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(画像掲示板より引用)
『十勝の森林鉄道 森とともに生きた幻の鉄路を探して』(小林實著,森林舎,2012)
文字通り,十勝地方の森林鉄道の成り立ちから衰退まで書かれた本です.
そう言う意味ではかなりマニアックな分野ではあり,森林鉄道が好きな方にはお勧めの本なのですが,あくまでも,十勝地方の地元誌に書かれた原稿が基になっているので,この地域に住んでいる人以外がこの本を読むと,位置関係が全然判らないものになります.
しかも,当時の地名と現在の地名は変わっていたり,長い年月が経って消滅したりする地域も多く,何処にどの鉄道が敷設されていたのか,土地勘が無いと余り良く判らなかったりします.
その地名も,北海道独特のアイヌ地名を漢字化したもので,その上振り仮名が振られていないので,一体どんな地名なのか読むのに非常に苦労する代物です.
この本を読もうと思うと,片手にこの地域の今昔の地形図,机上に北海道の地名辞典を置いて読まないと,片手間で読むと訳が分らなくなります.
また,古老の聞き書きで場所を特定しようとしているのですが,彼等の記憶も既にかなり経過して薄れており,この森林鉄道自体も一時的に敷設されたり,線路の付け替えが頻繁に為されたりするので,作者の推定がかなり混じっており,これが事実に基づくものなのか,作者の推定なのか,イマイチ分かり難い記述が多かったりもします.
その上,恐らく地方誌に記載された時の侭の文章であろうと思われ,その掲載誌もまちまちなので,文体もまちまちで,恐らく校正作業無しでの出版では無いかと思われる状況です.
従って,これまた非常に読みにくい文章です(人のことは言えませんが).
それでも,十勝地方の森林鉄道について,一次資料に当たったり,古老の聞き取り調査なども行っているので,これからこの地方の鉄道について調べるのであれば,先ず当たる必要のある本である事は間違いないと思います.
まぁ,こんなマイナーな鉄道を知ろうというのは余程の偏屈者かも知れませんがね.
------------眠い人 ◆gQikaJHtf2,2016/03/17 22:22
【質問】
日本の鉄道の幅は,なぜ1067mmになったの?
幅が広いほうが兵站上,便利では?
【回答】
日本の鉄道の場合,レールの幅は,1067mmが主流です.
これは,官鉄が敷設された時,南アフリカの植民地軌道の軌道幅に合わせたからと言う説が専らです.
※
何故,アジアではなくアフリカの軌道幅なのかと言えば,その頃アジアの英国植民地には未だ鉄道が敷設されていないか,未だ工事中で,アフリカ南部とか豪州,ニュージーランドでの採用幅が1067mmだったから,と言われています.
つまり,海外に資材の供給を仰がなければならない立場からすれば,大量生産された鉄道部品を購入した方が安いからと言うことではないか,と.
一説には,南アフリカ奥地向けの鉄道機材を転用したとか言われていたりして.
1882年に敷設された東京馬車鉄道は,何故か世界でも類を見ない1372mmと言う半端な軌道幅を採用しました.
米国では馬車鉄道の軌道幅が1372mmだったからとか色々言われていますが,これまた何故かは判らず仕舞いです.
この軌道幅は都電で使われた他,都電から機材を譲り受けて開業した函館市電が使用しました.
また,都電に乗入れる為に,玉電だとか後に都電に編入された城東電気軌道や王子電気軌道,そして京王電鉄,京浜急行,京成電鉄などが採用しました.
しかし,京浜急行は一足先に標準軌に改軌され,浅草線開業時に京成も標準軌となります.
京王電鉄も,新宿線開業時に標準軌に改軌すれば良かったのですが,当時の輸送逼迫で長期運休などが叶わず,結局大手私鉄では唯一中途半端な軌間を採用し続ける羽目になります.
お陰で,標準生産品が使用できず,京王線の電車はコスト増になっています.
一方で,東京都交通局は,お陰で,1067mm,1372mm,1435mmの三種類の軌間を持つ羽目になっている訳ですが.
標準軌は1435mm.
軍部は可成り以前から国鉄(官鉄)の1435mm化を主張していたのですが,それは諸々の事情から新幹線の開業まで実現せず,1899年の京浜急行(後に1372mmに改軌してまた1435mmに戻す)や1906年の阪神電気鉄道が採用することになります.
関西の鉄道は殆どが1435mmですが,これは当時,大阪の銀行家として重きを為していた北浜銀行頭取岩下清周が構想していた「山陽電鉄」を実現しようと言う動きに合わせたものと言われています.
彼は,大阪から山陽地方を縦貫し,関門海峡に至るまで電気鉄道で結ぶ計画を立てていました.
そのため,大阪の灘循環電気軌道(後の阪急神戸線),兵庫電気軌道(後の山陽電気鉄道),広島電気軌道(後の広島電鉄),関門架橋株式会社を傘下に組み入れ,更に山陽筋の鉄道会社に標準軌の採用を働きかけた訳です.
日本の軌道幅はこれら3種が殆どですが,三重の近鉄と三岐鉄道,黒部峡谷鉄道には,762mmと言う軌間があります.
762mmは現在でこそ,この三社しかありませんが,1960年代までは,多くの鉄道が採用していた軌間でした.
松山を走っていた坊ちゃん汽車も,今は1067mmですが,最初は762mmです.
これは,交通網の発達を促す意味で,政府が鉄道の敷設を促した軽便鉄道法に負うところが多く,費用が安く手軽に敷設出来る軌間として幹線鉄道とそこから離れた集落を結ぶ為に多くが敷設されていました.
この762mmが最初に採用されたのは,北海道の茅沼炭砿と岩内までを結んだ石炭輸送用の牛車鉄道で,当時鉱山の主流として海外でも採用されていた610mmでは,1頭立ての牛車では歩幅やよたつきの関係で,蹄がレールに当たったり,排泄物がレールに掛かる為,やや広い762mmを採用したのではないか,と言われています.
今は無くなっていますが,南海電鉄が最初に敷設した線路は釜石鉱山の払い下げ品でした.
英国人技師が敷設した鉄道は軌道幅838mm.
流石にこれは長続きせず,直ぐに1067mmになっていますが….
他に岡山の西大寺軌道と北九州の炭砿鉄道には,914mmなんて変則的な軌間もありました.
これも謂われは不明だったりします.
機関車として石油発動機(ガソリンではない)が使用されて,その発動機の大きさに合わせたとかいないとか.
ほんの百数十年前のことなのに,判らないことが多い世界です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年04月18日21:44
▼ ※異説あり.以下項目参照.▲
【質問】
狭軌鉄道につきまして,上記回答で,イギリスの植民地規格に合わせたという見方が一般的とありますが,それよりも日本は島国で国土が狭く,山岳地帯も多いため,トンネルや橋梁の建設コストの安い狭軌軌間を採用したという見方の方が,一般的ではないでしょうか?
疑問者 in FAQ BBS,2010/6/5(土) 3:47
青文字:加筆改修部分
【回答】
ご指摘を受けて調べてみましたが,「真相不明」というしかない状況のようです.
まずウィキペディアでは,以下のように書かれています.
――――――
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AD%E8%BB%8C
日本の大多数の路線は1,067mm(3フィート6インチ)軌間で敷設されている.
これは,国力の弱かった当時の日本の経済実情と,山や河川の多い地理事情に合わせただけ,という見方が一般的である.
――――――
――――――
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%89%84%E9%81%93%E9%96%8B%E6%A5%AD
線路の幅(軌間)が欧米の標準軌 (1435mm) に比べて狭い1067mm(狭軌)になったのは,明治政府の雇った鉄道建設担当の英国人技師ネルソン・レイが詐欺まがいの人物で,それまで南アフリカの鉄道で使われていて,不要になってインドに当時置かれていた中古品(線路・車両)を使って鉄道を安上がりに建設して,私腹を肥やそうとしたからともいわれる[3].
後にレイは解雇されるが,インドから運ばれた資材は予定通りそのまま使用された.
〔略〕
いずれにしても,真相は明らかになっていない.
――――――
後段では,朝日新聞社編 国鉄監修『続・日本の鉄道』291頁を[3]のソースとしていますが,前段ではソースは不明です.
他のサイトでは,たとえば以下のように書かれています.
――――――
http://www.d3.dion.ne.jp/~kobariki/mame_8.html
かつて鉄道創世記の頃,外国の鉄道事情を視察した政府の役人が集まって標準軌か狭軌かで議論したことがあります.
標準軌は,列車のスピードを高くすることができるということで,一時期標準軌採用が持ち上がったことがあるそうです.
が,国土が狭いとの理由で,建設費の安い狭軌が採用されたそうですが,
――――――
――――――
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=00101422&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA
翻って我国が明治五年東京新橋横浜間に最初の鉄道を建設するに当って,どの様な軌道を採用した方が我国の事情に適応して居るかは,当時と雖も随分喧しい問題であったが,外国人技師の建言等もあり,結局我邦は山国である処から,軌間の狭いもので,早く普及の目的を達するのが宜しいと云うことに決定して,さてこそ三呎六吋の狭軌鉄道を採用することになった.
――――――
後段は昔の新聞からですが,前段はソース不明です.
いずれの説にも信憑性あるように思われますので,真偽不明というしかありません.
それにしても歴史というものは,記録されないままだと,近代史の出来事でさえ,あっという間に迷宮入りしてしまうのだなあ…….
編者
一方,南極にある狂気鉄道では!
「…テケリ…リ テケリ…」
とか,考えた.
Cpt.hige in mixi,2010年06月18日 22:32
列車砲や装甲列車を総称すると,こんな感じになりませんかね.
凶器鉄道.
…………こりゃまた失礼すますた.
ソフトヒッター99 in mixi,06月19日 07:07
【質問】
私鉄が相次いで,鬼神のごとく標準軌を採用した理由って何でしょう?
日本の私鉄は分からんです.
バルセロニスタの一人 in mixi,06月18日 22:06
【回答】
標準軌を採用した民鉄の多くは軌道法を使って発足しているので,それと関係があるかも.
井上@Kojii.net in mixi,06月19日 07:44
関西の場合は,南清と村上享一が興した「鉄道工務所」がm1906年10月から翌年の1月まで鉄道の設計,線路の実測,敷設工事など計33件の電気鉄道に携わっていますが,実際に認可に漕ぎ着けた京阪電気鉄道,神戸電気鉄道,兵庫電気軌道,箕面有馬電気軌道,京津電気軌道,龍野電気鉄道など7社で,これらが何れも標準軌を採用したのが大きかったようです.
でもって,関西では先発の阪神電気鉄道は,技師長が米国のインターアーバンを見て,標準軌でないと絶対駄目だと言い張って,これが採用されました.
南海鉄道は狭軌ですが,元々は釜石の鉱山鉄道から設備一式を持ってきたので,838mmと言う変な軌間で開業し,後に国鉄との乗り入れも考えて狭軌に改軌しています.
日本最初の電気鉄道として開業した京都電気鉄道は,狭軌です.
ところが,京都市電が標準軌を採用し,京阪電気鉄道も標準軌となったので,京津電気軌道は京都電気鉄道との乗り入れを止めて(元々,狭軌派が多かった),標準軌を選択したそうです.
ついでに言えば,京王と都営新宿線,都電,東急世田谷線と函館市電の1372mmなんてのも相当変な軌間ですけどね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,06月20日 21:02
確か 1,372mm って,もともと馬車鉄道用の軌間じゃなかったですか ?
井上@Kojii.net in mixi,06月20日 21:12
▼>井上@Kojii.net氏
ええ,確かにそうなんですが,その馬車軌道の軌間が何故1372mmなのかと言うのも,はっきりしていないものでして.
世界中でも,この5路線しか採用していないのですよね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2010年06月21日 22:37
東京と西京(大阪や京都などの近畿)を結ぶ鉄道を建設することは,新橋・横浜間が開通する以前から構想されていました.
ただし当初は,山間部の中山道沿いに建設することを考えていたようです.
そのとき,イギリス人技術者の頭にあったのは,南アフリカが一度標準軌(1435mm)で建設したが山間部での建設に不便だというので,狭軌(1067mm)に変更した「失敗」だったのかもしれません.
>機関車として石油発動機(ガソリンではない)が使用されて,その発動機の大きさに合わせたとかいないとか.
あと,西大寺鉄道は当初は蒸気鉄道でした.
大きな徳利型の煙突を備えた蒸気機関車が,客車や貨車を引いていました.
90式改 in FAQ BBS,2010/6/21(月) 23:31
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
いわゆる「士族の商法」に,成功例はなかったのか?
【回答】
稀な例だろうが,成功例もある模様.
『のらくろ一代記 田河水泡自叙伝』(田河水泡/高見澤潤子著,講談社,1991/12/11),p.12-14によれば,田河水泡(本名:高見澤仲太郎)の祖父,高見澤益之助は1865年に46歳で死去.
幼い子供2男5女と共に遺された妻,いよは明治維新後,公債を売ってそのカネでメリヤスを仕入れ,背負って売り歩いたところ,これが引っ張りだこ.
長男・作三郎が店を手伝うようになってからは問屋となって,メリヤスの卸を扱うようになり,明治30年代には日本橋横山町に土蔵構えの店を持つと共に,本所向島の寺島にメリヤス製造工場をも開くまでになったという.
詳しくは同書を参照されたし.
▼ 『士族の商法』と言う言葉がありますが,これは余り良い意味では使われません.
明治になって,版籍奉還により各大名家の領地は取上げられ,当主は一旦知藩事になりますが,これも直ぐに廃止され,県令が任命される事になり,殆どの当主は新たに華族に任じられて東京に移住を余儀なくされます.
家老などで才覚のある人たちは当主についてその家令としてみたり,越前大野の国家老みたいに,元々商売に長けていて商家に転身したり,資本を持ち寄って銀行業や商業に投資してみたり,元々保有していた土地を農家に貸し出して地主となったりして,余程の不運に見舞われない限り,破綻しない程度の生活は出来ていました.
尤も,時代について行けず,体面に拘りすぎた挙げ句,遂には先祖伝来の墓まで売りに出した人もいたようで,それは本当に危機の際の個々人の才覚だったりしたのですが….
悲劇は中下級の家臣です.
当初,知藩事は実収高の10分の1を家禄として受け,士族には政府から現米が支給される事になっていました.
この現米を永世禄と言い,これまた大体世禄の10分の1強を渡されています.
120石取りの中級家臣で大体17石5斗程度の支給でした.
これが永年に渡って続けば,彼等も未だ救いようがありましたが,給与は遅配し,仕事も無い状態でした.
1870年,尾張徳川家ではこうした武家の窮状を見かねて,禄を返上し,不毛地開墾を請願する者に対し,手当金17石5斗を与える旨の帰田法を発しました.
この時,帰田願いを出した者は370名ですが,政府の横槍により挫折してしまい,結局帰田が叶ったのは僅か2名に終わりました.
しかし,帰田奨励は政府の規定方針と言う朝令暮改.
尾張徳川家は,名古屋城内の参観を一般庶民に許し,慶勝自ら頭を下げて,家臣のの帰田資金を募ろうとしました.
結局,これにも失敗してしまいます.
そもそも,この明治政府の帰田奨励の意図は,手当を貰って不毛地の開墾に従事するものでは無く,土地の取得を条件に士族が他の職に就くことを意味していました.
とは言え,17石程度の収入しかない上に,借財が嵩んで身動き取れない士族にそれは無理というものです.
その上,田地は非常に高価でした.
例えば,春日井郡池之内村に移住した家臣の場合,移住先の土地は庄屋から譲渡されましたが,屋敷地6畝が10両であるのに対し,下田6畝9歩が75両,中田2反5畝が100両となっています.
江戸期の土地評価額は,反当り上田が1石9斗4升,中田が1石8斗,下田が1石6斗,上畑が1石3斗,中畑は不明ですが,下畑は4斗9升4合で,屋敷地は大体上畑に相当します.
水田は貴重で,池之内村の隣村である大草村では上畑の5.5倍と言う記録があり,意外に水田が高かったりする訳です.
1871年7月,廃藩置県により尾張徳川家,明治になって名古屋藩でしたが,名古屋藩は此処に完全に消滅し,家臣達も自動的に職を失う事になります.
1872年3月,旧藩関係の土地・家屋・樹木は陸軍省管轄となり,居城も没収され,これらは東京鎮台第三分営が所管することになりました.
11月27日には,名古屋県と額田県が合併して愛知県となり,名古屋の南久屋町(現在のテレビ塔附近)に県庁が置かれ,従来からの藩士に代って,中央から官吏が派遣されるようになりました.
一方で,こうした政策や工業化政策などには費用が掛かり,永世禄を額面通り華族・士族に支払うだけの能力が明治政府にはありませんでした.
其所で,手っ取り早く収入を確保する為に地租改正を実施しますが,これは農民達の猛反発を招き,各地で叛乱が頻発,その鎮圧で費用が掛かるという悪循環に陥ります.
そうなると,政府も手を挙げざるを得ません.
永世禄は1873年,秩禄公債に切り替えられ,100石未満の者は奉還を許し,6カ年分の半分を現金で,半分を秩禄公債で支払うとしましたが,これも破綻し,遂に1876年になると家禄制は全廃されてしまいました.
1872年当時の愛知県の戸数は約28万戸,人口は約120万人に達し,内,士族の戸数は約1万戸でした.
うち,辛うじて食を繋いでいたのは2,200戸で,900戸は扶助を得なければ生活が出来ない状態で,困窮の度は年を追う毎に増していきました.
失業士族は9%でしたが,これに士族の家で元々働いていた軽輩の者や,地租改正により破綻した下層農民を加えると現在の失業率よりももっと高くなります.
この状態の儘,4半世紀は士族の苦境が続き,1883年には,実に35%の士族がその日の食事にも事欠いた記録があります.
ただ,何れの場合も例外はあります.
組屋敷マニファクチャーがそれで,御亭下にあった御手筒組同心組屋敷の様に,手に職を付けていた者達は見事に再起を果たしています.
例えば,新見嘉兵衛と言う同心は1827年に隠退し,以後息子の吉兵衛が家督を継いで,切米6石2人分の給与と,嘉兵衛の永年勤続手当である2人扶持を合せて実収13石2斗の身分を相続.
職芸は当初「表具師」を届け出ていましたが,1854年に「巻真」に改めました.
これは蝋燭の芯を巻く仕事ですが,表具師よりも需要があると踏んだのでしょう.
1857年になると吉兵衛も隠居して職芸に専念し,その息子嘉治に家督を譲ります.
嘉治は明倫堂出身者200余名中,只一人,同心でありながら槍術修練者の栄誉を受けたのですが,維新で出世の夢は絶たれ,嘉治も1871年12月に父の後を継いで蝋燭下地芯製造業を本業としました.
蝋燭の芯の需要は,ランプが未だ普及していない時期ですから意外にこれが当り,新見嘉治の下には,各組屋敷で製作した芯が多く納入され,嘉治は彼等を束ねて蝋燭屋として成功を収めました.
宮出町に住んでいた鈴木正春も下級家臣の一人ですが,彼の職芸は,自身の音感の良さを活かして,琴や三味線作りでした.
1859年に次男政吉が生まれますが,父親譲りの音感の良さを発揮し,1868年,僅か9歳にして尾張徳川家が編成した藩兵に英国式音楽隊を編成すると,太鼓役に抜擢され,1869年には藩立英語学校に学ぶ事を許可されました.
しかし,この英語学校が授業料を取るようになり,政吉は退学し,伯父が営んでいた浅草の塗物店に奉公に出ました.
1874年,17歳になると父親の跡を継いで三味線製造業を営みますが,その間昼は楽器製造,夜は音感を磨く為に長唄の稽古に通うなど努力の末,彼はアインシュタインをも驚愕させたという,鈴木バイオリンを興し,バイオリン製造に進出していきます.
初代義直から仕えた時計師津田助左右衛門家は,国産時計を開発すると共に,多くの弟子を育て,その薫陶を受けた家臣は,職芸として飾職を選択して,腕を磨いていました.
1880年,時計商に生まれた林市兵衛は,名古屋で初めての柱時計製造業を興しますが,その最初の職人達は,元下級武士の飾職でした.
この他,歯車製造や絡繰り機械製造にも彼等の腕が活かされています.
また,藩領となっていた木曽産の檜や椹を用いて生産されたのが,水害に備えて下捲り部分を高くし,天井,本体,上捲りの4段に分れた運搬に便宜を図った名古屋仏壇の生産にも下級家臣の職芸として,指物師,飾職,塗師,彫刻師,金物職が協働していました.
更に元藩主であった徳川慶勝も,1877年に士族婦女子の生計の一助として,自費で久屋町に織工場を設立しました.
1878年になると,明治政府が失業士族に総額100万円に及ぶ起業資金の融資を行いますが,愛知県はその内他県よりも遙かに大きな額である100万円を借り,その2割強を愛知物産組に貸し出しています.
愛知物産組は,慶勝が作った織工場で技術をマスターした士族婦女子を,この資金を用いて設立した結城縞の製織工場に織工として雇い入れ,この工場で生産した結城縞は,間もなく「国産縞」の名声を得るようになりました.
県の貸し出しは,県の衛生課長をしていた永世禄25石取りの名古屋藩士族であった丹羽精五郎も受けました.
彼はこの貸し出しを利用して,甥の丹羽正道と共同で名古屋電灯株式会社を興します.
この会社は現在の中部電力に繋がっていきます.
この他,勤皇家藩士だった奥田正香は自費で味噌や醤油の醸造業に転身し,成功しています.
絹紬の製織や木綿小倉の販売を行った興益組織工場,名古屋の道路修繕を生業とした名古屋士族性産談話会,塗箸会社,扇会社,養牛社と言った産業も下級藩士の手で次々に誕生していきます.
更に慶勝は政府に掛け合い,1878年には政府から北海道八雲に150万坪の土地の無償貸与を受ける事に成功します.
そして,15世帯61名と独身者10名を皮切りに,困窮士族を北海道に移民として送り込み,この地には後に「愛知村」と呼ばれる八雲町を誕生させました.
「士族の商法」と馬鹿にされますが,意外にも名古屋藩は士族の商法成功県だった訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/04/10 23:26
▲
【質問】
明治初期の日本の海上輸送能力は?
【回答】
さて,以前,和船の洋船擬きの話をやってた訳ですが,明治維新で西洋文物の取り入れが盛んになると,1869年,政府は西洋形船舶奨励の布告を発します.
これにより,個人で汽船業に乗り出そうと言う人々が現れる様になりました.
とは言え,汽船の購入は大きな投資になるので,実際に運航する人は,大名家の藩船を委託されたり,貸与されたりして代理で運航する形態が多い状況でした.
その最も早い部類なのが,1869年に紀州徳川家の汽船千里丸,萬里丸など6隻を借り入れ,紀萬汽船と言う名称で,神戸と横浜の航路を開設し,貨客の輸送にあたった紀ノ国屋萬蔵でした.
この千里丸は1,208トン,萬里丸は1,461トンと当時日本で最も大きな汽船で,紀萬汽船は当初大きな利益を上げていましたが,次第に航海術に優れた外国の船会社が同航路に進出すると太刀打ち出来なくなり,翌年の1870年には早くも左前となり,年末には閉業してしまいました.
汽船会社の最初は,1869年10月に設立された通商会社と言う会社で,この会社の通商丸と言う汽船は,東京〜横浜〜神戸〜大阪に就航して郵便物や貨客の輸送を開始しました.
そして,1870年11月には後の三菱の創業者である岩崎弥太郎が,土佐開成社を九十九商会と改称して,土佐山内家の藩船である夕顔丸,千歳丸,浦戸丸の3隻で東京〜大阪〜高知の航路を開設し,兵庫東出町に本拠を置いた薩摩屋は,島津家所有の元藩船豊端丸,寧勢丸を借用して,兵庫〜鹿児島の航路を開設します.
また,神戸の光村弥兵衛が,造幣寮所有の汽船運貨丸の運用を委託され,大阪〜神戸の航路を運航したほか,1872年には運貨丸の払下げを受け,更に外国商社から外輪船内灘丸など所有船6隻を持って,大阪・神戸〜高松・鞆・下関・博多・長崎を結ぶ月3回往復の定期航路を開設.
1873年,更に長崎の萩商社は,ヲテント丸で大阪〜博多間月3回往復の貨客便航路を開設します.
これは,大阪と博多の他,神戸〜多度津〜(室津)〜三津浜〜三田尻〜下関と寄港していた様です.
大阪を起点にした航路は,明治初年頃は大阪と各大名家の領地を結ぶ航路が主で,和歌山へは回運丸,岡山へは凌波丸,無事丸,徳島へは徳島丸,照天丸,高知へは九十九商会の土佐藩船,多度津へは快鷹丸,博多へはヲテント丸,長崎へは浪速丸,豊浦丸,スタンチ号,兵庫起点で鹿児島へ行く豊端丸,寧勢丸があり,和船の時代と違って,北回り航路には汽船が投入されていません.
尤も,未だ動乱の時期ですから,治安が比較的安定していたのが西日本だけだったと言う事かも知れませんが.
廃藩置県が行われ,中央集権が完成した翌年の1872年からは一層貨客の動きが活発化し,西日本航路が隆盛を迎えることになります.
岡山航路の凌波丸は,高松〜多度津〜鞆・尾道まで航路を延長し,同じく岡山航路の無事丸は今治・広島に航路を延長しました.
更に高松航路が開設され金刀比羅丸が就航,阪神間航路の白水丸は,今治〜三津浜〜上ノ関〜三田尻〜下関に航路を延長,また蒸気船ペルリン号が大阪〜神戸〜多度津〜三津浜〜三田尻〜下関へ月3往復就航するなど賑やかになっていきました.
船籍と船主の内訳は,大阪が12隻(12名),神戸が9隻(9人),和歌山,網干,徳島,高松,今治,柳井,熊本,京都など33隻,外国人所有船5隻(2名)となっています.
因みに,当時の汽船の運賃は多度津まで特等船室(家室)が1部屋6円50銭,上等1人2円50銭,中等1円75銭,下等1円25銭と結構お高かったりします.
こうした汽船の就航は,各地の観光地を活性化させました.
例えば,別府には大阪開汽船の益丸と言う汽船が航路を開設することとなります.
1872年建造の最新鋭蒸気船で,木造船,68.9トン,28.8馬力の蒸気機関を積んでいました.
この船は大阪から月1回,多度津〜鞆〜三津浜に寄港し,別府に入港する航路を取っており,これにより,別府の温泉が関西の人々に知られる様になりました.
1875年になると,別府の有志が汽船の誘致を図り,別府と大阪の間に,安全丸,満珠丸,金刀比羅丸,凌波丸(後に大分丸)が就航し,定期航路は週1便になっていきます.
この時期は,先の航路に加え,三津浜と大阪・神戸を結ぶ天貴丸(1873年就航,1874年廃航)があります.
1874年,大阪〜神戸に鉄道が開業します.
これに伴い,速度の点で全く太刀打ち出来ない阪神航路は廃止され,余剰となった船は,他の航路に振り向けられることとなりました.
こうした船には,大阪〜播磨間に就航した金星丸,大阪〜淡路間に就航した淡路丸,先ほどの益丸も転身組ですし,大阪〜徳島間航路に就航した津田丸,大阪〜和歌山間に就航した旭光丸,大阪〜豊後・南予間に就航した酒田丸があります.
この他,中国地方や九州西海岸に航路延長する船も多く,大阪を中心とした瀬戸内海の各港に汽船が就航し始めます.
特に,多度津と三津浜には水や食糧などの補給から多くの汽船が寄港する様になりました.
明治10年代に入ると,広島県内の主要な港に和船と共に蒸気船や西洋型帆船の姿が見られる様になります.
当初は鞆と広島だけでしたが,尾道,松浜(糸崎),忠海,御手洗,竹原に寄港が始まっています.
また,大阪〜岡山航路は延長され,高松に寄港する様になり,別の会社は大阪〜岡山〜高松〜多度津〜鞆〜尾道〜広島を毎月5〜6往復する定期便を開設しています.
そして,汽船業界に大きな影響を与えたのが西南戦争でした.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/07/16 22:28
▼ さて,昨日までのお復習いになるのですが,九州と阪神間を結んでいた航路の話.
明治初期には,米国の船会社が月2回の定期便を運航していました.
1869年,太平洋郵便蒸気船会社が横浜〜神戸〜長崎〜上海を結ぶ航路を開設した訳です.
その5月には戊辰戦争が終結しており,東北まで遠征していた西日本各地の藩士は,帰国に当たってこの船便を大いに利用したようです.
当時,日本人の外国船利用は乗船地で許可を受けなければならない規則でした.
因みに,1869年4月に運航された神戸〜長崎間の乗船者名簿から藩士の利用を抜粋してみると,次の様になっていました.
New York号:金沢前田家中1名,宇和島伊達家中1名
Costa Rica号:備前池田家中1名,厳原宗家中1名,高鍋秋月家中1名,金沢前田家中1名,福江五島家中1名
1870年には大阪〜博多にヲテント丸,大阪〜長崎に浪花丸,豊浦丸,スタンチ号が就航し,1872〜73年にはこれらに加えて長崎航路に運貨丸,博多航路に金刀比羅丸,白水丸が加わりました.
1873年に初めて阪神〜別府航路が開設され,1875年には博多航路に光運丸,鴻城丸,肥後航路が開設され,テボール号,長崎丸が就航しています.
日本人会社の国際航路としては,1875年に三菱商会が横浜〜大阪〜長崎〜上海に航路を開設したのに加え,未だ外地的な趣を残している沖縄についても,三菱商会が東京〜神戸〜大阪〜鹿児島〜名瀬〜那覇の路線を開設しています.
因みに,那覇航路は大阪から10日掛けて同地に赴いていた様です.
今なら,45時間で東京〜那覇を結んでいるみたいですけどね.
1881年になると,多度津,三津浜,三田尻,下関経由長崎航路とか,三津浜経由の別府,佐賀関,細島航路,別府,佐賀関経由の八幡浜,宇和島と九州各地と阪神間を結ぶ航路が多数開設され,大動脈化している事が判ります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/07/18 21:41
▲
【質問】
日本における醸造業系列の船会社の始まりは?
【回答】
酒と言えば,関西だと伏見の酒と灘の生一本だったりする訳ですが,濁り酒を清酒に変えたのが,鴻池善右衛門だとされています.
水戸黄門で必ず出てくる,手代が悪者に唆されて,灰を酒樽に入れて逃げると,実は綺麗な酒が出来ていて…と言うあれです.
鴻池家の先祖は,山中鹿之助の次男でそこから分かれが色々出て,最初は酒屋,次いでその資金を元手に,新田開発に乗り出し,その実績から,大名と取引を始め,大名貸しとして76家の公金出納を任されていました.
このため,幕府の瓦解は相当な痛手でしたが,改革に乗り出してその荒波を乗り越え,1882年には日本銀行の大株主となり,1897年には,鴻池銀行を設立し,これが1933年に第三十四銀行と山口銀行を吸収して,三和銀行,今の三菱東京UFJ銀行の前身となった訳で.
ちなみに,私も鴻池には縁がありまして….
小学校6年の時,クラスに鴻池の娘がいたんですな.
親父は,前の内閣で改革特命大臣やって郵政でドタバタしてた人です.
で,この人と私の親父が同級生,この人の奥さんが祖父の教え子だったりして,選挙の度に,「鴻池をよろしく」と,はがきとか電話が来たものです.
しかし,何でそんなエエとこの嬢はんが,公立小学校に通ってたのか頗る謎ですが….
話が大幅に逸れてしまいました.
さて,この酒を造る醸造業者の一つに,辰馬家がありました.
この辰馬家は,銘酒「白鹿」を送り出していた老舗ですが,同時に,この酒を送るための廻船問屋も営んでいました.
1818年には,年間1500樽を輸送した実績もあります.
1846年から幕末に掛け,辰馬家は千石船3隻を購入,3隻を新造して紀州の的矢湾と,相模・浦賀湾を経由して,大坂から清酒,海産物(昆布,干し魚,身欠き鰊,数の子と言った北前船で運ばれた産品),織物,雑貨を江戸に送り,帰路に米穀類,織物衣類や江戸産品を運んで,莫大な利益を上げていたそうです.
明治になると西洋型帆船などを建造して所有船を増やし,1885年には辰馬回漕店を設立,1909年には辰馬汽船合資会社に,1916年には株式会社組織に変更し,1947年に新日本汽船となるまで,ずっと続いていました.
これは今の三井船舶の源流の一つです.
ちなみに,辰馬は,灘だか甲南だか甲陽の設立にも結構絡んでいたり,阪神間の某かの動きには,辰馬が絡んでいることが多かったりします.
また,辰馬に次ぐ名門として八馬汽船という会社がありました.
こちらは,平安時代末期から摂津西宮神社の祭儀・御神幸行事の執行役となった,馬氏一族(実は辰馬もその一家で,他に音馬,一馬,七馬,八馬などがある)の出身です.
八馬家では,代々,酒米を扱う米穀商から営んでおり,明治維新を機に,多角化の一環として,海運業に進出.
西宮に籍を置いた帆前船3隻で,阪神〜品川の回漕で,阪神から清酒,味醂,油脂と言った樽詰荷と共に,赤穂の塩,神戸積石炭を送り,帰りに米穀類,衣類,絹織物と雑貨を積んでいました.
1878年には,未だ,江戸時代から続いていた灘六郷醸造新酒江戸送り輸送で,初荷の江戸到着の一番争いが続いており,八馬商店は,今津の鷲尾本家と分家の西鷲尾家の荷を送り届けて絶大な信用を得,海運会社として独立する際には,特に西鷲尾家からその資金を得ていたりする訳で.
今は,日本郵船に組み込まれて会社そのものが消滅していますが,意外に醸造業と船会社のつながりと言うのはありますね.
眠い人◆gQikaJHtf2 in mixi,2006年12月04日23:23
【質問】
明治以降の八重山移住事業について教えられたし.
【回答】
さて,江戸期の八重山は,一種の強制移住対象者の開墾地だった訳ですが,明治期以降は,暫く移住が起きませんでした.
しかし,1879年に起きた琉球処分は,本土の秩禄処分と同じく,衝撃を以て各階層に受け止められました.
この中で最も大きな影響を受けたのは,本土と同じく,首里城明け渡しで王府に傅いていた士族達でした.
彼らは本土の士族と同じく,禄を失って路傍に放り出されました.
尚氏一族は,明治政府から封爵を受けるなど厚遇されたのに対し,上級士族はまだしも,下級士族ともなると,職を失って人力車夫にまで身を落とすなど,縁故者を頼りに田舎に落ちていく他途はありませんでした.
沖縄の言葉でこれをヤードゥイ(屋取り)と言います.
当然,この日本本土政府の支配に不満を持つ者もいて,彼らは清国の救援を求め,脱清(清国に亡命)する士族もいました.
この当時,まだ清国は世界の中でも強国とされていたからです.
明治政府や置県後の沖縄県にとって,失業士族の救済問題は重大問題でした.
万一,反乱を起こされて,清国が介入してきたのなら,場合によっては沖縄の統治を諦めなければならなくなります.
その為,不満を解消する術として,授産事業をして職を与えようとしました.
特に開墾事業は,その効果が大きい所から,積極的にこれを進める事になります.
1885年,最初に久米島に於ける大原開墾が進められました.
首里・那覇士族20名,常傭夫20名,臨時の傭夫として沖縄監獄の囚人40名が入植し,甘蔗の栽培から製糖まで行う事になりました.
次いで行われたのが,1892年の石垣島のシーナ原開墾です.
これに先立ち,沖縄県は八重山の土地の貸与を禁じていたのを,1891年に「八重山開墾規則」を設けて解禁する事にしました.
これにより,この年に借地願いを出したのは18件,81人に上りました.
シーナ原の開墾面積は,52万7,809町歩,借地人は稲福政文他10名,他に西カアラ原15万町歩,借地人は首里士族の川平朝美他2名となっていました.
勿論,落剥した士族にはそんな資金がある訳が無く,彼らの背後には旧王家の華族,尚典がいました.
稲福等は借地認可を受けると,早速「移住人仮規則」を作り,此の事業の実質的な金主である尚典に納める小作料を,移住者から「地租」として徴収し,滞納者には「科料」を課すと言う,全く旧態依然の琉球王朝時代のやり方を踏襲しました.
移住者は公募されましたが,その結果,首里・那覇士族が212名,平民58名の合計270名が入植に応じました.
因みに,この首里・那覇士族の多くは,親清派の頑固党と呼ばれる人々が多く,明治になって本土支配が強化されると,居心地が悪くなって石垣島に移住した人もいました.
移住者には渡航費として102円が支払われ,1戸に附き5,000坪の未開墾地が割り当てられ,3年目から毎年砂糖を25挺ずつ納付すると言う条件でした.
その入植地には,48棟の住居が作られました.
しかし,自ら手を汚した者は居らず,新川から白保に至る9ヶ村から平民510名が動員され,家を建てさせました.
平得村からは,無報酬で働かされた事に不満が出たと言います.
また,荒地の開墾も,島の士族の青年達が動員されて行われました.
青年達は,此の奉仕作業を,旧尚王に対する忠勤と捉え,いずれ王政復古が為された暁には,その功により立身出世できるものと想わされていました.
更に,移住で来た士族達の中には,八重山の頭職以下の士族吏員を,あたかも家臣の様にこき使い,頭職以下の吏員を呼び捨てにする者もいました.
この頃,青森の探検家,笹森儀助がこの地を訪れ,『南嶋探検』の中で,こう書いています.
「人民はこれを指して,尚家の開墾は八重山住民の生き血を吸うと云う」
一種の皮肉りです.
こうして,1893年の開墾地には,士族戸数23戸,合計119名,平民戸数2戸,合計23名で,戸数合計25戸,人員136名,建屋本屋25棟,附属51棟,植付畑反別甘蔗10町5反歩,甘藷7町歩,合計17町5反歩…とまぁ,順調だったように見えますが,ここはマラリア猖獗地.
1894年の調査では,移住者289名中,移住地に留まっていたのは155名,移転者111名で,マラリアの為20〜40代の働き盛り23名が死に,57名がマラリアに感染していました.
その原因は,沖縄本島の生活様式を石垣島に持ち込んだからです.
沖縄本島では,住居と耕地が隣接し,それなりに効率を上げ成功していました.
しかし,石垣島でその方式を採ると,マラリア有病地の中に村落を形成する事になり,忽ちマラリアに感染してしまう訳です.
因みに,先住の開墾者達は,それを身を以て体験していたのか,多くの村で村落から遠距離を歩いて通耕する方式を採っていました.
また治療法も,その知識がない為,「清国派医員」の治療は怪しげで,発熱しても部屋に閉じ込め,水も与えず僅かな煎じ薬を与えているだけと言う報告が為されています.
更に開墾の結果獲れた作物でも,甘蔗から砂糖を作る製糖小屋は不完全であったり,衛生上不備があったりしてまともなものが作れず,その上,移住者は10年の期限で来たのですが,10年経つと土地との関係を失い,土地の権利も獲得できません.
となると,一体命の危険を冒してまで,この地に留まる必要があるのか,移住者は懐疑的になります.
結局,1902年にその開墾は失敗に終わり,入植者は尾羽うち枯らして沖縄本島に引揚げていくか,石垣島の四ヵ字に出て残るか,そこで商売をするかしかなかったり,本島に帰島しても,元々その地で食べていけないから移住したのであって,更に北部の山原方面に移住したりしました.
彼らの多くはその矜恃もあって,決して,自らの姿勢で失敗したとは言わず,マラリアの猖獗の所為だと話します.
その為,八重山諸島でのマラリア,所謂「エーマヤキー」は,沖縄中にその名を轟かせました.
とは言え,此の開墾に全く成果が無かった訳ではなく,西瓜やその他の野菜が本島から持ち込まれて,この地で栽培されるきっかけを作りましたし,首里系の名前を持つ神谷とか与儀と言った人々は商売を始めて定着しました.
他に,マサヤーこと玉城増英,又の名を星潤と言う那覇・泉崎の旅芸人は,人々を慰める為に石垣島にやってきて,白保に定住し,八重山民謡に舞踊の振付をして後進の育成にも励みました.
また,糸満市の平和祈念堂に安置されている「平和祈念像」を制作した日本画家の山田真山も,シーナ原開墾に来た親に連れられてやって来た人です.
因みにこの人,その後西表炭坑に売られて坑夫をしていましたが,偶々大工で来島した人に見いだされ,東京で大工修行をした後,画業を勉強し,高村光雲等に師事して,日本画家として大成した波瀾万丈の生涯の持ち主です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/10/25 22:46
さて,今日は久々に砂糖の話.
と言っても,八重山諸島からは逃れ得ないのですが….
近世,日本の砂糖の産地で最も有名だったのが,薩摩も勿論ですが,和三盆糖を有する阿波と讃岐です.
ところが近代になると,海外から安くて良質な洋糖に押され,内地の糖業は衰退していきました.
その中の1人に,阿波の板野郡で代々「阿波三盆白」を作っていた中川虎之助と言う人物がいました.
虎之助は,1882年,打開の道を探りに内国産業博覧会に出かけ,丁度その頃に沖縄から出品された砂糖黍に出会い,早速沖縄県での開拓を願い出ました.
しかし,県からの回答は,「内地人の企業は時期尚早」とされ,開墾は不許可となります.
このため,虎之助は一旦諦め,台湾やルソン,香港,広東を視察し,その後は村の村会議員をやっていたりしますが,どうしても沖縄での製糖が諦めきれず,1891年に沖縄を再び訪れて八重山での開墾を申し出,漸く許可が下りました.
丁度この頃は,先にも書いた様に,沖縄県は「八重山開墾規則」を定めて一定条件の下で開墾を許可する施策に転じ,更に,「甘蔗作付反別制限令」を廃止して,糖業振興策を打ち出していました.
虎之助の申請した土地は,石垣間切名蔵村50町歩ですが,虎之助は開墾組合を結成して申請したので,田野名義人のものも含めると90町歩になります.
当然,開墾には人手が要りますが,その人手は,地元の阿波を始め近隣の農村から90名ほどの移住者を募り,名蔵に移住者の住む建物7棟を造り,砂糖黍や芋,野菜を作らせますが,地元農民の間には他府県人の移住を好まず,屡々原因不明の出火で砂糖黍が焼けたりしました.
虎之助は更に開墾地を広げる為,東京の砂糖問屋に話を持ちかけて資金を募り,洋式製糖所の建設を目的に2,500町歩の土地の借地願いを出します.
1893年に許可されたのは1,500町歩ですが,それでも広大な土地です.
その背後には,時の県知事奈良原繁の開墾政策がありました.
奈良原は,沖縄本島の国頭村で杣山の入会権を無視して,強引に開墾を進め,住民の反発を招いていますが,名蔵でも開墾申請者に甥の久保吉之助を配するなど,利権には非常に敏感な人物でした.
この他,発起人には中央の政治家や高級官僚が名を連ねており,この動きは早速帝国議会で追及されて,申請人のうち議会で追及された4人は八重山開墾組合からの申し出で,申請人から外されています.
まぁ,今の某Oさんばりの利権臭がプンプンする開拓が上手くいくはずはありませんわな.
兎にも角にも,八重山開墾組合は,洋式農機具を導入して広大な土地を開拓し,砂糖黍を栽培し始めました.
耕作には地元の住民500名ほどを雇い入れ,使役しています.
この時に支払われた賃金が,石垣島での貨幣の流通を促したとも言われています.
それまで住民達は物々交換に頼り,わずかに役場の吏員が賃金を貰っていましたが,その賃金の大方は預金の形で記帳されていただけでした.
それに対し,開墾場での賃金は,1日で米1升分だったので,「イッシュジン」と呼ばれたそうです.
更に収穫した砂糖黍を製糖するには,旧来の製糖法では対応できないので,製糖機械の洋式化が求められ,その為の会社組織として「八重山糖業株式会社」が整備されました.
これは,沖縄県に於ける最初の機械力による製糖工場で,1895年11月に東京で設立総会が行われ,議長に渋沢栄一,大江卓を社長に据え,中川虎之助は専務になり,渋沢栄一は監査役に就任しました.
此の会社は,東京に本社を置き,八重山に支店を置く,一種の内国植民地的なやり方の最初の企業でもありました.
そして,専務の虎之助は名蔵に支店を開設すべく,職員8名,医師1名,農夫,製糖者,木挽,鍛冶,石工など15名,請負大工13名,職員の家族16名の合計44名を引き連れ,兵庫から沖縄に向かいました.
八重山糖業は,川平村と崎枝村から松500本を架橋用と工場建設用として払い下げを受け,工場を建設します.
こうして工場が立ち上がり,1896年5月から第1期の製糖が開始されましたが,白下糖70挺と黒糖12挺を試験生産したに留まりました.
丁度その年,八重山近海で豊州丸と言う船が座礁したので,これ幸いとその船の汽罐を買収して工場の動力に据えています.
八重山糖業は2期目に入り,更に開墾を強化する為,内地から農夫を中心に246名を入植させました.
丁度,日清戦争後の不況期で,農村は疲弊しており,結構な人数が海を越えてやって来ています.
殆どは四国出身者ですが,中には小笠原とか伊豆大島から来た人々もいました.
名蔵御嶽には20軒ほどの集落が出来,製糖工場4棟,農夫舎14棟,炊事場2棟,病院2棟,厨2棟が出来ていますが,この地も同様にマラリアの猖獗地で,入植者の中から僅か1年で10名の死者を出し,36名が解雇され,12名が郷里に引揚げています.
相当過酷な環境にも関わらず,それでも製糖は白下糖3万2,637斤が生産されました.
しかし,洋式製糖機が入って居らず,生産の拡大にはそれが不可欠でした.
虎之助は洋式製糖機を方々に探し,遂に紋別の製糖工場で使われていたフランス製機械が不振の為,東京に解体され持ち込まれていたのを購入しました.
ところが,この機械は輸送中に台風に遭い導入は失敗に終わってしまいました.
因みに,この機械は後に台湾製糖に買収されたと言います.
洋式製糖機の導入に失敗した八重山糖業は,労賃暴騰の為に,農場を直営方式から小作方式に切り替え,1897年6月にこれまでの300人余に加えて,農夫55名,家族34名,煉瓦職人,製糖技師,桶屋,左官など355名を呼び寄せますが,このうち解雇70名が出て差し引き331名となります.
こうして,青息吐息ながらも何とか持ち堪えていた八重山糖業に再び試練が訪れます.
八重山諸島と言えば,台風の通り道です.
11月3〜4日にかけて,風速70mと言う猛烈な台風がこの地を襲いました.
このため,製糖工場4棟は全壊し,家屋39棟,伝馬船3艘が破壊されて,当時の金で被害金額は27,470円と膨大なものに達しました.
このため,本社で臨時総会を開いて資本金を20万円から30万円に増資しますが,丁度この頃金融事情逼迫と重なったので資金調達は困難を極め,台風の復旧作業で満足な工場稼働が出来ず,製糖高は28万707斤に終わり,その品質も極めて悪いものでした.
その上,1898年6月には再び台風がこの地を襲い,農夫舎,畜舎に被害が出て,完全に止めを刺されました.
8月,臨時株主総会が開かれ,鳴り物入りで設立された八重山糖業株式会社は,解散となりました.
名蔵支店は専務の虎之助に委託され,彼は石垣島に出向いて支店整理に着手しました.
虎之助は,会社から解雇された職員労働者約80名を新たに雇い入れ,甘蔗畑96町歩を分作させています.
その他の人々は,故郷に戻る人もいれば,更に一旗揚げようと中国や台湾に渡っていった人もいました.
1920年頃にはその数は30戸,69名に減じていますが,石垣の四ヵ字に出て商売を始めた人々もいます.
大坪,井上,仁開,清水,三宅と言った姓の人々がその末裔です.
虎之助はと言えば,台湾に渡り,台南で中川製糖所を設立して再起.
台湾総督府から和白糖製造業及び模範蔗園建設費補助4万円を得て,新しい植民地で再興しました.
そして,1908年には衆議院議員に当選し,砂糖消費税法改正などで活躍して,「砂糖代議士」と呼ばれました.
また,虎之助が去った後の名蔵開墾場300町歩は,「琉球王」と呼ばれ,絶大な権力を行使していた時の県知事,奈良原繁の手に落ちます.
奈良原は,この開墾場を手先の名義を使って買い取らせ,今度はこれを横浜の砂糖商に売りつけて莫大な利益を上げました.
そして,奈良原が手にしたのは当時の金で1,500円から2,000円ともされています.
いつの世も,利権が関わると政治家達が暗躍するというのがよく分る構図ですよね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/10/26 22:52
さて,八重山諸島に来たのは,農業をしに来た人々だけではありません.
周辺は豊かな漁場なので,当然のことながら,漁民達も多くやって来ています.
その多くは糸満漁民で,彼らは,別名を「海の遊牧民」と呼ばれていました.
八重山に於ける,糸満漁民の移住は1882年に親子2人の漁民が借家に来て漁労販売をしたのが始まりで,それから,糸満の人口が増えてそこでの漁労で食えなくなった人々が,新たな漁場を求め,サバニに乗って八重山にやって来ました.
彼らの多くは,まず囲い込み漁を行っていましたが,次第に海人草と呼ばれる回虫駆除の煎じ薬の原料の海草類や,夜光貝や高瀬貝と言った貝類の素潜り漁に移行して行きます.
夜光貝はそのうち乱獲で数が減り,それだけでは食べられないので,家族を呼び寄せ,男衆が漁場に出て捕ってきた魚を,女衆が町に売りに行くという役割分担が出来,石垣島で定住していきました.
夜光貝に次いで,海人草,海鼠の海参,鱶の鰭や鯣烏賊など多様化していきますが,20世紀に入ると,鰹に注目が集まりました.
1905年から1907年にかけて,糸満の漁船が進出し,釣り竿鰹漁が開始されたのが始まりです.
1907年に八重山に於ける漁民数は411名,戸数269戸で,鰹漁船は12艘,サバニと呼ばれる刳船が411艘でした.
当時,沖縄全体での鰹漁船の数は71艘ですから,八重山の鰹漁船の数は結構な比率になります.
1908年には,噂を聞きつけて,宮崎の漁船もやって来ました.
宮崎は目の前の日向灘が黒潮の本流であり,早くから鰹漁業が栄えていました.
そして,明治になると黒潮を遡る南方漁業にも早くから進出しており,八重山はその延長線上にありました.
1910年になると,八重山に鰹節製造業者が進出し,その半数近くは宮崎出身者になっています.
そして,7〜11月までの鰹節製造は,10万1,522斤に達しました.
漁船も1909年に,照屋林顕が補助機関付漁船の「照島丸」を建造したのを皮切りに,次々と近代的な新造船が進水し,照屋は石垣島の字登野城に造船所を構えました.
1912年の鰹漁船は25艘,うち汽船が1艘,帆船10艘,石油発動機船14艘という状態でした.
鰹節の製造は,宮崎組が18,000斤,坂田組30,000斤,玉城組15,000斤,元見組13,000斤で,八重山の鰹節生産合計は28万2,283斤となり,沖縄全体の25%を占めています.
しかし,水揚げは増えたものの,生産が追いつかなかったり,品質の低下が見られた為,字新川に鰹節削り伝習所が設置され,15〜30歳の男女を対象に半年の研修を実施したりもしています.
大正に入ると,船主,漁業者,餌取,節製造と分業化が進み,1916年,船主は八重山鰹漁業同業組合を結成してそれに20名が参加しました.
ここでは,一旦解雇した漁夫や機関士,製造人を雇用する時は,前雇用主の承諾を得る事や,職人や漁民の裏での奪い合い防止,漁夫の賃金のカルテルの締結などが行われました.
それに対し,漁民達も1917年に八重山鰹漁組合を結成し,漁夫が複数の船主と契約したりしないよう「カツオ漁従事者手帳」を発行するなどして,従事者の利益を計るようになります.
当時は第一次大戦時の好景気でもあり,節削り工が船主と雇用契約を交わしたのに,台湾の景気が良いと言って,一方的に契約を破棄するなどの事もあり,業者間の競争が激しくなってきたのもあります.
しかし,八重山の鰹節製造は,産業としては大きく発展しているにも関わらず,それから受ける利益は微々たるもので殆どが島外に持ち出されていると言う,植民地的な収奪問題がありました.
台湾で失敗した人々や県外から来た人間が,あたかも八重山を占領地や植民地と同じように「ふんだくり主義」を発揮していると言うのが島内の人々の意識にあったりします.
それが最も現れたのが,与那国島で発覚した,発田鰹節企業による「私造金券発行事件」でした.
これは与那国島の久部良で鰹節製造を大々的に営んでいた宮崎県出身の発田定彦と言う人物が,金額記入の切符を発行して紙幣類似証券取締法違反に問われた事件です.
この事件は,1932年7月17日の与那国村議会で村政改革派の仲里義市議員が「与那国島で発田鰹節企業が『私幣』を作って,働いている人たちの労賃として配っていると聞くが,事実か」と質問.
これに対し,村当局がその事実を認め,「税金に入ってきたので,受け付けられないと現金に換えさせた」と答弁し,仲里議員が「これは村民の経済生活を脅かす重大事件だ.適当な方法を講じて貰いたい」と要望.
八重山署も取り調べを開始し,驚いた発田鰹節企業は,8月にその金券を全て現金に換えたと言うものです.
「金券」とされたものは10円が160枚,20円が70枚,100円が20枚の合計5,000円分で,税金として村役所に流入した事,紙幣同様に使われている事,商品購買券として流通している事が判明し,八重山署では紙幣類似証券取締法違反として県へ詳細報告をしています.
因みに,この発田と言う人物は,八重山水産業界の立志伝中の人物で,宮崎から八重山に来て,鰹節製造を始め,久部良の工場には大きな煙突を持つ鰹節工場や大きな倉庫などがあり,それらは「東洋一」とさえ言われており,「日向丸」と名付けた鰹船を1〜22号まで所有していた八重山の大立者でした.
この頃から本土の恐慌がこの辺りに押し寄せ,1924年に60艘あった鰹漁船は1932年には32艘にまで減っています.
鰹節の相場は3分の1に下落し,販売力の減退に加え,この頃から値段の安い南洋節が出回るようになり,日本産は売れずに,大量の在庫が京阪地方の倉庫に山積みされています.
この原因として,鰹漁業者が経営資金を高利貸に頼って経営悪化を招いている事,餌を稚魚の時から捕獲しているので水産資源が年々減少している事,他府県の大型漁船が近隣漁場に進出して根こそぎ水産資源を捕ってしまう事,不況の影響,南洋節による生産過剰が挙げられます.
一旦,1938年頃には42艘にまで持ち直しますが,日中戦争の輸入規制で資材の購入に支障を来し,応召兵の増加による労働力の確保が難しくなり,更に太平洋戦争になると,「水産報国」の名の下で鰹節を軍に安価な価格で納品する事が義務づけられ,経営が更に圧迫されます.
その上,漁船の多くは徴用され,戦災で失われました.
戦後は県外から来ていた船主や漁業者が本土に引揚げた為,再び地元民の手に戻りますが,結局,1983年頃に全て廃業してしまいました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/10/27 21:45
【質問】
琵琶湖運河計画について教えられたし.
【回答】
日本海と京都,大阪を最短で結ぶ為には,江戸期には北前船で敦賀に到着し,其処から荷物を人の背に載せて,街道を下ると言う方法が採られました.
所謂,鯖街道と呼ばれ,何度か村おこしの題材に使われています.
…とすれば,敦賀から運河を開削して,琵琶湖を経て,淀川を下れば,日本海からの物資が最短距離で京都や大阪に齎されるのではあるまいか…そう夢想した人達が過去にいました.
1872年,吉田耕運と言う人は,
「国防上及び殖産上共に有利有益にして国家将来の為め,最も緊要なること」
と自認し,その人生をかけて琵琶湖運河の実現に奔走します.
その甲斐あって,1894年からは海軍も琵琶湖運河の実現に向けた研究を開始し,1901年には滋賀県会で内務大臣と貴族院に請願を行うことに決し,1905年にはその請願が貴族院で採択されました.
しかし,時は日露戦争の直中で,戦費の捻出に力を注いでいる時に,こうしたプロジェクトを興す体力は日本に無く,結局,この計画は頓挫しました.
その耕運亡き後,遺志を継いだのが憲兵大尉として陸軍に奉職していた吉田幸三郎です.
彼は,1923年に『阪敦運河開鑿』の提案を行いました.
彼の計画は,大阪から淀川の一部を利用し,琵琶湖を経て敦賀に抜ける運河を開鑿し,敦賀と琵琶湖の高低差を解消する為に,途中にパナマ運河の様な閘門を設け,3,000トン級の商船,4,000トン級の軍艦を通航させようというものでした.
彼の提案で雄大なのは,閘門の数を少なくする為に,琵琶湖の水位を現状より43m低く,海抜41m強に下げようとした点です.
つまり,琵琶湖の面積を半分にして,残りを干拓地にしてしまうと言う,今から考えれば乱暴な提案.
これを行えば,閘門は3カ所で済みますが,堀割の工事費用が嵩みますし,高低差が小さくなるので,琵琶湖を利用した水力発電所の発電量に影響が出ます.
一方,面積をそのままにした場合は,閘門は6カ所に増えますので,通過時間が掛ります.
この運河開鑿の効果としては,先ず日本海沿岸都市(小樽,元山,清津など)と神戸,大阪を結ぶ交通線が短縮出来ます.
例えばウラジオストクと大阪の間は,850nmが550nmとなり,その時間は,閘門通過の待ち時間を考慮しても1日以上短縮出来るとしていました.
次に,敦賀側に放水路を設けて,現状の6倍半の水を流し,水害から農産物や家屋の被害を除去する事が出来るとしています.
これにより,年平均140万円の被害を食い止めることが出来,其の分生産額が増えると言う訳です.
三点目は,琵琶湖を半減することで,新たに34,836町歩の干拓地が生まれ,新しい農地が確保出来,国内の食糧不足(米輸入は,1919年で1億7千万円分に達していた)を解消出来るとしています.
この琵琶湖干拓地の他,工事で生じる土砂を用いて,大阪湾,敦賀湾,巨椋池の一部を埋め立てることで,新たに農地や市街地,工業地を確保出来るとしていました.
更に,運河を利用して発電事業を展開したり,沿道の地価高騰を指摘し,総工費4億円,完成期間10年でも,新たに得られる土地の評価額が2億2,363万円,沿線地価の上昇,農地の収穫高,運河での漁獲高,船舶通過税,水力発電事業などで,年の売上が4,937万円,経費を差し引いても純益は2,468万円ですから,総工費は10年程度で償還出来るとしています.
ただ,これを実現したとしても,通過可能船が小さいので,あまり効果がなかったも知れませんね.
1933年には琵琶湖疏水を実現させた土木技術者である田邊朔郎が,琵琶湖大運河構想を発表しています.
彼の場合は,通過可能トン数を1万トン級の船とし,敦賀〜近江塩津〜琵琶湖〜宇治・巨椋池〜大阪湾と言うルートを通すものでした.
敦賀と近江塩津の間には6カ所の閘門を設けて高低差85mを調整し,宇治川から淀川を経て大阪湾に流れていた流れを堰き止め,全ての水は運河を経由して敦賀湾に落とします.
これにより淀川を廃川とし,その川筋に3カ所の閘門を設けた大運河を建設,木津川から淀川に流れ込んでいた水は,新たに排水路を建設して枚方,大阪市南部から大和川河口の北側に流し込み,鴨川や桂川から淀川に流れ込む水は,神崎川に流し込む付け替え工事をする,と.
この工事は期間10年,総予算5億7,600万円の工事で,この費用捻出の為に,廃川とした淀川河川敷に大運河を軸とする帯状の工業地帯を設けるとしています.
淀川には洪水対策の為に遊水地となっている部分があり,この面積は枚方以西でも476万坪もありました.
これらに工場を建設すると,工業用水は目前の運河から取水可能ですし,排水も目の前に排水すれば良く,物資も目の前の運河を通って来るし,出せるので,理想的な工業地帯となり,地価が75円程度でも,総資産は1億6,000万円に達し,回収はあっと言う間に出来ると言うものでした.
但し,この案は一つ目を瞑っていた部分があり,吉田案の大陸との時間距離短縮という面は余り効果がありませんでした.
これは閘門の数が多く,それを通過するのに時間が掛る為,夜間運行でも短縮時間は僅かに数時間でしかありませんでした.
寧ろ,内陸工業地帯が整備出来るという側面に重点が置かれた訳です.
とは言え,これだけの資金を投じて効果のある事業であるのかは不明で,もう少し現実的な案として,田邊案を基に,谷口嘉六と宮部義男の共同案では,敦賀湾まで運んだ荷物を艀に積み替え,その艀をインクラインで陸上に引揚げて台車に乗せ,其の儘貨物列車として運行,塩津港で再び湖上に浮かべ,曳船で曳航して,琵琶湖沿岸各地に運ぶと言うもので,工費は900万円とお安くなっています.
しかし,この提案にしても,積み替えて艀に乗せるのであれば,港で貨物列車に載せ替えるのと何がどう違うのか,余りメリットが見いだせません.
今となっては,技術者の夢想,オナニーに過ぎないものではなかったか,と思ってみたりして.
でも今,こんな構想をぶち上げたら,それこそ環境保護団体から袋叩きに遭いますわねぇ.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/03/20 21:12
【質問】
明治初期の鹿児島の初頭教育情況は?
【回答】
さて,鹿児島には「私学校」と言う学校がありました.
これは,西郷隆盛が征韓論に敗れて下野して帰郷した後,1874年6月鹿児島城旧厩跡に設立した兵学校で,学校は銃隊学校と砲隊学校からなります.
銃隊学校は旧近衛兵を収容し,500〜600名の生徒を,篠原国幹が監督し,砲隊学校は旧砲隊出身者約200名を村田新八が監督しました.
この他に,賞典学校と吉野開墾社がありました.
前者は西郷等の賞典禄を元に設立された士官養成学校であり,吉野開墾社は鹿児島郊外吉野で農事の傍ら学業を履修させました.
私学校の経費は,西郷に協力した県令大山綱良によって県費から賄われたと言われており,私学校の人材は県内各地の区長,副区長に採用され,警察官も私学校派が多く採用された為,県内の行政,警察権は私学校派によって占められることになります.
また,私学校の分校が旧城下を始め,各郷に設けられ,136カ所にも及びました.
つまり,士族に対する教育体制と言うのは,鹿児島では充実していた訳です.
因みに,西南戦争はこの私学校が主導勢力となって起こされ,戦争中は県庁が西郷軍の兵站部と化していたと言いますが,結果的に西南戦争の敗北に伴い,私学校は僅か3年で消滅する事になります.
ところで,前にも京都の話で少し触れたように,1872年から国民皆教育を目指して,小学校教育がスタートします.
実際には,明治政府の新教育制度は,江戸期まで庶民教育を担っていた寺子屋的遺産を継承したのが実情だったりする訳で,先述の様に,平民層に対する教育施設が殆ど無かった鹿児島県が,「学制」によって大きく変化した訳でもありません.
教育施設,人員,敷地,建物,教師の不足は言うまでもなく,庶民教育に対する上層部の認識には他の府県とは大きく違いがあります.
加えて,子供を小学校に通わせる義務を負わされた親にも,多大な学費支出を求められるという経済的負担がありました.
この当時の学制は,全国を8大学区,1大学区を32中学区,1中学区を210小学区とすることになっており,全国に小学校が53,760校設置する事になっていました.
当時の人口で割ると,約600名に1小学校という割合です.
ただ,先述の様に寺子屋の再編が殆どだった為,1875年に24,225校と数だけは増えたものの,教育内容は江戸時代の儘で,新時代の教育とはマッチせず,当時の国民生活の現実とはかけ離れていたことから,1879年には各地方で自由に学制を設定することになり,1種の自由放任主義になります.
一応,義務教育が初めて謳われたものの,4年の内,最低就学期間を16ヶ月とすると言うもので,全国的に大混乱が生じ,その反省から,小学校教育に対する政府の監督責任が強調されるようになりました.
結果,1886年に文部大臣森有礼の下で,学校令が公布され,教育政策が再び転換されることになります.
ちょっと先走りましたが,1874年の『文部省第二年報』によると,当時の就学率は矢張り筑摩県(長野県)が多くて65.95%に達し,次いで飾磨県(兵庫県)の62.78%,岐阜県が59.50%で3位,東京府(東京都)が57.75%,以下浜松県(静岡県),静岡県,長野県,奈良県,京都府までが就学率50%を越えている府県です.
一方で,鹿児島県は相変わらず,最低で7.1%にしか過ぎません.
因みに,全国平均は32%余ですから,その4分の1以下です.
これは藩政時代の苛斂誅求や愚民政策により,平民への教育政策が全くと言って良い程無されなかったのが最大の理由です.
また,全国に先駆けて廃仏毀釈が吹き荒れたことにより,多くの寺院が毀されて,他の地域で多くの場合,地域教育を担っていた寺院が全く機能しませんでした.
従って,教育施設も足りない状態だった訳です.
更に,西郷隆盛が征韓論に敗れて下野した後,鹿児島県は明治政府に対して独立政権を構成したような状態であり,明治政府が採用した開明的な政策に尽く反発し,明治政府の施策がそのまま受け容れられる状態ではありませんでした.
西南戦争まで士族禄制を改めず,地租改正も行わなかったのがその証左の1つです.
当然,学制に対しても例外ではありません.
しかも,僅か7.1%の就学児童も,内訳では97%が男子児童で,女子児童は3%程度しかいません.
しかし,女子児童だけを見ると,学齢に達している女子児童の内,就学している児童の比率は0.5%にも満たない,つまり,女子児童は全く就学していないと言っても過言ではありませんでした.
鹿児島で教壇に立った旧長岡藩の人の批評では,まぁ,朝敵にされた怨みもあるのかも知れませんが,児童教育の世界だけで無く,郵便物の発出数,新聞・雑誌の発行,講読,配布も全国最低位にあるなど,1877年に西南戦争でに敗北するまで,鹿児島の文化はずっと停滞し,しかも尚武が偏重される一面で,学業については家庭が無頓着である事から,論理的思考が全く出来ない一種筋肉馬鹿状態になっていたりしています.
既に時代は軍人と雖も,学術が必要なのにも関わらず,そう言った観点が全く無いと手厳しく批判されていたりするのです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/08/03 23:19
青文字:加筆改修部分
【質問】
明治維新以後の西陣職による殖産興業について教えられたし.
【回答】
1870年3月,つい最近まで連綿と続いていた首都だった京都は,遂にその座を明け渡すことになります.
そうなると,京都は何に依って立っていくべきか,それを懸命に求める事になりました.
先ず府は,当時の工業先進地であった長州に範を求める事にしました.
長州を選んだのは,木戸孝允,広沢真臣等と言った京都に縁のある名士や槇村正直,国重正文と言った府庁の官僚にも長州藩士が多かったのも原因です.
江戸末期,佐賀,薩摩,水戸などの諸藩は,挙って洋式の工業技術を研究しました.
長州藩では,藩校明倫館の教科内容に西洋学,それも実地に活用出来る技術学を組み入れました.
特に1860年,明倫館学生の北条源蔵が幕府使節随員として渡米したのを機に,彼の帰国後は蘭学に加えて英学に力を入れ,1864年以降は英国人教師まで雇っています.
また,明倫館の門戸を開放し,藩外への遊学を奨励したので優秀な人材が出現,小野為八は長崎で電気,写真の技術を習得,中島治平は長崎で羅紗織り,羊毛染色を研究,藩への土産としてフランス製の蒸気機関車模型を持ち帰ったりしています.
こうした人々の努力が実って長州では,1858年に火薬製練所,1866年からは舎密局が稼働を開始しています.
基本的にこうした工業の研究は,軍事目的が主だったのですが,民需に応える産業の育成も目指していました.
中島治平の主張は,「洋式工業の力で優れた商品を量産し,これを藩外に売って国(長州)を富ませるのだ.鉄砲を作って売っても良い」というもので,これは後に明治政府で殖産興業の基盤になったりします.
兎に角,中島治平の主張で,長州では軍需とは直接関係の無い硝子や薬品などの工場が建設されました.
この長州方式を採り入れ,京都府は,舎密局,製糸場,伏水製作所,製紙場と,次々に新鋭工場を作り,こうした工業を統括する目的で,全体を統括する勧業場を河原町御池下ルの長州藩邸跡に建設しました.
京の伝統的な産業としては,応仁の乱で山名宗全が本陣を構えた地を由来とする,京都府上京区の西陣で,乱終息後に生まれた西陣織は,京都を代表する伝統高級織物として内外に名声を博していました.
ところが,幕末,西陣織は生死の岐路に立っていました.
江戸中期以降は粗製濫造で信用が失墜し,他産地の勃興,それらが安価且つ品質が良く希少性が薄れたこと,天保の改革以後に度々出された奢侈禁止令による売上の急減などで,ジリ貧状態だった上,幕末の動乱で商品の流通が滞り,都が戦場となって工場が焼失したり….
また,今までお得意さんだった武家屋敷が総て閉鎖され,宮廷や上級公卿も総て東京に行ってしまった事,更に打撃を与えたのが,開港で輸出の主力商品となった原料生糸の暴騰でした.
この為,当事者の京都府は,如何に西陣織を泥沼から掬い上げ,一本立ちさせるかと言うべき施策を打ち出さねばならなくなります.
先ずはカンフル剤として,1869年春,小前引立掛を困窮職工の保護救済に当たらせる一方,11月,油小路上ルに「西陣物産会社」を設立して,総合的,合理的な生産計画に基づく価格統制,販路拡張,海外宣伝等を目指しました.
因みに,「会社」と言っても,当時は会社法などは無く,府主導の業界指導機関と言うべきものです.
そして,この時に加盟機業家を製品種別によって18の「社」に分けて,「社」毎に個別指導するというシステムを作り上げます.
当時の「社」は,金襴,博多,繻子,夏衣,真名帯,綸子,縮緬,羽二重,古帯,練絹,袴地の一種である精好,絵絹,薄物の一種である綟子,木綿,天鵞絨,博多風帯地である真田,模様となっています.
こうして業者を整理した後,次に府庁が行ったのは,狭い日本国内のみをターゲットとするのでは無く,全世界を顧客としなければならないと言う考えの浸透でした.
その為には,先進地の技術を学ぶ必要があると考えました.
そして,府は西陣職工達の中から選考して,彼らを織物業の先進地の一つであったフランスに留学させることを考えます.
最初は,西陣大宮通五辻上ルに店を構える織元で,西陣物産会社の肝煎でもあった竹内作兵衛と言う人に,留学職工の人選を依頼しますが,何しろ今と違って,フランスは非常に遠く,生きて帰れるかも判らない場所です.
誰も希望者がいないので,肝煎り自らの指名で,自分の所に奉公していた佐倉常七,染色にも強い井上伊兵衛,機械に興味があった吉田忠七と言う3名を選出しました.
1872年6月,佐倉等3名は,技術習得の他に,現地で新鋭織機購入を託されました.
そして,この大役に際し,16箇条にも上る長文の「請書」を提出させられたと言います.
この「請書」,内容は具体的で金銭の事から生活態度までを規制した厳しいものでした.
これは一方的に渡された「留学心得」とも言えるものです.
府は3名に対し,機械購入費として1,000ドル,8ヶ月間の滞在費など2,400ドルを為替で送金し,他に往復船賃3,000ドルを手渡ししています.
当時のドルレートは1ドル=1円だったので,計6,400円,余り換算しても意味が無いですが,当時1円で米が5斗,つまり70キログラム買えましたから,6,400円ともなれば,一生遊んで暮らせる位のお金です.
この他,西陣物産会社が加盟機業から集めた餞別が73円87銭と扇子,団扇,煙管などの贈答用品がそれぞれ100点となっていました.
1872年11月15日,いよいよ3名の男達は米国船に乗り込み,神戸を出港しました.
当然,元々職人だった為に,彼らは一切フランス語が出来ず,1日だけ仏学校教師のレオン・ジュリーに簡単なフランス知識を聴いて,レオン・ジュリーが知り合いのリヨンの絹職工であったジョールス・リズレーなる人物に宛てて書いた紹介状のみが頼りの綱でした.
因みに行きの船中では,東京府知事の由利公正が乗り合わせていましたが,
「俺の経験じゃ,通訳無しなど考えられぬ.次の港に着いたら帰国しろ」
と親切なのか何なのかよく判らないアドバイスを貰いましたが,既に餞別まで貰っている身.
3人とも丁寧にその申し出を断ったと言います.
55日の航海後,やっとフランスのマルセイユに辿り着いた一行は,何処をどう通ったのか不明ですが,兎も角リヨンまで辿り着き,伝手を求めてリガール絹織工場に通って実地勉強を始めました.
そして,8ヶ月の修業の後,染料の研究をしたいという吉田忠七をリヨンに残し,1873年12月16日,晴れて横浜港に帰ってきました.
そして,彼らが購入した洋式織機のジャガード織機など数種の機械も1874年2月20日,西陣に到着しました.
ところで,吉田忠七,研究の一段落を機に帰国しようとフランス船に乗り込みましたが,1874年3月20日,故国の地を目前にした1874年3月20日に,伊豆国賀茂郡入間村沖合で船が座礁して沈没,同船者90名と共に水死しました.
折角の研究の成果が活かされること無く終わったのですが,西陣の技術革新の第一歩はこの留学から始まりました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/05/28 23:39
青文字:加筆改修部分
西陣の職工2名が帰朝した折に買い求めたフランスのジャガード織機は素晴らしい性能を持っていました.
それまで,西陣で使っていた空引機が2名操作だったのに対し,ジャガード織機は1名で済み,スピードは4倍,そして出来た製品は精密巧緻,と言う訳で,1874年3月に京都御所で開催された第3回京都博覧会に出展されると,その実演に観衆は目を見張ったと言います.
これを齎した,佐倉と井上の2名は,この年6月,府が河原町二条下ルの角倉邸跡地に開いた織殿工場でジャガード織機による新しい紋織技法の指導を始め,1875年1月,両人は府より「織工場教授人」と言う肩書きを貰いました.
なお,織物技術研究の為に渡欧した技術者は,佐倉等3名だけではありません.
1873年1月末には,彼等府の動きとは別に,西陣の機業家伊達弥助とその手代早川忠七が,大隈重信を総裁とするウィーン万国博覧会視察団に加わって渡欧し,2年間掛けて各国の先進技術を研究していますし,1877年11月には仏学校教師レオン・ジュリーが帰国する際,各界から8名の留学生を選抜,その1人が西陣の近藤徳太郎は3年半,パリの織物学院に学んで帰国し,その後の西陣の技術指導に大きな貢献を果たしました.
時に,最初の頃,ジャガード織機は鉄製で,しかも高価だったので,西陣の人々もおいそれとは買えず,織殿工場にあるのが総てでした.
一方で,それを普及させようと苦労を重ねた1人が,西陣の機大工であった荒木小平でした.
荒木は1876年,佐倉と井上が持ち帰った鉄製ジャガード織機を研究して木で模造し,1877年の第1回内国勧業博覧会で受賞を得ました.
この木製ジャガードは十分実用に耐え,1878年以降西陣の美術織師であった佐々木清七は,この木製ジャガードを活用して名作を織っています.
勿論,鉄製ジャガードの国産化も研究され,府営伏水製作所では,フランス並の鉄製ジャガードを製造しており,紋織用に,ジャガード織機を10台生産して,480円で売った記録が残されています.
因みに,ジャガード織機は日本に導入されると,手先の器用な日本人は忽ちこれを国産化し,今までの空引機を過去のものに追いやってしまいました.
以上の様に,海外の技術を導入して生産工程の近代化を図った西陣織でしたが,流通部門では近代化に失敗してしまいます.
折角作った西陣物産会社ですが,その後予定通りには運営が進まず,生糸値の変動や,因習への執着などが相まって業界は混乱し,再び粗製濫造が横行する様になりました.
この為,府はこの物産会社を解散させ,1877年6月15日,上京智恵光院通一条上ルに新たに西陣織物会所を設立しました.
そうして,従来18あった「社」を整理して,紋織,生紋,羽二重,繻子,縮緬,博多,天鵞絨,木綿の8部門に整理,全業者に責任を負わせる為に営業鑑札を,織物業者1966,仲買231に配布しました.
更に,粗製濫造に陥った点を反省して,製品検査を厳重にし,製品に製造者の住所,氏名を明記した証紙を貼る様にしました.
証紙は,純絹製品には「正品」と書いた赤い紙,擬絹物には青い紙を用いて,その貼付が無いと販売できないようにしています.
この証紙制度はその後も続きましたが,これが西陣の粗製濫造にどれだけ効果があったのかはよく判りません.
因みに,この西陣織物会所は,1885年4月に「西陣織物業組合」に改組されるまで続きました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/05/29 23:26
【質問】
明治維新後の京都における,その他の殖産興業の試みについて教えられたし.
【回答】
ところで,明治一桁年代,京都府の役人は,旧都再建を旗印に掲げ,その実現に邁進します.
1869年10月に童仙房開拓,1870年11月に授産所を設置,12月には舎密局,1871年1月に製革場,2月には勧業場,1872年2月に牧畜場,4月に養蚕場,1873年2月に製靴場,4月に栽培試験場,6月には製糸場,10月に伏水製作所,1874年9月合薬会社(アポテーキ或いは製薬局),1875年3月に化芥所,1876年1月には梅津製紙場と矢継ぎ早に殖産興業を興していったのです.
1868〜70年にかけては未だ戊辰戦争の余韻が燻っていた時代であり,しかもこの1868〜69年は日本列島全体で大不作となっており,特に京都は周辺部から来た農民や府内の貧民が群れを成して彷徨っていました.
1868年11月には市中4箇所に「流民溜場」を設けて難民を収容,現場奉仕のボランティアや金穀の提供を広く府民に呼びかけています.
この為,先ずは開墾や授産と言った難民救済事業を開始したのです.
その後,世の中が落ち着いてくると,授産場を発展させて府の産業センターである勧業場を設置し,近代産業の研究機関として舎密局を開設,その舎密局での研究成果を活かし,伏水製作所,合薬会社,化芥所,梅津製紙場等の近代的工場群を建設すると共に,自給自足の府民生活向上を目指した産業施設である製革場,牧畜場,養蚕場,製靴場,栽培試験場,製糸場の設置と目的を持って政策を進めていきました.
最初の童仙房と言うのは,現在の相楽郡南山城村北大河原集落から北へ4km行った所に有る,東西6km,南北5.8kmの高原地であり,無人と荒蕪の為,どの大名領にも属していない無税地となっていました.
そこで,府はこの地に小屋を建て,農具や食糧を置いて窮民から入植者を募り,1869年12月から先ず300名を送り込みました.
その後,順調に開拓が進み,1871年6月には入植農家162戸,人口560名となり,耕地は250町歩にも達しました.
更に人口増加の勢いは止まらず,次第に社寺や学校,郵便局が設置され,警察分署や果ては府支庁まで建設され,旅館や飲食店は大賑わいで,一時期は新興の町として大いに盛り上がりました.
もし,この頃に鉄道が敷設されたり,馬車が行き交う様な交通網の整備が為されたら,現在は更に発展していたのかも知れませんが,交通は江戸期の儘,全然改善されずに不便なものであり,府の北部という寒冷すぎる気候,その上,極端な地味の悪さが相まって,収穫が次第に減り,労働意欲を減退させて退去する住民が増え,遂に1877年には元の荒蕪高原に戻ってしまいました.
正に,強者どもが夢の跡と言う状態です.
もう1つの救済事業である授産所は,中立売通智恵光院東に新築され,1870年11月4日に開所しました.
これは娼妓解放により失業した花街の女性達を対象にしたもので,風俗営業の店から税金を取立て,その費用を授産所の費用に充てようというものでした.
所内では紙漉き,養蚕,裁縫と言った技術教育を行い,得た労賃は授産所で積み立てておき,25円に達した所で就業資金として,本人に渡して退所させると言う合理的な仕組みでした.
しかし,これも理想と現実にギャップがありすぎ,1874年末現在の数字では,それまでの入所者217名に対し,無事に退所したり復籍したのは72名にしか過ぎませんでした.
この施設も結局,1883年2月に廃止されました.
とまぁ,折角志を以て作った官業も惨憺たる結果に終わっているのは,何時の時代も変わらないのかも知れませんが,もう少し,他の事業も見てみたり.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/05/29 23:26
青文字:加筆改修部分
さて,京都府では国の殖産興業に先駆けて様々な事業を興しましたが,そのどれもが殖産興業の大多数のものと同じくものになっていません.
童仙房開拓もそうですし,授産所もあまり効果がありませんでした.
舎密局は,府勧業掛出仕明石博高の進言で1870年12月22日,河原町御池の長州藩邸跡に開所しました.
明石はそれより前に開所していた大坂舎密局の薬局で伝習生をしていて,京都でも是非と懇願したものです.
その設立目的は「礦物,薬材,飲料等を製練し,生徒を集めて理化の学を考究し,毒物薬品及び舶来飲酒の類を検明」すると言うもの,要するに,品質試験と学生教育と試験的生産をミックスした理化学研究所でした.
所長は提唱者の明石博高,顧問はドイツ人のゴットフリート・ワグネルです.
ワグネルは,1868年にアメリカ商会の石鹸工場製造技師として長崎に来日し,後に上京して東大の前身の1つである大学南校の教師となり,1878年から3年間,京都舎密局教師として研究に勤める傍ら,京都の文化財を多く世界に知らせる役割を果たしました.
後に,1881年に再度上京して,1884年,東京工業大学の前身である東京職工学校の陶器玻璃科の主任教師となっています.
この舎密局で1874年までに生産された物は,里没那垤(レモネード)17,873罎,公膳本酒(コウジンポンス)1,731罎,依剥加良私(イボカラス)酒431罎,炭酸泉20,363罎,石鹸71箱141挺,氷糖24,886斤,製薬60品,氷蜜7,548斤,この他に七宝,硝子,石版術,写真術の研究も行い,1877年7月には洛東清水の良水でビールを製造して,これを「扇印麦酒」と称して売り出したりしました.
その施設では,160名以上の伝習生が自由に機材や薬品を用いて理化学を学びました.
その局舎は事業の進展に伴い北へ北へと拡張し,1873年8月には北限が夷川通に達した為,長州藩邸の南半分は府へ返上しました.
この舎密局の絶頂は,1877年2月2日の明治天皇行幸です.
天皇は,明石等の案内で施設を隈無く見て回り,
「京都の為,この事業に精励せよ」
との聖旨を残しています.
先述の様に,織工場は舎密局の分局として1874年,河原町二条下ル角倉邸跡で開所し,西陣織工佐倉常七等のフランス土産であるジャガード織機など新鋭機械を揃え,,伝習生を全国から募って最新技術を教授しました.
この織工場は,1877年に織殿と改称しました.
同じく舎密局付属の工場として染工場が1875年に河原町蛸薬師に建てられ,染殿と命名されました.
此処では,ドイツで染色技術を学んだ中村喜一郎が指導して,京染めの品質向上に貢献しました.
牧畜場は1872年2月,鴨川荒神橋東詰,現在の京都大学病院の地にある鴨東練兵場に開場しました.
その広さは29,000坪で,これを府は国から22,942円で購入し,カリフォルニアから牡牛2頭,牝牛25頭と羊14頭を輸入して,ドイツ人ジョンズ・ジョンソンを顧問に畜産を開始しました.
この事業は順調に進展し,1873年5月にはもう1人米国人ジェームズ・ウィードを雇い入れ,1876年10月には丹波蒲生野,今の船井郡京丹波町に分場と農牧学校を開いて,ウィードに委託しました.
本場は,1880年6月に小松仁兵衛に払い下げられ,小松は河原町三条で牛乳店を開いて牛乳の普及に貢献しています.
一方の蒲生野分場はウィードが導入した米国式大農牧方式が生徒に嫌われ,1879年5月に閉鎖し,ウィードは帰国することになって雲散霧消してしまいました.
日本最初の近代式鉄工場として1873年10月,紀伊郡向島村,今の伏見区向島中之町の観月橋南詰西側738坪の籾干場跡に完成したのが伏水製作所です.
建物は木型工場,鋳型工場,鍛鉄工場等に分かれ,内部には大溶鉄炉の他,送風装置,鋳床,旋盤,削平盤等最新の機械類を完備しました.
動力源は宇治川から導水した水車で,他に予備動力として,蒸気機関も備えました.
この工場の工員は50名,初代工場長は府の土木課から出向した有吉儀光でしたが,この人は1877年,ベルトに巻き込まれて殉職しています.
製品としては,紋織機,製紙機械,印刷機,橋梁鉄材,火葬設備と言った大物から,暖炉,燈具,農機具,ポンプ類と行ったものまで多種に亘り,紋織機は西陣へ,印刷関係は集書院へ,製紙機械は梅津の製紙場に納められ,橋梁鉄材は1874年に新四条大橋となりました.
明治初期,京都府が作った殖産興業の中で,唯一府に残り,現在まで連綿と続いているのが化芥所です.
これは家庭から出る廃棄物を収集して化学分析し,有効成分を再利用すると言うもので,現在の環境センターの魁とも言える施設です.
府営化芥所は1875年3月に各所に設置されましたが,現在その位置が判っているのは,祇園南園小路,五条堀川,紙屋川竹屋町西刑場跡の3箇所だけです.
そのシステムは,市中から荷車で集めた家庭ごみを化芥所に持ち込み,有用なもの,無用なものに選別し,有用の方は化学処理を施して肥料とし,無用なものは焼却処分をすると言うものでした.
ただ,こちらもどんな化学処理をしたのか,現在では資料が無いので判っていません.
作業に従事したのは公募に応じた無産窮民達で,その賃金の5%を積み立てて勧業場で預かり,退職時には5朱の利息を付けて渡す仕組みでした.
化芥所の経常運営費は各戸から徴収する月1銭,裏通りにある家は半銭のごみ処理代と製品の肥料売上で賄いました.
この施設は1889年に京都市が誕生すると市に移管し,その後清掃局から環境局へと発展して現在に至っています.
因みに,1874年2月,西刑場跡の化芥所で主任の吉井義之が,裏庭で多数の人骨を発見したことがあります.
元勤王家の吉井は,その人骨が1864年7月20日六角牢で斬られた志士の骨では無いかと推測し,これを府の勧業課長だった明石博高に届け出ます.
明石が調査した所,その骨は当時の犠牲者平野国臣等37名の骨と確認され,下立売通東大路東の浄土宗竹林寺に手厚く改葬しました.
現在,同寺境内には「殉難志士の霊」と言う碑が立っていますが,その志士たちが発見されたのが,府のごみ処分場だったと言うことを知っている人は少ないのでは無いでしょうか.
1876年1月13日には,洛西葛野郡梅津村,現在の右京区梅津の松尾橋東に梅津製紙場が誕生しました.
初運転式典を挙行後,一般に開放すると,物珍しさもあって群衆が殺到し,工場門前から梅宮神社に至る3町余に渡って見世物や屋台,出し店がびっしりと建ち並び,祭礼と同じ様な騒ぎになっていました.
元々,日本の洋紙製造の最初は1874年に東京日本橋の有恒社で,大阪の蓬莱社が翌年それに続き,東京の王子に官営製紙工場が出来たのと同じ年に京都の梅津製紙場が誕生しました.
梅津製紙場は,数ある府営の産業施設の中でも最大規模を誇り,伏水製作所と比べると,敷地は11,193坪と凡そ16倍,建坪は3,091坪と凡そ13倍もありました.
府営工業では,1871年1月に東洞院三条上ルに開設した和紙専門の小規模工場である「紙漉所」が製紙分野への進出の第一歩でした.
しかし,これは余りにも規模が小さく,しかも和紙専門で工場とも言えるものでは有りません.
本格的な和洋紙工場建設構想は,1872年から検討され,これは府の顧問山本覚馬と親しかったドイツ商人,ハルトマン・レーマンの献策です.
洋式工業の先駆者であった長州に従って諸施策を英国方式で進めてきた京都府が,製糸場だけドイツ方式としたのは構想がドイツ人から出た為でした.
府は,ハルトマンの弟で,京都洋学校教師のルドルフ・レーマンを起用して設計,施工の一切を任せました.
彼は,水利を考えて桂川東岸のこの地を選び,1873年5月から建設を開始しました.
場内には13棟の工場,2棟の事務所と5棟の社宅が並び,別に動力用水車の為の幅4間,水深4尺,延長11間余の水路を通しました.
水車は京都では画期的な75馬力のタービン式,その他に25馬力の蒸気エンジンが据えられました.
営業面は順調で,特に洋紙部門は,西南戦争後に新聞の急速な普及によって需要が急増して,1876年27万ポンドだった生産高が,1878年には38万ポンドに達しました.
原料も,元々は木綿ボロでしたが,それでは間に合わず,藁が主流になりました.
工員はこれだけの規模にも関わらず,機械効率が良かったので50名で済み,技師長はこれまたドイツ人オットマール・エキステルと言う御雇外国人でした.
酒好きだった為に,彼の逸話は多数有ったりします.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/05/30 22:59
【質問】
明治維新後の京都では,殖産興業のため,どのような施設が作られたのか?
【回答】
さて,京都府は様々な施設を作ってきました.
今まで見てきたものの他に,製革場,養蚕場,製靴場,栽培試験場,製糸場,合薬会社がありました.
製革場は,1871年1月,府勧業掛木村教次郎等の提案で,高瀬川七条の民家に開設したのが始まりで,木村が独学校教師のルドルフ・レーマンに習った獣皮の加工法を伝授し,12月からは洛西葛野郡松尾村,今の西京区松尾に本格的な製革場を新築して移転しました.
養蚕場は,1870年11月授産所内の女性の実習用として開設しました.
最初は,御苑寺町門内妙法院宮里坊,その後,1874年4月に所司代跡に移転しました.
これは授産所の女性だけで無く,華族や士族の子女の参加も多かったと言います.
製靴場は,1873年2月勧業場内に開設しました.
これは山口県の士族片山平次郎が洋式機械を使って指導しています.
1873年4月,河原町御池西側広場の北側,南側計2,534坪に,桑,茶,櫨,桐などの苗を植え,薬草や牧草,蔬菜の種を蒔きました.
この中で特筆されるのは,疫病予防に効くとして,豪州からユーカリの樹苗を運んで植えています.
製糸場は,鴨川西岸二条上ル舎密局内に設置された工場で,1873年6月に木製ケンネル式繰製糸機で操業を開始しました.
最後の合薬会社は薬局の事,上京は下立売新橋西,下京は室町松原下ルに1874年9月に開業し,1877年2月には明治天皇も京都に巡幸した折,視察したものです.
こうした産業形成を強力に推進したのが勧業場と言う部署です.
府では,1869年4月,庁内に「勧業方」と言う一課を設けて,舎密局などを開業する準備を始めました.
ところが,この当時の府庁舎は釜座通下立売,守護職屋敷跡にあり,京都の新しい中心になろうとしていた河原町御池一帯から西に離れすぎていました.
この為,勧業方の吏員は,この場所を離れて,御池に有る元長州藩邸を根拠地として仕事を始めました.
結局,府はこの地の利を認め,商工業を統括する役所をこちらに移す事にし,長州藩邸を借り上げる事になりました.
その勧業場の仕事は,勧業基立金,産業基立金の官吏と人民遊金の受託,鉱山の開発・運営,荒地の開発と技術指導,良林造成,牧畜振興,諸工業の隆替に関する情報収集,生糸,車馬,清酒などの税金取立て…と,教育と警察を除いた府政の総てに関与していたスーパー官庁でした.
その上,遊郭や遊女までも包含していたのです.
この様な強大な権限の官庁の下で,様々な産業を興していったのですが,1881年1月に着任した3代目の府知事である北垣国道はその殖産興業を総て否定します.
これは,莫大な費用が掛かるであろう琵琶湖疏水に府の財政を集中する為,金食い虫と化していた諸事業の整理を行った為です.
こうして,様々な施策の内,1874年に民間に払い下げた製糸場と,1877年に事業を停止した童仙房開拓事業を除くと,他の総ての事業は1880年から1881年に払い下げ,もしくは廃止となります.
この内,舎密局は1881年1月に北垣によって閉鎖が宣言されました.
局長の明石は明治天皇の聖旨を楯に抵抗しますが,北垣は相手にしませんでした.
そこで,明石は自らが経営する事を決意しますが,その払い下げ条件は,頭金1万円即時上納,後は年額1,200円の15年賦で総額28,000円を納付せよと言うものでした.
明石は頭金を工面して舎密局の払い下げを受けましたが,本来儲かる仕事で無かった上に,1883年には府から年賦返済分残額の一括上納を迫られ,府の周旋で実業家の高木文平に大金を借りましたが,これを返済出来ず,担保の舎密局動産・不動産は総て高木の手に渡りました.
その時,高木は後の経営は任せろと言ったそうですが,実際には直ぐに土地や家屋,機械類は総て第三者の手に渡り,1887年には雲散霧消してしまいました.
伏水製作所の払い下げも明石が真っ先に手を挙げました.
頭金5,000円,残りは年750円の15カ年年賦,総計16,250円と言う条件でした.
経営はわりかし順調で,1882年4月には朝鮮政府から造幣機械一式78,974円を受注したりしています.
明石等は,機械製作を進め,1884年3月に完成寸前まで漕ぎ着けたのですが,その時,丁度朝鮮では政変が起こり,誕生した政府は,一方的に契約を破棄してきた為,伏水製作所も大損害を被り,この商談を担当していた社員,遠藤左近は割腹自殺しました.
借金は倍増,やがて製作所は債権者の手に渡り,1889年に解体されてしまいました.
思えば,帝都で無くなり,元気を失った京都の復興を志して,府は様々な施策をしてきたのですが,それが京都の優位と言うか,地方分権の動きになる事を恐れた中央政府が,様々な策を弄して寄って集って京都が産業的に飛躍するのを阻止したのでは無いか,そう考えるのもあながち穿ち過ぎでは無い様な気がします.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/05/31 23:22
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