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◆日清戦争 Első kínai–japán háború
戦史FAQ目次


 【link】

「神保町系オタオタ日記」■ (2006-07-07)[図書館] 東大図書館のもう一つの分捕り品
 日清戦争の戦利図書

『蹇蹇録(けんけんろく)』(陸奥宗光著,岩波書店,1983/7/18; 新訂版)

 著者は日清戦争時の外務大臣.
 坂本竜馬の仲間の一人でもある.
「1941年,ハル・ノートをつきつけられた日本には,もはや開戦の道しか残されていなかった」
 そう安易に語られることが多いが,それは半分以上いいわけに過ぎないということを気付かせてくれる書.
 本書を読んでいると,「松岡があんなにアホじゃなければ」とか,「近衛がもうちょっとしっかりしていれば」とか,いろいろと考えさせられる.
 日本の近代史を考える上で必読の書.

------------軍事板,2001/02/16(金)

『日本統治時代台湾の経済と社会』(松田吉郎編著,晃洋書房,2012/11)

『李鴻章 東アジアの近代』(岡本隆司著,岩波新書,2011.11)


 【質問】
 日清日露戦争を知るためにオススメの書籍はありますでしょうか?
 検索してもなかなかヒットしなかったので,良書を教えていただけると嬉しいです.

 【回答】
 日清日露戦争は,「坂の上の雲」を参考資料にしちゃったような本が結構あるから,タイトルだけから探すのはちょっと危ない.
 日露戦争については,児島襄の「日露戦争」が基本だと思うが,文庫本8冊なんで,最初としてはちと長いか.

 もっと深く読むなら,大江志乃夫が大御所かな.
 「日露戦争の軍事史的研究」とか.
 新しい本だと,軍事史学会が書いた論文集「日露戦争」シリーズが錦正社から出てる.
 山田朗「世界史の中の日露戦争」も悪くはない.

 最近の坂の上の雲ブームで新しい本が出てるようだが,その中に新書一冊で流れがわかるような本って,ないかな?

 日清戦争については,ちと古い本ではあるが藤村道生『日清戦争』(岩波新書)を推しておく.
 外交史の面では手堅い本かと.

 それ以上突っ込んでいくなら,上の3冊やWikipediaに出てくる参考文献から当たっていくといい.

軍事板,2009/12/05(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日清日露戦争がまとめて読める良書をご存知でしたら教えて下さい.
 岩波新書の日清日露戦争は読みました.

 【回答】
 残念ながら計3冊になりますが…
 旧参謀本部編纂の原典を現代語に抄訳したものが,徳間文庫から出ています.

「日本の戦史 日清戦争」
「日本の戦史 日露戦争(上下)」

 多分,一番専門的ながらコンパクトに纏まったものではないかと…

 あとは学研から日露戦争のムックが数冊出てますが,オレンジ本は全般概要や人物,黒本は作戦や兵器を中心にしてますので,購入時はなにが知りたいかで選別すると吉.

Lans ◆xHvvunznRc in 軍事板,2009/09/25(金)
青文字:加筆改修部分



 【反論】
 参謀本部の奴は無味乾燥な記述でおもしろくないぞ.
 俺だけじゃなくて天下の司馬遼太郎も,「関係各位に配慮した結果,退屈なものになった」といってる(笑)
 日露戦争なら学研のムックでいいんじゃないかなあ.

 【再反論】
 公刊戦史は娯楽読み物ではありません.
 面白い面白くない,読みやすい読みにくいではなく,戦争の経緯,背景,作戦,兵站,戦術,編制,各種数値資料全般の記録.
 そこが重要.
 原典が入手できれば一番ですが,それは厳しいですからね.

 日露の上巻なんて「ロシア軍の動員と後方の状況」などという,ロシア側兵站の記述や資料もあります.

 さて,この一言で読みたくなった人,手あげて~(笑)
(最近,簡単スレROMってる人はこれ読んで,ソ連との違いを考察するのも一興かと(笑))

Lans ◆xHvvunznRc in 軍事板,2009/09/25(金)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日清戦争を詳しく書いた本はないですか?
 戦闘が中心で,忠勇美談なんかも紹介してる本を探してます.

 【回答】
「日本の戦史 日清戦争」(旧参謀本部)徳間文庫

 旧軍参謀本部の編纂した「日清戦争」(全8巻)を,抜粋再編集したもの.
 巻頭には当時の国内外の政治情勢の概説も追加されていますが,本編は参謀本部編纂がゆえに,戦闘戦史に特化してます.
 また,巻末には両軍の編成・動員,後方兵站にたいする記事や,当時の海外特派員の書いた,海外からみた日清戦争の記事抄訳もあり.

 文庫なので,手軽に読めるあたりも吉.

 なお,同シリーズには「日露戦争(上下)」もあります.
(同じく旧参謀本部編纂戦史からの編集)

Lans ◆xHvvunznRc :軍事板,2011/12/31(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 「西太后が清朝を滅ぼした」という言い方は正しいの?

 【回答】
 最近の中国史研究では,従来語られてきたような西太后の悪事とされてきたことの多くが,根拠の無い流言であったとこが明らかになってきており,むしろ西太后の存在が当時の清朝の安定装置となっていたことが注目されてきている.
 これは日本だけの話ではない.
 この再評価は海外で始まっており,そして大陸中国の学会※でも西太后の再評価が起こっている.
 ちなみに袁世凱の再評価も,1970年代初めから始まっている.

 西太后の悪評は,彼女と対立した変法派が流したプロパガンダや,海外の新聞で取り上げられたものが,あたかも史実のように取り扱われてきたのが多い.
 西太后の具体的な政治過程への対応は,史料の問題から永らく分からないことが多かったが,80年代以降の原文書(档案史料)の公開により,ようやくその姿が見えはじめてきているという所である.

 西太后の功罪としては,以下のことがあげられるだろう.
功績
 ・19世紀最大の内戦の1つである太平天国戦争(戦死者5000万人)を鎮圧し,アロー号戦争や打ち続いた内戦や経済危機で屋台骨の傾いだ清朝を再建することに成功
 ・国内勢力の調停者として内政を安定させつつ,近代化政策である洋務運動の推進者たちの後援者となった.
 ・従来,政権中央から排除されていた漢人官僚の勢力を取り入れることで,国内政治の活性化に成功.
 ・義和団戦争後,抜本的近代化政策である「新政」を実施,これは現代中国の各種制度の基本となる画期的なものであった.
 彼女の統治が40年清朝の寿命を延ばしたと,いう指摘もある.


 ・バランサーであるがゆえに,なかなか抜本的な改革が出来なかった.清朝の旧態依然とした構造が保持されることになる.
 これは,宮廷内で排外勢力が台頭した際に,八カ国に宣戦布告することを止めることが出来なかったことにも繋がる.
 ・皇太后が政治を取るという非常事態を恒常化させてしまったこと,
 そのため,政治系統が複雑化し,彼女自身は引退したかったにも関わらず,自身の存在が不可欠になってしまい,死後の混迷の原因をつくった.

 ただし抜本的な近代化は,清朝が清朝でなくなる危険性のあるものだった.
 結果として,20世紀初めに実施された「新政」は,ソ連のペレストロイカと同じく,政権の屋台骨を崩してしまった.
 すなわち,清朝の最後の10年間に行われた,明治維新をモデルとした改革運動である「新政」により,中央への権力回収はかなりのレベルまで進展していた.
 後に皇帝を称する袁世凱は,改革の最大の推進者であった.
 しかし皮肉なことに,地方政府の力を弱めるという改革の成功のため,地方で発生した革命を抑えることができなくなってしまった.
 それが辛亥革命による清朝政府の瓦解へとつながることになる.

 この時代は,20世紀で最も日中関係が良好な時代であり,多くの軍人・学者達が日本に留学して教育を受けることになるが,日本をよく知る将校たちが,後に同窓の日本軍人と戦うことになるのも,皮肉で悲劇的なことである

 西太后観の変化について,日本語で読めるものとしては
スターリング・シーグレーブ著『ドラゴン・レディ』(サイマル出版,1994年)
加藤徹著『西太后』(中公新書,2005年)
等がある.
 西太后の評価は,今後の研究の進展により,さらに変化するものと思われる.

 ※中国の学会
 中華人民共和国では後久しく,革命の正当化が歴史学の最大の目的であり続けました
 しかし80~90年代以降,「政治的に許された範囲」では,かなり自由に議論が出来るようになってきております.
 西太后再評価はこの流れから出てきたものです.
 ただし,研究者の間では西太后再評価について語ることはタブーでは有りませんが,公の場所で語ることには一定のリスクが伴います.
 一昨年放映された歴史ドラマ「走向共和」で,新説に基づき,西太后や袁世凱を新しい角度から描いた所,共産党からのクレームがつき,DVDが一版で絶版になってしまったことがありました

(軍事板)



 【質問】
 では,北洋艦隊の予算を西太后が食い潰したというのも,眉唾?

 【回答】
 西太后の悪徳で最も大きく取り上げられることの多い海軍経費流用についても,再検討の対象になっております
 流用自体は実際にあったことですが,従来は西太后の個人的欲望という(史料的裏づけの乏しい)要因に帰結させておりました.
 これは日清戦争という,清朝にとっての不の転換点となった敗戦の責任を,一人の「悪女」に負わせてしまおうという,後世の観点がありました.

 しかし,そのような議論自体に無理があったというのが再検討のきっかけです.
 その結果,当時の清朝の有する根本的な構造問題が背景にあったことが分かってきました
 この再検討はまだ結論が出ていない,現在進行形の状態ですが,そのなかからいくつかのポイントとなる観点を(記憶モードで)抽出してみます

 ・当時の清朝の財政は国税と地方税,各省庁間の税収の区分があまり無く,もともと各役人の権限の及ぶ所からの流用が構造上存在した
 ・西太后批判派の観点には,北洋海軍の最大の後援者であったのは西太后であったという事実が抜け落ちて いる.彼女の後援が無ければ北洋海軍自体が作られなかった.
 ・西太后は対外的には平和外交を指向する性格であり,海軍力をあまりに強くすることで国内の主戦派の強硬論が強くなるのを,抑える意図があった(これは史料的裏づけがまだ弱い論です).
 ・清朝の軍隊は統一的編成になっておらず,各部隊を統括する官庁,地方官にゆだねられ,軍事力が各派の政治権力にもなっていた.
 このような構造では,李鴻章の北洋海軍だけを特別に強化することは出来なかった.
 ・海軍の艦艇を購入することは,貴重な銀を国外に流出させることであり,国内の庭園修築に使用することにより内需拡大に繋がった.
 そしてそれは,政権の安定を国民に印象付ける政策でもあった(首都の庭園が丸焼けのままでは,政権の権威に関わる)

 これらの研究が進展することで,北洋艦隊予算流用についても従来の見方に修正が迫られております.

軍事板

砲艦鎮辺
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 明治日本が朝鮮進出を指向したのは何故か?

 【回答】
 対ロシア戦略のため.

 明治政府の指導者達は,大国ロシアは必ずや中国東北部(「満州」)を侵略し,朝鮮半島にも進出する,そうなれば日本の独立も危ういとの危機感を持った.
 そして,ロシアの南下に備えて日本の「主権線」(国境線)を守るためには,ロシアが「満州」を占領して朝鮮半島に出てくる前に,先手を打って日本が朝鮮半島を「利益線」(勢力圏)として確保する,という「過剰防衛」=積極膨張戦略を採ったのである.

 「主権線」を守るためには,その外側にある「利益線」を確保防衛しなければならぬ,というこの戦略論は,山形有朋などの明治国家指導者に共通に見られるものである.
 1871年(明治4年)12月,当時,兵部大輔(ひょうぶたいふ,後の次官)であった山形は,兵部少輔の川村純義・西郷従道と共に「軍備意見書」を政府に提出,
「外に備ふるの目途(もくと)既に立ち措置其宜(そのよろし)きを得は内事は憂ふるに足らす」
と,このとき早くも外向きの軍隊建設を主張している(大山梓編「山形有朋意見書」p.43-46).

(山田朗「軍備拡張の近代史」,吉川弘文館,p.12,抜粋要約)


▼ 【質問】
 日露戦争の時って韓国って何やってたの?
 日清戦争の時,韓国って何やってたの?▲

 【回答】
 そのときの皇帝と,皇帝の嫁の兄と,先の皇帝(父親)が権力争いしていてぐちゃぐちゃ.
 しかも全員宴会大好きで,深夜まで飲みに飲んで国政はほったらかし.
 でもって家臣や官僚たちは,3派の権力争いに乗じて好き勝手し放題で,侵略とかにはあんまり目が向かなかったのよ.
 本人たちはそれぞれ清とロシアと日本を手玉にとって互いに牽制させて,あわよくば私利をむさぼろうとしてるつもりだったんだけどね.

 マジな話,幕末の日本はこのときの韓国とほぼ同じ状況だったんだが,英米露の侵略の危機に気がついたとたんに,必死に対策を始めた.
 路線闘争でテロなんかはあったが,為政者が真の危機に立ち向かったのが日本,無視してたのが韓国で,その辺が侵略国(当時の有力国はみな侵略政策を国是としている)になれたか,植民地に堕ちてしまうかの分かれ道だったと思う.

軍事板,2009/06/19(金)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 明治維新後,対露対策として朝鮮半島の確保,ひいては日清戦争へ向けて軍隊を必死になって作った的な本は,色々読んだみた(つもり)なのですが,大抵三景艦やら吉野やらの海軍関連(と言うよりお船関連)の本ばっかりで,陸軍の動向とか陸海軍首脳部の戦略会議だとか元勲の動向とか,そういうのがあんまり見当たらなくて…
 何かいい本とかはありますでしょうか?
 日清戦争そのものではなくて,その準備とかを知りたくて.
 動員とか.

 私の見る目が無いだけかもですが(´・ω・`)

 【回答】
 斎藤聖二『日清戦争の軍事戦略』(芙蓉書房 2003年)とかどうでせう.
 ちゃんと読んではないから内容はよう分からんが,『寺内正毅文書』を基本史料にして,戦争の後方支援を論じた本の様だ.
 目次を見てみると,
第1章 戦争の準備過程/第2章 開戦と派兵/第3章 朝鮮半島での電信線強行架設
第4章 兵員輸送の展開/第5章 遼東半島作戦から山東半島作戦へ
第6章 直隷決戦の準備と講和/第7章 戦後の軍拡案
第8章 寺内正毅のヨーロッパ軍事視察―日露戦争をにらんで
となっているから,君の求めるものに合っているんじゃないかなぁ?

 斎藤先生は
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E8%81%96%E4%BA%8C
のプロフィールが示す通り,この分野が専門の方なので,記述の信頼性はもちろん,最新の研究成果を知るという点でも価値はあると思う.

 または,原剛『明治期国土防衛史』(錦正社,2002年)
 陸海軍の創設から日露戦争までの変遷なんだが,かなりの部分が要塞に割かれている.
 題名の通り,ほとんどが日本国内の動向であって,日清戦争中の半島大陸の事は書かれていないのであしからず.

 あるいは,田村怡与造や小川又次あたりについての伝記を読むと,多少は出てきそうだね.

軍事板,2009/07/29(水)
青文字:加筆改修部分

「日清戦争」旧参謀本部編纂(徳間文庫)

 旧軍の参謀本部が編纂した日清戦争(全8巻)をベースに再構成したものです.
 手軽ながら内容は濃いですし,資料類も充実してます.
(日清両軍の動員・編成・兵站に関する章もあります)

Lans ◆xHvvunznRc in 軍事板,2009/07/30(木)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日清・日露当時の日本の電信事情は?

 【回答】
 さて,1882年の敗戦については先述しましたが,1883年に日本は朝鮮への経済進出の足がかりとして,3月に朝鮮政府に対し,「日朝両国政府間海底線設置に関する条款」を締結し,釜山陸揚と釜山日本電信局設置を承認させ,これに25年の独占権を付与させました.
 まぁ,大北電信にされたことをそっくりそのまま朝鮮にしただけですが….

 一方,大北電信は,長崎~上海,長崎~ウラジオストクの第2海底ケーブルを敷設し,10月に開通させました.
 そして,11月には呼子~壱岐~対馬~釜山の海底ケーブルが敷設されます.
 日本側は呼子~長崎を陸上電線で結びましたが,壱岐と対馬と本土は日本の領土で日本人の居住地ですから,この海底ケーブルは日本の通信線も兼ねていることになります.

 1884年2月には釜山に条款通り日本人が常駐する電信局が建設されて海外初の日本局が誕生しました.
 この電信局では和文電報も扱う事になっており,外国和文電報制度がこれにより作られることになります.

 これに対し,宗主国を自認する清国は朝鮮での日本の闊歩を赦しませんでした.
 1884年,漢城~仁川~義州までの電信線を強引に朝鮮政府に認めさせ,勝手に引いてしまいました.
 これは日朝間の条款に悖るものであり,日本政府は両回線を認める代わりに釜山~漢城線の敷設権を認めさせ,これを朝鮮政府の責任で作らせることにしましたが,元々朝鮮政府にはこうした電信線を独自に建設し運用する意思がなく,また清国からの度々の妨害や民衆のゲリラに遭遇したりして中々進捗しませんでした.
 従って,折角の呼子~釜山の海底ケーブルも宝の持ち腐れとなってしまいました.

 しかし,日本の領土である壱岐・対馬に東京から通信するのに,外国企業を介在させるのは国防上の大問題となっていきます.
 特に対馬は国防上の要衝に当たりますから,軍部の神経の尖らせ方は並大抵のものではありませんでした.

 その後,1890年に逓信省電務局次長で逓信省きっての論客である若宮正音が,大北電信会社と必死の折衝を繰返し,1891年4月に漸く呼子~対馬の買収が完了しました.
 その金額,当時の金額で銀85,000円,現在の貨幣価値に直すと大体800億円という巨大な買物となりました.

 また,日本の海底ケーブル敷設技術も向上し,津軽海峡線の1本が1889年に不通となったのを機会に,当時工務局長だった志田林三郎を中心として日本人のみの敷設を決意し,吉田正秀を実行部隊の長に任じて御召船となっていた明治丸を簡易な敷設船に改装して,函館~佐井間の短絡ルートに海底ケーブルを敷設することに成功しました.

 1891年は初めて国内電信の収入が黒字に転換した年でもあります.
 1892年には沖縄と北方領土を除く北海道から九州までの殆どの都市から電報が打てる全土電信網が完成しました.

 こうした状況で,日本と清国は戦争を始めることになったのです.
 この戦争は,電信の大規模な活用でも世界最初の戦争でした.
 釜山からソウルまで敷設された電信線は,普段から障害だらけで,戦争勃発後は清国によって切断されましたが,日本軍の進軍に従って急速に修理されます.
 特に,日本軍は電信隊を創設して,電線を半島に運び,進軍と同時に新たな電信線を何条も敷設し,全軍の指揮に役立たせました.

 また,日本国内に於ても,大山巌の強い要請や川上操六の叱咤激励により,東京から下関までの直通線を大至急架渉したり,東京から広島の大本営までの回線には二重電信法による自動電信を採用する等懸命の努力を重ねていきました.
 この結果,平壌の陥落は現地から大本営まで,僅か6時間20分で届きました.

 清国との戦争は,日本の圧勝に終わり,日本は種々の権益を手に入れることに成功しましたが,それはロシアとフランス,ドイツから干渉を受け,日本は要求に屈してしまいました.
 一方,こうした列強は,日清戦争の敗北後,「眠れる獅子」として恐れていた清国が実は「張子の虎」である事を知り,次々と権益を拡大していきます.

 日本にとっては臥薪嘗胆の頃,通信問題に危機感を募らせたのが,日清戦争時に大本営参謀兼陸軍次官を勤め,後方業務を一手に行っていた児玉源太郎でした.

 日清戦争は確かに日本の圧勝に終わりますが,呼子~釜山間海底ケーブルは,黄海海戦で日本が辛うじて勝利したので守られたものの,もしこれに失敗していれば,切断の憂き目にあっていた可能性がありました.
 そうなると,現地軍と大本営との連絡は6時間20分どころか数日かかる羽目になってしまい,近代戦争に対応出来なくなるのは明らかでした.
 これが,ロシアとの決戦が発生した場合は,危険極まりないものとなります.

 第1に,大北電信長崎局経由の呼子~釜山回線は,欧米人も使用しているので軍が独占することは困難であり,釜山から先の回線も危険が多く,海でも陸でも1箇所切断されれば通信は途絶する危険性があります.
第2に,何より大北電信はデンマークの会社とは言え,ロシアの息が掛っている会社ですから,その回線を用いると言うことは日本の軍事情報が敵側に対し全て筒抜けになる事になります.
 因みに,この頃のロシアでは日本の暗号解読に全力を注いでいました.
 第3に,味方について欲しい米国や英国との連絡も大北電信の長崎~上海間ケーブルを用いたのでは,日本の外交交渉がどんな妨害を受けるか判らないし,機密電信の内容がロシアに筒抜けになる事を覚悟しなければなりません.
 先述の通り,陸線と海底ケーブルの接続局では,一端信号変換が為されるので,必ず人間が仲介する訳で,長崎局にて完全に電文内容が局の人間に判明してしまうのです.
 最後に,長崎~ウラジオストク間のケーブルはロシア側が切るかも知れませんが,日本側でも切らないと,ロシアのスパイが収集した情報を,ペテルブルクに迅速に通報されてしまいます.
 よって,日露開戦と同時にこの回線を切断しなければならず,そうなると戦時には無用の回線となってしまいます.

 こうした問題を認識していた児玉は,三国干渉直後の1895年6月,陸軍省内に臨時台湾燈臺電信建設部を設置し,自ら部長の席に着きました.

 児玉の解決策は以下の様なものです.

――――――
1. 何が何でも日本独自の海底ケーブル敷設船を持ち,船員を猛訓練して,戦争開始と同時に本土と大陸,半島間に独自回線網を敷設して大本営と戦地を連絡し,それを海軍が制海権を握って死守する.
2. 前項に必要な海底ケーブルを密かに購入し,専門施設を作って秘匿しておく.
3. 日本本土と台湾を日本独自の海底ケーブル技術で連絡し,台湾を経由して英国のAll Red Routeと結び,大北電信やロシアと無関係に欧米と連絡出来るルートを確保する.
4. 前項を実現する為に,福州と台湾間の英国製海底ケーブルを買収し,台湾の日本電信局を大陸の英国電信局に繋げる.
――――――

 平時の通信は,大北電信の独占権があって第1項の敷設は不可能ですが,戦時であればそれは可能です.
 第2項については,当時の海底ケーブルは殆どが英国製であり,発注から納品までにどんなに急いでも半年かかりますし,戦争が勃発してからではとても間に合いません.
 かと言って,無理に購入すると戦争準備の状況が判って,ロシアや大北電信から妨害を受けてしまうので,密かな購入と密かな保存が必須条件でした.
 第3項実現の為には,優秀な敷設船が不可欠です.
 児玉源太郎は部長になると直ぐに,同部設置直前に英国の造船所に発注していた,日本初の本格敷設船・沖縄丸の工事督促を,凄まじい勢いで開始します.
 因みに,現地での初期の督促は,後の外務大臣加藤高明が行ったそうです.

 沖縄丸は,総トン数2,278トン,日本近海で行動出来,船首と船尾にケーブルを海底に落とす為の車輪を備えていました.
 当初,この敷設船の建造は,造船所のストライキなどもあって順調にいきませんでしたが,児玉は日本郵船の片岡清四郎に白羽の矢を立て,片岡等は募集した乗組員と共に渡英し,造船所近くに泊まり込んで必死の督促を行い,1896年2月に進水,4月に竣工させました.
 回航時も元々が近海仕様の為,大変な苦労があり,雇い入れた外国人航海士が途中で逃げ出すなどの事件も起きましたが,6月27日に無事長崎港に到着しました.
 因みに,この沖縄丸の回航も,軍艦以外では最初の日本人のみに依る回航となっています.

 また,海底ケーブルは1895年7月に英国に総延長1,600海里の深海用・浅海用・中間用のGPケーブルを発注していました.
 この一部の運搬は沖縄丸が行っていますが,このケーブルの値段は,沖縄丸そのものの値段の3倍でした.

 次に児玉が行ったのが,貯線槽施設の建設でした.
 ケーブルは太く重く,取扱いが大変な代物で,前に触れたとおり,砂地においておくと埋もれてしまいます.
 海底ケーブルは特に鉄の塊の様なもので,海中に沈めるので途中での接続が出来ない構造ですから,非常に長いものとなります.
 また,敷設船にケーブルを搭載するのも特殊な器械が必要です.
 この為,特殊な施設が必要な訳です.
 従来,逓信省が行った敷設は,長くても津軽海峡や瀬戸内海横断ですので,明治丸の様に簡易改装を施した船で充分でしたし,横浜の仮設備でも間に合いました.
 しかし,九州~台湾間ともなれば,そんな設備では間に合いません.

 そこで,児玉は長崎の敷設船が着岸出来る場所に10,000平方メートルの土地を確保して,大規模貯線槽施設を建設します.
 場所は三菱造船所近くの西泊町で,施設は1896年2月に完成しました.
 沖縄丸やその他商船が運んできた海底ケーブルは,此処に収納され,工事の進捗に従って順次,沖縄丸に積まれて敷設されていったのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/05/31 23:32

 さて,日露戦争の準備として,児玉源太郎指揮の下,陸軍は大北電信を使わない電信送信の方法を次々に考えていきます.
 特に,ロシアの妨害を受けない為にも,英国の海底ケーブルと結ぶ事は重要な一項でした.
 これが無ければ,日本は通信面から孤立しかねない状態になります.

 この為にもケーブル貯蔵施設の整備やケーブル敷設船の整備を進めていた訳ですが,最も重要なのは,九州から台湾までどうやって海底ケーブルを敷設していくか,そのルート取りと途中での陸揚室や局舎の場所選定,通信方式の決定なども行わねばなりませんでした.

 これを行ったのが,初代電信試験所所長淺野應輔です.
 淺野は,部下を率いて自ら先頭に立ち,1895年7月から9月末迄の3ヶ月でルートの選定,局舎位置選定を行いました.
 これはただ漫然と位置を決めた訳で無く,陸揚室は敵の軍艦から砲撃されない場所で,かつ公共通信として便利な場所に置かねばならない為,多くの難題をクリアしなければなりませんでした.

 起点は大隅半島に置き,種子島,屋久島の支線を延ばし,東シナ海を南下して奄美大島に一端陸揚し,徳之島,沖永良部島へ分岐する支線を延ばし,奄美大島から沖縄に向かい,沖縄から石垣島,西表島,そして台湾の基隆に達する支線も含め総延長1,800kmの本格的長距離海底ケーブルを敷設することになります.
 これは一応国内線扱いなので,大北電信は文句を付けてきませんでしたが,この敷設は吾等に任せろと言ってきましたが,児玉はこれを日本人だけで行う,つまり,国の最高機密でもあるので御雇外国人も入れずに敷設,竣工させる気概を持っていました.
 当然,多くの外国人は,これを冷笑を以て見ていたと言います.

 そして,ルート選定が完了し,沖縄丸が長崎に到着して間もない1896年7月から敷設を開始し,8月には那覇までのルートを完成させてしまいました.
 次いで陸地の諸施設を完成させ,更に1897年5月には,残りの那覇~石垣島~基隆間の竣工に至りました.
 この幹線部分が完成すると直ぐ様支線部分の敷設に取りかかり,7月には種子島,屋久島支線など全ての支線を完成させてしまいます.

 用いる電信機も輸入品に頼らず,最新の現波式を電気試験所の松代松之助技師が中心となって製造しました.
 因みに,この松代技師は大学は出ていませんが,電気試験所技師では天才肌の技師で,この仕事を手がけた後,直ぐに淺野所長の命令で無線機の開発を手がけ,マルコーニの最初の実験の僅か1年後に,資料も無しにこれを完成して,通信に成功し,その後海軍で無線機の研究を行っています.

 1896年3月には,現波式の訓練を逓信省職員と現地採用の補助員に対して行い,最終的にこの年に日本人だけでこの長距離海底電信線を開通させるという偉業をやってのけます.
 これは仮想敵国であるロシアも達成したことも無い快挙で,世界中に日本の技術力を喧伝し,それはまた,日本に対する畏怖となって,後に不平等条約解消の切っ掛けの一つにもなりました.

 こうしてこの海底電信線が開通したことで,臨時台湾燈臺電信建設部の解散が決まり,8~9月にかけて残務整理の上,沖縄丸は逓信省と台湾総督府民政局に移管しています.

 9月,児玉源太郎は,この敷設の総括を行い,陸軍大臣高島鞆之助に提出し,その難工事と従事した人々の苦難を明らかにしています.
 その一節にはこうあります.

――――――
 欧米ノ工学者ハ皆之ヲ評シテ堪能ナル外人ノ参賛指導アルニアラサレハ決シテ成功ヲ期スヘカラサル者トナリ本邦人カ独力之ニ当ラントスルヲ見テ竊カニ失墜ノ念ヲ抱カサルハナカリシナリ然ルヲ本部ノ職員等ハ此急迫ナル時期ニ方リテ此至難ナル責務ヲ担ヒ彼ノ黒潮ノ余勢未タ強大ニシテ風涛亦最モ激迅ナル薩摩琉球ノ洋中ニ漂ヒ或ハ出或ハ没セル岩礁ノ間ヲ来往シ飛騰セル激浪ノ下ヲ潜縫シ経験ニ富マサル技倆ヲ以テ短時日ノ間ニ遂ニ能ク完全ナル成功ヲ挙クルニ至リシハ本邦工学ノ進歩著シキヲ加ヘシ結果ナルト雖モ抑モ亦職員等ノ一致協力善ク国家ノ為ニ心力ヲ事業ニ委ネシニ由ラスシテハアラス(以下略)
――――――

 そして,具体的に部下の艱難辛苦を具体的に記して大臣への総合報告としています.

 現在,福島第一原発の中で艱難辛苦している人達に対し,上の人がこうした温情を示すことが出来るでしょうか.
 そう言う意味では,児玉源太郎と言う人は人間が非常に能く出来た人であり,日本陸軍史上最高の人材と言うのも判る様な気がします.

 話が逸れましたが,建設部解散後も児玉は,緊急時通信回線の完成に尽力し,1898年12月には,基隆近くの淡水と福建省の馬尾との間の海底ケーブルの買収に成功します.
 この時の買収金額は,銀10万円でした.
 そして,福建省側の運営は英国の大東電信とデンマークの大北電信に委託しました.
 この事を以て,児玉源太郎が構想した戦時国際通信の危機は未然に回避されました.
 勿論,大北電信側は,この回線の買収に横槍を入れ,福建省側の運営に割り込んだほか,「国際通信には使わない」様日本側に迫り,日本側も「台湾とその近くの大陸のみのローカル通信に限って使用する」と約束します.
 とは言え,児玉としては,平時の通信はどうでもよく,緊急時,軍用や外交用の通信回線を準備する事だったのですから,この大北通信の横槍に対しては,痛くも痒くもありませんでした.

 その後,児玉は1898年に台湾総督となって,台湾経営を行い,1900年には陸軍大臣,一時は内務大臣,文部大臣も兼務しました.
 1902年には陸軍大臣を寺内正毅に譲り,台湾経営に専念します.
 児玉の前の台湾総督は,乃木希典でしたが,一種戦馬鹿の乃木希典は,行政官を勤められずに職場を放棄し,台湾は極度の混乱に陥っていた為です.
 その後を引き受けたのが児玉であり,児玉は見事に人心を収攬し,植民地統治を軌道に乗せます.
 これを助けたのが後藤新平で,後藤はその後も民生局長として辣腕を振るっています.

 本来なら,この後児玉は内閣首班との声もありましたが,日清戦争以来の陸軍参謀の中枢であった川上操六参謀総長は1899年に病没し,大山巌が後釜に座った事で,情勢が一変します.
 大山巌は一応,参謀総長であるものの,実務の統括は別の人間にやらせることになります.
 そして登場したのが,「日本の諸葛孔明」と言われた田村恰与蔵でした.
 田村は川上の遺言により,実質的な後釜として参謀本部で参謀次長を務めましたが,日露戦争直前の1903年10月,これも過労から病没してしまいました.
 そうなると,田村の後継になる人物はおらず,難局に当たって,実務を取り仕切れる人材は若手にはいません.
 遂に,日本の指導部は児玉源太郎を二階級降格させて,参謀次長に据えることになります.

 更に,1904年に日露戦争の戦端が開かれると,大山巌は遼東半島で現地軍総司令官となり,児玉源太郎は大山の下で総参謀長として作戦遂行に精魂を傾けます.
 このコンビは,戊辰~西南~日清戦争と修羅場をくぐり抜けた百戦錬磨の猛将と知将でした.
 戦略眼と技術者的素養を持つ両者は,戦争の帰趨を冷静な目で見据え,戦争終結に関しての努力を現イットから政府に秘密電報で働きかけるなどの努力も怠っていません.

 残念ながら,ご存じの通り,児玉源太郎はこれで心身をすり減らし,日露戦争終了後の1906年に病没してしまいます.
 短期間に,3名もの参謀中枢を失った日本陸軍はその後,崩壊への道をひた走るのですが,それはまた別の話です.

 ところで1898年4月,米西戦争が勃発し,米国はスペインからグアムとフィリピンなどを割譲されます.
 この戦争では,海底ケーブルが大きな役割を果たし,米海軍のスクィア少将はこの戦争を,"A War of Coal and Cables"(石炭とケーブルの戦争)と述べています.

 そして,この戦争を観戦して記録したのが海軍参謀の秋山真之です.
 秋山も児玉と共に,戦争に於ける通信の重要性を誰よりも厳しく認識し,海軍首脳部に幾多の提言をしていましたが,特に無線電信の一刻も早い実用化と,日本や近隣諸国海岸への無線望楼建造を提言したのは瞠目に値します.
 未だ,マルコーニが基礎的な実験を行っただけで,どの国の海軍も実用化していない時代のことです.

 この秋山の提言を単なる世迷い言と一笑に付さなかったのが,海軍大臣山本権兵衛です.
 海軍は直ちに各地に無線望楼を建造する様,政府に働きかけましたが,清国海岸への無線望楼建設に際し,日本の外交官が,
「無線などと言うずっと未来の話で,相手を刺激したくない」
と言う理由で清国との折衝を拒否し,海軍側を激怒させていたりします.
 何時の時代にも,日本の外交官はどうしようも無いですね….

 それは扨措き,1895年に東京で音響式モールス電信機の使用が開始され,各地に広がって行きました.
 また,電話の実験も東京~大阪間で行われ,音声による電報送受も開始されます.
 1899年には北方領土の国後,択捉に海底ケーブルが敷設され,九州~台湾には二重電信法が採用されました.
 また,1900年5月には関門海峡に日本初の電話用海底ケーブルが敷設されます.
 1901年に電信処理用のカタカナタイプライターが開発され,使用が開始されます.
 こうして技術の向上が図られていきます.

 そうした中,1902年1月に日英同盟が締結されます.
 7月には日英の「陸海軍協約」が定められるのですが,これは8項目からなっています.

1. 共同信号法を定めること
2. 電信用共同暗号を定めること
3. 情報を交換すること
4. 戦時に於ける石炭の匡救方法を定めること
5. 戦時陸軍輸送に於ける英国船の雇用を図ること
6. 艦船に対する入渠修繕の便宜供与を図ること
7. 戦時両国の官報を英国の電信で送付すること
8. 英国側は呼び海底ケーブルの敷設に努めること

 とまぁ,8項目の内半数以上が通信関係の項目となっています.
 当時の日本の陸海軍首脳が,情報戦,通信戦に力を入れていたのがよく判るエピソードです.
 この頃の日本の軍部は,昭和期のそれと違い,未だまともに機能していたと言えます.

 この頃,英国が敷設を進めていたAll Red Lineの豪州線と南アフリカ線が開通して,全英国植民地と本国が海底ケーブルで結ばれました.
 1850年以来の豊富な経験の蓄積は,通信環境の安定化を齎し,日本にとっても大きな利益を与えます.
 因みに,ロシアの電信事情は,と言えば,日露戦争直前,日本の諜報員が満州から電報を打ってみた所,極近くに届くのに4日も掛り,しかも電文は間違いだらけだったと言います.
 また,義和団事件の頃,ロシアの支配地域をドイツが代って支配したら,見違えるほど通信事情が良くなったと言います.

 更に米西戦争の結果,英国だけで無く,1902年には米国が敷設を進めた太平洋横断ケーブルのうち,サンフランシスコ~ハワイの敷設が完了し,ハワイからミッドウエイを介してグアム,そしてフィリピンにも海底通信網がやって来ました.
 つまり,ロンドンからだけでなく,ワシントンとの通信も遅滞なく行える様になったのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/06/01 23:38

 さて,1903年,日本とロシアの戦争が現実味を帯びてくると,電信電話回線は急ピッチで整備されていきます.
 大浦兼武率いる逓信省では,軍の依頼を受け,臨時軍事費を用いて横須賀・佐世保・小倉・青森などの軍港用に長距離電信線を増設し,短距離の電話交換を開始しました.
 また,東京と佐世保の間に,直通の電話線を特急で架設しますが,これは世界で2番目に長い電話回線でした.
 ただ,この電話回線は未だ未開拓の技術であった為,技術的な障害も多く,電話がやっと開通したのは日本海海戦直前の1905年3月,しかもそれは蚊の鳴くような声が聞こえるかどうかと言う状態で,実用には余り向かなかったようです.

 一方,日本本土の沿岸の見晴らしの良い要所要所には,多数の望楼が設けられ,その多くには秋山真之が提案し,松代松之助や木村駿吉が開発製造した無線装置が備えられました.
 更に望楼から東京の大本営までは,電話と電信によって結びました.
 これは電報はモールス符号に習熟した専門家で無いと打てないため,至近距離に電信局が無い場合は,望楼の最も近くの電信局までを電話で繋ぎ,そこから東京まで電信で報告を送る仕組みで,こうした望楼を,北方領土から台湾まで日本中に構築しています.

 国際通信も,1903年12月26日より非常手段を取り始めます.
 即ち,山本権兵衛海軍大臣は,台湾総督府参謀長山縣文蔵に訓令を発し,以後軍の重要電文の多くは,大北電信線を経由せず,九州~台湾間海底ケーブルを用いて台湾に繋ぎ,そこで一種の交通整理を行った後,淡水~福州間海底ケーブルで英国が管理する大東拡張海底電信会社の局に繋ぎ,英国の回線を通じて香港を通じて各方面に伝達する方式を執ったのです.

 英国へは,東京~九州(大隅半島)~基隆~淡水~福州と伝達されて,福州の英国局から香港を介して南シナ海を抜け,ボルネオを経由しマラッカ海峡,インド洋を横断して紅海,そして地中海を抜け,ロンドンへと言うルートで英国のAll Red Lineのみを用いて通信が為されました.
 また,米国へも,台湾を通り,福州に抜けた後,英国局から香港~フィリピンと繋ぎ,米国が完成させたばかりのマニラ~サンフランシスコ間の海底電信ケーブルで米国本土に通信を送りました.
 こう言った回線により,米国や英国で外交や戦費調達に奮闘する金子堅太郎や高橋是清などと日本政府との連絡が極めてスムースに行く様になっています.
 因みに,米国東海岸向けの民間向け通信は,長崎~上海回線で英国回線に繋ぎ,そこからロンドンを経て大西洋を通って米国東海岸に伝達される経路を通っていました.

 この他,軍や外交当局の通信には,大北回線を用いること無く,上海や天津,そして大韓帝国へも台湾経由で英国の回線で送っています.
 勿論,途中で傍受されても意味がわからない様に,暗号化し,日本の電信局間でも受信局が送信局へ復唱し照合して,間違いが無いか確認しながら順次中継していく方式で,こうした通信は略号を「ムニ」で指示しています.

 当然,英国も日英陸海軍協約に基づいて便宜を図っており,海底ケーブルの増設や日本政府の通信を優先扱いするなどをしていましたし,福州,香港,マニラと言った要衝の電信局には日本軍人が特別に派遣されていました.

 ところで,逓信省に引き渡されていた沖縄丸は,1903年12月30日,徴用されて海軍所属となりました.
 この日,母港横浜を出港した沖縄丸は,極秘裏に長崎に向かいました.
 目的地は船員達に知らされず,彼らは今後の行動を他言無用とする旨の誓約書を提出させられました.

 1904年1月2日,長崎の貯線槽施設に到着した彼らは,ここで昼夜兼行で海底ケーブルを搭載しますが,この貯線槽施設には1,000海里分を九州~台湾回線に用いたのですが,それでも未だ500海里分のケーブルが余っていました.
 実は児玉源太郎は,色々な理屈を付け,必要町を遙かに上回る長さのケーブルを購入し,それを長崎に秘匿しておいたのでした.
 関係者は,このケーブルを「児玉ケーブル」と呼んでいたのですが,これを搭載した沖縄丸は,直ぐ隣の佐世保港に入港し,海軍工廠で純白の船体をわざと刷毛を使わず襤褸切れを使って故意に汚く黒色に塗り替え,特徴のある船首,船尾のケーブル敷設用の車輪を偽装し,更に船名は「ふじ丸」(逓信省資料による,海軍省の資料では「富士丸」)と変更します.

 そして,1月11日の夜陰を待って佐世保からの敷設に着手し,15日の夕刻には最初の目標だった佐世保~八口浦230海里のケーブル敷設を完了させました.
 この八口浦は,連合艦隊の半島第一の予定基地であり,木浦の近くにあります.
 因みに,この敷設には巡洋艦明石が遠方から密に護衛していました.

 先ほども書いた様に,日本各地に望楼と電信線を工事する必要があったので,沖縄丸だけでは間に合いません.
 そこで,一般の船舶である伊吹丸,奉天丸,第三辰丸が徴用されて,ケーブル敷設装置を取り付け,特設敷設船として沖縄丸に協力しています.

 1904年2月,日露との間でいよいよ戦争が始まりました.
 半島を北進する陸軍の進軍に伴い,八口浦から仁川など朝鮮半島西沿岸を北上し,遼東半島の旅順近くまで電信線を敷設していきますが,仁川付近にもロシア艦艇はいましたし,旅順はロシアの一大軍港だった事から,この敷設は危険極まりない仕事であり,民間船であり武装も装甲も貧弱な沖縄丸は砲弾を掻い潜っての決死の作業となりました.
 どうしても電信線を陸揚出来ない場合は,仮に敷設船をケーブル端末として,そこに電信機を置いて連絡を取るという非常手段が執られた事もありました.

 また,呼子~釜山の大北電信線を利用しない軍用回線として,東京~下関~特牛海岸(山口県西端の陸揚室)~角島(特牛海岸近くの小島)~沖ノ島~対馬~鴻島~巨済島加徳水道側~巨済島北側(松眞湾)~鎮海湾北岸(巨済島寄り海岸)と言うルートを確保し,同時に佐世保~対馬(竹敷)間直通線を設け,更に鎮海湾北岸から陸線で馬山浦を経て釜山に達するルートを建設します.
 なお,陸軍と海軍は別々の専用ルートを建設していますが,これは意地の張り合いでは無く,輻輳を避けるための措置でした.

 鎮海湾奥にある巨済島北部の松眞湾は,日本海海戦の直前まで三笠他連合艦隊の各艦艇が停泊していた場所でしたが,三笠と連絡する仮設電信局は,その近くの巨済島松眞浦里に設けられており,巨済島北端と向かい合う鎮海湾北岸にも設けられていました.

 こうして陸軍と海軍はその通信網を縦横に活用して,機動戦を行い,勝利を導いていったのですが,2月の緒戦に行われた仁川沖海戦は,日本側が電信封鎖を行った事により,情報を遮断されて痺れを切らしたロシア側が打って出た事が勝利の原因とされています.

 因みに,こうした縁の下の力持ち的な功績により,沖縄丸は戦後の観艦式に民間船としてはただ1隻,列の外ではありましたが,特別参加を許されています.

 てことで,いよいよ日本海海戦については明日.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/06/02 23:51


 【質問】
 日本におけるやくざの軍事利用の歴史は?

 【回答】
 猪野健治によれば,明治維新戦争の頃から博徒,テキヤを利用してきたが,その後,政情が落ち着き,彼らが都市部に進出して勢力を持ち始めると,明治政府は明治17年2月,全国一斉に「博徒狩り」を実施し,大弾圧したという.

 だが明治20年代後半には一転,大陸侵攻のために利用しようと図り,日清・日露戦争では兵站・輸送・土木建築などにやくざが動員されたという.
 新聞報道も豹変し,それまで使われていた「破落戸(ごろつき)」「無頼漢」という言葉が紙面から消え,「任侠の徒」「侠客」という言葉が使われはじめ,全国の親分衆の人気投票まで実施した新聞もあったという.

 やくざのほうでもそれを好機として,大陸浪人と手を組み,軍部に協力すると共に,その見返りに現地利権に食い込んだ,いわゆる「大陸やくざ」も少なくなかったという.
 例えば,辛亥革命を支援した宮崎滔天の下には,熊本やくざを代表する井木治平が子分多数を従えて参加,多くの犠牲者を出している.
 また,岡山の分島周次郎は大連で分島組を結成,のちに京城(ソウル)に移って,京城劇場,大日本映画興行,大日本国粋会朝鮮本部幹事長などとして大勢力を築いた.

 そして日本軍駐屯地への慰問興行には,興行系親分が拠点を持つネットワークが,大きな力を発揮したという.

 詳しくは『興行界の顔役』(猪野健治著,ちくま文庫,2004.9.10),p.475-477を参照されたし.


 【質問】
 日清戦争における清国側の勝利条件は何だったのでしょうか?

 【回答】
 清は,朝鮮に於けるその宗主権を認めさせることが最大の目的でした.
 元々,数度の事変によって,日本軍は敗北とは言わないまでも,清国軍相手に撤退を繰り返していました.
 このため,清としては,この際はっきりと領有権を主張し,清による朝鮮半島の領有を実現するというのが最終目標でした.
(英国もロシアの南下を阻止するために,清国に期待していた節もありますし)

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/08/09(火)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 明治時代の陸軍の軍服は黒っぽい色ですが,日清戦争や日露戦争では目立たなかったんですか?

 【回答】
 目立った.
 特に日露戦争では濃い色の軍服で,敵の目視されやすいことが指摘された.
 当時は今と違って制服=戦闘服だったので,低視認性の制服が求められ,後にご存知の薄茶色の軍服になった.

 20世紀初め頃まで,どこの国の軍服もわりと派手だった.敵味方の識別を重視したためだ.
 19世紀後半までは小銃の射程が短かったから,少々目立つ服装でも,あまり問題にならなかった.
 19世紀後半,ライフル銃が一般化したことで,派手な軍服はデメリットの方が大きくなった.
 カーキ色の軍服は1848年,インド駐留英軍が採用したのが最初.ただしこのときは,指揮官の個人的な思いつきによるもので,正式なものではなかった.
 1898年,カナダ軍を除く在外英軍の軍服として制式採用,1902年に本国軍・カナダ軍でも採用,という流れだそうで.
 第2次ボーア戦争が1899年から1902年なので,全面採用にはボーア戦争の戦訓が取り入れられていると思われるけれど,植民地軍での採用はインドでの運用実績が良好だったからのようだ.
 日露戦争中は,ロシア軍も水色軍服で,かなり目立っていたようだ.
 フランス軍なんか第一次大戦の時まで赤ズボンだったので,機関銃のいい的になった.

 したがって日露戦争中,日本陸軍ではまだ紺色の軍服は使われていた.
 ただしその間に何度も軍服の改変が行われ,カーキ色のも使われたが.カーキ色に統一されるのは,日露戦争が終わる明治38年から,翌39年ごろ.
 改変直後は余っていた旧生地を使った新型制服もあったようだ.


 【質問】
 日清戦争で清国が使ったライフル銃について教えてください.

 【回答】
 口径20ミリ(ラティやソロサーンのことを考えれば普通ですね)で,全長が3m以上( ̄◇ ̄;)
 しかも形状はダンパーもマズルブレーキもない普通の小銃(゜▽゜;)
 当然ながら(?)運用は3人がかりだったそうです.
 射手の肩は大丈夫だったのでしょうか・・・

 ちなみにWW1末期では世界に冠たる某国が,モーゼル1918というGew98をスケールアップした対戦車ライフルを使いましたが,人間の肩の耐えられる限界スレスレだったそうです.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日清戦争で清軍がクロスボウを使っていたというのは本当か?

 【回答】
 連射弩が使われました.

 マール社の「武器」105ページには,
「1894~1895年の日清戦争まで使用された.
 大抵は防御の際に用いられ,一方の手で照準を定め,もう一方で弓を操作できる様に,壁の上に固定できる様になっていた.
 使用する矢は羽のない短い太矢で,予備の矢は柄の上の箱に収納される.
 発射する手順は,
  1.柄の上のレバーを前に倒すと,弦が溝に嵌る.
  2.同じくレバーを手前に引くと弦が引っ張られ,
  3.更に手前に引くと弦が留め金に押されて溝を飛出し矢を弾く」
と書かれています.

http://w3.shinkigensha.co.jp/book_naiyo/4-88317-211-2p.html
このページにある連弩(れんど)といわれるものがそれです.
 NHKでこれを撃っている映像を見たことがありますが,80~100発/分位の発射速度だったと記憶しています.
 威力は畳に矢が半分まで突き刺さる程度でした.至近距離で.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2,極東の名無し三等兵 in FAQ BBS)


 【質問】
 旅順虐殺って実際にあったんですか?

 【回答】
 事実です.
 日本の外交文書にしっかり,「旅順口虐殺事件」という名称で書かれ,英米でも,"Port Arthur Atrocities"あるいは,"Port Arthur Massacre"と呼ばれています.
 後,「参謀本部歴史草案十七」には,この虐殺の経緯と第二軍の弁明が掲載されています.

 但し,中国側見解の2万人虐殺は眉唾物というのが,現在の史学上の一般的な見解で,実際には2,000名程度と言うのが妥当な数字と言われています.

 数字の真贋論争については,軍事上の問題ではありませんから,政治板なりで御願いします.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2006/03/04(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日清戦争の賠償金2億テールを,どうやって清は調達したの?

 【回答】
 加藤陽子によれば,ロシアとフランスから融資(借款)を受けて,日本に支払ったという.
 この融資の見返りに,ロシアは満州を横断する中東鉄道(東清鉄道)の建設と,ハルビンから旅順に向かう南部支線の建設,更には旅順港の租借という事実上の満州植民地化を清に要求.
 そして,李鴻章にロシアは莫大な賄賂を贈って,彼を篭絡し,この要求を飲ませたという.

 詳しくは,
http://www.bk1.jp/review/0000477986
を参照されたし.


 【質問】
 日清戦争で得た賠償金の用途は?

 【回答】
 当時の金額にして約4億円を得たが,その用途内訳は以下の通り.

臨時軍事費 7895万円
陸軍拡張費 5,680万円
海軍拡張費 13,925万円
八幡製鉄所創立費 58万円
30年度臨時軍事費及び一般会計繰入れ 321万円
軍艦・水雷艇補充基金 3,000万円
31年度一般会計繰入れ 1,200万円
帝室御料へ編入 2,000万円
教育基金 1,000万円
災害準備基金 1000万円
明治36年3月未残高 370万円

 ただし教育基金は,日露戦争が始まると同時に他の用途に転用され,以後,国庫から毎年定額をこれに代わって支出した.

 なお,本賠償金はロンドンで日銀に保管され,日銀はこれを成果準備として国内で兌換券を発行し,それを政府が使用することで,金本位制が実現し,為替相場の安定・外貨導入への道が開かれたという.

 【参考ページ】
http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/archives/2007/04/post_491.html
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz198101/hpbz198101_2_077.html
http://rekishi.blog41.fc2.com/blog-entry-39.html
http://www.tabiken.com/history/doc/D/D269C200.HTM

【ぐんじさんぎょう】,2010/01/12 23:00
に加筆改修

 先日ブックオフで買った「PHP文庫 大国日本の世渡り学 高坂正堯」を読んでいたら,19世紀のイギリスとドイツの経済摩擦について,p.87~88にこんな記述が.

<引用開始>
 経済摩擦そのものに目を向けるなら,そこにはドイツの経済がイギリスから見て異質であり,それもあって「不公正な競争」と受けとられたことが興味深い.
 そのことをわれわれに教えてくれる材料のひとつが,1896年に出版されたE・E・ウィリアムズの「ドイツ製」(Made in Germany)という書物である.

 少々余談になるが,この書物は東大の図書館にあって,私はその本の内容は一応知ってはいても,現物は見たことがなかったのだが,友人がそのコピーを送ってくれたので読むことができた.
 ところがそのコピーを手にしてまず気づいたのは,その本に「大蔵省賠償金特別会計所属図書」という古めかしい印が押されていることで,年次から明らかなように,日清戦争の賠償金の一部で種々の書物を買い求めたことを示している.
 それが現在われわれの知的作業に貢献してくれているわけで,貧乏のなか,すぐには役に立たぬ恐れのある書物を買っておいてくれた,明治の先人に心から感謝したい.
<引用終了>

 日清戦争の賠償金は軍備拡張に使われたと思い込んでましたが,一部はこんな使い方もされていたんですね.

ラッキーマン. in 「軍事板常見問題 mixi支隊」,2009年11月29日 17:10


 【質問】
 二十六年式拳銃って何?

 【回答】
 日本陸軍が1893年(明治26年)に制式採用した国産リボルバー拳銃.
 ベルギー製“9mm Belgian Nagant M.1878”を参考にし,S&Wの中折れ式機構を足した設計であり,日本で最初に無煙火薬を採用した拳銃でもある.
 九四式拳銃が採用された1930年代後半に,生産終了したと考えられているが,操作が容易で扱い易かったため,太平洋戦争終結まで使用された.

 【参考ページ】
東京砲兵工廠 二六年式拳銃 - MEDIAGUN DATABASE
http://www7a.biglobe.ne.jp/~yon-yon/column/Nippon/Type26/index.html
http://yonyon.dum.jp/collection/rev/26jp.html
http://www.horae.dti.ne.jp/~fuwe1a/newpage62.html
http://homepage3.nifty.com/sweeper/gun/handgun/26shiki.htm

【ぐんじさんぎょう】,2011/06/12 20:00
を加筆改修

二十六年式拳銃のフィールド・ストリッピング

滝部 in 「軍事板常見問題 mixi別館」,2011年05月24日 22:35
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日清戦争当時の台湾は何も無く,日清戦争の講和条約で,日本に台湾を渡しても中国は特に困らなかったというのは本当ですか?

 【回答】
 困らなかったというよりは,体よく厄介払いしたようなもの.
 明治4年に沖縄の商船が暴風で台湾に漂着したことがあったが,台湾先住民に助けられるどころか,逆に殺されてしまった.
 それが台湾出兵につながった事件だ.

 清朝は台湾を「化外の地」として,日本の賠償金請求に応じなかった.
 反清勢力撲滅の為に領有したといっても,長年持て余していたのだ.
 清朝は既に北京条約で,外満州や香港を露西亜や英国に割譲してしまっていたから,他に割譲できそうな土地も無かった.
 特に困らなかったというのが適当な表現かどうかは微妙だけど,間違いだとも言い切れない.

世界史板,2009/04/17(金)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日本への併合後の台湾で起きた紛争について教えてください.

 【回答】
 日清戦争の後,下関条約で,日本は明治28年台湾を得た訳ですが,その後,併合に反対する勢力が台湾民主国を宣言するなど,数年間抗日勢力との戦闘が続きました.
 あと,元々台湾で生活していた先住民族とも抗争きますが,彼らは主に兵站線を攻撃します.
 この台湾を平定する過程で,軍夫の死亡率は戦闘による全死者数の48.9%で,日清戦争の兵站部隊の死亡率3.3%を遙かに超えました.

 取り敢ず,1899年頃は,前年に後藤新平が総督として赴任し,行政改革に取り組んだ結果,その間は安定した状況を迎えますが,1906年に総督が替ると再び原住民弾圧政策を採用し,原住民との抗争は,1930年まで続くことになります.
 取り敢ず,1898年に児玉源太郎総督の下,後藤新平が総務長官として赴任し,行政改革に取り組んだ結果,その間は安定した状況を迎えますが,1906年に総督が替ると再び原住民弾圧政策を採用し,原住民との抗争は,1930年まで続くことになります.
 取り敢ず,1898年に児玉源太郎総督の下,後藤新平が赴任し行政改革に取り組んだ結果,その間は安定した状況を迎えますが,1906年に総督が替ると再び原住民弾圧政策を採用し,原住民との抗争は,1930年まで続くことになります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2(黄文字部分)他 in 軍事板,2007/04/30(月)
青文字:加筆改修部分

▼ 【参考ページ】
「日本の歴史学講座」>「植民地行政官事典」>台湾総督府

▼ 修正が,間違っている件.

 後藤新平が赴任した1898(明治31)年時点での職名は「民政局長」で,在任中の同年6月20日に「民政長官」に変更され,「総務長官」となったのは後藤の離任後の1919(大正8)年8月20日ですから,後藤新平を総務長官と書くのは誤りかと.

 ていうか,リンク先の参考ページにちゃんと書いてある.
http://homepage1.nifty.com/kitabatake/taiwan.html

とおりすがり in FAQ BBS,2009年6月19日(金) 11時1分
青文字:加筆改修部分


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