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戦史FAQ目次


 【link】

『愛は戦いの彼方へ』(バオ・ニン著,遊タイム出版,1999/01)

 北ベトナム兵としてアプ・ビア高地(米国名,ハンバーガー・ヒル)の戦いも経験した作者が記した,半自伝的小説.
 米軍のナパームで次々焼かれていく戦友.
 米軍のコブラと南ベトナム空挺隊の掃討作戦の前に,なすすべもなく壊滅する友軍.
 捕らえた敵空挺兵を,怒りに任せてなぶり殺す北ベトナム兵.
 出征前の高ぶりから,少女をレイプする北ベトナム兵.
 サイゴン陥落寸前にバズーカ攻撃で戦死する,T-54の戦車兵.
 タンソンニャット国際空港での略奪.
 復員後のハノイで,ヴェテランを馬鹿にするチンピラを,発作的に血祭りに挙げる主人公etc.
 「ベトナム人にとってのベトナム前線の真実」を,生々しく描いた傑作.
 爽快感の欠片も無いバイオレンスと,厭世観で全編が覆われている.

 検閲通過して完全版が出版できるようになったのは3年前.
 以前の検閲済版は,「戦争の悲しみ」の題で出版された.
(こちらの訳者は,元朝日新聞の戦争特派員で,初代ハノイ支局長の井川一久氏)

------------軍事板,2003/04/13
青文字:加筆改修部分

『第3MP大隊奮戦記』

 何年か購入するのを悩んで最近買ったが,期待に違わぬ本だった.

 大学を卒業後ジュニアハイスクールの教師をしていた著者は,愛国心ややりがいを求める心から海兵隊に士官候補生として志願し,新兵教育を受けて1968年にベトナムへ赴いた.
 ベトナムでの13か月の兵役期間のうち,前半を彼が過ごした部隊が,ダナンに駐屯する海兵隊第3憲兵大隊A中隊(営倉管理)だった.

 愛国心に燃え,共産主義と戦うことを誓って少尉となった彼を待っていたのは,ベトコンや北ベトナム軍との苛烈な戦闘ではなく,単調かつ勤務時間の決まっている書類仕事に,冷房が効いたバーや宿舎,そしてあふれる物と膨大な規則だった.
 主人公をはじめとする大隊の面々は,仕事以外の暇な時間,そればかりでなく大して忙しくもない仕事の間も,どのように単調さや堅苦しさから逃れられるかを考えながら過ごしていた.
 本書の副題である「もう一つのベトナム戦争」とは,果てしない単調さとの戦いだったのだ.
 実際,戦闘の描写はたった2度のみ,全260ページ中10ページほど.

 著者は教育学部卒らしく,大隊の同僚たちを分析し,ベトナム戦争の様々な面――例えば員数外物資の物々交換や,R&R(著者はシンガポールで色々とやってきたようだ)など――を,ちょっと冷めた目線で考察している.
 ベトナムやベトナム人に対する見方は,前線に行って敵と直接対峙する前に彼らに出会い,民生活動(MEDCAPなど)にも関わっていたこともあって,かなりリベラルである.

 訳は誤訳や誤字が少々見受けられるものの,それほど気になるわけではない.
 また,地図は巻頭に簡潔かつ必要十分なものがあるが,もう少し細かい地図があっても良かったかもしれない.
 俺はベトナム戦争の通史的な本を読んでいないので,著者の誤りなどを指摘できないが,(少なくともベトナム戦争における)「後方」における戦争というものがどのようなものだったのか,そして自らの思いと全く異なった職場に投入される人々が,どのような思いをするのか,といったことを知ることができる貴重な本だ.

 なお,この本は兵役の前半が終わり,前線へと移動するところで描写が終わっているが,洋書では”The Grunts”というタイトルで,歩兵として前線で過ごした後半部分についても,本が出ているらしい.

-----------------軍事板,2011/11/25(金)

 【質問】
 陸自の精鋭の一部がベトナム戦争に極秘に参加していたという噂をよく聞くんですけど,これは何かしら根拠のある話なんでしょうか?
 朝鮮戦争の時は海保の掃海艇が,極秘に掃海作業に従事して,戦死者(殉職者)1名まで出しましたから,観戦武官みたいのはあったのかなとも思うのですが.

 【回答】
 今のところ公的な証拠は出されていません.
 有る無い論争は平行線になりがちなので,とりあえず証拠がでるまで待ちましょう.

軍事板

▼ 現在の所,信用に値する文書的/物的証拠が存在しません.
 そういう話は「関係者語る」といった出所が酷く曖昧なものばかりです.

 元KCIA要員で,自衛隊のベトナム参戦に際してコーディネーターをしていた人物のホームページなるものも存在しますが,事実かどうかは分かりません.
http://www.seigi.jp/

軍事板,2004/09/26
青文字:加筆改修部分

▼ もう取材しない条件で教えて貰ったのは,長い付き合いの一佐が,自分が情報公開法の前に全部処分したって言ってました.
 俺が七十になる20年後には,公開するかもって話を信じて楽しみに待ってます.
 基本的に法律違反だからね.
(ウサマンの数字は部内が確認済み)
 20年後には劇画化したいと気長考えてます.

一等自営業 ◆JYO8gZHKO. :軍事板,2004/09/26
青文字:加筆改修部分

▼ ベトナム戦争に日本人が参加したのは事実でしょう.
 米軍の軍属としてね.

 その彼らが,実際にどんな任務につき,どこでなにをしたかは殆ど分かっていません.

 彼らの中に元自衛官がいたかも知れませんし,ベトコンとの戦闘に参加したかも知れません.

 ちなみに思い当たるソースは,「大使閣下の料理人」ですね(笑)

陸秀夫 ◆Bf5xepPT82 in 自衛隊板

 小林源文著『鋼の掟』( from 『実話ナックルズ』誌)より,掲載前にセリフを公開

------------
 俺がこの話を聞いたのは10年前,西新宿のあばら屋での酒席だった.

 「先生,チョット」と呼ばれ,別席で先輩の言葉を伝えますと突然始まった.

 この頃キャットシットワンの連載をしており,サルの自衛隊員を登場させた.

 俺が社会に出た昭和四十年代の巷には,自衛隊がベトナム戦争に行ったという噂があった.

 その噂の延長には,陸上自衛隊の74式主力戦車が試験投入されたというのも.これはあまりにも大法螺だ.

 あばら屋で聞いたの〔話〕は,1966年から68年まで,15人づつ半年交代で4チーム延べ60名がベトナムへ派遣された.
 部隊区分で多い順に陸自は名寄の冬戦教,御殿場の富士学校,習志野の第一空挺,海上自衛隊と航空自衛隊は少なく1~2名だったという.

「第一空挺より富士 それよりも 冬戦教が多いのは 何故です」
「冬戦教は 本物の SOGです」
「富士学校は 諸兵種の 教育機関です」

 冬戦教とは冬季戦技教育隊という,冬季オリンピックに出場するのは表の連中だ.
 本物は直接支援隊の名称で1950年代の冷戦中から,有事に備え訓練に励んできた.
 毎年数名が米国特殊部隊グリンベレーか,英国陸軍の特殊部隊SASに派遣される.

 自衛隊の初期に作られた冬戦教ホームページには,創立当時はSOGの名称で調査と観察グループと呼ばれたとあった.
「これだ!」

 ベトナム戦争中のSOG(特殊作戦グループ)部隊は,対マスコミ用のカバーネームとして調査と観察グループと呼ばれていた.
「ありゃ!」
「ホムペから SOGが 消えた」

 彼らは横田エアベースから直接ベトナム入りしたという.

 南方に行くなら日本刀を持って行けと,親父から勧められたのも数名いるが使い物にならなかった.

 ベトナムへ派遣されたのは守秘義務の関係から全員幹部(将校)で,南ベトナム中部のニャチャン(米軍呼称ナトラング)のリコンドースクールで,三週間の速成教育を受けた.
 このニャチャンにはベトナム派遣の韓国軍司令部に,米陸軍特殊部隊SOG作戦司令部があり,第5特殊部隊がリコンドースクールを管理運営していた.
 リコンドースクールではLRRP(ラープ),つまり長距離偵察パトロールのテクニックを伝授していた.

〔略〕

 リコンドースクールでの第一週は室内教育で午前四時半から始まる.
 無音潜入テクニックに偵察パトロール,敵味方の小火器の分解組み立て,地図の判読法,コンパスを使ったグランド・ナビゲーション,通信全般,応急処置など.

 第二週はニャチャンの対岸にある無人島での第一週の応用訓練で,各種障害コースで実戦に即した射撃や爆薬,FAC(前線航空管制官)との通信訓練となる.

 第三週は敵側エリアで実戦参加の最終試験で,平均的な合格率は50%と言われる.

 このSASを真似た実戦向きのLRRP訓練コースを案出したのは,チャーリー・ベックウィズで後に有名なデルタフォースの創立者となる.

 LRRP訓練後に陸自隊員はSOGの作戦に加わった.

 空自隊員はFAC(前線航空管制官)や空軍特殊部隊のパス・ファインダーに.

 海自隊員は海軍特殊部隊SEAL(シール)に加わった.
※パス・ファインダー:ヘリボーン部隊の投入前にLZ(ランディング・ゾーン)の安全確保と通信管制をする.
 LZ:ヘリの降着地帯
 このベトナム派遣の自衛隊60名の戦功はシルバースター勲章1名,ブロンズスター勲章2名と聞く.
 憲法違反のベトナム派遣とはいえ,延べ数百万もベトナム従軍した米軍に比べれば素晴らしい戦功で,誰も否定は出来ないはずだ.
 このベトナム戦争自体おかしな戦争で,非武装地帯の17度線を越えて北ベトナムへ侵攻できない.
 同様にラオスやカンボジアへの越境は国際法違反とされた.
 これを超越した秘密作戦を専門としたSOG(特殊作戦群)で,ナム・ツアー(ベトナム従軍)二回以上の陸軍・海軍・空軍.海兵隊の志願者により編制されていた.

 SOGの作戦目的は敵側エリアでのホーチミン・ルートと呼ばれる共産軍の補給ルートの偵察に監視,暗殺に破壊工作,情報収集に爆撃指示など任務は多様でロードランナーと呼ばれた.

 〔略〕

 本物のグリンベレー在隊20年の三島瑞穂(米国名ミズホ・ボブロスキー)氏が,ニャチャンで日本人と会っている.
 ただし守秘義務で直接俺には教えてくれない.

 三島さんに興味のある方は並木書房・三島瑞穂著「D446」を薦める.
 母親が米国軍属と再婚して,米国籍になってから志願入隊で空挺からグリンベレーになった.

 第一空挺の本部管理勤務していた下士官(習志野で組事務所を潰した)は記録写真を見ている.
「ねえ 教えて 下さいよ」
「できねえよ 年金 切られるよ」

 長い付き合いの防衛庁調査部の友人に資料関係を聞いてみた
「ボクが 処分しました 義務です」
「エッ!」「冷テエ!」

 その後,別な方から情報が来た.
「先生の 数字は 正しいです」
「アリガト!」

 冷戦時代に日本の共産化を真剣に心配した人たちが居た.
 一億二千万の日本人が非難しても,俺は自衛隊のベトナム派遣は正しいと信じている.
 インドシナで戦った60名と,戦死した数名の方に短編劇画を捧げます.ご苦労様でした.
 そして有難う御座います. 小林源文
------------

(in mixi,2007年03月30日13:25
転載にあたり,著者本人の許諾を取得済み)

 もっとも,疑問点もある.

 もしこれがアメリカ政府の要請による派遣なのだと仮定した場合,たった60名が何の役に立つのかという疑問が沸く.
 逆に日本政府が自ら希望したのだとすると,これが発覚した場合,当時の政治状況から考えて,政府与党が大ピンチになることは明白.
 そのような大冒険を自ら希望して行うとも思えないのだが…….
 米側にしたところで,与党を弱体化させ,下手をすると非武装中立論なる珍論を唱えていた政党に政権が渡りかねない行為に手を出すだろうか?

(ちなみに村山政権が誕生したときには,米側は当初,「日本に社会主義政権ができた!」と本気で心配したという.
 ソースは失念.
 この心配は,村山首相が渡米し,日本の国会でよりも先にクリントン政権に対して「自衛隊容認」を表明するまで続いたという)


◆◆◆北ヴェトナム軍/南ベトナム解放戦線


 【質問】
 ホーチミンって,やっぱ人格者だったんですかね?
 悪い話を聞いたことないのですけど………

にゃお~ん : 軍事板,2003/03/18
青文字:加筆改修部分

 【回答】
 まあ,闘士だから血と無縁ではないが,蓄財だの贅沢,血の粛清とは無縁だったらしいね
 まんま,「田舎教師」がハノイで大統領やったような感じとか.

 50年代の農地国営化では,中農の恨みをかったけど,すぐに本人が率先して自己批判し,合作社方式に方針を転換したし,国営化の首謀者で親中国バリバリ(ホーとは合わなかった)チュオン・チンも,党書記長の座は追われたものの,国会議長には留任して投獄もされなかったし.

 ホー爺さんは
教師>下級船員>カールトンホテルの厨房下男>フランス社会党員>同共産党員(創立メンバー)>コミンテルン東方局員>在中顧問団員>指名手配逃亡者
という歴戦のつわものだから,そこらの俄かアカ厨とは鍛えられ方が違うというか.

 いわゆるアカ厨(つまり原理主義者)がこのと論争すると,
1・まず,翁が相手方の理想主義・原理論に理解を示す
2・その実行がいかに困難か,実行した場合の損失を具体的数字で示す
3・当時の大国に主導される国際関係の中で,小国ベトナムのできる最大限のことと,できない最小限のことの線引きをはっきりさせる
というシビアな現実論法で,たいてい翁に折伏されてしまったらしい.

 実際,日本のポツダム宣言受諾と英軍進駐のタイムラグを利用して,蜂起・独立宣言したり,
最初はフランス連合の枠内での独立で妥協しようとしたり,
植民地解放に傾く米世論と,フランスの大国主義の対立を見越して,独立に米国の後押しを求めようとしたり
と,ソ連の傀儡連中とは一味違った.

 また,ホー翁は,スターリンに半ば睨まれ,なかば利用されつくしたコミンテルン東方局の出身だから,スターリンへの警戒心は相当強かったという説もある.
 それとこの人,基本的に西洋の人権思想に相当傾倒してた節もあって,実は結構米国やフランスの市民革命を理想としてたみたい.
 連合国への牽制という意味合いもあるだろうけど,この人が起草した独立宣言(1945年9月)は,冒頭からいきなり米独立宣言と仏人権宣言の引用.
 ラストの一節もまんま,米独立宣言のコピペ(笑)だったりする.

 ホー翁の有名な「遺書」は長らく,
「自分が死んだら遺骨を南北に分けて散骨して」
という一説が伏せられてた.

 この人の評伝なら,東大の桜井由躬雄助教授のがお勧めでつ.

※「欧米の新聞は,解放後のベトナムに<血の粛清>がなかった,とほめたたえた.
 だが,彼らはあざむかれている.
 <血の粛清>こそなかったが,<涙による粛清>があった.
 <涙による粛清>は,人を洗練されたやり方で死に追いやる.
 とろ火でにるように,真綿で首を絞めるように,静かに,ゆっくりと殺してゆく」(友田錫『裏切られたベトナム革命』)
という見解もある.

軍事板,2003/03/18-03/20
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 南ベトナム解放戦線(ベトコン)はハーグ陸戦法規違反ではないでしょうか?
 見分けられる徽章を付けず,武器を公然と携帯してもいないので,交戦者資格は与えられませんよね?

 【回答】
 ハーグ陸戦条約を持ち出すのであれば,むしろ第二条に注目してください.
「敵が接近するにつれて,未だ占領されていない地区において軍民が急遽抵抗軍を結成する場合において,1※を満たすことができないとき戦争の規則と慣習を尊重する範囲で,交戦団体として認められる」※武器の公然携帯や戦争法規を順守する等の条項

 つまり,すでに特定の勢力に支配された地域で結成された不正規兵の交戦は,陸戦規定を満たしていない犯罪行為であると解釈できるわけです.

 これではいわゆるパルチザンは交戦者資格(捕虜資格)を充たすことが出来ないため,1949年のジュネーヴ第三条約では,捕虜の規定の中に,
「紛争当事国に属するその他の民兵隊及び義勇隊の構成員(組織的抵抗運動団体の構成員を含む)で,その領域が占領されているかどうかを問わず,その領域の内外で行動するもの」(第四条〔捕虜〕A 第2項)
という規定が追加されました.

 さらに,1977年のジュネーブ第一追加議定書43条1項では
「紛争当事国の軍隊は,部下の行動についてその国に対して責任を負う指揮の下にある,すべての組織された武装の兵力・集団及び団体から成る」
 同第44条3項では,
「戦闘員は(略)敵対行為の性格のために武装紛争がそのように区別しえない状況が武装紛争中に存在することが認められるので,そのような状況においてその者が,次の場合に武器を公然と携行しているのならば,戦闘員としての地位を保持するものとする」
と,明確な指揮下にあることと,武器の公然の携行が最低条件とされました.

 ただし,この追加議定書にはアメリカをはじめ批准していない国家もいまだ多数あります.
 当然ながら,当時米軍はベトコンには交戦者資格は無いとみなしていました.

(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)


 【質問】
 ベトナム戦争当時,NVAは朝鮮戦争の時の中国義勇軍のような人海戦術で戦争してたように認識していたのですが,あるいは精強な特殊部隊も存在していたのでしょうか?

 今までは北ベトナム軍は士気は非常に高いけれど
 平均的な後進国の軍と変りないだろうと思っておりました.
「驚異的なジャングルファイター」
 などという評判は,都市部などでテロなどにあって敵味方区別のつかない状況に置かれていたGI達の戦場伝説の類だと思っていました.
 が,マリーンやグリーンベレーの連中を返り討ちにするような精強無比の部隊などもあったのでしょうか.
 漫画や小説といったソースのあやふやなところで時折,「北ベトさんオニつえー」ってな話がでてくるので,ここ十年くらい気にかかっております.
 どなたか「NVA最強!」てなエピソードでもあったら教えてください.

 【回答】
 北ベトナムの特殊部隊/精鋭としては,決死隊,工作隊と呼ばれる部隊が有名.
 決死隊は米大使館に突っ込んだような特攻隊.
 工作隊(sapper unit,sapper battalion)ってのは強襲的なゲリラ戦の為に組織訓練された部隊で,大隊規模で集中投入される他,小~分隊規模で他の歩兵部隊に臨時編入されたりしてた.
 んでこの工作隊の戦法として有名なのが,米の偵察/浸透部隊狩や後の対クメールルージュ戦で多用された.
・敵発見→追尾しつつ歩兵部隊呼寄せ,先回りさせてキルゾーン形成→工作隊奇襲・退却→追ってきた敵はキルゾーンに嵌ってウマー
・工作隊奇襲→敵の退路にはあらかじめ歩兵部隊+地雷のキルゾーン作っといてウマー
・工作隊は偵察追尾のみ,連絡して砲撃加える→もちろん退路はキルゾーンでウマー
 あと普通?に一撃離脱の奇襲したりテロったりもする

 これらの場合でも北越部隊全体の練度は高いわけじゃないし,北越側の死傷者数の方が多かったりするんだけど.


 【質問】
 歴史の話でベトナム戦争ののことになると,しばしば米軍の虐殺なんかがクローズアップされますが,逆に北ベトナム側はそういう虐殺虐待みたいなことを起こしたりしなかったんでしょうか?

 【回答】
 テト攻勢の際のフェ攻防戦で,南ヴェトナムの役人や富裕階級の人間が多数処刑されている
 (善良な人民を苦しめた,と言うのが罪状).
 正確な統計が無いが,処刑された人間はかなりの数に登っている.

 また,1968年のテト攻勢のとき,ベトコンは一時占領したフエで,南ベトナム政府を支持していた一般市民を1000人以上殺害している.

 写真で有名な,サイゴン警察署長による捕虜射殺は,実は部下とその家族を殺害したベトコン・ゲリラに対する復讐だったという話もある.

 さらに,北ベトナム軍やベトコンの捕虜となった米軍兵士は,地面に穴を掘った牢獄で雨ざらしにされたり拷問を受けるなど虐待されるケースも多かった.

 どちらかが倒れるまでのガチンコ・バトルだったからなあ.


 【質問】
 ベトナム戦争をテーマにした,ベトナム人の書いた小説読んだんですが,なんか塹壕の中で,兵士がそれぞれの特技生かして,時計修理屋やっていたり,ラジオ作ってたり,靴屋やってたりするんです.
 これって現実にもあったことなんですか?

 【回答】
 実際にあったと思われる.

 NHKかなんかの特集で
「自分は自転車修理を~」
「トラックの修理には手馴れていた」
「捕獲した品で商売」
なんて証言があった気がする.
 北ベトナム軍は民間人の寄せ集めなので,そういった助け合いが普通に存在していたかと.

軍事板

 もしかしたら,その小説はマイ・ユ著「ディエンビエンフーの時計屋」
(『ディエンビエンフーの時計屋』<金沢エスペラント会婦人部刊,1975/5/1>に収録)
ではないかと愚考す.
 日本語で読める,ヴェトナム人作家の短編小説としては佳作.
 読めば?

消印所沢

塹壕ラジオ
(画像掲示板より引用)


◆◆◆米軍


 【質問】
 ヴェトナム戦争では米軍は十分な大軍を送ったと言えるの?

 【回答】
 米派遣軍最大54万.
 でも実戦部隊はその1割,5万4千人です.
 ハルバースタムの『ベスト&ブライテスト』からの引用だけど,南越+米軍は,毎年,北ベトナム兵士を10万人以下しか殺せなかったけど,北は毎年,10万人以上の兵士を補充できたんだと.

 こりゃウェストモーランドならずとも,もっと米軍を!!と叫びたくなるわ.

軍事板

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 ベトナム戦争とかって,ジャングルの中で戦ってたようですが,虫とか蛇とか,とにかくありとあらゆるキモイ生物が居たと思うんですけど,兵士たちはそういった生物にも対応できるよう訓練されていたんですか?

 【回答】
 もともとベトナム側は農民が多いので,虫やヘビには耐性がある.
 日本でも虫やヘビを食べる地域はある.

 ちなみに,解放戦線兵士は食料が不足したとき,土虫をとって食べたりしたという話もあるんで,気持ち悪いとかそういうレベルでは無いと思いますが……

 米軍兵士は一応有毒生物に付いてのレクチャーは受けていた.
 だが,知識があることと実際に遭遇して厄介な事は別で,アメリカ兵は毒蛇とヒルと蚊とダニと蟻に悩まされつづけた.
 虫除けの薬剤スプレーも支給されたが,これは匂いが強烈なので,
「匂いで敵にばれる」
として,使用させない指揮官も多かった.

防虫剤使用例
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 ベトナム戦争に参加した米兵は,白人ばかりだったのでしょうか?
 また,ベトナム戦争に参加した米兵の平均年齢が二十歳を下回っていたのは本当ですか?

 【回答】
 ベトナム戦争に従軍したアメリカ兵の平均年齢は低かった.
 ただ,時期によってばらつきがあるので,一概に「平均で20歳だった」とは言えない.
 ただし,兵卒に限れば,ベトナム派遣者の平均年齢が25歳を越えた年は一度もない.
 80年代のポップスに,ベトナム従軍兵士の平均年齢が19歳だったという歌詞の,その名も「19」って曲があったほど.

 それと,士官や下士官はともかく,兵卒でいわゆる「白人」はベトナムでは殆どいなかったと言われる.
(これも時期によるが).
 黒人と有色人種(日系とヒスパニック)が殆どで,ついで南米系のラテン系が多かった.
 ベトナム戦争の戦場写真を見れば,アフリカ系の兵士が一杯出てくる.
 著名人では例えば前国務長官のコリン・パウエルは二度従軍してるし,日系のエリック・シンセキ前陸軍参謀総長はベトナムで片足を失っている.

 いわゆるWASPは,「物好きな志願兵の大学生」くらいしかいなかったらしい.
 たとえば映画監督のオリバー=ストーンは,エリートコースを放り投げてわざわざ志願した変わり者.

 もちろん白人だからといって徴兵されないわけではないが,そういった人たちは後方任務や欧州方面に廻されていた.

軍事板,2005/11/14(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ヴェトナム戦争で,なぜ米軍兵士にヘロインが広まったのか?

 【回答】
 インドシナには古くから阿片が安定供給されていたという素地が存在したからだという.
 以下引用.

――――――
「古くからインドシナには,中国人が多数定住していた.
 彼らの多くが阿片愛飲者であることはよく知られている.〔略〕 17世紀頃から中国人の間に,煙草にインド産阿片を混ぜ,パイプで吸う習慣が広まった.当初は上流階級だけのものだったが,やがて19世紀中期になると労働者にも及んだ.
 この阿片の安定供給もまた,インドシナを支配する政府の重要課題となった.供給量減少が高値を呼ぶと,それは即,反政府暴動にと発展する.事実,これは再三に渡り生じた.
 やがてフランスがインドシナを植民地化すると,フランスのインドシナ総督府は,この問題に腐心する.阿片が品不足に陥ったら,多くを占める中国系住民による暴動すら予測されたからだった.
 そこでトルコからの輸入に頼っていた阿片だけでなく,中国雲南省産のものをも輸入するようになる.
 サイゴンに置かれた「阿片専売公社」では,あたかも煙草を販売するような形で,中国人に阿片を販売していた.

 もちろん儲かる商品だから,密売商人の暗躍もあった.彼らは中国雲南省から阿片を直接運ばせ,密輸商人に頼った商売を始める.
 品質は粗悪だ.専売公社のものとは比較にならない.けれど十二分に商売として成り立った.何故ならその顧客層は,裕福な商人ばかりでなく,貧しい肉体労働者もいた.彼らは安価なものを当然のこととして求める.

 〔略〕
 第1次大戦で主たる供給国だったトルコからの輸入が途絶えると,フランスの阿片専売公社では自給自足せねばならなくなった.
 阿片専売公社とは,19世紀のタイにおいて,阿片を吸引する中国人が増加したことで,国家管理の阿片専売公社が煙草のように流通を管理した.
 この方式はビルマなどにも広がり,やがてフランスはインドシナの植民地に採用した.これは中国人が居住するアジア地域特有のものとなったのである.

 雲南種の芥子が注目され始めたのは,この頃である.これを華僑の阿片中毒患者に安定供給するため,フランス領インドシナで栽培しようと計画が進められた.
 ところが涼しい土地に適した雲南種だと,暑いインドシナでの栽培は不向きである.
 僅かに,標高が1000m以上の,山岳部の石灰岩地帯にだけ栽培可能なことが分かった.南に面した斜面,つまり水はけの良いアルカリ性の土地でのみ生育できるのである.
 そうした山岳地帯には,メオ族を初めとする山岳民族が居住していた.とりわけメオ族が雲南種の栽培に熱心に取り組んでいく.
 メオ族は元来,中国四川・雲南・湖南・貴州などの省に古くから住んでいた民族で,今日も3000万近い人口をこれら地域に有している.
 17世紀に清朝政府は弾圧開始,2世紀に渡り,7度の叛乱が生じた.多くのメオ族が敗北して南下,インドシナの山岳地帯に住みついた.彼らは焼き畑農業を営み,芥子栽培によって暮らしを立てることになる.

 そうした経緯と雲南産芥子の特性から,栽培地域が,「黄金の三角地帯」と呼ばれるラオス,ビルマ,そしてタイの接する辺りに集中したのだ.〔略〕 1939年以前は専ら密輸されたが,世界大戦によりトルコやインドからの阿片輸入が減少の一途を辿ると,インドシナの需要に応じるため,一気に栽培が盛んになったのである.

 現地の人間より懐に余裕ある外国人,それも,戦場に立って死の恐怖に晒され,現実逃避したい若者達がいたら,麻薬はたちどころにそこへ流入する.
 最高の条件にある消費者が,やがてこの地に大量に派遣されてきた.ヴェトナム戦争でのアメリカ軍がそれだ.
 アメリカ軍のヘロイン禍は,既にインドシナに派兵した時点において,全ての面で下地ができていたのである.

――――――(柘植久慶「麻薬戦争地図」,銀河出版,'93,P.13-16)

 本書のこの部分は,フリーマントル「FIX」(新潮選書)からの引用ではないかと思われるので,信頼性の点では特に問題はないだろう.

 また,非対称戦における兵士の精神的ストレスも,ヘロインの流行の一因だっただろうことは想像に難くない.


 【質問】
 このサイト
http://10.studio-web.net/~phototec/mci3.htm
の言う,
「ベトナム戦争で,MCIレーションの付属品としてついていたタバコの配給をやめてから,兵士の間で麻薬がはやりだした」
ってのはホントなんでしょうか?

 【回答】
 ベトナムでの薬物蔓延と煙草は因果関係は無い.
 鎮痛剤としてのモルヒネ等,薬物の濫用はジャングルでの恐怖心を紛らわせる為であり,煙草にはその効果は無いので.

 そのサイトの記述は,嫌煙運動が広まり始めた時期と,米国内での薬物濫用が問題化し始めた時期が重なった事からきた誤解です.
 当時の米国では,特に若い世代の薬物濫用が深刻な社会問題となりつつあり,それはベトナム派遣軍兵士のそれよりも早い時期(ベトナム戦に突入する以前)からでした.
 なので,そのサイトにある
「薬物汚染はベトナム派遣軍兵士に煙草を支給しなくなったところから起こり,後に米国内に広まる原因となった」
と言った内容は,誤解から導かれた間違いでしょう.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ベトナム戦争での米軍兵士に対する麻薬の浸透はすさまじいものがあったようですが,軍はどのようなどのような麻薬対策をしたんでしょうか?
 また,アフガニスタンに派遣された兵士には麻薬は浸透してないのでしょうか?

 【回答】
 取り締まったが,全くと言っていい程効果はなかった.
 解放戦線や北ヴェトナム軍からの供給ルートを断とうとしたり,栽培農家に金をバラ撒いて転作を薦めてみたり,挙句の果ては栽培畑と見られる場所を問答無用で空爆して焼き払ったりすらしてみたが,ヴェトナムの領土外(タイとか)から流入するものはどうしようもなく,また取り締まりに関わる将兵がよく「不審な死」を遂げたりして,結局野放しに近い状態に.

 アフガンに派遣されたソビエト軍にも恐るべき速度で「ハシシ」と呼ばれる麻薬が蔓延した.
 これも,「喫ってる所を見つけたらその場で射殺」的措置まで取ったがちっとも効果はなかった.
 やはり「ケシ畑を見つけたら爆撃機まで繰り出して焼き払う」戦術も取ったが,ちっとも効果は挙がらなかった.

 アフガン派遣の結果,ソビエト/ロシア国内には確固とした麻薬流通販売のルートが構築されてしまい,取り締まりはちっとも成果は挙がっていない.
 ソビエト/ロシア国内に流通してる麻薬は,殆どをチェチェン系のマフィアが取り仕切っていて,「自国に歯向かう勢力の資金源は,自国民と自国の軍人」という事態になっている.

 蛇足だが,フランク・ルーカスってアメリカのギャングは60年代末から80年代頭くらいまで,純度98~100%のヘロインをゴールデントライアングル(東南アジアの麻薬生産拠点)から直接買い付けてた.
 その時にアメリカに麻薬を運び込んでたのは,他でもないベトナムに派遣されていた米軍.
 ルーカスは当時の金額で逮捕されるまでの間に,2億ドル以上を賄賂として,軍関係者を含むあらゆる人物に渡していたので,なかなか逮捕されなかった.
 それまでの低品質高価格のヘロインと違い,高品質低価格のルーカスのヘロインは,アメリカ国内にも爆発的に広まり,極端なまでの治安の悪化をもたらした.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 映画「地獄の黙示録」に登場するカーツ大佐のモデルは?

 【回答】
 1961年にCIAからラオスに派遣されて,現地のモン族の王になったトニー・ポーがモデル.
http://www.kriegsreisende.de/soeldner/geschichte.php?artikel=relikte/apocalypse.htm&td=1142004
参照.


 【質問】
「ベトナム戦争時,米軍の士官の戦死者の5人に一人は,実は部下に殺されている」
という報告書のソースって実際あるの?
 うそ臭いんですけど・・・

 【回答】
 まず
"friendly fire casualties vietnam"
というキーワードでググってみるべし.

 その次に
"fragging"
というキーワードでググってみよう.

 ベトナム戦争時には230名の士官が,自分の兵に殺されている.
 fraggingは,fragment grenade,つまり手榴弾を投げて殺すことを意味するが,ふつーにM16で殺された士官も多い.
 もちろん,味方に殺されたかどうか不明な例も多く,他に1500名近くいる,原因不明の士官死亡者も,その少なからぬ部分(あるいはかなりの部分)が,自軍兵士によるものと考えられている.

 ベトナム戦争による米軍兵士の死者は6万人近いが,士官の死者は約6600名.
 従って,全期の詳細不明な死者が全部,味方に殺されたものと仮定すると,はっきりしている230名と合わせて 士官死者の4名に1名は自軍に殺されたことになる.
 実際には詳細不明の中には,ブービートラップにかかったもの,誤射(本当の),はたまた自殺なども含まれるだろうから,いい加減に半数が自軍兵士に故意に撃たれたと仮定すると,およそ6人に1人という割合になる.
 1/4だけと仮定しても10人に1人.

 5人に1人,は正確ではないかもしれないが,極端に誇張された数字でもないことになる.

軍事板,2008/08/20(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ヴェトナム戦争では,米兵にとっての安全地帯は基地内だけですか?

 【回答】
 基地の中も安全とは言いきれなかった.
 北ベトナムはアメリカ軍基地の外から基地内の兵士を狙撃する戦法を行うことがあったからだ.

 また,ベトナムは,アメリカ軍の基地の真下までトンネルを掘ったりもした.
 細くて長いモグラの穴みたいなのが,アメリカ軍の真下にあった.
 クチ・トンネルの長さは250kmに達する.


 以下余談.

 ある基地も,そのようなベトコンのスナイパーに狙われた.
 早速,海兵隊の熟練者による対狙撃チームがやってきて,ベトコンの狙撃兵を処分した.
 数日すると,また同じようなことが行われ,同じように対処した.
 また,ベトコンの狙撃兵がやってきたが3人目の彼は,前2者とは違っていた.
 彼は射撃が下手だった,海兵隊の対狙撃チームは彼の腕前を慎重に評価し,彼を撃たないことにして,慎重に観察をした・・・
 3日後,彼は弾をほぼ撃ち尽くして帰り,海兵隊は彼の行動から,ベトコンの狙撃戦術についていろいろなデータ入手に成功したという.

軍事板 & 風船男 in mixi支隊(青字部分)


 【質問】
 ヴェトナム戦争時の米軍第1騎兵師団の編制を教えてください.

 【回答】
 米軍第1騎兵師団(US Army 1st Cavalry Division)<The First Team>.
 現在のじゃなくて,ベトナム戦争時の編成.なので空中機動師団になります.

師団司令部
・旅団司令部×3(中型汎用ヘリ×3,観測ヘリ×8)
・騎兵(空中機動歩兵)大隊×6
・航空群
 ・・航空強襲大隊×2(各:中型輸送ヘリ×60,観測ヘリ×3,攻撃ヘリ×12)
 ・・航空強襲支援大隊(大型輸送ヘリ×47,観測ヘリ×3)
 ・・航空中隊(中型輸送ヘリ×16,観測ヘリ×10)
 ・・航空輸送中隊(中型輸送ヘリ×26,観測ヘリ×1)
 (・・重ヘリコプター中隊(クレーンヘリコプター×4))
・師団砲兵司令部
 ・・空中砲兵大隊(空対地ロケット弾搭載ヘリ×43,観測ヘリ×12)
 ・・軽砲大隊×4(各:105mm榴弾砲×18)
 ・・中砲大隊(155mm榴弾砲×18)
 ・・軽砲中隊(空中機動)(105mm榴弾砲×6)
・航空騎兵大隊(中型輸送ヘリ×20.観測ヘリ×30,攻撃ヘリ×38)
・支援群
 ・・衛生大隊(中型輸送ヘリ×12)
 ・・通信大隊
 ・・工兵大隊
 ・・補給支援大隊
 ・・輸送大隊(航空機整備)(中型輸送ヘリ×8,観測ヘリ×8)
 ・・整備大隊(中型輸送ヘリ×8,観測ヘリ×8)
 ・・人事大隊(臨時編成)

※この他,6個空中強襲中隊,2個航空強襲支援中隊,2個空中砲兵中隊が配属されていた.

※上記臨時配属部隊を除けば,中型汎用/輸送ヘリ×222,観測ヘリ×86,攻撃ヘリ/ロケット弾搭載ヘリ×105,クレーンヘリ×4が定数配備.暗算と記述が間違ってなければ(ぁ

※ベトナム戦時に同師団が使用したヘリコプターは,UH-1,OH-13,OH-6,CH-47,CH-54,AH-1G.

※第1騎兵師団がベトナムに最初に展開した時点での兵力は,OH-13観測ヘリ約90,UH-1多用途ヘリ約290,CH-47大型輸送ヘリ約50など.

邪夢 in mixi,2008年06月27日21:37

 現在の陸上自衛隊第1空挺団と比較するのは,悲しくなるので禁止.


 【質問】
 アメリカ州兵は,第二次大戦や朝鮮戦争あるいは湾岸戦争・イラク戦争では参戦しているのに,ベトナム戦争には不参加だったようです.
 なぜベトナム戦争だけ不参加だったのでしょうか?

 【回答】
 州兵の指揮権は基本的に州知事にあり,有事以外は大統領が動員することはできない.
 ヴェトナム戦争はあくまで「南ヴェトナム政府を支援するための軍事介入」であって,北ヴェトナムとアメリカが戦争していたわけではない(公式には)ので,州兵の動員はできない.

 ただし,州兵の大規模な一斉動員(連邦軍への編入)こそなかったが,各州の州兵航空隊(Air National Guard)などの個別部隊への動員はおこなわれたようだ.

 下記のサイトには,プエブロ号事件やテト攻勢の後,1968年に1万人を超える州兵航空隊員が動員されてベトナムに派遣された経緯が記されている.
http://www.ang.af.mil/history/Heritage/VietnamWar.asp


 【質問】
 ヴェトナム戦争時の米特殊部隊について教えてください.

 【回答】
マイクフォース
 自前のヘリや舟艇を使った機動部隊です.
 隊員は山岳少数民族で,グリンベレー自身は戦闘力が少ないので,自前の機動傭兵部隊のような物です.

MACV-SOG
 これはベトナム従軍二回以上の条件を満たした特殊部隊の陸,海兵のリコン,シール,空軍特殊部隊あと経験の深いラープなどが選抜されました.
 越境任務が専門で,ラオス,カンボジア,北ベトナム,中国まで浸透しています.
 作戦内容は公開されてません.
 もしかしたら,あと5年で公開されるかも知れません.

MACV
 ベトナム軍事援助派遣軍だったかな.
 ベトナム派遣された他国の軍隊も,この指揮下に入ります.

SOG
 特殊作戦グループで,対外的には研究観察グループと呼ばれていたと,本には書いてあります.

自営業 in 軍事板,2000/09/09(土)04:34
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ベトナム戦争の時,米兵って歯磨きどうしてたんでしょうか?
 暑いジャングルでゲリラ索敵してたら水は貴重だろうし,濾過とか薬で浄化しても飲み水にも量が足りなそうな気がするんですが.
 かといって虫歯で戦えないよ~なんての許してたとも思えないし…

 【回答】
 ベトナム戦争は基本的に「出勤する戦争」で,駐屯地からヘリか徒歩で出動,大体その日のうちか翌日には駐屯地に帰ってくる・・・という戦争形態が殆どだったので,歯は駐屯地に帰ってきたときに磨けばよい.

 新兵には一度,特別な歯磨き粉で歯を磨くことが義務づけられていたみたい.
 それで歯を磨くと半年は虫歯にならなかったみたい.
 『ディア アメリカ』(バーナード・エデルマン著,現代書館,1988.12)より.

 一応,野戦用のレーションには爪楊枝歯磨きガムが入ってた.

 アメリカ軍以外でも,野戦用のレーションには爪楊枝がついているのが多い.
 イタリア軍のレーションには歯ブラシと歯磨き粉がついてるので有名.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ヴェトナム戦争時,米軍には慰安婦というものはいなかったの?

 【回答】
 ベトナム戦争当時のアメリカ軍の兵士の休養は,タイやフィリピン.
 そのためにタイは法律を改定して,アメリカ軍の休暇で訪問した兵士のための売春関連の施設を作りやすいように規制緩和しています.
 かのバッポン街などの各種サービスが,タイで発生した法的根拠です.

ニュース極東板


 【質問】
 ベトナムで戦死した米兵の死体を洗うアルバイトって実在したのですか?

 【回答】
 ベトナム戦争の戦死者を洗うというか,きれいにする作業は存在した.
 エンバーミングといい,遺体についた汚れを落とす.
 腐敗防止の為に,血を抜いた後血管内や内臓に防腐剤を注入する.
 ちぎれた手足や傷をを縫合する.
 髪を整えたり顔料などで顔色を生前に近いものにする,など.
 これは,土葬が一般的なアメリカでは,戦死者に限らず,殆どの死者に対して行われ,葬儀業者の業務の一つとなっている.

 ベトナム戦争時には遺体はまず日本に運ばれ,ここでエンバーミングを行った後米本土に移送された.
 基地で働く日本人の中に,この作業に従事した者もいただろうが,アルバイトとして行われたかどうかは知らない.


 【質問】
 「ベトナム俳句」って何?

 【回答】
 ヴェトナム戦争の際に米兵の間でたしなまれた俳句.
 戦争勃発後しばらくして,兵士たちの精神が不安定となり,軍紀が乱れ始めたため,兵士の精神安定・軍紀粛正のため,一部部隊で採用されたという.
 以下引用.

------------
 ベトナム俳句は,ベトナム戦争の際に米兵の間でたしなまれたもので,挫折の歴史に埋もれていたその実態が,南カリフォルニア大バークレー校のアメリカ文学研究室のインゲマン教授*や,コロンビア大近代文学科のコボルスキ博士ら**の研究により徐々に明らかにされてきました.
 ベトナム俳句は米陸軍256上陸部隊に採用されたときから始まったというのが,今のところ定説になっています.
 ベトナム戦争が始まってしばらくすると,厳しい気候や現地ゲリラからのプレッシャーで,兵士達の精神が不安定になり軍紀が乱れ始めました.
 そこで兵士の精神安定と軍紀の粛正のために,66年6月にインドシナ半島西側より上陸した256部隊で,試験的に日課に取り入れられたといわれています(注:いわゆる「上からの俳句」).
 ベトナム戦争もこのころはまだ,米兵にとって正義の戦争の色合いが強く,兵士達の作る句も写生を中心とした朴訥な句が多く,「ベトナムますらおぶり」と呼ばれる,独特の素朴な俳句世界を描き出しています.

かっと目を 開きて止みし 朋が夏(ユタ,G・P・ウィンストン,19歳)
ベトコンの 肩に見つけし BCG(オハイオ,ケヴィン・レスリー,21歳)
風ふきて ジャングル踊る ロケンロール(カリフォルニア,ビル・T・メロン,20歳)

http://www.geocities.co.jp/Milano/3008/hitokoto/kuroki.html
------------

 なかなか秀逸な句が,ベトナムでは詠まれてたようですね.
 前らも彼らに倣(なら)って,一句詠んでみては如何か.

……というのは,ジョーク・サイトのヨタ話だが,実際にヴェトナム戦争について俳句を詠んでいる人はいる.
http://war-haiku.tempslibres.org/past/idxViet.html

 片やヴェトナムでは,2006年頃から,大都市の市井の人々も俳句に関心を持つようになった
http://www.oki-viet.org/?p=837
そうだが,上記の「ヴェトナム俳句」とは,関連性はない模様.
 現在は越日友好協会の下に,ヴェトナム俳句クラブが存在する.
http://www.vn.emb-japan.go.jp/jp/culture/jp_haiku_122013.html

軍事板,2004/03/22
青文字:加筆改修部分


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