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◆◆医療 Orvosi ügyek
<◆日清戦争
戦史FAQ目次


 【link】


 【質問】
 日清戦争に際しての,日本の医療体制は?

 【回答】
 1894年6月5日,広島第5師団に諸部隊の要員補充を求める第1次充員命令が下され,以後,広島へは全国から兵員や物資が集められて,宇品から朝鮮半島,或いは中国大陸に送られていきました.
 9月15日には,明治天皇が広島に到着され,第5師団司令部に天皇直属の最高司令部である大本営が移設され,10月5日より広島市内は戒厳令下に置かれました.
 そして10月18日,広島西練兵場内に建築された仮議事堂で第7回臨時議会が開催されました.

 日清開戦に伴い,広島へは全国から多くの兵士や商人,労務者が入り込み,軍需景気に湧いた反面で,市民は物価の高騰や治安の悪化に苦しめられる事になります.
 また,大陸との交通に伴い,コレラなどの伝染病の上陸も考えられるようになりました.

 この頃,広島には運輸関係の部署である,陸軍運輸通信部宇品支部など各種軍関係の官衙が設置されていましたが,医療・衛生施設もまた充実しており,広島陸軍予備病院の他,当時世界有数の規模と質を誇った似島臨時陸軍検疫所と附属避病院も設置されています.

 広島陸軍予備病院は1894年7月8日の開院で,陸軍の平時の病院である広島衛戍病院を利用して,戦時に対応するようにしたものです.
 その後8月8日から10月9日にかけて,広島博愛病院や仏護寺を利用して臨時で4分舎を開設し,10月8日には広島西練兵場内に第1分院,10月9日には白島村の旧広島城内に第2分院,10月23日に国泰寺村に第3分院…この第3分院は42棟中10棟を伝染病舎としています…が設置され,11月16日には更に西練兵場内に第4分院を設置しました.
 この他,廿日市町転地療養所,厳島町転地療養所を置き,宇品には患者転送部を設置しました.
 この結果,広島陸軍予備病院は,本院,分院,転地療養所を合わせて4,959名を収容出来る一大病院となりました.

 この病院のスタッフは当初,院長以下9名しかいませんでしたが,最終的に軍医80名,雇医師92名,看護関係者1,340名の他,日赤救護員など315名が活動しています.

 この病院に収容されたのは,1894年7月8日から1896年3月31日まで,実数で52,598名に達し,日清戦争に於ける陸軍軍人等の戦傷病者数285,853名の18.9%を占めています.
 52,598名の内訳は,転送が38,772名と非常に多く,以下,治癒9,741名,死亡2,634名となっており,戦場から後送されて内地に戻り,そこから地元の陸軍予備病院に転送する一時待機所的な役割をこの病院は持っていたと見る事が出来ます.
 因みに日清戦争中は,器械的外傷が4,261名なのに対し,脚気16,885名,伝染病の12,361名など病者が圧倒的に多かったりしました.

 広島陸軍予備病院の施設の1つに,似島臨時陸軍検疫所があります.
 この施設は,最新式の蒸気消毒装置や薬物消毒室を備え,1日に5~6,000名の消毒が可能な世界最大級の施設として計画され,1895年4月4日に起工し,6月1日より業務を開始しました.
 当初は入浴施設の一部が未完成などがありましたが,次第に施設が整えられ,10月末までに132,346名の検疫と,112,746名の消毒を実施しました.
 この数は,全国に3カ所設けられた陸軍検疫所の検疫人員232,346名の59.2%,消毒人員158,460名の71.2%に当ります.

 この施設の付属として,伝染病患者を収容する避病院も併設されました.
 この避病院には,1,260名が収容され,382名が死亡しました.
 死亡者の内コレラ患者は,疑似を含めて926名,死者は313名に達しています.
 これも,3カ所あった陸軍検疫所附属避病院の収容患者1,994名の63.2%に達し,死亡者639名の59.8%を占めています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/05/31 23:15

 日清戦争が避けられなくなった1894年6月19日,日本赤十字社は,陸海軍大臣に救護員の派出を要請し,大山陸相が23日に派遣を受け入れると言う回答を得ます.
 そして,日本赤十字社救護員は,危険の少ない非戦闘地域に派遣される事になりました.

 が,此処で1つ問題が生じました.
 日本赤十字では看護をする職種に男性のみならず女性も充てていました.
 これが陸軍内で問題となり,若い女性を陸軍の病院で使用する事は,「風紀上頗る慮る」として難色を示しています.

 これに対し,前にも取り上げましたが,日本赤十字社の常議員を務め,大本営野戦衛生長官に就任していた石黒忠悳は,
「常に重症患者の看護は,婦人の手でするが最も適当」
と言う,今から考えれば非常に進歩的な考えの持ち主でした.
 また,国際情勢を考えると,日本が赤十字条約に加盟している以上,今後も大概戦争が勃発した場合,欧米諸国が篤志看護婦の派遣を打診してくる事は明らかであり,そうすると自国の看護婦は拒否して外国の看護婦を受け入れると言う奇妙な状態となると,反論を行っています.

 石黒長官の論理は,当時,日本が背負っていた不平等条約の改正を念頭に置きながら,欧米に対して文明国の日本と非文明国の清国との戦いとして,日清戦争を位置づけようとしていた政府,陸軍首脳の考えとも一致しました.

 この様な考えもあり,規律を厳重にして性的問題の発生を防止する事に万全を尽した上,広島陸軍予備病院に於いて,軍事施設では初めてとなる看護婦の勤務が実現する事になります.
 もし,此処で看護婦が陸軍将兵と性的問題を発生させれば,陸軍の守旧派を勢いづかせます.
 そこで石黒長官は,日本赤十字社病院看護婦監督の高山盈を派遣看護婦の取締に任命すると共に,日赤に対し派遣看護婦の人選に際しては,
「第一規律ヲ重ンシ従順ナル者,第二品行方正ニシテ社旨ヲ奉スル心ノ篤キ者,第三技倆ニ練達シ,ナルヘク年ヲトリテ且ツ美貌ナラサル者」
とする様要請しました.

 第三の条件,技倆に練達しはさておき,美人じゃなくしかも年を食った人と言うのは随分だと思いますが….

 8月2日,理事首長である陸軍歩兵中佐清水俊の統率の下,医長高橋種紀他医員3名,調剤員1名,看護婦取締1名,看護婦20名,書記・会計2名,使丁1名の合計30名で患者100名に対応する第1救護員を組織しました.
 なお,この出発を前にして,高山看護婦監督は,看護婦達を集めて,
「皆の中で不品行の失態を侵す者が出た場合,私は死を決心している」
と告げて,全員の覚悟の程を問い質したと言います.

 こうして,第1救護員は8月5日に広島に到着し,直ちに広島博愛病院を拠点に,ここに広島陸軍予備病院第一分舎日本赤十字社救護員派出所を開設します.
 また,日本赤十字社広島支部は,これに対応して,それまで広島博愛病院に勤務していた看護婦10名と,同支部看護婦養成所の新卒業生5名を募集し,いつでも救護員として派遣出来る体制を整えました.

 この広島博愛病院は,戦時は博愛社と連携して傷病者を救護する「陸軍病院の補助院」としての位置づけで,平時は民間の患者,特に治療を受けられない貧民層を救済する慈善病院の役割を担うものとして計画されたものです.
 博愛病院は,東京でも皇后陛下臨席の下に開所式を行いましたが,広島はそれに先だって1886年10月3日に開院し,広島鎮台病院長の長瀬時衡等軍医を中心に運営されました.

 その後,ジュネーブ条約への日本の加入が具体化する中で,1886年11月28日に広島博愛社が設立され,日本赤十字社が設立されると,中国や瀬戸内地域の人々が強力に運動を展開し,第5師団の支援もあり,支部設立の条件を満たしていないにも関わらず,全国で最も早く,1888年7月10日には,日本赤十字社広島支部が設立しています.
 支部設立後,1893年2月13日には日本赤十字社広島市部看護婦養成所を設立,広島博愛病院を借用して日本赤十字社看護婦養成所第2回卒業生の川村もとを中心に看護教育を開始,12月2日には早くも第1回卒業生として7名に卒業証書を授与しています.

 勿論,こうした動きの背後には,陸軍だけが独走した訳でなく,地域の協力が無ければ為し得ない事です.

 第1救護員は,この後,広島博愛病院の定員が60名しかなかったので,隣接するキリスト教会や広島医会場を第1分室として病室とし,1894年9月14日には救護定員を100名から200名へと倍増する為に,医師1名,看護婦10名の増員を受けて,戒善寺を借用して補充病院としました.

 大本営が広島に移転した9月15日には,日本赤十字社は小山善医長心得,医員4名,調剤員2名,書記・会計2名,看護婦取締には仁礼景範海軍中将夫人である仁礼寿賀子の下,看護婦30名,使丁1名の59名からなる第3救護員(第2救護員は戦地に出動した)を組織し,18日に広島入りして21日から広島陸軍予備病院本院の伝染病,最重病室である第7号,第1号,雑内科病室である第5号病室を担当する事になりました.

 仁礼夫人が看護婦取締となった経緯は,石黒長官に,仁礼夫人が何かやる事はないかと言ってきたので,石黒長官は,彼女に対し,先ず看護に従事して欲しい,但し,患者に付くのではなく,看護婦の中に入って共に寝泊まりをして監督をして欲しいと依頼して決定したと言います.
 看護婦取締には,彼女たちの悩みを素直に聞ける人格者でないと出来ない仕事だったので,その人選には苦労したようです.

 10月8日には,建設中の第1分院が完成して第1救護員が患者95名と共に,第3救護員が本院からこちらに移転し,広島博愛病院は日赤の看護婦達の宿舎として利用される事になりました.

 その後,患者の急増に伴い,11月5日には日赤京都支部の理事西村七三郎以下,調剤員1名,書記・会計2名,看護婦取締1名,看護婦20名,使丁1名の合計30名によって救護員が編成され,7日から第3分院の伝染病患者病棟を担当する事になります.
 京都には,同志社の創設者である新島襄が1887年に設立した京都看病婦学校があり,同校卒業生5名,生徒2名を中核に,篤志看護婦人会員でもある新島八重を看護婦取締として組織されたと考えられます.
 11日には医員1名,看護婦10名,使丁1名が更に派遣され,京都支部も患者200名に対応出来る組織となりました.

 この後も,多くの日赤救護員が広島に派遣されましたが,下関条約の締結により活動は下火となり,1895年7月31日までに全員の任務が解除されました.
 この間,広島支部の42名を始め,岡山,徳島,山口支部から108名の看護婦,東京慈恵医院看護婦教育所卒業の看護婦12名など212名と京都支部の70名の合計282名が広島に派遣されました.

 因みに,東京慈恵医院看護婦教育所は,1885年10月に東京慈恵会医科大学の創設者高木兼寬が,ロンドンのセント・トーマス病院に倣って有志共立東京病院開設に力を注ぎ,そこにナイチンゲール看護婦養成所を範とする看護婦教育所を設置した事に始まります.
 この高木兼寬と言う人は,海軍に於いて英国式の医務制度を確立すると共に,海軍から脚気撲滅に多大な功績を挙げた医師でもあります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/06/01 23:44


 【質問】
 日本赤十字社の始まりは?

 【回答】
 元々,赤十字と言うのは,1863年にスイスで作られたものです.
 ご存じだと思いますが,スイスの実業家であるアンリ・デュナンと言う人が提唱したものですが,元々,この人はフランスの領土となったアルジェリアへの進出を考えていて,その援助を時の皇帝ナポレオンIII世に直訴する為,1859年に北イタリアのロンバルディアに赴きます.
 この地で,ナポレオンIII世は,イタリア統一を支援する為,サルディニア王国と結んで統一に反対していたオーストリア帝国軍と対峙していたのです.
 そして,デュナンはロンバルディア平原で戦われた両陣営の戦いであるソルフェリーノの戦闘に遭遇しました.
 この戦いでは両陣営合わせて30万人以上の参加兵力の内,1日で凡そ4万人の死傷者を出すと言う19世紀最大の悲劇の一つに数えられている戦いです.

 デュナンはこの悲惨な地で,軍医達からの充分な手当を受けられず,放置されたままにあった多数の戦傷者の惨状を目にし,不眠不休で看護に当りました.

 ソルフェリーノから帰ったデュナンは,その光景が忘れられず,1862年にその時の状況を克明に書いた書物を自費出版して,欧州各国の有力者に送りました.
 これが『ソルフェリーノの思い出』と言う本です.
 この本は単に悲惨な描写ばかりでなく,末尾でデュナンは2つの提案をしています.
 1つ目は今後も避けがたいと思われる戦争に於いて,傷病兵の救護に当る民間組織を,平穏と平和な時代に各国に設立する事,
2つ目に,そうした傷病兵の救護活動に関する法的拘束力を持ち,普遍的に尊重される国際的合意を取り決める事です.
 この提案は各国でも共感を以て迎えられ,地元ジュネーヴではその構想を実現する為の小さなグループが生まれました.

 ジュネーブ交易協会会長で法律家のグスタフ・モアニエ(後に赤十字国際委員会第2代委員長),スイス陸軍の父と呼ばれ,戦場の人道化を実戦していたアンリ・デュフール将軍,外科医のテオドア・モノワール,戦場外科の権威ルイ・アッピアの4名とデュナンとで「負傷軍人救護国際委員会」(通称5人委員会)で,1863年2月17日に初会合が開催されました.
 後に1875年,この組織は赤十字国際委員会と改称し,今日に至る訳です.

 こうして1863年10月に,欧州16カ国と4つの博愛団体の代表が出席してジュネーヴで国際会議が開催され,赤十字規約が採択され,戦時に軍の衛生活動を援助する救護組織を各国に設立する事や救護員の腕章を「白地に赤十字」とすることなどが取り決められました.

 そして,1864年8月に16カ国の政府代表が再び集まり,デュフール将軍を議長とした「戦地にある軍の衛生要員の中立に関する国際会議」が開催され,最終日に締結されたのが,「戦地軍隊ニ於ケル傷者及病者ノ状態改善ニ関スル条約」,所謂,1864年8月22日のジュネーヴ条約,又の名を赤十字条約が締結されました.
 その第6条には「負傷シ又ハ疾病ニ罹リタル軍人ハ,何国ノ属籍タルヲ論セス之ヲ接受シ看護スヘシ」と明記され,此処に初めて戦争に於ける傷病兵の保護を謳った国際条約と軍の衛生部隊の赤十字標章の使用が決められました.
 ただ,この条約は単に軍の衛生活動の中立・保護だけで,赤十字社の役割と保護は明記されておらず,民間人による救護活動は単に住民が救護活動を行う権利に簡単に言及したに留まります.
 これは,戦場での民間人の活動が軍事作戦の障害になるのではないかという,各国軍関係者の懸念に配慮したものでしたが,後に,1906年7月6日のジュネーヴ条約によって篤志救恤協会(赤十字社)の役割が明記される事になりました.

 1867年,パリで万国博覧会が開催されました.
 この時,佐賀鍋島家中から派遣された使節の中に,佐野常民と言う人がいました.
 常民は元々外科医となるべく修業を積み,幾つかの蘭学塾で学んだ俊才で,中でも緒方洪庵の適塾では,日本の蘭方医に強い影響を与えたとされる,ドイツの医学者フーフェランドが書いた「医師の義務」(『扶氏医戒之略』)が説くところの医の倫理を学びました.
 それには,「不治の病者であってもその苦痛を和らげ,その命を保つ様努力する事は,医の職務である.棄てて省みないのは人道に反する.例え救う事が出来なくても,これを慰するのが仁術である」と言う,人命尊重の精神でした.
 さて,常民はその万国博覧会で,各国の展示を見回る内,「負傷軍人救護国際委員会」の展示館を訪れて,負傷兵を敵味方の区別無く,1人の人間として救護するという赤十字思想と出会い,強い感銘を受ける事になります.

 明治に入ると,常民はオーストリアとイタリアの弁理公使を兼務する傍ら,1873年のウィーン万国博覧会に於いて,大隈重信が総裁を務める現地博覧会事務副総裁として派遣され,そこで再び各国赤十字社の出品物の盛大さを知り,普仏戦争を経た欧州での赤十字事業の広がりを肌で感じる事になりました.

 赤十字社の隆盛こそが「文明」の「証憑」である…と考えた常民は,帰朝後,日本に於いても赤十字組織が必要な事を陸軍省に提案し,明治天皇にも赤十字の概況を説明したと言われています.
 しかし,実際に日本でこうした活動が始まるのは未だ早すぎました.

 一方,赤十字活動に興味を示した元勲もいました.
 1871年に日本を出発した岩倉使節団の一行です.
 一行はウィーンに入って万国博覧会を見学した後,スイスに入ってジュネーヴで負傷軍人救護国際委員会のグスタフ・モアニエ等と面会しています.
 これには,負傷軍人救護国際委員会の方からの積極的な働きかけがありました.
 岩倉一行がスイスに来る事を知ったモアニエ達が,彼らに赤十字活動の詳細を知って貰いたいと考え,スイス大統領に要請して,大統領から岩倉使節団に対し,公式に面談の要請を行っています.
 その結果,使節団の滞在が延期されて,岩倉との面会が叶ったのでした.

 モアニエは,事前にスイスと日本との修好通商条約締結の為に日本に派遣されたスイス連邦議会議員であるエメ・アンベールにレクチャーを受け,万全の体制で会談に臨みました.
 岩倉使節団の一行は,モアニエに拠れば,「良識があり,且つこれ以上好意的である事を望めない様な人物が揃っており,我々の努力に対して共感を示してくれた」とあり,特に,大使の岩倉具視と副使の伊藤博文とは,数回に亘り相次いで行われた会談で,「我々の説明に真剣に耳を傾けてくれた」としています.
 とは言え,2人の認識として,その重要性は認めつつも,「日本国民自らがジュネーヴ条約を遵守する事に先ず慣れない限りは,日本が同条約に加入するには時期尚早であり,日本軍の正規の衛生部隊を幇助する為の自発的な協力を呼びかける以前に,そうした軍の衛生部隊を『きちんとした組織』として整備する為に,未だやるべき事が多く残っている」事を真っ先に認めました.
 そして,帰国後に彼らは,「そうした改革に努める事を約束すると共に,この件について,これからも我々負傷軍人救護国際委員会と継続的に連絡を取る事を認めてくれた」としています.

 こうして,政府の重鎮たる岩倉具視と伊藤博文がその活動に理解を示していてくれたからこそ,常民がスムースに動けたと言う訳です.

 また,大給恒も,常民と行動を共にした人です.
 大給恒は元三河奥殿藩の殿様で,江戸幕府では幕府陸軍総裁を務めた事のある松平乗謨の改名後の名前で,松平十三家の筆頭として重きを為していました.
 大給恒は,「貴族ノ本分」として華族による救恤活動を提唱して,そうした華族の出資による民間会社の設立を,華族会館を設立した岩倉具視に訴えていました.
 それに対して,岩倉は佐野常民との会談を仲介して,2人を引き合わせ,後に両人が合体して,日本赤十字社の前身である博愛社が設立される事になりました.

 因みに,博愛社の最初の東京仮事務所は,松平一族合意の下,麹町区富士見町にあった一族の櫻井忠興邸に置かれた事でも分りますが,松平一族はこの博愛社の活動に深く関わっていく事になります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/05/19 22:34

 さて,日本の赤十字前史をつらつらと書いてきている訳で,政治家や華族の動きを書いたのですが,直接,この恩恵を受けるのは軍人です.
 当時の陸軍内には,軍医だけでなく一般兵科の将校達にも,赤十字とジュネーヴ条約に関する知識を持つ軍人がいました.

 その中で代表的な人物として挙げられるのが,大山巌です.
 1870年,巌は普仏戦争の観戦武官として,プロイセンに派遣されました.
 フランスにしろ,プロイセンにしろ,1864年のジュネーヴ条約に加入しており,国内には赤十字社である救護社が設立されていました.

 プロイセンは,オーストリア帝国と戦った1866年の普墺戦争以来,軍の衛生部隊の急速な改善が進むと共に,救護社の活動に対する高い評価と信頼とが寄せられていました.
 当時,プロイセン救護社は,皇帝と軍の理解に支えられながら,25万人の動員力を誇る世界最大の救護組織に成長していましたし,ジュネーヴ条約の普及と教育に最も熱心に取り組んでいたのが,時のプロイセン皇帝であるヴィルヘルムI世でした.

 一方,フランスはジュネーヴ条約に加入していたのですが,普及と教育は遅れ,条約違反をこの戦争で数多く引き起こしました.
 また,衛生部隊も未整備で,僅かにあった衛生部隊の兵士も,赤十字腕章も着用していない者が多数おり,1864年に設立されたフランス救護社も,救護員の養成や器材の整備も為されていない状態で戦争に突入しました.

 この結果,プロイセン軍の戦死者が4.4万人だったのに対し,満足に兵士の救護活動が出来なかったフランス軍は,実に14万人に達し,特に戦場の劣悪な衛生環境に起因する多くの疾病死者,傷病死者が含まれていました.

 さて,巌は,普仏戦争の観戦を行った後,1871~74年に掛けてフランスに留学しているとされていますが,実は殆どスイスへの留学になっていました.
 そして,岩倉使節団一行と同様に,山県有朋陸軍大輔の命によりウィーン万国博覧会を2ヶ月に亘って見学し,その間には博覧会事務副総裁の佐野常民とも逢っており,当然赤十字関係の事項も話題に上ったと考えられます.

 1873年6月末にはジュネーヴに来着した岩倉使節団一行とも会い,7月1日には岩倉具視と共に,スイス軍医の集会に出席し,負傷軍人救護国際委員会のデュフール将軍とも歓談しています.

 こうした機会を得て,欧州の一等国と肩を並べるには,こうした条約に加入して行かなければならぬと考え,帰朝後は政府にジュネーヴ条約への加入を積極的に働きかけたと言われています.

 後に,1884年,陸軍卿となっていた巌は3度フランスに渡り,各国兵制を研究する傍ら,同行した橋本綱常陸軍軍医監と共にジュネーヴ条約への加入手続きを調査し,9月にジュネーヴで開催された第3回赤十字国際会議には日本のオブザーバー参加が認められましたが,会議への招待状は,大山巌と博愛社社員のアレクサンダー・シーボルトに宛てられていました.

 このアレクサンダー・シーボルトは,弟のハインリッヒ・シーボルトと共に,幕末にオランダ商館の医師として来日した人物で,あのフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの息子達です.
 彼らは佐野常民のウィーン万国博覧会赴任にも同行し,また岩倉具視は,西南戦争時に華族による戦時救護を構想した際に,アレキサンダー・シーボルトに対し,欧州に於ける貴族救護会社の制度を諮問し,改めてそうした「貴族会社」は,「帝国ノ難ニ際シ戦争アルニ方テ,其死傷将卒ヲ救助看護スル」事を目的とし,社員は戦地又は病院で救護に従事するとの説明を受けています.

 シーボルト兄弟は,博愛社規則の草案作りにも関与し,弟は1880年1月17日,兄は3月28日に社員となりました.
 また,1883年5月にベルリンで開催された衛生及び救難法の博覧会に政府から派遣された内務省御用掛の柴田承桂に対し,欧州に於ける赤十字事業とジュネーヴ条約加入手続きの調査を博愛社から依頼していますが,その際にも当時ベルリンに住んでいた兄のアレクサンダー・シーボルトに協力依頼が為されています.

 1884年11月25日に博愛社の社員総会では,そのシーボルトと柴田の報告を元に,政府に対してジュネーヴ条約の加入を建議する事になり,12月10日,博愛社総長である小松宮彰仁親王(前の東伏見宮嘉彰親王)名で建議書が政府に提出されました.
 そして,日本が加入手続きを開始すると,井上馨外務卿はアレキサンダー・シーボルトの協力を求め,モアニエへの働きかけに尽力する事になりました.

 帰国後の1886年6月,陸軍大臣となった大山巌は,漸く,日本のジュネーヴ条約加入を実現させました.
 因みに,ジュネーヴ条約加入前の1872年に陸軍大輔山県有朋が,太政官正院に「世界普通ノ赤十字相用申度」という伺書を出した事があります.
 この時,太政官左院ではそれに対して,デュナンや赤十字の謂われを記し,赤十字は「同盟ノ記号」であり,ジュネーヴ条約未加入国が妄りに使用すると不都合が生じる恐れがあるとの意見書を出して却下されています.

 そして,1887年には博愛社社員だったアレキサンダー・シーボルトの協力を得て,条約の注釈書である『赤十字条約解釈』を作成し,それを何と全将兵に頒布して普及に努めました.
 因みに,1887年4月23日付の陸軍訓令として出された,『赤十字条約解釈』の冒頭に掲げられた大山陸相の訓示は,以下の様なものでした.

――――――
赤十字条約ノ儀ハ軍人軍属ニ在テ最緊要ノモノニ付,解釈ヲ容易ナラシムル為メ注釈ヲ加ヘ別冊頒布候条,遍ク熟読格守ス可シ
――――――

 後年のジュネーヴ条約何処吹く風と言う軍隊と同じ軍隊とは思えませんね.

 時に,こうした負傷兵を敵味方無く救護する人道的行為は,幕末から明治初期に掛けての戊辰戦争でも屡々行われていました.
 例えば,五稜郭の戦いに於いて,榎本武揚の軍に属した高松凌雲は,榎本軍・政府軍の別なく双方の負傷者を病院に収容し,手当を施していますが,幕府の奥医師出身で適塾出身者だった彼は,1867年のパリ万国博覧会に派遣され,そこで同じ適塾出身の佐野常民とも交流を深めていましたが,正に五稜郭での行為は,赤十字活動の実践でした.
 この他,北陸や会津の戦いに従軍した英国人医師,ウィリアム・ウィリスと言う人物も,敵味方の区別無く救護を行った事が知られていますし,その弟子に当る熊本の医師鳩野宗巴も,西南戦争時に地元熊本で,政府軍,薩摩軍の別なく負傷者の治療に当っています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/05/20 23:03

 さて,当初西洋諸国のみの加盟だった赤十字社は,1867年に異教徒としてのイスラーム教国のオスマン・トルコを加盟させ,1887年9月に極東の異教国である日本が加盟したことで,全世界的な展開を見せる様になります.

 そして,各国の赤十字社は,戦時に敵味方の区別無く傷病兵を救護する普遍的な人道理念と,政府に認可され,戦時には軍衛生部隊の補助機関として活動するという,国家や軍との密接な関係性を不可欠とする組織原理を共有する事になりました.
 また,ドイツや二重帝国,ロシアに代表される様に,君主制の国家に於いては,王室との極めて密接な関係も,組織上の共通した特色でした.

 日本の場合も,国家・軍との関係や皇室との関係が極めて密接な形で構築されていきました.

 先日来書いてきている様に,維新の元勲達が中心となって,こうした活動を行う会社の設立を企図します.
 1877年4月6日には,元老院議官になっていた佐野常民と大給恒が連名で,「博愛社設立願出書」と5箇条からなる「博愛社社則」を岩倉具視右大臣に提出しました.
 この切っ掛けとなったのは,同年2月に勃発した西南戦争,特に3月に起きた田原坂での激戦の報道が,傷病者救護の機運を皇室や華族達の間に醸成させる事になったからです.
 因みに,博愛社の「博愛」は唐代の詩文家である韓愈の『原道』の冒頭に書かれた,「博愛之謂仁」(博く愛する,之を仁という)から来ています.

 佐野常民等の願出書は,国恩に報いる為,「海陸軍医長官ノ指揮ヲ奉」じて,政府軍や薩摩軍(暴徒)の区別無く負傷者を救護したいとの願い出を延べ,敵兵は「大義ヲ誤リ王師ニ敵スト雖モ亦皇国ノ人民タリ,皇家ノ赤子タリ,負傷坐シテ死ヲ待ツ者モ捨テ顧ミサルハ人情ノ忍ビサル所」と書いて,救護の必要性を国家,皇室の関係と,人情という東洋的文脈から説明し,更に欧米文明の国は戦争ある毎に彼是の別なく救済を為す事甚だ勤むるの慣習である,つまり,文明国の慣習として問うたものでした.

 しかし,この願出書は一旦4月23日に却下となります.
 薩摩軍との激戦中は,敵を憎みこそすれ,救護するという措置が往々に後回しにされがちだったからであり,又,戦地から遠く離れたところにいる軍上層部にとっては,政府軍の衛生部隊が機能しているという自負があった上に,民間救護員の派遣は,戦地で混乱を招く可能性がある事,更に,赤十字活動は内戦にまで及ぶのか分らない(実際,1864年の5人委員会で内戦については活動対象としないと決めていましたが,1871年のパリ・コミューンに直面して方針転換し,1872年にスペインで勃発した第2次カルロス党員の内戦で初めて内戦時の救護活動を行っています.但し,この情報は日本に未だ伝わっていなかったようです)事,最後に,結社の志は良き事としながらも,こうした活動は平時から準備せねば実現しがたいと言うのが理由でした.

 そこで,実際には岩倉右大臣の示唆もあったと思われますが,佐野は戦地の九州は熊本に赴き,征討総督有栖川宮熾仁親王に直談判をする事になりました.
 実際に前線に赴き,戦場の惨状をよく知っていた有栖川宮はその直訴に耳を傾け,5月3日に有栖川宮総督から正式に設立許可が下りて,これは三条実美太政大臣にも通知され,此処に博愛社の活動が始まる事になります.

 因みに,博愛社の標章は,現在の赤十字は使えないので,「朱色の丸に横一文字」を使用することになります.
 余談ながら,この佐野の願い出に賛意を示し,有栖川宮への取次を行ったのは,参軍の山県有朋であり,高級参謀の小沢武雄でした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/05/21 23:51

 1887年5月20日,西南戦争を機に誕生した博愛社は日本赤十字社へと改称しました.
 社則の第1条では,「戦時の傷病者を救護愛護し力めてその苦患を軽減する」とされ,更に第2条には「本社は皇帝陛下,皇后陛下の至貴至尊なる保護を受くるものとす」として,天皇皇后両陛下の保護が明示されました.
 更に,第6条には皇族を総裁とする事,社長・副社長は勅許を得て上任,特に監督官を付される事となりました.
 因みに,博愛社の初代総裁には,西南戦争で熊本の前線で鎮圧軍の指揮を執った有栖川宮親王が就任しています.

 天皇皇后両陛下も,以前から博愛社の活動に賛意を示され,創立当初から財政援助を行ってきましたし,日本赤十字社設立直後にも,年額5,000円が支給され,翌年6月には資本として10万円が下賜されました.

 またその前年には,軍隊の負傷者を救護する看護人養成と,戦時に於ける負傷者の予備病院,更に民間の患者治療と看護人の実地研修の為に,博愛社病院を設立する事になりますが,その病院の開所式には皇后陛下自らが行啓され,1888年10月には特旨を以て病院建築・付属品調製費として8万円,1890年には更に2万円を増賜し,更に南豊島御料地内15,000坪を拝借する特許を与えました.
 その土地を得て,1891年5月に病院は南豊島に移転し,病院維持費として10年に亘って年額5,000円が下賜される事となります.

 こうした皇室の後ろ盾を得た事で,社業は発展し,社員は1894年までに45,317人を数える事になりました.
 そう言えば,うちの曾祖父は医者ですから元より,祖父も日赤の社員となっていましたっけ.

 この様な皇室の保護が必要になったのは,オスマーン帝国と同じく,その標章に問題があったからです.
 元々はキリスト教的含意でもある「十字」と言うものに対する忌避感が,日本でも暫く見られました.

 1865年に加盟したオスマーン帝国の場合は結局,1876年に勃発した露土戦争に際して,敵軍の傷病兵輸送車両や移動野戦病院の保護標章として「赤十字」を尊重するものの,自国の保護標章にはコーランでの聖なるシンボルであり,オスマーン帝国旗のエンブレムでもあった新月を赤く染めた「赤新月」に変更しました.
 その理由は,赤十字の標章がムスリムの兵士に敵意を抱かせ,トルコが条約下で享受すべき権利の行使を妨げてきた為でした.

 日本も非キリスト教国ですし,しかもつい数十年前まではキリスト教を禁止し,迫害してきた国です.
 既に,1871年に当時軍医頭だった松本良順が陸軍衛生部の記章として,「白地に赤十字」を用いる事を定義しましたが,太政官は,「十文字は耶蘇教に原因せりとて,痛く之を忌みて用いる事を禁止した」という経緯がありました.
 仕方なしに,松本は白地に「朱色の横一文字」を衛生部記章にしたのですが,これはいずれ日本がジュネーブ条約に加盟した暁には「赤十字」なるのであろうから,その際には赤の縦線を加えればよいと言う理由からだったそうです.

 そして,1887年,日本は漸くジュネーヴ条約への加盟を承認されました.
 これによって,赤十字が標章として採用される事になったのですが,明治になって20年経っても,「宗教上の疑惑」とか「西洋崇拝との嘲り」が国民の間に生じました.
 既に,博愛社時代の1879年には平山省齋や島地黙雷の様な神道・仏教界の重鎮を議員として選出していたのですが,日赤に改称した後は,総裁の小松宮彰仁親王が東西本願寺門主に親書や諭告書を送り,京都支部の社員総会で,社長になっていた佐野が両本願寺の指導的僧侶を招いて懇切に話し合う事で,段々と改称されていく事になりました.

 こうした動きには皇室,特に皇后陛下からの援護射撃も効果的でした.
 日赤改称後間もない時期に,佐野が報告の為,皇后陛下に謁見したときのこと,日赤の社章をどうすれば良いかと,相談したところ,皇后陛下は自分の髪に挿していた簪を示して,これに彫りつけてある模様の桐竹鳳凰を使えば良かろうと助言したと言われています.
 現在でも,この社章は日赤の社章として連綿と受け継がれていますが,これには皇室の伝統が欧州キリスト教国起源の事業を受容し,保護したと言う連想を人々に与えるだけでなく,桐竹鳳凰に赤十字をあしらった社章は,東西の伝統を調和する姿であると,人々にイメージを植え付ける事に成功したのです.

 因みに皇后陛下は,西南戦争に際しては皇太后と共に,女官を促して「綿撒糸」と呼ばれる綿布の糸を解して薬液に浸して傷口に用いた,所謂西洋で言うガーゼを作って慰問品として他の慰問品として負傷兵に送ったりしています.
 また,明治時代の皇后陛下の行啓は,天皇陛下の送迎や皇太后訪問を除けば,最も多いのが日赤,展覧会・催事,学校,病院であり,天皇行幸が無く皇后陛下のみの場合は,日赤,病院,慈善の順でした.

 ところで,西洋では戦争に際しての国家の補助機関としての位置づけで誕生した赤十字ですが,日本に於いては独自の発展を遂げていきます.
 特に皇后陛下が熱心に取り組んだのを受けて赤十字が発展してきたのは,病院事業や災害援助などの所謂平時の救護活動でした.

 日赤設立後の1888年7月には福島県磐梯山噴火が起きましたが,この災害救護活動への出動は,世界で最初の事例として記録されています.
 また,1890年9月に起きたトルコの軍艦エルトゥール号の遭難にも赤十字が出動しましたし,10月に起きた濃尾大地震に於いても災害救護に活動しています.
 戦争だけに備えるというのでは,「凶事を予めする,これ不詳なり」と批判されましたが,本社を東京に置き,全国に必要に応じて地方支部や委員部を設け,知事に支部長や委員長を嘱託する制度は,地方にも深く根を下ろすことが出来,何か地方で災害が発生した場合の初動体制を素早く取れる事になります.
 その代わり,各地方で災害が起きれば,日赤はこれに呼応して対応する必要があると言う訳です.

 また,PR活動も他国に比べれば熱心でした.
 1890年に陸軍軍医総監を務めていた石黒忠悳は,ガラス板のスライド24枚に,ナイチンゲールやデュナンの事績,赤十字条約の成立,戦傷病兵の惨状,台湾に於ける日本軍や皇室の保護,博愛社の事業,日赤の沿革,海外での戦争に於ける赤十字の活動,更に御真影を描いた「赤十字幻灯(石黒幻灯)」と言うのを自費製作し,各地で幻灯上映会を催しました.

 1891年6月,石黒が大阪に出張した際,京都・大阪各支部の社員総会や職員協議会で初めて,この幻灯を初上映したところ,「大いに聴衆の感情を惹起せしめた」効果があり,7月14日には芝離宮で,佐野社長や花房副社長,それに皇后陛下と皇太子殿下(後の大正天皇)の前で,石黒自ら夫人と共に幻灯上映会を開催し,皇后陛下はこれを大層喜んだと言います.
 以後,この赤十字幻灯は,東京を皮切りに国内各地で頻繁に上映され,社業拡張に大きな力になると共に,1892年にローマで開かれた第5回赤十字国際総会の席上で,シーボルトが赤十字思想の普及の為に効果を発揮するとしてこれを紹介したので,一躍世界的にも有名になっています.

 当初,石黒は自ら赤十字幻灯を上映して歩いたのですが,1893年にその普及の為,赤十字幻灯解説書を作成していると言う熱の入れようでした.
 その後,日清戦争を経てこの幻灯は改訂され,海外の戦争事例に変えて,日清戦争での日赤の戦時救護の実績を盛り込むようになり,上下段で4時間に亘る大作になっています.

 この幻灯は,日露戦争後に普及し始めた映画にとって変わられましたが,日本全国は元より,上海や満州,朝鮮半島にも渡って上映され,多くの人がこれに触れたと言われます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/05/24 23:34


 【質問】
 日清戦争における日本赤十字の活動について教えられたし.

 【回答】
 日本赤十字の初陣は,1894年の日清戦争です.
 その開戦の際,明治天皇は宣戦の詔勅の中で特に一節を割いて,国際法の遵守を命じる言葉を入れています.
 これを受けて,大山陸相も開戦直後にジュネーヴ条約遵守の訓示を行い,その訓示は印刷されて全将兵に配布されています.
 また,大山陸相は,8月6日にも出征する各師団長に対し,同様の訓示を下達しています.
 後年の陸軍とは偉い違いです.

 ところが,これには問題がありました.
 と言うのも,清国も韓国も当時ジュネーヴ条約の締約国ではなかったからです.
 つまり,日本は一方的にジュネーヴ条約を遵守し,清国側に残虐行為があっても報復を禁じているのです.

 日本赤十字は開戦直前の7月13日に,政府に対して,両国との間に傷病者の安全を保証する条約を予め締結しておく様に提言しましたし,赤十字国際委員会も8月4日に清国がジュネーヴ条約を適用するか否かの調査,報告を日本赤十字に求めています.

 しかし陸軍内部で検討した結果,今回の戦争で日清間にジュネーヴ条約の適用は困難であるとの結論に至りました.
 その理由としては,
第1に清国陸軍の編成は極めて不完全であり,将兵は上官の命令に従わないので,政府が例え条約を遵守する意思があったとしても,部下将兵はその意思を実現すべく行動しない事,
第2に,清国陸軍には野戦衛生部隊が全く整備されておらず,衛生部員も殆ど存在しない,その上,医療技術が未発達なので,例え両国が同条約の適用に合意したとしても,日本側は清国負傷兵の救護が完全に行えるのに対し,清国側は日本兵を適当な治療を受けさせる事が出来ないと言うものでした.

 この検討の結果を受け,陸軍は8月28日に片務的な義務を果たさざるを得ないと赤十字国際委員会に通知しています.

 時に,日本陸軍と日本赤十字の関係ですが,日本赤十字は,赤十字の本来の目的としての戦時救護を行う事から,日本赤十字社社則で戦時の事業として,軍医部に附随してこれを幇助して傷病者の救護に尽力する事を規定しています.
 その為に,宮内省,陸海軍省の監督を受けるものとし,監督官として陸軍省から医務局長を任命しています.

 逆に,陸軍側は1894年6月10日に示達された「戦時衛生勤務令」にて,日本赤十字社を位置づけています.
 先ず,敵の傷者病者については,第6条でジュネーヴ条約の趣旨に依り保護を加えるべきであるとしています.
 そして,救護員については,第11篇「日本赤十字社救護員篤志者ノ寄贈品」第1章「日本赤十字社救護員」に以下の様に定めています.

――――――
第327条
 日本赤十字社救護員ノ派遣ハ陸軍大臣之ヲ命ス其必要ノ人員ハ野戦衛生長官又ハ陸軍省医務局長之ヲ定メ野戦衛生長官ハ兵站総監ニ,医務局長ハ直ニ陸軍大臣ニ具申スルモノトス.

第328条
 派遣セラレタル救護員ハ兵站総監部,兵站監部,留守師団司令部,要塞司令部,対馬警備隊司令部又ハ運輸通信官衙ノ管理ニ属シ其勤務ニ関シテハ野戦衛生長官,当該軍医部長及各所属長ノ指揮命令ヲ受クルモノトス

第330条
 救護員ハ陸軍ノ紀律ヲ遵奉シ命令ニ服従スヘキ義務ヲ負フモノトス
――――――

 陸軍の衛生機関は,戦時衛生勤務令では,戦地では前線から順に,繃帯所(又は仮繃帯所)→野戦病院→兵站病院が開設され,内地には予備病院が置かれました.
 此の内,救護員を使用出来るのは,兵站病院(143条),予備病院(257条),兵站管区内(128条),要塞病院(233条)の他,患者の陸路輸送(178条)及び鉄道輸送(182条)並びに病院船勤務(211条)に限られ,危険の伴う前線勤務はありませんでした.
 特に233条では,「救護員ハ戦線ノ勤務ニ使用スルコトヲ得ス」とわざわざ規定しています.

 この戦時衛生勤務令の他,それを補足する意味で,1894年11月30日に野戦衛生長官が隷下衛生部隊に発した,16項目に亘る「陸軍ノ編成ニ対スル本社事業ノ地位ニ関スル訓令」があります.
 この訓令では,第1項にて日赤の目的を,「軍衙ノ衛生官ノ指揮ヲ受ケ戦時ニ彼我ノ患者ヲ救療シ其苦ヲ軽減スル」とし,その為に,第2項にて「軍衙ノ衛生官ハ此赤十字事業ヲシテ可成其目的ヲ達セシムルコトヲ幇助」しなければならないと規定しています.
 但し,日赤タン特の救護活動を許さず,その救護員を陸軍の編成に組み入れ,陸軍衛生勤務に附随するものと位置づけています.

 更に,1つの分院を日赤に委託する場合でも陸軍軍医を付して監督する事(第9項)や,看護婦使用上の注意(第12項),患者の被服,食物,滋養品は日赤自弁のものであっても,陸軍規定の数量を超えてはならない事(第14項),救護員が病院の一部を担当する場合,患者の被服,薬剤はなるべく官給品を使用する(第15項),救護員も陸軍軍医も患者を平等に扱う様注意する事(第16項)など詳細に規定しています.

 さて,日清関係が緊迫し,戦争が不可避な状況になってくると,日赤は6月19日,救護員の派遣を陸海軍大臣に出願しました.
 これに対し,8月1日,大山陸相は「広島陸軍予備病院ヘ派遣ノ上救護ニ従事候儀差支無之」と出願を認許しました.
 更に8月13日には,救護員の戦地派遣を陸相に出願し,28日に認許を得ました.
 即日,恤兵監大蔵平三中佐より,戦地での救護活動について,
(1)救護員の業務は戦時衛生勤務令による事,
(2)救護員は朝鮮到着後,第1軍医部長の管理に属し,同官の指揮を受ける事,
(3)救護員は中立の徽章を帯び,社長よりその交付番号及び族籍氏名を記載した名簿を恤兵監に届け出る事,
(4)救護員には陸軍が糧食を支給し寝具を貸与すると共に,相当の宿舎及び業務執行の為に必要な病舎等を貸し付ける事
などが指示されました.

 こうして,9月2日には第1救護員41名を東京発,広島経由で朝鮮に派遣します.
 この後,野戦衛生長官の命令により,10月19日に第2救護員40名,12月25日には第3救護員38名が東京を出発していきました.

 第1救護員は9月12日に仁川上陸後,現地陸軍当局と折衝した結果,16日に仁川に「日本赤十字社戦時第1病院」を開設し,翌日から治療を開始しました.
 その後,前進する第1軍に随伴して平壌,南浦,義州,龍川,牙山に於いても救護を実施しましたが,日本人だけでなく現地人も救護を行っています.
 又,日本赤十字社戦時第一病院には捕虜患者もおり,9月25日に1名の救護を報告し,翌日に彼は他の日本人患者32名と共に広島に後送されています.

 9月20日,開城の石坂惟寛兵站軍医部長より,平壌での戦闘が激しく,傷者が多く出たので,平壌に進出すべしとの命令を受け,10月11日に第1救護員は仁川を出発して,17日に「平壌日本赤十字社戦時第一病院」を開設しました.
 この病院はその後,平壌兵站病院に統合され,更に平壌患者集合所となって,延べ13,916名を治療(内,日赤救護数は3,339名)しますが,意外に捕虜患者は11月に2名,12月に1名のみでした.
 第1軍第5師団の菊池忠篤軍医部長は,収容者が結局百数十名に留まった事について,軽傷者は逃走して,自力歩行不可能な重傷者のみ収容した為,こうした数になったとの報告を寄せています.

 第1救護員に続き,第2救護員が10月28日に仁川に上陸して第2軍の指揮下に入り,大同江河口の漁隠洞を皮切りに耳湖浦,柳樹屯,旅順口,金州での救護活動を実施しました.
 因みに,第2軍軍医部長は例の森林太郎(森鴎外)です.
 12月16日,森軍医部長の命により,清国盛京省大連にある柳樹屯に柳樹屯兵站病院第1分院が開設されました.
 此処で救護したのは,日本軍将兵と軍夫の他,和尚島中央砲台,西砲台の捕虜患者26名,それ以降の9名が収容されています.

 こちらも,第2軍全体としては敵負傷者の収容も少なかったりします.
 この点について,第2軍国際法顧問として従軍した有賀長雄は,第2軍が経験した3つの大規模な戦闘で敵は5,000名の戦死者を出しているのだから,負傷者は1万名いたと推定されるが,収容したのは僅かに66名に過ぎないとし,野戦衛生部員がその収容を行わずに戦場に遺棄した事が疑われ,必ずしもジュネーヴ条約の精神を十分に遵奉したと言う訳ではないと批評しています.

 因みに,大本営野戦衛生長官部の分析はこれとは異なり,戦闘後,大多数の負傷兵は日本軍に危害を加えられる事を恐れて遁走し,重傷者も激しく抵抗したので言葉が通じない衛生部員は救護が十分に行えなかった上,負傷兵は敵兵によって巧みに運び去って,戦場に遺棄する事が少なかったとしています.

 この第1軍と第2軍が収容した敵傷病者は負傷者315名,病者894名で,此の内前者は50名,後者は77名死亡しています.
 一見,死亡率が多い様に見えますが,当時は衛生概念が殆ど無く,伝染病による死者が多かったのと,負傷者は重傷にも関わらず,初期に適切な治療を受けられなかったからと考えられています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/05/26 22:55

 日清戦争時,広島に赴いた日赤救護員は,後期には広島陸軍予備病院第1分院で活動する事になります.
 当時の病院は,現在の様にビル形式ではなく,兵舎形式の建物でした.
 第1分院は,幅7.2m,長さ45mの1棟作りの仮病舎25棟からなっており,第1救護員は外科病室9~11号と内科病室13,14号の5棟,第3救護員は外科病室7,8号と内科病室16~18号の5棟を担当し,それぞれ各棟には医員1名が分担する事になっていました.

 医員の出勤は原則午前8時,退勤は午後5時で,救護員は輪番で1名ずつ宿直に当っていました.
 看護婦も原則勤務時間は医員と同じでしたが,夜間宿直は1棟4名で,半夜交代で2名ずつ徹夜看護に従事しました.
 看護婦の勤務形態は陸軍と同一で,最重症患者1名には看護婦1名,重症2名に1名,軽症20名に3名という体制でした.

 第1分院開設当初は,既に移転患者で満杯の状態であったにも関わらず,平壌から傷病者20名が入院し,当時第1救護員しかいない状態では,救護員達はフル回転しなければなりませんでした.
 幸いにして,翌日に日赤広島支部から15名の看護婦が増員され,更に陸軍も看護人を追加したので乗り切る事が出来ました.
 しかし,その後も患者の増加は続き,1894年10月22日には,遠江丸が入港して300名の傷病者が到着しました.
 これにより,第1分院には100名が入院し,920床の病棟は再び一杯になりました.
 この時,医員にとって驚いた事に,予備病院の院長の方針は,当院での手術は行わず,手術を要する傷者もそのまま後送すると言うものでした.
 この方針に対し,医員達の落胆はかなりのものがあったと言います.

 一方,看護婦の活動に対しては,広島陸軍予備病院は,その治療,看護技術と使命感に対して高い評価をしています.
 また,一般の民衆も,当初は看護婦の服装を,「白衣の観音」と言って揶揄する向きもありましたが,小松宮妃殿下,北白川宮妃殿下を始めとする篤志看護婦人会員が一様に白衣を着用しているのを目の当たりにして,次第に看護は賤業に非ずということを悟ったと言います.
 更に,マスコミも繰り返し彼女たちの賞賛を行ったのも,多大な影響を及ぼしました.
 勿論,彼女たちも使命感を持って実践に臨んだ事も言うまでもありません.

 こうした報道もあり,広島では,
「世の婦女子をして,国家有事の秋に於いて努むるべきは,看病の事なりとの感想を惹起せしめたると同時に,看護学の必要を感じせしめたる事なるが…」
と,若い女性が日本の行う「正義の戦争」に参加出来る誉れ高い職業として看護婦が認知され,その養成が学校教育の中に広がっていく様子がうかがえます.
 また,自立出来る女性の職業として定着していく様になりました.

 一方で,看護婦のイメージとして,看護の専門性や技術以上に,国の方針や軍人,医師に従順で品行方正な上,自己犠牲を厭わないと言う側面が強調され,当初意図された,「報国恤兵」「博愛慈善」のうち,前者に偏りすぎた看護婦が出来上がったと言え,更に,この側面が強調されすぎて,戦争という事象に疑問を感じたり,医師と異なった視点から看護を目指す看護婦が,生まれにくい風土が出来上がってしまった事は否めません.

 今も昔も,マスコミの出す美談と言うのは余程注意してみなければならない様です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/06/02 22:44


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