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◆◆◆◆島津家
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<◆江戸時代 目次
<戦史FAQ目次
(画像掲示板より引用)
【質問】
薩摩藩の庶民教育の状況は?
【回答】
維新の大回天に長州と共に大きな力を発揮した薩摩藩には,寺子屋教育が殆ど皆無と言って良い位です.
寺子屋は鹿児島市内に僅かに1カ所,川辺郡13カ所と大島郡の5カ所を合わせて総計19カ所しかありません.
ただ,これは明治期の調査であり,中央政府の手になる学事統計への各府県当局の調査の協力体制によって数が左右されたりしました.
つまり,薩摩や大隅と言った,鹿児島県を構成している殆どの地域の調査が,全く為されていなかったとしか思えません.
西南戦争の後の調査だっただけに,人心の荒廃や中央政府への敵対感情があったとも考えられます.
が,実際,庶民教育は薩摩藩内で軽視されてきたと言えます.
その原因は,士族の人口比率の高さです.
明治期の調査で,士卒合わせて203,711名と言う数字は,総人口の実に26.4%に達し,全国平均の5.7%を遙かに上回ります.
その大部分は郷士であり,彼等はまた,各在所で農民を直接支配する存在でした.
先に見たように,農民は租税で八公二民,公役の如きは「月35日」と言うとてつもない数字を課せられていました.
つまり,農民の側から見れば,土着の郷士層を通じて絶えず苛斂誅求の対象である事を強制された訳で,文字通り「由らしむべし,知らしむべからず」を地で行く状況に甘んじるしかありませんでした.
教育と言うのは,生活に余裕が出来ることで初めて行えるものですが,薩摩藩内の農民達は全くそうした余暇を許されることが無かった訳です.
また,町人についても同じ事が言えます.
大坂の様に,商売をするには読み書き算盤は最低限必要な学問です.
しかし,薩摩では重要な国産品は総て藩専売として独占されていましたから,そこで商業資本を発達させるのは非常に困難です.
従って,町人人口そのものが寡少な存在で,その大部分は零細小商人,つまり,士族の御用達を務める類でしか無かったので,読み書き算盤すら需要は貧弱だったと思われます.
勿論,小規模とは言え,経済活動なのですから,文盲とか金勘定が出来なければ商売にはなりません.
ただ,大規模な教育市場が無かったが故に,この手の教養や知識は家庭教育や徒弟奉公で間に合わせたのでは無いかと考えられています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/08/02 23:24
青文字:加筆改修部分
【質問】
薩摩藩は,豊かな藩だったのですか? それとも貧しい藩だったのですか?
【回答】
外様なので質素倹約,質実剛健を旨としていました.
薩摩では,領内を113の区画に割り,それぞれに地頭仮屋を設け,その周囲に「麓」という武士集落を作って,その地域の行政を管轄させた.
これを外城制度といい,一朝事あるときには,そのまま麓の武士が軍団を形成し地頭の指示にしたがって動員される仕組みであった.
薩摩藩は加賀102万石につぐ天下第二の雄藩で,俗に77万石といわれる.
しかし,これは籾(もち)高であり,他藩なみに米高に計算すれば37万石程度となり,農業的にみれば裕福な藩ではなかった.
そのうえ,総人口の約4分の1(全国比率の約6倍)という,多くの士族を抱えており,財政面でも苦しんでいた.
そのため麓の武士は,外城衆中(郷士)として,平時は農耕によって生計を立てていた.
土地は火山灰で痩せていたので,貿易・畑作の工夫に立脚した産業育成が行われていた.
また,奄美の砂糖や琉球を介した密貿易で潤っていた,とも言うが,宝暦の長良川河川改修で膨大な負債を抱えたともいう.調所広郷が数万両もの借金を250年にわたって返却するという契約を強引に取り付けた話もある.
豊かなのか,貧しいのか・・・
【質問】
琉球使った密貿易で,薩摩はウハウハだったんでしょ?
【回答】
ウハウハになったのは江戸時代も終盤.
中国で日本の昆布がやたらと珍重されることが分かって,松前藩から出荷された昆布を,薩摩が大阪で買い付けて,琉球経由で売りまくり,外貨を稼いだ.
いくら調所が敏腕だったからといって,何の引き換えもなしに実質上の借金棒引きとか受け入れさせられるわけがない.
大阪商人も密貿易に自ら絡んで美味しい思いをしてたから,返せるあてなんか無い借金より,これからの薩摩とつきあい(密貿易の取引相手になる優先権)を取った.
幕末の薩摩の軍資金をささえたのは,アイヌ人が取ってきた昆布.
漫画板,2014/11/24(月)
青文字:加筆改修部分
【質問 kérdés】
給料だけでは生活ができないので農業と兼業.
戦争が始まれば鉄砲を担いで参戦.
足止めの捨て奸もいとわない.
薩摩ってもしかしてブラックなのでは…?
【回答 válasz】
一応年2回作物が取れる前提で,そのうち1回の収穫に対して8公2民.
残りの1回は無税なので,理論上は2で割って4公6民という計算になる.
ただし,薩摩でも米を二期作できるところは限られてるから,二毛作のもう一回ってイモとか雑穀とか,米に比べたら商品価値もなくて収量も少ない作物になる.
(他所のもっと寒い土地よりはマシだけど)
江戸時代通したら,一番年貢が厳しい藩と言って過言じゃない.
同じく武士が多すぎた上杉とかも酷かったけど.
なお,天領は税率だだ下がりで平均で三公切ってた上,米作りが休みの時に作る作物については殆ど無税だったので,幕末では実質税率の低い(米以外の収入が多い)ところだと0.5公ぐらいだったという.
そりゃ,多摩の農民は金持ちにもなるし,必死に幕府守ろうともしますわ.
漫画板,2017/09/08(金)
"2 Csatorna" Képregény BBS, 2017/09/08(péntek)
青文字:加筆改修部分
【質問】
門割制度とは?
【回答】
さて,外城の配下には「門」と言う単位という単位があります.
「門」とは,農村に於ける農民達の農業経営や村落生活の単位体となった組織であり,同時に,藩権力による公的な村落行政支配の基本の単位体ともなっていた農民組織です.
そして,「門割」とは江戸時代の薩摩島津家の検地事業の際に,耕地の割替えと「門」農民達の所属配置換えをセットにして,藩が同時並行的に行った農村秩序の再編成です.
「門」及び「門割」が形成され,成立していく過程を見ると,次のようです.
領内の農民達を「門」に組織して治める,薩摩島津家の農村支配の方法が始まったのは,江戸期よりも前でした.
1587年,九州征伐により島津義久が豊臣秀吉に降伏した後,秀吉は1594~1595年にかけて島津氏領の太閤検地を実施します.
この最初の領内総検地の後,
1611~12年の慶長内検,
1632~33年の寛永内検,
1657~59年の万治内検,
1722~27年の享保内検
の4回の内検が行われています.
そして,こうした内検を通じて,島津家では領内の農民達を総て「門」に組織づけ,その組織を通じて支配すると言う農村支配の仕組み,「門割制度」が徐々に生み出されていきました.
この4回の内検の内,3回目の万治内検前後の頃から,島津家は領内農村への強い権力干渉を始め,内検を含めた検地事業を通して,藩の農村秩序を自らが理想とする方向の支配体制に強引に改編していこうとする,積極的な農政を展開して推進します.
こうして,島津家の農村社会は従来とは大きく変質し,変貌していくことになります.
この内検では,それぞれの村の門毎の耕地の面積とその状態(等級など),個々の農民の年齢,性別,身分,健康状態,各門経営体所持の牛馬などの役畜数に至るまで,それぞれの門の農業経営の実態についての厳密な調査が実施されます.
この作業を島津家中では「御検地」と呼びました.
普通,こうした検地の後,幕府や諸大名家では,大方の場合,各村の農民達の新たな耕地面積とその等級などによる石盛が為され,年貢賦課他諸役が定められ,検地事業が終了しますが,薩摩島津家ではこれに加えてもう1つのステップ,門の再編成が為されます.
これは,各門の農民達の年貢,諸役負担の平準化,公平化を企図し実施するものです.
門の経営規模の基準を設定して,その基準をクリア出来るように,各門の適量面積の配分とその門の適正農民労働力を配置し直す再編作業のステップであり,これは即ち以前からの伝統的な門農民の家族構成や社会関係をも解体することとなります.
これが「門割」と呼んでいる作業となります.
万治内検,享保内検の場合は,御検地と門割がセットになっていました.
例えば,享保内検では一部の例外農村を除いて,薩摩,大隅,日向諸県地方の藩領3州のほぼ全域の農村に於いて,薩摩島津家は御検地とその後の門割によって,1村単位若しくは村を幾つかの地域に区切っていた方限と呼ばれる地域ブロック単位毎に,その域内に有る門の農民労働力,特に15~60歳までの用夫と呼ばれる健全な農民男子労働力が大凡等しくなるように農民配置を行う一方で,これら門に対して門高,その主な内容は門保有の田畑を大体均等に配ることによって,1村若しくは1方限内にある門の農業経営条件を均質,均等にして農民達を治める事に努めています.
薩摩国宮之城郷時吉村(現在の薩摩郡さつま町)の場合,享保内検前後だと時吉村の23門全てが22石2斗~3斗台に経営規模(門高)がほぼ均等に設定され,各門に配属されている用夫農民は23門の内21門までが2名とほぼ平均化され,2門のみ用夫3名となっています.
従って,各門が持つ生産力条件は著しく平準化されている訳です.
また,1724年の大御支配門割で成立した薩摩国薩摩郡入来郷(現在の薩摩川内市入来町)では,当時そこに存在した副田村は,大きく3つの方限に分けられて行政支配を受けていたのですが,その内2方限の38門の内,36の門は,何れも26石台後半から27石台前半に門高が均等化されており,用夫農民は2名前後が分布の中心を為していました.
大隅国でも事情は同じです.
1725年の大隅国姶羅郡山田郷(現在の姶良市)の上名村の記録では,当時の上名村には37門・3屋敷の合計40の農村経営体がありましたが,この内,資料で判明している26門・3屋敷の経営規模は,門経営体群の門高は,何れも平均的に21~22石台に設定されており,これに所属する用夫農民数も,2名を中心にほぼ平均的に分布していました.
日向国も同様です.
日向国志布志伊崎田村(現在の志布志市有明町)の1方限の21門の内,19門は約30~32石台に門高が設定され,それに割り当てられている用夫農民数は7名と平均化されています.
その一方で,門高20石台の用夫農民は何れも4名となっています.
日向国飯野郷池島村(現在のえびの市)の場合も15門の内,11門の経営規模は総て36石前後に設定され,配当された用夫農民は2~3人でした.
なお,この池島村には中核的な存在を担っていた杉水流門と言う門があり,これは他の経営規模が36石前後なのに対し,約50石を有し,用夫農民も4名が配置されています.
残りの3門は27~30石台であり,平準化された門高よりやや低く,恐らく耕地状況による地域的差異の問題であろうと考えられています.
何れにしても,薩摩・大隅・日向の薩摩領の本土地域に於いては,地域によって差があるものの,均一若しくは平均的な門,屋敷経営体群で占められた均分農村が全領で出現していました.
なお,享保内検から明治に至るまでは薩摩島津家では領内総検地を実施しませんでしたが,局地的な検地は,藩内各地で行われ続け,総検地の補正が行われていました.
これは新田・新耕地開発に伴うアンバランス状態の発生による,各経営体の平準化を行う為のもので,親疎門割と呼ばれる場合と,村落が深刻な疲弊と困窮に喘ぎ,荒廃・崩壊の危機に瀕している村が生じた場合,農民の加重負担の軽減を図り,経営体力回復の条件を整備する為の御救門割の2種類に分かれます.
例えば,1819年,日向国高木郷大井手村(現在の都城市高城町)で行われた御救門割では,村落再建の後,大井手村38門は約8割が25石台に集中的に分布し,残る8門も近接した23~24石台に分布します.
これに割り付けられた用夫農民数は0~3名の分布ですが,20門は2名,15門は1名となっていました.
また,1834年に御救門割を受けている薩摩国伊作郷中原村(現在の日置市吹上町)の場合,この検地門割で初めて中原村に編入されたのが亀原屋敷であり,この亀原屋敷は門割以前は,中原浜在郷として半浦の扱いを受けています.
亀原屋敷は保有高43石余と突出していますが,残りの13門の内12文は14~15石台に集中的に分布し,残り1門も13石台と近接した状態です.
これに配属された用夫農民数も,8門が4名で,4門が3名,1門が5名となっており,殆ど均等に近い割付となっています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/07/29 23:11
青文字:加筆改修部分
【質問】
薩摩島津家の農業政策は?
【回答】
薩摩島津家は,外城制度では検地と門割にて,時々農地とその生産に従事する人々を再編成してきました.
こうして,細かく検地を繰り返し,生産高を再編成することで,農地の状況を極めて正確に把握してきた訳です.
城下士,郷士,私領の家中士と言った島津家中の士は,島津家の総石高約73万石の籾高の内,蔵入高,即ち藩庫からの収入が約4割を占め,残りの約6割は給地高から分配を受けていました.
その平均高が,城下士に高く,郷士などには低く抑えられていました.
従って,門地からの収入は,藩庫と藩士の取り分になります.
その一方で,城下士や郷士などは,自作・自収の耕作地(抱地,浮免地等)を有していました.
これら藩士の耕作地に課せられる税率は概して低く,農民の場合と格差がありました.
先ず,農民の門地に課せられる貢租は,籾高1石(米にして5斗)に付き米3斗9勺8合で,税率は実に79.6%に達し,八公二民と言う篦棒な額になります.
また,農民の永代使用が認められる永作地と呼ばれる開墾地も「3年作取,4年竿入」と言う条件となっているので,3年間は兎も角,4年後からは同じく79.6%の貢租が課せられることになっています.
これに対し,藩士の場合は,郷士の自作・自収地である浮免地では籾高1石に付き米9升2合であり,税率は18.4%に過ぎず,藩士の開墾地である抱地(持留地)は同じく米8升2合で16.4%,但し,此の場合も「3年作取,4年竿入」でしたが….
何れにしても,農民と藩士では税率が全く違っていました.
更に,農民には15~60歳の健全な男子に用夫役,狩夫役等が課され,更に上木高と呼ばれる,柿1本,漆1本に各籾1升と言うように,樹木その他を籾に換算する「附け籾」と言う制度があり,その他にも高掛納物があると言う状況で,これだけの重税の下,薩摩の農民階級はどの様に生活していたのか?と言うのが,疑問を抱かざるを得なかったりする訳です.
また,17世紀後半頃から,農村人口などの藩規模での移動を図り,その分布調整も勧めています.
その場合には,隣村に移る(村移り)者,他郷に移る(人移し)者等がありましたが,大規模な場合は,南薩地方の西目から,都城,小林,飯野その他の東目と呼ばれる地方へ集団移動する場合もあり,これらを称して,「人配(にんべ,にんばい)」と呼んでいました.
これは労働力豊富な農村地域から,「籤取り」で農民を選び出して集団移住させ,農村の開発経営や荒廃防止を図る政策を実施したものです.
この時期は,薩摩島津家中で積極的に新田開発事業が展開された時期であり,新開発地の経営と共に,疲弊した農村の復興を図る意図があったと考えられます.
こうした,苛斂誅求とも呼べる薩摩島津家の農業政策に対して,農民の抵抗は殆どありませんでした.
唯一発生したのが,1858年11月18日に川辺郡加世田郷の1郷士が,他の郷士達に檄を飛ばして決起を促し,それに農民達も呼応した加世田一揆でしたが,これは農民一揆と言うよりも,郷士層内部の対立が表面化したものと受け止められています.
即ち,郷政の核を為している麓郷士に対し,農村部に居住する在村郷士の不満が噴出したものです.
この為,単純な農民一揆とはやや性格を異にしています.
幕末になるにつれて,島津家の強固な農民支配体制も変質していき,藩士に禄高の売買が許されていた為,郷内では上級郷士による禄高の集積が進み,上級郷士と下級郷士の格差が拡大しつつあった訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/07/30 22:56
青文字:加筆改修部分
【質問】
薩摩藩の養豚について教えられたし.
【回答】
鹿児島で肉と言えば,鶏か豚のどちらかでした.
しかし,戦後,高度経済成長の波に押され,経済動物である豚は,量産性と効率が優先されて白豚ばかりとなり,豚肉本来の味がどんどん落ちて,それに伴い消費も落ち,現在では鹿児島県は鶏肉型に分類されてしまっていますが,豚肉の消費も結構あったりします.
薩摩ではごく最近まで,仏教的な理由で,労役に使う牛や馬は食べてはいけないと言う習慣がありましたが,鶏と豚に関しては『歩く野菜』と言われ,自家飼いをし,祝事や行事の際には気軽に潰して食べていました.
これが,同じ九州でも大分なんかでは明治に肉食が解禁されても,肉食禁忌は収まらず,大正,昭和であっても,すき焼きをする場合は,神棚から見えない所で食べていた程です.
鶏肉は兎も角,所謂「四つ足」である豚が薩摩で禁忌にならなかったのは,琉球や奄美群島など,後に薩摩島津家の支配下に置かれる事になった地域が豚肉食を行っていた事,薩摩島津家が若人の軍事教練の為,狩りを奨励した事,中央から遠かった事が原因としてあげられています.
1782年に薩摩を旅した伊勢の医者,橘南谿は,西国を旅した旅行記である『西遊記』に,「薩摩は武国にて,若き人々山野に出でて,鳥獣を狩る事他国よりも多し」と書いています.
薩摩での豚飼いの最も古い記録は,1546年に山川港に来航したポルトガル船の船長であるジョルジェ・アルバレスの『日本報告』で,描かれているのが最初です.
これは倭寇で中国大陸に渡った人々が中国人と同様に,豚肉食の習慣を受容れた為であろうと考えられています.
次いで記録に表れるのが,1609年.
薩摩島津家は,琉球と奄美諸島に侵攻します.
薩摩は軍船100隻と兵3,000名を派遣し,2ヶ月間遠征しましたが,その間,食料は戦国時代の威風を引き摺っている事ですから,現地調達が為されたと考えられ,大勝した薩摩は,琉球王などを連れて凱旋しますが,その際の戦利品として島豚を持ち帰ったと言う記録があります.
因みに,琉球に豚が広まったのは1385年に察度中山王の使者泰期が,明から帰国する際に種豚を持ち帰り,人々に配って,飼養と繁殖を図り,肉は食用に供したのが最初とされています.
当時,琉球は明とは冊封関係にありました.
この為,琉球王が交代する際には,皇帝が彼を王として認める為,本国から封爵の為の使者を遣わします.
これを冊封使と言いますが,この冊封使は,1回400~500名で,4~8ヶ月も琉球に滞在しました.
冊封使が消費する食糧は膨大で,特に1日20頭を要する豚の確保には苦心し,琉球だけでは足りず,与論島,沖永良部島,奄美大島,徳之島,喜界島から取り寄せて間に合わせた記録もあります.
この冊封使は,15世紀から19世紀まで22回やって来ていますが,この供応の為にも,養豚が奨励され,奄美大島は豚の供給地としての役割を担っていました.
薩摩島津家の侵攻後,琉球王国は形式上は明(後に清),実質上は薩摩島津家と言う二重支配を受け,薩摩島津家は,琉球統治の為に,薩摩仮屋を設置し,薩摩には琉球仮屋(後の琉球館)を置きました.
両国の行き来は,以後盛んになり,その中に豚も含まれていました.
1800年代初期の『薩摩風土記』と言う書物には,「夏の内は,琉球より塩漬の豚を下す.至ってかうぶつ(好物)なり,風味宜しきものなり」と書かれて居ます.
また,奄美大島,徳之島,喜界島,沖永良部島には代官を派遣し,常に奄美群島全体で数十人の本土派遣の役人がいました.
彼等は城下士など中堅の武士ですが,その日記などには頻繁に豚料理の饗応が出て来たり,本土行きの船が出る際には反物や泡盛と共に大量の豚肉を自宅宛てに送ったり,知人宅に贈っています.
又,何かの行事,例えば,部下の元服とか役所の屋根の葺替え作業などの際にも頻繁に登場し,其所には全く禁忌を感じさせません.
更に,賄賂としても豚肉は多く使われ,薩摩本土からの役人が赴任する時や,彼等が離任する際には,現地採用の島役人達は彼等に焼酎などと共に数十キロ単位で豚肉を送っています.
この為,薩摩島津家から,度々島役人達に対し,豚肉,焼酎,反物の贈物禁止令を出していたりします.
倭寇や琉球だけでなく,第三の道もありました.
明が滅び清が興ると,明の遺臣が日本に亡命してきます.
彼等は,政府高官は元より,医者,学者,技術者など知識階級が多く,各地の大名家に迎え入れられましたが,薩摩も例外ではなく,片浦の林家,国分の林家,阿久根の河南家,鹿児島の頴川,汾陽家,加治木の江夏家,薩摩から離れますが,島津分家筋に当る都城の天水家,江夏家,清水家などがあります.
彼等は,国分,坊津,都城に唐人町を形成し,地域社会に溶け込んでいきます.
例えば加治木に落ち着いた黄(江夏)有賢は,鹿児島城下町の都市計画や鶴丸城の建設に寄与しましたし,郡奉行としては汾陽氏が知られています.
彼等は,祖先以来の祭祀を絶やさず,それには豚肉が供物として供えられたりしました.
従って,彼等を通じて,豚肉食が広まった可能性も否定できません.
薩摩を訪れた頼山陽は,鹿児島での食べ物を描いた漢詩で,「豚肉竹筍旅飯腥し」と詠んでいます.
ところで,ロシアに漂着した薩摩の少年ゴンザが編纂した世界初の露日辞典にも,豚肉に関係する語が出て来ます.
舵手の息子であるゴンザは当時10歳で,彼にとっては初航海でした.
しかし,薩摩から大坂に向けて航海の途中,嵐に巻き込まれ遭難.
半年間,海上を漂流して1729年2月に,カムチャツカに漂着しました.
此処で現地守備兵の襲撃などで,17名の生き残りの内,ゴンザと25歳年上のソウザだけが生き残ります.
彼等は,奴隷になったり,護送されたりと様々な苦難を経ながら,広大なシベリアを横断し,5年後,首都ペテルブルクに連行されました.
其所で,ゴンザは日本語学校教師となり,ソウザが43歳で死去した後,たった1人の日本人として,辞典の執筆に命を費やし,2年で辞典を完成させて,その1年後に21歳で病死しました.
ゴンザの『新スラヴ・日本語辞典』は収録語数12,000語に上りますが,例えば,若者のことを「ニセ(二才)」としたり,ワインを「ショチェ(焼酎)」とするなど,薩摩弁が随所に鏤められています.
その他,神は「フォドケ(仏)」,悪魔は「ガワッパ(河童)」,ビールは「アマザケ(甘酒)」,ライオンを「トラ」と訳していますが,自分の概念に無い言葉は,彼は知っているものに置き換えています.
また,野牛の肉は空白となっていて,彼が牛肉を知らないと考える事が出来ます.
一方で豚に関する語彙は豊富で,ハムを指し示した「シヲシタブタ(塩した豚)」,豚肉を「ブタンミ」,豚小屋は「ブタヤ(豚屋)」,去勢豚は「オブタ(雄豚)」,干し豚は「フタブタ(乾た豚)」,豚の出産は「ブタンコモツ(豚の子持つ)」などとなっていて,当時の庶民階級にも豚肉食は普遍的であったことを物語っています.
「塩した豚」は,薩摩の塩豚のことと考えられ,冬期屠殺して塩漬けにした豚肉を竹皮に包んで担い売りしていた記録もあり,又,長期航海の際のビタミン補給に,蜜柑,山川漬などの漬物と共に塩豚が搭載されていたと考えられ,ゴンザがその言葉を知っていても不思議ではないと言います.
因みに,ゴンザの編纂した『新スラヴ・日本語辞典』では,ロシア語の「愛情」や「楽しい」は空白の儘でした.
また,祖国の事は「生まれた国」と訳していますが,多感な少年時代をシベリアからペテルブルクまでの苦難の旅で費やし,愛情も,楽しさも体験する事はなかったのでしょう.
そして,ゴンザはその「生まれた国」を二度と見ることなく,異国の土となったのです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/02/26 23:38
薩摩では,庶民レベルや中堅役人達は結構豚を食べていたのですが,島津家の上つ方はどうだったのか?
1661~1681年頃に編纂された島津家の料理関係文書『御献立留』を調べると,全133例の献立の内,獣肉を使った料理は,実に29例あります.
この中からは,鶏などの鶏料理は除かれています.
これを,肥後細川家,長洲毛利家,加賀前田家,尾張徳川家の献立と比較すると,獣肉が献立に出て来る大名家は殆ど無かったりします.
この29例の料理の内,猪が9例,鹿が8例,残りは「にく」としか書かれて居ませんでした.
獣肉料理は15例が琉球王など琉球関係者の接待でしたので,この「にく」が豚肉を表わす可能性は否定できません.
流石に,表を憚って,狩りの産物である猪や鹿は書けても,食肉用に飼っている豚は書き残せなかったのではないかと言われています.
1774年,島津重豪が鶴丸城の東隣にあった琉球仮屋を訪問した際,重豪に供された献立の前半は和風料理ですが,後半は中華風の料理で,その中に「金華豚」と言う記述が出て来ます.
即ち,上つ方でも普通に豚肉を食していたと推察出来ます.
重豪は,江戸でも豚料理を振る舞っています.
例えば,江戸上屋敷で儒学者である林大学頭や『甲子夜話』の作者である松浦静山が饗応を受け,甲子夜話にはそのメニューが出ています.
こうした豚肉になった豚の供給源としては,塩漬肉が江戸表に送られただけではなく,屋敷で飼っていた記録も散見されます.
佐藤信淵が1827年に著した『経済要録』では,「薩摩藩江戸邸で飼われている豚は,その味が殊更上品で,これを普及すべきだ」と書かれています.
既に,一部の人たちには有名だった様です.
この豚の飼育は幕末1854年になると,可成り大胆になり,高輪の薩摩屋敷では中間等が,残飯で豚を飼い,これを屠殺してその肉を食い,そればかりではなく,周辺に売っていたと言う記録が出て来ています.
更に時代は下って,1845年のこと.
世嗣だった島津斉彬は,水戸徳川家の当主徳川斉昭と盛んに書状の遣り取りをしていました.
斉昭と言えば,井伊家との間でも牛肉を所望したりした当主ですが,斉彬も,日本の国防について意見を交わした折,贈物として斉昭に豚肉を送っています.
この豚肉は,塩豚であろうと考えられ,例えば,1845年5月2日の書状では「豚肉進上仕候」と書かれており,114月7日の書状には,
「豚肉は此の節は時節も後れ,風味も如何かと思いますが…お好きに付き進上します」
と書かれて居ます.
この塩豚は昨日にも書いた様に,冬の厳しい時に仕込み,年間を通じて保存できる代物ですが,11月になるとほぼ1年が経ち味が落ちます.
斉彬はそれを知っていたからこそ,こうした書状を認めたのでしょう.
因みに,斉昭の返事には,
「豚肉は相変わらず美味しくて,愛でながら沢山食べた」
とあります.
水戸斉昭と島津斉彬の交友は,1851年,斉彬が薩摩島津家を継いでからも続きます.
1857年の将軍継嗣論争では,斉彬は斉昭の7男慶喜を推す一橋派の中心人物となり,井伊直弼等の南紀派と激しく対立しています.
正に豚と牛の闘争だった訳です.
因みに,島津斉彬が水戸斉昭に豚肉を送っていた時期は,慶喜が斉昭の元で暮らしていた時期と重なっていたりします.
となると,斉昭に送られた豚肉は,慶喜もお相伴に預かっていた可能性があります.
ところで,1866年の薩長同盟の場にいた人物で,長州の木戸孝允,土佐の坂本龍馬,薩摩側の代表小松帯刀,西郷隆盛,大久保利通と並んでいたのが,家老の桂久武と言う人物です.
彼は,『上京日記』と言う記録を残しており,薩長同盟の場面もこの人の筆に依る所が大きいのですが,同盟締結後,坂本龍馬が伏見屋で襲撃されるなど,騒然とした中で,2月10日の条に,「八ツ時分より豚飯致させ候」とあります.
豚飯は,奄美地方のごく少数の集落に伝わる料理で,年末に塩漬けし,保存していた塩豚が少なくなる3~4月頃に,三枚肉の部分を塩抜きして小豆大に切り,米と一緒に炊き込み,干し椎茸と金糸卵,小口切りにした子葱,大根の味噌漬,もみ海苔に臭い消しとして微塵切りの生姜を添え,鰹節と昆布,椎茸のだし汁をぶっかけたもので,鶏飯の変形です.
桂久武は,1862年に大島警衛方として,奄美に渡り,此処で盛んに豚や猪の肉を口にしています.
1865年の年末に故郷薩摩を出て,京料理ばかりに飽きたのか,麦飯やら蕎麦切りと言った故郷の料理を懐かしがったりしています.
豚飯は,彼にとって,故郷の味だったのかも知れません.
でもって,薩長同盟の代表者である小松帯刀は,慶喜に往生していました.
薩摩本国に居た大久保利通に宛てた手紙で,1864年11月26日の日付のものには,京都の騒然とした情勢を伝えると共に,追伸として「一橋公より豚肉度々所望」され,持っていた分だけ差し上げた所,更に三度も欲しいと言ってきた為,遂に「皆々差上候」と書いています.
そして,全部送ったというのに,今度は使いの者を寄越したので,流石に「もはや無御座候」と断ったとあり,琉球豚を沢山持ってくる人などいないのに,大名と言うのは「不勘弁之者(分からず屋)」だと嘆息しています.
この最後の将軍である徳川慶喜には様々な渾名が付けられていますが,「豚公方」とか「豚一」と言う渾名があったそうです.
「豚一」とは,「豚好きの一橋家出身者」と言う意味.
また,大政奉還前後には,こんな狂歌が出回りました.
「江戸の豚 京都の狆に追い出され」
「狆」は天皇が「朕」を称する事から,天皇の事,「豚」は「豚公方」と渾名された慶喜の事です.
幕末というのは,牛と豚が争って牛が勝ち,牛が殺されて豚が勝ったのに,豚は程なく犬に負けた訳ですね,判ります((^_^).
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/02/27 23:10
ところで,豚と言えば,現在でも黒豚ブームで,特に鹿児島黒豚は人気となっています.
多くは鹿児島で解体されて各地に送られていますが,月に1回,東京食肉市場では生体が15頭ほど送られ,生体の状態と,肉の質を流通業者に確認させる様にしています.
「鹿児島黒豚」と言うブランドが付くと,それだけで,普通の豚肉よりも2倍,3倍の値が付きます.
しかし,その「鹿児島黒豚」と言うブランドが一人歩きを始めると,些か怪しいものに変わります.
これと対照的なのが牛です.
神戸牛,近江牛,松阪牛に代表されるブランドの付いている牛の場合,個体にきちんと生産者のトレーサビリティが機能していて,中々偽物の入る余地が有りません.
尤も,偽物が混ざり込んでしまうと,ブランドの存亡に関わる問題になるので,生産者側,流通業者,行政がブランドを維持するのに必死になっています.
各地のブランド牛は,そのブランド牛の規定を定め,流通ルートを確実なものにし,そこには肉牛協会に無認可の流通業者が介在出来ない様になっています.
それらの牛肉を販売する業者に対しては,肉牛協会が厳しい審査を行い,指定店には販売指定証を配っています.
逆に言えば,この指定証の提示がない肉屋では,幾らブランドが書かれて居ても,どんな肉を仕入れているのか協会として責任が持てないと言う事だったりする訳ですが….
そう言えば,首都圏で唯一,埼玉には松坂牛の指定販売店が無いらしいですねぇ,不思議.
スーパーマーケットなんかの精肉売場を見ていると,「黒豚」と銘打っていても,100g当りの値段が異常に安い豚肉があります.
ヒレ肉108円,ロース肉153円,ロース薄切り128円に,バラ肉は100g88円.
本当に鹿児島の黒豚であったら,こんな値段は付きません.
鹿児島黒豚の成体の屠畜は110kg程度で行われます.
内臓や皮,血を除き枝肉状態にすると,約70kg.
此処から骨を取り,ヒレ肉,ロース,バラ肉などを部位毎に分けると50kg前後となり,これが生産地と食肉問屋(パッカー)との間で取引される「正肉」です.
正肉の相場は,産地の枝肉市場に左右され,キロ当り950~1,200円前後になります.
これに食肉問屋のマージンを幾らか載せると,例えば正肉を960円,マージン5%では約1,000円がキロ当りの価格となり,この価格で小売に卸されます.
正肉の状態からは商品となる「精肉」に加工する訳ですが,脂身や筋を取って加工すると,歩留まり率は正肉の75~85%であり,仮に正肉の量が50kgだと,精肉は40kgとなりますが,こう言う状態ではキロ当りの価格は1,250円になります.
豚肉の利益率は一般的に30~40%となり,仮に下限の30%を小売で上乗せするとすれば,キロ当り1,625円.
100グラム当り162.5円ですが,正肉から採れる部位の量は,腿肉や腕肉で全体の20~30%,バラ肉とロースは16%で,肩ロースは10%,ヒレ肉とも成れば全体の2%強となり,50kgの正肉からヒレ肉は1kgしか採れません.
でもって,豚肉の売れ筋は,ヒレ肉,ロース肉,バラ肉の順番です.
更に,鹿児島という遠隔地からは,首都圏に運ぶ運送費も掛かります.
こうして弾き出された鹿児島黒豚100gの小売価格は,ヒレ肉350円,ロース肉270円,バラ肉190円,ミンチなどに使われる腕肉でも135円ですので,前述の価格とは雲泥の差がある訳です.
少し昔の記録ですが,1996年の全国の豚出荷頭数は1,685万頭です.
鹿児島黒豚の出荷頭数は,その年,137,300頭で,輸入豚を加えた豚消費量の0.4%を占めるに過ぎません.
ところが,鹿児島黒豚と銘打って売られていたものは,年間70~80万頭に達しています.
つまり,相当量が鹿児島黒豚の名前を冠した,ニセの豚肉であった訳です.
鹿児島の黒豚は,完全に真っ黒ではありません.
4本の足首と鼻,尾の先の6箇所が白い,所謂「六白」と言われる印があります.
元々は,奄美地方で飼われていた島豚がルーツで,明治になってから「六白」を持つ英国のバークシャー種を導入して島豚と掛け合わせて改良を重ね,鹿児島バークシャーと言う独自の系統を作り上げました.
鹿児島黒豚の定義は,生産者と流通業者の団体である鹿児島県黒豚生産者協議会によれば,「県内で生産・肥育し出荷された六白のあるバークシャー種」としています.
但し,牛肉はサシなどで肉の良し悪しがつきますが,豚肉は一目見ただけでは良し悪しの見分けが付きにくいとされています.
農林水産省と全国食肉公取協の共同調査では,販売店の8割,消費者も4割がその「鹿児島黒豚」の表示に疑問を呈していました.
消費者もそうですが,プロであるはずの販売店でも,不信感を払拭できなかった訳です.
これは農林水産省の方でも「黒豚」の定義が1999年まで明確に定まっていなかったのも一因でした.
豚は経済動物ですが,白豚の例えばランドレース種は多産(10~12頭)で,放っておいても育ち,背脂が薄くて肉の質よりも量が重視されています.
一方の黒豚は,1回の出産頭数は8~9頭,一時期に白豚に取って代わられて絶滅寸前まで行った故の血の濃さが原因か,出産や肥育に手間が掛り,背脂は厚くて,肉の質は良いのですが前述の様に110kg程度までしか育たない為,白豚に比べると獲れる肉の量は少なかったりします.
この為,高度経済成長期の質より量を重視した時代には,ランドレース種を始めとする白豚が日本の養豚業界を席巻し,鹿児島以外では殆ど黒豚は消滅してしまいました.
ニホンオオカミとかニホンカワウソ,朱鷺や鸛などとは違い,経済動物故に種の保存という考えは殆ど無かった訳です.
ただ,白豚にも泣き所はあります.
特にランドレース種はソーセージやハムを作る為,肉質よりも肉の量を重視した種です.
従って,味については,黒豚より数歩劣るものに成ります.
また,餌に関しては,黒豚は農家の残飯や甘藷などを餌に育てる事が出来ますが,白豚は配合飼料で無いと上手く肥育できません.
1973年の鹿児島県畜産試験場の調査では,出荷まで育つ育成率で見ると,黒豚は配合飼料で92.7%,残飯で90.0%ですが,白豚は配合飼料で84.5%,残飯で育てると48.0%にまで落ち込みます.
この為,餌代が嵩み,昨年の様な穀物価格の高騰が続いたりすると,一気に畜産農家の経営を圧迫する事になります.
こうした白豚の泣き所を解消する為,白豚であるランドレース種の雌に同じ白豚である大ヨークシャー種の雄を交配させ,雑種を作り上げて繁殖性と強健性を増し,こうして出来た子豚の内,雌を今度は黒豚であるバークシャー種の雄を交配させて所謂混血種を作り上げる事をしています.
普通は,このランドレース種と大ヨークシャー種に加え,肉質の良いデュロック種を加えて生産するLWD生産が主流ですが,黒豚のバークシャー種の血が50%入った混血豚はLWB種と呼ばれます.
但し,黒い毛は劣性遺伝である為,生まれる豚は全て黒ではなく白豚となってしまう訳です.
で,これらの豚は,「黒豚系」と呼んで流通していました.
つまり,「黒豚」の定義が明確になっていない為,「黒豚」には純粋種,交雑種,偽物が氾濫した訳です.
鹿児島県黒豚生産者協議会では,本物とする為にシールを貼っていましたが,シールだけを求める流通業者や,そのシールを偽造する業者が現われてしまった訳です.
これは流通ルートの複雑怪奇さが原因で,ブランドの確立は即ち,偽物とそれを扱う流通業者との戦いでもあります.
1999年に国も漸く重い腰を上げ,黒豚の定義を「バークシャー種同士の交配から生産された豚」とし,店頭で「黒豚」と表示できるのは,「バークシャー純粋種の豚の肉に限る」としました.
これにより,交雑種は「黒豚」と名乗れなくなりました.
とは言え,流通の過程を透明化出来ない限り,幾らこうした形で規定したとしても,偽物は昨年相次いで発覚した様に,いくらでも流通し,生産者,行政との鼬ごっこを繰り返しています.
しかし,消費者の方も,もう少し勉強しないとあかんのでしょうねぇ.
安いものには裏がある,と.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/02/28 21:54
【質問】
18世紀の琉球の,八重山開拓について教えられたし.
【回答】
1609年,薩摩島津家は琉球に侵攻し,琉球をその支配下に置き,琉球王に対して様々な要求を突きつけてきます.
1728年の尚敬王の時,国相に就任した具志頭親方蔡温は,積年の退勢を挽回すべく様々な行政改革を断行しましたが,王府の財政強化の為に目をつけたのが,八重山諸島に新しい村を造り,生産を増強する八重山開拓であり,新しい村が出来ると,人頭税の税収増を当て込んでの政策でした.
王府は開拓を促進する為に,宅地,住家,田畑を無償で給付し,米1日当たり5合を3ヶ月分与え,農具や農耕馬を与えて,5カ年は税を免除するという優遇措置を執って,人口の多い島から過疎地に移住を断行しました.
但し,一度移住すると,元の村への帰村は許されないものでした.
それ故,悲しい物語も多く,例えば,石垣島北東部の野底には,野底岳と言う山があるのですが,黒島から強制移住させられたマーペーという若者は,生木を裂く様に別れてきた恋人が住む黒島見たさに,毎日の様に野底岳の山頂に登りますが,目の前に立ち塞がる於茂登岳に阻まれて,故郷の黒島は見えず,遂には悲しみに暮れたマーペーは石になったと言い,それが屹立した岩山であると言う,マーペー伝説,或いはそれを唄った「つぃんだら節」になり,西表島の崎山に伝わる「崎山節」も,波照間島から崎山に強制移住させられた悲しい歴史を唄った歌,仲間村の「まざかい節」も,竹富島から強制移住で,西表島の仲間村に来た「まざかい」が故郷の竹富島を想って唄う歌など多数の悲歌が残されています.
移住は,人口の多い竹富島や黒島,波照間島等から石垣島か西表島に入植するもので,移住先は新開地にしろ,人口減少による補充地にしろ,多くの場合,そこはマラリアが猖獗を極める場所でした.
また,1771年には明和大津波があり,人口が著しく減少しました.
それでも,蔡温が在任中の1711~1752年に掛けて,集中して集団的な強制移住が行われました.
石垣島には,1732年に黒島,石垣島,登野城,平得,宮良,白保から野底と桃里に1,100名,1734年には竹富島から崎枝に74名,1737年に登野城,石垣島から名蔵に200名,1738年に平得,黒島から桴海に150名,1753年には竹富島,白保,伊原間から安良に348名,1768年には白保から仲与銘に200名,1776年には明和大津波の補充として,西表村から真栄里に313名,波照間から真謝に418名,小浜から宮良へ320名が送られ,1785年には竹富島から盛山に523名が送られています.
西表島へは,1732年に小浜島から高那へ600名,1734年に波照間島から南風見に400名,1737年には竹富島から仲間に517名,1755年には波照間島から崎山へ280名が送られ,1857年には黒島から上原に150名が補充されました.
この移住先の選定は,人口調整や生産増強の為の肥沃な土地と言う事の他に,外国船の監視や遭難船の救助に便利な所,諸役人が各村巡視の為に適当な距離間隔であることなどが基準になっています.
例えば,石垣島の安良村では肥沃な土地の開拓や,竹富島の人口調整の他,平久保半島の東部に1つの集落もない為,諸役人巡視の為の中間村落が必要であった事,異国船の監視や難破船の救助上,村を必要とした事,安良津口が天然の良港である事などがあって村がもうけられましたし,西表島の南風見村の場合は,波照間島の人口調整や肥沃な土地の開拓の他,仲間村から島の南を通って西部の鹿川まで1つの集落もなく,諸役人の巡視に困る事,杣山の保護育成や船材や建材の搬出の為の宿泊所が必要な事,波照間行船舶の遭難救助場所などが挙げられています.
何れにしても,移住先は沃野とは言え未開の土地であり,マラリア有病地です.
マラリアに対する対策のない時代,この地に集団で入植するには困難が多過ぎました,と言うか,これは完全に死地に赴く状況にあります.
入植者は次々に病魔に冒され,村は疲弊をしていきますが,それにも関わらず,新たな補充者が来て,一息つくの繰り返しでした.
因みに人頭税は,明治政府が琉球処分をした後も旧慣温存政策の為に,1902年まで残され,記録ではこうした民衆をして,「租税ヲ納ム一種ノ機械」とか「沖縄県税制改正ノ急務ナル理由」と表現したほどだったりします.
1893年に弘前津軽家の探検家,笹森儀助と言う人は,八重山を探訪して,
「本土の寒村をと雖も,これほとまではない」
とその疲弊ぶりに驚き,「数十年を経ずして廃村となるべき村」として,名蔵,崎枝,桴海,野底,盛山,桃里,伊原間,安良,平久保,干立,浦内,上原,高那,野原,仲間,南風見,成屋の18ヶ村をその著書『南嶋探検』で挙げています.
そして,その予言は,石垣島の伊原間,平久保,西表島の干立を除いて的中しました.
1903年に人頭税が廃止され,住居移動の禁が解けると,強制移住地の住民達は,マラリアが猖獗する村々を一斉に放棄し,無病地へと移動しました.
そして,村々は廃墟と化してしまったのです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/10/24 22:22
【質問】
琉球の武器禁止て,やっぱり薩摩占領下の話?
【回答】
琉球の刀狩りって16世紀初めまでに行われているから,100年後の薩摩の占領は関係ない.
占領後も琉球士族の帯刀は禁止されていない.
そもそも成立時点の琉球国(第一尚氏)は,島内各地の豪族連合的なところがあった.
それで度々反乱が起きてて,最終的には重臣によるクーデターで王家が転覆した(第二尚氏の成立).
その対策として第二尚氏では,豪族を首里城下に強制移住させ,武装解除も行ったわけ.
本土での豊臣から徳川への流れを先だったようなもんかな.
16世紀半ばまでは島津家も分家が入り乱れて対立してたから,その時期には島津も琉球へ頭を下げている.
そのすぐ後に,島津分家から宗家を継いで薩摩をまとめちゃった人が出現して,立場逆転するわけですが.
まあ,琉球も調子が良かったのは1520年代くらいまでで,中国人や日本人が直接貿易するようになったからもうお役御免で,以降は落ち目になるばかり.
それと最近,沖縄の若い研究者が「薩摩の進攻で琉球軍も奮闘した」みたいなこと書いてるけど,一次資料だけを読み解くと,最初から講和交渉がなされて,沖縄本島で本格的な戦闘はなかったという突っ込みがなされてるね.
交渉中に抗戦派が脱走して追撃されたくらい.
だいたい,石高で言うと琉球って10万石しかない.
漫画板,2015/02/14(土)
青文字:加筆改修部分
【質問】
島津製作所は薩摩島津家と何か関係あるの?
【回答】
さて,京都と言えば,西陣織の様な伝統的産業ばかりではありません.
殖産興業こそ尻すぼみに終わりましたが,琵琶湖疏水を利用した発電と,その電力を利用した電灯事業,電車事業,工業など民間資本による近代工業が多く勃興しています.
その魁とも言えるのが,島津製作所です.
島津製作所の創立者である島津源蔵は,1839年,今の下京区に当たる醒ヶ井通魚棚に父清兵衛の次男として生まれました.
で,京都に住んでいた人間の姓が何故島津で,会社のコーポレートマークが丸に十の字の島津家の紋なのか.
元々,島津家は黒田孝高に仕える武士の家系だったと言います.
黒田孝高と言えば,関ヶ原の合戦の際には東軍に属しましたが,城の金蔵を開いて,多くの兵士を雇い入れ,あわよくば九州の地で自立を図ろうとした家です.
この関ヶ原の合戦の際,薩州島津家の軍事指導者だった島津義弘は不承不承西軍に付いたのですが,西軍の敗北で,故国に落ち延びようとします.
この時,九州を目前に瀬戸内海で難船したのを救ったのが,源蔵の先祖に当たる人物だったそうです.
その恩に感じ入った島津家から,謝礼として島津の姓と丸に十文字の家紋を貰ったと言う伝説があったとか.
その後,代々筑前で医者をしていたのですが,清兵衛の代に京都に出て来て仏具屋となりました.
1860年,清兵衛が死去すると,源蔵は木屋町二条下ルに仏具製造の鍛冶屋を始めました.
ところが,この地に開業した事が,後の源蔵の人生を大きく変える事になります.
1870年11月,既に見た様に,直ぐ近くの木屋町御池下ルに府の舎密局が設置されました.
生来学問,特に理化学が好きだった源蔵は,店の暇を見ては舎密局に入り浸る様になり,御陰で局主管を務めていた明石博高の知遇を得る事が出来ました.
そして,この明石との知遇が,益々源蔵をして理化学に没頭せしめる様になります.
遂に病膏肓に入り,1875年には仏具製造の鍛冶屋を畳み,理化学器機製造・修理を生業とする島津製作所を自宅にて創業するまでになります.
しかし,若旦那の遊びでは無く,生来の器用さからか,様々な器機を製造し,1877年には京都を代表として医療用器具の錫製プーシーを東京上野で開催された第1回内国勧業博覧会に出品して大賞を受けるまでになりました.
この年の秋,源蔵は京都府学務課長で,府の理化学教育の推進者でもあった原田千之助の訪問を受けました.
その来訪の理由は,「知事から軽気球を揚げたいと言われたので作って欲しい」と言うもの.
気球というのは何なのか,よく判らなかったのですが,長年の知己でもあった原田の申し出を気持ちよく承知した源蔵は,その構造を調べに調べまくります.
中に詰めるのは水素ガスで,それは何とか出来そうでしたが,球体をどうやって作るのか,試行錯誤の毎日でした.
研究に研究を重ね,実験に実験を繰り返した結果,11月にやっと羽二重に荏胡麻油で溶かした樹脂(ダンマー)を塗るという方法に到達しました.
こうして1877年12月6日快晴.
午前9時,京都御苑仙洞御所前の広場に気球を据え付け,円形に置かれた11個の木樽の中には鉄屑を入れ,硫酸を注ぎ込んで水素ガスを発生させ,それを管で集めて,羽二重の球に注ぎ込みます.
羽二重の球は次第に膨らみ,やがて離陸,広場に集まった知事始め4.8万人の大観衆は一斉に拍手を送りました.
そして,気球は36mの上空に浮かびました.
ゴンドラには人が乗っており,そこから手を振るのは,島津製作所出入りの木工店三崎吉兵衛商店店員中村寅吉(一説には山崎寅吉)と言う体重の非常に軽い男だったそうです.
この気球成功を境に,京都府が島津製作所のバックボーンとなり,1878年3月に舎密局教師として赴任したドイツ人ゴットフリート・ワグネルが,その該博な新知識で源蔵を助けました.
1894年12月,一代で島津製作所を育て上げた島津源蔵は56歳で急死しましたが,弱冠26歳の次男梅治郎が二代目源蔵を継ぎました.
この梅治郎も非常に優秀な技師で,16歳の時,既に英国で発明されたばかりの感応起電機 同じものを自作して周囲を驚かせたと言います.
しかも,経営の才も十分に備えており,以後,島津製作所は大きく飛躍していき,現在に至っている訳です.
因みに,京都府は既に1872年に織職3名をフランスに派遣し,ジャガード織機の技術導入に成功しましたが,1877年,元仏学校教師のレオン・ジュリーの献言を入れて,一般学生をフランスに留学させる事とし,中学や師範学校から選抜された15~20歳までの少年8名を派遣しました.
彼等はフランスで3~5年に亘って鉱山学,織物,陶器,機械などの先進技術を学んで帰り,何れも優秀な技術者として日本の産業振興に大きな役割を果たしています.
例えば,稲畑勝太郎と言う人は,15歳の師範学校の在籍時に選に当たり,フランスで一職工として染色を勉強しました.
特に許されて7年もフランスで修業を続け,帰国後は府勧業課に在籍した後独立,稲畑染工等の社長として明治末から大正にかけての日本の繊維工業界を指導するまでになり,1922年には大阪商工会議所会頭に就任しています.
余談ながら,稲畑は1897年,シネマトグラフと称する映写機をフランスから輸入して日本に映画製作の種を蒔いた人物でもあります.
後年,京都は太秦に代表される様な映画の都としても名を馳せる様になるのですが,稲畑はその始祖とも言える訳です.
こう考えると,京都の「自給自足」を目指した殖産興業も,単なる非効率な官業とは言えず,民間資本の蓄積が少ない時代に,様々な産業の種を蒔いた役割を果たした先駆者であったと言えます.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/06/01 23:23
青文字:加筆改修部分
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