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◆◆◆旗本
<◆◆階級
<◆江戸時代(徳川幕府期)
戦史FAQ目次


twitterより引用)


 【link】


 【質問】
 旗本になれたのは,どのような人々か?

 【回答】
 今は,「家紋・旗本八万騎」と言う本を読んでいます.
 これを読んでいて思うのは,旗本の出自の多くは,三河譜代も然る事ながら,武田遺臣から旗本になった家が本当に多いなぁ,と言うこと.
 確かに,石高が増せば,それなりに家臣を揃える必要があるのですが,関東討入りで取り立てられた北条家臣は余りなかったりします.
 既に家の制度が整っていて,北条家の家臣を組み込む必要が無かったのでしょうかね.

 他方,大名家の分家とか,名家の裔と言うのも結構居ます.
 大名家の分家は,まぁ,血筋を絶やさない様に,それと人質の意味を兼ねていたのか,嫡子以外の子供や血族に,自家の領地や蔵米を分与して独立させるケースが多いのですが,その為に,自家の知行地収入が足りなくなって財政難に陥ったケースもあります.
 また,分与し過ぎて,大名から旗本に転落する家もあったりして.

 また,江戸初期には嫡子がいない事で断絶とか,殉死や事件を起こした事で,将軍家から勘気を被り,闕所となる家が結構ありました.
 家光の時代が終わるまでは,将軍に御目見得して嫡子を認められていなければ家を継ぐことは出来ず,死んだ後,又は死ぬ間際に,急に養子を立てて家の後継者とする,所謂末期養子は認められなかった為,常にお家断絶になるケースが多くなり,それが由井正雪の乱の基になったと言う話もあります.

 しかし,往々にしてこうした家の血族,例えば,弟とか次男,三男が後に許されて別家を立てるケースもあります.
 そう言った家は大抵,旗本に取り立てられています.

 生駒家や,最上家などでも,お家断絶になり,一旦は改易されていますが,五千〜万石未満の知行地を与えられ,交代寄合と言う旗本でも上位に遇され,往事とは遙かに小さくなったのですが,それなりに家名は維持しています.
 そう言う意味では,再チャレンジの制度がきちんと整えられていた,と言えたりして.

 一方,高家と言う旗本も居ました.

 家康が征夷大将軍に任ぜられるに際し,二条昭実と相談して,その宣下の式典作法を持明院左中将基盛の子孫である大沢基家に管掌させたのが,その始まりとされています.
 江戸期,高家は26家ありましたが,これらは旗本の家格としての扱いで,必要に応じて持ち回りで幕府の儀典係である高家という役職に就いただけです.
 これがややこしく,高家は世襲であると屡々誤解されます.

 例の吉良上野介もその高家の職に就いた時に,難に遭いました.

 旗本としての高家は,官位としては無位無官ですが従五位下に準じられていました.

 役職としての高家は,勅使,院使などの公家衆や日光門跡などの宮門跡が年賀,将軍家の慶弔で参府した時,その接待などの諸事を取扱い,供応掛大名衆の指揮,習礼の伝授などを行い,朝廷の重要な儀式では,将軍家の御使として京に派遣され,伊勢神宮,日光東照宮へも代参使として派遣されます.
 また,城中での儀式や寺社参詣には将軍の太刀の役を務め,年賀の際,登城する大名に将軍家が盃のお流れを与える時,三家,三卿,国持大名,四品以上の大名(十万石以上)に給仕をするのも重要な役目でした.

 役職としての高家は老中支配で役高は1500石,明治直前はそれが廃止され,家禄3000石以上は家金750両,それ以外は1500両が年間に与えられました.
 更に官位は,高家に就任すると,従五位下・侍従に叙任されます.
 普通,大名が侍従に叙任されるのは,従四位下に叙せされてからなので,当然高家の家格は高かった訳です.
 更に,京都御使,将軍宣下・官位昇進に関する将軍謝使の差添(将軍宣下については,家光までは参内したのですが,家綱以降は溜詰大名を正使に,高家を副使に派遣した)の場合は,従四位上・少将まで昇任することが出来ました.
 因みに老中の官位は従四位下・侍従なので,高家の官位はそれより高い訳で.

 赤穂浪士の討入りで殺された,吉良上野介義央も高家の一人ですが,彼は,1683年に,最初の高家に任ぜられた大沢家の基恒,旧管領家の畠山家の義里と共に,高家肝煎に命ぜられました.
 一種の主任みたいなもので,定員は3名.
 そして,肝煎の役高は2000石が付きます.
 これを通称奥高家と呼び,それ以外の高家の当主は,表高家と呼ばれました.

 奥高家は,衣冠束帯が老中と同じで,直垂も着ます.
 御大礼には,若年寄よりも位が上でしたが,内情は火の車で,位があって貧乏な様を,「高家の様だ」と言っていました.

 高家は先述の通り26家ですが,役職としての高家に就ける人数は,延宝年間は9人,寛政年間には15人,安政年間に17人でした.
 尤も,最初の頃は慣例もないので,有職故実に秀でた者を高家にしていましたが,時代が下るにつれて慣例が整備され,別に有職故実に秀でて無くても,高家に就任する事が出来ました.

 その26家とは,持明院の系統である大沢家と,その庶流で遠江堀江城主だった大沢家,慣例の畠山家,今川本家の吉良家(義央はこの系統)の他,久我中納言家から来た有馬家,東海の戦国大名の裔である今川家,畠山家の分家である関東管領上杉家,九州の戦国大名の裔である大友家,信雄庶流の織田家,信長七男系統の織田家,信長九男系統の織田家,丹後宮津城主だった京極家,分家筋で庶流である吉良家,今川家分家の品川家,信玄次男系統の武田家,樋口宰相の系統である中条家,美濃の戦国大名だった土岐本家とその庶流の土岐家,六条宰相の系統である戸田家,外山大納言の系統である長沢家,畠山分家の畠山家,日野大納言の系統である日野家,押小路大納言の系統である前田家,菅原道真の子孫である前田家,鎌倉公方足利家の庶流である宮原家,新田義貞の子孫である由良家とその分家横瀬家,烏丸大納言の系統である六角家がありました.

 このうち,途中で断絶したのが,先に赤穂事件で惨殺された吉良義央の吉良家と,美濃の戦国大名の土岐家の本家筋で,後者は,度重なる不行跡と酒乱で通行人を傷つけた為に断絶された訳です.
 また,一代だけですが,交代寄合だった,,山形の元戦国大名最上家の義智が高家に就任していたこともありました.

 因みに,公家出身の高家も結構居ますが,これは綱吉の代に,わざわざ京都から公家の次男坊を召し出して高家に取り立てたもので,綱吉の代は文治主義となり,公家趣味が多く取入れられた為,公家の礼典や有職故実が,重視された為です.

 信長は足利家を結構冷遇しましたが,秀吉や家康は,こうした足利以来の名門を結構大事に使っていますね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年10月07日21:39


 【質問】
 江戸時代の旗本は,だいたい五千石クラスで何人の陪臣を養っていたのでしょうか?
 また,平時,旗本の陪臣はどのような仕事をしていたのでしょうか?

 【回答】
 レスがないようなので参考に.
 まず,「軍役令」でぐぐってみたらどうでしょう.軍役令は何回も出ていて段段軽減されています.

 旗本のではないのですが,長州藩の資料に寛永10年(1633)の軍役令での藩の体制の説明があり,先ず5000石だと騎乗の武士5人とその他23人となっています.その他は鉄砲,槍,旗などの必要数からの換算です.
 騎乗の武士(200石以上が該当)は禄高でまた供の数が決まっています.
 200石なら,侍1人とその他7人です.騎乗の武士5人とも200石なら5×9=45人になります.先の23人を加えると68人です.
(5000石貰って1000石しか陪臣に出していないのかオカシクはあり ますが)

 1万石の大名は総勢235人とかの数もありますので,騎乗の武士5人が全部200石ではないでしょうから,5000石なら100人は超えて大名の数の半分に近い数になるんでしょう.
 で,陪臣というと正規の武士ですから,騎乗の武士を含む禄高を食んでいる人間になりますが,数十石の禄とかの話もよくありますので,5人以上どれ位かは見当がつきません.知行地があちこちに分散していたりすると,そうでない旗本に比べれば人数は必要だったかも知れません.
 また陪臣の仕事ですが,江戸の町奉行の話などでは萩藩の用人が奉行に会う前に奉行の用人に根回しして奉行に会ったり奉行の伝言を聞くくだりがありますので,課長が部長の手足になり係長は課長の手足になるようなことと似ていると思います.

 尚,財政が苦しくなり禄の召し上げとかあるので,時代が下るとこの人数もあやしくなるようです.中間もパートですますとかね.

 いつの世も同じ.

(日本史板)


 【質問】
 旗本の収入は?

 【回答】
 旗本といっても,9500石からわずか15石くらいまでその格はさまざまだったが,最も多いのは100石〜300石くらいの層.
 この層が旗本全体の半数近くを占めていた.
 中でも,最も多かったといわれるのは知行200石程度の者.

 俸禄支給には,まず知行取りがあった.
 すなわち, 旗本は知行地を治める能力ありとされて,そこから年貢を取ることを許されていた.
 年貢の割合は四公六民〜五公五民が普通であったから,200石取りの旗本であれば80〜100石が取り分,残りが農民のもの.
 旗本の取り分のうち,実際に食べる分だけを現物納入させ,残りは現地で金に換させて金納させていた.

 ただ,石高調整のために相給が行なわれることが多ったため,極端な場合では13名の旗本が1村を分割知行するなど,知行地支配は困難を極めた.
 しかし幸いというべきか,この知行取の方法がとられていたのは,旗本・御家人総数の1割程度の者にすぎなかった.

 知行が200石に満たない場合には禄米支給とされ,200石を超える場合でも,個別の事情によっては禄米支給とされた.
 これは蔵米取(くらまいどり)と呼ばれ,幕府の直轄領より収納した蔵米から,働きに応じた分の米が支給される方法.
 この米は切米(きりまい)と呼ばれ,蔵米取の俸禄は,1年あたり「切米100俵」といった具合に表され,玄米の形で浅草蔵前から年三回に分けて支給された.
 多くは札差という商人に手数料を払って現金化された.

 また,大名家からの分知旗本の場合,一部の新田藩と同様に,内分分知すなわち明確な分知領の指定がなく,本家からの禄米支給によって財政が賄われるケースもあった.

 知行取や蔵米取の他に,扶持取(ふちどり)といって,家族や家来を扶養するための扶持米が月々付随するケースなどもあった.

 幕末には,老中以下全て現金で支給されることになった.
 これを「役金」と呼ぶ.
 それまでも市場経済が発達し,米の現物支給が実際には札差など商人を介して現金化されているのが実態であった.

 旗本家の多くは知行数百石程度だったが,幕府から俸禄をもらう代償として,合戦時には家禄に応じて定められた人数を率いて出陣する義務である軍役があった.
 そのため,低禄の家でも家来を連れずに公式の外出(登城,他家を訪問するなど)をすることは許されず,家格相応の家来を召し抱えねばならなかった.
 300石取なら奉公人は侍,甲冑持,槍持,草履取り,小荷駄,馬の口取の計6人と,門番,女中等.
 1000石級では軍役21名に女中さん5名位,拝領屋敷は900坪程.
 5000石級では軍役103人とそれなりの女中衆.
 また,外出や登城の供の人数も,家格によって上限が定められていた.
 上限以下の人数でも罰せられないが,家の家格が低く見られることを嫌い,財政難でも臨時の者を雇ってでも人数を揃えた.
 家来の衣装,食事,住居費も主持ち.

 そのため,庶民に比べると収入はかなり多いが,人件費がかさみ支出も多かった.

 幕府成立から30年後の寛永年間には,早くも「旗本の窮乏化」が問題となっていた.

 【参考ページ】
http://homepage2.nifty.com/kenkakusyoubai/zidai/kerai.htm
http://homepage1.nifty.com/SEISYO/kyuryo.htm
http://www.tcn.zaq.ne.jp/kankericlub/bushi/bushi.htm
http://coopkyosai.coop/life/money/money_081201.html
http://www.sumida-gg.or.jp/arekore/SUMIDA024/S024-7.html

2016.2.4


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