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 【質問】
 江戸時代の庶民の情報媒体は?

 【回答】
 江戸時代から庶民が世情を知る情報媒体としては,口コミの他,瓦版と番付表と言うものがありました.
 瓦版は速報性のある媒体なのですが,それが出回るのは市中盛り場だけの存在で,万人が知ると言うほどではありません.
 反面,番付表は情報が広く隈無く全国各地に浸透しています.

 今でこそ,番付表と言えば角力の番付表があるくらいですが,昔はそれこそ,有りと有らゆるものに番付表が作られていました.
 あ,そう言う意味での,現在の格付けブームなんてのもその一連の流れかも知れませんが.

 江戸時代末期には,「取組表」「長者番付」「諸大名石高競」と言った定番的なものから,「鼻競」,長者番付の別名である「持丸競」,「為御慰」「大数望」「京,大坂,江戸の名所,名物競べ」「負けず劣らず三都の自慢競」等々.

 他にも吉原の遊郭と花魁の格式,人気,店の格,芸者,遣り手,禿まで,事細かにランキングした「吉原細見」とか,江戸を筆頭とした諸国の石高,城下町の人口,繁栄の度合いを日本橋からの道程入りで表わした「諸国繁盛競」,全国の名産品,特産品を番付にした「諸国産物見相撲」もあります.
 因みに,「諸国産物見相撲」では,東大関(当時は横綱は元帥みたいなもので名誉称号であり,大関が最高位)は,松前の昆布,西大関は土佐のかつを節,東関脇は出羽の紅花,西関脇は阿波の藍玉が選ばれています.
 紀州蜜柑は西前頭二枚目,遠州蜜柑は東十枚目前頭に掲載されていました.

 別の産物番付である「諸国産物大数望」では,東大関は松前昆布で変わりませんが,西大関は西国の白米と言う事になっていたり.
 西前頭八枚目は日向の椎茸,西前頭九枚目に紀州蜜柑,東前頭十六枚目に駿河蜜柑が掲載されていますが,紀州蜜柑のルーツとも言うべき肥後熊本の八代蜜柑は掲載されていません.
 紀州の蜜柑は,有田の農民が肥後八代より苗木を買付け,植え始めたのが最初だったりします.

 この八代蜜柑は,肥後細川家の主要産物の一つで,毎年三回,将軍家,同御台所,幕閣,御三家(紀州家でも既に栽培されているにも関わらず),禁裏に年間4〜5万個を江戸末期まで献上し続けた,江戸期最大,最長の贈物となっていました…でも,庶民の口に上らなかったのか,番付外だったり….
 他に番付には,尾張の宮重大根,美濃の吊し柿,山城宇治の枯露柿,近江の蕪,信濃の小梅,安芸の西条柿,丹波の丹波栗,出羽秋田の蕗,豊後の梅に浅草の海苔などがありますが,既に名産品だったはずの美濃の真桑瓜は掲載されていません.

 「大豊年諸国繁栄見立?」は,米会所の格付け表で,諸国から江戸に持ち込まれる各地の上質米を評価して番付にしていますが,現在,高評価である新潟や秋田米は掲載されていません.
 と言うのも,新潟米や秋田米は,北国船ルートで大坂に荷揚げされるだけで,関東には少量しか入ってこなかったからです.

 明治に入っても,番付の人気はいや増し,持丸やら土地持ち番付が出たほか,「東京町名競」として,町名ランキングが1873年に早くも出版されています.
 これは,室町三丁目(三井越後屋辺り),大伝馬町(大丸呉服店辺り)を勧進元に,「東大関」は本町四ヶ町(日本橋際魚河岸辺り),「西大関」は日本橋通四ヶ町(白木屋呉服店辺り)をランクしています.
 大呉服店界隈が当時の繁華街で,魚河岸は一夜明ければ千両の商い,三井越後屋は昼千両の商い,旧吉原は夜千両の商いであり,三大商業地と言われました.

 これはあくまでも私的な出版物であり,現在の情報誌的な位置づけでした.

 「大日本長者鑑」と言う番付は,明治中期に実業家や大商人達を網羅したもので,その番付編成の審議役(勧進元,年寄,行司)も,蒼々たる顔ぶれで,勧進元は東の三井,西の鴻池,行司や年寄には,第一国立銀行創設者の渋沢栄一を始め,財閥系で住友,大倉,三菱の岩崎弥太郎,百貨店系で大丸の下村正右衛門,白木屋の大村彦太郎,繊維大問屋系の東京丁子屋吟次郎,堀越角次郎,丹羽祐九郎,三井組,小野組の小野善助,島田組の島田八良右衛門,小津清左衛門などの金融業者,大坂財界の大立者である五代友厚,横浜高島嘉右衛門…この人は,材木商で財を成し,後年は易に凝って高島易断の初代高島呑象となった人…の名をあります.

 この番付の東大関は,出羽山形の本間久四郎,俗に「本間様には及びもせぬが,せめて成りたや殿様に」のあの本間家の分限者.
 西大関は大坂三大商人である鴻池,加島屋,平野屋のうちの1人,加島屋久左衛門で,平野屋は西関脇となっていました.
 東関脇は鹿島清兵衛は,新川岸,酒問屋の大手であり,明治期には写真技師としても有名.且つ,明治期東京市中最大の大地主であり,一族3名も番付にランクされています.
 以後,名古屋の伊東治郎右衛門で,これは後の松坂屋百貨店の経営者.
 高崎屋嘉右衛門は,本郷追分の東大農学部正門前に現在もある酒問屋です.
 伊勢の川喜多九大夫は木綿問屋の大手で,茶人や陶芸家としても有名.
 野田の茂木佐平治は,醤油醸造業…野田醤油の経営者で,これは今のキッコーマンです.
 東京の小田原屋吉右衛門は,神田市場旧多町市場連雀町の小栗長兵衛家の宗家に当り,鈴木長助林檎問屋の本家,芝居の「小栗判官」の子孫を称し,後北条家滅亡後は江戸に出て,徳川江戸入府の1590年以来の老舗,これは今でもあり,神田明神祭礼用に連雀町保有の江戸時代作成の熊坂長範の頭を保管しているそうな.
 木屋九兵衛は,三越本店正面に現在も刃物の木屋として存在する老舗で,従来は越後屋側に有り,建築工具の総合店として4店舗を構えている大店で,越後屋より間口が広く日本橋有数の大店でした.
 須原屋茂兵衛は,越後屋と木屋間にある江戸最大の書籍問屋にして版元でした.

 こうした番付表には二種類があり,1つは主催者や版元の興味本位,お遊び感覚で作成された軽いもので,謂わば,A放送某番組の「格付けロンドンハーツ」やT放送の「アド街っく天国」なんかはさしずめこちらに当るか,と.
 もう1つは既に見た様に,主催者や版元が,その業界の権威者や第一人者を「勧進元」として依頼し,その権威の下で選考委員である「行司」を選考,そうして選考された数人の行司達が,熟慮選考してランクを決め,そのランク表は業界に精通する古老や識者…これを「年寄」とか「検査役」と言います…の確認を得て,勧進元が番付に瑕疵が無い様に精査して作成すると言うもの.

 前述の「大日本長者鑑」は,三井や鴻池が勧進元を務めていますし,日本財界の大御所的存在が行司や年寄を務めていますから,誰にも文句の付けようのない番付となっています.
 逆に,勧進元,行司,年寄の権威がありすぎて,東西大関以下関取は,審議役を越える地位の者は居ません.

 一方のお遊び感覚の番付の場合は,そうした柵が一切ありませんから,好き勝手に書けます.
 よって,東西大関については,ほぼ斯界の第一人者が取り上 げられる事が多かったりします.

 謂わば両極端だったりするので,こうした資料を取り扱う時は注意が必要だったりします.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/12/30 20:53

番付表

引用元:http://pinoccio.at.webry.info/200605/article_5.html


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 【質問】
 江戸の町の水源開発は,どのように行われたのか?

 【回答】
 人が集まる所には水が必要です.
 古代集落は,湧水が湧出る所や池の畔に作られましたが,集落の人口が増えてくると,そうした自然環境の恵みを受けるだけでは水が足りません.
 とは言え,水を摂取しなければ人間は生きていけない訳で….

 其処で,弥生時代には井戸の掘削が始まります.
 最初は,宛てもなく適当に水脈がありそうな窪地や崖下を掘り進めて,湧出た水を柄杓で汲む程度で,その内,素掘りの浅井戸が掘られ始め,更にその掘った部分が崩れるのを防ぐために,周辺を杉などの割板で囲む様になります.

 大和王朝の誕生で,大陸との関係が構築されると,その技術導入が図られ,地下設備として汲取りの便宜と土崩れの安全を図るために,木材や石積による井戸側を作ったり,汚水や人畜の転落を防ぐために地表施設として井桁が作られ,釣瓶による揚水も考案され,掘井戸の普及が進みました.
 これは平城京,平安京にも取入れられ,井戸の底に湧水浄化のために木炭や礫石を並べて濾過装置らしきものまで作られています.
 井桁の形は,丸形,角形,更には多角形と様々な形が作られ,貴族の大邸宅や寺社には何カ所もの井戸が掘削されていました.

 目を東に転じて,武蔵野台地を見てみると,台地の周縁部や丘陵の麓に浅井地帯があるほか,宙水地域と言う局部的に地表下の浅い部分に地下水帯が発達している部分がありますが,大抵は深く掘らないと地下水が得られず,筒状井戸も掘りにくい砂礫層地帯に井戸を設ける必要性から,段堀と言って階段状に掘ったり,口を広く擂鉢状に掘って,ほぼ中央の地下水面に達した所で井桁を組み,其処までのアプローチとして螺旋状の降り道をつける井戸が作られています.

 しかし,江戸に徳川家康が移封されてくると,当然水が足りなくなります.

 江戸の地は,武蔵野台地にあり,山手の方は綺麗な水の出る井戸があるのですが,下町になるに従って,水の出が悪くなります.
 下町で井戸を掘ると,地下2〜3mも掘ると水が湧出するのですが,これは使い物にならない水で,この水のことを「上水(うわみず)」と呼んでいました.
 更に掘り進め,18m前後には砂層があり,此処からも湧出する水がありますが,量は少なく,飲用に不適で,主に雑水として用いられ,この水は「中水(ちゅうみず)」と呼ばれます.
 そして,地下40mまで掘り進めるとやっと飲用に適する砂礫層にぶち当たり,これは大量に出るので,「本水(ほんみず)」と呼ばれていました.

 江戸の魚屋が魚を冷やすには,中水が良いとされ,魚屋には必ずこの井戸があったそうです.
 当時から,「江戸中に井戸はあれど,飲み水は上水(じょうすい)を用ゆ」として,飲用には水道の上水を用いて,井戸水は雑水として用いる傾向が見られました.

 その江戸の上水(じょうすい)は,神田上水,玉川上水が2大上水でしたが,その後本所上水,青山上水,千川上水,三田上水と4カ所の上水が追加され,江戸全域で用いられていましたが,その維持費が幕府経済を脅かした為,享保の改革中の1722年に,再編成が実施され,神田上水,玉川上水を除いて一気に廃止してしまいます.
 そうなると,困ったのは当該地域の住民達で,深川方面では,神田上水や玉川上水の余り水を船に搭載し,その水を買って使うと言う状況に追い込まれ,他の地域でも井戸が掘削されていますが,丁度その頃に掘抜き井戸の技術が開発されて,それを以て,水源とする様になりました.

 掘抜き井戸は,神田新銀町太兵衛店の井戸掘業者五郎右衛門が開発したとされ,彼に続いて南茅場町市郎右衛門店の井戸掘業者八兵衛もその掘削技術を開発しました.
 彼等の方法は,限界まで手掘りで掘り進み,其処から先は節を抜いた大きな竹で突き通して行くと,岩に突き当たり,その突き当たりの部分を抜くと,水が自噴したと言う事ですが,普通の中水よりも深い水で,水質の良い水が得られたとされ,費用も余り掛からないので大いに普及しました.

 本式の掘抜き井戸の工法は,更にこの岩の層(砂礫層と考えられる)を突き通して,本水に達するもののことで,これは砂礫層に達すると,重い鉄製の棒を破砕機代わりに土中に打ち込み,地中深く圧力帯水層を有する地盤を突き破るものです.
 これにより,圧力を持った地下水が小穴を伝って勢いよく地上に噴き出すと言う仕組みです.
 但し,初期の工法は江戸では200両も掛り,大商人でなければ手が出ないものでした.

 しかし,この技術は大坂の井戸掘り職人によって煽と言う蝶番の付いた突矢の尖端に鑿の付いた装置が考案されて費用低減が図られます.
 煽の実用化により,造作なく井戸を掘る事が出来る様になって,200両掛かっていた経費が20両となり,更に装置の普及や改良などで更に低減されて,文化・文政期には井戸側も含め3両2分で出来たそうです.

 こうした井戸は,上水(こっちはじょうすい)を使っていた人にとっても大切なものでした.
 上水道の修理工事に伴い,断水(水切レ)が長引くと,当面は汲み置きで対応しますが,その水が無くなると,近くの井戸まで水を汲みに行ったりしています.

 1786年10月12日,神田・玉川両上水に毒が流されたと言う噂が広まって,水道の水が使えなくなります.
 この為,江戸の庶民はパニックに陥りました.
 予告無しに水が使えなくなったからで,後にこの噂はデマと判りますが,山東京伝の弟,山東京山は『蜘蛛の糸巻』と言う随筆に,安心して飲める水を手に入れる為,掘井戸に行ってみると群衆が群れを成していて,とても寄付けない.
 其処で遠くの掘井戸に行ったものの,其処でも大群衆がいて,結局,汲むことが出来ず空桶を持って帰る人も多く,「諸人,水にさわぐこと,火に騒ぐが如し」と書いています.

 ところで,上水が供給されている地域にも井戸があります.
 江戸の都市部に入ると,上水は開削から地下に潜り,上水管を形成します.
 パリの様な下水道こそありませんでしたが,江戸には各所の地下に上水網が張り巡らされており,人々は幹線から自宅に支線を引き込んで窪みに水を貯め,それを井戸様の仕組みで汲み出すもので,これを上水井戸と呼んでいました.
 謂わば,水道の水栓みたいなものですね.

 江戸では毎年旧暦7月7日を,七夕を祝うと同時に,江戸中の井戸浚いをする日と定め,上は諸侯から下は共同井戸を使用する裏長屋の住人に至るまで,全ての井戸で,井戸水を汲干し,底に溜まった塵芥類を取り,井戸側を洗い清めました.
 これを「井戸替」又は「井戸浚い」と言いました.

 先ず,井戸の化粧側を外し,車で綱を下げて大桶を下ろし,その綱を長屋の住人総出で引っ張り,井戸水を七分程くみ出します.
 その段階で,本職の井戸屋が井戸の中に入って,井戸側を洗ったり,底に落ちたものを拾い出してから,井戸の水を全部汲干します.
 それが終わると,又元の様に化粧側を掛け,板戸で蓋をして御神酒や塩をお供えするのが一連の行事で,これには平均で1日半も掛かったそうです.

 井戸浚えの水は,一応,下水に流しますが,処理しきれなくなってやがて溢れだし,周囲一面泥水だらけとなります.
「井戸替だそうで泥水押して来る」
 更に深い井戸だと長い綱を引っ張る連中が,横町の方まで曲がってきて,こうなります.
「横町へ曲がる井戸替其の深さ」
 でもって,大家さんは綱を引っ張らず,泥水の中なので高下駄を履いて見張り,時たま気合いを入れる訳で….
「井戸替に大屋と見えて高足駄」
 そして,井戸屋が入り掃除して,井戸の中から出て来たものは,これ.
「井戸かへに出ルかんざしハ銀ながし」
 下女が大切にしていたメッキの簪でしょうか.
 彼女の喜ぶ顔が目に浮かびますな.
 最後に,水を完全に掻い出し,晒し粉で消毒し,最後に井戸屋を汲み出すとこれでおしまい.
「人を汲み出すと井戸替仕舞なり」

 こうして浚えた井戸にはやがて綺麗な水が湧き出してきて,翌日にはいつもの水位に戻っています.
「新しい水湧く音や井の底に  〜一茶〜」

 おあとがよろしいようで.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/10/26 22:13

 江戸の水道敷設は,家康の江戸討入り以来の重要課題と言う認識でした.
 1590年,家康は海岸に沿った城下に飲料水を供給する為に,家臣大久保藤五郎に命じて水道の開設を命じます.
 藤五郎は,小石川に水源を求め,最初は小石川目白台下の流れを利用して小石川上水を作り,神田方面に送水しました.
 これは3ヶ月程度の短期普請で作られたもので,この頃の給水方法も,後の樋を使った本格的なものではなく,極小規模で,灌漑用水と同じ様に構造は素掘の水路でした.

 これが発展して神田上水になったのですが,その発展については諸説有って,必ずしもどう言う歴史的経過を辿ったのか判っていません.
 少なくとも,大久保藤五郎による小石川上水の開削については記録に残っているものです.

 江戸の普請が本格的に始まったのは,家康が征夷大将軍に任じられた1603年以降で,江戸下町がこの頃に大名普請で形成され,この下町低地の大規模な埋立工事による新市街への給水区域拡張の為,配水施設(木樋)の拡張と支樋増設が行われました.
 因みに,山の手ではこの水道が用いられず,赤坂溜池の水が上水として使用されていました.

 神田上水が最終形として完成したのは,1629年頃と考えられています.
 この時分には井の頭池の湧水等を主水源として相当大規模となり,神田・日本橋方面の主として下町低地の人口密集地域へ給水されました.
 本流は井の頭池から出ており,途中で上井草村の善福寺池と下井草村の妙生寺の湧水を併せ,小石川関口の大洗堰に至ります.
 此処までは開渠で約22km,堀幅は平均3mでした.

 因みに,この井の頭池の水が選ばれたのは,大久保藤五郎が水を求めていた際,武州玉川の百姓(と言っても大百姓と考えられます)内田六次郎の注進を受容れ,この水で茶を煮てみたら,その水質が佳良であったからと言われており,藤五郎は六次郎に命じて水路を開通させたと言われています.

 関口大洗堰を経た水路は,二手に分かれ,片方は余水として江戸川となり,上水は小日向台下を通って水戸藩邸内(現在の後楽園付近)を通過し(これは徳川光圀がゴネたと言われている),水道橋の東方で神田川を懸樋で渡り,神田・日本橋方面の江戸東北部市街地に給水しました.
 伏樋と言われる暗渠の延長は約67km,上水を汲み取る為に作られた枡の数は3,662カ所に上ります.

 さて,山の手の人々は,赤坂溜池の水を貯水池としてそこから上水を引いて利用していました.
 もしも,家康が関ヶ原で一敗地に塗れ,江戸が一地方都市でしかなかったのなら,神田上水と赤坂溜池の水だけで事足りていたかも知れません.

 しかし,江戸は将軍様の御座す地となり,領主が参集し,それに伴い市場が形成され,政治都市だけでなく経済都市となりつつある状況で,繁栄を来すようになります.
 更に家光の代である寛永年間に,大名家の参勤交代の制度が定められ,大名家の正妻や嫡子が江戸に在府する制度が整えられると,その両者に傅く人々も又,江戸の地に参集するようになり,江戸の人口増加率は当時としては膨大な数になっていきます.

 こうなると,既存の水道では全く給水需要に追いつけなくなりました.
 更に,赤坂溜池の上水も武家地が拡大を続ける中で,その水源が武家屋敷地域に入ってしまう状況になり,上水源として不適当となります.
 この為,江戸城の堀の水を汲んできたり,或いは水質の定かではない井戸を掘ったり,城内では溜池の水を利用するなどの不自由がありました.
 その上,人口増加に伴い,開渠部分にゴミが捨てられるなど水質悪化が顕著となります.

 ある時,細川忠興が将軍秀忠から西の丸の後見人に勧められましたが,忠興はこれを断りました.
 藤堂和泉守高虎は,忠興に向かって,明年早々入府して御請けされては如何かと勧めました.
 忠興はこの忠告を聞いて,一言,「和泉のたわけ奴,あの江戸の泥水を飲んでおられるものか!」と言ったそうです.
 それだけ,江戸上水の水質は悪化していたと言う訳.

 勿論,幕府も手を拱いている訳ではなく,家光の御代から上水改革事業が起案されています.
 しかし,着手する前に家光が薨去した為,次の家綱の代である1652年にやっと玉川上水開削計画が立てられました.
 水源は多摩川に求め,羽村から四谷大木戸まで約43kmの水路を開削して,多摩川の水を自然流下で府内に導き,江戸城内を始め四谷・麹町や赤坂の高台,京橋方面にまで給水する野心的な計画でした.

 これ又,実は記録が定かではありません.

 幕府の公式記録『公儀日記』では,1653年正月13日に工事を願い出ていた町人庄右衛門,清右衛門2名の願いを許可して,工事費として金7,500両を下賜し,幕府請負工事として着手します.
 2月11日,幕府は伊奈半十郎忠治(その死後は半左衛門忠克)を玉川水道奉行に任じ,1654年6月に竣工しました.

 これだけでは進捗状況が明らかではないのですが,それを補う資料として,1715年に玉川兄弟の子供の時代に幕府に彼等が差出した由緒書上があります.
 但し,この資料の内容は所々で幕府の公式記録と異なっている部分があるので,これまた本当かどうかが判らなかったりします.

 玉川氏書上では,1652年,町奉行神尾備前守の命で庄右衛門・清右衛門の2名が玉川上水道を見立て,多摩川の水を羽村から江戸までの道のりを測量し,その施工を評定所に申し出,12月25日に評定所は検討を行い,更に実地検分を経て掘削普請を命じ,幕府からは金6,000両を下賜したとされています.

 更に混迷を深めている謎は,羽村に取入れ口を作ると言う設計案を示したのは,老中松平伊豆守信綱の家臣安松金右衛門で,金右衛門は地勢水利に詳しい能吏で,上水の設計にも加わったとされているのですが,金右衛門がどの辺りで加わったのかが全く判らなかったりします.

 玉川上水を巡る謎は未だ未だ続きます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/10/29 22:34

 玉川上水の工事は,1653年4月4日着工で,11月15日に四谷大木戸まで7ヶ月で43kmの掘削を終えます.
 其処で,多摩川の水を試験的に流す為,羽村に堰を立てて水を通じた所,四谷大木戸まで滞りなく流れ,更に虎ノ門まで掘り進め,1654年4月に完成,そして,水はその地まで問題なく流れてきました.
 と言っても,何十キロも掘り進める工事で,順調に進む訳もなく,幕府から下賜された金は高井戸辺りで使い果たし,以後虎ノ門までは,玉川兄弟の持ち出しとなったとされています.
 何れにしても,1654年6月20日に大体の幹線工事は完成し,江戸城内,麹町,赤坂,虎ノ門に芝,京橋と言った中央部市街地の南西一帯への給水が叶いました.

 尤も,完成したのは幹線部分のみで,市街への給水は少なくとも2〜3年,或いはそれ以上の月日を要していたと考えられています.
 完成後の玉川上水系統の地下埋設の石樋,木樋の総延長は85kmに及んでいます.

 ところで,羽村の取水口の近辺は川がS字状に蛇行しており,羽村はその多摩川の左岸に当ります.
 そして,取水口は羽村の岸に殆ど直角にぶつかる所に作られました.
 しかし,この取水口選定までに紆余曲折があり,玉川兄弟の設計は2回やって2度とも失敗しています.
 3度目の正直では,前に出て来た安松金右衛門が参加して漸く羽村の取水口が設計されたと三田村鳶魚の『玉川上水の建設者安松金右衛門』と言う本には書かれています.

 一方で,安松金右衛門の参加に関しては,玉川氏書上からは除かれており,幕府の玉川上水関係の公式記録である『上水記』にはその書上がそのまま用いられています.
 とは言え,当時からこの部分には異説があり,この部分には注書きで,松平伊豆守家中の臣が考えたと言う記述もあります.
 この『上水記』は,玉川上水完成から140年経った1791年に,幕府普請奉行上水方道方の石野遠江守広道が著わした江戸水道の施設概要と管理記録です.

 その『上水記』上梓後の1803年に,『玉川上水起元?野火留分水口之訳書』が時の普請奉行佐橋長門守から,老中松平伊豆守信明に提出されました.
 この報告書は,八王子千人同心だった小島文平の書上を元にしたもので,その書上は文平の先祖の善兵衛が村内の人足を連れて玉川上水建設に参加した申し伝えと,土地の口碑を元に纏めたものです.
 この報告書では,兄弟の2度の失敗と3度目の安松金右衛門の参加について克明に書かれていました.
 どちらが事実なのかは,未だに確たる解明も為されないまま,表だった反論も出ておらず,根本史料もない為,現在のところ,真相は闇の中だったりします.

 そんなこんなは扨措いて,羽村で取水した多摩川の水は,比較的平坦な武蔵野台地を僅かな勾配を利用しながら,約43kmの道のりを掘割って江戸市街に導かれていますが,羽村から四谷大木戸間の落差は凡そ92mであり,台地の尾根の部分を狙って,丁度馬の背に当る所が水路の路線に選ばれ,支線を建設すれば,周辺の新田集落に自然勾配を利用して水を供給出来る様に造られていました.
 その土地の高低差を調べるのは,測量技術も技術な時代ですが,夜間に測ると言う生活の知恵が生かされています.
 測量場所が近い所では束ねた線香を人夫に持たせ,遠い所は提灯を持たせて歩かせて,その火光の上下によって測ったと伝えられています.

 この玉川上水は,江戸市中への給水という本来の目的の他に,水の便が悪い武蔵野地域の新田開発にも大いに寄与しました.
 先述の様に,水路の通過する村々に分水させ,生活用水としたほか,灌漑用水としても用いられています.
 この分水は,最盛時には33本にも上りました.

 その後,灌漑用水の需要が増え,江戸市中への給水が満足に出来なくなったことから,上水完成後約15年が経過した1670年に上水路を幅3間広げる工事が行われました.
 両岸には松や杉の苗木を植えさせ,更に水路の保護,浚渫作業時の民間とのトラブルを避ける為,水路両岸の付属地も若干拡張しました.
 因みに,小金井の桜と言うのも有名だったのですが,これは上水完成後80年経った1737年に,「新田場賑わい」と言う目的で幕命が出されました.

 この幕命を出したのは,あの有名な町奉行大岡越前守忠相です.
 彼は新田開発も担当でしたが,地域興しの為にこんな命令も出したようです.
 そして,これを実行したのはその下役で後に代官にまで出世した川崎平右衛門で,彼は武蔵野新田開発の功労者と言われています.

 ただ,新田開発が増えると水の需要も増します.
 特に,江戸期の田地は,深田形式の湛水農法であり,1年を通じて水が多く必要でした.
 今だと,湛水期は僅かに1.5ヶ月程度で,後は水を抜いて田地を乾かしてしまうし,其の方が効率が良いのですが,有機農法ではこうした事をすると,有用な微生物なども殺してしまうことになり,土作りで一から田を作り直さなければなりません.
 逆に,深田形式の湛水農法では,水を抜くのは稲刈りの前後,稲掛けの時期くらいで,それ以外は水を満たしているので,生き物の出入りは自由で,実は有機農法にとっては効率的な田作りになったりする訳で.

 話を戻すと,新田開発が盛んになって分水の量が増える一方で,一方で江戸が日本の事実上の首都として,人,モノ,金が集まる一極集中が始まり出すと,江戸市中への供給が不安になります.
 既に,幕府としても新たに拡張を行うような資金的余裕は無く,結局は,新田開発を犠牲にして,分水の引入口の所で引入水量の制限が加えられます.
 この引入水量の制限による分水量の減量問題は,分水の使用者,特に水田開発者には死活問題で,度々陳情や嘆願が出されますが,資金のない幕府にそれが出来よう筈もなく,関東近郊の水田農業は廃れていき,畑地や園芸作物が多くなっていくと言う皮肉な結果を招いた訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/10/30 21:27

 玉川上水の工事は,1653年4月4日着工で,11月15日に四谷大木戸まで7ヶ月で43kmの掘削を終えます.
其処で,多摩川の水を試験的に流す為,羽村に堰を立てて水を通じた所,四谷大木戸まで滞りなく流れ,更に虎ノ門まで掘り進め,1654年4月に完成,そして,水はその地まで問題なく流れてきました.
 と言っても,何十キロも掘り進める工事で,順調に進む訳もなく,幕府から下賜された金は高井戸辺りで使い果たし,以後虎ノ門までは,玉川兄弟の持ち出しとなったとされています.
 何れにしても,1654年6月20日に大体の幹線工事は完成し,江戸城内,麹町,赤坂,虎ノ門に芝,京橋と言った中央部市街地の南西一帯への給水が叶いました.

 尤も,完成したのは幹線部分のみで,市街への給水は少なくとも2〜3年,或いはそれ以上の月日を要していたと考えられています.
 完成後の玉川上水系統の地下埋設の石樋,木樋の総延長は85kmに及んでいます.

 ところで,羽村の取水口の近辺は川がS字状に蛇行しており,羽村はその多摩川の左岸に当ります.
 そして,取水口は羽村の岸に殆ど直角にぶつかる所に作られました.
 しかし,この取水口選定までに紆余曲折があり,玉川兄弟の設計は2回やって2度とも失敗しています.
 3度目の正直では,前に出て来た安松金右衛門が参加して漸く羽村の取水口が設計されたと三田村鳶魚の『玉川上水の建設者安松金右衛門』と言う本には書かれています.

 一方で,安松金右衛門の参加に関しては,玉川氏書上からは除かれており,幕府の玉川上水関係の公式記録である『上水記』にはその書上がそのまま用いられています.
 とは言え,当時からこの部分には異説があり,この部分には注書きで,松平伊豆守家中の臣が考えたと言う記述もあります.
 この『上水記』は,玉川上水完成から140年経った1791年に,幕府普請奉行上水方道方の石野遠江守広道が著わした江戸水道の施設概要と管理記録です.

 その『上水記』上梓後の1803年に,『玉川上水起元?野火留分水口之訳書』が時の普請奉行佐橋長門守から,老中松平伊豆守信明に提出されました.
 この報告書は,八王子千人同心だった小島文平の書上を元にしたもので,その書上は文平の先祖の善兵衛が村内の人足を連れて玉川上水建設に参加した申し伝えと,土地の口碑を元に纏めたものです.
 この報告書では,兄弟の2度の失敗と3度目の安松金右衛門の参加について克明に書かれていました.
 どちらが事実なのかは,未だに確たる解明も為されないまま,表だった反論も出ておらず,根本史料もない為,現在のところ,真相は闇の中だったりします.

 そんなこんなは扨措いて,羽村で取水した多摩川の水は,比較的平坦な武蔵野台地を僅かな勾配を利用しながら,約43kmの道のりを掘割って江戸市街に導かれていますが,羽村から四谷大木戸間の落差は凡そ92mであり,台地の尾根の部分を狙って,丁度馬の背に当る所が水路の路線に選ばれ,支線を建設すれば,周辺の新田集落に自然勾配を利用して水を供給出来る様に造られていました.
 その土地の高低差を調べるのは,測量技術も技術な時代ですが,夜間に測ると言う生活の知恵が生かされています.
 測量場所が近い所では束ねた線香を人夫に持たせ,遠い所は提灯を持たせて歩かせて,その火光の上下によって測ったと伝えられています.

 この玉川上水は,江戸市中への給水という本来の目的の他に,水の便が悪い武蔵野地域の新田開発にも大いに寄与しました.
 先述の様に,水路の通過する村々に分水させ,生活用水としたほか,灌漑用水としても用いられています.
この分水は,最盛時には33本にも上りました.

 その後,灌漑用水の需要が増え,江戸市中への給水が満足に出来なくなったことから,上水完成後約15年が経過した1670年に上水路を幅3間広げる工事が行われました.
 両岸には松や杉の苗木を植えさせ,更に水路の保護,浚渫作業時の民間とのトラブルを避ける為,水路両岸の付属地も若干拡張しました.
 因みに,小金井の桜と言うのも有名だったのですが,これは上水完成後80年経った1737年に,「新田場賑わい」と言う目的で幕命が出されました.
 この幕命を出したのは,あの有名な町奉行大岡越前守忠相です.
 彼は新田開発も担当でしたが,地域興しの為にこんな命令も出したようです.
 そして,これを実行したのはその下役で後に代官にまで出世した川崎平右衛門で,彼は武蔵野新田開発の功労者と言われています.

 ただ,新田開発が増えると水の需要も増します.
 特に,江戸期の田地は,深田形式の湛水農法であり,1年を通じて水が多く必要でした.
 今だと,湛水期は僅かに1.5ヶ月程度で,後は水を抜いて田地を乾かしてしまうし,其の方が効率が良いのですが,有機農法ではこうした事をすると,有用な微生物なども殺してしまうことになり,土作りで一から田を作り直さなければなりません.
 逆に,深田形式の湛水農法では,水を抜くのは稲刈りの前後,稲掛けの時期くらいで,それ以外は水を満たしているので,生き物の出入りは自由で,実は有機農法にとっては効率的な田作りになったりする訳で.

 話を戻すと,新田開発が盛んになって分水の量が増える一方で,一方で江戸が日本の事実上の首都として,人,モノ,金が集まる一極集中が始まり出すと,江戸市中への供給が不安になります.
 既に,幕府としても新たに拡張を行うような資金的余裕は無く,結局は,新田開発を犠牲にして,分水の引入口の所で引入水量の制限が加えられます.
 この引入水量の制限による分水量の減量問題は,分水の使用者,特に水田開発者には死活問題で,度々陳情や嘆願が出されますが,資金のない幕府にそれが出来よう筈もなく,関東近郊の水田農業は廃れていき,畑地や園芸作物が多くなっていくと言う皮肉な結果を招いた訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/10/30 21:27

 暫く神田上水と玉川上水の2つで給水されていた江戸は,益々発展していきます.
 良く,江戸時代は江戸が「政治の中心地」,大坂が「経済の中心地」と言う呼ばれ方をしていましたが,元禄バブル以降,政治だけでなく,経済的にも太平洋航路の開拓による物資の集積,文化的にも歌舞伎や相撲,戯曲などが発展してきて大坂の地位が徐々に低下していきました.
 こうして,現在と同じく,江戸の一極集中が徐々に始まっていきます.

 市街地の発展は,為政者を常に悩ませ,特に,火災の頻発に頭を抱えていました.
 1657年に発生した所謂「振袖火事」では,江戸の全市街の3分の2が灰燼に帰し,死者は10万人にも上っています.
 この時の復旧工事の際,江戸城付近の武家屋敷や寺社の移転が行われ,町屋も防火の為の火除空地を作る為に移転させました.
 この為,新しい土地が必要となり,江戸市街は,南,西,北の三方向の郊外に向けて広がり,同時に本所,深川に新しい市街地が拓かれました.
 となると,その新市街地にも水を供給する必要が生じます.

 とは言っても,既設の神田上水は,水源の関係で神田,日本橋方面の下町に給水するのに手一杯でしたし,玉川上水も城内を含む麹町の高台,四谷一帯,京橋方面や赤坂の高台まで給水しており,これ以上の拡張は不可能でした.
 当時の水道には現在のようなポンプ等という便利なものは無く,加圧無しで自然流下で導き,木樋を繋いで給水する為,高台地区や隅田川を横断しての対岸への給水は不可能でしたので,隅田川の西の地区は玉川上水の分水で何とか凌ぎ,隅田川の東に拓かれた江東地区には元荒川の溜井から独自の水路を建設することとなります.

 1659年に本所方面に給水する本所上水(又の名を亀有上水),1660年に赤坂,麻布,芝方面に給水する青山上水,1664年には芝,麻布方面に給水する三田上水が作られ,1696年には,本郷,下谷,浅草方面に給水する千川上水の4つの上水が新設されて,江戸の上水は全部で6系統に拡張され,隅田川以西は75%程度が玉川上水系統,残りが神田上水系統の水でした.
 この頃になると,江戸の人口は100万人を突破しています.
 人口密度の高い下町方面での水道普及率は100%,山の手は一部に普及し,江戸全体の水道は総人口の60%に供給されていました.
 この6上水の配管総延長は150kmに達し,これだけの配管が地下に埋設されていました.

 当然,これを維持する費用や人員は莫大な手間となり,幕府財政を圧迫することとなります.
 そして1722年に将軍吉宗は,本所,青山,三田,千川の4上水を10月1日付で一斉に廃止する強硬措置に出ました.
 表向きには,水道維持の困難と,掘抜き井戸の発達で代替水源が得られることが挙げられていますし,それはそれで有りですが,将軍吉宗の信任篤かった儒官室鳩巣の次のような建議を吉宗が取り上げたからとも言われています.

 明暦以後江戸市中に水道が普及してからは,地下に縦横十文字に水道が通され,水道が流れているので,地脈は切断され地気が分裂してしまった.
 風を拘束するものもなくなり,土の潤いが水道の方に取られて大火になる可能性が生じてきているので,この際,水道は潰してしまいたいものである.
 正に暴論の域なのですが,江戸の防火の為ならどんな試みも辞さないとして,室鳩巣に諮問したら,こうした答えが返ってきた訳で.

 とは言え,彼の建議の中には,中央部市街地や城内に給水する神田上水,玉川上水は残置されました.

 この廃止で一番割を食ったのが,井戸の掘れない本所,深川方面です.
 彼等は仕方なく,水を買い求めることになり,鑑札を持った水船業者が,神田や玉川上水の余り水を棄てている吐口から伝馬船に水を汲み,それを本所,深川の住民や廻船に売水していました.
 また,下町の住人のうち,目聡い者は水売を職業とする様に成り,短い天秤棒の先に水桶を付け,それを担って家々へ一荷幾らで売って歩いていました.

 1725年,当時の江戸は総人口130万人に達し,土地の利用率では武家地が全体の65%を占め,寺社地20%,町人地15%となっていますが,この町人地に全人口の半数近くが居住している過密都市でもあり,その上,町人地は埋立などによる低地が多く含まれていたので,生活用水の確保には切実なものがありました.
 それだけに,日頃の節水は徹底して行われ,当時の人々は,小判を多く費やすより,水道の水を濫用することこそ悪徳と考えていました.
 この為,水道の水は飲料用以外には使わず,それ以外の用途には井戸水を使っていました.
 当時の寺子屋で使われていた教科書である『江戸往来』にも,水道を作る苦心とか上水への感謝の気持ちとかを噛んで含めるように書いていました.

 如何に,水を大切に扱っていたか,逆に今の日本人は如何に水を蔑ろにしているかってとこでしょうか.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/10/31 22:42

 話は江戸に飛びますが,こうした水道局の仕事を行っていた主体も,色々と変わっています.

 初期の頃は,上水開発者とその子孫に工事の施工から水道料金の取り立て(上水を使うには,武家であろうと庶民であろうと,一定の間口に併せて水道使用料金を徴収していました)を任せていましたが,流石に江戸も300年続き,官僚制度が整ってくると,公金の管理や水路の維持管理を個人に任せるのも,子孫達も大変ですし,公金の横領やら何やらが出て来るので,江戸中期以後は町年寄や名主を実務主体にするものの,幕府が直接維持管理に関わってくるようになります.

 その水道管理の主管部署についても,初期は専門の上水奉行がいて,道普請に関わる部分もあることから道奉行がこれを管理していました.
 中期になると,工事関係は普請奉行が所管し,上水維持関係は町奉行が所管するようになり,幕末になると,その態勢は一本化されて作事奉行が所管するようになっていきました.
 そうして,奉行を頂点に,町方支配層が実務部門や料金徴収などを取り仕切り,末端に水番人が居て実際の水路の維持管理に努めていました.

 何故,水番人が必要か,と言えば,上水路は開渠で建設されています.
 現在と違って,こうした上水では,水源から取入れた水をそのまま下流に流し,それを利用者がそのまま利用すると言うもので,消毒とか濾過と言ったプロセスはありません.
 従って,水源保護には非常な注意が払われました.
 上水路には,「この上水道で魚を捕り水を浴び,塵芥を棄てた者は厳罰に処す」と言う奉行名の高札が各所に立てられ,水番人が見回りを行っていました.

 水番人は,見回りの他,塵芥の引揚げ,除去など水質保全の為の作業や,上水末端にまで水が届くよう,分水量の調節なども行いました.

 神田上水では水番人のいる水番屋は5カ所あります.

 特に神田川を横断するお茶の水懸樋にある水番屋の仕事は重要で,懸樋の所で水量を測定し,差付3尺7〜8寸から4尺1〜2寸の水量を江戸市内に配水していました.
 大雨で増水の時は,急遽余水を目白下大洗堰のところで調節し,差付3尺程の減水の場合は,江戸市内に水が届かない可能性がある為,関口水道町の所の水車2カ所の樋口を半減または差し塞ぎ,或いは白堀通上水路内の藻藁を刈り取るなどして,神田上水の給水量の調節を行うところでした.

 玉川上水では羽村,砂川村,代田村,御府内に入ると四谷大木戸と赤坂溜池の合計5カ所に水番屋が置かれていました.

 こちらでは羽村番屋が重要な役割を担っています.
 此処では,多摩川上流の水源地が豪雨で著しく増水した時や,渇水で上水が酷く減水するような時の措置が重要でした.
 この為,羽村には江戸表からの監督役所の出役の侍がいる陣屋がありました.
 台風の時期とかそのほか非常時が発生した際には,増員して詰めており,突発事態が発生した場合は,緊急の措置を講じると同時に,早馬にて江戸表に注進して,上司の指示を仰ぐ様になっていました.
 水番人同士の連絡は,村継ぎで行い,特に緊急事態の場合は飛脚を立てての情報連絡となります.

 台風期には,羽村の水番人は堰の見廻り,破損の有無の点検,水門での水量調査,つまり,平常の水位より何尺以上だと出水と規定して陣屋に注進し,いよいよ非常事態となると,大小投渡し木の取払い,一之水門,二之水門の差し蓋を下ろし,莚や簀による漏水防止作業に天手古舞いの有様です.
 水位が平常に戻れば,投渡し木を仮渡しして水仕掛をしなければならず,堰や水門,護岸の破損箇所は仮復旧の作業を開始しなくてはいけませんし,これ又本復旧とも成れば,更に面倒となります.

 渇水期になると,羽村在勤の武家役人が立会い検分の上,上水路沿岸の水番人が各自の持ち場にある30余カ所の各分水口を,全閉・半減・2歩明き,3歩明きなどにより断水とか減水を行う事になっていました.
 この渇水期の作業は水番人にとっても特に重要な職務で,見廻りを厳重にすると共に,村々の分水樋口差蓋の開閉に立会い検査をしたりしています.
 中には,余りに厳重な制限の為,村役に懇願されて分水の制限に手心を加え,処罰された水番人もいました.

 もう1カ所,玉川上水で重要な水番屋は,四谷大木戸の水番屋で,こちらは配水調整を行う為に,水番屋の前の水門に固着して歩ミ板と呼ばれる板を渡しており,この板の下何寸明き,板上何寸と言う事で水位を測っていました.

 台風期には水路に水が流れ込みますが,自然の水そのままであるので,濁り水が入ってくることになります.
 増水したら,水門を閉め,市内の樋管の中に濁水が入らないようにし,水門手前の吐水門から渋谷川への排水を行います.
 渇水期には,水量測定の上,水量不足が判るので,所管役所へ急報し,上流での分水口制限措置を行わせる様な措置を執りました.

 又,江戸の市街地は樋管が縦横に張り巡らされている訳ですが,この水質管理の為に,所々に水見枡と言う仕掛けがありました.
 此処を定期的に見廻り人が見て,水の増減や清濁を調べていました.
 この水質検査は,江戸住民達の生活に直結することから,最低限隔日,緊急時は毎日行い,所管役所に報告する事が義務づけられており,これを怠ると彼等は処罰を受けます.

 こうした水番人の補充時には,誰でも充当すると言う訳ではなく,補充候補者の出生,家族,家の大きさ,住所変更の理由,過去の職業,財産に至るまで事細かに調べられています.
 確かに懲戒処分を受ける水番人もいた訳ですが,こうした厳しい選考基準を経て選ばれた番人であり,庶民の中でも一種のエリートとでも言える人々だったのではないでしょうか.

 それにしても,こうした人々を描いた時代小説はないですね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/11/01 20:39

 江戸の上水道も現在のと同じく埋設されています.
 しかも,現在の水道管と違って,生の水をそのまま流している訳ですから,雨の日なんかには操作を幾ら慎重にしても砂が溜まったりする事もありますし,水道管が破損することもあります.

 この様な場合は,「上水の惣払い」と言う水道工事を行います.
 これは,早朝に町々から掛矢や杭木を持たせ,受け持ちの丁場に人足を出させて,水道を1日水切れ,つまり断水させて管の掃除や修理を行う事です.
 この水切れの前には,必ず町触が出され,事前予告されてからの断水,減水が行われていました.

 例えば,1680年6月11日の町触は,以下の通り.

――――――
明後十三日中ハ,水切レ申シ候間,水道取リ候町々ハ,左様ニ相心得,合触ラル可ク候.
若シ雨降リ候ハ,惣払相延ベ候間,左様ニ相心得申サル可ク候 以上
――――――

 この様に,断水予告を続浦々にまで知らせるようにして,汲み置きもして置くように触れたものもあります.

 木樋には水持ちが良く水に強い松や檜が用いられましたが,木製なので腐朽は早く,地震による継目破損も起きやすい欠点を有していました.
 当然,この為には道路を掘り返す必要があり,その為の苦情も屡々出されています.

 また,上流での濁水にも管理者は頭を悩ませていたようで,大岡越前守忠相も寺社奉行の時に付けていた日記で,再三玉川上水の記事が出て来ます.

 1742年の八朔には台風で多摩川が出水し,羽村の水門が流失,取入口近くの堤が200m以上決壊して取水不能となりますが,幕府は緊急の請負工事で仮堰を作らせ,上水路内の土砂崩れで埋まった部分を浚って,7日朝からの通水を開始します.
 しかし,8日には再度台風が襲来し,江戸川が氾濫.
 神田上水にも破損箇所が出て断水し,玉川上水も御府内の土手が崩れて水道樋の損壊が酷くなっていました.

 復旧はしたものの以後,1ヶ月に渡って,水が濁り,幕府は原因の究明と対策に狂奔し,多摩川の上流を山奥調査させ,やっと上流の丹波川の末流に濁りがあるのを見つけ,浚渫をする対応を取りました.
 以後も屡々,濁りには悩まされ,1743年8月20日から上流の試浚をし,1744年から水源部と野方上水堀の浚渫を開始しています.

 こうした濁り水対策としては,汲んでから水の中に明礬を入れて暫く置いて使っていたそうです.

 この地下埋設の管の工事ですが,先ず土地を掘削して素掘りを作ります.
 そして,溝内に水を導入して勾配を定め,樋を埋めて管内に水を引入れます.
 工事は請負い入札で行われ,工期は普通の通りの樋や枡の交換で大体「晴天20日限り」であり,昼間の断水はあるのですが,夜間は通水する様にしていました.
 工期中は車止め,請負人に対しては,工事が半分出来ると3分の1払い,残りは完成後検分して埋め戻し完了の時点で支払います.
 こうした工事費用は町方の支出で,関係する町々に小間割で普請金として負担させ,水道役所への届出は関係町の町役人(月行事,五人組,名主)が行い,町方年番が工事を見廻り進行管理をしていました.

 工事に使われる木樋の長さは2m余で,これを何本も接合して敷設するようにしますが,口径の太いものは樋自体を切り組んで繋げ,細ければ継手を使いました.
 方向転換をする場合は,継手に頼るか大きな枡や樽を置いて,別の面に穴を開けて方向転換するなどの方法が採られました.
 枡にも色々な種類があり,地下に埋設されたのは埋枡,地上のが高枡と出枡で,前者は非常に高い大きな構造物になっています.
 地上の蓋を開けて,常に水の増減や清濁を調べるのが水見枡,分岐して水を導く所に設けるのが分レ枡,又,竜樋と言うものがあって,高枡に水を堰上げる所に設置するのが登竜樋,水を引き落とす所に設置するのが降竜樋.

 玉川上水系統では,四谷大木戸の水番屋にある取入水門から地下9尺の所に幅6尺の石樋を入れています.
 これが配水幹線の最大のもので,これが四谷見附まで1,000m以上に渡って敷設されていました.
 上の方の蓋石は長さ1,800mm,幅600mmで両側の石壁に掛け渡す様になっており,両側に間知石を置き,水が通る内径は1,500mm管で相当大きなものでした.

 高枡はお堀際にあり,安藤広重描く四谷大門外の絵にも有ったりしますが,これは高さ3m,幅2m,奥行2mの正方形のものでした.
 河底を潜る所に設置したのが潜樋,河川を渡るのが懸樋,石で造ったのは万年樋と称しました.
 潜樋の実例は,日本橋箱崎町辺りにあったそうです.

 木樋の材質は水に強い松,檜,椹などの用材を厚薄二つ割りにし,厚材に溝を刳貫いて管として,薄材を蓋として継目や合わせ目には漏水防止用の檜の皮などを押し込め,折れ釘や鎹でしっかり釘打ちしています.
 こうした木樋は地下で管網を作り上げ,樋筋の要所要所には枡を設置し,共同の水場と為しています.
 飲料用には兎も角,もう一つの目的としての防火用水としては,圧力を掛けて送水している訳ではなく,自然の流れに任せている事もあり,一カ所の枡から一度に大量の水を汲み上げてしまうと水量が不足してしまう為,余り役に立ちませんでした.

 個々への家への給水については,道路部分の伏樋から各戸に引き込み,宅地内の上水用井戸に水が流れるようにしており,引き込みには竹樋が用いられています.
 つまり,上水は掘井戸のように底に溜まった水を釣瓶で汲むことになります.

 当時の江戸上水は,加圧も,薬品消毒もしていませんから,「ありがたさ たまさか井戸で 鮎を汲み」なんて言う話もありました.
 風呂屋や料理屋と言った大口利用者の元には,送水管を通って多摩川本流からの鮎が顔を出すことがちょいちょいあったそうです.

 庶民や武家にとってみれば,こうした余得もありますが,幕府にとって見れば,こうした江戸の水道維持には毎年多額の経費と労力が掛かりました.
 この為,人頭税を取り立てなかった幕府にしては珍しく,使用者から使用料に当る水銀(みずぎん)とか普請修復費である普請金を徴集しています.

 武家の場合は,知行100石から50万石以上までを4つの段階で区分し,石高が多くなるに従って安くなる逓減制を採用しています.
 町人階級は,表通りに面した屋敷の表間口の広さを標準に賦課され,小間割で支払わらされ,地借り,店借りの人々には関係なく地主だけが負担しました.
 因みに,地主にとって三厄と言われたのは,火事・祭礼・水道料金であり,如何に地主にとって水道料金が大きな負担かが判ります.
 勿論,こうした負担金の徴収は幕府が直接賦課する訳ではなく,上水樋筋毎に組合があり,組合が一括して支払いました.

 こうした江戸の前近代水道は,1880年に復活した千川上水を含め,明治末年まで現役として使用され,300年間に亘って江戸の人々の飲用水を担った訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/11/02 22:17

 後楽園と言えば,〔略〕元々は水戸徳川家の初代頼房が,1629年に家光から小石川に邸地を賜り,開発を始めたのが最初です.
 当初は,喬木が鬱蒼と生い茂り,神田台と本郷台との間には昏々と湧く泉脈があったらしく,大きな沼池や丘陵が有るような場所でした.

 頼房は,北が自然の丘陵,南は沼池を中心に大樹が茂り,深山幽谷の観を見せているこの自然の地形を愛し,京都から庭師,徳大寺佐兵衛を招いて,沼池を浚って池を造り,山を築き,自分の好みを加えて池泉を中心とする回遊式庭園を造ります…てなことは日本一の庭園研究家の蘊蓄を頂くとして,此処は水道ブログですから,さらっと流して….

 で,この回遊式庭園の中を,神田上水が流れていました.
 正確には,以前,この敷地近辺には本妙寺や吉祥寺があって,その頃から神田上水がこの地内を流れていました.
 そして,頼房が賜った邸地は,この地域を含んでいたのですが,頼房は,この江戸の飲み水の一部を後楽園の泉地用に分水して,庭園内に流してしまった訳です.
 普通,こんなことをしてしまうと,幕府からも咎めがあるはずですが,其処は御三家.
 尤も,家光の助言があったと言うのも,背景にはありそうですけどね.

 それより以前,飯田橋辺りから神田台を堀割ったお茶の水堀(つまり,今の神田川)が開削されていました.
 これは1616年,家康が駿府で死去したことに伴い,駿府詰の家臣を江戸に移住するのに必要な宅地開拓と,江戸城外濠の整備の為に,5月に着工し,江戸川の水路を変えて土地を拓いたものです.
 これによって,元々,飯田橋の所から東南流していた江戸川は,飯田橋から水道橋,お茶の水,向柳原を経て隅田川に流れ込むようになりました.

 これは今の神田川の流路ですが,その川幅は当初可成り狭いものでした.
 この神田川が現在のように広くなったのは,1660年に仙台伊達家の手伝い普請によって,着手されたもので,明暦の大火後の復興計画の1つである市街拡張と,牛込〜和泉橋間の神田川の川幅を広げて舟入堀を通させ,運輸交通用に用いたのです.
 勿論,これは江戸城防備の為の総構えの濠としての役割も果たしている訳です.
 仙台伊達家では,綱宗が拝命し,1年余の間に完成させました.
 因みに,この間,有名な伊達騒動が起きています.

 さて,後楽園に話を戻しますが,建設当初,園内に入れた上水は,先ず庭園の西北から曲がりくねりながらほぼ真東に導かれ,車橋を過ぎた所で南に折れ,庭園中央部の広大な大泉水に注いでいます.
 大泉水は心字形をしており,池尻は東北隅にあり,此処から水流を北に向けています.
 もう一つ,西北隅の神田上水を引いた側に水車(竜骨車)小屋があり,此処から水を汲んで筧で送り,水流の水源にしています.
 この水流は,石橋の下を南に流れて石堤の所に来て,その西側には白花の蓮(白荷)があり,水流は更に南へ下って西行堂付近で東に折れ,唐門の近くで神田川に落ちています.

 その後,庭園は改築され,大泉水の池尻が東北隅から東南隅に変わって,水は暗渠で落ちるようにして,北向きの水路は廃止されていたり,その施工が不十分で水を充分に流出出来なかった為か,大泉水の西南隅に余水吐を設けたり,大堰川の下流と連絡させたりしています.
 また,水流が新たに造られ,瀑布や滝を設けてみたりしています.

 そして,一気に時代が下って,明治の御代.
 この水戸徳川家上屋敷は,陸軍省管理の東京砲兵工廠となり,後楽園もその管理下に置かれます.
 園内を流れる神田上水は,園内への給水の他,砲兵工廠の蒸気用,工業用水としても用いられるようになりました.
 その後,1898年12月から近代式改良水道が敷設されて通水を開始し,最初は神田・日本橋から徐々に広がり,1901年2月7日の東京市告示第9号で,漸く江戸期に敷設された在来上水の給水が廃止されることになりました.
 その上水の施設は,掛樋は直ちに取壊し,石縁枡は縁石を堀取りの上埋立,他は其の儘抛棄となります.

 但し,その布告から除外されていたのが,東京砲兵工廠内でした.
 この給水はその後も続けられていましたが,次第に東京の人口が増え,上水は水質低下と水質汚濁の問題が出て来ます.
 また,次第に井の頭の水源が減少し,旧神田上水の水量も涸れてきたので,関口よりの分水量が制限されていきました.
 この為,最も優先順位の低い後楽園の用水は目立って減少し,瀑布や泉水が影響を受け,園内の草木にも枯死するものが出て来ました.
 園内の水は,水質汚濁で濁色を帯び,夏期には池の水が腐敗して腐臭が漂う有様.

 これに追い打ちを掛けたのが,関東大震災で,東京砲兵工廠は罹災し,若干の復旧は行ったものの,次第に工場の休廃止が目立つ様になり,遂に1933年11月には九州の小倉に移転する事になりました.
 この跡地は,大蔵省,文部省と東京市に引き継がれ,後楽園も東京市に移管することになります.

 この頃,1931年から3カ年計画で都市計画の為江戸川の改修工事が行われ,これによって江戸川の水位が下がり,遂に後楽園への給水が途切れました.
 その代償として,東京市は後楽園萱門外に掘抜き井戸を開削して,園内に給水することとなり,水量は減ったものの水質は改善され,可成りの清澄さを取り戻すことに成功しました.

 1933年に関口の大洗堰を撤去し,堰の上水取水口も塞いだので,神田上水の生命は完全に絶たれました.
 その名残は,後楽園の園内西北隅の隣地との境界塀のところに,嘗て神田上水が流れ込んでいた石造の水道口の跡が残っており,その側にポンプ小屋が建っています.
 此処で汲み上げた地下水が,間断無くかつての神田上水路に注がれています.
 この水は,ある所では滝となり,ある所では急流の小川のせせらぎとなって,広い満々たる大泉水に注ぎ一旦静止します.
 その後,ゆっくりとした自然の流れで東南隅の寝覚滝の近くに集まり,隣接する敷地内を暗渠で潜り抜け,神田川に放流されています.

 もし,小石川後楽園を見る機会があれば,この辺りに注目してみるのも良いかもしれません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/11/08 21:17


 【質問】
 江戸以外の場所の水源開発について教えられたし.

 【回答】
 毎度の『大浪花諸人往来』話で恐縮ですが,その中の一編に,とある商家が納戸の掃除をしていて,古そうな瓶を開けてみたら,宝暦年間に漬けられた梅干しが出て来て,主人公である源蔵達がお相伴に預かると言う場面が出て来ます.
『大浪花諸人往来』の舞台は明治10年代の大阪ですから,宝暦と言えば120〜130年前の代物.
 で,米は取れたての新米,お茶も「青湾」から汲んだ水を沸かしたもの,と贅沢三昧な場面が描写されています.
 と言っても,御茶っ葉は在り来たりの番茶でっけど…と言う落ちが付くのも流石大阪が舞台な小説です.

 此処で言う「青湾の水」と言うのは,大阪の桜宮辺りの大川から汲み上げた川の水で,これが清澄で青く透けて見えることから,太閤秀吉が絶賛し,茶の湯用の小湾を設けさせたのが最初です.
 この辺りの水は味が良くて,茶道に五月蠅い人には絶賛されており,1852年には此処で茶会が行われています.
 また,この辺りには水屋が多く,この地で汲んだ水は結構な高値で取引された水でした.

 大坂では地質とか地形上からも関東と違って,井戸を掘っても塩気を帯びており,これを大坂の人々は,「かなけ」と言って飲用に用いることなく,洗浄用などの雑水に使われました.
 その代わり,淀川の水がふんだんにあるので,飲用には淀川の水を汲み運んで置いていました.
 大坂の家の台所には,飲用の川水と雑用の井戸水の二種類の水瓶(つぼ)が置かれており,飲用の瓶には蓋がされており,井戸水の瓶には蓋がされていませんでした.
 川水は毎朝,専ら下男に命じて汲ませましたが,下男の居ない所では,賃銭を出して水屋に汲んできて貰っていたそうです.
 水屋の代金は1町大通り4文から6文で,距離によって差がありました.

 勿論,水が全くない訳でなく,大坂の郊外には田圃には人工の用水池,所謂皿池と呼ばれる浅いため池が多く作られていましたし,天王寺や田辺の辺りには撥釣瓶を使う深い野井戸もあり,俗謡に「嫁にやるまい天王寺,田辺,深い野井戸で水汲ます」なんてのがあった位です.

 また,大坂にも「かなけ」の無い普通の井戸もありました.
 大坂に常に湧出す井戸としては,文政年間に廃止されましたが,高津西坂筋松原町にあった井戸,そして,長堀東涯の豪民住友氏の前河岸にあるもので,河川が渇水になると,諸人がこの水を挙って汲みに来たそうです.

 京都は,と言えば,鴨川の清流に代表される川水があり,周囲の山に育まれた地下水もあって,井戸が必ず飲用として用いられました.
 全く,大坂とは逆のパターンだったりします.

 因みに,掘抜き井戸のことを江戸では「上方堀り」と呼んでいましたが,上方と言っても大坂の地は既に見た様に,余り井戸に頼った生活をしていません.
 恐らく,掘抜き井戸の技術が発達したのは,伊丹や西宮,灘に代表される摂泉十二郷の酒造用の水を得る為の井戸からではないか,と考えられています.

 …そう言えば,全く余談ですが,西宮でも1960年代初頭に日石の石油化学コンビナートの進出計画がありました.
 財界は賛成して,誘致寸前まで行ったのですが,西宮を中心とする酒造業界が猛反対して,市を二分する大抗争の結果,最終的に誘致を拒否したと言う話がありました.
 勿論,その原因は公害問題もさることながら,重要な争点だったのが「宮水」の死活問題だった訳で.

 さて,掘抜き井戸の技術は,他の地域にも伝播していきます.

 1829年,富山前田家9代利幹の治世に初めて金沢の寺町で掘抜き井戸が掘られ,その後5〜6カ所に掘ったが何れも良好だったと言う記録が残っています.

 一方,同じ加賀前田家の領内である石動は宿場町として大いに賑わったのですが,その場所には飲料水が余り湧出しなかったので,井戸の数が少なく,井戸の無い家では総井戸と言う共同井戸に頼っていました.
 総井戸は町に4〜5カ所ありましたが,大池と呼ばれた井戸の他は皆引き水の井戸で,毎年冬の新酒の仕込み時となると,短い印半纏を着て大きな桧笠を被った蔵男が,毎日7〜8人,どんな天気でも大池で水を汲み,天秤棒に手桶を吊して酒蔵まで運んでいました.
 酒蔵に限らず,他の家々でも,毎日夜明けになると水汲みを行っていましたが,年々その地下水が低下し出したので,土地の職人達によって「カンサ堀」と呼ばれる16〜20mまで掘った井戸が開発されます.
 当初は自噴していましたが,自噴は10数年で止まり,再び水汲みの苦労をしなくてはなりませんでした.

 この様に,掘抜き井戸の技術が伝来しないと,結構水運びも大変だった訳です.

 山内氏の城下町高知も,同じく水の出が良いとは言えない土地でした.

 町奉行だった馬詰権之助が,旅勤の途上でこの掘抜き井戸の鑿井現場を実見し,1800年に近江国鳥井本から4名の井戸掘り職人を招いて中新町で初めて鑿井を試みました.
 この井戸は,揉貫井戸と称するもので,竹管を地中深く穿入させて,良質の地下水を湧出させる方法で,この方法で鑿井に成功し,良質の水が得られた為,其の近くに桜の木があった事からこの井戸を「桜井」と命名し,石碑まで建ててしまいました.
 次いで,紺屋町から種崎町の広小路,朝倉町でもこの方法での鑿井が始まり,町奉行所ではこの鑿井法の普及に努め,年賦償還の条件で希望者に鑿井費を貸し付けます.
 近江の職人は2年滞在した後に帰国しますが,その間に高知の住民でこの方法を修得した者が現れ,下町のみならず曲輪の武家屋敷でも鑿井が行われる様になりました.

 この鑿井で得た水の水質は非常に良く,住民はお囃子まで作って喜びを表したりします.

 同様に水に恵まれない阿波でも天保年間に,この技術が伝播し,掘削した井戸は清泉を1mも吹上げて,家臣の邸内にも掘削を奨励していきました.
 こうして,紆余曲折しながらも,上総,丹波,阿波,伊予,土佐などを始め,地方でも掘抜き井戸は目覚ましい普及を示した訳です.

 ところで,江戸や大坂の様に水質に余り恵まれない都市では,「青湾の水」の様に水そのものに商品価値がありました.
 今のペットボトルの水みたいに,何処其処の場所で汲まれた水が有り難がられた訳です.

 下野黒羽大関家14代の増業は乗化亭と言う号を持っている教養人で,学者でもあった殿様です.
 彼の著書は20余種,750余巻に達し,政治,神道,兵法,文芸,天文,医学,織物染色,茶道など多岐に渡っています.
 1839年,彼は『喫茗新語』と言う7巻から成る茶道の本を著わしていますが,その4巻は『水品鑒定説』と題し,各季節に水の重さを測定したことを記しています.
 又,6巻では,「名水品彙説』と題して,江戸府内並びに近傍の名水について,比重を測り,水性を定め,茶の湯の用水としての適否の度を科学的に表していました.
 尤も,分析化学の無い時代ですから,水の良否を判定するには,水の軽重を測って,これによって品水(水の善し悪しを決める)するしか方法がありませんでした.

 この時,彼は多摩川,荒川,綾瀬川,隅田川,中川,利根川,渋谷川,弦巻川,音無川,小金井川,巣鴨川,神田上水,湧水や井戸では,盤井濫泉,志村沃泉,波除沃泉,堀兼井,真間井,黄金水,渋谷八幡冷泉井,野中井,志村三濫泉,玉之井,鷲之井,三角井,星清水,星之井,鹿島清水,姫井,桜之井,柳之井,門跡之井,御供水,晒之井などを測定しています.
 これに用いたのは,ホクトメートルと言われる機器で,所謂「浮秤」の事です.
 試料液体中にこの機器を浮かべ,沈んだ体積から液体の密度や比重を知るもので,文政年間から既にこうした方法で水の測定が行われていたようです.

 ついでに,『寛天見聞記』と言う江戸期の随筆にこんな話が出て来ます.

 1801年頃,浅草三谷橋向こうに八百善と言う料理屋があり,これが大変繁盛していました.
 ある人が友人と連れ立って八百善に上がり,極上の茶を煎じて香の物で茶漬け飯を注文しました.
 ところが,一向に注文の品が届かない.
 半日以上も待たされて,香の物と煎茶の土瓶が運ばれてきます.
 香の物は,春先には珍しい瓜や茄子の粕漬けの切り混ぜでしたが,さて,半日待たされて,客が食べ終わって,値段を聞いてびっくり!
 「金一両二分」と言われた訳で,そりゃーボッタクリバーも吃驚の値段ですわな.
 無粋な人だと見えて,この人値段に文句を付けたのですが,店の亭主曰く,香の物代はそんなに掛かっておらず,お茶代が高いのは,極上の茶にあった水が近場になかったので,多摩川まで汲みにやりました.
 お客様を待たせてはいけないと,早飛脚を使ったので,この位の値段になりました…と.

 それにしても,お江戸の人はのんびりしていますなぁ.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/10/27 22:06

 さて,井戸の話は暫く置いて,日本の歴史で,水道と言う施設が何時,どの様に出来たのかは明確になっていません.
 とは言え,近世都市が出現して,増大する人口に対し,給水需要に応ずることが困難になった為であることは推測出来ます.

 灌漑兼用の水道としては,1545年に小田原早川用水が,1594年に甲府用水が建設されています.
 そうすると,徳川家は,後北条家と交わりがあったのですから,彼等の技術を継承した人物が,北条家滅亡後に仕官した可能性が出て来ます.

 では,北条家は誰から水道の建設と言うアイデアを得たのか…この辺りは未だ謎です.
 尤も,この小田原早川用水,北条氏康の居館を訪れた連歌師谷宗牧が著わした『東国紀行』の記事が唯一の拠り所なので,本当に1545年に城内一円に配水されていたのかが判っていません.
 主目的はあくまでも小田原城防衛用の水壕用に引いたもので,その水の一部を城内で用い,残水を灌漑用に用いていたと言うのが正解かも知れません.

 で,ご承知の通り,徳川家康は後北条家敗亡後に,秀吉によって関東に封ぜられます.
 秀吉が,建築巧者であることは言うまでもなく,又,石田三成などを使って,関東一円を隈無く調査させたのかも知れません.
 其の結果,関東の弱点は水であって,余り人口を集積出来ない,つまりはそのうち統治を投げ出すか,投げ出して一戦に及んだとしても,そんなに兵力を養えないのではないか,と考えたのかも知れません.
 この辺りは完全に当て推量ですが….

 しかし,家康は江戸討入り以前に家臣に対して,水道施設の建設を命じています.
 これは,当初,小石川に水源を求め,江戸下町への低地給水を目的にした水道であり,この工事が完成したのは1603年とも1629年とも言われています.
 この水道を延長していく形で,井の頭池の湧水を水源とした神田上水が作られたと考えられています.

 1654年には人口増に対応して,神田上水に加え,多摩川の水を羽村で取入れ,四谷大木戸までの開渠延長約43kmを流れて,江戸城を始め城下一帯に配水する玉川上水が建設されました.

 この水道の利便性を見た諸大名家は,一斉に自家の城下町に水道を建設し,其の数は40余りに達しています.
 何れも,湧泉や地下水,河川を水源とし,飲用,防火用,灌漑用に用いられましたが,江戸やその他大都市と違って,地方都市では水源から城下町の間は農村地帯であり,農村部の灌漑用,そして都市部では飲用になっていたケースが多い訳です.

 開幕以後は,1605年に前田家の富山水道,1607年に福井松平家の芝原用水,近江八幡水道,1609年に大御所の駿府用水,1616年には播州池田家の赤穂水道,因幡池田家の鳥取水道と相次いで開設されました.
 1620年には仙台伊達家が四ッ谷堰用水,1622年福山阿部家が福山水道,1623年に加賀前田家が金沢辰巳用水,1644年には讃岐松平家が高松水道,それを受けてか,1663年には水戸徳川家の水戸笠原水道,1664年には尾張徳川家が名古屋巾下水道,ずっと下って,1722年に郡山皿沼水道,1723年に薩摩島津家の鹿児島水道と各地で水道が建設されていきます.

 その工法は,初期は水路を掘割り,自然流下で城下まで導水し,濾過もせず原水そのまま飲用に供すると言う方式でしたが,後に簡単な濾過装置を備えたり,市街に入ってからは木樋や石樋,土管,竹管を地下に埋設して配水や給水を行う所も多かったりします.

 灌漑用水路の水質が良ければ,そのまま町まで水路を延長するケースもあります.
 甲府用水はその典型例で,渇水期には屡々,灌漑用に利用する農民と,飲用に利用する都市住民とが対立して騒動に発展する事件も起きています.

 福井松平家の芝原用水は,松平秀康が国家老本多伊豆守富正に命じて,九頭竜川筋に堰を作り,大きな堀割を掘って川の流れを引いたもので,用水路は幾つにも分かれ,市内の城北一帯に流入したものと,一旦城下に入って城濠に注ぎ,市内城北の大部分の飲料水に供した後,その流末を吉田や足羽両郡の約2,000町歩の灌漑用水に宛てたものとなっています.

 郡山皿沼水道は,参勤交代で宿泊する諸侯の飲料用水が不足することが度々あった為,郡山村の上町名主今泉三太郎と下町名主小針弥次郎らが領主に誓願し,灌漑用である皿沼の水を引いて飲用と防火用にしようと言う目的で建設されたものですが,これを作る為には有租地の大部分を潰すことになるので,領主の許可が中々下りませんでした.
 郡山の村民は一致して,その潰れ地の公租を全住民で負担する事とし,参勤交代で宿泊する武家の宿舎60戸に限って配水すると言う条件で出来上がったものです.

 領主だけの為に引かれた水道と言うのもあります.

 鹿児島の指宿水道は,湯治に来る島津家の人々の為の別邸用に1852年に作られたものですが,島津斉彬はその水を分水して村民の飲用にも利用させています.
 これは指宿川の水を4kmの間,長さ2尺(60cm),内法幅5寸(15cm),深さ4寸(12cm)の石樋を延々連ねて導いており,異物混入が無いように,石蓋をしました.
 後に水路が破損してからは,灌漑用に用いられています.

 加賀前田家の金沢辰巳用水も,犀川の水を引いて施工されたものです.
 これは城内の給水が目的で,かつ防火目的でもあり,田地灌漑に用いるのは厳禁されていました.
 これが施工されたのは1623年から突貫工事で行われたものですが,当時は幕府は未だ揺籃期にあり,大名鉢植え政策で,彼方此方に転封されるケースが多かったりして…しかも,前田家は外様筆頭ですから,軍略的な意図も多分にあったものと考えられています.
 流石に19世紀に入ると軍略的な意図は薄れ,1821年や1844年の旱魃時には分水の使用を許したりしています.

 あ,そう考えると,福井松平家の水道も,軍略的な意図もあったものかも知れません.
 松平秀康と言う人物も,将軍家からは随分疎まれていますからね.

 赤穂の地に敷設された水道は,赤穂と言う土地を治める為にも欠かせないツールでした.
 塩田が主産業だったように,井戸を掘っても良い水を得るのが不可能な土地であった為,池田輝政は郡代の垂水半左衛門に命じて水道敷設の計画を作成させ,1616年に完成しました.
 この水道は,水源を千種川の上流2里(8km)余りの所から取水し,水路を設けて引きましたが,途中,山を刳貫いて延長52間(93.6m)もの隧道を穿って通水した大工事の末の水道でした.

 後に池田家から浅野長直が此処に移封されると,城内と一般住民への給水や,灌漑用水補充の目的も兼ねて,大改修工事を実施し,1645年には水源を移転して水量の充実を図ると共に,城下の隅々に至るまで,石造りの暗渠又は素焼の土管を埋め,枝管も延ばして各戸への給水も行っています.
 元禄年間になってから更に水源を移転し,井堰を新設して取水量を増加させます.
 浅野家は結局,例の事件で除封となりますが,この水道は「御用水」と言われ,後の大名家も水道奉行を置いて維持管理を怠らなかったと言われています.

 桑名も同じでしたが,対象が主に町人を相手にしているところが赤穂と異なります.

 桑名松平家の桑名御用水は,1626年に松平定行が町屋川を水源として延長約1,000間(1,800m)を開削して導水し,桑名の吉津屋御門辺りから暗渠にして,市街に入ってからは,道路の中央3尺四方の所に2〜3尺の高さの水道井楼を設けて,この井戸から住民に水を汲ませて使用させました.
 給水対象は,武家だけではなく,城下の住民,街道や裏町の人々で,彼等は今までの水売人の手から水を買わなくても済んだので便利になったと有り難がったそうです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/10/28 22:11

 初期の江戸幕府にとって脅威だったのは,豊臣家であり,次いで大きな領土を持つ北陸の加賀前田家や仙台伊達家などでした.
 彼等は大名鉢植え政策でもその地に生き存えましたが,常に常在戦場状態だった事は確かです.

 特に,加賀前田家は徳川家よりも少ない禄高ながら100万石と言う莫大な領地を持つ国持大名ですから,特に幕閣から睨まれ,江戸初期の頃は,幕府対策に腐心していました.

 当時,金沢では大火災が頻発していました.
 1602年には天守閣を焼失し,1620年本丸の一部を焼失,更に,1632年4月14日朝10時頃,金沢城下犀川大杉詰の法船寺門前から出火し,折からの南西の強風に煽られて忽ち民家を灰燼に帰し,遂に10余丁隔てた前田利常の居城まで飛び火し,金沢城は焦土と化し,火の手は城下を抜けて遙か浅野川を超えて漸く翌朝に鎮火すると言う大火災が起きています.
 まぁ,この辺り,幕府の手の者による付け火で…なんてのは南條範夫の伝奇小説になっていくので,原因の追及はしませんが….

 こうした頻発する火災を対応する為に,防火目的並びにいざ幕府軍が攻め込んできた時の軍略的水道として開削されたのが,辰巳用水でした.
 この水道は,金沢が灰燼に帰した1632年の夏から急遽開削が行われ,江戸の玉川上水よりも22年早い1633年に完成しています.

 辰巳水道は水源を犀川の上に求めました.
 利常が内々協議していたところ,小松の町人出身で能登の小代官になっていた板屋兵四郎と言う人物が,算数に長け,水利に明るいと言う事を聞き,彼を招いて計画を立て,1632年から施工させた訳です.
 この工事が1年で竣工したのは,人夫に1日4食を与えて未明から夜に入るまで連日急ぎ施工させた為で,加賀では以後,火急の工事のことを「四度食の普請」と言うようになったとされています.

 この用水の水源は,金沢から2里離れた石川郡犀川村字上辰巳地先を流れる犀川の水で,取水口は,辰巳の上流にある大字覗から対岸の相合谷に通じる村道の崖下にあり,道路からは見えない岩の間です.
 この付近は険しい崖がそそり立ち,川が曲がって自然の淵を為していました.
 兵四郎は,固い岩盤を刳貫いて隧道を掘削し,取水口から繋げています.
 隧道は犀川末まで約1,500間(約3km)に及び,8月に工事を始めて半年で開通させました.

 水路はその後,山を潜り,村の地下を潜り抜け,字中辰巳では,人家の下20数尺の岩石の中を貫通しています.
 犀川字末辺りになると,田の地下20数尺の下を通していました.
 こうして,水は犀川村,崎浦村を経て小立野台に流れ込み,本流は上野町,小立野,新川,上石引町,中石引町を経て兼六園に入っており,その総延長は2里40間余(約8km)に及びます.
 兼六園からは2分し,1つは城内に,もう1つは市内の池,溝渠に流れ入り,最下流は七ツ屋町でこの流路の長さが34町35間余(約4km)で別に分流を3つ造り,城下の武家居住地域や町人居住地域を縦断,或いは横断しています.

 金沢城内への給水は,兼六園の高台(標高53.6m)から急に低くなっている百間堀を経て,再び城内二の丸の高台(標高50.2m)までの落差3.4mを利用して逆サイフォンを用いて送水され,この部分の管の最低部である石川橋の土中には常に約1.2kgの水圧が掛かっている巧妙な仕掛けが用いられています.

 兵四郎は松の木を削って四角い樋を造り,これに蓋をした管を使いましたが,漏水の為,後に松丸太に丸い穴を開けた管に取り替えられ,1843年以降は石管に取り替えられました.
 石管の長さは平均1m,断面は1辺約40cmの正方形で真ん中に約118.5cmの穴が刳貫いてあり,材質は富山県庄川上流で採掘される金屋石が使われています.
 石管の両端は二重の円となって凸凹の溝を造り,それで接合出来るようになっており,石管と石管の継目には松脂や檜わたをパッキンに塗って,漏水を防ぐ工夫が為されています.

 この兵四郎,こうした大工事を完成させ,さぞかし後に抜擢されたかと思いきや,1636年10月9日夜に何者かの凶刃に倒れ悲惨な最期を遂げました.
 尤も,これだけ巧妙な仕掛けを作ったので,その秘密が流出することを恐れた首脳に暗殺されたよ説もありますが.

 因みに,兵四郎の死後,大風雨が頻りに起こるので,1638年に河北郡袋村の八幡神社に袋の神として祀られ,近年までもこの怒りに触れると,暴風雨になると言われていました.
 一方で,彼がいないと修理損傷の時の対応に困るので,首脳が幕府に殺されないように,殺された様に見せかけ,実は別の場所で生きて1640年に死去したとも言われ,彼の生涯は謎に包まれています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/11/03 20:01

 甲府と言えば,武田家の本貫の地であり,武田家敗亡後は一時徳川家が支配しますが,その後,秀吉は関東に移封した徳川家に対抗する為,羽柴秀勝,次いで加藤光泰が封ぜられますが,1592年に釜山で死亡し,翌年,浅野長政,幸長が封ぜられました.
 しかし,1600年に関ヶ原で徳川家が勝利すると,浅野家は紀伊に追い払われ,甲府は家康の直轄地となり,城代には平岩親吉が赴任して,徳川家支配の地ならしをすることになりました.

 1603年,家康の第9子義直が武蔵忍から転封しますが,幼少であり其の儘平岩親吉が城代として補佐しており,彼自身も封土には来ず,駿府での生活となっています.
 1607年,義直は尾張に転封し,平岩親吉も犬山に転封となりました.

 暫くは幕府直轄地ですが,1617年に秀忠の息子忠長が転封して,俗に甲府宰相と呼ばれる様になります.
 1625年に忠長は駿府に転封し,後に家光に填められて失脚,甲府に蟄居し,後に除封されることとなりました.

 次に来たのが,1651年の家光の次男である綱重です.
 そして,1678年,綱重からその長男綱豊へと代が変り,彼は順調に昇進して,俗に甲府中納言と呼ばれる様になりました.
 1704年,綱豊は将軍世嗣として江戸に移り,後に将軍家宣となりました.
 その代わり甲府に来たのがかの有名な柳沢吉保.
 しかし,程なく綱吉が没して彼も昔日の状無く,1709年には隠居し,隠棲生活に入りました.
 彼の跡を継いだのが吉里で,1724年に大和郡山に転封となり,以後,幕府直轄地として統治されます.

 甲府城を築いたのは,このうち,浅野長政です.
 彼が城を築くまで,館や町の用水は町の西側を北から南に流れる相川,その西の釜無川支流荒川の水を用いていましたが,城下町の発展に伴い,と言っても,井戸を掘っても良い水に恵まれなかったので,文禄年間に甲府用水が造られたと伝えられています.
 但し,この話は,1746年の町年寄から役所に提出した御用水の沿革を書いた『口上書』であり,実際の記録として甲府用水が出て来たのは,1661年以後です.

 水源は荒川から引き,また相川からも引きましたが,上流は流域村落の田用水(灌漑用水)で,甲府城下に入ってからは町中の上水(飲料水)として用いられ,下流域になると流末村落の田用水になると言う複雑な構成となっており,その水の利用法について,村方と町方との間では紛争が絶えませんでした.
 更に,この用水を用いているのは,町人ばかりでなく,武家も用いていますから,更に権利関係が複雑になっていきます.
 例えば,水上の武家屋敷で余り大量に水を消費すると,水下の町方では水が行き渡らず,末端では減水,時に断水する状況になります.
 こうして,紛争が絶えないので,町の長人や町奉行が間に入って調停に努めました.

 一方,田用水の堰が破損した場合も,普通の用水では村方の負担になるのですが,町方は水下にあって貰い水と言う弱い立場なので,屡々町方で費用を負担することになったりします.
 更に,村方の支配は代官,町方の支配は町奉行と,双方異なった統治系統であることから,更に問題は複雑化する訳です.

 田植え時に渇水ともなればその対立は深刻さを増します.
 田には水が必要ですから,上流の村方は十分な水を取入れますが,それをすれば,下流の町方には水が廻ってこなくなります.
 これではいけないと,元禄年間には「時水」あるいは「四時八時」と言う取り決めが考えられました.
 要は時限給水で,午前6時から4時間,午後2時から4時間は町方用水とし,それ以外は村方用水すると言うものですが,こんなもの,上流の村方にとっては屁でもなく,屡々田植えにだけ水を用い,下流域の事は全く考えない暇に出る場合もありました.
 1693年5月には,日照り続きで水田用にも事欠くので,町用水の給水時間を停止し,最終的に停止したりもしています.

 雨が降れば水は濁り,日照りが続けば田用水が主で町に水が廻ってこない.
 こうして,町方は武家も町人も困り仰せました.

 これが若干改善されたのが柳沢家の統治時で,相川の水量では不足だったので,荒川から湯村・塩部を経て市街に引入れていた用水路が追加されます.
 この用水路は,両側を石垣で積んだ開渠でしたが,後に石蓋が設けられました.
 この水路や用水樋は破損しやすく,修理は何度も行われています.
 この他,荒川の水を上飯田村から取入れ,西青沼村を経て,市中に通じる用水路もありました.

 寛文以後には,水路取締りの為,こんな用水制札が掲げられています.

――――――
一,此用水に於て魚を取,水をあび何にてもあらい申間敷候事
 附 堰土手猥にふみあらす間敷事
一,用水まちの上通路いたすまじき事
一,籠尺木こぼち取まじき事
 附 猥にふみあらすまじき事
右の条々相背輩有之においては,可為曲事もの也
――――――

 甲府の町中の用水は,現地管理は町方で行われ,水見という番人が置かれています.
 町年寄から交付された門鑑を持って,茂兵衛と言う者が長く曲輪内の水見張りをしました.
 水見には,老朽化した堰の漏水防止業務がありました.
 藻屑が堰に掛かっても破損の原因となるので,それを取り除いたり,上流の武家地で不当な水の使用をしているのを発見すれば,即座に報告していました.

 例えば,1718年に武家屋敷を見回っていた茂兵衛は,水を必要以上に使っている屋敷を見つけました.
 茂兵衛はその取入れ口を塞いでしまいます.
 当然,その武家はカンカンに怒り,町年寄を呼べと大変な剣幕だったそうです.
 中には,分水の流末を他へ放流して知らん顔しているので,注意して堰き止めても,又取り払ってしまうとか,町内の枡形(分水枡)近くで小便をしてみたり,堰の近くへ平気でゴミを捨てるなどの行為が跡を絶ちませんでした.
 町方の悩みは尽きることがありません.
 まぁ,一代で大きくなったような成り上がり(と言っては失礼だけど)の家なのでそんなにモラルの高い武家ばかりではなかったようです.

 1724年からは幕府直轄地となって,甲府勤番支配と代官支配による直轄地行政が行われる様になります.
 勤番支配制となりましたが,この甲府勤番と言う役職,旗本達にとっては左遷の部署であり,元来が勤務成績不良の者ども.
 彼等に用水の知識があろう筈もなく,その交代も頻繁であり,町人側で問題を提起しても,用水の由来,用途,前例を尋ねるばかりで,全く彼等の身になって考えてくれる人はありません.
 その上,公儀費用の持ち出しは少なくする算段が強く,解決も事なかれ主義であって,用水の抜本対策なんぞは夢の又夢状態だったりします.

 勿論,武家方も江戸表に伺いを立てては居ますが,所詮は左遷の地であり,まともな返事が返ってこようはずもありません.
 この頃から,当然公儀費用で賄われるべき用水修理工事費用に対し,段々と町方費用の割合が高くなってくる様に成ってきます.
 支配方の枡形,掛樋,埋樋の老朽化によって漏水が多くなっても,修理費はなるべく町方に負担させる為の手段として,その工事繰り延べも行われたり….

 そして,1746年には延享の大改革と言われる,用水費用の割当制度が始まりました.
 その内容は,従来,江戸表に伺いを立ててやっていた枡形や樋の修理で公儀負担にてしてきたものを,今後は江戸の徴収方式に従って,武家方は石高割,町方は小間割で普請金として出すと言う方式にするというものでした.
 上水の検分役人が江戸表からやって来て,この計画が打ち出されたのは,1746年12月.
 そして,金額の取り立ては1747年正月29日までに行えと言う,ご無体な計画.

 町方では大変な騒ぎとなり,正月20日には御式台まで直訴に及びますが,数日後各町代表は御白州に呼び出され,「これ以上言い張るならお咎めを受けることになる.町中町内残らず相談の上,割当の金を出すよう返事せよ」と言う強圧的な物言いで,とりつく島もなく,結局,3月28日に町方は出費割当通り万事承諾した旨の請書を町名主連名で提出し,この騒ぎは落着しました.
 勿論,武家方にもこの費用徴収は行われています.

 そして,以後,この割当制度は明治に用水が廃止されるまで続いた訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/11/04 23:02

 1642年,生駒家の跡を継いで讃岐半国に移封されたのが,松平頼重です.
 彼の出身は,水戸徳川家の祖,徳川頼房の長男でしたが,色々あって,水戸家の2代目は弟光圀に取られ,その代わりに讃岐という重要な地を任されました.
 勿論,御三家出身者ですから,家格が高く,溜間詰で大礼がある場合は,京都への使者となる家柄でした.

 その高松城下は海浜に接する沼沢地で,西部の山麓地方や旧河東川の河川敷に当る現在の栗林公園付近から瓦町・亀井町・外磨屋町方面の一帯を除き,一般に井水が不良で飲用に適さなかったりします.
 しかし,城下が繁栄するにつれて良水が乏しくなり,庶民が飲料水に困っていた為,1644年4月,家臣の矢野部伝六に命じて水道の計画を立てさせ,高松水道を完成させました.

 水源は亀井町にある亀井霊泉の湧水に求め,此処に新井戸と呼ばれる長さ27間(約50m),幅9間(約17m)の矩形の貯水池を掘り,此処を切石積石垣構造とし,水が漏れないようにして,湧水を貯めるようにしました.
 これは配水池の役割をも兼ねており,此処から木樋や土管を地中に埋けて南新町,丸亀町と言った繁華街や東北の城下一帯に通水しました.
 住民が水を用いるのは,江戸の上水と同じく,要所毎に設けた共同井戸から汲み取って使用しました.

 因みに,水戸本家が水道を布設するよりも19年早く,玉川上水より9年早いものです.

 その後,更に人口が増え,既存の水道では水量に不足を来した為,補助水源を栗林公園の池沼と霊源寺池の湧水に求め,そのほかに亀井の不足を補う為に西瓦町にも大井戸を設けて,その付近一帯と福田町,築地町方面の飲料水に充てました.
 こちらの大井戸も貯水池で,長さ22間(約40m),幅8間(約15m)の矩形の切石積石垣を造り,其処に貯水する構造でした.

 更に外磨屋町の藤森荒神境内に今井戸(これも切石積石垣構造の貯水池を設け,その付近と兵庫町,片原町沿道の需要に充てることにし,その後も,更に遠方の伏流水の集中する西浜新町の池を水源に選び,城下北海岸一帯への給水を実施しています.

 これらの給水は箱樋・土管・竹樋が用いられました.
 市街の道路には木箱樋を埋設し,辻々には木枡が設けてあり,共用水道として使用されています.
 この木枡には2種類があり,木樋,竹樋を通じている枡は小型で,土管を通じている枡は大型で特に堅牢に作られていました.
 また,木製でも箱樋は丈夫に造られていたようです.

 維持管理の統括は町奉行が行い,維持,修繕費用は使用割合に応じる歩合を決め,関係町民が負担していました.

 それから約20年後の1661年,徳川頼房の跡を継ぎ,光圀が第2代当主を襲封します.
 当時の水戸は1625年,初代頼房が水戸城を修理すると同時に,下市東台の崖を切り崩して沼田を埋め立て,城下を開拓して住民の移住を奨励しました.
 城下の方は繁栄しましたが,奥州街道に面した本町通り下町一帯は田町と呼ばれ,田圃を埋め立てた新開地だったため,井水が不良で非常に困惑しました.
 其処で,1627年に吉田村の溜池2カ所から導水しましたが,水量が不足したのと,降雨毎に汚濁する為に,折角作った水道もその機能を果たせませんでした.

 1662年,初の入国を前に光圀は,町奉行望月恒隆に内命し,領民の為の水道建設を命じます.
 望月は平賀保秀を普請奉行として,市川三左衛門,三宅十右衛門を添役に任命し,領内の辰口堤その他の利水工事を施工して実施上の体験を積んでいる永田茂右衛門の嫡子勘右衛門を起用し,笠原水道の建設を開始させました.

 普請奉行の平賀保秀は,元々堀田正孝に仕えていたのですが,故有って浪人し,水戸家に仕官した人で,関流の算術,数理,天文,地理に精通の聞こえが高かったそうです.
 保秀は,下市から笠原山に至るまでの地勢,地質を調査測量し,笠原不動谷に湧く泉を水源として,千波湖の南に沿って導水し,これを下市地域に配水する計画を立て,望月もこれを実地見聞して,同意し,工事が始まります.

 水道工事にこの工事が始まると,住民は喜んで賦役人足に従事し,予想以上に工事は進捗.
 早くも1663年7月に竣工して,住民は水不足の苦難から脱することが出来ました.
 こうして,光圀お国入り記念事業は成功裏の内に終わったので,施工を担当した永田勘右衛門は光圀から円水の号を賜り,かつ,麻裃の着用を許されたとありますから,如何に光圀が喜んだか推して知るべしか,と.

 この円水の先祖は武田信玄の幕下で戦功を立てた人で,甲斐国黒川出身でした.
 円水は父同様に採鉱の術,水利耕作に練達していたのですが,特に父よりも斬新な工法を工夫する人でした.

 円水が採用した方法の一つが,提灯測量です.
 笠原水道の建設に当って,土地の高低を調べた方法が,夜間に提灯を点し,それを並べて遠方から眺める方法だったのですが,その頃の千波湖は吉田神社の下まで広く湖面でしたから,普通に提灯測量をするのも難しかった為,円水は提灯の光を湖沼面に反映させて測量する方法を用いたそうです.

 この笠原水道の水源は,水戸の人々の信仰篤かった笠原不動尊の石段左右にある4つの泉から為っています.
 初代頼房の時代は木々の枝葉を折ることさえ禁じられていた地で,水源の涵養には非常に有利でした.
 この湧水地を水源に,水路は全て暗渠とし,逆川を伏せ越し,藤柄町,紺屋町に出て銅樋を以て伊奈堀を渡り,七軒町より本町1〜10丁目を経て新町,細谷に至る総延長5,913間(約10km余)に及ぶ大規模なものでした.
 この内,水源から藤柄町までの1,873間(3.4km余)は,特産の神崎岩を以てした厚さ3寸,深さ9寸,幅1尺1寸の岩樋と称する石造樋で,その継ぎ方は,漏水を防ぐ為に切り込みを行い,これに粘土目地を施しています.

 支線は木樋,各戸への配水井戸へは竹樋を用いており,各主要街路の要所要所には共同井戸を設けました.
 この共同井戸も神崎岩で溜池を造って井戸側様のものを取り付け,底部で導水樋に接続したものでした.

 又,笠原水道の独特なのは伊奈堀水道橋で,屋蓋のある木橋に銅の厚板を接合して造った銅樋を架したものです.
 銅樋は延長約10間(17m余)であり,厚さ1分の銅板を幅9寸,深さ8寸に接合してこれを木樋の内に収めて保護し,更にこれを屋根付の水道橋で渡しています.

 この笠原水道の総工費は554両3分780文で,在郷人夫,足軽人足,町人足など工事に使役した労力費が大部分で,70%に当る415両余となっています.
 とは言え,人足労賃は1日僅か鐚銭60文で,当時の大工や木挽に比べると非常に低廉な労銀でした.
 これからしても,彼等の奉仕精神を駆り立てた(と言うか悪用した?)結果と言えるか,と.

 材料費は残りの30%で,半額の72両3分225文は導水用の岩樋に充てた神崎岩の購入代金で,後は木材,松脂1貫500目で,粘土は全く購入しておらず,恐らく使役人足の手で導水路沿線近くの水田で必要に応じ田粘土を掘って流用したものではないか,と考えられています.

 笠原水道の年々の修繕費は,下町の分は町民負担,武家屋敷は藩費で支出し,諸般の事務は関係町家の有力者3名を選んで分担させました.

 長男と次男,双方の虚栄心のぶつかり合いがこんな所に見えて面白いですね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/11/05 22:54


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