を整理出来ず沢山抱えていてそれに知行を宛がわれているので,1年の収支にも不足を来している.
その上,吉凶の諸事などの出費で,商人から借り入れする銀高も次第に嵩み,それに対する利息の額が大きくなって財政が苦しくなってきた.
寛延の頃から家中士に対して知行米の借米なども行われ一時凌ぎもされていましたが,多くは「山手の御才覚」と言われる木材を始めとする山の産物での遣り繰りで間に合わせ,凌いできた.
ところが,いよいよ出費多端となり,利息支払いの手段が無く,古い借銀に利息支払いの手段が無く,古い借銀については無利息にしてもらう相談をしなければならなくなり,貸主との間に気まずいことが起こってきた.
貸主側からは,今後は引当物(抵当)が無ければ銀子は貸せないと言われるようになった.
その上,毎年の洪水で荒廃した田畑は,今になっても元に復旧することが出来ず,上方に送られる上着米が1万石も減少したのでは,これに引き当てる資源も無い.
それで山手の産物である材木,櫛木,櫓木,椎茸,柞灰,樽丸,樟脳,椎皮,黒炭などを引き当てたいのであるが,先年から色々を無理して,既に2倍以上もの生産物を差し出していて,近年は材木を伐り出す場所が無いと山奉行がこぼしている.
それで,他に「尽きず才覚の種蒔く」他は無くなった.
1800年から紙の増産を目指した.
担当者も任命され,領内に楮の植え付けを命じた.
――――――
とまあ,素直に藩政当局が自分の政策に厳しい目を向けて,新しい施策を打ち出しても,場所や人によって,その取組みに差が生じて成果が上がらないことを指摘しています.
現代の企業でも良くある話ですねぇ.
取り敢ず,この楮生産の増強は,大坂町人である油屋善兵衛の資力を頼りにして行われ,一応の成功を見せました.
1804年に楮の生産高は73,084貫850目,この代銀101貫470匁5分7厘7毛,上着の紙は高913丸,その代銀59貫802匁7分6毛,そして,1833年になると楮の生産高は103,331貫60目,その代銀は125貫3匁5分7厘となり,何とか財政破綻を免れ,貯蓄である御徳銀を齎すことが出来ました.
しかし,田畑の生産を増強するにしても,新田開発にも限界があります.
そこで,山方では大規模植林による山の再生が企てられ,海では鰹と長崎送りを目的とした鱶鰭,そして,それらを利用した産業を油津を始めとした四浦で藩直轄事業として行い,温暖な気候を利用して,黒砂糖の生産を盛んにして,上方を始め領外に売り出しました.
このうち,鰹節と黒砂糖については,上方での評判もそれなりにあり,江戸期後半の飫肥伊東家に貴重な御徳銀を齎すことになります.
殖産興業としては,他に櫨実や茶,棕櫚皮,それに養蚕を手がけています.
特に,養蚕では幕末にかなり力を入れたのですが,あまり成果が上がりませんでした.
それでも,1822年になると,金20,083両,銀92貫57匁3分2毛,丁銀23枚が貯まり,非常備荒の為の穴蔵金として役所に納められています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/03/27 23:30
【質問】
飫肥伊東家で甘藷が導入された経緯は?
【回答】
1692年,伊予今治久松松平家の3代当主定陳の家老江島為信が,飫肥伊東家に使いを出しました.
要件は,飫肥伊東家で栽培している甘藷の種芋を譲って頂きたいと言う申し入れです.
使者は首尾良く種芋を譲り受けることに成功し,為信はこれを越智郡大嶋村の農民へ与え,植え付けを命じました.
しかし,農民達はこれを中々受入れず,藩庁の説得によってやっと重い腰を上げたと言います.
この種芋が,その後日本を襲った享保飢饉など数々の飢饉から民を救った為,他の地域に比べて今治では餓死者が少なかったりします.
これは青木昆陽が吉宗に認められた,『蕃藷考』に先立つこと40年前のことでした.
既に琉球方面から奄美を経て薩摩に上ってきていた甘藷は,元禄期には飫肥に達し,飫肥ではこれが大々的に栽培されて,他の大名家に分けることが出来るまでに広がっていました.
飫肥で甘藷が導入されたのは,貞享から元禄にかけての事とされています.
しかし,伊東家では当初,「土地が痩せる」として一旦,国中で蕃藷を作ることを禁じたのですが,清武代官だった日高津之助と言う人物が,「蕃藷は民間第一の食料なるにこれを禁ぜられし事貧民の難儀,これに過ぎずと」と憂いて,郡代に働きかけてその禁を解いたと言います.
実際に,痩せた土地の多い飫肥では農民は既に食料として甘藷を重視していました.
とは言え,無計画に植えると,年貢の確保に困難を来すと言う理由で,政庁側が警戒して,先の禁令を発した訳です.
因みに日高津之助は,清武家中士のうち中小姓の8番目にあった席次の人物で20石を給されていました.
ところで,飫肥から甘藷を求めた今治久松松平家の領地は,現在の今治市周辺と周辺の島々からなる3万5千石の大名家でした.
島が多く,これらの島々では米を作るのが難儀なことから干魃と台風に強い畑作物として,飫肥で栽培されている甘藷に目を付けたのです.
では,何故,飫肥の様な辺鄙な地に甘藷があることが,遠く離れた今治の家老に伝わったのでしょうか.
実は,今治久松松平家の家老である江島為信と言う人物は,元々日向飫肥の人でした.
その後,大坂に出て兵学を学び,後に江戸に遊学に出て荻生徂徠とも親交がありました.
この実績を買われ,今治久松松平家の初代当主である定房に1668年,100石という高禄で召し抱えられました.
1674年には,120石の聞番,つまり長崎に派遣して外敵の警戒に当たる任務を持つ武士となり,その後は用人,近習と進み,3代当主の定陳の代である1691年に家老に登用され,当主から格別の期待を受けました.
その第1号の施策が,甘藷導入であり,その後,法令,軍制や財政の改革を矢継ぎ早に行って藩政の基礎を確立した名家老の評判をほしいままにしています.
その江島長左衛門為信は,本名を海老原三左衛門と言い,後に長左衛門に改めています.
先祖は薩摩国に住んで島津氏に仕えていました.
左衛門日海の代に伊東家から望まれて,島津氏の同意を受けて日向飫肥に来て,伊東氏に仕える様になりました.
為信は,父内蔵助為頼の三男坊でしたが,21歳の時に飫肥から上方に出て兵学を学び,後に江戸に出て芝の新銭座で浪人をしていましたが,其の間も荻生徂徠等の文化人と交流を重ね,他に飫肥を追われた元家老の矢野門之助とも交流があった様です.
その後,江島と姓を改め,一向勉学に励みました.
そして,今治久松松平家の初代当主,松平美作守定房の代に,家中の小泉三郎右衛門宜安の取り持ちで,1668年7月27日に,知行100石,馬廻役として召し抱えられました.
100石の知行は先述の通り破格の待遇であり,そのあらゆる分野の知識が並大抵のものでは無かった事を示しています.
2年後には早くも120石となって,2代当主の定時の代,1675年には江戸留守居役に抜擢されますが,1680年に3代当主定陳に願い出て,今治に赴くことになり,4月の始めに妻と共に今治に引っ越しました.
今治では1681年に軍役の改正を行い,その功により1684年に更に30石が加増されました.
その後,1684年に御用人になりますが,1686年には眼病により御用人を免ぜられ,馬廻役に再任されます.
1690年には眼病が癒えたのか,御袴着御用掛となり,表向御用人御免で250石を支給され,翌1691年には家老で300石,1694年には遂に500石を給され,1695年10月8日に江戸で没するまで家老を命じられています.
こうした抜擢に応えて,為信の方も奉公に精を出したからこれだけの出世をしたのでしょうが,部屋住みの三男坊から,勉学に励み,他家の要路の知己を得て,自分の世界を切り拓いていった訳です.
あくまでも,これは1つの成功例に過ぎませんし,大多数はそうした努力の甲斐無く,部屋住みで終わったり,農民として生活したりするしかありませんでした.
そう言う意味では,既にこの時代でも家格と家禄に応じた役付の範囲内で武士も生活する事を余儀なくされていた訳です…完全に身分が固定した訳では無いにしろ.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/04/05 23:20
青文字:加筆改修部分
【質問】
飫肥藩士の収入を教えられたし.
【回答】
さて,給料と言えば,士分階級のお給料は,田畑を中心とした土地からの収益でした.
飫肥伊東家に於ける土地制度は,前にも見たように,一つは浮免地という税がかからない土地で,これは家中士に対し,配当方から地方給として土地を宛がうものです.
これに対し,門田畑,屋敷,小役給は本田畑と呼ばれるもので,この高に応じて年貢が御蔵(藩庫)に納められます.
御蔵に納められたものは,一部は家中士へ物成給として支給されます.
また,藩費として城内外の藩を治める費用や,大名家内の家計,上方や江戸屋敷の維持費などに充てられていました.
但し,門,屋敷,小役(村の肝煎や小触)給には半役と本役とがあって,土地の割替えの基準によって負担も違ってきます.
因みに,門地と言うのが百姓本来の割替え地の事です.
飫肥伊東家で高10石の知行を取る士分の場合,前にも触れましたが,10石の土地や米をそのまま支給される訳では無く,基本的に幕府と同じように家中士に対する知行は表高(公高)に応じて宛がわれています.
そして,家中士は自分に宛がわれた知行地の石高中の公約の高に応じて,禄を受ける事になります.
飫肥伊東家では基本的に「四ツ成り」を採用していたので,10石の内4割,即ち4石が給料となる訳です.
但し,飫肥伊東家では,知行は全て土地で宛がわれた訳で無く,始めから土地を宛がう事を考えておらず,その知行宛行状には,他家の物とは違い,「坪付(土地の面積と所在地)は別に有り」と言う文言は見られません.
江戸中期以降になると,飫肥伊東家では家禄高40石以上であれば,寺社領は扨措き,土地の宛行はありませんでした.
飫肥伊東家の知行制は,土地で給与される「地方」と,藩庫に納められた年貢米を支給する「物成」の,2種類で成っています.
そして,大身の者になればなるほど,物成が多くなっていきます.
つまり,下級の家中士には土地を若干ながら支給して自給自足の生活をさせて,生計を維持させ,家計のやりくりの幅を持たせるようにしたものと考えられます.
知行高が2石以下の者については,全て「地方」で対応します.
9石以下であれば,8割が「地方」で支給されますが,基本的に「四ツ成」ですから知行高の4割が支給され,その内の8割が土地で支給と言う事になります.
10〜19石までは6割7分5厘,つまり,67.5%が土地支給で,実際にはその土地の4割の収入となります.
20〜39石までは5割,つまり,半分が土地支給で,実際にはその土地の4割の収入.
そして,40石以上は物成のみです.
因みに,その土地についても,一円支給は余りなく,26石より上の者の土地は,同一村に2箇所,他村に1箇所の割合で宛がわれる事になっていました.
これは,同じ所の地味の良い場所ばかり配当しないようにする為です.
更に,自分の知行高には4割をかけることで正味の知行米を知る,となっており,正味の知行米には定率を掛けることで,支給される土地(田畑)を知る事が出来るとされていました.
しかも,その知行高1石も丸々収入になる訳で無く,備荒救助米である摸合米が1升5合源泉徴収されます.
地方入米についても,額1石に付き,「口米(延米)」2升が徴収されます.
40石以上になると,土地が支給されずに米が支給されますが,摸合米を納める必要がありました.
こうして算出された正味知行米から地方分を確定し,その地方分を知行米から差し引いた残りを物成額として,藩庫から米で払い出されます.
で,例えば高10石の家中士の場合,その給与を計算してみると.
まず,「四ツ成」なので10石のうち4石が実際に支給される知行高となります.
この4石の内,67.5%,つまり2石7斗が土地(田畑)支給となります.
即ち,この生産高分の土地が支給され,この部分は浮免地として全額収入として自作する事になるものです.
但し,高9石の家中士に比べると,先述のように地方の換算率が異なるので,実は9石の者の方が,実質的な給与としては1斗8升分多くなります.
こうした事から,飫肥伊東家では,加増に関しては2石を1つの単位として行っていたと考えられます.
そして,「摸合引」として,10石分の1斗5升,口米として2斗7升の分米5升を差し引くと,最後に残るのが1石1斗8合となり,これが物成支給となる訳です.
但し,この物成分の半分である5斗5升4合は「白米」で支給されます.
つまり,高10石の家中士の年間実収入は,2石7斗分の土地,藩庫から支給される1石1斗8合の米,そして,その内の半分に当たる5斗5升4合が,白米で支給されると言う事になります.
飫肥伊東家の石盛は,田は上々田が分米1石9斗,上田が分米1石6斗,中田が分米1石3斗,下田が分米1石,下々田が分米7斗となっており,畑は上々畑が分米8斗,上畑が分米6斗,中畑は分米4斗,下畑は分米2斗,下々畑は分米1斗となっているので,高10石の家中士の場合,全額浮免地としたら,中田2反に下々田1反,または中田と下田が各1反と中畑1反と合わせて3反程度となります.
原則として,年貢は掛けられない正味取りの所です.
こうした事から,飫肥伊東家で10石取りと言うのは必ずしも左団扇では無く,御番以外の非番日には耕作に精を出す必要がありました.
そして,その給地も百姓の門地と同じように,出来るだけ耕作条件を均等にする為,定期的に割変えられました.
生産物は,1年分の食糧を除いた他は,商人に売ったり,前借りする事が多かったのでその返済に充てられて消えていきます.
この収入では食っていくのがやっとの生活であり,これを補ったのが役付になって支給される「役銀」や「役米」です.
つまり,無役になると一家の収入に影響する訳で,任命された仕事にも精を出し,不正などを行う余地がない状態に追い込まれた訳です.
尤も,それでも食べていけない家中士を救済する目的で,臨時の救助用に「合力米」や「合力銀」が支給される事もありましたが.
こうしてみると,江戸の昔から,サラリーマンの生活は変わりませんねぇ.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/03/23 23:59
青文字:加筆改修部分
【質問】
飫肥伊東家と薩摩島津家との,対立関係について教えられたし.
【回答】
飫肥と言う地域は,公高こそ51,076石です.
その領分中総廻間数では,1646年の段階で合計49里9町13間であり,うち,16里28町は海岸に面しています.
その領内は,「五山・三野・二耕」と呼ばれる様に耕地が少なく,領地3万町歩余のうち,田地は僅かに3,000町歩余,畑地は2,100町歩余となっており,山林が多い地域で,米が余り取れる場所ではありません.
19世紀初めでも,水田は2,833町5反2畝5歩と全耕地の71.9%で,畑地は1,109町2反4畝24歩半で28.1%でした.
この為,林業と水産業,それに商業に比重を置いた経済体系を作らねばなりませんでした.
一方,山林が多いと言う領内は中央部に南北を分ける広大な山地を有し,平野部は城付地である南の飫肥と,北は大淀川を北限とした宮崎平野の南部を占める清武地頭所支配地域に分けられていました.
飫肥城と清武地頭所との間は約10里であり,凡そ1日の行程です.
そして,奇妙な事に一円領内にも関わらず,その中間に広がる山中に「山仮屋」と,七浦七峠の海岸沿いの「鶯巣」に番所を設け,領内の往来を点検していました.
山仮屋の番所は,薩摩島津家や飫肥伊東家が参勤交代に細嶋道中(嶋道中),即ち他国の人々が飫肥街道とか薩摩街道とか言う街道を使用するようになってから重要度が増しました.
山仮屋は,飫肥城と清武地頭所との中間点に置かれています.
その理由は,隣接諸家,特に薩摩島津家との緊張関係にあります.
飫肥城とその城下は戦国時代末期に薩摩に占領された訳ですが,近世でも早くから城地として城も城下町も整っていました.
1599年には鉄炮の重用から種子筒町が整備され,1645年の国絵図作成時に於ては,「御城内は坪数4,685坪,御本丸は2,145坪,大手の枡形は86坪」とあり,城廻り(麓)は,大手・十文字・前津留など合わせて屋敷は187軒を数えていました.
因みに,寛永年間に薩摩島津家はこの地に間者を送り込み,飫肥城の情報を収集しています.
その中には,「普請は本丸と一の丸の間を埋めて一つにする他,新しく濠を掘り,入口も作るかも知れない」と言う報告もあります.
その他,城の口は,大手口・長谷口・水之手口・二重堀口・うらの口の5つの口があり,その口を守るのに,一つの口について大将1名,馬乗衆2名,それに陸衆30名ばかりが張付けられ,それぞれの口毎に「たて板」100丁づつの割当が為されているとされています.
因みに,幕末に至るまで楯板は各要地に大量に備えられていたようです.
また,城下町の町人も2つの口の守備を担当し,町を2つに分けて固めていました.
これは城下の「本町」と「今町」の事で,残りの3つの口には在郷の者が守備に張付けられているようだと報告しています.
この様に,薩摩島津家は,飫肥伊東家を仮想敵と見做して,情報収集に血道を挙げていました.
これは,戦国時代の1541〜1568年に至る島津家と伊東家の確執,飫肥城を巡る攻防の歴史を引き摺っていた為でもあります.
その上,関ヶ原の合戦では,日向国内で只1家徳川方に付き,宮崎城下を中心に日向国全体を戦争状態に陥れたり,1599年には伊集院幸侃の「庄内の乱」では,伊東家の家士が伊集院氏に魚塩を送って,これを支援したと言う風聞もあり,伊東祐兵に対する警戒の念を緩めていなかった訳です.
一方,飫肥伊東家の方も薩摩島津家を仮想敵に定めていて,こちらも緊張の糸を少しも緩めていなかった訳です.
とは言え,時代が下って1670年代になると,飫肥伊東家の領内の人々が魚塩商売の為,薩摩領内に赴く事が多くなっていきました.
彼らは飫肥から,薩摩島津家の国境警備屯所である,山之内郷(現在の都城市の旧山之口町域)にあった番所を通って,薩摩島津領内の高城,高原,野尻,都城,勝岡,財部,末吉方面に向かって行ってます.
しかし,当時の薩摩は日本の中でも更に鎖国体制を採っており,魚や塩を売る商人でも「国証文」や「寺証文」が無いと通行が出来ませんでした.
しかも,山之口番所は青井岳の難所を通る事から,魚塩売りでも此処を通り慣れたもので山之内郷の所衆(郷士)をよく知った者のみ通すと言う事になっていました.
飫肥からでも,初めて薩摩領に赴く場合は,穆佐筋本道,つまり,穆佐院であった高岡郷去川関所を通らねばなりません.
即ち,山之口番所は魚塩の商売で往来が頻繁で,尚且つ,この通路の事情に通じた人でなければならないのです.
因みに,この飫肥から薩摩山之口郷への道筋は,僧俊寛一行が流された道であり,非常に険しいものの,中世以来「魚塩の道」となって来たものでした.
この為,庄内の乱でも,島津義弘が「伊東氏の家中より魚塩などを下々通し候由」と心配していた道でもありました.
その後,伊東氏からの工作員や軍勢がこの街道を通って攻め込んでくる事を恐れた薩摩島津家は,元和年間にこの街道の通行を規制すべく,古大内に番所を設置し,1684年には一之渡に移設され,1823年以来,「山之口番所」と呼ばれる様になりました.
この他,1627年に「飛松辺路番所」,1637年に「日当瀬辺路番所」が設置されています.
1628年には薩摩島津家中に対し,藩庁から番所に関する19条の条々が出されました.
1676年になると,魚塩の代価としていた穀物の領外移出が停止されました.
従来は,他国からの魚塩商人に対し,持ち込んだ魚塩の代価として受け取った米・茶・雑穀などを領外に持ち出す場合,「荷一駄」に付き,「銀二分五厘」の運上銀を山之内番所で徴収して通らせていました.
因みに,「荷一駄」とは馬1頭の背に背負わせる荷物ですが,重さ40貫目の荷物のことをも指します.
しかし,1676年3月20日以降はそれを禁じたのです.
1677年には「手形所印形改」によって,海陸とも薩摩島津家から他領に赴く商人の通行が改められ,一方で他領から薩摩領内に赴く商人に対しては,番所送状や国証文の改め,滞在日数の制限が課せられています.
丁度,この時期は飫肥伊東家との間で,40年に亘って続けられてきた牛之峠の境界を巡る紛争の論議が激しくなり,1677年に幕府評定所による裁定が下されようとしていた時期です.
つまり,1つには仮想敵である飫肥に流れる資金を減らそうとしたと言う目的もありますし,魚は兎に角,塩については1人当り1斗必要とされていたのですが,その塩も,自国領である大隅国浜の市や志布志から庄内地方に対して移出出来るくらいの量が生産出来るようになり,薩摩から庄内地方への交通事情が改善されたからでもあります.
結局,飫肥の人々は庄内地方に魚塩商売に行く事が出来なくなりました.
塩についても,自領内生産の塩は次第に少なくなり,代って瀬戸内海産の塩が移入されるようになります.
しかし,薩摩相手の貿易の旨味が無くなっても,飫肥の商家は伊予など各地との交易を続け,高鍋や佐土原,延岡など他領との中継貿易を盛んにやっていました.
瀬戸内からは塩が入る一方,日向からはそれを生産するのに必要な膨大な薪を送り出していた訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/03/20 22:40
青文字:加筆改修部分
【質問】
幕府と飫肥伊東家,島津家との間の「国絵図論争」とは?
【回答】
さて,1697年閏2月4日,江戸参勤中の伊東大和守祐実は,江戸城中に呼ばれ,武家伝奏の公卿2名の接待役を命じられました.
所謂,勅使御馳走の役になります.
有名な,浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に切りつけた事件の,4年前の事です.
これは諸大名に命ぜられる役ですが,諸大名にとっては,仕来り慣例など有職故実が重視される事から,緊張する大事な役であり,しかも出費が大きい役目でもありました.
その事もあって,その仕来りを飫肥伊東家では,「伝奏御馳走被遊候節諸事覚」として纏め,江戸詰役人の大事な心得としています.
同じ日,もう1つ江戸城中に於て,飫肥伊東家にとっては記念すべき事がありました.
こちらは寺社奉行井上大和守正岑,永井伊賀守直敬,松平志摩守重栄,大目付仙石伯耆守久尚,町奉行能勢出雲守頼寛,河口摂津守宗恒,勘定頭井戸対馬守良弘,荻原近江守重秀列座の評定所へ,薩摩の島津綱貴の留守居赤松陣右衛門則茂が呼び出され,下記の書付が下されました.
――――――
去往正保四年献列国之地図,雖然今改旧新画薩隅二州及琉球国之地図,且日向一国之地図者相議伊東大和守祐実,校正村里郡県国境而可調進之,是台命也
――――――
つまり,「1647年に各国の地図を作成して献上して貰ったが,今回古い地図を改めて新しい薩摩と大隅2カ国と琉球国の国絵図を作成すること.
日向国については,伊東大和守祐実と相議して,村里郡県国境を校正して,国絵図を作成して提出せよ.
これは将軍の命令である.」と言う意味.
この命令が飫肥伊東家にとって画期的だったのが,日向国については,島津氏と伊東氏が「相議」して作成せよと言う部分です.
幕府への提出の際には,連名になる事になります.
日向国の他家の場合や天領の場合は,島津氏が一括して作成するので,自分の領国の絵図を仕様に従って作成したものを島津家に渡し,日向一国の絵図を仕上げる事になります.
しかし,伊東家との部分については,島津家の一存では無く,伊東家の意見も汲み取って作成しなければなりません.
中世以来,島津家は薩摩,大隅,日向3カ国の太守としての矜恃を誇っている国持大名であり,南九州の旗頭としての存在を誇示していました.
ところが今回の命令は,そうした戦国の遺風を振り払う様な,将軍家からの命令だった訳です.
これは豊臣家を滅ぼして,日本国内に敵がいなくなった徳川家が,様々な政策を通じて,他の大名家に対して圧倒的な力を誇示すると共に,家光以来の幕府の大名に対する統制強化がいよいよ本格的になってきたことを意味します.
日向では既に,外様大名であった延岡の有馬家が領内山陰組の百姓逃散一揆が原因で,越後糸魚川に転封(実質的に左遷)され,代って,譜代大名である三浦家が入封しました.
一方で,宮崎平野を中心に天領が一揆に拡大し,飫肥伊東家が分知していた松永村,南方村の2箇所の村も,1689年には天領となっていました.
この様な貞享での絵図作成であり,島津氏にとっては牛之峠論所の再来とも言うべき事態でした.
牛之峠論所では伊東家に,島津家は一敗地に塗れた訳ですが,この事もあり,島津家は猛烈な巻き返しに出ました.
1697年から1700年2月まで,正保絵図の作成と同様に,「大隅守一人の名付けにて納めたい」として先例通りこの仕事を命じて頂きたいとする,懸命の運動を展開しました.
その上で打ち出された島津家に対する,今までの幕府の回答は,「島津を牽制する」と言う事に尽きました.
此処で伊東家が脚光を浴びたのは,再度の内検による石高引上げ披露や御普請役,それに軍役の功が,幕閣の印象を良くしたからに他なりません.
とは言え,この国絵図論争では,島津家の運動が功を奏し,1700年,改めて幕府は,「先例之通り」島津家1人の名に於て三州の国絵図を提出することを認めました.
これについて,伊東家の方は「御大身故」と些か皮肉を込めて記録しています.
兎に角,島津家の名前で三州の国絵図を提出を認められたことから,初めて,日向の各大名家や天領に対し,幕府の絵図作成の「御触の御口上」を届けました.
口上を諸家に届けるのが遅れたのは,「中山国(琉球)の絵図作成準備が遅れた為」としていますが,実際には先に見た様に幕閣に対する島津家の働きかけの為に他なりません.
しかし,南九州の三州旗頭であった島津家でさえ,幕府の動向に神経を尖らせなければならなくなったと言う意味では,幕府が行った統制策が実を挙げてきたことを示しています.
この口上を受け,飫肥伊東家では12月14日に,家老4名連名の書状で,我が家では松浦助右衛門と木脇小三郎に命じて下絵を作成させるので,「御遠慮なく御指図成し下され候」と回答し,1701年2月9日,「大和守領分の絵図相調い申し候故,松浦助右衛門と申す者に持たせ差し越し申す」として,「諸事に御下知成し下され候」と書状を送っています.
この時は一度手直しを指示されたので持ち帰りとなり,3月21日に再び松浦と木脇両人が持参しました.
今回は受取が成され,これが将軍家に提出されることになった訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/04/06 23:35
青文字:加筆改修部分
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