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『長州藩教育の源流 徂徠学者・山県周南と藩校明倫館』(牛見真博著,渓水社,2013/09)


 【質問】
 松江藩の歴史は?

 【回答】
 元々,堀尾吉晴は浜松に城を持っていたのですが,関ヶ原の合戦で徳川家康に合力したことで,1600年に出雲隠岐両国24万石を拝領することになります.

 因みに,この時,家康が堀尾家含め各大名家に発給した知行宛行状は,一通も確認されていません.
 最近の学説では,国内情勢が混沌としていた為,口頭の伝達に留まったのだろうと言われています.
 従って,この領地を得たのは隠居していた堀尾吉晴だったのか,子の忠氏だったのかは定かではなく,誰が松江を領した初代当主だったのかは誰か判ってなかったりします.

 さて,当初,堀尾吉晴と子の忠氏は尼子氏の根拠地であった月山富田城に入城したのですが,彼等は,その欠陥に気づき,新たな地に城を移す決断を下しました.

 その欠陥とは,以下の様なものです.

1. 国境近くで敵の侵入(未だ毛利が潜在的な脅威だった)を受けやすい.
2. 鉄炮の発達は攻防に変化を来している.(3つめの欠点からすれば,大筒で容易に攻撃される)
3. 近隣の山より城内を俯瞰される状況であり,包囲もされやすい.
4. 富田川が埋まってそれを堀として利用出来なくなったのと,舟の利便性が薄れた.
5. 城地が狭く,且つ攻撃を受けやすい.

 考えてみれば,良く尼子氏はこれを放置したなぁと思ってみたり.
 まぁ,尼子氏の時代は郷村を基礎に自立的な地域支配権を形成している国人領主,土着性の強い土豪,小領主の寄り集まりで,普段は農村で農業を続け,戦になれば城下に集まったり,行軍の最中に合流するなどの形態をとっていた訳ですから,山城や山麓にある城下町でもさして気にならず,寧ろ,要害堅固な山城が尊ばれた訳ですが….

 しかし,山城の欠点は,鉄炮に弱く,兵糧攻めや水攻めにも弱い事です.
 その上,信長以降の近世大名達は,積極的に兵農分離を行い,大名達は家臣団を形成して家族と共に城下に居住しなければならなくなりました.
 となれば,城下に住むべき武家人口は一挙に増加し,富田の様な山間で平地が狭く,大量消費物資の運搬に不便な場所では時代の要請に会わなくなっていきました.

 堀尾吉晴父子も,秀吉と共に数多くの城攻めを行い,且つ,築城も幾つか手がけていますので,その欠点を補うのは,平山城で,俯瞰される周囲に高い山が無く,水運の便が良く,広い城下町が経営出来,領国の中心であると言う条件を出して,城地を探し求めました.
 因みに,この辺り一帯を支配していた吉川広家も,当然同様の問題を抱えており,月山富田城を棄てて鳥取米子に城を築き始めていましたが,これは吉川家の朝鮮やら関ヶ原やらへの従軍で屡々工事が中断し,結局,鳥取は池田家の領地になったので,堀尾家は一から築城せざるを得なかった訳です.

 堀尾父子は早速,宍道湖沿岸を候補として現地視察を繰り返し,最終的には,北山連峰から末次郷の平野部に半島の様に突き出て,赤山・宇賀山・極楽寺山(亀田山)と並ぶ三連丘の南端,島根郡の極楽寺山に城地を定めました.
 この極楽寺山は亀田山と呼ばれており,それは別名神多山と呼ばれ,多くの神々が祀られている場所であり,築城の縁起も良く,この神々を信仰すれば城郭鎮護の神となる,と言うのが,忠氏の主張で,吉晴もそれに賛同して,この地を城地に選定した訳です.

 1603年に,秀忠から築城の許可を得ますが,1604年,堀尾忠氏が卒去し,堀尾家の行く末に暗雲が漂います.
 しかし,吉晴が孫の忠晴を後見すると言う形で存続が認められ,1607年に,先ず大橋の工事が開始され,殿町・母衣町など侍屋敷が造成されて,城下町の道路整備も行われました.
 1608年に大橋が完成し,宇賀山を堀崩して得た大量の土砂を用いて田町や内中原の宅地造成をすると共に,宇賀山跡地に堀・道路・宅地を造成し,更に亀田山に本丸の石垣,天守台の石垣,内堀工事を開始し,1609年に天守閣・二ノ丸御殿など城郭建造に着手,城下町の造成,住宅建築が続きます.
 1610年になると,天守閣・二の丸御殿が完成,1611年に残った侍屋敷,町屋,寺町が完成し,富田城の家臣や町人,寺院も殆どが移住してくることになりました.

 地選は堀尾父子が執り行い,地取・縄張は軍師,儒者,医者,史家として名高い小瀬甫庵(太閤記や信長記の作者),作事縄張は工匠城安某を棟梁とし,土木工事と資材調達は稲葉覚之丞を任じ,城楼溝塁要害の地取,城下四達街区の設計を完成しました.
 この地選にも風水思想の影響が見られ,陰陽師の術で自然風水など風土や水勢を見て善悪を相していて,東に大橋川と入海,にしは沼沢地と縄手(縄の様に一筋に延びた道),南は宍道湖,北は宇賀山と四神守護の風水思想に相応としています.

 例の視軸に関しては,月山富田城-茶臼山-天守-佐太大社の線で一直に結ばれています.
 茶臼山は『出雲国風土記』では,出雲に4箇所ある神名火山,神の隠れ籠もる山の一つとされていて,佐太大社は,出雲国にある4つの大社に列せられた内の1つです.
 冬至旭日-夏至落日の線は,神名火山の1つである朝日山と出雲国1番の平浜八幡宮があり,前者の線と後者の線の交点に天守閣が配置された訳で,後者は典型的な巽乾軸ですね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/01/18 22:33

 関ヶ原の賭けに勝って,堀尾家は浜松12万石から一気に倍増して,出雲隠岐両国24万石を得る事が出来ました.
 ところが1604年,堀尾家2代目の忠氏が卒去します.
 3代目の忠晴は未だ6歳で,関ヶ原に勝ったとは言え,未だ未だ予断を許さない情勢です.
 その上,堀尾家は豊臣恩顧の外様大名家ですから,場合に依れば改易の沙汰も免れかねないところでした.

 しかし,当時は未だ武家諸法度の様な,徳川家の支配の基を作っている法は未だ施行されておらず,未だ初代堀尾吉晴が元気でいた為,藩主幼少による領地減封の沙汰や,御目見の無い事での無嫡廃絶と言う沙汰もありませんでした.

 その後,忠晴は7年の間,祖父吉晴の後見の下で政務に携わり,1611年に祖父が没して以降は,本格的に政務を行って,1611年の年末までには松江城を完成させたほか,大坂夏の陣,冬の陣に参戦して活躍するなど,ほぼ安泰の治世を重ねていきます.
 これにより,松江堀尾家は安泰かと思われたのですが,1633年9月20日,忠晴は父と同様に,若くして江戸で卒去してしまいます.

 …裏で柳生が動いたとか,Kominternの陰謀説はこの際置いておいて(笑….

 それなりに精勤していた忠晴でしたが,暫く前から健康状態が良くありませんでした.
 8月19日には幕府から書院番頭稲垣重大を遣わせて病状を見舞っていたり,9月2日にも阿部重次を以て見舞いが行われています.
 悪いことに,忠晴には継嗣がいませんでした.
 となると,忠晴が死去すると,当時既に力を持っていた武家諸法度から見れば,無嫡廃絶となります.

 忠晴は死去する前の9月14日に,幕府年寄である酒井忠世,土井利勝,酒井忠勝に宛てて遺書を認め,自らの死後の堀尾氏の行く末について願いを記しています.

 その中で忠晴は,領国を返上する旨,申し出ています.

 当時は当主が病死する直前に,こうした願をするのは普通に行われていました.
 例えば肥後の細川家では,細川綱利が家督を継承する前に,彼が余りに幼少過ぎるとして,父親である細川光尚本人が肥後の返上を申し出ているのです.

 つまり,当時の大名家当主達からすれば,領地と言うものは,決して相伝のものではなく,自身や自身を支える家臣をも合せた器量によって宛がわれたものであると言う考えが色濃く残っていました.
 その為,自身が士気を悟り,幼少の子では現領地に相応しい活躍や奉公が出来ないとなると,進んで領地返上を願い出,その代わりに嗣子には,彼の器量に当座似つかわしいだけの領地を賜り,後は本人の努力によって領地を増やす様にすべきであると願う事が多かったのです.

 幕府としても,未だ幕府統治は初期の段階で,何処で叛乱が起きるか判らない時代に,重要な城や地域を幼児に任せることが出来ないと言う考えであり,例えば,宇都宮の蒲生家とか信濃高島の日根野家などは,禄高を減らして移封すると言う政策を屡々行っています.

 さて,その忠晴ですが,領国を返上する事に続けて,家名を継ぐ人物として,石川廉勝と言う人物(当時は宗十郎を名乗っていた)に子供が生まれたら,家名を継がせて欲しいと願い出ていました.
 堀尾家は,譜代大名である近江膳所石川家初代当主である石川忠総に,堀尾吉晴の娘が嫁ぎ,その子廉勝に忠晴の娘が嫁ぐと言う二重の姻戚関係を持っており,石川廉勝は吉晴の孫でもあり,忠晴の聟であると言う関係を持っていました.
 因みに石川家は,あの秀吉に奔った石川数正の家系ではなく,家康が生まれた際に蟇目役(出産の時に妖魔を降伏する為,蟇目と言う鏑矢の一種を射ると言う重要な役目.それだけに松平広忠からは重く用いられていたと思われる)を務めた石川清兼の次男の家系で,外様の堀尾家が彼に近付いたのも家名存続の為だった事が伺えます.

 この石川廉勝には,1634年に男子が産まれています.
 後の石川憲之ですが,忠晴は娘の妊娠の徴候を知ったからか,この様な願いを出したものと推定されます.

 幕府としても,この存続を認める動きがありました.
 が,結果は領地没収で,その埋め合わせの為か,1633年分の年貢に関しては,堀尾氏の家臣に与える事を許可しています.
 忠晴にとって不幸だったのは,1633年に死去したことです.
 前年に2代将軍秀忠が逝去すると,3代将軍である家光は,実質的な御代始めの政治として,肥後加藤家の忠広を改易し,1633年には3月に筑前黒田家の御家騒動に処分を下し,12月には弟である忠長を自害させるなど,強圧姿勢で政治に臨んでいました.
 その様な時期に吉晴が死去したものですから,領地没収と言う果断な処分が下されたのでした.

 しかし,家臣達は粘り強く家名存続の為の運動を続けていました.
 1634年2月13日に,堀尾氏の旧重臣達から先の三年寄に宛てて提出した書状の中で,堀尾氏の名字が存続できることが出来た事への謝意が記されています.
 誰がその家名を存続したのかは,実は未だによく判っていません.

 ただ,堀尾家の江戸の菩提寺であった養源寺の墓所には,堀尾忠晴,その妻の墓と並んで,堀尾式部丞と言う人物の墓があります.
 この堀尾式部丞は,先に挙げた石川憲之の孫に当る人物で,憲之の三男である堀尾勝明と言う人物です.
 彼は堀尾氏を称して,堀尾忠晴の卒去から50年後の1686年,5代将軍である綱吉に御目見したことが『徳川実紀』や『寛政重修諸家譜』に記載されています.
 そうすると,石川氏の支援で,堀尾家の重臣達が幕閣を動かし,堀尾家再興を目論んだ様です.

 こうして堀尾家の家名再興が成ったのですが,残念な事に,堀尾勝明は,綱吉との対面間もない1688年6月に,28歳の若さでこれまた子の無いまま卒去してしまい,この段階で堀尾氏の家名は完全に断絶してしまいました.
 この様に見ると熟々運のない家だったのかも知れません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/01/19 23:01

 さて,堀尾家が断絶した松江には,1634年,近江大津で西軍を釘付けにした戦功で,若狭小浜9万2,100石を領していた京極忠高が,出雲隠岐26万4,000石に加増の上転封されました.
 ところが,彼も嫡子無く1637年に病没して除封されました.
 が,彼の場合は,家光の治世が安定したからなのか,甥の高和が播磨龍野で御家再興を許され,後に丸亀に9万石で移封されている訳で,熟々,堀尾氏の運は無かったのだなぁ,と.

 そして,絶家となった京極家に代わって松江に入ったのが,越前松平家,即ち結城秀康の系統である松平直政です.

 因みに松江では,誰が「藩祖」なのか明確になっていません.
 堀尾吉晴なのか,忠氏なのか,はたまた,松平直政なのか,堀尾氏の場合は,実質的に領国を支配していても,朱印状を発給されている訳ではないので,幕府としての正統な手続き面に問題があり,しかも,関ヶ原の時点では吉晴は既に隠居の身であるから,封土を得たのは忠氏であり,彼が堀尾家の当主だったとか,更に言えば,朱印状を発給されたのは,松平直政であるから,正統な手続きを経て封土を画定させたと言う点では,彼を「藩祖」とする考え方もあり,未だ甲論乙駁であり,現在でも,松江では堀尾忠氏を「初代藩主」,堀尾吉晴を「松江開府の祖」,そして,松平直政を「藩祖」として区別しているようです.

 ああ,ややこしや.

 話を戻して,松平直政は,結城秀康の三男であり,親藩の家筋でした.
 若い時は血気盛んで,部屋住みながら14歳で大坂冬の陣に出陣した事もあって,1616年には兄である越前松平家当主,松平忠直から越前木本(現在の福井県大野市)で1万石を分知され,大名として独立しました.
 そして僅か20年の間に,上総姉崎で1万石,越前大野で5万石,信濃松本7万石と増えていき,出雲1国18万6,000石の大名と成り果せた訳です.

 これだけ出世した訳ですから,その家格に応じて軍役を果たす為の家臣を集めなければなりません.
 先ず,彼が重視したのは出自でした.

 木本や姉崎の時は,宗家から付けられた家臣団で事足りていましたが,1624年に兄の松平忠直の隠居を受けて,越前大野で5万石を与えられましたが,その際,越前松平家を継いだ次兄の忠昌に対し,越前松平家から家臣を分けて貰う交渉を家老に命じています.
 他にも,越前松平家に仕えていた武士の子弟を,「御譜代筋之者」として取り立て,その家臣団の中心に据えたのでした.

 とは言え,越前松平家の家臣ばかりを任用した訳ではなく,特に出雲松江に来てからは,更に戦う集団として家臣団を編成する為,他の家に仕えて武功を上げた経歴を持つ者も採用しています.
 例えば,福島正則の部将で大橋茂右衛門を,その与力と合せて6,000石で迎え入れています.
 彼は正則に仕えて,関ヶ原の合戦の前哨戦で武功を上げたり,福島家の減封の際には幕府との交渉役を行うなど,世に名高かった武士の1人でした.
 直政は大橋茂右衛門を,松江松平家の軍団の中心に据え,松平家の軍能力の強化を担ったのでした.

 ただ矢張り,藩政の中心を担ったのは,越前松平家出身の家臣達で,特に初期の頃から家老として付いていた乙部家,部屋住み時代から直政に付き従った柳多家は重きをなし,直政の生母月照院に連なる三谷家,香西家も初期藩政に重要な役割を果たしています.

 ところで,浪人の仕官と言うのはどの様に行われたのでしょうか.

 雨森清広と言う人がいました.
 彼は,1606年に生まれ,松江入部直前の直政の下で仕官を果たしましたが,彼の仕官の様子が記録として残っています.

 雨森氏は雨森芳洲に代表される様に,近江国伊香郡富永荘雨森(現在の滋賀県伊香郡高月町雨森)が本願の地で,代々浅井氏に仕えた一族であり,清広の祖父清能は,渡岸村に住む名主でした.
 清広の父清次は,浅井氏滅亡後浪々の身となり,同郷の誼で伊賀国で,藤堂高虎に仕えていた渡辺了の扶持を得ていました.
 しかし大坂の陣の後,藤堂高虎と渡辺了は不和となり,結局了は浪人して,結果清次も浪人となり,清次は失意の内に近江で亡くなりました.

 その子清広は,初め近江にいましたが,近江湖北の支配者だった彦坂氏を頼って,浪人の儘,紀州徳川家の付家老彦坂光正の下で過ごしていました.
 その後,仕官するには江戸に限ると考えたのか,江戸に出て,光正の子光重の居宅で居候を決め込みます.

 1637年10月,肥前島原で大規模な叛乱が発生します.
 所謂,島原の乱ですが,当然,軍場は大規模なリクルートの場所となります.
 そこで,清広は九州に渡って所謂陣借りを申し出,彼は幕府使番松平行隆の指示で,前柳川立花家当主である立花宗茂の軍に属し,一揆鎮圧の戦に加わることになりました.
 戦のクライマックスは,1638年2月27,28日の原城総攻撃で,当然,彼も奮闘しました.

 彼等浪人に限らず,戦場で言葉を交わし合い,自らの働きを目撃した者達は互いに目撃証言書として,「書付」と呼ばれる文書を入手していましたし,作成したりしていました.
 例えば本丸落城の翌日,三宅正次と言う者が,清広に宛てて,
「昨日,本丸で初めてお会いしましたが,私の働きを見られたことでしょうから証言を頼みます」
と言う目撃証言書を請求し,清広はそれを受けて証言書を書くと共に,自らの働きを御覧になったでしょうから…と逆に証言書を請求したりしています.
 そして正次は返信で,
「28日の本丸での清広の鑓捌きは素晴らしく,お互い確かに言葉を交わし合った」
と認めています.
 また,立花親俊の証言書には,27日の戦では,親俊と清広は共に立花軍の中で本丸一番乗りを果たしたと証言しています.
 そして,この働きにより,幕府上使の石谷貞清から「比類無き働き」と感状を与えられた訳です.

 とは言え,この証言書や感状だけでは,仕官は叶いません.

 島原の乱が終熄すると,清広は大坂に上ってきます.
 其処で,松平直政に出会います.
 奇しくも,松平直政は結城秀康が下野結城から越前北ノ庄に移動している道中の1601年に,近江国伊香郡河内(現在の滋賀県伊香郡余呉町中河内)で生まれました.
 つまり,直政と清広はほぼ同郷と言うことになります.

 直政が信濃松本から出雲への転封を命じられたのは,1638年2月11日で,未だ世間では島原の乱の真っ最中の事でした.
 出雲転封準備の為,直政は家臣の乙部可政,塩見宅成らを出雲に遣り,3月22日にに松江城を請取りました.
 直政は3月3日に松本を発ち,7日に江戸に到着して将軍家光に挨拶の後,23日に江戸を出立.
 陸路東海道を下り,大坂から船で備前潟上に赴き,美作路を北上して4月13日にお国入りを果たします.
 一方で,直政は島原の乱にも注意を払い,一揆が勃発するや,家臣の三浦新五左衛門を先発として,上村藤左衞門,荒木荘左衞門等を相次いで島原に送り込みます.

 彼等は戦場報告よりも,幕府上使の石谷貞清の陣に属し,家来同然に奉公して原城本丸攻めにも加わっていました.
 そして,大坂で閑居していた清広の元に,直政の家臣,鈴村庄右衛門,渡部弾左衛門,奥田新右衛門の連名の書状が届き,直政の重臣である香西左門の宿所まで呼び出されました.
 この時,石谷貞清は直政の元を訪れ,清広の活躍を具に語り,今後は貞清の子として扱うことを告げていました.
 つまり,石谷貞清はその子供として扱うと言う箔を付けて,直政への仕官の取りなしを図ったのでした.
 宿所に呼び出された翌日には,香西左門に引き連れられ,村松直賢,石川弥五左衛門の取次で,松平直政の元に召し出され,仕官が決定しました.

 判物は200石,此処に松江藩士である雨森甚太夫家が成立した訳です.

 因みに石谷貞清は,この年の7月に原城攻撃時の行動を咎められ,幕府から逼塞を命じられます.
 しかし大晦日には許されて,後に江戸の町奉行として活躍.
 彼は1651年から8年の江戸町奉行時代に700名,辞任後,死去するまでに300名の浪人を就職させています.

 今の世の中にも,石谷貞清的な人物がいても良い様な気がしますがねぇ.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/01/20 22:42

 昨日,本格的に風邪がやってきた訳ですが,今日はマジで辛かったっす.
 そいでも,出なくちゃいけない会議があるのが宮仕えの辛い所.
 そいでもって,明日も朝から本社で工事立会いがあって,午後にシステムのテストと面接,と席の温まる暇がありません.

 取り敢ず,今日も暖かくして,これ書いたら寝ます.
 ああ,今日も風呂に入らず….

 風呂で思い出したのが,「天愚孔平」と言う号を持つ人の話.
 天性愚かだから「天愚」,孔子と平家の血を引くから「孔平」と言う人を食った様な号ですが,医学,地理,歴史,漢学,儒学など百般に渡って古今和漢の書を読み,生涯に100巻を越す著作を著しながら,江戸の町を浮浪者の様な風体をして古草鞋を拾いながら歩いたと言う奇矯伝承の持ち主.
 古草鞋を拾い歩いたから別名草鞋大王,何十年も風呂に入らず異臭を放っていたから,萬垢君とも言われていました.

 この人の本名は,荻野信敏.
 こんな人物ですが,松江松平家6代目当主である宗衍に仕えた歴とした松江松平家家中の士分の者です.
 因みに,月照寺にある石の大亀に載った宗衍の寿蔵碑の銘文の起草者は彼です.

 とは言え,彼が松江家中の者だった事は,余り知られていません.
 彼は江戸定府の士分で,親類縁者も実家も松江にいなかったと思われ,彼自身も,京都までしか足を伸ばしていませんから地元でも知られていないようです.

 彼は,祖父の代から松江松平家江戸藩邸詰の300石取りの侍医だったりするのですが,博覧強記の学者で,画家の司馬江漢をして,「漢字頗る知る人」と言わしめました.
 荻生徂徠門下で修辞学を修めた為,文章は当代一…と言っても,その文は現在出回っている様な漢和字典では歯が立たない様な漢字だらけですが….

 そんな彼ですが,一度序文を書くや,その本はベストセラーとなり,碑文を起草すれば箔が付きましたから,多くの人が著作の序文や碑文を依頼に押しかけました.
 とは言え,彼は自分が評価しない人に対しては,千金を積まれても書きませんでした.
 人に年齢を聞かれると,105歳だと言い,長寿の秘訣は40歳から女を絶ち,熱い食べ物を避けてきた御陰,などと嘯いて煙に巻いたり.

 宝井馬琴が書いた随筆『兎園小説別集』には,彼のインタビューが所収されています.
 彼が言うには,「孔平」と言う号の由来は,先祖が悲劇の英雄である平維盛,その後裔に,明の頃,孔子の子孫の夫人が倭寇に捕えられて日本に来て娘を産んだ.
 これが彼の何代前かの先祖と結婚したから,俺の血には,平氏と孔子の血が流れているのだ,と言ったそうな.
 平維盛が先祖だと言う話は,彼の父親である荻野珉の墓誌にもあったそうですが,孔子の話は彼が付け加えたとか.

 『兎園小説別集』に彼のインタビューが掲載されると,更に江戸雀達の尾鰭が付いて,市中に広まります.
 こうしたうわさ話を集めた,肥前平戸松浦家当主である松浦静山が書いた『甲子夜話続編』など各種の本にも掲載いたりする結構な有名人.

 更に彼は,あの千社札の創始者でもあります.
 とは言え,彼のお参りは…と言えば,賽銭を上げるには上げるのですが,その賽銭には杖の先に結んだ糸がついていて,拝み終わると糸を引っ張って取り戻したと言います.
 当然,こうした行動には江戸雀達の評判が良いはずもなく,誇大妄想狂,嘘つき,吝嗇と散々です.

 ところが,松江松平家家中の人物録である『列子録』にはそれとは反対の極めて優秀な人物像が浮かび上がってきます.

 まず,彼の死去した日こそ,「文化十四年(1817年)丑四月三日」と書かれて居ますが,生年月日の記載はありません.
 であるため,彼の年齢は80余歳から111歳まで諸説有ります.

 彼の初出仕は,1744年の事で,6代当主宗衍のお伽役,つまり話し相手としての役割で,当時宗衍は16歳でしたので,同年輩であると思われます…とすれば,馬琴に聞かせた1709年生まれは与太でしょうかね.
 そして,1746年には御扈従見習として,宗衍から「喜内」と言う名を貰います.
 1748年に御扈従本役に…御扈従と言うのは,当主近くで御用を務める秘書の役割です.
 その後,とんとん拍子に出世し,引退までに10数回,幕府からも2回の褒賞を受ける極めて有能でかつ模範的な家中の士であった事が判ります.
 宗衍は1767年に,数え年39歳で引退しますが,彼も1772年には「御隠居様(宗衍=天隆公)付御納戸役兼侍医.歌木殿(宗衍の愛妾で不昧,雪川等の実母)御用請口…」となります.
 つまり,引退した宗衍夫妻の金庫番兼侍医兼秘書となった訳です.

 因みに,宗衍が引退したのは,引退直前にたった1両の金を借りることが出来ないと言う状態にショックを受けた為とも言われています.
 それだけ松江松平家の財政は火の車だった訳ですが,晩年には御家にも余裕ができ,松浦静山の『甲子夜話』には,江戸の下屋敷の一角をお化け屋敷などに見立て,大入道や一つ目小僧などを登場させて招待客を驚かせたと言う話が掲載されています.
 これは,宗衍が,彼の演出に乗って行ったのではないかと言われています.

 そうは言いつつ,何故か引退したにも拘わらず,1782年には御物頭役に出世.
 宗門奉行,鉄砲改,関所通手形判行役も兼任.
 1787年と1794年には,松江松平家が幕府から命じられた関東地方の河川普請の御用を務めています.
 これとて,単なる書生では出来ない仕事で,しかもこの当時,松江松平家は極めて財政事情が厳しく,捻出した数万両の資金を効率的に遣うことが要求されていて,生半可な官僚では務まりません.

 同じ頃,彼は天明の飢饉で米の高騰に苦しむ武家の立場を少しでも救う為として,幕府に「交易所」即ち公営物産市場の設置を吹き込んでいます.
 この話は,老中松平定信が市中に放った隠密の報告書である『よしの冊子』巻四にあるもので,「荻野喜内(松出羽侯家中)は交易所を設け,私を奉行にされるなら米始め商品の値段を江戸だけでなく全国で平準化して見せると言う由」と書かれて居ます.
 この話に注目した定信は,彼の身辺を洗いましたが,その結果を報告した『よしの冊子』巻六には,「松出羽侯の物頭荻野喜内は異物学者にて甚だ吝嗇の由.何処へ行っても孔子の子孫だと自慢し…」と書かれたのが災いしたのか,以後,定信は興味が失せたのか,公営交易所の話が俎上に上ることはありませんでした.

 ところで,松江松平家は宗衍の頃から藩政改革に乗り出し,米よりも換金作物,例えば,薬用人参や櫨の実,綿花,藺草の栽培とその加工などの殖産振興を行っていました.
 これは不昧公の晩年から実を結び,数十万両の借財があった藩財政は一気に好転.
 借財を完済したばかりか,全国有数の富裕藩となります.
 常に当主の側にいて,博覧強記を以て任じる彼の影響も大きかったに違い有りません.

 しかし,重商主義を用いた田沼意次が失脚し,代わって重農政策に回帰した定信の寛政の改革は,彼の経世済民論の立場からは相容れないものでした.
 『よしの冊子』での隠密による報告など一種恐怖政治を敷いていた定信に対し,例え親藩の家中と言えども,批判は許されるものではありません.
 其処で,彼は家中に累を及ぼさない様に,普段から風狂人を装ったのではないかと言う見方もあるようです.

 有能でなければ,宗衍,治郷,斉恒三代の当主に仕えた上,死の前年にやっと隠居を許されると言うご奉公をしないでしょう.
 彼の最終肩書きは御番頭格,中老職に次ぐ格式の職だったそうです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/01/21 22:27

 さて,江戸期の租法というのは通則では五公五民,大抵は四公六民に置かれていましたが,稀に記録上,九公一民なんて言うのも見かけます.
 つまり大名家が9割取って,残りを農民の分とするものであり,そうした記録を以て,「だから農民は生活出来ない」と結論づける研究が昔は多く,江戸時代暗黒論とか時代劇に良く出て来る農民の描写が出て来たりする訳です.
 松江松平家にしても,異常に租率が高く,屡々これが誤解を生んできましたが,そもそもの御朱印高である18万6,000石と言う数字は,太閤検地によって算出された検地高を其の儘利用したもので,謂わば表向きの家の格式を表わす数値です.
 尤も,初期の頃の租率は,大規模な治水事業や城下町の整備などインフラの整備を必要とした為,領主7に対し農民3の割合で行われていました.

 その後の開発により,1690年頃の元禄郷帳では28万2,000石に達しています.
 1石は2俵半ですから,70万2,000俵で,これを藩の出納簿と照合してみると,緊縮政策が行われた当時でも精々5割弱,実際にはもっと低い数値が採用されていたであろうと考えられています.

 こうした数字のマジックを生み出したのが,出雲平野の開発です.
 出雲平野には,斐伊川,神戸川の2つの川が流れています.
 松江を領した諸家にとって,この2つの川の治水が何より必要でした.

 堀尾家は神戸川を改修し,京極,松平家は斐伊川本流の東流の固定と支流の整理を手がけました.

 後者の改修を手がけた中心人物が岸崎左久次時照と言う人物です.
 彼の父も左久次を名乗りましたが,彼は若狭の出身で,京極家に仕えており,京極家の転封と共に松江に来ましたが,京極家断絶の後,松平家に仕えました.
 1646年,父の死後,左久次は12歳にして父の後を襲い,初めは見習として,徴税の法を学んでいました.

 1658年,彼は士分の郷方役に取り立てられ,神門,楯縫,出東3郡の郡村入替えを手がけました.

 元々,この3つの郡は出雲郡と言う1つの郡でしたが,室町期から西半分が神門郡に編入され,東半分が出東郡となり,残りが楯縫郡となっていました.
 これを出東郡を出雲郡と改称して,11ヵ村を神門郡から出雲郡に,5ヵ村を楯縫郡から出雲郡に編入し,出雲郡(旧出東郡)から10ヵ村を楯縫郡に編入すると地方行政改革を行います.
 因みに楯縫郡の5ヵ村は,中世に楯縫を支配した多久氏が,宍道湖をルートとして開発した名残で,楯縫郡の飛び地でした.
 これらを整理した上で,出雲国を構成する10郡を,神門・飯石の2郡,島根・秋鹿・意宇・楯縫の北4郡,能義・仁多・大原・出雲の南4郡に区分し,この3つの区分にそれぞれ奉行を置いて地方支配を効率化すると共に,各郡には住民(百姓)側の役人として下郡・与頭を任命しました.
 大きな郡である神門については,神戸川を境に北方,南方に分かれ,下郡各1名,補佐役である与頭を北に4名,南に2名置き,その他の郡は,下郡1名に与頭1名と言う形で整備します.

 当時,出雲10郡で村の数は500ヵ村,1698年になると695ヵ村に増えますが,18世紀以後は余り増えていません.
 なお,村には庄屋と補佐役である年寄数人が置かれていました.

 こうした地方行政の整備と共に,新たな租法を左久次は定めました.

 太閤検地時点の丈量法では,1間6尺3寸とし,その平方を1歩(1坪),300歩を1反としていました.
 左久次は,田畑を21段階に査定し,それぞれに免相(税率)を定めていきました.
 田畑を実測する場合,20~30%の縄延び,竿延びがありますが,これを予め20%と想定し,実際に図って算出した課税面積から控除します.
 控除された残りの部分に対し,査定した田畑の等級に合せて免相を課する訳で,現在の税算出と結構似ている部分があります.

 本格的な検地は,松江では1661~73年の寛文期に最も行われ,これによって大体48%が農民の税負担,即ち物成が決定されました.
 これに物成以外の付加税が種々付きますが,それでも農民の税負担は大体50%台前半です.
 しかし,本格的検地は費用が莫大に掛かる為,以後は行われず,時代時代で適度な修正を行うものの,新田の開発による田畑面積の増加,品種改良や農民の技術進歩による土地生産性の向上などがあり,どんどん乖離していきます.

 さて,こうした作業を行った左久次は,1666年に地方役に昇進.
 更に1679年には神門郡奉行に昇進し,1686年の差海川開削,1687年の高瀬川開削を指揮し,治水を推進することで,農民の余剰農産物の増産意欲を高めました.
 とは言え,協力しない農民には苛烈な面もあり,高瀬川開削の前提事業である荒木浜開拓の為の動員を拒否した村の庄屋に対しては,隠田の咎で磔に処していたりします.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/01/22 23:29

 御触書と言えば,江戸期では関係者のみに通達する法令として一般には理解されています.
 しかし,それだけではありません.

 例えば,1830年頃,秋鹿村(今の松江市秋鹿町)に住んでいた,卯助と勘七は,領外に毎年出かけては,特産の筆を行商していました.
 ある時,卯助は行商先の備中松山領で柳井という医師から,ある妙薬の製法の伝授を受けます.
 そこで,彼は親類や村内懇意の者が飼っていた牛に施した所,牛のとある病が癒えたのです.

 当時,牛は農民達にとっても大切な財産であり,必要なものでした.
 その牛の病に効く薬ですから,彼等がこれを領内に売り広めたいと思ったのも無理はありません.
 1833年6月,卯助は牛の治療による社会貢献を表向きの目的に(当然,彼は商人ですから,多少の利益は期待したと考えられますが),領内への薬の販売を届け出ています.
 これを是とした役所では,領内に御触書を出し,彼がこの薬を売ると言うことを周知させています.

 こうした社会貢献に対する記事は,御用留と言う御触書を収録したものの中に散見することが出来ます.

 1838年7月,丁度世間では天保の飢饉の最中でした.
 その為,乞食達が病死したり,領内全体でも栄養不良を原因とした病気の蔓延が問題となっており,家中では特産の薬用人参を無償配布するなどの対策を取っています.
 この時,上来海村(松江市宍道町上来町)の百姓賢次郎が考案した黍団子についての御触書が出ています.
 これは,南蛮黍(玉蜀黍)の茎を原料にして粉を挽き,それで作った団子を食べれば腹持ちが良くなると言うもので,これを広める為,役所からは領内に「南蛮黍粉製法」を通知しました.

 また,それに先立つ1836年3月,長崎でシーボルトに学び,神門郡萩原村(出雲市萩杼町)にて開業していた西山須南保と言う蘭方医が,領内の貧民を治療したいという意向を受け,村々に彼の意向を周知する様,御触書を出していますし,同様に,平田村上ヶ分(出雲市平田町)で開業していた森脇謙受は,領内の貧民に薬を施し,特に眼病の治療に当りたいと願い出,1837年2月,役所から「勝手次第にすべし」と許可し,領内にその旨を通達しています.

 こうした医師達の慈善的治療は飢饉の時ばかりではありません.
 松江城下寺町観音小路の町医者であった錦織春象は,松江や平田等で種痘を施し,天然痘の予防に当りました.
 1853年5月上旬,彼が魚瀬浦(松江市魚瀬町)で,崎右衛門親子に種痘を行ったのに,彼等が術後8日目に再診に来ると言う約束を果たさなかった事から,役所から,領内に対し,種痘を受けた者達は必ず再診に来る様,御触書を出し,1859年6月には,種痘実施徹底を図る為,「貧窮者は謝礼心配に及ばず」と言う旨を再度御触書として通達しています.

 良く,時代劇で皆に情報を伝える為の描写として,瓦版を出したり,高札を出したりしていますが,実際には瓦版よりもこうした御触書を利用したPR活動が主流で行われていた訳です.
 こうして見ると,御触書と言うのは,決して鯱張ったものではなく,県や市の広報誌みたいなものであったと言えるのではないかと思ってみたりして….
 しかし,こうして見ると,日本人だって中々ボランティア精神に溢れているじゃありませんか.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/01/23 23:38

 さて,松江松平家の当主は代々出羽守を名乗っていたので,出羽様とか松江侯とか言われていました.
 江戸時代と言うのは表向き,将軍家が幕府を形作っていたのですが,財政的には純然たる地方分権の時代でした.
 つまり,各大名家は幕府から財政援助を受ける御三卿とか,城米を宗家から供給される分家大名以外は,ほぼ100%,自主財源で財政を賄わなければなりません.
 大災害時とか幕府の命令での作業の際には,いくらか財政援助を得ることがありますが,それは例外的.
 逆に自主財源で財政を賄う上に,国役やお手伝い普請などで幕府に献金する必要があり,税源の確保に必死になっていました.
 その為,農業に主体を置かざるを得ない大名家では,結果として農村に対する苛斂誅求となり,対する農民方では,一揆,直訴などの種々の手段を用いて抵抗していた訳です.

 18世紀半ばまでの松江松平家は,江戸で「出羽様,ご破算」などと噂されるくらいで,商人達も危なくて1両のお金を貸してくれない状態でした.
 宗衍が若くして隠退したのも,それが原因だったりします.

 享保年間になると,地球規模で天候不順が起き,幕末まで農業生産,人口増加率共に停滞する状況となりますが,農業生産が両極端になると困るのが米本位制だった武家方です.
 凶作になると税収が入ってきませんし,豊作になると逆に米相場が下がって年貢米の換金は利益が薄くなります.
 多くの大名家では,税源を確保する為,米を税源の中心からなるべく外していき,石高制に依らない税収の増加を図って商品経済へとシフトしていく訳です.

 例の上杉鷹山による米沢上杉家の改革が最たるものですが,こうした改革を主導したのが,経世家と呼ばれる在野の学者達でした.
 特に有名なのが,信濃飯田の人で荻生徂徠門下に学び,後に出石仙石家に仕えた太宰春台と言う人で,彼はこう述べています.

 対馬藩は二万石の小国だが,朝鮮から薬用人参などを安く仕入れては専売して儲け,二十万石の諸侯に比する.
 津和野侯は表高四万石だが紙を専売して,その富は海内に勝り,隣領の浜田藩も同様.
 新宮侯は三万石だが熊野の山海物資を専売して,その富は十万石に比す.
 この太宰春台の理論武装を糧に,松江松平家でも商品経済への税源シフトを実施しました.

 因みに,太宰春台は後に述べる宇佐見恵助と共に荻生徂徠の遺文集を数多く出版しますが,その資金の多くは松江松平家が出資しています.
 そう言う意味では,松江松平家は経世家達の絶好の実践場ともなった訳です.

 その太宰春台,宇佐見恵助の後に諸大名家や豪商の立て直しを指導したのは,後の世で「江戸期の二大経済学者」と言われたうちの一人で丹後宮津の人,海保青陵です.
 彼は丹後宮津松平(本庄)家の家老職の子で,父と共に松江藩儒の宇佐見恵助に学んでいますが,後に彼はこう説いて,大名達に改革を迫っています.

 大名が物を売るのは恥ずかしいことではない.借金を踏み倒す方がよっぽど恥ずかしい.大量の年貢米を売る大名は皆商人なのだから,儲け仕事に取り組むべきだ

 こうした理論に伴い,松江では,先ず大赤字を覚悟しての「御趣向の改革」で産業群を立ち上げました.
 当然,立ち上げ初期にはこうした改革は実を結びませんでしたが,次の「御立派の改革」で大胆なリストラ策を実施し,財政に強靱な体質を作っていきます.

 こうして数年で財政危機を脱出すると,「殖産興業・国産奨励」を合言葉に,薬用人参,櫨蝋,鋳物などの産業を松平家直営事業とし,元々地場にあった蹈鞴製鉄や木綿生産は民間活力を生かしながらも,品質管理,流通販売,金融の分野で様々な支援政策を次々に打ち出して奨励し,これらを全国規模のシェアを持つ産業群に育て上げ,享保期に「出羽様,ご破算」と言われた松江松平家は,文化文政期から幕末に掛けては,「松江侯は御内福」とまで呼ばれる様になりました.

 こうした改革を行うには,人材が必要です.

 その人材は,御趣向の改革での文教政策で生み出されました.
 諸学の長所を合せて実践を勧める折衷学派の学者として,江戸で活躍していた桃源蔵を松江に呼び戻し,藩校文明館を設立したのです.
 この藩校では,改革を担う人材である政策担当者の熱心な勉強会が組織され,此処で鍛えられた人々が,次の御立派の改革で中心人物となりました.

 また,こうした改革では既成勢力が反抗して頓挫することが多いのですが,江戸屋敷の学館でも,荻生徂徠門下の宇佐見恵助を招いて勉強会を開催して知識を共有していき,恵助は改革に臨む当主宗衍の知恵袋となり,次代当主である治郷の教育者ともなっています.
 松江松平家の領国経営理念は,「領民に商品経済の重要性を指導し,大規模な事業は藩の直営で専売制にし,石高制に依らない産業によって豊かな財源を確保する」と言うもので,柔軟性に富んだものでした.

 後に,松平定信が「寛政異学の禁」によって進めた硬直した朱子学一辺倒で,米に依拠した寛政の改革が頓挫したのに比べると雲泥の差です.

 こうした改革は領民にも利益を齎しました.
 表高は18万石の松江松平家ですが,実高はその倍程になり,その分年貢が安く,幕末の頃は農民も楽だったと古老の述懐にあります.
 その理由は,薬用人参を藩専売にして外国に輸出したり,島根半島や隠岐島の海鼠,鮑,鱶鰭などの高級食材を俵物として長崎に送ったりして,石高に含まれない儲けが多くあったからです.

 とは言え,御趣向の改革に次ぐ御立派の改革は非常に大胆なものでした.

 先ず,松平治郷の父である宗衍の隠居を進言します.

 御趣向の改革により何とか産業は立ち上がったものの,未だ芽は出ず,藩財政は困窮したまま,更に比叡山山門修築を幕府から命ぜられ,更に財政の困窮の度が増していました.
 宗衍を隠退させて年貢収入の大半を占めた江戸屋敷の経費を削減し,「闕年」と言う法令で,出雲国全人民が持つ債権債務の抛棄を断行して,国内累積債務を消滅させ,役所を統合して不採算の藩営事業を廃止,更に約3,000名居る家臣団の内,御徒以下の1,000名近くを整理します.
 また,豪商に対しては,借財の年賦での返済を交渉しています.

 改革の初年度冒頭で,一気にこれだけの事を成し遂げ,一瞬で赤字の元を断ち切ってしまいました.
 勿論,抵抗はありましたが,そこはそれ,大名家には軍事力がありますから,それを背景にした部分はあります.

 これで数年後には藩財政が黒字に転換しました.
 因みに,松江松平家が抱えた借財がどれくらいのものだったか,と言えば,17歳で松平治郷が襲封した時点での借財合計は50万両に達し,大体現在の貨幣価値に換算すると約1,500億円はありました.
 御立派の改革で黒字転換した後,年賦で返済を続けたこの借財は最終的に74年後の1840年に完済しています.

 この改革の中心は家老であった朝日丹波と言う人物ですが,彼の財政方針は,「入るを図って出を制す」と言うものでした.
 一般会計歳入は,「御成稼」と言う田畑からの年貢であり,歳出は扶持米(家臣達の人件費),諸役所運営費,参勤交代や江戸屋敷での費用など行政経費全般の合計で,これをほぼ均衡する様にしています.

 当然,御成稼だけでは利益がありませんし,これだけでは天候や作柄によって左右されますから,松江松平家では別に御金蔵御有金(御蔵残両)と言う特別会計を持っていました.
 こちらは,幕府から突然命じられる軍役や国役の上納金,御手伝普請(公共工事)負担金,大災害,凶作の救援資金など,一般会計で支出対応出来ない場合に支出する準備基金です.

 この御金蔵御有金は,改革3年目から蓄積が増え,10年で6万両に達し,以後順調に増えていきます.
 天明の大飢饉や利根川改修工事の御手伝普請などで取り崩した時期もありますが,天保初期には15万両に達していました.
 これらの収入は,藩営事業の収入を組入れたものと考えられており,例えば,姫の婚礼資金を木実方(櫨蝋の担当)が支出したり,幕末に購入した軍艦第一八雲,第二八雲の購入資金は人参方が支出したりしていますが,実際には特別会計からの支出になります.
 また,一般収入の方には,村方の年貢負担はありますが,町方からの税収はありません.
 実際には,座による運上金,冥加金を御家に納めていました.
 こちらも,御金蔵御有金に組込まれたと考えられています.

 この御金蔵御有金の残高は1796年以降急激に右肩上がりになっていますが,この年は「御立派改革の原点に立ち返る」として治郷が親政を開始した時点です.
 彼は親政に際し,「貨殖理財に務むべし」と訓示していますが,一般的に朱子学に染まった当主の場合,「この国は天からの預り物.領民を幸せにするのが私の使命…」などとしたり顔で訓示を垂れる訳です.
 それをせずに,いきなり「金儲けに頑張ろう」などと言ってしまうのが,名だたる経世家達に鍛えられ,自らも経世家として実践した彼らしい訓示というか….

 この松江の一連の行財政改革は,現在の景気悪化の時期に,行政は何をするべきか,極めて示唆に富んだ内容だと思いますね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/01/24 21:43


 【質問】
 松江藩の延享の改革と明和の改革とは?

 【回答】
 江戸期の大名は,将軍(幕府)からの御判物を以て,領地の石高としていました.
 これを「表高」と言いますが,この石高は必ずしも実際の石高である「実高」と同じとは限りません.
 表高は家格を表現する為のもので,国絵図と共に郷帳を出して算出しています.
 勿論,この石高が高ければ家格が上がる場合もあるので,実高以上に表高を出す場合もありました.
 これを「打出し」と呼んでいますが,打出しが高くなればなるほど年貢の高も増えるので,農民は非常に困る事になります.

 有名な話では,水野忠邦の例がありますね.
 元々,水野忠邦の領国は肥前唐津だったのですが,此処は表高よりも実高が多く,と言う事は収入が比較的多い事になります.
 しかし,肥前唐津では出世が出来ないと,わざわざ運動して,同じ表高ですが実高が少ない,つまり,収入の少ない遠州浜松に転封になります.
 この転封には家中で反対する者も多く,浜松転封後も老中就任に向けて運動を行ったので,家中は一気に貧乏になっていきます.
 正に「将功成って万骨枯る」を地で行く話です.

 松江の表高は,1638年に松平直政が「御判物の高付け」で18万6千石と定められました.
 1645年の郷帳提出では,25万3597石余となっていますが,更に1664年の郷帳では29万2118石余となっており,これは新田開発が順調に進んでいる事を示しています.
 1666年に2代松平綱隆は,絶家を回避する為,2人の弟に広瀬3万石,母里1万石を分知します.
 これにより,1666年には25万2118石余に減った訳です.

 しかし,1702年の郷帳提出時には少し減って24万2489石余,1838年の郷帳提出時には26万2627石余で,この170余年の間石高は殆ど増えていません.
 これは検地に掛かる費用が大きく,絵図面上での判断で面積を測った事から,真の石高の把握が出来なくなっており,郷帳と真の収穫高との乖離が大きく生じている為に発生しています.

 毎年の貢租は,下げ札で「竿高」に「免五ツ四分七厘」(54.7%)などと言う風に示達されますが,前に見た様に,竿高は上高から延畝として約20%の控除があり,上高比45.6%になります.
 上高を集計したものが郷帳の実高であり,検地帳や郷帳の高は真の高に対して少なく,これが乖離に繋がっていきます.
 おまけに,年貢はその年の天候によっても左右されます.
 近世では1732年(享保17年),1674年(延宝2年),1783年(天明3年)の3カ年が凶作のワースト3であり,17~18世紀は地球全体が寒冷で天候不順でした.
 1732年の凶作では,出雲でも一揆が発生し,神門郡では2名の百姓代表が極刑になり,石見でも銀山領代官が苦心苦慮していました.
 村の数は1702年の郷帳提出時は,695ヵ村に上ります.

 更に税収としては,先に見た鉄などの鉱山からの運上銀,42の浦からの漁業に関する運上銀,17世紀半ばからは「町」が誕生し,此処には村の庄屋とは別に目代が置かれ,工商を営む町場の住民に運上銀が課せられています.
 町場については,村の検地帳とは別に地銭帳と言う台帳が作成されています.
 出雲の町場は,安来,西比田,母里,広瀬,加賀浦,古浦,宍道,平田,直江,大東,塩冶,今市,大津,湊,赤名,頓原,三刀屋,上阿井の18箇所になっていました.

 これらの運上銀は簿外収入として計上されています.

 一方で,乖離による収入の大半は豪農豪商に集まっていきます.
 17世紀末から18世紀初頭の元禄期になると,1町の耕地を有し10石の生産をする規模の本百姓本位の社会から豪農豪商の社会に代っていきます.

 元々,本百姓が農民の中心となったのは,10石の生産高の内5石を年貢に納めても,残り5石で生活出来る事からな訳ですが,貨幣経済の浸透により,米を銭や銀に換えなければ生活必需品が手に入らず,従来の米だけでは,それだけの物資を購入出来なくなり,本百姓の中くらいから下の階層では,上層の地主や大商人から10ヵ年賦で金を借りるようになりました.

 そして,金が返せなくなると担保と成っていた土地を取り上げ,従来の本百姓は小作人に成り下がります.
 こうして,豪農豪商が発展していった訳です.

 この乖離に困ったのは松平家の方であり,延享の改革と明和の改革が実施されます.

 前者は,検地による物成の増収,泉府方(藩営金融機関),義田方(藩地分売機関)を設置しての金穀増収,木実方(蝋製造所),釜甑方(鋳物製造所)を経営して貨幣増収を狙ったものでしたが,特に金穀増収政策は豪農豪商との妥協提携の産物でしたが,藩の信用が得られずに失敗します.

 後者は,免率を上げて物成の増徴を図り,豪農豪商を罷免して入換えを行い,義田を廃止,闕年策で農民の負債を帳消しにする,更に藩営マニファクチャーを拡大するもので,基本的に同じ方策を採っていましたが,豪農豪商達への接し方が,妥協から罷免へと過激化しています.
 尤も,豪農豪商達全員が罷免された訳ではなく,幕府からの御手伝普請には「五万俵割」として彼等を利用しています.
 これにより,彼等の経済力を上手く吸収する様に仕向けた訳です.
 こちらの改革は,ほぼ前者の改革と同じ手法を取っているのですが,藩財政の好転に成功しています.

 今の世の中,不景気だ不景気だと騒ぐのは良いのですが,お金の集まっている方から如何に上手くお金を集めるか,如何に上手くお金を使うかが要諦だと思うのですがねぇ.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/03/08 21:43


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