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◆◆◆治安維持 Biztonsági karbantartása
<◆◆新政府誕生以降 Új kormány szülés
<◆明治維新 目次
戦史FAQ目次


 【質問】
 明治維新直後の京都の治安維持組織は?

 【回答】
 新政府から京都の治安維持を命じられた篠山,膳所,丹波亀山の3つの藩は,室町三条上ルの雑色詰所を仮役所に定めて市中取締所の看板を掲げました.
 次いで,三条通烏丸東の旧教諭所に移転し,鳥羽伏見の戦が済んだ1868年正月11日には,御池通神泉苑西入ルの旧東町奉行所に移転しました.

 彼らの業務は普通の治安維持の他,公事訴訟と言った末端行政も扱いましたから,旧幕時代,所司代の下で働いていた警察・行政補助の町役人である雑色をそのまま使いました.

 3月3日より,市中取締所は京都裁判所と改称され,議定の公卿である万里小路博房が裁判所総督に任命されました.
 因みに,此処で言う「裁判」は「管理」と言う意味であって,後の司法を指す言葉ではありません.
 そして,京都裁判所は2ヶ月後に,「京都府」と名称が変わり,閏4月には初代府知事として,大津裁判所総督だった公卿の長谷信篤が着任し,5月10日にはそれまで担当してきた3藩は任を解かれました.

 治安維持の任務は,旧所司代,奉行所の与力・同心達で構成する平安隊300名に引き継がれました.
 この平安隊,当初は「府兵」と称しました.
 8月10日より正式に「平安隊」と命名され,200名ずつ交代で勤務し,各持ち場の詰所を基地に5名1組で巡回しました.
 しかし,当初は御上風を吹かすなど市民に評判が悪かったらしく,隊員心得には,
「巡回の夜は酒を飲むな」
とか,
「湯茶以外に町内の接待を受けるな」
とか.
 極めつけに
「買い物したら金を払え」
と言う条文までありました.
 その後,二条川東の操練場で猛訓練を施して次第に質も向上し,人数も1871年には定員750名まで増えました.

 平安隊は,1869年になると警固方,1872年10月には邏卒,1875年12月からは巡査と改称され,新しく整備された警察機構に吸収されていきます.
 面白いのは,彼らの集屯場が各小学校を兼ねていたそうです.
 つまり,警察署と小学校が併設していた訳です.

 消防に関しては,大政奉還直後は,治安維持を命じられた篠山,膳所,丹波亀山と同様に,膳所の他,郡山,淀,伊勢亀山の諸藩が受け持って各町内の町火消を指揮する「月番火消」の制度を取っていましたが,京都府が発足するとその任が解かれ,町内の町火消は,府の指揮を直接受ける事になり,1876年5月13日に京都府権知事槇村正直の時代に整備された「消防規則章程」により,実質的な機構が定められました.

 これによると,主体は各町組の「消防組」(後に消防団となる)で,その長は各区区長であり,完全な市民消防組織でした.
 これを指揮するのは警部とその部下の巡査で,専門の消防官はこの当時いませんでした.
 費用は全て各区の「民費」であり,こちらも根拠地は小学校でした.
 つまり,警察署と消防署と小学校の併設です.
 消防組員の数は,1876年の段階で65組,2,071名に達していました.
 江戸と違って幸い,京都ではドンドン焼け以降は大火と呼べるものは,1874年5月10日に起きた松原東洞院西入ルから出火し,700余戸が焼失したもの1件で済みましたが,消防のプロフェッショナルがいなかった割には,上手く運営されたようです.
 他に,職場消防として,力士組,大工組と言ったものがありました.

 ところで,京都府の機構の頂点に立った長谷信篤と言う人は,元は正三位宰相30石3人扶持の公卿で,幕末に国事御用掛,議奏となり,維新後は議奏から議定となって,府知事を務めた後は,1875年7月から元老院議官になりました.
 その部下の京都府判事には,鳥取藩士から徴士されて新政府に入り,京都府判事となった松田道之,後に1871年1月には隣の大津県令となり,後に東京府知事,内務大丞を歴任し,44才で病死しました.
 少参事には,210石取り長州藩士から徴士されて新政府に入った国重正文が任命されました.
 後に大参事となり,初代富山県令になっています.
 もう1人の少参事には,熊本藩士の藤村紫朗が任命されました.
 後に1871年11月に大阪府参事となり,山梨県令なども歴任しています.

 京都の産業を振興した人として,京都府の機構の中にいたのが,蘭方医学と蘭学,和漢学を修めた明石博高で,1869年に大坂舎密局の伝習生となって,オランダ人医師から理化学を学びました.
 1870年閏10月に乞われて京都府庁に入り,舎密局,梅津製紙場,牧畜場,伏水製作所,療病院の設立に関与しました.
 しかし,1881年に下野した後は,舎密局の払い下げを受けて経営したり,円山の吉水温泉,市中の料亭京華倶楽部と言ったものの経営に手を出したものの悉く失敗し,晩年は御岳教に心酔した日々を送っています.

 こうした逸材を抱えた京都府の管轄区域は,京都の洛中洛外と山城国内の御領地,社寺地でほぼ平成の合併前の京都市の区域と一致します.

 1868年7月10日制定の京都府職制では,知府事(知事)の下に判府事・権判府事と3幹部がいて,全体が施政局と郡政局に分かれ,これに伏見役所が付いているものでした.
 職員数は1869年に289名,1872年に570名,1877年には1,878名と急増していきます.
 この組織形態は,新政府にも評判が良かったらしく,全国に京都府の制度を書いた紙が送られ,「これを模範とせよ」と言われていました.

 予算は,まだ年度予算の制度が無く,1872年でも月額25,700円と米150石が政府から支給されています.
 お金の予算ですらなかった訳です.

 役人の勤務は,1869年9月制定の「局中規則」では,毎日午前8時出勤,午後3時退庁であり,休日は「一六の日」つまり,1,6,11,16,21,26日の6階でした.
 なお,この頃の役人で士族の者は帯刀を許されており,1873年6月10日に「府庁在勤の者の帯刀禁止」が出されています.

 府民達は京都府庁を「京都御政府」と呼び,願書,届書の宛名もこれを使いました.
 日本の首都であり王城の都,そして他の府県とは格が違うと言う思いで,彼らはこれを使ったのですが,これは紛らわしいとして,1871年7月19日に「正しく称する様府民を指導せよ」との通達が太政官から府に出されています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/12/11 00:04
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 明治維新後,消防組織はどのように更新されたのか?

 【回答】
 半鐘と言うのは,一般の人に出火を知らせるものに非ず,元々の役目は消防組に出動を促すためのものだったりします.
 江戸期の火の見櫓は街々の自身番所に設置されていました.
 ところが,意外なのですが,半鐘は無闇に鳴らしてはいけません.
特に町火消が先に火事を見つけたとしても,定火消の火の見櫓にある太鼓が鳴らない限り,切歯扼腕して見ているだけだったりします.
 火事を発見した場合,定火消の火消屋敷にある太鼓を先ず打ち出し,それから徐に半鐘を打ちます.
 定火消の半鐘が鳴って初めて,町方は半鐘を打てる訳です.

 江戸期の半鐘の合図は,出合図に,二点打から五点打,近火は五点打,七点打で,飛火,延焼の場合は更に,定火消の太鼓を打ち鳴らすことになっていました.

 明治のほんの初期の頃は,未だ江戸期の残滓が残っており,この打ち方が残っていますが,時は文明開化の世の中.
 1872年3月8日の太政官通達により,非常の場合,御近火にそれぞれ3発の号砲を以て行うことになりました.
 しかし,これでは非常なのか近火なのかが判らない.
 そこで,直ぐに非常の場合は5発,御近火の場合は3発の号砲とされました.
 御近火とは,江戸城本丸と,大手,和田倉,馬場先,桜田,半蔵,田安,清水,竹橋,平川の各門で起きた火災ですが,風向きによっては,その外側でも号砲を発射したそうです.

 また,半鐘は寺の鐘と紛らわしいと言うことで,1874年3月5日には板木に換えられましたが,風雨が激しいと板木の音は遮られて,遠方まで届かないことが判った(ぉ)ので,4ヶ月後には再び半鐘に換えられています.
 但し打ち方は,非番と当番の制度が整えられたこともあって変更され,1876年1月26日に,二点打で当番の出動,三点打で非番の出動となっていましたが,12月には,体系化され,出火なら一点打,出半鐘は三点打,皇居火災は最初から三点打,皇居から遠い市内出火は,二点打で足留めとされて,当番消防組だけが出動することになり,手が付けられない場合は,所轄外への応援として二点打を以て行うこととしています.

 1889年8月からは,火の見櫓に上らずに打てる引打半鐘が,警察の派出所や各町内の消防分遣所に設置さました.
 更に近代化することとなり,1891年に電気式のベルが非常報知器として設置されますが,火の見櫓の半鐘は,今度は市民に火事を報知する手段として使用されることになりました.

 ところで,江戸期にあった定火消(慶応期には1隊しか残っていなかったのですが),大名火消は明治政府によって廃止され,それに替わって兵部省内に火災防禦隊が発足します.

 一方の町火消であるいろは48組+本所・深川16組は,1868年に,それまで町奉行所配下にあったものが,町奉行所が改称された南北市政裁判所管轄に置かれることになりましたが,8月に南北市政裁判所が廃止されると,東京府消防局の配下となりました.

 しかし,火災防禦隊は元々大名火消の流れを汲むもので,町火消との軋轢が絶えず,遂には1869年7月に前者が廃止されることになりました.

 その代わり,1869年1月8日に府兵(邏卒)が設けられ,東京府に3,000名が配備され,無頼の徒を取り締る治安維持兵力となっていましたが,その職務規則に火事場泥棒と野次馬の整理,町火消の消火活動に協力すると言う任務もありました.

 1870年10月に消防局が設けられ,町抱え鳶人足と言う呼称を廃止して消防組とし,いろは48組は36組に整理(本所・深川はそのまま)され,消防夫4,284名がリストラされます.

 しかし,消防局の幹部は他国者ばかりで御府内の地理に疎く,消防のなんたるかが判っておらず,右往左往するばかりで,結局町火消との軋轢は絶えず,体制も朝令暮改であり,火消組の士気は低下する一方だったり.

 ちなみに,この年に英国から蒸気ポンプ1台,馬匹腕用ポンプ4台,小型ポンプ1台が輸入され,消防組の士気高揚に役立てようとしたのですが,龍吐水に慣れた消防組の面々からは敬遠された上,市内の道が狭くて蒸気ポンプを入れることが出来ず,結果的に無用の長物と化したそれは,1871年に廃止され,函館に譲渡され,其処で暫く使われた後に盛岡に渡り,消火練習用に使用されたそうです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年01月17日
青文字:加筆改修部分

▼ さて,昨日の続きですが,江戸以外の地方はどうだったのか,と言うと,例えば大坂は,淀川を中心に東西南北に町火消が組織され,惣年寄が引率し,町奉行指揮の下で消火活動を行っていました.
 江戸とは違って,大名火消が無かった訳で.
 当然,その費用も町費から支出されています.

 また,大名家屋敷内にお抱え火消を持っていた筑前福岡黒田家とか加賀前田家なんかは,国元もその防火や消火活動には熱心でした.

 それ以上に熱心だったのが,奉書火消となった小大名の面々と大名火消に任ぜられた小大名家.
 これは,火災現場=戦場という考え方で,平時に於て,その延焼を食い止めれば,老中からのお覚えも目出度くなり,論功行賞で,上手く行けば,役得のある役職や,実入りの良い土地への転封,加禄にも繋がったからに他なりません.

 延岡有馬家の当主,有馬左衛門佐康純なんかも,江戸城防火に実績を上げ,御三家から褒賞を賜っています.
 残念ながら,有馬家はその後に起きた百姓一揆の責を負って,1694年に減封されて越後糸魚川に飛ばされ(それでも,その後加増され城主格となって越前丸岡に移封されていますが),替わって三浦家1代2万3000石,牧野家2代8万石と大名家が短期間で入れ替わり,1747年,最終的に内藤備後守政樹が東北の岩城平から7万石で延岡に移封されて安定します.

 で,内藤家が国入り後,最初に行ったのは,延岡城下に消防人足400名を置いたことです.

 その後,1780年に三代当主の座にあった内藤政脩は,30歳以下の若者を集めた若連中と言う制度を設け,当時乱れつつあった若者の風紀を取り締まることにします.

 六代当主政順の時代の1821年に,その若連中制度を全領土の消防活動を行うように拡大させ,町もしくは部落数十戸単位で,若連中を組織し,火番,自身番,小旗持,高提灯,諸廻り,龍吐水掛りなどの役割を割り当てて,名簿を作成し,捺印の上,役所に届け出るようになりました.
 今の消防団の元祖みたいなものです.

 これは明治期にも引き継がれ,1894年2月に公布された消防組規則では,延岡町,岡富村,恒富村,東海村,伊形村,南方村,南浦村の各町村の若連中が消防組に組織替えされることになります.
 この組織は男性ほぼ全員が強制加入で,15歳になると酒肴を携えて消防組の仲間入りをし,35歳になると満期証書を貰って抜ける,つまり,兵役とほぼ同じ役割を持っていた訳です.
 例外は,神官,僧侶,医師,教員ですが,官公吏も同様に強制加入させられていました.
 但し,例外はあり,「特別の理由」がある場合,金一封を差し出せば加入免除を得られることになっています.

 何時の時代も,「何とかの沙汰も金次第」という奴だったんですね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年01月16日


 【質問】
 最後の仇討はいつあったの?

 【回答】
 幕末に殺された父親の仇を明治13年(1881)に秋月藩士族・臼井六郎が討ち果たした事件が最後.
 これは,明治6年(1872)に発せられた仇討禁止令より後.
 しかし,一般にはあまり知られておらず,六郎の事件も世間には讃美する声の方が多かった由.
 結局,六郎は終身刑となるが,後に恩赦により服役10年にて出所した.


 【質問】
 明治維新以後,死刑制度はどう変わったのか?

 【回答】

 1868年10月29日,明治新政府は仮刑律という,刑法と刑事訴訟法を一緒くたにしたものを制定します.
 それに因れば,新律の制定まで,刑罰の執行は旧幕府の『公事方御定書』に因ると定めました.
 但し,死刑の形態は変化しており,死刑は,刎,斬,磔,焚,梟の5種類に定められる事になりました.
 この内,磔,焚,梟は例外的な刑罰として温存されていたに過ぎず,死刑では刎と斬の2種類が主に用いられています.

 刎とは斬首の事ですが,斬とは袈裟斬りの事で,首を落とすのが中心だった江戸時代の各種斬刑とは異なる性質を持っています.
 刎の方が首と胴を離す事から重い死刑だとされましたが,死刑の軽重に依って斬り方が定められており,この時から「身首処を異にする」か否かが注目され始めました.

 首が切り離される刎とは異なり,絞首や斬の場合は遺体に頭が付いており,その為,「殺された」のではなく,「天寿を全うした」様に見えます.
 従って,死体を引き取る際の親族等の精神的苦痛が軽減されるので,斬首以外の死刑の方が軽いとする解釈が診られるようになりました.

 また,1880年7月17日の身分差別撤廃と罪刑法定主義を掲げた旧刑法が公布されるまでには,身分によって科せられる刑罰に違いがあり,仮刑律では「官人と諸藩士には刎首,自尽を行い,梟首は行わない」となっていました.

 仮刑律制定から2週間後の1868年11月13日の通達では,絞首刑が追加されます.
 そうすると,今度は,死刑は絞,梟,刎の三等とするか,刎,斬の二等とするかの議論が行われましたが,その決定が為される前に新律綱領が定められたため,明確な決着は見ませんでした.

 ところで,この明治維新のうねりの中で,江戸時代,刀の試し斬りを生業としていた山田浅右衛門は,1869年2月若しくは3月頃に,東京府から試し斬りの差し止めを命じられました.
 これに対し,6月に山田浅右衛門は試し斬りの継続を求める嘆願書を提出しています.
 しかし,1870年4月15日,太政官布告によって全国的にも試し斬りは禁じられました.
 これにより,山田浅右衛門は廃業せざるを得なくなり,斬首とも縁が切れるはずでした.

 ところが,1869年5月27日に,彼が南裁判所に出頭した際,裁判所は市政裁判所所属を命じられ,従来通りの仕事をするように指示されました.
 こうして,山田浅右衛門は浪人から官吏となり,更に8月には首討役を手当金1ヶ月金5両で申しつけられています.
 此所で言う従来通りの仕事とは,試し斬りの事では無く,斬首の事です.
 つまりこれは,南裁判所が山田浅右衛門の職業を,刀の鑑定士ではなく,死刑執行人と捉えていたとも言えます.
 一方,山田浅右衛門の家業は刀の鑑定であり,切れ味を試すために試し斬りを行っていたので,そこに政府と山田との意識のズレを垣間見る事が出来るのです.
 結果的に,そのズレは解消されず,山田は官吏として,そして死刑執行人として牢屋に配属される事になります.

 刀の重要性は急速に失われていき,1871年8月9日に斬髪・廃刀の布告が為された事で止めを刺されました.
 それは死刑に於ける斬り手の確保に支障を来す事に繋がります.
 実際斬り手を探すのが困難だったため,司法省は,斬首の役を担った者に特別ボーナスを出すという指令を出している程です.

 この為,東京府は山田浅右衛門を死刑執行人として雇ったのでしょうが,当の山田本人にしてみれば,死刑執行人は本来の職業ではありません.
 この為,7代目の当主であった山田浅右衛門吉利は,1869年11月に依願免となっています.
 そして,11月から新律綱領が定められた1870年12月20日まで,死刑の処断は停止されていました.

 しかし,死刑執行が再開されると,8代目の当主となった山田浅右衛門吉亮が結局その跡を継ぐ事になりました.
 因みに8代目吉亮は3人兄弟の3男坊であり,実際に8代目を継いだのは長男の吉豊だったりします.
 が,この吉豊は役目を努める事が出来なかったため,1874年2月12日付で職を免じられました.

 一方で,吉亮は1870年12月28日に米沢藩士の雲井竜雄を梟首に処したとも述べていて,その頃から実際の死刑執行人の役を担っていました.
 と言う訳で,吉亮が実質的な8代目と言えますし,吉亮自身も自ら8代目を名乗っています.
 彼は,首切り浅右衛門の系譜に連なる者ですが,専門の死刑執行人と言えるのは,実際にはこの山田浅右衛門吉亮のみでした.

 東京府は斬首刑存続に際し,専門の斬首刑執行人の枠を設け,人材を新たに養成する事も出来たかも知れません.
 しかし,東京府は実際にはその様なまどろっこしいやり方は行わず,江戸幕府の死刑執行に従事してきた山田浅右衛門を用い,彼を牢役人として雇い入れました.
 江戸時代は,牢役人と死刑執行人が分かれていたのですが,明治時代に統合された訳です.
 この状況は,1872年の監獄誕生後も踏襲され,山田浅右衛門吉亮が死刑執行人を廃業する1881年7月24日まで継続されました.

 こうした牢役人が死刑執行人を兼ねる形を取ったのは,その後も変わらず,監獄の官吏が死刑を執行する事は何等変わらなかった訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/09/25 23:40
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 明治維新以後,処刑方法はどう変わったのか?

 【回答】

 さて,江戸時代の牢屋は,
「未決拘禁所としての機能」,
「有罪判決を受けた者を刑の執行まで拘置する場としての機能」,
「永牢,過怠牢などの禁錮刑を執行する機能」,
「身体刑(入墨と一部の死刑)執行の場としての機能」
を備える施設でしたが,明治以降の監獄は,もう少し近代的になり,主に自由刑執行のための施設として機能していました.
 また,獄は「懲戒」であっても「痛苦」を与えてはならず,「仁愛」に依るべきで,「残虐」に渡ってはならないとする行刑の理念も示され,江戸時代の牢屋と明治以降の監獄は全く異なる施設でした.

 しかし,明治初期は未だ世情混沌としている時期で,監獄の機能も明確になっておらず,牢屋と監獄の区別はそれ程厳密に為されていません.

 同時に,死刑にも近代化の波が訪れました.
 江戸時代には無かった死刑執行方法として,導入されたのが絞首刑です.
 絞首刑が生まれた背景としては,明治政府が「王政復古」を目指した事に有ります.
 1870年12月に発布した「新律綱領」は,鎌倉幕府以後の武家政治以前の律令の復活を意図した法典であり,唐の律令を基礎とした日本の律令では,死刑方法は斬と絞の2種類だけだったため,絞首刑が採用される事になったのです.

 因みに,律令時代の絞首刑というのは,「縛って座らせた受刑者の頸を2本の綱で挟み,その綱を縄を綯う様に轆轤で巻き上げ絞め殺す」もので,人力で首を絞めていました.
 とは言え,この執行方法は,相当な力を要するため,誰にでも出来る執行方法ではありません.
 従って,絞首刑を執行するには,絞首を行える専門の死刑執行人を雇うか,或いは誰でも絞首が行える工夫を施す必要があります.
 明治政府が選んだのは後者であり,そこから絞柱と言う器械が発明されます.

 この絞柱は,人力の代わりに錘を背後に垂らす事で首を絞める器械です.
 この絞柱の具体的な形と使用方法は,1870年12月20日発布の「新律綱領」に詳しく記載されています.

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 凡絞柱ハ.欅木以テ之ヲ為ル.方一尺.長サ一丈.地ニ入ル二尺.地ヲ出ル八尺.銅版ニテ柱頭ヲ冒覆シ.表面.下ヨリ上ホル六尺ニシテ木枕ヲ施シ.其中ニ穴シ.柱ノ穴ニ当ル処.橢竅ヲ鑿シテ.背ニ通シ.内ニ轆轤ヲ設ケ.絞縄ヲ懸送スルニ擬シ.腰ニ当ル処.左右側面ニ.鉄環ヲ施シ.腰縄ヲ収スルニ擬ス.表面.其下ニ鉄鐐ヲ設ケ.足ヲ収スルニ擬ス.

 凡絞縄ハ.麻ヲ以テ之ヲ為ル.長サ六尺.項下ニ当ル処凡八寸.白布ニテ之ヲ包ミ.白韋ニテ.其外ヲ装裏シテ.左右ヨリ双合シ.端尾ニ.鉄環ヲ施シ.懸錘ヲ鉤スルニ擬ス.凡懸錘ハ.鉄ヲ以テ之ヲ鋳ル.大ナル者ハ.鉄鎖ヲ合セテ.重サ十三貫.小ナル者ハ.重サ七貫.?ニ鎖頭ニ鉤ヲ施シ.以テ絞縄ノ環ニ懸クルニ擬ス.
 凡踏石ハ.長サ二尺.博サ一尺五寸.厚サ三寸.凡踏板ハ.欅木ヲ以テ之ヲ為ル.長サ一尺六寸.博サ一尺.厚サ三寸.四板ヲ具ヘ.囚ノ長短ニ随ヒ添捨ス.

 凡囚ヲ絞スル.両手ヲ背ニ縛リ.紙ニテ面ヲ冒ヒ.率テ絞場ニ就キ.先ツ.柱前ニ踏石.踏板ヲ畳子.囚ヲ柱ニ寄セ.項後ヲ枕ニ当テ.板上ニ立シメ.次ニ.腰縄ヲ結ヒ.次ニ.足ニ鐐ヲ収シ.次ニ.絞縄ヲ項下ニ施シ.次ニ.大懸錘ヲ縄環ニ鉤シ.次ニ踏板ヲ捨テ.次ニ小懸錘ヲ鉤シ.懸空凡三分時.死相ヲ験シテ.解下ス.
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 最初の部分は絞柱の説明になっています.
 それぞれの部分の大きさや重さなどを詳細に記述しています.
 最後のパラグラフ以降では,どうやって死刑を執行するかを記述しています.
 しかし,「両手を後ろ手に縛り,顔を紙で覆う」と言った方法には言及がありますが,では誰が執行するのかは記されていません.

 1873年1月12日の司法省指令では,
「絞首ハ監獄則所載ノ獄丁下男ヲ使用シ別ニ給与セズ尤手当金ノ儀ハ同所図式ノ出勤表ニ従ヒ取リ計フベシ」
とあり,獄丁や下男が,山田浅右衛門の様に金5両を貰う訳では無く,死刑執行に関与していました.
 獄丁とは,監獄則に依れば,
「獄丁ハ皆ナ傭夫ニシテ上中下三等ニ分ツ役囚ヲ指揮スルニ鉄杖ヲ用フ下男ハ獄署ノ雑事及ヒ庁ヘ往復等ニ使用ス」
とあって,正規の官吏では無く,傭人との立場でした.

 何故,山田浅右衛門の様に特別手当が支給されなかったのか,それは死刑の執行方法に依ります.
 斬首の場合,死刑囚の身体を刀で斬りますが,死刑執行人自身が直接その身体を接触させる訳ではありません.
 江戸時代の死刑で死刑囚に直接身体を接触させるのは,所謂非人です.
 これは罪人との接触に対する忌避感から生まれた差別的な役割分担であり,この忌避感は明治の中頃,即ち監獄が機能し始める頃まで温存されていました.
 因みに,1881年には獄丁は改称されて,看守の助手である押丁と言う職業が生まれました.
 これは罪人の縄を執る事を良しとしない,士族の風潮から生み出されたものでした.

 斬首に対して,絞首刑の場合は,刑の執行方法でも死刑囚との身体的接触は不可欠でした.
 しかし,先に見たように,罪人の縄を執る事すら忌避していた士族階級にこんな事をさせる訳には行きません.
 そこで,非人を獄丁と称して雇傭し,死刑囚の扱いを主に行ってきた訳です.
 ただ,江戸時代,非人が行ってきた磔と言う刑は,身分の低い人間が死刑執行を担う事で,死刑の中でも磔刑が重刑である事を示すためでした.
 明治維新になると,死刑の性格は,「身首処を異とす」かどうかが重視された様に,死刑囚への身体のダメージが死刑の軽重を左右しただけで,死刑執行人が非人か否かは余り重視されていません.

 但し,獄丁は死刑執行を行う者として制度的に明確に規定されていませんでした.
 獄丁が行うのは,あくまでも死刑囚の身体に触れる部分であり,実際に死刑を執行したのは絞柱と言う器械だったと言う訳です.
 つまり,獄丁は死刑囚の介添人という位置づけでした.
 介添人程度の仕事ならば,斬首刑のような特別な技能は必要ではありません.
 この為,特別手当の支給やそれ専門の人間が雇われる事もありませんでした.

 ところが,獄丁は死刑囚の介添人ではなく,死刑を行う絞柱を操作したり,補助する役目を担っていました.
 例えば,拳銃で人を殺した場合に,「私が殺したのでは無く拳銃が人を殺したのだ」という論理が通らないのと同じで,死刑執行の役割を担ったのは実際には獄丁だった訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/09/26 23:28
青文字:加筆改修部分

 絞首刑の器械として,明治初期に考案された絞柱でしたが,これは1872年8月の司法省伺で早くも改造が提案されています.
 理由は以下の通り.

> 新律綱領獄具図式中絞罪器械ノ儀ハ実用ニ於テ絶命ニ至ル迄ノ時限モ掛リ従テ罪人ノ苦痛モ有之候ニ付今般西洋器械ヲ模倣シ別紙図式ノ通製造致シ候間従前ノ器械ハ被廃止候様仕度此段相伺候也

 つまり,絞柱には,死刑囚を柱に立たせて首を後ろから絞め上げても,直ぐに死なないと言う致命的な欠点がありました.
 その為,死刑囚は死に至るまで多大の苦痛を被る事になります.
 この様な方式は改善の余地があると言うので,西洋の器械を真似た新しい器械を作る様にと打診したのが,この司法省伺です.

 その結果,1873年2月20日,太政官布告第65号が発せられます.
 この布告によって絞柱は廃止となり,絞架が登場する事になります.
 因みに,この時の太政官布告第65号が,現在に至るまで連綿と絞首刑が合法である事の根拠とされています.

 1882年1月1日に旧刑法(明治13年7月17日太政官布告第36号)が施行されると,その第12条にて「死刑ハ絞首ス但規則ニ定ムル所官吏臨検シ獄内ニ於テ之ヲ行フ」と定められる事になりました.
 この時,斬首刑は完全に姿を消し,死刑は絞首刑に一本化されます.

 この旧刑法施行に合わせて,「内務省達乙第15号」で「監獄署以下分掌及ビ傭人分課例」 が定められました.
 そして,この時に獄丁は押丁と改称されましたが,旧刑法附則1条(明治14年12月19日太政官布告第67号)にて,この押丁が死刑執行を担う事が記載され,死刑執行人が定められる事になります.

 押丁は看守の助手のような役割を果たしています.
 その具体的な職務解説では,
「其職務ハ捜検,縄取,死刑ノ執行,監房ノ検査,戸扉ノ開閉,食物其他諸物品の受渡,病者ノ看護,屍体ノ取片等」
とあり,
「固トヨリ職務ニ尊卑ノ差別アルヘカラサルコト勿論ナレトモ」
とした上で,次のように書かれています.

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其中には間々外観ノ美ヲ欠クモノアルカ故ニ動モスレハ輙チ之レカ為ニ在監人ノ軽侮ヲ招キ多少其位置ノ尊厳ヲ欠クノ恐レナキ能ハス是ハ特リ押丁其人ニ対スルノ不幸ナルノミナラス併セテマタ監獄ノ紀律上ニ於テハ鮮カラサル弊害アルヲ免レス是レ或ハ職務ノ性質上止ムヲ得サルノ結果ナルヘシト雖モ然カモ亦タ押丁ノ自ラ己レノ卑シミ且ツ其地位及ヒ其職務ヲ侮リ往々囚人ノ猜疑ヲ掠メテ聞クモ忌ハシキ卑劣ノ行為ヲ犯スモノアルニ帰因セスンハアラスレハ仮令ヒ其職務外観上稍々高尚ナラサルノ憾ナキ能ハスト雖モ若シ果シテ精励且ツ忠実ニ之レニ従事シタランニハ終ニ反ッテ在監人ノ敬慕信愛ヲ得ルニ至ルヘキナリ職業ニ尊卑ノ差別ナシ人ニ由ッテ始メテ尊卑ノ差別ヲ生ストハ西諺,称スル所ナルカ思フニ押丁ノ職務ノ如キモ其人先ツ自ラ之ヲ卑下シ然ル后始メテ卑職賤務ノ名ヲ招クニ至ル然ルニ其職務ノ性質ヨリ単純ニ之ヲ考フレハ啻タニ卑賤ノモノニアラサルノミナラス反ッテ大ニ名誉アリ価値アルノ職務ナリト謂ハサルヲ得ス試ミニ思ヘ押丁ナル者ハ其身最モ近ク且ツ常ニ囚人ト接触スル職務ヲ有スル者ニアラスヤサレハ其挙動ノ一顰一笑善悪トモニ常ニ囚人ノ注意ヲ惹キ而シテ其ノ冥々裡ニ於テ感化上ニ影響スル所ノ勢力ノ偉大ナルコトハ実ニ予想ノ外ニアルヘキコトヲ信ス言ヲ換ヘテ之ヲ言ヘハ押丁(看守ハ勿論ナレトモ)ハ典獄,教誨師等ノ囚人ニ対シ口説スル所ノ凡ヘテノ善言嘉行ヲ眼前,躬行実践ニ表ハシテ彼レ頑冥固陋ノ囚人ニ示ス所ノ活亀鑑タル責任ヲ負担スルモノナリト謂フヘシ故ニ曰ク躬行実践ニ由ッテ常ニ囚人ノ敬慕信愛ヲ受クル所ノ看守若クハ押丁ノ片言隻句ハ其囚人ヲ感動セシムルコト寧ロ名?智識ノ舌頭ヲ麋ラシテ講説セル一場ノ教誨ニ勝サルノ力アリト又曰ク監獄ニ於ケル教誨感化ノ目的ハ看守又ハ押丁ヲ俟ッテ始メテ能ク之ヲ貫徹スルヲ得ヘシト過言ニアラサルナリ職ニ押丁ニアル者宜シク常ニ此言ヲ服膺シ其ノ位置ノ行刑上最モ必要ノ一機関タルヲ認メ孜々黽勉スル所アリテ可ナリ
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 要は押丁は監獄でのダーティーワークを任された存在故に,押丁自身が自らの職務を卑下する所為で,押丁は「卑職賤務」となったと述べ,しかし,その考えは誤りであり,押丁が最も囚人に近しく接する存在であればこそ,その一挙手一投足が囚人の教育に多大な影響を与えるのだ,と其の職務の重要性を強調し,押丁に自らを卑下しない様に呼びかけています.

 とは言え,ダーティーワークには死刑執行も含まれています.
 死刑囚の身体に触れる介添人として,獄丁や押丁が死刑執行を担うようになったのも,囚人との接触が多い職務である事の結果であるとも言えます.

 しかし,この押丁と言う職業は,総ての監獄に存在した職種ではありません.
 1881年から1900年までは,監獄費は各地方の支弁であり,全国の監獄の運営形態は一律ではありませんでした.
 その為,『大日本監獄協会雑誌』第42号の刑法附則問答では様々な問題が提起されていました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/09/28 00:00

 さて,死刑の執行と言うのは,旧刑法附則第1条にて押丁が行うと決められています.
 その条文は次の通りです.

> 死刑ハ其執行ヲ為ス裁判所ノ検察官書記及典獄刑場ニ立会ヒ典獄ヨリ囚人ニ死刑ヲ執行スベキコトヲ告示シタル後押丁ヲシテ之ヲ決行セシム但其時限ハ午前十時前トス

 ここで問題になるのは,「押丁」と言う職種の人を雇っていない場合,どうなるかと言うものです.

 宮崎県では此の点が問題になっています.
 従って,宮崎県で死刑を執行する場合は,刑法附則違反になるのではないかと言う疑問が出て来ました.

 これに対し,監獄の勉強会的な団体である大日本監獄協会側は,押丁は死刑執行のための役職として特に設けられた訳で無く,死刑執行は監獄の中で最下等の職掌が担うものであり,刑法附則が施行された際には,押丁がその最下等だったため,附則第1条に偶々押丁の2文字が記載されただけに過ぎず,押丁がいない宮崎県のような場合は,その1つ上の職掌である看守が担う事になる,とし,それは寧ろ死刑という仕事を丁寧に行っていると言えると回答しています.

 では,刑法附則第1条に「押丁」の文字を入れなくとも,他に広い意味の文字を使った方が良いのでは無いかと言う問いもありました.

 これに対し,大日本監獄協会では,確かに「押丁」に限定しているのはおかしな事であり,将来的にはより広い意味を持つ監獄官吏に改めて貰う様にしたいと回答しています.

 但し,刑法附則には根本的な問題があります.
 監獄の中から死刑執行を担う者を選ばねばならないのは何故かという問いには明確に回答が為されていないのです.
 江戸時代の斬首の場合,死刑執行は,表向き,奉行所同心の仕事でした.
 牢役人の仕事では無かったのです.

 また,旧刑法第12条では,死刑は獄内で行うとしているのですが,監獄内の人間が死刑執行を担うとは書かれていません.
 そもそも,監獄というのは自由刑執行の場であり,総ての刑罰を執行する場所では無いのです.
 そう言う意味では,本来は監獄と死刑執行施設は明確に分けるべきだったりします.

 ところが,1889年6月の内務省訓令第29号「看守及監獄傭人分掌例」の第5章押丁の職務には,第64条に,「死刑者アルトキハ上官ノ指揮ヲ受ケ其執行ニ従事スヘシ」と明記されており,死刑は明確に押丁の職務として位置づけられる事になりました.

 しかし,死刑は極刑であり,究極の刑罰にも関わらず,その様な刑を最下等の職掌である押丁に何故任せたのかと言う問題は残っています.

 先述の通り,江戸時代の牢屋と明治の監獄は性格が異なります.
 しかし,最下等の職掌である押丁には,職務として囚人との身体的接触がありました.
 江戸時代の牢屋でも,罪人と身体的接触が最も多かったのも,牢屋の最下等の職掌に当たる非人です.
 幾ら牢屋と監獄は違うと上層部が否定したとしても,同じ最下等の職掌同士の伝統は,江戸から明治に至るまで連綿と続いていたのです.

 この押丁制度は1909年4月1日に廃止されました.
 押丁の全廃は明治中期から有りましたが,明治初期に幅を効かせていた江戸時代の残滓である旧士族が,没落や世代交代などで減り,従来は士族が罪人と接触するのに忌避感があったのですが,時代を経るに従って,旧士族も抵抗感が無くなってきたのでは無いかと考えられています.

 こうして,押丁は廃止され,1909年の「看守及ヒ女監取締職務規程」の第45条に,「看守ハ上官ノ指揮ヲ承ケ死刑ノ執行ニ従事スヘシ」と明記される事になります.
 これが現在に至る,死刑執行の役割を看守が担う事になる始まりです.
 その理由は,ただ1点,押丁が消滅した事で看守が監獄内で最下等の職掌となった為でした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/09/28 23:18


 【質問】
 明治維新以後,死刑執行手続きはどう変わったのか?

 【回答】

 さて,人間にとって管理された死の形態の1つであるのが死刑です.

 死刑にも規程に基づいた仕来り的なものがあります.
 旧刑法では,先ず裁判で死刑が確定すると,検察官は司法省の長たる司法卿に訴訟書類を提出します.
 これは治罪法第460条1項「死刑ノ言渡確定シタル時ハ検察官ヨリ速ニ訴訟書類ヲ司法卿ニ差出ス」となっているものを忠実になぞった訳です.

 それを基に,司法卿は死刑を命じます.
 これも,旧刑法第13条に「死刑ハ司法卿ノ命令アルニ非サレハ之ヲ行フヲ得ス」と規定されています.
 そして,死刑が命じられると,3日以内に刑を執行しなくてはなりません.
 治罪法第460条2項にも,「司法卿ヨリ死刑ヲ執行ス可キノ命令アリタル時ハ三日内ニ其執行ヲ為ス可シ」とあります.

 しかし,死刑を行ってはいけない日と言うのがあり,その日には死刑を行ってはいけませんし,死刑囚が女性で,妊娠している場合は死刑執行は停止されました.
 死刑を行ってはいけない日と言うのは主に祝祭日であり,本来人々が喜びを得る日に,死刑に処された家族達に悲哀を齎すのは忍びないと言う御上のお慈悲です.
 死刑が禁じられた日を定めたのは刑法附則第4条です.
 それに由れば,宮中大祭の1つである元始祭の1月3日,孝明天皇祭の1月30日,紀元節の2月11日,春季皇霊祭の春分の日,仁孝天皇祭の2月21日,神武天皇祭の4月3日,六月大祓の6月晦日,秋季皇霊祭の秋分の日,神宮新嘗祭の10月17日,天長節の11月3日,後桃園天皇祭の12月6日,新嘗祭の11月23日,光格天皇祭の12月12日と十二月大祓の12月晦日が設定されています.
 もう1つ,妊娠については,刑法附則5条で
「死刑ノ宣告ヲ受ケタル婦女懐胎ト申スル者ハ医師及ビ穏婆ヲシテ之ヲ検査セシメ果シテ懐胎ナル時ハ検察官ヨリ司法卿ニ上申シテ其執行ヲ停メ産後一百日ヲ経テ更ニ司法卿ノ命令ヲ受ケ決行ス可シ」
と規定しています.

 こうした条件をクリアしない限りは,死刑命令が出されると死刑執行の公告が警視庁門前に3日間掲示され,それとは別に宣告書の謄本が作成され,犯罪が起こった地域と死刑囚が住んでいる地方の府県に送られます.
 その根拠法令は以下の通りです.

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1882年2月司法省通達丙第3号刑死者犯由榜示

 処刑ノ者犯由掲示ノ儀ニ付明治七年当省第九号ヲ以テ相達シ置キ候旨モ有之候処今般刑法実施ニ付テハ明治十四年第六十七号公布刑法附則第八条ニ拠リ自今左ノ通改正候条此旨相達候事
一 死刑ノ執行アリタルトキハ重罪裁判所書記ニ於テ左ノ雛型ニ拠リ公告案ヲ製シ三日間該庁門前ニ掲示シ且別ニ宣告書ノ謄本ヲ製シ犯罪ノ地並ニ犯人住居ノ地方(東京ハ警視庁)府県ヘ速ニ送還スヘシ
一 警視庁府県ニ於テハ重罪裁判所書記ヨリ死刑宣告書ノ謄本送達アレハ左ノ雛型ニ拠リ犯罪ノ地並ニ犯人住居ノ地何レモ三日間通○ニ榜示スヘシ
------------

 そして3日が経つと死刑執行当日.
 その状況は監獄によって異なりますが,岡山の場合は,概ね以下の様な状態でした.
 当日は,先ず看守長が絞架台を始めとする刑具の点検を行います.
 次に看守の何人かが監獄の要所に立ち,外から誰も入ってこないように見張ります.
 器具の点検と密行化の措置が終わると,典獄が死刑囚に対して死刑執行の旨を告示し,看守と押丁に死刑囚を押送させます.
 但し,死刑執行は前日までに死刑囚に伝えられているので,此の告示は極めて儀礼的なものです.
 此の儀式は,岡山の場合は1895年12月岡山訓令監第6号(死刑執行手続)の第3条に規定しています.

 密行化は,死刑に携わる者以外は全て排除するという動きで,これは刑法附則第2条
「死刑ヲ行フ時ハ刑場ノ警戒ヲ厳ニシ執行ニ関スル者ノ外刑場ニ入ルヲ許サズ但立会官吏ノ許可ヲ得タル者ハ此限ニ在ラズ」
に対応しています.

 刑法附則第1条で
「死刑ハ其執行ヲ為ス裁判所ノ検察官書記及ビ獄司刑場ニ立会獄司ヨリ囚人ニ死刑ヲ執行ス可キコトヲ告知シタル後押丁ヲシテ之ヲ決行セシム但其時限ハ午前十時前トス」
とあり,死刑執行は朝10時前に行う事になっていました.
 この時間帯は,最も近隣住民を刺激しない時間であり,密行化を図る措置の1つでもある訳です.

 死刑囚を連れて刑場の外に着くと,先ず死刑囚の目を布で被います.
 その後,場内に入ると直ぐに刑場の扉が閉められ,臨検官を務める検察官の指揮の下,看守・押丁2名に手伝わせて死刑囚を絞架に座らせ,1人の看守がその下で床板を開けるためのレバー(機車柄)を惹く準備をします.

 因みに,目を覆う理由は,心理学的に言えば,殺される者の目を見なくても済む様にする事で,殺される者と殺す者の間に心理的な距離を生み,それによって,殺す者が殺す相手の人間性を否定するのが容易になるからだと言われています.
 また,死刑に官吏が立ち会って指揮する理由は,死刑が必要以上に残酷にならない為でした.

 絞架に上った看守・押丁は,先ず死刑囚の両足を縛り,死刑囚を踏板の上に直立させます.
 次に絞縄を首に回して喉に当て,縄を縮めて鉄環で固定すると,死刑準備が完了となります.
 準備終了後は,絞架上の看守が,下で待機している看守に手を上げて合図し,その合図を受けて絞架下の看守はレバーを引き,踏板を開きます.
 すると,死刑囚は下に落ち,首を吊った形になります.
 これも各府県で異なりますが,岡山県の場合は,1895年12月岡山訓令款第6号の第4条後段に規定されています.

 首を吊った後の死刑囚は,落下の衝撃で意識を失い,気管が潰れて窒息死します.
 ただ,意識は失うものの,心停止までには10分以上の時間を要するので,即死とは言えません.
 7名の死刑囚の平均絶命時間は,13分58秒だそうです.
 そして,顔面蒼白,筋肉弛緩とそれによる糞尿垂れ流しが起きて,やがて死に至ります.

 その後は,立会の監獄医が死刑囚の死を確認し,立ち会った官吏が書記が作った始末書に署名捺印して,その始末書を検事局に納める事で死刑は終了します.
 これも,刑法附則第3条に,
「死刑ノ執行畢リタル時ハ書記其始末書ヲ作リ立会ヲ為シタル官吏ト共ニ署名捺印シ之ヲ裁判所ノ検事局ニ納ム可シ」
とあり,監獄医の検視は府県ごとに異なりますが,岡山の場合は1895年12月岡山訓令款第6号第5条に規定されています.

 死刑後の遺体は,親族や友人の誰かが引き取って弔いたいと願い出ればその人に渡しますが,いない場合は,所定の場所に埋葬します.
 これも,刑法附則第6条に
「死刑ノ遺骸ハ一定ノ場所ニ埋ム若シ親族故旧請フ者アル時ハ獄司之ヲ許可シ下付スルヲ得」
と規定されています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/09/29 23:49
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 明治維新以後の死刑制度の手本になったものは?

 【回答】

 日本の死刑執行方法は,英国のLong Drop方式を真似たものです.

 英国の死刑制度は,1829年にロンドンに警察制度が導入され死刑制度がスタートします.
 但し,その数は1837年に死刑相当罪が15に減少し,1861年になると,殺人罪,反逆罪,海賊行為,特殊放火罪の4種類に更に減少しました.
 1908年になれば16歳以下の少年に対する死刑が廃止され,1930年にその年齢は18歳に引き上げられ,1948年には21歳にまで引き上げられました.

 この間,1928年に死刑廃止法案が提出され,5年間の試験的死刑廃止が勧告されましたが,これは議会で否決されます.
 しかし,1930年には議会に「死刑に関する特別委員会」が設置され,死刑廃止が下院に訴え続けられます.
 その成果もあって,1948年の死刑廃止法案は賛成254票,反対222票で下院を通過したのですが,上院では賛成28票,反対181票で否決されてしまいます.

 これが大きく動いたのは,自分の妻子を殺害した罪で1950年に死刑になったティモシー・エヴァンズが,実は冤罪であった事が1953年に判明した所謂ティモシー・エヴァンズ事件が起きて,更に1953年にはロンドンに近いマーローで巡査傷害事件が起き,2年後にその事件も冤罪であったことが判明して真犯人が逮捕されます.
 この事件の被疑者は幸いにして死刑判決を下されていなかったのですが,これを切っ掛けに,若しも死刑だったら取り返しが付かない所だったという意識が国民で強まります.
 この影響から,1955年と1956年に死刑廃止法案が提出されています.

 1957年,殺人罪に等級を付けると言うThe Homicide Act 1957が成立します.
 これにより,死刑相当罪とそうでないものとが分けられたのですが,この法律には減弱責任と言う概念で作られていたために大きな問題を孕んでいました.
 即ち,銃で殺すと死刑になるのに,ナイフで殺すと死刑は免れると言う抜け道が多数用意されてしまったのです.
 この為,この法律には多くの非難が寄せられてしまいました.

 これを受けて,1964年11月8日,The Murder [Abolition of Death Penalty] Actが両院議会を通過し,1965年10月28日に成立します.
 これは5年間,試験的に死刑執行を中止するという時限立法で,その有効期限が切れる1969年,ウィルソン内閣が死刑永久廃止法案を下院に提出,12月16日に賛成343票,反対185票で下院を通過しました.
 この時,死刑廃止は時期尚早として,現行法の試験期間を1973年3月まで延長する修正動議が出されますが,これは退けられ,法律は成立する事になりました.
 ただ,これは4種の死刑執行対象罪の内,殺人罪に関する死刑が廃止されただけで,また,陸海空軍の刑法では殺人罪に対して死刑が依然として適用されていたので,完全な死刑廃止が実現した訳ではありません.

 英国で死刑が完全に廃止されたのは1998年5月,また,1999年には欧州人権規約第6議定書,市民及び政治的権利に関する国際規約第2選択議定書を批准します.
 因みに,この2つの条約は何れも例外なく死刑を認めないと言う宣言です.

 ところで,死刑執行が行われていた頃の英国では,日本のように看守が死刑執行を行う訳では無く,専門の死刑執行人が存在しました.
 その死刑執行人は,代々続く人もいるかも知れませんが,中にはそれを志願して行う人もいました.
 例えば,1901年12月14日に死刑執行人の助手に採用され,1907年1月1日から主任死刑執行人に任命されて後,1924年3月に辞職するまで203回の死刑執行を行ったジョン・エリスと言う人物がいます.

 その自伝によると,彼が死刑執行人を選んだのは尊敬すべき官吏の仕事で有り,国家のためには誰かが死刑執行人にならなければならないから自分が志願したと述べています.
 この様に,死刑執行人は刑務官から選ばれた訳では無く,志願で選ばれました.
 刑務官が矯正教育を主任務とするのに対し,死刑執行人はその対極にいます.

 この死刑執行人と言う職業,仕事が当然毎日ある訳ではありません.
 時には数週間の間,何も仕事が無い日々もあります.
 死刑執行人の給料は,月給制では無く出来高払いなので,死刑執行が無ければ収入もありません.
 また,死刑執行人は,監獄の職員ではありませんでした.
 従って,収入を得るには特定の監獄にいる訳では無く,死刑執行のニーズがある幾つもの監獄を転々として,死刑執行を請け負うと言う生活を行っています.
 その為,ジョン・エリスよりも前の世代の死刑執行人であったジェームズ・ベリーは,死刑宣告の出る新聞記事を精読するのは酷いと思うので,せめて月給制として退職後は年金も支払われる公務員の扱いにして欲しいと提案していますが,1884年,この提案は内務省によって退けられています.

 死刑執行人は志願して直ぐになれるものではありません.
 先ずは助手を何年か務め,それから漸く主任死刑執行人になれるのです.
 そこには絶対的な格差がありました.
 助手の仕事は,主任が死刑囚の首にロープを回したり,顔に白い帽子を被せたりする間に両膝を紐で縛る位であり,絞首する縄の長さの測定や絞架台の点検などは総て主任が責任を負う事になっていました.
 つまり,絞首刑の執行は専門性を必要とする仕事だった訳です.

 この絞首刑には特別な技術は必要ないと言う考えが一般にありますが,縄の締め方,宛てる位置,縛り方を間違えると,直ぐに死ねなかったり失敗したりと言う事態が発生します.
 従って,死刑囚の首にロープを回すのも技術が必要でした.
 また,白い帽子を被せるのは,死刑執行人の挙動を死刑囚に見せないようにする英国の慣例でした.

 日本では,先述の山田浅右衛門の様に,斬首の場合は特別な技術が必要であると言う認識だったのですが,絞首刑については,今まで存在していなかった刑罰で,明治になってから導入されたものなので,専門技術を必要とする認識は余りなかったようです.
 その為,英国の制度を導入しつつも,技術を持って死刑を執行する死刑執行人の導入は行われず,監獄の最下等の職員をそのまま死刑執行の任務に就ける事になったのです.
 この為,死刑執行を行っても,完全に絞首出来ないケースも少なくなく,寧ろ死刑囚の苦痛を増すだけになる事も多かったりしますし,看守も心理的負担が掛かるケースが多くなったりしています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/09/30 23:00
青文字:加筆改修部分


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