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◆◆軍事組織 Katonai szervezet
<◆日露戦争
<戦史FAQ目次
(Tumblrより引用)
『有坂銃』(兵頭二十八著,光人社NF文庫,2009.11)
有坂砲(三一式速射砲)がロシアの野砲に対して,射程と榴散弾の多用のために撃ち負けることがあったことや,旅順艦隊砲撃に使用した28cm榴弾砲が,実際には艦艇にほとんどダメージを与えていなかったことなど,興味深い記述はあったが,
「日露戦争は有坂銃(三十年式歩兵銃)で勝った」
と言い切るのはどうかなぁ…….
本書には,日露戦争の兵器史にも,陸軍中将・有坂成章の伝記にもなりきれていない,中途半端さを感じた.
――――――軍事板,2010/11/22(月)
『坂の上の雲5つの疑問』(ゲームジャーナル編集部,並木書房,2011.12)
まず定説への「疑問」と否定ありきの構成なので,各章のオチが弱いところがありますが,悪い本ではないと思います.
資料の出所も明確だし.
ただ,一冊の本としては非常に読みづらい編集で,そこがいやだなぁと思ったけど.
-----------------軍事板,2011/12/18(日)
『白い航跡』(吉村昭著,講談社文庫,1994/5/2)
陸軍ってやっぱり凄いや(汗)
海軍で脚気が激減,撲滅されても「脚気細菌説」を取り下げない森林太郎の姿勢にクラクラです.
しかも文豪だし.
鴎外繋がりと言えば,森茉莉(鴎外の娘)の「貧乏サヴァラン」には,
「子供の頃は,果物を生では食べさせてもらえなかった」
とある.
バナナでも桃でも,だ.
流石鴎外,細菌の鬼.
しかし,昭和19年に,この人は毎日のように上野風月堂でアイスクリームを食ってたそうである.
……そんな資源があったら前線の軍人さんに食わせろ,と思ってしまうのはダメでしょうか.
------------軍事板,2001/05/20(日)
青文字:加筆改修部分
『第二軍従征日記 日露戦争戦記文学シリーズ2』(田山花袋著,雄山閣,2011.11)
『日露戦争の兵器』(佐山二郎著,光人社文庫,2005.4)
『乃木将軍と日本人』(Sウォッシュバン著)
第三軍従軍記者の回顧録だけど,いちおう二〇三高地をとって,初めてロシア艦隊を射撃したのではなく,8月の第一回総攻撃以来,旅順港湾を徐々に瞰射の視野に納め,ロシア艦隊が死角に逃れるうちに,最後の二〇三高地争奪にいたる過程が,簡潔に描かれている.
あと,旅順要塞が二〇三高地の激戦の後に,1月に早期に陥落することで,3月の奉天会戦に乃木第三軍が間に合い,戦勝に寄与した.
これが6月まで順延すれば,ロシアの満州軍は増援され,絶対勝てなかったろうともある.
5月の日本海海戦はトラファルガル(1805.10)となり,結局,アウステルリッツ(1805.12)で戦勝したナポレオンの事例もあるから,なるほどと思ったな.
------------軍事板,2012/01/27(金)
『乃木希典』(福田和也著,文春文庫,2007.8)
司馬遼太郎を頂点に,詩人将軍,演技性人格,軍人として無能といわれた人物の再分析.
上記毀貶を肯定しながらも,演技性人格の動機として,武家の家系に生まれながら虚弱と罵られた人物が,維新,国軍創設のさなか,武家出身の連中に疎外されつつ,30代後半のプロイセン留学で,
「軍人の本文の一つは徳義の実現」
「(秋山兄弟の軍事科目や,森鴎外の軍事医学同様,)これを国軍に導入するのが私の使命だ」
と帰国.
まあ,自己実現の目的を見出したという事.
陸軍省への報告書でもそう書いて,以降,留学前の遊び人から一転,旅順戦,殉死までの性格の一環を描く.
・・・いや,なんでもない内容にみえるけど,司馬遼太郎その他,多くの研究者が,膨大な生活史を「状況証拠」にして,乃木の殉死に至る精神史を「憶測」しているけど,本人がとりあえず,「こうなりたい」と明治20年代に書き残し,明治37~8年,そう行動し,明治45年に原理に従って自決したという簡潔明瞭な内容に,ちょっと目を開かれたわ.
--------------軍事板,2012/02/25(土)
『兵士たちの日露戦争』(大江志乃夫著,朝日選書,1988/03)
これ,福井県羽生村で旧家から出てきた,当時の軍事郵便500通を掲載したものだけど,末期の樺太上陸のとき,
「ロシア捕虜180人を降伏後,翌日,射殺」
って手紙がある.
もちろん公式戦史「明38/8/30 内淵川上流の掃討」では,<戦闘中ニ掃射>となってるけど・・・・.
俺,日露戦争は<古き良き最後の騎士道戦争>ってことで,美化されてるとかねがね思ってたんだ.
大江教授の信頼性については不明だが・・・・
あったろうな,末端での捕虜虐殺や略奪・強盗.
------------軍事板,2001/04/13(金)
◆◆◆陸軍
【質問】
日露戦争前後の日本陸軍の増強状況を教えてください.
【回答】
1894年には,それまで7個だった師団を,さらに6個(第7~第12),騎兵と砲兵旅団をそれぞれ2個,台湾に混成3個旅団を増設.
各師団の騎兵大隊は聯隊になり,野戦砲兵聯隊は野砲兵聯隊と山砲兵聯隊に区分された.
また砲兵は,砲兵旅団のほかに,要塞(ようさい)砲兵聯隊が横須賀,由良,呉,下関,佐世保に,同大隊が芸予,舞鶴,対馬,函館,基隆(きいるん:台湾),澎湖島(ほうことう:同)におかれた.
警備隊も,1896年の常備団体配備表によれば,小笠原,佐渡,隠岐(おき),対馬,五島(ごとう),沖縄,奄美大島,他.
もっとも,経費の関係もあり,屯田兵を改編する第7師団や騎兵,砲兵旅団は,この時には,まだ完全配備にはなっていなかったという.
日露戦争中の1905年には,野戦4個師団(第13~16)が増設された.
さらに戦後は第17(司令部:岡山県岡山),第18(同:福岡県久留米)を増設.
1907年には,平時19個師団体制ができあがり,平時人員数では244,804名,馬39,364頭となった.
【参考ページ】
荒木肇メルマ!,2009/3/4号
【質問】
史実では1876年に廃止された日本の海兵隊が存続し,西南戦争,日清戦争を経て,日露戦争で1個海兵師団を編成.
乃木将軍率いる第三軍の指揮下に入り,旅順要塞攻略に挑むというプロットを友人に話したら,無理がありすぎ,と指摘されました.
海兵隊の存続は何とかなるとしても,そもそも海軍の指揮下にある海兵隊を,陸軍の将軍の指揮下におくというのは,命令系統上問題がある.
その点はおくとしても,海兵師団は当時のアメリカですら保有しておらず,戦時に海兵師団を臨時編成するくらいなら,陸軍1個師団を臨時編成したほうが合理的.
海兵隊が存続したとして主目的は,基地警備や外国への緊急派兵になると思われ,それなら日露戦争の頃は,独立大隊が各鎮守府に1個ずつある程度になるのでは.
そうしないと,海軍予算を圧迫してしまう,等の指摘を受けました.
実際問題として,日露戦争の頃,海兵師団というのはアメリカをはじめとする諸外国に無かったのでしょうか?
第1次世界大戦の経緯をみたり,「アメリカ海兵隊」を読む限り,日露戦争当時のアメリカ海兵隊は,どうも海兵師団を保有していなかったみたいなのですが.
どうかよろしくお願いします.
【回答】
日露戦争当時のアメリカ海兵隊は,大隊規模の部隊しか持ってない.
海兵隊の最小戦術単位は,現代に至るまで1個大隊で,第1海兵連隊の創設が1911年と日露戦争後.
海兵隊師団がはじめて編成されたのは,1941年の第1及び第2海兵師団.
つうか,そもそも大統領命令969で,海兵隊員の乗艦任務が廃止されたのが1908年だから,当時のアメリカ海兵隊は,まだ船の上の歩兵&憲兵だよ.
FIGHTING TECHNIQUES OF A US MARINE 1941-1945
レオ・J.ドーアティー三世 リイド社
という本に,創設当初の米海兵隊の話が割と詳しく書かれている.
「そんなのイラネ」の声が強い中,優秀だが変わり者のある将校が,頑張って素地を作ったとの事.
(ちなみにネット検索をかけまくったら,普仏戦争でフランス海兵隊は,既に師団編成で奮戦したらしいけど.
これは,どこまで信用できるかな.
現在でこそ,フランス海兵隊は陸軍管轄下に移っているけど,普仏戦争当時は,海軍管轄下だったと思うのだけど.
普仏戦争に関する詳しい書籍なら,書いてありそうにも思うのだけど.
そういう書籍等はないかな)
また,海兵隊が廃止されずに日清日露で大活躍,というネタは,高貫布士『大日本帝国海兵隊戦記』という,そのものズバリの架空戦記が出てる.
もう絶版だけど.
作者がモノホンの軍事評論家なため,存続した理由から編制装備人材まで,かなり細かく設定されていた.
以下余談.
海兵師団ってのは無理があると思うが,連隊級の海上機動部隊を日露役で出すなら,連隊長級以上で是非この人の登場希望.
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E5%BF%A0%E5%B4%87
戊辰役の時,いまの千葉から江戸湾を,反対に突っ切って対岸の箱根を占拠,官軍が東海道で詰まったら,艦砲射撃で殲滅ってのをやろうとした人だ.
あまりにも若すぎて,政治力の関係で挫折したが,明治期に機動海兵隊をやるなら,打ってつけの人物だと思う.
軍事・官界的な意味で,完全にフリーだし.
あと,空いてる所で,年齢的に微妙だが沖田林太郎(総司の義兄,新徴組組頭),
ネタ的な意味で,情報部に服部正義(第13代服部半蔵,桑名.戊辰役では立見尚文の軍政サポート)とか.
人材が足りなくて,女性を動員するべく山本八重子(会津藩砲術指南役,のち新島襄の妻.日清日露役では篤志看護婦)にまず声を…,というのは流石にやり過ぎか.
戊辰役関連で面白い人は,まだまだいるんだ.
出来れば発掘を.
軍事板,2011/01/22(土)~01/28(金)
青文字:加筆改修部分
【質問】
日本は日露戦争後まで軍馬も去勢してなかったとのことですが,明治陸軍の騎兵は欧州各国のそれと比べ,お話にならないレベルだったのですか?
【回答】
1892年に日本を訪れて,詳細な旅行記を残している,二重帝国のFerdinand皇太子は,抜き打ちに騎兵部隊を閲兵してこう記しています.
------------
熊本の騎兵連隊の演習を見学し,馬については毛並み,栄養状態は良好だが,痩せ馬も少なくなく,多くに鞍擦れが顕著.
鞍と保弾帯に関しては,ドイツ式だが実用的ではない.
馬銜は英国式が採用されているが,有利とは思えない.
鞍褥は極めて薄く,鞍擦れが出来る原因ではないか.
騎兵の武器についてはサーベルは護剣部分が遊びがほとんど無く,子供用に見える.
騎兵銃は,我が国の様に革帯での固定はなく,少しでも動かすと背中でぶらぶら揺れてしまう.
一方,下士官の拳銃は,扱いやすく,我が国よりも実戦向き.
騎兵行進はドイツ式で,全行動が極めて整然と行われている.
但し,種馬については,マジャール産でこれは歩法は良好だが,頸が短く,下顎が大きく,背中が貧弱で,我が国の軍馬に当てはめると下級クラスに相当する.
騎乗については,改善の余地が相当ある.
体の前面が肩マントで締め付けられ,ポケット内に手投げ弾が入っている為,騎乗の際,拳を常に高い位置に保たねばならず,安定した手綱捌きを得られない.
斯うした点から,日本の騎兵の騎乗姿は美しくない.
これは,大多数の馬は下顎の動きが堅く,一般に余り騎乗された事がないからであり,手綱を幾ら強く引いたところで反応は得られまい.
これに対し,日本の騎兵の柔軟かつ適切な騎乗の仕方は,一見に値すると言って良い.
日本の騎兵の様な舞台なら,教官に欧州式訓練の経験があり,かつ兵士に資質と意欲さえあれば,欧州の優れた騎兵に比肩しうる部隊が短時日に育成されるに違いない.
欧州の騎兵部隊の中には,日本の騎兵より遙かに劣るものもある.
------------
眠い人 ◆gQikaJHtf2 投稿日:2007/07/06(金)
青文字:加筆改修部分
また,個人的感想としての資料だが,詩人のキプリングが日本に旅行したときの旅行記に,陸軍の演習を見た話が載ってるが,馬が小さすぎるとか乗馬が下手とか,騎兵に関してはえらくけなしてる.
もっとも,歩兵に関しても訓練は行き届いているが,背が小さくて体格が悪いとこれも辛らつな評価をしている.
まあ,軍オタの愛国者だったキプリングからすれば,世界最強と信じていた英軍に比べて評価が低くなるのも仕方がないが.
その代わり日露戦争後には,打って変って日本軍を賞賛してるそうだ.
ちなみにキプリングの日本の騎兵見学は,眠い人氏が書いたオーストリア皇太子の視察と同時期の1892年ごろ.
フェルディナントの方は厳しいながらも有望さを認めた評価をし,キプリングの方はそうは見なかったということなんだろね.
投稿日:2007/07/06(金)
青文字:加筆改修部分
【質問】
映画『二百三高地』で,日ごろは小学校教師をしている人が,動員令で予備少尉として前線に移動しているのですが,動員令で動かす人間には将校もいるんですか?
あったとしたら,他の招集兵とは何が違うために,将校として徴兵されるんですか?
【回答】
多分その人は一年志願兵だったんじゃないかな.
これは陸軍の予備役将校養成のための制度です.
1889年(明治22年)改正の徴兵令で制定されたもので,それまで現役徴兵を除外されていた中等学校同等程度以上の学校卒業者の除外を無くした代わりに,一年間の現役勤務で予備少尉に任官されるものです.
ただし,在隊時の食料や少尉任官時の服装などは自弁であり,主に資産家を対象とした制度でした.
名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板
青文字:加筆改修部分
203高地の攻防
(画像掲示板より引用)
【質問】
日露戦争の203高地攻略戦?でしたか,あの頃には休戦日が定められていて,その日には戦死者を葬ったり,敵同士,タバコを融通しあうなんてことがあったと,以前メディアを通してみた記憶があるのですが本当でしょうか?
【回答】
どうやら死屍で戦場が掩われてしまう為,遺体を収容し戦場を掃除する目的で双方が赤十字旗を立て,一時休戦を行っていたようです(定期的かどうかまではわかりませんが).
『NHK歴史への招待 第28巻 日露戦争』という本の中に,そのようなエピソードが書かれた本を紹介してありました.
志賀重昮博士の『大役小誌』という書の中に,,,
――――――
われよりは携えたコニャック火酒を贈り彼よりはマルテル酒とロシアブドー酒が贈られて,午後1時ごろ,酒宴が始まった.
わが将兵が露兵の勇武を嘆美すると,彼らまた口々に日本兵の勇敢を称えた.
折からフランツ大尉が盃を挙げて二〇三高地の頂上を指し,
『ただし,あの高地だけは,めったなことに日本軍には売らぬ』
といえば,桑田参謀大尉これにフランス語にて応じ,
『われは忠烈の血をもって,あの高地を是非とも買いとる』
と答え,相共に笑い,互いに喝采せり,,,
――――――
というのがあるらしいです.
なお,このエピソードは明治37年12月3日の話らしく,この2日後の12月5日に二〇三高地は陥落したとのコトです.
…他にも映画『二百三高地』の中にもこれと似たようなエピソードがありましたので,興味を持たれたのでしたら一度ご覧になってみてはいかがでしょうか.
いぢち in 軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
日露戦争当時,日本に「捕虜になることは恥だ」という意識はあったのか?
【回答】
賛否両論あるが,「恥だった」と見るほうが理に叶っているだろう.
まず否定論.
火野葦平によれば,むしろ逆に「名譽ある捕虜」扱いだったという.
日露戰史をひもといてみても,そのころの新聞には,ロシヤ軍の捕虜となつた日本兵の記事が,麗々しく,部隊をはじめ,氏名官等級まで明瞭にして記載されてゐる.
しかも,それは侮蔑的にではなく,同情の筆をもつて書かれ,
「不幸にして捕はれの身となつた某,某,某等の兵士諸君は,モスクワに送られて,そこで大いに勉強し,ロシア人間で賞讚の的となつてゐる」といふやうな新聞記事さへある.
日本でも,「名譽ある捕虜」であつたのである.
(「バタアン死の行進」,小説朝日社,1952/10/5,P.23-24)
次に肯定的な見方.
最近(2005/9)刊行された吹浦正著「捕虜たちの日露戦争」(NHKブックス)によると,日本人が捕虜を恥辱と考える様になった淵源は,平家物語とか源平盛衰記に求められるとしています.
とは言え,明治になってからは国際人道法的な考えが徐々に軍首脳に根付き,西南戦争にて官軍司令官谷干城少将が「恣に降虜を殺戮する勿れ」という告諭を発し,次いでこれに基づく「官軍に降るものは殺さず」という張り紙による告示が為されています.
これを受けて,薩軍首脳である西郷隆盛は,
「官軍と雖も薩軍の傷病者に危害を加えることは,万国公法にも諌めているから,安心して此の地に留まり,官軍に降るよう伝えよ」
と,病院係員の山口盛高に伝言しています.
しかし,士族の軍隊から国民皆兵に至る過程において,その士気を高め規律を維持する上で,次第に捕虜感が強化され,「捕虜は恥辱」という意識が現れてきます.
例えば,1895年に書かれた泉鏡花の短編「海城発電」では,「百人長」海野が,捕らわれた赤十字の職員神崎に対して,以下の様に問うています.
「敵のために虜にされると謂ふがあるか.抵抗してかなはなかつたら,何故切腹しなかった.苟も神州男児だ.腸を掴み出して敵のしやツ面へたゝきつけて遣るべき處だ.…一旦恥辱を蒙って,吾々同胞の面汚しをして居ながら…」
(赤十字の救護員は捕虜ではないのですが…)
また,1894年,山県有朋が平壌で将校に武人としてのあり方を話した「申告」では….
「万一如何なる非常の難戦に係はるも,決して敵の生擒する可からず.寧ろ潔く一死を遂げ,以て日本男児の気象を示し,日本男児の名誉を全うすべし」
と,お偉方が捕虜を否定していますな.
さて,本題.
先ほどの話を踏まえて,1904年に学会での論争がありました.
1904年9月18日,尾崎行雄率いる東京市教育会第一回演説会で,早稲田大學教授浮田和民――「人は善良な人物になる義務はあるが,偉大な人物になる義務はない」という名言を吐いた人で,早稲田系論客の中心人物.また1919年に起きた森戸辰男東大助教授の舌禍事件では片山哲,星島二郎と共に彼の弁護に奔走する.1909~17年まで雑誌「太陽」の主幹――が,「捕虜不可避論」を展開します.
これに対し,陸軍少将佐藤正――日清戦争中,第三師団歩兵十八聯隊の「鬼大佐」で平壌攻略戦中に左足切断の重傷を負う.後,広島市長を経て宮中顧問官――が,
「学者の邪説を破す」
として,その糾弾を行い,論争に発展したのです.
佐藤は,浮田が,
「日本人が討死を以て名誉と信じ,捕虜と為るを以て絶大の恥辱と為し斯る場合には,自殺によって其の誉れを全うせんとすることを期すると言う理想を抱けることを非難」
したと決めつけ,浮田の論旨を,
1.義務のために死ぬのは良いが,名誉のために死ぬのは不可である.
2.戦場で自殺するものの多くは名誉のために死を望むのであるから,これは野蛮であり,勇気に乏しいことを自白するものだ.
3.軍人と雖も生還を期して戦い,捕虜となったからとて恥と思うな.
4.敵国に遊学に行ったつもりでおれ.
と聞いた(伝聞ね)として,此の説は軍人の士気を軽視し,人員,材料,学術の三条件で戦勝か否かが決まる安易な考えだとしました.
ちなみに,この尻馬に乗る形で,東京帝国大學教授井上哲次郎(ドイツ観念論哲学の紹介者で哲学者,また,天皇制国家主義を主張)も同様な批判を行っています.
で,井上教授の反論に対し,浮田教授はこれに回答を行い,
1.捕虜になったからとか,なりそうだからと言う場合に,自分は戦場に於いて自殺若しくは割腹する必要があるか疑わしい.
2.金州丸,常陸丸,佐渡丸等に於ける軍人の最後に向かって同情と畏敬とを表する.
3.井上は,浮田が日本の軍隊が敵に降参して捕虜となることを主張したかの様に非難したが,「自殺割腹の必要無しという前提と,敵に降参せよと捕虜となるも不可なしと云ふ結論との間には,頗る懸隔あるとを知らざるべからず.
4.敵弾に当たったり,海中に投げ出されて死ぬのも名誉であるが,「万死に一生を得て帰還し,更に再度の遠征に赴きたる者も同様名誉ある将校兵士たることを失わざるや」である.
5.「留学したる積り」云々については,捕虜となることを奨励したものでは勿論なく,「任務の為め若しくは交渉の為敵軍に赴いて捕虜と成りたる人々」が,「一部の議論に制せられ帰国するの面目なしとて或いは自殺割腹することもやあらんかと思ひ,斯くの如き狭隘なる了見には及ばぬものなり」と応じ,戦争は又あるかも知れないが,その際の「奏功を期し,今回は内情視察の為,其の国へ留学したる積もりにて忍耐せよ」という意味の発言である
としています.
これに噛み付いたのが佐藤少将で,
「浮田氏の弁論に就て」
と題し,浮田は捕虜を奨励していないが,ロシアで勉強してこいと言うのだから,いかにも捕虜となることを恥ずかしいと思うのは馬鹿馬鹿しいことであり,
「自殺を遂ぐるよりは寧ろ,露西亜に留学する積で,得意に捕虜となるのが宜しと言ふ口気は,分明に見えて居る」
「其結果は自然,捕虜となることを奨励して臆病武者を製造するの傾きあることは,疑を容るるの余地はない」
と反駁.
更にこれに加わる形で,初代東京帝国大学総長の加藤弘之が,両論の是非を論じるとして,議論が一層の展開を見せることになっていました.
1905年にこれらの議論は,「現代大家-武士道論叢」として出版もされています.
民間レベルでは,特に,上層階級,中産階級の人々は,彼ら日本人捕虜に同情し,激励の手紙,慰問袋,募金,書籍や雑誌などが引きも切らず送られてきたそうです.
その寄付金は2,636万5,860円,慰問袋は17,962個に上りました.
また,日本政府は当時,捕虜将兵,軍属の氏名を,逐次官報に公表し,新聞紙面に出たり,市町村を通じて家族に知らしたりしていました.
さて,日露戦争が終了して暫くして,日本軍の捕虜が欧州,シンガポール経由で還送されてきます.
▼ 彼らは,ある者は奉天出張中に日露戦が勃発して捕縛されたり,ある者は船に乗組んでいてロシア海軍の通商破壊で捕虜となったり,また,ある者は奉天会戦で師団毎降伏したりするなど,様々な理由で捕虜となりました.
彼らは,ある者は奉天出張中に日露戦が勃発して捕縛されたり,ある者は船に乗組んでいてロシア海軍の通商破壊で捕虜となったり,また,奉天会戦では村上正路連隊長が負傷して捕らえられるなど,様々な理由で捕虜となりました.※▲
確かに「名誉ある捕虜」という扱いをされた方もいましたが,日露戦争中でも,学者間の論争(捕虜は恥か否か)があったりして,「名誉ある捕虜」という考えで一致していた訳でなく,寧ろ,「捕虜は恥」という考えの方が世論的には勝っていたようです.
このことは捕虜にも聞こえてきていたみたいで,日露戦後,還送の際に南仏やインド,シンガポールと言った寄港地で下船し,そのまま日本に帰らなかった兵士が少なからずいたそうです.
で,帰国した捕虜についてですが,立場によって苦労したりそうではなかったりと言う二つの面がありました.
篤農家とか富農で捕虜になった人の場合は,
「良く帰ってきなさった」
「苦労したなぁ」
という形で,「捕虜の家」と言う言葉が用いられていましたが,貧農で捕虜になった人の場合は,同じ「捕虜の家」という言葉で呼ばれても,それは,蔑称として投げつけられたとも言います.
帰国捕虜については,立場もあるのかも知れませんが,郷里の民衆が一番冷たかったと言われます.
即ち,日露戦争で戦死した兵士,軍属の家族,親戚から見ると,何でうちの奴が死んで,あいつが生き残っておめおめと帰ってきたのか,と言う考えが出てくる訳で.
中には苦労した後,村長になった方もいましたが,その人でさえ,
「捕虜扱いには苦労させられたし,人生の相当部分に影響があった」
と後に語っている訳で,「名誉ある捕虜」とは言えないでしょう.
しかも,下士官以下はまだそれくらい(と言っては語弊がありますが)で済みましたが,士官になると,明確な罪には問われませんが,例えば,軍隊輸送船に乗り組んでいた士官の場合,その船が拿捕,その後部下の抵抗で結果的に撃沈された後に,捕虜となったのですが,彼らは,「職務怠慢」の罪で軍法会議に掛けられていますし,村上にあった歩兵聯隊の聯隊長となった士官の場合,聯隊長なのに,部下があからさまに蔑み,元々体調を悪くしていたその士官は,ほどなく退役に追い込まれています.
これを後押ししたのは,戦勝気分もさることながら,水野廣徳の「此一戦」が民論に与えた影響が強いとしています.
この中の「死栄生辱」という一章の中で,
「死の栄あって生の辱なしとは,古来我が邦武士の信条にして,大和魂も,武士道も其の淵源する所は,一に此の精神に外ならぬのである」
と総括し,
敵に屈するは罪である,
捕虜は恥である,
捕虜になってはいけない,
万一捕虜になったら耐えろ,
敵の捕虜は無闇に優遇するな,
と説き,更に,「名誉の降伏」,「名誉の俘虜」なる文字を見て「異様の感がした」と述べ,
「為すべきを為し尽くしたる後,やむを得ずして敵に捕らわるるは,是れ決して犯罪には有らざるも,未だ之を以て名誉とすることは出来ない.
唯其の勇敢なる行為顕著なる勲功が,偶々以て俘虜となりたるの恥辱を償ふに足るだけである」
と述べています.
また,1905年5月10日の寺内正毅陸相のロシア人捕虜に対する扱いについての訓示では,以下の様に述べられています.
「(前略)捕虜の言語動作に徴するに,彼等は祖国の為忠義に励み,既に軍人としての本分を尽くしたることを自信するが如し.
而して邦人は,彼等の捕虜となれるを以て恥辱とし,彼等を軽侮するの観あり.これ国の東西による風習の同じからざるにより敢て怪しむに足らずと雖も,之が為彼等に悪感情を抱かしむることなき様留意すること肝要なり」
図らずも,日本人の「捕虜は恥辱」感を陸相自ら認めたことではないか,と思いますね.
ただ,山県有朋の「申告」にしろ,寺内正毅の「訓示」にしろ,前者は下士卒への影響は少なかったみたいですし,後者は客観的な観測であり,明確に捕虜に対する忌避感というのは軍上層部では表向き見られません.
▼※ 訂正します.
大量捕虜となったのは,
・ロシア極東艦隊による日本海での日本艦通商破壊作戦で,4月25日に拿捕された金州丸に搭乗していた,大阪の混成第37連隊所属歩兵第9中隊の一部,45名の下士卒と特務曹長以上の全将校,錦城駐在諜報官のケース,
・第1師団後備歩兵第49聯隊第1大隊第7中隊が,中隊長戦死後に,将校4名を含む残存部隊172名が,丸ごと捕虜となったケース,
・第2師団後備歩兵第29聯隊の第6中隊で,コサック騎兵部隊の急襲により,将校2名を含む137名の捕虜を出したケースです.
また,大量ではありませんが,歩兵第28聯隊の北陵夜襲で,村上連隊長が軍旗やその他部隊中枢とはぐれ,捕虜になったケースがあります.
この記事を書いた時には,この連隊長捕虜と,中隊の丸ごと捕虜が,ごっちゃになったのだと思います.
お手数ですが,修正いただければ幸いです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 by mail,2011年05月05日 15時03分
▲
【質問】
森鴎外と脚気・・・って,いったい戦争に何の関係があるんですか?
【回答】
第二軍軍医部長(のち,1907年10月に陸軍軍医総監)だった鴎外が脚気病原菌説に拘泥し,兵に白米を食わせつづけたため,脚気を蔓延させたという一種の薬害事件
in 日露戦争
日露戦争中,兵士の脚気が深刻な問題となった.
原因は主食が白米で,ビタミンB1が不足していたからだ.
その事態に,軍は古くからの経験則より玄米食を制式採用しようとした.
しかし,ドイツ医学を学び,脚気細菌原因説をとなえる森鴎外はその案に猛反対.
結果日本軍は露西亜でいらぬ犠牲を増やすことになったとさ.
「日露戦争中,森鴎外はどんなロシアの将軍よりたくさんの日本兵を殺している」
という話すらある.
もっとも,脚気は鴎外だけに罪があるわけではなく,白米を基本的糧食とすることを望んだ兵隊にも,多少の責任があると思う.
確か,江戸時代の一人扶持を精米したものが,陸軍の一日の支給量と一致していたと思う.
白米が腹いっぱい食えることが軍のウリの一つだったしな.
もちろん鴎外が,脚気の話のみで評価してしまうには惜しい人物であることに変わりはない.
軍事板
上記の経緯について,宮田親平著『科学者たちの自由な楽園』(文藝春秋,1983/7/15),p.88-89では,以下のように説明されている.
明治から大正にかけて,脚気は死亡原因の上位を常に占めており,年間2万人以上の犠牲者を出していた.
政府にとりわけ頭を抱えさせたのは,兵士の罹病だった.
特に軍艦乗組員に多発し,酷いときには長期航海中,半数が倒れて操艦不能になるときもあった.
死亡者もそうとうに多かった.
帝国海軍の発祥の頃,なぜ日本の軍艦からばかり脚気患者が続発するのだろうかと疑ったのは,海軍軍医総監高木兼寛である.
イギリス水兵は脚気になどかからないのである.
彼は,これは兵食に何か欠陥があるのではないかと考え,実験的に一部軍艦にパンと肉食を与えてみたら,患者が激減するのを見た.
しかし,パンは農村出身の水兵が食習慣から嫌がるので,彼は小麦のパンが有効なら大麦でも良いのではないかと考え,麦飯を試してみた.
脚気患者を海軍からほぼ一掃することに成功したこの人体実験は,むろんビタミンなどというものを予想して行ったのではないが,その鮮やかさによって,国際的にも今なお食料史上の人物として,高木の名が記録されている.
ところが,これに反して陸軍は麦飯を採用しなかったのである.
陸,海軍の維持の張り合いというのはこの時代からあったらしいが,その理由は,一説に洋行帰りの森林太郎(鴎外)一等陸軍軍医の反対による,とされている.
森はベルリンでカロリー学説を学んできていて,米のカロリーのほうが麦より高いと主張したというのである.
おかげで日露戦争中,最後の奉天大会戦で気がついて麦飯に転換するまで,戦病者のうち半数という脚気患者を出してしまい,これは森の黒星という事になるかもしれない.
しかし,もしそうであるなら,この対立は両者の背景を探ってみると,興味が深い.
髙木がイギリスで医学を学んで経験主義を身につけて帰り,実行に移したのに対し,森が「脚気の原因の究明が先決」という,ドイツ的な本質主義を体していたという事になるだろう.
消印所沢
ついでに言うと,森鴎外は細菌説の主張を押し通すため,当時の医学界における人脈をフル動員して,高木兼寛軍医の意見を受け入れさせないように学界などで猛烈な反対論陣を張っています.
その運動は,オリザニン発見後まで続いたほどです..
人によっては,高木兼寛軍医を日本最初のリアル日本医学会の犠牲者とも言うほどです.
海軍での採用も,明治天皇の助力がなければ,どうなっていたことやら・・・.
ただ,森鴎外の主張もわからなくもないです.当時の栄養素はたんぱく質と炭水化物,脂質,のバランスだけに集約され,1910年に鈴木梅太郎がオリザニンを発見するまで,それ以外の栄養価は存在しないと思われていた時代ですので.高木軍医の根拠であった体のバランスを重視する漢方医学は,独逸医学にどっぷり染まった森鴎外には受け入れられなかったんでしょうねぇ.
まぁそれでも,日露戦争前の1897年にオランダのエイクマンが脚気を予防する未知の物質の存在を証明していたのですから,日露戦争まで脚気細菌起源説にこだわった森鴎外は老害といっても差し支えないでしょうね.
ただ,高木兼寛軍医は,後にその功績で森鴎外がなれなかった華族に任命されましたので,最後は報われたかもしれません.
ちなみにトリビアになりますが,麦飯やパンでほぼ発生が亡くなっていた脚気ではありますが,麦飯は消化吸収がとても悪く,一度発症したら直りにくい状況には変わらず患者は常に一定数いました.
オリザニン抽出物も値段が高く,吸収しにくい弱点もあり,効果はあったものの根絶にはいたりませんでした.
結局,脚気対策は玄米食ではなく,白米に押し麦を混ぜることで解決したそうです.
玄米だと戦陣食として吸収が悪く,緊急時には白米だけにできる麦のほうが都合が良かったようです.
この辺の詳細は,吉村昭『白い航跡』上・下(講談社文庫,1994年)が安くて詳しいかと.
日本で脚気が完全に根絶されたのは,なんと昭和29年です.
戦前からビタミンB1の量産研究を続けていた武田薬品が,ビタミンB1を弱った胃腸でも吸収できる誘導体の形で,低価格で量産する技術を確立させたことを受けてアリナミンを販売,初めて脚気は根絶されました.
ということは,警察予備隊が海洋船舶を持っていたら脚気の悪夢再びだった可能性も多少残っていたのかも.
もっとも,ビタミン問題は日本軍を不利にばかりしたわけではない.
こんなエピソードが残っているという.
ビタミンCの発見の後,鈴木〔梅太郎〕は言ったという.
「日露戦争で旅順が陥落したのは,ロシア軍は壊血病に悩まされたためで,もしビタミンCのことが分かっていたら,大豆はたくさんあるはずだから,それでもやしを作ればいいわけだ.
そうなったら,世界の情勢は変わっていた」
――――――――宮田親平著『科学者たちの自由な楽園』(文藝春秋,1983/7/15),p.95
消印所沢
【関連リンク】
「NATROMの日記」:やる夫で学ぶ脚気論争
「memorandum」■[医療]おっと,森鴎外を批判するのはそこまでだ
軍医時代の森鴎外
(画像掲示板より引用)
【質問】
ウード・ポルマー&ズザンネ・ヴァルムート著『健康と食べ物あっと驚く常識のウソ』,(草思社,2004.1),P242-245によれば,脚気の原因はビタミンB1欠乏ではなく,米に付着した黴の生成毒だそうですが,この説についてはどうでしょうか?
【回答】
とりあえず結論から.
日本医学界において現時点では異端説です.
んで,細かい説明.
まず「健康と食べ物あっと驚く常識のウソ」はドイツにおいてベストセラーになり日本語訳も発売されました.
筆者のUdo Pollmerはドイツの栄養学者.Susanne Warmuthは生物学者.両方とも医学界の人間ではありません.
(問題の論述を二人の筆者のうちどちらが書かれたのか判断出来なかったので,二人とも名前を上げさせて頂きました)
今までに「科学的」に
「脚気(という病名がつく症状)はビタミンB1の欠乏による」
というデータは出ています.
人工的にビタミンB1を不足させたらどうなるか,脚気症状が出ている患者にビタミンB1を投与したらどうなったか,そういうデータの積み重ねです.
なので,現時点において「脚気はビタミンB1欠乏による」ということが「日本国内の医学的常識」となっています.
ただし,マイコトキシン中毒による衝心性脚気(急性脚気)というものも,ビタミンB1欠乏による脚気とは別に存在します.
これは,麻痺を起こして三日くらいの苦悶のうちに死んでしまう急性の脚気です.
そして,お米に発生するカビ「ペニシリウム・シトレオビライデ」の毒性は,東京大学医学部の浦口健二教授によって科学的に立証されています.
Wikipedia~黄変米
(Wikipediaの参考文献は下記の出典本と同じです.)
また,『カビがつくる毒 日本人をマイコトキシンの害から守った人々』(辰野高司著,東京化学同人出版,1988.9)によれば
『この研究は戦後に純粋な化合物・シトレオビリジンによって追研され,メタノール・エキスで行われた結果と完全に一致したことで,その毒性が確認された.
この追及の結果は浦口に徳川末期から明治にかけて日本で猖獗をきわめた『衝心性脚気』が,なぜ明治末期から大正の初めにかけての年代に無くってしまったのかのかが彼には疑問であった.
カビ毒で見いだした中毒症状は,その時代に発見されたビタミンBでは軽快しなかったからである.
そこで彼の「米とカビ」,「カビ米と脚気」についての気の長い「脚気病因論的研究」,「疫学的研究」へと発展した.
そして,東京大学病院での「脚気による死亡例の解析」と「米の国家管理」との関係の追及へと彼を向かわせた.
米の国家管理が全国の30%に達した時期から衝心性脚気の発生が減少し,ほぼ全国で米の管理が行き届いた1911年には,ほとんど衝心性脚気で死亡する患者が認められなくなったことが突き止められた.
「米とカビ」,「カビと毒性」の関係が疫学的にも解明された.』(P39~)
『第二の栄養不足説の立場をとって研究したのが,エイクマン,ホプキンス,鈴木だったわけです.
彼らの成功によって脚気の非常に大きな部分を占める多発性神経炎の問題が解決しましたが,そのために日本の脚気がすべて無くなったとはどうしても考えられないのです.
確かに大正の初めのころには,脚気で死亡する人はほとんどいなくなってしまったのです.
しかし,鈴木がオリザニンを発見し,三共製薬がオリザニン製剤をつくるようになったのですが,実際にオリザニン(ビタミンB1)が医療の場で使われるようになったのは,東京大学の島園医学部教授が脚気治療のばで使って効果が確かであると発表された1929年以降であり,それまではほとんど医療の場で使われることがなかったといわれています.
医師の間では,医学者ではなく農芸化学者である鈴木の発見したオリザニンに対して,「百姓が作った薬」として蔑視する傾向があったと聞いています.
1929年はエイクマンたちがノーベル賞を受賞した年であることを考えると,その辺の事情が見えてくる気がします.』(P53~)
ちなみに著者は,薬学博士で専門は有機化合科学および中毒学です.
さらに,黄変米(カビたお米の事)の毒性については,終戦後輸入された外米でも発見され,国会で問題にされています.
衆議院会議録情報 第019回国会 厚生委員会 第58号
および
衆議院会議録情報 第019回国会 決算委員会 第40号
を参照してください.
上述項目中の
「ちなみにトリビアになりますが,麦飯やパンでほぼ発生が亡くなっていた脚気ではありますが,麦飯は消化吸収がとても悪く,一度発症したら直りにくい状況には変わらず患者は常に一定数いました」
の部分も,カビ米が原因の衝心性脚気の事を考えると理解しやすいかと.
【質問】
マイコトキシン中毒も原因なら,脚気による死亡者への責任は,森鴎外を含む全ての医学者の責任であって,森鴎外のみの責任には出来ないのでは?
【回答】
これに関しては反論させていただきたく思います.
その理由は,結論から言えば「森鴎外は陸軍が苦労して根絶した脚気をわざわざ日露戦争時に復活させた張本人」であるためです.
脚気主犯:日本医学界の状況説に関してですが,
「日清・日露戦争と脚気」内田正夫所員/総合文化研究所助手
和光大学総合文化研究所年報『東西南北』2007
http://www.wako.ac.jp/souken/touzai07/tz0716.pdf(PDFファイル)
に脚気に関する四方山話が記載されているので,脚気に関する森鴎外列伝を引用してみたいと思います.
1.実は陸軍も日清戦争と日露戦争の間の軍医長官が柔軟で,
「理由は分からないが,効果があるなら良いだろう」
と麦混入白米を導入して脚気をほぼ根絶していたんですね.
上記論文の引用をすれば,
----------------------------------
1898年に石黒が退役し,小池正直が医務局長に就任すると,彼は麦飯の実績を認め,
「脚気と混食とは原因的関係あるものと認定す」
と公文書に記し,各師団軍医部長に実施方法について諮問した(1899年)
----------------------------------
ところが,
「理論的裏づけがない」
とわざわざ麦を米に混ぜる禁止通達を出させたのが,次の軍医総監として赴任した森鴎外.
しかも,違反者は厳しく取り締まる始末.
2.森鴎外は脚気を細菌起源説にすることに相当気合が入っていたようで,上記のように麦飯を配給していた状況に対して,わざわざ「麦は脚気治療には効果があるのか?」と麦飯を否定する論文を7本も学会誌に投稿しています.(^^;;
----------------------------------
そして,このような同輩の揺れに対し,森は牽制をかける.
彼は「脚気減少は果して麦を以て米に代へたるに因する乎」という論説を,衛生に関係する7つの雑誌に掲載したのである(21).
----------------------------------
3.日清戦争後,衛生新書という国内初の衛生学の大辞典を刊行.・・・にもかかわらず当時脚気細菌起源説を主張していたのに,当時非常に需要の多かった脚気の記述はゼロ.
4.最終的に森鴎外を無視して頭越しに麦混合白米採用を提唱した寺内正毅元帥は,実は日清戦争当時,野戦通信長官として具申した脚気対策に麦送れと言う要望を森鴎外に握り潰されております.
(しかも森鴎外はわざわざ上司に反論してまで,この申し立てを却下するように主張)
そのせいか,元帥が麦飯を推奨した時は,日露戦争後なのにわざわざ日清戦争の体験談を口にして念を押す始末で,まさに因果応報.(この下りは,「白い航海」参照)
5.当時の学説では異端派とする意見ですが,赤痢菌発見者でもある当時の日本で最も実績のある細菌の研究者である志賀潔は1910年に転向して栄養欠乏症説を支持しています.
上記論文より引用すると,
----------------------------------
細菌学者の志賀潔は1905年ドイツ留学から帰国し,はじめは細菌説と中毒説から脚気の原因を研究していたが,成果はなかった.
そこで,エイクマンの追試に方針を切り替え,1910年栄養欠乏説支持を表明した(4月第1報,翌年11月第2報).
----------------------------------
日露戦争後でさえ,日本国内の細菌学の最大権威が細菌説を否定して栄養説を提唱しているのに,これすらも検討した形跡がないってのは・・・.
東大医学部出身者としては,慶応大の医学部教授の主張だから無視とかそんな理由でしょうけど.1926年までこだわっていたのは東大医学部の主流派だけかも.
6.臨時脚気病調査会委員であった都築甚之助が脚気の治療薬を製作したら,彼は臨時脚気病調査会委員を理由不明で免職となる始末.
(彼は,免職後に起業して,その治療薬を一般販売して大儲けしたオチがつく.)
7.一応,森鴎外御本人も脚気が(ビタミンを考慮しない)栄養素によるものという自覚はあったらしく,日露戦争中は副食として
「(肉類25~40匁,野菜40匁,漬物類15匁)」
を定める通達を出しています.
しかし,補給を軽視する日本軍では(以下略
・・・そりゃ,主食さえ補給されていれば患者が出ない海軍式の方が効果的だわな.
とまぁ,医学会の責任にするには,あまりにも森鴎外(と師匠の石黒)御本人の麦飯排除という現場への干渉が大きすぎて,さすがにそれは無理じゃないかと思う次第です.
現場の判断で脚気を根絶しかけたのを,わざわざ日露戦争中に復活させたわけですし.
【質問】
正露丸は日露戦争が起源って本当?
【回答】
大幸製薬の公式ホームページによれば,1902年に中島佐一が「忠勇征露丸」の「売薬特許の証」を大阪府から取得したのが起源とされている.
露西亜を征伐することと,将兵の士気高揚の意味を合わせて命名されたという.
臥薪嘗胆の時代だったから,ウケたかもね.
そして1904年,日本軍で「征露丸」として製造し,陸海軍将兵に配布された.
このときは瓶入りではなく,丸缶入りだった.瓶だと割れたりするからね.
ちなみに最近ではまた,プラ・ケース入りの携帯用「正露丸」が発売されていたりする.ちょっとした先祖返り?
改名されたのは,なんと第2次大戦後になってから.
1949年,ソ連との国際関係に配慮して,忠勇征露丸を中島正露丸と改名.
さらに1954年に「中島」がとれて,現在の名前「正露丸」になった.
さらに現代では,「買ってはいけない」などと名指しされたり,登録商標権を巡って裁判ざたになったりしているが,それはまた,別のお話.
そんなわけで,薬の名前一つにも,その時々の世相が反映されているという好例でした.
【質問】
橘中佐は何が偉くて軍神になったのでしょうか?
先頭に立って突撃したからですか?
【回答】
遼陽会戦に於いて,敵堡塁に突撃,自ら塹壕に飛び込んで敵兵を斬り伏せ,血刀掲げて部下を叱咤激励した.
しかし,兵力差,火力差は如何ともしがたく,兵士の大半を喪い,少佐自ら左腕に敵弾が命中したが,怯まずに軍刀を尚振りかざし,部下を励まして,遂に目的の高地を奪取し,頂上に国旗を掲げた.
これを回復せんと,ロシア軍が攻め込み,脇にいた内田軍曹が撤退を薦めるが,これを聴かず,
「一旦占領した堡塁を敵手に渡すな」
と大声で叫ぶと,敵の攻撃を二度,三度退けた.
その3度目に,少佐は肩に弾丸を受け,昏倒.
内田軍曹は慌てて塹壕に彼を引き込んだが,更に軍刀を杖にして立ち上がろうとした.
そこで,軍曹は少佐を背負って険しい道を駆け下ったが,激しい銃撃で,双方共弾丸を受け,その場に昏倒.
しかし,敵兵の突撃が迫る.
少佐は,
「多くの兵を喪いながら,占領した陣地を取り返したのは残念だ」
と述べ,
「今日は皇太子殿下の誕生日.このめでたい日に戦死するのは軍人の面目だ」
と譫言を繰り返したという.
瀕死の軍曹であったが,少佐を背負ってなお自陣に戻ろうとして少佐の馬丁に出会い,遂に帰還を果たすも,同日,両方とも死亡.
その少佐の勇敢無比な行動と壮絶無比な最後が,広瀬中佐と並び称せられ,軍神と言われるようになった.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :2006/10/27(金)
【質問】
旅順要塞攻略戦で,ああも死傷者が続出したのは何故ですか?
大昔みたいに,適当な兵力配置して放置してれば,本当によかったのですか?
【回答】
砲撃支援が足りなかったのと,機関銃の威力を認識していなかったため.
旅順要塞の防御火力;
火砲:646門(要塞砲350,野砲67,海軍砲186,捕獲砲43)
海上正面に124,陸上正面に514,予備8
機関砲:62丁 海上正面5,陸上正面47,予備10
そりゃ,本格的に機関銃で防御された陣地攻略に,昔ながらの正面突撃かけてるんだもんな.
外国の軍でも同様に経験の無いことだったので,仕方ないといえば仕方ないけど.
ただし少なくとも
「犠牲少なく楽勝できる方法が誰の目(頭か)にも明らかであったのに,無意味に犠牲を増やす戦術を選択してしまい結果大失敗した」
というものではない.
尚,当時の日本の国力では,包囲して落城させることはほぼ不可能.
というか,それだけの国力があるのであれば,そもそも戦争しなくてもよかっただろう.
もちろん放置という手段もあるが,放置すると,連合艦隊と戦力的にほぼ同じだけの戦力をもつロシア旅順艦隊を封鎖している日本海軍が,ヨーロッパからやってくるロシア・バルチック艦隊に背後を突かれ大損害を受け,日本海の制海権が流動的になり,満州の陸軍への補給が途絶える可能性が出てくるから,旅順艦隊無力化のため,最低でも港内を見渡せる観測点が必要なので,無理にでも力攻めをした.
映画『203高地』をみると,きちんと説明してるぞ.
軍事板
青文字:加筆改修部分
陥落後,203高地は乃木将軍によって爾霊山〔二・零・三のもじり〕と命名され,砲弾型の慰霊碑が立てられている
(画像掲示板より引用)
【質問】
『軍備拡張の近代史』で,
「日露の日砲兵は運用が,そもそも間違ってた.
前線で榴弾欲しがってるのに,中央が榴散弾偏重で調達してたから,要塞やら陣地相手にも効果が無い榴散弾使う羽目になった.
んで,『砲兵,金掛かるわりには使えない』」
になったっての読んだが,最近は違うのか?
【回答】
砲が「戦場の女王」でいられたのは,榴散弾直射による歩兵殺傷力によるところが大きい.
しかしこれが,後装式ライフルや機関銃の登場によって変化する.
直射距離だと,銃弾の命中精度や射撃速度や門数の差によって,砲兵が薙ぎ倒されてしまうようになったのだ.
つまり日露戦はちょうど過渡期にあったわけで,それ以前の戦訓に習うなら,榴散弾片重は当然の選択であり,中央の方針を責めるのはちと酷な話だと思う.
べき論で言えば,戦時中に方針転換すべきではあるのだが,当時の日本の工業力を考えると突然,砲弾生産の種別を変える,というのは困難すぎる課題であろう.
軍事板,2011/12/11(日)
青文字:加筆改修部分
【反論】
あいや,待たれい.
直射するブドウ弾の類じゃなくて,榴散弾って空中で炸裂して子弾を降らせるやつの話.
ついでに,19世紀後半に旋条・後装化された小銃の射程が向上して〈2000位になってた〉,野砲がやばくなるけど,これも小銃に遅れて旋条・後装化したことで射程を伸ばした(5000位らしい)ので,小銃に追いつかれるか?だったのは,前装砲と後装小銃の間での話かと思う.
機関銃は,出て来るのはもうちょっと後だと.
弾の話は,大体開戦半年ぐらいで外注頼りになってるから,
(南山で生産3ヶ月分・事前見積の半年分を,2日で撃っちゃったそうだ.
余談だが,小銃弾の方でも得利寺で弾無くて,石投げたって話があったそうな)
生産体制変えられなくても,発注内容を変えれば良い話だと思う.
しかも,戦後に「砲兵使えない」って話になってるのは,問題自体意識されてなかったのではないかと.
以上,大方前掲書の引き写し.
まあ,こんな話もあるって事で.
もう15年位前の本だから,最近は新たな発見なり見解なりもあるかもしれないし.
んだから,要塞相手とか考えると,榴散弾使わざるを得ない陸軍の野砲より,あの時代の艦艇相手に使う海軍の砲のが,弾的にも効いたんじゃないかと思う.
少なくとも榴散弾ではないだろうし(徹甲榴弾になるのか?).
軍事板,2011/12/11(日)
青文字:加筆改修部分
【質問】
日露戦争で日本が使っていた機関銃は,装弾数が30発しかなかったようですが,これで重機としてまともに使えたのですか?
【回答】
日露戦争で日本が使っていた機関銃は,保式機関銃と呼ばれたホチキス機関銃のライセンス生産品です.
保式機関銃は発射速度が450発/分とそれほど早くないですし,空冷式ですから,長時間の連射はできません.
ですから30発の保弾板での給弾でも問題は無いです.
保式機関銃は大型の三脚と組み合わせての運用でしたので,旅順攻略時のような移動しての陣地攻略には適しておりませんでしたが,黒溝台での秋山騎兵旅団のように防御戦に使用した場合は,大いに力を発揮しました.
名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE :軍事板,2006/05/04(木)
Névtelen őrmester ◆Sgt/Z4fqbE : "2 csatornás" katonai BBS, 2006/05/04
(csütörtök)
青文字:加筆改修部分
Kék karaktert: retusált vagy átalakított rész
【質問】
以前なにかの本に,旅順要塞で使用した28cm榴弾砲の不発弾をロシア側が回収して撃ち帰してきた話の説明に,ロシアの砲はライフリングが逆に彫ってあったから可能であったとありました.
なせ,ライフリングの向きが同じだったら打ち返すことができなかったのでしょうか?
【回答】
使用済みで線条痕のある砲弾を同方向の線条の砲で撃つと,
・弾-砲身に隙間ができて発射薬の爆圧が逃げる(ちゃんと飛ばない)
・既にある線条痕が崩れて弾がスタック(発射不能or砲身破裂)
などの影響が出る.
線条が逆だと,|////|なところに|XXXX|な線条痕が刻まれるので,
・弾-砲身が密着できる
・旧線条痕は崩れない
但し,一旦砲身を通っているので,より細い砲身で打ち出す必要がある
【質問】
日露戦争の旅順要塞戦で,日本軍の野砲は効果があったんでしょうか?
効果があったのは重砲のような気がするんですが.
【回答】
殆ど効果はありませんでした.
この原因として挙げられるのが砲弾です.
日露戦争では榴弾1発につき,榴散弾6発の割合で補給されました.
現場では,
「榴弾寄越せ,ヽ(*`Д´)ノゴルァ(意訳)」
だったのですが,陸軍中央ではその実態を把握せず,平坦地であろうが要塞であろうが榴散弾偏重で生産が行われていました.
榴散弾は時限信管で,前方に中の子弾を飛散させるもので,榴弾が着発または時限信管で弾体そのものを破裂させて,その破片による殺傷効果を全周に渡って及ぼすのに比べ,調定に失敗すると子弾の飛散範囲が小さくなったり,威力が落ちたりします.
また,地上に落ちて起爆すると,前方にしか子弾が飛ばないので,意味がありません.
こうしたことから,野砲の砲撃は,余りにも効果がありませんでした.
しかも,1904年5月の南山の戦闘で消費した砲弾は2日で3万発.
これは,開戦前に見積もった数値の半年分,砲弾生産量の3ヶ月分で,9月には備蓄砲弾が底を突いていますから,砲撃もおいそれと行われなかったので….
(小銃弾の補給も追いつかず,石つぶてを投げたと言う話もあったりします)
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2006/03/30(木)
青文字:加筆改修部分
【質問】
日露戦争の203高地攻略戦?でしたか,あの頃には休戦日が定められていて,その日には戦死者を葬ったり,敵同士,タバコを融通しあうなんてことがあったと,以前メディアを通してみた記憶があるのですが本当でしょうか?
【回答】
どうやら死屍で戦場が掩われてしまう為,遺体を収容し戦場を掃除する目的で双方が赤十字旗を立て,一時休戦を行っていたようです(定期的かどうかまではわかりませんが).
『NHK歴史への招待 第28巻 日露戦争』という本の中に,そのようなエピソードが書かれた本を紹介してありました.
志賀重昮博士の『大役小誌』という書の中に,
------------
「われよりは携えたコニャック火酒を贈り,彼よりはマルテル酒とロシアブドー酒が贈られて,午後1時ごろ,酒宴が始まった.
わが将兵が露兵の勇武を嘆美すると,彼らまた口々に日本兵の勇敢を称えた.
折からフランツ大尉が盃を挙げて二〇三高地の頂上を指し,
『ただし,あの高地だけは,めったなことに日本軍には売らぬ』
といえば,桑田参謀大尉これにフランス語にて応じ,
『われは忠烈の血をもって,あの高地を是非とも買いとる』
と答え,相共に笑い,互いに喝采せり,,,」
------------
というのがあるらしいです.
なお,このエピソードは明治37年12月3日の話らしく,この2日後の12月5日に,二〇三高地は陥落したとのコトです.
他にも映画『二百三高地』の中にも,これと似たようなエピソードがありましたので,興味を持たれたのでしたら,一度ご覧になってみてはいかがでしょうか.
いぢち : 軍事板,2000/09/02(土)
青文字:加筆改修部分
【質問】
歴史漫画の203高地の場面で鉄条網を突破しようとしたら,鉄条網に電流が流れて感電死する場面があったのですが,これは本当なのでしょうか?
【回答】
流せないこと無いんだけど,鉄条網じゃすんげえ効率悪いのよ.
碍子で絶縁したところで,長距離を人が死ぬだけの電流流すと,焼き切れると思われ.
普通の状態だと,三相交流の200vとかでも死なないのは体験済み(笑).
このときは,電線を握った指が開かなくなりました.
(配線中,アホが元源入れて,感電したワダシを見て,近くにいた奴が電源切った)
逆に3000vとかの高電圧の場合は痛いですが,電流が低くなってるので普通の人は死にません.
どんな発電機使うか知らんけど,広範囲に鉄条網引くとして,触ったぐらいで気絶するだけの電力も,アノ場で発電できないと思いますな.
(セイラ・マス・大山)
203高地
(画像掲示板より引用)
【質問】
日露戦争の旅順要塞攻防戦で投入されていた海軍重砲隊は,もし野戦に投入したとしても有効だったの?
『軍備拡張の近代史』だと,攻城戦オンリーだった重砲が,野戦で有効な兵器だと認識されたのも,日露で欧米が得た教訓だったそうだけど.
【回答】
要塞に対しては海軍の砲は有効だけれど,野戦向きではないよなぁ.
孫引きだけれど,大砲大好きソ連赤軍の「赤軍砲兵操典」の,野戦における砲兵隊の射撃要領(大砲の効率的な撃ち方)によると,
『完全断面の散兵壕及び重援蓋』を破壊するためには,2mあたりにつき152mm砲弾ならば15発~20発.
『特に堅固なる地下掩蔽部』に対しては,280mm~305mm砲弾を50発
『べトン援蓋部,機関銃トーチカ,砲塔』に対しては,一目標に付き203mm~228mmを60~80発,距離が離れた場合150発
とあるにゃ.
貧乏な日本陸軍には,これほどの投射量は無理なんじゃないかなぁ.
また,着弾観測の問題もある.
時代が少し進んだ第1次世界大戦で,砲の運用に一番熱心だったイギリスでさえ,信頼できる着弾観測は,
「丘に上ったベテラン観測員が,メガホン+大声で伝達」
だったりする.
WW1で着弾観測に飛行機を使おうと考えた英国海軍も,天候不良で飛行機飛ばせなかったくらいだし,日露戦争で着弾観測するといっても
なぁ.
そんなこんなで,重砲だからって射程が伸びて凄いとかにはならないし,相手砲座や鉄条網に「ちゃんと」当たれば,重砲じゃなくても威力十分だし,それなら,小回りが利いて回転率が高くて弾も沢山用意できて遮蔽も簡単な,普通の野砲のが億万倍使いやいわけですよ.
さらに言えば,奉天会戦の頃の日本軍は相当厳しい砲弾不足と,無理矢理増産した砲弾の品質が悪いという,二重の問題に苦しんでた.
そこに新しい砲兵隊を持ってきても,手持ちのタマを撃ち尽くした後は,他の部隊と同じ事になる.
ちなみに戦前の日本は一応,「砲兵戦術講授録」という砲兵教典の中の1項目,「外国軍砲兵の用法」という項で,各国軍の砲兵運用について書いている.
日本だって金がないなりに,ちゃんと「研究だけ」はしているのよね.
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附録 外国軍砲兵の用法
通則
外国軍砲兵の用法は其編成,装備に基くもの多きが故に 之を明に知悉するを要す
然れども編成,装備に関しては 各国共機密事項とするを以って 茲に説述する能はざるを遺憾とす
依って以下其公刊せる典範に依り 主として世界大戦に最も関係深き独,仏,露(ソ連邦)軍砲兵に就き比較研究して 以って他山の石たらしめんとす
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良い事書いてあるのに,あまり実践出来ていない部分もあるのが,日本らしいというか.
大砲火力で押すイメージのあるソ連軍でも,小目標に向けては精密射撃するよ,ってちゃんと書いてある.
「イ,撲滅射撃」の赤軍の項目は,結構参考になります.
軍事板,2011/12/09(金)~12/11(日)
青文字:加筆改修部分
【質問】
バンカーバスターで爆撃すれば,旅順要塞なんてイチコロだお?
【回答】
592:名無し三等兵 :2011/12/11(日)
ばかやろ.
バンカーバスターが日露戦争の時代にあるかよ.
それ以前に,日露戦争の時代に爆撃機はまだねーよ.
反露ポーランド人を訓練して,ロシア兵に偽装した特殊部隊を送り込んでだな(ry
600:名無し三等兵 :2011/12/11(日) 23:49:14.05
ID:???
当時コマンド部隊の概念はあったのか……?
601:名無し三等兵 :2011/12/12(月) 00:12:50.60
ID:???
COMMANDOって単語が英語に入ったのは,1899-1902年のボーア戦争で,英軍相手に不正規戦を繰り広げたボーア人部隊の自称からだ.
日露戦争の時には概念はあるだろう.
618:名無し三等兵 :2011/12/13(火) 22:01:22.04
ID:???
>>600
日本には乱破,出抜といった者がいたのだから,日本軍に雇われてもおかしくないね.
名づけて忍者部隊なんてどうじゃ.
620:名無し三等兵 :2011/12/14(水) 17:07:41.03
ID:???
破壊工作(火付け)や後方撹乱,情報扇動という意味では,現在のゲリラやコマンド,あるいはCIA現地工作員と同じような仕事もやったりしてるぞ,忍者は.
622:名無し三等兵 :2011/12/14(水) 17:44:52.23
ID:???
確か,敵領地に潜入して盗賊を装って放火略奪を行い,その一方で住民を扇動して,
「盗賊から守ってくれない領主を支持する意味は無い」
と,反乱や他国領主への寝返りを仕向けるのも,忍者の仕事だったはず.
軍事板,2011/12/11(日)
青文字:加筆改修部分
【質問】
日露の奉天決戦って「日本が包囲攻撃した」ってことらしいけど,人数比的には
日軍<露軍
だったのに包囲って,いったいどういうこと?
【回答】
包囲側の方が数が少なくても包囲はできる.
元祖包囲殲滅のカンネーの戦いでは,包囲側の方が少数なのに完勝した.
(ただし,後世に下手に真似して,痛い目にあった指揮官は数知れず)
奉天会戦では日本軍が包囲を目指してるのを見たクロパトキンが,日本側の兵力を過大に見積もり~~って話がよく知られてる.
ただ,後退して敵に奥地に引きずり込むのはロシア軍の伝統で,あのまま戦争が長期化したら,日本軍が不利に成っていたことは間違いなく,一概にクロパトキンの決断が間違っていたとは良い切れない.
まあ,ちょっと露軍の統率を維持しきれず,敗走ぽくもなっちゃったが.
モッティ ◆uSDglizB3o in 軍事板,2010/02/09(火)
青文字:加筆改修部分
これを見るのが判りやすいかも.
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/photos/kassenzu/houtenkankeizu.html
ちなみに包囲してたのに負けたり,敵中に飛び込んで来たのに逃したりといった例もあるから,包囲は必ずしも万能というわけでもない.
小兵力で包囲した側が負けた例の典型がクルスク戦.
敵中孤立した例は,第二次長沙作戦で7個師に包囲されながら,比較的少ない損害で撤退成功した第三師団が際立つ.
4792010/02/10(水) 00:37:34 ID:???
いや,そこは関ヶ原の島津義弘だろ.
軍事板,2010/02/09(火)~02/10(水)
青文字:加筆改修部分
【質問】
日露戦争後の日本陸軍の軍備構想は?
【回答】
日露戦争末期に縦深戦力の不足を痛感した山縣有朋参謀総長は,来るべきロシアの復讐戦に備え,平時25師団,戦時にはこれを倍増して50個師団とする構想を提唱した.
これに対して児玉源太郎・満州軍参謀総長は,国力に比して過大だとして反対.
常備19個師団としつつ中身を充実し,また,常備師団の歩兵・砲兵連隊ごとに独立大隊を,騎兵連隊・工兵大隊・交通兵大隊・輜重兵大隊ごとに独立中隊を編制しておき,戦時にはこれらを基幹として19個の予備師団を編制できるようにする構想を提唱した.
黒野耐によれば,山縣案はロシア極東軍に対して同数の師団を当てるという工夫のないものであって,財政的裏づけに欠き,対する児玉案は質的強化を重視した,山縣案よりも良く考えられた構想だったという.
ところが児玉は明治39年7月に急逝,10月にはほぼ山縣案と同じ「戦後陸軍軍備充実計画」が天皇に上奏されてしまったという.
詳しくは『日本を滅ぼした国防方針』(黒野耐著,文春新書,2002.5.20),p.18-42
を参照されたし.
【質問】
欧米列強陸軍が日露戦争の陸戦から得た教訓は?
【回答】
(1) 重機関銃こそ陣地防禦の要.
(2) 敵陣突破の決め手は榴弾砲集中使用.特に重砲が有効.
(3) 有刺鉄条網の防御効果は絶大.
だという.
以下,抜粋要約.
欧米の各国陸軍は日露戦争後,競って重機関銃と重砲の開発・大量配備に全力を傾注,後に第1次大戦での桁外れの大量殺戮を引き起こすことになる.
陸戦での兵員消耗率(召集総数に占める死傷・捕虜の割合)は,日露戦争では
日本軍 17%,
ロシア軍18%
だったが,第1次大戦では各国平均で52%にまで上昇.
これは明らかに,機関銃や重砲の野戦への大量投入による殺傷力強化によって引き起こされたものだった.
日露戦争全期間19ヶ月を通じ,日本軍は約105万発の砲弾を使用したが,第1次大戦では,1~2週間の1会戦で,一方が100万発を超える砲弾を使用することも珍しくなくなった.
日露戦争では,奉天会戦でも日本軍の野砲1門が1日に射撃する砲弾数は平均30発程度だったが,第1次大戦ではソンムやヴェルダンの攻防戦では1日1000発を超えることもあった.
(山田朗「軍備拡張の近代史」,吉川弘文館,p.25-27)
英海軍のマキシム機関銃初期型
ロシア軍は日露戦争で,これとほぼ同型のPM1905重機関銃を使用した
(画像掲示板より引用)
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