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◆◆◆◆橋梁
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<◆◆国力
<◆江戸時代 目次
戦史FAQ目次


 【質問】
 幕府のインフラ整備に関する支出は,予算全体のうちのどのくらいだったのか?

 【回答】
 江戸幕府の財政のうち,歳入は米方と金方の二本立てで成り立っていました.

 米方は年貢米を其の儘米で支出するもので,幕臣への俸給,直轄地の運営経費,各種工事の賄いなど,約60〜70万石の規模を持っていました.
 更に,享保年間には大名から1万石に付100石の米を拠出させる上米(うわまい)の制度があった為,享保年間は余剰米がかなりありました.

 金方は金銀建てで計算され,70〜80万両の規模があります.
 享保年間には,歳入の6割以上は年貢,次いで余剰米の売り払い,上米の金納分,長崎奉行からの上納金,川普請に対する流域諸大名家の国役金が主な収入でした.
 その他の時代では例えば貨幣改鋳による益金とか,弘化年間(1840年代)の様な江戸,大坂,京町奉行からの上納金があったりします.

 一方,歳出は,幕臣の俸給(三季切米役料+役料・合力金)で約40%を占め,奥向経費が6%,役所の運営経費が約25%其の他となっています.
 これらの経費で約70%が占められ,インフラ整備費は極めて僅かで,その殆どが河川の改修費でした.
 道路の維持管理については,地方役人や各大名家に任されていた為,その費用を幕府が負担することがなかったり.
 橋は全国で1000両しか充当されておらず,勘定方から出費されたのは,江戸,京,大坂の公儀橋と主要街道の重要な橋に限られていました.
 勿論,これだけで,前の永代橋や新大橋の架け替えの8000両とか賄えよう筈がありません.
 こうした費用は,殆どが一般会計から支出されたと考えられていますが,江戸川神田川の浚渫費用に充当する地代金の貸付利息という一種の特定財源からの支出もあったりします.

 約110年後の1843年になると,財政規模は享保年間に比べると倍になっていますが,河川関係の公共投資額は大幅に減少しています.
 つまり,物価騰貴もあって財政が硬直化し,そんなに自由に使える手許金が無かった状態に陥っていたと考えられます.

 但し,この財政とは別に,それこそ特別財源的なものとして,七分積金と言うものがありました.
 これは天明の大飢饉直後に老中となった松平定信によって造られた制度で,江戸町人の備荒対策用として,町入用費の7分(70%)を囲い穀積金と貧困者救済の為の支給金として積み立てることで,管理運営には町会所が当たりました.
 この資金には一部だけですが,幕府も援助金を出し,1828年に現金46万両余,貸付金28万両余,籾17万石余に上ったとされています.

 この費用はあくまでも貧困者の救済の為に用いられ,例えば,多数の貧困者を雇用して支柱の諸川の浚渫を行う失業者対策事業を行っている例も見られます.
 また,公共事業に支出されることもありましたが,これはあくまでも橋や堤の修復・維持費用に対する貸付金であり,その為に失業者対策などに用いる事とされています.
 そう言う意味では,今の某会計の様にマッサージチェアやらCDやらの為に使われた訳ではなかったりする分健全と言えるかもしれません.

 因みに,明治維新になるとこの基金は新政府に引き継がれましたが,幕府が80年に渡って積み立てた資金は,新政府がインフラ整備の為に湯水の様に消費し,瞬く間に無くなってしまったそうです.

 やっぱり,今の道路財源やら年金基金やらを消費するってのは,明治期の官僚のDNAなんでしょうか(苦笑.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年02月23日20:47


 【質問】
 元禄期の首都の橋梁設置状況は?

 【回答】
 元禄に入ると,本所,深川の開発が継続される一方,更に商品経済の発達で,人口の都市部への集中が益々進みます.
 このため,更に江戸の町域を拡大する必要に迫られ,1684年に廃止した本所奉行を1693年に再び設置して,江東地区の開発を進めることになりました.

 まず,中心部と江東地区の交通の便を良くする為,水戸徳川家の浜屋敷を収公して邸内にあった大池を埋め立てて整備すると共に,対岸の深川元町にあった軍船安宅丸の繋留地跡を埋め立てて造成し,その間を結ぶ新大橋が1693年に架けられました.
 当初,新大橋建設には二人の小普請奉行が任命されていましたが,後に江戸町奉行の管轄に切り替えられ,その差配役として南北町奉行配下の与力各2名と同心各5名が任命されました.
 橋の材は,幕府の材木蔵から967本提供され,工事は数回に渡る入札で,東湊町の白子屋伊右衛門が落札し,彼は落札条件にあった晴天80日での完成を前倒しして,僅か52日で架橋し,12月7日には渡り初めが行われました.
 工事費総額は2343両,橋の規模は長さが京間100間(197m),幅3間7寸(6.1m)で高欄の間が108あり,両袖の間は9尺でした.
 この工期の短さ故,与力には白銀5枚ずつ,同心には3枚ずつ下賜され,称揚されました.

 この新大橋が出来た事は,深川の住民にとって大きな福音であり,当時,深川に棲んでいた松尾芭蕉も,
「みない出て 橋をいただく 霜路哉」
「ありがたや いただいて踏む はしの霜」
と言う句を残しています.

 同時期,小名木川と横川の交差部の西側に新高橋が1693年に,1695年には堅川の横川との交差部の東側に新辻橋が完成し,従来の小名木川橋,旧高橋,本所四ツ目橋の補修工事も行われました.

 更に,1698年には隅田川最下流に位置し,江戸の北新堀町と深川の深川佐賀町を結ぶ深川の大渡しの代替として,関東郡代伊奈忠順に奉行を命じ,上野寛永寺根本中堂造営時の資材の余りを用いて,3月から7月までの工事期間で,全長田舎間114間(207m),幅員3間4尺5寸(6.8m)の31径間の橋である永代橋が架けられました.
 下流に位置していることから濁流に飲まれない様,橋脚は4本建が15箇所,3本建が15箇所で,大潮の時でも橋に水が上がらない様,桁下は大潮の時期でも1丈(3m)の余裕を確保していました.

 この永代橋の建設は,深川地区の一層の開発を促し,1701年前後には油堀川の東部地区で幕府の手による宅地造成を行い,これを材木商に払下げて,築地町と総称する町が造られ,これは後に16ヶ町に増え,最終的に築地24ヶ町に発展します.
 1699年には隅田川沿いの堀と橋のインフラも整備され,仙台堀は幅20間に拡げられて大川から東南方向に直進する様に改良され,油堀も15間,中之橋の幅も10間に拡げられ,それに伴って,此処に架けられていた橋の長さや幅も拡張されています.

 このほか,深川,十間川の大島橋が1700年に,仙台堀の要橋が1702年に,いずれも関東郡代伊奈氏によって架けられ,横川の菊川橋が1700年に本所奉行によって架けられました.
 また,吉祥寺門前の十間川に大奥の奥女中,絵島等の寄進で絵島橋が架かり,深川や木場には民間の私営橋が幾つも架けられています.
 更に木場周辺が都市化するに従って,1703年には,吉岡橋,青海橋,平野橋,入船橋,汐見橋,海邊橋などが公儀によって架けられました.

 こうして,大川に架けられた橋により,本所,深川が江戸の一部に組み込まれていきます.
 武家地の一角,本所松坂町一丁目には,あの高家である吉良上野介義央が元禄期に屋敷を構えました.
 1702年に起きた赤穂浪士討入り事件では,本所の吉良邸に討ち入った大石内蔵助らが,永代橋から高輪の泉岳寺に向かっています.

 一方,先に資材の調達が出来ず,長く仮橋となっていた両国橋も,南北町奉行の差配により,幕府の材木蔵から1070本の材を出し,2893両を掛けて,与力各2名,下役同心各3名の差配で,1696年に本格仕様の橋に架け替えられました.
 橋の長さは94間(171m),幅3間半(6.4m)で,完成後は本所奉行に管理が引き継がれました.

 この様に,両国橋,永代橋,新大橋など,大工事が次々と為されていきますが,1600年に架けられた六郷橋は,洪水による被害を受けやすく,1648年,1671年に一部流出,1672年に工事中の仮橋が流され,1688年までに5回の架け替え,大規模修復工事が行われました.
 しかし六郷橋の位置は,砂地盤の土地であり,杭を深く打ち込むことが出来ませんでした.

 因みに幕府が架けた橋のうち,一部の橋では,武士以外の人々は有料通行でした.
 つまり通行料を取ることで,莫大な橋の維持費を回収する様にした訳です.
 今の有料道路と大して変わらない仕組み.

 で,需要計測をした結果,六郷橋の利用者は,両国橋の10%以下,新大橋や永代橋と比べても4分の1以下で,費用対効果は極めて低い.
 と言う事で,通行量に柔軟に対応でき,しかも維持費の安い船渡しに変更され,橋は1688年に流出して以後,再建されることはありませんでした.
 この船渡しも有料で,収入の7割は川崎宿の維持費に充てられたので,地元にとってもハッピーな結果になりました.

 また,幾度も橋を再建しても直ぐに流失してしまうと言う面の他,深川地域開発に多額の出費を要した為,六郷橋に資金が回せなかったと言うのもあるみたいです.

 良く,この時代を「元禄バブル」と言いますが,幕府も家光辺りまで蓄えた資金を注ぎ込み,そろそろアップアップしてくる時期に差掛かり,実は幕府も現代の道路公団民営化と同様の事をやったりしています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年02月17日21:46


 【質問】
 明暦の大火の後,橋梁設置状況はどのように変わったのか?

 【回答】
 明暦3年1月18日(1957/3/2)午後2時頃,本郷丸山の本妙寺から出火,乾燥していた湯島,神田などの神田台地を焼き尽くし,下町に降りて柳原,京橋,夜になって八丁堀,霊岸島に移り,更に隅田川を越えて深川方面に達しました.
19日には小石川の武家屋敷,麹町の町家からも新たに出火し,江戸城近辺の旗本,大名屋敷の多くが類焼し,神田橋,常盤橋,呉服橋などの諸門が焼け,江戸城内に類焼して,本丸,二ノ丸,三ノ丸が炎に包まれ,天守閣さえ焼け落ちます.
 この被害は,『上杉年譜』では大名屋敷160軒,旗本屋敷600軒,町屋間口5万間,橋は一石橋,浅草橋以外は焼失し,焼死者3.7万余人ですが,別の資料では,大名屋敷500余,寺社350余が焼け,死者は10.2万人とされています.
 橋の焼失も,60箇所に及びました.

 東西と南北の交通が遮断された為,火災の直後から小普請奉行に緊急の橋の復旧が命じられ,郭外の橋には急いで舟橋が架けられました.
 罹災した城門に対しては,旗本に対し,臨時の木戸,仮橋を設置する様に命じました.
 更に,町中の橋の両詰には小屋や薪が置かれており,それらが被害を増したことを踏まえ…と言っても,これらの設置は元々が禁じられていたのですが…四つ角家主や両橋詰の月行事達に厳命されています.
 更に,町中の下水橋も火事の時,往来に危険がない様に架け直すこととなります.

 この様に一旦江戸全域が焼失したのですが,これにより,城下町の配置計画は見直され,従来は敵襲に備え,江戸城を囲む様に配置されていた御三家を始めとする大名屋敷は郊外に分散させると共に,江戸城周辺や主要道路沿いには,火除け地,広小路を造り,城内や外縁部に残っていた社寺は郊外へと分散移転させられました.
 また,過密化していた市街地も分散させることとし,江東地区の開発が行われることになりました.

 具体的には,冬期の西北風に対処する為,江戸城の西北方向,即ち,水戸家上屋敷を小石川に移転させ,尾張家と紀伊家の藩邸は麹町に移し,跡地を吹上の庭と言う火除け地としました.
 江戸市中には火除け地が設けられ,神田川には長い土手が築かれて,上には松が植えられました.
 日本橋川に沿っても同じ様に火除土手が築造され,更に規模の橋の橋詰には大きな空地を取る様,指導が強化され,上野広小路が設けられ,中橋のあった堀が埋め立てられて空地が確保されました.

 江戸城内の再建も,加賀前田家を筆頭に火に掛かった石垣の取り替えから開始し,本丸殿舎も1658年には概ね完成しました.
 天守閣については,保科正之が強硬に反対して,以後天守閣を造ることはなくなりました.

 焼失した橋の内,1658年に常盤橋が再建され,日本橋も同年に復旧,1659年に本丸下乗橋,本丸下大手橋が完成し,続いて,呉服橋,鍛冶橋,数寄屋橋,不明門橋が完成,1660年に入ると一ツ橋,和田倉門橋が完成しました.

 また,明暦大火の際,家財道具を載せた車が浅草の見付に集中して身動き取れなくなり,多くの犠牲を出した教訓から,災害時の避難路確保の為に江戸から本所方面に隅田川を渡る橋を架けることとし,1658年に架橋普請奉行を任命しています.

 こうして,1661年に完成したのが両国橋です.

 この橋は当時大番役だった芝山好和と坪内好定が奉行に任じられた幕府直轄事業で,長さ94間(171m),幅4間(7.3m)の橋が架けられました.
 最初は単に大橋だったのですが,武蔵国と下総国を結ぶ橋と言う事で両国橋と名付けられました.
 橋が完成すると,橋の両詰と中央に橋の監視の為の番所が設けられ,番人が常駐することになりました.
 因みに,この番屋の維持管理は,その地にて渡船を経営していた町人が請け負い,幕府は年間39両を彼に支払っていますが,後に深川の町人が負担する様に改められます.

 番所には昼に4人,夜に8人の番人がおり,平時は日々の橋の掃除,通行人の監視,喧嘩の仲裁,行倒れの始末,取得物処理などに当たり,火災や満水時には橋防御の人足派遣が義務付けられていました.

 隅田川を渡って下総国に渡ることが容易になった為,深川地区の開発が本格化します.
 1660年3月に書院番徳山重政と山崎重政が,本所の宅地,堀川の建設を促進する奉行に任じられました.
 これは後に本所奉行と言う役職になっていきます.

 開発は,先ず堅川と横川(大横川),十間川,北十間川,南北割下水などを開削してその土を両側に盛って宅地を造成し,それと並行して道路整備,橋の架設が行われました.
 この時,堅川の一之橋〜五之橋,横川の法恩寺橋,北辻橋,南辻橋,六間堀の松井橋,入堀の石原橋,駒留橋,十間川の旅所橋などが1659年に架けられました.
 1662年には横川北端部に業平橋,横川と大川を結ぶ運河に源森橋が設けられています.
 但し,この辺りは奉行管轄ではなく,関八州代官の伊奈氏と言うことで,まだ田舎の扱いだった様です.

 こうしてインフラが整備された後,本所地区に武家屋敷や寺院,町屋が建設され,米蔵など幕府関連施設も置かれました.
 しかし,この辺は低湿地であり,屡々洪水の為に開発がストップしています.

 本所と共に深川地区も1660年6月に旗本2名に川浚奉行となり,小名木川の物資輸送路としての整備が行われ,江戸湊の機能を江東地域に拡大させていきます.
 1670年には深川漁師町の検地が行われ,全てを屋敷地として認定しました.
 当時,農地の売買は不可能でしたが,宅地の売買は可能であり,1688年になると御年貢町屋敷の売買が許され,市街地化が進んできたことが判ります.
 また,木場への材木商の移住もこの頃から始まりました.

 両国橋は,1660〜80年の間に洪水で一部流失が2回,火災時の類焼が2回あり,補修も度々行われています.
 1680年には架け替えが起こりますが,上野沼田の真田信利は,材木調達を期限までに完遂できず取潰しとなり,奉行の寄合船越為景,松平忠勝も閉門を命じられる事件が起こりました.
 以後,1700年頃まで,当初の壮大な橋は実現せず,幅2間程度の仮橋で御茶を濁す事になりました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年02月16日22:57


 【質問】
 享保期の橋梁の状況は?

 【回答】
 寛文から元禄に掛けて,本所,深川地区の開発が進むのに合わせ,隅田川には両国橋,新大橋,永代橋と言う長大橋が架けられました.

 しかし,1本架けるだけでも2〜3,000両掛かります.
 東京都の鈴木知事の時代,箱物を一杯造って,其の後,維持費で苦しんでいる今の世の中に通じるものがあります.
 とは言え,バブルな施設ではなく,生活に必要なインフラ投資ですけどね.
 享保になると,幕府としても無尽蔵に資金を注ぎ込むことが出来なくなり,行政改革を進めることになりました.

 余談は扨置き,この橋は基本的に木造ですから,一定期間が経つと朽ちてきます.
 また,下流の永代橋は汽水域にありますから,船食虫による食害が酷く,10年程度でぼろぼろになりました.
 1719年に新大橋と永代橋の何れかを廃止する前提で,町奉行が調査を行いますが,両方とも橋本体は大破,橋杭は水際で腐り,其の他部分も朽損していて,往来が危険で架け直し要,と言う結果が幕閣に上がってきました.

 ただ,永代橋に比べると新大橋を架け替える方が,船の通行を考えなくても良いので全高を高くする必要もなく,従って部材を上部にする必要が無く,架け替えるにしても費用が安く上がると言う訳で,新大橋を残して永代橋を廃止する方向に進みました.

 インフラを廃止するのに,地元の反対が根強いのは,何処も,何れの時代も同じで,地元の深川が存続の陳情を行い,対岸の江戸の町とも共同で,永代橋の下げ渡し,つまり,民営化を願い出ました.
 この願いは認められ,一旦は補修工事が行われますが,ほんの数年で再び破損箇所が増えた為,1721年から10年間,武士以外の通行人から2文の通行料を取る願いを出します.
 この時は,町方の責任で橋を維持するのが下げ渡しの条件であり,通行料で維持すると言う事は罷り成らんと却下されました.
 この陳情には,深川の閣町の他,江戸側では橋詰の北新堀町の他,八丁堀から大伝馬町辺りまで50町が名を連ねていました.

 結局,民間が全額出資しての橋の架け替えは不可能であると幕府が認識し,1726年11月から7年間に限り,武士を除く通行人から2文の通行料を徴収する事を許可しました.
 この徴収では,1年間の収入は400両で,7年間で3,000両足らずの収入がありました.
 ただ,1722年の大修復だけで1,000両掛かったので,架け替えをするだけの費用は賄えず,仕様的には可成りカツカツの仕様だった事が伺えます.

 この通行料の徴収は,期限を区切って行われ,今の高速道路と違って恒常的に行われる事がありませんでしたし,その金額も,1726年の場合は1人2文,1736年からは1人1文とまちまちでした.
 こうした通行料を徴収したとしても,架け替えや修理の費用には足りず,地元の持ち出しが多くなり,それが重荷になっていきます.
 よって,こうした橋の補修は不充分になっていきました.

 この様に,享保の改革では,御入用橋として幕府の費用で架けられたのが,本所地区では34箇所,深川地区では25箇所あり,他に自分橋と言う私設の橋が本所に5箇所,深川には元々幕府の費用で架けられ,後に民営化された所向合橋が24箇所,自分橋が51箇所(うち5箇所は武家屋敷専用)と多数の橋がありました.

 1719年,本所,深川の行政,司法は江戸町奉行が担うことになり,本所奉行は再び廃止されました.
 両国橋,新大橋は町奉行所差配となり,其の他の橋,道路,下水道などのインフラ修復費用は,町奉行からの要請に基づいて勘定奉行の判断で出費が行われる様になります.
 本所,深川での実務は,町奉行の配下にいる本所見廻与力が担当することになりました.

 更に永代橋の様に,維持費用削減を目的に,御入用橋の削減が企てられますが,本所地区は主要道路や一本の通りを構成する橋が多く,かつ,武家地などが多い為,幕府の介入が必要だとして民営化は見送られ,深 川地区で,同じ御入用橋と雖も,隣の町との連絡橋や,場末や木場の入口にある橋が多く,1722年の段階で25箇所に減らすこととなり,大部分が町方や近隣の町が共同で管理する橋に切り替えられていきました.

 これは,本所,深川だけでなく江戸側でも同じで,日本橋川最下流の豊海橋や神田川の柳原新し橋,和泉橋,日本橋川の一石橋も同時期に町管理になりました.
 このうち,新し橋以下の3つの橋は,火災に遭って火除け地となった場所に,元の住民が戻るのと引き替えに町がこれらの橋を維持管理すると言う条件が付けられたものです.
 こうした条件は,町の拡張の為に隣接地を拝借願を受理するのと引き替えに管理が委譲された鳥越橋,火事で類焼したのを復活させる際に,町民の陳情で下げ渡した芝口難波橋でも行われています.

 昔も今も,人間の考えることってそう変りはしないと言う事ですね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年02月18日21:20

 享保の改革で,橋の管理を民営化する方向になったのは昨日触れましたが,1732年に入ると,江戸の橋の管理行政は町奉行に一任されることになりました.
 そして,御入用橋の維持管理費については,御蔵金から出していたものを公役金から出す様になりました.
 公役金と言うのは,幕府が江戸の町人町に課した人足役の事で,家持町人がその間口に応じて様々な専門職の人足を提供すると言うものですが,1722年からは間口に応じて役銀が徴収される銀納が義務付けられることになります.
 この銀納は町を三等分して,上中下それぞれに5間,7間,10間毎に15人分ずつ1人銀2匁を徴収するもので,これにより,幕府は毎年3500両の安定した収入を得ることが出来ました.
 そして,1732年には凡そ9870両がプールされていました.
 従来は,維持費を一般財源から出していたものが,地方特別会計から出す様になった訳で.

 また制度そのものも変り,従来は,一般財源からの支出だった為,橋の架け替えとか修理工事を行うに当たって,町奉行所で入れ札を行いますが,その内容は勘定方で吟味し,その承認を得て工事発注を行うという形でした.
 しかし,勘定方で吟味する分日数が掛かり,往来に支障が出たり,費用を抑えようとする余り,結果的に業者は安価ですが粗悪な木材を納入してお茶を濁す為,直ぐに補修が必要となると言った非効率な面が出ていました.
 今回の改革では,上限を1500両として,公役金を橋の維持費に充当し,橋の普請があった場合は,勘定帳(これを清帳と言います)を両町奉行が改めることで事足り,勘定方や勘定奉行への提出は不要となりました.

 これにより,意思決定は迅速になり,安定財源の確保が可能となりました.
 因みに,1733年の公役金の収支は,5箇所の橋の架け替えと其の他の修復,他に石町鐘撞堂の修復に355両を費やしますが,800両の収入が新たにあって,年末の蓄積額は実に10323両に達しました.

 また,公役金は,町々が共同で管理する組合橋の架け替え事業に対する貸出しを行っています.
 一例を挙げると,1722年から深川扇町,茂森町,吉長町が管理することになった5カ所の橋の内,要橋が大破して架け替えが必要となりました.
 これらの町々では,とてもその負担に耐えられないとして,御入用橋として再び幕府の管理に戻す様陳情がありましたが,町奉行はこれを断りました.
 それなら,と,地元が出してきたのが公役金を5年間半額にすると言うもの.
 これも,奉行は否定した上で,要橋の架け替え費用35両のうち,20両分を10年賦で貸し出す提案をしています.

 ついでに,1719年から1725年までの間に,本所と深川の橋には年平均524両の費用が投下されていますが,1726年以降は年平均100数十両程度の費用しか使われていません.
 これは,民間に委譲する橋を事前に修復しておくことで,地元の負担を軽減すると言う側面もありますが,もう一つ,1728年に発生した洪水で,千住大橋,両国橋,新大橋などの大きな橋が流失もしくは破壊され,それらの修復費用が5000両以上の多額の出費になった事から,他の小さな橋の保守に費用が回せなくなった事も大きいようです.

 こうした橋の維持管理の改革の総仕上げとして,1734年には両国橋や新大橋の基幹橋を除く御入用橋86カ所を白子屋勘七,菱木屋喜兵衛の2名の商人が年1200両で請け負うと言う申請を出します.
 幕府はこれを吟味の上,年800両で請け負わせることにしますが,この時点で大破していた橋も多くあったことから,最初に800両を貸付け,10年賦で返済する事を認めました.
 この800両の支出は,公役金の一部が充当されています.

 86の橋は,江戸向では,日本橋,京橋,江戸橋など38橋,本所深川方では本所が25橋,深川23橋で,このほか,本所の割下水などに架かる40カ所の小橋も含め,126カ所の橋の維持管理が一括請負されました.
 と言っても,割下水に架かる40カ所の橋と言うのは,殆どが長さ1間(1.8m)以下の石橋なので,維持管理を余りする必要が無かったりしますが.

 1737年には前年の金銀改鋳でインフレとなった為,管理費は1000両に引上げられることとなり,これらの御入用橋は,俗に千両橋と呼ばれる様になり,1738年には1カ所が加えられて127カ所の橋の維持管理の制度が以後50年以上に渡って維持されました.

 因みに,この時の一括請負の条件とは….
・ 複数の橋の損傷があった場合でも,出来るだけ早く着手し,現状の寸法を維持し,牛馬車力などの往来に差支えない様に保つ.
・万一橋の近所で出火した場合は,早速人数を派遣し,類焼しない様に努力する.
・火事によって焼失した場合,橋上を越える大水で橋が流失した場合は,材木一式を幕府から提供し,修復は自分たちで行う
と言うものでした.

 当時の幕府の財政自体は米方分を合わせると実に100数十万両に達し,その中で橋の維持管理に使われる費用は数千両程度ですから,決して大きな比率を占めていた訳ではありません.
 しかし,橋の民営化で経費節減を行い,一括請負で支出を定額化し,財源を新たに設けた事は享保の改革では一定の成果を得たと言えるでしょう.

 但し,社会資本の運営を民営化すると言うのは,支出を減らすと言う面がある反面,管理水準の劣化が新たな問題として浮上することになります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi, 2008年02月19日22:31


 【質問】
 江戸時代の橋梁は木造ばかりだったのか?

 【回答】
 良く,九州地域には石造りの橋が多く建設されていて,他の地域にそれが無いのは,九州地区の石工達の間で,その石積技術が秘伝とされ,九州各地の大名家もその技術を拡散させる事を嫌ったと言う説があります.

 実際には,寺社を中心に小さな橋はあった訳で,決して門外不出の技術ではなかったり.
 江戸でも,庭園橋では1670年頃に水戸徳川家後楽園の円月橋が造られています.
 また,一般道に架けられた橋としても,江戸に一カ所,石橋がありました.
 それは,現在の目黒区下目黒にある行人坂下の目黒川を渡る一円相唐橋と言う名称の橋で,『江戸名所図会』でも,柱を用いず,両岸から石を畳み出して橋を造っている.横から眺めると太鼓の胴に似ている」と説明されています.

 目黒は当時,御府内の外にあり,幕府が費用を持つ御入用橋でもなかった為,これは民間で造られたものです.
 この為,この橋が何時,誰の手によって建造されたものかははっきりしません.

 1772年の『再校江戸砂子』では,享保末に木食某が願主となって1730年代に架けたとされていますが,1828年の『新編武蔵風土記稿』では,延享年中(1744〜48)に回国の僧が九州でこの形式の橋を見て製作したが,当時は欄干が無かったので,1764〜69年に後の世の人の手によって完成した,とあります.
 更に幕末の『府内備考』では,宝永年中(1704〜11)に西蓮と言う僧がこの橋を建立したと伝えられる,とあります.

 元々,行人坂から目黒川を渡るこの道は,目黒不動への参詣道でしたので,その信仰活動の一環として,架設された可能性は高かったりします.

 もし通説の通り,九州の石工の技術が門外不出のものであれば,江戸の民間橋に対するこうした大々的な普請は出来ない筈で,中心となる石工については九州の石工を呼んだ可能性は否定できませんが,江戸の石工や大工でも,例えば,後楽園の円月橋は長崎の石橋に次ぐくらいの時期に造られている訳ですから,それなりの技術の蓄積はあったのではないかと考えられる訳です.

 この太鼓橋,明治時代も残存しており,1876年の『東京市統計書』では,長さ6間5尺(12.4m),幅2間2尺(4.2m)と記録されていますが,1920年9月に発生した洪水の為流失してしまい,今は見ることが出来ません.
 何れにしても,戦後まで生き延びたとしても,高度経済成長の時代にはとっとと取り壊されたことでしょうね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年02月20日21:08


 【質問】
 享保期以降,橋梁建設・維持の費用はどのように捻出されたのか?

 【回答】
 享保の改革で,多くの橋が民営化されましたが,その多くは,維持管理の為に武士以外の町人から通行料として1〜2文を徴収していました.
 これで収入を得ようとしたのですが,このビジネスモデルは間もなく破綻します.
 と言うのも,全員からの通行料金の徴収が上手く行かなかったのと,案外と保守費用,大水による復旧費用が掛かり,その借財の利子すら思う様に返済出来ない状況だったからです.

 一方で,幕府も1768年から数年間,全国で凶作が続き,各地で一揆が頻発した上,1772年には江戸が大火や風水害に相次いで見舞われ,被災民救済の支出が多くなって,都市インフラ整備の予算に回すことが難しくなっていきます.
 この為,御入用橋の定請負の費用は1000両で推移していたものが,半額の500両に減額される事になります.

 こうして減額された費用で橋を維持する為に,
1. 橋幅をそのままに,杭,桁,高欄の寸法を低くする.
2. 橋幅を2間から9尺に縮めて杭,桁,高欄の寸法を落す.
3. 橋幅を2間から9尺に縮めて杭,桁などの寸法を落し,高欄を丸太造りとする.
4. 橋幅はそのままに,杭,桁などの寸法を落し,高欄を丸太造りとする.
と言う4種類の方策で,従来は年間6〜7カ所,多い年で8〜9カ所の橋を架け替えてきたものを,以後は4カ所程度に制限する事と,見た目が悪いのは我慢してくれと言う事で,妥結することになります.

 しかし,この減額は当然,橋の質の低下を招くことになり,1777年には再び幕府は定請負の費用を950両に増し,127カ所の橋の管理を130カ所に増やすことにしました.

 1790年,今度は松平定信による寛政の改革が行われます.
 この年から定請負は廃止する事になり,再び町奉行と勘定奉行の共同管理とし,町奉行の下に川定掛り(定川懸)が南北町奉行所の江戸向,本所方担当各1名の計4名が橋の管理専門の職に就くことになります.
 この方式は,彼らが現場を検分し,必要となれば,勘定方の普請役が金額を見積もるものの,工事は樋橋棟梁の蔵田屋清右衛門と岡田次助が担当し,入れ札を行わないと言うものです.
 つまり,今まで奉行所が実権を握っていたのが,橋の架け替えについての決定権を勘定方が握ることになります.

 樋橋棟梁と言うのは,正確には関東樋橋切組方棟梁と言い,勘定奉行配下で河川私設や橋の建設を差配する大工棟梁の事です.
 謂わば,民営から直営に戻った訳で.

 御入用橋の運営には年間5カ所の架け替えを950両の範囲で行い,積算は勘定方で行う様になりました.
 この950両は,金蔵から樋橋棟梁に年3回に分けて支給されることになっていました.
 焼失,流失してしまった橋については,年平均300両程度の出費で,材木代は別途支給する事になっています.

 この変更は,財政支出に監視の目を入れることにより,相互牽制機能を働かせ,担当部局と請負業者との癒着を防ぐ狙いがあったのと,一つの橋の積算を厳密にすることで,工事費を低くする事を狙ったものです.
 この方式で見積もると,実際に定量効果が出て,坪単価が下がったり,石垣の築造工事などでは半額以下となったケースもありました.
 更に定請負の支出は公役金が充てられていましたが,勘定方に支払機能が移った時点で,公役金は一般財源化されてしまいました.

 ただ,この方式でも大幅に管理費用が減額される事はなく,民営から直轄に切り替えたことで,役所の手間は増えました.
 其の上,当時の木橋は20年ほどに1度は架け替えを,その間1〜2回は大規模補修が必要でしたから,全部で130カ所の橋を正常な状態での維持は多分不可能と考えられていました.
 そのため,大きな橋の架け替えでは,奉行所の御定金からの支出が不可能であり,御取替金として,奉行所が勘定方から借金する形で支出し,10年賦で返す様な状態になっています.
 つまり,その借金返済の分,御定金の残高は減り,使える金額が少なくなってしまいます.

 1800年に行った湊橋,霊岸橋,亀島橋の修復でも,見積りは1614両で,御定金950両では賄えません.
 このケースでは樋橋棟梁への発注は中止され,再び入れ札が復活し,結果,入札により18%の減額になりました.
 けれども,この負担では30年賦の借金を町奉行所側が負い,年45両が御定金から減額される事となりました.

 この為,新たな財源が常に模索されることとなり,1803年の京橋の架け替え工事では,御定金は使わず,江戸川神田川筋の浚渫費に充当する助成地の地代金の余り金を貸し付けて得た利息の積立金850両余の中から流用することとなります.
 元々,この積立金は関東郡代伊奈氏が管理していたものですが,1792年に伊奈氏が罷免された際に,勘定奉行配下に移されたもので,これには当時の南町奉行根岸鎮衛の影響力が大きく行使されたものと考えられています.

 ところで,御入用橋の数は,1734年時点で江戸方で38カ所,本所方で48カ所の大きな橋の他,本所の割下水に架かる長さ1〜3m程度の小橋40カ所を加えた126カ所でした.
 其の後,1738年に1カ所増えて127カ所となり,1842年には江戸方の橋が44カ所に増えて132カ所となっています.
 とは言え,これらは幕府が一括請負させた橋の数.
 江戸全域でどれだけの数の橋があるのかは,1876年の『東京府管内統計表』にある橋長5間(9m)以上のものが351カ所,うち,朱引内では200カ所となっています.
 一方,1872〜1874年編纂の『河渠志』では753カ所が取上げられており,このうち,各上水,渋谷川,目黒川,呑川などの周辺部を含め300カ所となります.

 何でこうした違いが出るかと言えば,先ず江戸の範囲が幕府も明確に規定していないと言うのがあったりします.
 江戸中期には,江戸の範囲は4里四方とされましたが,実際に市街地は50〜60km^2ありました.
 町奉行の管轄範囲では,東は本所・深川,西は四谷・板橋,南は品川,北は千住であり,この面積は100km^2になります.
 とは言え,これらの中には農地も多くあって実際に市街地かと言えば,首を傾げる部分もあったりする訳で.

 とすると,江戸後期の御府内の橋の数は5間以上のものが200カ所,幕府の費用で管理されていたものは100カ所強,小規模な橋も含め300カ所程度と言うのが相当のようです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年02月21日22:39


 【質問】
 1807年の永代橋崩落は,なぜ起きたのか?

 【回答】
 江戸期の橋は,幕府直轄から民営化,更に一括請負から個別管理と変遷を辿っていった訳ですが,民間委託された橋については,収入に対して支出が多く,勢い,その管理は等閑に成っていきます.
 橋の材も3分の2から半分の直径で,粗悪なものがどんどん使われ出し,構造も徹底的に簡易化され,本来架け直しが必要なものを,先延ばし先延ばしして,大破状態になったまま人々が渡っていたものもありました.

 1807年8月19日,この日は深川富岡八幡宮の祭礼の日で,祭礼は34年ぶりに復活された上,15日の予定が悪天候の為,この日に順延になっていて,江戸庶民にとって待ちに待ったものでした.
 当時,永代橋は仮橋で,霊岸島,箱崎町,両新堀の隅田川右岸の9番の山車は,船渡御をして,深川方の山車は陸渡御で,永代橋を渡ろうとしていました.
 そうして大きな賑わいを見せていた隅田川界隈でしたが,一橋家の船が祭り見物の為,橋下を通ることとなり,永代橋の通行が一時止められます.

 こうして,膨れあがった数万人の群衆が,一気にその仮橋を渡ろうとした事で,橋に一気に荷重がかかり,橋杭が泥に減り込んで,橋桁のバランスが崩れ,橋桁が折れ,橋板が落ちた….
 つまり,橋の途中が完全に隅田川に落ち,人々が隅田川に転落していきます.
 しかし,群衆は前で何が起きたかが判らない為,後から押し寄せ,更に,隅田川に落ちる人々が増え….

 滝沢馬琴はその事故に巻き込まれ,目撃した一人で,『兎園小説余録』の中で,数千人が川に落ち,翌日までに480名の死骸が引揚げられ,残りの人々の行方は不明と書き記しています.
 因みに彼の記述では,事故現場でとある侍が咄嗟に刀を引き抜いて振り回した為,危険を感じた人々が後に逃げようとして下がり始め,多くの人命が救われたとか,周辺の船140艘が救助に当たったと言う生々しい記述もあります.

 一方,太田蜀山人は『一話一言』で,水死者合計は337名,行方不明371名で,10日後までに死者は722名に達したと記しています.
 町奉行から老中に上がった公式報告では,溺死440名,存命者340名,南町奉行の根岸鎮衛家に伝えられた文書では,死者732名,行方不明130名と記されていました.
 幕府はこの大事故に対し,困窮者を対象にして,稼ぎ主が水死した家族に5貫文,大けがをした家族には3貫文などを町役人を通じて下賜しました.
 その対象者は56名で,総額は54両余を支出しています.

 民営化し,橋詰に番所を置いて武士を除く通行人から2文を徴収していたとは言え,満足な補修費用,架け替え費用も出なかった状況では,インフラの環境は悪化するだけです.
 本来は,こうした維持費用に十分な費用を補助してこなかった幕府の政策に起因する人災でしたが,管理者である橋請負人3名,橋番人7名始め30数名が入牢を申しつけられ,橋掛り名主や橋役人,道役はお預けとなり,橋請負人は病死した1名を除き,全員遠島.
 橋番人,橋掛り名主は叱置きを申し渡されています.

 意外なことに,管理者は重刑が下ったのに対し,工事請負人には全くお咎めが無く,逆に,永代橋や新大橋の入札に参加して落札していたりする訳で,責任施工より管理者責任が重く見られたことが判ります.

 この翌年,幕府の費用によって永代橋と新大橋は架け替えられます.
 この時の費用は,2橋で部材流用の場合8040両,全部新材を使えば8682両と言う事になりました.

 事故原因は徹底的に究明され,対策として,減り込んだ杭を引き抜き,その場所で試験杭を準備して,入念に震込みを行い,何処まで減り込むのかを確認し,従来の減り込みより根入れが浅い部分については,一旦杭を抜き取り,川床際に枷を仕込み,これを板に貫通させて杭の耐荷力を増す仕掛けを採用しました.
 そして,再び震込みを実施して,10日ほど放置した上で,減り込みがどれだけになるかを確認し,これ以上の下がりが無いことを確認して,その周辺の桁には全てこの方式を採用する事としました.
 橋脚の杭本数と長さは増やし,負荷を出来るだけ分散することとして,新たな仕様で架け直しが行われますが,出水期の6月に工事を強行した為,足場が流失したり,閏6月には新大橋の仮橋が損傷して急遽渡船に切換て補修するなどの苦心を重ね,11月に両橋とも竣工した訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年02月22日22:23

落ちた永代橋(うそ)
(画像掲示板より引用)


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