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◆◆◆国土地理
<◆◆新政府誕生以降
<◆明治維新 目次
戦史FAQ目次


(画像掲示板より引用)


 【質問】
 明治維新前後の日本が東西に分裂していたら,その後どうなっていたでしょうか?

 【回答】
 明治維新前後の日本は弱小国.
 それが東西分裂していたら,今頃はアフリカの小国なみの発展途上国になったてただろうな.

 維新後の発展の最大の要因は廃藩置県.
 つまり300あまりの小国家(藩)が連邦制を構成していた日本が,めちゃくちゃ強力な中央集権体制に移行できたこと.
 中央の指導で国内資本を自由に分配できた.
 また,藩の枠がはずされた日本国民は,自由に移動して,新しい時代の職業に就く.
 それが都市部の発展と日本の人口増加となり,人口が増えたおかげで内需産業が生まれ,同時に欧米から知識を得た多くの人材が生まれた.

 あらゆることがプラスの方向へ連鎖していったのだ.

 分裂国家ではこうはならない.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】

――――――
 〔東京遷都は〕将来性を考えたのです.
 京都は狭い盆地です.
 大阪も平地は狭いです.
 東京は,広大な関東平野が周りにありました.
 事実,その後発展しました.
 京都や大阪では出来なかったでしょう.

――――――霞ヶ浦の住人 ◆IdIHtefkF. in 軍事板

というのは本当ですか?

 【回答】
 東京と言うか江戸の地理的条件は,徳川家康が領土として与えられて以降,山やら丘やら削って人工的に整備して,江戸の街を「造成」したわけなんだが.

 そして将来性以前に既に明治政府以前に発展して,最盛期には人口100万〜150万の大都市だ.
 東京遷都は,既に発展してるところに移動しただけであって,さらにもっと発展するとか,近代工業化するとか将来性を予見したわけではない.

軍事板
青文字:加筆改修部分

 まあ,「京都は狭い盆地だったから」というのも,東京遷都の理由としては完全には否定しきれないと思うが.

▼>東京遷都

 最近はめっきり聞かないですけど,高度経済成長期は,浜松・浜名湖周辺が結構候補になってたようです.
 河野一郎とかも提唱してたし.
 静岡県は,良さそうだけど,日本海側との連絡が難点か?
 『攻殻機動隊』では,ポートアイランド付近が「新浜」と称し新首都になってるが,あそこなら,神戸になるような.

水上攝堤 by mail,2009/6/10


 【質問】
 石薬師門事件などの,東京遷都によって発生した問題について教えられたし.

 【回答】
 さて,1868年1月23日,新政府参与であった大久保利通は,新政府総裁の有栖川宮熾仁親王に「大坂遷都論」を提出しました.
 これは京都を捨てて,自由に諸外国と交際出来る門戸であり,大海軍力の根拠地となれる大坂こそ,新しい都の地に相応しいと言うものでしたが,公卿達の反対でつぶされました.

 そこで大久保は,大坂の賊徒を親征すると言う目的を掲げ,天皇を大坂に行かせる事に成功します.
 実際には大坂に賊徒などもういないのですが,兎に角,3月21日,親征大坂行幸の列は京都を発し,大坂行在所の本願寺別院に到着しました.
 ここで,天皇は大坂を具に見物した後,閏4月8日に京都に還幸します.
 そして,7月17日,江戸を東京とすると言う詔書が出されました.

 それには天皇陛下自身が,新都東京に乗り込んで全国を公平に統治すると書いてあります.
 これには,京都人は上から下までびっくり仰天しました.
 8月27日に京都御所で即位の大礼があり,古式厳かな式次第に市民は感激しましたが,9月8日には慶応から明治へと改元され,9月20日に,天皇は本当に東京に向けて出発しました.

 しかし,この東京への移動は2ヶ月で終わり,京都府民向けには,11月27日,来月中旬に一旦還幸し,明春再幸するとの布告が発せられています.
 一方で,12月7日には東京市民向けに,江戸城本丸跡に天皇用の近代的な宮殿を造営する旨の布告もありました.

 ともあれ,12月22日に天皇は京都に還幸します.
 京都府民からすれば,1000有余年都として苦しい時も天皇家を支えてきたという,感情面の問題もありますが,経済的にも首都が移転してしまうと,天皇や公卿の行事を支えてきた産業が,大打撃を受けると言う面もありました.
 特に深刻なのは,衣冠束帯を作ってきた西陣を中心とする織物の製造,販売業者や化粧品や小物などの関連産業でした.

 1869年の正月6日,政府は還幸祝賀と称して,御所建礼門,承明門を開けさせ,市民に門外からの紫宸殿遙拝を許可,10日には各町内を通じて洛中全世帯に酒237石,鯣18,500枚を配りました.
 これに要した費用は4,266両に達しています.
 政府は京都府民を懐柔しようとした訳です.

 2月24日,太政官が東京に移り,3月7日,天皇は再び京都を発して東京に向かいました.
 京都では,民部大丞を務めていた吉井幸輔友実が,兵を動員して洛中の警戒に当たったそうです.

 9月24日,府民の一部は,最初にして最後の集団行動を敢行します.
 これがきっかけで府民は口々に,
「天皇早期還幸,皇后東下反対」
を叫び,石薬師門に向かいました.
 これらの中には,西陣の織工が多かったと言います.
 事態を重視した官側は,兵部省や弾正台など,京都在の政府機関を総動員して府民の説得を行い,京都府も太政官の命によりこれに協力,連日の様に各町の代表を府庁に呼んで,
「聖意奉戴,行動自重」
の徹底を要請しています.
 また,鳩居堂こと香具屋久兵衛,池村久兵衛,三河屋半次郎,越後屋将造,亀谷庄助,住吉屋長左衛門を説得係に任じ,住民の説得に当たらせています.

 石薬師門事件から10日後の1869年10月15日,京都に残っていた皇后も東京に向け出発してしまいました.

 これにより,京都と天皇家との縁が切れてしまったのですが,府民の中には,なお,京都に還幸するのを期待する向きも多かったと言います.
 と言うのも,天皇即位の一世一度の大祭である「大嘗祭」は京都で行われるので,必ず天皇は帰洛して儀式に臨み,宮中の神々に新穀を献ずる事になる,そして還幸は恒久的なものとなり,京都での親政が復活するであろうと言う淡い期待を抱いていたからです.

 この期待も,1870年2月,太政官が「大嘗会無期延期」の布告が出されて無残に粉砕されてしまいました.
 大嘗祭は1871年11月,東京の皇居吹上御苑で行われてしまいました.
 但し,未だに公式な形で,日本の首都を東京と定めた事はありません.
 ですから,1894年,京都では奠都1100年行事を行い,1994年には京都建都1200年を盛大に祝っています.

 それは扨措き,以降,京都在住の宮家・公卿,京都にいた諸藩邸の要員,天皇の御用を務めていた大商人なども屋敷を畳んで東京に移っていきました.
 諸藩邸は97カ所あったと言われ,上京や下京の各地区に点在していましたが,京都の中心部に密集していた宮邸や公卿邸が無人になってくると,京都はゴーストタウンと化していきます.
 当時,この北は今出川通,南は丸太町通,東は寺町通,西は烏丸通に囲まれた東西600m,南北1,200m,面積22万坪あった土地は公卿邸密集地であり,これらが次々に東京に移転した結果,禁裏と仙洞御所の他は,無人の廃墟と化してしまいました.

 余談ながら,こうして公卿達が出て行くと,大阪では商売に困った人がいたりします.
 一般的に商家の間で縁談を纏める際に,嫁となる女性の箔付けの為に,一旦公家の養女にして嫁入りさせる商売をしていた人たちです.
 嫁が入る商家では,公家の娘を娶ったとして社会的に箔が付き,手元不如意な公家へは先方の婚家から某かの手数料が転がり込みます.
 江戸期にはこうした形で,持ちつ持たれつの関係を築いていたのですが,遷都により主な皇族や公卿が移転してしまうと,残ったのは平堂上ばかりで,余り箔付けにならなくなってしまい,結局この商売は廃れていきました.

 今,この辺りは京都御苑として整備されていますが,1877年から1888年まで,天皇家から毎年4,000円の援助を貰い,整備を進めたものです.
 強引に遷都を挙行してしまった天皇家の,京都府民に対するせめてもの罪滅ぼしなのかも知れません.
 因みに,御所外苑の土塁に使われている石は,旧公卿邸の土台石を利用したものだったりします.

 そして京都府民は激減しました.
 幕末の1864年の段階では,洛中洛外の総戸数は69,055戸であり,平均的に1戸5名として,町方の人口は推定で約35万人,これに公卿や武家,寺社関係を含めると40万人前後が住んでいたと考えられます.
 しかし1873年の京都府調べでは,上京106,623名,下京132,040名の合計238,663名とほぼ半減しています.

 また,1872年3月の「京都府民職業調査」によると,府が農業を除く55,191戸の職業を調査した結果,職種は294種に達しますが,日雇4,242戸と最も多く,仕立物3,343戸,諸織物3,343戸,糸織2,252戸,大工2,009戸,地車(運搬業)1,885戸,呉服並びに太物1,611戸,新古道具類1,289戸,米穀1,082戸となっています.
 日雇の多くは失業者で,皇族や公卿達の移転で失職した人々,仕立物は貧しい家計を助ける為の主婦の内職,地車は夜逃げの手伝いもしていました.

 この中で最も儲けたのは,廃仏毀釈で寺院から放出された仏具や宝物を買い叩いたり,移転する公卿達から移転費用捻出の為に売った家宝を安く買い取ったりして,それらを高値で転売した古道具屋だったかも知れません.

 こうした遷都が規定方針化していく中で,府庁では町年寄を集めて,仕上げに取りかかります.
 1870年3月19日,20日に上京,下京の町役人を集め,「還幸御延引」の御沙汰書を読み聞かせました.
 その代わり,京都府民への迷惑料として,新政府からお金を搾り取る事にしたのです.
 転んでもただでは起きない,と言う訳で,1つは京都だけ地子を免除する事,つまり,広さや間口を基準に住人に課す宅地税を京都府民にだけ免除する事,2つめに京都府内の産業立て直しの為に政府から資本をいただくと言うもので,次の3つから成っています.
 1つめは,勧業基立金と言う御上からの借金,
2つめは産業積立金という貰いっぱなしの御下賜金,
3つめが小前引立貸渡金です.

 京都府としては,遷都で被害を受けたので,新政府は府に対し,「手切れ金」を支払う義務があると言う論理で,経済振興をする事にした訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/12/11 23:29

 さて,慶応末年から明治初頭に掛けて,京都から東京への遷都の激動の中で,京都府はその再生資金として,新政府から「手切れ金」を毟り取ろうと努めます.

 当初,新政府は京都府援助に全く無関心で,1869年3月,それまで新政府が府に貸付ける形になっていた小前引立(貧民救済)貸渡金の残り債務を帳消しにすると通告してきた程度でした.
 その金額は,元利合わせて13,947両1分2朱と銭148文.
 小前引立貸渡金は,1両,2両の生活扶助金を庶民に貸与する制度で,今の生活保護に当たる様なものですが,借りた者が逃亡するなどして回収不能が続出し,結局,1873年3月には廃止されてしまいました.

 京都府の方はこんな端金では話にならないと知事始め幹部が激高し,4月12日,「勧業資金として50万両拝借致したい」と会計官に吹っ掛けています.
 4月17日,会計官より,「国事多端の折から,50万両は無理で,先ずは10万両だけで手を打たないか」と言う返事がありました.
 即日京都府は,「恤民の為にも50万両頂きたい.残金は後ほど吏員を派して貰いに行く」と返信していますが,残りの金の部分はほぼ無視されています.

 ところが,勧業基立金として受け取った金額は,何時の間にか10万両から15万両に増えています.
 これが何故5万両増えたのか,一切明らかではありません.

 新政府の誰かが,「あいつらやいのやいのと五月蠅いから増やしとけ」となったとしか思えない節があります.
 兎に角,15万両の資金を新政府から毟り取る事には成功しました.
 但し,この勧業基立金は国からの借金であり,府から割と几帳面に返済しています.
 例えば,1870年中に35,000両返済したとか,1871年1月には大蔵省に「残額を15年年賦で返す」と約束したり,1879年現在未払残高46,600円と言う数字もあり,大体これから数年で返済したと考えられています.

 こうした府の借金となる勧業基立金の他,1870年3月には太政官から京都府に対し,「人民産業基立金」として,5万両を下賜すると言う沙汰が下されています.
 こちらは純然たる国からの資金融通で,返済不要の資金でした.
 その後,更に5万両の下賜も可能とする通達も送っています.

 府は熟慮の結果,この基立金を各町大年寄が管理すべきとして,3月19日に諸町の町役を集めて其の旨を公表しますが,23日には大年寄達は,府に管理を委ねる事を願い出,これが許される事になります.
 何やら出来レース的な臭いがプンプンしますが.

 3月24日,中央の参議宛に京都府から丁寧な礼状を認めます.
 その中には,「府民感泣」と書いていますが,その後,「後の5万両もよろしく」と書いてあったり.
 4月13日には政府の恩典に対する感謝の意を込めて,河東練兵場(今の京大病院南半分)と下鴨社で皇恩感謝の式典を執り行いました.
 しかし,盆を過ぎても残りの5万両は一向に届きません.
 その理由は,太政官と京都府が直接話を進めていた事に,財布を握る大蔵省が旋毛を曲げた事によるものです.

 10月29日付の太政官事務局宛書状では,井上馨大倉大輔から,
「大蔵省に本来なら話を通すべき事なのに,それを頭越しにやりとりするとは如何なものか.
 しかも,各地苦しい府県は幾らでもあるのに,京都府だけ優遇するのは"依怙贔屓"ではないか.
 ただでさえ優遇しているのだから,これ以上資金を融通する必要はない」
との強硬な意見が出された為です.

 この為,京都府は京都の実情を細かく説明して漸く大蔵省を納得させ,1870年閏10月にやっと残りの5万両が下賜されました.

 これにより,京都府は産業基立金として返済する必要のない10万両と,勧業基立金として国から借りた15万両の合計25万両を得る事に成功しました.
 因みに,同じ様に政事の中心が東京に行き,年貢収拾基地の機能を失った大阪府は,勧業基立金3,000両ポッキリしか受けられていません.
 当然,他府県は大いに羨んだ事でしょう.

 この25万両の資金を,京都府はどのように使ったか.
 勧業基立金は,勧業場が管理し,民間に融資する事業資金としました.
 一方の産業基立金は,それを運用して利潤を増やして公益を図ると言う目的に使われる,要は府が行う事業に用いられる訳です.

 例えば,1874年の産業基立金の使途明細は,以下の様になっています.
西陣各社への貸付金として32,000円,
良木の官有地への植付けに5,939円,
養蚕場と製紙場の建物と器械に2,599円,
製茶関係新設諸経費に18,634円,
牧畜場に牛羊を買い入れる資金に22,942円,
童仙房開拓地へ和牛を買い入れる資金に492円,
製革場を勧業場内に新設するのに3,942円,
製靴場の器材入費に3,346円,
製紙場へドイツから機械を購入する資金に74,238円,
舎密局の製造器械類購入に10,342円,
活版印刷機械をドイツから購入するのに5,297円,
山科に新牧畜場を建設する地所を購入するのに2,182円,
総計181,959円10銭9厘,
 一方で,これらの施設で製品を作り,売却した収入が46,000円余あり,実質的な基立金投入は135,900円となっています.
 この産業基立金と勧業基立金は,1881年に知事に就任した北垣国道により,その残高全てを琵琶湖疏水建設に投入して幕を閉じました.

 因みに,25万両は現在価格に換算すると,換算の方法は数々あるのですが,米価換算を採用すると大体13.2億円程度になります.
 ただ,実質的な価値はそれよりも高額になっていると推定出来ます.
 後,「両」が後の資料では「円」に変わっていて換算が判りにくいのですが,「円」「銭」「厘」の通貨制度が導入されたのは1871年5月10日の「新貨条例」,この時,暫く便宜的に「従来の両を円と呼称する」と定められました.

 取り敢ず,手元資金は潤沢に出来ました.
 そして,京都府は新しい事業を興す気概に燃えています.
 但し,あらぬ方向に逸れてしまう部分もあったりしますが….

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/12/12 21:46

 さて,1872年7月,京都府は廃仏毀釈の世の動きに乗じて,こんな法令を出します.
「七月十五日前後を以て盂蘭盆会と称し,精霊迎,霊祭等として,未だ熟せさる菓穀を采て仏に供し,腐敗し易き飲食を作て人に施し,或は送り火と号して無用の火を流し,或いは川施餓鬼,六斎念仏,歌念仏など謂れ無き事共を執行し,或は六道の迷を免る迚堂塔に一夜を明し,又は千日の功徳に充るとて,之が為に数里の歩を運ぶなど以ての外.
 この様な事では,文明に進歩する児童の惑をも生じる事になる故に,盆の行事は禁止である」
 かくして,京都では盆の行事は一切禁じられ,有名な大文字の火などの送り火もこの年から行われなくなりました.
 京都の府民は,夏の楽しみを一切奪われ,やけ酒をあおるばかりであったと言います.

 因みに,この盂蘭盆会禁止は実に1883年まで続けられました.

 これは一連の廃仏毀釈の一環での動きですが,先述の様に,京都ではこの御陰で多くの寺社が改名を余儀なくされました.
 感神院祇園社は八坂神社,愛宕大権現は愛宕神社,粟田天王社は粟田神社になり,北野天満宮は北野神社となり,境内の多くの堂宇を取り壊しました.
 更に,1871年1月には社寺上知令が布告され,広大な寺領を持っていた寺院は,これにより境内地を除く大部分を失いました.
 高台寺の場合,9.5万坪の内8万坪,相国寺は7万坪の内4.3万坪,清水寺の場合は,15.6万坪の内,14.3万坪を国に上納させられてしまいました.

 また,京都府は,1872年になると寺町通東側に並ぶ寺院群の土地を削り取り,新しい道を三条から四条間500mに通し,これを市民の憩いの場にする事を決します.
 そして,この地に市民の憩いの場にも成る繁華街にしようとしました.
 これにより,寺町通東側の北から順に,浄土宗西山派本山誓願寺,和泉式部の墓がある誠心院,虎薬師の西光寺,蛸薬師の妙心寺,逆蓮華の安養寺,瘡神の善長寺,百万遍末寺の了雲寺,六条道場の歓喜光寺,四条道場金蓮寺の敷地の内,ある寺は半分,ある寺は3分の1と敷地を無条件で削られ,そこにあった堂塔や墓石は無残に取り払われ,その後に幅5mの新道と店舗建築用の空地が取り付けられました.
 これが現在の新京極です.

 この寺社上知令,国はこれらの寺社に1銭たりとも補償金も支払っていません.
 かくて,寺社は泣き寝入りせざるを得なくなりました.
 しかも,今まではそれなりの伽藍が軒を連ねていたのに,現在は門を入るとすぐ本堂であり,中には門すら作れず,路地から出入りする寺すら出て来ました.
 また,有力檀家だった公卿や大商人が次々と京都を離れて東京に行ってしまい,収入源だったお布施も減ってしまい,広い堂宇でも修理が行き届かずに雨漏りや破れが生じても直す金が無く,坊主と小僧数人が生きていく為に,内職に桑や茶を育てようと言う状態に追い込まれてしまいました.

 しかも,京都府では宇治平等院を一時期2,000円で売り払う事も真剣に考えていました.
 また,1874年3月には鉄製の新四条大橋が建設されます.
 この資金は,全寺院に銅製仏具の供出を命じ,由緒ある梵鐘などが次々に火に投じられ,結局,この橋の基礎になってしまった訳です.

 ところで,折角新京極と言う場を設けたものの,寺や墓場の跡と言うのが嫌われたか,土地払下げの値段が坪50銭(なお,士族授産の為か士族は半額)と格安だったのに,出店希望者が全く集まりません.
 そこで,京都府では土地の名士である三条河原町西の「みすや針」本舗を経営していた福井伊予掾勝秀に相談して,まず香具師や大道芸人の類を集める事にしました.
 その為に,白羽の矢を立てたのが阪東文治郎と言う顔役で,彼は,諸国のその筋の人々に口を利き,やがて,その話に応じた独楽回しや手妻,生人形,足芸娘,居合抜などがやって来て小屋がけをし始めました.
 そして,その見物人相手の茶店や飯屋が建ち始め,1873年にはどうやら新開地らしい雰囲気が漂い始めました.

 1876年になると,新京極と言う名称も定着して,立派な繁華街となり,芝居は3座,浄瑠璃3亭,見世物12軒,揚弓15軒,牛鍋屋2軒,煮売,蕎麦,茶店など計19軒,他に饅頭,菓子,人形,小間物,小鳥,写真(ブロマイド売り),袋物などの店が軒を連ね,古着屋も多数あったと言います.
 そして,「西京の繁昌,新京極通を以て際とす」とまで言われる様になりました.

 この中の居合抜では,加藤谷五郎と言うのが最も人気があり,大太刀は柄鞘共に曲尺1丈2尺,小太刀は同じく3尺2寸で,浅山一伝流の居合いで,扇を柄頭に立て,この扇が地に墜ちるまでにその刀を抜いてこれを切り払う技を持っていました.
 西洋眼鏡と言う見世物は俗に幻灯機であり,覗き穴から見ると西洋の絵も知れぬ風景が見えるという代物です.
 影絵もあります.
 芝居は,東向きと道場に2場あり,俳優は尾上梅朝,市川福太郎,尾上多三郎,板東芝鬼蔵,中村歌之助などが演じていました.
 酒楼は,大衆居酒屋的な3級酒楼として,万丸とか大六と言った店が軒を連ね,屋上を開放して,そこから山並みが見えるという趣向で人々を楽しませています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/12/13 23:44


 【質問】
 明治日本にあった外国人居留地の状況について教えられたし.

 【回答】
 1871年,李鴻章と伊達宗城との間で,日清間に天津条約が締結され,両国の間に漸く国際関係が生じました.
 此の条約に基づき,日本側は柳原前光を初代駐箚清国公使として北京に派遣しましたが,清国側は中々準備が整わず,1876年にやっと日本駐箚公使として何如璋を派遣します.
 1877年,神戸と大阪の清国人を保護管轄する為に劉寿鑑,長崎の清国人を保護管轄する為に,別に1名,横浜にも正理事官を置き,横浜の理事官は函館をも管轄することになっていました.

 理事府の職制は,横浜,神戸,長崎に理事官(領事)を置き,これとは別に西学繙訳官(副領事),随員(主事)各1名を任用し,必要に応じて雇員を置きました.
 ただ,西学繙訳官は,「西学」と言う言葉からも判るように,欧文には通じていても,日本語を解しないと言うよく判らない職種だったりするので,更に日本語を解する東学繙訳官を増員しなければなりませんでした.
 とは言え,明治初期には清国人で日本語に通じた者は非常に少なかった為,各所在地では更に通事を雇傭したと言われます.
 因みに,清国時代は,理事以下の館員は全員,東京駐箚公使が任命し,彼等の諸給与に至るまで悉く公使の一存で決められました.
 更に,公文書も直接本国に送達するものではなく,公使の手を経て送達する習わしになっていたそうです.

 こうした,大清国理事府の任務は,在留民の生命財産を保護し,駐在国に対する貿易を促進するのが本来の目的です.
 しかし,既に大清国理事府が開設された時には,多数来日していましたので,一切の保護及び訴訟等の事務は日本側官庁により直接管轄されると同時に,華僑の同郷団体である幇に委託管轄されても居ました.
 幇は,同郷者の戸籍調査登記をするほか,紛糾訴訟の和解仲裁までしています.
 流石に,理事府が開設された後にはこうした業務を日本側官庁や幇から引き継ぎ,籍牌章を規定して,直接取り締まることになりました.

 また,理事府の費用は自弁で,門牌費と言うものを華僑全員から徴収しています.
 店主階級は上等,店員,職人を下等に分け,それぞれから費用を徴収していますが,後に上等,中等,下等の3種になり,上等は1両,中等5銭,下等2銭を徴収,これを館費に充当すると共に,理事府内に巡丁(巡査)を雇い,犯罪者の逮捕,居住地域の治安維持をする費用に充てていました.

 時は前後しますが,日本と外交関係を樹立した他の国々は,居留地に住むことが出来ました.
 1874年,神戸の居留地の体制が整うと共に,外国人の増加が顕著となった為,各国領事は協議の上,明石町三十八番地(元インターナショナル銀行跡,現大丸百貨店南隣)に行司局を設置しました.
 行司局は,居留地行政の自治機関で,内部に居留地一般の取締をする行政警察が設けられ,スウェーデン人が署長を勤めると共に,配下に清国人巡査6名が配属されました.
 1881年には,行政警察署勤務規定が改正され,日本人も採用されています.

 当時,日本は未だ未だ清国に劣る存在でした.
 従って,清国人巡査の給与は,日本人警部と同額の月12ドル,日本人巡査の月俸は8ドルだったそうです.
 その清国人巡査は,全員が広東省宝安県出身者で,勤務は昼夜交替制を取っていましたが,夜勤はよく監督の目を盗んでは偵邏を怠り,睡眠を取り,翌日にはペンキ屋に早変わりすると言う状況だった様です.

 閑話休題.

 その理事府にいた巡丁は1878年以降,1899年の条約改正による雑居地の廃止まで配置されていました.
 少なくとも上海人鄭家利,広東人許昭棠の名が伝わっています.
 巡丁の服装は,長衫(長い上衣)の上に胸部を赤く染め抜き,「大清国巡丁」と書いた印半纏風の上衣を着て,管轄区域である南京町,栄町通一帯の雑居地の巡視をしていました.
 警邏は中国人らしく悠長なもので,夜は提灯をぶら下げてのそりのそりと歩いてくる為,賭博などをやっていた連中は,素早く骨牌など賭博用具を片付けて,その場を繕い,例えその場を発見されても,素早く逃げてしまう為,逮捕されるのは稀だったと言われています.

 現在の神戸南京町入口付近には,無頼漢が良く集まり,賭博や阿片吸引が半ば公然と行われていました.
 当時,日本の警察は治外法権に拘束され,雑居地内での外国人犯罪の取締は直接することが出来ず,一々文書によって領事館の承諾許可を得た後に実施すると言う迂遠な方法が採られた為,元々清国理事府の取締が緩慢であることに起因して,雑居地内での犯罪は全く放任状態というものだったりします.
 従って,清国人ばかりではなく,日本人もその特権に便乗して賭博に参加していました.

 南京町での犯罪は,賭博と阿片吸引が主なものでした.
 賭博は字華(チーハ)とか四個四個(シーコ・シーコ)と呼ばれていた番灘(ファンタン),或いは白鴿票(パイカップピュウ),骰子(シェックチィ)と呼ばれるものが主で,特に字華は,日本人に伝播し,これが全国に広がって言った訳です.
 1877年頃,この南京町入口辺りには,雑貨商万源号が開業しており,此の裏手に大きな倉庫があって,此処に広東人梁華と言う者が多数の子分を抱え,毎日のように賭場を開いて,日本人も含め可成りの盛況だった様です.
 梁華は,日清戦争勃発と共に本国に引揚げましたが,南京町の賭博はその後も続けられ,大正年間まで跡を絶たなかったと言われています.

 領事館側も屡々禁止や取締に関する布告を出していますが,彼等は柳に風の状態で,何らの効果もありませんでした.
 その後,日本官憲の取締が厳重になったのに加え,各種同業組合や倶楽部の設立により,華僑達の嗜好は,賭博から麻雀に移り,これらは組合とか倶楽部内部で行われる様になりました.
 とは言え,金銭の授受を行わない勝負は無意味だ,と言う中国人の考えからすれば,賭博の種類や用具に多少の変化があっても,形を変えて賭博自体は続けられていました.
 ただ,明治期の様な,日本人を巻き込んで大っぴらに行う賭博ではないものでもあり,その辺は大目に見られていたようです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/09/25 22:13


 【質問】
 小笠原諸島の日本帰属が決まるまでの顛末を教えられたし.

 【回答】
 海外では,Bonin Islandsとして知られている日本の島があります.
 日本語では小笠原諸島と呼ばれる島々は,小笠原群島に属する聟島諸島,父島列島,母島列島,火山列島に,西之島,南鳥島,沖ノ鳥島と言った孤立島嶼群を含む30以上の島から構成されています.

 元々,この地は無人島(ぶにんしま,ぶにんじま)と呼ばれており,Boninはこの「無人」から取られていると言われています(最近の研究ではこの通説は誤りとされているものもありますが).
 その言葉が指す様に,現在でも有人島は父島と母島,それに自衛隊員と米軍関係者しかいない硫黄島しかありません.

 この地は,1543年にスペイン人が火山列島付近を発見し,1639年にオランダ人がこれらの島々を発見しました.
 1675年には漸く江戸幕府が調査を行っていますが,住人の移住は行われませんでした.
 そして,外国人が居住していたのですが,もし,まかり間違えば,此の地域は各国の領土になっていたかも知れません.
 そうなれば,南洋群島が日本の委任統治領になる可能性が低くなっていたでしょうし,太平洋戦争を引き起こすだけの気概を持てたかどうか…まぁ,井の中の蛙大海を知らずだからそうなる可能性は高かったでしょうが….

 この諸島が日本の領土になったのは,全くの僥倖に見舞われた為だったりします.

 小笠原諸島が,何故「小笠原」諸島となったのか?

 これは1727年の事,信濃深志城主だった小笠原長時の曾孫で織田・豊臣・徳川氏に仕えたと言われる貞頼の子孫である小笠原宮内貞任と名乗る浪人が,貞頼が伊豆に采地を与えられた後,家康の命で南海に航し,1593年に3島を発見し,小笠原諸島と命名した,と称して幕閣に届出,その根拠として『巽無人記』と言う本を提出したことから附けられています.
 貞任は,「先祖の偉業を継ぐ為に渡島の許可を得たい」として幕閣の許可を得,1733年12月に鳥羽から一族を出帆させました.
 しかし,この無人島行は失敗に終わり,一族は行方不明になりました.

 それでも諦めない貞任は1735年に再び許可を申請しますが,南町奉行大岡越前守忠相が調査した結果,貞任は小笠原家と全く関係のない人物であり,古文書が偽造だったことが明らかになりました.
 そして,その浪人,自称小笠原宮内貞任は重追放となっています.

 ところが,その後の多くの研究は,この『巽無人記』を根拠資料として信じ込んでしまった為に,未だに真説として提示されており,日本の外務省外交資料館日本外交史事典編纂委員会が編纂した『新版 日本外交史事典』ですら,この説を奉じていたりします.

 尤も,この1593年発見,命名説を真にしないと,日本領有の根拠が怪しくなるのも事実だったりするのですが….

 先述の通り,小笠原群島の一つである火山列島は,1543年10月の始めに,スペインの探検家ヴィヤロボスとその一行20名が乗組むサン・ホアン号の船長トーレが,北緯25度附近で3つの島を発見したのが最初です.
 トーレは,西半球のメキシコから太平洋を渡り,「スパイス群島」(現在のインドネシアからフィリピンを含む群島)に向かいました.
 その帰航の途中,伝説の「金島」「銀島」を探す為に,ミンダナオ島南端のサランガニを8月に出発し,日本の東方海域に向けて航行をしましたが,結局は火山列島に行き着いた訳です.

 残念ながら,食料と飲料水が不足していた為,島の探検までは行われませんでしたが,トーレ船長は火山のある島をロス・ヴォルカネスと命名しました.
 これは恐らく硫黄島の事であったと考えられています.
 もう一つ,トーレ船長は別の島を発見し,こちらはフォルファナと命名していますが,こちらは北硫黄島であったと推定されています.

 16世紀はスペインにとって太平洋は「スペインの池」と言われる存在でした.
 しかし,フィリピンとメキシコの間を通る航海路を持っていたのに,何故か小笠原諸島を見つけることがなかったりします.

 小笠原諸島を見つけたのは,1639年のこと.
 オランダの探検家でグラフト号に座乗していたタスマンと,エンゲル号に座乗していたクワストは,バタヴィアのオランダ東インド会社総督であるディメンの指示で,宝島である「金島」「銀島」発見の航海に出ます.
 その際,7月21日に小笠原諸島を発見しましたが,船を停泊させるのに格好な場所が見つからなかった為,上陸はしませんでした.
 その代り,1つ目に発見された島をエンゲル・アイランド,2つ目に発見された島をグラフト・アイランドと命名して,市を航海日誌に記し,欧州に持ち帰りましたが,スペイン船が航海していたのにそんな島を見つけたことが無かった事から彼等の発見の正当性には自らも疑問視していたそうです.
 因みに,この時発見されたエンゲル・アイランドは母島,グラフト・アイランドは父島だったりします.

 この間,未だ日本人はこの海域に足を踏み入れてはいません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/06/07 21:44

 さて,スペイン人とオランダ人が発見した島々ですが,日本人が参戦するのは,それから30年が経ってからです.
 切っ掛けは紀州宮崎(現在の和歌山県有田市宮崎)から江戸に向かう蜜柑を載せた船が遭難したからです.
 この船は出帆してから72日後の1670年2月20日前後に無人島(母島)に漂着し,その後52日間掛けて島の探検と船の修復,食糧を確保し,生き残り6人を乗せた船は北東方面に向かって出航しました.
 そして,50km先にある父島に5〜6日間辿り着いた後,聟島で2日間風待ちし,日本本土に向けて出帆しました.
 そうして,8日後に船は八丈島に辿り着き,そこで10日間過ごした後,下田に向けて出帆,5月7日に下田に着いて,奉行所に今回の漂流の1件を報告すると共に,伊豆諸島の南に暖かい気候で肥沃な島があることを説明しました.
 これが,日本人による小笠原諸島の初めての「発見」になりました.

 それよりも前,幕府は1668年に外洋の航海に耐えられる大きな船が必要であることを認め,長崎の島谷市左衛門と相談した結果,「富国寿丸」と言う船を9ヶ月掛けて建造し,1670年2月に完成させ,長崎〜江戸間の廻船として利用していました.
 その「富国寿丸」を幕府は南方探検に利用する事とし,1674年5月に調査を命じました.
 6月の航海と1675年2月の航海は2度とも失敗でしたが,1675年春に探検調査団が下田を出帆し,伊豆諸島に沿って航行して,最終的に4月29日,無人島に到着したのです.

 32名の乗組員と島谷市左衛門は無人島で1ヶ月を過ごし,島の調査と地図の作成,経度の測定を実施し,6月5日にその島を出帆して,無事彼等は江戸に帰り着きました.
 島谷市左衛門は,現地で集めた植物,鉱物,魚貝の標本と共に調査報告書を幕閣に提出します.
 同時に,市左衛門は,これら無人島に名前を付けました.
 これが,現在でも使われている,「父島」「母島」「弟島」「姉島」「妹島」,また大きな島には地名として「大村」「奥村」「須崎」と言った名前を付け,更に父島に殖民用の基地を設けて,天照大神,八幡大菩薩及び春日明神を勧請して祠を造り,その隣には「此島大日本之内也」と書いた立て札を設置しました.

 こうした報告を受けた幕府は,これらの島々を「無人島」(むにんとう)と名付け,伊豆の代官の管轄下に置きました.
 しかし,その後,1722年と1784年に幕府は探検隊を派遣しようとしましたが,既に乗組員の外洋航海技術は失われ,しかも船も外洋に耐えられるものが建造出来なかったので,実現せずに終わりました.

 そもそも,この探検は秘密裏に行われたものですが,何時しかこうした秘密は漏れるもので,八丈島以南にある緑豊かな無人島の発見は,伊藤東涯と言う儒学者が書いた『?軒小録』と言う書物で人口に膾炙し,実際に菱垣廻船が漂流して,父島に至り,本土に戻ってくるケースが幾たびかありました.

 これらの島々が海外に知れ渡る様になったのは,ドイツ人の博物学者ケンペルの死後に書きためた原稿を"A History of Japan"(『日本誌』)として1727年にロンドンで出版してからです.
 御存知の通り,ケンペルと言えば,オランダ東インド会社の外科医として1690年に出島のオランダ商館に派遣された人ですが,その2年間の滞在期間中,日本に関する情報を徹底的に集め,帰国後に"A History of Japan"に纏めました.
 その中で,ケンペルはこれらの島々を"Bune Shima"と呼んでいます.
 これが,Bonin Islandsになったのは,1817年のフランス人東洋学者アベル・レミューザが編集長を務めたフランス・アカデミーの機関誌"Journal des Savants"にレミューザ自身が寄稿した論文で"Bonin Islands"を採用し,当時,レミューザの一番のライバルであったドイツ人東洋学者クラプロートも"Memories Relatifs a l'Asie"に於て,"Bonin"を採用しています.

 以後,西洋ではこの諸島のことを"Bonins"として認知されていきました.

 因みに,レミューザもクラプロートも,1785年に林子平が発表した地理書『三国通覧図説』を参考にしています.
 林子平と言えば,『海国兵談』を著した蘭学者で,この本で英国やロシアの攻撃に対する日本の沿岸防備の重要性を指摘し,幕府の不備を批判していました.
 その中で,林は過去の幕府による無人島探査に言及して,「無人島」を植民地として先手を打つべきであると主張しました.
 この「無人島」への言及については,出島のオランダ商館長ファイスの植民地論に触発されたもので,蝦夷地と琉球と言う2国に加えて,無人島諸島(小笠原諸島)の重要性に着目したからです.
 ただ,林子平は後に幕府批判の科で蟄居処分を受け,『三国通覧図説』と『海国兵談』は共に発禁処分となりました.

 また,大東亜共栄圏思想の「父」と言われる佐藤信淵も,同じ様に対外戦略を提唱する『混同秘策』の中で,「南海中なる無人諸島,所謂小笠原諸島等」の開発の重要性を取上げていますし,三河田原三宅家の家老渡辺崋山も小笠原諸島に英国人が住み始めたことに言及し,鎖国維持に関する疑問を明らかにしましたし,越後高田松平家の儒者である東條信耕は,1848年に著した『伊豆七島図考』に小笠原を放置し続ければ,外国が其処を拠点に伊豆諸島を脅かす恐れがあると書いて警告を発しました.

 現に,「無人島」の存在が西洋に知れ渡ると,その数年後には欧米系の最初の移住者達が島を訪れていました.
 1824年,英国船籍の捕鯨船トランシット号は9月12日に母島列島に辿り着いて「無人島」を再発見し,その船長だったコッフィンは,英国ブリストル市にある会社の名前を借りて,1番大きな島をFisher's Island,2番目に大きな島をKidd's Islandと命名し,その湾には彼の名前に因んだCoffin's Bayなどと附けています.
 1825年には英国捕鯨船のサプライ号が,父島の二見湾に寄港し,訪れたことを記した立て札を置いていきましたし,1826年になると英国船のウィリアム号がこの地を訪れますが,湾内で難破し,乗組員の2名は船荷を回収する為に父島に残り,残りの乗組員は僚船のティモア号と共に帰っていきました.
 残った2人は野菜を育てたり,豚を飼育したり,住む為の小屋を拵えたりと,結果的には島で最初の長期移住者となりました.

 1827年6月9日,英国の軍艦ブロッサム号がこの「無人島」に到着した際,船員は既に2名の欧州人がこの地にいることに驚きました.
 ブロッサム号は,太平洋と北極に関する探検調査に4年間従事していたところでしたが,此処に1週間滞在して,父島と近隣の島の調査を行いました.
 ブロッサム号の艦長ビーチーは,停泊していた湾の名前を"Port Lloyd"(前オックスフォード主教の名前)と名付け,父島に内務大臣ピール卿の名を借りて,"Peel Island",母島とその近隣の島嶼には,天文協会前理事長の名前に因んで,Bailey Islandsと名付け,その他幾つかの島や場所に名前を付けた後,サプライ号の立て札を見たビーチーは英国ジョージIV世の名に於て諸島の領有を宣言した銅板を1本の木に掛けました.
 ビーチーは,西欧の文献と照らし合わせてもこれが日本のBonin Islandsかどうか疑わしいと述べ,日本のBonin Islandは想像上の島である,と言い切ってしまっています.

 ところで,1826年に島に残った2名はこの時も帰りませんでした.
 次にこの地に来たのは,ドイツ系のリュトケ艦長が座乗するロシア軍艦セニアビンで1828年のことです.
 彼等は未だこの時も島に残っており,リュトケに対し,島が既に英国のビーチーによって領有宣言が為されていた事を説明しました.
 上手くいけば,不凍港を得られると考えていたリュトケはがっかりしたそうです.
 この2名はリュトケに同行していた動物学者兼植物学者と鳥類学者の2名の探検調査に協力した後,5月15日にセニアビン号と共にPeel Islandを離れることになりました.

 とは言え,英国の領土権は承認された訳ではなかったりします.
 既に,日本の江戸幕府が「無人島」を伊豆代官の管轄下に置くと宣言してから153年が経過していましたが,未だ日本にはこれに対抗する術もなく,こうした事態が進んでいたことを全く知りもしませんでした.

 もし,英国が領有宣言をしてそれが認められていたら,もし,2名の欧州人が島に滞在していなかったら,もし,ロシアが領有宣言して不凍港を築いていたら….
 歴史にIfはありませんが,そうなると一体日本はどんな国になっていたのでしょうかね.

 ともあれ,「無人諸島」の扱いは非常に累卵の危うき状態にはなっていた訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/06/08 23:26

 さて,Bonin Island発見のニュースは,サンドウィッチ諸島にまで及びました.
 因みに,サンドウィッチ諸島とは,現在のハワイ諸島だったりする訳ですが….

 1830年代初頭,そのニュースを聞いて,この島に移住しようと決めた人々がいました.
 彼等の中に,ジェノヴァ出身なのですが英国国籍を称するマザロとミリチャンプと言うのがいました.
 彼等は,1825年以来ホノルルに駐在している英国領事であるチャールトンに会って,太平洋の無人島に入植したいという希望を伝えます.
 チャールトンは,ビーチーが領有を宣言したと言うBonin Islandsを勧めました.

 この無人島行には,マザロ,ミリチャンプだけでなく,マサチューセッツ州出身のセボリー,米国人のチャピン,デンマーク出身のジョンソンも加わりました.
 チャールトンは,彼等を召集して,マザロを団長に指名し(ただ,彼は無学且つ暴力的な性向を指摘されてはいた),5名の欧米系と約20名のハワイ出身の男女に加え,家畜や植物の種を積み込んだ帆船ワシントン号を1830年5月21日に出帆させました.
 ワシントン号は6月26日に,Peel Island,つまり,幕府命名の「無人島」に到着しました.

 そして彼等はチャールトンがマザロに渡した英国国旗を掲揚し,Peel Islandの開拓に取り組み始め,これで名実共に英国がこの島を領有するかまで行きましたが,本国からの支援不足により英国領としての宣言は説得力を失っていくことになります.

 それでも数年後,25名の入植者達は基本的に自給自足が可能なCommunityを作り上げ,米国,英国,ロシア,フランスと言った各国の捕鯨船やその他の船と交易を行い,飲料水と食料を提供しました.
 当時の日本近海は正に捕鯨船の行き交う海で,1833年1月から1835年半ばまでに24隻の船がPeel Islandを訪れ,その内の実に22隻が捕鯨船だったりします.

 しかし,当時の船員は荒くれ者共ばかりで,窃盗や拉致,強姦と言った問題を繰り返していました.
 英国政府は住民の保護要請にも耳を貸さず,Colonial Office及びBoard of Tradeにしても,この地域は「通常支援の枠を超えるもの」であり,「英国の軍艦が普段航行する能力を超えている」として,保護の約束は出来ない,と回答していました.

 また,この島は一応Communityを造り上げていたものの,公式な法律がない為に住民間のいざこざを処理するのは益々困難になっていきました.

 英国がこうした態度を見せる一方で,1836年7月15日,米国軍艦ピーコック号とエンタープライズ号がこの島に到着しました.

 彼等は住民と協力し,「全ての紛争は過半数の決定に因る」など法律の明文化に協力しました…ただ,リーダーであるマザロは,文字が読めないので,そんな決定など何処吹く風だった様です.
 因みに,セボリーとチャピンは米国人であると考え続けていました.
 特にセボリーは人望があり,リーダーであるマザロよりも尊敬を受けていました.
 そこで,マザロは一計を案じ,1842年秋にハワイに帰っていきます.
 既に領事はチャールトンから後世の歴史家をして「狡猾で,企み好きな人物だ」と評されていたシンプソンに代わっており(正式には領事代理),マザロは,シンプソンからPeel Islandの開発報告と新規入植者,労働者の募集に加え,マザロがBonin Islandsの長である事の承認を得ようと考えたのです.

 シンプソン領事代理は,その承認を与え,英国政府官吏が任命されるまで,マザロを島のリーダーに推薦すると言う文書を署名付で渡すと共に,英国旗を与え,記念日など特別な行事に際しては旗を掲揚する様に命じました.
 因みに,セボリーの方も,独立記念日などに米国旗を掲揚していた訳ですが….
 とは言え,英国の関心はちっぽけな島であるBonin Islandsよりも,中国本土に向いており,英国の影響力は徐々に後退していく様になりました.
 元々,英国は1837年「一日も早くBonin Islandsに小規模な海軍基地を建設し,当地域と中国の海岸及びその他地域を定期的に寄港すべきである」と言う方針を立てていました.
 ところが,案に相違して,英国は阿片戦争で清に勝ってしまい,中国本土外に基地を設ける必要が無くなったと言うのも大きく,その後も多くの学者や宣教師,外交官,軍人からも出されましたが,政府に退けられています.

 結局,第一次移民の内,マザロと共に移住していたミリチャンプは,マザロと共に一端ハワイに戻った後,グアムに渡って其所で海運会社を創業し,Bonin Islandに戻ることはなく一生を終えました.
 また,マザロ自身は1848年,失意の内に死亡し,グアム出身であった若いマザロの妻は,1850年にセボリーと結婚しています.
 因みに,セボリーの最初の妻は,英国商船に拉致されてしまい,その際セボリーは家畜や服など2000ドル相当の品物を失っています.

 米国も状況は同じだったりします.
 しかし,米国の場合は,本国政府の関心を集めるのに相当な努力をした提督がいました.
 1853年6月14日,ペリー提督はサスケハナ号に座乗してサラトガ号と共に「無人島」のLloyd港に到着しました.
 既にその前には琉球諸島を訪問し,次の目標を江戸に定めての最後の寄港地です.

 ペリー提督のBonin Islands訪問の目的は,ペリー構想の一環でもありました.
 それは,ハワイ,Bonin Islands,琉球諸島,台湾などを海運路で結び,適切な石炭補給路と安全保障を提供する基地を備えた海上ルートの設営を目指しており,この地域を植民地化とまでは行かなくとも,友好関係にある地域としておきたいと言う目的がありました.
 この考えを抱いたのはペリー提督が初めてではなく,1850年9月に香港からサンフランシスコに向かう途中,Peel Islandを訪問したポーパイス号の艦長ページ大尉は,1850年11月28日付の海軍長官宛報告で,このPeel IslandのLloyd港に石炭補給港を設ける可能性について言及し,しかもその諸島は「他の国の主権下に入っていない」旨を伝えていました.

 また,ページ大尉の到着する直前,1850年7月20日にLloyd港を訪れたヴァンガード号と言う船が海賊行為を働き,夫人1名を拉致した事件について,住民から宣誓供述書を取り,住民の安全保護を提案しています.

 さて,ペリー提督がこの島に着くと,早速軍医と海兵隊からなる2つのグループをPeel Islandの探検に派遣し,もう1つのグループをBuckland Island(現在の兄島),Stapleton Island(現在の弟島)の海岸調査の為に派遣しました.
 その間,ペリー提督は住民達のリーダー的存在となっていたセボリーと会談しています.

 Peel Islandではペリー提督は,石炭置場としてLloyd港の北側にあってその奥に近い位置で,前面は深い湾に臨んでいる土地を50ドルで購入すると共に,第一世代の入植者で欧米系唯一の生存者であるセボリーをペリー提督の代理人に任命し,更にペリー提督の麾下で水兵として働いていたスミスが島に残ってセボリーの手伝いをすることになりました.
 4日間の滞在で,ペリー提督は"Organization of the Settlers of Peel Island"と題する3条と13項から成る簡単な憲法の作成に協力し,それと共に,セボリーはChief of Magistrate(行政長官)に就き,1844年にPeel Islandにやってきた元英海軍の水夫メートリーと1849年にやって来た英国人のウェッブが島の参事官に選任され,この地域を,The Colony of Peel Islandと言う名称としました.
 但し,この地域は未だ何所の国のものであると言う宣言までは至っていません.

 ペリー提督は更に,島民の為に牛4頭,羊5頭,山羊6頭を残していきましたが,こうした働きに感謝したセボリーは,妻との間に出来た息子にペリーの名前を附けたそうです.

 その後もペリー提督は持続的な関心を示しました.
 浦賀で幕府と交渉し,帰途に就いた艦隊は,プリマス号艦長ケリーを再びBonin Islandsに派遣して住民を訪問させると共に,更にBailey Group,つまり現在の母島列島を調査させます.
 そして,ケリーはペリー提督の指示に従って,銅板札を無花果の木に打ち付けて去りました.
 その文言にはこう書いてありました.
「合衆国の名の下に正式にBonin Islandsを占領し,同島を(30年前に同諸島を訪問した)コフィンに因んでCoffin Islandと命名した」
としていました.
 ただ,この時,Coffin Islandには既に人が住んでいました.
 1851年,数名の住民がPeel IslandからBailey Island(即ち,Coffin Island)に移り,新移民地を作るべく奮闘していました.

 ペリー提督は琉球諸島に寄港中に米国のドッビン海軍長官に手紙を送り,「合衆国及び世界の通商上に最も重要な出来事認めらるるに至らん」と指摘しています.
 そして,未だ日本人はこの地に関心を払っていませんでした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/06/09 22:58

 さて,Bonin Islandsの話の続き.

 ペリー提督がこの中のPeel Islandの土地を石炭補給基地にするために50ドルで買上げたと言うニュースは,1853年7月に長崎寄港の前にPeel Islandを訪問したロシアのプチャーチン提督と,少なくとも1853年4月頃から米国が日本若しくは中国水域に基地を設けたいと言う意向を知っていた英国の関心を集めました.
 英国の在ホノルル領事代理をしていたシンプソンは,スコットランド滞在中にペリー提督の土地購入の記事を見て,外務卿クラレンドン卿に対し,その諸島が「英国に所属する」事を注意する手紙を送りました.
 クラレンドン卿は,ペリー提督が土地を買った計画の説明を求める様,香港貿易監督局長のボンハム卿に指示を送ります.

 そして,ペリー提督の艦隊が香港に寄港すると,ボンハム卿はサスケハナ号を訪れました.
 ボンハム卿は,「Bonin Islands内の土地を購入する権利に反対する」つもりはないとして,ただ,この諸島が30年前に英国政府の名によって領有されたことを指摘しました.
 これに対し,ペリー提督は書面での回答を求められた為,1853年12月23日付でボンハム卿に手紙を書いています.
 その中で,ペリー提督は,「我が捕鯨船及び早晩カリフォルニアと中国大陸との間に確立さるべき便用として,北太平洋に避難港及び供給港を護る必要性を強く確信したが為の動機より出でたるに過ぎないと説明し,売買は厳密に私的性質のものであると断っています.
 更に,土地購入については,米国政府から何ら指示を受けた訳ではないこと,今回の行動は政府が承認しているか否かは関知しないことをペリー提督は認めました.
 ただ,Peek Islandに於て,西欧出身住民の中でも米国人が人口比率からして多数派であり,その事からしても,英国に島嶼に関する主権はなく,「殖民が如何なる国民に属するかによって支配権の問題を決定しうる」と主張します.
 また,ペリー提督は米英共同で,Lloyd港を開かれた港とする提案をボンハム卿に行っています.

 結局,ボンハム卿とペリー提督はそれぞれの本国政府にBonin Islands領有問題の協議を委ねることにしましたが,それでもペリー提督は,英国の領有権を認めるには至りませんでした.

 1854年,ペリー提督はアボット艦長率いるマセドニアン号をPeel Islandに派遣し,住民に作物の種や農具,Lloyd港に船が入港する際に掲揚する星条旗を手渡しました.
 その際,アボット艦長は領有権はまだ未解決であると説明した上で,貿易の為に来たと住民達に説明しています.

 1854年当時,米国の捕鯨船は668隻に達し,総トン数21万トン弱は,太平洋地域の国々が保有していた捕鯨船の数の12倍でしたし,ニュー・イングランドの快速船は,中国に到達する時間の記録を更新しています.
 太平洋地域は米国にとって益々重要な貿易相手国になりつつありました.
 ペリー提督自身は,日本がすんなり開国に応じるとは思っておらず,そうなると,Bonin Islandsが避難港として重要な価値を生じる様になるとして,ワシントンの政府首脳達にこの地域の領有を積極的に働きかけていました.

 しかし,案に相違して日本は下田,箱館,那覇を始め,兵庫,横浜など多くの港が外国船に開放されるようになり,結果的にBonin Islandsを領有するメリットを米国に失わせる事になりました.
 更に,1856年の大統領選挙では,民主党がホイッグ党に勝ちますが,民主党は商業主義や帝国主義には殆ど関心を払いませんでした.
 その上,ペリー提督は1858年3月4日に死去してしまい,この諸島を領有する事を強硬に主張していた後ろ盾を失い,更に,1861年以降米国は南北戦争と言う大乱に直面して,海外に目を向ける余裕が無くなり,結果的に米国によるBonin Islands併合の可能性は消えてしまった訳です.

 そして,その間隙を突いて手を伸ばしたのは,日本でした.

 実は幕府は,「無人島」に住んでいる紅毛人の事を把握していました.
 1840年4月,幕府に対し,漂流して「無人島」に漂着した陸奥国の中吉丸と言う船の船長から詳細な報告書が上がっていたのです.
 中吉丸の船長等7名は,1840年2月に漂着し,凡そ1ヶ月の間「無人島」に滞在して,欧米系住民の世話を受けていました.
 また,島民がこの「無人島」に約30名ほどいること,現地で使用されている言語(英語とハワイ語)から50程度の言葉を報告していますが,幕府はその島が小笠原諸島の父島であることに思い至らなかった様で,情報は捨て置かれてしまいました.

 また,1846年4月,オランダ商館長のビクは,長崎奉行井戸対馬守覚弘に対し,
「オランダは『無人島』が日本の領土であることを知っているが,英国や米国人が其所に入植し,日本がそれを傍観しているのは危険だ」
と言う警告を発していました.
 しかし既に弱体化した幕府は,それに対する行動を取れませんでした.

 そうしてペリーの日本開港要求を迎えた訳です.
 そして,それは日本の立場を変えることになります.
 何もしないでは済まされないことに漸く幕府も気づき,且つ,日本に対する中継地や情報収集基地として「無人島」と那覇の存在がクローズアップされていきます.
 この事実は1855年,神奈川条約によって開港された箱館と下田で再認識されることになりました.
 箱館の開港に先立ち,3隻の捕鯨船が「無人島」の二見湾で待機していた事を,初代箱館奉行竹内下野守保徳が聞きつけ,江戸の老中阿部伊勢守正弘に報告しました.
 竹内は,「無人島之儀承候申上候書付」の中で,多くの国籍を持つ約80名の外国人がその地に住んでいることを知らせています.

 更に,そうした事実は米国からも齎されました.
 1860年,日米修好通商条約批准書交換のため米国を訪問した新見豊前守正興の使節に,ブキャナン大統領が渡した資料の中にペリーの『日本遠征記』があり,その報告書の一部分は1857〜58年に掛けて日本に届き,『日本紀行』として翻訳されていました.
 その中に記載されていた記述から,200年近く放置されてきた「無人島」を含む諸島に対するペリー提督の高い評価を知り,更に幕府はペリー提督が「日本の領有権は英国より説得性が高い」と考えている事実を知りました.

 また,英国の初代駐日総領事オルコックの申し出に幕府は不信感を抱きました.
 オルコックの申し出は,江戸と長崎間の公用郵便を輸送する代わりに,毎月300トンの石炭を関税無しで買上げると言うものでした.
 これは,最終的に幕府によって却下されましたが,そうした便宜を提供することで,英国の兵士や軍艦が日本の彼方此方を闊歩し,領有権を主張したと言われている「無人島」周辺は元より,伊豆七島まで英国に飲み込まれるのではないかと考えたからでもあります.

 最後の駄目押しが,1860年に派遣した米国使節団が,帰国後,「無人島」を含む諸島の「回収」と開拓を勧めたことです.

 こうして,漸く幕府は行動を起こすに至りました.
 1861年,諸島を占有しただけでなく,入植も実施し,小笠原諸島を回収する先鞭として,外国奉行水野筑後守忠徳を団長とする一行を形成し,咸臨丸を派遣することになります.
 その一行の正式名称は,「伊豆国附島々備向取調且小笠原島開拓」と称し,小笠原諸島回収を日本の国内問題と位置づける様にし,列強各国の公使に,書簡を送り,小笠原回収を告げた訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/06/10 23:01

 列強各国の「無人島」に対する関心の高さ,ペリー提督の『日本遠征記』の中での記述,英国の怪しげな動き,遣米使節の勧告と言った種々の事態は,幕府にも漸く「無人島」を含む諸島の必要性を認識させ,その領有権主張に重い腰を上げる切っ掛けになりました.

 1861年,幕府は「伊豆国附島々備向取調且小笠原島開拓」を名目に,小笠原諸島回収を開始します.
 こうして11月に幕府はオルコックやハリス等列強各国の外交官達に小笠原諸島開拓をこう通告しました.

 書簡を以て申入れ候.我が南海属島小笠原島渡航中絶の所,今般外国奉行水野筑後守,目付服部帰一等差し遣わし,追々開拓の挙に及ばんとす.然るに審議は計り難く候え共,近来貴国人移住の者これ有由伝聞に及び候間,念の為申入れ置き候.拝具謹言.
 幕府にすれば列強相手に喧嘩を売る様なものでしたから,薄氷を履む思いだったかも知れませんが,オルコックは直ぐに返事を寄越すことはしなかったですし,ハリスはシーワード国務長官に書簡を転送しますが,シーワードからのコメントは特に出ず,通告の2日後,ハリスは「小笠原島在住米国人の既得権の保護を要請する」とした回答書を幕府に提出します.
 これを以て,幕府は,米国は少なくとも日本の小笠原諸島に対する領有権を認めていると解釈し,即座に,米国市民の権利は尊重して顧慮の範疇にあると言う返答を行っています.

 歴史にifはありませんが,もし,この時,英国と米国とが共同戦線を張っていれば,江戸幕府の領有権の主張を跳ね返すことが出来た可能性がありました.
 しかし,英国,米国ともお互いにライバル意識を剥き出しにし,英国はロシアの方を敵視して日本との関係を重視していたこと,米国は商業上の関心があって領土的野心はその当時は未だ無く,しかも,本土は南北戦争の真っ最中で,そんな辺境のちっぽけな島々に関わっていられないと言うのが本音だったりしたので,幕府としては虎口を脱した事になりました.

 1862年1月,外国奉行水野越後守忠徳を団長とする一行は咸臨丸に乗船して江戸を出発し,19日に二見湾に着きました.
 その後4ヶ月間,水野等一行約90名は,島民の戸口調査を実施,仮役所を設け,大神宮を造営し,開拓碑を建て,各島を調査して地図・真景図を作成し,島則7箇条と港6箇条を布告して,更に島名や地名,山名を命名しました.
 但し,1675年に島谷市左衛門が命名した地名や重要な場所の名称はそのまま復活させています.
 そして,4月7日に出航し,帰路に就きました.

 その中で水野一行による最も重要な仕事は,現地住民に対し,日本の統治下に置かれる事態を納得させたことでした.
 水野越後守忠徳は,ペリー艦隊と共に小笠原に来航した米国公使館の通訳ポートマンからセボリー宛の書簡を託されましたが,それをセボリーに送った後に,実際に通訳の中浜万次郎と共にセボリーの元を訪れました.
 因みに,中浜万次郎とは「ジョン万次郎」として知られている人です.
 セボリーは35年前のビーチーの島発見の話を持ち出しましたが,水野は既に200年前に日本がこの島を発見して調査を行い,また今回に至っては幕府が日本人の移民政策を実施するという決定を伝え,その日本人入植に当っては欧米系住民の既得権を保護する旨,セボリーに伝えました.

 ついでに,水野は例の小笠原貞頼伝説も活用しています.
 実際には詐欺話だったのですが,この伝説が既に広く海外にも紹介されており,ペリーの報告書や外国文献を読んでいた水野は,その伝説を意図的に活用したと考えられます.
 尤も,この御陰で,未だにこの伝説を信じる学者も跡を絶たなかったりするのですが….
 結局,セボリーは反論を封じられてしまいます.

 更に水野は他の住民とも会って日本政府の当地について説明し,日本の政令に従う様に通告しました.
 若し不服なら,その住民に対しては,日本政府は補償金として住居や土地を買上げる事を伝えましたが,意外なことに退去を希望する住民は1人もおらず,彼等は書面にて滞在の意思と,日本の政令に従うことを誓約し,翌日から彼等は日本国民になる手続きを開始しました.
 そして,水野は持参した日本酒や食器,玩具などを住民に寄贈し,友好的な雰囲気に終始しました.

 水野は取引に公平であり,老年に達したセボリーの家に屡々医者を派遣するなど,住民との友好に心を砕きました.
 一方,住民達からすれば,海賊や荒くれ船乗り等の外部からの脅威には無防備であったが為に,長年英国や米国の保護を求めてきたのにも関わらず,両国は口先介入だけで,その義務を果たそうとしなかったのに対し,日本政府は住民の保護を明確に打ち出したことで,日本の統治を受容れる事が,長年の懸念が解消する事になり,この時点で統治を歓迎した訳です.

 1862年3月下旬,水野一行は江戸に戻り,「小笠原島開拓再興件」と題する600頁の報告書を作成します.
 その中には150頁以上に及ぶ地図,島の地形や植物,カヌー,住居のスケッチや住民達の暮らしぶりを詳細に描いていました.
 これを受けて幕閣は,小笠原諸島の開拓と日本人の入植を決定し,入植者を八丈島から募りました.
 移住に応募したのは,曾て八丈島の人口過多を理由に伊豆代官に本土の移住を要請した事のある人々でした.
 幕府は父島で生活出来る様に,30名の入植者に対し,土地始め食糧や衣類,その他用材を提供しています.

 1862年8月に入植者は父島に到着し,未開拓地であった扇浦を中心に住むことになりました.
 年末までに彼等は20軒の屋敷を建築し,約8,000坪の農地を開拓して村落を1つ形成することになりました.
 島長の小花作助は既にセボリーと話を付けており,入植者が直接欧米系島民と交流することは少なかったと言います.

 しかし,小笠原では日本在住の米国人に対し,米国政府が初めて治外法権を行使した事件,所謂「ホートン事件」と言うものが起きています.
 この発端は,1863年4月のこと,英国生まれで米国籍を持つホートンと言う高齢で米国海軍を離れた水兵崩れが,中浜万次郎を船長とする一番丸にピストルを持ったまま無断で乗船し,英国人ウィリアム・スミスと共に船備品に関しての窃盗未遂の疑いで捕えられた事件です.
 これはスミスがホートンに対し,「スミスの所有物」を取り戻す様に教唆したからでした.
 このスミスと言う人物は,中浜万次郎の捕鯨船で水夫をしていましたが,素行不良として報告された上,2回ほどロシア船から脱走した事が有り,「矯め難き窃盗癖」の持ち主と報告されていました.

 6名の証言に基づいて容疑者となったホートンとスミスは,本土に連れて来られて裁判に掛けられ,スミスは有罪となりました.
 一方ホートンは無罪となった為,ハリスに代わって米国公使となったプルーインは,ホートンを父島に返すか,2,000ドルの賠償金を支払うかの選択を幕府に迫りました.
 ハリスは日本に協力的でしたが,プルーインは英国と協力的であり,日本に対して強圧的な態度に出ていました.
 結局,ホートンは老齢(当時84歳)を理由に父島に帰ることを選択せず,幕府は1,000ドルを支払うことで解決したものです.

 時に,小笠原での日本人入植が開始されたのですが,1863年5月,幕府は入植者に対する突然の計画の中断と撤退を命令しました.

 表向きの理由は幕府自身の財政危機と,入植者が現地に合った作物を栽培せず,米に頼ろうとしてその栽培に失敗したのが切っ掛けでしたが,実際の理由は,1862年に起きた生麦事件で英国との緊張関係が高まった為,横浜沖に集結している英国艦隊が小笠原を占領するのではないかと恐れたからでした.
 結局は,翌年,薩摩と英国との薩英戦争となった訳ですが….
 で,更にその理由を掘り下げていくと,これが本当の理由ではありません.
 この時期,日本に於て勢力を拡大していた尊王攘夷派がテロを繰り返し,井伊直弼に続いて,小笠原開拓に積極的だった開明派の安藤対馬守信正が坂下門外の変で負傷して失脚,その余波で,外国奉行を勤めていた水野筑後守忠徳も失脚して幕府は小笠原撤退を決めざるを得なかったのです.

 島長の小花は,幕府の指示に従って4日以内の緊急撤退を完了しました.
 開拓者の建物や土地,食物などは従前からの住民達に分配されましたが,小花は彼等が撤退しても,日本は小笠原の主権を放棄した訳ではなく,残された建物や住宅なども日本の所有財産であることには変わりない事,開拓の一行が帰島次第,権利は彼等開拓者に返還されると説明しました.
 また,大神宮や開拓記念碑,日本人墓地の世話をする様に依頼をして島を去っていきました.

 そして,日本人が小笠原諸島に再度現われるまで,10年以上の歳月を経ることになります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/06/11 23:02

▼ 1600年代に一端碑を建て,200年放置した挙げ句,1860年代にやっと回収した小笠原諸島でしたが,国内事情により急遽撤収を余儀なくされ,再び眠りに就くことになります.

 1872年には父島を津波が襲って相当な被害を出しましたが,これに対しても日本は音沙汰が無く,小笠原の住民だけでなく,列強もこれは領有権放棄ではないかと言う疑念を持たれてしまった訳です.

 1872年,ドイツ公使は,英国海軍水路局が発行した海図"China Seas Pilot"に小笠原諸島が英国領と記載されていた事について日本政府に位置づけを尋ねており,1873年には英国,米国も同じ様に小笠原諸島の位置づけを尋ねています.
 しかし,維新回天の事業に奔走している日本政府に,そんなちっぽけな島々の事を顧慮する暇もなく,誰もその問題について踏ん切りを付ける事が出来ませんでした.

 再び,日本の小笠原諸島領有は危機を迎えた訳です.

 1870年頃,父島に移住したピースなる人物は,横浜の米国公使館を訪問し,「住民の多くの依頼により」,「彼等が一体どこの政府の保護下にいるのか」を確かめています.
 ピースは,米国公使デロングに対して,父島の68名の住民の内25名は米国人であること,姉島や母島にも1名ずつ住民がいることを説明し,島の歴史を説明して,
「島には5〜16歳までの26名の子供がいるが,現地は無法状態下にあって教師を派遣する事が出来ない為に,子供達は学校教育を受けていない.
 また,頻繁に言い争いが起きるのに,それを解決する手段もない」
と訴えています.

 ただ,既に述べた様に,1836年のピーコックや1853年のペリー提督の元で法律を作り,1861年に幕府も住民が護るべき法律を施行しているので,ピースが本当のことを述べたのかは疑念があります.
 事実,ピースは島の実力者であったセボリー始め他の住民達に嫌われており,セボリーに対する根強い憎しみとねたみを持っていたと言われています.

 ともあれ,デロングはピースの訴えを聞いて,フィッシュ国務長官に対し書簡を送り,米国政府は
「以前に同諸島に対して領有権を宣言したのかどうか.
 もしそうでなければ,日本政府の主権を認めるべきなのか.
 そして未だ米国政府が領有権を主張しているのであれば,ピースその他の米国人を現地に於ける合衆国領事として任命すべきかどうか」
と指示を依頼しました.

 5月23日,フィッシュ国務長官はデロングの書簡を受理し,海軍省と議会あるいは国務省に照会して,ペリー提督が米国の名に於て宣言した小笠原諸島の領有宣言は,
「議会の承認を得たものでなく,これまでにピース氏の主張を援助する必要性を示す如何なる措置も,政府によっては行われなかったと認識している」
と返事し,更に,
「もし合衆国市民たる彼等が,住居を得る目的で頻繁に同諸島を訪れるのであれば,合衆国政府が彼等を業務上の観点に於て保護する如何なる約束も,明示的にも黙示的にも,成され得ない.
 広大な世界において,かくも遠方の場所に寄港することによって,また教育体制のない劣悪な環境に居を定めるならば,彼等は意思を以て合衆国を離脱したのであり,又帰国する意向もないと考えられる為,結果的に彼等は市民権にルイする権利を放棄したのと同じである」
と突き放しています.

 デロングは,フィッシュ国務長官の返信を,岩倉具視右大臣が欧州視察で不在中に後任を引受けていた,副島種臣外務卿に見せていました.
 その報告は,岩倉右大臣が帰国後,副島外務卿から挙げられましたが,征韓論を巡る対立から副島外務卿は下野してしまい,小笠原諸島の領有に関する問題は政府に取上げられませんでした.
 実はデロングは,小笠原の領有問題について日本と英国を対立させる目的でこの書簡を見せたのではないか,と言われています.

 そうは言いつつ,この時期の日本政府は征韓論に端を発した佐賀の乱や,琉球漁民殺害事件から発展した台湾出兵問題,ロシアとの間の領土交渉である千島樺太交換条約締結など,内外の課題に直面しており,腰を据えて小笠原問題と取り組む暇がなかったりします.
 もし,この間,ドイツなり米国なりが領有権を宣言すれば,それに抗う余地は余りなかったりした訳ですが,幸いにどの国も,この地域に食指を延ばすことはありませんでした.

 やっと日本政府がこの問題に本格的に取り組み始めたのは,1875年10月頃からです.
 10月から日本政府は,外務省四等出仕田辺太一,大蔵省租税権助林正明,海軍省大尉根津勢吉,内務省地理寮七等出仕で幕府時代に島長を勤めた小花作助を中心とする10名を小笠原に派遣する旨,米国と英国の代表に通告しました.

 米国は,フィッシュ国務長官の件もあって特に反対しなかったのですが,英国は日本が小笠原諸島領有についての理由に関心を抱きます.
 11月2日と5日の2回,パークス英国公使は寺島宗則外務卿と会い,日本政府の意向を確認しました.
 パークスは
「本土に近いから日本領というのは筋が通らない.
 それであれば,琉球は中国に近いので日本領ではなく中国領であろう」
と斬込んできます.
 寺島外務卿は,
「前々から領有権を主張しており,10年前には(幕府時代だが)官吏を派遣している」
と反論し,本土に近いからと言う説を否定しています.
 パークスは再び,
「官吏を派遣したのは日本だけでなく,英国,ロシア,米国も派遣している」
と反論.
 寺島外務卿は,
「それは政府から派遣を命じたのか?」
と反問し,パークスが肯定すると,
「最後に官吏を派遣したのは日本であり,近海にある群島を無主のまま捨て置くのは日本の為に宜しからずとして,今回この決定を為したものである」
と堂々と反論しています.

 結局,パークスは
「日本領であると主張されるのであれば,これ以上他国からの異論は申し立てないでしょう」
と折れて会見は終わりました.

 とは言え,パークスは諦めた訳ではありません.
 数日後にパークスは寺島外務卿に手紙を送り,日本船は何時出帆するのか,その船名は何か,誰が乗船するのか,などを根掘り葉掘り尋ねています.
 寺島外務卿は,出帆日を11月16日となるだろうとパークスに返事をしましたが,実際に小笠原問題に関与する外務省,海軍省,内務省,大蔵省の担当官が乗り込んだ明治丸は,21日にやっと出帆したのでした.

 明治政府の代表は二見湾に到着すると,10年前と同様に,島の代表者13名を集めました.
 その中には,セボリーの長男(セボリーは1874年に逝去)も含まれていました.
 そして,改めて居住者達に日本の再領有の意向を伝え,日本の法律下に於て忠誠を誓うことを要求し,住民は再びそれに応じて発効文書に署名しました.

 これで小笠原諸島の領有問題は片付いたはずでしたが,パークスはロバートソン横浜総領事に命じて,英国軍艦カーリュー号を用いて父島まで明治丸を追跡し,その領有行動を邪魔しようとしたと言われています.
 ところが,明治丸が出帆した翌日に横浜を出港したカーリュー号は,その阻止に失敗し,カーリュー号のチャーチ艦長は,1827年にビーチーが英国領有を宣言して樹木に張付けた銅板を買い取ったに留まりました.

 パークスはこうした行動を執っていましたが,既にロバートソンは勝負が付いたと考えていました.
 結局,英国の悪あがきは無駄に終わった訳です.
 島の住民達は,当初,自らをボニン人として扱って欲しいと思って居ましたが,日本政府が島の発展に真剣に取り組む姿勢を見せるにつれて,徐々に心が解れていき,1882年までに全ての住民が日本に帰化することになっています.

 こうして,1876年12月,正式に日本政府は小笠原が日本の領土であることを宣言して,諸外国に対し,統治の再興を通告しています.
 軸がぶれていると言っても,今の政府よりは余程芯が通った感じではないですかねぇ.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/06/13 19:01


 【質問】
 小さい頃から疑問に思っていること.

「東京都」は「東京」,「京都府」は「京都」,
「埼玉県」は

                \ │ /
                 / ̄\   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
               ─( ゚ ∀ ゚ )< さいたまさいたま!
                 \_/   \_________
                / │ \
                    ∩ ∧ ∧  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\∩ ∧ ∧ \( ゚∀゚)< さいたまさいたまさいたま!
さいたま〜〜〜!  >( ゚∀゚ )/ |    / \__________
________/ |    〈 |   |
              / /\_」 / /\」
               ̄     / /
                    ̄

 では,「北海道」が「北海」と呼ばれないのは何故?

 あと,東京が「都」なのも,京都が「府」なのも,なんとなく理解できるんだけど(首都であったり,朝廷があった場所であったり,だと思っている) ,北海道が「道」であることと,大阪が「府」であることが理解できない….
 何か意味はあるの?

 【回答】
 「北海道」は戦前まで単なる地名だったからです.
 東海道,東山道などとと同じ扱い.

 開拓使廃止後,札幌・函館・根室の3県が置かれたこともありますが,すぐに廃止され,北海道全域を統括する北海道庁が設置されました.
 この場合,「北海道」が地名で「庁」が官庁名,トップは「長官」です.
 自治体としては,「北海道地方費」という名称の法人が存在しました.

 府については,当初首都候補とであった大阪,京都,東京は「府」とされました.
 東京府と東京市とが並存する二重行政の弊害のため,戦時中に統合され東京都になりました.
 この場合,「東京」が地名で「都」が官庁名,トップは「長官」です.

 長官は上記の北海道の他,戦時中に内地に編入された樺太庁にもいました.
 したがって,戦時中は「都道府県」ではなく「都庁府県」でした.

 「北海」という呼び名が使用されたことも,ごく短期間あります.
 大戦末期,広域行政の必要上,全国に「地方総監府」が設置された際,北海道・樺太を統括する「北海地方総監」が任命されました.

 この場合,「北海地方」には樺太も含まれていますが・・・

日本史板,2002/09/23
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 明治維新後の海図作成事業の状況は?

 【回答】
 海を航行する際,空を飛行する際,その安全を助けるのは,航路図であり,航空図です.
 陸に関しては,江戸期,伊能忠敬が陸地を詳細に測量して300余枚に亘る陸図を作成していましたが,海に関するそれは,沿岸航路では測地航法を採っていた為に遅れ,幕府海軍の一等士官である福岡又右衞門がオランダ人から測量術を学び,1862年に尾張・伊勢・志摩の沿岸を測量したのが始めとなります.

 明治となってから,国防を所管する役所として1869年に兵部省が設置されますが,船舶が安全に航行する為の水路事業の整備は最も緊急を要する課題となり,1871年7月に兵部省海軍部水路局が設置され,水路事業創設を説いた御用掛柳楢悦が少将として水路監督長官に就き,日本の水路業務がスタートします.
 当時は,柳少将の下に中佐1名,少佐1名の陣容でしたが,日本の勢力伸長と共に組織は拡大を続け,1941年末の時点では2,272名(兼務20名を含む)と言う大きな数を占めることになります.
 この組織は第二次大戦を経て,運輸省,そして,現在では海上保安庁水路局として海路の安全を高める作業を現在も行っています.

 この水路事業整備を提言した柳楢悦は,津藤堂家の家臣で,安政年間に勝海舟等と共に長崎で海軍伝習所に学び,主にオランダ人から数学や測量術を学びました.
 それらを修めて帰藩後は,津藤堂家の航海術指南役を勤めていましたが,明治維新後,大阪府知事五代才助,兵部省海軍部主任兵部少輔川村純義の推薦により,兵部省御用掛として水路局創設を委嘱され,以後19年に亘って水路業務の長として八面六臂の活躍をした人物です.

 普通,こうした業務を初めるに際し,明治のどの部門でも先ず御雇外国人を入れ,日本人がそれに習って,徐々に御雇外国人を廃していく様な形を採っていきます.
 海軍でもそれは例外ではなく,造船分野には例えばフランス人に学んだり,航海術などには英国人に学んだりしていますが,水路分野は,柳少将の方針として,「水路事業の一切は徹頭徹尾外国人を雇用せず自力を以て外国の学術技芸を選択利用し改良進歩を図るべし」と言う姿勢を採り,御雇外国人を入れることはありませんでした.
 後に,御雇外国人を入れることを主張した部下を左遷するくらいのことをしています.

 ただ,そうは言っても機材にしても測量術にしても,当初は満足なものがなかったので,外国軍艦との共同作業を余儀なくされていました.

 未だ水路局のない1870年5月,太政官達により,第一丁卯丸(萩毛利家からの献納艦)と英国海軍測量艦シルビアが連携しての南海測量が命じられます.
 其所で,柳御用掛は測量主任として伊藤雋吉を補助に,英国と共に的矢と尾鷲の測量を始め,7月には同じく英艦と組んでの瀬戸内海の塩飽島の測量を行いました.
 とは言え,測量器械としては旧式のセオドライト・セキスタントと言う器械のみであり,英艦の予備器械を借りる有様,また船にしても第一丁卯丸の乗組員も測量の為の航海術に慣れておらず,測量の実地演習程度の成果しか挙げられませんでした.

 幕府が熱心で無かった海上測量に対し,各列強は極めて熱心で,開国前後から屡々日本沿岸を測量して海図を作成していました.
 ただ,1869年の段階では,英国版の測量図には,九州の長崎港を始め,富岡,玉之浦,平戸瀬戸,呼子の各港,本州北西岸の七尾,三国,伏木,宮津,佐渡,新潟の諸港,本州北岸の青森湾,津軽海峡,北海道の函館,本州南岸の東京海湾,横浜,横須賀,下田,清水,紀州大島,浦神,由良内,田辺,大崎,紀伊川口,瀬戸内海の兵庫,大阪,明石瀬戸,鳴門,鞆,姫島錨地などがあったに過ぎません.
 その海図にしても,略測,走測の程度で,粗略なものであり,水路誌では英版の支那海水路誌と言う一小冊子の中に,支那,日本,朝鮮,黒竜江,沿海州を含めている状態で,日本の部は特に航海日誌の抜抄に過ぎませんでした.

 明治になってからも,オランダ,ポルトガル,英国,米国,フランス,イタリアなどの各国が日本沿岸や港湾の測量を請願してきましたが,日本側に測量機関が無い為にこれを拒むことが出来ませんでした.
 1871年,フランス軍艦が備前の尻見から西長門の下関まで,英国軍艦が北海道の測量を行い,春日艦がこれに協力していました.
 北海道の測量では,春日艦が野付錨地,珸瑤瑁水道,寿都湾,小樽港を,英国艦は厚岸湾,室蘭港と国後近海を担当しました.
 帰途,春日艦が宮古湾と釜石湾の測量を実施し,これが日本で始めて独力で測量を完成した始めとなります.
 因みに,野付錨地の測量原図は,英国側に引き渡した所,英国軍艦の艦長は,これを英本国海軍水路部に転送し,同部で刊行されますが,これが日本の実測海図を外国で採用刊行した始めとなりました.

 その後も測量は続きます.
 1872年,明治天皇が軍艦に座乗して,京阪,山陽,西海を巡幸することになりました.
 しかし,沿岸港湾の実測図が無く,天皇陛下が海難の憂き目に遭われては…と言う事で,柳大佐(兵部省から海軍省が分離し,その際一旦1階級降下している)は水路局員を率い,第二丁卯艦で苦心惨憺して水深を測りつつ水路を嚮導して何とか安全な航海を果たすことが出来ました.

 1873年2月,第一丁卯艦と大阪丸による琉球諸島全島の測量を開始します.
 これは台湾で騒動があった場合,軍隊を速やかに送る為のものであり,大阪丸には柳水路権頭(当時,海軍から水路局は分離独立して文官組織の「水路寮」となっていた.「水路権頭」はその長官職の名前)が座乗し,鹿児島,山川港,口之永良部港,石垣泊地を測量し,7月に完全に独力でこれを遣り遂げました.
 更に第一丁卯艦は,帰途,紀州大島港,神瀬(現在の上瀬)の位置水深を測定しました.
 当時,東京〜神戸の航路は黒潮を避ける為,大島の内側を航行していましたが,9月に汽船の船長が大島港口に破浪礁の有ることを発見して神戸港長に報告したので,それによる海難を避けるべく,速やかな測量を実施し,位置や水深を確かめて告示を出す必要があったからです.
 その後,第一丁卯艦は測量を終了して任を解かれ,測量艦は大阪丸のみとなった為,台湾近海の測量は,春日艦を派遣して実施しました.

 1874年になると,台湾生蕃征討事件が発生し,日本海軍は軍艦日進を台湾に急派します.
 しかし,上陸地点や錨地の詳細海図が無く,日進が実地調査を実施し,合せて,海軍八等出仕児玉利国(後,少将)を清国に密かに派遣して,台湾事情の探知や各種の清国製地図を入手,更にこれに英国版海図を参酌して急いで調整し,陸軍兵輸送船団派遣に間に合わせました.

 5月,米船トスカロ−号に日本南東岸の測量を許可しました.
 この船は,太平洋の深海錘測をしながら日本に渡航したもので,深海測量の実地演習も兼ねて,2名の日本海軍士官を乗せ,作業を実施しています.
 彼等の知見は,後に鳳翔艦と大阪丸が津軽海峡に海底電纜を敷設する際,この船に搭載していた深海錘測器を急遽模造し,電纜敷設に要する水深や海底質の測量をするのに役立っていました.
 日本南東岸の測量を終えたトスカロ−号は,北海道の各港と択捉諸港を走測し,樺太南部までの試航を実施して本国に帰っていきました.
 また7月には再び英艦シルビアに,伊勢湾岸並びに瀬戸内から長崎までの測量を許可しています.

 一方,この間水路寮では寮の全力を挙げて,東京海湾の測量を実施していました.
 元々,この地域の海図は,1853年の米国,英国海軍による測量で作成されたものですが,当時は攘夷の時代で,必要な測標の設置が許されなかった為に,粗略にして信用出来ないものでした.
 其所で,水路寮では,1872年6月に木更津近海,11月に品川近海,1873年3月には横須賀近海,11月に横浜近海,1875年2月からは利根川口から木更津間,4月から三崎から剣崎以内の相州房州沿岸の測量を行い,10月にほぼ東京海湾全部の測量を完成させました.
 但し,測量法は未だ完全ではなく,製図上海岸各地点の連絡に非常に困難を来しています.

 1875年5月からは第二丁卯艦が対馬と朝鮮沿岸の測量を開始します.
 長門彦島の福浦,対馬の厳原,阿須港,西泊港,朝鮮の釜山港を測量し,帰途は宇和島と佐賀関海峡を測量しました.
 これと入れ替わりに,朝鮮に赴いたのが雲揚艦ですが,同艦が朝鮮の江華島砲台と砲撃戦を行い,国際問題となった為,急ぎ第二丁卯艦は朝鮮に取って返し,在韓邦人の保護に当っています.
 また,8月にはロシアと樺太千島交換条約が締結され,日進艦が樺太方面に回航することとなり,水路寮から測量員を便乗させて,ペトロパポロスキー港で経緯度の調査と千島列島の走測を実施しました.

 1876年は江華島事件の余波が収まらず,朝鮮派遣の艦船用水路図誌の急製,写図に多忙を極め,測量艦であった第二丁卯艦も常備艦隊に編入されて,測量を中止することになりました.
 しかし,明治天皇が平定成った東北を巡幸されることになった為,松島湾,石巻湾の測量を急遽行い,また,本州南岸の測量を許可された英艦シルビアと協議の上,軍艦千代田を用いて,三崎から伊豆沿岸御前崎に至る測量を実施しました.
 これは要塞地帯となる部分を測量されたくないと言う思惑が働いたのかも知れません.

 この様に,日本周辺の海図は少しずつ,少しずつ整備されていきます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/04/11 20:23

 船の位置を調べるには,現在では衛星を用いたGPSを使って簡単に位置が割り出せるようになっており,このGPSそのものは,現在では一般の自動車にも適用されている訳ですが,明治期には当然のことながらそんな便利な機械はありません.

 其所で,航海の便に供する為にも,水路図誌や海岸測量の他,海軍水路部では天象観測も業務に含んでいました.
 1872年,水路局では芝区飯倉の戸沢従五位邸の一部と隣の石井海軍少丞邸の一部を若干買入れ,天体観測用の小規模施設を建築しました.
 これは海軍観象台の発端と成ります.

 8月,米国政府から日本政府に対し,1874年の金星経過実測の為,横浜と長崎の2箇所に観測所を設置したいと言う申入れがありました.
 この要請は太政官から海軍省に諮問が行われましたが,この際,水路部は天体観測の修得に好機であることを意見具申し,外国人の天体観測が許されるようになります.

 1874年12月7日,金星経過の当日には,米国の観測班が長崎の太平山,フランスの観測班が神戸の諏訪山に,メキシコの観測班が横浜の野毛山で,日本は東京観象台と神戸の摩耶山でそれぞれ観測を実施し,初めての観測にしては日本も上々の滑り出しを見せることになります.

 この観測には米国から後に同国海軍水路部副長と成るジョージ・ダビソン博士,米国海陸測量局長のチットマン氏が来日し,ダビソン博士は金星観測と同時に,緯度電測によって長崎とウラジオストクの経差を測定し,進んではロンドン,パリに及ぼし,最終的にワシントンの経差を測定する計画を持っていました.
 水路部では,東京とワシントンとの間の経差を測定することを考えて申し入れた所,ダビソン博士はこれを快諾し,ダビソン博士は長崎で,チットマンが東京で,それぞれ経差測定を実施してこれを完成させました.

 経差測定に電気を用いる方法は,米国で誕生して成果を挙げていたのですが,日本では専らクロノメーター移動の比較で日本と香港,上海,サンフランシスコなど各地との間で往復する艦船で測ったものを平均し,そうして経度を定める地点を長崎の身投石と横浜の英国海軍病院に置いて,全国各要地の経度を測定していました.
 ダビソン博士の指導は,日本にとって経差測定に画期的な方法となり,その影響は大きなものがありました.

 1876年3月,北海道開拓使から北海道〜東京間の経差測定を依頼されます.
 観象台には電信線の備え付けなどがありませんでしたが,当時の観象台主任大友兼行が奮闘し,東京〜青森間の経度電信測定を完成させ,日本独力での経度電信測定がスタートしました.
 4月には,観象台の中心要具である赤道儀を1878年5月の水星経過観測までに備える必要から,ドイツに注文することになりました.
 これも日本独力だけでは幾ら待っても納入されないであろうとして,ダビソン博士が労を執って,米国分と同時に日本の分も発注することになり,1877年8月に納入されました.

 今でこそ,赤道儀なんかは国産の優秀なものがありますが,当時はそうした機器を購入するにも2カ年の年数と数十回の在外公館との往復文書を必要とした有様でした.
 この赤道儀は,1878年7月30日の日食観測でも活躍し,その実象を写真に撮って海軍卿へ差出し,成果を誇っています.

 こうして,いよいよ1877年8月観象台を増築する為,川村純義邸を89坪借用し,12月になると隣接地の石井海軍少丞邸の地所2,000坪余と家屋145坪を金8,000円で購入することになりました.
 当時,柳水路局長が観象台視察として,英仏への視察に赴くことになり,同時に観象台技術研究の為,磯野少尉が柳局長に自費で随行する事を申し出たところ,旅費は特別に国から支給するという事で許されることになりました.
 政府の財政も苦しかったのですが,8,000円の支出や柳局長の英仏視察に政府が如何に期待をしていたのかが推察されます.

 1878年4月になると,観象台敷地として,華族の秋田氏邸88坪と川村純義邸77坪を買収し,1879年6月には,華族の戸沢氏邸750坪を購入して観象台は更に業務を拡大していきます.

 1881年5月には,米国の経度測量官グリーン氏,ダビス氏が来日し,経度測量を申し出たので,柳局長はこれに種々の便宜を与えて,グリーン氏は長崎に,ダビス氏は横浜米国海軍病院内に天測所を設けて長崎〜横浜間の経差測定を実施し,更に飯倉観象台経度に結合してこの実測を完成させました.
 この時の東京飯倉海軍観象台の経度は,英国グリニッジから東経139度44分57秒でした.

 ところで,1881年6月,内務省地理局が東京府下に大観象台を設け,陸地測量の基点を設定しようとします.
 既に海軍の観象台があるのに,縄張争いから屋上屋を重ねようというのです.
 これに柳局長は憤慨し,「其れ観象台なるものは帝都所在の位置を明かにし,測量の原点を起す所にして帝都に於ては一箇所にて十分成るものとす.然るに今や海軍に一大観象台有り.測点量地の起源已に確定しあるに尚内務省に於て新設するはその一方必ず冗費冗物となり,益無くして損有ること下官の呶々須たずして明かなるべし.因ってその建設の儀は御見せ相成可然と存候也」と川村海軍卿宛に激しい調子の上申書を提出しています.
 結局,この内務省の観象台計画は沙汰止みとなりますが,今度は1882年に文部卿から海軍卿宛に,内務,海軍,文部各省共同で観象台を運営しようという計画が提起されています.

 1885年10月,グリーン氏の測量による英国グリニッジから長崎と横浜までの経度確測の報告が到着し,内務省地理局と協議の上,海軍観象台の経度を全国一定経度の起源に取り決め,1886年に全国の各官庁や艦船に通知しました.
 東京飯倉海軍観象台経度は,英国グリニッジから東経139度44分30秒3,東経時9時18分58秒02となり,3年前から見ると30秒近く違っていたことが分かりました.
 東京城(今の皇居)天守台は,グリニッジ東経9時19分01秒13になります.

 この様に目覚ましい成果を挙げた観象台ですが,1888年に柳部長が水路部長の職を退くと同時に,6月6日に天象観測事業は文部省へ,気象観測事業は内務省に主管を移す事になり,一旦,この観象台事業は海軍では終わりを告げることになります.
 東京飯倉海軍観象台は,東京天文台へと名称が変わりました.

 さて,時代は下って1914年5月,海軍水路部は,東京〜グアム間の経度測量を計画します.
 経度の基準は東京天文台を基準として実測していたのですが,その経度に誤差がある可能性が高まったからです.
 1886年に東経時9時18分58秒02として算出した東京天文台の経度は,1874年に英国が観測したインドのマドラスの経度測定が基本となっています.
 その経度は東経時5時20分59秒42と決定され,1881年〜1882年に実施した米国海軍のウラジオストク,長崎,上海,厦門,香港,マニラ,セントジェームス,シンガポール,マドラスの経度測量の結果を求め,更に日本が行った経度測量の結果も加味して決定されたものでしたが,誤差が生じている事が当初から明らかになっていました.
 この時期,インド測量部が1900年までの諸測量の結果を研究した結果,マドラス経時が従来より0秒2(角度で3秒)増加しなければならないことが判明します.
 そうなると,東京天文台の経度も変る事になります.

 これが変わると,全部の海図を測定し直す必要がありますし,マドラスが違っていると言う事は,それ以東も変更があると言う事で大変な事になっていきます.

 一応,1874年〜1875年にロシアがモスクワからシベリアを横断して経度測量を実施した結果と1881年〜1882年の米国海軍の経度測量の結果を用いて東京天文台の経度を計測すると,現在のものより0秒4大きい値になります.
 一方で,20世紀初頭に太平洋の海底電線を利用したサンフランシスコ,ホノルル,ミッドウェイ,グアム,マニラの経度精測を実施した米国の値に当て嵌めると東京天文台は現在の経度と殆ど一致します.
 同じ頃,カナダ政府がバンクーバーからニュージーランドを経てオーストラリアのシドニーに達する海底電線を利用した経度精測の値を利用すると東京天文台の経度は,現在の数値より0秒25小さくなります.

 これらの数字を考えると,1881年〜1882年の観測結果の不完全な数値に頼っているのが間違いで,精測が必要と判断された訳です.
 グアムには日本との間に海底電線があり,その電線を利用した観測により,正確な経度測量が行えるとしていました.

 1915年に経度観測が実施され,その結果,東京天文台大子午儀経度グリニッジ東経9時18分58秒751と観測され,現在採用のものより0秒72(角度にして10秒8)大きいことが分かりました.
 次いでこの結果を補完すべく,1916年11月に長崎〜ウラジオストクの経度測量が実施され,最後に1917年1月に長崎〜東京の経度測量を実施して,東京天文台大子午儀経度グリニッジ東経9時18分58秒657とほぼ先年の誤差の範囲の数値となり,最終的に1918年9月,文部省は,東京天文台大子午儀経度グリニッジ東経9時18分58秒727を採用し,東経139度44分40秒9が日本の基準経度として決定しました.

 この場所は今はあるかどうか分かりませんが,1952年現在の東京都中央区卸売市場入口付近街路交差点のほぼ中央にあたり,1933年に経緯度基点標が埋め込まれ,銅板が掲げられていました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/04/12 22:43


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