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◆◆総記 Általános művek
<◆明治維新 目次
戦史FAQ目次


(画像掲示板より引用)


 【link】

D.B.E.ミニ型」:丸亀藩が国内最大級の砲弾開発(情報源武蔵成山城)

「VIPPERな俺」:坂本龍馬ってなにをしたの?

「VOR」◆(2012/11/21)メシチリャコフ教授の著書「明治天皇と彼の日本」に「啓蒙者」賞

朝目新聞」●幕末で最強の剣士って誰?  (of VIPワイドガイド)

朝目新聞」●幕末・明治期 日本古写真メタデータ・データベース(by酔拳の王だんげの方)
> 様々な題材から,当時の写真を検索できるデータベースです.

朝目新聞」(2010/09/30)●本物の侍怖すぎワロタwwwwwww

「朝目新聞」(2013/07/19)●写真を残して欲しかった幕末の人物

「朝目新聞」(2013/06/08)●爺さん婆さんから聞いた幕末明治大正昭和の話

「朝目新聞」(2013/07/22)●古写真見ると江戸時代の島津家の姫様が可愛かった
   明治維新頃前後~の人物画像が多数.

維新の源・松下村塾

伊藤公資料館電脳頁

「壺齋閑話」◆(2012/07/17)井上勝生「幕末・維新」

「ザイーガ」:【やってみる】なんでも幕末の古写真風にしてしまう「幕末古写真ジェネレーター」

松菊庵(桂小五郎)(相互リンク)

「神経衰弱なAFV」:坂本龍馬の銃 (S&W MODEL2 ARMY)

「ダイヤモンド・オンライン」◆(2013/04/04) 【「超」入門 学問のすすめ ――明治維新と現代日本に共通する23のサバイバル戦略】今こそ幕末に学ぶ! 転換期に必要な3つの武器

「ダイヤモンド・オンライン」◆(2013/04/23) 【「超」入門 学問のすすめ  ――明治維新と現代日本に共通する23のサバイバル戦略】歴史が教える教訓 未来のリーダーになれる人の3条件

「ダイヤモンド・オンライン」◆(2013/04/24) 【「超」入門 学問のすすめ ――明治維新と現代日本に共通する23のサバイバル戦略】ちっぽけな個人が社会を変えるには? 実際に世界を変えた3つの武器

「ネットゲリラ」:ドンドル銃とか傍装雷火銃とか

幕末維新館

幕末京都

「ぶる速-VIP」:幕末に2ちゃんねるがあったら立ちそうなスレ

明治史研究のためのリンク集(明治時代・日本近代史)

歴史資料館(幕末軍艦について詳しい.ただし閉鎖中)

●書籍

『ある村の幕末・明治 『長野内匠日記』でたどる75年』(長野浩典著,弦書房,2013/07/19)

『勝海舟の腹芸 明治めちゃくちゃ物語』(野口武彦著,新潮新書,2012.2)

『講座明治維新 7 明治維新と地域社会』(明治維新史学会著,有志舎,2013.4)

『ゴンチャローフ日本渡航記』(I.ゴンチャローフ著,講談社学術文庫,2008.7)

 吉村昭「落日の宴」を初め,幕末の日露交渉をすすめた川路聖謨の資料本だが,
「日本人を食事に招いたら,箸を用意したのにフォークとナイフを求められ西洋式マナーで食事できる事をアピールしやがった」
とか一行アリ.

 鎖国は鎖国としてそういう政策はあるが,日本人の情報マニア,外国ブランド好きは変わらないなと思った.
 川路も昇進の時,わざわざ洋物中古の懐中時計,記念に買い込んでいるしね

――――――軍事板

『坂本龍馬の「私の履歴書」』(八幡和郎著,ソフトバンク新書,2010.3)

『佐久間象山伝』(大平喜間多著,宮帯出版社,2013/2/22)

『知られざる「吉田松陰伝」 『宝島』のスティーヴンスンがなぜ?』(よしだみどり著,祥伝社新書,2009.9)

『図説 幕末・維新の銃砲大全』(洋泉社,2013/6/5)

『仙台藩士幕末世界一周』(玉蟲左太夫著,荒蝦夷,2010.8)

 玉蟲左太夫と言う人の日記『航米日録』を現代語訳したものですが,1860年の段階で,日本の政治が外国の顔色を伺うのに汲々としているのがよく判ります.

 例えば,太平洋横断中に寄ったハワイで出会った,中国人移民と筆談で会話した記録を,副使の随員に見せた時のこと,その中に「紅夷」やら「夷狄」と言う言葉があったのですが,随員は最初,これは良い記録だと言って,副使に見せに行ったら,お叱りを被って返ってきたとか.
 その「紅夷」やら「夷狄」やらと言う言葉を用いて吾等が会話しているのを,米側の人間に万が一知られたら,我々全員,海に放り出されるかも知れないと言った過度の対応の下りなど,小役人の発想は昔も今も変らないなあと思ってみたり.

 また,ポーハタン号が嵐の航海を抜けると,翌朝,艦長はすかさず水兵全員に合わせて1,000ドルのボーナスを与えています.
 しかも,艦長は夜を徹して,彼等と共に働いているのです.

 これに左太夫は感心して,
「もし艦長1人が傍観して命令するだけで部下に苦労させたり,また功労があっても自分の意に合わない者は賞さないとか,また賞するにしても何度かの吟味を経て,月日がたってからしたりする様では,部下が必死になって努力することはないだろう」
と書き,
「艦長は元より礼儀作法は薄いが,艱難辛苦・吉凶禍福を部下と同じくし,更に身分の上下の区別無く,褒賞の速やかなこと斯くの如し.この様であるから,一旦緩急の時には全員が身を忘れて力を尽くすのだ」
と手放しで褒めています.
 一方,返す刀で,
「我が国の場合は,立場が上の者はただ命令するだけで,部下と一緒に労働することなどあり得ず,部下にだけ苦労させ,また仮に褒賞を出す様な場合でも,自分の意に合わなければ出さないし,出すにしても何度も吟味を重ねてからにすることが多く,褒美をもらうのは,かなり時間がたった後になるのが常である」
と批判しています.

 因みに,この玉蟲左太夫と言う人,この日記を当主に上程して,外の世界を知る家臣として重宝され,仙台伊達家中で重きを為し,会津に対する朝廷恭順の正使として派遣されたりしていましたが,時勢には抗えず,但木土佐と共に奥羽列藩同盟の締結に巻き込まれ,戊辰戦争後に捕らえられます.
 本来,仙台伊達家に対しては,但木土佐の処分で戦犯追及が済んだはずですが,後に勅使が更に派遣されることに恐慌を来し,玉蟲を始め7名の家臣に切腹を申しつけたそうです.
 後に福沢諭吉は,『福翁自伝』の中で,
「仙台藩士の無情残酷と言うことに酷く腹が立ちました.
 弱武者の意気地のない癖に酷いことをする奴原…」
等と非難しています.

 ところで今回の尖閣諸島の騒動,誰が玉蟲で誰が伊達家中なのか気になるところではありますね.

――――――眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/09/25 21:46
 今日は休日出勤.
 流石に半年が過ぎると新人ちゃんの仕事もてきぱき出来る様になって,お父さんとっても感激(ぉ.
 予定通りに作業が出来る様になったので,すごい進歩です.
 やっぱり,継続は力なりですね.

 さて,そんな休日出勤の合間にも,例の玉蟲左太夫日記を読んでいたのですが,面白い記述を見つけたので引用.
 左太夫の訪米日記は,全7巻から成っているのですが,実は公式の記録の他に,個人の感想を書いた8巻目があります.
 そんな閏3月7日の条にこんな記述がありました.
――――――
<閏3月7日のこと>

 ローノーク号には南アメリカのアスピンウォール港から乗ったが,船の中で偶々日記をつけようとして筆を執ったところ,アメリカ人にとっては珍しいことだったのか士官が二人,自分の帽子を取って「何か書いてほしい」と手真似で丁寧に頼んできた.
 私はその帽子を取り,一つには「天下英雄幾有人」,もう一つには,「一王千古是神州」との一句を書いて渡したところ,彼等は大喜びで持ち帰った.
 ところが,暫くして役人の某が私を呼んでいるというので,何事かと思って行ったところ,「一王千古の句を書いたのか」との問いであるので,私は明白に「その通り」と答えた.
 その後,そのことが御奉行の耳にまで達したと見えて,又暫く経ってから,今度は用役から
「アメリカは共和政治の国なのに,『一王千古』の句を書いてやることなどは,アメリカの気に逆らい大患が生じる端緒となるかも知れない.
 又極めて帽子は尊いもので,濫りに文字を書くなど失礼であり,この為に万が一,揉め事などが起こったりしたら御奉行の面目を失うことになる.
 今後決して筆を執ってはならぬ」
と厳しく叱られ,書状一通を取られた.
 私が思うには,是を書いたからと言って大患の端緒となる事などあり得ない.
 しかも,我が国のことを卑下するのは,お上に対して恐れ多いことであり,如何にアメリカが強国であるからと言って何事も逆らわず言いなりになっていれば,彼等は益々のさばり蔓延って,我々を蔑むことになるだろう.
 最近既にその兆しがない訳でもないのだ.
 例え我国の恥になる事であっても,何事もなく安全に帰国できさえすれば本望とだけ思い,万事彼等に媚び諂ってばかりいる様は見るに忍びない.
 私は一介の書生に過ぎないので事情には疎いとは言うものの,是を思うと思わず涙で袖を濡らしてしまうのである.
――――――
 因みに,「一王千古是神州」と言うのは,「日本は千古の昔から一人の天皇を戴く神の国だ」と言う意味.
 だから,大統領を頭に戴いている共和制の米国からすれば,この言葉は自国の国体に反することであるからして,それで気分を悪くするに違いない,と早手回しに思い込んだ訳です.
 大国の権威の前に,自国の誇りさえ捨てる役人は,150年過ぎた今でも変わりないのだなぁ,と感じ入った次第.
 涙で袖を濡らしている人も多かろうにねぇ.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/09/26 22:21

『〈通訳〉たちの幕末維新』(木村直樹著,吉川弘文館,2012.2)

『日米衝突の根源 1858-1908』(渡辺惣樹著,草思社,2011/10/22)

『幕末維新変革史』(宮地正人著,岩波書店,2012/08/29)

『幕末志士の「政治力」』(瀧澤中著,祥伝社新書,2009.2)

『反政府軍戦没者の慰霊』(今井昭彦著,御茶の水書房,2013/06/27)

『武器と防具 幕末編』(幕末軍事史研究会著,新紀元社,2008.3)

 新紀元社の,イラストが贅沢に入っている解説本.
 幕末の銃砲と,各藩などの軍制,軍装についてまとまっている.

 特に銃については,従来言われてきたような話とは違った評価が,簡潔に要領よくまとめられており助かる.
 しかし,装填の方式(前装と後装はどこがどう違うのか)や,銃弾などについても,もう一歩踏み込んで丁寧な解説があると,もっと良かったかも.

 砲についても,司馬遼太郎の”アームストロング砲”という短編を読んだ人は多いと思うのだが,幕末当時の状況からみて,違った評価がされている.
 装填方式(砲尾の形状など)も,海軍の速射砲をイメージとは異なることを知った.

 銃砲のいずれも,米国内戦の南北戦争からの影響が大きかったことが,あちらこちらの項目から伝わってくる.
 つまり日本内部の事情ばかりでなく,海外の歴史とも連動した視点で,各項目の記述が組み立てられているのは大変うれしい.

――――――軍事板,2011/03/13(日)

『謀略の幕末史 幕府崩壊の真犯人』(星亮一著,講談社新書,2009.6)

『陸奥宗光:下巻』を読み解く (2013/05/14)◆「国際インテリジェンス機密ファイル」

『明治維新 (日本近世の歴史6)』(青山忠正著,吉川弘文館,2012/10/25)

『予告されていたペリー来航と幕末情報戦争』(岩下哲典著,洋泉社,2006.5)

『歴史通』 2010年3月号

 おなじみの三野正洋先生の薩英戦争・下関戦争の記事が載ってたな.
 実は日本側が勝っていたという,テーマからして実に酷い内容だったぞ(笑)

・死傷者の数が外国軍>日本軍だから,日本の勝ち
・日本側の主力火砲は和式大筒,一部スペイン製
・四斤山砲は4ポンド砲

 まあ,『Will』の別冊雑誌らしいんで,日本大勝利でないと採用されないんだろうな.

(かと言って,薩英戦争を単純にイギリスの勝利と呼ぶのも同様に愚かしいけどね)

――――――軍事板,2010/02/13(土)

『幕末維新変革史』(宮地正人著,岩波書店,2012/08/29)

『ライマン・ホームズの航海日誌 ジョン万次郎を救った捕鯨船の記録』(川澄哲夫著,慶應義塾大学出版会,2012/12/6)

『レンズが撮らえた幕末の写真師 上野彦馬の世界』(小沢健志監,山川出版社,2012/08)

『ロシア人の見た幕末日本』(伊藤一哉著,吉川弘文館,2009.3)


 【質問】
 歴群アーカイブ・幕末戊辰戦争,買おうと思っていたけど内容がよくないの?

 【回答】
 一部の人の記事がちょっと…というのと,旧幕会津側に寄った編集になってはいる.
 後,これは他のシリーズも同じかも?だけど,昔の歴群の記事とか赤本から引っ張った記事が無い.
 他のアーカイブよりも纏まってない感じがした.
 他に良い原稿あったろうに,何で坂本犬之介の原稿再録したんだか.

 もともと戦争研究自体のまとまりが悪い題材なんで仕方ない,という話もあるが
 佐賀の家柄としては,御先祖様方の働きの評価材料が一般に手に入りやすくなったのは有り難いが.
(読めば判ると思うが,秋田戦線じゃ本当に立場ないものな,佐賀)

軍事板,2010/02/13(土)~02/14(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 幕末の不安定な時代,どのような精神治療が行われていたのか?

 【回答】
 江戸時代の精神疾患者は,身分が高い人では大抵の場合,座敷牢に放り込まれたりして一生を過ごしたりしますし,庶民では狐付きとか言われて,それこそ滝修行させたり,お祓いをしたりと色々な民間療法がありました.
 そう言えば,今では放送コードに引っかかって絶対出来ない古典落語には,知恵遅れなど精神疾患の患者が良く出て来ますね.
 制限するから,結果的に文化が消滅してしまうのですが,その辺り,平等教信者には理解出来ないようです.

 時に,精神障害者治療所的なものは無かったのかと言えば,幕末近くになりますが,江戸の外れに存在しました.
 江戸時代,亀戸村の田畑と言う場所に存在した治療所は,小松川狂病治療所と言う名称でした.

 これを創設したのは杉浦与太郞という人ですが,杉浦伊織に名を変え,晩年は奈良橋一徳と言う名前になっています.
 彼は,1822年に武州葛飾郡細田村に生まれましたが,子供時分に船遊びで足を骨折し,その予後が良くなくて,後遺症に苦しんでいた障碍者でした.
 1834年に江戸に出て,越中前田家の藩医であった菅原武点の弟子で日本橋人形町杉の森に住んでいた大和出身の奈良林一徳と言う医者に診察して貰いましたが,既に手の施しようがないと言われました.

 普通の人なら,これで人生諦めてしまいますが,与太郞は発奮して逆に一徳に入門し,名を杉浦伊織と改めて整骨術を10年修業しました.

 1843~44年頃,伊織は成績優秀でもあったからか一徳から独立を許され,葛飾郡西小松川で接骨医として開業しました.
 その傍ら,水戸徳川家の発狂治療医大川開元と言う人に付いて,精神病治療について学び,1846年には小松川狂病治療所と言う看板を掲げ,精神病治療も開始します.

 しかし,当初は精神病治療についての理解が無く,「山師を始めた」と言われたそうです.
 まぁ,当時は精神疾患は病気という認識がありませんでしたからね.

 その内,幸か不幸か近所の米屋の息子が発病し,時に良く喋るかと思えば,いきなり笑い出したり,意に沿わないことがあれば怒って暴力を振うなどの状態に陥りました.
 世間ではこうした状態のことを「狐付き」と言うのですが,とうとう家では手に負えなくなって,狂病治療所に運ばれてきました.
 結局,患者第1号は今で言う躁鬱病の患者であり,治療の結果,日毎に安静に向かって,2ヶ月後に快癒しました.

 それが評判となって,伊織の元には患者が引きも切らず,1846年11月3日に,小松川の門戸を改築して教室治療所とし,患者数名を収容できるようにしました.
 それでも幕末期の不安定な時代で,精神に異常を来す人が多かったからか,程なく手狭となり,増築して中2階を設け,その中には現在で言う保護室を5室設けていました.

 当初の施設は十分なものではなく,保護室は四隅に丈夫な綱が固定してあり,患者はこの綱に縛られ,室の中欧には火鉢を置いて土瓶を掛け,薬種を煎じつつ患者を看視すると言う幼稚なものでした.

 その内,やっと財政的に余裕が出て来て,1854年に近隣の土地家屋を買収し,自分の理想に近い病室を完成させました.
 病室には第1種から第4種まで有り,第1種は太い欅の丸太の格子を巡らせた牢に似た室で,外から錠を掛け,床は畳も何もない板の間,第2種は同じ構造ですが,床には畳が敷かれていました.
 第3種になると,障子も填って,窓も戸棚もあり,畳敷きの普通の室で錠は掛けられていません.
 第4種は,2階になっていて,第3種と同じ構造でした.
 これは,後の時代で言うところの,第1種は不潔室,第2種が狂躁室,第3種が普通室,第4種が開放室で,明治初期まで残っており,今でも松沢病院には模型が残されています.

 室の数は約10室で,広さは6~10畳の各種がありました.
 患者が入院すると,症状によって興奮性か,穏やかなものかを判断し,穏やかなものは第3種以降に収容し,興奮性の患者は,先ず強力な下剤を与えて第1種に収容して鍵を掛け,下痢をして衣服や居室を汚辱したりしても構わない様にします.
 数日間この状態で放置して,患者が疲労状態で興奮が沈静化するのを待って,第3種に移動させました.
 それでも興奮を来したり,逃走その他の恐れがある場合は,第2種に入れて外から鍵を掛けます.
 最終的に軽快して,退院しても差し支えない状態になると,退院準備の為に第4種の開放室に移して,看護人も居ない状態で浮き世に慣れる様にして,退院というのがその一連の治療過程でした.

 今から見ると凄く乱暴な治療法ですが,投薬法などが無い時代です.
 とは言え,急性期の閉鎖病棟から軽快期の開放病棟へと移す流れは現在と変わっていません.
 また,現在でも閉鎖病棟があったり,全開放を謳った病院でも,一時的な興奮状態に陥った患者に対応する為,保護室は設けられている病院は多かったりします.

 急性期の治療には下剤が用いられましたが,それと共に治療の全課程で投薬も行われており,これは全ての患者に共通の薬でした.
 その処方録は,1912年の洪水で失われてしまいましたが,数種の薬種を煎じたもので,非常に泡が立ち,服用すると口内が黄色く染まることから黄蘗が主体と考えられています.
 また下剤は,梔子または辰砂が主成分だと考えられました.

 因みに,黄蘗と言うのは,日本全国の山地に自生する蜜柑科のキハダと言う落葉高木のコルク層を除いた樹皮を乾燥させたものです.
 梔子は茜科梔子属の常緑低木で,乾燥させた果実は自然の食品着色料として用いたり,漢方薬に用いられています.
 辰砂は硫化水銀の事で,鎮静,催眠を目的に用いられた漢方薬として,それを主体に調合した「主砂安神丸」と言う薬剤は,不眠,動悸,躁状態に用いるものです.

 こうして,治療実績を上げていった小松川狂病治療所は隆盛を極め,1859年頃には患者数25~30人を収容し,近在だけでなく,江戸全市から入院患者が来る様になっています.
 しかし,時は幕末期です.
 患者を入院させたまま,治療費も払わずにドロンを決め込んだりする者も多く,その都度人を江戸にやって伝馬町に宿を取り,その家族を捜索するなど苦労を重ねています.

 そんな折,師匠の奈良橋一徳が夫人の死後に別の未亡人と懇ろになり,とうとう入夫して八木一徳と改名.
 元々持っていた杉ノ森の治療所が余った為,伊織は1861年にその治療所を50両で譲り受けて,ついでに奈良橋一徳の名も継いで改名しました.
 そして,杉ノ森治療所を出張所とし,小松川から隔日に出張して,接骨患者の外来診察を開始しました.
 接骨医院と精神病院の兼業で,幕末を乗り切ろうとした訳です.

 また,世情争乱状態で,治安も悪化した為,助手として佐竹侯の侍医を努めていた中島玄瑞と言う医者を,長女に嫁して養子とし,奈良林元春と改名させて,父子で経営を行い始めました.
 因みに,この中島玄瑞と言う人,徳川家の漢医青木春岱の門人で,羽州久保田佐竹家の漢医を勤めていた中島元理の次男で,佐竹侯の侍医をしており,しかも剣術が達者で用心棒を務めていたりもします.

 こうして,明治維新を迎えると共に,奈良橋一徳は隠居し,元春に跡を譲りました.
 最終的に元春が跡を継いだのは,1873年の事で,1878年には改築して定床40名の医院となり,1880年には小松川癲狂院として,病院規則によって組織を改めています.

 奈良橋一徳は1905年と言いますから83歳での大往生,1907年には二代目奈良橋元春が69歳で此の世を去っています.

 その後,小松川癲狂院は,小松川精神病院と改称して亀戸に移転し,1908年には加命堂病院と名称を変え,敷地3,658坪,建坪566坪,病室9棟56室,収容定員142名,職員は医員3名,薬局員2名,看護人が男性20名,女性10名と言う大所帯となっていき,1920年には東京都の代用精神病院(公立精神病院が発足するまで,仮に公立に準じた扱いをした病院)に指定され,1936年12月に江戸川区松本町に5,000坪の土地を購入して移転しますが,建築工事着手直後に日華事変が勃発して物価が騰貴し,天災も加わって竣工が遅れ,1939年に完成しました.
 敷地面積は5,500坪,総建坪1,350坪,収容人員300名の更に大病院となりました.

 その入院費は,1日当たり1等(1室1人)5円,2等(1室2人)3円,3等(1室2人以上)2円と高額で,更に専任看護人は1日1人2円,家族付添人は食費として1人1日1円であり,これらは20日以上前払いする事になっていました.

 この立派な病院の建設は,結果的に加命堂病院の経営にとって致命傷となり,結局,1944年3月,軍部に接収されて本土決戦用の陸軍病院となったことから閉院を余儀なくされました.
 戦後に跡地は江戸川病院結核療養所となりましたが,現在は亀戸中学校や日立製作所労働組合の施設などに分割されてしまっています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/02/10 22:54


 【質問】
 陸奥宗光(むつ・むねみつ)って誰?

 【回答】
 陸奥宗光(1844~1897)は明治時代の政治家・外交官.
 土佐の坂本龍馬の知遇を得,海援隊に参加.
 明治維新後には征韓問題で西郷隆盛や板垣退助と共に下野したものの,その後,外相などとして日清戦争前後の外交に従事した.


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