c

「戦史別館」トップ・ページへ

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ   サイト・マップへ

◆◆◆通信網整備 Előkészítés kommunikációs vonalhoz
<◆◆新政府誕生以降
<◆明治維新 目次
戦史FAQ目次


(画像掲示板より引用)


 【質問】
 日本における電気通信の始まりは?

 【回答】
 江戸時代の日本では,科学と言う分野はありませんでしたが,エレキテルを作った平賀源内とか,各種の電気実験を行い電気工学書を著した橋本曇斎,日本最初の本格的な物理学書を残した帆足万里と言った面々が,電気工学の分野に灯りを点していました.
 但し,この頃の人々は静電気を扱ったものであり,電流や磁気を利用するまでには至っていません.

 この電流と磁気を利用すれば何が出来るか,と言えば,当時の電気工学の最先端を行く,「電信」と言うものに行き着きます.

 電流と磁気を利用して日本初の電信機を試作したのは,幕末には必ず登場する佐久間象山です.
 象山は,思想家,兵学者,蘭学者と多彩な才能を拡げていましたが,電気装置の試作は高度なまでの域に達しています.
 象山が勉強したのは,オランダのシヨメール百科全書であり,この本とちょっとしたオランダ渡りの事物にの見聞をしただけで,電池を作り,電磁石を作り,更にそこから発展して電線や電信機を作り上げました.

 1849年,松代にある鐘楼と近くの小屋との間約60mに銅を絹で巻いた電線を張り巡らすと,「サクマシユリ」(佐久間修理)と言う電文の送受に成功しました.
 この時,象山が試作した電信機は,ホイートストン式のABC指示型電信機でしたが,この試作実験は,モールスの印字式に遅れること12年後,ホイートストンのABC指示型の僅か9年後に行われたものです.
 残念ながら,その後の動乱で象山の業績は,海防の話とか幕末の志士としての話しかありませんが,日本の科学史に残る業績はもっと知られても良いのでは無いかと思ってみたり.
 まぁ,確かに異論はあったりするのですが,初歩的な電信機ならば,簡単な電池と電磁石と電線があれば成立します.
 電池も,余り長く保たせる必要もなければ,炭と塩と金属板で出来てしまいますから,これは成功したと考えても良いのでは無いか,と思うのですが.

 この他,オランダ商館の風説書で英仏海峡間の電信実験の話とかも齎されており,ある程度の基礎は出来ていました.

 従って,黒船がやって来て,ペリーがこれ見よがしに幕府に献上するモールス電信機一式を据え付けて実験し,それを幕臣達に見せても,黒船ほど恐れ入ったと言う態度を示す幕臣達はいなかった様です.
 寧ろ,これに触発されて,電信機を自作しようという人々が多く出る様になりました.

 このペリーの電信実験は,無名の日本人によって記録されています.

――――――
 テレガラフの仕掛,洲乾より御假屋迄六七町の処,長十間位程に杭を立て,杭の長さ三間位先へ鐵にて青く塗り,如期物を付,夫へ白き糸を巻付候針金を引張り,太さ位也.
 此テレガラフは海にても,如是切れ不申様に致し置候得ば,四十里五十里にても,此ハリガネ糸を引候得ば先迄響きてよし,変事有る時の注進之道具なる由(以下略)
――――――

 御假屋はペリー一行を応接した応接所のこと,洲乾とは横浜干弁天境内にあった名主吉左衛門の座処で,その間6~7町,つまり800m程度に電信が曳かれ,その電線を張り巡らせる杭,つまり,電柱の間隔は18mで高さは5m程度と判ります.
 架設された電線は,白い絹か木綿で被覆されており,材質は記録は無いものの,別の記録では銅線であった様です.
 更に碍子の形状,電線の太さ,帰化されたその機能も明確に記述しています.

 こうした記録は他に,献上式典でも実演された時の物が残っているほか,江戸市中でも実演した記録があります.

 ペリーが徳川家に献上したのは,逓信総合博物館に実物があるそうですが,ノルトン社の製品で,エンボシング・モールス電信機と言う方式のものです.
 これは紙テープに鉄の針を押しつけて,モールス符号に対応するくぼみを作って記録する方式です.
 因みに,ペリーが電信機を献上したと言う話を聞いて,オランダも18式の電信機を献上しましたが,それは幕末のどさくさでその後所在不明になっています.

 但し,その内の1セットが浜御殿に於て,家定の台覧に供されています.
 この時の実演の責任者は勝海舟で,この時は仮に定めたモールス符号で,「天地和合」「鶴亀」「梅松竹」「今日無事」などを送受信したそうです.
 因みに,象山と同じく勝海舟も,この頃は象山の弟子であった影響からか,未だ政治家と言うより理工学に強い興味を示しており,自ら電信機の製造を計画し,『傳信機之解』なる解説書まで残しています.

 余談ついでに,高橋是清が外国人に頼まれて勝海舟と会合を持った時,勝海舟の話が三角関数に及んだので,通訳出来ず困ったと言う話も残されていたりします.

 ペリー来航から3年後,薩摩島津家の当主島津斉彬は,俊英を集めて集成館と言う研究所を作り,様々な西洋の文物を作らせています.
 その中に,松木弘安と言う人がいました.
 この人は元々医者ですが,医学と共に西洋理学の一端を学んだことから,斉彬の侍医を務める傍ら,中原猶介等と共に,大砲,造船,地雷などの兵器研究は勿論のこと,石炭ガスや湿板写真の研究まで多彩な活動を繰り広げます.

 当然,電信機も彼らの興味の対象であり,1857年には鹿児島城内に600mの電線を架設し,電信実験を繰返しました.
 これには蘭癖大名である斉彬もとても喜び,毎日の様に殿様自ら通信を試みたと言われています.
 この電信機はモールス型でした.

 これは1855年に斉彬の音頭取りで,江戸表に於けるオランダ文献翻訳が開始され,1856年に江戸で基礎実験が実施され,薩摩に斉彬が帰国すると,更に大々的な実験が行われたのです.
 この電信機実験には,松木弘安の他,蘭医の緒方洪庵,ペリー国書の翻訳を行った蘭学者の杉田成卿,蘭学者で『遠西奇器術』と言う科学技術書を著した川本幸民,江川太郎左衛門の弟子で日本水雷の祖とされる中原猶介,その他,宇宿彦右衛門,肥後七左衛門,梅田市蔵なども絡み,蒼々たるメンバーがこのプロジェクトに携わっています.

 因みに松木弘安は,電信機試作の後,英語を本格的に勉強して,1861年に幕府の遣欧使節随員に選ばれて奥州を視察して回りました.
 1862年に帰朝するものの,薩英戦争では2名の捕虜の内,1名になってしまう辱めを受けます.
 釈放された後は,薩摩藩きっての外交通として英国とのパイプ作りに奔走し,西郷隆盛とパークスの会合をセットしたりもしました.
 後に,彼は寺島宗則と改名し,新政府の外務卿として,また,電気通信の『建議書』を新政府に提出して,日本の電気通信の生みの親となったのでした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/05/20 23:49
青文字:加筆改修部分

 さて,昨日は佐久間象山と松木弘安の話を書いた訳ですが,同じ時代,佐賀鍋島家には,鍋島直正の下で一連の近代化が行われており,大砲の鋳造,蒸気機関の製造,蒸気船の試作など様々な試行が行われていました.
 その様々な試作品の中にも電信機があります.
 電信機は,薩摩に遅れること1年後の1858年に試作成功に漕ぎ着けました.

 こうした一連の作業に携わっていたのが,からくり儀右衛門こと田中久重です.
 久重は,弘安と違って職人上がりでした.
 10代の頃から細工師として,箱細工,箪笥細工,ポンプ,空気銃などを考案しましたが,特に久留米絣の考案者井上伝の近くに住んでいたことから,これを手伝い,14歳にして久留米絣の模様を旨く織る装置を開発したと言う話も残されています.

 20代になると,伝統的な絡繰人形に目を向け始めますが,従来のゼンマイなどの利用だけでなく,空気圧を利用した絡繰人形を作り出し,それを持って全国を興行して回ろうとしました.
 しかし,興行師としての才能は無かったらしく,江戸で興行して失敗し,大坂に移って小さな手工業工場経営者となり,懐中燭台,無尽灯,花火などを作り上げていました.

 特に無尽灯は広く世間に普及し,明治に入って石油ランプが普及するまで,日本で最も進んだ照明器具として用いられました.
 これは,菜種油を用いた自動照明器具で,油皿の中の油が減じるに従い,空気圧を利用して柱の中に仕込んだ補充用の油を,皿の中に足していくと言う便利な代物です.
 こうして,工場経営者としての成功を遂げた久重でしたが,好事魔多し.
 30代の終わりに大塩平八郎の乱に巻き込まれて,工場が全焼した為,大坂から伏見に移住しました.
 この頃の工場規模は,職人数30名程度のそれなりに大きなものだったと言います.

 伏見に移住すると,40代にして学問を始め,蘭学と天文学を学びその知識を基にして,20代から興味を持っていた各種の時計製造を試み,また得意の空気圧利用で,強力な消化器を発明したりもしています.
 こうして,52歳の時,有名阿萬年自鳴鐘を完成させました.
 これは,和時計の最高傑作と言われ,科学博物館に収蔵されています.
 その後,蒸気船模型の製造にも成功し,以後,久重は空気圧から,新たな動力源である蒸気機関の利用に目を向けていきます.
 こうした功績により,この頃鷹司関白から「日本一細工師」の称号を授けられました.

 そして,直正に懇望されて,九州への帰郷を決め,京都の工場を畳んで,佐賀鍋島家精錬方に,養子の田中儀右衛門と共に入り,そこでも,大砲,小銃,蒸気砲模型,汽船模型,汽車模型などを製作して,西洋技術をマスターしていきました.

 1858年には遂に電気の世界に進出し,電信機の試作実験に取り組み,薩摩島津家が作り上げたのと同じ,輔イーストン系列のABC指示型の電信機を完成させました.

 60歳代でもその創造は衰えを知らず,特に蒸気機関の製造に力を注ぎ,佐賀鍋島家がオランダから購入した蒸気船電流丸の為に,予備の蒸気汽罐を建造し,それは後に実際に電流丸に据え付けられています.
 この頃,幕府は咸臨丸の航海長であった小野友五郎等を中心に,国産蒸気軍艦の千代田形の建造に邁進していましたが,汽罐だけがどうしても造れず,そうこうしている内に,電流丸の汽罐製造の報が伝わった為,早速佐賀鍋島家に3基の汽罐製造を依頼しています.

 依頼を受けた久重は,忽ちこれを設計・製作し,1863年には幕府に納め,世間にからくり儀右衛門あり,との声望を高め,直正の面目を施しました.
 そして,更にその経験を生かして,純国産蒸気船の凌風丸を建造するのに最難関だった,蒸気機関の製造責任者となり,1865年にはこれを完成させました.

 60代後半になると,久重は故郷である久留米有馬家に懇請されて,佐賀鍋島家から故郷に移り,造船などの相談役になり,また蒸気機関で働く旋盤を備えた近代工場を藩直営で建設して貰い,発明に再び没頭し始め,今度は製造マシンである旋盤,螺子切り装置,自動的に釘を作る装置,大砲,小銃,製氷機,自転車,煙草製造機,写真機,蒸気自動車,空気銃,地雷などを次々に考案したり製造したりしていきます.

 いよいよ明治維新になり,新政府で働く知人達の勧めにより,東京に進出します.
 彼らの希望は,蒸気機関などの重厚長大産業の創出よりも,電信機の国産化にあったと言います.
 因みに,この時にウィーンの万国博に出品すべく,例の萬年自鳴鐘を携えてきたのですが,わずか2週間の遅れで船に間に合わず,涙をのんでいます.

 1873年,久重は現在の港区の当たりに「珍器製造所」(後に銀座に店を構えて「田中製造所」)を構え,73歳の春にして,新発明と実用的な電信機国産に乗り出すことになりました.
 この会社が紆余曲折して,現在の東芝に発展していきます.

 ちょっとからくり儀右衛門の話で先走りましたが,1862年には岐阜の蘭学系技術者であった廣瀬自愨が,電信機の模型を製作して長州毛利家に送り,またアメリカ公使の面前で実験して見せたと言います.

 廣瀬は後に東京下谷に電信機製造所を開き,新政府樹立直後に電信架設許可を願い出ています.
 謂わば,ソフトバンクやKDDIの先駆者みたいなものでしょうか.

 流石に,通信事業は新政府の方針で官営とすることになり,不許可になりましたが,その後,電信機以外でも各種の電気器具を作り,こちらは1873年のウィーン万博に出展して有功賞牌を受ける事が出来ました.
 これは,日本の電気機器が博覧会に出品した最初とされています.
 また,初期の電話機製作にも乗り出し,1881年の第2回内国博覧会に,この電話機を出品して有功三等を得ました.
 但し,経営の才には恵まれなかったのか,或いは後継者に恵まれなかったのか,久重と違って会社は然程発展せず,明治後期には会社も消滅してしまいました.

 ところで,蒸気船と言えば,幕府艦隊を率い,箱館は五稜郭に立て籠った幕臣,榎本武揚が有名です.
 1861年,榎本武揚はオランダに留学し,軍事とか造船を学びますが,榎本が先ず留学先で行ったのが,下宿にモールス電信機を持ち込んで寝室と居間に設置したことです.
 この電信機は,オランダ商社を介してフランスジニエー社から入手したものですが,榎本はこれを使って,モールス信号の練習に励んだそうです.
 因みに,恩赦後の榎本は,寺島宗則とのコンビで,千島樺太交換条約を締結したり,公使として外国に赴任したり,逓信,文部,外務,農商務省の各大臣を歴任したのですが,意外なことに電気学会の初代会長を務めたりもしています.

 1867年に榎本が帰朝した際には,オランダの下宿で練習していたモールス電信機2台を持ち帰りました.
 この時,江戸~横浜の間に架設可能な8里(約32km)分の電信線や碍子も,共に持ち帰っています.
 他に,小型電灯,電気鍍金用具,モータ模型も日本で初めて持ち帰っていたりもします.

 ただ,幕末戊辰の動乱により,それが江戸~横浜に架設される事は無く,電信機とその設備一式は,幕府艦隊の軍艦に搭載されて,箱館五稜郭まで持ち込んでいました.
 しかし,これも箱館が陥落すると,その混乱で行方不明になってしまいました.

 その後1888年,この電信機は意外な所で発見されます.
 初代逓信大臣兼初代電気学会会長として,学会の発表会に出掛けていました.
 その発表会では,逓信省技官吉田正秀が電信の歴史について講演し,それに関連して沖牙太郎が,1881年頃,愛宕下の古道具屋でオランダ製らしい電信機を発見した,と言って見つけた電信機を展示しました.
 それを一瞥した榎本は,
「これは自分やオランダの下宿で練習に使い,日本に持ち帰ったものだ」
と述べて,人々を驚かせました.
 この電信機は,その後沖が逓信省に寄贈したので,逓信総合博物館で保存されています.
 因みに,沖牙太郎と言うのは,現在も盛業中の沖電気工業の創始者です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/05/21 21:53


 【質問】
 なぜ電信会社は国営となったのか?

 【回答】
 さて,明治になる1日前の1868年9月7日,既に出て来た,当時神奈川府判事兼外國官判事だった松木弘安転じて寺島宗則は,外國官に『東京~横濱間電信線布設』に関する建議書を提出しました.

 因みに同じ頃,幕府の旗本だった斉藤大之進も電信・鉄道・大学・女学校設立の建議書を出しています.
 この斉藤は,寺島宗則や福沢諭吉等と共に,渡欧した人物で,後に寺島の部下となって電信建設に従事しています.

 寺島としては,2度の欧州視察及び英国公使パークスとの再三の会談により,電信の重要性を熟知していましたし,島津斉彬の下で電信機を試作し,実験をしていたので,技術内容を詳しく知っていて,
「電信は国としてきちんと建設し,運営すべきだ」
と言う信念を持っていたのでした.

 既に1868年10月には廣瀬自愨による電信線架渉許可願が出され,11月にはフランス人モンブランが建設願いを出し,更に岩崎弥太郎も電信事業についての進出打診を政府に行うなど,電信の民間での布設熱が大いに高まっていました.
 しかし,民間に電信布設を許可してしまうと,資本が圧倒的に少ない日本としては,鉄道や港湾と言った交通網と共に通信網も,諸外国の圧倒的な資本の力によって買収されてしまう可能性が高まります.
 交通と通信は,国を一体のものとして発展させるのに必要なインフラですから,そこを外国に抑えられてしまえば自ずとそれは外国の意のままにされてしまい,遂には植民地化へと歩み出す危険性がありました.

 それを知っていたからこそ,寺島は電信布設を政府の手で行うべきであると言う建議書を出したのです.
 12月に漸くその建議書が廟議で取り上げられ,「電信線を国で布設し国で運営する」と言う決定が下されました.
 こうして,日本の通信網は国営で運営することになり,所管は灯台建設の為に設置された「外國官灯明臺役所」で,その責任者は寺島に任されました.

 とは言え,実用的な資材の国産化は未だ無理であり,電信線や碍子,電信機は欧州に発注し,指導者として灯明臺役所の御雇外国人ブラントンの紹介で,英国人技師ギルバートを招聘しました.
 こうして,1869年8月,先ず横濱内でブリゲー電信機による官用電信の取扱いを開始します.
 これは郵便の1871年や鉄道の1872年より早い着手です.

 ブリゲー電信機は,ホイートストンに端を発するABC指示型の発展型で,文字を指示する指示針が時計状になっているもので,フランス人ブリゲーの発明によるものでした.

 兎にも角にも,この成功に気をよくした寺島は,これを発展させ,9月19日には東京築地と横濱の裁判所を結ぶ電信線敷設工事を開始します.
 この工事指揮には寺島や斉藤大之進,福沢諭吉と共に渡欧した旧幕臣の福田重固が行っています.
 こうしてみると,電信関係には,頭こそ寺島宗則と言う薩摩の人間ですが,実質の手足になったのは意外にも旧幕臣が多いことが判ります.
 福田は,その後も電信業務一筋に生き,1887年に逓信省電信局次長で引退しています.
 因みに,9月19日を新暦にした10月23日が電信電話記念日となった訳です.

 10月には部分的な電信実験を明治天皇の天覧に供し,11月には日本初の通信関係の法令である「傳信機に関する布告」が出されました.
 この布告は7項から成っており,横浜は裁判所東角の電信局で,東京は鉄砲洲運上所右側の電信局でそれぞれ電信を取り扱うこと,代銀はかな1文字に付き銀1分とすること(但し,住所宛名はその文字数には含まず),東京と横浜の電信所から離れた場所への配達は,早飛脚で行うこと,電文を受け取ったら受取書を差し出すこと,秘密の通信は隠し言葉で行う事が出来,それを電信局員は他言しないこと,電信受付は朝8時から晩8時までとすることとなっています.

 12月25日から,東京と横浜の間の和文電報の取扱いが開始され,欧文電報は1870年から,モールス符号は1871年から少しずつ始まっていきます.

 なお,所管官庁は外國官灯明臺から1869年4月から民部官,7月に民部省,8月に民部省と大蔵省が合併して大
 蔵民部省となり,1870年7月に再度分離して民部省,10月から工部省が設置されると,1871年5月からはここに所管が移りました.
 以後,1885年に逓信省が出来るまで,電信に関する事業や教育,法律は工部省電信部門が統括することになります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/05/23 22:46
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 明治初期の日本の電気企業は?

 【回答】
 民間の電気工業の分野では,3つの企業が明治初期から活動を始めました.
 先ず,前述した田中久重の田中製造所,三吉正一の三吉電機工場,沖牙太郎の明工舎の3つです.

 田中製造所は,74歳の田中久重が始めたもので,1873年に久留米から上京後,寺の一角を借りて珍器製造所の看板を掲げて,愛弟子の田中精助,弟子で親戚の田中大吉や川口市太郎を率い,先ず生糸試験器を製造して工部省に納めて信用を得,電信頭である石丸安世から電信機10台の製作に掛り,11月には近くの家を借りて工場とし,翌年に完成させて工部省に納入しました.
 因みに,愛弟子の田中精助は,ウィーン万博視察の為に渡欧した後,1874年に帰朝して工部省電信寮製機所に入所して,電信関連の修理や製造に携わると共に,所長のシェーファーから旋盤技術を始めとする機械工作の極意を学んでいます.

 1875年になると久重は自動印字機付のモールス型電信機50台の製作に掛り,工部省に納入しましたが,これは出来たばかりの電信修技学校の練習用として用いられ,輸入品より優秀との評価を得ました.
 この時には印字機付だけでなく,音響式も製作しました.
 そして,小さな家を出て,銀座の耐火煉瓦街に工作・販売・住宅を兼ね備えた25坪ほどの店を持ち,ここに「田中製造所」の看板を掲げました.
 この年,シェーファーがドイツに帰国したので,田中精助は電信寮製機所の2代目所長となります.
 一方,田中製造所は,電信機から羅針盤から空気銃に至るまで様々な製品を作り続けます.
 この時に作った製品で,最も精密なものとしては,電信によって時報を知らせる報時器や,天動説を説明する機械である視実等象儀があります.

 電信の次は電話です.
 電話が発明されたのは1876年で,1877年には早くも2台が日本に輸入されましたが,これは米国の電話輸出第1号だったそうです.
 しかし,日本の技術者達はたちどころに原理を理解し,1878年には早くも田中精助や沖牙太郎が,2台の電話を製作して実験していますし,田中久重も自分の店で試作して,裏通りを隔てた家との間で実験して成功させています.
 因みに,telephoneを日本語に訳した「電話」と言う単語は,田中精助と同僚の若林銀次郎の共作だったそうです.

 工部省電信寮製機所は,当初古くて狭い土蔵を改装したものでしたが,1878年にやっと予算が付いて新しい建物に移ることが出来ました.
 電信寮製機所では,電信機の国産化が焦眉の急でしたが,1879年には田中久重の弟子である田中大吉,川口市太郎等の有力な弟子達も,田中精助に引っ張られて製機所に入っています.
 つまり,田中製作所がそっくり,製機所に来た様なものです.
 成果は直ぐに上がり,この年にモールス自動印字式10台が,初めて国産化されましたが,部品が直ぐに手に入る現代と違い,それこそネジ1本から作らなければならなかったので,当時は非常に困難を極めています.

 事実,古い資料には,電信機用のバネ1個を作るのに1週間も掛ったと言います.

 田中久重はこの頃齢80で,衰えを見せ始めており,1881年に満82歳で大往生を遂げます.
 田中大吉は,久重の養子として久重の死後,2代目田中久重を名乗り,1882年に製機所を辞めて,工場経営に乗り出し,芝浦の地に大きな工場を建設して,数百名の工員を雇って事業の拡大を始めます.
 主力製品は,従来の工部省向けの製品ですが,警視庁向けに非常報知器を作ったり,海軍向けに水雷を作ったりしていきました.
 1890年には田中精助も製機所を辞して,田中製造所に戻り,大型の蒸気機関,発電機,モーターなどに取組み,日本最初の石油採掘用機械を手がけました.
 この時には工員数700名になりました.

 1893年,経営危機に陥った田中製作所は,三井系の資本を入れて芝浦製作所と改名し,福沢諭吉の愛弟子である藤山雷太を経営者に迎えます.
 この頃から,主力製品は通信機器から電機関係に移り,更に経営資源が重電に絞られて,発展を続けていきました.

 この頃の発展の立役者になったのが,小林作太郎です.
 作太郎は,貧乏な家に生まれたのですが,持ち前の創造力により,15歳の頃,たった1人で長崎に停泊中のフランス商船まで何回も泳いで行って内部を見せて貰い,その知識を基に自力で水面を往復運動する精巧な蒸気船模型を作って人々を驚かせました.
 偶々,これを近くに来ていた伊藤博文が目を留めて大いに褒め,その模型を預かって皇太子に献上し,小林少年には金一封を与えました.
 これが切っ掛けで,上京した作太郎は,伊藤博文から話を聞いた井上馨(芝浦製作所の後ろ盾だった)の斡旋で,芝浦製作所に職工として就職します.

 とは言え,一職工としての職分に収まらず,持ち前の発明力を生かして発電所用の大型発電機を数多く作り上げて日本の重電機工業発展に尽し,遂には一職工から取締役にまで上り詰めました.

 作太郎と同時期に活躍したのが,重電技師の岸敬二郎です.
 敬二郎は小型の岸式直流発電機を発明し,1894年に竣工した巡洋艦音羽には,敬二郎が作った発電機が2基搭載されました.
 これは,日本で初めて軍艦に積まれた国産発電機であり,感激した敬二郎は,生まれた娘に音羽と言う名前を付けたと言います.

 ちょっと端折りますが,芝浦製作所は1939年,同じ三井系企業でGE社と提携して電灯の大手となっていた三吉正一及び藤岡市助の東京電気と合併して,東京芝浦電気となりました.
 これが現在の東芝です.

 田中久重率いる田中製作所は,2代目田中久重や田中精助の他にも多くの人材を育てています.

 先に触れた川口市太郎は,製機所に勤務して電信電話関係の発明を多く成し遂げていますが,特に有名なのは日本の統計機械の先駆である川口式電気集計機でした.
 同じく,田中製作所で働いてた池貝庄太郎は,独立して池貝鉄工所を創業し,日本の工作機メーカーの草分けになりました.
 自転車専門メーカーの宮田製作所の創業者である宮田政治郎もまたスピンアウトした人材ですし,田中製造所で事務を担当していた吉村鉄之助は,三吉工場や製機所出身の石黒慶三郎の協力で,電気機械の製造会社,吉村商会を作りましたが,これは電気用水晶製品の老舗である現在のエプソントヨコムです.
 石黒慶三郎は,友人杉山と共に,石杉社を創立し,他社を合併して,共立電機電線を設立しました.
 その後,日本の無線装置製造の祖である安中常次郎が設立した安中電気の経営にも参画しますが,この両社が合併して出来たのが,安立電気株式会社であり,これは通信用計測器の最大手である現在のアンリツになります.

 てことで,残りの2つはまた明日.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/05/27 23:15
青文字:加筆改修部分

 さて,昨日の続き.

 電信修技学校に学び,卒業して電信寮製機所に入って電信機の製造修理技術を学んだ一人に,岩国出身の三吉正一がいます.
 三吉は,電信寮製機所で電信絹巻機械を発明し,1879年に絹巻電線の製造を開始して,装置内用絶縁電線を国産化することに貢献しました.
 その前の1877年には,足踏製糸器械を発明して,第1回内国勧業博覧会で賞状を得ています.

 1883年になると製機所を退所して,三吉電機工場を設立し,岩国藩校で知り合っていた学者の藤岡市助の設計になる発電機を製造しますが,これが日本人の手で初めて製造した初めての発電機となりました.
 1885年には自分で発電機の設計を手がけ,東京銀行集会所の開所式で電灯の本格的点灯に成功し,日本に電灯が普及する切っ掛けとなりました.

 1890年には三吉工場と別に,藤岡市助と組んで白熱舎と言う組織を作り,職工10人ほどで電球製造に乗り出しました.
 これは困難を極めますが,何とか成功させ,これを基礎に1896年1月に東京白熱電燈球製造と言う会社を設立して初代社長となります.
 この会社は,1899年に三吉が引退すると,藤岡市助によって東京電気となり,これが後に田中久重の芝浦製作所と合併して,東京芝浦電気,つまり,現在の東芝となった訳です.

 一方の三吉工場では,1880年代後半から水力発電機,電気鉄道用モータなど,明治の重電工業界を担う大工場となり,規模から言えば,芝浦製作所よりも大きなものとなり,東京の三田に工場を設置しています.
 しかし,三吉自身,発明に才はあっても,経営には余り才能がなかった様で,日清戦争後の不況と外国製品との競争に敗れて,工場閉鎖の憂き目に遭ってしまいます.
 この閉鎖された三吉工場は,以前そこで働いていた前田武四郎の世話で,創立間もない日本電気に買い取られ,電話機を始めとする通信用機器の生産工場に変身することになりました.
 勿論,三吉は創業期の顧問として名を連ねています.
 これが現在NECの商標で知られる,日本電気の創業時の姿です.

 因みに三吉工場では,先述のアンリツとエプソントヨコムの創業者である石黒慶三郎や,日本電気の創業者の1人である前田武四郎の他,三吉工場の閉鎖直後に独立した重宗芳水の重電機工場は,現在,明電舎として盛業中であり,三吉の愛弟子の1人である皆川春治郎は,三菱電機の製造技術指導者としてその地位の向上に活躍しています.

 もう1人,電機業界の巨人として,広島出身の沖牙太郎がいます.
 この人は農家に生まれたのですが,工作が得意で,従兄弟に習って銀細工師として身を立てようとします.
 しかし,明治維新で武士階級が没落して銀細工の需要がなくなり,1874年に広島を出奔して上京し,同郷で電信修技学校初代校長だった原田隆造に頼み込んで住み込みの書生となり,電信寮製機所に通って雑務を引き受けています.
 そこで,その抜群の器用さと働きが田中精助に認められて,雑役掛として採用されます.

 とは言え,雑役掛からは直ぐに卒業し,三吉正一等と共に研鑽して技工の地位を得ています.
 1877年には電信用印字機など,電信関連装置の国産化に貢献して,工部省電信局技手に採用されました.
 翌年には,田中精助と共に電話機の試作に成功しましたし,独力では紙製の電池と漆塗電線を開発して工部省から賞状と賞金を得ています.
 因みに漆塗電線の開発は,日本に於ける本格的な絶縁電線の嚆矢でした.

 そして,1881年沖牙太郎は,満を持して電信局を退局し,明工舎を設立しました.
 創立には,日本語モールス符号の生みの親である吉田正秀やその上司である石丸安世も応援していました.

 まず,明工舎が手がけたのは電話機の改良で,それに「顕微音機」と名付けて,1881年の内国博覧会に出品します.
 それが行幸された明治天皇の目にとまり,実際に送受信を試みられたそうです.
 また,別の時間には皇太后も行啓され,今度は直々にお言葉を頂いた事もあり,博覧会側から2等賞を受けたのですが,沖牙太郎33歳にして,一介の農家の悴が天皇や皇太后と直接顔を合わせてお言葉を交わすなど考えられない事であり,それが沖牙太郎の後半生を決定づけました.

 そして,その感激を胸に更に研鑽を重ね,1885年には漆塗電線を改良したものをロンドン万博に出品し,これが銀杯を受けました.
 この漆塗電線こそ,50年後に一般化し,世界中で使われているエナメル導線の正統的な先祖とされています.

 1889年,明工舎を沖電機工場と改称しますが,これが何度か改称されて現在の沖電気工業に繋がって行きます.

 1890年は,日本でも本格的な電話事業が開始された年ですが,電話事業の為の諸装置の設置やメンテナンスを一括して引き受けています.
 当時は,沖電機工場が日本の電話装置を独占していました.
 1891年の沖電機工場のカタログには,電話機を始め100種以上の製品が掲載され,日清戦争でも軍事通信線の敷設などで活躍しました.
 1896年1月には,第1次電話拡張計画が開始され,沖電機工場は東京市内の殆どの電話架設工事を引き受けることになります.
 この様に,順調に事業が拡大していき,東京の京橋に大工場を建設し,田中久重の工場が重電分野にウエイトを置いた後,日本唯一の通信工業の工場として活動を続けていきました.

 ところが1898年,沖牙太郎にとっては驚天動地の大事件が起きます.
 世界最大の通信系企業である米国のWestern Electricが沖に対し,資本提携を申し入れてきたのです.
 WE社の方針は,日本に日本人が経営する会社を買収もしくは設立し,資本や特許,ノウハウでこれを支援(と言うか支配)すると言うものでした.

 当時,日本の特許制度は独自のもので,外国特許の保護は別問題だった為,諸外国から日本もパリ条約に加盟して外国特許を保護せよと強く迫られていたのですが,日本側は不平等条約の解消を楯にそれを拒んでいました.
 この為,日本で外国企業がその特許や技術ノウハウを売って儲けることが出来ないと言う状況に陥っていました.
 これは,高橋是清の戦術と言われています.
 1899年,こうした戦術が実って,関税自主権を除く不平等条約の解消が成り,それに伴いパリ条約の加盟を行った訳ですが,それは逆に言えば,外国企業からの猛烈な特許攻勢に日本の企業が発明家が晒される事になります.

 WE社が沖に接近したのも,この門戸開放を見据えてのものでした.
 沖は判断に困り,当時,WE社の日本代理店の権利を持っていた岩垂邦彦に仲介に立って貰う様に依頼します.
 岩垂は,工部大学校を卒業後に渡米し,エジソンの会社で学んだ人物で,大阪電燈に勤務していたものの,直流電流と交流電流との争いで交流電流を主張したことで退職し,WE社の代理店となっていました.
 因みに,直流か交流かと言う主張については,エジソンが直流を主張していたからと言うのが直流派の理由だったそうです.
 当時,エジソンは電気界では神の様な存在であり,テスラの主張した交流電気の使用を主張するのは神様に反逆する様なもので,それを敢えてしたことからも,この人が気骨のある人だったことが判ります.
 ですから,一方的にWE社の主張を鵜呑みにしないであろうと言う判断があったものと思われます.

 岩垂は,沖に対し,米国の技術は日本を圧倒していて,まともに勝負が出来ない事,提携して技術ノウハウや特許を導入して,沖電機工場のレベルを上げる方が得策だと説得します.

 大いに迷った沖牙太郎でしたが,最後には利益分配率の不満の他,天皇陛下の期待に応え,純国産化を追究したい,会社が乗っ取られれば,沖の名が消えると言う理由により,提携を断る判断を下しました.

 結局,岩垂を失望させることになりましたが,岩垂は岩垂で,前田武四郎と諮って,自分たちでWE社と提携する会社を興そうと決断し,1898年9月に日本電気合資会社を設立,三吉工場の不振を知って,買い叩くのではなく,かなりの高額で譲受けて,工場としました.
 そして,1899年7月17日,不平等条約改正発効と同じ日に,WE社の資本を受入れ,日本電気株式会社が発足しました.
 因みに,日本電気株式会社は,日米合弁企業の第1号だったりします.

 こうして,通信機器を巡って,国産の沖電機工場とその協力会社,外来技術導入の日本電気との熾烈な競争がスタートしたのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/05/28 22:33

 さて,先日は特許と不平等条約の改正についてちょこっと触れました.
 それによるWE社進出が,日米合弁企業としての日本電気株式会社設立と言う形で実現したのですが,元々,WE社は日本の先行企業である沖電機工場を買収しようとしたのであり,結局のところ,通信関係の企業は,国産の沖電機工場と外国技術導入の日本電気との熾烈な争いに入ります.

 それはダンピング覚悟の大幅値下げを伴うものでしたが,一方で,沖電機工場は1904年に勃発した日露戦争では,昼夜兼行・不眠不休で軍用通信機生産を続け,戦地に送り続けました.
 また,電信電話線については,沖と協力関係にあった藤倉一族…現在のフジクラの祖です…が必死の頑張りを示し,海軍の無線関係では,日本無線の創立者である木村駿吉,前述の安中常次郎,島津製作所の創立者である島津源蔵,世界最初の乾電池製造者である屋井先蔵なども活躍しています.
 因みに,屋井の乾電池は明治の日本が世界に誇る大発明であり,日清戦争,日露戦争の陸軍でも大活躍をしました.

 当時,遼東半島に展開した日本軍の通信機器類の多くは沖や藤倉が提供したもので,欧米の観戦記者達をして,「大山巌総司令官や児玉源太郎総参謀長は,蜘蛛の巣の様に張り巡らせた電信・電話施設を使って全軍を自在に操っている」とまで書いて送っていたほどです.

 この戦争は正に日本にとって正念場の戦争でしたが,薄氷を履む思いで勝利を遂げることが出来ました.
 しかし,この戦争は,既に胸部疾患を患い半死半生の状態だった沖牙太郎の命をも縮め,1906年5月に,彼は58歳の生涯を閉じました.
 そう言う意味では,牙太郎も日露戦争で戦死したと言っても過言ではありません.

 因みに,電線と言うものは,装置内や屋内で使用される線と,屋外に使用される線とに分かれ,屋外の電線は更に電信線,電話線,電力線に分かれています.

 屋内や装置内で使われるのは,長さの短い銅線です.
 これは強度が余り要求されませんし,風雨に曝されることも無いので,値段の問題でさえなければ,その製作は比較的簡単です.
 ですから,幕末に佐久間象山が絹巻電線を自作しましたし,寺島宗則や田中久重も製造しています.
 更に,1877年頃から三吉正一や沖牙太郎が生産を始めていました.

 実用的な屋内被覆銅線の大量生産は,1893年頃から開始され,現在の沖電線,フジクラ,古河電気工業,住友電気工業,津田電線などが中心に行われていきました.
 そう言う意味では,此処までは外国勢に押されることはなかったのです.

 しかし,屋外に長距離架設される電線はそう簡単には行きません.
 引張り強度,風雨や積雪に対する耐久力,長距離に渉る均一性と低価格等,多くの要件を満たす必要があったのです.
 この為,明治期に電信線に用いられたのは,主として裸の鉄線でした.
 導電性自体は銅線が勝れている訳ですが,それ以外の点ではこの時代の銅線は鉄線に適わなかったのです.

 この鉄線の製造は,例え裸線であっても非常に難しく,国産化は難渋していました.
 鉄線国産化の最初は,1881年で,工部省製機所に於て輸入ロッドを引延して亜鉛メッキを施して製造したと言われていますが,そもそもの製鉄から作った訳でなく,純国産とは言えません.
 その後,1908年と言いますから工部省製機所で作ってから27年後,八幡製鉄で純国産の鉄線試作が為されましたが,これも工業化は出来ず,昭和時代に漸く鉄線の国産化に成功しました.
 この頃は,既に通信線用途には用いられず,ケーブルの補強材としての役割しか有りませんでしたが,それでも,国産化までに非常に時間が掛ったのです.

 1916年の統計でも,電信線の92.4%が鉄線で,銅線は僅かに7.6%にしかなっていません.
 つまり,この頃でも輸入品が使われていたことになります.

 銅線の屋外使用は,鉄線よりも値段が高いのですが,製造は遙かに容易で,初期に既に屋内電線が国産化されていたのは既に見ていたとおりですが,屋外通信線の試作は,1877年に電話が輸入されてから早くも試作が始まり,1881年に津田電線が工部省に納入したのが最初とされています.
 電信と違い,電話は品質に厳しい為,鉄線では中々上手くいかず,長距離架設には銅線が使用されました.

 1890年の電話事業開始時に東京~横浜間の市外電話交換も開始されましたが,それに用いられていたのは最初から裸線の銅線でした.
 この銅線に風雨や強度に強い被覆を施し,鉄線を入れて引張り強度を強めるケーブル化は,1893年から開始されましたが,当初は木綿外装の簡易な破損しやすいものであり,鉛外装の本格的なケーブルが一般化するのはこれまた昭和期に入ってからのことになります.

 電話用の銅線は発達するにつれて,電信にもそれを利用する様になり,更に電話によって電文を送るようにもなっていきますが,その変化はかなりゆっくりしたものでした.
 因みに,欧州でも架空電信線に銅線を使い始めたのは1886年からですが,一気に銅線に入れ替わったのではなく,徐々に入れ替わった様です.

 こうした電線の技術が世界最高水準に達したのは,時代がかなり進んで,つい20年ほど前の昭和末期から平成初期にかけての事だったりします.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/05/29 21:56


目次へ

「戦史別館」トップ・ページへ

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ   サイト・マップへ