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戦史FAQ目次

米国領事ハリスの公用車「巨泉」

(引用元:『ギャグまんが日和』)


 【link】

D.B.E. 三二型」(2012/01/08)◆甲冑:司馬遼太郎の「おお,大砲」モデル,高取藩士のもの? 橿原の民家で2領,見つかる /奈良
>また,民家の敷地内の建物が,明治維新後に払い下げられた高取城の櫓(やぐら)の可能性があることも

D.B.E 三二型」(2013/05/12)◆日蘭貿易の端緒「リーフデ号」のエラスムス像 住民らPR活動 栃木・佐野

『幕末鼓笛隊 土着化する西洋音楽』(奥中康人著,大阪大学出版会,2012/11/19)

『レンズが撮らえたF・ベアドの幕末』(横浜開港資料館監修,山川出版社,2012/12)

『和親条約と日蘭関係』(西澤美穂子著,吉川弘文館,2013/4/23)


 【質問】
 開国の大阪への影響は?

 【回答】
 1858年迄に江戸幕府は列強各国と修好通商条約を締結し,長崎,函館,横浜を開港した後,更に神戸と新潟を開港し,江戸と大坂を開市することになります.
 開市と言うのは,市場を開いて外国と交易を始めることで,荷卸しや商取引は出来ますが,外国人は住居を構えることが出来ませんでした.

 そこで,1868年になると列強各国は更に大阪を「開港」させることにしました.
 こうして安治川川口が開港し,船番所跡を波止場としました.

 それに伴い,川口に外国人居留地が形成された訳です.
 1区画は300坪で26区画に分けられ,道路は街路樹と街灯がついて当時としては破格の幅18mの道路が走っています.
 この居留地は外国人商人達には好評で,土地は直ぐに完売し,川口の居留地は突然に西洋館が建ち並び,外にはテニスコート,内にはビリヤード施設などを備えた別天地へと変貌しました.
 当然,この居留地は「治外法権」で日本の官憲が手を出せない所です.
 そう言えば,有明夏夫の『大浪花諸人往来』で,主人公の源蔵が居留地に行く時,人力車を領事館警察の連中に突撃させる描写がありましたっけ….

 この川口の居留地には西洋人が主にやって来ていたのですが,別に広東や福建からの中国人が21名やって来ていました.
 この数は商人だけでなく,その使用人や賄い人,買辮などを含めての数なので非常に少数名だったりする訳で.
 前にも華僑の話で触れましたが,当時は日本と清国との間の通商条約がなかった時代でだったこともあって,こんなに少なかったのだろうと言われています.

 居留地の外部には外国人が日本の土地・家屋を借り受けて住むことが出来る区域である「雑居地」が設けられていました.
 川口の居留地に隣接していた本田,梅本,富島,古川町が雑居地で,此処に居留地に入居出来なかった外国商人,技術者,宣教師などが住みました.
 また,清国と修好通商条約が締結されると,中国人の正式居住も認められ,18軒の広東,福建の華僑が長崎から移ってきたと記録されています.

 居留地の欧米商人は,火薬やその原料,鉛,ガラス,武器や機械類を欧州から輸入し,茶と生糸,繭種を自国に輸出していました.
 茶に関しては,欧州で紅茶が普及し始めると,日本でも静岡,福岡,鹿児島,東京で紅茶が作られる様になりますが,残念ながらこの紅茶のテイスティングが,ミルクティータイプのものか,それともストレートで飲むタイプなのかは今では知ることが出来ません.
 結局,この茶の輸出は,情報量と組織力でインドやセイロンとの競争に敗れ,一時的なものに終わりました.
 生糸は欧州で蚕の病気が蔓延していた事から生産が激減しており,日本からの生糸は干天の慈雨の如きものであり,日本はこれで莫大な利益を上げています.

 一方,雑居地の華僑は,日本に砂糖,米,雑穀を輸入していました.
 江戸時代後期に和三盆などの砂糖が国産出来る様に成ったとは言え,その普及は未だ未だ都市の周辺だけで,大量輸入により田舎の庶民の手に届く様になったのは,それから更に100年は経っています.
 米は明治初期に地租改正で金納が必要となり,田舎の住民が銀舎利を食べる事が難しくなったことから,輸入米として多数が海外から輸入されています.

 日本から華僑が輸出した主な輸出品は海産物でした.
 中華料理の海産物分野に於ける最高級品は,鮑(鮑),海鼠(参),鱶鰭(翅),魚の浮き袋(肚)の4種類ですが,日本はその内,最初の3種類を輸出しており,俵に乾燥品が詰められて送られたので,「俵物三品」と呼んでいました.
 この他,「俵物諸色」と呼ばれる昆布,天草,鶏冠草,鯣,鰹節,干蝦,干貝柱,干魚もありました.
 こうした乾燥品は味がグンと濃縮され,旨味が増して保存が利きます.
 大陸の人々はヨード分が不足してそれに伴う病気もあったことから,日本から送られる海産物から摂取するヨードは貴重なものでした.

 ところで,最後に日本に出来た居留地である川口居留地でしたが,江戸幕府の時に採られた施策である物資の集散地としての役割は,明治政府の銀本位制の廃止と廃藩置県による経済の中央集権化が,「天下の台所」と呼ばれた大阪の地位を低下させ,豪商の倒産が相次ぐ状況に陥り,大阪全体が火の消えた状態に成っていきます.
 この頃の大阪の人口は,江戸末期の40万人から25万人へと激減して,火が消えた状態になりました,
 加えて,港は安治川口にある為,底に泥が堆積して浅くなり,大型汽船が波止場に着けられず,積み替えが必要と成る事態になりました.
 止めを刺したのが,大阪~神戸間の鉄道敷設です.
 これにより,神戸を貿易窓口にする商人が増えて,1877年,10年も経たない内に外国人商人は川口居留地を去っていきました.

 その空家に入ったのが雑居地にいた宣教師達であり,日本各地で布教活動をしていた宣教師です.
 彼等が住み始めたことで,キリスト教の教会が建てられ,ミッション系女学校,病院,孤児院などが創立して,日本人への西洋料理,音楽,手芸,フランス語,道徳から行儀作法を教える様になりました.
 1886年には26区画の内20区画がキリスト教関係の建物で占められ,川口は「宗教の街」になり,10区画の拡張が行われています.
 しかし,これらの施設は後に大阪城の近辺に移転していきました.

 雑居地には宣教師達が居なくなった後に中国人が棲み着く様になります.
 彼等は広東や寧波などの華南からの商人ではなく,上海から浙江,江蘇,江西,安徽の海産物商や日用雑貨商がやって来て棲み着き始めます.
 長崎からは,風呂敷に海産物や日用品,反物を風呂敷に包んで販売するのが得意な福建の商人など300名に及ぶ商人が住み始めました.
 こうした行商人を,日本人は「風呂敷南京」と呼んでいます.
 人の集まりそうな広場で風呂敷を広げて商売をするという姿に因んだものです.
 彼等の扱い品は,綿,羊毛,象牙,芋,卵,砂糖,鼈甲,麝香などで,代わりに上海に帰る際には,椎茸,陶器,鹿角,銅鉱石,燐寸,扇子,薬種,工芸品,木材を持って帰っています.

 しかし,1894年,日清戦争が勃発して彼等は一旦大陸に引揚げたり神戸に移り,戦争が終わると再び雑居地にやってきました.
 但し,今度は広東や浙江などの三江の商人は来ずに,山東,直隷,東北三省からやって来た人々が主流となっていきます.

 そうした中,1897年,梅本町に大阪初の中華料理屋である「豊楽園」が開業しました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/08/01 17:53

 1899年,列強各国との条約改正で居留地が撤廃されることになりました.
 と言う事は,別に場所に拘泥されずに自由に貿易が出来ると言うことで,欧米各国の居留地住民は川口の居留地を去り,後には雑居地に住んでいた山東,直隷,東北三省から渡ってきた華僑達が居留地に進出し,貿易商を始めとして,金融業,理髪業,洋服業の店が居留地にズラリと並び,中華料理店も開店すると,川口の旧居留地は川口中華街となっていきます.

 当時の華商の扱い製品はインドや上海で生産された綿でした.
 この綿を大阪で加工して綿糸や布にして逆に煙台や大連を通じて東北三省や天津に輸出していました.

 但し,こうした商人達の後は続きませんでした.
 大量の中国からの出稼ぎ労働者達の入国を防ぐ為,日本政府が入国制限措置を実施した為です.
 その制限措置から外れたのは,日本人労働者と競合しない分野である三刀業(三把刀),即ち,調理人,洋裁職,理髪職の3種類だけでしたが,これら手に技術を持っている人々は,山東省の他,上海から多く来日しています.
 そして,日露戦争が勃発すると,再び広東人や上海人は帰国したり神戸に移動したりと地域性が再び変わっていきます.

 川口の港は泥底で浅くなり,港として要を為さなくなった事から,大阪築港が新たに造られました.
 これにより,川口港の機能は完全に停止してしまいます.
 しかし,大阪港は1905年以後大連と天津を結ぶ華北沿岸航路の起点となった事から,その港に程近い川口の旧居留地一帯には,華北出身者が急増します.
 更に,1912年には清朝が倒れ,中華民国が出現しますが,未だ未だ国としては安定に程遠い状態であったことから,動乱を逃れた中国人が多数来日し,川口にも多数が居住し,この頃から「川口中華街」と言う呼び名が為される様になりました.
 そして彼等が商売に勤しんだ結果,第一次大戦で「アジアの工場」と成り果せた大阪を後背地に持つ,大阪築港から中華民国への輸出は急速に伸び続けました.

 ところが,1915年の対華十七カ条要求に端を発した中国での日本製品不買運動により,一気に不景気となり,在来からの華僑は困窮して,貿易業者として日本の商社に取って代わられることになります.
 これにより,華僑は大多数が帰国し,残った者は特定の商品に特化するか,転業を余儀なくされてしまいます.
 そうして,彼等が転業先に選んだのが,「中華料理店」の経営でした.
 この為,川口中華街には中華料理店が多数軒を連ねる様に成りました.

 1923年,関東大震災が発生します.
 これによって被災した横浜中華街は,壊滅的な打撃を被り,更に治安の悪化により,横浜の華商が多数神戸と大阪に避難してきました.
 再び川口中華街での商売は殷賑を極め,華北の華商が台頭し始めます.
 それと共に,料理店では山東料理が全盛となりました.
 大正末期頃,大阪西税務署がある本田町と川口町を中心に,中国人は4,000名も住んでおり,貿易商は天保山の港から天津,青島,煙台,大連,満洲などに綿布を輸出し,川口はその窓口を務めていました.
 それに伴い,「松島遊郭」や「新町遊郭」,高級料亭や大店の問屋も周辺に集まってきています.

 1926年当時,在阪中国人3,000余名の内雑貨貿易商382名,綿糸布貿易商251名,運送業・代理業・行桟(代理店として商品の発送も行う宿泊所)・保険代理店など1,276名で,その半数が川口と本田に住んでいました.
 残りの半数は料理業などで大阪全市に散在し,行商を生業とする福建人は市岡と九条に住み,市内には1,178名が居住していました.

 こうして順調に推移するかに見えた対中貿易ですが,1937年の日中戦争勃発は,その貿易に大打撃を与える事になりました.
 結局,震災で移ってきた華商の多くは店を畳んで帰国してしまいましたが,地に足を付けて商売を展開していた中華料理店は残りました.

 1940年頃,中華街には天仙閣,天華倶楽部,大東楼,東海楼,?聚楼,満春園,天山食堂などの中華料理店があり,その中で最大級の店が川口警察署の北隣にあった天仙閣でした.
 天仙閣は2階建ての西洋館で,南楼,北楼の2つの建物から成り,建物を取り巻く庭の広さは800坪,その庭には花や木が植えられた花園や養魚池があって料理用の鯉や観賞用の緋鯉が泳いでいました.
 従業員は50名に及び,お客は最高級のサービスと料理を堪能したと言います.

 次に大きかったのは小さな庭と養魚池のあった天仙閣西隣の天華倶楽部,その次は天仙閣東向かいにある大東楼で,此処には小さな庭はありましたが養魚池は無く,それに次ぐのは天華倶楽部斜め向かいにある東海楼で,此処には庭も池もありません.
 この4つの店舗は婚礼や披露宴も可能な大規模なお店で,他の店は規模の小さなレストラン程度のものだったと言います.
 これら中華街の中華料理店で共通の名菜となっていたのは,「糖醋鯉魚(鯉の甘酢餡掛け)」,「焼蝦仁(海老の中華風天麩羅)」,「炸鶏(鶏の唐揚げ)」,「抜絲地瓜(甘藷の飴炊き)」でした.
 この4品はどの宴会のコースでも組入れられた料理で,それらが入っていなければ,中華料理ではないと言われたものでした.

 因みに,大阪市内でも中華料理の店が散在していましたが,当時の日本人は,中華街以外の店は本場の中華料理とは認めていないと言われています.
 中華街の中華料理店で働く料理人達は,山東省の煙台から一度大連に渡り,船に乗って大阪に渡ってきました.
 そして,この地の料理店で修行を積み,そこから独立していきます.
 成功した人は,日本で更に大きな店を構えた訳です.

 しかし,川口中華街は1945年の大阪大空襲の折,爆撃を受け,完全に焼け野原になりました.
 戦後,川口にいた華商達は市内に移り住みますが,川口には大観楼,新華園,天壇,三和園,萬集園,鴻盛園,吉林菜館の7つの中華料理店が再び営業を始めました.
 中でも大観楼は,敷地面積60坪で3階建て,150名を収納出来る大きな店であり,天壇は80坪ほどの敷地で,4階建ての大きな店でした.
 これらの繁栄も,1960年頃までの徒花でした.
 1973年までにこの川口の地は区画整理の大鉈が振われて,今では川口中華街の面影を残すのは新華園と吉林菜館の2軒を残すのみで,その多くは倉庫街に様変わりしてしまいました.

 川口町の中華料理店で修行して成功した人は,八仙閣の郭氏,錦城閣の潘氏,大成閣の于氏が代表的です.
 彼等の故郷は,山東省の套子湾から煙台(芝罘区)の奥に拡がる福山区の中,福山鎮です.
 この福山鎮と言う小さな街こそ,山東省料理人の発祥の地と言われています.
 福山鎮にある福山華僑賓館は,福山出身の華僑41名の寄進で建てられたそうですが,その寄進版の1人目は,元大阪八仙閣の郭光甲氏,次に天満橋錦城閣の潘士義氏,大成閣の于學成氏が次いでいます.

 この福山鎮には,地場産業の煙突もなく,大きな楼閣も見あたらない平凡な街ですが,昔の人は,「旨い料理を食べたければ●東(煙台)へ行き,●東の中でも福山に行けばよい」と言ったそうです.
 そして,「福山福地福人居(福山は幸せの地,幸せな人々が集う場所)」と言う諺もあるそうです.

●=「月交」

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/08/02 17:07


 【質問】
 日本=デンマーク間で修好通商条約が結ばれるまでの経緯は?

 【回答】
 日本が開国して後,1858年に米国や英国,フランス,ロシア,オランダの5カ国と修好通商条約が締結される事になりました.
 ならば,中国貿易に乗り出しているデンマークも乗り遅れるな,とばかりに,商業関係者が政府を突き上げ,修好通商条約を結ぶ様圧力を加えます.
 しかし正式な関係を結べていないデンマークは,オランダに外交折衝を依頼するしかありません.

 1861年3月,オランダ領事のJan Karel de Witはデンマークの全権交渉者に任命され,彼は長崎奉行を通じて幕府にデンマークとの通商条約締結の為,江戸に赴く許可を願い出ます.
 しかし,幕府は道中の身の安全を保証しかねると言う理由で彼の参府を断りました.

 ところが,1860年,幕府は既にポルトガル,プロシアとの間に修好通商条約を締結しました.
 これはde Witにとっても寝耳に水の話で,他にベルギーやスイスとの交渉も察知しました.
 前任者のJan Hendrik Donker Curtiusは幕府から,「新たに西洋諸国との条約は締結しない」という言質を取っていましたので,de Witは強硬に抗議しました.
 しかし,けんもほろろに断られ,これらの国々はその方針が示される前から交渉を進めていたのだ,今頃になって言ってきたデンマークとは違う,と言われてしまいます.
 結局,de Witを通じた交渉は不首尾に終わりました.

 1862年,開港延期を求めるべく,幕府は西洋諸国に竹内保徳を団長とする使節団を送り込みます.
 この使節団には他に松井康直,京極高朗,柴田貞太郎が随員としており,通詞として森山多吉郎,福地源一郎,福沢諭吉を英語とオランダ語,立広作がフランス語,箕作秋坪と松本弘安がオランダ語の担当として随行しました.

 この際,ハーグで在オランダ大使のP.Bille Braheが竹内使節団と交渉を持つ様に政府から指令されますが,此処でも交渉に失敗します.
 とにかく開港を遅らせたい幕府にとって,新たな貿易関係の締結は邪魔者でしかなかった訳です.

 これで一旦デンマークと日本の交渉は停滞を余儀なくされますが,1864年2月には,スイスが日本と修好通商条約を結んだというニュースを知らされる事になります.
 デンマークにとっては,日本との通商関係が成立すると言う事は,日本と中国との交易関係に参入できることになります.

 当時から,デンマークは優秀な商船隊を育成してきました.
 日本との通商関係が成立すれば,日中間の物資輸送に参入出来る様になり,それによる莫大な利益を期待出来る訳です.

 デンマークの分析では,日本の幕府は,日本と列強各国との貿易が進めば,場合に依れば英国が清に対して行った様に,アヘン貿易の様な一方的な交易をしかねない事を恐れ,英国とのバランスを保つ為に米国やフランスに接近し,かつ,アヘン貿易に興味を示さないスイスやプロシアの様な国と交易関係を確立させる事で,英国の圧力を回避しようとしていると見ていました.
 つまり,デンマークもその「アヘン貿易に興味を示さない国」の一つであるから,通商関係成立の目がある,と見ていた訳です.

 加えて,1864年と言えば,シュレスヴィヒ・ホルシュタイン戦争がデンマークの敗北に終わった年でもあります.
 彼の国にとって,この敗北を打ち消し,国としての纏まりを保ち,再び国際社会に復帰する為にも,日本との通商関係を成立させ,国際舞台での成功を勝ち取りたかったと言う側面もありました.

 丁度,幕府が,フランスの仲介でイタリアと通商条約を締結する交渉を開始するという情報が届きました.
 であれば,以前の約束は完全に反故となっています.
 デンマークの通商関係構築は,再び,オランダ公使であるD.de Graff van Polsbroeckが担当する事になりました.
 1865年6月,彼は先ず幕府に対し,デンマークが何時までも通商関係を結べないのは許容出来ないと,脅しを掛ける事にします.
 前回は,オランダだけがその交渉の仲介をしていたのですが,シュレスヴィヒ・ホルシュタイン戦争の敗北で,デンマークが威勢を失い,プロシアの勢力が増した為に,均衡外交を標榜する英国が,これ以上のプロシアとフランスの伸張を嫌って,オランダと共にデンマークの側面支援に当たる事になりました.

 1866年2月,英国公使Parkesは幕府に書簡を送り,英国は公式にデンマークを助力すると言う姿勢を表明しました.
 3月15日,老中水野和泉守忠清と松平周防守康直,後者は竹内使節団で活躍した松井康直ですが,彼らは幕府が長州征伐で不在である事を言い訳に,デンマークとの通商関係は,日本国民がそれを有利と為すまで待ちたいと言う浮世離れした見解を出します.
 既に,3月7日,薩摩と長州は連合して幕府を倒す事を決定しており,幕府は瀬戸際に立たされていました.

 8月1日,ベルギーが修好通商条約を締結し,更にイタリアと通商関係を結ぶ為,幕府の全権交渉者が任命される事が判明しました.

 Polsbroeckは激高し,1861年から交渉を行っているデンマークを蔑ろにするとは何事か,場合によっては,オランダ本国政府に報告するが,そうなると非常に不愉快な事態を招く事になろう,と恫喝します.

 8月18日,翻訳付のデンマーク国王ChristianIX世の書簡が幕府に呈示され,8月22日,Polsbroeckは,幕府の江連加賀守尭則と横浜で会談し,彼は正式にPolsbroeckに謝罪した上で,デンマークとの通商条約締結に向け,将軍の裁可を待つと返答しました.
 但しフランスの援助を得ている関係上,イタリアとの通商条約締結の動きも無視出来ないと付け加えています.

 8月25日,イタリアとの通商条約が締結されました.
 次はデンマークの番…だったのですが,8月29日,徳川14代将軍家茂は急死してしまいます.
 こうなると,幕府が将軍の喪だ何だかんだと言い出すのは必至なので,Polsbroeckは9月20日に書簡を発して,幕府側の全権交渉者の任命を願い出,10月4日には江連との会談を行いました.
 江連はその席上,新将軍は一橋慶喜となる事を報告し,条約交渉は喪中につき,遅延すると応えますが,Polsbroeckは,英国との通商条約は12代将軍家定の喪中に行ったではないかと食い下がりました.
 これは受容れられず,次いでPolsbroeckは条約締結確約の老中の書状を要求しました.
 江連も流石にこれには腹に据えかねたのか,国主が亡くなったら西欧でも国中が喪に服するのではないのかと反問しますが,Polsbroeckは,大勢の使節団を載せた軍艦をデンマークも派遣すればいいのかと詰問します.
 この話,実はイタリアがこうした手段を用い,僅か11日の滞在で通商条約締結に成功しました.
 この例を引いて,軍艦の圧力が無いと日本とは交渉出来ないのか,と皮肉った訳です.
 江連は,この皮肉にも動じず,すかさず,Polsbroeckは軍艦一隻に匹敵すると答えています.

 この丁々発止の遣り取りの後,やっと10月29日に条約締結をするとの回答が,老中井上河内守正直,松平周防守康直,松平縫殿頭乗謨の連名で送付されてきました.
 ところが此処でも引き延ばしに遭い,50日経過しても何の音沙汰もなかった事から,Polsbroeckが催促したところ,12月21日,全権交渉者に外国奉行柴田日向守剛中,栗本安芸守鯤,目付大久保帯刀の3名を指名し,通訳に福地源一郎が当たる事になりました.

 しかし,任命の知らせはあっても決定の知らせはなかったので,再度催促した所,12月29日に漸く全権委任状を呈示する事になります.
 12月30日,やっと条約の検討に入り,条約自体はベルギー,イタリアと締結したものを元に作成し,条約文は,日本側が日本語2通,オランダ語1通,オランダ側はオランダ語1通,フランス語2通を作成する事で合意,条約本文は,貨幣の条項をデンマーク通貨にすれば良い事,オランダ語条約文はオランダ側で2通用意する事を伝えました.

 1867年1月6日,福地源一郎とオランダ領事館の秘書が調整し,1月12日,苦節6年,漸く日本と丁抹の通商条約が調印されました.
 これは,イタリアの11日に次ぐ短期間での条約締結でした.

 1月30日,将軍のいた大坂に条約締結が伝えられ,2月3日には通商関係にあった各国領事に伝えられました.
 これは徳川幕府の調印した11番目の条約で,最後の条約でした.

 7月25日,ChristianIX世と首相の署名した条約批准書とPolsbroeck宛の批准委任状を携えて,スイス人de Bavierが到着し,8月15日,幕府は小笠原壱岐守長行の署名した書状で,小出大和守秀美が全権に任命しましたが,直後に彼が勘定奉行となった為,代行で石川河内守俊政が条約の批准書に名を連ねる事になりました.

 10月1日,通商条約は発効の運びとなり,11月1日に在横浜デンマーク領事としてde Bavierが任命される事になりました.
 そして徳川将軍家の批准書は,漆塗りの箱に入れられ,12月16日に国王の名に於て公示される事になりましたが,此の間,11月9日には大政奉還を申し出,1868年1月2日に征夷大将軍が廃止されました.

 時代は明治に移っていった訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/04/16 22:23


 【質問】
 幕末以降,積極的に欧米諸国の真似をする日本を見て,欧米諸国は,
「日本は白人の猿真似をするだけの劣等人種だ.」
程度の認識しか持っていませんでしたが,これまで,欧米人に対して成す術なく一方的に植民地にされ奴隷にされるだけの人種や民族ばかりだった時代,欧米人の真似をして急速に近代化する非白人国家の存在は,それまでにない画期的なもので,欧米人による覇権を揺るがす大変な脅威だったのではないでしょうか?

 何故欧米人は,欧米人の真似をする日本に対して危機感を抱くことなく,野蛮な劣等人種の中の一部族が,白人様の猿真似をしている程度の認識しか持たなかったのでしょうか?

 【回答】
 どうも帝国主義っていうと覇権や征服や侵略みたいなどぎつい言葉が前に出ちまうが,これは飽くまで狭義であって,広義には単なる市場開放だ.ビジネスだ.

 覇権を揺るがすつーか,危機感は持ってた.
 それが三国干渉なり何なり.
 これも別に覇権を揺るがす云々でなく,単に俺たちのビジネスを邪魔すんな,ってこった.

 以下蛇足.

 日本は西洋から劣等人種と思われてきたってのはそりゃ当り前で,大体,民族ってのは自分以外の民族は全部劣等民族と思うもんだ.
 帝国主義ってのは相手が劣等だから侵略するんでなくて,単に資本展開できる土壌がないから,地ならししてるだけだ.
 すでに地ならしが出来てれば,別のアプローチをする.
 例えば産業・技術支援して自分たち(英国)の脅威(ロシア)を牽制できるくらいまで育てる.
 それ以上育ったらビジネスの邪魔になるので排除する.
 それが日本だ.
 こんなの小売店vsデパートみたいなもんで,地域社会ではよくある話だ.
(政治の舞台では珍しいが.)

 欧米にとって日本は価値あるコマだった.
 他国をコマ扱いするのは有史以来政治の基本だし,今もそうだ.
 劣ってる国だからどうってわけでもない.

 日本は西洋から劣等民族と思われてた事(事実そうなんだが)を,単なる被害者意識で片付けてると,大きなことも見えなくなるぞ.

戦争・国防板,2009/12/19(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 米国海兵隊以外の海兵隊の歴史や編成,装備等々について,詳しく分かる書籍はないでしょうか?
 できたら幕末から明治の初めにかけて,日本に駐留していたらしい英仏海兵隊の詳細が分かれば,なおよいのですが.
 私の調査能力が不足しているだけなのでしょうが,中々海兵隊に関する書籍が見当たらないもので,お教えいただければ幸いです.

 【回答】
 海兵隊だけの本は判らないのですが,横浜英仏駐屯軍全体に関しての本なら

『史料でたどる明治維新期の横浜英仏駐屯軍』
 横浜開港資料館(1993年)
+++
『横浜英仏駐屯軍と外国人居留地』
 編集:横浜対外関係史研究会/横浜開港資料館
 東京堂出版(1999)

 横浜開港資料館では過去に,横浜英仏駐屯軍に関する展示を開催していて,1993年の本はその資料をまとめた物.
 1999年の本は資料+論文です(一部未掲載の資料が有ったかも…).
 秀逸なのは英仏駐屯部隊の一覧が,単に第何連隊では無く,その第何大隊なのか,中隊数の増減は有ったのか,のレベルで記載されている(両書籍に掲載).
 その他,本国への報告書等が連隊所有の博物館の協力により掲載されていますが,フランスに関しては余り資料が有りません.
 横浜開港資料館発行の『横浜開港資料館紀要』にも,同テーマの論文が何度か掲載されています.

 あと今年出たものでは,
『明治維新と横浜居留地 英仏駐屯軍をめぐる国際関係』
石塚裕道著 吉川弘文館,2011年
があります.

 横浜開港資料館の出版物はHPから,あるいはTELやFAXでも購入出来たはずですから一度問い合わせてみては?
 石塚氏は上記の書籍に論文を寄稿されている方ですので,内容的にも期待出来ると思います.

 この本には,人数だけなら出てきます.
French policy in Japan during the closing years of the Tokugawa regime By Meron Medzini

 たぶん,調べれば手記とか見つかるんじゃないですかね.

軍事板,2011/09/30(金)~10/01(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 「千代田形」前後の洋式軍艦建造について教えられたし.

 【回答】
 オランダ海軍の幕府伝習の成果の1つが,小型砲艦「千代田形」の建造です.
 船体部分は軍艦としての装備を含め,船体の浮心,帆心,重心,排水量,喫水,復元力など近代造船学の計算に基づいた船体基本設計を小野友五郎が,構造設計は君沢形の建造でロシア人造船技術者から実地指導を受け,長崎海軍伝習所の職方として参加した春山?造によるもので,船体は極めて堅牢なものでした.
 この設計に基づき,1860年11月に完成した概略設計に基づく船体の10分の1模型での水槽実験が行われています.

 蒸気機関は,咸臨丸で渡米し,米国の造船所で造機,鋳造,他の機械設備を見学して,日本でも蒸気機関が造れると確信した伝習所2期生の肥田浜五郎は,長崎製鐵所で1861年に蒸気機関部分を製作し,汽罐部分は佐賀鍋島家の三重津造船所で1863年に完成しました.
 千代田形の船体は1862年5月に起工式が石川島で行われた後,1863年7月には進水式が行われています.
長さ17間2尺,幅2間半,スクリュー推進,排水量138トンの木造帆船です.

 西洋狂いと言えば,薩摩島津家の当主島津斉彬も人後に落ちません.
 太平洋を漂流し,米国船に助けられてマサチューセッツ州フェアーヘブンで初等教育,中等教育を受け,更に高等の航海術,測量術,高等数学を教授している航海士養成学校に通い,1851年2月3日,10年ぶりに琉球摩文仁海岸に上陸した中浜万次郎を鹿児島に呼び寄せて人払いをしてまで直々に取調べを行い,蒸気船,汽車,電信機,写真術,造船術,航海術,捕鯨の技術,民主主義と人権,更に公共の福祉,社会風俗に至る迄,丹念に聴取し,最後に西洋帆船の建造も約束しました.

 島津斉彬は早速船大工を万次郎の宿舎に遣わして造船術,航海術,捕鯨の技術を学ばせ,小型の二艢・縦帆式のスクーナー型帆船を建造しました.
 その後,島津家では三艢洋式帆船軍艦である以呂波丸を1853年に着工し,1854年3月に完成,昇平丸を1854年12月に完成させます.
 この両艦は,船体の長さ15間,幅4間1尺の船体に,30斤砲8門,24斤砲8門,臼砲2門,それに接舷戦用にゲベール銃36丁が搭載されていました.
 ただ,折角造ったこの両艦,長崎に滞在中にカッテンディーケ中佐にこう酷評されています.

――――――
 港内には三本艢の約1,000トンの船が浮かんでいるのを見た.
 同船は1854年に薩摩に於て,古い造船学の書物に載っている図面を手本にして造られただけあって,随分醜いものであった.
 船体や造りは大げさに言えば,丁度昔の東インド会社の船に似ている.
 取分け装具は全く釣合が取れて無く至る所に欠陥があった.
 この船の名は万年丸と名付けられていた.
 大工の仕事は良くできており,鉄肘が頗る堅牢に造られている.
 甲板には12門の砲が据え付けられていた.
――――――

 とまぁ,外観は洋船でも中は和船で未熟であることを露呈していましたが,1854年11月4日,日本人が実際に洋式帆船を造る機会が偶然やって来ます.
 それは安政大地震の大津波でロシアの軍艦ディアナ号が破損,修理を行う為に君沢郡戸田村に曳航中,更に京風に煽られて沈没した為です.
 この為,プチャーチン提督は日本人船大工の手を借りてロシア人造船技術者の指導の下に二艢式帆船2艘を建造して帰国したのですが,その技術は日本人船大工にしっかりと受け継がれました.

 その後,戸田村の造船所では同型の西洋式帆船を建造し,これを君沢形と称しました.
 君沢形の建造に携わった日本人船大工,職工は幕府海軍所の所属になり,その中の1人,上田虎吉は長崎海軍伝習所第1期生職方としてオランダ人教官から蒸気船造船術の伝習を受け,その後幕府からのオランダ留学生に選ばれ,造船術を学ぶ為に同地に4年間留学しますが,虎吉は同じオランダ留学組の赤松則良(赤松大三郎)が設計した艦船の図面をまともに引くことの出来た唯一の人物だったそうです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/08/28 20:59


 【質問】
 日の丸の旗はどのようにして誕生したのか?

 【回答】
 日本でも国産洋式船が建造され始めると,西洋船との識別が必要となります.
 其処で,日の丸が採用される事になる訳ですが,従来の説では日の丸は,1853年11月に洋式軍艦を建造する計画で,日の丸の帆印と白木の垣立を日本船の標識とする事を,薩摩島津家当主島津斉彬が発案したとされていました.

 しかし実は,それに先立つ8月初旬,浦賀奉行が幕閣に提出した大型艦の仕様帳に,異国船の識別について,こう記しています.

[quote]
 御船御保方宜様惣体白ミツタ塗二仕,帆繰方之儀,異国船似寄候二付,目印之船・帆・艀共惣中黒に仕,本檣上二日之丸御吹貫南蛮小車を以引上,艫二日之丸四半御印相建候積
[/quote]

 つまり中黒の船体と帆,本檣上の日の丸の吹貫,艫の日の丸の四半,これが奉行の案であり,奉行所では帆の中黒により幕府船であることを示しているので,日の丸を日本船の標識としている訳です.

 9月4日に老中は,軍艦の絵図面を下げ渡して,評定所一座・勘定奉行・大小目付に次の様に諮問しました.

[quote]
 船々不紛様日本之惣印ハ旭の丸を附候方ニ可有之哉,右ハ帆印又ハ別段にも印を建候歟,成丈明らかに見分り候様致し,公儀御船ハ其浦々之印,諸家之船ハ其家々の印をも相建候方可然哉
[/quote]

 公儀の「浦々之印」とは長崎,大坂,浦賀と言った配備先を示したと思われます.

 これに対し,評定所一座は,惣船印は白地中黒の帆印,幕府船は檣上の日の丸の吹貫と日の丸の幟,大名船はその家の印を付けた幟を主張し,大小目付は,紅旭は茜染で褪色しやすい為,惣船印は中黒の帆印,幕府船の船章は日の丸を唱え,勘定奉行は,変色しやすく遠望しがたい旭の丸を不可とし,惣船印は白紺交えの帆印,幕府船は白紺交えの吹貫,大名船は半月の吹貫を勧めました.

 評定所一座と大小目付が日本惣船印に日の丸を選ばなかったのは,1673年以来,朱の丸印とか日の丸船印と言えば,幕府御用船の標識となっていたからと思われます.

 この評議は万事多難な折から一旦中断しますが,鳳凰丸完成時に再燃します.
 1854年6月,再び勘定奉行・同吟味役・目付からなる大船製造掛に前の案を諮問した所,御国総船印は白紺布交えの吹貫,帆印は白地中黒とし,幕府船は日の丸の幟,藩船は在来の印を用いると言う答申が来ました.

 これを老中阿部正弘が徳川斉昭に諮った所,日本の日を表す日の丸の幟を日本総船印とし,源氏の中黒を幕府船に用いるべきなのに,逆にするとは不見識だと一蹴されてしまいました.

 以後1ヶ月,斉昭と幕府との間で折衝が繰り返された挙げ句,結局,7月9日には日本惣船印は白地日の丸の幟,幕府船は白地中黒の帆印と白紺交えの吹貫を用い,藩船は各家の定めた別の船印,帆印を使う事に決定しました.

 その日本惣船印を最初に掲げたのは,1854年5月に完成した鳳凰丸が最初です.
 巷説では,12月に完成した薩摩献上の琉大砲船昇平丸とされていますが,実は違っていたりします.
 因みに,鳳凰丸は昇平丸より3ヶ月遅く起工していながら,完成は8ヶ月も早くなっています.
 これは,昇平丸が造船蘭書,翻訳書に基づき,忠実に洋式造船法をなぞったのに対し,鳳凰丸は異国船の実地見分(例えば,デンマーク船の様な)に基づいて得られた知見を基に,手慣れた和式の工作法を駆使しながら,洋式構造の簡略化を行ったからであるとされていたりします.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/04/01 23:54


 【質問】
 日本の戦前の国旗って2種類あったじゃないですか.
 今でもつかう真ん中に日の丸と,その周りに光がさしてるパターン.
 使い分けはなんですか?
 光が差してるイメージのほうの国旗は海軍専門ですか?

 【回答】
 国旗というか,船舶旗と軍旗,或いは軍艦旗です.

 日の丸は,元々船舶旗です.
 江戸時代初期に,朱印船,回船の表徴旗として使用したのが始まりで,1854年,薩摩藩島津斉彬の建議を受け,幕府が,「異国船に紛れざる様,日本総船印は白地に日の丸幟」と定めました.
 維新後,1870年10月3日の太政官布告第五十七号によって,商船規則の中で日本船舶が必ず掲げるべき国旗と定めただけで,厳密に言えば法的に国旗ではありませんでした.
 法的に定められたのは,1999年の所謂国旗・国歌法に定められてからのことです.
 ちなみに,後述の所謂軍艦旗が定められるまで,軍艦の表徴旗としても使用されています.

 旭光旗には二種類有ります.
 ひとつは日布,紅日光線章,或いは陸軍国旗と言い,これは1870年5月15日の制定です.
 陸軍ではこれを連隊旗として使用されています.
 もう一つ,こちらがの方が人口に膾炙していますが,同じ旭日文様でも,海軍の方は制定が遅く,1889年10月7日に公布された海軍旗章条例によって,旭日旗,即ち通称軍艦旗が定められました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2


 【質問】
 孝明天皇や,その取り巻きの公家は,攘夷論者ばかりだったそうですが,外国の武力についてはどう対抗することを考えていたのでしょうか?
 子供向け歴史マンガに見られるような,本気で「日本は神の国だから」などと思っていた,というわけではないと思うのですが…

 【回答】
 孝明天皇は攘夷論者でしたが,政務は幕府に委任しているから両者仲良くやろうという,いわゆる公武合体論者でもありました.
 要するに「幕府! しっかり攘夷せんかゴルァ!」で,朝廷が自力で攘夷することは出来ないし,その方策を自分で立てる立場でもないが,意見を聞かれれば攘夷を主張する,ということでしょう.
 そういう朝廷に幕府が伺いを立てたのが混乱の始まりですが,孝明天皇も幕府が結んだ通商条約は,やむをえない事情があったとして認めました.
 運用面では,京都に近い兵庫(いまの神戸)の開港はあくまで拒むなど,頑固な主張もみられますが.

日本史板,2004/02/06
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 禁門の変によって京都が蒙った被害は?

 【回答】
 さて,先日は廃仏毀釈運動の嵐について書いてみましたが,その余波を最も被ったのは京都であり,奈良でした.
 その中でも京都は,1864年7月19日未明に「君側の奸」である会津や薩摩を除く為に「雪冤上京」の挙に出た長州軍に山崎,伏見,嵯峨の三方から攻め込まれ,戦場となりました.
 これが後の世に言う「禁門の変」或いは「蛤御門の変」と言う戦ですが,この時,京都市街地は本格的な戦場となります.

 午前8時に長州の京都屋敷を巡る攻防が開始され,一時長州軍の手に落ちた御所内の鷹司御殿に会津軍は大砲を撃ちかけ,これを焼失させ,堺町御門,中立売御門を巡る攻防の末,会津軍を中心とした各大名家の軍に打ち負かされ,長州軍は衆寡敵せず逃亡を開始しました.
 午前9時には,河原町三条の長州屋敷に乃美織江が自ら放火し,付近に類焼します.
 その火災から持てるだけの物を持って逃れる者,彼らを挟んで両軍の砲火,銃火が交差し,阿鼻叫喚の巷と化します.
 更に,長州軍の兵士達が町家へ潜伏すると言う流言が流れ,会津軍などは大砲を民家に向け,更に類焼し,遂に京の都全土に火の手が上がります.

 そして,火は漸く21日になって収まりました.
 焼失区域は,北は一部中立売通を含む丸太町通から,南は九条通まで,東は鴨川,西は堀川の間の全市街の5分の3に及び,特に下京の辺りの被害が甚大でした.
 一方で,御所と公卿邸の大部分,それに二条城,京都所司代屋敷,京都の両町奉行所といった幕府機関は全て無事だったりします.

 『甲子雑録』と言う1864年の記録では,焼失町数が811町,戸数にして27,517軒,うち,土蔵1,316棟,寺社250カ所,諸侯屋敷40,堂上屋敷が18でした.
 当時,洛中の全町数は1,459,戸数にして49,414軒ですから,ほぼ55%が焼失した事になります.
 京都の人々は,これをして,「京の鉄砲焼け」とか「京のドンドン焼け」と呼んでいます.
 それだけ,あっという間に火が広がったと言う事なのでしょう.

 その中で一般住民がどれだけ死亡したかは,記録が幕府側にも全く残っていません.
 僅かに民間資料である『連城紀聞』の巻の8に,町人の怪我人744名,死者340名とあるくらいです.
 両軍戦死者については,長州軍側の内,長州藩兵士が252名,他の応援大名家の家士等29名の合計281名,対する御所守衛側は,会津軍が58名,越前軍が20名,彦根軍が11名,薩摩軍が8名,桑名軍が4名の計121名となり,民間の死者の方が多かったりします.

 家を失った者達は,河原や野原,或いは田畑に,焼け残りの戸や障子で四方を囲んだ程度の掘建て小屋で,京都の7月ですから,昼は炎天下に汗を流し,夜は一転夜露に濡れる寒さを防ぐ事も出来ず,老人や病人,子供は病に伏せる者も多数いたようです.

 御上からは,ドンドン焼けの数日後,三条大橋西詰に高札が1枚立てられただけです.
 それには,市中一帯へ玄米5斗入り1万俵を安値にて売り渡すと書かれていました.
 ただでさえ,着の身着のままで放り出されたのに,玄米1升を100文で下げ渡すと言う理不尽な措置でした.

 この頃,罹災者の間で流行ったのが「さっさ節」と言う歌です.
 それはこう歌っています.
「盆の19日から20日,寝ずに騒いで,鉄砲やって火事やって,京都焼かれ,うろたえて,持つもの持たずに野宿して,荷物取られて因果因果,何ぞの罰じゃ」

 それでも,1年後の1865年8月,京都で,「京羽二重持丸普請競」と言う番付一枚摺が市中にばらまかれました.
 これは,丸焼けとなった店舗を1年で見事に再建させた有力商人達のリストで,左右合わせて134店が相撲の番付風に,大関,関脇,小結を右の方,左の方各1名ずつ,前頭は左右合わせて128名の住所と屋号が並んでいます.

 右の方の大関は三井両替店,関脇は呉服商の小橋屋,小結は油商の蛭子屋,以下前頭と続きます.
 左の方の大関は蝋問屋の池田屋,関脇は糸問屋の日野屋,小結は具足商の岩井,以下前頭が続いています.

 兎にも角にも,茫然自失の状態から一応は復興の槌音が聞こえる様になってきました.
 しかし,この頃,幕府は1度不完全に終わった長州への征伐を再開する事になり,5月に諸大名家に軍令を発し,6月には将軍家茂自身が大坂に下って,総指揮の態勢を固めました.
 そして,第二次長州征討と言う戦争が勃発した訳です.

 これにより,京都の諸物価は一気に高騰し,折角復興のとば口を掴みかけていた罹災民に大打撃を与えています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/12/06 23:27


 【質問】
 幕末の小説を読むと撒兵とか,撒兵隊とかよく出てきます.
 これって,どういう意味なんでしょう? 読みはさっぺい,さんぺい? 今でも使われているんですか?

 【回答】
 読みは”さっぺいたい”.
 幕末期に御家人により編成されフランス式訓練を受けた,幕府直属の近代歩兵部隊のことです.
 他に傭兵により編成された「歩兵隊」もありました.
 詳しくはこちらで.
http://www001.upp.so-net.ne.jp/hack/sensou.html
 ちなみに撒兵隊の撒兵は,蘭語で工兵の事をサッペウスと言う事から来ているそうな.
 英語ではa sapper.


 【質問】
 幕末の倒幕志士たちは,薩長土肥のみが語られる事が多いですが,そのほかの藩の連中は,どういう位置づけだったのでしょうか?
 倒幕に動いたのって,上記4藩以外であるのでしょうか?
 というか長州が反乱まがいな事をやっていたのに,幕府側にも立たず,討幕側にも立たず,何もせずに見ていただけでしょうか?

 【回答】
 藩として積極的に動いたのは,その4つという事でしょう.
 基本的にどの藩も,いろんな意見の人が居て,一つにまとまるのは難しい.
 それ以前に大抵の藩では,財政が逼迫していて何も出来ない.

 例えば水戸藩は御三家だけど,尊王思想の震源地なので,幕府と対立したあげく,脱藩浪士が桜田門外の変を起こす.
 そんなこんなで,尊王派と佐幕派が争ってるうちに維新を迎えました.

 越後長岡藩は譜代で,老中とか京都所司代とかやってる藩ですが,河井継之助が財政再建した上で,幕府はもうダメポと見て,これと距離を置くように殿様に進言したので,老中を辞めました.
 河井の構想は,佐幕派にも倒幕派にもつかず,武装中立するというモノでした.
 無理があったけど.

日本史板,2010/06/13(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 明治維新前後の立藩について教えられたし.

 【回答】
 元々,大名の独立権限は,幕府が有していました.
 しかし,戊辰戦争の最中,新政府が自らの統治権を誇示し,且つ,佐幕派の諸家を懐柔する一手段として,16の家が大名家に昇格しています.

 一つ目のグループは,御三家の付家老職にあった家で,
尾張徳川家の成瀬家と竹腰家,
紀州徳川家の安藤家と水野家,
そして,水戸徳川家の中山家です.
 このうち,成瀬家以外は,何ら新政府側に寄与せず,寧ろ,竹腰家などは尾張佐幕派の重鎮でした.
 こうした家を取り立てたのは,戊辰戦争勃発直後に,動向が不明瞭な御三家に対し,新政府側が懐柔策の一つとして行ったものです.
 元々,彼らは中山家以外は,独立志向が強く,屡々幕府に対しても,御三家付家老からの独立を求め,大名に準じる扱いを要求していたりします.
 こうして独立した各家ですが,成瀬家が最後まで尾張徳川家の家老として,新政府にも協力的だったのに対し,竹腰家は石高3万石のうち,尾張徳川家から加増された1万石を返却する様に求められ,猛運動の末,何とか撤回を成功させます…と言ってもその実現は廃藩置県直前でしたが.

 次いで立藩したのは,長州毛利家の重臣吉川家で,関ヶ原以来,本家との仲が冷え切って,歴代当主の中には,幕府に対する独立運動を行った者もいました.
 こちらは長州毛利家の敬親が支藩として立藩を約束したことで,当時の当主経幹が発奮.
 彼の八面六臂の活躍により,穏健派の巨頭として藩中を統率し,明治維新を実現させることに成功しました.
 この功を以て立藩を許されたのですが,実はその頃には経幹は病を得て卒去した後.
 その喪を隠して立藩し,更に従五位下・駿河守に任じられ,城主格をも得ています.
 それを得たのが,彼の死から2年も経った後で,その後,漸く喪が発せられた訳です.

 三番目が,元将軍家の徳川家と,御三卿の内の田安家,一橋家です.
 これも戊辰戦争の賜物で,旧幕府軍との戦闘を回避したい新政府が,旧勢力を懐柔する為に行った政策で,徳川家には駿河一国と遠江,陸奥の一部70万石を宛がわれ,元々駿河などにいた7つの大名家は入れ替わりに,上総や安房に転封となり,街道筋は大混雑となった訳です.
 一方,田安家と一橋家は10万石格だったのですが,田安家は摂津,和泉,播磨,甲斐,武蔵,下総と領土が分割され,一橋家も和泉,播磨,甲斐,武蔵,下総,上野と領土が分割されていました.
 両家としては,時代が安定すれば,所領が一円化され上手くすれば城が与えられると言う期待を持ち,新政府からの要求に唯々諾々と従います.
 特に,江戸市中に残った旧幕府家臣の取り立てを行い,市中安定に寄与しています.
 ところが,版籍奉還の際,彼らは見事に切り捨てられる訳です.

 薩長土肥による版籍奉還は,彼ら版籍奉還を行った大名家を知藩事に任じますが,領土が分散して定府大名であるから,所領との関係が希薄な上,城も持っておらず,軍事力も極めて脆弱な田安,一橋の両家は,後の廃藩置県の実験台とされ,この両家だけは知藩事に任命されず,知藩事より一段低い「地所蔵米の家」とされ,挙げ句,一方的な廃藩を言い渡されたのです.
 当主については家禄の10分の1が下賜される事,家令については引き続き召し使う場合は,新政府に名簿を提出する事,それ以外の士卒は地方官属とするので,氏名と禄高を提示する事,所領の租税のうち,当年度分は地方官が取り立てるので,調査の上報告すべき事,とまぁ,両家の人間からしたら,「そんなご無体な」というものでしょうが….

 この実験台の経験が,その廃藩の1ヶ月前に実施された旗本処分の経験と併せて,後に行われた廃藩置県の布石となった訳です.
 そう言う意味では,彼らは新政府に寄与したと言うべきでしょうか.

 最後のグループが,交替御寄合の旗本達の立藩です.

 これは,元々万石以上の大名家には朝廷側からの働きかけがあったのに,旗本にはそれが無かった事から危機感を抱いた旗本が,積極的に立藩運動を行った結果でした.
 大政奉還後に,本堂家,山崎家,山名家,池田家,平野家,生駒家と言った家が立藩しています.
 彼らの共通点は,交替御寄合で,遠国に比較的広い所領を持ち,堅固な陣屋を構えて領内を支配しており,また,大名と同じく老中支配で,城内でも帝鑑間や柳間に詰めるなど,石高以外は大名に準じると言う点でした.

 これら諸家の立藩の動きに際しては,積極的な高直しを行って新政府にアピールしており,各家は万石の家として,新政府に提出しています.
 甚だしいのは,例えば池田家6,073石の場合は,本家の鳥取池田家から4,500石の蔵米を受けて万石に達したり,山崎家は最初の上表では表高5,000石だったのに,次の上表では,
「荒れ地や欠所を切り開いて新田を開発し,7,000石を開拓したので,実質石高は12,000石に達している」
といけしゃあしゃあと宣っております.
 平野家については,当主の長裕夫人が山崎家当主治正の娘だった関係で,山崎家に対抗心を燃やしたのか,新政府が万石以上の旧幕臣の帰順者を朝臣として遇すると言う布告と,万石未満の旧幕臣ならば,最寄りの府県の支配とすると言う布告を出しており,朝臣になりたい一心で,大和田原本5,003石を11,000石と高直しして立藩に漕ぎ着けていました.

 この辺り,人間の心の有りようが透けて見えて面白かったり.

 因みに高家についても,大名同等の位を授けられており,彼らも禄高は小さいながらも,立藩する資格は十分にありました.
 また,従来から朝廷との御機嫌伺いなどを行っており,朝廷の要人達と懇意であり,大沢家を中心に積極的に新政府に働きかけます.
 この結果,石高は低いのですが,全員が朝臣として認められる事になりました.

 高家を取り纏めた大沢家の当主基寿は,従四位下・侍従で,最後の将軍慶喜の大政奉還の上表を朝廷に取り次いだ人でした.
 それだけに朝廷にも信用が篤く,それを利用したかどうか判りませんが,彼の所領は高直しを行う事で,上表により「10,006石」とされ,その上表を元に彼は大名として認められ,遠江堀江大沢家が誕生しました.
 元々の彼の石高は3,500石余,高家の役高として1,500石しかありません.
 残りの部分は,天災で荒廃した耕地で,「追々開墾地にしていくものとする」としていました.

 その残りの部分は,何処にあったか….
 彼の領地は遠江にありました.
 今の静岡県…静岡県と言えば,浜名湖があります.
 即ち,彼の「追々開墾地にする」と言う土地は浜名湖の湖面だったりします.
 色々,隠蔽工作を行うものの,とうとう隠す事は出来ず,遂に廃藩置県後に事件が発覚して,大沢基寿は一般の士族に落とされ,禁固1年の刑を受けてしまいました.
 其の儘何もしなければ,少なくとも華族の末席に連ねられたかも知れませんが,何か哀れを誘う話ではあります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年10月09日23:30


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