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◆◆◆◆姫路藩 Himedzsi han
<◆◆◆幕府/佐幕派
<◆◆開国以降
<◆明治維新 目次
戦史FAQ目次


 【質問】
 姫路酒井家は,なぜ佐幕派となったのか?

 【回答】
 西国の抑えとして,家康に封ぜられたのは,家康の婿である池田輝政.
 池田家は姫路と言う要地を与えられ,後に次男忠継が備前,三男忠雄が淡路を得たものの,両者とも幼少だった為,池田家としてはこれらの封地を併せて87万1千余石の大邦を統治することになりました.
 その後,輝正が没すると,利隆が相続したのは宍粟,佐用,赤穂の3郡を除く42万石となり,忠継が備前一円と西播磨の3郡併せて38万石,忠雄は淡路6万3,600石を領することになります.
 これも,利隆が死去すると,光政は幼少を理由に因州鳥取に移封されてしまいました.

 次いで,この地に入ったのが桑名から来た本多忠政で,加古,飾東,飾西,印南,多可,加東,揖東,揖西の8郡中15万石で封ぜられましたが,忠刻には秀忠の長女千姫の婿である為に播磨から10万石が別に与えられ,本多家は都合25万石で統治しています.
 しかし,これも短期間で忠刻が没してしまうと,10万石は弟と甥に分与され,その地も姫路とは別になったので,本多家は15万石に戻ってしまいました.
 その後の本多家も,幼少の当主を頂いた為,大和郡山に移封されてしまいます.

 以後,奥平忠明が18万石で入封しますが,9年後に出羽山形に移封,越前家の松平直基が山形から15万石で入封したものの,江戸で没してしまい,嫡子直矩が越後村上に移封.
 翌年,榊原忠次が陸奥白河より15万石で入封しますが,嫡子政倫が16年後に越後村上に移封.
 再び,越前家の松平直矩が村上から15万石で再封されますが,15年で豊後日田に移封.
 今度は,前々回の当主であった榊原政倫の嫡子,政邦が村上から15万石で入封し,定着するかに見えましたが,37年後に3代後の榊原政岑が,遊女10代高尾の身請け事件で蟄居となり,越後高田に移封.
 又々,越前家の松平直矩の嫡子,明矩が陸奥白河から15万石で移封されますが,同年に没してしまい,嫡子朝矩幼少に付き,上野前橋に移封されてしまいます.

 これだけころころころころと大名家が変わると,西国の抑えもあったものではありませんが,西国の抑えとしては他に明石があったので,この頃には余り幕閣も重視しなかったのでしょう.
 それでも,池田家に始まって,家康の外孫である奥平家,家門の越前家,徳川四天王の本多家や榊原家,酒井家とそれなりに重臣格の当主が封ぜられている訳ですが.

 そして,1749年にやっと上野前橋から酒井忠恭が15万石で入封して,やっと姫路も落ち着きました.
 以後,10代120年間に亘って,酒井家が姫路一円を統治した訳です.
 酒井家は,徳川家とは異母兄弟の関係であり,将軍の代替わりには名代として朝廷への使者を務めた家柄であり,譜代筆頭格としての権威を誇っていました.

 そんな酒井家も,度重なる転封で財政は火の車,19世紀初頭には73万両と言う大きな借財を背負っていました.
 しかし,そんな中,家老の河合隼之助道臣(後に河合寸翁と号す)が現れて,藩政改革に着手します.
 寸翁の藩政改革は,当主からの全権委任の下,姫路酒井家の特産物である木綿を江戸で直売する事で,利益を上げる道を拓き,就任数年で目覚ましい成果を上げ,財政再建に成功します.
 木綿は専売制でしたが,他の特産物の開発に力を入れて,財政の基礎を固めた上で,産物会所や切手会所を設立して,その特産物の流通と信用経済のシステムを構築し,幕府との血縁を強化する上で,家斉の娘である喜代姫と当主の嫡子忠学の婚姻を実現させ,更に三河田原三宅家を財政援助して,当主の別の子である康直を田原三宅家の養子に入れて,当主の座につけることに成功しました.
 田原の援助は謂わば,属国を作った様なものでしょうか.
 更に,朝廷との絆を深める為に,娘を九条家に嫁入りさせる事もしています.
 また,当主の弟で江戸琳派を代表する画家である酒井抱一の援助も,この財政再建に支えられて行われました.
 因みに酒井抱一も,姫路酒井家を裏から支え,その画業で財政再建に協力したと言います.

 こうした改革の集大成が,当主の許可を得て寸翁が開いた私塾仁寿山校の設立です.
 此処には代表的な幕末の学者が集いました.
 特に代表的なのが頼山陽であり,彼に会いに森田節斎や大国隆正,松本奎堂と言った後に尊王攘夷運動で名を成す人物達が続々とこの地に詰めかけてきました.
 元々,姫路酒井家には藩校として好古堂と言うのがありましたが,こちらはよりリベラルで,自由な学問的風土を育てていた訳です.

 となると,姫路酒井家は,幕末にはさぞかし尊皇攘夷で大活躍したのだろうと思う訳ですが….
 1860年に第7代当主となった酒井忠績の襲封が,姫路酒井家を尊皇攘夷から佐幕派にひっくり返してしまいました.
 忠績は姫路酒井家の直系では無く,支族である酒井安房守忠誨の長男です.
 この酒井安房守家の先祖は,下馬将軍と呼ばれた酒井忠清の弟忠能で,5,000石を領する大身の旗本であり,百人組の頭から甲州勤番を務めていた人物でした.
 謂わば,幕府でも冷や飯食いの人だったのですが,何の因果か,先代当主が嫡子を得ずに卒去したことから,34歳にして突然15万石を相続して姫路酒井家の当主になってしまいました.
 旗本とは言え,幕臣ですから当然バリバリの佐幕派な訳です.

 その後,尊王攘夷運動が高まり,その運動が反幕府色を強めてくると,尊攘運動に共鳴する姫路家中の士による過激な行動に不安を抱いた藩の上層部,特に家老である高須隼人広正は,当主の意を汲み,尊攘派の弾圧に乗り出しました.
 これが,1864年の「甲子の獄」で,8名の藩士が死罪となり,合わせて70名が連座する大粛清となりました.
 以後,尊攘派は影を潜め,佐幕派が藩論を掌握します.

 ところが時代は最早幕府では無く,朝廷の時代になりつつあり,徳川慶喜による大政奉還,次いで王政復古の大号令となって,1868年には鳥羽伏見の戦で幕府軍が大敗し,将軍家は大坂から江戸に向けて落ち延びていく始末.

 当然,尊攘派を弾圧した姫路酒井家は,佐幕藩に属し,尊攘派に属した備前池田家の藩兵が,姫路に向けて進軍して来る事態に陥ったのです.
 しかも当主は江戸におり,江戸藩邸の方は佐幕で凝り固まっていました.
 一方,「甲子の獄」で弾圧されてしまったとは言えども,国許では時代を見据えた尊攘派が,息を吹き返しつつあり,遂には備前池田家の藩兵に対し,姫路城の無血開城を行ったのでした.
 謂わば,国許にいた人々は敗者となってしまったのです.

 てな訳で,暫く姫路の幕末話を始めてみる.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/05/07 23:43
青文字:加筆改修部分

 さて,1853年以降,日本は尊攘派と佐幕派の対立軸を中心に推移していきます.
 何れの大名家も大なり小なり,この対立はありましたが,これが一番酷かったのが水戸徳川家だったりします.
 これは,姫路酒井家も例外ではありませんでした.

 姫路では前述の様に,河合道臣の開いた仁寿山校が頼山陽や大国隆正等を通じて尊皇思想が広まっていきます.
 幕末になると,河合道臣の養子河合良翰や菅野狷介,秋元正一郎,河合惣兵衛などを中心に姫路の藩論は尊攘派が占めていました.
 こんな時期に,酒井忠績が当主に就任します.

 丁度この頃の1862年4月,島津久光が薩摩藩兵1,000名を率い,攘夷実行を願い出る為に上洛してきました.
 この一行は,4月3日に室津に到着し,4日,5日と停泊した後,6日には姫路城下に宿泊して,翌日京へと向かって行きました.
 これは姫路の尊攘派が台頭するのに,一方ならぬ影響を与えました.
 この事件の後,京都所司代の酒井忠義は責任を取らされて失脚し,酒井忠績が代って京都所司代代理を勤める事になります.
 この頃の京都は,4月23日に寺田屋事件があったりするなど,尊王攘夷運動が最も激しく展開した頃だったのですが,京都の警護に当たったのは,河合惣兵衛宗元を中心とする姫路の尊攘派の志士だった訳です.
 この様に,京都の警護の任に就いていた姫路家中の尊攘派の志士たちは,警護の傍ら,諸国の志士たちと交わり,行動を共にしていた訳です.

 ところが,当主である忠績は彼らの台頭を苦々しく思っていましたし,国許でも佐幕派の筆頭家老である高須隼人広正は,その意を受けて彼らを排除する機会を狙っていたのです.

 1863年5月10日,攘夷は長州で決行され,英仏露蘭の各船が砲撃され,7月には薩摩で英国艦隊との戦闘が繰り広げられています.
 結果は列強の圧倒的な武力を,身を以て知る機会となりました.

 この結果,8月18日には七卿の都落ちで知られる「京の政変」が起き,尊王攘夷派の勢力が大きく後退していきました.
 この頃,忠績は江戸に於て将軍を補佐する老中上座にあり,京の政変の後は,幕府の陸海軍務掛及び会計掛ともう将軍代理と言うべき地位に上り詰めました.
 それは逆に尊攘派が国許で活動し過ぎ,騒ぎを起こすとその地位が危うくなる事を意味します.

 そして,1864年に事件が起きました.
 2月,姫路藩士の河合伝十郎宗貞と江坂栄次郎行正の脱藩を契機として,筆頭家老高須隼人は,尊攘派藩士を厳しく探索し投獄しました.
 これが「甲子の獄」の始まりです.
 12月26日に処罰が下され,即日刑が執行されました.
 河合惣兵衛宗元以下6名は切腹,斬首2名,永牢6名,他56名の勤王は藩士が連座する大粛清でした.
 こうして,高須隼人を始めとする佐幕派は,権力の掌握に成功しました.

 しかしこの事で高須隼人は,尊攘派の恨みを一身に受けることになります.
 後に,大政奉還から数日後,高須隼人は病死してしまうのですが,それを獄中で聞いた尊攘派の志士近藤啓蔵は次の様な歌を残しています.

――――――
ながらへばいきはぎさかはぎ
ここだくの
罪得ん人の死せる幸はも
――――――

 もし,高須隼人が生き残っていたとすれば,姫路城開城時には真っ先に死罪の対象となっていた事でしょう.
 同じ佐幕藩でも高松松平家の場合,そうした弾圧の指揮を執った家老小夫兵庫が切腹を命じられていたのからしても,死を免れる事が出来なかったと思われます.
 幸い,その責を負うべき人物は,前年の暮れに病死していたので,その責を負うことがありませんでしたが.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/05/08 22:46


 【質問】
 佐幕派としての姫路酒井家の動きは?

 【回答】
 時系列を少し戻して,1867年10月14日,徳川慶喜は朝廷に大政奉還を願い出て,徳川幕府は此処に崩壊します.
 以後,3つの勢力が主導権を握ろうと覇を競います.
 1つ目は公議政体派,2つ目は武力討幕派,3つ目は旧幕府方勢力です.

 公議政体派は越前藩主の松平慶永,尾張藩主の徳川慶勝の親藩2藩と,大政奉還で主導的役割を果たした土佐藩主山内豊信等を中心に,穏健な政権委譲を目指すグループで,諸大名の支持も多く,この勢力は政局の中心を占めていました.
 政権構想としては,将軍の大政奉還後,有力大名からなる諸藩連合を組織し,その主宰者として徳川慶喜を担ぎ出そうと言う構想を練っていました.
 これがあったからこそ,徳川慶喜は大政奉還を決意したと言われます.
 構想に依れば,現在の立法府に当たるものが議政院で,これは上院と下院に分かれ,上院は万石以上の大名で構成され,下院は諸般の代表者1名が参画して公議を形成する仕組みです.
 行政府に当たるものは公府で,全国事務府(大目付の職掌,全国出納,人事,訴訟),外国事務府(海外との交渉),国益事務府(交通,通信,鉱山,貨幣などを所管),度支事務府(交付の出納,算勘),寺社事務府(寺社奉行の職掌),学政事務府(文部行政を所管)の6つに分けられ,行政を司ります.
 両機関を統一して権力を行使するのが大君で,天皇は君臨すれども統治せずと言う事で,政権の外になっています.
 この大君に徳川慶喜が擬されていた訳です.

 武力討幕派は当然のことながら,薩摩と長州を中心とする勢力で,10月13日,14日付で既に両藩には討幕の密勅が降りていました.
 しかし,大政奉還は武力討幕派の裏をかき,討幕の正当性を失わせるものでした.
 肩透かしを食った形の両藩は,一旦藩主上洛を促すとの理由で国許に引上げますが,体勢を立て直して11月18日に,薩長及び安芸藩も加わっての三藩同盟が前進を始め,武力討幕に向けて一歩進むことになります.

 旧幕府方は,大政奉還に唖然としていたのが現状で,一歩出遅れました.
 11月5日,紀州藩士榊原耿之助,竹内孫助が江戸の紀州藩邸に親藩,譜代その他諸藩士を集め,幕臣としての大義名分を示すイデオロギーを披瀝します.

 彼らに依れば,慶喜の政権返上を「大公至誠の英図」から出たと称えながら,この大変革を只座視傍観することになってしまったことを「悲憤痛?此の事に候」と述べ,そしてこの上は利害得失を顧みず徳川氏との君臣の大義を明らかにし,300年に亘る「御高恩」に報いる所存である,と封建道徳の原理である忠臣の義を説きました.
 「そもそも」,と幕府開闢以来の基から説き起こし,これまで比類無き安定した政治が行われていたのは,徳川家の功徳によるものであるとして,ところが近年になって「草莽不逞の徒」の姦説により徳川家が孤立せしめられ,討幕の企てに至り,今日の状況に立ち至ったと分析しています.
 朝廷より上洛の命令が下され,諸大名へ,今後は「王臣と相心得候」と言う沙汰も出ているが,もしその様になれば即日君臣の大義が絶たれ,どの様な異変が生じるか計り知れず,寒心の至りである.
 更に,幕府から受けた君臣の恩義や情実も薄れてきており,大義を忘れ徳川家の大難に臨み,不忠不義に陥ることも起こりかねない,と述べています.
 そして俄に,これまでの家臣であった諸侯と肩を並べ,一大名の徳川家になる事は,実に「冠履顛倒」の出来事であり,今こそ幕府との君臣の大義を明らかにし,「忘恩の王臣」となるより「全義の陪臣」となり,幕府の再興に努めるならば,世運挽回を期することが出来るであろうとしています.

 要約すれば,将軍家と大名が対等の立場になるのは,封建的集住関係に基づく君臣道徳に立脚すると僭越の極みであり,徳川家から受けた恩義を忘れる行為であるから,天皇の臣となる王臣となって,徳川家の恩義を忘れるより,幕府の再興に力を尽して,全義の陪臣となろうと檄を飛ばしていた訳で,封建原理主義とでも言うべき思想となっています.
 よく考えれば,この思想の方が実は異常で,戦国時代まではこんな思想は考えられなかった訳ですが.

 これに共鳴したのが,姫路前藩主の酒井忠績(隠居して閑亭と号す)と当主の忠惇を始めとする,江戸詰の藩士でした.
 11月15日,江戸詰の親藩・譜代大名・諸藩主は,連名して朝廷へ官位返上の嘆願書を提出しました.
 姫路藩主の酒井忠惇も,溜の間詰格の6名の藩主と連署して,嘆願書の提出を行ったのです.

 この頃,朝廷は突然の権力空白状態に慌て,全く政権を運営する施策を持っていませんでした.
 そこで10月21日,朝廷は10万石以上の大名に上洛を促す召集令を発し,公議合体派の有力大名の上洛を待って,行き詰まった政局を打開する方針に出ます.
 その期限は11月末までとしますが,218藩の諸侯のうち,上京した諸侯は僅かに17,病気他の理由で上京しなかった諸侯が70,老臣の代理入京若しくは嘆願書を提出したもの39,朝招を辞退したもの97で,この期間に逆に帰藩した者が5と,全然芳しくなく,公議合体派の弱点を露呈した形になりました.
 辞退した97の藩は,徳川氏に対する君臣関係を強調して朝廷主導の政権に明らかな不信を示しており,他の諸藩は日和見をしていました.

 兎に角,10月27日には尾張藩主の徳川月堂,11月8日には越前藩主の松平春岳が入京しますが,何れも藩兵は率いておらず,平和裏に公議政体構想の実現を期待する上洛でした.
 また,山内容堂は,藩政内部の事情で未だに上洛が果たせていません.
 結局,彼が上洛したのは12月8日になってからです.

 一方,討幕派は11月23日に薩摩藩主島津忠義が,西郷隆盛,岩下方平等を随え,藩兵3,000を率いて上洛し,29日に長州藩兵800が摂津に上陸し,続々と増強されていきました.

 こうして,武力討幕派の軍事的優勢の下で政局が動き,12月9日に,王政復古のクーデターが決行され,正午には三職の任命があり,夕刻に三職会議が開催されました.
 この結果,徳川慶喜に辞官・納地を命ずると共に,京都守護職の会津藩主松平容保,京都所司代の桑名藩主松平定敬に,辞職と帰国を命じる決定が為されています.
 当然,二条城に依拠する幕府方は激高し,一触即発となったのですが,慶喜自ら12日に大坂に退いた為,武力衝突の危機は取り敢ず遠のきました.

 では,この間,姫路藩は何をしていたのか,と言えば,殆ど動けなかったのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/05/08 22:46
青文字:加筆改修部分

 さて,時は幕末から明治に至る激動の時代.
 姫路藩は,先の藩主と当代の藩主が揃って江戸にいて,幕府に殉じる意思を固めていたのですが,国許で佐幕派の筆頭だった家老が病死してしまい,この肝心な時に国許の政治を見る人が誰もいませんでした.
 尊攘派と言うか改革派は,座敷牢に入れられ,弾圧されていたので,表に出ることが出来ません.

 そんな大政奉還が行われた後の11月2日,姫路藩に江戸幕府から人数差出しの命令が来ます.
 姫路藩からは江戸城大手前に,警護の人数を出せと言う命令です.
 この時幕府は,非常事態の発生にそなえて江戸に詰めていた,72の諸大名に江戸城の警護を命じました.

 この時の命令では,
坂下門前に酒井左衛門尉,
外桜田門に井伊掃部頭,松平中務大輔,戸沢中務大輔,西尾隠岐守,松平伊豆守,戸田淡路守,
半蔵門に酒井若狭守,水野真次郎,三宅備後守,前田丹後守,永井信濃守,
田安御門に真田信濃守,久世出雲守,阿部駿河守,
そして,本丸大手前に酒井雅楽頭つまり,姫路藩が担当となっています.
 因みに姫路藩の警備場所は,本丸大手前で,姫路藩江戸上屋敷のあった場所でした.

 12月,既に薩摩は藩兵3,000を率いて上洛し,長州も西宮に更に兵を増強して入京の機会を窺っていました.
 これに対抗する為に,徳川慶喜は帝鑑間,雁間,菊間詰の譜代諸侯に上京を督促する命令を5日出しました.
 譜代筆頭格になっていた姫路藩主酒井忠惇は,この命令に応えて江戸を進発しました.
 しかし,急ぎに急いで18日に大津に来たところで,徳川慶喜の大坂退転を知り,京には入らず,大坂城に向かいました.
 一方,15日に大坂にいた酒井家の留守居役に対し,大坂城守備の為に奈良街道河堀口の警備が命じられ,藩兵200余名を配置して警護に就いています.

 既に,王政復古のクーデターが実施された後に,姫路藩が先ず取った行動がこれでした.
 因みに,国許に対してはこのクーデターの知らせは,翌日には伝わっていたものと考えられ,11日までには藩内に触れを出して非常事態の発生に備えています.
 記録では,何かあった場合,先ず総社にて早鐘を突き家中に知らせ,諸寺社がこれを受け継いで,鐘を突き立てて藩内全域に知らせる手はずが整えられ,また城中でも大手門,中之門,車門,総社門,内京口門,野里門,清水門の7箇所を非常集合場所に指定して,緊急事態なので服装や武器は「勝手次第」として速やかな集合を命じています.
 この時の総兵力は不明ですが,1854年のロシア船来航の時に,松平孫三郎に率いられて500名の藩兵が大坂に出動しているので,それくらいの兵力は集まっていたと考えられます.
 つまり,国許では臨戦態勢を取っていた訳です.

 一方で12日に,徳川慶喜が京都を引き退く際,京都藩邸から慶喜警護の人数を独自の判断で配備しました.
 これが慶喜にとっては望外の喜びだったらしく,慶喜は忠惇に対して直々にお褒めの言葉を下し,晦日には加判の上,老中上座に任命したのです.
 酒井家にとっては非常に光栄の至りだったかも知れませんが,その後の歴史を紐解けば,姫路藩にとってはこれが却って重荷になったのでした.

 ところで1867年12月7日,王政復古のクーデター前夜に兵庫港が諸外国に向けて開港しました.
 列強諸国念願の兵庫開港ですが,状勢は緊張の一途を辿っており,大坂にいた領事達は戦闘に巻き込まれるのを懸念して,兵庫に拠点を移し始めました.
 兵庫の開港は列強諸国念願だった訳ですが,日本側から見れば,兵庫に列強の軍隊が上陸すれば,天皇の鎮座する王城京都へは,指呼の距離となってしまいます.
 もし,こうした事態に至った場合は,京都に至るまでに何処かで防衛戦を張らなければなりません.

 こうした事情により,俄に「王城咽喉の要地」として,朝廷と幕府両者にとって国防上の重要拠点となったのが,西宮の地でした.
 新政府は,12月28日に備前藩に対し,摂津西宮への警備を命じました.
 一方,幕府方も1868年1月1日に大坂城に於て,老中板倉勝静が,姫路藩に西宮守備を命じています.
 丁度相反する2つの勢力が,同じ観点から別々の兵を,西宮に送り込もうとしていたのです.

 備前藩は既に朝廷への帰順を決めていましたし,討幕派に与する体制が整っていたので,すぐさま出兵の準備に取りかかり,1月4日,家老日置帯刀の率いる340名が岡山を出立します.
 一方で姫路藩は,既に大坂に詰めていた姫路藩兵と国許からの援兵合わせて,1,000名程度の藩兵が酒井若狭守の指揮下に入り,松平阿波守の半個大隊と幕府の撒兵隊1個中隊と共に,3日には西宮の守備に就きました.

 もし鳥羽伏見の戦が始まっていなかったら,西宮の此の地で,姫路と備前の朝幕の闘いが行われたのかも知れません.
 丁度,姫路藩兵が警備に就いたその日から,鳥羽伏見街道で戦闘が開始されました.

 因みに西宮の地は,「王城咽喉の要地」であり,戦略上重要拠点となっていました.
 此処を確保する事で,もし幕府軍が勝利した際に,薩長を始めとする倒幕軍が西国に逃げる退路を断つことになります.
 西宮とは別に,国許では更に加古川筋に藩士を出動させて警戒に当たっていました.
 幕府軍勝利の場合は,例え戦場の正面で無くとも,十二分に戦功が得られるはずでした.

 しかし,事実は官軍有利となり,譜代大名である淀藩が裏切って幕府軍を攻撃し,更に淀川右岸で山崎の地を守っていた津藩も裏切って,側面から幕府軍を攻撃して決定的に幕府軍不利となります.
 この為,6日に一旦幕府軍は大坂城に退却して,体勢を立て直してから決戦に臨む予定だったのですが,総大将である慶喜が,6日夜に大坂城に諸藩の兵士を残したまま,僅かな側近を連れて開陽丸に逃れ,翌日,大坂を出帆して江戸に向けて遁走してしまいました.
 姫路藩主の忠惇は,慶喜と共に江戸に奔り,姫路藩士は,その命により家老の高須隼人宗山,永田祖無助と共に7日に大坂を出発し,9日に姫路に帰ってしまいました.

 正月7日,徳川慶喜征討の大号令が出され,諸藩の去就向背が厳しく糾問されることになりました.
 姫路藩にとっても朝敵とされる,容易ならざる事態に陥ったのです.
 しかも折も折,姫路城外には新政府から西宮警備を仰せつかり,4日に岡山を出発した備前藩家老・日置帯刀が率いる軍勢が接近していました.
 そして,日置は,姫路藩に最初の使者を遣わしてきます.
 既に鳥羽伏見の戦の帰趨は方々に知れ渡り,姫路城下は戦闘を予想して騒然となり,町人達は戦に巻き込まれることを恐れて,荷物をとりまとめて避難し始めました.
 しかし,備前藩は姫路通行と宿営の許可を得るために使者を送ってきただけで,戦端を開く意図は持っていませんでした.
 一方の姫路側も重要な決断を下すだけの人物がおらず,そうした重臣は姫路に帰藩する途中だった訳です.

 鳩首協議の結果,残った重臣達は,家中に状況説明の触れを出して,事態の沈静化に努めました.
 これには7日の慶喜の帰府,藩主が御供として随行したこと,姫路藩兵は国許に帰還中であることが書かれており,容易ならざる事態ではあるが,町人に倣って家財道具を持って避難する様な外聞を憚る行為を諫め,妻子を諭し,また組支配下にも冷静に対応する様に通達するというものでした.

 こうして,先ずは備前兵との交戦は回避されます.
 因みに,この備前兵が神戸に於て,上陸中の外国兵をを殺傷すると言う,所謂「神戸事件」を引き起こし,新政府を震撼させたのですが,それはこの際置いておいて.

 しかし,10日になると新政府は朝敵討伐令を発しました.
 備前藩は,姫路藩が佐幕側として行動すると,先発した日置帯刀率いる藩兵が,分断されてしまう危険性を考え,第2陣を池田図書助に命じて進発させています.
 この時,軍事総督として姫路に向かった池田図書助が,姫路城開城の主力となった訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/05/09 23:33

 備前藩の先発隊は,年末に朝廷から西宮警備を命じられ,1月4日に岡山を出発しました.
 5日,この部隊に国許から,鳥羽伏見の戦があったと言う急報が知らされ,備前片上で一旦宿陣し,軍議を開いています.
 勿論,西宮に向かう途上にある姫路藩が,幕府側について参戦したと言う情報は重大な関心を持って論じられたと考えられ,その軍議の中心議題は,佐幕派となった敵方の姫路藩に対する対応であった事は想像に難くありません.

 その軍議には,京より到着した大目付山田市郎右衛門,外交方沢井権次郎,村上勇次郎が加わり,彼らの持っていた鳥羽伏見の戦での生の情報がもたらされました.

 7日,軍議は決し,備前藩兵の先発隊は新政府の命令を遵守すべく,播州片島に向けて出発しました.
 そして,出発と同時に姫路と明石両藩に使者を遣わし,藩兵の城下通過と非常事態に備えての,国許との連絡要員2〜3名の城下逗留を申し出ています.

 姫路藩との交渉に当たったのは,藩主側近である丹羽藤四郎と大砲方小神三郎でした.
 彼らの任務は,1つは京阪の事件の緩急に備える為の連絡要員滞留を求めるものでしたが,裏の任務としては,敵方である幕府に付いた姫路藩の動向を探るものでもありました.
 特に,姫路藩が戦闘を企図して,固く城門を閉ざしているのか,藩内が主戦論で沸騰していないかどうかは極めて重要な情報でした.
 しかし,肩透かしを食らったかの様に,姫路藩は備前藩に対し,「城下外へ差置義は苦しからざる旨」と言う返事を行います.
 つまり,今のところ,姫路藩は備前藩を敵軍とは見做していない事,また,佐幕派だからと言って,姫路藩領内は臨戦態勢が整っていない事が確かめられた訳です.

 とは言え,7日と言えば,既に見た様に,新政府から徳川慶喜征討の大号令が発せられ,諸藩にその態度去就の決断を迫る布告があった日であり,姫路へも徐々に戦場の緊迫感が伝わってくる様になりました.

 9日,備前藩の先発隊は遂に姫路領内に入り,姫路城外の手野に宿営します.
 間が悪い事にと言うべきか,丁度その日に,鳥羽伏見の戦に参戦した姫路藩兵が,家老高須隼人宗山,永田祖武助等に率いられて姫路に帰還してきました.
 緒戦で討幕派に敗れはしたものの,幕府方兵士の戦意は消失しておらず,高い戦意を保った状態での藩兵帰還です.
 もし,この日,高須隼人等が主君の意を汲んで,戦端を開いていれば,第2の鳥羽伏見の戦がこの姫路城下で発生した可能性があり,場合によっては現在世界遺産として優美な姿を誇っている姫路城,いや白鷺城天守閣は,この時に焼失してしまった可能性があった訳です.
 事実,翌朝,備前兵は万一の場合に備えて,鉄砲に実弾を装填して姫路城下を通過したと記録にあります.

 正に,姫路藩と備前藩は一触即発の危機にあったのです.

 こうして,備前藩の日置帯刀率いる先発隊は,無事,姫路を通過しました.
 此の後,この部隊は10日に大蔵谷に進み,11日に西宮に着いているのですが,この間,この部隊は,神戸で兵の隊列を横断したフランス人を負傷させ,発砲に及ぶと言う事件を起こしました.
 これを理由に,諸外国の軍勢が兵庫港に上陸し,戦闘となりました.
 その後,15日まで神戸一帯は外国軍の支配下に置かれたのです.

 阿片戦争の中国の例を見ても判る様に,何かの切っ掛けで外国軍が自国の都市を占領すると,それを理由に居座ってしまう可能性があります.
 成立して間もない新政府にとって,そうした状況に陥ったのなら,幕府軍はそれ見たことかと宣伝戦を仕掛けてくるでしょうし,日和見の諸藩が幕府方に戻ってしまうかも知れません.

 正に,新政府は胸突き八丁の場に置かれたのです.
 元々は軍の隊列を横切ると言う,外国人の非礼に端を発したものですが,諸外国の公使は,一様に厳しい処分を新政府に求めました.
 こうした圧力に晒され,新政府としても座視は出来なくなり,責任者を厳罰に処する方針を固め,もし備前藩がこれに従わなければ,姫路よりも先に備前藩を討伐することも辞さないと言う強い方針で臨みました.
 これは,諸外国の公使達に対し,責任者の厳罰を約した覚書を外国事務取調掛として,1月19日に神戸に派遣された東久世通禧が提出したことで,国際公約となってしまいました.

 今も昔も,諸外国の圧力には弱い日本です…と言うか国としてのDNAにしっかり埋まっているのではないかしらん.

 余談は扨措き,この事件は備前藩をして,勤皇方としての盤石な立場を有する藩から,一挙に微妙な立場に立たせることになります.
 備前藩の行動を擁護する声は少なく,寧ろ糾弾する声の方が多かったからです.
 この神戸事件の間の悪さが,結果として備前藩から勤皇の雄藩としての資格を喪失してしまった遠因でもありました.

 丁度その時,備前藩では徳川慶喜追討令を受けて,姫路討伐の準備が進められていました.
 勤皇方の諸藩にとって,西宮と岡山を繋ぐ街道筋の中間点にある佐幕派の牙城,姫路藩の向背は,忽せに出来ない大問題だったからです.
 もし,姫路藩が徹底抗戦に態度を決した場合,備前兵を始めとする勤皇方は東西に分断されるのです.
 特に,先発隊を出発させ,西宮で警備任務を遂行しようとした備前藩にとって,姫路藩の動向は問題でした.
 この為,新政府から姫路同罰例が出る前に,備前藩は姫路討伐軍を出発させます.

 その兵力は,池田図書助父子を指揮官として藩兵437名,雑人100名,馬10騎からなる部隊でした.
 備前藩では11日に,新政府が姫路討伐令を発する前日の10日に出撃命令を下し,12日に岡山を出発しました.
 そして,司令官の図書助に対しては,藩主池田茂政から直々に文書を下し,姫路開城後の措置について判断を示していました.
 つまり,岡山出発時点で既に備前兵は,姫路占領の意思と方法をはっきりと固めていた訳です.

 その文書では,先ず姫路藩に対し,譜代藩として進退去就を問い,勤皇の実効を顕すことを求め,図書助に対し,大義を明らかにし,名分を糺す措置を心がける様に諭しています.
 そして,占領の方法として2つの案を授けています.

 1つは,応接により勤皇の意思に於て備前藩と意見を異にし,矛盾があるならば,「二念無く乗っ取り申すべき事」と武力行使を命じています.
 しかし,僅かな意見の相違であれば,無碍にこれを断って武力行使に奔るのでは無く,説得による降伏を進める様に説いていました.

 もう1つは,異論無く降伏した場合の措置で,新政府に寛典の処置を当藩に依頼する様であれば,確かな人質を取り,城地を明け渡し,朝廷の沙汰が下るまで備前藩で城を預かる様に命じていました.
 但し,何れの場合でも,上下男女全てを城外に立ち退かせる様に命じています.

 13日,その文書を持って,池田図書助本隊は三ツ石に宿陣しました.
 池田図書助が滝川左近,稲川左内,丹羽次郎左衛門,鈴木新兵衛,土方衛兵衛の各隊長を集め軍議をしているところへ,姫路藩と交渉をしていた平井源八郎が到着し,交渉経過を報告しています.
 応接に当たった人物は,備前藩が外交方村上勇次郎,山瀬種次郎,平井源八郎,姫路藩が亀山源五右衛門,斉藤某でした.
 その交渉では,姫路藩側は開城を受入れたと報告されました.

 この頃には既に神戸事件が発生し,備前藩は新政府からの強い圧力に晒されていました.
 もし,この時に姫路開城に不手際があれば,正に備前藩そのものが逆に御取潰しになる様な状態にまで追い込まれていたのです.
 そう言う意味で,絶対に失敗できない交渉となっていたのです.

 因みに,神戸事件の収拾は,2月9日になって新政府側が諸外国の公使側の抗議に全面的に屈し,備前藩は発砲命令を下したとして,責任者の滝善三郎を差し出すことになります.
 滝善三郎は切腹を命じられ,外国人代表が見ている前で,見事に腹を掻っ捌いたと記録にあります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/05/10 23:45

 さて,備前藩本隊が姫路城に入る前に,備前藩の外交方と姫路藩の担当者との交渉が行われました.
 正月12日に行われた1回目の交渉では,解決に至らず,しばらくの猶予を姫路藩側が求め,夕刻になって降伏の実効として人質を差出し,本城を明け渡す旨の申し出がありました.
 勿論,城内では主戦論者と恭順論者の双方の意見が沸騰したと思われ,最終的に恭順論者が勝利を収め,寸前の所で戦闘が回避されたと資料からは読めるのですが,備前藩の記録では,城地明渡しと,男女立ち退きを書いているのに対し,姫路藩の記録ではその部分は非常に曖昧に書かれており,備前藩に降伏した話は全く出て来なかったりします.
 この記録の相違は,降伏や開城の条件に付き細部を詰める時間が無かった為かも知れません.

 兎にも角にも,正月15日,備前藩軍事総督の池田図書助率いる備前藩兵本隊は,姫路に到着しました.
 彼らは途中で,
龍野脇坂家5万1千石,
林田建部家1万石,
赤穂森家2万石,
三日月森家1万5,000石,
三草丹羽家1万石,
小野一柳家1万石,
安志小笠原家1万石,
福本池田家1万500石
と言った小大名の去就を問うと共に,応援の出兵を督促しつつ,進軍して来ました.

 そして,姫路城下に入った備前藩兵本隊は,船場本徳寺に宿営し,砲兵及び赤穂藩兵応援部隊は,景福寺に集結しました.
 丁度同じ日,雅楽頭の又従弟に当たる酒井又八郎が,人質となって本徳寺に送られてきたのです.

 普通だと,これだけで一件落着の筈でした.
 しかし,15日から16日早朝に池田図書助に齎された情報により,備前藩は窮地に立たされることになりました.

 情報には2つあり,1つは長州藩の杉孫七郎から,備前藩軍事総督池田図書助と,その父で後見人である池田隼人宛に,本営に届いた書簡,もう1つは岡山の国許から届いた書状で,12日付で征討将軍から発せられた姫路討伐令を知らせる内容でした.
 既に備前藩は,沿道の各小大名達を糾合し,姫路に来ていたのですが,これは新政府からの正式な命令を得ての行動ではありません.
 あくまでも,備前藩独自の行動でした.

 杉孫七郎の書状は,長州藩と共に備前藩は進撃し,姫路藩との開城交渉は共同で当たることになっていたのに,長州から岡山城下に孫七郎率いる長州藩兵がやって来たところ,既に備前藩が開城交渉を独断で進めていたことを知り,備前藩に対して不満と非難を顕していたものでした.

 長州としては,徳川家に尻尾を振る佐幕派の姫路藩は,憎んでも余り有る存在であり,柔な交渉での開城よりは,端から交渉を行わず,いきなり宣戦布告しようと言う目論見でいたのですが,備前藩が先に開城交渉を進めてしまったので,非常に強い不満を持っていました.

 一方,姫路討伐令には備前藩にとって,予想外の事態が発生していました.
 朝廷からの討伐令は,本軍を構成するのを,薩摩藩,長州藩,土佐藩,因幡藩,安芸藩,津藩の6藩に下し,備前藩は完全に蚊帳の外になってしまっていました.
 後に,備前藩と龍野藩が応援の命が下ったことが明らかになったのですが,既に備前藩は軍を進発させ,開城交渉を行っているというフライングを行っていました.

 池田図書助達,備前藩の軍首脳は苦悩しました.
 本軍の進発は間近であるので,本軍が到着するまで姫路開城を行わないか,藩主直々に命令を下された下知状のシナリオを予定通り実行するかを巡って,激論を交わしたと思われます.
 下知状のシナリオを実行すれば大義が立ちませんし,本軍を待ってから行動を起こせば,姫路城開城の功績は薩長等の大藩が担い,備前藩は全く顧みられなくなります.
 その上,姫路藩に対し,備前藩は降伏開城を説得しているのに,長州軍を率いるのは強硬派の杉孫七郎です.
 本軍が到着すれば,有無を言わさずに戦闘が起きるのが目に見えています.

 どちらの案を選択するか,しかも,数日足らずで杉孫七郎率いる長州軍が到着します.
 図書助に残された時間と選択肢は,余りにも少なすぎました.

 16日早朝,現地に新たな情報,つまり,13日に征討将軍から正式に発令された御達が届きます.
 それに依れば,本軍を構成するのは6藩ですが,備前と龍野の両藩が応援として任命されたと言う事でした.
 これにより図書助は愁眉を開きます.
 本軍の応援という形ですが,この御達により,曲がりなりにも名分を得ることが出来たのです.

 これにより,図書助は本軍の命令を待たずに直ぐ様行動を起こし,下知状のシナリオの方を選択しました.
 先ず,礼儀として姫路藩へはこれまでの談判の打ち切りと停戦協定の破棄を伝え,姫路西と船場川沿いに兵力を配置しました.
 景福寺に本営を起き,総司令として池田図書助,後見人として父親の池田隼人,備前門口に滝川左近の銃隊,丹羽次郎左衛門の銃隊,備前門の南手には赤穂藩の藩兵,車門と市之橋門には池田図書助の藩兵,清水門には稲川左近の銃隊と土方衛兵衛の銃隊,景福寺の山上には鈴木新兵衛率いる砲兵隊の総勢1,463名の布陣を行います.

 16日午後,景福寺山頂の号砲を合図に戦端が開かれ,備前兵の攻撃が開始されました…が,数発の空砲が発砲された後,直ぐ様姫路藩重臣の大河内帯刀,松平孫三郎が礼服に身を包み,軍門に降伏の意思を表明した為,砲撃を中止する命令を出しています.
 2名の重臣は,景福寺の本営に罷り出て,降伏開城の上,兵器は勿論,人質と誓詞を差出し,藩士は残らず城外に退去して謹慎することを誓約し,城の明渡しは明朝まで待って欲しいと申し出ました.
 この願いは聞き届けられたものの,備前藩は姫路藩の反撃を警戒して夜通し寄せ手の攻め口を固守し,夜営を行ったと記録にあります.

 これは,降伏開城の筋書きが既に出来上がった状態での戦争であった為,後に「八百長戦争」と形容されましたが,武力開城は,備前藩の給地を脱する緊急の措置であり,結果は姫路藩の無条件降伏と言うべきものでした.

 姫路城開城自体は,本来は本軍の到着を待ち,軍議に諮った上で決すべき重要事項だったはずですが,西宮の警備に向かう途中の思わぬ事変の勃発で,備前藩は他藩より早く姫路藩との交渉の機会を持つことになりました.
 そして,姫路藩の恭順・降伏の内意を得たので,備前藩独自に処理をしようとします.
 しかし,姫路討伐の本軍が別に発向すると言う,状勢の急激な展開によって窮地に立った備前藩は,交渉二時間をかける暇が無くなり,突然武力行使に出て決着を図った訳です.

 こうして事が決した後,図書助は杉孫七郎に返信を認め,以下の様に書き送っています.

 姫路藩は,逆徒とは言え,王者不殺の大道を立てずしては,人民の帰服恭順は得がたい,と柔軟な対応の大切さを強調し,次に備前藩が攻撃発砲に及んだ経緯については,今朝姫路討伐応援の命令を受けた為,最早一刻の猶予も致し難くと説明しています.
 そして,直ぐに姫路藩が降伏し,王事に勤労するほか他念の無い事をを申し出たので,軍器証人を受取り姫路城を接収した.
 皮肉にも同じ日,征討府から次の御達が発せられ,姫路に届きました.
 それは,征討将軍に四条隆謌が任命され,18日に明石城に到着するから軍議に参加せよ,と言うものでしたが,既にこの時には姫路城は開城され,姫路藩は無条件降伏をしていたのでした.

 それにしても,この「八百長戦争」の御陰で,後世に世界遺産白鷺城が残ったのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/05/11 23:26

 さて,姫路は「八百長戦争」の結果,開城に至りました.
 しかし,その後は本軍が来るので,備前藩から矢の様な催促が来て,夕方に城の明渡しを命じられます.
 期限は翌17日の朝までで,僅かに16時間程度しかありません.
 この間,城中は鉢巻きを締めた侍や,小者が走り回るわ,お城からの御触を伝える騎馬の武家が,「避けい,避けい」と大声を上げて駆け抜けるなど大騒動になりました.
 結局,藩庫から藩士1家に付き13両ずつが下され,藩士とその家族達はそれぞれ領内の村々へと立ち退いていきました.
 また,藩庁も一時姫路城から野里慶雲寺へと移転しています.
 この時も大騒動で,ある藩士は悲憤慷慨の余り自刃したりしましたし,立ち退く人々は,せめてもの武家の意地とばかりに,立退きの際に,床に幅物を懸けたり,鉄砲を飾ったりしていました.

 立退きでも,寄る辺のある者は兎も角,無い者は,郊外に青竹を組んでそれに蚊帳を張り,野宿をしたり,長持ちの上で剣を構え,もし近付く者があれば,一刀の下に斬り殺そうという,気迫を備えた人もいたりします.
 こうした混乱の末,藩庁が移転再開し,そこで救恤金が配られ,皆が居所を決めて散っていった訳です.

 翌日17日の朝5つ半と言いますから午前9時頃,多くの人が去った姫路城に備前藩兵が入城し,人質として大河内帯刀,松平数馬,酒井又七郎の3名が稲川左内の手に預けられました.
 城内の諸門は備前藩兵によって固められ,城中に於て姫路藩の重臣より王師奉迎,朝命奉戴に付き誓詞が提出されます.
 池田図書助は3名の人質を預かり,誓書を受け取った後,城下に「諸法度は別途通知するが,当面の生活は今まで通り行って良い」事,また「火の用心」を通知した触れを発して,民心の安定に努めています.
 また,図書助は,加えて姫路の窮民へ救米を給付し,人民の安堵・撫育に勤めました.
 とは言え,この救米はポーズだけで実際に下されることは無く,高札場には
「春の入日とお救米は早もくれそでまだくれぬ」
と言う落首が掲げられていたりします.
 まぁ,それでも20日には騒動は鎮静化し,元通りの庶民生活が戻り,後は本軍を待つばかりとなりました.

 その本軍は,姫路城が備前藩の手によって開城したことを未だ知りませんでした.
 しかし,これが万一知られてしまえば,只でさえ神戸事件で微妙な立場に置かれている備前藩に対する風当たりが更に高まる恐れがあります.
 この為,備前藩としては,独断による姫路城開城の妥当性を弁明する必要に迫られました.

 こうして,外交方村上勇次郎を使者に充て,征討将軍に対し顛末を報告する為,急いで明石に赴かせました.

 村上勇次郎は何とか姫路城開城が本軍に知らされるより前に,明石に到着しました.
 幸いなことに,姫路征討将軍となった四条隆謌が未だ着いていない事が分り,18日に予定されていた明石での軍議は開催されていませんでした.
 そこで,勇次郎は姫路征討将軍一行が兵庫で宿泊することを聞き,急ぎ明石を出発して兵庫に向かいます.
 そして兵庫で本軍一行に会い,四条家の家臣榊原速男と軍事参謀である薩摩藩士の大山格之助に面会しました.

 勇次郎は宿舎の居間に通され,直接,四条隆謌,五条為栄,東久世通禧に姫路城開城の顛末を報告しました.
 因みに,東久世通禧は,神戸事件の処理の為に新政府代表として派遣され,15日から兵庫に逗留していたのでした.
 神戸事件の処理を巡って四条等と談合しているところに,村上勇次郎がやって来て姫路開城の情報が知らされたと考えられます.

 説明は間に合いました.
 備前藩は,東久世少将より,明石にて衆議の結果沙汰を下すまで姫路藩を守護する様に指示を受け,委細は文書で報告する事になりました.
 翌朝,勇次郎はこの命を持って兵庫を出発し,夕刻に姫路に辿り着き,復命します.

 そして,正月19日,国許から陣代として池田信濃守章政が到着し,総指揮を図書助から引き継いで,姫路城の守備体制を再構築し,開城後の姫路藩の治安維持に腐心しています.
 20日昼過ぎには長州藩の杉孫七郎が,銃兵100名程を連れて姫路城に到着しました.
 孫七郎は最終的に備前藩の措置を了とした様で,何事も明石城に入った征討将軍の指揮に従う様に,と言い残して多可郡で発生した騒動鎮圧に向かいました.
 なお,家島については糧米300石を差し出すと言う申し出が為されたことにより,兵隊の差出しを免れています.

 22日,征討将軍四条隆謌は加古川に到着しました.
 備前藩氏新庄作右衛門は誓書を持参し,平井源八郎は宿舎を訪ね,姫路に征討将軍を迎い入れる準備の為の伺い書を提出して,綿密な打ち合わせを行いました.

 23日,いよいよ姫路討伐本軍が姫路に入城することになります.
 征討将軍四条隆謌は,中国・四国征討総督となり,監軍の五条為栄,沙汰参謀大山綱良等の率いる姫路同罰本軍は,加古川を出発して山陽道を西へ向かい正午に御着に到着して此処で休息,午後1時過ぎに御着を出発しますが,この時,備前藩軍事総督代理池田隼人は,銃隊を連れて京口門迄出迎えました.
 午後3時,本軍は姫路城下に到着し,本陣国府寺次郎左衛門方に案内されて宿営しました.
 そして,池田信濃守章政,池田隼人,水野助太夫等外交方一同が,本陣で四条隆謌等と拝謁する事になりました.

 四条隆謌等の一行は姫路に4日間滞在し,備前藩の開城処理を受けてその後始末を実行した後,26日に姫路を去って,次の目的地に向かいました.
 23日には姫路城下及び高砂と飾磨津に対し,御救米として米2,498斗7升余と他に履くまい111俵の支給を備前藩に命じました.
 こうして,民心を安定させようとした訳です.

 また,備前藩は姫路征伐に従軍した兵士の数を書き上げて,本陣へ報告しています.
 それに依れば,備前少将の陣代として池田信濃守隊兵士が517名,軍事惣轄が池田図書助,後見がその父池田隼人で合わせて総勢337名,番頭である滝川左近の隊245名,同じく稲川左内の隊が113名,先手物頭が丹羽次郎左衛門の隊で40名,同じく土方衛兵衛の隊が40名,物頭大砲隊長を勤めた鈴木新兵衛の隊が123名,総計1,515名となっています.

 合わせて備前藩は姫路藩の占領統治について,5箇条の伺書を差し出して,緊急の指示を仰いでいます.
 1つは,姫路城警護の交替で,他の大藩との交替を願い出ていますが,これは見送りとなりました.
 2つ目は姫路藩家中の援助として藩士の窮状を訴え,救米が必要であると言うものでしたが,回答は,姫路藩の非常用に蓄えている囲い米を差し出す様に,と言う指示でした.
 3つ目は藩札の運用についてで,急な流通停止は民生に影響を及ぼすとして,その維持を求めたものですが,これは民生安定の考えから認められました.
 4つ目は姫路藩が差し出した武器弾薬についてで,警備に際し,この差出し武器弾薬を用いたいと言うものでした.
 これについては,当面の利用を許可するとして,但し,姫路藩が将来勤王の為に出兵することがあれば,返還する様に指示しています.
 最後が,姫路守衛の兵士の糧米についてで,その糧米に城中に保存されている「家中食料之米」を備前藩に下げ渡して欲しいと言うものです.
 これを実行するには,家中の人口を取り調べるべきだとして,即日,城下町など周辺各町の人口調査が実施されました.

 因みに,当時の姫路の都市人口は,姫路城下が14,957名,飾磨津町が5,763名,高砂町が6,096名となっています.

 24日になると,四条隆謌と五条為栄が11時頃から姫路城中の臨検に出発しました.
 先導は此処も池田隼人が行いました.
 桜門外で下馬し,両殿を案内して登城,三之丸大広間(鶴ノ間)にて茶菓の饗応を受け,三之丸,天守閣,本丸,二之丸の巡検を経て午後3時に下城しました.
 その後,一旦宿舎に戻り,午後4時に光源寺に赴いています.
 この光源寺では,高松藩から送られてきた佐幕派の大物家臣で,責任を取って切腹させられた小夫兵庫,小川又右衛門の首実検があり,それを済ませた後,再び本陣に帰りました.

 なお,この日,姫路藩重臣15名連署のもの,姫路藩百姓惣代連名のもの,町人惣代連名のものの合計3通の嘆願書が備前藩を通じて両殿に提出されています.
 何れも,家名存続と本領安堵の嘆願書でした.

 25日,正式に本師総督府より備前藩に対し,姫路藩の処置についての通達がありました.
 この日から正式に朝廷の沙汰が下るまで,備前藩に姫路藩は預けられることが決まり,備前藩は人質と証人の解放,そして城外への退去を行い,姫路藩士の帰宅が許されることになりました.
 但し,無条件の解放では無く,関東追討の際にはその節には奮励錬磨すべしと言う条件が付けられています.

 26日,四条隆謌が姫路に逗留した最後の日です.
 この日,姫路藩士の帰還が許され,証人となっていた3名も解放されました.
 午前9時に本軍は姫路を出発し,池田隼人は再び騎乗して備前門まで先導して,本軍を見送りました.
 備前兵は室津まで警備を命じられ,手野,斑鳩村で休息を取り,正状で昼食,馬場村を経て午後5時に室津に到着しました.
 備前兵は,室津本陣にて総督に拝謁し,自由に帰還すべしとの命を受けましたが,結局1泊し,27日に両殿の乗船出立を見送ってから姫路に引上げました.

 これで一時は安堵したかに見えましたが,佐幕派となり,賊軍となった藩が安堵されるには,藩主かそれに準じる名代の上京が条件となっており,藩主や名代となるべき人物が尽く江戸にいる姫路藩にとって恭順は非常に高いハードルとなってしまっていました.

 また,備前藩も無傷ではありません.
 今までは,備前藩軍事総督池田図書助が頻繁に顔を見せていたのですが,四条隆謌の登場以降はぱったりとその消息が途絶えてしまっていたりします.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/05/12 23:45

 さて,征討総督の検分は取り敢ず,無事に済んだ訳ですが,戦場では頻繁に表に出ていた軍事総督の池田図書助の姿が,征討総督を姫路に迎えて以来,とんと姿を見せなくなり,代って父親の池田隼人が名代として征討将軍一行の接遇に当たっています.

 これは表向き無難に過ぎた征討総督との遣り取りが,実は相当の暗闘が繰り広げられた結果だったりします.
 その詰問は25日に行われました.

 記録によると,四条隆謌,五条為栄の両殿が,備前藩を「尋問」しています.
 その「尋問」に応える形で,備前藩は姫路藩との応接に及んだ経緯を改めて説明しています.
 「尋問」と言う言葉が使われたと言う事自体,既にこれは備前藩の軍功としての扱いではありません.

 それによると,備前藩は新政府より西宮警固を仰せ付けられ,兵を出して配備に付いたところが,鳥羽伏見の戦が勃発し,西宮と国許備前との間には向背定かならぬ佐幕派の姫路藩があった為,もし姫路藩が播州街道を塞ぐ様な行動があれば,西宮の警備が難渋するので姫路藩に兵隊を差し向け向背を尋ねた所,藩を挙げて朝命奉戴の心得である旨を申し出た為,城内の向屋敷で談判をしていたとあります.
 ところが,12日に姫路討伐令が大阪に於て発せられ,備前藩へは応援の命が降ったことを16日に承った為,出先のものは熟考し,これまでは備前一藩の論を持って談判していたのを,討伐の命が降った以上はこれまでの行きがかりを一切廃止し,朝命に基づいて処置することに決したとあります.
 しかし,本軍の「御旗」が進められるのを待たずに攻めかかったのは「僭越」に当り,申し訳ありませんでしたと恐縮の意を表しています.
 とは言え,「御旗」が進められるのを待って,もし城下まで押し詰めた兵士が万一不覚を取っては却って恐懼する次第であると弁解しています.
 又,討伐令が発せられた敵城を前にして城下外へ撤退するのは,「軍門に於て忍ばざる次第に候」として,姫路藩に対して朝命を封じ,兵馬を差し向ける旨を通告し,万事兵馬の際に応接及び候旨を申し聞かせ,その後発砲に及んだと武力開城に至った経過を述べています.
 そして,姫路藩は手向かいせずに軍前に降伏を申し出たことから,既に報告をした内容の措置を執ったと弁明に相勤めました.

 つまり,本軍の到着を待って行動すべき所を,応援命令を受けて攻撃に出た備前軍には非があることを認めたのは認めた訳です.
 ただ,折角城下に進出し,城を包囲しているのに,本軍を待つ為にまた撤退するのは「武門の意地」にかけて出来るものでは無い,従って,本軍が到着する前に武力行使を決断したと言う論理でした.

 これを本軍から見れば,姫路城開城は備前藩の「軍功」ではなく,功を焦った備前藩の「抜け駆け」に他ありません.
 この為,本軍指揮官である四条隆謌等の不興を買った軍事総督池田図書助は本軍到着以後は公式の場には病気を理由に姿を見せず,彼らの応接には父であり後見人である池田隼人が出ることになった訳です.

 それでなくとも,備前藩と新政府との関係は,備前藩の先発隊が起こした神戸事件を巡って微妙な対立関係にありました.
 備前藩からすれば,非は無礼にも行列を横切った外国人に有った訳ですが,外国軍の圧力に屈して新政府からの要求を入れて事件の責任者として藩士滝善三郎を差し出しました.
 勿論,列国の圧力に屈した新政府ではありますが,幕府政権に取って代わった矢先であり,対外的には政権への信頼の確立が急務でした.
 また,国内的には叛乱分子一掃の為の権威の確立を急いでいたのです.

 そんな時に,新政府の意向を蔑ろにする様な備前藩の行動は,新政府にとっては看過し得ないものであり,結果として姫路開城は備前藩の軍功にはならず,姫路に於ける備前藩への両殿の「尋問」と言う事態になった訳です.
 とは言え,結果的に有耶無耶になってしまう当り,後の陸軍の暴走の遠因と言うのがこの当りにあったのでは無いか,と思ったりするのですがね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/05/13 22:58


 【質問】
 朝敵とされた姫路酒井家の,明治新政府への恭順運動について教えられたし.

 【回答】
 さて,1868年2月になると新政府は西日本の平定をほぼ終えて倒幕の為の体制固めに入りました.
 3日には親征の詔を発し,次いで三職七局の職制改革を行って政権機能の強化を図りました.
 対する幕府側は,5日に姫路藩主酒井忠惇が老中職を辞し,徳川慶喜は6日江戸城を出て上野寛永寺に入って謹慎の態度を表明しました.

 しかし,9日,新政府は総裁有栖川熾仁親王を東征軍大総督に,西郷隆盛,林九十郎を参謀に任じ,関東平定の為の軍を着々と編成していきました.
 そして12日に征討の布告を発し,15日に江戸に向けて東征軍は出発します.

 この間,朝敵となった諸藩は,次の様に処分されることが,案として内々に示されていました.
 罪第一等は幕府の首魁であった徳川慶喜,
罪第二等は京都で勤王派を弾圧した,会津の松平容保と桑名の松平定敬,
罪第三等は鳥羽伏見の戦で,幕軍と共に戦闘を繰り広げた予州松山の松平定昭,慶喜と共に東行した姫路の酒井忠惇,幕府で老中を務めていた備中松山の板倉勝靜,
罪第四等は鳥羽伏見の戦に於て,ある程度戦闘に参加した室津,
罪第五等は鳥羽伏見の戦に於て戦闘に参加した,大垣と高松となっています.

 このうち,罪第三等までは「その罪軽からず」に付き,追討・開城の上,城と領地を没収し,関東平定後に処分を下すと言うもので,四等,五等の処分については藩主の上京謝罪と先鋒願出を持って寛典に処する条件を付けています.
 因みに備中松山藩は正月14日,高松藩は20日,予州松山藩は27日に開城,降伏し,宮津と大垣は恭順の意向を示し,先鋒願出を以てその罪を許されました.

 何れの場合も佐幕派諸藩に対しては,藩主の上京謝罪と先鋒の願出,更に軍備と軍資金の提供が寛典の必須条件とされていました.
 四条将軍の裁定により,備前藩に城,領地とも預けられ沙汰待ちとなった姫路藩は,以後この条件を満たし,寛典に浴する為,多くの嘆願書を新政府に提出しています.

 本軍がやって来て直ぐの段階でも,姫路藩の重臣,農民代表,町人代表が嘆願書を四条隆謌宛に提出していた様に,隆謌が室津から大阪に戻ると,その後を追う様に28日に大山格之助を通じ,隆謌に対し,御番頭の力丸五左衛門と池内太久磨の連名で,藩主の心得違いを詫びた後,隠居を早速京都に謝罪に向かわせ,「一廉の御奉公」を仕らせたいとし,その実効として藩兵700〜800名を選抜して関東御征討に差し出したい,下命があれば直ぐにでも5小隊を,征討軍に加わらせる事が出来ると言う嘆願書を提出しました.

 この嘆願書は隆謌に提出されたものの,回答はありませんでした.

 次いで2月7日,先月28日の嘆願書に対する沙汰の無い状態で,非礼であるのは承知しているが,御親征に少人数でも加えさせていただけないでしょうか,また,姫路藩が建造して保有している,洋式船の速鳥丸と神護丸を提供するので寛大な措置を,と,御番頭2名と筆頭家老の高須隼人と家老の本多意気揚連名での嘆願を,同じく隆謌宛に提出しています.
 当時,この4名は京都藩邸に滞在していたようです.

 京都には,姫路藩第5代藩主の酒井忠学の娘で,夫没後に剃髪して妙寿院となった?姫がいました.
 この妙寿院の夫は,五摂家九条家の当主であった九条幸経で,妙寿院は2月26日に奥羽鎮撫総督に任ぜられた九条道孝の,義母に当たる人物です.

 主が江戸に去って,遠縁の再従兄弟くらいしかいない姫路酒井家にとって,身近に存在して尚且つ藩論の決定者になり得た人物は,この妙寿院しかいませんでした.
 そこで,姫路藩の家老や重臣は妙寿院,そしてその婚家である九条家を頼って相談に来たと考えられています.
 勿論,九条家が朝廷に近いと言う計算もあったかも知れません.

 こうして,事態の収拾と姫路藩救済の為,2つの方針が立てられていきます.
 1つは隠居しても尚隠然たる力を持つ酒井閑亭,つまり第8代藩主の忠績を,先ず姫路に帰城させ,局面を収拾すると言うもので,これは閑亭を藩主忠惇の名代として上京させ,朝廷に謝罪する事を移見ています.
 これは,大垣や宮津が行った手法で,これにより寛典に浴する為の勤王の誠意を示す第一歩となります.

 それが閑亭によって却下された場合は,2つ目の案として,酒井家の支族である伊勢崎藩主酒井下野守忠強の弟・直之助を忠惇の養子に迎え,藩主忠惇に代って上京させ朝廷に謝罪すると言うものでした.
 直之助の母は,忠学の娘で妙寿院の妹の玲姫であり,血筋的にはそんなに問題が無いと考えられていました.

 この第2案の原案は,酒井家から出されたものでは無く,九条家側からの提案と考えられます.
 と言うのも,1月末の段階で九条家の使者,塩小路刑部権少輔命でほぼ同じ内容が出されていたからです.
 塩小路刑部権少輔は,此の度のことは,姫路藩主の心得違いであり,新政府は正月17日に姫路城と領地を取り上げたが,姫路藩は九条道孝左大臣の「御母公」である妙寿院の里方であるので,寛大な処置を下す様,朝廷に対し依頼し,家督の件は,国方に「幼年の人躰」がいるので,家督を忠惇から早急に「右人躰へ速に仰付」られる様に九条家を通じて朝廷へ「御取計らい御頼み成られたく候」と助言しています.
 この「幼年の人躰」とは,直之助の事であったと思われ,京都九条家内部では当初から閑亭の説得,藩主忠惇の説得が困難であろうという見通しを持っていたと考えられる訳です.

 こうした調整を経て,いよいよ2月15日,高須隼人,本多意気揚,力丸五左衛門,池田太久磨の4名が東下する事になりました.
 これに加えて国許から,開城交渉に赴いた大目付の亀山雲平を追加して,合計24名で東下しました.
 国許では,家老の大河内帯刀が留守を預かることになります.

 高須等には,妙寿院から閑亭に宛てた手紙が託されていました.
 その内容は,自分の所為かである姫路藩の命運を案じ,江戸に隠居する閑亭へ切々と心中を吐露したもので,閑亭自身の上京謝罪を求めました.
 此の度の出来事は,公議に対しても,雅楽頭家に於てもこの上なき重大な出来事であり,公議の為且つ先祖様に対し,また次に大勢の御家来衆共を助ける為にも,御忍びにて上京し幾重にも朝廷へお詫びする様,「念じ上げ参らせ候」と胸中を述べています.
 また,九条道孝に対しても同様の謝罪と,朝廷への取成しの嘆願をする様に進めており,詳細は高須等に諮って,速やかに聞き入れ上京する様に願っていると結んでいます.

 江戸に向けて東下一行が京都を出発した後,27日には姫路藩挙げての嘆願書第2弾が一括して朝廷に上程されました.
 これらは重臣力丸五左衛門,池内太久磨連名のもの,前に提出した大庄屋11名に加え室津大年寄と残りの大庄屋20名が連名したもの,町人惣代の高砂大年寄3名,飾磨津大年寄3名,姫路町大年寄7名が連名したもの,なお,この連名嘆願書には姫路留守居の利根川彦兵衛,青木平蔵,三浦分左衛門の3名連署の添書が付いています.
 最後に,姫路領寺院惣代の宝積寺,雲松寺の連名で仁和寺宮宛に提出されました.
 この様に,1月から2月にかけて集中して領内から嘆願書が出されています.

 重臣連名のものには,新政府から回答が付されていますが,内容は四条隆謌が姫路で回答したものと同じで,まだ姫路藩への沙汰が決まっていないので,「追って沙汰する」と言う素っ気ないものでした.
 なお,2月27日にも重臣2名は連名で,出兵と米穀を搭載したスクーナー形帆船2隻の献納を嘆願していました.
 内容的には同じものですが,その前日の26日,九条道孝が奥羽鎮撫総督となっているので,時宜に適った嘆願をしていると言うべきでしょう.
 なお,九条道孝は3月2日に出発しましたが,結局姫路藩の出兵は許されませんでした.

 2月28日,東下した高須,本多は江戸に入り,閑亭に面会します.
 しかし,江戸藩邸の空気は,彼らの説得を受入れる余地がありませんでした.
 閑亭の思想は強固で,
「徳川氏は元々我々雅楽頭家と同族であり,譜代恩顧の臣である.
 従って固く臣節を持して敢えてその意志を翻さず,自ら帰城や上京は首肯出来ない」
と言うものでした.
 そして,この思想に江戸藩邸の空気は統一されてしまっていたのです.

 結局,収拾策の第1案は実行に移す間もなく潰え,3月1日には忠惇の養子とした直之助を擁立し,朝廷に謝罪する為に上京する手筈が整えられています.
 元々,朝敵第三等である姫路藩は
「三等以上は其の罪軽からずに付き追討,開城にも立ち至り候は,直様其の城領地とも御預け追って関東平定の上何分御処分仰出らる」
とある様に,国許は備前藩の管理下にあります.
 この扱いは朝廷の沙汰次第であり,それを解くには藩主かそれに準じる名代を上京させて,陳弁に相勤めねば成りません.
 しかし,藩主忠惇は謹慎中であり,今これが行えるのは閑亭しかいないのです.
 ところが,閑亭はこれを真っ向から拒否しました.

 この為,3月3日に藩主名代として酒井直之助が朝廷に対し謝罪の為上京の途に就きました.
 家老高須,本多等東下の一行も,これに従って京都に戻っていきました.
 けれども,閑亭の謝罪拒否の姿勢は朝廷に漏れ聞こえ,それは姫路藩への厳しい処分を科すとの方針を固めさせるに十分な根拠となりました.

 この頃,有栖川熾仁親王を東征大総督に立てた大総督府は,参謀西郷隆盛の指令の下,静岡に軍を進めており,3月5日には駿府城に入り,15日を江戸城総攻撃の日と定めます.
 その後の歴史では,13日に西郷と勝安房との会談が江戸高輪の薩摩藩邸で行われ,江戸無血開城が合意された訳ですが,その前の3月7日,姫路藩にとっては重大な局面を迎えることになります.
 京都に於て,姫路藩主忠惇に対し官位剥奪と入京停止処分が下されたのです.
 こうして,直之助の上京謝罪には暗雲が立ちこめることになります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/05/14 23:14
青文字:加筆改修部分

 九条家が示した収拾策第2案に基づき,酒井分家の直之助を継嗣に立てて陳弁これ勤め,何とか御取潰しを免れようとした姫路藩.
 しかし,閑亭の説得に失敗したことは朝廷に聞こえることになり,結果的にそれが不興を買って,藩主の入京と官位停止の沙汰になります.
 この為,折角上京してきた直之助も,大津駅で足止めを余儀なくされてしまいます.
 この結果,直之助一行は本陣を憚って西福寺に逗留し,本多意気揚と荒川収蔵が先に京都藩邸に赴き,対策に奔走することになりました.

 一方,国許では,この入京と官位停止の他,罪第三等の沙汰である城領地の召上げと,文書往復始め音信不通とすべきとの措置命令が,新政府から送られています.
 この命令により,国許では大きな混乱を来したのです.
 こうなると,名門酒井雅楽頭家の社稷は風前の灯となります.

 17日に直之助は,大津に着いて沙汰書を知って謹慎し,その後19日に本多意気揚等が,隠居閑亭名義の嘆願書を太政官に提出しますが,これは何の回答も無く突っ返されてしまいます.
 それだけ新政府側の不信感は高まっていた訳です.
 これは閑亭自身が書いたものでは無く,嘘に嘘を連ねた重臣達苦心の作でした.
 一方,直之助自身も嘆願書を出しています.
 因みに,当時直之助は15歳だったのですが,この嘆願書では18歳になっており,しかも幼年より閑亭により養育されていたと言う苦しい嘘を書いていたりします.
 更に22日には重役連名で,ほぼ同じ文面の嘆願書を提出していますが,その中で注目すべきは,新政府が病院を建設するという情報を得た為,その冥加米として20万俵の献納を申し出ている点です.
 また,国許では視察に来た東久世通禧の参謀・岩下佐次右衛門宛に,国許の重臣達連名で嘆願書が提出されました.

 このうち,嘘を嘘で固めた閑亭名義の嘆願書は突っ返されていますが,重臣連名の嘆願書は新政府より阿波藩を経由して,
「追って何分の義御沙汰下さるべくに付き,嘆願の趣御沙汰及ばず候事」
と言う回答がありました.

 この他,百姓・町人惣代名義の嘆願書も出されています.
 こちらも,重臣と同趣旨の回答が付されていますので,一人閑亭名義の嘆願書のみが取り上げられなかったのが判ります.

 また,直之助の嘆願書に対しては阿波藩を通じて返答がありました.
 因みに,阿波藩が此処で介在しているのは,阿波藩が大津の警備を任されていた為です.
 その返答には,入京は許されないが,姫路に引き取って謹慎せよ,と言う事が書かれており,領地没収などには触れられていません.
 国許に送られたのは,当初案の文書で,その後,領地没収の沙汰が停止されたものと考えられます.
 こうして,26日大津を出発した直之助一行は晦日に姫路に到着し,此処で直之助は謹慎することになります.

 国許では,姫路に戻った高須隼人と,兵庫裁判所総督になっていた東久世通禧とが,太政官会計官御用掛を勤めていた摂津の素封家・神田兵右衛門を通じて交渉を開始していました.
 新政府としては21日に天皇の大阪行幸を控え,向背常ならぬ姫路藩の動向を探っておくことが必要と考えたのか,東久世通禧一行は,この頃に姫路を訪れることになりました.

 3月21日に兵庫裁判所の管轄下に置かれた姫路藩を訪れたのは,東久世通禧を中心に,外国事務掛岩下佐次右衛門方平,中路権右衛門延年,伊藤俊介博文,寺島陶蔵宗則等,薩長を中心とした兵庫裁判所の養殖を〆る人々でした.
 この「裁判所」は現在の司法のそれとは違い,「県庁」の様な行政府のことを指します.

 姫路に着いた一行は船場本徳寺に逗留し,22日に姫路藩の重臣達より誓書を受け取り,その間姫路藩の実況を検分して,24日に姫路を去りました.
 そして,24日に正月以来長らく姫路城の守備に就いていた備前兵の引揚げが許可され,桐ノ門,絵図之門の2箇所には薩摩兵が入ることになり,残りの門の守備は姫路藩の手に戻されることになります.
 但し,桐ノ門,絵図之門の2箇所は内曲輪に入る要所であり,一朝事があれば,直ぐに薩摩兵が乱入する手筈を整えています.

 この時,藩の重臣と岩下,中路,そして神田等が交渉して姫路藩救済策を提案していたと考えられます.
 新政府としては,関東が未だ治まらず,東北の戦いも長引いているのに,ここで姫路藩に余計な叛乱を起こされては適わないと言う打算も働いたのかも知れません.
 それよりは,温情を垂れ,藩を存続・救済することで実を取る,つまり新政府への援助を引き出すことが重要であると考えた訳です.

 こうして提案されたのが,東久世が統治している地元の兵庫に楠社を建立すると言うものでした.
 この案自体は,既に有志や尾張藩からも提案が出ていましたが,これを東久世の御膝下である兵庫湊川の石碑のある所に,一社を姫路藩の資金で造立し,神号の勅許を得られれば,東久世の手柄にも成ると言うもの.
 この嘆願を,東久世通禧は非常に喜び,姫路視察を終えた後,4月4日に早速大阪行幸中の天皇に拝謁して,姫路視察報告と共に楠社造立について奏聞し,勅許を仰ぎました.
 そして,その願いは聞き届けられ,楠木正成に対し神号を追諡し,社の造営費1,000両が下賜された後,姫路藩を始めとする各藩からの寄付金が募られた訳です.
 これが現在,神戸にある楠公さんの基になった訳です.

 まず,こうした布石を打った上で,以後の交渉窓口は東久世通禧にシフトしていきました.

 4月1日,姫路在住の家臣より,隠居閑亭を始めとする江戸詰藩士を姫路に引き取ることを願い出ました.
 4日に新政府から回答があり,先ず「病気」の閑亭については,「願い通り引き取り養生すべし」と認められ,江戸詰の藩士については,官軍が関東に向けて進軍しているので,それを避けるのならば,許可するとしています.
 更に,交渉の為に3〜4名の姫路藩士の江戸下向鑑札発行願いと,持ち船2隻の関東回航の為の鑑札発向願いについても許可されています.

 4月9日,大河内帯刀と力丸五左衛門が陸路で閑亭説得に向かいました.
 一方,持ち船1隻には平岩三右衛門と高橋半次郎,もう1隻に星野半兵衛,伊与久伴造,内田三吉,羽島諸左衛門が乗り込んで海路で武州品川を目指しました.
 江戸から姫路に帰還する人々の数は,家族も含めると2,000名に及んでいます.
 この頃,江戸では既に,勝敗は決し,4日には江戸無血開城を実行して会津と東北方面平定に軍を進めていました.
 各藩が挙って,こうした東北戦役への兵士提供を願い出ていた中,姫路藩も閑亭代筆として,軍勢派遣を嘆願していますが,新政府はこれを一顧だにしていません.
 未だ未だ,姫路藩への疑いは晴れていなかったのです.

 こうした中,江戸藩邸では一部の藩士が抵抗し,あくまでも閑亭に臣従して江戸に残ることを,藩主忠惇に嘆願する者が現れました.
 その数24名.
 姫路では何とか領地没収を免れようと苦心惨憺し,既に大勢は決しているのにも関わらず,未だ幕府に殉ずると言う,自分の言葉に酔いしれている人々がいた訳です.
 そして,説得に訪れた大河内帯刀もその魔力に取り憑かれてしまい,ミイラ取りがミイラになる始末.

 そうなると結局は,力丸五左衛門が一人浮いてしまう存在になってしまいました.
 徳川家への報恩を顧みないのは,不忠の思想ではありますが,王臣となる事を拒否すれば姫路藩の本領安堵は成らず,酒井雅楽頭家の家名存続も許されず,1万数千人に及ぶ姫路藩の一族郎党は浪々の身になってしまいます.
 姫路藩を預かる重臣として,また藩命を帯びて関東に降ってきた責任者として力丸は,何としても閑亭説得の重責を果たさねば成りませんでした.

 しかし,姫路と違って江戸は異なる倫理観の下に支配されていた訳で,閑亭の逆鱗に触れた力丸は江戸中屋敷に謹慎を命じられ,面会も許されませんでした.
 6月に漸く帰藩を命じられるものの,姫路出立前夜,2名の藩士に襲われ命を落とすことになります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/05/15 22:47

 さて,政府からまだ疑いの目で見られている姫路藩では,甲子の獄で拘禁されていた人々が釈放され,新政府の布告を受けて人心一新,つまり,勤王派が復権を果たししました.
 勤王派は,国許では一旦勤王に決していた家中が,江戸藩邸からの帰還組によって引っかき回され,再び混乱してきたことを重く見て,まず家中に布告を出し,綱紀粛正を図ることにします.
 特に,勤王思想への方針に異論を持つ者がいれば,遠慮無く申し出よと述べています.

 勤王派は,外交掛に本多蔵次郎正知と松崎良介を任じ,彼らは東久世の懐刀である岩下方平や中路延年と言った重役から情報を得て,新政府が姫路藩に対し未だに疑いを持っていることが沙汰の遅れになっている事を知りました.

 この為,更に人事刷新が加速せられ,特に延年の意見により,高須隼人は,三間魁平,西村武正,近藤薫,武井守正,永井伴正,山口太藤平と言った人々の謹慎を解き,大目付久保清兵衛,亀山美和,小寺友作等の佐幕派の代わりに登用し,他にも新井庄右衛門,牛込次太夫,原田藤右衛門,松崎彦左衛門と言った勤王派が躍進しました.
 一方で,この時期,9名の脱藩者を出しており,以後も次々に脱藩者が発生していますので,佐幕派に対する締め付けが非常に厳しかったことが判ります.

 こうした政治改革を行いつつ,今まで店晒しにされていた奥羽追討への参加願いを再び嘆願し,本領安堵を得ようとします.
 この嘆願では兵士の出兵の他,軍費の献納も提案していました.

 お金の無い新政府に於て,軍費と言うのは喉から手が出るほど欲しいものでした.
 只でさえ,戊辰戦争で多額の戦費を費やしている状態で,更に軍備を整える費用にも事欠く状態であり,こうした訴えは,新政府に訴求するものがありましたし,もしかしたら,岩下辺りの仄めかしもあった可能性があります.

 何通も出していた嘆願書の中で,5月になって漸くこの嘆願書が遂に,新政府の取り上げることになりました.
 岩下からは内々に新政府の意向として,軍艦一隻の建造費として37万5,000両の献納が提案されましたが,姫路藩と雖もそこまで内福な訳では無く,かつ,ここ数年の時代の流れで恩田木工の改革により,折角貯め込んだ貯金を叩かざるを得ない状態となり,37万5,000両の献納は難しいものがありました.
 この為,先ず15万両を献金し,残り20万両は翌年から年賦で献金させてくれないかと言う提案をしています.

 こうして,奥羽出兵は出来ませんでしたが,金額も何とか15万両の献納で済みそうな気配が漂い始めました.
 新政府からは費用の調達方法について問い合わせが来た為,10万両は直之助と家中から調達し,残りは市在の者から献納させ,調達でき次第速やかに献上すると言う回答を返しました.

 5月13日,最終的に旧弊一新の「誓約書」を新政府に提出しました.
 これには,
「今般微臣ども同心協力して,勤王の志を厚く相立て旧弊一洗し必死尽力皇恩に報い奉るべし,もし違背の者これあるに於ては天誅蒙るものなり」
と言う文言が書かれていました.
 この誓約書提出によってやっと朝廷の疑いも解け,まず5月15日,現藩主忠惇の蟄居が申し渡され,直之助に家督相続が許されて旧領は安堵されることになります.
 そして,同じ日に15万両の献納沙汰書が,支族である小浜藩主酒井若狭守を通じて伝達されます.

 5月25日には直之助改め酒井雅楽頭忠邦が御礼言上の為,入京願いを酒井若狭守を通じて出し,6月6日に上京を許可され,10日に謝辞言上の為参内する事が出来,その席にて,「御所五の御番へ御番入り」が仰せ付けられ,藩兵による御所の警備が許されることになりました.

 この結果,半年近くに亘る姫路藩の戦争は幕を閉じた…筈でしたが,5月5日に閑亭が全く逆のことをしていたことが,今頃になって判明しました.
 閑亭は,東征大総督の有栖川宮熾仁親王に対し,「姫路藩領召上げ」の嘆願書を提出していたのです.
 しかも,同一の嘆願書を太政官に提出する為,江戸表から酒井伝次郎,浦野沖右衛門の両人が上京していました.
 もし,この嘆願書が太政官に取り上げられてしまえば,今までの国許での苦労は水の泡になります.
 忠邦は驚愕し,何としてもこれを差し止めようとします.

 閑亭の主張はこうです.

――――――
 徳川家の家名相続が許されたことに感謝するが,忠惇の主家輔翼の道が行き届かなかった為に,今日の事態に立ち至ったことは「悲嘆惶倶の至」である.
 譜代大名の使命は徳川幕府を支えることであるが,その徳川家が今日の様な衰運に至ったのは,幕府を補佐すべき立場にある譜代大名としての「私共」の落ち度である.
――――――

 そして,「私家筋の義,元来徳川家臣僕」であり,酒井家は徳川家より莫大な恩恵を受けている家柄であると説明し,「徳川家衰運の今日に至り累世の恩義を顧みず,主家と並列比肩候様にては,君父を軽蔑するの筋に相当たり」,「君子の上にては真に忍び難きことに御座候」と家臣として徳川家と対等の大名として扱われることの不忠を表明しています.

 外様大名は,今まで虐げられてきたものであり,徳川家が弱体化した今は,打破すべき勢力という認識を持っています.
 しかし,譜代大名は徳川家と300年来の君臣関係にあり,徳川家の衰運は補佐すべき譜代の落ち度であると言う主張を示し,しかも酒井家は先祖に於て徳川家と姻戚関係にあり,それを誇りとしており,しかも2名の大老を輩出して江戸幕府の中枢を担ってきた家柄であるので,外様大名と立場が異なる.

 こうして,閑亭は「私共家筋にては徳川家に随従仕り,御国恩に報い奉りたき志願に御座候」と主張した訳です.

 更に,閑亭は領地についてこう書いています.
「此の度御変革の折柄に付,召上げられ候義は当然の御事にて些かも如何ござ無く候」
と,朝廷より領地召し揚げの沙汰があることは当然であり,王政御一新に当たり君臣の分義を忘却し,各自私利私欲に奔り,天朝を欺き,上は「御失態を醸し」下は「賊臣の覬覦を生ずる」様を見て深く痛心憂慮に絶えず万死を顧みずこの嘆願に至ったと言う真情を吐露しています.

 ヒロイックにどっぷり浸かった面から見れば,まぁごもっともな理屈なのですが,現実問題としてこの嘆願が聞き届けられてしまえば,姫路藩15万石は召上げ,酒井雅楽頭家の名は消え,家臣は浪々の身になってしまいます.

 この為,忠邦は直ちに閑亭の嘆願書の取り消しを太政官に求めましたが,太政官からの返信は,閑亭の深意を聞き質し,御沙汰の趣旨を説得し,閑亭の考えを朝廷に報告する事を命令されてしまいました.
 また,隠居が頭の痛いことをしてくれた訳です.

 献金と並行して,江戸に高須隼人他重役が赴き,閑亭の説得に当たりました.
 その間,先に述べた力丸五左衛門の暗殺などもありましたが,領地没収については閑亭は固執しないことになりました.
 しかし,嘆願書の取り下げ頑として拒否し,最終的にこの嘆願書の扱いは朝廷に一任されることになりました.
 結局,田安家からの口添えもあって,閑亭と前藩主の忠惇は,静岡に退転した徳川家に預けられることになりました.
 閑亭は,9月14日に静岡の酒井家の末家である酒井録四郎家に引き取られ,徳川家に随従が許されることになり,忠惇もまた11月12日に徳川家に預けられることになります.

 こうして,姫路開城,罪第三等認定,領地没収嘆願と3つの危機を乗り越えてきた姫路藩でしたが,この出来事により,姫路藩の旧態依然たる体質は再び朝廷の知る所になり,更なる徹底した藩政改革が姫路藩重臣達に求められることになりました.

 ところで,15万両の話はどうなったか.

 5月20日に15万両の内,9万両が京都へ,6万両が軍務官に納入される命令が出されています.
 5月28日に9万両の内5万両を正金で納入し,残り4万両は7,150俵の米の代金として10,767両1分永50文,残金29,232両2分3朱永12文5分となっています.
 軍務官への6万両は,6月9日に30,800両が正金にて納入され,7,850俵の米の代金として12,026両1分1朱永11文5分が計上されて,不足が17,173両2分2朱永50文.
 不足分の合計は46,406両1分2朱永1門で,6月22日に中路延年経由で京都納め分として21,406両1分3朱が納入され25,000両未納,更に6月25日に18,732両3分が会計官に納入され,残金6,267両1分となりますが,これは納入されたかどうかは不明です.
 但し,7月には会計官より献金領収証が出されているので,何らかの形で献金が完了したと思われます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/05/17 23:45


 【質問】
 その後の姫路藩は?

 【回答】
 1868年,半年に亘ってガタガタした姫路藩も,新政府への15万両献金と,隠居,前藩主の徳川家への御預けで落ち着きを取り戻しましたが,何時又この様な事態になるか判らないと言う疑念を,新政府に残したままになりました.

 こうしたことから,7月13日,新政府は姫路藩の3名の家老である高須隼人,本多意気揚,河合屏山を上京せしめる様に命じます.
 この命令で7月17日,高須と本多は上京しました.
 しかし,河合屏山は此の期に及んでも,未だ江戸巣鴨染井村に幽閉されたままで上京出来ませんでした.
 そこで屏山を迎え入れる為に,八木八右衛門,中嶋権次郎,石川壮次郎の3名の藩士が江戸に向かうことになります.
 こうして,7月23日に漸く高須と本多が,弁事務所の下に出頭することになりました.
 その場で,彼らには「御内諭」が申し渡されます.

 その御内諭は,姫路藩の状況を厳しく糾弾する内容でした.

――――――
 姫路藩は,幕府譜代の列に連なり,祖先の雅楽助以来特別の由緒を有している家柄である.
 大政御一新の時に当たり,直之助の養父雅楽は徳川慶喜に随従し,不届き至極の次第により本城の追討を仰せ付けられた.
 隠居閑亭と直之助は,謹慎し謝罪嘆願を申し出たので,出格寛大の思し召しを持って直之助に家督相続を赦された.
――――――

 また,先般徳川亀之助へ徳川家の家督相続が赦されたが,この様な沙汰に対する「大義名分を如何汲取り候や」と,姫路藩の態度を問い質しています.
 その上で,
「国許に於て家来共以ての外不心得の向きもこれある趣,追々お聞き込みもあり」
と,藩内の不穏な動きを指摘し,
「かくまで寛大の御趣意を忘却し,直之助身上についても誤りなどを引き出しかねない」
恐れがあると批判し,家老2名に対して,
「容易ならざる儀に付,其の方両人並びに河合と申合せ,大義のある所に随い方向を定め,御一新の聖慮をあくまで体認し直之助を輔翼し一藩を匡救して,藩屏の任を相立て仕るべし」
と厳命しました.
 そして,桑山孫三郎,小寺嘉兵衛,石川太郎兵衛,根岸弥次右衛門,高橋俊左衛門,小林金五兵衛の6名を取り糺し,断案の上厳科に処し,人材登用一藩改正に尽力せよとまで指示しました.

 つまり,不安定な姫路藩政を厳しく指弾し,未だに佐幕派が力を持っているのは良くないので,彼らを排除して勤王の実を挙げる様にしろと言う,謂わば内政干渉に近い命令だったのです.

 姫路藩では確かに,5月から勤王派が復帰し始め,徐々に藩政改革が進んできました.
 しかし,国許では勤王派が力を得るに従って,江戸藩邸に勤務していた佐幕派の藩士を中心に脱藩する者が相次ぎ,この脱藩者の存在が社会の不安定化を招いていた訳です.

 この時代,姫路藩の指導層を形成したのは5名の家老で,その下に年寄格が5名,次いで御番頭2名,以下,大目付,町奉行,勘定奉行,寺社奉行などが評定所(御用場)に詰めて,藩政を決定していました.
 この時期の家老は,高須隼人,本多意気揚,大河内帯刀,内藤半左衛門,河合屏山です.

 高須は筆頭家老の家格でしたが,前年の暮れに代替わりした所で,未だ若く十分な指導力を発揮するまでに至っていません.
 本多は温厚な人物で,心情的には尊王攘夷派に共感を寄せていました.
 大河内と内藤は保守佐幕派の代表であり,隠居閑亭に随従してこの時期江戸に滞在していました.
 河合は父寸翁の威光もあり,また姫路藩尊攘派のリーダーとして強力な指導力を有していましたが,閑亭と対立して甲子の獄以来,4年間に亘って江戸に軟禁されており,藩政から阻害された状況でした.

 こうした家老を差置いて,藩士達に隠然たる影響力を持っていたのは,600石取りの年寄松平孫三郎でした.
 松平は,甲子の獄を演出した高須隼人広正の信頼が篤く,文久年間から佐幕派のリーダーとして活躍していました.
 その信任を受けたのが,亀山源五右衛門(雲平)です.

 また,御番頭を勤めていたのは,後に暗殺される470石取りの力丸五左右衛門と,400石取りの池内太久磨でした.

 そして,新政府から名指しで排除を要請された人物の内,最初に名前の挙がっている桑山孫三郎こそ,先ほどの松平孫三郎の事でした.
 孫三郎は維新の際に松平姓を憚り,祖先の出自に因んで桑谷姓を名乗っていました.
 彼は,1862年に当主忠績が京都所司代代理を勤めた際には,勤王派弾圧の指揮を一時的に執り,尊攘派志士を「倒幕不逞の輩」と排斥しました.
 河合屏山とは当然対立する間柄ですが,実は共に河合寸翁の娘を娶っていて,姻戚関係にあったりするややこしい間柄でもあります.
 但し,閑亭等の思想には同調せず,姫路城開城の判断や家名存続・本領安堵の方針決定に於ては,少なからぬ影響力を発揮したと考えられます.

 この孫三郎の下で大目付として活動していたのが,小寺嘉兵衛でした.
 こちらは河合惣兵衛等の尊王攘夷派に対し,「絶対的佐幕説」を唱え,保守勢力を代表する存在でした.
 「絶対的佐幕説」は,閑亭が信奉した「封建原理主義」と同じ思想です.
 後に,小寺嘉兵衛は同僚である石川太郎兵衛と共に江戸に下ってそのまま藩邸に滞在し,力丸五左右衛門を暗殺した王臣化拒否のグループを糾合するのに,影響力を発揮しました.

 小林金五兵衛は,稲庭新蔵や高橋市次と共に,勤王派が西洋式の銃隊を編成したことに対抗し,古来の槍と剣で武装する槍?隊を結成し,佐幕説の同志を集め,同盟して脱藩を誘導するなど,保守佐幕派の行動部隊となっていました.
 そして,力丸五左衛門の暗殺にも関わり,河合屏山や武井守正の命をも狙ったとされています.

 幕末の姫路藩は,河合屏山をトップとして河合惣兵衛以下,甲子の獄で死罪を命じられた8名など若い下級士族を中心とした勤王派と,藩主忠績以下家老高須隼人広正,年寄松平孫三郎,大目付小寺嘉兵衛などの指導層を中心とした佐幕派に分かれていましたが,更に明治になると,佐幕派は分裂し,国許で本領安堵と酒井家の家名存続を重視する松平孫三郎や亀山源五右衛門の穏健派と,あくまでも王臣化を拒否し閑亭と運命を共にする大河内帯刀,内藤半左衛門,小寺嘉兵衛の急進派に分裂しています.

 さて,国許に帰った高須・本多の家老は,「御内諭」の実行に取りかかりました.
 権力基盤が余り強くない両者は,悲壮な覚悟で藩内の御一新に取り組んだと思われますが,その沈静化には1ヶ月を要し,8月7日に関係者を処分し,8日に願書を新政府に提出しました.

 とは言え,「断罪せよ」と厳命された6名を入牢にしたほか,以下親類預け,慎引,叱りなど合計68名と自裁を命じられた人々がいた甲子の獄に比べると非常に生温い措置しか出来ませんでした.
 藩内に確固たる権力基盤を持たない,高須と本多の限界だった訳です.

 こうして,藩主の威光を楯にせざるを得なくなり,京都に出仕していた藩主忠邦が姫路に帰ることになります.
 そして,勤王派のリーダーである河合屏山の帰還を待って,第二次粛清が行われることになりました.
 その河合屏山は,先述の様に軟禁されていた訳ですが,すんなりと釈放された訳で無く,大雨の時に夜陰に乗じて救出すると言う劇的な救出活動が行われました.
 屏山は,守旧派に常に命を狙われていた為です.

 8月23日,忠邦がお国入りし,29日に俗論取締りの触書を出し,国論一定に着手しました.
 同じ日に屏山が姫路に帰ってきて,ここに藩政の改革体制が整いました.
 そんな中,9月7日に新政府軍務局から姫路藩に対し,福山藩が函館に出張命令が下ったので,福山藩が従来から警衛していた天保山の守備を,300名の精兵を以て引き継ぐ様に命令が下りました.
 そして,この命令に応じて,300名の藩兵を大阪に向けて出発させましたが,保守派の血気盛んな勢力を新政府の協力の下,大阪に送り出して,その間,国許での改革を行い,彼らの怒気が収まるのを待ったと言う可能性があります.
 この派遣命令は,その後1870年2月まで解かれなかった為です.

 その後,11月に第二次の粛清があり,更に第三次の粛清が翌年の2月にありました.
 結果として,4名の藩士が切腹となり,家老や年寄の家禄没収,御家断絶などの苛烈な処分が下ることになります.

 因みに,姫路藩は藩籍奉還の上表を最初に認めた藩であり,案文は菅野白華が起草したものですが,建議書は河合屏山が考え出したものだったりします.

 余談ついでに,力丸五左衛門の暗殺後,その養子大吉は,養父の敵を討つ為,伯父の米津市左衛門と実兄河合元蔵,そして使用人で暗殺者に素手で立ち向かって重傷を負った山下真桂の4名で,姫路藩としては最後の敵討ちをする為に江戸に向かい,3年間の探索の結果,暗殺犯の1人下田鏐三郎は,追い詰められて1871年に自首して死刑に処せられました.
 もう1人の暗殺犯である牛込弥五郎も又,上野国伊香保温泉に隠れていましたが,役人に追い詰められて逃げ切れないことを悟り,自害して果てました.
 この報に接して,力丸大吉は,姫路に一旦帰りますが,力丸家とは縁を切って上京し,後に実業界で活躍したと言う事です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/05/18 23:38
青文字:加筆改修部分


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