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<◆江戸時代 目次
<戦史FAQ目次
(画像掲示板より引用)
『江戸の政権交代と武家屋敷』(岩本馨著,吉川弘文館,2012.3)
【質問】
江戸時代の「家督」と「家格」について教えられたし.
【回答】
江戸時代の武士というのは,戦争等,非常時に備えた戦闘要員としての側面と,幕府や諸大名が領内を納めるのに任命する役人としての側面の,二面性を持っています.
太平の世になっても,武士は戦闘要員として組織されており,その組織を「組(與)」と呼んでいます.
日向高鍋秋月家の場合は,これに「隊(「くみ」と呼ぶ)」の字を充てたり,飫肥伊東家の場合は,飫肥城下と清武中野に住む上級武士,「給人」の中から約20名が「組頭」に任命され,その下に領内各所に住む下級武士を称して「組子」として組織し,統率しています.
一朝事があった場合,組頭は速やかに給人を召集して,自分の戦闘集団を形作る訳です.
この為,組頭は日頃から自分の部下である組足軽までの組子が居住している場所を巡回し(これを組廻と言う),「組」と言う自分が率いる軍事組織を点検して非常時に備えているのです.
飫肥伊東家の場合,1670年現在でも「組」は19組が編制されていました.
但し,1637年に起きた島原の乱の様な非常時に行われる幕府の軍役の場合は,組だけでは無く,これに組み込まれていない特別編成が組まれる場合もあります.
一般に「組」は「鉄砲」,「弓」,「長柄」,「旗」などに分けられ,1組が20〜30名で編制されています.
このうち,主力を為すのは鉄砲組で,飫肥伊東家の場合は,19組の内,11組が鉄砲組でした.
とは言え,島原の乱以降は,平和な世の中になった訳ですから,軍勢を動かすことはありません.
この為,飫肥伊東家の軍法御寄日では,2,4,6,8,11月の24日,四ツ時に御会所に出勤する他,月に1〜2回程度,組毎に1〜2名が組頭の補佐である「小頭」に率いられて,当番で鉄砲組は「鉄砲磨き」,弓組は「矢の根磨き」,その他は6月土用の虫干しや道具直立(修理)に出ることが義務づけられていました.
勿論,日常の城内や城主身辺警護,江戸・大阪屋敷の警備は役付の仕事ですが,番日の割付に従って「番」(勤務)にも当たらねば成りませんでした.
こうした武士は世襲であり,家を継ぐ(飫肥伊東家の場合は「請継」と称する.)事は,「家格」「家禄」を継ぐことであって,奥医師や絵師,御用大工の棟梁など,特別な技術職でも無い限り,下級武士の役付は世襲ではありません.
基本的には親が当主から受けている家格と家禄を,そのまま請継のが原則ですが,それが出来ない場合もあり,家格と家禄の請継は,当然のことながら,当主の裁許が得られる条件が整った時に行われます.
例えば,飫肥伊東家の場合は,家禄高と役付との関係は以下のようなものでした.
高 300石:家老役
高 250石:清武地頭
高 100石:用人,大目付,江戸留守居,郡代
高 23石:中小姓座并其身一世中小姓,右筆
高 25石:代官
高 18石:割場
高 16石:勘定者,倉頭取,下目付
高 15石:料理人頭取,船大工頭取
高 13石:山仮屋番代
高 10石:鶯巣主取
医師の場合は,扶持の少ない者には5人扶持と銀15枚を給与
子供が親の請継をするのは,大抵の場合は親が御家の役目を務められなくなって,「致仕」した場合に発生します.
多くの場合は,致仕は老齢の場合が名目ですが,その老齢と言っても50〜60歳の,今では未だ未だ働ける年齢である場合が多かったりします.
次いで,病気による場合,そして,役目の上で不手際があり,引退を余儀なくされた場合です.
老齢による請継は,それに備えて予め跡を継ぐ子供に名目的な請継が為されて,「見習」などの役目に就き,出仕します.
飫肥伊東家の場合は「半役」と言う制度があり,親の役目を減らして,跡を継ぐ子供が新しい役目で親が減らした仕事分だけ出仕することが出来ました.
…まぁ,一種のワーキングシェア的なものでしょうか.
こうして,「先請継」を行って親の仕事を一通りマスターした後,親が正式に致仕して家督を継ぐ様になっています.
勿論,家督を継いでも大出世をするケースはそうそう多く有りません.
上級武士の場合,任命される役付は家格と家禄に制約されています.
例えば,中世に主家から分家した「給人」400石の伊東中務家の場合は,小姓役から始まって,武の場合は長柄組頭,そして,地方回りとして,会所相談役,清武地頭,家老への出世,文の場合は用人並,そして用人役を経て,家老に上り詰めます.
何れも,小姓から始めて,30歳前後で4〜5名いる家老に名を連ねる事が出来ます.
下級武士の場合は,役付の世襲はありません.
但し,親から家を継いだ当初は,「名代(代奉公)」として親の役付を暫く引き継ぐ場合もあります.
先述のように,親からの役付をそのまま受け継げるのは,御抱え医師,伯楽(獣医のこと),大工,鷹匠などであり,それ以外の下級武士は,役付の異動や交替が少なからず発生しました.
しかしながら,戦国時代のように槍働きでのみ出世すると言う事は,太平の世になると消滅し,役付に就いていた時の勤務評定により,家格や家禄が左右されるようになっていきます.
しかし,家格が全く動かない訳でも無く,特例はあります.
例えば,18世紀初頭に北河内足軽52名の筆頭で,「黒山主取」であった松田庄兵衛家の場合を見てみます.
「主取」とは,江戸初期に他家の境界警備の為,また,山林の管理育林事業の進展に伴う村や山を警備,管理する責任者として置かれたもので,幕末になるに従って広範囲に置かれていたのですが,18世紀初頭には,黒山・平佐(北河内)・山仮屋・赤根(酒谷)・坂本・白木俣・石原・荒河内・今別府(西川内)・石之本(南郷橋之口)・通水・宿ノ河内(南郷西大久保)・口ヶ野・秋山(南郷潟上)・贄波(南郷贄波)・仏坂(南郷東大久保)に置かれ,これらの地は「切寄」と呼ばれている所で,山仮屋以外は所足軽が任ぜられていました.
松田庄兵衛家は,初代庄兵衛の代から「黒山主取」で当初9石の家禄が支給されていましたが,1676年に何らかの功績があったのか,5石が加増されて14石になっています.
初代庄兵衛の子惣兵衛は,1734年に14石を請継ぎ,既にこの頃には「親名代」として数年勤めていて,それを首尾良く勤めたとして,黒山主取になると同時に「足軽」から「土器」と言う家格層に格上げされています.
但し,住居は黒山にあるままで,城下には移されてはいません.
後,155年に亘って黒山主取として6代目まで勤めますが,その間4代目庄兵衛は1757年8月から翌年正月まで,「山田次郎兵衛付」で「江戸上り」をしています.
この「江戸上り」は記録では,緊急上京である「俄上り」であり,銀20目が特別に渡されています.
その次の5代太郎兵衛は,親の病気に伴い黒山主取の名代役を勤めていましたが,1796年には主取役を数年滞りなく勤め上げたことから,高2石を加増され,16石をもらう様になりました.
そして,1807年7月から伊東家の狩猟場山林の番人である「狩倉守」を兼ねることになりますが,1810年12月に郡代の廻村の際に不手際があり,10日間の「遠慮」を申し渡されました.
1818年,6代惣兵衛が父の跡を継いだのですが,1824年には首尾良く勤め上げた事と,数本の板木場を差し出した功で「土器」から「徒士座」へと更に昇格しました.
松田庄兵衛家はあくまでも特例ではありますが,下級身分の人々がずっとそのままにいたかと言えば,例外もあるという意味な訳です.
幕末になると,こうした例はぼつぼつと出て来る訳ですが.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/03/15 23:43
青文字:加筆改修部分
さて,江戸初期から中期にかけては戦争から平和への転換期であり,各大名家でも様々な葛藤がありました.
1つは,当主家の中で家督を巡っての内紛であり,もう1つは処遇を巡っての家中士間での大小のもめ事,特に戦乱に活躍した武士と,平和な時代に必要となる事務官僚との葛藤です.
前者の方は,大方は分知として解決し,分知された当主達は,大藩の場合は新たに大名に取り立てられたり,小藩の場合は幕府旗本として存続したりしました.
家中士間の争いの場合は,余りに度が過ぎた場合は追放,家禄没収,或いは逆に出奔として解決が図られ,行政能力に長けた人々が新たに登用されたりしています.
また,戦闘集団から官僚集団への組織替えが開始され,彼らの身分序列が決められていった時代でもありました.
飫肥伊東家でも『飫肥藩士人給帳』が整備され,士の家格と役付が決められていきました.
当主以外の階層構造は,当主一門(身内)を筆頭に,以下給人→中小姓→歩行→茶坊主→総土器(土器座)→外座間→鷹師→倉付→細工所付→鍛冶→家大工→船大工→紺屋→寺社知行付→足軽→塩硝煮→木挽→小人→厩と言う形で制定されていました.
19世紀以後は厩の下に,御門番足軽→麓足軽→扶持方→鳥見→庄屋と続きます.
18世紀初頭の給人は112名,19世紀の給人は130名余,
中小姓は18世紀初頭で49名,19世紀には65名余,
歩行は18世紀初頭で261名,19世紀は240名前後,
土器は18世紀初頭で138名,19世紀に190〜200名前後,
足軽は18世紀初頭に896名,19世紀になると700名前後
と推定されます.
一方,土器,外座間,足軽,小人の層では御目見得の可否が明確に分かれていますが,家格と役付の関係は不明確で,特に,大名家専業職人層である鷹師,倉付,細工所付,鍛冶,家大工,船大工,紺屋,19世紀以降の塩硝煮,木挽の場合は,家格自体は土器以下に含まれている場合もあります.
また,各階層の中でも席順は厳密に決められています.
因みに,実務を担う中心である歩行階層の席順は以下の通りです.
使番→割場→上郷地頭→下郷地頭→大堂地頭→勘定者→大工方頭取→銀方頭取→郡代手代→山廻→所務者→川除手代→才覚方→楮方→杉方→両鷹方→山方→広田手代→目井仮屋→外浦仮屋→両町部当→行司→石方→盛方→執筆→記録方→会所物書→両船大工頭→御船頭→会所小使
と,まあ大体30段階に分かれています.
これらは基本的に1度定められると,容易に動くことなど出来ませんでした.
例えば,「新知」として召し抱えられた人は,1674〜1713年までに給人層の総人員450名中,僅かに20名しかいません.
大体2年に1名程度の割合です.
しかも藩政の実務者からは,家中士の抱え過ぎと指摘されており,上級武士の新知はほんの僅かしかいませんでした.
この為,「浮世人」と言う階層が18世紀初頭までに出来上がっていました.
これは,外様大名である飫肥伊東家に課せられた,過大な軍役や御普請役に,陰の力として大きな役割を果たした階層ではありますが,下級の家中士としては召し抱えられることは無く,かと言って「百姓門」としても認められず,「扶持外れ」と呼ばれ,浮免地,即ち大名家から見て無税の地が宛がわれて,様々な賦役を提供した階層です.
そして,この階層は時代を経る毎に拡大していき,江戸期後半になるとこの「浮世人」階層が,総人口の5分の1に達しています.
ところで,土器(かわらけ)と言う階層は,元旦に登城して当主に御目見得が許され,素焼きの盃が与えられる階層であることから,この名称が生まれたと言われています.
新年の御目見得は城中の元旦,六ツ半時(午前7時)から開始され,場所を違えて3段階で行われる行事です.
まず,「御座間」にて御一門方に家老,それに次いで「御年男御役人中,近習・御台所廻り」の者に対して行われ,次いで「小書院」に移動して「会所相談中,諸番所詰合」の者が続きます.
更に「大書院」で土器以上給人衆の御目見得が為され,何れも盃の「御土器」が下されます.
時代が下がると,その盃は「土器」と「塗り物」に分かれていきます.
先述のように,土器は御目見得が適う階層では下から外座間の直ぐ上の家格ですが,役付が多種多様で,時代によって変化する為に,一律に理解するのが難しいものです.
土器の中でも総土器は飫肥城下に住んでおり,単なる土器は地方居住という違いがありました.
因みに,その下の階層である「外座間」には「土器外座間」と「役物外座間」と言う違いがあり,家格は土器よりも下なのですが,家禄は殆ど変わりません.
土器と外座間の違いは,城中の控えの場所の違いと考えられます.
なお,役付も家格によって任命される仕事の範囲が決まっています.
とは言え,一般的には土器座の者が任命される役付に,家格が下の者が任命される場合があります.
例えば,「庄屋」には土器が任命されますが,それより家格が下の筆算足軽が任命される場合もあります.
此の場合,任命された筆算足軽は「役土器」と呼ばれ,役付の上で土器格とされ,御目見得が許される身分になるのです.
一般的に,「家禄」,「家格」,「役付」が藩役人を構成する要素だったのですが,このうち,「家禄」と「家格」は子孫にも請け継ぐことが出来ます.
但し,飫肥伊東家では当主の代が変わる「家督」の場合は,幕府の例に倣い,その「家格」「家禄」は安堵されて,改めて当主から宛行状(判物)を出される事になっていました.
また,中士は日頃から各家格毎に「武具」や「旅具」を整えなければなりませんでした.
土器,外座間,役土器が日頃から武具として用意しておかなければならないのは,着込1領,陣大小,3匁5分以上の鉄砲1挺でした.
「陣大小」は戦闘用の刀,脇差であり,「着込」は上着の下に付ける腹巻,鎧,鎖帷子のことです.
同様に旅具として用意しておかねばならないのが,袷2つ,蒲団,絹羽織,上下1具,帷子1つ,布子,竹行李,番袋(宿直物),渋紙,包筵,細引の11種類であり,これは参勤交代時の必要備品でもありました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/03/16 22:16
【質問】
江戸時代の「大名」の資格は?
【回答】
江戸時代,大名の資格は,先ず家禄が万石以上であること,でした.
これは表草高,つまり,その土地から収穫される米(麦や大豆は米に換算)の量を土地の広さに換算したもので,それが1万石以上である必要があります.
これは1度認められたら,滅多な事では平年の収穫が表草高の額に達しない場合があっても,大名としての資格を失う事はありませんでした.
尤も,例外もあり,例えば出羽国矢島の生駒家では,実収は1万5,000石に達していたのですが,大名では無く交代寄合の形になっていたりします.
一方,万石でなくても大名扱いとなっている家もありました.
初期の頃の松前家や下野国の喜連川家等がそれに当り,特に喜連川家は5,000石の家禄しかなかったのですが,足利氏の末裔であることから特別に大名に列していました.
2つ目の資格は,将軍直臣であることです.
例え,家禄が1万石を超えていても,大名家の家臣はあくまでも陪臣でしたので,大名とは認められませんでした.
例えば,長州毛利家の吉川家は周防国岩国に於て6万石を領していましたし,越前松平家の本多内蔵之助は,越中国府中で2万5,000石を領していたのですが,何れも万石以上の陪臣であった為,大名とは認められていません.
この為,吉川家の様に,大名家と認めて貰おうと多大な努力を図り,それが高じて主家と対立したりもしています.
また,御三家に付けられた付家老も同様で,紀州家の安藤氏,水野氏,尾張家の成瀬氏,竹腰氏,水戸家の中山氏も何れも万石以上なのに,陪臣として扱われ,元々直臣だったのに大名家にはなりませんでした.
これも,後の時代になって,再び大名に認めて貰おうとして色々幕閣に働きかけたりしています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/08/25 23:39
青文字:加筆改修部分
【質問】
大名は,どのように区分されていたのか?
【回答】
大名の家格は,将軍家との親疎,出身により親藩,譜代,外様の3種に分れていました.
親藩は,将軍の子弟で大名になったものと,その末流・支流の系統を言います.
特に家康第9子の義直から始まった尾張家,第10子の頼宣に始まる紀州家,第11子頼房に始まる水戸家は御三家と言い,将軍に後嗣が無い場合は,御三家から出る事になっていました.
御三家以外の子弟は,親藩と言う扱いになります.
彼らは譜代大名と共に,将軍の藩屏として,外様大名を牽制する重要な地位にあり,特に水戸家は江戸定府であり,最も幕府に近い関係にありました.
また,越前松平家は,秀忠の庶兄結城中納言秀康の末裔であり,会津松平家は秀忠の庶子保科正之の流れを汲むもので,これら一門及び支流を特に家門と言いました.
この他,厳密には大名の扱いではありませんが,吉宗の三男宗武,四南宗尹に始まる田安家,一橋家及び家重の次男重好による清水家を御三卿と言い,宗家に嫡嗣が無い場合は,宗家を継ぐ資格を持っていました.
譜代大名と言うのは,関ヶ原の合戦より前に徳川氏の家臣になっていた大名で,安祥七譜代,岡崎御譜代,駿河御譜代の別はありましたが,家禄は5万石以下の者が多くいました.
最大の家禄は,井伊家の35万石で,その領地は戦略的にも重要な地を占め,特に駿河,遠江,三河,甲斐,信濃などの旧徳川家の領地及び関八州の国々に多く配置されました.
これら譜代大名は,家禄は少ないものの,老中や若年寄を始め,幕閣の要職に就く事が出来ました.
寛政年間の大名家は全部で264家で,その内136家が譜代大名でした.
最後が外様大名で,関ヶ原の合戦後に徳川家に服属した大名です.
但し,当初外様大名でしたが,幕閣に運動したり,将軍の意向で譜代に列した者もいます.
後者の例は,有馬家や相馬家が挙げられます.
諸大名の内,1国以上を領する大名は「国持大名」,ほぼ1国を領する大名を「准国持大名」と言い,一般には「国主」と称されています.
これらは,領地の広狭ではなく,寧ろ家格を意味します.
国持大名とされる大名家ですが,前田家は加賀・能登・越中,島津家は薩摩・大隅,毛利家は周防・長門,池田家は因幡・伯耆,蜂須賀家は阿波・淡路,黒田家は筑前,浅野家が安芸,池田家が備前,山内家が土佐,宗家が対馬と,此処までが1カ国以上を領している家です.
更に伊達家は陸奥,細川家は肥後,鍋島家は肥前,藤堂家は伊勢,有馬家は筑後,佐竹家と上杉家は出羽,福井松平家が越前,松江松平家が出雲と,これらは1国を領有していないものの,これに伊達家と共に陸奥を支配していた南部家を加え,俗に国持20家と呼んでいます.
なお,国主以外の大名の事は「領主」と称しています.
この他,城を持っているかどうかで区分する場合もありました.
居住の城郭を有する大名の事を「城主」と言い,その数は凡そ128家ありました.
彼らは,居住地や領地の他,城中に出仕した場合に詰める座敷や部屋の名でも区別されます.
これを「殿中席次」と言い,大名の家柄及び役職によって定められました.
幕府創設当初の席次は,その人物の家柄と経歴により自ずと決まる慣習でしたから,多分に浮動性を持っていましたが,幕府の制度が整ってくるにつれて役職の格式が決まると共に,その役職に就く家柄が家格と言う形で固定し,席次も次第に厳しくなりました.
特に1659年,明暦の大火で焼失した江戸城本丸が再建されて以後には,諸士の着座・席順が公式に布告され,席次には「何之間席」又は「何部屋席」とその詰める座敷・部屋の名をもって示されました.
「殿中席次」は17の席次に分れています.
最上位は「大廊下」です.
これは上下に分れ,上の部屋は御三家,御三卿,下の部屋は前田,島津,松前松平,因幡池田の諸家が詰めます.
次が「大広間」.
これは一の間から四の間に分れ,四位以上の外様国持大名(伊達・細川・黒田・浅野・毛利・鍋島・藤堂・蜂須賀・山内・上杉・津軽などの諸家が詰めます.
そう言えば,南部が津軽より詰める間が下だというので,当主が悶死した話もありましたっけ.
「黒書院溜の間」は,常詰としては高松松平,会津松平及び井伊の3家で,それ以外に老中を務めた大名が詰めます.
後者を溜詰と言い,一種の名誉職となっていました.
「溜の間 御次」は,京都所司代と大坂城代が詰める場所.
「帝鑑の間」は,城主格の譜代大名,例えば,大久保,戸田,堀田・内藤・大給松平・柳沢など60家と外様大名で譜代に準じられた願譜代と交代寄合の旗本が詰めます.
「柳の間」には,四位以下の外様大名と高家・寄合衆肝煎及び寄合衆の旗本が詰める部屋.
「雁の間」は,板倉・稲葉・青山・阿部・牧野・水野など譜代大名の中堅大名凡そ40家と高家衆の旗本が詰める部屋.
「菊の間」には,3万石以下の譜代大名及び,大番頭,書院番島,小姓組番頭,旗奉行,槍奉行,持弓頭,持筒頭,百人組頭,使番,定火消御役の旗本が詰めます.
「芙蓉の間」は,寺社奉行,町奉行,勘定奉行,大目付,奏者番,駿府城代,京都町奉行,伏見奉行が詰める部屋.
「桔梗の間」は新番頭,新番組頭が詰める部屋.
「躑躅の間」は,勘定奉行所勘定吟味方,大番組頭,御先手弓頭,御先手鉄砲頭,鉄炮方,小十人頭,御徒頭,船手頭,火事場見廻,本所深川火事場見廻が詰める部屋.
「山吹の間」は中奥小姓,中奥番が詰める部屋.
「紅葉の間」は小姓組が詰める部屋.
「焼火の間」は,納戸組頭,納戸方,側用人勘定組頭,寺社奉行吟味調役,寄場奉行,勘定奉行勘定組頭,勘定奉行勘定吟味方改役,勘定奉行切米手形改,金奉行払方蔵奉行,油漆奉行,林奉行,材木奉行,川舟奉行,大筒役,二の丸御留守居が詰める部屋.
「中の間」は,小普請組支配,御広敷留守居番が詰める部屋
「土圭の間」は新番組衆.
「虎の間」には書院番衆.
彼らがそれぞれの部屋で仕事をしていた訳ですが,間違った部屋に入ると,もう大変で,それで出世が止まる場合もあったり,下手したら隠居とか逼塞などを命じられる事もありました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/08/25 23:39
青文字:加筆改修部分
【質問】
「人馬の御証文」とは?
【回答】
旗本や御家人が公用で出張する場合は,「人馬の御証文」と言うものが下付されます.
これは,旅行中の宿々で定められた限度内の人馬を徴発して,自由に使用する事を許された命令書の事です.
御目見以上の場合は,その御証文に伝馬の御朱印が押されていた為,俗に「御朱印」と呼びます.
この「御朱印」は非常に大切に扱われ,旅籠に着くと三宝に載せて上座に供え,取扱いの都度嗽手水を行いました.
宿に泊まると,その土地の城主から使者が来て挨拶をするのですが,それは出張者に対する礼儀では無く,「御朱印」に敬意を表する為に行われたものです.
尾張徳川家でさえも,「御朱印拝見」と言う慣わしがありました.
当然,直参の上に「御朱印」を持っていると,普段は格下に見られますが,この時ばかりは道中で参覲交代の大名家に行き当たっても,道を譲りません.
寧ろ,大名家の方で道を避けてくれる上,中には横道に避ける大名家すらありますから,その権威は大変なものでした.
一方,御目見以下に下付される「人馬の御証文」は御朱印が無く,単に月番老中の署名捺印だけでした.
また,人足の書き入れもありませんが,それでも公儀御用ですから,御朱印ほどではないにしろ,大いに幅をきかせたと言います.
こちらは単に,「御証文」とだけ呼ばれています.
御証文の老中印は,二重枠の黒印でした.
江戸時代,御朱印を用いる事が出来るのは将軍に限っていましたので,御朱印は即ち将軍の印の押された書面だったりします.
ですから,彼ら御朱印を持っている者は大きな顔が出来た訳です.
御証文は,これを長さ8〜9寸,幅2〜3寸の印籠蓋の箱に収め,黒天鵞絨の袋に入れ,両端を太い打紐で結びました.
それを首に掛け,箱の左を懐中にし,右端を出していたので,上使が申渡し書を懐中にしたのと同じ格好であり,余り良い格好とは言えませんが,公儀御用としての権威は大変なものだったりします.
御朱印よりも格が落ちる御証文は,御朱印ほどの権威はありませんが,出張先に於いて,その地の大名家やその家臣を震え上がらせるのに十分な代物でした.
御証文は,御朱印と同様に,旅行開始の前日に下付され,用務が終了すると直ちに老中の手許に返納されるのが建前だったので,基本的に保存されていません.
しかし,御朱印が高家の大沢右京太夫家に,何故か保存されていました.
それは,朝廷との式部関係を司っていた大沢右京太夫基輔が,1866年暮れに京に上った折,丁度大政奉還に直面し,幕府が瓦解したので,手許に残った訳です.
この御用道中には出張手当的なものが支給されます.
御暇金,賄道具代,宿代,雑用金など様々な名目で相当額が支給され,旗本の場合は時服さえ頂戴したりします.
御暇金は躑躅之間に於いて御老中から渡されますが,小判を白木台の上に載せて御進物番が差出し,出張者はこれを有難く頂戴します.
その他の賄道具代,宿代,雑用金は一時金ですが,書付で頂戴する場合もありました.
例えば,御徒目付が京都に行く際にのは,御暇金として10両,御証文人足3人馬2匹,賄道具代3両2分,雑用金1ヶ月3両2分,御扶持方7人扶持1倍,宿代1ヶ月1両,御徒目付2人より長持ち1竿之持夫と,これだけあります.
また,小人目付が京都に行く場合の費用は,路銀3両,御証文馬1匹,賄道具代2分,雑用金1ヶ月1両,御扶持方2人扶持1倍,宿代1ヶ月1分となります.
これらの中で,御扶持方何人扶持1倍とは,御府内にて工事を行う場合,幕府は1日5合で何人扶持かを支給します.
これを「平扶持」と言いますが,御府内の外に出る場合は,「一倍」と言って,平扶持の倍,つまり2倍の支給とされました.
例えば,先の7人扶持1倍と言えば,14人扶持の事で,米7升に相当し,これが御用道中にも用いられた訳です.
因みに,1860年,福地源一郎と言う人物が外国奉行支配の通弁御用として,初めて神奈川に出張した時のエピソード.
御用道中である事から,月番老中から「人馬の御証文」が下され,それによって先触れが宿々の問屋場に命じて人馬の準備を整えていました.
出発に際して,伝馬町から人夫が来て,値段も決めずに荷物を担いでいくのを不思議がってみていた源一郎.
若党を連れて八つ山下を過ぎ,品川宿に入った際,問屋場の者から,貴方様は何方ですかと聞かれたので,
「通弁御用として神奈川に行く福地源一郎だが」
と答えた所,問屋場の者は大いに驚き,御用道中の事なので,宿役人が羽織袴で宿入口まで出迎えに出ていたはずであると言い,知らせを聞いて舞い戻ってきた年寄,帳付,人足指し,馬指し及び迎番と言った宿役人は,「平に平にお許しを」と詫びたと言います.
ところが,制度そのものを知らない源一郎,
「ところで,次の川崎宿までの駄賃は,幾らになる」
と聞いた所,御用道中の人馬は宿駅で差し立てる事を知らないとあれば,これは偽物に違いないと言うので,今度は逆に宿役人から問い詰められる羽目になったそうな.
陳弁相勤め,何とか誤解を解いた源一郎でしたが,旗本や御家人の御用道中の模様と権威がよく判る話です.
余談ながら,福地源一郎は後に福地桜痴と名乗り,大政奉還後に『江湖新聞』を発刊し,旧幕臣の不満を代弁した後,岩倉使節団に加わり,帰朝後は『東京日日新聞』,今の毎日新聞の前身を創刊して主筆として言論界に重きを置きます.
晩年は,池之端の御前として,花柳界に名を知られ,演劇の改良を志して,歌舞伎座の建設を計画し,九代目団十郎の「活歴」を大いに支援した人です.
この人,元々は長崎で生まれ,和蘭通詞について蘭語を学び,1857年に16歳で江戸に出て,外国奉行水野筑後守忠徳の食客となり,英語を学び,1859年には弱冠18にして,外国奉行支配の通弁御用雇で10人扶持,1860年,未だ20歳になっていないのに,外国奉行支配同心格通弁御用で30俵2人扶持の御家人になりました.
で,先ほどのエピソードに繋がった訳です.
その後,1861年には外国奉行竹内下野守保徳,松平石見守康直に従ってフランス,英国,ロシア,オランダ,ポルトガルを歴訪し,1864年6月には外国奉行支配調役並格・通弁御用頭取として100俵10人扶持となり,柴田日向守剛中に従って再渡欧し,フランス語を収めて帰朝後,24歳で御目見以上の旗本に昇進した英才です.
そりゃ,弱冠20歳にもなっていない,しかも役人歴の少ない人が,急に御用道中と言われても判りませんわな.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/09/04 22:31
青文字:加筆改修部分
【質問】
「勤番」制とは?
【回答】
江戸幕府の組織に属している幕臣と呼ばれる人々の数は,嘉永年間の調査では御家人だけで17,300余家,それに旗本5,200余家が加わり,全部で23,000余人に達する大組織です.
当然,幕府の運営に於いて,それらの家臣を有効にそれぞれの部署に就け,幕政を巧みに運営する必要がありました.
よって,出来るだけ多くの役職を設けて,その中で能力ある者を十分に活用せねばなりません.
この様に役職に就く事を,「役」或いは「場」と呼び,その役を勤める事を「勤番」と言いました.
基本的に武鑑に掲載されている役職は総て勤番であり,万石以上の大名であっても,幕閣の一員として勤務すれば勤番,10俵1人扶持の御掃除之者,中間,小者であっても,俸禄を得て勤務するのであれば,それは総て勤番の範疇に入りました.
23,000余人に達する家臣を多くの役職に分け,同じ職に数人を置き連署,月番交代制にしても,なお,旗本御家人全員を職に就ける事が出来ず,已むなく非役の寄合や小普請支配・小普請組の制度を作らねばなりませんでした.
同役を数人置いて月番交代制にしたのは,1人でも多く役に就ける為ばかりでなく,1人の独断専行を避ける為でもありました.
それ故,煩雑さと形式主義に陥り,仕事の能率を逆に著しく阻害する事になります.
また,勤番の多くは,今と違い俗に「三日勤め」と言い,2日勤めて1日休む当番非番制でした.
特に番方と呼ばれる武官の勤めは,朝番,夕番,不寝番の1日3交代制であり,二条城,大坂城,駿府城の警備に当たる遠国在番は,下番すると1ヶ月の休暇が与えられました.
これとて,今盛んに言われているワークシェアリングの元祖で,今のサラリーマンからすれば,嬉しい限りの制度ではありますが,一方でこの「三日勤め」により,1人で出来る事を3人掛かりで行わねばなりません.
従って,この職が90俵扶持の勤めだったりするのなら,それが3人掛かりになる為,30俵扶持になってしまい,微禄者は更に困窮する事になってしまいます.
ならば,扶持を270俵扶持にして,1人90俵扶持にすれば解決するのでは無いかと思う訳ですが,これも現在のワークシェアリングの考え方と同じく,全体の人件費は決まっているので,これ以上の扶持増は,幕府財政を逼迫する事になります.
かくして,こうした職の人々は,微禄の儘据え置かれた訳です.
本来,この「三日勤め」の制度を利用して,1日の非番は武士の表芸である武術や学問に励むべきでしたが,江戸中期以後は武芸を余り必要とせず,この非番の日は,出世の糸口を掴む為の交際に費やす者が多くなり,遂には音曲や遊芸を専らにする者が出て来ます.
一方で,生活に苦しい御家人は,この余暇を内職に用い,手先の細工事に精を出し,生活の糧にするようになっていきました.
そう言う意味では,日本人は江戸の昔から,ワークシェアリングの利点と欠点を十分に知悉していたと言えます.
で,どうせ誰がなっても変わらないのなら,首相こそ「三日勤め」でも変わらないと思いますけど.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/08/31 22:08
青文字:加筆改修部分
【質問】
武家の給料支払い形態と,住居について教えてください.
【回答】
武家はきめ細かく身分が決められていますが,給料の支払い形態で大きく2つに分かれます.
1つは,禄高を得る事の出来る知行取であり,もう1つは,主家から扶持米を給される扶持取りです.
知行取とは,その名の通り,知行地を与えられて,その年貢米によって生活を賄うものであり,扶持取りとは,俸禄米を給せられる事です.
とは言え,江戸時代も半ば過ぎになると,知行取と雖も,国持大名の重役身分でもない限り,知行地に赴くことなく,実質的には俸禄米が給されるようになり,形骸化してしまいます.
知行取の事は,各大名家では様々に呼ばれており,庄内酒井家は家中,八戸南部家は家中手廻り,秋田佐竹家では侍,備中松山板倉家では士分等々があります.
一方,扶持取りも,庄内酒井家は給人,八戸南部家は足軽手廻り,備中松山板倉家では足軽等々と呼ばれています.
知行取は家格に応じて上下に分かれ,米沢上杉家の場合は最も格式の高い96家を侍組,それ以外を三手組と言い,仙台伊達家は,一門,一家,一族の合計58家を伊達門閥とし,その次が宿老,着座を務める48家で,その下が平士と言う階層構造です.
平士と言っても,給される知行は上は1,000石から,下は100石台で極めて幅がありました.
尤も,佐竹や南部もそうですが,家臣の数が半端無く多く,例えば米沢上杉家では約5,000名,仙台伊達家は約10,000名となっており,これだけの数を統御するのであれば,細かい身分設定が必要になった訳です.
一方,扶持取りは,上は徒,足軽,小人から下は組士,同心と呼ばれる職がありました.
これらは国持大名の場合ですが,数万石から1万石程度の中小規模の大名家の場合は,そんなに身分を細かく分ける必要が無く,知行取と扶持取りの比率は半々から知行取の方が多いくらいと言うパターンがありました.
こうした家中でも,扶持取りの身分で多いのは,御徒,御鉄炮,御小姓で,知行取に多いのは御奉行,御馬廻,御目付,寄合衆です.
ただ,同じ役職に就いていても,その禄高は100石である場合もあれば,僅か3人扶持の者もいるなど,一概に職種だけで区別される訳ではありません.
武家の世界で,身分の上下と言うのは勿論ありますが,上級武士とか中級,下級と言う区分けは明確には出来ません.
強いて挙げれば,知行取と扶持取りでの区分は出来ますが,これとて,知行取の方が裕福かと言えばそうとも言えません.
例えば,扶持米10人扶持は,石高にして18石となりますが,知行30石の方が明らかに上に見えます.
ところが,以前年貢米の時に取り上げた様に,全部自分の取り分となるのではなく,農民に下げ渡す為に,年貢の率が設定されています.
「五公五民」とか「四公六民」と言うのがそれですが,多めに見積もって年貢率が六つ(6割)とすれば,実収入は30石の60%,つまり18石となり,扶持米10人扶持と同じになりますし,五公五民とか四公六民の様に年貢率が低く設定されたり,その知行地からの米の出来高でも変動しますから,下手をすれば知行30石取りでも,扶持米10人扶持より収入が低くなる可能性がある訳です.
これが中小規模の大名家だと,5〜10石台の家臣もざらにいる訳で,そうすると,彼等の実収入は,扶持米10人扶持よりも低いことになるのです.
実収入に目を向けるなら,中小大名家の場合は,50石未満の知行取と扶持取りが,現在の区分で下級武士と呼ばれる人々になります.
中級武士は,それより上で100石前後の知行取くらいです.
家作規制についても,大体100石前後が中位に位置づけられている事からも設定できます.
大体において,これらを現在の年収と比べるのは妥当ではありませんが,現在の年収と無理矢理比べると,大体約400万円前後の階層がそれに当たります.
尤も,国持大名程になれば,中位の平士でも300石程度はざらにいるのですが,中小大名家だと,300石程度になると家老職が多くを占めますので,300石以上を上級武士と規定しても構わないでしょう.
これも,現代の年収に無理矢理換算すると,大体年収1,000万円クラスとなります.
こうした大名家中の場合,その住まいは個人の持家ではなく,主家からの拝領屋敷です.
借家の一種とは言え,家賃を払わなくとも良い訳で,そう言った意味では,ローンに追われる我々から見れば羨ましい存在ではあります.
屋敷を作るのは,家中の作事方とお抱えの大工頭ですが,指図を作ると言っても,前もって身分ごとに住まいの規模と部屋数,門の大きさや部屋の設えなどが決まっているので,謂わばマスプロ的手法で指図が作られていきます.
また,住んでいる最中に増改築や建替えも出来ましたが,それは作事方に予め届けを為し,作事方は家作規制に基づいて許可し,その結果,木材などの建築資材の一部が支給されたりしています.
拝領屋敷故,職が変る,或いは禄が変ると住まいもそれ相応に転居しなければなりません.
例えば,信州飯田堀家のとある家臣の場合,初代当主は足軽身分で主君に仕えていましたので,足軽長屋に住んでいましたが,後に小頭役方から氷餅方に昇進し,1766年に戸建ての拝領屋敷に移ります.
そして,作事方帳付役から下目付,更に御傅役兼勝手方取締に昇進した2代目当主の時,1803年にまた別の拝領屋敷に移り,町手代に昇進すると,1805年に更に大きな屋敷に移り,3代目当主は山奉行となって,1833年にまた転居し,更に上郷代官になった1835年に,又々大きな屋敷に移ります.
ところが,1858年,謂れ無き職務不正の理由から,突然主君から蟄居を申し渡され,身分は下士の坊主格に落とされてしまいます.
そして,大きな拝領屋敷を追い出され,やって来たのは初代が最初に暮らした足軽長屋だったりする訳です.
正に,家は天下の回りものだったりするのですね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/10/04 21:57
さて,武家の話の続き.
大身の家臣の屋敷はさておき,中小大名家の中級家臣の屋敷と言うのは,それなりの広さは備えていますが,2万石程度の小さな大名家だと大体規模にもよりますが,400〜500m^2の敷地に茅葺き寄せ棟の屋敷を構え,堀は高さ1mほどの板塀で,門は丸木を2本建てただけの質素なものでした.
それが15万石程度だと,もう少し広くなり,1,000〜1,500m^2くらいの敷地になります.
敷地は広くとも,家の面積は同じくらいです.
下級武士の場合も同様ですが,国持大名の様な大きな大名家は兎も角,中小大名家では,家の敷地は屋敷の面積に少し足したくらいが敷地面積でした.
即ち,少しだけ庭がある程度ですが,一応,サラリーマン程度が夢見る庭付き一戸建てくらいの広さです.
垣根はありますが,門はありません.
そういう意味では,今のサラリーマン程度の年収で,今のサラリーマン程度の家に住んでいたと言えるでしょう.
これら中下級武士の建物でも,必ず座敷と茶の間があります.
座敷には床の間があり,その横には違い棚又は押し入れを必ず備えています.
この部屋は祝いの日や友人達と語らう酒宴の場であり,主人の日常の居場所でもあり,書斎でもあります.
今の世の中,お父さんが書斎を持っているのは少ないと思いますが….
もう一方の茶の間は,どちらかと言えばプライベートな空間で,家族が集まって食事をしたり,気の置けない友人達がそこに来て話をする場でもありました.
こちらはリビングルーム的なものではないかと思いますね.
この2つの部屋は,武家の住まいに於ける社会生活,家族生活のそれぞれの核となる部分です.
このほか,居間,納戸,物置,仏間などの部屋がありますが,居間は婦人達が普段の居場所でした.
普通,主人は座敷で過ごし,婦人達は居間で過ごした訳です.
納戸と物置は箪笥や長持を入れておき,そこを寝室として用いています.
仏間は仏壇を置いた部屋であり,主に老人のスペースとして用いられました.
更に,下男や下女を使っている家では,彼等の為の小部屋も設えられていました.
台所は板間と土間の2つがあり,中級武家の住まいでは,便所も客用と家族用,家によっては更に小者或いは下男下女用の便所まで設けられていますが,下級武家の住まいにはそう言った区分が無く,個室はありますが,共用となっていました.
また,湯殿として桶風呂は,中級,下級の武家共に設けられています.
住まいの入り口としては,中級武家の住まいには,客用の式台又は上がり框式の土間玄関がありますが,この玄関が使われるのは特別な日のみで,滅多にありません.
良く,時代劇で主人が家の玄関から堂々と出入りする場面がありますが,あれは誤りです.
普段の客は,庭を通って濡れ縁から座敷に至る事が多い訳で,鬼平犯科帳で長谷川平蔵が濡れ縁に腰を下ろして,手下の報告を聞いているのが本来の姿であり,客も余程のことがない限り,濡れ縁から出入りします.
一方,家族の入り口は,台所に繋がる土間で,入り口は客用と家族用に分けられていました.
下級武家の場合は,2カ所の入り口を作るのはスペースの無駄ですから,こちらは客と家族が共用する土間入り口が多かったりします.
尤も,普段の場合の出入りは濡れ縁で,客がそこに腰掛けて家人と話をしたり,酒宴の時にはその濡れ縁に七輪を持ってきて,田楽や魚を焼くなど,様々に用いられています.
家族にとっても濡れ縁は,庭に続く上がり下りのしやすい踏み段でもあり,便所に至る廊下でもありました.
この濡れ縁にも地域性があり,特に日本海地方の住まいの場合は,土縁,つまり土間の縁が多く見られました.
土縁は土間であることから風通しも良く,住まいの内と外の関係は連続的かつ開放的でした.
塀は中級武家の場合は,垣根,板塀,土塀,更に石塀に分かれます.
東日本の大名家では,大体が垣根もしくは板塀,西日本は土塀,更に南日本では石塀の傾向にあるとされます.
垣根の場合は,薬用にもなる様々な樹木で構成され,自然の趣のある景観を呈していました.
また,それにより道と住まいの関係は,連続的で風通しも良くなります.
土塀であっても,高さは1m程度とそう高くない上,土壁であるから全体的に街路も落ち着いた雰囲気になります.
下級武家の場合は,門構えは殆どありませんが,垣根や土塀等に囲まれた一戸建てであることには変わりありません.
屋根は茅葺きが全国的に見られますが,東日本は積雪を考慮して板葺き,西日本は台風を考慮して瓦葺きにする事も多かったりします.
住まいの広さは,中級武家の場合,先述の敷地とは違って大体40坪前後と,現代サラリーマンが手に入れる戸建てより少し広めです.
しかも,部屋数が6〜7室ありますから,結構な余裕があります.
庭には表庭に,見目の良い樹木を植え,裏庭には家庭菜園や換金作物を植えることが多かったようです.
下級武家の場合でも,住まいの広さは大体30坪前後で,現代サラリーマンが手に入れる戸建てやマンションとほぼ同じ広さで,部屋数は5〜6室ほどありますから,大体現在の家の構造に換算して4LDKとか5LDKであり,ファミリー向けの建売り住宅と大して変わりありません.
しかも,それが家賃タダで住めるのですから,当時の日本は現代日本より更に先を行っていたと言えるでしょう.
少なくとも武家に関しては,ですけれど.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/10/05 22:53
【質問】
ひと口に大名といっても,上は100万石から下は1万石まで,旗本御家人も同様に上は5千石以上,下は200石前後までと上下差は非常に大きかったわけなのだけど・・・・・・
・実際に,直参武士たちの石高って,活躍しだいで増えたのでしょうか?
・武士の家に子供が複数いた場合,長男は家をそのまま継承するとして,後の子供たちはどうなったのですか?
分家してそれなりの待遇を受けたのか,それとも何も貰えずに浪人になってしまったのか・・・
【回答】
活躍しだいでは変わる.
下級の御家人の場合は,足高といって,家禄のほかに役料がつくことがある.
本来,幕府の役職には格があって,
「この役(たとえば奉行)につくのは何石とりの人」と決まってるわけなんだが,それだと,人材抜擢の際に家禄を引き上げねばならず,家禄を引き上げると,その子孫にずっと引き上げた禄をはらわなきゃならなくなる.
それを防ぐために,
「その役についているときだけ,その役に応じた禄を払う」という形になった.
当然,隠居とか降格されるともとの家禄に戻されちゃう.
基本的に家禄百表以下から布衣以上に昇進で,家禄が百俵に加増.
そこまで昇進しないと,元の職禄が家禄のまま.
御家人で抱席から譜代席になると,前の職禄を家禄にされたり,前の職が与力のように結構もらってると,家禄百俵+差額足高・
遠国奉行で二百俵,
町奉行・勘定奉行で五百石,御側衆で二千石に加増される.
この足高の制度化は吉宗のとき.
綱吉の頃に似たようなことを,微禄のものに適用している.
足高は上で説明されたように家禄と職禄の差額を補填する制度だが,高い役に着いた場合,家禄を加増する内規があった.
(布衣以上に昇進で家禄百俵に加増以外は幕末に廃止)
将軍の側近なんかだと,一代で数百石から大名に出世したりする.
そこそこの出世だと,家禄は変わらないで役職のランクだけ上がることも.
相続のとき,兄弟で分割するのか長男の総取りなのかもケースバイケース.
遺言で分割相続するときもあるし,幕府の意向で分割させることもある.
親父の功績や,母親の血統がよいことを評価して,次男以下を取り立てることもあるし,一種の懲罰(家の格を下げる)として分割相続させることもある.
相続がない場合,長男以外の子供は,よその家に養子にいかないかぎり,一生,兄貴の厄介者,無駄飯くらいの居候くらし.
一生,嫁さんも貰えない.
父親が生きている間はともかく,兄の代になって,そこに嫡男が生れちゃうと,もうご飯も部屋では食べられず,台所で使用人と一緒に食べなきゃいけないくらいの扱いになる.
だから部屋住は悲惨なようだけど,山岡鉄舟や岩瀬忠震みたいに部屋住みのまま登用されることも結構ある.
有名な例だと,柳生但馬守は旗本から大名に出世したが,亡くなった後,分割相続したので長男十兵衛は旗本に逆戻り.
十兵衛が跡継ぎがいないまま亡くなったので,弟がその分まで受け継いで大名に戻った.
日本史板,2007/09/07(金)〜09/08(土)
青文字:加筆改修部分
【質問】
下級武士の信賞必罰はどんなものだったのか?
【回答】
飫肥伊東家の家中にいた下級武士の場合,賞を受ける記録と言うのは少なく,罰を受ける記録が多かったりします.
賞の対象になるのが,国許での勤務である「地役」,上方や江戸等在所を離れた勤務である「旅役」を首尾良く,真面目に勤務する事が先ず第一であり,それに対する賞としては,知行加増とか切米加増と言った家禄の増加,家格の昇格が殆どです.
この様に家禄が増加した場合,何も無しでは組織を生きていけません.
それぞれ代価1匁5分する錫の酒器2対,牛牽3束を,御礼として城内の台所に届けなければなりませんでした.
一方の罰には,多くの種類があります.
軽いものから順番に,「叱り」「遠慮」「科料」「蟄居」「召籠」「永召籠」「降格」「役儀取揚」「知行取揚」「家財没収」「閉門」「所追放」「引肆」「梟首獄門」となります.
飫肥伊東家の場合,下級役人の仕事上の失敗には非常に厳しいものがありました.
ある油米役人,これは油津勤務の米役人の例ですが,清武から油津へ物資が回送された時,
「受取の時分,不行届の訳これあり」
として「叱り」の罰を科せられ,その後,
「米方より過分の米を借入れ,預かりの米を多分に諸人へ取り散らし,その上苫買い用の銭を私用に召し使い」
重ね重ねの不行届があったとして斬罪に処せられ,その家族は在所を追われて家財没収の憂き目に遭っています.
もし親が罪を得れば,その罪は子にも及び,親の不手際の場合は子も罰せられました.
同様に,子の場合も親にその類が及びます.
また,帳面の不備等の勤務上の失敗でも,「不調法これあり」或いは「不埒の訳これあり」として,「叱り」か日月数を決めた「遠慮」から,重いものになると知行の内から家禄数石の「取揚」或いは家格の「取揚」までありました.
ある城内の土屋役人の場合は,公金の銀3貫800匁を盗み,印付帳面の文字を書き改め,反物等を盗んだとして,「家財闕所」の上斬罪となりました.
また,油津勤務のある倉米役の場合,夏7月の勘定の折,米麦の受取が不足した帳面を差し出した為に,15日の遠慮処分,つまり,居宅で蟄居し,門を閉じなければならないのですが,潜り戸は引き寄せて置けば良く,夜中の目立たない時分の出入りは許される軽い謹慎刑に科せられています.
でもって,ある者は,江戸詰の折に公金を使い,その上,火事対策の支度取締りをしなかったと言う罪を問われて,家財没収となり,在村へ召籠となりました.
罰の記録は未だあります.
父がある村の庄屋で,悴が総役所の米役を務めていたのですが,悴がある年の6月の勘定の際,赤米が100石不足していた事から帳面の改竄を行いました.
更に,前任者から多額の不足米を引き継いだ上,諸人に貸付けた米を回収出来ず,勘定所を騙した罪に問われて,「斬罪・梟首獄門」となりました.
そして,その悴の罪により父の庄屋は,高持知行の内から2石を,また土器座が取揚となって筆算足軽に降格となり,在村に蟄居を命ぜられました.
別の村の庄屋の場合,上納米の未納分6石を納入延期としたにも関わらず,その延期日までに納められる事が出来ず,その後厳しく糺してやっと皆納出来ましたが,結局15日の遠慮を申し渡されています.
馬の医者である伯楽も,当番日で出仕しなければならないのに,早朝からサボって東光寺前の酒谷川に赴き,鮎を釣っていた事が発覚しました.
調べてみると,この時だけで無く,前にも1〜2回こうした事をやっていた事が分りました.
当時,漁撈は35歳以下の者は禁じられていたのにも関わらず,これに背いてのことであったりします.
出勤しなければならない場所に出仕せず,出席を取る者の目を掠めたことは重々不届きで厳科に処すべき所ですが,「格別の御年柄」と言う理由で,その科は許され,「世継を差し止め」「生涯蟄居」となっています.
まぁ,命あっての物種ですが,この場合は,結局は御家断絶になる訳ですけどね.
こうしたちょっとしたことでも罪に問われるので,こんな笑い話もあります.
家禄17石のある土器座の家中士は1784年9月に総役所小使になりましたが,1790年4月に「不届きの義これあり」として翌月から蟄居を命ぜられました.
その蟄居は12月で許され,暫く総役所小使の役にあり,大過なく仕事を行ってきました.
そして,1792年10月には大坂留守居筆者を命ぜられたのですが,ここでもその勤務に「不調法の訳これあり」として,3日の遠慮を申し渡されました.
更に大坂から帰国して,1795年7月から事務行政の監察役である所務方検者となりましたが,これまた「不届きの訳これあり」で叱り置きになりました.
その後は何とか仕事を続けていたのですが,1797年に今度は継母が下人を連れて駆け落ちすると言う事態が起こり,継母とは言え「親子の間の遁れ難き科」となって今度は閉門を申しつけられます.
これは翌年やっと許されて,引き続き所務方検者として仕事をしていたのですが,今度は紙漉抱え者の件で「叱り」の処分を受け,その上,悴は「不届きの訳これあり」…駆け落ちをすると言う事件を起こした為,知行10石の内3石と土器座を取り揚げとなり,筆算足軽に降格させられ,更に蟄居を命ぜられてしまいました.
この時代のサラリーマンである下級武士と言うのが,如何に地雷が多い仕事かがよく判る話です.
そう言う意味では,今のブラック会社に勤めるのと大差ないのかも知れません.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/03/24 23:24
青文字:加筆改修部分
【質問】
大河ドラマではよく大奥の人と老中とか大老が会ったりしますが,実際のところ,大奥の人が将軍以外の男と会うためにはなんか手続きとかあったんですか?
【回答】
大奥が男子禁制だったのは事実だが,実際にはかなり緩やかだった.
9歳以下の子供ならば,男子が大奥に入れたのは問題ないとして,将軍以外の成長男性も結構大奥に入っていた.
何より,大奥には老中と大奥の女中トップの御年寄が対談するための御広間が設けられていた.
大奥に老中が口出ししたり,大奥が幕府首脳陣に申し入れを行ったり,ということはここで行われ,両者は直に会って話し合いをしていた.
ほかにも大奥内での力仕事をするための下働きの男がいたし,大奥に住むすべての女性たちの食事はやはり下働きの男性が作っていた.
医師が大奥に入れたのは割と有名だけど.
日本史板
青文字:加筆改修部分
【質問】
幕府における「出世」とは?
【回答】
さて,幕府に於いては出世の階段と言うものがあります.
譜代大名なら若年寄や老中を目指しますし,大身旗本なら三奉行を目指して行きます.
当然,御家人も出世の為に,様々な職を目指します.
但し,町奉行所の与力や同心は,どう足掻いても,その職から逃れる事は出来ません.
同心ならまだ与力に出世する可能性がありますが,与力はどう足掻いても奉行にはなれず,与力の儘でした.
乱を起こして死んだ大塩平八郎は,大坂町奉行の天満与力から逃れる為,林大学頭を始め各要路に金を散蒔きましたが,結局,それが叶わなかったりしています.
御家人での出世のとば口となったのは,御目付です.
この職は若年寄の耳目となって旗本以下の侍を監察したもので,その職務は極めて広範囲に亘り,規則・礼式の監察や旗本以下への布令,用部屋から回ってくる願書,伺書,建議書への意見具申からさては江戸城殿中の巡視,評定所への列席とあらゆる政務に関与します.
この御目付に属し,御目見以下の者が就いたのが,御徒目付と御小人目付です.
これも御目付と同様に,事務の補助,巡察,取締に任じたので,これが出世欲のある御目見以下にとっては第1の働き場所であり,働き甲斐のある役でした.
御目付が出来た切っ掛けは,『明良帯録』に依れば,家光が秀忠から将軍職を譲られた頃,扈従していた草履取りが家光の御成の際に,欠伸をした者を咎め立てようとした際,その者が抜刀して向かってきたので,草履取りは已むなくその者を切ります.
その後,家光は閣老を召してこの草履取りの勇武を賞賛し,昇格させた上,宿老の青山伯耆守忠俊に対し,歩行目付の職を設けて彼の者を取立ることになったと言う逸話があったりします.
この職が設けられたのは,1620年代の事だそうです.
御徒目付はその後次第に人員を増加し,1718年10月に40名,幕末の1867年には80名となりました.
役高は100俵5人扶持で裃役御譜代席と言う身分でした.
始め,彼らは御小目付,遠国勤仕の小役人から登庸されましたが,後には小普請世話役,表火之番,御徒衆からなり,御徒組頭,闕所物奉行,勘定,油漆奉行及び畳奉行へと栄転するキャリアパスが出来ていきます.
御徒目付の組頭は当初2名,後に3名に増員しました.
これは役高200俵で御役料は付きません.
裃役,御譜代席で御台所廊下に詰めました.
組頭はこれから栄転する道はありませんでしたが,稀に御細工頭に任命された者がいたりします.
また,御徒目付組頭を輔け,直接御徒目付を監督する者に,加番と言うのがおり,御徒目付から抜擢して任命すると共に,将来は組頭になる事も出来ました.
御徒目付が事務を執る場所は,本丸御玄関の左方にある「当番所」と言う場所です.
別に目付部屋の階上に「内所」という一室があり,御目付の命令になる文案の起草や旧規の調査を行いました.
内所には老中や若年寄以外は,御目付と雖も勝手に出入りする事が出来ず,老中や若年寄からの文書は,御目付から内所の御徒目付組頭に渡され,組頭はこれを「留調」と言う加番に複写させて,それぞれの掛りに分配しました.
そして元の文書には当番目付が署名の付筆を付けて御用部屋に返しました.
この付筆には署名の下に必ず「承之」と注記したので,俗に「承り付返上」と言いました.
御徒目付組頭は当番書屋の詰所にあって,翌日の事務の種別,人員配置などを決定し,或いは御目付の命を受けて御小人,御中間及び黒鍬之者を使役し,又御徒目付一般に伝達すべき命令を伝えました.
但し,忌服に関する一切の事については組頭の専権事項でした.
御徒目付はその定められた文章によって服務し,城内の宿直,大名登城の際の玄関の取締,その他評定所,伝奏屋敷,紅葉山への使役もありました.
特に探索の事にも従事し,秘密の事項については老中,若年寄から直接内命を受ける事もあり,同僚と雖も知る事が出来ません.
普段の勤務には昼番と夜詰の2種があり,昼番は当番所又は内所に詰めて御目付からの文書を処理し,老中,若年寄,大目付及び当番御目付登城の際には,当番組頭及び加番と共に御玄関の左右に列してこれを迎え,城内保安の状況を申し上げます.
また将軍お成りの際にはその道触れを行い,他に濠中死人の検視,牢屋見廻りも行います.
夜詰は現在の16時,つまり七つに昼番と交替し,主として詰番所を巡察して宿直の勤務状態を監察,18時,即ち暮れ六つに御目付部屋に走り,「外乗橋外泊り鵜も相見えません」と大声で報告します.
この言葉は,異常の無い事を意味する報告です.
また,21時頃,つまり五つ半前には,表坊主と共に御目付に従い表御錠口前に行き,御側衆も奥坊主を連れて双方御錠口で向かい合い,御側衆が「御夜詰引けました」と言い,これに対し御目付役が「畏まりました」と答えて,御錠口の杉戸が閉められ,錠が下ろされます.
この「御夜詰引けました」とは,将軍も最早御寝になるべき時刻なので,肩衣を取って安居されたい,と言う意味です.
とは言え,着流しとなるには未だ少し早く,実際には夜の四つ,つまり22時の太鼓が鳴ってから,当番の御目付は肩衣と袴を取って着流しになります.
この時の姿は,綸子か何かの紋付に献上博多の挟み帯みたいな粋な姿となったそうです.
そして,その姿の儘,見廻りに出掛けました.
御坊主が箱提灯を掲げて先に立ち,次いで肩衣,袴を脱いだ御目付,そして同じく肩衣,袴を脱いだ御徒目付が一本差でこれに従いました.
大広間から御広敷縁,御書院御番衆の宿直している虎の間,御小姓組衆の宿直する紅葉の間などを廻って,御玄関に至ります.
この時,扈従の御徒目付は,当番所近くで殊更に大きくトントンと足踏をします.
これは,御徒目付組頭に知らせる為で,それに合わせて御玄関には御徒目付,御小人目付が平伏し,「御別状ございません.御使之者何人,御小人何人,黒鍬者何人出ております」などと報告します.
なお,御使之者等は予め御徒目付から御門番衆に届けているので,時刻を過ぎても御門は通る事が出来ます.
御徒目付からこの報告を聞くと,御目付は大声で「御門,御門念を入れさっせい」と呼ばわり,これを聞くと御玄関前の御門は,門番が大きな声で「ヤアーイ」と応じながら,締めていきます.
特に,大手御門は,大名担当の御門で人数も多かったので殊更に騒がしかったそうです.
こうして,各御門は鍛冶屋その他の事故でも無い限りは,翌朝の明け六つ,つまり午前6時まで開く事はありません.
御目付は門が閉まるのを見届けると引き返して殿中を見廻ります.
部屋部屋には何れも宿直があって御廊下に出て御目付の巡回を待ちます.
先に立つ御坊主は咳払いをしながら御目付の来た事を知らせ,部屋部屋の宿直は,名刺を御徒目付に差出し,「御別状ございません」と申し立てお辞儀をしました.
これは形式的なもので,実際には夕刻までに各宿直から当番書を出しているので意味は無かったりします.
勿論,江戸には火事が付きものです.
火事が起きると,どんな火事でも叩き起され,寝る事は出来ません.
江戸城自体が非常に静かだったので,麹町の半鐘の音までも聞こえたそうです.
大手の火事太鼓の注進があると,御使番が御目付宛に注進状を持って来ます.
そしてこれを奥に持って行き,奥坊主に渡し,その内,「御櫓が開きました」との知らせがあると,提灯を付けた御徒目付が御供をして御台所前から火之見櫓に上らねば成りませんでした.
この他,新参の御徒目付の任務として,毎晩四つになると,御目付部屋を過ぎる事10間ぐらいの所で,中之口御番所に向かって,「番衆!」と叫び,番衆が「おお」と答えると,「相変わる儀は御座らぬか」と問いかけ,番衆が「別条御座いません」と答える慣わしになっていました.
御徒目付は御目付に対しては,「御目付」,組頭や加番に対しては「御頭」や「御加番」と敬称を付けました.
一方,御目付が組頭を呼ぶ際には通称を用いました.
また,表坊主が御目付の命令で御徒目付を呼びに来る時は部屋の外まで来て「○○さん,○○殿」と,御目付は「殿」,御徒目付は「さん」付で呼びました.
御徒目付は,本丸のみならず西の丸にも置かれました.
1650年8月に16名の御徒目付を老いたのが最初で,1652年には組頭2名を任じ,御徒目付は24名に増員されました.
1862年8月には本丸と西の丸を一体化しましたが,1868年には再び分れて12名が西の丸付となりました.
また,御目付の配下に,御徒押衆と言う職もありました.
これは江戸初期には御押目付とか御歩行押しと言う職名で既にあり,1650年8月には西の丸にも御徒目付と共に置かれました.
この御徒押衆は総勢でも5〜6名程度に過ぎず,1724年以降は役高80俵で,裃役御譜代席でした.
役目は主に御徒目付と同様ですが,特に御徒組に行状を監督する職務で,多くは御徒や表火之番から構成され,昇進すると御徒目付や勘定吟味役になっていきました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/09/12 23:13
青文字:加筆改修部分
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