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戦艦「三笠」用ヴィッカーズ社製3段膨張式3気筒レシプロ蒸気機関
(画像掲示板より引用)
『海の史劇』(吉村昭著,新潮文庫; 改版,1981/5/27)
これは絶対読んでおくべし!
ミリタリーものとは言えないかも知れないが,本当にお薦めの一冊!!!
------------軍事板,2001/05/30(水)
『ツシマ』(ノビコフ・プリボイ著,原書房,2004.8)
面白い.
最初に手に取ったとき,帯に「第一回スターリン賞(うろおぼえ)受賞云々」と書いてあって,少し驚いたことがある.
「坂の上の雲」ではよく引用されていたが,実際に読んでみて,良くも悪しくも引用のテクニックは重要だと,あらためて気づかされた.
たしかに「スターリン(?)賞」受賞作品だわ.
------------Mk-46:軍事板,2001/06/03(日)
『東郷平八郎』(下村寅太郎著,講談社学術文庫,1981/7/8)
おおもとは,昭和18年の雑誌連載.
戦後,一度「明治の日本人」に収録されたものが,底本とのこと.
各段階で,文章内容にどのていど手を入れてあるのかは,ちょっとよく分からない.
構成としては本文6章.
うち3章は人物評で,のこり3章が日露戦争について.
正直,今でも価値を残しているのは,前半の人物評の部分のみだと思う.
ここは(人物評価の妥当性はともかく)筆が活きている.
マ提督やロ提督への素直な賞賛や,加藤友さんの意外な趣味などなど,ストレートにおもしろい.
後半の,とくに「戦術」の章はかなり厳しい.
戦術には国民性が強く反映されているという主張なのだけど,人間,刀や槍で刺されれば死ぬし,弓矢鉄砲もまたしかり.
そこに「国民性」がどれだけあるのかは,微妙じゃないのかな.
そのあたり,具体性のある記述があれば面白いんだけど,他国との比較などはほとんどなく,日露戦争の勝利は国民性の勝利という主張以上のことを読み取れなかった.
日本海海戦直前の津軽・宗谷方面への移動云々について,それなりに触れてあるのが,これは戦中から周知のことだったんだなぁと,
個人的にはこれくらいが,後半部分の収穫.
学術文庫にしては安めの価格だけど,日露戦争や東郷長官を知るためなら,今もっと良書があるだろうし,一種のコレクターズアイテムに近いのかも.
------------軍事板,2012/03/27(火)
『東郷平八郎 失われた五分間の真実』(菊田愼典著,光人社,2005.7)
読了.
内容は・・・黄海海戦で2時8分,島村参謀長と秋山参謀との間で南東に舵を切るか,北東に舵を切るかで,3分ほど意見が分かれて,東郷は島村案に賛同.
しかし,その3分がたたり結局,日没まで3時間以上,敵を砲撃距離に収めるまで苦労したという,山本英輔の見聞記事(水交社)を引用し,東郷は秋山を嫌った.
だから日本海海戦では敵前大回頭以降,
「司令長官と参謀長以外は,みな艦橋からおりろ」(参謀を分散させたのは史実だけど)
と秋山を除けた・・・と信じると作者は言う.
さらに上村艦隊(第2戦隊)の独断専行を,第一戦隊の射撃を妨害した5分間だと切り捨てる.
筆者は防衛研究所戦史部OBというけど・・・・
うーん,そんなものかね.
無闇に通説への反論をこじつけているようにしか読めなかった.
------------軍事板,2012/01/29(日)
『日本海海戦かく勝てり』(半藤一利著,PHP文庫,2012.5)
『もうひとつの日露戦争 新発見・バルチック艦隊提督の手紙から』(コンスタンチン・サルキソフ著,朝日新聞出版,2009.2)
『連合艦隊vsバルチック艦隊 日本海海戦1905』(ロバート・フォーチェック著,大日本絵画,2010.1)
【質問】
造船能力に劣る日本は,日本海会戦のような決戦の日までできるだけ戦力を温存しておきましょうという方針
だったのでしょうか?
【回答】
ロシア太平洋艦隊と,バルチック艦隊が合同されると対抗できなくなることと,さらには直接的な脅威として朝鮮半島以北で行動する日本陸軍の補給線を寸断するための通商破壊戦が行われていましたので,日本海軍は開戦当初より積極的に活動しました.
ロシア海軍は増援を待てばよいわけで,日本海軍主力が出れば旅順要塞の要塞砲の射程内に逃げ,主力が帰還すると通商破壊に出撃するという作戦をとっています.
むしろロシア海軍の基本戦略のほうが艦隊保全でした.
だから旅順要塞の攻略が非常に重要だったわけです.
旅順要塞の攻略に際して,ウラジオストックに逃走する艦隊相手に発生したのが黄海海戦です.
日本海軍主力がバルチック艦隊来航前に2ヶ月動けないとされたのは,艦隊の休養整備補給にそれだけの時間がかかるというものであって,艦隊保全主義ではありません.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
東郷提督が連合艦隊長官に推挙された時に「東郷は運がいいから」,と言われたそうですが,そんなに運が良かったんですか?
【回答】
東郷提督の強運を示す例として黄海海戦の時を挙げるが
・ウラジオに逃げようとする旅順艦隊の戦艦レトウィザンが浸水,艦隊の速度が低下し,連合艦隊が砲戦を仕掛ける時間が増えた.
・海戦で乗艦の三笠は被弾20発以上の損傷を受けるが,露天艦橋にいた提督はかすり傷一つ無し.(周囲は怪我人続出)
・三笠から放たれた砲弾が敵旗艦ツェザレウィッチの艦橋に二発も命中.
これにより旅順艦隊の首脳陣が全滅し,その混乱で艦隊は大打撃を受けた.
と言った例がある.
まあ,「運」だけが推挙理由ではないようだが.
【質問】
日露戦争の時の日本海軍将兵は,自分たちは勝つと思っていたの?
【回答】
人によって様々だったろうが,以下は一例.
~~於戦艦富士~~
/ 敵艦見ユ \
総員合戦準備!
~~~~~~~~~~~~~~~~~ヽ
(
日本がもし負けたら ヽ
いつたい,だふなつてしまふのだらふか・・・
)
(
~~~~~~~~~~~~~~~~~~ノ
O
o __,,___
ヽ=v=ノ γ⌒ヽ ヽ ~~'''''''────────ヽ
(,,゚д゚) y ( () ) )//⌒\
拾弐インチ砲 )
/ つ つ ゝ,__ノ ノ// ○ \────────'
~(__ノ  ̄ ̄~// \
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ ヽ=v=ノ
西田三等兵曹! > (゚Д゚,,)
手を休めるでない!! / ⊂| 。∪|
__________/ | 。 │
∪∪
かう考へると頭がガンガン鳴つてきて手が動かず,涙がこぼれて仕様がなかつた.
【質問】
北米航路船舶への日露戦争の影響は?
【回答】
▼ 歴史家のJohn Curtis Perryによれば,日露戦争直前までの状況は次のようなものだったという.
,日清戦争によって海運業と造船業についての危機意識が高まった結果,1896年に日本政府は双方への助成金制度をスタートさせ,その助成金と,労働賃金&経営コストの安さ,日本国内での企業合同により,日本の船会社は太平洋航路における国際競争で優位に立った.
三菱グループが海運業と船舶業を支配し,そのグループの海運会社である日本郵船(ジャパン・メール)は,やがて世界最大の船会社になった.
しかし太平洋航路の貨物量はヨーロッパ航路の半分以下であり,日本からアメリカへの輸出総額の3分の2は生糸だったという.
日本の生糸輸出の90%はアメリカが輸入し,その大部分は高級靴下の材料となった.
日露戦争が勃発すると,日本は小麦粉から蒸気機関まで,あらゆる物の輸入を急ぐようになり,ピュージェットワンからの出荷量は急速に伸び,カリフォルニア港のそれを抜いた(前者から出港すれば,後者より2日早く日本に到着できた).
日露戦争は北太平洋貿易を刺激し,ジェームズ・ジェローム・ヒル,エドワード・H・ハリマンという当時の鉄道王に,国際事業計画の夢を掻き立てた.
……結局,両名とも挫折することになるのだが.
詳しくは,『西へ! アメリカ人の太平洋開拓史』(John
Curtis Perry 著,PHP研究所,1998.11.4),p.280-281,266-270,
246-256を参照されたし.
消印所沢
▲
日本郵船が北米航路に最初に投入したのは1883年に英国で竣工した3,300総トン,速力10.5kts/hの優秀船三池丸でした.
因みに,当時の船長は未だ日本人ではありません.
1875年に三菱商船学校(後の東京商船学校,現在の東京海洋大学)等,各地の商船学校を巣立った人々もいましたが,遠洋航路の経験に乏しく,外国人荷主から信用が置かれなかった事もあります.
郵船において,遠洋定期航路最初の日本人船長が誕生したのは,1898年のボンベイ航路,廣島丸に乗船した長嶋津五三郎が最初で,北米航路は更に時代が下った1901年,旅順丸に乗り組んだ大野鉈太郎が最初でした.
それは兎も角,1896年8月1日,三池丸は船客8名,ハワイ移民253人,積荷488トンを搭載して神戸を出港,途中ホノルルで移民を下船させ,8月31日にシアトルに入港しました.
三池丸はシアトル初の大型汽船入港であり,定期航路開設を祝って21発の礼砲が撃ち鳴らされ,大パレードが行われたそうです.
こうして始まった北米航路により,シアトルは人口6,000人の小都市から,1903年には10倍の人口になっていました.
三池丸の後,第2船に山口丸(3,287総トン),第3船金州丸(3,967総トン)が就航し,当初は月1回の定期便でしたが,1897年には4週1回の定期便となり,佐倉丸(2,953総トン),天津丸(2,908総トン),和歌浦丸(2,510総トン),松山丸(3,160総トン),鹿児島丸(4,370総トン),旅順丸(4,794総トン)が順次此の航路に就航します.
1898年には,初めて6,000トン級新造船鎌倉丸(6,123総トン)が投入されました.
1900年からは北米航路は日本政府の政府命令航路となり,10年間,香港~シアトル間使用船3隻による4週1便の定期を維持して補助金を受け取ることとなります.
1910年からは遠洋航路補助法によって補助航路となり,1921年4月以降は郵便定期航路として,政府補助を受けていました.
北米航路に就航した船の貨物は,往航貨物は非常に少なかったのですが(なので,航路維持には補助が必要となった),復航貨物は満船の状態が続きました.
しかし3,000総トン級の船であり,しかも,構造的にも帆船時代を引き摺っている様なものであり,運賃の良い高価な貨物を積む事ができませんでした.
そこで,1900年の政府命令航路になったのを機に,6,000トン級貨客船3隻を建造することになり,加賀丸,伊予丸の2隻を1901年に竣工させ,1903年に安芸丸を竣工させます.
この間,欧州航路から信濃丸(例の「敵艦見ユ」の電文で有名なあの船)を転配し,6,000トン級の船を充実させ,欧米各国の海運会社と競争を繰り広げました.
ところが,その成長に影を落としたのが1904年の日露戦争.
郵船の船は欧州航路の神奈川丸と,沿岸航路使用船以外,全部が徴用されました.
当時の徴用は,1903年末の日本の商船隊保有船舶が100総トン以上の船舶590隻63.4万総トン,1,000総トン以上の船はその内約200隻,51万総トンですが,二重徴用も含め,延べ266隻,67万総トンに達し,日本の商船は,沿岸航路の小船以外,全船舶を軍の補給や海軍艦艇の補助などに用いています.
この為,北米航路は3~5月を休航としますが,6月からは神奈川丸を欧州から転配して神戸~シアトル間に就航させ,主に米国の汽船会社から外国船を傭船して急場を凌いだりしています.
10月からは,神奈川丸に加え,伊予丸が徴用解除となり,何とか月1回の定期航路を維持しました.
1906年から漸く徴用解除となった信濃丸が加わり,3隻体制が復活して毎4週1隻の命令航路を復活出来ました.
ところで,北米航路には郵船だけでなくもう1社,日本の会社が参入していました.
1896年に渋沢栄一の協力を得て浅野総一郎が創立した東洋汽船がそれで,1898年に,敵の本丸であるサンフランシスコ航路に切込み,爾来,パシフィック・メール汽船会社とオリエンタル・アンド・オクシデンタル汽船会社と時に協力を,時に競争を繰り返してきました.
1898年12月15日に,東洋汽船は1898年に英国で建造された6,047総トン,17.5kts/hの優秀船,日本丸を就航させ,北米航路に参入します.
この日本丸,2本の黒色トップ黄色煙突と3本(後2本)のマスト,バウ・スプリットを備えたスクーナー型の白い船体から,「東洋の白鳥」と呼ばれていました.
東洋汽船では第2船亜米利加丸,第3船香港丸を同型船として竣工させ,この3船は当時,太平洋の女王として君臨していたカナダ太平洋鉄道のエムプレス・オブ・ジャパン級3隻を凌ぎ,日本最大の客船として君臨しています.
日露戦争では,これらの船は仮装巡洋艦として活躍していました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2, 2008/09/10 22:47
【質問】
なぜバルチック艦隊は日露戦争のとき,わざわざ南回りで日本を目指したんですか?
距離的に考えて,北回りのほうがはるかに早く着くと思いますが・・・
【回答】
北回りって・・・ 北極航路?
今でも大変なのに,無理を言うな.
バルチック艦隊の出港時期と規模と,なぜ派遣されたかを考えてみなよ.
バルチック艦隊は太平洋艦隊の補強のため派遣されたが,派遣時には黄海海戦や蔚山海戦などで太平洋艦隊の戦力は減少している.
バルチック艦隊の内第二太平洋艦隊は第一陣が10月15日,第二陣は11月16日に出港,その後,旅順戦で第一太平洋艦隊が壊滅してしまったので第三太平洋艦隊が2月16日に出港している.
つまり北周り航路を取ると真冬の時期に北極海を通過することとなる.
しかし上記理由により,出港を遅らせることは出来ない.
流氷中の航海は,砕氷船のような特殊な船体・設備を備えなければ困難であり,通常の艦体では流氷中に閉じ込められる危険性や,艦体が氷によって破壊される危険が大きい.
砕氷船によって航路を開削して航行する方法もあるが,数十隻に及ぶ大艦隊ではそれも不可能.
ちなみに,日本海海戦当時,北極航路はまだ誰も通過に成功していない.
軍事板,2005/06/12(日)
青文字:加筆改修部分
▼ ちなみにソ連海軍時代には,1942年(つまり第2次世界大戦中)7月-10月に,太平洋艦隊の駆逐艦が北極海経由で北方艦隊基地へ回航された事が,一度だけ有りました.
極東から出発前の嚮導駆逐艦「バクー」(1942年7月)
北極海を移動中のソ連駆逐艦(1942年8月頃)
北海へ到着した駆逐艦「ラズームヌイ」(1942年10月頃)
新「六課」,2012.9.15
青文字:加筆改修部分
▲
979 :名無し三等兵 :2005/06/12(日) 06:29:54 ID:???
お前は海で八甲田山の拡大再生産を望むのか,と.
982 :名無し三等兵 :2005/06/12(日) 07:51:51 ID:???
>お前は海で八甲田山の拡大再生産を望むのか,と.
あ なんか萌えるぞ そのシチュエーション
983 :名無し三等兵 :2005/06/12(日) 08:45:21 ID:???
アイスバーグに激突して沈む戦艦.
艦長の悲劇.
叫ぶ副長!
何その「タイタニック」.
985 :名無し三等兵 :2005/06/12(日) 09:03:54 ID:???
悲惨であってこそのロシア海軍なり
戦艦ポチョムキンやK19のように
986 :名無し三等兵 :2005/06/12(日) 09:04:26 ID:???
アイスバーグに激突どころか,氷に囲まれて動けなくなり,次第に押し潰されていくかと・・・
軍事板,2005/06/12(日)
青文字:加筆改修部分
【質問】
日露戦争における閉塞作戦は,無謀な作戦だったのでは?
【回答】
閉塞作戦は当時,各国の海軍で研究され,実戦でも試みられていたことで,米海軍も米西戦争で行なっている.
新しい理論であれ,精査のために実施することは必要なことだった.
特に旅順閉塞作戦は,成功すれば第三軍の損害は抑制され,連合艦隊戦力の分散という危機的状況を回避でき,成算が少なくとも実行してみるだけの十分な合理的根拠があった.
決して表面的な成果だけをみて否定できるようなものではない.
軍事板,2010/05/05(水)
青文字:加筆改修部分
明治37年3月24日~25日 第4集合地点 関重忠機関少将撮影(撮影場所は戦艦朝日?)
2枚目は第一回閉塞の効果が不十分だったため,続いて行われた第2回閉塞作戦の,出撃準備中の閉塞隊.
左から弥彦丸,米山丸,運送船,千代丸,福井丸.
各船とも御影石を搭載し,自衛用に1インチ・ノルデンフェルト式機関砲を装備していました.
名無し in ふたば,07/01/31(水)
【質問】
広瀬中佐っていつ戦死したの?
【回答】
確か広瀬中佐は第2次旅順口閉塞作戦時に戦死しています.
閉塞作戦と言えば軍令部や産業界は,ただでさえ少ない船腹をすり減らす作戦には反対していたのだが,第三軍の安全に拘る連合艦隊が強行して大失敗
(まあ,結果的に第三軍の安全は確保されたので,成功といえるかも知れないけど).
この辺は後世への種がまかれているのを散見できます.
ただ,マカロフ提督戦死の遠因になっている第2回閉塞作戦が,日露海戦の帰趨を決定付けたという見方も出来ますね.
ふぁいるず in 軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
日露戦争最初の戦闘では,どちらの側が最初に発砲したのか?
【回答】
日本海軍水雷艇からの魚雷発射が先である模様.
以下引用.
ロシア海軍と日本海軍との最初の戦闘は,1904年2月8日午後に,旅順への帰投を命じられて仁川港を出向した砲艦コレーツと,京城に派遣される陸軍先遣部隊(輸送船3隻)を護衛していた瓜生外吉少将指揮の第2艦隊(装甲巡洋艦浅間と第4戦隊の巡洋艦4隻,水雷艇4隻)との間に生起した.
海軍軍令部編纂の「明治三七八年海戦史」には,コレーツを発見した護衛部隊は,輸送船とコレーツの間に入り,水雷艇がコレーツに近付くと発砲し,
「時正ニ午後4時40分ニシテ,之ヲ明治三七八年戦役開戦ノ第一砲火トナス」
と,ロシア側が最初に水雷艇に発砲したと書かれている.
しかし,ロシア海軍軍令部編纂の「1904年,5年露日海戦史」は,それ以前に水雷艇が3発の魚雷を発射したとしている.
現場指揮官からは発射の事実は報告されたが,海戦の正当性を世界に示したかったのであろうか,魚雷が命中しなかったことから,日本側はこの事実を隠蔽してしまった.
なお,この襲撃運動中に水雷艇「燕」が座礁している.
(平間洋一〔元防衛大学校教授〕 from 「世界の艦船」2004年12月号,p.92-93)
◆◆◆仁川沖海戦
【質問】
仁川沖海戦は何故生起したのか?
【回答】
日本海軍が外交ルートを通じ,露巡洋艦「ワリヤーグ」に対し,9日正午までに出向するよう通知したため.
以下引用.
日本海軍は輸送船を〔仁川〕港内に入れ,9日の朝までに陸軍部隊の上陸が終わるとの報告を受けると,瓜生司令官は参謀の谷口尚真大尉(のちの大将・軍令部長)を日本領事館に派遣し,ロシア領事を通じ,ワリヤーグ艦長に9日正午までに仁川を出港すること,出港しない場合には港内でも攻撃する旨を通知した.
また,このことを当時港内に在泊していたイギリス,フランス,イタリア,アメリカ,韓国の軍艦にも通知した.
この通知を受けると,ワリヤーグ艦長ルードネフ大佐は,優勢な日本艦隊に囲まれながら,出撃を前に
「我々は優勢な日本艦隊と戦闘を試みる覚悟で出港し,本艦も我らの一身も決して敵に委せず,最後の血の一滴まで戦おうではないか.
諸子はこの意を体し神明を信仰し,皇帝と祖国のために戦場に行こう」
と訓示した.
そして,軍楽隊に国歌を奏させて抜錨し,砲艦コレーツを従えて仁川港をあとにした.
在泊のイタリア巡洋艦エルバ Elba や英巡洋艦タルボット Talbot は,ワリヤーグとコレーツが出撃時に総員が甲板に整列して見送り,音楽隊はロシア国歌を演奏した.
タルボットの艦長は
「694人のロシア将兵が,殆ど確実とも言うべき死出の出撃を行っている.
彼らの全員はともかく大部分が,極めて優勢な敵と戦って生きて帰ってこれると考えている者は一人もいないのだ.
それなのに彼らは軍楽隊を演奏させ,我々に万歳をしてくれている.
彼らの万歳に我が400人の将兵は,心からお返しの万歳を送ってやった.英将兵達は彼らを非常に気の毒に思ったが,戦いを挑むその負けじ魂を尊敬した」
と書いている.
(平間洋一〔元防衛大学校教授〕 from 「世界の艦船」2004年12月号,p.93)
【質問】
仁川沖海戦の戦闘状況は?
【回答】
ワリヤーグは戦闘で舵を破損して港内に逃れ,そこで自沈.
日本側には損害はなかった,という.
以下引用.
ワリヤーグと瓜生艦隊との戦闘は,水道が狭く,浅瀬が多いため,先頭に位置していた巡洋艦浅間とワリヤーグ,巡洋艦千代田とコレーツとの間で行われ,その後に浪速と新高の巡洋艦2隻が加わったが,戦闘は主として浅間とワリヤーグの砲撃戦となった.
浅間は距離7,000mに近付いた12時20分に射撃を開始し,たちまち艦橋,砲座,機械室,舵取機室などに命中弾を与えた.
このためワリヤーグは火焔に包まれ,舵を破壊されて運動の自由を失うと港内に逃れ,戦闘は55分で終わった.
この戦闘におけるワリヤーグの戦死者33名(うち士官1名),負傷者は艦長,副長を含めて重傷85名,軽傷100名であった.
このため艦長は戦闘を断念し,艦底弁を開いて自沈した.
日本側の損害は軍令部編纂の「明治三十七八年海戦史」には,
「此ノ一戦敵弾ノ命中スルモナク我ハ寸害ヲモ被ラス」
と書かれており,日本側には一発の命中弾もなかった.
しかしロシア軍令部作成の「露日海戦史」は,水雷艇1隻を撃沈し,浅間の後部で大爆発がああり,浅間と千代田は直後に修理のために入渠し,負傷者の数は不明確であるが30名が戦死したと英仏伊3国の将校は言っていると書かれている.
〔略〕
ロシアの史書には現在でも,「巡洋艦ワリヤーグの英雄的功績」として,
「ワリヤーグの砲術長は的確な一斉射撃で,的旗艦のマストを撃ち砕き,ブリッジを破壊し,艦尾の砲塔を破壊した.
巡洋艦千代田に大破損を生じさせ,水雷艇1隻を撃沈した.
1時間に渡る戦闘で,ワリヤーグは1105発を撃ち尽した」
と虚偽の戦果を讃えている.
(平間洋一〔元防衛大学校教授〕 from 「世界の艦船」2004年12月号,p.93-94)
【質問】
巡洋艦ワリヤーグは自沈後どうなったのか?
【回答】
浮揚・修理後,日本海軍に編入されたが,第1次大戦の際にロシアに渡った.
しかし英国で修理の際にロシア革命が起こり,代金未払いによって英海軍が接収.
最後は座礁して解体された.
以下引用.
日本海軍は海戦2ヵ月後からワリヤーグの引き揚げを開始し,1年半後の1905年8月に浮揚させ,修理して宗谷と命名した.
しかし第1次大戦では,ロシアも連合国として日本と共にドイツと戦っており,山形有朋,井上馨などが,戦争後に「黄人に対する白人連合の気勢を未然に予防する策」として日露同盟を主張し,陸軍は
小銃97万丁
小銃弾2億8000万発
火砲832門
などを,海軍も呉海軍工廠などで野砲や砲弾などを製造し,供給していた.
そしてロシア海軍から
「海軍兵力上ノ補充非常ナル窮状ニ陥リ」,「苦哀ヲ訴ヘ切ニ帝国軍艦ノ譲渡ヲ希望」
されると,1916年に戦利艦の宗谷,相模(旧ロシア戦艦ペレスウェート Peresviet),丹後(同ポルタワ Poltava)の3隻を,修理費を含め,1550万円で売却し,返還した.
なお,宗谷は400万円であった.
売却が決まると,船体や機関を整備し,射撃装置や魚雷発射管,通信機などを換装,山中柴吉少将を司令官に,巡洋戦艦伊吹,巡洋艦須磨が護衛してウラジオストクに回航し,ロシア海軍に引き渡した.
ロシア海軍も回航部隊を「熱誠極マル歓喜ヲ以テ」迎えた.
しかしロシア革命が起こり,日露協商の夢も,日本から武器を買うために5次に渡って発行された,ロシアの大蔵省公債2億2000万円や短期軍事公債3億784万円(第1次大戦に要した総海軍予算と商船の武装費とほぼ同額)も回収不能になってしまった.
その後,ワリヤーグはバルト海の警備作戦に従事していたが,1917年にボイラー修理のため,リバプールの造船所に回航された.
しかし修理中に革命が起こり,修理代金が未払いとなったため,英海軍が接収の上,補給船としてしまった.
そして1918年2月にはアイリッシュ・コースト沖で座礁し,1921年にはドイツの解体業者に売却され,波乱に富んだ一生を終えた.
ロシアの史書は,本艦はイギリスに奪われたと書いているが,その売却代金が革命のため,日本政府に支払われていないから,奪われたのは日本海軍だったとも言えよう.
(平間洋一〔元防衛大学校教授〕 from 「世界の艦船」2004年12月号,p.93-94)
【質問】
ワリヤーグやコレーツの乗員は,その後どうなったか?
【回答】
政治的目的から歓待され,現在でも讃美されたりされなかったりする,という.
ワリヤーグとコレーツの乗員が帰国すると,ニコライ皇帝はワリヤーグには侍従武官の称号を許し,全士官にゲオリギイ4等勲章を与え,全乗員を冬宮に招き昼食を供し,
「アンドレーエフスキー軍艦旗ノ名誉ト神聖ナル大露国ノ威信ヲ保持シタルヲ感謝ス」
と述べた.
ニコライ皇帝がワリヤーグ乗員をこれほど歓待したのは,民衆の戦争への協力を得,また,革命的風潮を沈静化するために,勇敢な兵士の「美談」を必要としたからであった.
また,連戦連敗が続く国民も,武勇伝や美談を欲していた.
このため,親露的だったドイツの詩人ルドルフ・グラインツが,ワリヤーグを称える詩を発表すると,直ちに翻訳・作曲されており,この軍歌は今でもカラオケで愛唱されているという.
また,ロシアの史書には現在でも,「巡洋艦ワリヤーグの英雄的功績」として,
「ワリヤーグの砲術長は的確な一斉射撃で,的旗艦のマストを撃ち砕き,ブリッジを破壊し,艦尾の砲塔を破壊した.
巡洋艦千代田に大破損を生じさせ,水雷艇1隻を撃沈した.
1時間に渡る戦闘で,ワリヤーグは1105発を撃ち尽した」
と虚偽の戦果を讃えている.
〔略〕
ロシアの歴史評価は,その時々の政権の都合に左右されて二転三転するのが常であるが,清水威久氏の「ソ連と日露戦争」によると,1951年までソ連の教科書や百科事典にはワリヤーグの項目はなかった.
しかし1951年版にはワリヤーグが,53年版にはコレーツ,55年にはルードネフ艦長の項目が加わった.
しかし51年版は仁川沖の戦闘で抜群の働きをした「世界最優秀の巡洋艦」と述べ,その後に日本海軍が引き揚げ,宗谷と命名したこと,1916年に日本から買い戻してイギリスに修理を依頼したが,革命が起こり,イギリスに奪われたという程度の記述であったという.
しかし1954年になると,「ワリヤーグの英雄たち」という本が出版されるなど,東西冷戦の激化,ソ連の対日姿勢の変化を受け,ワリヤーグの評価は大きく変わった.
1954年2月9日の「ブラウダ」紙〔原文ママ〕には,連邦最高会議幹部会が,生存中のワリヤーグ乗組員の15名に「勇敢記章」を授与することを決定した旨が報じられた.
〔略〕
翌1955年の百科事典には,ルードネフ艦長の項が大きく取り上げられた.
要約すれば,1901年に大佐に昇任,翌年ワリヤーグの艦長を拝命,仁川沖の海戦では戦闘を前に,部下に決死の奮戦を呼びかける訓示をし(その一部を掲載),最後の一弾まで撃ち尽したが,艦の損傷が甚だしいのを見て自沈を決意し,部下達が中立国の艦艇に乗り移った後,最後に艦を去った.
英雄的武勲によって聖ゲオルギイ勲章4等を授与され,侍従武官に加えられ,その後に戦艦アンドレイ・ペルウォスワニ Andrei Pervozvanny 艦長,第14海兵団長に任命された.
しかし第1革命の際に,反乱水兵の弾圧を拒否したため,病気を理由に退役させられ,1913年に死去した,というものである.
〔略〕
また,映画「巡洋艦ワリヤーグ」も製作された.
(平間洋一〔元防衛大学校教授〕 from 「世界の艦船」2004年12月号,p.93-94)
◆◆◆日本海海戦
【質問】
日本海海戦がワンサイド・ゲームになったのは何故か?
【回答】
基幹兵力・巨砲数以外の全ての面で,日本艦隊が優勢だったから.
ロシア艦隊は,海戦の主役である基幹兵力・巨砲数においてやや優勢だったが,艦隊内に新旧雑多な艦艇を含んでおり,中口径砲数と発射間隔時間などを総合した,艦隊の全体的な砲戦力においては日本艦隊に劣っていた.
日本艦隊は,大砲発射速度で優勢だっただけでなく,各艦毎に艦橋からの砲術長の指示・命令で一斉射撃を行ったのに対し,ロシア艦隊は各艦の各砲がそれぞれに射撃したため,弾着確認・射撃のデータ修正という面で格差を生じ,結果として命中率に大きな開きが出た.
また,防御力を,双方の新鋭戦艦の舷側装甲厚に関して比較すると,
装甲152mm以上の部分, | 装甲152mm未満の部分 | 無装甲部分 | |
ロシア戦艦ボロディノ (1904年8月完成) |
17% | 31% | 52% |
日本戦艦三笠 (1902年3月完成) |
29% | 40% | 31% |
(I. I. ロストーノフ編「ソ連から見た日露戦争」,p.344) |
と,明らかに日本側が重装甲で,防御力において優れていた.
速力についても,日本艦隊の戦艦・装甲巡洋艦の平均速力は19ノットだったが,旧式艦を含むロシア艦隊は16.6ノット(同
p.340).
艦隊全体でも,平均速力は日本側18ノット,ロシア側16ノット(外山三郎「日清・日露・大東亜海戦史」
p.265)で,これも日本側優勢.
さらに日本側は,統一のとれた艦隊運動という戦術面でもロシア艦隊を圧倒.
以上の理由により,ロシア艦隊は一昼夜にして壊滅したのだった.
詳しくは『軍備拡張の近代史』(山田朗著,吉川弘文館,1997/6/1),p.35-36を参照されたし.
まあ,日本側も戦艦の何隻かは喪失するだろうと覚悟していたらしいが.
それにしても,もし戦艦「初瀬」と「八島」が健在だったら,どれだけ差が開いていたことだろうか.
【関連動画】
「ワレYouTube発見セリ」:Russo-Japanese War,
russian fleet
戦艦「三笠」
faq39c12b.jpg
faq39c12c.jpg
(画像掲示板より引用)
【質問】
日本海海戦当時の,日本側警戒網の通信状況は?
【回答】
ロシアが送り込んだバルチック艦隊の動向は,All
Red Lineを通って最大限英国から日本に伝えられていました.
但し,幾ら電信が直通して,結構な時間で届くとは言っても,現在の様にリアルタイムで届く情報ではないので,ウラジオストクへの接近ルートや時刻までは判りません.
特に台湾付近から北への航路に関しては,ロシア側が厳秘とした上,攪乱作戦を取っていたので,推測の域を出ていませんでした.
とは言え,日本側は手を拱いていた訳では無く,五島列島,壱岐,対馬,鬱陵島,巨済島,済州島などの多くの有人島に望楼を設け,それらを海底ケーブルで繋ぎ,東シナ海の対馬寄りから日本海に至るまで,幾重にも警戒線を築いており,その多くに無線電信機を持ち,しかも,艦艇にも無線機を積載していました.
こうした無線を用いた警戒網の構築は,世界初の試みでもありました.
因みに,連合艦隊旗艦の三笠が,他の艦艇が鎮海湾口の加徳水道に停泊していた時でも,ほぼ常に鎮海湾の奥にある巨済島松眞湾に停泊していたのは,その場所に設けた仮設電信局を通じて東京の軍令部と常に連絡を取るためでもありました.
更に艦船群による警戒網も画期的なものであり,対馬から南西に広がる海洋部分を北緯・東経それぞれ10分ずつグリッド状に区切り,そのグリッドのそれぞれに203,204などと番号を付けて報告し易くし,無線機を積んだ多くの非決戦用艦船を決められた海域に張付けて見張りを続けると言うものでした.
正に,無線機の持つ力を最大限引き出したものと言えます.
1905年5月27日午前2時45分,仮装巡洋艦信濃丸は,五島列島の西側である186地点航行中に,微かながら不審な艦船燈火を発見します.
当時は夜間であり,しかも月明かりの具合も悪かったので,約2時間をかけて後方に回り込んだ所,敵病院船の疑いが出て来ました.
そこで,臨検のために数百メートルまで接近したまさにその時,西北方面に10数隻の船影と煤煙を発見し,自艦がバルチック艦隊の只中にいる事に気づきました.
時間は4時45分でした.
信濃丸は急いで転舵すると共に,緊急無電を味方の全艦隊と全望楼に向けて打ちました.
「総テノ艦船・望楼へ 敵艦隊ラシキ煤煙ヲ見ユ 4時45分 信濃丸」
実際には,この無電は暗号化されており,多分,「ム ネネネネ… 0445 「YR」」と言うものだったと思われます.
最初の「ム」は全艦船・望楼へを意味し,カタカナ1字の連打である「ネネネネ…」は敵発見の事,「0445」は時間,「YR」は信濃丸の事です.
取り敢ずの緊急無電はこうして発信されましたが,更に敵艦群を確認して,4時50分頃,全艦船・望楼向けに有名な電文を発信します.
とは言え,これが全艦船や望楼で受信された訳では無く,未だ無線電信は未発達でしたので,直接連合艦隊旗艦の三笠で受信は出来ず,これは対馬に待機中だった第三艦隊旗艦の二等巡洋艦厳島が中継して三笠に伝えたので,三笠受信は遅れて15分後の5時05分となっています.
中継訓練は定期的に行っていたので,この時の中継も混乱無く行われました.
緊急電文は,場所と時間を添える様に通達されたので,信濃丸から発信された初報電文に203地点があったのはほぼ確実ですが,厳島ではこの部分が受信出来なかったらしく,三笠に中継した最初の電文にはそれが欠けていました.
とは言え,信濃丸の配置は決まっているので,大まかに何処かは判っているのですが….
それでも,三笠の要求に応じて,後で補足したと言われています.
三笠の戦時日誌では,以下の遣り取りを行っています.
5時05分,信濃丸の電文「敵ノ第二艦隊見ユ」が,厳島を経由して,三笠で受信されます.
5時20分,三笠から厳島経由で信濃丸に対し,「敵ノ位置及ビ進行方向如何」と返電を打っています.
5時55分,信濃丸からは,秋津洲,笠置,厳島経由で「敵ハ対馬東水道ヲ通過セントスルモノノ如シ」と返電が来ました.
6時07分,更に信濃丸から厳島経由で,「敵ハ午前五時二〇三地点に有リ」と返電がありました.
6時45分,初めて信濃丸からの電文「敵艦隊十五隻以上目撃ス」が直接三笠で受信出来ました.
これらが省略されて,多くの戦史や戦記では,「三笠へ 敵ノ第二艦隊見ユ 二〇三地点 四時五〇分 信濃丸ヨリ 厳島中継」と言うのが掲載されているのです.
因みに,これも実際の電文にするとこんな感じです.
「KKKKKK…タタタタ…(モ203)〇四五〇.「YR」「AI」「AI」「AI」…」
最初の「K」の連続打電は,三笠の応答を要求する呼出符号で,三笠からの応答を待って,「タタタタ…」これは「敵第二艦隊見ゆ」の暗号,「モ203」は哨戒地区の暗号名,「〇四五〇」は送信時間で,「YR」が信濃丸,最後の「AI」は厳島の意味でこれを連続打電しています.
日露戦争の正史では,この電文の受信は0450となっていますが,多くの戦史や戦記では0445としている事が多かったりします.
ところで,203地点と言うのは,北緯33度20分,東経128度10分の地点で,五島列島の直ぐ近くでした.
その為,この無電は五島列島に設置した無線望楼が先に受信しますが,九州本島との連絡に手間取り,軍令部への通報は三笠からの連絡よりも少し遅れたと言います.
ついでに,この受信電文とされるものが時々写真で掲載されたりしますが,多くのそれは「モ456」と掲載されたものです.
これは大海戦の翌日に,信濃丸が残敵を発見した折りのものです.
456地点は対馬の北東に当たる海域で,203地点とは異なります.
しかも,モ456は信濃丸の錯覚で,実際には更に北方だった可能性もあり,別艦による修正電文もあります.
とまぁ,些末な話は置いておいて,信濃丸からの索敵報告を受けた三笠では,直ちに連合艦隊に出撃命令を下し,同時に東京の軍令部に出撃報告を打電します.
これが5時15分で,軍令部への着電は6時40分でした.
この報告電文は,信濃丸からの通報着電の直後に三笠から巨済島松眞浦里の仮設電信局に運ばれ,そこから東京の軍令部に向けて打電したと考えられています.
そして,海底ケーブルと陸上線で仮設電信局~巨済島~加徳水道側~対馬~沖ノ島と,何カ所か人力中継されて角島に達し,特牛海岸で本州の陸上線に繋がり,そこから一気に東京に達すると言うルートだったのでしょう.
但し,鎮海湾~東京までの通信ルートは幾重にも張り巡らされていたので,このルートが正確なのかは実は不明で,呼子や佐世保を経由した可能性もあります.
また,有名な「天気晴朗ナレド波高シ…」と言う電文を打電した「鎮海湾奥」とはどこかが議論になっていますが,巨済島北部の松眞浦里と巨済島向う岸の陸揚地のどちらかであり,前者の可能性がより高いとされています.
なお,当時の大本営資料では,この2箇所と馬山浦を総て鎮海湾奥と称していました.
ついでに,三笠はこの電文を,仮設電信局に向けて無電で発信したと言う説もありますが,これは電波状態によってバルチック艦隊やウラジオストクで傍受されてしまう可能性がある上に,至近距離での無電は電波が強すぎて,受信側の受信機が破損するので禁じられていました.
しかも,正史地図でも鎮海湾内部の電信局には,無電受信機は設置されている事を示す記号はありません.
更に言えば,『坂の上の雲』で,東京から三笠に直接無線で連絡を取る描写がありますが,あれは間違いです.
鎮海湾近辺の海軍用通信経路については,対馬方面から海底ケーブルが一部支線で鴻島などの小島に立ち寄った後,巨済島の北部加徳水道側の宮農里に陸揚され,陸線で松眞浦里の仮設電信局に達して中継され,そこから更に陸線で,北部西側の松眞湾の廣池末陸揚所に達して,再び海底ケーブルに接続されて鎮海湾に入り,そこから蠶島の西側を通って,巨済島対岸に漆原半島南端部の雪津洞近くに陸揚され,そこから本格的な陸線17kmを伝って半島を北上して,馬山浦の仮設中継局に達し,更にそこから東へ延びる陸線で,釜山に連絡していました.
陸軍用も対馬から,この線に近い経路で釜山に達しており,釜山からは多数の北上及び東西に延びる陸線が,陸軍電信部隊によって架設されていました.
この海底ケーブル部分は,現波式を用いず,陸上と同じモールス符号を用い,その代わり,「ゆっくり,確実に」をモットーとした打鍵で送信しました.
また,軍用通信は常にそうですが,照校方式で問題の無い事を確認しながら中継しました.
東京まで1時間25分かかっているのは,三笠から仮設電信局までの距離がかなり時間が掛ったのと,中継局では総て人間が中継し,尚且つ間違いないかを照校していた為です.
でないと,重要電文で間違いになる可能性がある訳ですから.
秋山真之が起草したと言われるもので,その報告電文の全文はこうです.
>(発・連合艦隊司令長官/宛・軍令部長)
>「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動之ヲ撃滅セントス本日天気晴朗ナレド波高シ」
これを有線電文に書き換えると,こうなります.
「(アテヨイカヌ)ミユトノケイホウニセツシ(ノレツヲハイ)タダチニ(ヨシス)コレヲ(ワケフウメル)セントスホンジツテンキセイロウナレドモナミタカシ」
有線通信では暗号は,結構簡単なものだったようです.
こうした受信電文は謄写版にして,大量に印刷されて要所に配られました.
因みに,謄写版は日本独自の発明品だそうですが,ロシア人水兵と違って,日本人水兵は識字率が高いので,速成印刷物による指令伝達は実に有効な手段だったりします.
こうした海底ケーブルによる通信網が大規模に利用されたのは,日露戦争が初めてでした.
最初は,児玉源太郎が密かに買い集めた500海里分でしたが,これだけでは到底足りず,ロシア側が敷設していた遼東~山東両半島間のケーブルも回収して流用しました.
それでも足りず,日露開戦直後に海底ケーブルを英国に発注しています.
正式発注は,1904年4月と6月,1905年4月と6月で,これらは2,900海里分に達しましたが,日本海海戦までに届いたのはその内1,000海里分であり,残りは海戦後にやっと届きました.
因みに,後で到着した方は樺太方面への敷設等に用いられています.
この様に,工業大国であった英国の好意的な努力を差し引いても,半年かかるのが海底ケーブルでした.
これを500海里分とは言え,密かに備蓄した児玉源太郎の卓見が,日本を救ったと言っても過言ではありません.
この2,900海里分の値段は40万ポンドでしたが,これは小型の水雷艇が数隻は買える値段だったりします.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/06/04 22:11
青文字:加筆改修部分
ところで,日露戦争時,大北電信会社線はどうなったのか,と言うと,長崎~ウラジオストク回線は,開戦と同時に日本側が切断し,かつその一部は本土~対馬や対馬~朝鮮半島連絡用に流用しました.
これは日本国内にいるロシアのスパイから情報がロシア側に流れるのを防ぐためで有り,またケーブルの不足を補うためでもありました.
一方の長崎~上海回線は,欧米諸国から派遣されてきた観戦記者や一般用及び日本側の対外宣伝用に活かしていましたが,長崎局で中継される電文は,総て日本側が判読出来る様な処置を強制的に講じ,内容をチェックしています.
当然,大北電信会社側はこれを不満に思ったはずですが,この措置は戦時国際法に認められていたものなので,表だって抗議をする事はありませんでした.
また,長崎~呼子~壱岐~対馬~釜山回線に関しては,長崎~呼子~対馬までは日本が買収済でしたので,対馬までの連絡には用いる事が出来ました.
但し,大北電信会社とは関係の深い回線ですから,途中の傍受を恐れ,軍用通信は総て別の臨時回線を用いていました.
釜山までの場合も,巨済島~鎮海湾~馬山浦~釜山と言った軍専用回線を用いています.
戦地に近い陸線に関しては,陸軍の生命線とも言えるものでした.
この為,電信部隊と言う専門部隊を編成し,各部隊には電信班を設けて網の目の様に電信線を張り巡らせています.
上陸してからの軍同士の近距離連絡には,主として電話が用いられ,児玉源太郎はこれを活用して全軍を叱咤激励し,また指揮していました.
遠距離通信には電信が用いられましたが,陸上電信線は釜山を起点とし,朝鮮半島を北上しつつ,東西に分岐する多くのルートが仮設されました.
こうした電信線や電話施設は総て日本側で用意し架設されており,清国や大韓帝国が行う事はありませんでした.
戦地での通信施設は最前線と後方を繋ぐ為のものでありますが,その工事は困難を極め,特に前線では砲弾降り注ぐ中での決死の作業となっていますし,ロシア側による妨害や切断も苛烈でした.
しかし,電信部隊の隊員達は多くの犠牲を出しながらも,難工事を続け,使命を全うしました.
その活躍ぶりは,欧米の観戦武官達を驚嘆させてもいます.
この様な海陸双方の電信線により,作戦連絡は遅滞なく為され,戦況は刻一刻と東京の大本営に届き,それが電信,電話網で日本中に伝達されていきます.
明治天皇は,『電信』と題して,次の御製を認められています.
「はりがねの たよりのみこそ またれけれ 軍(いくさ)のにはを 思ひやるにも」
この時代,1904年には東京市内で初めて地下ケーブルが敷設されました.
また,太平洋横断海底ケーブルの計画がいよいよ本格化し,逓信省は1905年5月の日本海海戦直後から,川崎海岸(後に深川)~小笠原間の海底ケーブル敷設工事を開始しました.
6月には沖縄丸だけでは不足する為,国産の海底ケーブル敷設船である小笠原丸が三菱長崎造船所で着工しました.
小笠原丸も,近海用標準型で,総トン数は1,400トンと沖縄丸よりやや小ぶりです.
これは,1906年6月に進水し,7月に竣工,以後,太平洋戦争終末期に悲惨な最期を遂げるまで,長期に亘って活躍した船です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/06/05 22:40
【質問】
久松五勇士って何?
【回答】
久松五勇士とは,日本海海戦に先立ち,バルチック艦隊発見の知らせを宮古島から石垣島に伝えた5人の漁師のことを指す.
1905.5.23,奥浜牛という那覇の帆船乗りの青年が,宮古島北西沖(北緯 25度20分, 東経125度43分付近)を北上しているバルチック艦隊に遭遇.
バルチック艦隊も彼を視認していたが,龍の大漁旗と,独特の長髪のため,中国人と判断して捕えなかった.
奥浜は宮古島の漲水港(現・平良港)に26日午前10時頃に着き,駐在所の警察官とともに役場に駆け込んだ.
当時の宮古島には通信施設がなかったため,当時の島司(島長)・橋口郡六はこれを連合艦隊司令部,海軍省,県知事へ急いで知らせるため通信施設のある八重山へ
遣いを向かわせることにした.
一番近くの電信が打てる場所は,石垣島の八重山郵便電信局だったからだ.
そこで島司と役員たちは大急ぎで,サバニ(鱶舟)というくり舟で,外洋の高波を越えて確実に石垣島までたどり着くことのできる,すぐれた操船技術をもっている若者,サバニを長時間こぎ続けることのできる強靭な体力を持つ若者を選ぶための会議をし,そして以下の漁師5人を選抜.
松原村在住 | 垣花 善 | (かきはな よし) | 兄 | 1876年生れ 29歳 |
松原村在住 | 垣花 清 | (かきはな きよし) | 弟 | 1883年生れ 22歳 |
松原村在住 | 与那覇蒲 | (よなは かま) | 兄 | 1880年生れ 25歳 |
松原村在住 | 与那覇松 | (よなは まつ) | 弟 | 1882年生れ 23歳 |
久貝原在住 | 与那覇蒲 | (よなは かま) | 松原村の与那覇蒲とは 同姓同名の別人 |
1884年生れ 21歳 |
5人は15時間,サバニを必死に漕ぎ,170km離れた石垣島の東海岸に着いて,さらに30kmの山道を歩き,27日午前4時頃,八重山郵便局に飛び込んだ.
石垣村まで船で行かず,途中で島に上陸したのは,引き潮のために水深が浅くなり,船を進めることが出来なくなったため.
局員は宮古島島司からの文書を垣花善から受け取って,電信を那覇の郵便局本局へ打ち,電信はそこから沖縄県庁を経由して東京の大本営へ伝えられた.
しかし日本本土への連絡は,信濃丸によるものが数時間早かったため,この情報が直接役立つことはなく,その後,5人の行為は忘れられていた.
軍事上の機密扱いということで,人々に知られることが無かったためだ.
5人も,やはり軍機ということで,石垣島に行った目的について語ろうとはしなかった.
しかし,1920~1930年代,5人の活躍は宮古島でも噂話として広がり,沖縄師範学校主事・稲垣国三郎,元早稲田大学教授・五十嵐勤,原海軍監督官らが久松五勇姿表彰運動を起こし,新聞などでも取り上げられるようになった.
そして,中等国文教科書に「遅かりし一時間」と題する見出しで掲載されると,一躍評価が高まり,そして1935年,時の海軍大臣から久松五勇士は表彰をうけることとなり,郷土の英雄となった.
戦後,軍国主義礼賛に繋がるとして,GHQ指令により教科書は黒く塗り潰され,再び5人は忘れ去られることになった.
まあ,教科書掲載当時の社会風潮から考えて,「軍国主義礼賛の意図はなかった」と言えば,ウソになるだろうが.
しかし地元では依然,郷土の英雄のままであった.
久貝部落,偉人岬のてっぺんに五人の顕彰碑が建てられたのが1966年.
1985年からは5人を記念して,宮古島トライアスロン大会が,日本初の本格的トライアスロン大会として開催され,2016年現在も続いている.
表彰された5人
(こちらより引用)
「久松五勇士」110周年を記念した再現航海のサバニ
(琉球新報より引用)
【参考ページ】
http://www.miyako-net.ne.jp/~agannya/drive-kugai.htm
http://www.geocities.jp/kaccyan328/story.htm
http://www.miyakojima-kids.net/HISAMATSU_5_YUSHI.HTML
http://miyakojima.net/kankou-meisyo/goyuusi.html
『デキゴトロジー』vol.6(週刊朝日風俗リサーチ特別局・編,新潮社,1987)
【ぐんじさんぎょう】,2016/02/18 20:00
を加筆改修
【質問】
「日本海海戦は,丁字戦法で勝利したのではない」
って言われたんですけど,本当ですか?
【回答】
厳密に言えば,理論どおりの綺麗なT字戦法で戦ったわけじゃない.途中で敵が進路を変えたから,応じてIJNも戦法を変えた.
丁字戦法をとった場合,艦隊の末尾方向に進路を取られると,
頭を押さえられなくて逃げられるということが黄海海戦で何度かあった.
当時の日本艦隊は,バルチック艦隊がウラジオストックに逃げこむことを一番おそれていたし,バルチック艦隊もそれを目指していた.
だから,綺麗な丁字型を描かず,艦隊の末尾方向に逃げられないような進路をまずとってからターンをした.
その動きを丁字戦法と解釈するか,それとも絶対にウラジオ方面に逃げられないように敵艦隊の頭を押さえる動きと解釈するかは,解釈する人次第.
こんな動き.
だいたいの戦闘は同航戦なのは確か.
http://www.z-flag.jp/suigun/naval/tsushima_war.html
軍事板,2006/02/24(金)
青文字:加筆改修部分
実はT字戦法でなかった,とするのは,以下の本に依る.
-----------
戸高 (中略)東郷ターンを丁字戦法への出発点とするのが長い間定説と成ってきたのですけれども,やはり間違いですね.
東郷ターンの直前は両艦隊はほとんど向かい合うような格好で近づきつつあった.そ
んな時,片っ方がUターンしたら,片っ方が平気な訳が無いんでね(笑).
その後の連合艦隊の戦法は,誰が見たってバルチック艦隊に併航しています.
半藤 (中略)どの航跡図を見ても丁字に成った物は無い.
(中略)
戸高 日本海海戦を丁字戦法の勝利と最初にきちんと書いたのは小笠原(長生)なんですよ.
海軍を辞める時に中将をもらった海軍将校だけど,美文調の文章がめっぽう上手かった.
それで東郷長官の私的秘書を長くやって,東郷の伝記を書いた人ですね.
東郷の人となりや日本海海戦の知識は,大多数はたいてい小笠原の著書に頼ってきましたね.
小笠原は戦闘詳報をもとにして,仕事として日本海海戦史をつくりますから,自分では真相が判っている人です.
でたらめに日本海海戦が丁字戦法だったと書いた訳では無い.
例えば公刊戦史を見ると,黄海海戦は丁字戦法で戦ったとちゃんと書いてある.
半藤 書いてある,書いてある.
戸高 ところが,日本海海戦の方には丁字戦法で戦ったなんて一言も書いていないんです.
公刊戦史だから書いていないんだろうと思うかも知れないが,「極秘戦史」にも当然,丁字戦法でやったとは書いてありません.
戦闘詳報と言うのは海戦直後に書かれる訳ですが,どこにも丁字戦法でやったとは報告されていない.
報告もされていないのに,小笠原は日本海海戦は丁字戦法だったと書いたのですね.
なぜなら,幻に終わったとはいえ,軍機兵器だった連繋機雷の作戦を隠す為だったのです.
あれを隠す為には,丁字戦法で話をつないでいかないと,ウソが見破られてしまうのですね.
これは必ずしも小笠原の独創では無いかも知れないんですね.
だって,日本海海戦の直後から「連合艦隊参謀談」なんていう形式で,丁字戦法で勝ちましたなどと公表されています.
まだ日露戦争は終わっていないんですよ,その時は.
だから丁字戦法では無かったと断言出来るんですよ.
考えるまでもなく,戦争の真っ只中に自分の艦隊の本当の作戦を公表する海軍が有ると思うのがおかしいんで(笑),そんなの常識ですよ,戦争の.
-----------戸高一成,半藤一利「日本海海戦かく勝てり」(PHP研究所,2004/4/5),P.113-116
新所沢の三等兵 ◆Uk in mixi支隊
【質問】
昨晩,友人と飲んでいた時
「感謝感激雨あられ」という言葉は,「艦砲射撃雨あられ」というのをもじって出来た言葉だ
と言われました.
本当ですか?
【回答】
349 名前: 名無し三等兵 [sage] 投稿日: 2008/06/03(火) 16:42:11
ID:???
ちがう.
日露戦争での新聞記事の見出し「乱射乱撃雨霰」のもじり.
354 名前: 名無し三等兵 [sage] 投稿日: 2008/06/03(火) 17:05:53
ID:???
日露戦争はその通りだが,当時流行った琵琶曲「常陸丸」の歌詞に出てきたからじゃなかったか?
どっちかがどっちかをコピーしたのかもしれないが.
P (なかと) in 「軍事板常見問題 mixi別館」,2010年11月09日
01:14
&肥後守 in 「軍事板常見問題 mixi別館」,2010年11月08日
21:49(解説)
【質問】
日本海海戦で沈んだロシアの戦艦に白金があって,それを探している馬鹿な探検家がいるとか聞いたことあるんですけど,これって本当ですか?
【回答】
巡洋艦ナヒモフですな.
日本船舶振興会の笹川良一会長の肝いりで潜水調査をやったんですが,それらしきインゴットが引上げられたものの,結局それはアルミだったと言うお話.
【質問】
日本海海戦の戦訓は?
【回答】
1万tを越す鋼鉄製の主力艦と言えども,砲戦によって撃沈できることを初めて証明,列強海軍内に燻っていた「砲撃か,衝撃か」の論争に完全決着をつけた.
日露戦争までは,列強海軍の中では,衝撃(軍艦の艦首喫水線下の衝角による体当たり)が有効か,大砲による砲撃が有効か,あるいは,強力な防御力を誇る戦艦を,砲撃だけで沈めることは可能か否かで論争があり,例えば日本海軍の「三笠」などの戦艦にも,体当たり用の衝角が装備されていた.
日露戦争当時の海戦の主役である戦艦は,排水量1万2000~1万5000t,口径12インチ(30cm)の主砲を4門(艦の前部と後部の砲塔に2門ずつ),6インチ(15cm)前後の副砲を舷側に多数装備しているのが標準型だった.
多数の15cm砲の存在は,敵艦を沈めるよりも,乗員の殺傷を狙うものだったと言える.
このタイプの戦艦は,本来は多数の砲弾を敵艦艇に浴びせてその戦闘能力を奪い,可能ならば撃沈すること,場合によっては衝角を使って決着をつけることを意図して建造されたものだった.
しかし日本海海戦では,ロシア艦隊の,1901年以降に完成した新型戦艦5隻の内,4隻が日本艦隊の砲撃だけで沈没したのである.
日露戦争によって,艦艇の大型化・重装甲化・巨砲搭載こそが海戦勝利の決め手であるとの教訓が引き出された.
この教訓を逸早く生かし,以後の帝国主義列強の建艦競争をリードしたのがイギリスだった.
イギリスは,副砲を廃止し,12インチ砲10門を搭載したドレッドノート型戦艦(いわゆる弩級戦艦)を早くも1905年10月に起工した.
日露戦争は,ワシントン会議まで続く世界的な大建艦競争時代を切り開いたのである.
【参考ページ】
山田朗「軍備拡張の近代史」,吉川弘文館,p.27-28
【質問】
日本海海戦が日本海軍にもたらした負の遺産とは?
【回答】
日露戦争後になって,
「逸(いつ)を以て労を待つ」(用意周到な精鋭部隊によって,疲労した敵を迎え撃つ)
という日本海海戦式の戦略・戦術が絶対化されたため,日本海軍の部内に,以前にも増して戦術至上主義の軍事思想を強めたことである.
海軍にとって戦争とは,1回の艦隊決戦に勝利することであり,艦隊決戦での勝利とは,戦術と砲戦力の優越ということだった.
これは,戦術的勝利を,軍事戦略や国家戦略に優先させるという,全てを戦術の次元から,艦隊決戦のシナリオから思考していく習慣を海軍軍人に植え付けていくことになった.
〔略〕
日本海軍は〔日露戦争後〕,アメリカ海軍を仮想敵とし,戦術至上主義=艦隊決戦主義という基本的な考え方によって世界的な軍拡・軍縮に対応していく.
全ての艦隊・艦艇は,1回の艦隊決戦に勝利するために,すなわち主力艦(新鋭戦艦)の主砲戦を勝利に導くために役割分担された.
後に発達した潜水艦や1万t級巡洋艦,航空機も基本的には,戦艦による艦隊決戦を支援するという発想で開発され,訓練されていった.
(山田朗「軍備拡張の近代史」,吉川弘文館,1997/6/1,p.38 & 40)
【珍説】
日本海海戦の際,日本海軍の日進に,アルゼンチン海軍の観戦武官が乗っていました.
日進は艦隊の殿です.
ということは,方向転換した際には,先頭艦となります.
砲撃で日進の首脳部が全滅して,観戦武官が生き残りました.
観戦武官が命令を発したお陰で,日本海海戦で勝利したそうです.
【事実】
第1艦隊の旗艦は最後まで三笠だし,第1艦隊がスォーロフを追っていってしまったあとは,第2艦隊がバルチック艦隊を追い回し,その後戻ってきた第1艦隊と挟撃している.
日進単艦が観戦武官の指揮によって危機的状況を脱出したというならともかく,観戦武官の指揮によって連合艦隊が日本海海戦に勝利したなんて事実は全く無いな.
艦隊全体の指揮を執ってるわけでもないし.
軍事板
青文字:加筆改修部分
▼ 私が以前立ち読みしたこの本ではイギリスの観戦武官が指揮をして日本海軍は勝ったと書いてありました.
http://www.amazon.co.jp/gp/product/488086210X/ref=cm_rdp_product_img
『最高支配者だけが知っている日本の真実』(副島隆彦著 副島国家戦略研究所著 成甲書籍)という本です.
まあ,イギリスのおかげで日本海軍は日本海海戦に勝利したことは認めますが,イギリス海軍士官が指揮をしたというのは,たいへんおかしなことです.
例えばとっさのときに英語で命令して,混乱したりして日本が負けただろう.
90式改 in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分
▲
▼ もし,艦長が負傷もしくは戦死して指揮が取れない状態になったら,副長(大型艦は副艦長)が指揮.
副艦長が負傷もしくは戦死した場合,砲雷長や航海長などから位が上級,もしくは同じ階級でも先任の士官が指揮を執ります.
艦隊の司令官も同じく指揮が取れなくなったら副司令官,先任の戦隊司令の順となります.
(某銀英伝の艦隊司令のパエッタ中将が,作戦参謀のヤン准将に指揮権を譲るようなことは,現実にはありません)
もし艦橋が直撃弾を受け,艦橋の人間が全員死亡したばあい,艦の指揮は生き残った兵科の士官のうち上級,もしくは同じ階級でも先任の士官が取ります.
機関課とか軍医とかが指揮をとることはありません.
これは昔からの海軍の決まりなのです.
90式改 in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分
▲
▼ 【追記】
高山正之の主張
・アルゼンチン海軍大佐ドメク・ガルシアが指揮を執った.
・孫ホラシオ氏が「祖父が実は指揮を執って戦闘を続行した」と言っている.
・菊のご紋章入りの一輪挿しと金蒔絵の文箱が下賜されたのも,その功績.
http://zeroplus.sakura.ne.jp/u/1999/0220.html
水交会の反論(吉田学代表による)
・軍令承行令を無視して観戦武官が指揮を執ることはありえない.
・そもそも艦長は負傷していない.
・オラシオ氏も,砲塔員としての活動をしたといっている.
・下賜品も指揮ではなく射手をつとめた功績に対してのもの.
http://zeroplus.sakura.ne.jp/u/1999/0419.html
軍事板
青文字:加筆改修部分
▲
▼ それらの元ネタは,捕虜になったバルチック艦隊の水兵に広まったデマですね.
曰く「日本艦隊を指揮していたのはイギリスの観戦武官だ」
曰く「俺達が戦っていたのはイギリスの艦隊だった」
いずれも,「日本人が俺達に勝てる筈が無い」という先入観から来たデマです.
Posted by 名無しT72神信者 at 2010年06月04日
12:18:48
「週刊オブイェクト」コメント欄,2010年06月03日付より
青文字:加筆改修部分
▲
【珍説】
三須宗太郎少将は,砲撃直後,両目が見えませんでした.
説明.
片目が見えるようになったのは,海戦後,治療を施して大分経ってからです.
ウィキペディアでは,砲弾の破片のために失明したと書かれています.
しかし,観戦武官の本には,爆風に飛ばされた,船体の塗料が目に入ったためと書かれています.
同席して生き残った士官は,海戦後も,両眼を失明したままだったそうです.
「観戦武官が命令を発したお陰で,日本海海戦で勝利したそうです.本当は,国際法違反です」
のため,公にできませんでした.
参考図書.
日本海海戦から100年―アルゼンチン海軍観戦武官の証言 (単行本) マヌエル・ドメック ガルシア (著),
下記,ウィキペディアの三須宗太郎を参照ください.
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%A083%8E %88%E5%AE%97%E5%A4%AA%E9%
【事実】
それって,艦橋にいた士官がみんな負傷してたことによるヨタ説だが.
はっきりいて,当時艦橋にいて指を失った高野少尉候補生すら,指揮権をとってないんだから.
高野少尉候補生は,艦長付けで,艦橋にて,詳報かいてた.
例えば戦闘詳報を高野が書いてた証拠があるし,戦闘詳報は艦橋や司令塔のように情報の集まるところでしか絶対に書けない.
ちなみに以下,高野少尉候補生の父が書いた手紙.
――――――
「明治三十八年五月廿七日日本海大海戦之節六男高野五十六廿二, 海軍少尉候補生ヲ以テ日進艦員タリ本艦ハ三須中将乗セル因リ敵弾ノ集注最甚シ当時五十六伝令ニ特選セラレテ最高艦橋ニ在リ勇敢沈着能ク勤ム故ニ我カ砲弾ハ標的オスラビヤ艦ニ百発百中殆ド撃沈ニ垂タルノ際敵弾一発艦橋を破砕シテ左手右足を重傷ス子此熱血淋病タル戎衣ハ実ニ子孫ニ示スベキ伝家ノ宝也」
――――――
また,かすみんが示した本のタイトルをぐぐると,「そんな一説もあった」という感想文が引っかかるけど,その本自体には,指揮を執ったとの記述がないんだが.
あるんなら,ページとその一説を転載してくれないか?
おいらの読み落しかもしれないんで.
軍事板
青文字:加筆改修部分
▼
ちなみに,その観戦武官だった大佐が書いてる本『日本海海戦から100年 アルゼンチン海軍観戦武官の証言』(マヌエル・ドメック・ガルシア著,鷹書房弓プレス,2005.4)自体には指揮権を受け取ったとは全く書いていない.
その出版社か翻訳者のサイトで,大佐の孫にインタビューしたときに
「自分が子供のときに『これないしょだよ』とおじいちゃんが言って,乗り込んだ艦が損害を受けたので,とっさに自分が指揮をとったと話してくれた」と語ったことを掲載しただけ.
孫の話にしても,大佐本人が他にそのことを記録していたとは聞いたことが無いし,日本側にもそれを裏付ける資料は無い.
全員死亡とかならともかく,詳報をあとで書けるくらい意識もあった士官候補生もいた程度の艦で,他国の軍人に指揮権を譲り渡すなんて考えられない.
初陣の者ばかりを寄せ集めたならともかく,既に何回も海戦を経験してるのに.
軍事板
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
東郷平八郎の子孫が海上自衛隊にいる,というのは本当か?
【回答】
本当.
日露戦争100周年記念イベントでは,バルチック艦隊のロジェストベンスキー司令長官の子孫と会見することになった.
以下引用.
日露のひ孫同士が対面へ 日本海海戦から100年
日露戦争の勝敗を決めた日本海海戦から100年を記念し当時,敵味方に分かれて戦いを指揮した双方の艦隊司令長官のひ孫が来月5日,長崎県佐世保市で対面,平和と友好を願う講演をする.
対面を計画しているのは同市の防衛関係者らでつくる「日ロ海戦を偲(しの)ぶ友好親善の集い実行委員会」.
ロシア・バルチック艦隊のロジェストベンスキー司令長官のひ孫で,サンクトペテルブルク市在住のジノビー・スペチンスキー氏が来日.日本側の東郷平八郎・連合艦隊司令長官から4代目で海上自衛隊勤務の東郷宏重・三佐と5日に2人で記念植樹した後,講演で平和の尊さを呼び掛ける.
1905年5月,対馬沖の日本海海戦で負傷,捕虜となったロジェストベンスキー長官を東郷長官が入院先の旧海軍病院に見舞ったことに倣い,佐世保市に残る同病院跡の建物で会う.
【質問 kérdés】
ニコライ・フォン・エッセンって誰?
Ki az Nikolai Ottowitsch von Essen?
【回答 válasz】
ニコライ・オットーヴィチ・フォン・エッセン Николай Оттович фон Эссен は,日露戦争時の戦艦セヴァストーポリ艦長にして,第一次大戦時のバルト海艦隊司令官.
1860年12月11日,サンクトペテルブルク生まれ.
フォン・エッセン家はバルト・ドイツ人の家系で,先祖のうち7人が聖ゲオルギイ勲章を受章した貴族.
父親オットー・ヴィルヘルモヴィチ・フォン・エッセンは法務大臣.
1880年,海軍学校卒業.
1886年,海軍アカデミー卒業.
黒海艦隊勤務を経て極東艦隊に配属.
1897年,水雷艇第120号艇長.
1898年,砲艦グロズャーシチイ艦長(~1900年)
1901年,黒海艦隊の汽船スラヴャンカ船長.
1902年,士官候補生教官.
同年,防護巡洋艦ノヴィーク艦長.
1904年2月の日露戦争勃発時にはノヴィークは旅順にあったが,
1904年3月17日,極東艦隊司令長官ステパン・マカロフの直命により,前艦長が無能として更迭された戦艦セヴァストーポリの艦長職を引き継ぐ.
黄海海戦に参加.
203高地陥落後,旅順港内のロシア艦隊は日本軍重砲の射撃を受け,セヴァストーポリにも5発が命中したが,エッセンは砲撃の及ばない港外に艦を移動.
12月15日深夜,戦艦セヴァストーポリは日本海軍水雷艇の襲撃に晒され,セヴァストーポリは損傷を受け擱坐.
しかしその一方で,水雷艇2隻を撃沈,6隻を損傷させている.
1905年1月2日,旅順開城.
エッセン艦長はセヴァストーポリを沖合まで移動させて海底最深部の海域で自沈させた後,日本軍に降伏.
これにより同艦は,旅順艦隊の戦艦中,日本海軍が唯一鹵獲できなかった艦となった.
エッセンは捕虜になることは拒否.
2ヶ月にも満たない拘束の後,宣誓解放され,アメリカ経由でロシアに帰国.
同年,海軍本部戦略部長就任.
日露戦争後の1906年,バルチック艦隊旗艦である装甲巡洋艦リューリク艦長に着任.
1906~1908年,機雷敷設巡洋艦隊司令官.
1907年8月27日,准将昇進.
1909年,バルチック艦隊司令長官代理.
1913年,中将昇進.
その間,海軍近代化のためのクロンシュタット海軍士官学校設立に尽力.
1914年,第一次世界大戦勃発により,バルト海艦隊司令長官就任.
だが,ペトログラード地区の防衛を担当する第6軍司令官コンスタンチン・ファン・デア・フリート将軍が防御的戦略をとったため,バルチック艦隊はリバウ軍港を引き上げて主力をフィンランド湾に閉じこめ,老朽化した艦艇のみをリガ湾に置くことを強いられた.
それでも戦争開始初期にエッセンは主導権を握るべく8月9日に出撃し,ゴットランド島にあるスウェーデン艦隊を先制攻撃しようとした.
しかしスウェーデンの参戦とドイツによる東部戦線での大攻勢を恐れた上官により,帰還を命じられた.
1914年8月29日,エッセンは装甲巡洋艦リューリクとパルラーダを通商破壊戦のため出撃させる.
これは成果は殆ど得られなかったが,ロシア海軍の士気を維持するのには役立った.
1914年10月11日,哨戒任務から帰還途上の装甲巡洋艦「パルラーダ」が,ドイツの潜水艦U 26の雷撃によって,フィンランド湾の入り口で撃沈.
これによりエッセン提督は,以後,主力艦の行動には必ず護衛艦艇をつけるよう命令.
1915年春,ドイツ軍がリガ湾での新しい作戦を準備していることが察知さる.
エッセン提督は駆逐艦で哨戒行動に出るが,その最中に風邪をひき,これが肺炎へと悪化.
1915年5月7日,肺炎によりタリンで急死.
ちなみに1917年10月24日,潜水艦AG-14艦長だった息子のアントニーも,艦がタリン沖で触雷沈没し,戦死.
2011年7月8日,沿バルト造船工場「ヤンターリ」にて起工されたプロジェクト11356M型フリゲートが,彼の名に因んで「アドミラル・エッセン」と命名されている.
【参考ページ Referencia Oldal】
https://en.wikipedia.org/wiki/Nikolai_Ottovich_von_Essen
https://ru.m.wikipedia.org/wiki/Эссен,_Николай_Оттович_фон
http://rybachii.blog84.fc2.com/blog-entry-3905.html
http://daimyoshibo.la.coocan.jp/mil/koukai.html
https://www.geni.com/people/Nikolai-von-Essen/6000000035291788765
http://www.ersterweltkriegheute.de/1914/10/11/panzerkreuzer-pallada-explodiert
https://w.histrf.ru/articles/article/show/essien_nikolai_ottovich
https://www.business-gazeta.ru/article/315861
1枚目:肖像写真1904年
2枚目:肖像写真1915年
(図表No. faq191022es1~2,こちらより引用)
mixi, 2019.10.22
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