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17世紀 17. Század
<戦史FAQ目次
(引用元:朝目新聞)
「ストパン」■(2008-10-21)[読書][バルカン][歴史][民族]多元的統合のひとつのモデルとしてのオスマン帝国
「それにつけても金のほしさよ」◆やる夫が北方の獅子王になるようです
『ガレー船徒刑囚の回想』(ジャン・マルテーユ著,岩波文庫,1996.9)
読んで良かったー.
・地獄の沙汰も金次第とはまさにこの事だ.金次第で拘置所・刑務所に相当する場所でも,看守に頼んで良い食料や酒まで入手できる.
囚人は自分の金を,受刑中も所持し続ける事が出来るんだ・・・唖然
看守に身包み金まで取られないで済むとは.
・有力者との縁で何度命を救われた事やら.
・当時の通信,外交,金融システムが思っていたより遥かに進んでいた.
・同じフランス国内のプロテスタントでも迫害される人もいれば,そうでない人もいる.あれぇ?
・主人公達,嘘も方便と言う概念が無いのか?と思ったが,信仰を隠す事自体が主人公的にはいけないのね.
・ガレー船て軍事的には当時の段階でもう時代遅れのものだった.
・この作品中の「トルコ人」が文字通りなのか,それとも中東人の代名詞なのかは?
――――――軍事板,2011/06/14(火)
『グスタヴ・アドルフの騎兵』(リチャード・ブレジンスキー著,新紀元社,2001.10)
『戦闘技術の歴史3 近世編』(クリステル・ヨルゲンセン他著,創元社,2010.10)
歩兵の隊列の変化が,火力偏重の傾向をよく現してて面白い.
このシリーズ,「横に回りこむ」事の意義すらわからなかった俺みたいなトーシロにも,直感的にその意味を理解させてくれるから好きだ.
――――――軍事板,2011/04/23(土)
【質問】
17世紀初頭のロシア・ポーランド戦争について教えてください.
【回答】
ロシア・ポーランド戦争(Polish-Muscovite
War,1605年~1618年)は,モスクワ国家が「動乱時代」と呼ばれる内戦期,ポーランド・リトアニア共和国(国王の軍ではなく,貴族階級であるマグナートたちが率いる私兵と傭兵)がロシアに東進,内戦に介入して起きた戦争.
戦況,敵味方,ポーランド・ロシア双方の戦争目的は何度も変化し,スウェーデンの介入まで呼び込んだ.
1618年,ロシア・ポーランド間の戦争は「デウリノの休戦」で終結し,ポーランドはスモレンスク,チェルニゴフ(チェルニヒフ)などの占領地をそのまま自国領土として確定した一方,ロシアはポーランドからの独立を守った.
ちなみに1612.11.4,ロシア国民軍がポーランド軍からモスクワを解放したことから,この日がロシアでは「国民団結の日」という記念日になっている.
【参考ページ】
ロシア・ポーランド戦争 (1605年-1618年) -
Wikipedia
Русско-польская война
(1605-1618) -Википедия
http://en.wikipedia.org/wiki/Polish%E2%80%93Muscovite_War_(1605%E2%80%931618)
http://pl.wikipedia.org/wiki/Wojna_polsko-rosyjska_1609-1618
http://www.nnh.to/11/04.html
http://angeleyes.dee.cc/1612/1612_movie.html
【ぐんじさんぎょう】,2011/06/01 20:10
を加筆改修
【質問】
17世紀の私掠船や武装商船などといった,「正規の戦闘艦」以外を改装して用いた船は,どのような船で,どのような装備で,どのように戦ったのでしょうか?
私掠船は拿捕目的かな?と思うので,曳航も可能な大型の船で接舷戦闘かな?,とは思いますが,武装商船が予想もつきません.
護衛のみを考えて大砲なんかで戦ったのでしょうか?
【回答】
武装商船というか,近代海軍になって商船と軍艦が峻別される以前は,外航商船は海賊や私掠船から自衛するために,多少の大砲を積んで武装してるのが普通.
自衛目的だから積極的に接舷はしないだろうけど,接舷に備えた小火器・刀剣も持ってる.
船体はただの商船.
17世紀頃はそもそも船の構造からして,商船と軍艦との境界が判然としていなかった.
当時は大航海時代の後期に登場した「ガレオン」と呼ばれる形式の帆船が,更に発達しながら用途別に分化していく直前といった頃で,有名どころだと英蘭戦争当時のオランダ海軍ミヒール・デ・ロイテル提督が座上した戦列艦「フリースランド」は,オランダ東インド会社の商船「プリンス・ウィレム」の同型船だったりする.
もっとも「プリンス・ウィレム」も英蘭戦争では,オランダ艦隊旗艦として活躍しているが.
私掠船も船体はただの商船.
積極的に襲撃するために,普通の商船より大砲が多かったり,戦闘員が多かったりするだけ.
快速で長期航海に向いた船が多いんだろうけどね.
捕鯨船なんかはよく使われたらしい.必ずしもあまり大型船ではない.
退役軍艦が使われた例もあるようだけど.
曳航は特別の船でなくてもできるし,乗っ取って操縦する方法もある.
wikipediaのこの画像は,英海軍の3等艦ケント(大きいほう)とフランスの私掠船(手前の小さいほう)の戦闘.
フランス側が勝利して,HMSケントは拿捕された.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
イギリス東インド会社って何?
【回答】
イギリス東インド会社 (English East India
Company) は,1600年,エリザベス1世が特許状を与えて,アジアとの貿易を目的に設立されたイギリスの特許会社であり,ロンドン東インド会社(旧会社),イングランド東インド会社(新会社),合同東インド会社(合同会社)という3社の総称.
当初は香辛料貿易で利益を得たが,アンボイナ事件後,オランダ東インド会社との競争に負けて活動の重心をインドに移し,七年戦争でイギリスがフランスに勝利してインドにおける覇権を決定づけた後は,次第に政治的,領域的支配組織に変化.
1858年,インド大反乱の責を負う形でインド統治権をイギリス政府に譲渡し,1870年代半ばに解散した.
【参考ページ】
http://jp.encarta.msn.com/encnet/refpages/RefArticle.aspx?refid=761571539
http://www.indochannel.jp/society/history/09.html
http://www.teamrenzan.com/archives/writer/hara/post_240.html
http://homepage2.nifty.com/murasaki-miyako/english/b2eastindia.html
http://www.tionkan99.com/shoken/6th_hi_704.html
【質問】
東インド会社の会社って,単に株式による融資を受けてるってだけの意味だよね?
総会か何かで,植民地の経営方針が変わったりとかはしないよね?
【回答】
民間の資本が参入し,資本のリスク分散のやり方とかが現代の株式会社の先駆けだったと見なされてる.
大々的にやれたのはイギリスとかオランダとかだったが,そのイギリスでさえ,東インド会社はイギリス政府の監督庁の支配下に置かれ,本国議会の指導の下に活動方針の決定や人事も介入されていた.
現地の行政司法,治安維持や警察,開発から戦争行為までやるんだから当然だな.
会社と言っても政府とまだ未分化で,現代の普通の株式会社を連想すると間違う.
そりゃ総督や現地の知事の任命から徴税とか占領行政をはじめ,現地人相手に領土不可侵条約も締結するんだから,どんな「会社」なんだよって話になる(笑)
インドで勢力を確立する以前は商業活動中心だったと言うだけで,世界各地でのオランダやフランスとの勢力争いみても分かる通り,それは本国と連携しながら軍事力を使って,現地勢力も含んだ領土獲得割譲,外交を含んでの争い.
インドの拠点も商館というより要塞で,ベンガルで覇権を確立するまでにもフランスやオランダと戦争したり,現地人を制圧傀儡化したり,国の軍隊と同じような事しながら勢力を拡大していった.
東南アジアにしろどこにしろ,純然たる貿易活動に限定されてたケースの方が少ないだろう.
要するに,今名前から想像されるような,「ただの貿易会社」からは程遠いわけ.
「会社」という言葉が使われてるから混乱するわけ.
> 総会か何か
確かに初期は株主総会って機関は無かったみたいね.
取締役会の独裁だったようだ.
ただ,会社所有は確実に出資者だったよ.
政府機関の一部に民間が出資したみたいに理解する人が多いけど,主な国の東インド会社は殆ど民間主導で進められた(フランスは国家主導だったけど).
イギリスもイギリス商人が自ら動いて設立した.
国家は出資してない.
会社設立初期は,経営陣は単なる雇われで,当然に株主利益を追求すべしと考えてたから,わざわざ株主総会なんて開かなくても,会社の運営上必要不可欠な費用以外は,殆ど配当に回していたし.
株主は満足だったわけ.
会社成立時に所有と経営を完全分離する契約を結んだようだ.
……と,俺が言えるのはここまでだ.
時代が下ってベンガル徴税権が云々…になると,詳しくは知らん.
余り役にたてなくてスマン.
世界史板,2010/02/02(火)~02/04(木)
青文字:加筆改修部分
【質問】
イギリス東インド会社は,侵略を目的とした会社だったの?
【回答】
インドの統治機構に変わる前の,実質的にも「会社」だった時代においては,少なくともそうではなかった.
ウィキペディアにも,
>17世紀のイギリス東インド会社の進出はあくまで,
>インドで産出される物産を独占することが目的となっていたため,
>必ずしも領土的野心を持って進出したわけではないことは
>明確にしておかなければならない。
と書かれているが如し.
アジアとの貿易による利益獲得を最大目標(≠領土獲得・拡大)とする,国際商業に特化した純然たる貿易会社だった.
たとえばサファビー朝の地では,港の統治者に対して東インド会社軍は遠征を行っているが,それは港の関税収入の一部を持つ権利を主張してのことであり,領土的野心によるものではない.
しかし17世紀の終わり,ムガル帝国の衰えによって政情不安が増したため,各国は軍事力を増強し,ついには東インド会社自体が,インドの政治・軍事に関与せざるを得なくなっていき,貿易会社本来の利潤追求の立場からは避けたかったにもかかわらず,はからずも,インドの主権者の地位を獲得することに「なってしまった」という。
ただし一部の酷使様にとっては,最初から侵略目的の会社だったということにしておかないと,都合が悪いらしい.
(blog.livedoor.jp/onigunso2/archives/51451649.htmlなど)
ちなみにその酷使様理論のルーツは,大川周明らしい.
blog.kodai-bunmei.net/blog/2007/08/000306.html
を参照(このブログは酷使様ブログではありませんので,念のため)
他方,ピースボートも,
http://www.peaceboat.org/cruise/report/45th/land/singa/index.html
>イギリスのアジア侵略の先兵として活躍した東インド会社
と述べているのが興味深い.
極右は極左に似たる,という性質が,ここでもまた現れている.
【参考ページ】
http://blog.goo.ne.jp/jchz/e/028bba7c47cbec95c99d9aa96b96f6f4
http://www.geocities.jp/rekikyo/pdf/pgseminar200802B.pdf(PDFファイル)
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81000954(PDFファイル)
http://www.mode21.com/lecture/003566.html
【ぐんじさんぎょう】,待機稿
に加筆
上海租界なんかもそうですが,列強にしてみれば,港湾など重要拠点だけを押さえる「イイトコドリ」の方が楽して儲かるんですよね.
純経済的な観点からすれば,領土拡大にはあまりメリットがない.
日韓併合にしても,併合で儲けるというより(むしろ金がかかる),地政学的観点から安全保障上の目的で実行されたわけですし.
御座候 in mixi,2009年06月06日 13:25
【質問】
イギリス東インド会社についての質問です.
船は会社のもの,船員は全員社員だったのでしょうか?
全員が社員という訳ではなかったとしたら,一つの船に社員はどの程度の割合,担当で同乗していたのでしょうか?
また,当時の船乗りはどのような服装をしていたのでしょうか.東インド会社には制服はあったのでしょうか?
【回答】
士官,つまり艦橋要員と船乗りの区分があって,士官は社員,船乗りは雇われということになる.
船員は航海あたりの契約で雇われる.
給与は月極.
制服は,制服令というのが19世紀初頭に制定されていて,会社ごとに制服を着せるように義務付けられていた.
タクシーのボディカラーリングみたいな,ああいうノリ.
東インド会社はそれよりずっと前から制服,というより作業着の支給はやっていた.
士官のほうは制服も特別で,燕尾服みたいな実に豪奢なのを着てた.
制服は300年近い歴史の中で何度かモデルチェンジしていて,いつの時代がどんな制服かは自分も把握してない.
この辺のことは昔読んだ本にあったことで,今はもう手元にないからタイトルもわからないな.
ネットは探してみたらこんなのがあった.
http://www31.ocn.ne.jp/~ysino/column/index.html
この中の,「近世ヨーロッパ船員の22年間の海上人生」その他も読んでみると面白いと思う.
世界史板,2009/05/08(金)
青文字:加筆改修部分
間違った制服令
(画像掲示板より引用)
【質問】
アンボイナ事件(アンボン事件)って何?
【回答】
アンボイナ事件 Amboyna Massacre とは,1623年にモルッカ諸島のアンボイナ島(アンボン島)にあるイギリス商館をオランダが襲い,商館員を殺害した事件.
オランダ東インド会社(VOC)守備隊は,イギリス商館の日本人傭兵・七蔵がオランダの要塞を調べていたため,不審を抱き,イギリス商館長ガブリエル・タワーソンほかイギリス人30人全員,日本人傭兵9人など約50名を捕え,拷問にかけた.
その結果,要塞奇襲の陰謀に関する自白が得られたとして,イギリス人10名,日本人9名,ポルトガル人1名の計20人を処刑した.
当然この事件は英蘭両国の不和のもととなり,オランダは1654年に賠償金を支払ったが,1665年の英蘭戦争の遠因ともなり,1667年のブレダ条約でようやく解決する.
一方でこの事件は,インドネシアでのオランダ優位を確立させ,英国の東南アジアから撤退・インド東岸への転進を促した.
なお,斬首された日本人は下記の通り.
名前 | 年齢 | 出身 | 職業 |
七蔵 Hytieso | 24 | 平戸 | 傭兵 |
シドニイ・ミヒール Sidney Migiel | 23 | 長崎 | アンボン英国商館雇員 |
ペドロ・コンギ Pedro Congie(Conje,Congey) | 31 | 長崎 | |
トメ・コレア Them Corea | 50 | 長崎(朝鮮系?) | |
長左 Tsiosa | 32 | 平戸 | 傭兵 |
久太夫 Quiondayo | 32 | 唐津 | 傭兵 |
神三 Sinsa | 32 | 平戸 | 傭兵 |
左兵太 Tsavinda | 32 | 筑後 | 傭兵 |
三忠 Sanchoe | 22 | 肥前 | 傭兵 |
ソイシモ Soysimo | 26 | 平戸 | 傭兵 |
作兵衛 Sacoube | 40 | 平戸 | 傭兵 |
【参考ページ】
http://www.tcat.ne.jp/~eden/Hst/dic/ambon.html
http://www.k5.dion.ne.jp/~a-web/Dutch05.htm
http://www.teamrenzan.com/archives/writer/hara/post_240.html
http://www.tabiken.com/history/doc/A/A295C100.HTM
http://www.geocities.jp/bombay_marines/history/history-3ak.html
▼ ただし『<帝国>化するイギリス』(小野功生・大西晴樹編,彩流社,2006),pp.53-58によれば,
「アンボイナ事件を契機に,東南アジアにおける活動の撤退をした」
とされる学説は否定されているという(wikipedia情報)▲
【質問】
プラッシーの戦い(1757)で使用された両軍の銃は,どのようなものだったのでしょうか?
それともこの時代はまだ,剣や槍による近接戦闘がメインだったのでしょうか?
【回答】
フリントロック式(火打ち石による発火装置)のマスケット(先込め式・ライフリング無し).
ようするに火縄銃の発火装置が違うだけ.
命中率が悪いので,英軍は戦列を組んで一斉射撃する戦列歩兵として訓練されており,英軍のインド人兵士(いわゆるセポイ)も戦列歩兵としての訓練を受けていた.
ベンガル太守軍も銃はそこそこ持ってたようだが,ここまでの訓練はできてない.
両軍とも大砲も持ってる.
英軍の大砲は6ポンド砲8門と榴弾砲1門.
ベンガル太守軍は一応50門以上という記録があるが,詳細は知らぬ.
なお,ベンガル太守軍はほとんどが英軍に内通してて,戦線離脱した.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
ジャーディン・マセソンって何?
【回答】
Jardine Matheson は,香港にヘッドオフィスを置くイギリス系企業グループの持株会社.
元は貿易商社で.1832年,イギリス出身のイギリス東インド会社元船医で貿易商人のウィリアム・ジャーディンとジェームス・マセソンにより,中国の広州(沙面島)に設立された.
設立当初の主な業務は,アヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出であり,アヘン戦争に深く関与した.
【参考ページ】
http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_he/a6fhe100.html
http://www.geocities.jp/adiospekin/shngh/ibm13.html
http://manekineco55.at.webry.info/200909/article_65.html
【ぐんじさんぎょう】,2010/03/01 00:27
を加筆改修
【質問】
▼イギリス東インド会社亡き後,その後裔にヴァーデイン・マーセッソン商会という,似たような貿易・行政組織が誕生していますが,イギリス東インド会社とはどのような点で違うのでしょうか?
イギリス東インド会社亡き後,その後裔にジャーディン・マセソン商会という,似たような貿易組織が誕生していますが,イギリス東インド会社とはどのような点で違うのでしょうか?▲
当時,世界中に莫大な権益をもっていたイギリス東インド会社を,わざわざ解散して一新する意味があったんで
しょうか?
【回答】
今のJALと一緒で,世界中に権益を持ってるがゆえに,権益維持に莫大な費用がかかり,赤字体質になってた.
東インド会社の赤字問題は,当時の議会で何度も議題に上ってる.
マイソール戦争だ,何だって世界中で好き勝手やって,植民地の防衛&統治コストが巨大化.
最終的にインド大反乱なんて惨事につながった.
政府(というか議会)はこれを問題視して,ついに東インド会社に解散命令を出す.
徴税権や統治権は政府に譲渡し,ヴィクトリア女王がインド皇帝に即位.
インドは英領インド帝国へ.
そして肝心の東インド会社は解体,商業活動を中心とする会社へとスケールダウンする流れになった.
ベンガル徴税権を得る前への原点回帰だね.
世界史板,2010/02/04(木)
青文字:加筆改修部分
▼ まず,日本語の表記としては「ジャーディン・マセソン商会」が普通です.
また,この商会自体は行政組織ではなかったはずです.行政への影響力はありましたが.
HASU in 「軍事板常見問題 mixi別館」,2010年02月17日 05:56
▲
【質問】
デンマーク東インド会社の始まりは?
【回答】
東インド会社と言えば,英国とかオランダとか,うんとどマイナーなもので,Franceなんてのもあったりする訳ですが,他にも東インド会社を作っていた国がありました.
1500年代末,オランダは英国と共に新興海運国として頭角を現し,スペインとポルトガルを市場から駆逐します.
1602年に設立されたオランダ東印度会社は利潤の高いアジア市場を次々に制覇して,アジア最強のパワーとなりました.
当時,欧州でオランダ,英国と共に新教国として商業の繁栄を謳歌していたのが,デンマークでした.
農産物輸出も好調で,好景気を背景にChristianIV世の指揮下に軍備を充実させ,バルト海地域にも均衡が保たれていました.
こうした国内の繁栄と周辺地域の安定を背景に,ChristianIV世は海外進出を行い,祖国に利潤を齎そうと1616年にデンマーク東インド会社を設立した訳です.
(因みに,西インド会社と言うのもあって,今の米国領バミューダ諸島に進出していたり)
その提案は,Jan de WillemとHerman Rosenkranzと言う2名の商人によって為されました.
この2人,実はオランダの商人で,彼らはコペンハーゲンの主立った商人達と語らい,設立提言書を提出し,1616年3月17日付の書簡で国王は設立を認可,7名からなる商人の発起人グループに向こう12年間の東インド,中国,日本との独占貿易を行う特許を与えました.
最初は資本が中々集められなかったのですが,更にオランダ人,Marcelis
de BoshouwerとRoland Crappeの尽力で,1618年に漸く第1船を送り出すことに成功しました.
目的地は,Marcelis de Boshouwerが既に現地の国王と繋ぎを取っていると言うセイロン.
8月に,CrappeがOeresundで出港し,11月に弱冠23歳のOve
Giedde率いるインド艦隊が,Elefanten,Davidと言う軍艦2隻,Christian,Koebenhavnと言う商船2隻で後続しました.
Crappeは,1620年2月にセイロンに到着しましたが,Marcelis
de Boshouwerの言っていた「国王」はKandy地方の首長に過ぎず,しかも,Marcelis
de Boshouwerは航海中に亡くなっており,委任状も空約束も何も役に立ちませんでした.
それでも彼は,Tanjoreの領主と親交を結ぶことに成功し,コロマンデル海岸にあるトランケバーと言う街の割譲を受けることが出来ました.
其の後,5月には後続の艦隊も到着し,トランケバーの正式割譲条約に調印し,ダンスボー要塞を築いて税金と関税を取り立て,自由貿易を行うと共に,宗教活動を行う権利も手に入れました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年02月24日21:45
【質問】
デンマーク東インド会社の経営状況はどうだったのか?
【回答】
GieddeはCrappeを総督に任命し,トランケバーを中心に発展を続けることになります.
彼らの行動範囲は,東インド海岸沿いの南はマスリパタムから北はベンガル,ジャワ島のバンタム,セレベス島のマカッサルにまで足を伸ばし,胡椒や丁字などの香辛料やコロマンデル産の綿織物を送り,順当な発展を続けていました.
しかし,1622年から39年にかけて合計13隻の船がトランケバーに送られたにも関わらず,帰還したのは僅かに4隻に過ぎず,祖国で巨万の富を夢見ていた人々を失望させました.
当時,オランダ東インド会社は,毎年10~12隻の大型船を送り,ほぼ定期的に積荷を受取ることが出来るのと比べれば雲泥の差です.
それでも,1度船が到着すると相当な利益が出るのは間違いない話で,それなりにトランケバーは発展を続けていたのですが,1625年に30年戦争が勃発すると東インド会社の経営に黄信号が点ります.
と言うのも,この利潤の高さから,高額の軍資金を国王から求められた為でした.
しかもオランダ東インド会社は,このささやかなデンマーク東インド会社をもライバルとして見,監視の目を緩めませんでした.
そして屡々価格競争をして,相手を振り落とそうとしていたりします.
デンマーク東インド会社が何とか生き延びていたのは,戦時に中立国の旗を掲げて貿易を行うことが出来たからと言う,ただこれ一点の理由だけでした.
Crappeは孤軍奮闘したものの,デンマーク東インド会社の成績は振るわず,1636年9月,本国からSt.AnnaとSt.Jacobの2隻の船が久し振りにトランケバーに寄航します.
Crappeは11月に総督の職をこれもオランダ人のBehrent
Pessartに譲り,1637年1月,Crappeは資金も船も不足していた中,少しずつ買い集めてきた丁字と共に船上の人になり,18年ぶりの帰国の途に就きました.
そして,1636年から43年まで,Pessartが総督の職に就いたのですが,先ず彼は前任者Crappeが抱えていた借金を背負わされ,船も積荷もありませんでした.
不運な彼はトランケバーで孤立し,デンマークからの援助も望めません.
商売に熱心になれば直ぐにオランダが価格競争を仕掛けて,資力の小さな,と言うか借金まみれの彼は結果的に市場から惨めな敗北を喫し,借金は更に増え,遂にはマスリパタムの牢獄に収監されることとなりました.
此の間,トランケバーはルーテル派教会の牧師であるChristian
Pedersen,Niels Andersen Udbynederの2名に委任していましたが,彼らは要塞の防衛は疎かにするわ,原住民を虐待するわで,東インド全域に悪評紛々たる有様で,遂にはその悪評が本国に届く羽目になります.
こうして,1639年,ChristianshavnとDenforgyldte
Solの2隻の船がコペンハーゲンを出発しました.
Christianshavnの船長Willum LeyelとDenforgyldte
Solの船長Claus Rytterはトランケバーの状態が噂通りなら,Pessartを解任する任を受けていました.
最初に着いたのはDenforgyldte Solですが,到着直後にPessartの借金を示された,Rytterは,さっさと会社ともPessartとも縁を切り,勝手にベンガル湾で取引を行ったり海賊稼業に手を染めることになります.
1643年,この船はインドを後にしたのですが,本国に戻ることはありませんでした.
もう一艘のChristianshavnは,大西洋のテネリフェで3年間止め置かれ,1643年9月に漸くトランケバーに辿り着きました.
丁度その頃,Pessartは牢獄から釈放されましたが,運の悪い事にその半年後にChristianshavnがトランケバーに着いた訳です.
Leyelは要塞の状態や経営状況を調べ,即刻Pessartを総督の地位から引きずり下ろしましたが,Pessartは再び牢獄に繋がれるのはごめんとばかり,船を盗み,小型船Velbyを従えてベンガル湾に逃走しました.
これ以上,ベンガル湾でデンマークの悪評を拡げたくないLeyelは,Christianshavnで後を追う大逃走劇になってしまいます.
因みに,この2隻を最後に,本国から船が送られる事は無く,次に送られたのは1668年,つまり29年後の事になりました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年02月24日21:45
結局,追いつ追われつの追跡劇の後,デンマークの東インド会社は停滞を余儀なくされます.
1648年にChristianIV世が死去すると,彼の国の東インド熱は完全に冷め,FrederikIII世は,トランケバーをBrandenburg侯に売る事を画策しますが,これは失敗に終わりました.
もし,Brandenburg侯が購入していたら,今頃,本当に世界に冠たるドイツになってたかも知れません(苦笑.
トランケバーに対する国からの援助は途絶え,生き残る為には,ベンガル湾で海賊行為紛いのことまでしなければなりませんでした.
それもこれも,スウェーデンとの間で30年戦争を戦っていたからです.
1669年,やっと30年戦争の片がつき,デンマーク経済が持ち直した為,再び貿易船Faeroe号がトランケバーに派遣されます.
そして新指揮官Kongsbaekの下,トランケバーに設置されていた要塞の築城工事が始められ,ダンスボー要塞が完成します.
Faeroe号はそこから更にジャワ島まで航海し,胡椒を積込んで1670年にコペンハーゲンに帰港しました.
この成功で再び東インド会社の再建が本格化し,1670年11月28日,新国王ChristianV世は新しい特許をデンマーク東インド会社に発布し,以後40年間の東インド貿易の独占権を獲得しました.
これを警戒したのは再びオランダ東インド会社で,オランダの駐デンマーク公使le
Maireは,会社再建の情報を1671年1月24日付書簡で本国に報告しています.
1674年,Fortuna号が東アジアに出発します.
この船には中国,日本,トンキン国王宛のChristianV世の親書が渡されていました.
デンマークはバンタムに商館を設立し,バンタム周辺との商活動は大変活発になります.
この時期,オランダはフランスと敵対関係にあった為,その間に立っての漁父の利を得ていた訳です.
しかし,この争いが終息した1678年以降,再びデンマークは手痛い被害を被ることになりますが,1688年に再び戦争が勃発し,フランスが英国,オランダ,スペインを敵に回してから,再び中立を利用して利益を上げることになります.
因みに,Fortuna号は東アジア交易を夢見て福州まで来たのですが,此処で官憲に足留めされ,航海を差し止められ,国王の親書を手渡すことはありませんでした.
1711年,再びデンマークはスウェーデンと戦争を開始し,またも東インド経営は等閑にされてしまいました.
1729年,この北方戦争の資金が嵩んで,会社は解散を余儀なくされてしまいます.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年02月26日20:28
【質問】
逃げたpessartはどこへ?
【回答】
Pessartが逃げ出しすと,これを追ってRytterはChristianshavn号を駆って追跡を行いました.
ところが,オランダはこの動きを,いよいよデンマークが日本に向けて船を送るらしいと言う風に判断しました.
実はPessartは元々オランダ東インド会社の社員で,日本にも滞在したことがあり,デンマーク東インド会社の総督の職に就いてからも日本交易の可能性を模索していた節がありました.
小なりとは言え商館を構えている国々の動静を推し量っていたオランダから見ると,この判断は妥当なものと思われました.
よもや,総督が借金まみれで,本国から解任された挙げ句,船に乗って逃亡している身とは思わなかった訳です.
Pessartはベンガル湾を北上している様に見えました.
しかしそれは彼の策略で,実は小型船Valby号に乗り移って商館の帳簿の提出を求めるRytterから逃れようとしていた訳です.
そして,南下してトランケバー南部のナガバタムに辿り着きました.
既にRytterとの関係は最悪で,RytterはPessartの逮捕命令を出しています.
ナガバタムでPessartはポルトガルの商船を購入し,積荷としてエイの皮3万枚を用意して,Rytterが到着する前の1644年6月6日,彼はこの港を出港し,一路日本に向かいます.
因みに,エイの皮と言うのは当時刀の鞘や柄に使う為に日本で需要が高かった代物です.
けれども,マラッカ海峡を抜ける際にオランダ船に発見され,乗組員全員が捕えられ,3ヶ月拘留された後,バタヴィアで裁判に掛けられたのですが,Pessartは不当な拘禁に抗議し,釈放されることになりました.
とは言え,船と乗組員を返されたものの,エイの皮は没収,日本への航海も禁止されてしまい,一攫千金大逆転の夢は潰えてしまいました.
しかしオランダはPessartに胡椒と肉桂皮と織物を渡し,マニラで売る様に言い含めます.
実はこれには裏があり,Pessartをマニラでスペインの動静を伺うスパイとして利用しようとした訳です.
当時,オランダはスペインを目の敵にしており,近い将来,スペインの植民地を攻撃する計画を持っていました.
Pessartは監視役としてオランダ人航海士を付けられ,フィリピンに赴きますが,此処でもとことんついていない彼は,途中で船が原住民の戦士に襲われ,Pessartは矢を射られて死んでしまいました.
ついていない人はとことんついていないと言う実例ですね(ぉ.
一方,Rytterですが,彼がPessartに代わって総督になったのですが,オランダ,スペイン,ポルトガルと言った大国の間を漂う木の葉の様なもので,先ずは低姿勢に,かつ現実的な対応を取ることにします.
特にアジアの覇者と成りつつあったオランダの動向には敏感で,彼自身,オランダの機先を制して,フィリピン,中国,日本との交易を行わない様にし,当面は現状維持を優先することになりました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年02月25日22:02
【質問】
デンマーク・アジア会社とは?
【回答】
1732年,今度は東アジア会社ではなく,アジア会社が設立され,東アジア会社が持っていた独占権を受け継ぎました.
アジア会社は,トランケバーでオランダと競争関係にあった東南アジア,日本との交易は行わず,中国貿易に特化することとなり,これが功を奏します.
アジア会社は中国貿易拡大に伴い,1755年には拠点をトランケバーからカルカッタに近いセランポーに移転する事となります.
以後,年々アジアから輸入される積荷の量が増え,関税収入はそれに伴って拡大していきます.
しかしデンマークにとって中国貿易だけで十分であり,それ以上の高望みはしませんでした.
1772年にはインド会社の独占権が失効し,自由競争の時代がやって来ます.
これによりインド会社だけでなく,私有船がアジアに来航できるようになりました.
こうした貿易の自由化は,デンマーク国内の好景気を齎し,デンマークはかつてない経済成長を見せることになります.
これは1775年の米国独立戦争以後,各地で大戦争や革命が起こっていた際にも,中立を保っていた為でした.
米国の独立戦争時は中国貿易の場からフランスとオランダの船が消え,デンマークはその交易を代行しています.
フランス革命戦争の時代は,英国,フランス,オランダ,ポルトガルが参戦していましたから,インド貿易は独占状態で,1795~96年,トランケバーに入港した船は実に104隻,うちデンマーク船は69隻と我が世の春を謳歌します.
しかし,中立政策は何処かで敵を作るものでして,間接的に英国の敵を利することとなり,英国との摩擦を生じることになります.
この為,1807年には英国艦隊がコペンハーゲンを砲撃し,デンマークはNapoleon戦争にフランス側として参戦,その為,デンマーク領トランケバーとセランポーは,1801年と1808~15年の間,英国に占領されてしまいました.
こうして,デンマークの我が世の春は三度挫折することになりました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年02月26日20:28
【質問】
コイエットって誰?
【回答】
1620年ストックホルム生まれのスウェーデン人だが,1647-48
& 52-53年に,オランダ東インド会社の長崎商館長を務めた人物.
その後,台湾の次官を経て,1657年,長官となったが,鄭成功の攻撃に遭い,1662年,ゼーランディア城を明け渡した.
その責任を問われて一時バンダ島に流刑となったが,許されて1675年,オランダに帰還し,1689年に没した.
【参考ページ】
『日本歴史大事典』2(小学館,2000.10.20),p.2
【ぐんじさんぎょう】,2010/10/17 20:50
を加筆改修
【質問】
三兵戦術って何?
【回答】
陸上戦闘において兵科を歩兵・騎兵・砲兵に3区分した上で,これを一体として運用する戦術であり,テルシオ戦術の発展形.
発射速度を向上させて銃剣を装着した小銃を装備した歩兵を,六列以下の横隊を間隔を横にとって,戦闘正面に対して広く配置.
騎兵部隊と,機動的に運用可能にした野戦砲部隊は,この歩兵部隊の間隔に配され,また全体としては部隊の両翼に騎兵の主力を置き,歩兵,騎兵,砲兵が共同作戦行動を行うことが出来るようにした.
【参考ページ】
http://ww1.m78.com/topix/end%20of%20cavalry.html
http://www.f5.dion.ne.jp/~mirage/beehive.t/tactics88zo.htm
http://digital.tosyokan.pref.shizuoka.jp/aoi/4_greatbooks/4_2_02.htm
http://ameblo.jp/s-kawasemi/entry-10153763347.html
戦闘ドクトリン | AddWiki(キャッシュ)
【ぐんじさんぎょう】,2009/10/11 23:00
に加筆
これ,散兵戦術と紛らわしいときありますよね.
フナムシ in mixi,2009年10月10日 22:12
ガンダム・ガンキャノン・ガンタンクですね.
味噌グラム in mixi,2009年10月11日 00:49
つまり「三兵マルク収まる」と…
…母さん,ドサンコノスクでは,雪虫が舞い始める季節な訳で.
ぎんなんそう in mixi,2009年10月11日 02:03
三平デパートでいかに効率的に安物雑貨を漁るかの戦術.
ドンキや100均が台頭したから,もはや過去の遺産だな.
ゆずこせう in mixi,2009年10月11日 20:03
河童の三平 ゲゲゲゲ
風船殿様 in mixi,2009年10月11日 14:22
なるほど.「どーもすいません」と頭かきながら戦うわけですね.
ROCKY in mixi,2009年10月11日 22:07
三平戦術
faq07mz11.jpgへのリンク
faq07yg20.jpgへのリンク
faq99t02h.jpgへのリンク
(画像掲示板より引用)
【質問】
三兵戦術についてなのですが,基本的には「大砲で漸減し,騎兵で蹂躙し,歩兵で決着する」だという事ですが
,普通に考えると大砲同士の撃ち合いで撃ち減らされる兵力は,お互いが同数兵力である限り地形的な要素でもないと同じくらいだろうし,騎兵で蹂躙といっても,歩兵の斉射で逆に騎兵が蹂躙されそうな気がするのですが
.
その辺りをどう対処するのでしょうか?
【回答】
三兵戦術の理解そのものが間違ってると思われ.
それまで騎兵が無力化して,戦術もなしに歩兵の押し合いだったところへ,三兵科を連携させることで,騎兵の長所を復活させる運用法をひねり出したもの.
三兵戦術の時代の少銃は速射性が無いので,騎兵に突撃されたら有効射程内で2回撃てるかどうか.
全兵が横一列に並ぶわけにはいかない(それだと一列突破されたら戦列が崩壊するし,横に長い隊列は迅速に動けない上に,整列を保ちづらい)ので,たとえ撃った弾が全部当たったとしても,撃ち減らせる騎兵の数には限度がある.
更に,騎馬が全速力で突撃してくるのに,パニックになって逃げないような兵はそうそういないので,歩兵は騎兵の突撃にとても弱かった.
いわゆる「会戦」は,お互いが部隊を相手の大砲の射程外において対峙するところから始まるわけで,そうなると戦闘を開始したら先に,相手の部隊に対して動いた側が先制の砲撃を喰らうことになる.
そして,先制砲撃するにしても
*相手の歩兵や騎兵を撃つのか?
*それとも相手の砲兵を撃つのか?
という目標の選択問題が出る.
歩兵や騎兵を狙わなければ自軍の歩兵や騎兵を援護できないし,砲兵を狙わなければ,相手が自軍の歩兵や騎兵を撃ち減らしてくる.
かといって門数を2分して両方を撃っても,与える損害が中途半端になるだけ.
ということで「いかに砲兵を使うか」という問題が生じ,それを双方の指揮官がどう考えるかで戦況は違ってくる.
簡単には単純なシーソーゲームにはならない.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
三兵戦術の元を作ったマウリッツ公オラニエについて質問です.
「このころの銃兵はこんな感じ.
カウンターマーチをやってて列の数は5列から10列くらいが標準だね.
それより薄いと,射撃戦でどの列も撃てない時間が出来ることになる.
戦列が横に広くなるのはグスタフ・アドルフによって歩兵を直に支援する野砲が発達して,砲弾の性質上深さのある戦列では被害が大きくなるようになってからが大体の転換期だね」
とのことですが,
「薄いとどの列も撃てない時間が来る」
っていうのは装填が間に合わないってことですよね?
グスタフの時代になって3列ほどになった時は,その問題は銃の改良という点で解消されたんでしょうか?
【回答】
マスケットの発射速度自体は殆ど変わってない.
スウェーデン軍の場合,歩兵が3ポンドから6ポンドクラスの軽砲の緊密な支援下,
(リュンツェンの戦いでは200人当たり大体1門の軽砲があって,この図のように同盟軍とは異次元の運用をしている)
にあって近距離ではキャニスター弾や霰弾を撃つから,マスケット兵が継続的に射撃を続けなくても,敵の歩兵の戦列や騎兵の突撃を崩し易くなったなったのが大きいと思う.
銃剣が発明された後の戦列歩兵でも,"白目の見える距離"でマスケットを延々と撃ち合うと損害が大きくなる上に,将兵の士気もどんどん下がっていくから,全列撃ち終わったらそのまま銃剣突撃で決めてしまうことが多かったんだよね.
プロイセンあたりは全マスケット兵にたった10秒で再装填できるよう過酷な訓練をして,射撃戦で決めてしまう思想だったけど,七年戦争の会戦を見れば分かるように,勝っても負けても大損害を受けてる.
これがナポレオン軍になると,国民皆兵で集められた素人に射撃戦をさせても,上のようなキチガイじみたプロイセン軍や,同じく射撃戦での強さで有名だったイギリス軍に勝てるわけないから,射撃が上手く身のこなしが軽い散兵の支援の下,敵戦列の一点を突破する「攻撃縦隊」が生まれることになる.
軍事板,2016/01/28(木)
青文字:加筆改修部分
【質問】
30年戦争(1618~1648)においても,ジェームズ1世が議会と対立した理由は何でしょうか?
【回答】
フリードリヒとの姻戚関係にも関わらず,ジェームズが大陸への不介入政策を追求したため.
この不介入政策は,議会内で力の強かったプロテスタント強硬派を刺激した.
ちなみに,そもそも不介入政策を取らざるをえなかったのは,財政的余裕が無かったため.
というか,軍備拡張案が議会の抵抗にあったためでもある.
議会側の要求は,「タカ派的外交政策+緊縮財政政策」という,なかなかに両立の難しいものであった.
ちなみに次代のチャールズ1世は,スペイン(及びフランス)への出兵に失敗して前者に躓き,
結果,後者にも失敗して内乱への道を開くことになる.
【質問】
1628年と1629年のバタビア包囲について教えてください.
【回答】
オランダは,オランダ東インド会社(VOC)は1609年,東インド総督という役職を置き,翌年ジャカトラ(現在のジャカルタ)に土地を借りて商館を設けました.
第4代東インド総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーン(任1619~1623)はVOCの地歩を固めた人物で,就任早々イギリスとバンテン王国の連合軍を打ち破ってジャカトラ全域を獲得し,この町を「バタヴィア」と名付けました(1619年).これはオランダ民族の古名「バタウィ」(古代ローマ時代にオランダ方面にいたゲルマン系部族名)にちなむ命名です.
1623年にはアンボン島でオランダ人がイギリス商館員や日本人職員らを拷問にかけて処刑した,いわゆる「アンボイナ事件」が起きています.
イギリス側は猛烈に抗議したものの,結局これを機会に東南アジアからは撤退し,インド経営に総力を注ぐことになります.
こうしてインドネシアにおけるオランダの優位が次第に確立してゆくのです.
しかし,忘れてならないのは,優位とは言ってもあくまでヨーロッパ勢力同士での話であって,ジャワ島の政治勢力としてはまだ弱小だったということです.
この時ジャワで最も強大だったのは,中部・東部ジャワ全域を支配下に置いていたマタラーム王国です.
時のスルタン,アグンは西ジャワの大国バンテン征服を決意し,その前にVOCが領有する良港バタヴィアを奪っておこうと考えました.
マタラーム軍は1628年と1629年の2回,2年続けてバタヴィアを包囲攻撃しました.しかし,オランダ軍の艦砲射撃とコレラの流行の前に敗走を余儀なくされたのでした.
但しオランダ側の犠牲も大きく,再び総督として赴任していたクーンは防戦中の1629年,コレラにかかって死にました.
現地の博物館で聞いたが,クーンは打首だそうです.ジャカルタ歴史博物館に,彼の首を切断したエクゼキューターソードが展示されている.また,隣の人形博物館に彼の墓と彼の首が鎮座した場所がある. (世界史板)
【質問】
英蘭戦争ではイギリスが勝った(?)のに,イギリスが航海法を廃止した理由は,国内で自由貿易を求める声が高まったからですか?
【回答】
英国は勝ったとも負けたとも言えない.
>いずれも中途半端な結果に終わった.しかし,一連の戦争でオランダの国力は疲弊した.
↑ウィキ日本版「英蘭戦争」の項目の,この総括が無難で妥当な評価だと思う.
>国内で自由貿易を求める声が高まったから
基本的にはそういうことです.
ただし廃止が19世紀(1849年)にまでずれ込んだのには国防上の理由もありました.
つまり,17~18世紀の英国には商船海軍(merchant
navy)の伝統があり,「英国籍船の優遇→英国造船業・海運業の繁栄→非常時に軍鑑に転用出来る商船の増加」というロジックで,航海法はイギリスの国防にも寄与しているとの見方が一般的でした.
(例えば経済的自由主義者のアダム・スミスも航海法を,この理由で擁護)
ところが19世紀初頭にナポレオン戦争が終了し,また,蒸気船の時代がやってくると,「商船海軍」の発想はその歴史的意義を失います.
結果,国防上の理由付けを失った航海法は,ひたすら自由貿易主義者の猛攻を浴び,1849年,穀物法と前後して廃止されることになります.
世界史板
青文字:加筆改修部分
【質問】
ネルチンスク,キャフタと,中国史上最大の版図を描くほどの有利な条約(?)をロシアと結べたってことは,当時の清の軍事力はロシアと同等だったんでしょうか?
なんだかその後のことを考えると,清が強いなんて信じられないんですが.
【回答】
ネルチンスク条約(1689/9/7)はアムール川流域,キャフタ条約はモンゴルでの清とロシアの国境を定めたが,いずれも清の本国に極めて近い地域,首都北京からもさほど遠くないし,それ以前に中国統一前の女真族の根拠地満州とその近接地域である.
それに対してロシアは,はるかなシベリアのタイガ地帯を抜けなければ,その地域までやって来れない.
つまり,その地域までやってこれるロシア軍相手なら互角だったということ.
ちなみに,その当時のロシアは必ずしもヨーロッパで列強といわれるほどの強国でもなかったしね.
日露戦争下に置いては,ロシアがシベリア鉄道を建設していた為に,1日に数千ずつの兵士を極東に送り出せましたが,ネルチンスク,キャフタの両条約の時には,鉄道技術自体が作られてませんから,シベリアを通って大軍を東に展開することはかなり無理があった.
それに確かに当時の欧州は,圧倒的な技術躍進の流れにあったが,17世紀後半,まして欧州最先端の二歩後ろくらいを歩くロシアには,実務経験豊かな清の将兵が,中世的な戦法とはいえ通用しない訳じゃないのかもしれない.
ただネルチンスク条約の際には,高校の教科書なら通商を求めたロシアと遊牧民の越境を防ぎたい清・・・みたいなこと書いてませんかね?
【質問】
オイゲン公などは,貴族として家督を継げないので,軍人を志した,とのことですが,職業軍人は戦に出ずっぱりが当然としても,貴族は年に40日という拘束で,その期間が終わると戦闘中でも,とっとと帰ってしまう事があるそうですね.
そのような不安定な貴族に,将校のような重要な責務を任せてもよかったのでしょうか?
【回答】
従軍期間40日というのは,あくまで封建関係を結んでいる貴族の場合.
長期間の遠征が予想される場合は,傭兵を雇っていた.
で,その傭兵の主な供給源は,貴族の次男坊,三男坊だったわけだ.
そいつらに将校を任せれば,金の続く限りは問題なく働いた.
これがさらに時代が進むと,傭兵隊長に金だけ預けて,軍務一切を委ねる形態になる.
フランス生まれでオーストリアに雇われた(1683~)オイゲン公も,一種の傭兵隊長といえなくもない.
オイゲン公は莫大な報酬を手にし,夏の離宮としてベルヴェデーレ宮殿を造営.
しかし,その有り余る財産は,後継ぎが無かった為に,死後ハプスブルクに接収された.
【質問】
1700年頃の欧州(具体的にはオーストリア)の軍隊についてですが,傭兵と正規兵とではやはり,部隊内での扱いは違うのでしょうか?
例えば揉め事が起きても,平等に裁かれるか,上士,下士のような差別があったか.
【回答】
その頃のヨーロッパの軍隊は,プロイセン等の一部の国を除けば殆ど傭兵で構成される.
オーストリア軍の指揮官のオイゲンからして雇われフランス貴族.
金で募った傭兵に中心に,若干の徴兵された民兵を加えるに過ぎない.
従って,傭兵と「正規兵」を区別するのは適当ではない.
士官以上は原則的に貴族だが,オイゲンもそうだが,他国の軍隊に雇われるのはごく普通だった.
渡り歩くのも珍しくなく,オイゲンのように1つの国に仕え続けるほうが珍しいかもしれない.
兵は,金目当ての人間,士官が連れてきた領地の住民,誘拐されてきた人間,騙されて入った人間,売り飛ばされた人間,犯罪者など.
兵隊の大半がならず者で,いざ戦闘になると逃げ出してしまうことが多かったのは,この時代も例外ではない.
足りなくなったら,募兵や誘拐などで埋める.
傭兵と民兵は通常別の部隊になるし,仮に同じ部隊になっても上下は階級.
まあ実際には出身やら身分やらで様々な差別があっただろうが.
余談だが,帝政期ローマのいわゆる「ゲルマン傭兵」について言えば,実はゲルマン人出身なだけでローマ正規兵の身分にある者が多かった.
もっとも大なり小なり差別はあったらしいが.
【質問】
コンビーフって,戦争がきっかけで開発されたって,マジですか?
【回答】
コンビーフ(塩漬の牛肉)は保存食品として古くからあるもので,軍用の糧食として採用されたことはあるが,そのために開発されたというわけではない.
http://www.foodtimeline.org/foodmeats.html#cornedbeef
コンビーフ(Corned beef)という言葉が辞書に載るのは,17世紀前半.
あえて軍事とのかかわりを探すと,ナポレオン戦争期に,イギリス陸軍向けにアイルランドで大量に生産されてたという話がある.
でも,その前から,広く食べられてた.
缶詰自体は一般に,ナポレオン戦争のときの保存食に起源があるとはよく言われる.
でも,コンビーフ缶に限ると,起源は不明.
ボーア戦争のときにイギリス軍の行動食として用いられて好評だったという話はある.
今ある台形の缶の登場は19世紀後半のアメリカという説がある.
じゃあ国産のコンビーフ缶の発祥はというと,これは戦後になってから.
なので,これも無関係.
初期は物資不足で陶器製容器なんかが研究された.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
Zentaの戦いとは?
【回答】
ツェンタ(Zenta)は,現在ユーゴ共和国のセンタ(Senta)だそうです.
1697年9月11日(!)ハブスブルグ王国で最も優れた軍司令官,サヴォイ公ユーチェンヌがこの場所でオスマン・トルコのサルタン,ムスタファ2世の大軍を完膚なきまでに打ち破った戦場とのことです.
のちの1699年1月26日のカルロヴィッツ条約でハンガリーをオーストリアに割譲し,中欧南東部に対するトルコの脅威を取り除いた戦いだそうです.
◆チムール
【質問】
モンゴル帝国滅亡後の中央アジアについて教えられたし.
【回答】
中央アジアにモンゴルによる国が打ち立てられた後,それを滅ぼしたのはティムールでした.
彼の打ち立てた広大なティムール帝国は,彼の死後,5年間に渡って混乱しますが,それも長男シャーリフ・ミルザによって平定されます.
この混乱の中で,この広大な帝国を1人で統治することの愚を悟ったシャールフは,首都ヘラートとホラーサーン,イランを彼自身が統治し,サマルカンドを首都とするマー・ワラー・アンナフルを息子のミルザ・ウルグベクが統治する分割統治を導入しました.
しかし,ウルグ・ウルスと呼ばれた息子の統治地域は,1428年に実力者のバラクハンが暗殺されてしまうと不安定に陥り,15世紀半ばに新たにカザン・ハン国,クリミア・ハン国,アストラ・ハン国が形成されました.
一方,ティムール帝国は,フセイン・バイカラ・ミルザの下で最後の光芒を放った後,崩壊していきます.
16世紀初頭,ティムール帝国に代って中央アジアの支配者となったのが,シャイバーニー国で,その最初の首都はサマルカンドに置かれましたが,16世紀後半にその首都はブハラに移され,ブハラ・ハン国へと国名を変えます.
既に当時,新大陸やアフリカ,インド亜大陸との海洋貿易が進展して,昔ながらのシルクロードを経由した陸の貿易は競争に敗れつつありました.
1557年に王位に就いたアブドゥッラー・ハンは,ブハラを交易都市として発展させるべく,東トルキスタンからカスピ海の間に隊商宿や橋が作られ,マー・ワラー・アンナフルとホラーサーンに数カ所の貯水池"Xon
bandi"(王の湖)と言うものを掘って,海上貿易との競争に打ち勝とうとしました.
とは言え,当時でも一回の隊商が運ぶ荷物は,船舶1艘が運ぶ荷物の量に到底及ばず,以後のハンはこうした施設の維持管理をしなかったことから,この地域はゆっくりと発展から取り残されていくことになります.
1512年にはブハラ・ハン国からヒヴァ・ハン国が,1710年には更にコーカンド・ハン国が分裂して行き,ティムールが築いた版図はズタズタに切り裂かれることになりました.
1599年,ブハラ・ハン国のシャイバーニー王朝が断絶し,王位は娘婿のジャニーベク(アシュタル・ハン)に移り,その王朝は1747年まで続くことになります.
ジャニーベク朝時代のブハラとサマルカンドでは,幾つかの建物が建造され,サマルカンドの有名なウルグベク・メドルセやカルシーのシェルダルとティラカリ・メデルセと言った学校,サマルカンドのレギスタン広場はこの頃に造られました.
1747年になるとブハラ・ハン国はイランのトルコ系王朝の王,ナーディル・シャー・アフシャールに占領され,それを機に,ジャニーベク朝は断絶してしまいます.
この地域はその後,1785年にマンギット朝に移り,復活しました.
ただ,ブハラ・ハン国の「ハン」位はマンギット朝にはそれを呼称する権利が無く,名乗ることが出来なくなり,彼らはアミールと言う称号で呼ばれる様になり,国名もブハラ・アミール国へと変わります.
マンギット朝の創始者でアミールであるシャームラードの時代,その支配はマー・ワラー・アンナフル全域とAfghanistan北部に拡がり,彼の経済政策の成功により,経済状態は良くなっていきます.
しかし,1800年に後を継いだアミールであるハイダル,1826年にハイダルの後を継いだナスルーラの時代に起きたヒヴァとコーカンドの両国と大小の戦争を繰返し,その国力を落としていきます.
1860年にナスルーラからアミールを継いだムザファル,1885年にムザファルの後を継いだサイード・アムドラハドの時代になると,ロシアの影響が強まり,一方でインドを手に入れ,Afghanistanに食指を動かし始めた英国との間で綱引きが繰返されます.
最後のアミール,サイード・アリームハンは1910年に王位に就きます.
しかし,帝政ロシアが1917年に革命で倒れた後,1920年9月2日,ブハラで革命が起き,更に赤軍の侵入の結果,ブハラ・アミール国は呆気なく崩壊し,それに代ってブハラ人民ソヴェト共和国が樹立されることになります.
ところで,1512年,シャイバーニー王朝はホラズムに於いてウズベク族が受継ぎ,その首都を現在はトルクメニスタンに属するクフナ・ウルゲンチに置きます.
しかし,1598年,アムダリヤ川は流れが変わり,ウルゲンチから150km北のアラル海に注ぎ始めました.
そうなると,ウルゲンチは干上がり,都市を維持する事が出来ません.
こうして,国の首都をアムダリヤ川の近くのヒヴァの町に移すことになり,その国の名称もこの都市に因んでヒヴァ・ハン国と名前を変えます.
こちらの方は,1695年までシャイバーニー朝が続き,1695年から1740年までチンギス・ハーンの末裔政権,1740年から1840年までトウガティムリード朝,1804年から崩壊する1919年までコンギラト朝と続き,ハーンの末裔が続いたので,アミールでは無く,最後までヒヴァ・ハン国となっていました.
この間,1603~23年のアラブ・ムハンマド・ハン,1715~1728年にかけてのシェルゴジハン,1770~1804年のアブル・ガーズィー・バホーディルハン,1874~1910年のムハンマド・ラヒーム・フェルツハンの時代は,文化面が発展し,芸術文化が花開き,ヒヴァには宮殿,イスラーム寺院,霊廟などが数多く造られています.
この地域にもロシアの魔手が伸びていました.
1717年,ロシアはヒヴァ・ハン国を服属させようと,ベルコビッチ・チェルカスキーを司令官とする部隊を送りましたが,ヒヴァ側はロシア軍を完全に打ち破り,全滅させます.
ロシア帝国はその復仇を誓い,1874年にヒヴァを占領して,ムハンマド・ラヒームハン・フィルーズに屈辱的な講和条約に署名させることにより,復讐の念を達成しました.
因みに,此処でも帝政ロシアの崩壊後,1924年にボルシェビキによる革命が起き,ヒヴァ・ハン国は崩壊しました.
ブハラ・ハン国は17世紀末に権力争いで国力が低下しました.
これを嫌った人々は,ウズベク族のシャー・ルフ・ベイを立てて,分離独立し,新たにコーカンド・ハン国を興します.
この新しいハン国は首都にフェルガナ盆地の中央に位置するコーカンドを選び,初期にはナマンガン,コーカンド,アンディジャン,マルギランそしてその周辺部が国の範囲となっていました.
シャー・ルフ・ベイの息子,アブドゥラヒーム・ハンの時代になるとホジャンドとアンディジャンを手に入れ,更にジッダフ,カッターコルガンとサマルカンドを攻撃します.
次のアブドカリーム・ハンの時代には,オシュ・ハン国を編入し,18世紀末から19世紀初頭のノルボタ・ベイとアリームベクの時代には,コーカンド・ハン国は最大の版図を誇り,この時代にはタシュケントとシルダリア川沿いのシムケント,ハズラットの町を併合しました.
1809年から22年に王位にあったアミール・ウマル・ハンの時代は漸く政治的に安定し,経済的,文化的な生活は向上します.
アミール・ウマル・ハンとその妻のナディラベギームは有名な詩人であり,国内にはコーカンド文学サロンが形成されています.
とは言え,ロシアの脅威は此処でも強まり,アミール・ウマル・ハンは現在のカザフスタンのキジルオルダにアク寺院城砦を築いています.
1822年に王位を継いだ息子のムハンマド・アリ・ハンは1842年にカシュガルとタジクの山岳地帯まで版図を広げようと遠征を行い,勝利を収めます.
しかし,ブハラのアミール・ナスルランの攻撃を受けて,コーカンド・ハン国の王位を失い,更に自身も敗死してしまいました.
以後,王位を巡って政治的混乱が続き,その不安定な状況を利用したロシアは,1868年にこの地を占領し,1876年になると更に併合して自国領土とした訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/11/27 23:28
【質問】
チムールは何故,中国に遠征したのか?
【回答】
・元朝を亡ぼした明を敵だと思っていたこと
・チムールからの贈り物に対する中国の返礼が些少だったこと
・中国国内のムスリムが虐殺されるなど不幸な状態に置かれていたこと
が動機になったようだ.
以下引用.
チムールはチンギス・カンを尊敬し,その偉業を復興し,強大な回教帝国を建設することを理想としていた.
彼は自らチンギス・カンの後裔であると称していたが,これは甚だ怪しいとされている.モンゴルの血を持っていたとしても,それは僅かで,トルコ系の血のほうがずっと多かったに違いない.
〔略〕
こうしたチムールにとって,中国への侵冦は当然為らねばならぬことであった.元朝を亡ぼした明国は,チムールが許しておくことの出来ない仇敵であった.明朝を亡ぼして,再びモンゴルの故地を自分の手で快復しなければならなかったのである.
〔略〕
チムールは沢山の物を中国に送っているが,中国からの返礼は些少な物であったようである.
このことに対しても,チムールは釈然としていなかったに違いない.
中国からの最初の使者が来た時には,チムールは既に中国に烈しい敵意を持っていたのである.
これに加えて,元朝が追放され,それに替わって明朝が成立した後,中国国内のイスラム教徒達は決して幸福ではなかった.1399年には,中国国内のイスラム教徒10万人は殺されている.
チムールに元朝復興の意思があったかどうかは分からぬが,チムールはとにかく中国へ向けて兵を動かすことになったのである.
1404年のことである.
(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.110-112)
チムール
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(画像掲示板より引用)
【質問】
チムールの征明作戦の兵力は?
【回答】
遠征軍20万.
他に国境警備隊4万など.
以下引用.
チムールの最後の遠征について,バルトリドは次のように記している.
――チムールは20万の軍勢を率いて,1404年12月をアクスラトで過ごし,そこから12月25日オトラルへ向かい,1月14日にそこに到着した.
フェルガナに軍勢が集中させられたことについても,アシュパルおよびイシククル湖にいた軍勢の数についても記述はない.
(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.113)
これに先だって,1397年から翌98年の冬にかけて,チムールはその後継者ムハメット・スルタンに対し,アシュパル(現在のシル・ダリヤ州とセミレチェ州との境界を流れている川)河畔に国境要塞を建設することを命じ,4万の軍勢が与えられている.
その後,国境の要塞は,更に東方のイシククル湖岸にも作られた.
いずれも征明作戦へ備えての措置であったのである.
(同)
【質問】
チムールの征明作戦の結末は?
【回答】
遠征途中でチムールが死去した.
――1404年から5年にかけての冬は,トルキスタンで未だ曾てなかったほどの寒さであった.12月から2月にかけて,アム・ダリヤとシル・ダリヤは全て凍結した.
チムールは老衰にも拘らず,この遠征が早急に終わることを期待していなかった.
チムールはオトラルで,金帳汗国から逃げたトフタミシュ・カンの使者を謁見し,中国との戦争が終わり次第,金帳汗国を攻撃し,トフタミシュを汗位に就けることを約束した.
チムールの直接の死因は,体を温めようとして酒を飲み過ぎたせいと考えられている.チムールに死が見舞ったのは1405年2月18日であった.
大遠征を計画し,兵団と共にそこを目差す途中において病に倒れたのは,尊敬していたチンギス・カンの場合と同じであった.そして,その棺が喪を秘めて都へ還ったのも,チンギス・カンの場合と同じだった.
ただ異なるところは,チンギス・カンの亡きあと,モンゴル帝国は隆盛の一途を辿ったが,その点チムール帝国は後継者に恵まれず,不幸であった.
(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.113-114)
【質問】
1449年9月のサマルカンド郊外の戦いとは?
【回答】
チムールの孫,ウルグ・ベクと,ウルグ・ベクの長子アブド・アル・リャチフとの戦い.
ウルグ・ベクは捕らえられ,追放された後,暗殺されたという.
以下引用.
父親のシャー・ルフの死後,また内争が起こり,ウルグ・ベクとその長子アブド・アル・リャチフは協力して,その困難を切抜けるが,漸く国内が安定するようになると,今度は父と子が合い争う因果な運命に見舞われねばならなかった.
そして息子が父親から決定的に離反し,遂に血で血を洗うようなことになったのは1448年のことである.
ウルグ・ベクの如き非凡な教養人の周囲に,どのようなわけでこのようなことが起こったか,理解に苦しむところであるが,詳しくは史書は伝えていない.
1449年9月,父と子の戦闘はサマルカンド郊外で行われ,ウルグ・ベクの軍は完全に敗北を喫した.
ウルグ・ベクは,自ら任命したサマルカンド司令官の許に走ったが,城門は開かれなかった.
やむなく北方のシャールヒー城に向かったが,ここでもまた城門は開かれなかった.
そしてそこでウルグ・ベクは捉えられ,息子のところに送られた.
ウルグ・ベクは一切を息子に取り上げられ,メッカ巡礼に旅立つことを命じられた.
その命令に従うことによって,不幸な父親は生き延びうる希望を持ったかもしれなかったが,その最後の希望さえも許すところとならなかった.
ウルグ・ベクが巡礼のために,ただ一人の供を連れてサマルカンドを出発したのは夕刻であった.
何ほども行かない内に騎馬兵が追いかけてきて,沿道の準備ができていないので建物に入るように言った.
ウルグ・ベクはそのようにした.彼は,指示された建物の中に入っていった.
彼はこの時,死期の迫っているのに気付いたに違いない.
間もなく部屋に数人の刺客が入ってきた.
ウルグ・ベクは縛され,庭に連出され,斬られた.
(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.118-119)
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