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「Togetter」◆(2013/01/02) 福島みずほさんの「百虎隊」が話題に
『カメラが撮らえた会津戊辰戦争』(『歴史読本』編集部編,新人物往来社,2012/08)
『箱館戦争と榎本武揚 (敗者の日本史17)』(樋口雄彦著,吉川弘文館,2012/10/17)
【質問】
勝海舟とは?
【回答】
山岡鉄舟,高橋泥舟とともに「幕末三舟」の一人(1823〜1899)
小普請組の貧乏旗本,勝小吉の長男として江戸に生まれる.
1860年,日米修好通商条約の批准書交換のため,咸臨丸の艦長として,日本で初めて太平洋を横断.
このアメリカ派遣使節の成功により,彼は一転して幕府内でも強い発言力を持つ立場に.
軍艦奉行,次いで陸軍総裁となり,西郷隆盛と江戸城明渡しの談判をして江戸を戦火から救う.
明治維新後,明治政府にも重く用いられ,元老院議官,枢密顧問官になった後,76歳で死去.
【質問】
もし江戸城開城交渉が失敗していたら,江戸はどうなっていただろうか?
【回答】
いよいよ官軍が江戸に入ってくるというとき,勝は,江戸住民すべてを退避
(現在の千葉県に)させるための船を準備し,最悪の場合は
「江戸を焼き払っ て敵と戦い,これを殲滅する」
という「江戸焦土戦」の覚悟をもっていました.
――余談ですが,新撰組の甲府行きは,邪魔者を追い払ったのではなく,江戸焦
土戦に呼応する支作戦[中山道ルートの官軍への遅滞作戦]の実働部隊という意味合いがあったと思います.
新門辰五郎らに対し,いざというときには受持ちの各所で火をつけろ等といっ
た具体的な策をいい含めるなど,勝は実に周到な準備をしていたようです.
幸い,官軍の代表だった西郷隆盛との談判がうまくいき,官軍の無血入城が実現
したため,高額の金と手間をかけたこれらの準備は,すべて無に帰しました.
維新後,このことについて聞かれた海舟は
「交渉ごとというのはね,言葉に迫力がないとできねえもんだよ.
幕府代表者の俺が,いざとなりゃあ江戸を焼け野原にするっていう本気の覚悟をしていたから,それが西郷にも伝わり,実のある話ができたんだよ」
ということを述べています.
西郷と勝の談判は,両者の友情にばかり目が行きがちな我々が想像するよ
うな,甘っちょろいものではなかったはずです.
先人の遺産を今に活かすよう心がけたいものです.
【質問】
上野戦争って何?
【回答】
さて,〔2008年〕2月9日.
大山閣下に上野戦争の話を聞きながら不忍池周辺を回ったときに,
「彰義隊ってなに?」
「大村益次郎って?」
「奇兵隊って何?」
と云う,呟きが聞こえてきたのですが…… (w`;
「高校時代,世界史とってたんだから,仕方がないじゃ〜ん」
と云う,呟きも聞こえてきたのですが,安心してください!
∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
(・(・・)・) < 藤原さんも,高校時代は世界史でした!
/JベタJ \__________
それはともかく,大山閣下から聞いた話と,藤原さんの知識を使って,上野戦争について語ってみたいと思います.
さて, 慶応4年,新政府の代表,西郷隆盛と,幕府側の代表,勝海舟の会談により江戸は無血開城を果たしました.
しかしながら,幕府の意に反して新政府に敵愾心を剥き出しにする連中がいました.
,., .,r.,
,! ヽ,:' ゙;.
. ! ゙;; } せっかく無血開城したのに……
゙; ii ,/
,r' `ヽ,
,i" _, _ ゙;
!. ・ ・,!
ゝ_ x _n;
/`''''''''''''G´。 ,.゚)
! 二つo ,ノ゙
゙''::r--、::-UJ'
゙'ー-‐゙ー-゙'
勝海舟は,この過激分子を穏便に江戸から追い出していきます.
榎本武揚率いる幕府海軍には 「ちょっと,蝦夷地で新国家作ったら? 出来たら,新国王に将軍の従弟でもなんでも王様につけちゃえば?」 と云って追い出し,新撰組の近藤勇には 「ちょっと甲州へ行ってこいや!」 と云って,甲州へ追い出し,幕府陸軍は脱走するに任せ,関東方面の反新政府勢力の力を削いでいきました.
で,結局残ったのが,上野寛永寺の 『彰義隊』 でした.
無血開城後,江戸に入府した新政府軍の兵士の数は3,000名前後.
その数では江戸の治安を守れるワケもなく,治安活動の一端を勝海舟の斡旋により,上野寛永寺になんとな〜く集まっていた,旗本とか侍っぽいのとかの集団 『彰義隊』 に委ねることになりました.
ところがこの 『彰義隊』 治安維持をするどころか,商家から金品をゆすったり,新政府軍の兵への闇討ちして彼らが身に着けていた布を集め,
./\___/ヽ
/ ⌒ |||| ⌒ \
/ (●) (●) \ わ〜い! ボク3つ集めたぉ〜
| 三 ⌒(__人__)⌒三 |
____
/_ノ ヽ、_\
ミ ミ ミ o゚((●)) ((●))゚o ミ ミ ミ
/⌒)⌒)⌒. ::::::⌒(__人__)⌒:::\ /⌒)⌒)⌒)
| / / / |r┬-| | (⌒)/ /
/ // オレは5個集めたぜ
| :::::::::::(⌒) | | | /
ゝ :::::::::::/
| ノ | | | \ / ) /
ヽ / `ー'´ ヽ / /
| | l||l 从人 l||l
l||l 从人 l||l
ヽ -一''''''"~~``'ー--、 -一'''''''ー-、
バン! バン!
ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) ) (⌒_(⌒)⌒)⌒))
とやってたもんで,新政府側は,
i'⌒ヽ べ お は
う
〈⌒\_| | き
く ら ら
/⌒ヽ__ :} |⌒|/i、_/`ヽ か
さ み
/⌒| i、_ノ `-' / _ノ !!
で
|__ノ|冫ノ / ヽ-'/
| / / _、-''~"~ ̄~`'''-,,_
| | _,,ノ /:::::::::::::::::::::::::::::::::::::ヽ,
/⌒ヽ
`-、__, \ /::::::::::_,,-、/)::))::):::::::::::ヽ、
/ ̄\_/{ iー'/⌒i
\ \/⌒ヽ|:::::/iノ__.〜_(/ |/
|/iノi:::::::ヽ |{ ヽ i、___ノ
/ / ~)
\ .| ヽ `y、__r'i ●ヽ、 __〜
ヾ::::::} ,! `-、__ノ i___ノ(_/
\ { (ソ ヽ`,:-‐'`
トr'`●`ヽ|:::::/ ( |
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((`‐--‐"ヽ`‐、‐'ノ |/⌒i _、-''
ノ _,、‐(_/
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 ̄ヲ (( /,,,,ノ | _,、-''‐----
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>{}< |
と思っていた,折も折. 当時,横浜のフランス,イギリス領事館から,
r ‐、
| 仏 | r‐‐、
_,;ト - イ, ∧l英│∧
新政府の諸君!
(⌒` ⌒ヽ /,、,,ト.-イ/,、
l 彰義隊のせいで江戸の治安は最悪だ.
|ヽ ~~⌒γ⌒) r'⌒ `!´ `⌒)
│ ヽー―'^ー-' ( ⌒γ⌒~~ /|
│ 〉 |│ |`ー^ー― r' | これでは,その内戦争になる.
│ /───| | |/ | l ト、
|
| irー-、 ー ,} | / i
| / `X´ ヽ / 入
r ‐、
| 仏 | r‐‐、
_,;ト - イ, ∧l英│∧
さすれば,戦火に負われた住民が,
(⌒` ⌒ヽ /,、,,ト.-イ/,、
l 難民となって,横浜へ流れてくる.
|ヽ ~~⌒γ⌒) r'⌒ `!´ `⌒)
│ ヽー―'^ー-' ( ⌒γ⌒~~ /| それでは,
│ 〉 |│ |`ー^ー― r' | ウチラの商売の邪魔になってしまう!
│ /───| | |/ | l ト、
|
| irー-、 ー ,} | / i
| / `X´ ヽ / 入 |
r ‐、
| 仏 | r‐‐、
_,;ト - イ, ∧l英│∧
(⌒` ⌒ヽ /,、,,ト.-イ/,、
l
|ヽ ~~⌒γ⌒) r'⌒ `!´ `⌒)
だから,早くなんとかしてくれたまえ!
│ ヽー―'^ー-' ( ⌒γ⌒~~ /|
│ 〉 |│ |`ー^ー― r' | なんだったら,我々が成敗するよ!
│ /───| | |/ | l ト、
|
| irー-、 ー ,} | / i
| / `X´ ヽ / 入 |
∧,,∧ ∧,,∧
∧ (´・ω・) (・ω・`) ∧∧ 外国に介入されるのって,イクないよね……
( ´・ω) U) ( つと ノ(ω・` )
| U ( ´・) (・` ) と ノ
u-u (l ) ( ノu-u そうだね.
`u-u'. `u-u' あとで何か要求されちゃいそうだし……
と云うことで,幕府,新政府共に 「彰義隊撃滅」 で意見の一致をみる.
ここで,京都から江戸へ派遣されたのが,
_ /⌒ヽ
/ /  ̄ `ヽ
/ (リ从 リ),)ヽ
| | | . ' .Y |
| (| | " ヮ " | | 京都から贈り物がきたぞ〜♪
| ヽ`>,_ .ノ_ノ
|l (⌒) [水] l
|l /| └n/l二二二.l
リ/ `ー`//ヤマト便/)
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大村益次郎でした.
大村に科せられた任務は,
・速やかなる彰義隊の殲滅.
・できるだけ,市街地に被害を及さないように.
と云うものでした.
で,先ず大村がやったことは,
,..-‐‐―‐‐-..,
,-'´ `‐,
,i' `i,
,l l,
,|._ _.|,
〈_``ー=== ╋ ===‐'´_〉 ┌―――――――――――――
l ``ー-.、____ ,...-‐'´.l | 来る5月15日.
ヽ、_| `ー' / `ー' |_,ノ | 上野寛永寺を攻撃します.
/ `‐、_ `ニ' ノ \ < 当日は,ご迷惑をおかけします.
i'´ , |``r===r'´| ,___ヽ_
.| 新政府
.| i,  ̄\/ ̄ | ╋ | └―――――――――――――
と云う看板を寛永寺周辺に立てること
でした.
この看板を見た彰義隊の内で 「なんとなぁ〜く参加していた者」 たちは,15日までに寛永寺から逃げ出します. その数,2千. 要は,寛永寺に篭っていた者の2/3が逃げ出したワケです (w`;
残った1千は,もう新政府に対する敵愾心の塊のような奴ばかり.
しかし,逆に言えば,関東の過激派がこの一角に集結したワケで,これさえ潰してしまえば,江戸の治安も一気に改善されるワケで……
彰義隊の殲滅さえ出来れば,新政府にとって美味しい状況だったワケです.
で,運命の5月15日.
この日,一日で彰義隊の殲滅を目論む新政府軍は,寛永寺正面に薩摩藩,搦め手の谷中方面に長州藩,不忍池を挟んで側面にアームストロング砲を装備した佐賀藩を配置し,根岸方面をワザと開け,その先に敗走してきた彰義隊兵士を捕まえる関東諸藩の兵士を配置して,完璧な布陣で戦いを挑みます.
一方の彰義隊側は,
/ ̄ ̄ ̄ \ ホジホジ
/ ― ― \ 戦争になったら,奥羽列藩同盟が援軍にこないかなぁ〜
/ (●) (●) \
| (__人__) | 旧幕府陸軍が助けにこないかな〜
\ mj |⌒´ /
〈__ノ
ノ ノ
と云う他力本願もエエトコのものでした.
でもまぁ,戦争の準備はそれなりにしており,寛永寺周辺に畳を衝立代わりに並べておりました.
まぁ,誰が教えたのかわかりませんが,畳一枚の衝立では防弾効果がないので,畳を二枚 (二重) にして弾を防ごうとしたのですが…… やっぱりそれではダメで 簡単に貫通 されてしまったようです (w`;
で,彰義隊は,いざとなったら江戸の町に火をつけて市中を混乱に陥れ,その隙に寛永寺からの脱出を考えていたようなのですが,この年の梅雨は記録的な長雨で,しかも当日も雨だったようで,この策は将に,水泡に帰します.
んで,塹壕も掘られたのですが,当時の塹壕は,衛生面の問題もあり,敵側の土を堀代わりに掘って塹壕にしていたそうで,非常に背の低い,寝て銃を撃つのがやっとのモノだったようです.
寝た状態で先込式の銃に弾を込めるのは,実際に実験された大山閣下の話では 「出来るようなものじゃない!」 とのコトなので,当日午後になって,やっとスナイドル銃の使い方をマスターした長州藩により谷中方面があっさりと抜かれてしまうのも推して知るべし,と云うところでしょう.
で,ここが上野戦争の正面となった,
多分この辺りが寛永寺の黒門口.
(成人向け映画館の真横だ!)
2〜300m程? で激しい銃撃戦が行われました.
午前中は薩摩藩と対等に戦った彰義隊ですが,午後になり,搦め手の谷中方面での戦況が思わしくなく,また,それまで不忍池に着弾していた佐賀藩のアームストロング砲が寛永寺内に着弾するようになり,なんだかんだ云っても死ぬのは嫌だし,そういえば根岸方面に新政府の軍勢は居ないしで,徐々に戦意を失って来たトコロで,ええかっこうしぃの西郷隆盛の突撃命令により,薩摩兵が突撃を開始したせいで,黒門の彰義隊は一気に壊走を始めます.
でもまぁ,元気な奴はいるもんで,本殿への石段で,元新撰組の原田佐之助が奮戦し,薩摩兵を2名切り殺したそうなんですが,自身もここで負傷し後送.
この時の傷が元で,2日後に死んでしまいます.
で,薩摩兵がこの階段を上りきったとき,上野戦争の幕は下りました.
寛永寺から脱出した彰義隊兵士の殆どは,諸藩の警戒線に捕まり,半年ほど投獄され,こってり油を絞られたあと,解放されそれぞれの生活へ戻っていったそうです. そして圧倒的な新政府側の力を思い知らされたせいで,二度と新政府に歯向かうことはなかったそうです.
新政府側の戦死者は42名.
この数は,一見少ないように思えますが,当時は一般兵士を教育する機関がなかったため兵の補充は難しく,それゆえに重い数字として受けとめられました.
以上が 『上野戦争』 のあらましになるかと思うですが……
ベタ藤原 in mixi,2008年02月17日23:14
つけ加えるとすれば,寛永寺に輪王寺宮殿下がおわしましたので,彰義隊には
「さすがに新政府軍も攻撃を控えるんじゃね?」
という,あま〜い見通しがあったことですかねぇ.
銚子電鉄応援中・大山 in mixi,2008年02月18日
【質問】
戊辰戦争の新政府軍の士気って高かったんですか?
薩摩や長州から京都→江戸→長岡→会津→仙台→函館なんて非常に長距離の遠征ですよね.
当時としては補給が厳しかったとは予想できますし,兵員の交代が出来なかったのなら,士気低下して犯罪が横行しそうなイメージがありますが.
それとも,「錦の御旗」の前では犯罪など出来る雰囲気ではなかったんですか?
【回答】
大まかに言うなら,士気は「どちらも悪い」.
が,新政府側のほうがいくぶんかマシ,といったところ.
戊辰戦役は,旧幕府側,新政府側,どちらが勝ったとしても領土が与えられるわけでもなく,いずれにしても得る物が何もない戦争だった.
旧幕府側は防衛戦争だし,新政府側も厳密な意味での領土獲得戦争ではない.
ということで,特に武士階級の士気の低下は両軍とも著しかったそうな.
新政府側は奇兵隊,旧幕府側は奥会津のゲリラ戦で活躍した猟師隊など,じつは非武士階級で編成された隊こそ最も士気が高かった.
立見鑑三郎が指揮する雷神隊は,いうなれば凄腕傭兵の集まりみたいなもんで例外中の例外な(笑)
補給に関しては,新政府側はむしろ鳥羽伏見から江戸東征の頃が最も厳しかったと言っていい.
江戸湾に幕府艦隊が浮かんでいたために,満足な海上補給ができず,道中の諸藩に恭順を迫りながら金品や食料を強請っていく,いわば錦の御旗を立てた野盗の集団と変わらなかった.
この状況が改善されるのは,榎本武揚の幕府艦隊が東北に向けて出発した江戸城無血開城以降.
対して奥羽越列藩同盟は,新潟港を兵站拠点として海外からの武器輸入を目論んでいたが,北越戦の初期に新潟港を失陥して以降は,兵站状況は悪化の一途をたどる.
何とか打開するために領民から度重なる徴発を行ない,さらに兵士として強制的に徴募したり,拠点を与えぬため積極的に村を焼いたりして,いっそう領民から恨まれることになりましたとさ.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
小松宮彰仁親王(こまつのみや・あきひと・しんのう)って誰?
【回答】
錦の御旗が官軍を官軍たらしめるシンボルだったとするならば,さしずめ小松宮彰仁親王は官軍を官軍たらしめるアイコンと呼べる人物.
彼は,皇族が欧州の王族がそうしているように,率先して軍務に就くことを奨め,自ら実践した.
1846/01/16,伏見宮邦家親王の第8王子として生まれる.
伏見宮家は,その時々の天皇の血統との遠近とは無関係に,代々親王宣下を受けることができる,いわゆる「世襲親王家」四家の一つで,元を辿れば南北朝時代の北朝第3代,崇光天皇の嫡流まで遡ることができる.
…それにしても,17男15女をもうけたとは,どういうことだ?,邦家親王.
彰仁は1858年,仁孝天皇の猶子(ゆうし)となり,親王宣下を受けて純仁親王と号した上で,出家して純仁と名乗っていたが,1867年,王政復古にあたり還俗を命じられ,嘉彰(よしあき)親王と改名.
そして議定(ぎじょう)と軍事総裁という,明治維新によって設置された官職に任じられた.
当人に軍事的素養がどの程度あったのか,筆者は寡聞にして知らないが,それはともかく,戊辰戦争において彼は,奥羽征討総督として官軍の指揮を取った.
次いで,1874年の佐賀の乱でも,征討総督就任.
1877年の西南戦争では,旅団長として出征し,
1890年には陸軍大将昇進.
1894年,日清戦争では征清大総督に任命され,
1898年,元帥府に列せられた.
初の元帥陸軍大将の誕生である.
その間,1870年に宮号を東伏見宮に改め,1882年には宮号を小松宮に改めている.
小松郷は,彼が僧侶時代,門跡であった仁和寺のある地域の旧名であった.
1886年には,欧州各国を歴訪.
1887年には,オスマン帝国訪問.
ちなみに,この訪問への答礼として,皇帝アブデュルハミト2世は1889年,日本に使節を派遣したが,その派遣任務に使用されたのが,件の「エルトゥールル」号である.
1902年,天皇の名代として,イギリス国王の戴冠式に参列.
1903/02/18,死去.58歳.
上野公園に銅像があります(1912年製作)
小松宮彰仁親王とその令妃
(こちらより引用)
【参考ページ】
http://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E6%9D%BE%E5%AE%AE%E5%BD%B0%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B
http://www.geocities.jp/bane2161/komatunomiya.htm
【ぐんじさんぎょう】, 2014/09/24 20:00
を加筆改修
【質問】
戊辰戦争で,幕軍も薩摩長州も軍艦を運用していましたが,当時の軍艦って正直,戦術的な意味ってあったんですか?
1隻や2隻の軍艦で,戦争の大勢は変わりませんよね?
敵陣に艦砲撃ち込んで,びびらすくらいですか?
【回答】
当時の戦艦は基本的に戦略兵器.
場合によっては戦術兵器としても利用できるが,これはオマケ.
下手な砲兵隊より多数の砲を高速で戦略機動させ,港湾都市や沿岸を砲撃する.
ペリーの黒船が搭載していたパロット砲は,幕府側の火砲をアウトレンジしながら,江戸城を砲撃することが可能だった.
戊辰戦争で有名なエピソードとしては,「箱根での挟撃作戦案」がある.
官軍が箱根に入ったところで,幕府艦隊の艦砲射撃で後続を足止めし,箱根関で待ち受けた陸軍が殲滅戦を行うというもの.
結局実行されなかったが,この策を聞いた大村益次郎は,
「その策が実行されていたら今頃,我々の首はなかった」
と述べている.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
http://bosinwar.hp.infoseek.co.jp/TANKYUU/HOKUETU/ASAHIYAMA04.htm
> 奇兵隊の装備するミニェー銃は元込めだから斜面から射撃されると装填しずらい.
> 一部は改造スナイドル銃を装備していたとはいえ,微々たるもので戦いに貢献もしていない.
> 第一,長岡藩の装備もこれまたミニェー銃で,しかも山頂から射撃できるからこっちのほうに部がある.
>防御側としては,斜面から登ってくる敵を狙撃すればいいし
>(ミニェー銃だからできる訳で,会津のゲベール銃では無理)
この意味が分かりません.
何故元込め式だと,斜面から射撃されると装填しづらいのでしょうか?
先込めの方が装填しづらい気がするのですが.
また,「長岡藩の方に分がある」というのは,上から狙う場合には先込め式の方が有利ということですか?
さらに,ゲベール銃では無理,というのはどういうことでしょうか?
射程距離や命中精度の関係で,逆に斜面を登ってくる敵に狙撃される恐れがあるということでしょうか?
【回答】
ゲベール銃は先込めで,ライフリングが無い滑腔銃だから,遠距離での命中精度は,ライフリングがある銃に大幅に劣る.
ミニエー銃,スナイドル銃は両方ともライフリング有だから,射程距離で大幅なハンデがあるわけで,「狙撃はムリ」ってのはそういう意味だと思う.
地形的状況はよく分からんが,文章を読むに「相手が斜面の上」「自分が斜面の下」だとする.
装填方式に関係なく,自分が斜面の上に向かっている時は姿勢が斜めを向くので,まあ,装填はしづらいだろう.
逆に斜面の下側を向いてる時は,姿勢が下を向く上に,いちいち銃口を上に向けて火薬を入れ,弾丸を入れて付きこめなきゃならない先込め式は,相当に装填しづらくなる.
が,地形で装填しにくいのは先に書いたように,同じ
(ていうか元込め式ならあんまり関係無いんじゃ…?)
たぶん,それ書いた人は何か勘違いしているものと思われる.
どちらかというと装填方式よりも,下から上に向かって撃つのは,狙いにくい&投影面積が小さくなって当たりにくいって事の方が,重要な要素だし…
ゲベール銃については,ミニエー銃でない前装(先込め)式マスケット銃は
火薬と弾丸を念入りに付きこんでないと,斜め下方向に銃口向けると弾丸が重力に引かれて
ポロっと出てしまう,と言う事を言いたいのかもしれない
ちなみにスナイドル銃は元込め(後装銃)だが,ミニエー銃には先込めの他に,元込め式に改修されたものもあって,新政府軍にも採用されてる.
特に戊辰戦争の頃から,元込め式銃が大量輸入されると同時に,以前からの先込め式銃も続々改修された.
後装式に改修されたミニエー銃ってのは,主にエンフィールド銃.
戊辰戦争当時の日本のミニエー銃ってのは大抵,アメリカで南北戦争が終わって,大量に輸入されたエンフィールド銃.
軍事板,2010/07/15(木)
青文字:加筆改修部分
【質問】
すみませんが,長岡城の弱点を教えてください!!
【回答】
戊辰戦争での落城は,攻め手の戦力が圧倒的に有利だったから仕方が無い.
さらに,長岡城は元から篭城を真剣に考慮した防御力はないし,防御といえど城一つで出来るもんじゃなくて,その他の地勢等を考慮した防御戦略が必要で,周辺高地の抑えとかも要るから,この城一つでは何ともいえない.
軍事板,2006/01/13(金)
青文字:加筆改修部分
長岡城は堀直竒によって1605年頃築城が始められたのを,牧野忠成が引き継いで完成させたもの.
つまり,戦国時代が終わってから作られた城なので,防御力は高くなく,平時の政庁に,城としての外観を与えたというくらいのものになってしまった.
その城壁は薄く,しかも低かった.砲兵がそれなりに揃えば,あっという間に破壊されるだろう.
天守閣などない.せいぜいでやぐらに毛が生えた程度で,統一的な防御戦の指揮には不向き.
大規模な備蓄倉庫みたいな施設も見当たらない.真剣に篭城を配慮していないわけだ.
だから,長岡藩は北越戦争で同盟軍に加わった瞬間から,積極的に野戦に打って出た.
郊外の要地を押さえて,官軍が長岡藩の支配領域に入ることを防ごうとしたわけだな.
これは一旦成功はするんだ.
だが,まったく防御の供えのなかった市街西部郊外の信濃川を渡河した官軍の奇襲攻撃によって,長岡城は落城となる.
その後は,市街の北部郊外で連続的な野戦が繰り広げられた.
んでもって,長岡藩兵は市街北東部郊外の沼沢地を渡渉するという奇襲攻撃によって,長岡城を奪還.
だが,長岡藩の命運はここまでなんだな.
指揮を執っていた藩執政の河井継之助が流れ弾で重傷を負う.
連続した戦闘で兵数も激減.
後は官軍の反撃に抗することが不可能となり,長岡城も再占領されることになった.
軍事板,2006/01/13(金)
青文字:加筆改修部分
河井継之助ご自慢のガトリング銃
(輪ゴム発射型)
▼ 【珍説】
【質問】▲
「今の痛みに耐えて明日をよくしようという『米百俵』精神こそ,改革を進めようとする我々にとって必要ではないでしょうか」(小泉純一郎,2001年5月,初心表明演説)」▼???
という見解はどうなんでしょうか?▲
▼【事実】
【回答】▲
歴史家・加来耕三によれば,歴史の流れの前後を欠いた,無意味な見方だという.
以下引用.
――――――
この挿話――こと歴史学から見た場合,とても今を一所懸命に生きる人の参考にはなりえない.
なぜか? この挿話には,前と後が欠落しているからだ.
物語に前後を加えてみる.
幕末の越後長岡藩7万4千石に,一人の英傑が登場した.河井継之助と言う.
彼は,官軍にも付かず,佐幕派諸藩とも手を結ばず,自藩のみの『中立』を藩是として纏め,官軍側へ談判に及んだ.
もとより認められるはずもなく,佐幕派諸藩と合流を余儀なくされた長岡藩は,結果として三度戦火を受け,継之助は傷がもとでこの世を去り(享年42),藩は降伏するに至った.
この時点で大参事に抜擢された小林虎三郎は,継之助より1歳の年下.『中立』の無謀さを説き,最後まで反対したが,遂に容れられず,閉居していた人物である.
官軍に刃向かって『国賊』となった長岡藩は,石高を一気に2万4千石に削られた.
〔略〕
藩士の家族は三度のお粥にすら満足にありつけず,その惨状を見かねた支藩の三根山藩から,米百俵が送られてきた.
『これで一息つける』と喜んだ藩士達に,虎三郎はこの百俵で学校を立てる,と宣言した.
〔略〕 山本有三の戯曲『米百俵』の言葉を借りれば,次のようなセリフを吐いた.
『――人物がおりさえしたら,こんな痛ましい事は起こらなかったのだ.(中略) 俺のやり方は,回りくどいかも知れぬ.すぐには役に立たないかも知れぬ.しかし,藩を,長岡を,立て直すには,これより他に道はないのだ』
ここが重要であった.
虎三郎は,勇ましい論を説いて『中立』を藩論とした河井継之助と,それを受け入れた長岡藩を,心底から憎んでいた.
あのような論が出たとき,冷静に物事を考え,反対できる人間が多数いなかったことが,虎三郎には悔やまれてならなかった.
換言すれば,彼の作ろうとした学校は,そうしたリベラルな人材を育成する学校であったと言える.
では,その後,虎三郎によって建てられた国漢学校はどうなったのか?
後身は,旧姓長岡中学校と名を変えた.この学校からは,幾多の人物が各界に輩出している.
だが,ここで注目すべきは,そうした卒業生の中に山本五十六がいたことである.
五十六は,
『1年や1年半は存分に戦ってみせるが,その後は責任は持てない』
と公言しつつ,開戦へ踏み込んだ.
後年,井上成美大将は,
『あのとき,山本さんが,戦争しても日本は敗れます,とはっきり言っていれば,日本は開戦にはならなかっただろう』
と回想している.
山本五十六の言動は,幕末の河井継之助とどこが違うのであろうか.開戦時の日本人の多くも然り.酷似したものであったとすれば,小林虎三郎が必死に求めた『米百俵』の理想は,本当の意味で成就したと言えるのであろうか.
歴史を部分=『点』で捉えてはいけない.前後を持った『線』として繋いでこそ,見えてくる真実もあるのである」
――――――「米百俵≠ノ学ぶ真実」 from 「正論」 '01 Dec.
▼ ただし,いくらなんでも山本五十六だけで,「米百俵の精神」批判は強引過ぎでは?
,という印象も受けます.
それに元帥発言が論拠ですけど,それは別項で
――――――
近衛と山本の会談で言われたとされる有名な言葉だが,山本元帥の御子息曰く「近衛の創作」らしい.
元帥はあとからこの話を聞いて,
「近衛さんは自分に都合の良いように話を変える」
と言って怒っておったそうだよ.
(レス1)
山本五十六は
「アメリカを相手にしても,一年か二年ならなんとか闘える.
しかし,それ以上は日本の国力が持たない.
アメリカは一年や二年で戦争を止めるような国ではないので,アメリカと戦っても絶対に勝てない.
なので,政府には戦争回避に全力を尽して欲しい」
といったのに,近衛文麿は最初の部分だけを引用して
「海軍はアメリカを相手にして二年は戦える,と言っている.
例え開戦が避けられず戦争に突入しても,その二年の間に和平の道を探れる」
という風に語って回った.
(レス2)
――――――
...と否定されちょります.
いかがなもんでしょ?
長岡の人材育成が,元帥以外に愚物を多数出したなら別ですけど...
閻魔さくや in 「軍事板常見問題 mixi支隊」,2009年06月30日
21:41
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
白虎隊って,軍事的にはどうなんですか?
【回答】
白虎隊の子ども達はともかく,白虎隊の指揮官(大人)はクソで,自分だけ逃げている.
まあ,指揮官がクソなのは,先の大戦まで続く日本の伝統.
ちなみに,同じく戊辰戦争で殲滅されたチャイルド・ソルジャーに,「二本松少年隊」てのがある.
この指揮官(大人)と副指揮官(大人)は,少年たちを守らんとばかりに奮戦し,なんと少年たちより先に戦死.
少年たちは指揮官を失い,どうしていいかわからなくなり,結果,薩摩軍の中でも最も野蛮な大隅出身の田舎ものの兵隊に,なぶり殺しにされました.
まあ,
「指揮官が逃げる(白虎隊)」
「指揮官が真っ先に戦死(二本松少年隊)」
どっちも軍事的には誉められたことではない.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
会津戦争で,会津藩が子供を戦場に出したことについて,非難する意見はありましたか?
新政府側,幕府側どちらからでも.
【回答】
江戸時代は特に明確な基準も設けず元服すれば大人の仲間入り.
それに積極的に子供を投入したんじゃなく,なし崩し的に総力戦になってしまったことや,本人達の年齢詐称もありまして.(受け入れ側も見事な覚悟とか何とか言って認めるしかない)
実は幕末に幕府が,旗本・御家人の再教育のために講武所を作ったところ,現役の家長の中には自身を鍛えなおすことに気後れして隠居,嫡子に家を継がせたので,講武所は到底すぐに戦場に出ることはできないような子供が多く見られたとのことで.
まあ,それはそれで,武士の子に生まれたからはとか何とか言っちゃえば,不甲斐ない父親のことはさておいて,当時は「父が倒れた後は,そなたが我が××家の長として」みたいな感覚があるので,子供の出兵もありな時代だったのですよ.
軍事板,2009/06/13(土)
青文字:加筆改修部分
【神話】
戊辰の役の末期,榎本武揚率いる旧幕府残存勢力は,蝦夷地に渡り,「選挙」によって総裁を初めとする「閣僚」を選出し「蝦夷共和国」を「建国」した.
この「蝦夷共和国」は,「オーソライズ・デ・ファクトー(事実上の政権)」として列強諸外国からも承認を受けていた.
(「帝國電網省」;このサイトに限らず,他にも
この「神話」を信じている人は多いが・・・)
【事実】
「選挙」って言ったって,「投票」したのは旧幕府軍幹部(今でいうところの将校クラス)だけだからねえ.箱館住民は参加していないし,旧幕府軍でも,末端の下士官とか兵卒は除外.
例えが悪いけど,イラクとかに居るイスラム過激派勢力が,身内だけで指導者や幹部を選出したようなもの.
とてもじゃないが,「共和国」「共和制」と呼ぶのは無理があると思う.
それに榎本軍は,軍資金調達のため,地元住民から何だかんだと税金を取り立てたり,贋金作ってばら撒いたりしていたので,地元箱館での評判は悪かったし.
理想だけは御立派だったが,理想だけではやっていけないのが現実・・・・
あと,「オーソライズ・デ・ファクトー(事実上の政権)」の件は,実際には,以下のような経緯だった.
1:榎本軍,箱館占領.
2:榎本艦隊,箱館に入港した英仏の軍艦に対し,国際法規で定められたとおりの礼砲(21発)を撃って歓迎.
(当時,榎本は海洋関係の国際法規にいちばん詳しい日本人だった)
3:英仏軍艦艦長,榎本を表敬訪問.好印象を持つ.その後,榎本に以下のような覚書を送ってよこした.
・我々は,この国内問題(新政府と旧幕府軍の対立)に関しては「厳正中立」の立場をとる.
・「交戦団体」(戦争遂行可能な独立国家に準ずる団体)としての特権は認めない.
・「オーソライズ・デ・ファクトー(事実上の政権)」としては認定する.
……と言うわけで,榎本に好印象を持った出先の軍艦艦長が,本国の意向を無視して勝手に書いた覚書でしか無かったわけだ.
(英仏両公使は
「彼らはオーソライズ・デ・ファクトーではない」
「交戦団体権を与えるのに必要な条件を備えていない」
と訓令していたんだが)
だが榎本は,この覚書(当然,英語で書かれているが,彼は英語は堪能)を読むなり,
「これは便利な文章だ.いかようにも解釈できる」
とほくそ笑んだ.
彼自身は,この覚書に関し,こう考えていた.
・外交用語では,「局外中立」の場合だけ「厳正中立」と言い,「国内問題」の場合は「内政不干渉」と言う.
(つまり,「国内問題」に対して「厳正中立」などと言う事自体がおかしい)
・「交戦団体」とは,分離独立・政府転覆を企図した場合で,土地よこせなどの実力行使などは次元の低いもので該当しない.
(下で述べるように,榎本自身は,別に日本からの「分離独立」や「新政府転覆」を企てているわけでは無いので,「交戦団体」認定を受ける必要性は無い)
・「オーソライズ・デ・ファクトー」とは,占領を完了し,相当に安定し,ほとんど国家の体裁を具えたものを指す.
今の場合,まだそこまで行っていないが,おそらくは用語不慣れと箱館の好印象のため,不用意に発した言葉であろう.
それはさておき,予想外の好印象を得た榎本は,この覚書を振りかざし,
「我々はオーソライズ・デ・ファクトーなり」
と内外に宣伝したんだね.
当時の日本人の中で,国際法規,特に海洋関係や戦争関連にはずば抜けて精通していた榎本は,自分たちの実態がオーソライズ・デ・ファクトーには程遠い有様だった事くらい,とうに承知していたんだが.
それに第一,榎本の本当の望みは,蝦夷地に,自分が頂点に立った独立国家を創る事ではなく,徳川家を迎えて旧幕府の人々で蝦夷地に渡り,同地を開拓するというだけの事だったんだけどね.
「蝦夷共和国」や「オーソライズ・デ・ファクトー」なんぞは,そこに至るまでの「つなぎ」でしか無かったんだ.
蝦夷地に立て篭る榎本一党を討伐する時,当初,明治政府は,徳川昭武に榎本軍討伐を命じていた.
これを察知した榎本は,徳川昭武が来たら彼に降伏し,そのまま彼と共に蝦夷地にとどまろう,などという事も考えていたという.
その可能性に思い至ったのかどうかは分からないが,徳川昭武の派遣は取り止めになった.
榎本サンは,当時の日本ではずば抜けた国際法通だったし,確かにトップの器ではあったかもしれないが,実のところ,彼にはトップに立つ意思は無かったんだね.
あくまでも
「本当にトップに相応しい人を迎え入れるまで,自分が代行を務める」
という感覚でしか無かったんだ.
明治政府とは別に独立政権(国家)創るのなら,その前の奥羽越列藩同盟の時に,東北諸藩が一致団結していたら,経済的にも,独立してやって行ける「独立国」が創れただろうけど・・・・
(わざわざ皇室分家の輪王寺宮まで迎えて「国王」にするつもりでいたんだから)
ついでに,上記サイトに,もひとつツッコミ.
>フランスは早速,日本への売却を留保していた装甲砲艦・
>甲鉄(ストーンウォール・ジャクソン号)を維新政府側に売却
ストーンウォール・ジャクソン号を維新政府側に売却したのはアメリカですが何か?(笑)
【質問】
つまり「蝦夷共和国」って幻?
【回答】
「蝦夷共和国」ってウィキとか一般の書籍とかいろんなところで見かける表記だけど,実際には榎本たちはそんなこと言ってないんだよね.
榎本本人も「蝦夷島総裁」とは名乗ったけど,「共和国」なんて一言もいってない.
蝦夷共和国と名付けたのは,英国公使館書記官アダムズだな.
榎本は名目上は京都の天皇政権から独立するつもりはなかった.
しかも,共和政体などめざしておらず,ゆくゆくは徳川一門の公子を主君に迎えて,失業した旧幕臣など佐幕派武士による自治領(自治公国)のようなものを考えていた.
新政府には蝦夷を徳川遺臣の生活維持と北辺防衛のために拝領したい,そのとき徳川一門の人を主君に迎えたいって嘆願書出してるし.
高度な自治権を持った蝦夷徳川藩をめざす,徳川脱藩武士団領というのが実態に近い.
もし仮に,北海道だけで独立なり徳川自治領なりになって徳川旧臣かき集めても,米も取れねーし寒いしロシアは猛禽類のように狙っているしフランスとかにはでかい借りができるしで,ほっといても維持できなくてすぐ潰れたろ.
まともな学者は左系の人も含めて,はじめから「蝦夷共和国」なんて認めてない.
単に観光史学の地元の連中や作家・マスコミの捏造・印象操作だから.
歴史学者とかは,その辺をちゃんと知ってるのに,マスコミとか作家とか郷土史家が意図的にミスリードして,一般のオタをだましてるんだよな.
世界史板
青文字:加筆改修部分
【質問】
五稜郭はなんであんな形になったの?
【回答】
安倍晴明に由来する陰陽道の五芒星によって,日本を鎮護するため……ではなく,設計当初,外国軍との撃ち合いを想定したから.
そもそも五稜郭は,日米和親条約による函館開港を契機に築城された.
設計を担当したのは,蘭学者の武田斐三郎(たけだ・あやさぶろう).
当時,ヨーロッパでは大砲の撃ち合いによる戦闘が一般化していることから,外国軍と幕府が交戦した場合も,そのような戦いになると予想された.
そこで築城もまた,そのような戦闘に対応した,欧州の稜堡式を取り入れた.
武田が参考にしたのは,フランスの城らしい.
当初の設計では,五芒星どころか十芒星だったのだが,幕府の財政難により保塁を半減.……まあ,外国の脅威も低くなっていたしね.
工事もまた財政難により遅れて,1857年から始まって1866年までかかっている.
「徳川埋蔵金」なんて何の話なのやら(笑)
ps. 長野県佐久市にある五稜郭(龍岡城)も,たまには思い出してあげてください.かしこ.
消印所沢
▼ ついでにこれも思い出してあげてください(未完成?)
部外者 in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分
▲
▼ 【関連リンク】
五稜郭と似たような形の城がヨーロッパ中に点在しているのを集めたブログがありました.
稜堡式城郭 (五稜郭とかそんなやつ) on Google
Maps - Yes Ver. おもいゴト/かんがえゴト/かんじゴト
▲
【質問】
榎本武揚って誰?
【回答】
榎本武揚(えのもとたけあき,1836-1908)は,江戸時代末期の幕臣で,1862年オランダに留学生として派遣され,帰国後,海軍奉行となりました.
戊辰戦争の際には,「開陽丸」ほか旧幕艦数隻を率いて箱館・五稜郭に落ち延び,同地で官軍に最後の抗戦.
降伏後,投獄されましたが,後に明治政府で逓信相,文相,農商務相,外相などを歴任しました.
【ぐんじさんぎょう】,待機稿
P (なかと) in 「軍事板常見問題 mixi別館」,2010年11月09日 01:14
【質問】
ガルトネル開墾条約事件って何?
【回答】
,, 、)、、 ,,、,,、,,、
〃/ハヘヾ 〃wwヾ
ヾl|゚ヮ゚ノリ ゙(l ゚w゚ノ
U−J U−J
UU UU
時は幕末.某開港された所にいたドイツ領事の兄が,近くの村を開墾しようと企画して,99年間土地を借りようとした.
とりあえずドイツから技術のある移住者を募るか,ゴルァ!!!
,∧ー,
/゚w゚ ヽ⌒ でもちょっと問題が出てきましたよ…兄さん.
,) ,∧I]皿[`I∧,
〃ハヾ (,,-U\|/U-,,)
,.l|,,゚Д゚) / ̄ ̄ ̄ ̄/| |
__/_つ |./ FMV /__|ニ|___
\/____/ (uニ⊃
その問題とは,旧幕府軍がやってきて占領したのだった.
そして…
____
/\ /\
/( ●) (●)\
/ :::::⌒(__人__)⌒:::::\< 総裁になったお!
| |r┬-| |
\ ` ー'´ /
榎本武揚が総裁となったのであった.
____
/ \
/ ─ ─\
/ (●) (●) \
| (__人__) | ふむふむ…わかったお.いいお.
/ ∩ノ ⊃ /
( \ / _ノ | |
.\ “ /__| |
\ /___ /
改めて榎本に依頼したところ,何とすんなりこの案がとおり,開墾条約を締結させてしまった.
/ ̄ ̄\ ,、;i彡ミi〃ヾi、
/ ヽ_. \iヘ〃,!i〃ヾ彡ミ;ヽ,
( ●))( ●)) iヾミ ミ'`
ヾi ____
(__人__) ミ 〃 ,,,,
l / \
l` ⌒´ ヾ 彡 ,,===
"``l ─ ─ \
. { 冫 ∩ '"
ィェァ冫 ヤ`.((● ) ((● ) \
{ {( j | ´`
´r- 、 l (__人__) |
,-、 ヽ ノ,l .l へ
/ゝ-、 ハ l ` ⌒´ ,/_
/ ノ/~/ ` ー ─ '/ l/ ハ__ー=ェェ='
/ ` ー─ ' ┌、 ヽ ヽ
/ L_  ̄ / - ニ二.lノ ` ‐'
/、 l__( { r-、 .ト
_,,二) .l ,y 〉`
ー l l 、 〔― ‐} Ll | l)
)
>_,フ ___, -‐ ´ l 1< l l \ー
、 }二 コ\ Li‐'
__,,,i‐ノ r'´ ヽ ノ l l ,ヘヽ
/y/ \ ` -、└―イ ヽ |
| l ヽ ハヽ, ノ l l ヽ\/イ ヾ
〃 l i ヽl
この条約には永井玄藩,中嶋三郎助等も署名したのであった.
しかし,当然ながら後で明治政府から
_, -‐--....、
/..:::::::::::::::::::::::::::.ヽ
/ .:.::::::::::::::::::::::::::::::::::::.ヽ
/..:.:.:.:.::::/:::;i:::::,|:::::l:::::;::::::.ヽ
l::::::l::::::/l::/ |::/{::/|::;/l::}:;::;::i
l/i::l:::N`|メ、_|ム|/.,j/レ|::|::ト!
f^i:::l ''ZTー
ィ'Zト.|::|::レ'^ヽ、
,...-',,⌒ゞミ、l::|. l l::!Y::::::::::::::.ヽ、 ───って
/::/..::::::::::::..ヽl_ 〉
/v':::::::::::ノ::_;;:::::j,ト、
/:::::::::::::::::::..`ー-、:l、 f===r
,ヘ:::::;::::::/ ̄ ゙''ヘュ_ノ その条約は何だ!?
/:::::::::::::::::::::::::::::::;;_ヾ;:、L_,,リ
/:>:l/:::/
./:::i|:::::::::::::::::::::::::::::::..`''ヾ、ー_-イ,
〉<.|/ _ノ⌒ ー - ,,,__ _
}:::::::l::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::..゙ヾ!、!;::|:|,r‐'゙
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相当の賠償金と引き換えに,条約を解約することとなったのである….
どさくさ紛れに余計な事をした,榎本武揚の話.
なお余談だが,榎本武揚の子孫は東京農大で客員教授をしているようである.
【参考ページ】
「Wikipedia」:ガルトネル開墾条約事件
函館市史「函館史実」
ぎんなんそう in mixi,2009年06月28日19:26
青文字:加筆改修部分
【質問】
函館湾海戦って何?
【回答】
1869年,戊辰戦争の最終局面,函館を巡る新政府軍と旧幕府軍との攻防の中において,函館湾で生起した一連の戦闘のことであり,旧幕府海軍最後の戦いでもある.
当時,艦隊には既に幕末最強艦「開陽」の姿は無く,コルヴェット艦の「回天」と「蟠龍」,砲艦「千代田形」の3隻を残すのみ.
これに対して明治新政府軍は,軍艦6隻の支援の下,5/20に函館上陸.
官軍艦隊は艦砲射撃で,陸上の要塞を破壊せんと図った.
しかも6/10には,座礁した「千代田形」が政府軍に拿捕される事態となる.
6/16(旧暦5/07),第1次海戦生起.
官軍艦隊の猛攻の前に,残った2隻は命中弾多数を受け,「回天」は機関部が損傷.
そのため「回天」は弁天台場付近にて,意図的に座礁,浮遊砲台のごとき姿で,なお奮戦する.
しかし,これで「回天」は軍艦としての機能を完全に消失し,残る函館政府軍艦は「蟠龍」1隻のみ.
6/20(旧暦5/11)からは箱館総攻撃を新政府軍は開始.
官軍艦隊の内,「陽春」「安豊」は函館山占領部隊を載せて出撃.
同時に「甲鉄」「春日」は弁天台場砲撃へ向かい,「丁卯」「朝陽」は陸兵の支援のため七重浜方面に出撃した.
対する旧幕府軍艦「蟠龍」は,この「丁卯」「朝陽」を迎撃(第2次海戦)
「朝陽」の弾薬庫に砲弾を命中させて,これを爆発轟沈せしめ,ようやく一矢を報いる.
が,程なく「蟠龍」も浅瀬に乗り上げて座礁.
かくして,長崎海軍伝習所(1855年開設)以来,14年にわたって続いた旧幕府海軍は,ここに滅んだのであった.
だが,「蟠龍」は生きていた.
乗組員は,座礁した同艦から離れる際,新政府側に渡すまいと,船体へ放火したが,火は帆柱を炎上させたのみ.
船体には殆ど引火せず,そのうち帆柱が折れたため,バランスを崩して横転,火災は鎮火してしまったのである.
その後,英国商人が「蟠龍」を引き揚げ,上海にて修理させた上で,1873年に北海道開拓使へ売り付ける.
「蟠龍」は「雷電丸」と改名された後,1877年,日本海軍の軍艦となって「雷電」と再改名することになるのだが,それはまた別のお話.
【参考ページ】
http://ja.wikipedia.org/wiki/箱館湾海戦
http://ja.wikipedia.org/wiki/回天丸
http://ja.wikipedia.org/wiki/蟠竜丸
http://ja.wikipedia.org/wiki/千代田形
http://members2.jcom.home.ne.jp/so_bluem0807a/paperdock/kasugamaru/kasugamaru.html
http://www10.plala.or.jp/yageki/gunkan.html
http://freett.com/sukechika/ship/ship02.html
【関連リンク】
http://mahorobas.sakura.ne.jp/isinji/1869%20HAKODATEKOU.htm
【ぐんじさんぎょう】,2012/07/26 20:20
を加筆改修
【質問】
映画「ラストサムライ」のモデルになったフランス軍人ブリュネは,最終的にフランス陸軍参謀総長になったって本当?
【回答】
ブリュネ関連の各国wikiを見てみると,日本語,英語,ドイツ語では1898年に陸軍参謀総長になったとある.
しかし母国フランスのwikiでは,1898年にgeneral
de division(陸軍少将)になったとあるが,参謀総長になったという記述がない.
日本で一旦,軍を退役し,フランス帰国後に軍法会議にかけられた男が,普仏戦争で軍役に復帰でき,参謀総長にまでなった,というのはちょっと考えられない.
元上官のひきがあったとはいえ.
60歳という退役間近の歳で少将にしてもらった,という方がまだありそうな話.
ということで記述内容については,信頼性に疑問符がつくという気がする.
軍事板
【質問】
会津と長州ってマジで今でも仲が悪いんですか?
【回答】
福島県福島市に住んでいます.
ぶっちゃけ,今でも長州を嫌っているひとは会津の知人でもいません.
まちおこしの一環の話題作りじゃないでしょうか.
ただ,会津には今でも非常に排他的な雰囲気があることは確かです.
わたしは医師で会津の病院にもよくバイトにいくんですが,病院の看護師がかなり横柄だったり,事務員が高圧的な態度を患者やバイトの医師にとることが多いです.よそ者は黙っていろということのようです.
郡山やいわきの病院では全くそういうことはありませんから,地域性と思います.
私の義父も会津に3年つとめていましたが,「あんたはすぐ福島に帰るんだからだまってろ」みたいなことを言われたそうです.
過去に栄えたため,よそ者をばかにするような気風が残っているのは確かのようです.
軍事板
青文字:加筆改修部分
会津3泣きというのがある.
会津に来たばかりのときはよそ者扱いされて悔しくて泣く(1)
しばらくしてみんなと親しくなり情の厚さに泣く(2)
会津を離れるとき名残惜しくて泣く(3)
問題は2や3にたどり着く人が極めてすくないことだ.
軍事板
青文字:加筆改修部分
ちなみに,
http://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/j/yukari/rekishi/tonami.html
にもあるけど,会津藩は斗南藩に国替えさせられている.
おもだった藩士は今の青森に移住したわけ.
会津に残ったのはそれ以外.
斗南藩(県)に移住した人も,一部を除き全国に離散したようです.
一部は会津に戻ったかも知れませんが,どの程度かはわかりません.
なので,戊辰戦争の時の記憶を伝えられる人がどの程度残っていたのかは不明.
仲が悪いとか何とかと言うのも,町おこしの話題作りみたいなもんではないかと.
軍事板
青文字:加筆改修部分
▼ うちの父(大阪生まれの大阪人,本籍地が山口)が話していたことなのですが.
とある事情で青森県下北半島,Q&Aにあるような斗南出身の方と仕事でご一緒することになったのです.
初めは非常に丁寧で,仕事を重ねていき大変親しくなったそうなのですが,ある日父の本籍地が山口県であると何気なく話したところ,一変して翌日から親の仇のように扱われるようになったとの事です.
なんでも幕末からご一族が下北でご苦労をなさったとの事で,長州関係の方を許すことが出来ないとの事だそうで.
30年前の話ですが,そういう人も居たと言う事らしいです.
▲
▼ 同じような話ですが,10年ほど前に聞いた話で大学の先輩(女性)が結婚の挨拶に旦那の会津の実家に行ったとき,出身地を聞かれたそうな.
「私の出身は東京ですが,父は山口で母は佐賀です」
となにげに言ったら,
「長州と肥前だな」
と場が凍りついたそうです.
まあ,特にその後別れたりしていないし,本人面白がって話していたから,深刻なモノじゃないのでしょうが,気にする人はいる(た)ということですね.
▲
▼ 会社に一人ずついますが,長州出身の方から,会津出身の陰口はさんざ聴かされました.
数年後,違う会津出身の女性と結婚した,と聴いた時はビックリしましたが.
水上攝堤 by mail,2009/6/10
▲
【質問】
戊辰戦争後の仙台藩への処遇は?
【回答】
さて,仙台藩と言えば,奥羽列藩同盟の盟主と仰がれ,東北の龍と呼ばれていました.
一関支藩の3万石を含む表高62万5,000石を擁し,加賀前田家,鹿児島島津家に次ぐ大藩で,陸奥国21郡と常陸,下総,近江に飛地2万石を持ちます.
大坂の陣の後,幕府は一国一城令を発しますが,仙台藩は青葉城の他,片倉家代々の居城である白石城の領有も許されています.
城の他に,要害と称する城に準じる館が20ありました.
北部は胆沢郡の江刺,水沢を中心に4箇所,北上川流域の一関,そして登米に2箇所,防衛の第2線として岩出山,遠田,涌谷などの周辺に5箇所,南部は福島を睨んで,伊具と亘理,柴田にそれぞれ2箇所ずつ,名取に1箇所設置されています.
元は伊達48館と呼ばれ,軍略上の要地に重臣がそれぞれ家臣を持ち,拝領地から自分の年貢を徴収するという,中世以来の地方知行制が根強く残り,そう言う意味では余り近代化された政治体制ではありません.
大名としては自分の権利を行使すると言う余地が余りなく,常に重要家臣の意向を見て政治を行わなければならない体制です.
従って,家臣を制御する強力な当主がいれば大丈夫ですが,そう言った当主がいなければ,進路を巡って右往左往してしまう事になります.
因みに,家臣の知行は城,要害,所,在所,在郷に区別されました.
要害と所以上は町場・山林・居屋敷・侍足軽屋敷を備え,在所は山林・居屋敷・侍足軽屋敷を持ちますが,町場は持ちません.
在郷は家臣が知行地に自ら居宅や家来の屋敷を取り立てたもので,在所以上は藩からの拝領指定です.
なお,在郷には知行地に屋敷を持たない者,更に耕作権のみしか持たない者もいます.
又,藩直臣も多くは耕作権=奉公人前高だけの家来を抱えているのが伊達家家臣団の仕組みでした.
藩直臣の身分格式の最上位は一門で,伊達一族,又は伊達氏と対等の大名から伊達氏に服属した名門で全部で11家.
一門筆頭は角田の石川氏21,000石.
次席は亘理伊達氏23,000石.
以下,
元留守氏の水沢伊達氏16,000石,
元亘理氏で涌谷伊達氏22,000石,
元白石氏で登米伊達氏20,000石,
元岩城氏で江刺郡岩谷堂伊達氏5,000石,
同族の田手氏から改姓した宮床伊達氏,
岩出山伊達氏14,000石,
川崎伊達氏2,000石,
栗原郡一迫沢の白川氏,
前沢の三沢氏の順番になります.
次は一家と称し,片倉氏など17氏,その下に準一家8氏,一族22氏が続きます.
これらは血縁の有無に関わらず,血縁に準じた待遇を与えられたものです.
その下の宿老3氏が家老の家格,次いで着座38氏,太刀上9氏,以下召出,平士3,441氏,組士860氏,卒5,469氏の合計9,878氏がおり,戊辰戦争時には直臣12,000名,陪臣23,000名が数えられました.
ところで,奥羽列藩同盟の盟主となった仙台藩に対する新政府の措置は,厳しいものがありました.
9月に降伏後,藩主慶邦は謹慎して城地を明け渡し,10月下旬には嫡子宗敦と共に上京謹慎を命じられます.
そして,12月7日には一端没収した領知の内,仙台中心に,宮城,名取,黒川,加美,玉造,志田の一部の6郡,28万石が改めて仙台藩に与えられる事になりました.
今までよりも半減ですが,実質上更に深刻なものがあります.
と言うのも,相次ぐ新田開発で,表高62万石余でしたが,文化年間には実高102万石になっていたからです.
仙南の刈田,柴田,伊具,亘理,宇多の5郡には南部藩が20万石を13万石に削られて移封入地しました.
仙北では,登米,遠田,志田郡の一部が土浦藩に,栗原郡は宇都宮藩に,本吉,桃生,牡鹿郡が高崎藩に,岩手県内の東西磐井郡,胆沢郡が沼田藩に,江刺,気仙郡は松代藩にそれぞれ預けられ,この仙北諸藩領地は,朝廷領として,1869年前半に涌谷,栗原,桃生,江刺等の各県に編成替えされました.
南部藩領になった仙南地方には南部藩士が移住し,残留していた石川邦光,伊達邦成,片倉邦憲等の伊達旧臣達と対立問題を引き起こしましたが,南部藩は70万両を朝廷に献納して旧領復帰となりました.
その後,東北地方中部を監察する按察府が白石城に置かれ,一時南部領になった仙南地域は白石県となり,県庁も一時白石城に同居しました.
しかし,両機関の間はしっくり行かなかったらしく,12月に白石県は角田県と改称し,県庁は角田の旧石川邸に移動しています.
なお,按察府は余り実効性のある統治機関では無く,長官を欠いて次官の坊城俊章が最高権力者でしかありませんでした.
結局,1870年9月には早くも廃止されています.
それはさておき,新政府体制での仙台藩は,慶邦の実子亀之助宗基を当主に掲げますが,宗元は幼少の為,亘理の伊達藤五郎と水沢の伊達将監を後見役にします.
しかし,直臣12,000名,陪臣23,000名の大所帯を表高3分の1,実高に至っては4分の1となった実質28万石でどうやって藩政を維持していくか,藩は大幅な家禄削減と帰農,蝦夷地移住奨励を打ち出しました.
従来の知行制は廃止し,一門は皆一律に玄米130俵,一家から太刀上は一律55俵,100石以上の大番組は25俵,100石以上の馬上以下は16俵,組士12俵,凡下扶持人8俵に定め,一門は仙台居住,陪臣は永の暇,即ちクビと言う事に相成りました.
この措置に対し,1869年正月,南部領となった伊具,亘理,宇多3郡の農民代表が上京,当地は兵農力を合わせて300年暮らした地で,今般家中一同退散して百姓だけになれば田地も不行届となり,郡村衰廃の元になるので,従来通り伊達家支配にして欲しい,と政府に嘆願に及びます.
藩も又これとは別に,仙南5郡の旧家臣及び陪隷(陪臣の家来)を従来住居の地に,土着帰農させて欲しい旨を政府に嘆願しました.
先述の通り,仙台藩の知行制では,在所家臣以上は家来の住居も藩からの拝領品です.
在郷家臣でも自分や家来の屋敷を藩から拝領している場合もあります.
また,陪臣には年貢の掛からない奉公人前高と呼ばれる半農者も多かったりします.
南部藩が移住してくると,それらの仙台藩からの拝領屋敷を南部藩士に明け渡さねばならず,奉公人前高も年貢を徴収される百姓前高となります.
つまり,陪隷達は家も土地も失う事になる訳です.
これに対する政府からの回答は,脱刀して帰農するなら陪臣の住居を認めると言うものでした.
つまり,南部藩の農民になるのなら居住しても宜しいと言うもので,仙台藩も陪臣をクビにしたため,帰農を奨励するより手段を持ちませんでした.
取り敢えず,居住と耕地位は認めて欲しいと政府の温情に縋るしか無かったのです.
こうして,陪臣達は郷里を離れて北海道へ移住するか,郷里或いは他地で帰農或いは帰商するか2つに1つを迫られる事になりました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/06/03 23:12
青文字:加筆改修部分
【質問】
仙台藩への沙流郡西部分領について教えられたし.
【回答】
戊辰の残党として蝦夷地に渡った旧幕府軍は,僅か4,000の兵力で兵力に倍する新政府軍と激闘を繰り広げますが,衆寡敵せずに降伏に追い込まれます.
その中で,土方歳三や中島三郎助始め,西洋技術や進歩的な考え方を持っていた有為な人物の多くが戦死しています.
その残党のうち,幹部クラスは1871年に赦免され,開拓使に登用され,その後も官途を順調に昇進して行きました.
一方,下級兵士として蝦夷地に渡った残党達の卒族の一部は,そのままこの地に残って屯田しています.
明治初年に蝦夷地が奪還された後,新政府はこの地を北海道と改め,諸藩や士族に分領させました.
例えば,仙台藩の分領地沙流郡西部に三好清篤に率いられた卒族146名の中にも,額兵隊の箱館戦争の残党も郷里に戻らずそのまま入植しています.
因みに,歴史作家として名高い子母沢寛,本名梅谷松次郎の父親梅谷十次郎も,元伊勢藤堂藩士で榎本脱走軍に参加した人物で,降伏後,伊勢藤堂に戻らず,札幌,厚田と流れて割烹旅館の主人として顔役になったりしています.
この様に,箱館戦争の残党の多くも,この地にそのまま入植して北海道の土になっている人々も多かったりします.
実際,新政府の首脳であった岩倉具視は,既に東北戊辰戦争が終わった頃から賊軍の人々による蝦夷地開拓を考えていましたし,新政府の財政を固める為,それに北辺防衛の為にも,それは必要だと考えていた節があります.
ですから,蝦夷地では無い和名の国名や道名を早くから提案していたのかも知れません.
箱館戦争の終結前,東北を制した新政府は,戦後の蝦夷地開拓の方策を練っていました.
函館を脱走軍に占拠された事は,蝦夷地と言う土地の認識を新政府に新たにさせる事になり,開港場箱館の状況とか,樺太や千島に於けるロシア南下の事情がわかると,更に危機感を強めていきます.
とは言え,国内も未だ戊辰戦争の余波が残り,整理も未だ未だ,それに新政府の財政についても整理や改革が必要な状況で,実効的な手を打てません.
政府首脳の1人で会った木戸孝允は先ず人事を優先し,次いで組織を作り,方策を立てる事にしました.
1869年6月4日,議定・中納言で前佐賀藩主の鍋島直正を開拓督務に任じ,天皇は直政に対し,
「蝦夷開拓ハ皇威隆替ノ関スル所,一日も忽セニス可カラズ…他日皇威ヲ北疆ニ宣ル,汝方寸ノ間ニアルノミ,汝直政懋哉」
と言う勅書を与えました.
この勅書は,太平洋戦争終了後まで,いつも北海道開拓の趣意,方針として道民に植え付けられています.
とは言っても,開拓の方針は全く判らず,金も部下もいない,組織も無い状態で,どうやって「皇威ヲ北疆ニ宣ル」と言うのか,名君とされた鍋島直正としても困惑した事が充分に考えられます.
兎に角,7月8日には組織としてやっと開拓使が設置され,13日には開拓督務から開拓使長官に鍋島直正が横滑りし,諸省卿同等となります.
長官の職務は,「諸地ノ開拓ヲ総判スルコトヲ掌ル」とあり,地域は北海道に限らないのですが,実際には北海道と樺太のみの権限でした.
因みに,開拓使以前,「開拓疆土」の所管は外国官,つまり現在の外務省の管掌事項で,箱館裁判所と箱館府知事は,「蝦夷開拓ノ事ヲ兼知セシム」とあります.
これはおかしいと言うので,外国官から異議が出されていました.
多分,幕末の江戸幕府職制の名残だったのでしょう.
開拓使は7月下旬に判官等の人事が決定し,8月15日に蝦夷地は北海道と改名し,11カ国86郡を置きました.
国郡名は,幕末明治初期の探検家で開拓使判官となっていた松浦武四郎の建議に基づいた結果と言われています.
当初は,政府自ら北海道開拓に当たるべきだという意見がありましたが,新政府には財力がありません.
そこで,7月22日の太政官布告に伴い,諸藩・士族・庶民の志願を促しましたが,8月7日の水戸藩を皮切りに,8月末までに出願したのは6藩1士族のみであり,到底,広大な北海道を開拓出来る数ではありません.
業を煮やした新政府は,大藩に対し,強制的に支配地を割り当てました.
これを諸藩等分領政策と言います.
こうして,兵部省,東京府,24藩,2華族,8士族,2寺院の合計38分領と,開拓使直轄20郡,これに従来からの館藩(旧松前藩)に北海道は分割されました.
とは言え,舘藩は廃藩置県で一時期弘前県に編入されたので,開拓使が全島を支配するのは1872年9月まで待たねばなりませんでした.
この諸藩分領地,大藩に割り付けたのですが,鹿児島藩が最も不熱心で,分領廃止まで支配を継続したのは約半分の13藩,その内,最も成績を上げたのは士族,仙台藩士族のグループです.
元々,幕府が蝦夷地を再直轄地とした際に,東北6大藩に対し蝦夷地警備を命じましたが,元々この地を支配していた松前家の他,盛岡南部家,仙台伊達家,会津松平家,弘前津軽家,庄内酒井家,秋田佐竹家に対しては,警衛地としてだけでなく,その地から収入が得られる様,分領地を増封地として給与していました.
しかし,戊辰戦争で皆消し飛んでしまい,蝦夷地は松前藩領を残して空になってしまいました.
つまり,この諸藩分領地政策は,幕府の政策の焼き直しだった訳です.
ところで,仙台藩は1869年11月沙流郡西部の分領を命じられましたが,その他にも藩内の6士族団が政府から直接分領を受けていましたが,諸藩分領政策そのものは廃藩置県で極めて短命に終わり,結局永続したのは,廃藩とは関係の無い,資力不足の士族グループでした.
その沙流郡を担当したのは,仙台藩少参事の三好五郎清篤で,先述の様に卒族146名を率いて移住,これに箱館戦争残党で星恂太郎等の額兵隊70余名が加わりました.
三好清篤の父監物は,幕末の仙台伊達家が道東警備を命じられた際,御備頭として白老に元陣屋を築いた人物で,伊達家参政も務め,戊辰戦争時には家中の内紛で自決しました.
清篤自身も,分領廃止後は開拓使七等出仕に登用され,浦河支庁主任を務めています.
その後,清篤がこの地を去っても,副隊長の荒井直三郎,高橋千代之助を中心に残留し,開拓使扶助を弱冠受けつつも,開拓を続けていました.
ただ,不孝にも苦心惨憺開拓した土地は,1877年の沙流川大洪水で皆流失壊滅し,多くの人々は失望してこの地を離れています.
ただ,少数は残ってこの地を再び開拓し始めました.
例えば,仙台藩募集農民だった互野為作と言う人物は,分領の際,藩士に従って白老に移住,維新で藩士全員が帰国後は各地を流浪し,函館で仙台藩第二次移住隊に参加して沙流郡に移住,1874年に平賀村に移って水田耕作を試みたものの成功せず,島松村の寒冷耕作の先駆者である中村久蔵の指導を受け,3年試行錯誤の末,1878年に掛水暖法を工夫し,遂に水稲耕作に成功しました.
そして,それを人々に指導して,沙流郡,静内郡,勇払郡方面の水田始祖となり,やがて56町歩の耕地と小作人4戸を使う地主になったりしています.
知恵と工夫次第で,一般庶民でも地主になれたのが北海道だったのです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/06/02 22:55
青文字:加筆改修部分
【質問】
伊達邦成とは?
【回答】
さて,北海道に伊達市という地名があります.
福島県にも伊達市があったりするのですが,これは何れも伊達氏に関係する地名です.
北海道の伊達市は,亘理伊達氏の家臣団が入植したのが最初です.
その中心になったのが,伊達藤五郎邦成です.
邦成は,宇多・亘理両郡23,000石余の領主で,先述の通り,伊達一門の次席に当たります.
その家臣数は1,362戸と言われていました.
北海道に入植した後,道内では仙台支藩と称され,道外でもその様に言う人もいます.
室蘭郡の石川邦光,登別市の片倉邦憲,当別町の伊達邦直も皆仙台支藩と言われていますが,江戸幕府体制の制度から言えば,正式な支藩では無く,何れも地方知行の知行主達です.
勿論,仙台藩にも支藩と言うべき藩がありました.
一関藩3万石がそれです.
この一関藩は,伊達の支藩でも武家諸法度に定められた大名であり,参覲交代の義務があります.
亘理伊達氏等,地方知行主にはそれが無く,大名家としての伊達氏の家臣であり,幕府から見れば陪臣です.
邦成の家臣は更に,陪臣の陪臣になります.
時に,邦成は岩出山伊達氏の伊達邦直の実弟でした.
元々,亘理の伊達安房邦実は,宗藩主伊達慶邦の妹保子を妻に迎えましたが,菊子と言う一女しかもうけずに,亡くなってしまいました.
邦成は,1841年に岩出山の伊達義監の子として生まれ育ちましたが,5歳の時,亘理から来た使者常磐新九郎,後の田村顕允だったと言いますが,彼が城中の木馬で遊んでいた邦成を有無を言わさずに連れ去り,邦実の養嗣子として菊子と結婚させて亘理伊達家を継がせたのです.
因みに,邦直の次男直温も邦成の養子となっています.
ところで,知行23,000石余で1,300戸の家臣とすると,経済的にはどうなるか.
よく言われる様に23,000石は生産高ですから,普通四公六民として家臣の給料を賄う事になります.
仮に四公の9,200石を行政費抜きで家臣1戸平均とすると7石にしかなりません.
従って,家臣達は全く消費しかしない武士では無く,大部分が半士半農の生活をしていたと言う訳になります.
農民の貢租はありますが,家臣の農地からの貢租はありません.
家臣の農地は奉公人前高,農民の農地を百姓前高と言います.
これも,中世以来の仙台藩の地方知行制の特色となるものです.
戊辰戦争に敗れると,23,000石の邦成は,130俵,即ち58.5石となり,仙台屋敷居住を命じられ,奉公人前高の陪臣は新南部領民と言う事で,南部藩に貢租を納め,家も明け渡さなければならない状況になりました.
1869年1月,窮地に立った邦成の家老常磐新九郎は,政府が蝦夷地開拓を計画している様なので,邦成公自ら旧臣を率いて自費移住し,兵農相兼ねて開拓に従事してはどうか,家中自活と北門警備の実行を挙げるならば,戊辰朝敵の汚名をそそぐ事が出来るであろうと言う献言を主君に対して行います.
邦成が資金はどうすると質問すると,新九郎は1,300の家臣が資力だと応えました.
こうして,主従等しく瀬戸際に立った覚悟と意志を統一し,邦成の賛成の下,計画実行を新九郎が建てる事にしました.
朝敵になった仙台藩にとって,朝廷の為に点を稼ぐのが復権への上策でした.
先ずは,全藩挙げて,箱館脱走軍討伐に参加しようとしました.
この案は本藩の拒絶に遭ったので,邦成手兵だけでもと参加を画策し,1869年正月6日,早々に常磐は同僚を伴って水戸に飛びました.
水戸藩主の徳川昭武を頼ったものの,既に討伐総督を辞任した所で筋違いと断られ,京都,東京と,伝手を求めて駆け巡りましたが,結局,討伐軍への参加は実現出来ませんでした.
そこへ3月,仙台に勃発したのが壮士集団見国隊を中心とする騒動です.
仙台藩の無条件降伏,その処分に対し,旧佐幕派,恭順反対の藩士,脱走浪人達が不満の行動を露わにしたのです.
報を聞いた政府は,大納言久我通久を鎮撫総督として兵600を率いて4月3日仙台に向かいました.
折柄上京中だった邦成も大いに驚き,後見職として自力で鎮定を申し出たが許されず,先鋒として久我鎮撫使と共に船で同行,塩釜で一足先に上陸,仙台に急行して,藩兵を出動させて取締に当たりました.
不穏分子は逸速く箱館方面に逃走し,官軍出動前に一応鎮定する事が出来ましたが,邦成の行ったその処分は極めて厳しいもので,重職の切腹7名,以下58名が罪科を受けました.
邦成も後見職の責任を負って待罪書を提出しましたが,不問に付されました.
相馬藩家老岡部庄蔵は此の事で上京しましたが,その手記の中で,上朝廷への忠勤と,下伊達家の忠臣と評価しながら,
「事急なるの場合其濫刑なきも保し難く,況や重臣にして厳刑に処せらるるにおいてをや,これを仇敵視するもの多き知るべきなり,故に藤五郎は社稷のため一身を省みず大功を為すに関わらず,一般に仇敵視せるるは其情愍然たるもの有り」
と記しています.
この様に,この叛乱鎮定により亘理伊達家の立場は本藩で微妙なものとなり,邦成は新境地を開くために,家臣共々蝦夷地への移住と言う決意を益々固めたのです.
邦成の命によって5月下旬に上京した常磐新九郎は,折柄滞京中の同僚茅場源之助元賢を説得,宗家の同意を得るために帰国させ,自らは7月に相馬藩家老岡部庄蔵の紹介を得て,参議の広沢真臣に面会します.
常磐から邦重家中の含意を聴いた広沢は大いに喜び,蝦夷地開拓は不日発令の予定であるから,その時に請願したら良いとの指示を行います.
実は,広沢は既に岡部から亘理の事情を聴いており,自費を以て開拓するならば,帯刀も許され,君臣の名分は無くとも事実上君臣相離れる事は無いと言う立場を示していました.
常磐は国許に帰って邦成にこの経緯を報告しましたが,国許では常磐の行動が宗家に対する陰謀と疑われており,逮捕の議が出ていました.
驚いた邦成は,急使を派して常磐に潜伏避難を命じましたが,常磐は動ぜず,
「疑う事は功なく,功を疑うは名無し」
との古語を引いて邦成に答えています.
因みに,その頃,広沢は岡部を使って,白石の片倉,角田の石川などにも蝦夷地移住を勧誘していたそうです.
つまり,伊達家が勝手に移住するのは,国の懐は全く痛まない,そして,伊達家は陪臣問題を解決出来る一挙両得であると考えていたのです.
ところが,移住希望を募る願書は全く到着しませんでした.
好機を逸する事を恐れた常磐は,自分の名で内願書を8月10日に太政官少弁渡辺昇に提出します.
その内願書は,前段で戊辰朝敵の疑いを弁明すると共に,後段で罪を償うために北門開拓の志を述べています.
そして,最後に仙台表の騒動を邦成が鎮定した功績もご配慮願いたいと付け加えています.
願書は邦成名代の萱場元賢の名で白石の按察府にも提出されていましたが,制度上の流れである按察府経由よりも,常磐の抜け駆けの方が勝っており,8月23日,参朝を命じられた邦成は,待望の仙台藩及び自分の北海道の辞令を受領し,25日,胆振国の内有珠郡1郡を一円支配する辞令を交付されました.
謂わば,亘理郡から有珠郡への転封とも取られる訳です.
そうは言っても,出し抜かれた形の宗家は面白くなく,常磐は宗家家老に呼ばれて始末書騒ぎとなりましたが,邦成は先に了解を得ていた楽山公,つまり先代藩主慶邦に会って穏便に事を済ませ,楽山公からは却って激励を受けました.
結局,常磐問題は楽山公の鶴の一声で解決された事になります.
絶体絶命の状況に追い込まれていながら,新時代に対応出来ず,何時までも変わらない本藩を無視し,自分たちの手で新たな道を切り開こうとした亘理伊達の伊達者としての意地が,彼等をして北海道開拓へと走らせたのです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/06/04 22:10
青文字:加筆改修部分
【質問】
脱刀問題とは?
【回答】
さて,1869年9月,邦成は常磐改め田村顕允を開拓執事に命じ,土地受領のため北海道に先発させ,亘理の菩提寺である大雄寺に総家臣を集め,北海道開拓御用を布告して覚悟を促しました.
因みに,常磐から田村への改姓は彼の先祖が征夷大将軍坂上田村麻呂であった事から,此の度の蝦夷地行きの覚悟を引き締める意思を示したものであると言います.
邦成は一歩遅れて渡道,現地で田村に会って,有珠郡の東室蘭郡,西虻田郡と両境界に標柱を建て,支配地を確認し,10月19日,有珠会所内に開拓役所を仮設しました.
第1回移住は1870年3月と予定し,現地には斉藤格,伊藤成実を残して,邦成と顕允等は一端帰郷しました.
12月12日,亘理に戻った邦成,田村は直ちに重臣達と協議を重ね,次の様な移住方針を定めました.
1. 第1期移住は1870年3月中旬出発,陸前寒風沢から胆振室蘭へ渡航の事.
2. 移住人員を男女250名と定め,戸数は60戸を標準とする事.
3. 戸主は夫婦携帯の事,独身移住を許さず.但し父子兄弟同居する者は此の限りに非ず.
4. 60戸の内に木挽,桶屋,鍛冶,漁師両3名を加えて引き連れる事.
5. 士族は身分1級を進め,卒は士に進め奨励する事.
6. 移住後1カ年以上の飯米準備の事.
この移住方針の特色は,身分の進級と戸主の独身移住を許さぬ事でした.
即ち,家族移住は謂わば背水の陣で,家族の絆が逃亡や脱落者を出さない条件です.
後年の田村の回想によるとその心は次の通りです.
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通常は壮年の単身移住者で,先ず開拓の下地を作ってから家族を呼び寄せる方法を採るが,開拓の辛さや孤独に耐えかねて必ず逃げ帰る者が出て来る.
家族ぐるみで帰る道は無い.
否が応でも新天地で頑張らなければならないものだ.
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この家族ぐるみと言うのは,主君邦成一家が率先して行った事で,家臣達の感激と団結を不動のものにします.
1869年晦日,邦成は第有事に家臣一同を集めて方針を示し,不退転の決意と同心協力を誓わせ,自力移住資金のため,日用品外の家財,宝器を売却する覚悟を促しました.
そして,翌年3月,開拓使汽船長鯨丸は,横浜で邦成が手配した南京米250俵を積み込んで寒風沢港に入港.
宰領萱場元賢の指揮で,第1回移民220名と,大工・土方など30名,合計250名が乗り込んで北海道に出発しました.
この時,執事の田村顕允は,角田県内で揉めていた移住予定士族の脱刀問題を解決してから出発する事になります.
この脱刀問題というのは,文字通り,無禄・帰農の士族の帯刀が禁止された事です.
亘理の士族達は,無禄でも帯刀士族でありたい為に北海道移住を決意したもので,帰農して平民になる訳ではありません.
武士が農耕をやるという論法です.
しかし,角田県は県下に在住する間は,有珠郡支配地との往来以外は帯刀を認めないと言うのです.
これは移住予定者の誇りを傷つけるもので,田村もその交渉に帯刀して県庁に出向いて怒鳴られたのでした.
結局,田村と県庁が数度に亘って談判した結果,移住前であっても,開拓御用以外でも,外国人接待や祖先の墓参時には帯刀を許され,その上在留中には奉公人前高の半分を貸与されると言うおまけも付いて,移住前に窮迫する状態を免れる事が出来ました.
それは扨措き,第1回移民は4月6日に室蘭に到着しました.
上陸時,残雪は未だ60cmもあり,雪上の筵の上で弁当を食べながら,さめざめと泣く婦女子がおり,気の毒であったと,長鯨丸の船員が書き残しています.
翌7日,老人婦女子はアイヌに背負われ,他は徒歩で有珠に入り,会所及び近辺の住宅に分宿します.
その時有珠の人々は,
「それ仙台衆がやって来た.米の飯を炊いてやれ」
と,貴重な白米飯と,有珠湾で取れたアサリの味噌汁で歓迎してくれ,心細かった移住民を勇気づけてくれました.
恐らく,その当時有珠会所の漁場持だった和賀屋が新領主に対する好意だったと思われます.
休む間もなく,次の日から15日までに紋別川東に56戸の仮小屋が突貫工事で建てられ,人々は分住して入居,この間に扈従長兼出納司長斉藤雄治(旧名は格),励農長荒川又左衛門,出納司下役伊藤善助と役職も決められました.
そして17日,いよいよ亘理伊達家の北海道開拓が始まりました.
今の梅本町伊達中学校の西北隅に設けられた筵敷きの支配役所の前に,邦成自ら鍬を振るって,李の苗13本を植え込みました.
因みに,50年後の1919年,この場所に「剏治記念碑」が建てられています.
邦成の『移住開拓日誌』には次の様に欠かれています.
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13日無異事快晴,開拓場所へ出張す,役所は昨日一日にて出来,愈々小屋程出来,可笑也.
17日晴午後より雨,李苗,役所前へ13本植え込む.
開拓場出張より帰れば白石の者2人当所に泊まりに付出会,書状一封頼み候事…
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こんな感じで,同じ伊達の同志である幌別郡支配を命ぜられた白石家臣の宿泊やら,開拓使役人の来場や,有珠善光寺に米を献上したり,会所守やアイヌ全員への手当の件をも記し,26日には3町位開墾出来たとか,詳細を書き連ねており,極めて貴重な史料となっています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/06/06 23:25
青文字:加筆改修部分
【質問】
第2回以降の伊達士族北海道移民の状況について教えられたし.
【回答】
<北海道はでっかいどう>
さて,北海道に移住した亘理伊達の主従ですが,時間を少し遡った4月10日,開拓執事代理の萱場元賢は一同を集めて屋敷の割当を行いました.
その時の宅地は,各戸間口20間,奥行30間の600坪区画です.
これは耕地とは別で割り当てられており,内地の農村と同じ考え方の五反百姓の集村方式でしたが,北海道の開拓地は非常に広く,農業規模が本土とはまるで違います.
集村方式では,住居から耕地までの距離が遠くなってしまい,通い作をするには不便である事が分かりました.
流石に,最初の移住者達ですから,この辺は経験を積まないと判りませんし,幹部でもその辺を理解するのに時間が掛かりました.
6月下旬,脱刀問題を処理して田村顕允が有珠にやって来ました.
田村は,この屋敷割を見て,開拓民が農地と宅地との間の往復に苦労しているのを見て,新天地での改善を考え,耕地内に宅地を設定する事を進言,これは邦成の取り上げる所となり,散村形態に改める事にしました.
しかし,田村も北海道の農業に精通している訳では無く,五反百姓の考え方を一歩進めて,2〜3町歩に1戸と言う割合での散村形態としただけで,後に見られる様な5町歩1戸のスケールまでは至っていません.
とは言え,屯田兵の場合は密集兵村で1.7町歩でしたから,亘理伊達の構想は,その当時としては先進的な考えだったと言えます.
こうして,第1回の移民が定着した頃を見計らって,第2回の移民が8月に到着します.
この時の移民は64戸72名でしたが,この頃には第1回移民の開拓も進み,第2回の開拓が進むと,有珠郡を分領としただけでは次回以降の移民には狭すぎる可能性が出て来ました.
そこで,三石,浦河,様似の開拓使直轄地であった日高3郡の増支配を請願したのですが,これは許されず,代わって有珠郡西隣の虻田郡のみが増支配となりました.
因みに,日高3郡の増支配については,開拓使内に,
「朝敵だった仙台人に良地を与える必要は無い」
との議論があったと言われています.
この為,邦成以下の移住者達は開拓使貫属を出願して1871年3月14日に認められ,
「但家禄之儀は開拓使より請取るべき事」
となって,やっと虻田郡増支配となったのです.
しかし,この分領支配については,間もなく廃藩置県があり,それに伴って分領廃止が為された為,余り意味がありませんでした.
1871年2月に第3回移住が行われました.
この時の143戸788名の中に,主君である邦成の家族も同伴しました.
主君の家族も渡道してきた事で,亘理伊達の移住者の士気は非常に上がりましたが,不運も重なります.
この第3回移住は多数に及んだので,移住船である汽船猶龍丸は人間だけを運ぶ事になり,家具や農具を積んだ帆船は,それより2ヶ月も遅れて4月下旬に漸く有珠湾に到着します.
既に,耕作時期は始まっており,荷物の到着は思わぬ狂いを齎しました.
この為,月夜に荒起しをする人も出たそうです.
また,第2回の移住者は8月に入植したことから,播種の時期は全く失っていました.
更に,その年の夏と秋は凶作に見舞われた為,大根や芋も食い尽くし,野菜や自生している蕗で辛うじて飢えを凌ぐ苦境に立ち至ります.
当時,近隣のアイヌ達は,アイヌ語で
「開墾に仙台人がやって来て,開墾するは良いけれど,蕗ばかり食べてお尻の穴まで蕗になる」
と揶揄した程,その上,噴火湾の漁獲も不漁皆無状態で,絶体絶命のピンチに陥りました.
自力本願を誓った邦成も,とうとう堪えかねて,開拓使に嘆願して米100石を拝借してどうにか切り抜けましたが,12月の決算期には会所方漁師やアイヌの給料に窮して又も開拓使に嘆願し,岩村通俊判官の好意で取り敢えず500両,函館備米の一時繰り替えを図りました.
因みに,邦成は自らも身を削る為,蔵書や兵器の献納を願い出たりもしています.
この時,家臣団の支えとなったのが,第13代仙台藩主伊達慶邦の唯一の妹である貞操院保子です.
保子は17歳で亘理の13代伊達邦実に嫁しました.
しかし,幸せも束の間,1859年に邦実は死去し,33歳で落飾,貞操院と号しました.
この2人の間に生まれた1人娘の菊子に一門の岩出山伊達邦直の弟を婿に迎え,家を存続させた訳です.
それは扨措き,邦成は北海道移住に際して,既に老齢の域に達している義母に仙台に残る様に勧めますが,彼女はこれを承知せず,45歳の身で渡道します.
この時,兄の慶邦は妹の不動の決意に,惜別の情を歌に託しました.
かかる世に 生まれあわずば はるばると 蝦夷が千島に 君ややるべき
これに対し,保子はこう返歌を認めています.
すめらぎの 御国のためと 思いなば 蝦夷か千島も なにいとうべき
保子も装身具などを売り払って,第3回移住で渡道し,邦成夫婦を励まし,家臣の移住小屋と同じ茅屋に住み,度々開拓場を訪れ,食糧不足の時には手製の団子を手ずから家臣に与えて激励したと言います.
丸太小屋には食膳が無く,時に味噌汁椀を引っ繰り返す事も有りました.
これを見た家臣達は皆,「世が世なれば…」と,涙を流したと言います.
この時,田村を斬って帰郷しようといきり立った者達も,領主の大奥様が此処まで励まし,同じ様に頑張っている姿を見ると,我慢出来なければ,武士でもないし,まして男でも無いと思う様になりました.
丁度この時のエピソードですが,虻田郡を増支配となると,邦成は有珠・虻田両郡の「ご総括様」と呼ばれる様になりました.
8月のある日,邦成が馬で萩原方面を視察した時のこと,今野定之進と言う家臣が暑いので下帯一つになって働いていました.
その姿を見た邦成は,「定之進,定之進」と声を掛けたのですが,定之進は,
「何やつだ! この定之進を呼び捨てに出来るのはご総括様だけだぞ!」
といきり立って振り返りました.
ところが,そこにいるのは当のご総括様….
慌てた定之進は,下帯姿を隠そうと土下座して礼をしたと言います.
因みに,この話は,後々まで会合の度に出たと言います.
その度に,定之進は冷や汗をかいたことでしょう.
その苦難の1年を乗り越え,1872年には前年危機に対する開拓使救助の礼として,初穂大小麦各10石,粟10石,蕎麦5石を献上しました.
開拓使の黒田清隆はその当時,
「ツマラン貧民を幾千人移住させても,とても自主の産を営むこと万々難しく…」
などと慨嘆していたそうで,彼の心証を良くしようとした行為でもあったりします.
廃藩置県の後も,
1872年3月に132戸465名,
1873年6月に44戸562名,
1874年4月に58名,
1875年5月に56名,
1880年3月に87戸358名,
1881年4月に18戸72名
の9次に亘る移民で,2,681名が亘理から北海道にやって来て,この地に根を張っています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/06/07 23:50
青文字:加筆改修部分
伊達邦成に同行して北海道に渡った人々の中には,亘理の隣郡である柴田郡船岡の領主であった柴田意成主従もいました.
この人の先祖は,有名な伊達騒動で主要人物となった柴田外記です.
原田甲斐が伊達安芸を斬った時,原田を阻止して斬死したのが柴田外記で,彼も伊達一家の名門でした.
後に,柴田郡要害船岡5,000石,即ち元の原田甲斐の領地を引き継いで統治していましたが,戊辰戦争時,不孝に見舞われました.
柴田郡には由緒深い式内社の大高山神社があり,神の使鳥として近くの大沼に渡ってくる白鳥が,人々に尊敬されていました.
しかし,戊辰戦争終結後,官軍でこの地にやって来た芸州藩兵が舟を出して白鳥狩りを始めます.
堪り兼ねた柴田の家臣森玉蔵が,同僚である小松亀之進が止めるのも聴かずにその舟に発砲しました.
弾丸は舷側に当たっただけでしたが,芸州藩は官軍に抵抗した者として大いに怒り,厳重処分を要求してきました.
領主の柴田意広はその頃忌中謹慎中で事件を知らなかったのですが,官軍に容赦なく責められ,仙台藩執政は已むなく森と小松を捕らえて護送しました.
ところが,森は途中で逃亡し,小松だけが引き渡されます.
森の行方はようとして判らず,芸州藩はいよいよ怒り,主人柴田意広の責任を追及,結局意広は割腹,小松と行方不明の森の代わりにその義兄が斬罪になりました.
割腹した意広の後を継いだ意成は僅か3歳.
柴田郡も没収された仙南地域で,意成の家禄22石,家臣191戸,処置に窮した家老大和田三郎兵衛等は協議の末,幼君を擁して邦成を頼る事になりました.
こうして,邦成の好意により,1870〜1872年にかけての3年間で,柴田家中の123名が邦成と同行して,有珠郡の船岡を中心に移住しました.
因みに,柴田意成は成長後に上京,遊学すると,二度と北海道に戻りませんでした.
なお,四女の多賀は後に静と改名して,当別に移住した伊達邦直の長子基理に嫁しています.
1871年8月,有珠と虻田両郡は廃藩置県に伴い,開拓使に引き継がれました.
邦成支配3年間の出資は,金30,660両余,永2,037文余,米2,940石余.
邦成は,明治維新後,家禄58.5石にも関わらず,これだけの投資を行ったのです.
亘理にて半士半農状態であったにせよ,風土の違う北海道の農法は従来と同じ訳には行きません.
農具も三本鍬より唐鍬が良く,道東の谷地坊主の様な荒地では島田鋤でなければ歯が立たなかったと言います.
ところで,先述の通り,第3回移住組は人間が多くて,荷物が後回しとなりました.
その為,作付時期を遅らしかねない状態となります.
この第3回移住者の中の1人である佐藤作右衛門は,遂に郷里でも手放さなかった先祖伝来の兜で唐鍬を作ろうと決意し,これを杉目鍛冶屋に持ち込みます.
驚いたのは鍛冶屋.
伝家の兜では恐れ多い.
唐鍬は持ち合わせの地金で作って上げますからどうか,兜はお引き取り下さいと返しました.
亘理武士の覚悟の程が知れる話です.
官奨励の西洋農具の払下げを開拓使に出願したのは1874年5月,札幌本庁の技師に依頼して,プラウやハローと言った農機具の開墾実習を始めました.
因みに,同時期に当別の伊達も西洋農具の採用に踏み切っています.
一般の移住農民は,自分たちの内地農法をそのまま踏襲しようとしている中で,武士達の進取の気性が見て取れます.
この年の12月,開拓使顧問の御雇外国人ケプロンが視察に来ます.
この時,ケプロンは果樹や牧畜の助言をしています.
また,有名なクラーク博士も札幌農学校を退任後,帰国の途次に有珠郡を視察し,其の日暮しで無く利益を上げる農業の話をして,耕牛,ビートの事を示唆して行きました.
それから間もなく,1875年に黄金蘂牧場,1880年には西紋鼈に内務省官立の製糖所が出来たのです.
なお,開拓使は外国人顧問の言に従い,適地適作主義を主張します.
そして,その観点から北海道では稲作は不可能であると決めつけていました.
それでも,剱術天流の俊秀と言われた荒川泰吉郎は,稲作を諦めきれず,稲苗の根を粘土で包み,自宅側の水溜りにその稲団子を並べて植えてみました.
秋になると,見事,稲穂が出穂し,工夫次第で北海道でも稲作が出来る事が証明されました.
麦を作るよりも,稲を作る方が,農家にとっては利益率がまるで違います.
そう言う意味では,武士の意地と農民の経験が,西洋的思考に勝った訳です.
こうした営農活動では,地域間の協力が必要です.
亘理伊達の移住者の場合,永久組合と呼ばれる組織が作られています.
これは,隣保協力,相互扶助を目的としたもので,5戸を1伍とし,5伍を組として伍舎長を置きました.
連帯,協力,扶助の組織と言うのは,移住開拓に成功,永続した団体に多く自主的に作られています.
そう言う意味では,元来が戦闘集団である武士団の家臣構成の考え方が,こうした互助組織構築,運営に生きていると言えます.
また,産業振興の方策として,1876年に永年社が作られました.
これは1872〜1875年迄の間,開拓使から与えられた開墾扶助米,塩噌料の一部,1873〜1874年の移住者に支給された開墾料の一部を合わせて資本とした会社で,郡に居住する老若男女全員が社員となっていました.
始めは備荒,貯蓄の点で機能を発揮しましたが,残念ながら1877年以降の蝗虫害,続く経済不況により衰退してしまいました.
伊達移民達の教育機関についても触れておきます.
最初の移住以来,武士の躾として教育は重視され,私塾が作られてはいましたが,正式な教育機関が必要であると言う事で,1872年,邦成の要請で,岩村大判官は郷学校設立を認可し,建築費を下付しました.
こうして出来たのが有珠郷学校です.
後に5年学制発布の際の調査では,1872年創立の官学校は8校あり,その内の6校は士族移住団が作った学校,1つは官吏養成校でした.
この中でも有珠郷学校は生徒数が最も多かったそうです.
その有珠郷学校の後身が,現在の伊達小学校に繋がります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/06/08 23:44
青文字:加筆改修部分
【質問】
伊達移民の平民籍編入について教えられたし.
【回答】
さて,1871年,所謂廃藩置県が断行され,中央から派遣された県令による県政に移行し,旧藩知事は全員東京に集められることになります.
つまり,今まで藩士の身分を保ってきた人々は一斉に職と家禄を失い,此処で秩禄処分の憂き目にも遭います.
その数は,全国民の約7%程度…これが多いか少ないかは議論の分かれるところですが,その殆どが戊辰戦争で敗北した東北の士族が主でした.
廃藩置県により,北海道に設定された諸藩分領も一時諸県所管を経て,開拓使の全道一円支配となりました.
邦成の支配地も,3月に第4回移民が到着して間もなく,その支配地である有珠・虻田両郡に加え,旧石川邦光支配地だった室蘭半郡の土地と人民は5月に開拓使に引き継がれました.
一応,邦成には「従来通り取締りすべし」との達しがありましたが,制度上君臣の絆が断たれる事になりました.
邦成はそれによって緊張の糸が途切れたのか,3,4年上京して辞任したいと申し入れますが,開拓使の岩村判官は大いに驚き,伊達移民の今日・将来は邦成の人物,取締の実質にある,もし君無くば…と引き留め,邦成も上京を翻意しました.
丁度,移民の中で一番困窮していた時だったので,邦成の一芝居だったのかも知れません.
実際,開拓使からは第4回移民に対し,到着後10ヶ月の食糧その他の援助を行いました.
しかし,1873年の第5回移住時には官費移住を拒否され,到着後の札幌新道開削作業出役も許されず,邦成はこの一団の為に米30石を給与してその苦労を慰めました.
この背景には,今まで有形無形の援助を惜しんでくれなかった岩村大判官が,1873年1月に黒田清隆に職を追われて開拓使を去っていたのもあります.
その前に,伊達士族にとっては驚天動地の出来事がありました.
1872年9月,無禄の士族は平民に編入すると言う御達しが官からあり,伊達移民も平民籍に編入されたのです.
元々,亘理伊達士族は,戊辰戦争後の仙台藩に於ける藩政改革で,既に見た様に「永の暇」を宣言され,帰農,帰商する事になっていました.
とは言え,亘理の地は南部藩が移封してきたので土地や家屋を失い,帰農することも出来ません.
従って,頼るべきは旧主邦成のみでした.
そして,邦成は田村顕允と諮って北海道移住を決意し,自費移住でそれなりの地位を築いていました.
今までの伊達士族としての誇りがあったのに,一編の紙片で郷里に於ける帰農平民と同等の身分になると言うのが誇り高い武士には堪えられませんでした.
因みに,こうした平民籍編入は有珠郡伊達,幌別郡片倉,当別町伊達と,謂わば朝敵だった伊達士族にのみ行われており,勤王の陪臣である徳島藩の稲田家には殆どありませんでした.
失望した伊達移民の中からは,1875〜1876年に募集された琴似・山鼻の屯田兵に参加した者も多くいました.
例えば,琴似屯田兵240戸の内,半数近い戸数が亘理郡出身者でした.
元々は第5次移住予定者だったのですが,旅費がなくて屯田兵に応じたと言う事も有ったらしく,また1876年には有珠郡から36戸を選び,琴似・山鼻屯田に移したと記録に残っています.
ただ,平民移籍に先立って,懐柔政策の一端だったのか,4月から邦成と石川,柴田の旧家臣に対し,開墾扶助料が3カ年支給されました.
15歳以上1日米7合5勺,塩噌料月金2分,7〜14歳は1日米5合,塩噌料月金1分2朱,6歳以下は1日米3合,塩噌料月金1分の割合です.
ところで,1877年西南戦争が勃発します.
入地間もない琴似や山鼻の屯田兵も出征し,遠く九州は人吉の激戦で大いに奮戦して屯田兵の名を高らしめました.
勿論,戊辰の怨みも相当あったと思われます.
この年,開拓使の有珠分署が廃止され,邦成は8等出仕罷免となり,室蘭分署に在勤していた田村顕允が有珠と虻田両郡を管理することになります.
そして,西南戦争の兵員に充当する為,屯田予備兵を編制動員して,東京に出勤させることになりました.
この屯田予備兵募集会議に,田村も召集されました.
そこで,田村はこう言われます.
「伊達の旧臣多数の地だから,喜んで応募する者が多いだろう」
これに対し田村は憤然と,こう答えました.
「帰農は武門の恥辱,本藩の命拒否して蝦夷地に自費移住したのだ.
それなのに,1872年には稲田を除いて両伊達と片倉だけが,士籍を剥奪されて民籍に落とされた.
今更何を言うか!」
この田村の剣幕に皆驚いたのですが,結局伊達士族に頼らざるを得ません.
屯田予備兵応募家族に対して,出兵中の特別の扶助を行うと言うのを条件に募集を容認することにし,更に田村は,邦成を旧臣応募者の引率取締にして欲しいと注文を付けました.
有珠郡の応募は300名を超えた為,その中から遺家族に心配の無い155名を選抜,邦成はその取締に任命されて6月に上京しました.
東京での訓練中に,西南戦争は官軍圧倒的な状況となり,幸いにも九州への動員はなく,邦成指揮の屯田予備兵は8月27日に帰還し,解散しました.
因みに,戊辰戦争の際,奥羽列藩同盟加盟諸藩はこれを対朝廷戦争とは考えず,西南雄藩特に薩長を君側の奸と見ていました.
従って,維新後も薩摩に対する恨みはかなり強いものがありました.
一方で,開拓使の総元締である黒田清隆始め幹部には薩摩人が多くいました.
屯田兵の出動に際しても,屯田兵総理に黒田清隆が就任すると,その指揮の下,戦闘になると西郷隆盛方に寝返るのでは無いかと考えられていましたが,その屯田兵の主力は奥羽士族であり,寝返るどころか寧ろ戊辰の不名誉を濯ぐ機会と考えていた為,裏切りの恐れはなく,杞憂に杞憂に過ぎなかったりします.
とは言え,北辺防備に必要な屯田兵までも西南戦争に動員せざるを得なかったのは,日本の軍備の薄弱さを表したものでした.
一応,その頃には千島樺太交換条約の締結により,日露間は緊張緩和状態でしたが,それは極めて薄氷を履む形でした.
従って,その兵力の穴を埋めようとして,屯田予備兵と言う制度を政府が考えたのでは無いかと思われます.
こうして,12月に屯田予備兵条例を制定し,伊達邦成も1881年2月,准陸軍少尉に任ぜられました.
地位は屯田兵将校と同一だったのですが,結局この制度は実施されずに終わりました.
その年,邦成は従六位に任ぜられます.
但し,授与の名目は軍功では無く,開拓功労によるものでした.
官位的に中小大名は,五位が授与されたので,それよりも少し落ちる様な感じです.
一応,陪臣としてのバランスを考えたのかも知れません.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/06/09 23:43
青文字:加筆改修部分
【質問】
伊達移民らの士族復籍について教えられたし.
【回答】
さて,1872年,伊達移民達は平民に落とされてしまいました.
とは言え,士族への復籍を諦めていた訳では無く,1885年3月25日付で伊達邦成並びに旧家臣一同の名で,「士族復籍の儀請願」を内務卿松方正義宛に提出しました.
請願書には,今まで繰り返した戊辰以来開拓従事の経過を述べ,現在社会の秩序上士族の名称,殊に無禄の士族も承認されていると書いています.
そして,士族復籍は,
「徴兵令御施行に相成候所今日に方り,兵農の分は無之訳に候得共,私共最前志願の日に方りては,兵役は士道の負担に有之,乍恐も上は北門警備万一の御用に相立ち,下は自力に食み,報国の徴衷貫徹仕度,区々之素心より,兵農両得の儀を首唱し鋭意不撓,戮力協心,開拓従事罷在.心底深く御酌量出格の御詮義を以て,幾重にも願旨御聞届被成下様奉請願候也」
と結んでいます.
札幌県佐藤秀顕大書記官は,旧家来が脱刀を拒み,邦成中心の自費移住,兵農相兼ねて開拓,北門警備の素志をもって支配地を預けられましたが,開拓使支配語,貫族士卒の区分に際し政府は皆民籍としたものの,その後の成績顕著で,「其旧臣民籍編入相成候ては,素願達兼憫然の次第」だから,士族復籍を特別詮議して欲しいとの上申書を認めました.
その後,内務卿は松方正義から山県有朋に代わりましたが,請願は許可されました.
1885年7月2日付で,士族編入が許可されたのです.
喜んだ一同は相集って士族契約書を作製しました.
同盟を結んで,有形的に君臣の間を明らかにしたのです.
士族契約書は全文7箇条からなり,伊達移民の開拓精神を明文化したもので,北地跋渉の成果を示しています.
その全条は下記の通りです.
有珠郡復籍士族契約
第1条 朝廷を尊奉する事
第2条 伊達氏を保護する事
第3条 同盟親睦の事
第4条 節義を守り廉恥を尊む事
第5条 家産を励み節倹を勉む事
第6条 子弟を就学せしめ人材を養成する事
第7条 同盟に背き破廉恥甚しき所行有る者は,同盟説諭し帰農出願すべき事
これにはそれぞれ説明が付いています.
第1条では,移住開拓は勤王の素志を全うするもので,
「郡役所,戸長役場は政令を奉行する所,一令出る必ず之を守り(中略),且党与を結び,法律を妨げ,官吏を誹謗して私見を主張するが如き悪風無き様に心掛くるは,即是朝廷を尊奉し,政令を遵守するの意を表するものなり」
としています.
この文中で党与とは何を示すかと言えば,この頃,盛り上がっていた自由民権運動を悪風として捉えたものと思われます.
第2条では,戊辰戦争の不幸から,移住,開拓の功,士族復籍に至るまで,総て「旧主に依らざれば」出来なかった事で,此処に他の廃藩諸家と異なった君臣関係が強調され,その至大の恩に報いる為にも,「伊達氏永世保護の責任」が強調されました.
第3条の「同盟親睦」は,本軍の実績は同心協力相親睦の成果である事,しかし,人々意見が異なるのは人情の免れがたい所,その偏見を固執しては上手く行かないので,信義を主として規約を結んで弊害を防ぎ,交互賑恤は親睦を維持する所以であるとしています.
第4条は,節操を守り義気を重んじ,廉潔羞悪の風が無ければ北門の鎖鑰たり得ないと書き,卑怯未練というのは士の恥じる所,貪欲無知は士の卑しむ所で,武道を鍛錬して品行正しき志操を養う事としています.
第5条では家産経済がきちんとしていなければ,士族の体面を保てないのでそれを保つ為にも節倹に励む必要があるとしています.
第6条にある就学や人材養成は,士族の急務であり,学ぶ目的は知識を開発し,倫理を明らかにして,子孫の幸福や邦家の富強を図るもので有るとしています.
第7条の説明は士族契約の特色の有る締めであり,こう書かれています.
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士族契約の如きは法律制度の問う所に非ず.
同盟諸氏の結約して其志操を固守するに有る也,故に約に背き破廉恥甚しき所行有る時は,之を盟主に告げ,同盟説諭し,罪を悔い,民籍編入出願せしめ,契約を除名するに止るのみ.
------------
つまり,この契約はあくまでも紳士協定的なものなのですが,契約違反者は,契約から除名されると共に,民籍編入出願を課している訳です.
士族に復籍した喜びと共に,全編に復籍士族としての立場が貫かれている契約書となっています.
この契約の盟主には邦成が,副盟主には田村が推挙され,村内を幾つかの区に分けて,春秋2回主従相会して親睦を深め,邦成の死後も嫡嗣が跡を継ぎ,伊達士族以外の人口増加に伴い,皆契約会に参加し,維持に努力する様になります.
ただ,第7条の説明はちょっと変わってくる訳ですが.
また,第2条に書かれた伊達氏保護の方法として,契約成立直後の9月に,田村顕允の主唱により,名家伊達氏の体面を落とさない様,同盟員の貯蓄による保護義捐金募集が行われました.
これは柴田の旧臣達には直接主従の関係は無いものの,応分の気持ちを期待しています.
因みに,室蘭郡の石川家旧臣もこの時士族に復籍しました.
幌別の片倉や当別の伊達邦直家中も邦成家中にやや遅れて11月,士族に復籍し,邦成家と同様にそれぞれ士族契約を作製しています.
この契約は,邦成家の7箇条と異なり6箇条となっていますが,内容的には邦成家の7箇条のうち,2箇条を1つに纏めているので,実質的には差がありません.
つまり,邦成家,片倉家,邦直家相互にそれぞれ連絡があったと考えられる訳です.
なお,伊達邦成は,1892年,死去した当別の兄邦直の孫正人と共に,開拓の功を以て男爵を授けられました.
また,1900年,雑誌『太陽』は明治12傑を選んだ際,農業分野で伊達邦成を選んで称賛しています.
朝敵となって30有余年,その活動が漸く世間に認められた訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/06/10 22:58
青文字:加筆改修部分
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