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◆◆◆討幕派 Anti-sógunátus Frakció
<◆明治維新 目次
戦史FAQ目次


 【link】

「ダイヤモンド・オンライン」◆(2013/05/07) 幕末志士にはどれほどの危機感があったのか? 今,日本人が忘れかけている「挑戦者の気概」

「哲学ニュースnwk」◆(2013/05/16) 岡田以蔵について語るスレ

『幕長戦争』(三宅紹宣著,吉川弘文館,2013/3/8)

『仏教徒坂本龍馬』(長松清潤著,講談社,2012.8.2)

『不抜の剣』(植松三十里著,H&I,2016)

 幕末維新の主役たちを雲のごとく輩出した幕末三大道場として知られるのが,
千葉周作の北辰一刀流 玄武館
桃井春蔵の鏡新明智流 士学館
そしてこの本の主人公・斉藤弥九郎の神道無念流 練兵館です.
(伊庭八郎の心形刀流 練武館を含めて四大道場という数え方もあるそうです)

 練兵館には,高杉晋作や桂小五郎など長州藩士が多く通っていたと記憶しており,斉藤弥九郎の名は昔から知ってました.

 ただ,千葉周作と違って,どういう人物だったかを知る取っ掛かりが少なく,本著を通じてはじめて,その人となりに接する取っ掛かりを得られた気がします.

 斉藤弥九郎さんは越中の百姓の家に生まれ,徒手空拳から歴史に名を残した人です.
 ビルディングロマンスとして面白く読めたのはもちろんですが,若き日の江川太郎左衛門や渡邉崋山との交流や,当時の心ある武士が何を考え,どう振舞ってきたのか?について描いている点が魅力的です.

 それともうひとつ.登場人物の心のひだが,実に細かく描写されている印象をもちます.
 登場人物のこころの動きがじぶんのそれと重なり,気づいたら,彼らと自分の境目が途切れ,本の世界に没入している自分にハッとさせられます.
 とくに,富山から江戸に出てくる道中の描写は,秀逸でした.

 それともうひとつ感じたのが
偉大なる凡人
という風景です.
 こういう言い方をすれば失礼かもしれませんが,斎藤さんという人は,もともと小器用で,何をやっても上手にできるタイプなんですね.
 そろばんもできる,本も読める,体も大きい,教えるのもうまい,剣術もうまい,女にもモテる・・・
 なにをさせても,ほどほどにバランスよく才能があるんです.
 ふつうなら魅力を感じないでしょう.
 それなのに本著の斎藤さんはなぜか魅力的です.
 思うに,脇を固める登場人物が,通常の作品以上に魅力的に描かれているからではないでしょうか?
 生涯の伴侶・小岩
 やたら声のでかい渡辺崋山
 韮山のきかん気小僧・江川太郎左衛門
 そして藤田東湖.
 ドラマでも何でもそうですが,魅力的な脇役がいない作品は面白くありません.

 また,この本には,江川家の出自がわかりやすく描かれています.
 韮山反射炉で知られる江川太郎左衛門は旗本ですが,江川家は旗本の中でも別格の家柄なんですね.
 その理由を初めて知りました.
 とても面白かったです.

鉄砲=卑怯
というあやまった武士道ばなしに冒されていない点もおススメできるポイントです.

 戦後日本の道場に対するイメージでは,道場は「技を学ぶ場」ですが,江戸期の道場は,そういうものではなかったのでは?という気がずっとしていました.
 この本を読んで,ようやくその穴を埋めることができました.

 明治の軍事近代化が成功した背景基盤は,斉藤弥九郎をはじめとする江戸の兵法家たちが築いたのではないか?
 そんなことを思っています.

 知られざる幕末の重要人物に光を当てた,心に沁みるものがたりです.
 一読をお勧めします.

------------おきらく軍事研究会,2016.6.9

『山岡鉄舟,幕末維新の仕事人』を読み解く (2012/11/05)◆「国際インテリジェンス機密ファイル」

『龍馬史』(磯田道史著,文春文庫,2013.5.10)

『龍馬の金策日記,維新の資金をいかにつくったか』を読み解く (2013/01/07)◆「国際インテリジェンス機密ファイル」

『龍馬を超えた男,小松帯刀』を読み解く (2013/05/31)◆「国際インテリジェンス機密ファイル」


 【質問】
 尊攘過激派の活躍を許したのは,ある意味阿倍正弘でしょうか?
 阿倍老中以前にも(ペリー以前)攘夷はともかく,尊王派ってそんなに盛んだったんでしょうか?

 【回答】
 結果から見ればそう.
 阿部自身が雄藩との関係を利用しながら,幕政をリードしようとしていたけど,それは「雄藩による幕政による介入のおそれ」というリスクを犯すものだったから.

 あとは,幕藩体制は小中学で教えられていたほど,固定化され停滞した時代ではなかったという原因もあると思う.
 江戸初期においては養子縁組なんかについて厳しかったけど,中期以降はかなりゆるくなって,身分制は建前ではあっても相当融通が利いたし.
 学問に関しても,吉宗の時に蘭学を部分的に解禁したことで,様々な分野で西洋の知識がかなり流入していた.
 国学も幕末の最末期まで過激化しなかったから,幕府もさほど問題視してない.

 社会的状況が幕藩体制崩壊へと向かいつつあったところへ,リベラルな阿部が登場したので,雄藩が台頭し,攘夷運動を誘発したと言えるのでは.

日本史板,2003/02/19
青文字:加筆改修部分



 【反論】
 阿部をリベラルと評価するのはどうかと思う.
 ただの優柔不断なアフォにすぎない.

 【再反論】
 いや,俺は評価できる.
 それまで幕政は譜代大名の特権であったわけで,そこに切り込んだのだから.

 幕府内は財政難・列強の開国要求など,重要な問題に柔軟に対応するために,かなり思い切った人材抜擢も始めていた.
 しかし,列島全体の海防と通商の問題に大して,幕府のみで対処することは不可能だと判断して,水野忠邦も様々な試みをした.
 しかし,保守的な幕閣によって阻まれ失脚.
 阿部は水野の二の舞にならないように,雄藩との関係を強化し,彼らの力を背景に具体的な政策を取ろうとした.

 今の官僚を見ても,政治参加の特権を奪われることへの抵抗はとても大きい.
 おそらく当時も譜代大名からは,相当の反発があっただろう.
 で,出てきたのが,内政についてはがちがちの抵抗勢力である井伊直弼.

 また,阿部の施策が結果として雄藩の政治力の強化を生んだ.

日本史板,2003/02/19
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 なんで幕末の諸藩の政治って,殿様や家老じゃなくて足軽といった下士や,馬廻り役といった中級武士が担当してたんですか?
 西郷隆盛とか大久保利通は下級武士なのに,薩摩の代表格になってるし…

 【回答】
 家老という職は,藩政のかなりの部分を担わなくてはならないわけですが,幕末前半に見られた尊皇攘夷の活動というのはどうでしょう.
 藩の仕事としては外交,しかもいわゆる思想活動やテロ活動,あるいは治安維持行動という類のものです.
 怪しげな口調で語るなら,
チンピラ同然の者たちに要人を襲わせたり,
逆に要人や野の有識者たちと密書のやりとりや討論をしたり,
裏金を工面したり,
幕府から禁止されている最新兵器を密輸したり,
(藩の正規軍の隷下に置かない)独立部隊っぽいものの監督司令官にさせたり
などなど…

 これは家老の仕事ではありませんよね.
 常識的に考えても,もっと下位の実力ある者の勤めでしょう.

日本史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 幕末の英国人商人グラバーが薩摩や長州に武器を売っていたのはよくしられていますが,薩摩や長州の新式武器輸入ルートは他にもあったんですか?
 また,薩摩はともかく長州は,財政がそう豊かではないですよね.
 決済はうまくいったんですか?

 【回答】
 初期は,グラバーなど一部の武器商人が接触した程度でしたが,開港以降は各国の武器商人が押し寄せ,各大名家も様々なルートで武器を購入しています.
 その中で突出していたのが,倒幕軍ではグラバーであり,幕府・奥羽列藩同盟軍ではスネル兄弟だった訳で.

 例えば,土佐ではスイス人武器商人ハープルと大砲購入の為に接触していますし,長州や紀州ではプロシア人武器商人のカール・レーマンと撃針銃の購入や,砲艦の購入を行っています.

 決済については,最初は農商民に対し,御用金や調達金として調達した金で支払っていました.
 その後,その頃日本に進出し始めた外国銀行からの融資により決済が行われ,最終的にその返済は,明治政府に任されました.

 軍費の調達に関しては,大久保利通などは,各大名家からの醵金と徳川将軍家が所持する領地800万石の内200万石を没収して,そこから上がる収入で返済に充てるとしており,且つ,短期的には鳩居堂とか三井,鴻池などの豪商や興福寺と言った山門,東西本願寺などの寺社からの拠出金で賄う様になっています.
 また,一般市民からも拠出金を仰ぐくらいにも貧しています.
 この一般市民からの拠出金で62万両あったり.

 この他,地租を担保とした国債である会計基立金300万両の徴募を商人達に課したり,不換紙幣として太政官札を発行して凌いだりしています.
 とは言え,太政官札の流通は困難を極め,正貨との交換比率は江戸・大坂でも当初から10対4程度のものでした.

 最終的には,版籍奉還により負債も国家が吸収する事となり,税金として国民に跳ね返った訳ですが.

 因みに,東海道東征軍5,000名の1ヶ月の軍費は640両で,屡々町方での訴訟が起きていますし,江戸開城から,上野戦争までの2ヶ月の間は軍資金の枯渇にありました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 「維新志士」というのは,明治維新で成立した新政府の役人のことを指すのでしょうか?

 【回答】
「維新志士」ってのは幕末の薩長や水戸・土佐などで,尊皇攘夷の思想で活動してた連中のことかな?
倒幕を成した連中は新政府の中心になったけど,勝海舟みたいな幕臣も新政府に参加している.
新政府としては近代化を進めるためや,新たな統治機構の整備や運用のために,洋行経験のある旧幕臣を登用したりしてるからね.
 逆に,戊辰戦争など戦場にしか活躍の場がなかった連中は,不満を漏らして新政府から去っていったり,不平士族に担がれて反乱を起こしたりもしてる.
 だから,新政府の連中が志士上がりばっかってわけじゃない.

日本史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 島津斉彬(なりあきら)って誰?

 【回答】
 1809~1858.
 幕末の薩摩藩藩主.
 蘭学の素養深く,また,支配する琉球を通して知り得た外国の情報を基に,積極的に西洋技術導入に取り組み,世間からは「当時三百諸侯中の世子の中でも随一」と言われた人物.
 しかし戊辰戦争前,藩主になって7年あまりで死去した.


 【質問】
 「お由羅(ゆら)騒動」って何?

 【回答】
 薩摩藩第28代目藩主の座を巡るお家騒動.「嘉永朋党事件(かえいほうとうじけん)」「近藤崩れ」「高崎崩れ」とも呼ばれる.
 島津斉興(なりおき)は斉彬(なりあきら)ではなく,側室・由羅の子である久光に家督を譲ろうとした.
 これに対し,高崎五郎右衛門(ごろううえもん)・近藤隆左衛門(りゅうざえもん)を中心とする斉彬擁立派が斉興を隠居させる活動を始めたため,斉興は激怒し,斉彬擁立派の切腹・遠島・謹慎などの処分を下した.


 【質問】
 何で奇兵隊は政府軍として留まれなかったんだろう?

 【回答】
 一部は登用されたけど,殆どは切り捨てられたんだよね.

 理由は長くなるけど,
「奇兵隊は身分関係ない平等な隊」
って言われたりするけど,間違いなんだよね.

 身分関係なく誰でも採用したけど,出自によって階級はきっちり分けられてた.
 誰でも採用したのは,長州は当初,薩摩含め日本全体が敵で,そうしないと兵が足りなかったから.
 被差別部落も日本で最初に解放宣言して奇兵隊に入隊許可したぐらい足りなかった.

 みんなこぞって参加したのは,活躍したら士族やら出世できるっていう噂があったから頑張った.
 集まってた兵は,
「新政府ってどんなん?
 要するに薩長幕府?
 がんばれば俺らも侍に取り立てて貰えるって事でOK?」
ぐらいの認識なので,世の中の仕組みが丸ごとモデルチェンジするなんて分かってない.

 でも戦争終わったら,そんなに兵隊要らないから,士族中心に新政府軍に登用.
 薩長としては,できれば新正規軍は自分とこの兵だけにしたい.
 けど,それやると金は全部自分とこで出さないといけない.
 んなことになったら,政府が軌道に乗る前に破産する.
 いつ軌道に乗るのか見通しも立たないし,そもそも軌道に乗るのかも不明.
 なので,金は日本全国から集めないといけない.
 そうすると,全国の藩は「金出すんだからうちの兵も入れろ」と言ってくる.
 つうか,薩長だけの軍が正規軍とかになったら怖いし.

 それで残りは,「何だよ,話が違うだろ」(つうか元々話が分かってない)で怒り心頭,準不平士族みたいになっちゃった.
 それで木戸孝允が命令して,「討伐→残党も処刑」で幕引き.
 10年たって西南でも血の雨が降った.

漫画板,2014/11/01(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 高杉晋作の
「三千世界の烏(からす)を殺し ぬしと朝寝がしてみたい」
ってどういう意味?

 【回答】
 さんぜん‐だいせん‐せかい【三千大千世界】
〔仏〕須弥山(シユミセン)を中心に,
日・月・四天下・四王天・三十三天・夜摩天・兜率天・楽変化天・他化自在天・梵世天などを含んだものを一世界とし,
これを千個合せたものを小千世界,
それを千個合せたものを中千世界とし,
それを千個合せたものを大千世界とする.
大千世界のことを三千大千世界ともいう.
一仏の教化する範囲(一仏世界).
われわれが住む世界の全体.三千世界.三千界.一大三千大千世界.

 カラスの鳴き声=カーカー→かかぁ=自分の妻.

 ですから歌の意味は,自分の妻を殺し,ぬし(=浮気の相手)と朝まで一緒にいたい,と浮気を希望した歌です.

日本史板,2003/01/23
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 橋本左内って誰?

 【回答】
 橋本左内(1834~1859)は,幕末の勤皇の志士.
 福井城下常磐町の外科医の子として生まれ,15歳で「啓発録」を著した.
 19歳で藩医となるが,1854年,江戸に出て洋学を学び,帰藩後,藩校明道館の学監となった.
 また,洋書習学所を設置し,藩の重臣達と共に藩政改革を行い,攘夷開国論を唱えた.
 だが,藩主・松平慶永の側近者として京へ登り,将軍の後継ぎ問題や,幕府の外交政策について,大老の井伊直弼に反対したため,安政の大獄にて処刑された.
 享年26.

【ぐんじさんぎょう】,2012/02/12 20:10
を加筆改修


 【質問】
 吉田松陰(よしだしょういん)って誰?

 【回答】
 吉田松陰(1830~1859)は,長門国(山口県)萩松本村に生まれ,10歳で明倫館に出勤,11歳のとき藩主敬親に兵書を進講した秀才.
 世界の情勢を見極めるために,海外密航を決意し,ペリーの旗艦ポーハタン号に乗り付けたが,拒絶された後に自首して投獄される.
 1857年,叔父の残した松下村塾(しょうかそんじゅく)を引き継ぎ,高杉晋作,久坂玄瑞,伊藤利輔(博文),山形小輔(有朋)ら,多くの子弟に尊皇攘夷思想を教えたが,幕府老中・間部詮勝の要撃を企てるに及び再投獄され,安政の大獄にて刑死した.


 【質問】
 幕末の島津も戦闘民族だったの?

 【回答】
 Yes.


「大隅薩摩は二国とも変わらず,とかく死ぬことが道と覚えて,仁義礼知信はそれより他と覚え,仏教はそんなん死んだ後の事なんぞしらんと遠ざかり,主従関係は有ってないようなもの.
 武士は戦場で死ぬ者とのみ覚えて,それ以外は考えず,死ぬことに対してどうこう言う事もない.
 しかし泰平の時は主君があぐら組んで座ると,臣は足を伸ばしたり,もしくは立ちながら主君と問答する人間が多い.
 もうずっとこんな感じ」
と,人国記に書かれるガチっぷり.

 ちなみに日向は,
「とにかく無体無法な事ばっかで,自分の気に任せて,自分が正しいと思ったら周りの言うことは聞かず,自分が悪いと思ったら,これまた周りの言うことは聞かない.
 そしてそうなると理も非もなくなり,相手と口論になったあげくやっちゃう人間が多い.
 ホント卑しくて人倫を知らないから嘆かわしい.
 死をもって良しとするから危ないことこのうえない,ヒャー」
と書かれる,島津とはまた違う方向なガチっぷり.

 まあ,人国記だと九州に限らず,他もだいたいメチャクチャ書いてあるけど(笑

「薩摩者と勝負する時には初太刀を外せ」
By 新撰組局長・近藤勇

漫画板,2013/05/11(土)~05/13(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 薩英戦争(1863/8/15~8/17)での薩摩,英国双方の被害はどれくらいだったんでしょうか?

 【回答】
 イギリス側は戦死者13人・負傷者50人,司令官も死んでます.
 薩摩側は戦死者5人・負傷者十数人と死傷者はイギリスより少ないんですが,洋式工場の集成館,鋳銭所など城下町の1割を焼失,拿捕された蒸気船はすべて沈められるなど物的被害が大きい.
 薩摩が序盤奮闘できたのは,台風で海が荒れてたのも一因です.

日本史板


 【質問】
 薩英戦争の後,薩摩とイギリスのお互いへの認識はどのように変化していったのでしょうか?

 【回答】
薩摩島津家:
 戦争前は攘夷派が多数を占めており,英国何するものぞ,と言う気概に満ち溢れ,賠償や補償交渉は進展しない.
 戦争後は攘夷派は相変わらず多数を占め,更に英国海軍を撤退せしめたことで,意気が上がっていたが,上層部は,再侵攻されたら先ず保たない事がはっきりした為,和約を進めることとなり,英国との和議が成立.
 更に,軍艦購入の斡旋を求めるなど,親密な関係となる.

英国:
 戦争前は薩摩島津家は軍艦の派遣で直ぐに終息するものと判断.
 また,極東重視政策の一環で,Russiaの防波堤として日本の安定を願っている.
 ところが,案に相違して薩摩島津家が健闘し,人的被害多数を被った為,再戦は断念.
 薩摩島津家の和議を受容れ,徳川家にフランスが肩入れするのに対抗して,薩摩島津家を支援することとする.
 日本の混乱は,Russiaの南下を招くだけと言う意識があるが,度重なる戦争で国庫が枯渇状態だったので,金食い虫の海軍軍備の軍縮を進めなければならない事情があったため,と言う事情もあったりする.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :2007/08/23(木)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 島津久光の率兵上京の1000名って,そんなに大きな兵力なの?
 無位無官の国父が1000人引きつれて歩いていたとしたら,(勅使を奉じていなかったら),街道沿いの大名はこれを阻止できる規模ですよね?

 【回答】
 軍事的にはね.
 問題は久光上洛に至った経緯.

 阿部正弘が,列強が次々と日本に開国を迫る中,雄藩の意見を聞こうとしたことがきっかけだった.
 雄藩が開国・鎖国に関する意見を,直接幕閣に述べるようになった.
 これは雄藩による幕政への介入を意味した.
 しかも,列強の日本接近により対外問題に関して,一部の国学者・蘭学者が幕政批判を始めたり,幕藩体制そのものについて徐々に懐疑的になり始めていた.

 そういった中で久光(薩摩藩士)は,自らの政治的発言力を強めるための工作を行っていた.
 その一つが朝廷の威光を借りた,幕政への介入だった.
 そしてその工作は実り,薩摩一行に勅使を加えることになった.
 幕府としてはこれを拒否するのが難しい状況で,ついに久光主導の文久の改革を行う結果になった.

 大名(およびその親族)が参勤交代に,武装した配下を江戸に引き連れてくることは前例がなかった.
 しかも,久光一行には朝廷から使者が,幕府への政治改革要求を持ってやってきた.
 それまで朝廷は幕府に対して意見をするようなことがなかったので,これも前例がなかった.
 すなわち幕府と大名の関係,幕府と朝廷の関係が,それまでと大きく変化したことを如実に示す事件だった.

日本史板,2003/02/19
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 長州が討幕してしまうまでの流れを教えてください.

 【回答】
 文久3年に尊皇攘夷運動が超盛り上がって,5月に長州の急進的な攘夷派が,下関でアメリカ商船を砲撃.
 「長州やり過ぎだわ」として,公武合体派の会津・薩摩が,八月十八日の政変で長州を京都から追放.
 翌年,長州が会津とかを排除するために,京都で禁門の変(蛤御門の変)をやらかし,失敗.
 長州は朝敵になって,第一次長州征伐でフルボッコにされ降伏.

 敗戦の責任取れやで長州藩内が割れたけど,クーデター起こって,幕府がもたついてる間に藩がまとまり,幕府第二次長州征伐するんだけど,費用が嵩むわ遠征で士気落ちるわ,その内将軍家茂死去で幕府軍gdgd
→幕府弱体化ばれて薩摩や長州への睨みが効かなくなり,龍馬やら色々で長州・薩摩が結んで倒幕.

漫画板,2014/12/12(金)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 馬関戦争(1864)後の交渉は,どのようなものだったのか?

 【回答】
 時は幕末.
 米英などの連合艦隊に無謀ともいえる攻撃を仕掛けた長州藩は,その後反撃を受けて完敗.講和しなければならないこととなりました.

 長州藩の全権には誰がよいか.
 藩内でいろいろ議論された結果,当時罪に問われて謹慎していた高杉晋作が選ばれ,高杉以下,伊藤俊輔(後の博文)など長州藩全権団は,連合艦隊旗艦の船上に向かいました.

 講和会議の席で先方は,長州領内の海上にある小さな島「彦島」の期限付き租借を,さりげなく持ち出してきます.
 高杉は,連合国が提示した他の条件はすべて呑みましたが,領土租借に関しては一歩も引きませんでした.
 そしてついに,その条件を取り下げさせることに成功します.
 上海に行った際,植民地・清国の惨状を目の当たりにした高杉には,当時は何気なく見えたであろう「領土の期限付き租借」が何を意味するかを,深いレベルで洞察できたようです.

 高杉の任務はいわば降伏の使者に当たるわけですが,交渉の席では
「もしどうしてもというのなら,もう一戦してもいいぞ」
と言ったとも伝えられています.
 交渉に当たった高杉の胸中にあったのは片々たる小理屈や技といったものではなく,「お家,お国のため」という誠に武士的な思いのみだったと推察されます.
 だからこそ,修羅場でもっとも危険なものが見抜け,堂々たる態度で交渉に当たれたのだと感じます.

 もし高杉が領土租借を呑んでいたら,彦島は香港やマカオのような植民地になっており,わが歴史は大きく変わっていたことでしょう.

 時代背景もあるでしょうが,高杉という20代の若者にこういう芸当をさせた中核にあったのは,やはり,武士道に尽きるように思います.
 わが国最大の財産は武士道にある,と改めて感じる次第です.

 その後明治に入り,日清戦争でわが国は勝利を収めました.
 講和会議は下関で行なわれましたが,会議には伊藤博文(往時の俊輔)が参加しています.
 そのとき,長州藩の講和会議のことを問うた人に伊藤は,
「高杉は,なんともえらいやつじゃった」
と目に涙を浮かべて答えたそうです.
 往時と逆の立場になった自分の姿と,若くして逝った高杉がなしたことの大きさを改めて思い,感慨無量になったのでしょうか.

 なお,以下は,おそらくわが国で,高杉をもっとも的確に評価した小論を含む一冊です.
 ぜひご一読ください.
「武士道 戦闘者の精神」(葦津珍彦著,徳間書店,1979)

「自分は困ったと思ったことがない.武士は困ったと思ってはいけない」(高杉晋作)

おきらく軍事研究会,2006/3/13

下関の砲列
(撮影:眠い人)


 【質問】
 木戸孝允って誰?

 【回答】
 木戸孝允(たかよし),別名,桂小五郎は,長州(山口県)藩士の子として萩に生まれた,明治維新三傑の一人(1833~1877).
 尊皇攘夷の志士として活躍し,長州藩の重役となり藩の考えを攘夷(外国を討つ)から倒幕に導いて,薩長連合に尽力.

 維新後は,五箇条の御誓文の文章を修正したり,廃藩置県の実現に努力をしました.


 【質問】
 幕末の土佐藩に英国船が現れたときの顛末について教えられたし.

 【回答】
 それに関し,『吉田茂 ポピュリズムに背を向けて』という本に,吉田茂の実父について面白い話が載っていました.

 1866年,土佐藩家老で宿毛の領主であった,山内家の家臣筋である竹内綱(吉田茂の実父)は,困った事態に直面していました.
 なんと,宿毛からそう遠くない16キロ程離れた港に英国船が現れたのです.
 当時は幕府から外国船打払令が出されていたため,綱は漁船十余隻に小銃二十丁を持った歩兵2小隊を率いて現場に急ぎました.
 そこで彼が見たのは,見たこともない大きな大砲を積んだ軍艦.
 それを見た綱は,すぐに攻撃を仕掛けようとする同僚を制して,
「こんなのに喧嘩を売ったらやられるだけだ.
 とりあえず私が黒船に行って話をしてくる」
と命じて一人,小舟で英国船に.

 ただし,竹内綱,英語は全く出来ない.

 近付くと,縄ばしごが投げられ,綱はそれを登って英国船に.
 船員達はすぐに日英会話集を持って綱の所にやってきて,単語を指差しながら互いに意思疎通を始めました.

 暫しの時間をかけて分かった事は,英国船は測量のために来たのであって,明日の朝にはこの場を離れるとの事.
 もちろん測量は軍事的な意味もありますが,綱にとってはそんな事は理解の範囲外.
 ともかく明日には出て行くなら,打払う必要など皆無と,相手に「了承」の意志を伝えました.

 すると相手は,綱を歓迎しようとシェリー酒やシャンパンなどを次々と運んできて綱に勧めます.
 吉田茂もでしたが,実父の綱も無類の酒好き.
 相手の勧めるままに杯を重ねます.

 困ったのは,遠巻きに残された部下達.
 綱が黒船で歓迎されてるとは露にも思わず,かくなる上は黒船に飛び乗り綱を助けださんとばかりに息巻きます.
 しかし,突如縄ばしごが降ろされたと思うと,綱がそれにしがみついて小舟に乗り,戻って来るではないですか.

 皆が慌てて駆け寄ると,そこには酩酊して足下の覚束ない綱の姿.
 しかも,殺気立っていた面々に対して,
「明日には出て行くから,打払の必要はない」
と,のんきな事を言う始末.

 これに収まらないのが,一緒に出ていた同僚.
 翌朝,黒船は出て行ったものの,綱を藩に告発.
 曰く,
「綱は打払の命を果たさなかったばかりか,よりにもよって敵の船で酒を勧められ酩酊して戻ってきた」
とのこと.

 当然,規律に厳しい武家社会.
 綱はすぐに閉門蟄居を命じられ,山内家はすぐさま彼を切腹させる準備に取りかかった.
 もちろん,ここで彼が死んでは吉田茂は生まれない.
 生まれても居ないのに大ピンチの吉田茂.

 しかし,ここで朗報が.
 件の英国船が,土佐藩庁から遠くない港に入港.
 綱が歓迎された事を聞いていた土佐藩の重役は,英国船を歓迎して穏便に去って貰う事を選択したのです.
 上がそうなら,下が無理に切腹する事はない.
 山内家は綱の切腹の準備を取りやめ,綱は生きながらえたのでした.

 この時,英国船が土佐藩庁の近くに入港するのが遅かったり,しなければ……,
土佐藩が打払う気が満々なら……,
吉田茂は生まれなかった訳で,その後の日本の歴史は一体どうなっていた事か.

 歴史ってのは本当に,色々な偶然の上に成り立ってるんですねぇ.

寄星蟲 in mixi,2009年07月07日20:21
青文字:加筆改修部分



 【質問】
 じゃあ,吉田茂の養父は何をしていたの?

 【回答】
 昨日の日記で吉田茂の実父について書きましたが,では養父はなにをしていたのかと言うと……

 養父の名は吉田健三.竹内綱が英国船に乗り込んだ1866年,奇しくも同じ年に健三も英国の軍艦に乗っていました.
 ただし,密航で.

 長崎から英国の軍艦に乗り込んだ健三は,雑役夫として働きながら上海からシンガポールを経由して欧州に渡り,英国に2年間滞在.

 これに触発されたのか,父の渡辺謙七も脱藩してイギリス商館に勤め初め,やがて独立して廻船問屋を始めたそうです.

 だれかこいつ等を止めろ.

 やがて事業の道を歩む事となった吉田健三は,海軍卿の川村純義(白洲正子の祖父)に近づき,軍艦2隻の発注を受けました.
 しかし,ジャーディン・マンソン商会を通じて英国に注文を出した所まではうまく行ったものの,財政難だった明治政府は,なかなか代金の80万円を払わない.
 契約日時になってもお金を用意できなかった健三は,だめもとで
「必ず政府が金を用意するので,それまで私が無給で働く」
と談判.
 商会も,日本は今後も軍艦を必要としていると考え,これを了承しました.

 やがて,生糸の鑑定にも抜群の鑑識眼を見せる健三に,商会は無給ではなく月給300円(現在の価値で600万円)という待遇で迎える事になりました.
 ほどなく日本海軍は代金を支払ったため,健三は自由の身に.優秀な彼とのつながりが切れる事を惜しんだ商会は,ここでも1万円(現在の2~3億円)を特別慰労金として健三に渡しました.

 その後,東京日日新聞の創刊に協力した健三は,取材を通じて土佐藩出身の自由民権運動家の板垣退助,後藤象二郎などと親しくなり,その中に吉田茂の実父である竹内綱もいました.

 竹内綱は炭鉱経営でジャーディン・マンソン商会・長崎支配人のグラバーと手を組んだ事をきっかけとして,吉田健三ともさらに親密となり,これが吉田茂の養子縁組に繋がったそうです.

寄星蟲 in mixi,2009年07月08日20:06


 【質問 kérdés】
 長州征伐は何故第二次征伐で形勢逆転したの?
Miért fordult meg a dagály a Második Chóshú Expedícióben?

 【回答 válasz】
 第二次長州征伐に薩摩は出ないどころか,「出たら敵」って圧力かけたら.
 そのため,西国雄藩は揃って出陣渋って,井伊と酒井以外攻め込む気がないみたいな大変なことに.

長州「幕府滅ぼせ」

幕府「喧嘩売ってんなら買うぞ,薩摩と会津やっちまえ!!」

長州「もうボロボロだ,降伏するから助けて」

幕府「だーめ,再起不能になるまでボコろうぜ(笑)」

薩摩「やりすぎでしょ」

幕府「え?」

薩摩「やりすぎ,はい,もうお終い」

幕府「お,おう」

長州「やったぜ,傷が癒えたら幕府と会津潰すぜ!!」

会津「あの状況で許してどうすんだよ,何の為の戦争だったのか」

幕府「だって薩摩が駄目って,あとは会津任せた」

会津「…えぇ」

 この流れはガチで面白い.

 蛤御門の変等では幕府側で戦った薩摩だけど,
「京都から長州派の公家ごと遠ざけることさえできれば,それほど追い詰めなくていいじゃないか」
という考えで,尾張徳川家とも協議して,なるだけ穏便に済ませようとしてた.

 一つは長州征伐に動員された主に西国の大名たち(薩摩と親戚が多い)にとって,特にお金の面でいい迷惑で,
「追い詰めた長州が開き直って,中でゲリラ戦でもやられた日には…」
ってのもあったらしい.

 ところが幕府は薩摩のそういう措置に不満で,今度は完全に滅ぼしてやるって勢いで第二次長州征伐の段取り始めたから,薩摩としちゃ顔潰されたのもあったし,何より幕府は自分に都合の悪い藩は滅ぼす気なのかと受け取った.
 「次は自分たちってのもありえる」って.

 結果的に長州征伐は,かなり薩摩の態度を硬化させる原因になったらしい.

 なお,
「幕府長州を許す気が全く無い」
と告げ口したのは勝海舟.

漫画板,2018/04/03(火)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 坂本竜馬暗殺には,西郷隆盛が一枚噛んでいたって本当?

 【回答】
 竜馬暗殺自体,その首謀者には諸説あります.
 そのうち,西郷関与説は以下のようなものです.

------------
 ・15代将軍徳川慶喜が大政奉還を申し出たその日,薩長ら武力討伐派は朝廷から倒幕の密勅を得る事に成功する.
 龍馬は当初,薩長と手を結び,倒幕運動を進めてきた.
 しかし,ここへ来て龍馬は幕府は倒すものの徳川家は存続させる立場に転じたこととなる.
 つまり,あくまで徳川家討伐をめざす薩長にとって龍馬は裏切り者,政敵として排除するべき人物となった.

------------「坂本龍馬暗殺の謎 黒幕は西郷隆盛か?大久保利通か??」
------------
 西郷さんを黒幕とする薩摩藩陰謀説を採れば,何がそこから見えてくるのでしょうか?
 竜馬の「大政奉還」策にあわてた薩摩藩は,あくまでも武力倒幕.
 なのに「大政奉還」戦わずして大政を奉還されては,確かに適わないとなってきます.それでは,幕府を木っ端微塵に退けて,新しい日の本(日本)は生まれない.
 薩摩藩にとってあくまでも近代国家とは,各国列強に組するのではなく,武力においても,胆力においても独立した国家を指していたようです.
 その為にも,各国にへっぴり腰の幕府が邪魔.これを武力によって粉砕する.
 しかし竜馬の考えは,そうではなかったのですね.戦わず,穏便に何事も,新しい政府に譲渡しなさい的な,譲り合いの,のちの近代国家だったようです.

------------「KAORUBOMBAYE-ALLFORYOU:竜馬暗殺・西郷黒幕説」

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