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◆◆新政府誕生以降 Új kormány szülés
<◆明治維新 目次
戦史FAQ目次


(画像掲示板より引用)


 【質問】
 明治維新の目的って何? これ↓ってホント?

――――――
 そもそも幕藩体制に幕を引き,明治政府が近代国家を作ったのは,武士が戦争を独占する時代を終わらせ,百姓・町民でも武器をとって国防の義務を果たせる徴兵制を実施するためであり,これによって日本は四民平等を達成したのである.

 徴兵制と近代国家はセットなのだ.
 赤紙を出されるのがそんなに嫌なら,
「幕藩体制に戻せ,民主主義なんかいらない!」
と主張すればよろしい.

――――――小林よしのり in 『SAPIO』 2005/8/10号,p.63

 【回答】
 まあ,「徴兵制を実施するため」なんてのはトンデモもいいところでしょう.

 一般的に言われているのは,「日本の独立の保全」.
 アジア全体が植民地化の危機に晒されていましたので,日本もそうされないため,日本を豊で強い国にしようというもので,
「そのためには幕府じゃダメじゃん」
と考えた人たちが勝った,というところでしょうね.


 【質問】
 『管見』とは?

 【回答】
 鳥羽伏見
の戦の際,京都におり,薩摩兵に捕えられ,二本松の薩摩島津家の京都藩邸に幽閉された会津松平家中の士がいます.
 彼の名は山本覚馬と言い,幽閉された牢居の中で眼疾と闘いながら同室だった同僚の野沢?一に口述筆記させて『管見』というものを著しました.
 この『管見』には,会津も薩摩も幕府も関係なく,新生日本がただただ近代国家として生きて行くにはどうすれば良いか,と言う事がつぶさに書かれており,これを読んだ西郷吉之助以下が感動して,6月には薩摩侯島津忠義にも送られています.

 これにはこう書かれています.

――――――
〔序言〕
 欧米列強の東洋侵略,特にロシアの魔手,警戒すべし.
 確固不易の国是を立て,富国強兵の作を論ずる必要がある.
〔政体〕
 皇威赫然,外国と并立,彼の侮りを受けない為に,国民一致,王室を奉戴する事.
 但し臣下に,分に応じて権力を分けるのが良い.
〔議事院〕
 大小の議事院を置き,大は公卿諸侯から,小は王臣,藩士から議員を出すべし.
 小議員の数は1万石に付き半人,5万石で1人,10万石で2人,20万石で3人くらいが宜しい.
〔学校〕
 先ず人材の教育こそ急務.
 京摂その他重要の地に学校を設け,無用の古書は止め,国家有用の書物に習熟せしむべし.
 学問は建国法規,経済学,万国公法,修身学,訴訟法,格別究理(物理学),陸海軍知識などを主とする事.
〔変制〕
 新しく立国するに当り,旧習に捕われない事.
 人民が自由にその天稟の才力を伸ばせる様制度を変革したい.
 佩刀なども追って止めるべきであろう.
〔国体〕
 当分は国体を封建制と郡県制の中間とするのが良かろう.
 封建的身分格差を止め,官吏は賢愚の差によって採用する事は勿論だ.
 税金は遊女屋など社会に不要の者から多く徴し,生活必需品や書籍などを売る者には軽くする.
〔建国術〕
 世界の情勢を熟視するに,商を専らとする国は栄え,農を専らとする国は栄えない.
 イギリスは蒸気機関を発明し,これによって良品を製造し,世界中に売って巨富を得,オランダは各地に航路を
 開いて物資を動かし,その利益で繁栄している.
 これから日本は両国に学ばなければならない.
〔製鉄法〕
 鍋釜から兵器,艦船に至るまで人間生活の鉄に負う事絶大.
 今後は最新の反射炉を活用して鉄を増産し,文明生活の為最大限活用すべし.
〔貨幣〕
 貨幣は国の経済を支える最重要なものであるが,旧幕時代酷い役人が悪貨の金貨を通用させた為信用を
 失い,経済が混乱して現在の及んでいる.
 世界と交易の道が開かれた現在,速やかに良貨を鋳造して流通させねば,日本の信用いよいよ失墜し,大きな
 不利を招く.
〔衣食〕
 肉食の国は古来牛豚の肉を食い,毛織りの服を着ているから,身体強健で精神が充実している.
 我が国も上古は肉食だったのに,仏法の教えに従って次第に肉を食わなくなり,それだけ精神柔弱となった.
 今や毛衣肉食によって筋骨を健にし,気力ある人材を育てる事こそ急務.
〔女学〕
 日本では婦人に学問を教えない傾向があったが,今後は男子と同等に教育せよ.
 夫婦とも十分の学を備えれば,親に勝る優秀な子が生まれ,日本人の質が向上する.
〔平均法〕
 馬鹿でも長男は家督を継ぎ,財産を独り占めにする.
 次男以下は厄介者として一生を終わる.
 資産の偏在と有能者の無能化,これは大きな国家的損失だ.
 今後は富を公平に分配せよ.
 子無き者の富は官で没収せよ,必ずや国益を生むであろう.
〔醸酒法〕
 米食国日本というのに僻境の地では米に乏しく,木の実,草を食っている.
 しかも,米の15分の1は酒を造るのに使われており,不合理だ.
 これからは米を原料に酒を造る事を禁じ,麦,葡萄,馬鈴薯を以てこれに代えよ.
〔救民〕
 遊女から伝染した梅毒で身を滅ぼし,その毒子孫に及ぶ者多し.
 放置していては国辱である.
 医師は7日目毎に遊女と男客を検診し,病あれば隔離して治癒する,こう言ったことを官で制度化させよ.
〔髪制〕
 応仁の乱当りから,額の上を剃るようになり,見苦しい風体となった.
 この月代の風を止め,自分で髭だけ剃る様にしたら,古風な品格が甦って良いと思う.
 如何なものか.
 京,大坂,江戸で約25,000軒と言われる結髪業者は失業するかも知れないが.
〔変仏法〕
 今日本60余州で寺院の数が45万軒.
 その坊主達の内,法を弁え戒を守っている者1,000人に1人.
 その他は皆肉食をし,女を貯え,金貸しをしている.
 これは官に於て厳重な再試験をし,不勉強な奴は寺から追い出すべき.
〔商律〕
 開国によって貿易が盛んになるのはよいのだが.時に風波の難あればその損害は大きい.
 業者は仲間を組んで結束し,請負人に一定の敷金を納めておけば,万一の場合の損害が補填出来る.
 この仕組み,国益にも鳴る事であるから是非実施すべし.
〔時法〕
 我が国の時刻制は1昼夜を12に分けているが,西欧各国の様に,正午を境として午前12時間,午後12時間と
 する方が全ての点で便利.
 分単位で時間を大切にする良風も生まれるであろう.
〔暦法〕
 日本の暦はやたらに閏月が多い.
 西洋の様に1年365日と4分の1制にすれば,4年に1度の閏日だけで済む.
 年号なんて止めてしまえ.
 「神武即位」を元に,皇紀2,598年とやる方が,連綿と続く皇統が感じられるではないか.
〔官医〕
 今宮中の官医は,医の実力と関係ない家柄によって配列されている.
 至尊の玉体を守る医官がそんな事では駄目.
 長崎で猛勉強した名医をこれに代えるべきである.
――――――

これを見る限り,一部過激な事を書いていたりもしますが,その後の明治新政府で実現した政策がこの提言の中で多くあります.
一部は,今の政府にも行ってやりたい事柄ですな.
しかも,明治政府にとっては朝敵となった会津人がこの提言を纏めた訳です.
 この『管見』に惚れ込んだ一人の男が,山本をブレーンに招き入れ,そして,種々の政策を実現していく事になります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/12/07 23:25
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 なぜ明治日本は「帝國」を名乗るようになったのか?

 【回答】
 欧州列強と対等たらんとする姿勢を示すためだという.
 以下引用.

 明治時代の日本は「文明的」な列強諸国の仲間入りをしようとして,国内の西洋化を決意し,列強諸国に範を求めた.
 その際に帝政ドイツが手本として好まれたのも十分理にかなっていた.
 日本の君主がエンペラーと自称したのは――イギリスの女王でさえ1876年に(インド)皇帝であると宣言したのだから――それ以下ではヨーロッパ列強諸国の支配者達より自分が劣っていると認めることになるからだった.
 天皇は近代的な軍服を着用し,自らが最高司令官を務める軍を閲兵した.
 しかし現実には天皇は,伝統的にこうした役割を一つとして担うことがなく,西洋の伝統からすれば君主というより高位の聖職者に近い存在だった.
 明治維新後も天皇は,ヨーロッパの皇帝がある程度は行ったように,閣僚同士の間を取り持ったり,政策を決定したりすることはなかった.
 それでも,裕仁天皇は白馬に跨り,戦果を挙げた部隊を閲兵することで,帝國に特有の役割を自ら演じきり,日本でも西洋式の概念が確立したことを示した.

 西洋の人々には,天皇の姿は邪神にとりつかれているかのように映ったが,それは西洋の世論は当然,天皇の姿にヨーロッパからもたらされた象徴主義を見出したからだった.

 異質な文化的環境に言葉や概念が移植されると,同じような用語法や象徴主義でカムフラージュされていても,全く異なる意味を帯びるようになるものである.
 日本の天皇制も,こうした犠牲になったというのは,まったくの誇張というわけではない.

Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.68-69

 例えば,「皇帝」という言葉も当初,ローマ時代の状況では,成功を収めた将軍を意味していた.
 ローマ期には君主まで意味するようになったが,常に軍事的な意味合いが強かった.ローマ皇帝とは必ず,何よりも軍の最高司令官だったのである.
 この千年紀に,西洋の伝統においては,「皇帝」という言葉は他の意味も帯びるようになったものの,軍事的な意味合いは絶えることなく,18世紀以降になると再び新たな力も得た.
 ドイツとロシアの最後の皇帝には,軍服を着用していない写真など殆どなく,軍でも一番権威ある近衛騎兵隊司令官こそ彼らのお気に入りのイメージだった.兜にはローマ軍の直系であることを示す鷲もかたどられていた.

同,p.68

 でもって,現在でも一般的には「帝国」の概念が混乱したまま.


 【質問】
 明治時代には,南北朝の南朝の方を正統とした聞いたのですが,それだと北朝の血筋である,明治天皇の正統性がなくなってしまう気がするのですが,どうしてそんな面倒なことをしてまで,南朝を正統にする必要があったのでしょうか?

 【回答】
 明治時代に「南北朝正閏論争」というのがありまして,建前としては南北朝の両朝廷は,南朝の天皇の方が正統とされています.
 時の天皇・政府が,南朝正統論を宣言したのは事実です(明治44).

 北朝系(持明院統)の現皇族としては,建前はともかく心情としては不満です.
 明治政府・天皇が,なぜ「南朝正統」を宣言したのか,原因は不明です.
 ただ,当時の世論は,圧倒的に「南朝びいき」でした.
 北朝正統を唱える雰囲気ではなかったのです.

 考えるに,倒幕に成功した幕末の志士たちの思想に,大きな影響を与えた大日本史「水戸学」が,南朝正統論の立場でしたので,そのあたりが原因とも考えられます.

 なお,南北朝両朝廷並立は,室町3代将軍・義満の仲介により,南朝は北朝に吸収合併され,統一(南北朝合一;1392年)されたことは周知のとおりです.
 つまり正統な系統は,持明院統に統一され現在に至っています.

日本史板,2010/03/20(土)
青文字:加筆改修部分

 戦前と大きくまとめて,明治維新から1945年まで,同じような皇国史観があったと考えると,話がややこしくなってしまう.

 「夜明け前」などにもあるように,明治維新で「自分たちの時代が来た」と感じていた,コテコテの国学者は,政権から排除されている.
 そりゃ当然の話で,日本は古代の姿に戻れとか主張している奴を重用していたら,近代国家は建設できないし.

 ついでに天皇家を始め,公家出身の華族の皆さんは基本的には全員,北朝に味方することで明治の世まで生きながらえたお家の人たちだ.
 南朝が正当なんて言われたら,当然腹が立つ.
(実際,腹を立てている人は結構いた)

 しかし,明治の後半以降にもたらされた政治的な自由が,凝り固まったイデオロギーを持つ国学者の息を吹き返させた.
 ついでに,当時の政権や社会に対する,ある種の反感が,南朝正統論に勢いを付けた.

日本史板,2010/03/20(土)
青文字:加筆改修部分



 【質問】
 じゃあつまり,そのあとも吉野の山奥で逼塞して,時々反乱大名にお神輿にされていた南朝の後裔は,正統な扱いじゃないってことか?

 【回答】
「正当性があるのはコチラだから.文句あるの?
 実力行使は反乱だよ,それ.
 バカなの?
 死ぬの?」
という感じですよ,ええ.

 称光天皇が崩御して,後光厳の系統が断絶したとき,しょうがなく伏見宮家から後花園天皇が立てられた.
 大覚寺統サイドは,
「血統絶えたんだから,先々代後亀山帝の皇子が継ぐべき!
 何で伏見宮系に?」
なんて言い出して反乱起こすも,パトロンが幕府と和解して×.
 その後代では禁闕の変とかおこしたけど,言うまでもなく反乱軍扱い.
 正当・正統関係なく,あの時代に大覚寺統を認めたら,全てが元の木阿弥ですからねー.

 とはいえ,伏見宮-後花園天皇のほうが,実は持明院統内では正統といえるもの.
 嫡流だから.
 世の中万事結果オーライってところ.

 むしろ後光厳-称光のほうがアレ.
 何せ初めの後光厳自体,天皇としての"正当"性が無 

うわ何をするやめくぁwせdれftgyふじこ

日本史板,2010/03/22(月)
青文字:加筆改修部分



 【質問】
 武家政権(徳川幕府)の優位を主張するために,水戸学は南朝正統論を主張したとありますが,当の徳川将軍は,その北朝系天皇によって補任されている.
 自己矛盾じゃないでしょうか?

 【回答】
 う~ん,南朝正統論の発信源って,水戸学以前に南朝自身だよね.
 北畠親房の『神皇正統記』なんかそうでしょ.
 黄門さまの南朝贔屓の理屈は,『神皇正統記』によるところが大きいし,師の朱舜水が「忠臣 楠木正成」を発見し宣伝した以上,南朝が正統でなければ具合が悪いんじゃない.

 そして,その「南朝が正統」ってのは,あくまで三種の神器を所持していたからという論理.
(まあ,オリジナルは失われてるんだけど)

 しかし,持明院統と大覚寺統の両統交互に即位するという状況は,鎌倉時代から始まっているけど,後世,「どっちが正統か?」という議論はなかったと思う.
 南北朝の合一でも鎌倉時代と同じく,両統が交互に即位するという約束だった(足利義満が反故にしたけど)

 つまり,北朝の血筋でも皇族に変わりはないので,三種の神器を使って,正当な即位の手続き踏んでる以上,問題ないという認識なのでは?

日本史板,2010/06/12(土)~06/13(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 国歌「君が代」はどんな経緯で誕生したのか?

 【回答】
 時は明治2(1869)年7月,英国王室のアルフレッド親王は,蒸気フリゲイト「ガラテア Galatea」艦長(大佐)として世界周航の途中,横浜に寄港することになった.
 横浜駐留の英海軍歩兵第10連隊付軍楽長フェントンは,歓迎の演奏をしようとしてはたと困った.日本には国歌がまだなかったからである.

 でもって,以下引用.

 薩摩軍艦乾行丸の通訳官として戊辰戦争に従った原田宗助接判掛は,軍務官に伺いを立てるが,7月8日の兵部省設置を控えて多忙な会議中を縁側に出てきた川村純義元薩摩小銃4番隊長(兵部大丞に就任,のち海軍卿)から
「御来着も間近き事……手落ちのないやう取計うてよか」
と一任されてしまった.
 困惑する掛員一同に静岡藩(旧幕臣)接判掛の乙骨太郎乙(おつこつたろういつ)沼津兵学校2等教授が
「元旦の江戸城大奥で『君が代』を唱える『おさざれ石』の儀式がある」
との発言に,
「これなら聖寿万歳を寿ぐことになる」
と評議一決した.
 そこで原田接判掛は
「鹿児島の琵琶歌に蓬莱山という古歌があり,それにも君が代の歌詞がある」
として,その節をフェントン軍楽長に演じて見せ,楽長が洋風に編曲したものが英軍楽隊により無事演奏されている.

 この話は,澤鑑之丞著「海軍七十年史談」に,海軍省在勤中の著者が,先輩の原田造兵総監からの直話と記されている.

 「おさざれ石」の儀式は,早朝支度を整えた御台所に向かって御老中が「君が代は~」と上の句を唱えると,御台所が「いはほとなりて~」と下の句を返すもので,大名家でも行われる儀式だと注記されている.

 〔略〕

 1872年2月,兵部省は陸海軍省に分離し,海兵隊付属楽隊は,長倉彦二(のち中村祐庸と改名)軍学長が就任した.
 その後,教師がフェントンからドイツ人のエッケルトに交代すると,宮内庁,陸軍軍楽隊と共同して,1880年に現在の「君が代」へ改曲されている.

 「世界の艦船」2006年10月号,p.117
(中名生正己 なかのみょうまさみ =日本海事史学会会員=著述)

 なお,wikipediaでは,これとは異なる説が述べられている(2006/11/1現在)が,上記は原出典が明らかにされているところから,本サイトでは,こちらのほうが信憑性ありと愚考する.



 【質問】
 明治新政府に生り,全臣民が苗字を持つ事に為りましたが,此の時に何か制限は有ったんですか?
 例えば,有名な苗字は名乗ってはいけない(源平藤橘其の他)等.

 【回答】
 それは俗説の類です.
 日本では江戸時代に苗字がなかったというような話は,根拠はありません.
 ただ公式に名乗ることが許されなかったのであり,明治に名って公式に苗字を名乗れるようになったというだけです.

 元地侍などの豪農や富農など有力者は,苗字を持ってたようです.
 小農は,苗字の変わりに同じ名で家を相続し,家の連続性を保ってたようです.

 この苗字をつけるという法律に対して,国民の反応はあまりよいものではありませんでした.
 皆,徴兵のことが頭にひっかかったようです.
 それでも政府は強引にこの法律を進め,ぐずぐずといつまでも苗字を付けない家は,勝手に付けた苗字を標札にして打ち付けていくようなこともやったそうです.

 当時,苗字は親族会議などを開いて付けたようですが,菩提寺の和尚さんに付けてもらった人も多く,和尚さんの方でも頭を悩ませ,山の中に住んでいるから「山中」といったような,ずいぶんといい加減な苗字を付け方もあったようです.

日本史板,2003/04/09
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 なんで廃藩置県スムーズに行ったの?

 【回答】
 それ
は研究中で,分からないらしい(マジ

 有名な話だが,廃藩置県の際,新政府が
「今後は中央集権国家にするから」
と通達したのを見て,
「ヨーロッパでは300年かかって,君主が地方の封建豪族から血みどろで奪ったものを,紙切れ一枚でなんとかできるわけないだろ」
と欧米の大使や公使は笑っていたんだが,いざ布告されると,全員があっさり返還したため驚愕したらしい.
「なんで大名は従うんだ? なんで反乱起こさないんだ?」
って.

 アメリカの公使ハリー・パークスは
「こんなことができるのは神しかいない.天皇は神なのか」
と言ったらしい.

 実際,クーデター以外の何物でもないのに
「魔法カード,天皇!」
ってだけで,全員が
「しゃーないなー,天皇じゃなー」
ってなったってだけの話しだしな,廃藩置県.

 あと,平和な時代に国学だの水戸学だの,天皇の権威を高める方向の学問が盛んになったのも大きいかも.
 岩倉具視を扱った番組では,ペリーが来た時に幕府が時間稼ぎのために,
「日本には実はもう一つ,天皇という権威があるんだ.
 そこに聞かないと決められない」
なんて言ったもんだから,完全に忘れ去られた状態になっていた朝廷が突然,重要な第二極として復活してしまったって言ってた.

 実際,江戸時代が平和だった頃は,朝廷には殆ど力がなかった.
 基本的には従来通りの形式化した地位に乗っけておいた.
 ただ,勅令の危険性は十分承知していたから,諸大名が朝廷に関係を持つ事は厳重に禁止.
 あと,徳川家を朝廷に匹敵する権威にする為に日光東照宮を建てたり,朝廷の権威を弱める為に苦労した模様.

 まあ,水戸の孫が朝廷リスペクト本を出して,その苦労を台無しにしちゃう訳だが.

 加えて,やっぱり幕藩体制に行き詰まりを感じてたからじゃね?
 安政の大獄であちゃーなことになったけど,清国が悲惨なことになりそうだからって危機感を抱き,緩やかな開国に向けて,欧米に使節団を派遣するなど,幕府も一応やることやってたからなー.

 後,御用商人などの中産階級ってか富裕層がそれなりの数存在していて,各藩に借金踏み倒されたり,無理矢理棒引きされたりしてたけど,それでもなお,徳川幕府が存在するよりは,新しい世が来ることに期待してたんじゃねーかと.

 【反論】
 そんな大局を見る目をみんなが持ってたかどうか.

 当時の大名たちの考え方を想像するに――,
「ある程度地位は保証される.
 規制は緩和される.
 財力はそれなりにある.
 とりあえず,個人的にはそんなに暗い未来にも思えない.
 政治家やってもいいし,財産を元手に投資なんかもいい.
 幕府時代と違って苛烈な責任を負わされたりもしないし,それで他の大名たちも新政府に従うなら,自分も反抗する必要ないだろう」
と.

 大名たちはみんな東京に宛がわれた屋敷にサバサバと引っ越したそうだし,結局のところ殿様には任地に愛着なんてなかったんや.
 奥方の中には自決する者も出たというのに.

漫画板,2014/12/09(火)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 諸侯の爵位は,どういう基準で決めたの?

 【回答】
 戊辰戦争後の実高をもとに決められてたはず.
 だから山内家は侯爵だが,江戸期には山内家より石高の多い伊達家は伯爵.

 島津・毛利は特例で公爵.
 薩長土肥は明治維新の功績大,とされて優遇された.

日本史板
青文字:加筆補修部分


 【質問】
 大名は明治になって爵位を与えられたが,そのランクはどうやって決められたのか?
 明治維新の際の功績に対する評価か?

 【回答】
 旧大名家の爵位は基本的に現米(領地の実収)によって決められました.
 現米5万石以下の諸侯である両織田家はよほど功績をあげるか,改易にでもならない限り子爵です.

「叙爵内規」

 内規の例外はたしか対馬宗家(対朝鮮の窓口)と平戸松浦家(松浦静山が明治天皇の曾祖父に当たる)だけだったと思います.

しゃく in FAQ BBS


 【質問】
 明治政府の近代化政策は,大阪にはどのように適用されたのか?

 【回答】
 天保年間,つまり1820年代の大坂と言う都市の構造は,船場を中心とする北組,島之内を中心とする南組,天満を中心とする天満組に管轄された俗に大坂三郷と言われていた部分が最も経済・流通が活発な地域で,これが大坂の中心空間を構成していました.
 そして,この部分は大坂町奉行管轄の町場と呼ばれる地域です.

 その周縁部は俗に新地と呼ばれ,この部分には非日常の空間を作り上げています.
 幕府は大坂を発展させる為にも,新地造営を奨励しました.
 こうして北に堂島新地と曾根崎新地が,西部の安治川沿いに安治川新地,西南部の堀江に堀江新地,南に西高津新地と難波新地,東部には網島と東西南北に新地が造営され,この新地繁栄策として,家役の免除,茶屋株を認め,茶立女・茶汲女と言う名目の遊女を置くことを黙認して,遊所を創出すると言う策が取られていきます.
 つまり,町場の集客空間・娯楽空間がこの場所に作られた訳です.

 公許の遊郭としては,1617年に新町に設置されていますが,その当時は新町が大坂と言う都市の周縁部だったからに他なりません.
 曾根崎新地には遊里の他に木賃宿街が設置され,網島には片町八軒屋に木賃宿街が,難波新地には遊里が主に置かれ,隣接の道頓堀には芝居小屋が軒を連ね,西高津新地の長町には木賃宿街が形成されていきます.

 そして,その更に周縁部,街道沿いに設置されていたのが巨大墓地です.
 曾根崎新地に隣接していたのが梅田墓,天満の北方に濱墓と葭原墓,網島に隣接していたのが蒲生墓,南部にある四天王寺など寺町内に小橋墓,長町に隣接して鳶田墓,道頓堀に隣接して難波村抱えの千日墓の合計7つが七墓と呼ばれていた墓地群です.
 このうち,南部の千日前と鳶田墓には近くに刑場があり,刑場や墓の周囲には穢多村,非人村が設置されていました.

 こうした周縁部は度々文学作品に出て来ます.

 例えば,近松の『曾根崎心中』の冒頭はこんな感じ.

――――――
 …さて,げによい慶伝寺.
 縁に引かれて,またいつか,こゝに高津の遍明院.
 菩提の種や上寺町の.
 長安寺より誓安寺.
 上りやすなすな下りやちよこちよこ.
 上りつ下りつ谷町筋を…
――――――

 これは大融寺から新御霊に至る浪花三十三観音巡りを紹介しているのですが,これは大坂と言う都市の輪郭を丁寧になぞっていたりします.
 もう少し解説を加えると,「一番に天満の大融寺」から栗東寺までの「天満の札所」,つまり大坂の北縁を,其処から玉造の稲荷を経て小橋の寺町,更に紹介した谷町の東縁をなぞり,更に最南端の四天王寺から下寺町を経て,道頓堀の芝居小屋を横に見つつ,三津寺へと南縁を行き,「白髪町とよ黒髪は,恋に乱るゝ妄執の,夢をさまさん博労の,こゝも稲荷の神社.仏神水波のしるしとて,いらか並べし新御霊に」と行って,西縁を巡って新町を含め西横堀川に沿う道順で新御霊に達すると言う順路で,これにより浪花三十三観音巡りが,大坂の周縁部に設置された寺社を参拝する風俗だったことが伺えます.

 因みに,浪花三十三観音巡りだけでなく,神明十七社,天満二十五社,稲荷十五社,霊符神九社,七弁才天,二十八不動,二十六愛染,十二薬師,二十一大師と言った巡拝風俗もありました.
 江戸でも,不動巡りとか大師巡りとかがありましたが,それと同じ様なものでしょうか.

 もう一つ,巡拝で興味深いのが,「七墓巡り」と言うものです.

 これは先に紹介した7つの墓を巡り歩くと言うもので,この七墓に諸説あるものの,1935年の雑誌『上方』の編者南木芳太郎は,以下の様に説明しています.

――――――
 今は杜絶えたが,貞享,元禄の昔より明治初期に至るまで久しい間,大阪では盂蘭盆になると心ある人々は七墓巡りと称して,諸霊供養のため七カ所の墓地を巡訪して回向したものである.
 その場所は時代によって多少の変遷があり,又振出の都合にて手近の墓所のみを巡った形跡もある.
 その場所を挙げると,北よりすれば梅田,南浜,葭原,蒲生,小橋,高津,千日,飛田辺りが古い時代のもので,明治になると長柄,岩崎,安部野辺りが加わっている,その他安治川,大仁,野江等の三昧も七墓巡りの中に入れねば成るまい.
 もっと小さな墓所も場末にはあったであろう.
――――――

 大坂の近世墓地の成立は,豊臣滅亡後にこの地に付された松平忠明の計画によるものとされ,阿波座,渡辺,津村,上難波の墓地を千日前へ統合,上街台地に散在していた墓地群を小橋に統合,天満の墓地を梅田,濱,葭原に分割統合し,これに蒲生と鳶田を加えた墓地群が七墓となったものです.

 何れも市街地の外れに位置し,都市を囲い込む様に立地しています.
 この中でも最大のものが千日前でした.

 今は盛り場ですが,当時の千日前と言えば,後に「お寺と仕置場と葬式の礼場と焼場と墓場のカクテル」と言われたくらい寂しい場所でした.
 更にこの地には罪人を運び,仕置きをした上で首を切る者達の住居が設置されていたほか,幅「四二」間,つまり,「死に」を意味し,俗に「死門」とされた「黒門」があり,その門を潜ると,両側には無数の墓石が並んでいました.
 焼場に行くには,「三途の川」と目される小川に掛かった「無常の橋」を渡らねば成らず,その橋の袂には使者を迎える迎仏が佇んでいます.
 橋の向こうは「焼香場」と「焼場」があり,そして火葬場には付物の灰の山がある…正にあの世そのものの光景が展開されていました.

 この千日前に行くには,大坂南縁の芝居街である道頓堀から,角座の西側を抜けて法善寺,竹林寺を順に経る事になりますが,千日前の西側には花街である難波新地があり,其処へのアプローチとしても機能しています.
 また,法善寺にしても東門は芝居裏と呼ばれる南阪町の青楼(お茶屋)に向かい,西門は難波新地の青楼に接している,正に聖と俗の境界線の役割も果たしていた訳です.

 こうした墓地は明治になり近代化政策の一環として,阿倍野,長柄,岩崎の3墓地が新たに設置され,周縁部の墓地が更に再編されることになります.

 千日前では1870年,先ず刑場が廃止され,1871年に火葬場と墓地は俗に「南の新墓」と呼ばれていた阿倍野墓地に移転し,残されたのは火葬した後の灰の山でした.
 この千日前を活性化させようと立ち上がったのが,葬儀屋として千日前に出入りしていた藤原重助と言う人物と香具師達でした.
 彼等は先ずその復興を期してご開帳(イベント)を企画し,周辺で興行していた見世物小屋をこの地に移転する計画を立てます.
 丁度,明治政府は悪所を整理すべく,泊茶屋と芝居興行の開業地を松島遊郭内に限定し,現在地で営業を継続する場合は課税対象とします.
 その松島遊郭に移転した場合に限り営業継続を許可し,遊所も新規営業を禁止して,松島遊郭への移転を促した所でした.

 ところが,当の明治政府ですが,遊郭(並びにそれに類する泊茶屋)の制限こそ実施しますが,当初3カ所の花街を指定するとしてものの,それが松島と何処になるのかが定かではありませんでした.

 そんな時に誰にも見向きもされていない旧墓地の広大な敷地があり,其処でイベントが開催されて賑わい始めると,その場所に新たな遊興空間が形成され,芝居小屋や見世物小屋と言ったスペースが寄り集まってくることになります.
 この賑わいについては,あれだけ悪所の新規開業に喧しかった明治政府が特に掣肘を加えることもなく,結局,大阪の賑わいはステンショが梅田にやって来るまで,松島と千日前に集約されることとなり,千日前は偶然の産物で再生された訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/10/25 21:41


 【質問】
 明治維新以後,薩摩の士族支配は終わったのか?

 【回答】

 さて,明治維新がやって来ると,他の地域の幕藩体制は次々に消滅していきます.
 ただ,農村に関しては従来通り,村方三役がそのまま村長や区長として横滑りし,農地の集積を経て地主として資本を蓄積し,一部はその資本を元手に,商売の世界に打って出たり,政治の世界に打って出たりした訳です.

 で,薩摩藩ではどうなのか,と言えば,外城制と郷士制はしぶとく生き残りました.
 廃藩置県により,全府県は政府が直接支配することになり,対士族政策についてもその切り捨ての方向に舵を切っていましたが,ひとり鹿児島県政のみ,徹底して士族の生活を擁護する為の政策が採られていました.
 例えば,微禄や無高士族に対しては6石救助米が支給され,維新軍功禄を賞典禄に引き継いだり,家禄の金禄化命令が政府から下されても,それを無視して現米支給を継続したり,秩禄公債の利息は他藩と異なり,1割と言う高率を設定するなどの施策などがそれです.

 また,地租改正事業については,他府県より遅れて1876年に着手されましたが,西南戦争で中断し,1879年1月に再開されて1881年7月までに大体終了しました.
 ただ,これも鹿児島県士族に対しては,浮免地や抱地等の私有権が認められた為,他府県の士族が身一つで路頭に放り出されたのと対照的に,士族の多くは地主として生活を維持する事が出来るようになっていました.

 ところで,1878年制定の府県会規則に基づき,鹿児島県では1880年5月から公選の県会が開設されました.
 議員の選挙権は地租5円以上,被選挙権は地租10円以上の納入男性に限られた為,結果的に県議の大部分が旧郷士層で占められることになりました.
 例えば,神奈川,埼玉,千葉,群馬,新潟では士族は1~4名,栃木,長野,岩手,宮城,山形,秋田では士族が5~10名,茨城,福島が10名,青森が12名なのに対し,鹿児島は27名が士族で,平民は僅かに3名しかいません.
 他地域の県会では,士族の比率は10%未満が大部分で,殆ど総ての議員が平民で占められています.

 こうした露骨な士族保護が何故行われたかと言えば,そこには明治維新の大変革に参画した武士層の動向が関係してきます.
 1868年1月に鳥羽伏見の戦を仕掛け,江戸に攻め下り,東北・箱館戦争と言った一連の戊辰戦争の中心を担ったのは,西郷隆盛を筆頭とする鹿児島の下級藩士達でした.

 また,1869年の藩政改革は,戊辰戦争から凱旋した川村純義,野津鎮雄,伊集院兼寛等の主導で行われ,倒幕に慎重であった一門,一所持,寄合などの家格を主とする門閥勢力を排除.
 家老座に代わって新設された藩政中枢機関である「知政所」等の要職には,討幕派の下級藩士,及び門閥ながら討幕派に与した桂久武等が就任することになりました.
 そして,その藩政改革では,一門や一所持に許されていた私領制を廃止すると共に,旧門閥の家禄を大幅に削減し,従来の家格を廃して等し並に「士族」を改めました.
 その一方で,旧郷士は「何方士族」と呼んで,地位の向上を図ります.

 この様に主客転倒した状況で,地租改正が行われました.
 結果,旧郷士層の多くは地主となり,納税額に基づく一定の選挙資格の下で,県下を12選挙区に分けて,定数30ないし40名の議員を選挙する仕組みを作ると,その県議の大部分が旧郷士層となり,従来の旧城下士に代わって,旧郷士が地域政治の中核に座るのですが,その構造は士族が平民(民衆)を支配すると言う,従来の幕藩体制と全く変わらない状況が出来た分けです.

 1889年4月,市制・町村制施行に伴い,近代の地方自治制が確立します.
 それに伴い,全国的に大規模な町村合併が展開されました.
 鹿児島県の場合,609町村の内,鹿児島城下50町に市制を敷き,鹿児島市を除く地域ではほぼ旧郷(旧外城)を単位に合併を行って,114町村に統合しました.
 この段階では,大島郡五島と川辺郡十島には町村制が施行されませんでしたので,本土を主とした旧郷が,そのまま行政単位として存続することになります.

 その行政の担い手は,上層の郷士層であり,町村役場は旧麓地区に設置されるのが殆どでしたから,制度が変わっても,行政の実態と人間関係には,大きな違いがある訳ではなかったりします.
 113外城と114町村の符合も,偶然とは言えません.

 こうした関係が変わったのは,漸く1945年以後の事.
 太平洋戦争の敗北に伴う憲法改正,民主諸改革の断行であり,中でも大きなものが農地改革でした.
 鹿児島県の場合,二次に亘る農地改革の結果,小作地率は35.6%から9.2%へと激減しました.
 この改革後の小作地率は,全国平均の13.0%より低い数値を示しています.
 この農地改革に伴い,旧地主層=旧郷士層は後退を余儀なくされ,新たに平民層が台頭してきた訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/08/01 23:07
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 明治新政府のキリスト教封じ込めについて教えられたし.

 【回答】
 日本人の殆どは無意識的に仏教徒となっています.
 それに次ぐのが,神道ではないでしょうか.
 それから,新宗教が色々とあるのかも知れませんが,それは置いといて,旧来の宗教と言う意味では,キリスト教は人口比に於いて,1%以下と言われています.

 人口比1%の問題は,通常,日本宣教の課題として取り上げられ,「信教の自由」があるから日本の宣教は進まないのだという説も出てきます.
 とは言え,宣教が進展して,仮に人口比が2桁となり,日本社会に認められるばかりでなく,様々な分野に影響を及ぼす事も考えられますが,旧来からの伝統宗教が伸している日本社会に,異教であるキリスト教が浸透していくのは容易ではなく,教育や福祉で幾ら頑張っても,礼拝者数は少なく,キリスト教信者は人口比1%の枠を超えることが出来ていません.
 当然,この理由には,キリスト教を邪教視する風潮があったり,日本社会の独特の風習等がキリスト教に受け入れられなかったりする等,種々の要因があります.

 そもそも,日本でキリスト教が復活したのは江戸末期の事.
 中国から宣教師が渡ってきて,礼拝を開始するのですが,当初,禁教を国是としていた江戸幕府が瓦解し,一時的にキリスト信仰が復活しています.
 ところが,新たに出来た明治政府は,それまでの仏教に変えて,神道を国教としたため,従来からの仏教は元より,新興宗教であるキリスト教の信仰も以ての外と言う態度で臨みました.
 この為,長崎の五島列島等で細々と暮らしていた隠れキリシタンや,新たに信者となった人々は次々に弾圧されています.
 このうち,神戸で新教の信者が2名牢に捕らえられ,獄死したのを切っ掛けに,プロテスタント諸国が明治政府に圧力を掛け,漸く弾圧政策が解除されました.

 その後,鹿鳴館時代を迎え,欧米各国と結んだ不平等条約を改正する為に,日本は欧米諸国の文化吸収に熱心になります.
 そして,欧米諸国が近代国家に脱皮する際の理念を論じた,「憲法」を制定することになりました.
 ところが欧米諸国の場合,その精神的基軸には宗教,つまり,キリスト教が基軸になっていますが,日本ではキリスト教を容認する事は出来ません.
 とは言え,神道でも仏教が,キリスト教の代わりになるかと言えばそうも言えません.
 国家神道の浸透を図ろうにも,依然として仏教勢力の力は大きく,無理に国家神道を擁護すれば,宗教戦争になりかねません.

 そこで為政者たちが考えたのが,「皇室」をその拠り所にすることでした.
 こうして制定された大日本帝国憲法には,天皇の神聖不可侵が規定され,信教の自由には,
「安寧秩序を妨げず及臣民たるの義務に背かざるを以て」
と言う制限がつけられていました.
 一応,近代法治国家の体裁を装いつつも,キリスト教封じ込め政策を目論んだものでもありました.

 この憲法下での信教の自由は,制限付自由と言う言語矛盾があっただけでなく,信教の自由そのものが,天皇から「賦与」されたものであると言う致命的な問題を抱えていたことが挙げられます.
 つまり,自由が賦与されると言うことは,自ら自由を勝ち取る必要はなく,教会の主体性は無いに等しくなります.

 この事が如実に表れるのは,1938年6月,後に日本基督教壇統理になる富田満が,朝鮮のキリスト教信者に神社参拝を勧めたときの論理です.
 彼は神社参拝を拒む朝鮮のキリスト教信者に対し,その殉教的精神は立派としながらも,日本政府は神道に改宗してキリスト教を棄てろとは言っておらず,キリスト教が禁圧される時のみ我らは殉教すべきだと説きました.
 そして,
「明治大帝が万代に及ぶ大御心を以て,世界に類無き宗教の自由を賦与せられたものを濫りに遮るは冒?に値する」
とまで言い切った訳です.

 当然,こうした神社参拝に関しては,各地でキリスト教信者たちによる抵抗がありましたが,ホーリネスでも同様な問題がありました.
 ホーリネスの監督だった中田重治は,神社は宗教であると言い続け,問題解決のために奔走しました.
 とは言え,この時期のキリスト教指導者達は,一方で天皇を敬愛する愛国者であり,神社問題や宗教法案問題に関しては,天皇から賦与された信教の自由を盾に戦いました.
 ところが,その論理では逆に,権力者側が天皇を盾にしてくると抵抗することが出来なかった訳です.

 1899年以来,国会には宗教法案や宗教団体法案が繰り返し提出されています.
 これらの法案では,神社は宗教には含まれていません.
 神社非宗教論と呼ばれた考え方は,国教として神道を定められなかった政府が持ち出した理屈で,宗教性を帯びた天皇を基軸とする国家形成を法的に規定するものとされていました.
 ただし,この目的はキリスト教を統制するのが明らかであった為,キリスト教界は挙って反対しています.

 一方で,賛成したキリスト教信者も少なくありませんでした.
 この法案が成立すれば,信教の自由と同様に,キリスト教徒が法的な居場所を得られると考えたからです.
 法的に認められれば,今まで日陰者扱いだったキリスト教にとっても,仏教と同様に法的には同列に扱われることになる事から,日本社会では市民権獲得と同様の効果を持っていました.
 ところが,同列に扱われる仏教界は猛烈な反対を行っています.

 この法律は長い間の紆余曲折を経ながら,結局,時局が急を告げる1939年に成立し,1940年に施行されることになります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/09/19 23:37


 【質問】
 廃仏毀釈によって寺社が受けた被害について教えられたし.

 【回答】
 ○○宮と言う言葉があります.
 「宮」と言うと,現在では伊勢神宮や熱田神宮など神社を思い浮かべる事が多いのですが,元を辿れば「宮」とは仏典や漢籍に基づくもので,経典では仏界の楼閣を表現する場合,宮殿とか楼観等と言います.
 また,「八幡」と言うのは「やはた」と言う意味で,8本の旗を表わします.
 この8本の旗,即ち「八幡」とは,阿弥陀仏の三昧耶の示現する姿を象徴的に示すもので,東方が白色,東南方が紅色,南方が黒色,西南方が灰色,西方が赤色,西北方が青色,北方が黄色,北東方が赤白と言う色彩の8つの旗によって表わされるのです.

 源平合戦の際,平氏が赤色を使ったのは西を指すからであり,源氏が白色を使ったのは東を指す訳です.

 この八幡信仰が生まれたのは,既に奈良時代にまで遡る事が出来ます.
 『大日本史』によれば,724年に聖武天皇が使いを派遣し,小倉山を開いて宮殿を作り,725年その護持尊崇の為に弥勒寺及び鐘楼を建てて,盛大な開眼供養を営んでいます.
 これが大分県にある宇佐八幡の創建です.
 つまり,宇佐八幡の創建当初は弥勒寺であり,しかも天皇の勅願寺だった訳です.
 『続日本紀』では,741年に同八幡宮に金字最勝王経,法華経各1部,僧侶18名を奉り,三重塔を造営して供養を行っていますし,741年までは宇佐八幡以外八幡宮は有りませんでした.

 因みに,元興寺は588年,四天王寺は593年,607年に法隆寺,642年に大安寺,699年に興福寺,そして,680年には薬師寺の造営が始まり,この年に官寺の制が定められ,685年には諸国に仏舎を造り,仏像経巻を置いて供養し,ここで始めて伊勢宮を造営して20年ごとの遷宮制を定めました.
 741年3月になると,全国に国分寺建立の詔が発せられ,743年10月に大仏建立の詔が発せられていますが,この間,神社と言うものは全く史書に記載が無く,全く神社の存在すら無かったと言う形です.

 そして,宇佐八幡こそ,日本最古の阿弥陀仏徳の示現としての勅願寺院であり,奈良朝に於ける仏教興隆の詔によって造営された地方唯一の寺院だったのです.

 ところが廃仏毀釈によって,伽藍群は全て破壊され,焼却されてしまいました.
 仏具類や法具類は悉く打ち壊されて売り払い,鐘楼,経蔵,楼門,鎮守の祇園社も全て打ち壊され,直径4尺余りの大梵鐘は鍋商人に二束三文で売られて鍋釜にされ,経蔵の一切経は紙屑屋の手に渡って座敷用の渋紙にされ,本尊の弥勒菩薩は金10両で売り払われてしまいました.
 境内の地蔵菩薩の大石像は運ぶ事が出来ず,路傍にうち捨てられてしまいました.
 唐獅子は引き倒し,石灯籠の擬宝珠は取り外し,蓮の花の文様があるものは片っ端から全て削り取ると言う始末.

 別当だった僧達は全て還俗させられ,中には精神に異常を来した人もいたと言います.
 そして,勅願寺宇佐八幡弥勒寺は神社となってしまいました.
 今の宇佐神宮の出来上がりです.
 このため,他地域の八幡大菩薩も一朝にして八幡神になってしまいました.

 京都にある石清水八幡も例外ではありません.

 こちらは860年に武内宿祢の後裔とされる僧行教が,阿弥陀三尊の示現によって,清和天皇の勅を奉じて創建したものです.
 記録に依れば,ここにも神主は創建以来17年間置かれていません.
 そして,神主が置かれても,主役は僧侶で,神主は脇役としての地位に甘んじていました.
 ここも,僧侶は還俗させられて俗人となり,法施や読経を禁じられ,仏像・仏具は全て売り払われました.
 8売り払われたのは,宋国版一切経,大塔・八角堂・愛染堂・鐘楼は全て売り払われ,神職の手当に化け,開山行教筆の紺紙金泥の法華経8巻,無量義経1巻,観普賢経1巻は金60両で落札されました.
 下殿の仏具も11両2分で落札され,跡形も無くなりました.
 これらも,神職の手当に充てられたと言います.

 その上,1869年2月には石清水八幡の開山である行教上人の還俗復飾の儀式まで執り行われました.
 1,000年以上前の開山を神職に変更し,開山堂は神殿に造り替え,開基住職である行教上人の木像の頭には,烏帽子が釘付けされるという,木像を磔にした石田三成ばりの事をやらかしたりしています.
 そして,八幡領だった寺領8,600石は全て国に取り上げられました.

 こうしてでっち上げられたのが,今や京都の初詣に欠かせない石清水八幡神社な訳です.

 鎌倉にも有名な鶴岡八幡宮があります.
 これは1063年8月に,源頼義が石清水八幡を鎌倉郡由比郷に勧請したのが始まりで,1180年に頼朝が現在地に遷してから明治維新まで,真言宗の僧侶によって奉仕されてきました.
 中央には阿弥陀如来の化身として応神天皇が,右には観世音菩薩の化身として神功皇后が,左には勢至菩薩の化身として応神天皇の姉君姫大神が祀られていました.
 これも,本尊を始めとして全て真言密教によって奉仕が為され,祭事は全て供奉僧が中心になって奉仕し,神主等はその手伝いに過ぎませんでした.

 機構としては,一山の寺務に専念し,全坊を支配するのを別当と言います.
 これは752年5月に,華厳宗の第二開祖と言われる良弁が,東大寺の別当になったのが始めで,『延喜式』第21玄蕃寮には別当補任の職制を掲げて,「凡そ諸寺は別当を以て長官と為し,三綱を以て任用と為す」とあり,任期は4年でした.
 鶴岡八幡の場合は,当初は任命制でしたが,供奉僧25坊(後に12坊)の中から合議してその中の1名を別当に任じ,その下に,小別当,社僧,神主,社人となっていました.

 しかし,廃仏毀釈の結果,奉仕は神主と社人だけとなります.
 但し鶴岡八幡宮は,宇佐八幡宮や石清水八幡宮の様に,還俗した僧侶が神主や社人と抗争する事はなく,還俗した僧侶の中から,旧別当の僧侶が宮司に選ばれました.

 とは言え,その破壊の様は,他と同じで,境内は悉く破壊され,仏像・仏具・経典は全て灰燼に帰してしまいました.
 その中には,源実朝が宋から取り寄せた宋版一切経もあったと言います.
 法華経だけは焼かれる寸前に,偶々浅草寺の僧侶が通りかかってそれを買い求めた為に,難を免れました.

 因みに,飫肥藩士の平部?南と言う人が,1871年10月13日の鶴岡八幡宮の様子を日記に残しています.
 それにはこう書かれていました.
「此ヨリ源ノ頼朝,大江ノ広元ノ墳墓,北条九代ノ宅墟ナド巡覧シ,鶴ヶ岡八幡ニ参拝ス,八幡ノ境内ニアル禅堂,仏宇ハ悉皆取毀シノ最中ナレバ光景寂寥タリ云々」

 こうして鶴岡八幡は,寺から鶴岡八幡神社となって,今や関東の初詣に於ける一大スポットと化しています.

 主な八幡様が全部神社となった為,,他の八幡でも同じように八幡神に衣替えさせられました.
 例えば,筥崎八幡は,筥崎町大字鯨須磨で仏教関係のものは薬師如来も含めて全て焼き捨て,石灯籠は放生池や境内に埋め,神宮寺の地蔵や本尊は,罪人だとして荒縄で縛って町中を引き回して打毀し,石像,木像の類は全て首を打ち落としたりしています.

 全く,今残っていれば十分に国宝級の文物が,この僅か数年間で消滅してしまった訳で,また,この時代に海外に流出した文物も多数有ります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/12/04 22:06


 【質問】
 薩摩島津家における廃仏毀釈の動機は?

 【回答】

 前に廃仏毀釈を取り上げたり,薩摩藩内の一向宗弾圧を取り上げたりしましたが,一向宗弾圧は兎も角,廃仏毀釈については,水戸徳川家よりも薩摩島津家の方が動機が生々しかったりします.
 水戸の場合は,復古神道に傾倒しすぎた挙げ句の廃仏毀釈だったりするのですが,薩摩の場合は,些か事情が異なります.
 薩摩の場合,一般に江戸期に全国で行われていた寺請制度が行われておらず,庶民と寺院との関係は非常に希薄なものでした.
 そして,武士の煽動に乗って庶民も寺の打ち毀しに付和雷同した事,また,廃寺によって職を失った僧侶には食糧を供与し,希望者には生活を保障するなどの措置を執った為に,すんなりと廃仏毀釈が行われたのです.

 こうした復古神道による廃物の動きというのはあくまでも名目に過ぎず,実際には経済的要求が大きかったりします.
 即ち,廃仏毀釈が進められた結果,鹿児島では寺院1,066ヶ寺,僧侶2,964名が整理されました.
 元々,これら寺院が所有していた所領からの年貢は免租であり,藩庫には入ってきません.
 一方で,島津家縁の寺院ともなれば,藩庫から諸経費が支出されたりします.
 また,免租は堂宇或いは堂宇の敷地,田畑山林などの広大な地所に及んでおり,その数は凡そ10万余石に達していました.

 経済的に見れば,今まで免租となって10万余石から上納されなかった各種貢租が,廃仏毀釈によって一挙に藩財政に転がり込んでくることになります.
 当然,これらの土地を耕している農民にとっては今までの税率とは異なる超重い税率が掛けられる事になるのですが,藩当局としては武士の生活が良くなれば無問題と言うスタンスですから,庶民のことなど全く気にしません.

 ところで,1862年8月,島津斉彬の遺志により,忠義が幕府に鋳造許可を願い出て,琉球及び領内限り通用の銭貨鋳造の許可が下りました.
 その条件は,形,量目,裏書は天保通宝と同じくし,通用価値は1枚124文,3カ年限り,100万両を限度とし,その鋳造高の10分の1乃至2を幕府に献納すると言うものでした.

 薩摩島津家ではその年の11月から磯浜に設けた鋳造所で鋳造を始めましたが,薩英戦争で鋳造所が焼失し,それを西田町に移すことになりました.
 ところが,「琉球通宝」の泉文を持つものは10万両程度,その他は幕府に禁止されていた「天保通宝」の泉文を用いていました.
 つまり,贋金作りです.
 これらの贋造天保通宝は,領外に搬出され,広島,大坂,京都にも現れています.

 この鋳銭の原料は勿論銅です.
 では,この銅は何処から調達したか…と言えば,ピンと来た人はいるかも知れません.
 廃仏毀釈で打ち毀された寺院から持ち出された仏具や仏像,それに梵鐘を鋳潰して原料にした訳です.
 ただ,この鋳銭の原料調達はこれに足らず,燭台や銅釜から領内の大砲に至るまで銅という銅が彼方此方から掻き集められたのでした.

 こうした多量の贋造天保通宝は,薩英戦争の痛手を回復し,壊滅した薩摩軍に新式の軍備を調え,維新の回天に薩摩藩が深く絡む財力の一端として利用されました.

 因みに,天保通宝とは,その名の通り天保年間の1835年以降,金座の直轄した銭座で鋳造されたもので,小判形で中央に方形の孔があり,表面に「天保通宝」の4文字,裏面に「当百」の2文字と後藤光次の花押があります.
 一応,100文通用とはなっていますが,重さは5匁5分ですので,その鋳造利益は非常に高いものでした.
 本来,100文として銅を通用させようとすると,重さは100匁に達する為です.
 よって,薩摩藩がその鋳銭利益に目を付けて銅銭を贋造するのも頷けるわけです.

 この鋳銭を担当したのは,市来四郎と言う藩士です.
 その記録に依れば,鋳造開始の1862年12月27日には,銅を対馬,長州,芸州,越前,南部,秋田など全国的に広く買い求める段取りの他,大島,国分,日向延岡,阿久根などの産銅,更には「古製銅砲御兵具所在合大小三十丁」,「梵鐘凡百三十余但大小」が予定されていました.
 また,この中には屡々寺院の梵鐘類について言及しており,それは本土の薩摩・大隅・日向三州の薩摩藩領は元より,奄美群島や屋久島,先島諸島の様な島嶼部,更には支配下に置いていた琉球にまで及んでいました.

 つまり,軍備充実という大目的の為に,財政面を充実させるべく,アンタッチャブルな存在であった寺院を破却に追い込んでその骨の髄までしゃぶりとろうとした訳です.
 復古神道の復活などと言う思想的側面と言う建前よりも,財政的な貢献という本音の部分がこの廃仏毀釈という行為には含まれていたりします.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/08/04 23:06
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 山田顕義という人について,詳しくご教授願います.

 【回答】
http://www.nihon-u.ac.jp/history/yamada-sj.html
より,著作権の発生しない範囲で紹介すると;

 本学の前身である日本法律学校の創立者・山田顕義は,弘化元年(1844年),現在の山口県萩市に生まれました.
 14歳で吉田松陰の松下村塾に入門.
 25歳のとき,戊辰戦争で討伐軍の指揮官.

 しかし,明治4年に岩倉具視を全権大使とする使節団の一員として,フランスを訪問した山田顕義は,ナポレオン法典と出会い,「法律は軍事に優先する」ことを確信し,以後一貫して法律の研究に.
 そして,明治16~24年の約9年間にわたり司法大臣として,近代国家の骨格となる明治法典(刑法,刑事・民事訴訟法,民法,商法,裁判所構成法など)の編集に当たり,”近代法の父”と呼ばれるようになりました.

 詳細は,以下を参照のこと:
「ナポレオン山田顕義一剣と法典」古川薫(文芸春秋)
「志士の肖像 上・下」早乙女貢〈集英社文庫〉
「抵抗の器」もりたなるお(文芸春秋)
「後生畏るべし」もりたなるお(講談社)
「山田顕義・人と思想」日本大学総合科学研究所
「山田顕義伝」日本大学(非売品)

日本史板,2002/11/16
青文字:加筆改修部分


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