c

「戦史別館」トップ・ページへ

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ   サイト・マップへ

◆◆◆◆装備
<◆◆◆海軍
<◆◆軍事組織
<◆日露戦争
戦史FAQ目次

戦艦「三笠」用ヴィッカーズ社製3段膨張式3気筒レシプロ蒸気機関

(画像掲示板より引用)


 【link】

「Gigazine」◆(2009/08/15) 日露戦争で東郷平八郎が座乗した記念艦「三笠」訪問レポート

「サーチナ」◆(2010/11/13)全長820ミリ・「少年倶楽部」の付録ペーパーモデル「戦艦三笠」が復刻

『ああ,博愛丸 赤十字病院船の最期』(草間秀三郎著,近代文芸社,2013/05)


 【質問】
 日露戦争の時の三笠って当時はイギリス本国のものと比較しても最新鋭の戦艦だったんですよね?
 今で言うなら最新鋭のイージス艦を売るようなまねを何でしたんでしょうか?

 【回答】
 とりあえず三笠と同世代の英戦艦とを比べると……,

三笠(1902年竣工)
常備排水量:15,140t
主砲:40口径30.5cm連装砲2基4門
装甲:クルップ鋼 水線229mm 砲塔前盾254mm
機関出力:15,000馬力
速力:18ノット

カノーパス級(1899~1902年竣工)
常備排水量:13,150t
主砲:35口径30.5cm連装砲2基4門
装甲:クルップ鋼 水線152mm 砲塔前盾203mm
機関出力:13,500馬力
速力:18ノット(公試で18.5ノット記録)

フォーミダブル級(1901~1902年竣工)
常備排水量:14,500t
主砲:40口径30.5cm連装砲2基4門
装甲:クルップ鋼 水線229mm 砲塔前盾254mm
機関出力:15,000馬力
速力:18ノット

 充分最新鋭と言えるだろ.

軍事板
青文字:加筆改修部分

 一つは,日英同盟による売却です.
 もう一つは単純に商売としてのもの.
 最新鋭戦艦を数隻保有していても,英国の方が数的に勝っているので,然程影響が無いとの判断でしたし,自国で建造したものであれば,弱点は全てわかっていますから,対策も採りやすい.
 最後が,新装備のテストとしてのもの.
 自社開発したものが,自国の海軍で正式配備されるかどうか,使えるものであるかどうかをテストする為もありました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
青文字:加筆改修部分

 今日は朝から,冬の様な寒さが.
 遂にこういう時期が来たか,と革コートやセーターを引っぱりだして重装備で,カミさんと根津方面へ.

この東大裏にある弥生美術館で戦前から平成まで少年少女雑誌の紙製ふろくを展示した,『ふろくのミリョク☆展』が開催されているからでした.
http://www.yayoi-yumeji-museum.jp/

 私のお目当てはもちろん,戦前の「少年倶楽部」等の軍国/愛国ふろくの数々.
 ゆうに1mは越えようかという戦艦三笠や,エンパイアステートビルなど,先日の静岡美術館の模型ボックスアート展でも見ましたが,またココでじっくり観れました.
 それにしてもこの1/1ガスマスクなど,ふろくとしても秀逸でシュール!

 こういう紙細工を海外から導入して,あっという間にここまでの物をつくり出したパワーには,感心します.
 また,先日入手した「少年倶楽部」の満州事変記念絵葉書セットが,実は10枚つづりだった事など判り,まだ手元に無い6枚の絵柄も判り大収穫!

 この弥生美術館は,先日の武部本一郎展以来ですが,中々面白い昭和な企画が多いので,今後も訪れそうです.
 因にここの弥生町の町名は,考古学用語で広く知られていますね.
 当時この辺までは,海が来ていなかったのでしょうか.

よしぞうmaro' in mixi,2007年11月18日02:29


 【質問】
 戦艦「三笠」はド級戦艦とはどう違うのですか?

 【回答】
・弩級(ドレッドノート級)艦は単一口径の主砲をできるだけ多数搭載(だいたい8門以上)するのが基本コンセプトだが,三笠の主砲は4門のみ
・弩級艦の主機関はタービンだが,三笠はレシプロ(ドイツの初期の弩級艦はレシプロ機関だけどね)
・そもそも大きさが一回り小さい

 弩級艦の名の元になったイギリス戦艦,HMSドレッドノートは主砲を全て同口径同砲身長の統一された砲で揃え,艦橋上の射撃指揮装置によって全ての砲を一元的にコントロールしている.

 それまでの戦艦は,「主砲」と言っても砲塔によって砲身長がバラバラだったり,各種雑多な口径の砲をバラバラに積んで,各砲が勝手に照準をつけて撃っていた.
 ところが,日本海海戦で「集中制御による主砲の斉射」の有効性が確認されたため,最初からそれを計算に入れ,全ての主砲の口径を統一したのがドレッドノート.
 主砲を同規格にして一元的に照準,発砲できるようにしたため,命中精度と投射火力(一度にどれだけの弾を相手にぶち込めるか)が飛躍的に向上した.

 また,蒸気タービン機関を全面的に採用して,高出力で高速,機関速力の増減を容易に行えるようにもした.
 それまでは戦艦の機関はレシプロピストン機関が主流.
 速度が遅く,出力をちょっと上げるだけでも操作が大変で,実際に出力が上がるまでえらく時間が掛かった.

 この二つの条件を満たして,更に砲がドレッドノートよりも大きいものを「超ド級戦艦」と呼ぶ.
(だから,大きさとか武装とかがドレッドノートに匹敵するだけじゃ弩級艦とは言わない)

 三笠はどちらの条件も満たしてないので,「弩級艦」には分類されない.
 ドレッドノートと比べると一世代前の戦艦.
 「基準戦艦」とも言われる.
 その頃の戦艦はどれも30cm砲を連装した砲塔を前後に1基ずつ持ち,多数の副砲を舷側などに配置しているデザインが使われていた.

軍事板
青文字:補修部分


 【質問】
 横須賀に記念艦として保存されている戦艦「三笠」は,今でも航行できるのか?

 【回答】
 できない.

 「三笠」の船体は関東大震災で被害を受けて座礁したまま,海水を汲み出されながら曳航され,今の位置に沈座されている.
 現在では,周囲を埋め立てられて船体下部にコンクリートと土砂を詰め込まれたの,でもう「船」ではない.

軍事板

第2次大戦直後,米軍のためのダンス・ホールにされていた三笠
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 日露戦争中の日本の戦艦には45cm魚雷発射管がついていますが,魚雷は何発ぐらい積んでいたのでしょうか?
 あと,鹵獲されたロシア戦艦も同じ45cm魚雷発射管がついてますが,これは日本が鹵獲した後につけたものですか?
 それともロシア戦艦時代からついていたのですか?
 もしロシア戦艦時代からあったのなら,改造なしでも日本の魚雷は使えたのですか?

 【回答】
 魚雷は発射管1門に付き1本しか積んでいません.
 当時,前弩級艦には砲戦と共に水雷で混乱を起こそうと言う意図があり,大抵の戦艦には魚雷発射管が装備されていました.
 従って,ロシア戦艦でも使用は可能でした.

 魚雷については,日本のものはArmstrong社製のものです.
 最新鋭艦の場合は,同一口径ですが,ロシアの場合はフランス製のものを導入するケースが多かったので,完全な互換性は無いと言えるでしょう.
 旧式艦なら,そもそも38.1cmですから魚雷は入りません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :2007/05/14(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日露戦争で日本海軍の主力艦に搭載されていたバー&ストラウド測距儀とは?

 【回答】
 遠距離射撃で目標距離設定が重要である事を認識した英海軍が,19世紀末に距離測定装置を民間企業に依頼.
 提案された4種類の器材による競争試験の結果,選定されたのが,バー&ストラウド Barr and Stroud 社の,基線長4.5フィート測距儀である.

 遠距離射撃では砲弾は高角度で落下するが,目標は水平な甲板であり,命中界は当時の戦艦の上甲板幅を考慮しても,30ヤードより大きくなることはなかった.
 近距離射撃では砲弾の軌跡はほぼ水平であり,目標艦の喫水線以上の部分は,比較的大きな垂直目標として見られるため,命中界は大きく,喫水線を照準した砲は,例え目標距離が100ヤード狂ってかなり大きめの仰角を取っても,舷側や上部構造物に命中することが可能だった.

 したがって近距離目標射撃では,距離推定に誤差があっても命中界が長い(広い)ため,十分な命中弾を得ることが可能だったが,遠距離目標射撃では命中界が短い(狭い)ため,命中弾を得るには十分な精度で砲仰角を設定する必要があり,そのための距離測定は極めて重要だった.

 バー&ストラウド測距儀は,左右に4.5フィート(1.37m)離れた対物線を通して目標を照準し,その2本の照準線と基線とによって構成される三角形から目標距離を求めるのである.
 左右の対物鏡を通して得られる目標映像(分像)が右目接眼部視野内で合致するよう光学系を手動操作し,左目接眼部視野内の目盛から距離を読み取った.
 距離目盛が250ヤードから20,000ヤードまで刻まれていたが,測距の保証は4,000ヤードまでで,英海軍の精度要求は3,000ヤードで3%だった.

 なお,当時の世界最新鋭艦でも,方位盤はまだ搭載されていなかった.

 詳しくは多田智彦(防衛技術研究家)の筆による,「世界の艦船」(海人社),2003/10号,p.79-80を参照されたし.


 【質問】
 トウ発事故が日本海軍で頻発してたって本当?

 【回答】
 日露戦争当時,トウ発事故は日本海軍では大問題になっていました.

 列記すると,
旅順砲撃中の戦艦八島,
黄海海戦での戦艦三笠,
日本海海戦に至っては戦艦三笠・敷島・朝日,装甲巡洋艦日進で相次いでトウ発が起こっています.
 ことに山本五十六が乗り組んでいた日進では,4門の8インチ砲のうち実に3門がトウ発で砲身を切断されてしまいました.

 トウ発事故が多発した原因は,
・下瀬火薬が不安定だったこと,
・伊集院信管が構造的欠陥を抱えていたために発射直後に安全装置が解除されてしまうこと,
・砲身の加熱により装填された砲弾の底部にひびが入ってしまい,ここから高圧ガスが侵入して炸薬が爆発する
などです.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE :軍事板,2005/08/15(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日露戦争くらいの年代で,蒸気機関もしくはレシプロ機関で駆動する艦搭載型速射砲を開発する事はできるでしょうか?
 できるとすれば,砲口径はどのくらいのものまでが,また発射速度はどのくらいのレベルまで可能でしょうか?

 【回答】
 電動式のガトリングガンなら,すでに19世紀末には実用化されていますが…….

 まあ,その時期だと電動より蒸気機関やレシプロの方が信頼性ありそうだし,蒸気なら艦内に配管で引くという手もあるかもしれません.
 蒸気機関車あたりがひとつの基準になると思います.
 ごく単純に考えたら,蒸気機関車のピストンのサイクルと力を,そのまま外部動力自動砲に持っていくと考えればいいので,馬力として100馬力程度は無理なく得られそうです.
 抗堪性と配管の面倒さを考えると,砲塔に個別の蒸気機関を持ち,機関手,石炭放り込む担当など,機関車的な配置をとると面白かろうと.
 砲塔の煙突から黒煙もうもうと吐きながら砲撃ってのも絵になりますなあ.

 であれば,たいていの口径の砲弾は(周囲のメカニズムまで含めて)数秒で動かせる力はあるでしょう.
 むしろ問題なのはメカニズムの方で,当時の工作精度では,大きな動力をかけて高速で動きあう歯車を製作し,組み込むことに限界があったでしょう.
 また,動揺する艦内で砲弾を砲身の軸に位置合わせする困難さという当時の問題は,機械装弾でも同様だと思います.
 発射時の砲の後退,複座には口径に応じた時間が当然かかります.

 ここから先は思い切り見当の話になってしまいますが,12インチ砲弾でも速射砲とすることは可能.
 この場合,複座時間とともに発射の反動による精度低下などが問題となるので,せいぜい1分に1~2発.
 6インチ砲弾であれば数発~10発程度?なら
「いくらなんでも無理だろう」
と言われずにすみそうな気がします.
 当時のアームストロング社製6インチ速射砲の公称スペックでは「毎分8発」となっていますが,日本人の体力だと5~6発まで落ちます.そのために14サンチ砲(毎分10発)が開発されるんですけど.
 5インチでも一門毎分15発までは行きますから,2門分の重量で毎分40発(Mk42)が実現して初めて自動化の意味が出てきたって事です.コレがWW2直後辺りの話でして.

 職場に来たので資料を見てみましたが,現在ポピュラーなオット・メララの5インチコンパクト・ガンで毎分40発.
 もちろんこれは洗練された現代のメカニズムデザイン,精度で可能になってるわけですが.
 砲塔の動力は200馬力相当.6インチ砲弾は5インチよりかなり重く,でかいので,技術差を考えて 1/10程度の発射速度は妥当では.
 もちろん砲塔は蒸気機関の内蔵,石炭庫,水タンクの収容,砲塔下弾薬庫からの給弾装置,あるいは即応砲弾の収容から始まって巨大なものとなり,旋回速度は遅く,おそらく仰角調整も遅いものになるでしょう.
 この手の周辺機器は共有できるから,連装とするのが妥当かな.
 それでも一艦にひとつしか設置できない,とかいう制限付き(これがまたいいわけだが)かな.

 ただ,日露戦争当時の12インチ主砲とかは,2分に1発程度でも連射すると砲身の過熱,これによる砲弾信管の暴発が問題になったようです.
 こうなると砲身の水冷ジャケットによる冷却,バースト射撃でその後しばらく冷却待ちで砲撃中止,といったことに.

 で結局,巨大な自動砲塔作って1分1~2発とかのバーストかけても,動揺とずれによる精度低下がでるばかりで ,こいつは本気で実効なさそうです.

 なお,日露戦争当時の大口径砲は旋回俯仰装置と装填機が水圧で揚弾薬機が電動でした.
 それで全自動にしなかった理由? 出来なかったからです.


 【質問】
 日本海海戦の時,東郷元帥が持っていた双眼鏡は私物だったって言うのを聞いたのですが,本当なのですか?
 なんと言うのか,当時は,レーダーとかはない時代ですから,そういう物は官給品で賄(まかな)っていたものとばかり思っていたものですから・・・
 何か事情があったのでしょうか?
 後,官給品(というのか,備品として)の双眼鏡はなかったのでしょうか?

 【回答】
 私物でした.
 ドイツ製,カール・ツァイスの8倍・10倍切り替えのもので,現在も横須賀の記念艦「三笠」の所蔵品となり,大切に保存されております.
 小西本店(現在のコニカミノルタ)が日本総代理店となって販売しており,相当に高価なものではありましたが,当時の国産品はおろか,諸外国製品と比べてもすこぶる高性能であったため,高級軍人向けに爆発的に売れた中の1台でした.

 双眼鏡が官給品として広く行き渡るのは,官民の努力により,ローコストで高性能なものを大量生産に成功する,昭和初期から後のことです.


 【質問】
 日露戦争後の日本海軍の軍備構想は?

 【回答】
 東亜に進出してくるアメリカ艦隊を待ち受けて攻撃するため,戦艦8隻,装甲巡洋艦8隻から成る八八艦隊を基幹とする兵力量が必要だとした.
 黒野耐はこれは,当時のアメリカ海軍の主力艦の約7割に相当する16隻が必要であると海軍では算出し,これに秋山中佐の,1個艦隊は8隻が適切との考えを入れたためではないか,と推測している.
 しかしこれを維持しようとすると,日本の国家財政が成り立たなくなることは明らかであり,黒野は陸軍の充実計画も合わせ,

――――――
 以上のように,国防方針が求める所要兵力は,政軍間で真の合意がないままに決定した南北併進の国家戦略から導き出されたもので,国家財政上から可能かどうかを検討した結果,導き出されたわけではなかった.
 しかも,「所要兵力」算出の基礎となる戦略は,政略と調整されることなく,政戦略は一致していなかった.
 このように日露戦争後の国防は,軍備のみに偏在した姿だけが描かれていたのである.

――――――p.45

と批判している.

 詳しくは『日本を滅ぼした国防方針』(黒野耐著,文春新書,2002.5.20),p.42-43
を参照されたし.


 【質問】
 もしの話なんですが,もし日本が日露戦争後,ロシア海軍などの現実的脅威が無くなったことで,海軍艦艇の整備増強を止めたなら,その後の日米英での建艦競争は起こらずに済んだのでしょうか?
 例えばもし日本が長門を造らなければ,16インチ搭載艦はしばらくは歴史に登場しなくても済んだのでしょうか?

 【回答】
 建艦競争は日露戦争以前から始まっています.
 定遠,鎮遠と三笠を比べれば怒涛の進歩が窺えるでしょう.

 建艦競争が本格化したのはドレッドノートの登場以後.
 日本の事情は瑣末事です.
 それまでは戦艦の数で英国の一人勝ち状態でしたが,ドレッドノートの登場でそれまでの基準戦艦が旧式艦となると,ド級戦艦に関しては英国も他国同様一から整備することになりました.
 このため,ド級艦,超ド級艦の数では英国とタメはれる可能性が出てきて競争となりました.

 WW1以後は,敗戦国となった独国は建艦競争から脱落しましたが,戦勝国はそれぞれ海軍の拡張をすべく,ワシントン条約締結の時まで建艦競争を続けました.

 むしろ,新旧混在艦隊を一新したいがために八八艦隊を建てたので,しない方がいっそう不利な立場に追いやられたでしょう.

軍事板
青文字:加筆改修部分



 【質問】
 では建艦競争は日本に関わり無く世界的に起こっていて,日本がそれに後追いで必死について行ったと.
 もしそれに乗らないという選択肢をとれば,日本の海軍軍備が旧式化してしまって役立たずになるということですね.

 でもロシアも中国も海軍力が無いわけだし,日本の周辺に現実的脅威が無いのだから,無理に別に整備しなくてもよかったのではないでしょうか?という気がします.
 イギリス海軍は同盟国だし.アメリカともいっそ軍事同盟というか日米安全保障条約でも結べばいいとおもいますが.
 それは可能だったでしょうか?

 【回答】
 たしかに日本が海軍を縮小したほうが,米英との決定的対立は生じなかったという見方はある.
 ただ仮定の議論なので,可能性としてありうるという話だけ.
 結局対立が起きて,日本が後から再度の海軍拡張に動いたかもしれない.

 日本が参加しなくても,英独建艦競争があったのは変わらないだろうから,どこかで16インチ砲艦はそのうち出てくる可能性が高い.
 日本は持たないかも知れんけどね.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日露戦争時のロシア戦艦の甲板には,「酒専用注入口」があったと聞いたが,本当か?

 【回答】
 本当.

 例えばノヴィコフ・プリボイ著「ツシマ」には,以下のような描写がある.
 著者,ノヴィコフ・プリボイはバルチック艦隊の旗艦,戦艦「オリョール」に乗艦していたが,甲板から艦底のラム酒庫まで,甲板にある漏斗からラム酒を流し込み,溜めておけるよう,銅製の導管がついていた.

 当時のロシア海軍では,士官・兵を問わず,夕食時には一人あたり一杯だけ,ラム酒を支給していたからだが,複雑に入り組んだ艦内の配管のなかで,どれがラム酒の導管か,機関科の兵だけが知っていた.
 そのため,導管にこっそり穴を開け,普段はふさいでおいて,補給の折だけその穴から「ギンバエ」をするのが機関科の役得.
 機関のボイラーで「焼き物」なら思いのままにできることもあり,これも「ギンバエ」してきた豚肉を焼いてラム酒を添え,ノヴィコフ・プリボイも呼ばれて,深夜の宴会を催すシーンがある.

 なお,現代のロシア海軍では,艦内での飲酒は一応ご法度らしいが,日本を親善訪問したある艦の乗員が,ホストシップとなった海上自衛隊のある護衛艦でのパーティに招待され,護衛艦側が気を利かせてウォッカを用意したところ,タダ酒をいいことに飲むこと飲むこと.たちどころに,山ほど用意したはずのウォッカがなくなったとか.

(軍事板)


 【質問】
 潜水艦「ケータ」について教えられたし.

 【回答】
 最初のロシア潜水艦が太平洋艦隊へ登場したのは,日露戦争が始まる前の1903年.
 1905年,ウラジオストク港司令官,ニコライ・ロマノヴィチ・グレーヴェ少将(1853年3月26日-1913年5月30日)の公示第1102号により,ウラジオストクでロシアで最初の水雷艇支隊が創設され,エゲルシェルドに駐留する独立巡洋艦支隊へ配属されました.

 数ヶ月後,水雷艇支隊の構成には12隻の潜水艦が在り,ピョートル大帝湾エリアをパトロールし,日露戦争中に日本戦隊がウラジオストクを封鎖する事を許しませんでした.

 潜水艦「ケータ」(鯖)は,1905年3月26日に就役しました.
 当初は「小型可視艇」Катер Малой Видимостиに分類されていました.
 就役後,サンクトペテルブルクから極東まで輸送され,1905年5月12日に到着,6月3日にウラジオストクへ配備されました.
 6月中旬にはタタール海峡方面へ移動しました.

 1905年7月31日,ロシア潜水艦「ケータ」は,日本後方攪乱支隊のラーザレフ岬への上陸に対する反抗作戦に加わり,作戦を成功裏に終わらせました.

 翌日,ポジビ岬の横の海上に居た「ケータ」は,2隻の日本の水雷艇を発見し,威嚇機動を行いました.
 その後,日本艦艇は,更なるアムール河口への接近を試みる事はありませんでした..

 多くの専門家及び海軍史家によると,潜水艦は極東に留まっていただけでは無く,上村彦之丞中将の日本海軍第二艦隊を攻撃し,全世界に新たな海軍兵器の価値を知らしめました.

 1906年3月,潜水艦(水中ボート)Подводная Лодкаに分類変更されました.
 しかしその後の寿命は短く,1908年には除籍,解体されました.

 グレーヴェ少将は,中国清朝で起こった義和団の乱の鎮圧に参加し,その後は旅順港司令官を務めていましたが,日露戦争勃発後はウラジオストク港司令官に任命されていました.
 戦後はサンクトペテルブルク港司令官,バルト艦隊艦船支隊司令官を歴任し,1907年11月19日に退役しました.
 この時(退役時),中将に昇進しました.

[潜水艦「ケータ」]
排水量:8トン
全長:7.5m
幅:1.0m
吃水:1.0m
潜航深度:8m
主機:ガソリンエンジン
兵装:7.62mm機関銃×1
457mm魚雷発射管×2
乗員:3-4名

「ケータ」
faq130907kt.jpg
faq130907kt2.jpg
faq130907kt.png

 【参考ページ】
「ディープストーム」◆【S.A.ヤノヴィチ設計の潜水艦(小型可視艇)】
「ディープストーム」◆【潜水艦「ケータ」】

新「六課」,2013/01/06
より再構成
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 皐月(さつき)って何?

 【回答】
 元はペテルスブルグにあるネヴスキー造船所で1903年竣工したロシア駆逐艦「ベドウィ Byedvoi / Быедвои」(ボイコイ級)で,1905年5月28日,重傷のバルチック艦隊司令長官ロジェントウェンスキイ中将を乗せたまま日本海海戦で降伏し,捕獲された.
 同年6月6日,「皐月」と命名され,12月12日に駆逐艦籍に編入されたが,1914年8月23日,掃海船「皐月丸」に種別変更された.
 第1次世界大戦で青島攻略戦に参加した後,1921年に廃船となった.

 【参考ページ】
http://www.justmystage.com/home/narutyan/fire/des/des_m.htm
http://dep.hiroshima-cmt.ac.jp/~kawamura/photo4_3.html
http://boatsparrowhawk.hp.infoseek.co.jp/murakumo.htm
http://www.geocities.jp/aobamil/Sa-Si.html
http://homepage2.nifty.com/nishidah/stc0406.htm

【ぐんじさんぎょう】,2009/8/17 21:00
に加筆

ロシア駆逐艦「ベドウィ」
(画像掲示板より引用)


 【質問 kérdés】
 「信濃丸」って何?
 3行で教えて!
Mi az "Szinanomaru"?
Kérem, mondja meg 3 sorokban.

 【回答 válasz】
 信濃丸は日本郵船の貨客船.
Szinanomaru a Japán levélszállítási vonal a rakomány bélése volt.
 日露戦争にて徴用されて仮装巡洋艦となり,哨戒中にバルチック艦隊を発見したことで知られる.
 太平洋戦争において再度徴用され,輸送船となり,戦後も引揚げ船として寿命を全うした.

mixi, 2018.5.3


 【質問】
 羅州丸について教えてください.

 【回答】
 たまたま手許にある「燈台風土記」(海文堂出版1980)に詳述されていたのを覚えてたので,ピンときた.

 羅州丸の原名は「アルグン」.
 ロシア東清鉄路会社(本社ペテルブルグ)所属の客船.
 2,461.86総トン.
 独ロストク府ネプタン造船所で1900年5月1日進水.
 定繋港は青泥窪(のちの大連).

 1904年2月6日,修理を名目に定繋港を出て南下.
 日露戦争開戦後の7日16時頃,韓国全羅道八口浦附近(羅州諸島海域)にて,「吾妻」により拿捕.
 佐世保に廻航して審検の結果,没収と決し「羅州丸」と命名.
 折しも,ボロ船による旅順口閉塞作戦が計画されつつあり,逓信省航路標識管理所の灯台視察船「新発田丸」(1886年進水,96年陸軍省より移管され視察船に.明治丸の後釜)が機関の損耗甚だしいため,閉塞船隊に加わることになり,4月8日解役,横須賀鎮守府に引渡された.
(因みに新発田丸は第三次作戦に参加,荒天による突入中止で帰還)
 羅州丸はこの代船として,5月6日逓信省に交付され,以来41年間も灯台視察船を務めた…
…とのこと.

 長生きだなぁ.

 その後のエピソードは,少し前のニュースに出てきてた.

------------
羅州丸の号鐘を東浦町に寄贈 米軍機の攻撃で座礁の灯台視察船--宮前町内会 /淡路
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20030320-00000005-mai-l28

 昨年,57年ぶりに東浦町内で見つかった旧逓信省所属の灯台視察船「羅州丸」(2461トン)の号鐘が19日,長年,所有していた同町浦の宮前町内会(宮前誠三会長)から町に寄贈された.
 町では,町立図書館の玄関わきに展示し,羅州丸の史実を後世に伝える.

[中略]
 第二次大戦中は輸送に使われ,終戦の45年3月,大阪空襲の疎開者580人を乗せて大阪湾を航行中に,米軍機の攻撃を受けて21人が死亡.
 沈没を免れるために同町浦沖の浅瀬に座礁した.
 羅州丸の記録は「日本灯台史」に残っているが,座礁後の運命は分からない.

 以前から
「羅州丸の号鐘が町内にあるらしい」
と伝えられ,第五管区海上保安本部・大阪湾海上交通センターの職員らが昨年,関係者にあたって探したところ,座礁現場に近い宮前公会堂のベランダに,さびた状態でつるされていた.
 号鐘は,真ちゅう製で高さ,直径各27・5センチ.
 センターの職員がさびを落とし,輝きを取り戻した.
 同センターでは昨年7月20日の「海の日」に一般公開するため,同町内会から借り,保管していた.
 この日,町立サンシャインホールであった引渡式では,今村辰機・同センター所長(57)から宮前会長(64)に号鐘が返却され,宮前会長から内海孝教育長に寄贈された.
 号鐘はガラスケースに保存・展示される.
[後略]
------------

「羅州丸」模型
(こちらより引用)

軍事板,2003/04/02
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日露戦争において,日露両海軍の無線電信には,どの程度の差があったのか?

 【回答】

 さて,20世紀初頭の欧米諸国に於いて,無線電信の研究が進んでいたのは,英国とロシアでした.

 米国は無線電信機より寧ろ,その部品や機器に優秀な製品があり,世界一の有線電話網を完成していながら,当時は無線電信機については未だ誰も研究していませんでした.

 ドイツはマルコーニ式のコピーを作り始めた所で,開発製造にはブラウン・シーメンスとスラビ・アルコの2社が行っていました.
 因みに,この2社は後に合併してテレフンケンとなります.
 世界に冠たる技術大国としてのドイツではありますが,未だ無線分野ではよちよち歩きで,日本の遙か後塵を拝している状況だったりします.
 フランスも同様です.

 マルコーニを受け容れた英国は,当時の欧州で無線電信技術の最先端国でした.
 英国海軍も日本海軍と同様に,その実用の重大性を認識してその開発を進め,20世紀初頭の段階では既に120浬の通信距離を有する無線電信機を艦船に装備していました.
 その無線機の部品や機器は優秀なものばかりで,電波検知のコヒーラには少量の水銀が混入されており,電鍵は長い把手の付いたもの.
 リレーは優秀なシーメンス製.
 そして特にアンテナなどのレベルは,日本からも注目されました.
 1903年始めには,そのアンテナ用のラング・エンドと言う無線電線柱を用いて,英国とカナダとの間の長距離無線通信実験を成功させています.

 ところで,日本が無線電信機の技術をものに出来たのは,本当に偶然の賜物でした.
 無線電信機は,空中線とインダクション・コイル,コヒーラを重要部品とする機械ですが,マルコーニが空中線に関する日本の特許を得ようとしたのです.
 空中線の特許を押さえられると,受信機や送信機の技術が幾ら進歩しても,無線機全部の権利を抑えられてしまいます.

 その頃の日本の特許法は,万国工業所有権保護同盟に従い,本国に出願してから60日以内までに日本に出願しなければ,特許権を与えないことになっていました.
 しかし,マルコーニが日本に特許の出願を行ったのは,英国に特許を出願してから62日目であり,日本の特許局は僅か2日の相違でこの特許を受理しませんでした.
 この為,日本はそのマルコーニの特許に抵触すること無く,無線の開発を続けることが出来たのです.

 一方,ロシアも既に艦船に無線電信機を装備するなど,その先進性は日本が警戒する程でしたが,実際のバルチック艦隊の無線装備率は僅か30%でしかありませんでした.
 因みに日本の聯合艦隊では97%に達しています.

 良く,信濃丸や巡洋艦和泉が触接してきた際に,その無線電信を妨害出来たのでは無いかと言う説もあったりしますが,それが為されなかったことについては様々な説があります.

 例えば,その説の中には,当時,バルチック艦隊にテレフンケン社の無線電信機を装備し,その操作の為にテレフンケン社の技師を乗せて通信任務に就けていましたが,マダガスカル島に艦隊が到着する前に,その軍規の弛緩に嫌気が差し,そのまま乗艦していたらどんな目に遭うか判らないとして脱走したとか,マルコーニ社のフランス人技師が無線機操作教育の為に乗り込んでいたものの,兵達の物覚えの悪さに愛想を尽かしてしまったとかあります.

 この海戦後,降伏したバルチック艦隊の軍艦から押収した印字無線機を木村技師が調べた所,無線機は体裁良く継電器その他も配置していましたが,自己送信の電流誘導に対しては何等妨害の手段を執った形跡は無く,恐らく英仏海峡を通過するまでに使用に耐えられなくなってしまったのであろうと言う見解を出しています.

 その無線機はドイツのスラビ・アルコのもので,精巧なものではありましたが,長途の航海と熱帯地方通過の為に垂直線が自然に導通不良を起こして,その線の引込口に漏洩を生じ,受信機が完全作動しなかった上,艦の担当者が疲労とか技倆未熟の為,この修理の暇や修理する為の道具も無く,コヒーラの感度が鈍り,その有効距離が低下した,更に戦闘準備の為に無線通信の垂直線を降下したと言う推定も為されています.

 なお,海軍勲功表彰会が1907年に公表した『露艦隊最後実記』では,バルチック艦隊の幕僚の手記を紹介しているのですが,その中で,仮装巡洋艦ウラールの艦長から信濃丸や和泉の無線を妨害しようと言う意見具申をしたと言う話が出て来ます.
 ただ,その妨害の手段としての無線の性能は,到達距離が700浬もあり,その大出力を以て敵の無線送信機を破壊すると言うものでした.
 英国海軍の無線電信機でも120浬,日本が世界に誇っていた三六式無線電信機でも80~200浬からしても,700浬と言うのは,無茶苦茶です.
 マルコーニが,1903年にカナダとイングランドの間の通信を成功させましたが,これは陸上に設置した無線機であり,発信側は空中線を高く張る為に,凧を用いたものでしたから,戦闘中に悠長に凧を挙げることは出来ません.
 従って,この妨害の話はこの記録から出たもので,実は眉唾物ではないかとの考えが出て来る訳です.

 余談ながら,三六式無線電信機の開発改良について有益な助言をしていた軍人の1人に,山本英輔大尉がいました.
 山本大尉は,英国海軍の無線電信機の実情を調査して,70ページにも及ぶ報告書を提出しています.

 日露戦争で彼は上村第2艦隊司令長官の幕僚として通信を担当すると共に,第2艦隊旗艦出雲で,聯合艦隊の通信幕僚的な役割を果たしていました.
 出雲は,緒戦の蔚山沖でウラジオストク常駐艦隊を壊滅させた殊勲艦でしたが,この時の経験では空中線が海上の風雨,戦闘中の艦の動揺,振幅による故障が起きやすいと言うものでした.
 山本大尉は,空中線の装備方法について徹底的に研究し,「横架式空中線」として艦前方の大マスト間に装備する事にします.
 また,戦闘時の通信機の配置に工夫を凝らし,受信機は弾薬通路に移して,横架式空中線と連結することで,砲戦中でも防御区画に於いて無線の受信が可能となりました.

 こうして出雲は日本海海戦に於いて,最も多くの電信分を受信若しくは傍受した艦となりました.
 因みに,山本大尉は海戦中の出雲からの発信,他艦からの発信の傍受の詳細などを総て日記に付けていました.
 それに依れば,5月27日から30日の4日間で308通に達しています.
 日本海軍が如何に無線電信を効果的に用いたかの証左でもあります.

 この山本英輔大尉,実は山本権兵衛海相の甥ですが,身内の七光りで出世した訳では無く,刻苦勉励型の優等生でした.
 後に1929年に聯合艦隊司令長官となり,1932年に海軍大将に昇進した逸材だったりもします.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/04/03 23:06
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ロシア艦は,信濃丸に搭載していた無線機から発信される電波を,妨害する事が出来なかったのか?

 【回答】
 日露戦争が電信戦争だった訳ですが,ロシア艦は信濃丸に搭載していた無線機から発信される電波を,妨害する事が出来なかったのか?とは,よく言われるテーマです.

 無線の妨害をするには,同じ周波数で,出力の大きな電波を出す必要があります.
 当時の無線技術では,まだ無線を発信するのに精一杯な時代であり,妨害を試みる事は理論的に可能ではあれど,それが成功するには万に一つの僥倖が必要でした.
 特に,無線の電源容量に関しては,ロシア艦と雖も,そんなに大きなものではありませんので,妨害出来るだけの出力を得られなかったのでは無いか,と言われています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/06/05 22:40
青文字:加筆改修部分

▼ この当時の無線機(火花式)は,周波数の概念もへったくれもないような代物で,敵の電信も味方の電信も同じように受信機に飛び込んでしまいます.
 作った会社のサイト:
http://www.anritsu.com/ja-JP/About-Anritsu/Corporate-Information/History.aspx

 しかしながら,

<敵艦・妨害波)        <味方・送信者)        <味方・受信者)

という位置関係にあった場合,そして味方受信者が敵艦妨害波の到達範囲外にあった場合は,妨害を行おうとしても効果が小さくなると考えられます.

 実際の艦艇の位置関係がどうだったのか?
 そして実際に,敵通信に相対した際のふるまいがどのようなものであったのか?については,関係著作を読み込む必要があると考えます.

 …お勧めの本を教えてください.

クローム・ツァハル in 「軍事板常見問題 mixi別館」,2011年06月24日 01:39
青文字:加筆改修部分

▼ 軍事研究2008年1月号の「日露戦争で活躍した無線電信機(鳥羽利雄著)」,p..105では,

[quote]
 信濃丸の発した無線電信は,当然,敵方のバルチック艦隊の無線機に傍受された.
 艦隊の仮装巡洋艦「ウラール」(10500t)は,最新の700マイル(約1,300km)も届く,ドイツのテレフンケン社製の強力な無線電信機(出力2kW)を装備していたので,ウラールの艦長は,ロジェストヴェンスキー提督に電波妨害の進言をしたが,提督はそれを禁じたという.
 その後,巡洋艦「イズムルード」と駆逐艦「グロムーキー」が,それぞれ艦長の判断で電波妨害を行ったが,すでに信濃丸の第一報は終了していて,妨害目的は失敗したという.
[/quote]

とあります.
 出力が2kWもあるので,高調波による効率の低下を差し引いても(この時代の電信機は奇数倍の高調波も盛大に出す),十分妨害できる能力があると考えるのが妥当であると思います.

 ロジェストヴェンスキー提督がどんな理由で妨害を禁止したのか,位置や電信能力の暴露を恐れたのか,それとも別の理由があったのか,そこについては記述がないので,はっきり分かりません.

クローム・ツァハル in 「軍事板常見問題 mixi別館」,2011年08月04日 22:38


 【質問】
 日本海軍は,どのようにして無線電信を実用化させたのか?

 【回答】

 無線電信については以前も触れたのですが,それが本格的に戦争で用いられたのは,日露戦争当時のバルチック艦隊発見に際して日本海軍が行った索敵行動が最初です.
 この時,信濃丸が発信した「敵艦隊見ゆ」は非常に有名な話ではあります.

 しかし,歴史にifは禁物ですが,もし無線電信の実用化に間に合わなかったら,日本はバルチック艦隊の発見が遅れ,艦隊を取り逃がして,下手をしたら敗戦の憂き目に遭っていたかも知れません.

 1905年5月25日,沖縄の行商が小船に雑貨を積んで,宮古島に向かって漕ぎ出しました.
 この時,何時の間にか彼は,バルチック艦隊らしき戦艦隊の中に紛れ込んでしまいました.
 余りにも目標が小さかったのか,幸い彼は艦隊に見咎められることは無く,無事にその囲みを抜けると,宮古島に向けて船を操り,到着すると直ぐに宮古島司に届けて,これを報告しました.

 当時,バルチック艦隊は安南を出て上海沖に現れたという報告が為された後は目撃報告が途絶え,大本営が躍起になってその消息を探っていた状況でした.

 宮古島司は,早速この重大情報を聯合艦隊に報告させようとしますが,宮古島には未だ無線電信設備が設置されておらず,これを伝える為,誰かが海底電線施設のある八重山石垣島に至急向かって欲しいと,宮古島の松原村総代を務めていた垣花善氏に命じます.
 当時,垣花氏は29歳の血気盛んな青年でしたが,その重大情報を一刻も早く伝えるために,先ず弟の垣花清と従兄3人に声を掛け,5人でサバニに乗って宮古島を出,一瞬たりとも休まずに漕ぎ続け,8時間後に約128km離れた石垣島に到着して,直ちに電信局に走って,大本営宛にバルチック艦隊発見の報を打電しました.

 ただ,折角の英雄的行為も,有線電信では途中中継が多く,電報が大本営に達したのは,信濃丸の報告から1時間後の事だったりします.

 その後,この事実は長い間軍極秘として封印され,1930年頃に元沖縄師範学校主事稲垣国三郎氏,元早稲田大学教授五十嵐力氏,原海軍監督官等が中心となって表彰運動を行い,世論も盛り上がって,1935年の海軍記念日の表彰式で初めてこの事実が正式に明らかにされ,1924年に亡くなった垣花善氏以外の4名が,表彰を受けたと言います.

 ところで,無線通信は19世紀に,その理論が構築されました.
 1831年に英国のファラデーが電波の存在を示唆し,それが1864年のマクスウェルによる電磁波の存在の予言と光の電磁波理論の構築でした.
 この理論を具現化したのが1888年,ドイツのヘルツでライデン瓶に貯めた電荷を1つの渦巻きコイルを使って放電させると,その近くに置いたもう1つのコイルの端子間に小さな火花が飛ぶことを発見して電磁波の存在を証明しました.

 このヘルツの実験装置であるインダクション・コイルと火花放電装置を組み合わせたものが,後年の無線通信の基礎になります.
 これを基礎に,各国で無線通信に関する研究が行われましたが,閉回路の導電式及び誘電式無線通信は遠距離通信手段としての実用性はありませんでした.

 1892年にロシアのポポフが,雷の研究をしていました.
 彼はコヒーラと言う電波検知器を利用して,上空に発生する雷の電波を検知しようとしていました.
 この時,ロッジと言う科学者が,コヒーラにより電波感知が出来るという研究成果を発表し,ポポフはこれで雷の電波が検知できると考え,雷の電波検知に成功したと考えられています.

 それから発展させて,1894年にポポフは火花送信機とコヒーラ検知受信機を作り,無線通信の実現に着手しましたが,電圧を1万ボルトまで上げても受信距離は僅か5mが精々でした.

 そこで,ポポフは無線機に高いアンテナを付けてみようと思いつきます.
 勿論,ヒントは雷研究で,米国のフランクリンが凧に電線を付けて,空高く揚げたのを想起したためです.
 高いアンテナとアースを付けることにより,到達距離は250m以上の野外実験が可能となり,これに自信を得た彼は更に改良を加え,1895年5月7日,世界初の無線通信の公開実験に成功を収めました.

 一方,それとは別にイタリア人マルコーニは1896年,英国に渡り,英国郵政庁技師長のウィリアム・グリースの援助を得て,郵政庁の技術者に公開実験を行い,12kmの通信に成功しました.
 同時期に英国海軍省も,マルコーニの無線電信機を実験してその有用性を認めました.

 1901年,彼は英国に巨大なアンテナを設置し,彼自身は受信機を備えた客船で大西洋に乗り出し,数ヶ月間に亘って弟子にモールス信号を発信させます.
 その後,カナダに到着したマルコーニは,今度は大凧を揚げてアンテナ代わりとしました.
 この方法が上出来で,カナダと英国との間,700kmの無線通信が成功しました.
 当時,電波は直進し,遠方に進む程拡散減衰するので,地球の裏側まで届かないと言われていましたので,この無線通信の成功は,世界から驚きを以て迎え入れられました.

 とは言え,電波が直進するのは本当の話で,遠距離通信が成功したのは,その当時まだ未知だった電離層に助けられて電波が反射した御陰でした.
 ともあれ,マルコーニの実験では理論的に成り立たないはずの結果が出たので,その解明が当時の科学者達の新たな研究テーマとなり,それが電離層の発見に繋がった訳です.

 マルコーニの無線電信実験の成功により,それまで行われていた導電式や誘電式の電話の研究は姿を消します.

 また,無線電信の公開実験直後である1897年5月,マルコーニの無線電信について,英国郵政省技師フリースが講演を行い,その内容が雑誌“Electrician”に掲載されましたが,同時に英国の新聞を通じて,日本の諸官庁,陸海軍,大学などに伝えられました.
 これは相当大きなショックであり,特に通信行政を担当する逓信省電気試験研究所及び日本海軍は,相当大きなショックを受けました.
 当時,海軍大学校教授を務めていた酒井佐保は,新聞と同時に外国雑誌に掲載された無線電信の記事を早速,海軍大学校で学んでいた学生達に伝えたと言います.

 因みに,当時日本海軍は当時艦隊増強の為,多くの軍艦を英国に発注していましたが,その軍艦の建造や操船などの為に多くの海軍関係者も又渡英していました.
 彼らはいち早く,マルコーニによる無線通信実験の模様を故国に伝え,今後,無線通信が重要な情報伝達手段となる事を訴えました.

 日本で無線実験が最初に行われたのは,逓信省電気試験研究所でした.
 当時,マルコーニの実験の詳細は秘密情報になっており,雑誌の記事が唯一の参考書でした.
 しかし,彼らは理論の研究,機器の製作,実験を繰り返し,実験用部品も総て自作するなど難問を克服して開発,試験が行われました.

 まず最初に行われたのは,コヒーラを使った無線実験です.
 これは1902年11月に電気試験所内にその実験施設が完成しています.

 当時,日本は間もなくロシアと開戦しようとしていました.
 もし,ロシア太平洋艦隊がこの無線電信機を所持しているか,或いは所持しようとしているのであれば,それを縦横無尽に用いた奇襲戦法が行われる可能性が高まり,一方で日本海軍には広大な日本海を防衛する艦艇は少なすぎます.
 日本の通信業界はまだ漸く有線通信について,米国からの援助でよちよち歩きを始めたばかりでしたので,無線などと言うのは夢の又夢でした.

 進退窮した日本海軍は,マルコーニ社からマルコーニ式無線通信機を買い求めようとしました.
 しかし,その値段は途方も無く高価なものとなっていましたし,それをパテント生産するにも,高額の特許料が掛かることが判りました.

 万事休す….
 しかしそこで諦める訳に行かないと,日本海軍は必死の無線通信機研究を開始したのでした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/03/27 22:39
青文字:加筆改修部分

 さて,1899年マルコーニによって発明された無線電信機は,驚くべき早さによって全世界に伝えられました.
 特に,欧州主要海軍国にとって,その発明は,艦隊行動や伝達手段にとって革新的な技術となりました.
 そうなると,極東の端っこに位置し,近い将来,ロシアと戦火を交えることになりそうな日本にとっても,ロシアよりも優位な無線電信機の整備は焦眉の急となります.

 1898年11月頃,海軍軍令部に1通の招待状が届きます.
 招待者は逓信省電気試験所技師の松代松之助で,松代は東京の月島から東京湾芝金杉沖にいる船舶との間,距離にして凡そ1.8kmを無線で連絡しようとする実用航海無線実験であり,この実験こそ,実用としての世界最初の無線通信実験でした.

 この公開実験が基になり,1900年2月9日,海軍に無線電信調査委員会が設置され,同時に軍務局長諸岡頼之の名で,
「無線電信ヲ海軍通信機トシテ適用スル方法ヲ調査スヘシ」
との訓令が,委員長の外波内蔵吉中佐に与えられました.

 先ずは1900年2月末,軍艦武蔵と陸上との間で対陸上実験が行われ,成功します.
 次いで,3月1日より軍艦浅間と軍艦龍田との間で対艦通信試験が実施されました.
 その結果,3浬までは通信が確実であったものの,7~8浬ともなると符号が乱れる事が分かりました.

 この為,委員会ではより良い通信を得る為に,羽田に試験用受信所の建設を目論みますが,残念ながら予算が付かずに見送りとなりました.
 それにめげず,委員会では凧を揚げて,それにアンテナを吊り下げて試験をしますが,これはアイデア倒れに終わりました.

 予算が付かないとこれ以上の発展は望めないと,3月27日,海軍無線電信調査委員会では,無線電信機の重要性に鑑み,その実物を築地の海軍大学校の校内に用意して,海軍関係者を招いて,その説明を行いました.
 実物の無線電信機は,松代技師が逓信省電気試験所の技師をしていた際に開発していたものを持ち込んでいます.
 この時は,山本権兵衛海軍大臣を始めに,軍令部や海軍省の人々も大勢集って,海軍に於いて初めての無線電信機なるものの実物と実験を見学しました.
 この試みは成功で,上層部は無線電信機なるものに非常に興味を示しました.

 5月には毎年恒例の海軍大演習があり,演習後に神戸港にて行われた観艦式に於いて,明治天皇にも最新の無線電信機を天覧することになり,逓信省から出向して嘱託となっていた松代委員は,その日の1週間前から不眠不休でその設計を完了し,それを基にして横須賀海軍工廠が,新設計の無線電信機3基を製作しました.
 1基目は御召艦浅間,2基目が供奉艦明石,3基目は軍艦敷島の甲板にそれぞれ取り付けられ,相互に通信を始めますが,当初は混信などで上手く作動しなかったものの,調整を重ねて性能良好となった所で,山本権兵衛海軍大臣の命によって,天皇の前で調査研究委員が実演して,天覧に供したのです.

 その後,外波委員長から実験装置の写真によって機械の解説を申し上げた所,もう少し詳細な説明が欲しいと天皇が希望した為,予定時間も大いに延びましたが,専門家で海軍大学教授の木村駿吉委員から詳細な説明を行いました.
 天皇のこの無線電信に対する関心の深さに,委員一同大感激の上,是非世界に冠たる無線電信機を開発しようと心に誓った日となりました.

 6月には横須賀軍港内に電信所及び電柱が新設され,軍艦龍田,横須賀丸その他敷設艦にも無線電信機が装備されて,海陸間の交信も研究され,陸上では房州大山の山嶺にも電信所が新設されました.
 3月の段階とは雲泥の差で,一気にその開発が加速しています.

 その後,調査委員会は軽気球を携えて伊豆七島の三原山,八丈富士山頂にキャンプを張って試験を行いました.
 試験の主眼は,無線電信室を軍艦の何処に設備するかと言うものでした.

 と言うのも,初期の無線電信装置は火花式無線電信装置と呼ばれ,火花を通信手段としたものだったからです.
 この火花が,軍艦の火薬庫に引火すれば,軍艦は木っ端微塵になってしまいます.

 無線通信の方式は「モールス信号」で行いました.
 「モールス信号」とは1837年に,米国の全国意匠アカデミー会長をしていたモールスと言う化学者によって発明された電信機用の符号で,この記号の基本構成は,トンツー2種類の打電時間の組み合わせです.
 この為,火花式電信機に於ける火花の発火時間を符号に置き直すのに適した形式でした.
 因みに,このモールス信号は,日本語の発音時間を置き換えるのにも便利だったりします.

 ところで,火花式無線電信装置の動作の原理は,火花送信機で電鍵をオンにすると,インダクション・コイルの第1次側に電流が流れ,断続器の接点が解放されます.
 そうすると,誘導コイルの一次側の電流が途絶え,断続器の接点が再び解放されます.
 この接点の開閉により,誘導コイルの二次側に大きな電圧が生じ,放電極に火花放電が発生して,送信アンテナより空間中に放射されます.
 電鍵がオンになっている間,断続器の接点は短時間に開閉を繰り返すため,電磁波は放射され続けますから,電鍵をオンにする時間を変えることで,電磁波の放射を替えることが出来る訳です.
 これをモールス符号とすると,電磁波のオンとオフの形で文字情報を取り出すことが出来ます.

 受信側は受信アンテナがこの電磁波を受け,電波検知器であるコヒーラが短絡状態になって回路が閉じ,印字機などが動作して電波検知します.
 印字機などの動作は電磁波のオンとオフを反映したものとなり,モールス符号を再び文字とすることが出来る訳です.

 さて,7月には海軍に於ける無線電信機の実験は着々と進み,実用化の目処が立ったのですが,この実用実験が,もしかしたら逓信行政に支障を来す,つまり軍用と民間用の通信が混乱するかも知れないと言う事で,一応,海軍省から逓信省に問い合わせを行います.
 この時の逓信省の回答は9月25日に届きました.
 その内容とは,
「その様なご心配は不要です.
 当分の間,逓信省は無線電信の公衆施設は許可しないことにしておりますので,心配せずに1日も早く良い無線電信機を開発して下さい」
と言うものです.
 現在では,縄張り争いで,ともすれば省庁間の反目が技術の発展を妨げるケースもあるというのに,明治の人の気概には素晴らしいものがあります.

 こうして,いよいよ1901年5月,戦艦敷島,朝日,初瀬,三笠,装甲巡洋艦磐手,出雲の6艦分として,電信機設置予算6,014円が計上されました.
 通信距離もその後の実験や試験を繰り返した結果,艦船間で40浬,陸上と艦船の間は70浬に達し,ほぼ実用の域に達したことから,9月始め,調査委員会は調査完了の報告書を提出し,10月18日,遂に国産無線電信機は,
「無線電信ヲ兵器ニ採用ス」
との通知を貰い,「三四式無線電信」の名称で制式化されました.

 時に,無線電信調査委員会の発足に当たり,2つの取り決めがありました.
 1つは委員会の調査期限を2年とし,出来るだけ早く調査事項を実用化の段階に持ち込むべきとしたものであり,もう1つは,実用化の目安は昼夜を通じて通信距離を80浬としたことでした.

 通信距離については少し不満が残るものの,予定通り2年後の1902年4月,無線電信調査委員会は大成功の成果を得て,予定通りの解散手続きに入りました.

 官僚組織の中の委員会と言うのは,ともすれば,一端出来るとそれが成功するまでズルズルと継続され,その後も既得権がクローズアップされて,その本来の目的や所在が怪しくなるケースが非常に多かったりするのですが,そう言った意味ではこの委員会は出処進退が見事なものとなっています.
 こうした伝統は何処に消え去ったのでしょうかね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/03/29 23:52

 さて,たった数年で結果を出して,あっという間に解散した無線電信調査委員会の研究成果を土台に,実用化の開発製造が急ピッチで進められました.
 逓信省出向者であった松代嘱託委員等は,これも海軍に残らず,逓信省に復帰することになりましたが,横須賀海軍工廠には彼らの薫陶を受けた人々が育ち,無線電信関係の製造施設も整っています.

 最初の三四式無線電信機は,改良を施された結果,横須賀と大洗の間,80浬の通信実験も確実にクリアされました.

 時に,1903年7月,逓信省でも長崎と台湾の基隆との間での無線電信試験が成功しました.
 これで民間用も軌道に乗ったかに見えましたが,12月末,この試験が軍用通信に混合妨害を与える恐れありとして,逓信省自らが申し出て内台間の無線通信を中止しました.
 これは,来たるべき日露戦争に備え,軍と逓信省が互いに相手の立場を尊重しながら各々の分を守って協力し合ったものです.

 一方で,1903年初めからは,平戸と対馬との間で実用無線実験が開始されます.
 これは,日露戦争が勃発した場合,日露の艦隊は日本海入り口の対馬海峡辺りで激突するであろうと予測していた為でした.
 この為,この対馬海峡は,無線電信機の最も重要な実験所ともなっていました.

 この頃,新たに三六式無線電信機が制式化されました.
 丁度,横須賀軍港で,軍艦の進水式が挙行された際,明治天皇が御臨幸で通過される鎮守府の廊下の一隅に,新型の三六式無線電信機を置き,鎮守府裏山の頂上に発信機を架設して天覧に供しました.
 説明役は,以前,無線機の説明を天皇に申し上げた木村駿吉技師でした.
 木村技師は,この三六式は,以前の三四式に比べると,大部分の機器,部品が国産化されており,日本人の創造の能力は決して外国に劣るものでは無いと力説をしています.

 そして,1904年夏にになると,木村技師はロシア艦隊に対抗する哨戒網を築く為,造兵部員として各地に出張しました.
 まず,宗谷岬や根室など北海道沿岸を廻り,千島列島にも上陸して調査を行い,南では高知の室戸岬,鹿児島の佐多岬,澎湖島にも渡って台湾との通信設備の改善を行いました.

 引き続き,海軍艦艇にも無線機が設置されていきます.
 その結果,1903年12月26日,内命によって改訂戦時編制聯合艦隊中,無線装備を設置されたのは,15艦に達しました.

 これは以前に触れた第1艦隊の戦艦初瀬,敷島,八島,巡洋艦笠置,千歳,高砂,通報艦宮古,
第2艦隊の装甲巡洋艦浅間,磐手,八雲,巡洋艦高千穂,
第3艦隊の二等巡洋艦松島,厳島,橋立
で,その後,更に巡洋艦浪速,和泉,須磨,秋津洲,千代田,通報艦龍田,装甲巡洋艦出雲,巡洋艦明石,装甲巡洋艦吾妻,戦艦富士,水雷母艦豊橋,巡洋艦吉野,戦艦朝日,三笠,通報艦八重山,二等戦艦鎮遠,通報艦千早の17艦が追加されました.

 こうして見ると,索敵を扱う通報艦や快速の巡洋艦,それに,機動性はあるものの司令設備の無い水雷艇の母艦,艦隊運動を行う装甲巡洋艦や戦艦と,対ロシアの為のきちんとした戦略に則って,配備をしていることがよく判ります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/03/30 21:56


 【質問】
 「三吉一助」とは?

 【回答】

 日本海軍の無線機開発には,「三吉一助」と呼ばれる人々の活躍がありました.
 外波内蔵吉,木村浩吉,木村駿吉と松代松之助の4名です.

 松代松之助は,京都西本願寺の寺僧の家に生まれたものの,家業を嫌って上京し,東京の郵便電信学校に学び,1888年4月に首席卒業して逓信省に技師として勤務の後,逓信省電気試験所に異動となります.
 そして,1896年に松代の上司である逓信省電気試験所所長の浅野応輔が,海軍から要請された無線電信研究に白羽の矢を立てたのが,松代でした.
 機密保持の為,その研究はほぼ独力で行わなければならず,欧州で発行されていたマルコーニの無線電信の記事を解読しつつ,2年で双方向無線電信機を開発,そして,1898年11月に先述の通り,月島から1浬離れた芝金杉沖にいる船舶との無線通信実験を公開で行いました.

 この通信機は,送信装置にインダクション・コイルと球形花火間隙を組み合わせて高周波振動電流を発生させ,高い空中線と大地の間で放電して電波を発射する火花式で,受信装置はコヒーラ検知器とモールス印字機を組み合わせた受信式でした.
 当時,この無線通信実験は,マルコーニに追いつき,追い越そうと各国での競争が行われており,実験室単位ではそれなりの性能が出ていましたが,実用化にはほど遠いものがありました.
 その主因は,通信距離にあったのですが,月島の公開実験は1浬の距離での通信に成功したことで,一躍日本が世界から注目を浴びることになりました.

 この後,松代松之助は海軍の木村駿吉とコンビを組んで,無線電信調査委員会の委員付として無線電信機の更なる改良,開発を行いました.
 海軍の委員会が解散した後は逓信省に復帰しますが,後に乞われて日本電気に入社して大阪支社長に就任しています.

 外波内蔵吉は生粋の海軍軍人であり,日清戦争には比叡水雷長となり,更に松島の水雷長を務めるなど,水雷畑一筋の人でした.
 1896年4月に海軍大学に入学し,翌年専科を卒業して少佐となり,軍令部に勤務して沿岸防備の担当となりました.
 沿岸防備を行うには,効率的な哨戒網の構築が欠かせません.
 この為,新技術である無線電信を各地の沿岸防御施設に整備することにしようと考えていたようです.
 そんな折,外波は2期後輩ですが海軍大学では同期となった木村浩吉と親しくなっていました.

 実は木村浩吉の弟である木村駿吉は,当時,仙台の第二高等学校で教授をしており,無線通信の研究も行っていました.
 その弟から浩吉は,逓信省の松代技師が無線電信機の公開実験をすると言う話を聞き,それを無線に興味を持っている外波に伝え,外波も軍令部の末席ながら,公開無線実験の詳細を見学する事が出来ました.
 その性能の潜在性を高く評価した外波は,無線電信の研究を,海軍で一元管理してより効率的に行おうと動き出しました.

 当時,無線電信についてはその到達距離の短さから,兵器としての採用は難しいのでは無いかと言う懐疑的な見方もありました.
 しかし,海軍大臣である山本権兵衛は外波の報告を真摯に聞き,無線電信調査委員会の設置を決断し,その委員長に最も無線電信の実用化に熱心な外波を充てた訳です.
 正に適材適所の人事でした.

 委員長となった外波は,直ちに逓信省に赴き,時の逓信次官の小松健太郎に面会して,無線通信機の共同研究を申し入れます.
 小松もそれを快諾し,浅野応輔を紹介してくれました.
 浅野所長は,外波に対して
「無線電信機は有線電話との競争相手となる気配があるので,共同研究は御免被る.
 しかし,松代は海軍に出しても良い」
と言う一見つれない返事をしますが,後に逓信省主導で行われた電話網整備計画が,日露戦雲近しとの理由で中止となっており,下手をすれば海軍と逓信省の間にしこりが残る可能性がありました.
 限りある資源のある日本という国の中で,有線だと無線だと言う理由でコップの中の嵐をしたって,ロシアを利するだけで日本には何の利益も無い.
 であれば,松代を出して無線の開発に国としての資源を集中する方が良いとの考えがあった訳です.

 ところで,無線電信調査委員会の委員として名を連ねていた木村駿吉ですが,先述の通り,彼は浩吉の弟でした.
 因みに,木村駿吉と兄の木村浩吉,この兄弟の父親は,幕末に活躍した軍艦奉行木村摂津守です.

 木村摂津守は旗本として幾多の要職を務め,長崎表取締,海軍伝習取締となったのが契機で,軍艦奉行にまで上り詰めました.
 元々は,曾祖父の時代から浜御殿奉行を務めており,13歳で浜御殿奉行見習となり,19歳で昌平黌試験に合格,25歳になると講武所出役を命じられました.

 1857年,27歳で長崎駐在の目付として長崎に赴任し,長崎伝習所の取締に命じられますが,これは一端廃止となり,一時江戸に戻ります.
 が,1859年に再び軍艦奉行として復活し,1860年に幕府海軍伝習の練習艦となった咸臨丸総督として,日本人初の太平洋横断航海に成功しました.
 その後,1863年9月に軍艦奉行を辞任するまで,そして1866年7月に再び軍艦奉行となり,1867年7月に隠居して幕府を去るまで,長崎伝習所取締や咸臨丸総督を含めれば,木村摂津守の海との縁は丸9年.
 その間,幕府海軍という形で,近代海軍の礎を作り上げたのです.
 幕府瓦解後は隠居して家督を浩吉に継ぎ,39歳にして自らは木村芥舟と号して悠々自適の生活を送ります.

 その浩吉は,海軍兵学寮予科に入学して,海軍兵学校,海軍大学と出世を重ね,1900年には軍艦厳島の副長に転出,日露戦争にも戦功を挙げ,後に海軍少将にまで進みました.

 一方,弟の木村駿吉は波瀾万丈の生涯を送った人です.
 兄とは違い,学術肌の駿吉は,帝国大学理学部を卒業して第一高等中学校の教授となりましたが,キリスト教徒の信念によって教育勅語の奉拝を拒否した内村鑑三事件で,内村教授を弁護した為に休職に追い込まれました.
 休職の最中,父の助言もあって米国留学を決意し,ハーバード大学院とエール大学院に在学します.

 現在でも,こうした不敬事件に巻き込まれると,その後の復活は難しいのですが,1896年7月,米国留学から帰ると仙台に新しく出来た第二高等学校に教授として迎え入れられました.
 当時,駿吉の興味はマルコーニが発明した無線電信機であり,私財を投じて「電波通信」に関する研究を校内で開始します.
 そして,学生に新知識を教える傍ら,それらの知識を関係雑誌に発表する様になりました.
 現在,東北大学が弱電分野に強いとされるのは,彼からの伝統なのかも知れません.

 1899年,駿吉は独学で伝播に関する研究を行う傍ら,ドイツ製の物理教育用に製造された無線機を購入し,学生と共に実験をしています.
 因みに彼は,1896年に教授に就任した直後にもドイツのヘルツの書いた『電波』,米国のテスラの『高周波電流』,英国のフハーヒの『無線電信史』を取り寄せて読み始めています.

 そして,駿吉も松代と同様に無線機を開発していました.
 駿吉の方式は,コヒーラと継電器と,デ・コヒーラより成っており,近距離でインダクション・コイルによって電波を発すると,その火花放電で電波がコヒーラに直接働いてそれを導体に変じ,それが継電器に働いて,デ・コヒーラが働き,コヒーラを元の不導体に戻すというもので,あくまでも原理を説明するものでしかありません.
 しかし,この無線電信の動作原理の究明は,後に松代の公開実験を理解するのに非常な助けとなりました.

 その駿吉が,兄とその友人である砺波の依頼で,高給で尚且つ生活が安泰であろう高等学校教授の職を擲って,海軍に奉職することになりました.
 海軍に入れば,予算無しであり,且つ薄給に甘んじなければなりません.
 しかし,当時は国に尽くすことが最高の美徳されていた時代でしたから,第二高等学校の教え子達も激励して送り出してくれたと言います.

 余談ですが,駿吉は無線電信調査委員会での研究で,無線機の火花発生に必要なインダクション・コイルの調達に悩んでいました.

 日本では当時未だ製造できず,外国からも予算が無くて輸入できずに立ち往生していたのです.
 日本には只1つ,帝国大学医学部の青山道胤教授の許に,X線用の強力なものがあるだけでした.
 それを借り受ける為に,外波委員長と駿吉が日参して頼み込みますが,当時,この機械も最新の医療機械だった為に,おいそれとは承諾が得られませんでした.
 やっと借り受けることが出来たものの,数回の試験中に破壊してしまいます.
 彼らが憔悴して破壊のお詫びに来た所,青山教授からは,
「兎に角良い機械を1日も早く作って下されば良いのです」
と言う返事を貰い,胸を撫で下ろしたと言います.
 当時の青山教授は,国難に対して頑張っている姿を応援したいと思ったのでしょうか.

 ところで,無線電信調査委員会は,発足したものの,予算が全く無い状態で,海軍各部門から予算の分割を受け,駿吉の給料でさえ,海軍大学の教授給と言う形で賄われる始末.
 試験材料や試作費用は海軍造兵廠から融通を受け,逓信省から通信用機器を借り受け,実験の為の出張費も無く,出張費は外波委員長自らが経理部に座り込んで調達したと言います.
 研究室も職員は,委員の他は,勝田と言う雑工が1人いるだけの小所帯でした.

 その研究室は,築地の海軍大学構内の大池にあった兵学校練習船が使用していた元倉庫で,約10坪ばかりの古びた掘っ立て小屋同様の倉庫でした.
 駿吉も余りの見窄らしさに一端は消沈しますが,この練習船が現役当時の艦名は奇しくも父の守名乗りである「摂津」でした.
 この初代「摂津」は,幕末と言うか明治初期に幕府が米国から購入した沿岸防備用の砲艦で,沿岸警備に使われつつ,幕府海軍の練習艦として利用され,明治になると海軍の練習船となって,除籍されて築地岸壁に係留されていたものです.
 そう言う意味では,奇しくも親子二代に亘って縁のある船だったのかも知れません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/03/31 23:22
青文字:加筆改修部分

 さて,予算も無く人もいない「海軍無線電信調査委員会」でしたが,その構成員には,松代松之助,木村駿吉と言った日本の無線電信の最高権威とも言うべき人々が入っていたので,松代式無線電信機を基に更に改良が加えられ,通信距離も伸びて,1901年10月18日の内令第126号を以て
「無線機ヲ兵器ニ採用ス」
との内令が発せられると共に,三四式無線電信機として制式採用されました.
 とは言え,この無線電信機は国外に情報が渡ってはいけないものでしたから,採用と同時に直ちに部外秘密が訓令されました.

 一応,国産の体を為している三四式無線電信機ですが,当時の日本の工業力は未だ未だ幼稚であり,コイル用の針金,マグネット用の銅,ガラス管など多くの部品が海外からの輸入に頼らざるを得ませんでした.
 特に,火花式インダクション・コイルは英国やドイツからの輸入品であり,それを入手するまでに4~5ヶ月の日数を要し,また運送中には屡々破損などの事故も起きました.

 こうして無線電信機としての実用の目鼻の付いた段階で,外波委員長と木村駿吉委員は無線用材料の輸入と無線電信機視察の為に欧州に出発します.
 この視察の目的は,1つには海軍が設定した無線電信調査委員会の解散予定時期が迫っていたので,2年間の調査研究結果が当初の期待に沿うことが出来たかどうかを,欧州諸外国の実情に確認しておきたいと言う事であり,もう1つは無線電信機の重要部品の調達手続きの日程短縮と言う面がありました.

 更に,この視察には裏の一面がありました.
 この目的の為か,2人の欧州出張の予定日程などは一切明らかにされていません.

 それは,1900年に起きたある事件が切っ掛けです.
 1899年末,フィンランド湾に於いて作戦演習を行っていたロシア海軍の戦艦アドミラル・アプラクシンが,海難事故に遭遇しました.
 その時,この戦艦にはロシア国産の無線電信機が搭載されており,その通信によりいち早く支援器材が到着し,アドミラル・アプラクシンは沈没を免れたばかりか,多くの乗組員が救助されたと言うものです.

 この事実は,日本海軍首脳に非常なショックをもたらしました.
 日本では漸く実用の端緒に就いたばかりの無線電信機が,ロシアでは既に海軍の戦艦に搭載されていると言う状況であり,その性能把握は焦眉の急となっていました.
 彼らの欧州出張の真の目的は,各国の事情を確認するのもさることながら,特にロシア海軍の無線電信機開発状況を極秘裏に確認する事だったのです.

 調査の結果,材料,部品の調達に於いても,通信制度に於いても,今や日本の制度は欧州のそれに比肩し,一部では凌駕していると言う結果を確認し,万一日露戦争が勃発しても,無線電信に限れば日本は大きな心配は要らないと言う報告を行っています.

 余談ですが,三四式無線電信機の「三四」と言うのは,制式採用が明治34年である事から命名されたのですが,実はこの裏にも意味がありました.
 1902年5月の海軍大演習後に行われた観艦式に於いて,御召艦浅間と,供奉艦明石,軍艦敷島に装備された三四式無線機の実験では,天覧に供された際に,最大18.5浬の実験に成功しました.
 18.5浬と言うのはキロメートルに換算すると,約34キロメートルとなります.
 即ち,「三四」のもう1つの意味は,通信距離の34キロメートルの意味が込められていたと言います.

 ところで,外波委員長と木村駿吉委員が渡欧している最中に,無線電信調査委員会の解散が為されます.
 しかし,2名は新たに設置された無線電信界領調査事務所,試験所,機械製作所に於いて引き続き2カ年の実用実験を進めると共に,無線電信機を扱う要員の育成にも着手しました.

 その訓練教育は無線機の複雑な構造や構成を熟知するばかりで無く,細心の注意力を以て操作する技能を修得するものでなくてはなりません.
 外波中佐が改良に忙殺されている間,この難事業に取り組んだのが,元教授である木村駿吉です.
 彼は開発の寸暇を割いて,自ら無線機操作の教育や訓練にも精を出しました.

 また,新型無線電信機の製造の為,当時居を構えていた東京北区の中里から,横須賀の海軍工廠に通って製造を指揮しました.
 改良のアイデアが浮かぶと,急いで工場に駆け付けましたが,逸見の波止場に来ると対岸に渡るランチがありません.
 そこで初めて今日が日曜日だったと言う事に気づく位,仕事に没頭していました.
 平日でも改良など仕事に没頭し,工場の退勤時間で窓や扉が職工に閉められて慌てて飛び出すことも屡々でした.

 日露戦争が始まると外波中佐は軍令部に呼び戻され,忽然と姿を消しました.
 そして,戦争が終わった後のある日,突如として海軍軍令部に姿を現したのですが,何も逃亡していた訳では無く,何らかの工作活動を行っていたと思われます.
 その行動を知るのは,山本権兵衛海軍大臣1人だったそうです.

 外波中佐が出征した後,無線電信機製造の中核を担ったのが木村駿吉でした.
 元々は海軍大学教授の肩書のみでしたが,横須賀海軍工廠の監督者,そして無線機製造工場の工場長的な役割を果たし,外波中佐の後を継ぎます.

 1904年夏になると,ロシア艦隊早期警戒網の構築の為,工場を離れて日本各地を飛び回り,調査に明け暮れています.
 当時,駿吉は,日本はどうしてこんなに日曜や祭日が多いのだろうと恨めしかったと言います.
 しかし,一方で
「無線研究中は職務と趣味と道楽とが渾然一体とした生活を送り,極めて充実した10年でした」
と述懐していました.

 日露戦争が終了した後,陸軍の児玉,乃木,黒木,川村,奥の各大将は凱旋した後,海軍造兵部無線工場に来て,木村駿吉に親しく御礼の挨拶をしました.
 その後,陸軍の重鎮である山県元帥も単独で,更に駿吉を応援していた島津侯爵も工場に来てその苦労を心から労いを受け,更に自分を追った帝国大学の教授と助教授合わせて50~60名が無線工場に見学に訪れました.
 木村駿吉の面目躍如の瞬間でした.

 また,木村駿吉は,英国から戦勝祝賀の為に来日していたムーア中将の為,東郷平八郎大将が主催した歓迎会にも招待され,斉藤大使からムーア中将に紹介され,東郷大将からも丁寧な挨拶が為されました.

 つまり,木村駿吉と松代松之助の両名こそ,科学を駆使して日本を敗亡の淵から救った真の英雄であり,日本陸海軍の将星達も,それを知って大いに彼らを称えたのです.
 これが数十年後に科学を蔑ろにして,精神主義で突っ走った軍隊になろうとは想像も付きませんが.

 なお,木村駿吉は日露戦争後,海軍を辞し,日本無線株式会社の役員にもなりましたが,晩年は弁理士の資格を取るなどして,無線とは一線を画した生活を送っています.
 因みに,外波中佐は日露戦争後に大佐に昇進し,巡洋艦明石,高千穂,装甲巡洋艦八雲の艦長を歴任した後,朝鮮総督府武官となり,海軍少将として予備役に編入されました.
 彼の座右の銘は,
「虎穴に入らずんば虎児を得ず」
だったそうです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/04/01 23:47


 【質問】
 日露戦争までに,日本海軍において,無線技士はどのように養成されたのか?

 【回答】

 さて,無線電信機の開発進展と共に,重要となるのは,その電信を扱う要員の育成でした.
 海軍無線電信調査委員会の活動と共に,1900年の半ば,委員会では実用に供される場合の取り扱い要員として,無線電信機の管理者となるべき下士官20名と士官10名の養成を計画しました.

 下士官は,一等巡洋艦以上の各艦から1名宛の最優秀者を選抜し,20名が揃った所で,これを無線電信調査委員会付として,1901年1月10日から5月10日までの4ヶ月に亘って,速成講習を受講させることになりました.
 午前中はモールス符号の通信術の練習,午後には無線電信機の構成機械の知識,それぞれの機器,機械の名称と役目とその動作原理の講習となっていました.
 モールス符号通信法の教授には,松代松之助とその部下である池田,伊東の両通信技師が担当しました.

 とは言え,彼らは20歳を超えた頑健な節くれ立った手を持つ体格雄偉の下士官だった為,繊細な指動作で電鍵を叩き,これを微妙なモールス符号によって送受信する無線電信機の操作修得は,彼らにとっては苦闘の連続であり,それを教える松代等の苦労も並大抵のものではありませんでした.
 しかも,彼らは荒波をものともせずに,舳先に菊の御紋章を頂いて突き進む軍艦の操艦や大砲や水雷の操作といった一線業務を志して海軍に入ったはずなのに,暗い軍艦内部の一室に閉じ込められて,午前中今まで見たことも聞いたことも無い無線電信機械の講習を受け,午後は腕力ならぬ節榑立った指でトン・ツーの電鍵を叩く毎日.
 この為,選抜されたとは言え,彼らの士気は日に日に下がっていく一方でした.

 事の重大性を見て取った松代松之助は,海軍の木村駿吉に頼み込み,他の要員と共に,カリキュラムを改めて,1日だけ無線電信機の講習を行います.
 この日は,電鍵を叩くのでは無く,座学が主で,無線電信の話から始まり,近付く日露開戦の只中に於いて無線電信の任務が果たす役割に及びました.
 この目的意識を徹底させた座学の効果は絶大で,今まで只漫然と受けていた講習に俄然やる気を見せ,熱心に学習に励む様になります.
 元々が,各艦で最優秀とされて選抜されたメンバーでしたから,一端火が付くと熱心に電信技術を学び始めました.
 勿論,各艦の間での対抗意識もあった事でしょう.

 こうして,養成員は熱心に通信術を学習し,教授も優秀な人が揃っていたこともあり,3週間位で一通りの通信技術を習得することが出来ました.

 その教育の要諦は,「拙速よりも確実」でした.
 通信ではたった1文字の誤りが艦隊の運命を狂わせることもあります.
 この為,松代の教え方も,徒に通信速度を追うよりは,専らその正確性に重点を置きました.
 この様にして,第1期の無線電信員が誕生しました.
 どんなに性能の良い機械を保有していたとしても,それを使いこなせなければ戦力とは成りません.
 後の話となりますが,敵であるバルチック艦隊にも,それ相当の無線電信機が備えられていたのですが,それを操作することが出来る兵員が極めて限られていた為に,有効に活用されなかったと言います.
 無線電信機の操作に当たった兵員の量と質が,日本海海戦での勝因の1つとなったのでした.

 そして,第1期に続き,1901年から第2期教育がスタートしました.
 今度は,下士官では無く士官10名に対する教育です.
 内訳は2名の中尉と8名の少尉で,通信実習は海軍大学構内と横須賀軍港内の放波島の間で行われました.
 こちらは木村駿吉技師が1ヶ月間無線電信の理論を教授しましたが,元々が学究肌の人物ですから,その理論は難解で,全員が頭を悩ましたと言います.

 そんなこんなで第2期教育も無事終了し,通信を行う中核となる人材が育っていき,更に教育カリキュラムも確立していきます.

 やがて1904年を迎えて日露戦争が勃発します.
 5月15日午前1時40分,山東角の北方に於いて行動中だった巡洋艦吉野は,濃霧の為,後続を航行していた装甲巡洋艦春日と衝突してしまいました.
 吉野は,左舷中央を春日の衝角に貫かれ,衝突と同時に電気系統は全滅し,海水は水線下の穿孔より奔流して,忽ち傾いていきます.
 この突然の事故の為,艦長以下の将兵は逃げる暇も無く,全員が戦死する大事故となりました.

 丁度同じ日に戦艦初瀬,八島が触雷沈没し,通報艦龍田が座礁大破すると言う日本海軍にとっての厄日とも言うべき日で,また,前日には通報艦宮古が触雷沈没,18日には砲艦大島が赤城と衝突沈没,駆逐艦暁が触雷沈没とこの前後1週間で実に7隻の軍艦を失うと言う週でもありました.

 余談はさておき,この時,称賛の的となったのは,吉野乗組の電信兵の1人の行動でした.
 彼は衝突事故の後,次第に水没する吉野内部に於いて,沈着能く衝突地点の時刻から始まり,衝突相手の春日の状況,次第に右傾する吉野の刻々の角度などを次々に無線電信で聯合艦隊司令部に報告,最後に至るまで電信を打ち続けながら,遂に水没,戦死に至りました.
 その沈着,職務への忠実さ,誠に無線電信に当たる者の鑑として,その精神は海軍無線電信に拘る者の手本となるべきものでした.

 後に日本海海戦の直前に,第2戦隊司令官の島村速雄少将は,木村駿吉に宛てた手紙で,この吉野の電信兵を称えて,
「軍艦吉野無線電信機係下士卒の忠烈な事績」
と書いていたりします.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/04/02 23:33
青文字:加筆改修部分


目次へ

「戦史別館」トップ・ページへ

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ   サイト・マップへ