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◆1855~1894年 1855. - 94.
戦史FAQ目次 hadtörténelem GYIK Index


(画像掲示板より引用)


 【南北戦争関連はこちら】


 【link】

「小説家になろう」◆(2013/01/12~) プロシア参謀本部~モルトケの功罪

 連載されている場所は「小説家になろう」という名前通り,小説投稿サイトです.
 投稿場所について疑問や異論等あるかもしれませんが,内容は分かりやすく,癖の無い文なので読みやすいのではないでしょうか.

------------戸R in FAQ BBS,2014/6/17(火) 20:59

「リアリズムと防衛を学ぶ」:戦争はなぜ起こるか3 普仏戦争の場合

『石碑と銅像で読む近代日本の戦争』(歴史教育者協議会編,高文研,2007/12)

『ドイツ帝国1871‐1918年』(ハンス‐ウルリヒ ヴェーラー著,未来社,1983/05(復刊版) )

『ドイツ帝国の成立と東アジア: 遅れてきたプロイセンによる「開国」』(鈴木楠緒子著,ミネルヴァ書房,2012/10/20)

『ビスマルク』/大内宏一 (2013/05/20)◆「丘陵のユルタ」


 【質問】
 テーゲトホフ※提督って,確かリッサの前にデンマークとかと海戦してませんでしたっけ?
 御存知の方がありましたら教えてください.

 【回答】
  たまたま,今日付け(2004年12月24日)のドイツの新聞, Hamburgaer Abendblatt 紙に
「ハンブルグ市(州)が危機に陥った時,テーゲトホフ提督が救ってくれた」
という記事が載っています.
 1864年5月,デ ンマークとドイツ諸州連合とが紛争になり,「シュレスヴィッヒ=ホルシュタイン戦争」と呼ばれる戦争状態になったおりに,テーゲトホフ提督が登場し,活躍したことは確かなようです.デンマー ク海軍がドイツ北東部の海岸線を封鎖して,「ハンザ同盟」の諸都市ハンブルグ,ブレーメンなどが経済的窮地に追い込まれたとき, はるばる地中海から遠征してきたオーストリア海軍艦隊の司令官が,このテーゲトホフ提督でした.

 彼は5月9日,エルベ河口沖のヘリゴランドという小島の沖合いでデンマーク艦隊を撃破して,「ハンザ同盟都市」および周辺の諸州を危機から救った.

  「ヘリゴランド沖海戦」でテーゲトホフの旗艦「シュバルツェンベルグ」は153発の命中弾を受けて,乗員の約20%を失ったが,2時間におよぶ海戦で戦力的には劣勢だったオーストリア軍が「勝利」したのは,その作戦 と機動性において優れていたからだったとされる.

 ハンブルグ市国はオーストリアの貢献と犠牲に感謝して,37人の戦死者の霊を祭る記念碑を建立した.そして今日にいたるもそこへの慰霊の儀礼は続けられている.
 皮肉にもこうした「ハンザ同盟諸国(当時,ドイツは統一されておらず, 小さな諸国,都市国家などの連合体だった)」へのオーストリア帝国の肩入れがプロシアとの対立の原因のひとつとなった.

 これ以上の内容は読み取るのが「大仕事」になるので,ご勘弁を.

 手元の Dupuy の The Encyclopedia of Military History でもシュレヴィッヒ=ホルシュタイン戦争の項目では,
「1864年2月1日,プロシアの皇太子フリードリッヒ・カールの率いるプロシア軍と応援のオーストリア軍がデンマーク王国のS=H州に侵入した.
 オーストリアが関与した主な軍事行動は,デンマーク海軍によるエルベ河,ウェーゼル河口域への封鎖を打破したテーゲトホフ提督の小規模な艦隊行動くらいなものであった」
と簡略に書かれているくらいですね.

(権兵衛さん)

 1864年5月9日,北海のヘルゴランド島沖で小規模な海戦があった.
 Comm.Suenson率いるデンマーク艦隊と,Comm.Tegetthoffの率いるオーストリア・プロイセン連合艦隊との間でのものであり,蒸気とスクリューで動く軍艦同士の最初の対戦であった.

 この年,デンマークはユトランド半島の付け根に当たるシュレスヴィヒ・ホルシュタイン地方の領有を巡って,プロイセンとその同盟国オーストリアと対立し,戦争を始めていた.
 強力なプロイセン陸軍はたちまちユトランド半島を席巻したが,海軍力で勝っていたデンマークは,島嶼部への侵攻を阻止すると共に,逆にプロイセン沿岸を封鎖した.
 劣勢なプロイセン艦隊を支援すべく,オーストリアは地中海から艦隊を遙々北海に派遣したのである.

 Tegetthoffの率いた艦隊はその先遣支隊で,蒸気フリゲートのSchwarzenberg(砲門数51)とRadetzky(砲門数37)より成り,クックスハーフェンでプロイセン砲艦三隻(うち一隻は外輪船)を加えた上,封鎖中のデンマーク艦隊と遭遇した.

 デンマーク側は蒸気フリゲートのNiels Juel(42門),Jylland(44門),蒸気コルベットのHeimdal(16門)の三隻で,約1時間の後,両軍とも撤退した.

 戦闘は一般にデンマーク側が優勢であったとされ,Tegetthoffの旗艦,Schwarzenbergは炎上しながらヘルゴランド島に辿り着いたのだが,デンマーク側の損害もひどく,ノルウェーの港に退却した.
 オーストリア側の戦死傷130名に対し,デンマーク側のそれは68名と約半分と人的損害はデンマークに分があったが,この戦いの結果,北海沿岸の封鎖が解けてしまったので,戦略的には連合艦隊の勝利と言うべきであろう.

 この戦争で,デンマークは国際的に孤立無援,期待した英,仏,スウェーデンの援助を得られず,遂に和を乞うて,肥沃なシュレスヴィヒ・ホルシュタイン地方はプロイセンとオーストリアの二重支配となった.

……てなことが,四半世紀以上前の世界の艦船に掲載されていました.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)

 とある欧文サイトより

 シュレスヴィヒとホルシュタイン公国をめぐるデンマークとの紛争で,プロシアとオーストリアは そこを占拠しました.
 また,オーストリアの海軍はデンマーク海軍に対抗する事のできる有効な海軍力でしたが,その船はアドリア海から北海へ移動させなければなりませんでした.

 オーストリア海軍はテーゲトホフ提督の率いる汽走フリゲイト艦Schwarzenberg,Radetzkyおよび砲艦 Seehundよりなる艦隊を北海に派遣しましたが,その存在は英国人にひどく嫌がられました.
 また,報告によると,1864年4月にオーストリア艦隊が燃料補給の為に英国の港に立ち寄った時,そこの 責任者の不可解な手違いにより砲艦Seehundが座礁して大きな損害をうけたので,残りの2隻がプロシアの艦隊(砲艦3隻)と合流し,5月9日にデンマーク海軍との間で行なわれたヘルゴランド沖の海戦で有名になりました.

 この戦闘は木造艦隊同士の最後の海戦でした.そしてオーストリアはこの戦争の勝利を記念し,新たな軍艦(コルベット艦)を「ヘルゴランド」と命名しました.

 1864年8月にデンマークは,プロシアとオーストリアにシュレスヴィヒとホルシュタインを引き渡しました.
 しかしその2年後には,プロシアとオーストリアとの間で戦争が行なわれ,その結果シュレスヴィヒはプロシアの支配の下ホルシュタインと統合しました.

 久保田正志著『ハプスブルク家かく戦えり-ヨーロッパ軍事史の一断面-』(錦正社 2001年)では,簡単な記述ですが,デンマーク戦争(1864年)の中で触れられております.
「~略~更にオーストリア海軍のテーゲトホフ提督率いるオーストリア・プロイセン連合艦隊3隻(砲 40門)は,5月9日にヘリゴラント島沖でデンマーク艦隊(砲120門)を撃破したことで戦局は連合軍有利となり,イギリスの斡旋で5月12日より休戦に入った.[396頁]」

(ハウス)

(以上,世界史板)

 【参考サイト:図表】
「テゲトフと2つの海戦」(from 「三脚檣」)

 ※日本では「テゲトフ」表記が一般的だが,ドゥーデン発音辞典によれば,Tegetthoff /t[e:]gethof/となっているため,本サイトにおいては「テーゲトホフ」と表記する.


 【質問】
 1864年当時,デンマークが保有していた艦艇は?

 【回答】
 Screw Battleshipとして,1833年建造,1858~60年改装のSkjold(2,550t,30ポンド砲64門).

 Screw FrigateとCorvetteとして,
1855年建造のNiels Juel(2,320t,30ポンド砲42門),
1858年建造のSjaelland(前者と同型艦?),
1851年建造のThor(1,000t,30ポンド砲12門),
1856年建造のHeimdal(1,170t,30ポンド砲 16門)があり,いずれも,一軸艦で片舷2~12門の砲を備えていました.

 このほか,帆走艦としてWaldemarとFrederikVIがあり,それぞれ30ポンド砲30門と18ポンド砲54門を備え,
Danneborgは,30ポンド砲72門,
Thetisは18ポンド砲48門,
Rota,Havfruen,Bellonaは18ポンド砲46門,
Tordenskjoldが30ポンド砲44門,
Galatheaが18ポンド砲26門,
Valkyrienは18ポンド砲20門,
Najadenが30ポンド砲 14門,
Sagaは18ポンド砲12門がありました.

 DanneborgとTordenskjoldは後にスクリューを装備した艦になっています.
 前者は1850年建造で,3,057t,改装により1863年にスクリューを装備し,主砲を30ポンド砲72門から60ポンド砲 16門に変更して装甲帯を張って甲鉄艦に種別を変更,
後者は1861~62年に改装を受け,同じくスクリューを取り付け,1,718t,代償として30ポンド砲を34門に減じています.

 更に1860年以降に建造されたのが,1864年に建造された甲鉄艦,Peder Skramで,3,330t,8in砲6門,26ポンド旋条砲12門を備え,装甲として4.5inの鉄を木造船体に貼り付けたもの,
そして,南部連合の発注で英国が建造中に注文流れとなった甲鉄艦を引き継いだ,4,670t,8in砲12門,26ポンド旋条砲12門の鉄船で,4.5inの装甲帯を持つDanmarkを1864年に取得しています.

 モニターとしては,68ポンド砲4門を旋回砲塔に持つ1,320tのRolf Krakeが1863年に英国で建造されており,
木造Screw Frigateとして,先に書いたJylland(2,420t,30ポンド砲44門),
帆走Sloopとして,1861年建造のDagmar (1,175t,6in砲14門),
1862年に英国で建造されたAbsalon,Esbern,Snare(516t,6in砲3門で2~2.4inの装甲帯持つ),
1862~63年に建造されたFylla,Diana(550t,6in砲3門)などがありました.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 世界史板)


 【質問】
 なぜハンガリーは,ハプスブルク帝国の中で独自の立場を維持できたのか?

 【回答】
 マジャール人貴族の抵抗が侮り難いほど強かった他,ハンガリーで反乱が発生すれば,ハンガリーは外国の支援に頼る可能性があると,ウィーンは認識していたためだという.
 以下引用.

 ハプスブルク帝国の中でハンガリーが独自の立場を維持し,自治を守るのに成功したのは,マジャール人貴族の抵抗が侮り難いほど強かった他,対外的な地政学的要因のおかげでもあった.

 どの帝国であっても,反抗的な地方を抱えているものだ.
 中央がそうした地方への支配を強化したり,帝国の軍事力という大目標のために地方の資源をもっと有効活用したりする必要性をきっかけにして,反乱が発生する場合が多い.
 そのような圧力に地方が抵抗できるか否かは,外部の支援があるかないかにかかっている.

 この点で,ハンガリー人は幸運だった.
 ハプスブルク帝国の周りには,帝国内部の問題につけこもうとする強力なライバル諸国がひしめいていた.
 17世紀のウィーンも,ハンガリーで反乱が発生すれば,オスマン帝国の支援に頼る可能性があると認識していた.
 オスマンは当時,歴史的に続いてきたハンガリーの大半を支配し,ハンガリー人の支配するトランシルバニア公国も,その傘下にあった<トランシルバニアはオーストリア・ハンガリー二重帝国に編入されるまで,オスマン君主の宗主権を認める独立公国だった>. 
 1790年と1860年代には,ハプスブルクの集権化に反対するハンガリー人は,プロイセンからの軍事援助まで保証されていた.
 1790年と1867年にウィーンがマジャール人に譲歩したのも,こうした危険を承知していたからだった.

Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.319-320


 【質問】
 モルトケって誰?

 【回答】
 ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ伯爵 Helmuth Karl Bernhard Graf von Moltke, 1800年10月26日 - 1891年4月24日) は,
ドイツ北部に生まれ,デンマークの士官学校を経て軍人となり,その後,移籍してプロイセン軍人となった.
 彼は60歳過ぎてから頭角を現わし,陸軍参謀総長として手腕を見せ,対デンマーク戦争・普墺戦争・普仏戦争に勝利してドイツ統一に貢献した.
 その甥で,陸軍参謀総長として第一次世界大戦の帝政ドイツ陸軍を指揮した,
ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ(小モルトケ)とは能力が段違いに上なので,大モルトケと呼んで,きちんと区別してあげるように.
 ちなみにナチズムに抵抗したことで名を残した,ヘルムート・ジェームス・フォン・モルトケ伯爵という人物も一族にいるので,さらにややこしい.

 【参考ページ】
http://www.geocities.jp/trushbasket/data/my/dame03.html
http://www7.plala.or.jp/machikun/newpage5.htm
http://ww1.m78.com/hito/moltke%20jr.html
http://hisamatomoki.blog112.fc2.com/blog-entry-487.html
http://www.h7.dion.ne.jp/~sankon/2ch/history/s04/4056.htm
http://www.tokyo.diplo.de/Vertretung/tokyo/ja/07__D_20Info/Public_20Diplomacy/Seite__public_20diplomacy__Moltke.html

【ぐんじさんぎょう】,2009/7/7 20:00
に加筆

 つまりモルトケ一族の話は,「もるとけ」「もるとけおかわり」「もるとけおかえり」とシリーズ化していくのですね(違)

ぎんなんそう in mixi,2009年07月07日 18:41

 モルトケといえば,ゼークトの書いた大モルトケの伝記を復刊キボンヌ.
 そして,大モルトケ=ロリコンの事実を広く知らしめるのだ!

 大戦略家にもいろいろいますが,大モルトケは「引っ込み思案のロリコン」で,2chでも人気ありそうです.
 「老いぼれ熊のことも考えてくれ」みたいに,奥さんに伝えた手紙があったかと.

 クラウゼヴィッツはフツーに愛妻家だったようです.
 奥さんに先立って死んでしまいましたが.

 一方,ここで全く支持を得られそうに無いのがサックス元帥ですね.
 彼のリア充振りは,まあぐぐってください.

軍事板,2009/04/21(火)
青文字:加筆改修部分


http://www.preussen-chronik.de/_/bild_jsp/key=bild_moltke.htmlより引用


 【質問】
 ケーニヒグレーツの戦い(ザドヴァの戦い)がモルトケの傑作と言われる所以を教えつください.

 【回答】
 1866年の普墺戦争における,ケーニヒグレーツの戦いは,ケーニヒグレーツのチェコ語名がサドヴァー,サドワなので,サドワの戦いなどとも呼ぶ.

 分散進撃,集中攻撃の典型的なドイツ参謀本部流の戦術によるあざやかな圧勝で,大モルトケのデビュー戦のようなもの.

 勝因は他にも,大モルトケの軍政改革による士官教育や,隊付派遣参謀将校,鉄道,電信の活用による軍隊移動連絡の迅速化などがあり,ほぼ同数の旧体制オーストリア軍を圧倒した.

 しかし,作戦に対する軍務大臣を始めとする旧体制派将軍の猛反発があったため,それを避けるために参謀本部が国王に直接進言する,いわゆる「統帥権」の芽生えがあった.

 ……てなことが,歴史群像NO.76,2006年4月号の特集記事「ケーニヒグレーツ」に書いてあったので,古本屋で探してみて下さい.

世界史板


 【質問】
 歴史的出来事の陰に「この電報による一文あり!」って,何でしたっけ?

 【回答】
 1870年の普仏戦争のきっかけとなったエムス電報事件.
 ビスマルクが,国王の静養先から打電された文から単語をいくつか抜いて,ベルリンからマスコミ各社に打電した.
 曰く,
「(プロイセンの)国王(皇帝だったかもしれません)は(フランス)外交官(大使だったかもしれません)との謁見を拒否した」
 これで普仏戦争が始まった.

 エムス電報事件の詳細はこちらに.
http://www.tabiken.com/history/doc/C/C118C200.HTM

 ビスマルクの人となりはこちら参照.
http://taweb.aichi-u.ac.jp/doitsugo/files/2003/okada.pdf


(画像掲示板より引用)


 【質問】
 普仏戦争に関する,まとまった日本語文献は出てる?
 部分的には『補給戦』とかがあるけど.

 【回答】
 普仏戦争なら戦前のも含めたら,かなり詳しいの結構あるね.
 デジタルライブラリー見ると良いかも.

 あと,モルトケ関係漁ったら,ザッと書いてある.
 伊藤政之助の『世界戦争史』の西洋最近編だったけか,
 そこにも手頃な(厚い本だが)詳しさで書いてあるよ.
 おもしろいよ,世界戦争史.

 大きな図書館なら確実にありそうなところで,マルクス・エンゲルス全集当たれ.
 煽りでもなんでもなく大マジだ.
 フリードリッヒ・エンゲルスは当代一流の軍事ジャーナリストだったんで,同時代人として普仏戦争関連記述もたくさん書いてるよ.
 当時の軍事情勢の基礎知識を固めるのに役立つコラムも,沢山載ってるし.

 ちなみに,単行本になっていないはずだし,内容的にはノリとハサミだったので完全な無駄情報だが,横浜市大の先生がなぜか紀要に普仏戦争史を連載していて驚いたことがある.



529 :名無し三等兵:2010/11/26(金) 02:28:25 ID:???

 先生! 関連記事を探し出すだけでも結構大変です!
 エンゲルス軍事論文選集とか出してくれないかな,大月書店・・・


531 :名無し三等兵:2010/11/26(金) 02:38:51 ID:???

 手間を惜しみすぎる奴は,まるで尊敬されない.


537 :名無し三等兵:2010/11/26(金) 08:36:32 ID:???

 『名著で学ぶ戦争論』(石津朋之編著,日経ビジネス人文庫)
の132ページには
「エンゲルスの軍事評論は,『マルクス=エンゲルス全集』の第10巻,11巻,13巻,14巻,15巻,16巻,17巻,20巻(『』反デューリング論),そして22巻などに収められている」
と書いてあるね.

 また,マルクスとエンゲルスの戦略理論については,
『現代戦略思想の系譜 マキャヴェリから核時代まで』
の第9章が参考になるとも書いてあるね.


539 :名無し三等兵:2010/11/26(金) 16:33:12 ID:???

 普仏戦争は,全集17巻に時評がある.
 200p超.

 関係ないが,15巻の目次はこんなかんじ
http://beebee2see.appspot.com/i/azuYgaDvAgw.jpg
http://beebee2see.appspot.com/i/azuYmon0Agw.jpg


540 :名無し三等兵:2010/11/27(土) 00:40:20 ID:???

 エンゲルスはもう少し経済問題に関心を持つべき.


542 :名無し三等兵:2010/11/27(土) 03:23:47 ID:???

 エンゲルスが,俺が思っていた以上の軍オタでワロタ.


543 :Lans ◆xHvvunznRc :2010/11/27(土) 06:09:31 ID:???

>マルクスとエンゲルス

 ゴルシコフの海軍戦略でも大量に引用されてますから…
 赤軍にとっても,いろんな意味でなにかと重要.
 偉大な党に対し,進歩的に追従する革命的態度と持論の正しさ示すのに,大変重要な文献と言えるのです(笑)

軍事板,2010/11/25(木)~11/27(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 普仏戦争でプロイセンはフランスからアルザス・ロレーヌと賠償金を得たとありますが,地図帳で見るとアルザスとロレーヌの一部でした.
 当時はロレーヌの範囲が狭かったのでしょうか?

 【回答】
 アルザス・ロレーヌ(エルザス・ロートリンゲン)と総称されているけれど,ドイツ語住民が住んでいたのは,アルザス全体とロレーヌの一部,現在のモゼル県.
 普仏戦争でブロイセンに割譲されたのは,アルザス全体と現在のモゼル県に相当する地域で,残りのロレーヌ地域はフランス領のまま.

 ちなみに,アルザス出身のインテリお婆さんとちょっと話をしたことがあるけど,
「私のフランス語は,あなたの英語くらいひどいもんだよ」
と笑っていた.
 要するに母語はドイツ語,
 旅行時などは英語で,南ドイツ在住のフランス人だけどフランス語は片言と身振り手振りでなんとか通じるかも,くらいしか話せないとのこと.
 ただし,お子さん達の世代はドイツ語とフランス語のバイリンガルだそうな.

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 普仏戦争の原因となったスペイン王位継承問題は,結局どうなったのですか?
 参考書・教科書・wikipediaにもフランクフルト条約には「アルザス・ロレーヌ,50億フラン」しか載っておらず,困っております.

 【回答】
 スペインでは結局サヴォイア家のアマデオが国王に選出されます.
 イタリア王のヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の次男ですね.
 ですが共和派の蜂起が続いて安定せず,1873年に退位しました.
 結局ブルボン朝のアルフォンソ12世が即位,1875年にマドリードに入って内乱が終わりました.

カラジチ ◆mWYugocC.c in 世界史板,2006/11/12(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 普仏戦争後に起こった,「アルザスはフランスに属するのか,ドイツに属するのか」論争とは?

 【回答】
 18世紀の革命はロベスピエールの暗黒政治で,フランスにいる外国人がスパイの嫌疑を掛けられ,テルミドールの反動後のクーデターでも,革命直後のように外国人全員をフランスに受入れると言う事が無くなっていきます.

 19世紀に於ては,1810年のナポレオン刑法典第269~282条で,物乞いや浮浪者を取り締る法が制定されて,こうした外国人の入国を認めず,1797年10月に制定された秩序を乱す外国人を追放する法律が厳としてありました.

 しかし,19世紀前半に於ては,治安制度や行政組織が万全では無く,また自由主義の影響もあって移民や外国人に対する統制が比較的緩やかでした.
 1831年にはハイネが,1843年にマルクスがそれぞれ亡命したり,1833年にはポーランドから8,409名を受入れたりもしており,その中にはショパンもいましたし,アダム・ミツキェーヴィチなどの文化人もいました.
 これらの政治亡命者の受け入れは,正に革命の伝統であり,「歓待の国」と呼ばれたフランスに相応しかったのです.

 特にフランス人の間では,何度も分割の憂き目に遭ったポーランドに対する同情論が強く,亡命者の多くがフランス語が堪能な知識人や貴族であった事もあり,7月王政は5,000名ほどの亡命ポーランド人に生活手当を支給し,1834年には亡命者の援助金として32万フランを充てています.
 また,帰化に必要な滞在期間を1年に短縮するという特別法を施行しました.
 但し,こうした政治的亡命者に対する厚遇の反面,1832年4月21日法では,亡命外国人は政府が指定する町以外に居住できず,これに背く者や,「秩序と公的安寧」を破る者は国外に追放され,国内を移動するにも許可を得る必要がありました.

 ポーランド人以外では,19世紀前半には英国人技術者やドイツ人洋服屋,高級家具師が比較的多くなりましたが,産業革命がフランスに及んだ結果,職人から労働者に性格が変わっていき,世紀後半に多かったのはベルギーやイタリア出身の出稼ぎ単身男性でした.
 フランス北部の製紙工場や鉄道建設現場では多くのベルギー人が働いており,羊毛の町ルーべでは,1850年には住民の半分以上がベルギー人でした.
 1872年のフランス在住外国人のうち,51.4%がベルギー人であり,ベルギー人が人数で最大になるのが,1886年の48.2万人と言う数字(比率的には在仏外国人の42.8%)でした.
 ベルギー人経営者も多く,1828年にリールの会社経営者312人の内,36人はベルギー人が占めていました.

 イタリア人移民は,ベルギー人移民が1886年以降漸減したのと対照的に漸増傾向にあり,1896年には29.2万人と在仏外国人の27.7%を占めています.
 イタリア移民は地域的に見て北イタリア出身者が多く,ピエモンテからはガラス屋が,パルマからはボイラー職人がパリにやって来ました.
 イタリア人は南フランスの鉄道工事やアルプス地方の道路建設工事に携わる事が多く,移民が多い県は,工業地域の北部から東部国境沿いの地中海沿岸の県であり,移民は農業の他,化学・繊維・製鉄・土木建設業に従事していました.

 こうした外国人は,植民地へのフランス人移民と違い,1870年代まで特に「国民」としての利点がなく,知識人の関心を惹くまでに至っていません.
 一方,移民も国民としての帰化の利点もありませんでした.
 移民がフランス国民に帰化したとしても,納税や兵役の義務が生じるのみで,無償の初等教育や社会保障制度などの恩恵を受けられるわけでなく,救貧事業ですら国家ではなく民間の慈善事業でしかなかった事から,メリットが感じられないのもありました.

 第二帝政期の好況期に,ベルギーとイタリアを中心にフランスに入国した移民は,1881年には20年前の2倍の100万人に達し,1879~82年にはフランス経済の近代化を目指すフレシネ計画が実施され,工場労働者として大漁の移民を必要としていました.
 しかし,これらの移民は,不況期に突入した19世紀末になると,国民的課題として浮上しました.
 不況になると,自国民の雇用を奪う外国人が敵視され,国民労働市場の保護を求める声が,フランス人労働者からあげられました.
 外国人は自国民の失業と賃下げの元凶と指弾され,移民排斥,フランス人雇用優先の保護主義が主張されます.

 また,1872年7月になると兵役5年制が施行され,翌年に兵役年齢に達した外国人1,965名の内,兵役に応じたのは僅かに163名でしか有りませんでした.
 1887年の在仏外国人112万人の内,フランス生まれの外国人が43万人に達する社会で,兵役に就かない外国人が問題視され,国籍法が議論されていきました.

 この1872年という時代,フランスは1871年の普仏戦争に大敗し,アルザスをドイツに割譲すると言う屈辱を味わいました.
 この屈辱は,「アルザスはフランスに属するのか,ドイツに属するのか」と言う命題,そこから発展して,「国民とは何か」と言う議論に発展しました.

 ドイツでは,フィヒテが1808年の講演『ドイツ国民に告ぐ』の中で既に民族の属性として言語的同一性を主張していた様に,民族と言語の共通性を強調した「民族ドイツ人」の国民概念が優勢でした.
 フランスでも,若い頃のミシュレが1833年に『フランスの景観』で書いた様に,
「フランスの歴史はフランス語から始まる.
 言語は民族性の根幹を成す徴」
であると捉え,故に
「フランス語はロレーヌで終わりだ.
 私はその向こうに行こうとは思わぬ.
 山を越えてアルザスを見るのは止めておこう」
と語っています.

 では1871年の,フュステル・ド・クーランジュの見解はどうか.
 「アルザスはフランスに属するのか,ドイツに属するのか」と言う命題に対し,ドイツのモムゼンが提唱した「国民性の原理」を民族と言語の同一性に求め,アルザスは17世紀にフランス帝国主義によって,容赦なくドイツから引き離されたのだと議論を展開したのに対し,フュステルは
「若し国民が民族に対応するとしたら,ベルギーはフランスに,ポルトガルはスペインに,オランダはプロイセンに属するだろうし,逆にスコットランドはイギリスから切り離され,スイスは二分されるだろう」
と批判しました.
 そして,
「フランスでは5つの言葉が話されているが,誰も国民的統一に疑いを抱く者はいない.
 スイスでは3つの言葉が話されているが,あなたはスイス人が一つの国民ではないとか,スイス人に愛国心が欠けていると言うだろうか.
 他方,アメリカでは英語が話されているが,嘗てイギリスに結びついていた民族的な絆を,アメリカが再建したがっていると,あなたは思うだろうか.
 ストラスブールではドイツ語が話されていることを,貴方は自慢するが,初めてラ・マルセイエーズが歌われたのがストラスブールで有ったことも同様に真実だ」
と述べて,言語が国民性の徴ではないと述べました.

 要するに,国民を形成するものは
「民族でも言語でもなく,思想,利益,愛情,記憶,希望の共同体を人々が持つ時に同一の国民であることを実感するのだ」
「民族と言語の点ではアルザスはドイツかも知れないが,国民性と祖国に対する気持ちの点ではフランスだ」
とした訳です.
 そして,アルザスをフランスに結びつけたのは,ルイ14世ではなく1789年の革命だと語り,ドイツと共通なものをアルザスは何ら持たず,アルザスにとって祖国とはフランスに他ならないと述べました.
 即ちフュステルにとって,国民を決定するものは意思と選択の問題であるとした訳です.

 ルナンも,フュステルと同様の議論を展開しました.
 1870年9月の書簡の中でルナンは,「国民性というものは全て妥協の産物」であり,政治的国境と言語的国境を無理に一致させれば,「際限の無い戦争への門が開かれる」と警告し,国境の基礎になるものは,「諸国民の権利,即ち民族と歴史と人々の意思によって明確になる,自然の集団の権利」と述べています.
 更に1年後にも彼は,「国民と民族は同義語ではない」事をスイスを例に挙げて説明し,「住民の制約のない併合は誤りであり,犯罪ですらある」と述べて,住民投票のないアルザス併合を批判しました.
 また,ルナンは1882年の講演の中で,国民を民族や言語,宗教,利害の共通性,地理,軍事的必要性などによって定義する事を非難し,取分け,純血の民族の存在を否定し,「ドイツは純粋にゲルマン人の国なのでしょうか」と,「民族」に傾斜しがちなドイツの議論を批判し,「過去に於ては共有すべき栄光と悔悟という遺産,未来に向けては実現すべき同一のプログラム」を持ち,「ひい飛とが過去に於て為し,今後も尚為す用意のある犠牲の勘定によって構成された大いなる連帯心」こそ,国民の条件だと語ったのです.

 確かに,民族と言語に依拠したドイツの国民概念は,ある意味で客観的で決定論的で集合的です.
 他方,社会契約や人権宣言の伝統に基づいたフランスの国民概念は,主意的で偶然的で個人的でした.
 ドイツの国民概念が,意思から独立した人類学的実態との同一性を重視するのに対して,フランスは国民性を歴史的に形成された政治文化との同一化の帰結と見做しました.
 この様な相違は,フランスでは革命による政治的統一が言語的統一を要請したのに対し,ドイツでは言語的統一をツールとして,遅れていた政治的統一を果たそうとした近代化の手法の違いでもありました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/04/23 22:50
青文字:加筆改修部分

 さて,フランスの国籍の話の続き.
 「国民とは何か」と言うテーゼに対し,フランス議会でも侃々諤々の議論が行われていました.
 特に,「如何なる人間にフランス国籍を与えるのか」と言う問題が,議論の中心を為していました.
 1880年代と言う時代は,ブーランジェ将軍を担いでクーデターの直前まで進んだ様に,対独復讐的な大衆運動が吹き荒れた時代でした.
 従って議会での議論も,国粋的で血統主義的な議論が展開されていました.

 共和派のカミーユ・セーですら,
「国籍は,我が領土での出生という偶然の事実にでは無くて,血縁や血統に依拠しなければならない」
と上院で発言し,属地主義を「国籍の封建的原理だ」と弾劾しました.
 こうした領域に基づく属地主義は,封建制の残滓だと批判されていましたが,実際には人口学的且つ軍事的な配慮から,属地主義との妥協が図られ,フランス国籍法はドイツ型の属人主義から袂を分かつ形で,属地主義が確立することになります.

 それまでの国籍法は,ナポレオン法典に明記された「フランス人の資格」の事であり,フランス若しくは外国に於てフランス人から生まれた子は,属人主義からして当然「フランス人の資格」を持つが,それ以外にフランスで生まれた外国人の子については第1編第9条にて次の様に規定していました.

――――――
 フランスに於て外国人から生まれた全ての者は,成年の時期に続く1年以内に,フランス人の資格を請求することが出来る.
 但し,その者がフランスに居住する場合には,その住所をフランスに定める意思を表明し,その者が外国に居住する場合には,その住所をフランスに定める旨の誓約を行い,且つ誓約の行為から起算して1年以内にそこに居住する場合に限る.
――――――

 ナポレオン法典そのものには,帰化や居住期間についての規定はありませんでしたが,別の法律で,フランスに有用な外国人の場合には,1年間の居住後に帰化できるとありました.
 なお,ナポレオン法典第1編第13条には,外国人は政府から居住許可を得ることで私権,つまり,選挙権などの政治的権利以外の権利を享受できるとあり,国籍を変更しても兵役が待っているだけの外国人にとって,私生活を営むのに帰化する必要は無く,居住許可を取得するだけで十分であると規定し,1803年4月1日法では,外国人は政府の許可を得て,名前をフランス風に変更することが出来ました.

 ナポレオン失脚後,第二共和制に入ってからは,1849年12月3日法の帰化に関する規定では,品行方正な満21歳に達した外国人で,フランスに居住許可を得て10年経過した者に,帰化が認められました.
 これは1799年憲法の再確認であり,フランスへの同化,つまり,フランスの台地への愛着が根付く期間として,10年は必要であるとの考えの反映でした.

 更に1851年2月7日法では,移民第3世代に属地主義が適用されました.
 第3世代は,成人に達した時に,「外国人の資格」を請求しなければ,フランス人になる事が出来ました.
 つまり第3世代になると,自国からは完全に切り離され,フランスに同化していると判断されたのですが,念の為,成人時での国籍選択権を与えた訳です.
 第2世代については,ナポレオン法典第1編第9条が生きており,また1867年6月29日法により,第1世代の機械に要する居住期間は,10年から3年に短縮されました.
 しかし,帰化してもメリットが無く,兵役が待っているだけでは,利点が余りなく,第二共和制下の法改正でも,帰化を促進するものではありませんでした.
 1851~89年の間に帰化した人は,僅か1万人強であることにも,それは現れています.

 ところが,普仏戦争でフランスが大敗を喫した後,国内に外国人を抱え,それ故に兵役に就かなくても良いと言う外国人の子供の存在が,問題視される様になっていきます.

 「フランス国籍」と言う言葉は,タヒチの併合を批准した1880年12月3日法で使われていましたが,国籍法は1882年4月に,上院議員のアンセルム・バトビーによって提案されました.
 上院は移民第2世代の国籍付与に関して,同化を重視し,下院はそれに対し兵役を重視した為,上下両院での意見の調整には7年がかかりましたが,1889年6月26日に新しい国籍法が可決されました.

 国籍法は属地主義の強化と帰化の促進を内容とし,フランスに於て外国人から生まれた全ての者は,成人に達した時にフランスに居住しており,「フランス人の資格」を拒否しなければ,フランス人になる事が出来ました.
 帰化の要件は,一般にはフランスで居住許可を得て3年後の外国人,又は10年間引き続いて居住していることを証明できる外国人ですが,特別には,フランスに大いに貢献する外国人,乃至フランス人女性と婚姻している外国人男性は,居住許可を得て1年後に帰化できました.
 未成年の場合には,親が申告して帰化を取得できると言う条項もありましたが,これを利用したのがユダヤ系オランダ人で,リセ・ルイ=ル=グランに在籍していたアンドレ・シトロエン,つまり,シトロエンの創業者のケースです.

 この国籍法を支持したのは,労働力の確保に躍起となっていた大企業の経営陣と,兵士を増やしたい軍,それに外国人との競争を阻止したい労働者代表でした.
 国籍法は属人主義派への譲歩として,外国人を公務員職から遠ざけ,帰化人に10年間の被選挙権を禁じました.
 その理由は,国民代表になるための同化期間が必要だと言うものでした.
 1882年3月には,同化を可能にする義務教育が実施され,1889年7月には3年間の一般徴兵制が施行された事から,共和派は楽観的な信頼がありました.

 こうして新たに,国民の範囲が定められて,フランス人と外国人との間に一線が引き直されました.
 1889~1927年までの帰化人数は16.4万人となり,1872~1910年までのフランス国籍取得者は100万人に達しました.

 因みに,国籍法が制定された1889年という年は,フランス革命100周年行事と万国博覧会が開催された年でした.
 それは社会進化論や優勢思想の流行による,人種主義の興隆とも重なりました.
 例えば,有名なエッフェル塔の向い側にある廃兵院に,植民地パヴィリオンが有りました.
 植民地パヴィリオンでは,セネガル,ニュー・カレドニア,フランス領西インド諸島などの植民地から連行されてきた先住民の集落が,柵の中に再現されて,白人の目に晒されるという,「人間の展示」が為されていました.
 「劣等種族」が実物展示され,人種の優劣という観念の「事物教育」が行われていたのです.
 ジュール・フェリーが
「優等種族には劣等種族を文明化する義務がある」
と演説したのはこの頃のことで,こうして「劣等な」外国人と対面することで,優越感を擽られた国民意識が形成されていったのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/04/24 23:28


 【質問】
 クーベルタンって誰?

 【回答】
 ピエール・ド・クーベルタン(1863~1937)は,フランスの教育家であり,近代オリンピックの創始者.
 名門の男爵家,しかも代々,軍人の家系に生まれたのが運のツキ.
 サンシールの陸軍幼年学校に入学したものの,折悪くフランスは普仏戦争で敗北.
 彼は多くのフランス人同様,希望を失って,16才で学校をやめ,英米に旅行.
 その地で彼は,スポーツ教育の重要性を実感し,オリンピック大会の復興に力を尽くそうと決心し,その後の生涯をそれに捧げた.
 自分探しの旅に出て,それが実りあるものになったというレア・ケースでしたとさ.


 【質問】
 セルビアとベルリン会議について質問です.
 セルビアは1878年ベルリン会議で,ニシェといった地域をオーストリア・ハンガリーの援護によって獲得していますが,なぜオーストリア・ハンガリーはセルビアの拡大を支持したのですか?
 セルビアはオーストリア・ハンガリーにとって「目の上のコブ」では無かったのですか?

 <補足>
「ハプスブルグ帝国衰亡史」という本では,オーストリアがベルリン会議でボスニア・ヘルツェゴビナを管理したのは,ロシアやセルビア,汎スラブ主義から守るためだとあります.
 しかし「バルカン史」という本では,
「セルビアはベルリン会議でロシアに冷遇され,オーストリア・ハンガリーの後押しによって,ようやくニシュなどの南方の領土を拡張した」
「これによってセルビアは外交的にオーストリア・ハンガリーに接近した」
と書いてあります.
 明らかに矛盾していると思うのです.(--;
 それとも懐柔策として領土拡張を認めたのでしょうか?

 【回答】
 簡単に言うと,ベルリン会議からボスニア併合(1908年)の間の30年間に,両国の関係が劇的に変化したためです.

 セルビアは元々オーストリアから支援を受けていて,ロシアの支援を受けるブルガリアと激しく対立していました.
 1881年にはオーストリアとセルビアの間で秘密条約が結ばれ,セルビアは更にオーストリア依存を高めます.
 この流れが変わったのは1885-86年のセルビア・ブルガリア戦争です.
 ブルガリアが東ルメリ自治州を併合したことをきっかけに起こったこの戦争で, セルビア国内の親オーストリア派は開戦を強く主張したのですが,結果はセルビアの敗北.
 これをきっかけに,新しく急進党が躍進.1903年にはクーデターが起こって親オーストリア派の国王アレクサンダル・オブレノヴィチが暗殺され, 親仏派のペータル・カラジョルジェヴィチがセルビア王となり,1904年に急進党党首パシッチが首相に任命されました.
 パシッチの急進党政権は反オーストリアを打ち出し,ロシア・フランスに急接近します.
 1905年,セルビアはオーストリアからの経済的独立を目指し,ブルガリア・フランスと経済協定を締結. オーストリアはこれに対して豚の輸入禁止を打ち出しました(いわゆる「豚戦争」)が,効果上がらず.これ以降セルビアは完全にオーストリアの手から離れてしまうことになります.
 そして1908年,オーストリアのボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合,と.

(カラジチ ◆mWYugocC.c in 世界史板)


 【質問】
 映画にもなった「チュッ・ニャ・ディン」について教えてください.

 【回答】
 チュッ・ニャ・ディンは1850年,アチェ東部の地方領主の家柄に生まれた.
 1873年,オランダはアチェ王国に侵攻し,1875年,彼女の故郷 の町ランパダンをはじめ東アチェの平野部一帯を支配した(アチェ戦争 1873~1904) .
 最初の夫テウク・チック・イブラヒムは1878年, オランダとの戦闘で死亡.1880年,チュッ・ニャ・ディンは西岸の港町ムラボーの貴族テウク・ウマールと再婚した.
 彼は一時期オランダ側に降服,協力者となったが,その後,豊富な武器・弾薬・兵力を もってオランダとの戦闘を再開,各地でオランダ側に甚大な被害を与えた.
 1899年2月,テウク・ウマールはスパイの通報によってオランダ側の待ち伏せを受け死亡,アチェ人領主たちの投降が相次いだが,チュッ・ニャ・ディンは配下の武将たちと共に,6年間にわたり神出鬼没のゲリラ戦を指揮した.
 しかし,オランダの圧倒的な軍事力と封鎖作戦によってゲリラ側は武器, 弾薬,食料の窮乏に見舞われ,チュッ・ニャ・ディン自身も目をわずらい,ほぼ盲目となり,重いリュウマチにもかかった.
 1905年11月,彼女の健康状態を憂うる腹心の部下の裏切りによって,ついにオランダ軍に捕らえられ, 州都クタ・ラジャ(現バンダ・アチェ)に移された.
 その後,オランダは彼女を西ジャワのスメダンに流刑し,1908年11月彼女は流刑地で死んだ.
 遺骸はスメダンの郊外に葬られ,いまも墓には参詣者が絶えない.

 詳しくは
http://www.mapro.or.jp/~araitaku/aceh.htm
を参照.


 【質問】
 19世紀の終わり頃が舞台で,文官に軍の部隊を指揮させたいのですが,無理の少ない理由付けはないものでしょうか?
 反乱軍に占領された他国の首都の,大使館を防衛する部隊において,指揮官が負傷し,その場にいた主人公(文官)が臨時で指揮をとるという流れなのですが.

 【回答】
 正規兵じゃなくて,志願してきた避難民上がりの義勇兵とか植民地兵とかだったら,そのあたり融通きくんじゃなかろうか?
 ロアルド・ダールの『単独飛行』って自伝で,WW2開戦時にタンザニアに会社員として赴任していた著者が急遽,士官に抜擢されて,植民地兵の1個小隊(?)の隊長になる話があった.
 著者はパブリック・スクールを出て,大学行かないで会社員らしいから,軍事教練くらいは受けていたと思うんだけど,その程度の軍歴.
 植民地兵を指揮して一仕事した後,休暇とって車買って陸路でアレクサンドリア(だったと思う)まで行って,志願してちゃんとした軍人のパイロットになったって流れだったと思う.
 英植民地軍の士官てルーズなんだな,と思った一件だった.
 ハードカバーのもあるので,図書館で探して見ても良いかも.

 19世紀末の篭城戦は,「栄光の海兵隊」シリーズの2巻『黄土の血戦』で扱われている.
 ただ海兵の話なのと,うろで申し訳ないんだけど確か,シーモア提督の手下でノルデンフェルトを車載(貨車)して行軍していた憶えがあるので,途中から籠城組に合流だったと思う.
 仮想戦記だったら高貫布士氏の大日本帝国海兵隊戦記の一巻『威海衛攻略作戦』が,北進事変も扱っててでこっちは端から籠城.

軍事板,2009/04/27(月)~04/28(火)
青文字:加筆改修部分

▼ ICS(インド植民地高等文官)なら文官でも(自分の統治管内の)軍の指揮権を有していたはずです.

 「英国紳士の植民地統治―インド高等文官への道」(浜渦 哲雄著・中公新書)(残念ながら品切のようです) に書いてあったと記憶していますが,自分の統治管内で反乱が起きればICS自らが指揮をとることもあったようです.
 特にNWFP(北西辺境州,今のパキスタンあたりかと)ではしばしば反乱が起こり,討伐作戦の指揮をとることも多かったようです.

 もっともそれだけに,軍人上がりの人物を登用することが多かったようですが.待遇が軍人よりも段違いによかったので,競争は激しかったようです.
 #ICS自体,高待遇だったので競争率が高かったみたいですね.
 #浜渦氏の本には選考過程が詳しく書いてあって興味深かったです.

HDK in FAQ BBS,2009年6月14日(日) 14時23分
青文字:加筆改修部分

▼ 小説の例ですが,回答の中でイギリス海兵隊の例を挙げられていますが,文官の指揮官の例をあげるならば

守城の人(村上兵衛 著)

で,主人公では有りませんが,イギリス公使(?:元軍人かもしれませんが外交官ですので)が指揮官に擬せられたとする経緯の例の方が良いかも.
(内容的にはウィキなどで書かれているように,柴大佐(当時)が実質的指揮官(というか主人公です)であったとされている物ですが)

bugaisha in FAQ BBS,2009年6月14日(日) 21時52分
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 京城事変が,日本を取り巻く国際通信に与えた影響は?

 【回答】
 日本が開国した後,列強に並んで大陸に進出しようとした足がかりとして目を付けたのが,1つは琉球・台湾であり,もう1つが朝鮮半島でした.
 朝鮮は清を宗主国としており,長らく鎖国を行っていましたが,1876年に日本が働きかけて開国させました.
 ところが,開国をして日本に倣って近代化を図ろうとする一派と,清国寄りの守旧派との間で対立が生じ,その余波で暴徒が日本人を殺害して日本公使館を襲い,軍隊が叛乱を起こして朝鮮の実権を握ろうとすると言う事件が,1882年7月に発生します.

 しかし,この報は直ぐに日本に伝わらず,逃げ延びた公使や公使館員が英国船に助けられて長崎に着いて初めて日本政府の知る所と成り,政府は直ちに軍艦で公使を再送して守旧派と談判し,賠償を得ました.
 これが世に言う京城事変,朝鮮では壬午軍乱と呼びますが,その後,朝鮮は清国の支配が更に強まり,1884年には再び清国派と日本派の抗争,所謂甲申政変が起きて,鎮圧に清国軍が出動,その間に日本人が殺される事件が起きました.

 以後,日本と清国との間で朝鮮半島を巡る緊張関係が高まっていきました.
 この為,日本政府としては,何か事が起きた時の為にも対朝鮮電信線の価値が非常に高まっていきます.
 1つの方法は,漢城(ソウル)から大陸を通過して上海に電信を送り,此処から大北電信線で長崎に繋ぐという方法でしたが,これは清国との間に緊張が高まっている時だけに,清国側の妨害が想定される為,非現実的でした.
 となれば,何が何でも日本本土から直接朝鮮本土に海底ケーブルを敷設せねばならないと言う機運が,日本政府部内に生まれたのでした.

 そして,壬午軍乱の直後から,大北電信会社との折衝が開始されました.
 既に見た様にまだまだ日本の通信技術は未熟で,長大な海底ケーブルを敷設する技術力が無い為,海外の会社を頼るほか無かったのです.

 この時,日本側の主張は,九州北端の呼子から壱岐,対馬を経由して朝鮮半島南端の釜山まで海底ケーブルを敷設することでした.
 なお,長崎から呼子までの陸上電線は日本側が架設することとしています.
 もう1つの要望は,大北電信が1870年の約定で確保していた長崎~横浜間国内用海底ケーブル敷設権の完全放棄でした.
 これは法的に未だ生きており,特に軍部が神経を尖らせていたものです.

 これに対し,大北電信側は色々と理屈を付けて権利を主張しましたが,本来,寺島宗則の様に老獪な役人がこうした交渉事に携わらなければなりませんでした.
 しかし,日本側は佐佐木高行とか石井忠亮と言った面々で,外国人相手の交渉事に余り慣れておらず,しかも,朝鮮半島が緊迫していた関係から妥結を急いだ為,とんでも無い免許状の交付を決定してしまいました.

 この内容は下の様なものとなっています.

――――――
1. 大北電信会社は長崎~上海,長崎~ウラジオストク間に海底ケーブルを各1条増設する権利を得る.
2. 日本政府が朝鮮政府と交渉してその承認を得た後,大北電信会社は,呼子~釜山間に海底ケーブルを敷設,運用し,途中これを壱岐と対馬に陸揚する権利を得る.
3. 大北電信会社に明治3年に与えられた長崎~横浜間海底ケーブル敷設許可を取消す.
4. 大北電信会社は,日本に於けるアジア大陸や朝鮮半島との対外通信の独占権を得る.
 また,日本はアジア大陸及びその周辺の台湾・香港・フィリピン等の島々との間に独自に海底ケーブルを敷設する権利を放棄し,更に大北電信会社以外には上記権利を与えない.
5. 本免許状の有効期間は今後20年(明治35年まで)とする.
 但し,ロシアや清国が10年の延長を認めた場合には日本も自動的に延長を認めなければならない.
6. 以上に基づく新免許状の交付は明治15年12月28日付とする.
――――――

 つまり,国内海底ケーブルの敷設権の返上と引換えに,日本政府は,どの方面に対しても国際通信回線を敷設する権利を放棄したに等しい結果を招いた訳です.
 ついでに,呼子から対馬までの国内部分も大北電信の手に委ねた事になります.

 本来,こうした国際通信は本来,通信相手国と直接折衝して平等な条件で約定を結び,それから実際に敷設する企業に両国で依頼すると言う手順を踏むものです.
 しかし,1881年,清国は日本と相談する事無しに,大北電信に対し,向こう20年間自国全土で対外海底ケーブルを敷設,運営する独占権を与えてしまっていました.
 この権利は清国が倒れて後も,中華民国に引き継がれ,それが解消するのは実に1930年になってしまった訳で,日本の国益に重大な影響を与えました.
 勿論,ロシアは万事大北通信任せであり,この会社を恰も自分の持ち物と思っていたと言う感じでした.

 そんな訳で,例え日本1国が頑張っても日本~大陸間の独自国際通信回線の建設運営は困難だったと言えます.
 しかも,電話や無線電信に関しても,この免許状に含まれる余地を残してしまいましたので,後に日本が大陸側と無線で交信しようとした時に,大北電信から「営業妨害」と抗議されています.

 しかも,大北電信の隠し球はこれだけに留まりません.
 もし,寺島宗則が前面に立っていれば,即座にその隠し球に気がついたかも知れませんが,残念ながら外交能力の無い官僚では,それを見抜くことが出来ませんでした.

 それは権利独占期間の20年(その上更に10年延長はこの条文からすれば既定の論理.)は,あくまでも「海底ケーブルの敷設・運営の独占権」であり,海底ケーブルを海岸に陸揚げして陸上線に繋げる権利である陸揚権ではなかった事です.
 陸揚権についてはこの新免許状の中にこう書かれていました.
"right to continue to work its cable in connection with the goverment telegraphs"
 この文章には,期限の定めがありません.
 そこで,大北電信は免許状の期限が切れる1913年,「独占権は消えるが,陸揚権は無限に続くのだ」と言い張り,事実上の独占権を半永久的に維持してしまいました.

 そして,この免許状以来日本側は,利潤面は勿論のこと,ソフト面・ハード面・領土面全てに渉って大北電信に手出しが出来なくなりました.
 以後,この海底ケーブルの植民地化というのは,1969年まで実に99年間続くことになります.

 今,TPPとか国際会計基準とか何とかが盛んに言われていますが,大抵の場合,提唱した国にだけ利益が転がり込み,後から参加する国には損失ばかりしか無いものです.
 こうしたものをノリで決めないで,内容をきちんと咀嚼し,その利害得失を判断した上で政治家や官僚が世論判りやすくにきちんと説明しない限り,1882年のこの免許状一件と同じ事を繰返しかねないと思うのですがねぇ.
 まぁ,何度も間違いを繰返すマゾが日本人だと言われればそれまでですが(苦笑

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/05/30 23:04
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ケブラチョの戦いとは?

 【回答】
 1886/3/26~31,軍事独裁政権再登場を防ぐため,モンテビデオの若者達が蜂起した戦い.
 彼らは戦いには敗れたが,それが残した影響は深かった.

(J. L. ボルヘス Borges 「伝奇集」,岩波文庫,1993/11/16, p.256訳注)


 【質問】
 長崎事件について教えてください.

 【回答】
 清国北洋艦隊が突如長崎に来襲,水兵が暴動を起こした事件.
 以下引用.

    長崎で暴れた辮髪水兵
{略}日本に要塞を築かせたものは,黒船来航と長崎事件だった.そして,日中戦争の原点は長崎事件にあることが分かった.
 {略}
 長崎事件は全く知られていないが,1886年(明治19)その当時,清帝国と呼ばれた中国の北洋艦隊が突如長崎に来襲し,水兵の大集団が大暴動を起こした侵略事件だ.
 このころ,大清帝国は日本を威圧するため,旅順に要塞と軍港を作り,北洋艦隊根拠地にした.北洋艦隊水師提督(司令長官)丁汝昌は,李鴻章(北洋大臣)の右腕だった.
 1886年8月1日,北洋艦隊の新鋭戦艦「定遠」「鎮遠」と巡洋艦「済遠」「威遠」の4隻が,日本政府には何ら予告なく,無許可で修理のためと称して突然,長崎に入港した.{略} 要するに,弱小国,日本を舐め切っていたのだ.
 艦名の「遠」は外国を意味し,特に日本を指していた.「定遠」「鎮遠」は日本鎮定の意味だ.この僚艦はドイツ・フルカン社製で,排水量7,400t,主砲は30cm×4,当時世界第一の大戦艦だった.
 その頃,日本海軍は英国アームストロング社製の「浪速」と「高千穂」(3000t)の小艦があるだけだった.
 その挙句,8月13日には清国水兵が勝手に上陸開始した.兵力は500人以上.長崎市内をのし回り,商店に押し入って金品を強奪した.酒を探して飲み,市民の女性を追いかけるなど,散々に暴れ狂った.
 清国水兵は辮髪をしていた.{略} その髪を蛇のように振り立て,喚き狂うのだから,長崎市民には,まるで地獄の鬼のように見えた.
 急報により,日本人巡査が鎮圧に出動したが,多勢に無勢,袋叩きに遭った.やがて応援の巡査の一隊が駆けつけ,双方抜刀して市街戦になった.斬り合いの結果,双方とも八十数人の死傷者を出した(水兵4人,巡査2人が死亡).
 この長崎事件は当時,日本全国に一大ショックを与え,清国に対する日本人の敵愾心が,烈火のように燃え上がった.

 この事件の背景には,朝鮮問題を巡る日清両国の紛争があった.そこで日本を脅かすため,清国海軍が計画的に長崎に殴り込みをかけたのだ.当時の弱小国,日本は,歯噛みしながら,なす術もなかった.
 この長崎事件を契機として,日本人の防衛思想の根底に,大陸を国防の第一線とする考え方が生まれたのである.

(益井康一(元毎日新聞記者) from 月刊「丸」 Aug. '99)

 事件後,両国委員により構成された長崎会審は難航の末,解散したが,外国公使の斡旋もあり,翌年2月8日,東京で井上馨外相と徐承祖駐日清国公使が,双方自国の法律による公平な処分と死傷者へ撫恤金給与を議定し,解決した.

日本史板

済遠
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 日本陸軍で,陸軍士官学校を卒業するまでの流れはどのようなものか?

 【回答】
 以下のごとし.

明治30年(地方幼年学校設立)から大正9年くらいまで

13歳    旧制中学入学
     ↓            ↓ 
14歳 地方幼年学校入学 ↓
17歳 中央幼年学校入学   ↓
18歳  ↓           隊付
19歳  隊付           ↓
     ↓            ↓
      陸軍士官学校入学
21歳   卒業,見習士官となる

 第2次大戦中については,第2次大戦FAQ(アジア・太平洋方面)の該当項目を参照されたし.


 【質問】
「現在のマケドニアの政党には,VMROを称するものが複数ありますが,VMROとの関係は必ずしも明確ではありません.マケドニアの国民運動の嚆矢としての「VMRO」との関係を称することで,いわば格を上げようとしているという側面があるようです(カラジチ ◆mWYugocC.c@世界史板)」とのことですが,詳しいVMROの沿革を教えてください.
 なるべくなら,ユーゴにおけるマケドニアとギリシャの軍事緊張と社会背景について論述してほしいのですが.

 【回答】
 そもそも,露土戦争の結果,サン・ステファノ条約で成立した大ブルガリア公国の領土に,マケドニア地域(現在のヴァルダル・マケドニア,ギリシャのエーゲ・マケドニア,ブルガリアのピリン・マケドニア)を含む地域を含めていたのが問題の最初で,この条約は英・独・墺の三国干渉によって撤回され,結局オスマン・トルコ帝国の領土へ返還されました.

 しかし,ブルガリアは,言語的近親性から自国領土「西ブルガリア」であると主張し(今でもブルガリアには公式にマケドニア人はいないことになっています),なおかつ,大ブルガリア帝国の領土だったことを声高に言えば,セルビアは文字が近しく,宗教的祝日の監修の近親性から,自国領「南セルビア」と主張し,これも中世のセルビア王国領だったことを主張しました.
 また,ギリシャはマケドニア人がスラブ化されたギリシャ人であることを主張し,ビザンツ帝国時代には,自国領だったことを主張しています.

 内部マケドニア革命組織(VMRO)は,1893年に20代の若手教師であったゴシェ・デルチェフを中心に結成されたもので,この組織によってマケドニア人独立の準備が整えられ,マケドニア人と言う民族のアイデンティティが確立されます.

 1895年,ブルガリア(この国は,マケドニア地域を自国に組み込む野望を持っており,実際,30%を後のバルカン戦争で手に入れている)で,最高マケドニア委員会が結成され,これに同調した人々がゲリラ活動に走り,ついには1903年に中部の街クルシエヴォで蜂起して(イリンデン蜂起),マケドニア共和国の臨時政府樹立を宣言しますが,これはトルコ軍の大軍に鎮圧されました.

 この解決策として,墺,露がマケドニアを国際管理下に置いて,秩序回復後に民族別行政区を作る構想をぶち上げますが,これが混乱を招き,バルカン戦争の遠因となっていきます.

 VMROはその後歴史の中に埋もれていきますが,第一次大戦中はあくまでも独立を目指すのか,また,ブルガリアの一地方として生きるのかを巡って,分派活動が起き,またテロ組織としてセルビア国内でゲリラ戦を展開,ブルガリア合同派は枢軸国,特にブルガリアと連携しつつ,生き延びています.
 ブルガリア合同派はブルガリア軍部の道具としてピリン・マケドニアを制圧した後,其処を実効支配してその地を根拠地に,ユーゴ国内,ギリシャ国内で様々なテロを行ないます.
このため,1925年には,業を煮やしたギリシャがブルガリアに侵攻すると言う事件も引き起こしました.

 1920~30年代に,ユーゴはセルビア人中心の中央集権体制を強いて,他民族の反発を買い,また,周辺部に於いても,Thessalonikeの領有を巡ってギリシャと対立し,ユーゴ自身はブルガリアに接近します.
 丁度その頃,ブルガリアでもボリスIII世の国王独裁が成立し,中央集権体制に移行しようとしていたために,1934年にピリン・マケドニアを実効支配していたVMROを弾圧したため,ブルガリア統一派は支持を失い,マケドニアのVMROは今度は,同じユーゴ国内で虐げられてきたクロアチア人に接近します.
 そして,再びこの組織が表に出るのは,1934年,ユーゴスラヴィア国王ペタルをマルセイユで暗殺した時です.この時はウスタシと共同で暗殺を行なったようです.

 その後,第二次大戦ではユーゴスラヴィアがドイツ軍に占領した時に,ブルガリア軍も同時に彼の国に侵攻し,マケドニアの解放を謳います.
 その際に先頭に立ったのが,統一された内部マケドニア革命組織(VMRO)で,セルビア人の中央集権国家に虐げられてきたマケドニア人の心を擽り,一定の支持を得ることに成功します.
 しかし,進駐したブルガリア軍が傍若無人な振る舞いをするに及んで,民心は離れ,1940年にマケドニア人の自治を認めたTito率いる共産党が浸透していき,再びVMROは衰退していった訳です.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)


 【質問】
 ドイツって何であんなに髭を生やした将軍が多いのでしょうか? マッケンゼン,シュリーフェン,ティルピッツ,グレーナー,ファルケンハイン,ルーデンドルフ,ベロウ,フーチェル,ゼークト,ヒンデンブルク,ヒッパー, フランソワ,モルトケ,シェールetc…

 【回答】
 当時はヒゲの時代だったから.
 ドイツに限らず,19世紀末~20世紀初頭の頃の男は,み~んなヒゲを蓄えるのがトレンドだったのです.
 男のファッション史を見ると,髭が嫌われる時代と好まれる時代が繰り返されていたんです.
 日本でも長岡外史と言う凄い髭の持ち主がいました.マジで空飛べそうなほどの.

 これはイギリスでの話だけど,19世紀前半くらいまでは,イギリスの上流階級の人は髭をはやしてなかった.
 19世紀半ばのクリミア戦争に従軍した軍人たちが髭面で帰ってきて,男らしくてカコイイというので上流階級で流行になった.
 それが社会に広まって19世紀後半は髭の時代に.
 でも世紀末になると,髭は俗物の印だってんで,若者や芸術家の間では剃るのが流行りに.
……と,こんな感じで髭の興亡があった.


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