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◆◆◆日本側の防備 Japán Védelmi a 19. század közepén
<◆◆開国以前
<◆明治維新 目次
<戦史FAQ目次
(『行け!稲中卓球部』より引用)
【質問】
オランダからの風説書で,アヘン戦争や欧米によるアジアの植民地化を知ってただろうに,幕府は黒船来航するまで何の対策(軍備,外交)もしてなかったのですか?
【回答】
どういう本読んで,そう思ったんだか.歴史ドラマの見過ぎか?
アヘン戦争の結果を知ってたから,軽々に戦争を起こさないよう,外国船打払令を緩和して,外国船が来たら薪水の補給をしてあげるよう全国に伝えてたし,ペリー来航の7年前にもビッドル提督というのがまったく同じ目的で浦賀に来てるし,1853年にペリーがやってくるのもオランダからの通知で知ってた.
そういう流れがあって開国を決めたの.
黒船見て慌てふためいて即座に決意したんじゃない.
来航した黒船
(うそ)
(画像掲示板より引用)
【質問】
幕末まで日本は鎖国していたのに,何で外国の情報が入って来てたんですか?
【回答】
「鎖国」って交流の完全シャットアウトのことじゃないから.
以下引用.
鎖国は日本人の海外進出に大打撃を与えましたが,これによって我が国への西欧文化の渡来は全く途絶えたわけではありません.
西欧文化はオランダ船か,または中国船によって少しずつではあるが確実に輸入されたのであります.
さらにオランダの使節は,毎日のように江戸に上がり,将軍に謁見しました.
オランダの施設が将軍に謁見した最初は,1609年(慶長14年)のことですが,その後,寛永年間(1624-28年)からは毎年の行事となり,1764年(明和元年)からは貿易量の縮小により,1年おきでよいと通告したが,オランダ人は相変わらず毎年参府したのであります.
1790年(寛政2年),再び貿易量の縮小を図り,以後,オランダ人の上京を4年一次とし,幕末までその制が続きました.
オランダ使節の上京は,大名と同じ待遇を受け,在府中の宿舎は日本橋本石町長崎屋と決まっていました.
使節は途中はもとより,江戸滞在中も,表面上は一般人との面会を禁止されていましたが,内々には医師や有識者と会うことができました.
幕府の上層部はこれによって海外の知識を得,ヨーロッパの優れた珍貨を入手することができたのであります.
長沢和俊 in 「魅惑のシルクロード」(講談社,1981/10/15),p.47-48
まあ,幕末時点の技術格差を見ると,質問者のような錯覚を覚えてしまうかもしれないけど,その格差の原因は別のところに求められるべきだろうね.
【質問】
幕末以降,日本の火縄銃生産はどうなったのか?
【回答】
19世紀に入ると,オランダの制海権が失われ,日本周辺海域は異国船が跳梁跋扈する様になります.
1807年には択捉島でロシア人による襲撃事件が,1808年には長崎でフェートン号事件が起きています.
この情勢に対応する為,幕府は1808年に江戸湾の防備を強化して砲台を修築すると共に,1810年には房総と相模に砲台を築き,浦賀奉行や,譜代大名家に海岸防備を固めさせました.
また,異国の文物を積極的に取り入れるべく,1811年には江戸天文台に翻訳局を設けました.
しかし,鉄砲生産地として,従来から名声のあった日野は消滅し,堺も包丁など民生品にシフトしつつあり,国友も青息吐息の状態でした.
それでも,何とか国友が保っていたのは,その時期に国友一貫斉藤兵衛と言う傑物が出た為でした.
彼は国友の鉄砲鍛冶でも下位の階級の人でしたが,上層の年寄連中が次々没落していく中で次第に頭角を現し,38歳の時に先日書いた彦根事件に巻き込まれました.
この時,国友を出て長らく江戸に逗留していたことが,後の活躍の肥やしになりました.
何しろ,西洋では技術革新が次々に進んでいく中で,国友の鉄砲鍛冶は,十年一日の如く,15世紀から変わらない3匁5分玉筒を中心とする火縄銃を製作していた訳です.
国友は江戸や大坂から離れていて,西洋で生み出される新しい文物の情報が入りませんでした.
更に,十人方鍛冶がいた時代には,彼らが中心となって連発銃の開発に取り組んでいましたが,その十人方鍛冶も不祥事で排除されてしまい,技術革新の芽は摘まれてしまいました.
かくして,国友の鉄砲鍛冶はずっと火縄銃の製作だけに関わってきました.
また,惣鍛冶とか年寄と言われた人々も,現在の製品を作り出すだけで,技術革新の意欲もなく,折角,江戸に会所を設けているのに,それを全然役立てていません.
その中で,国友一貫斉藤兵衛が過ごした江戸での経験は新鮮なものでした.
1819年,一貫斉は松平定信,既に政治の一線から身を引いて楽翁を名乗っていましたが,彼に『大小鉄砲製作帖』を提出しました.
それには,1匁玉筒から10貫目玉筒までの製作法を文書化すると共に,量産化を容易にする為に規格を統一する様にと言う意見が書かれていました.
後年の日本は,隣の銃に使われた同じ部分のネジが全く合わないと言う状態になっていますが,既にこの頃から製品規格の統一とマニュアルによる量産の簡易化について述べているのが驚きです.
それはさておき,一貫斉は能当流製作法(『大小鉄砲張立方並心得之事』)を作り,下働きに百姓を使用する場合でも,必ず起請文を取付けていました.
今で言う,入社時に行う会社の規定への同意と言う感じでしょうか.
この他,一貫斉は江戸で様々な情報を仕入れ,新たな商品作りに邁進します.
それは空気銃,連発式空気銃,弩弓,鏡,望遠鏡,懐中筆(現代の万年筆),玉燈(安全ランプ)など枚挙にいとまがありません.
最初に製作したのは一貫斉が未だ江戸に滞在していた1818年の気砲,つまり空気銃です.
元々この銃は,大目付仲川飛騨守が所有していたもので,これが壊れた為に,誰か修理する人物が居ないか山田大円と言う人に相談したところ,推挙されたのが一貫斉でした.
一貫斉は,山田大円の屋敷で内々に気砲を見て修理を引き受け,遂に元に戻すのに成功しました.
ところが,これは玩具であって,弾を撃つと2発目は力が無く,武器とは言えない代物でした.
そこで,一貫斉はそれを手本にして新たに気砲を製作し,その試射を1819年5月に,江戸城西の丸にあった酒井若狭守邸で行い,評判を聞いた前田公にこれを上納しています.
1820年12月には,2匁玉気砲を製作して桑名公に35両で売り渡しました.
この気砲は,T字型のポンプで銃尾のタンクに空気を蓄え,弾丸を発射するもので,その空気が尽きるまで連射出来る様になっていました.
これが評判を呼んで,諸大名家から注文が殺到し,佐々木采女,紀州公,酒井若狭守,松平能登守,小笠原相模守,松平楽翁,桑名公,水戸公,内藤紀伊守と言った領主達の他,近江水口の加藤家や,姫路酒井家,加賀前田家へは軍備として納品されています.
この気砲は,2匁玉筒で35両,中には60~85両と言う高価な仕上げものもありました.
ところが,余りに評判が高くなりすぎて,1820年には早くも気砲の製作は禁止されてしまいます.
そこでめげる一貫斉ではありません.
一貫斉が次に手がけたのは反射式望遠鏡でした.
これは1832年に試作し,1833年に完成に至りました.
現存するもののうち,上田市立博物館に所蔵されているものは,一貫斉の試作品で,1834年に諏訪公から等々力氏に譲ったものでした.
因みに,諏訪公は松平楽翁の知り合いで,8代目の忠恕公は楽翁の娘婿に当ります.
また,大阪河原写真館にある望遠鏡は,1836年に大坂城代から河原氏に渡ったもので,元々は大坂測量方の間五郎兵衛,次いで大坂城付鉄砲方阪本鉄之助を経て大坂城代に納入され,更に酒井若狭守の手に渡ったものでした.
彦根城博物館所蔵のものは,1835年以降,井伊氏のものとなりました.
他に国友本家にもありますし,紀州徳川家や加賀前田家に納品されたものもあったそうです.
丁度この頃は鉄砲の発注が途絶えつつある頃で,なおかつ,天保の飢饉真っ最中で,諸物価が高騰している状況でした.
1836年には,郡山柳沢家のお慈悲で,村方の上層,中層の人々が難渋の人に粥を出す様にしたのですが,粥を貰いに来た人々は村中で37~38軒に達しました.
そんな時に,反射望遠鏡の製作は国友鍛冶にとっては干天の慈雨の如きものだった訳です.
この頃は全国的に争乱が多発し,大坂の街でも多数の餓死者が出ました.
これを憂えた大塩平八郎が乱を起して総勢300名が,豪商を襲い,大坂城代,土井大炊守利位,東西両町奉行等と戦火を交えましたが,戦闘は2日で収まり,大塩等は壊滅しました.
以降,幕閣は幕政批判を展開する者に神経を尖らせるようになり,反乱を未然に防ぐ為に武器の調査を命じ,与力身分で十匁玉筒3丁以上,50匁玉筒,70匁玉筒,100匁玉筒2丁以上を1833~1835年に購入した者の名前を提出する様,国友に指示がありました.
更に国友にダメージを与えたのは,1841年に行われた高島秋帆による洋式銃演習でした.
これにより,従来の国友銃は決定的に旧式化してしまい,幕府からの注文が完全に途絶えました.
1841年には,諸大名家からもほんの僅かしか鉄砲の発注がありません.
しかし,国友鍛冶はかつての栄光が忘れられず,1843年に出府して,幕府諸役人等に定式筒の下命,鉄砲の修理を願って奔走しました.
結果,2月には筒の修理が許され,198丁を修理することになります.
これを喜んだ国友鍛冶達は金100~300匹(鳥目(銭)25銭が1匹)を持って,諸役人に礼に伺っています.
これらの銃は,銃身,台,金具などに分解し,千駄ヶ谷蔵地で修理し,約10日後,全部納められました.
これを祝って鍛冶達へは褒美として,白銀10枚宛が贈られています.
とは言え,最早新規銃の張り立ては無く,修理や掃除が精々でした.
最後に新規注文があったのが,1847年にあった小筒200丁で,これは1852年までに納められています.
既に時代はゲベール銃などの新式銃に移り変わっているのですが,彼らはそれを認めようとしなかった訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/02/19 23:42
1851年に最後の小筒を幕府に納入した後,遂に幕府からの注文は途絶えました.
年寄達は,それでも幕府からの物成を期待し,それを以て鍛冶代金に充てたいと言う嘆願書を出しますが,一方で,物成を復活させるとその配分を巡って年寄の権力が復活するし,定式銃の注文も無くなるとして,平鍛冶からは反対の内願書が提出されると言う内紛状態になっています.
既に,火縄銃では完全に時代遅れであり,火縄銃で対応出来るほどの安定した時代ではなくなっていました.
また,内外共に騒擾状態になりつつあるのにも関わらず,彼らは余りに世間を知らなすぎました.
1852年に鉄砲玉薬方は平鍛冶九左衛門を呼び出し,玉薬奉行の多門槍次郎から年寄達の嘆願書は容れられず,差し戻しになったこと,同時に,平鍛冶達が行っていた定式下命の願いも却下されてしまいました.
時代は大きく動いており,雄藩が挙って軍備強化に乗り出していたので,まともに技術開発や技術導入を図っていれば,国友はまだ生き延びられたかも知れません.
しかし,この状態でも村が一致団結することは不可能でした.
幕府からは僅かに大坂城内の鉄砲や大筒の修理を受注するだけで,新規生産は望むべくもありません.
一部の国友鍛冶達は,生活の為に,諸侯の御用を求めていきました.
とは言え,1853年以降になると洋式銃や鉄砲術の流入で,一大変革が起きていました.
諸侯は競って新式銃の発注を行い,兵制も銃制にも新規研究が起きていました.
ですが,国友では相変わらず火縄銃に固執し,洋式銃の研究をする者はいませんでした.
ただ,幕府や佐幕派の諸家からはいくらか期待を持たれていました.
1866年6月からの長州征伐には,国友源右衛門など数名の鍛冶師が玉薬方として従軍しますが,井伊や榊原など幕閣諸侯の軍勢は,新式装備で洗練された西洋式兵制となっていた長州軍に散々打ち破られ,広島に退かざるを得なくなったのを間近に見,また,長州軍の新式銃が,自分たちが鋳立てた火縄銃よりも優位に立つのを目の当たりにせざるを得ませんでした.
1867年12月に王政復古の大号令が出され,旧幕府軍の反抗が起こると,1868年正月に国友藤兵衛は北筋方奉行に金200匹を献上しています.
また,近藤勇が同志を募った際には,国友で子弟の教育を行っていた伊藤保と言う人が新撰組に入ったと言われています.
更に佐幕派から連絡を受けて数名の国友鍛冶が出府し,彰義隊に加わって奮戦したとも伝えられています.
しかし,こうした抵抗も空しく,幕府は遂に瓦解しました.
当然,以前の金主が鋳なくなったのですから,国友鍛冶は新たに朝廷方に鞍替えし,三条方御用となりました.
そして,この頃漸く,洋式銃を見習って製造する者も出始めますが,価格や生産の面で見劣りがし,長続きしませんでした.
1868年になると太政官布告によって,国友鍛冶は家業の継続を認められましたが,翌年には新政府の保護は無くなり,1872年になると鉄砲弾薬売買の触書が出されて,これまでの家業を廃する様指示が出されました.
寝耳に水の国友鍛冶達は,22名と庄屋で連判状を出し,今まで通り家業を認めていただきたいと言う懇願をしています.
この懇願は1873年にも出されて,漸く認められました.
とは言え,軍用銃の生産は一切禁止され,許されたのは猟銃のみ,しかも,製造売買は免許承認のみとし,売渡の度毎に玉目と数量を戸長奥印の上,県会に報告することと,毎月10日には前月分の製造数を警察に報告することが義務づけられました.
更に,1879年には西南戦争の影響か,銃砲弾薬売買免許は1家1名となって,出店を持つことが禁じられます.
これらの猟銃は,伊勢,美濃,三河,遠江,京都,静岡,掛川辺りまで販売されていましたが,1886年になると軍から払い下げられた洋式の旧式銃が出回り始め,とうとう売れなくなってしまいました.
そして,1887年以降は全く銃の生産が無くなっています.
その代わり,盛んになっていったのが,象眼細工です.
元々,貴族などが銃に細工を施すことは西洋でもあったのですが,日本でも諸侯に納品する鉄砲にはそうした飾りをすることがありました.
こうした技術をフィードバックする形で,江戸中期から刀の鍔などに金工彫刻が施される様になりました.
国友の彫金師の手になる作品には,鉄砲銃身の象眼は勿論,刀の鍔,小柄,鯉口,長浜の曳山に使われる柱の彫金,香炉などの仏具,蔵の錠前などがあり,長浜にある蔵の錠前にはからくり技術が応用されています.
特に,こうした作品を購入する重要顧客が長浜商人でした.
長浜は江戸後期から物資の集散地として栄え,富裕な商人達が揃っていました.
そして,各町内から繰り出される曳山は,各町が豪華さを競い,象眼の腕が確かな国友鉄砲鍛冶は引っ張りだことなっています.
この中でも大手町組寿山の曳山に施された昇降龍は有名で,作者は,国友鍛冶の流れを引く藍水堂一徳と言う人物でした.
彼は姉川の河原で蛇のうねる姿をつぶさに調べ,20数年の歳月を掛けてこの作品を完成させたと言われています.
この金具作りの技法は,後に長浜の職人に伝えられ,長浜仏壇の技法として伝わっています.
この中で今でも変わっていないのが,「銷鍍金」と言う技法で,曳山の金具にも用いられる独特の濃い黄色の鍍金です.
また,国友源右衛門,通称丹治と呼ばれた,臨川堂充昌も有名です.
彼は,1724年に国友の辻又左衛門敬坎の弟として生まれ,長じて鉄砲鍛冶年寄脇の国友源右衛門の養子となりました.
早くから鉄砲製作の現場で彫金や象眼の素養を蓄えた彼は,江戸で2代目横谷宗与について彫金の術を習得しました.
因みに,横谷家は装剣金工の宗家で幕府御用彫金師,後藤家の下職として代々彫金を生業とした町彫りの名家です.
後藤家の開祖である後藤祐乗は,室町中期の彫金家で通称四郎兵衛と言い,美濃の人で,足利義政に仕えて刀装具を作り,鑚法,図様,地金に新機軸を打ち出して,江戸期には幕府御用彫金師となり,代々豪快な高肉彫りを能くしました.
初代の横谷宗与は後藤家7代の顕乗の三男,殷乗の門下で,京都から江戸に移って徳川幕府に仕えました.
2代目の宗与は,後藤家の因習にとらわれた家彫りに飽きたらず,野に下って自由な題材に腕を振い,横谷家の繁栄の基礎を築きます.
彼が創り上げたのが,片切り彫りという手法で,これは平面の絵模様の線の片側を垂直に彫り,もう片方は斜めに彫ることで水墨画の濃淡の様な趣を表現する手法でありました.
とは言え,一方で彼の真価は,高彫りによる虎や獅子,牡丹の様な豪快さにありました.
そして,臨川堂充昌は,師を凌ぐほどの精巧な彫金師となり,竹,虎,花鳥,人物などの写実を得意とし,高彫りや片切彫りにも技の冴えを見せました.
1768年には,10代将軍家治に命じられて,刀剣の目抜き一具及び所用の三匁玉筒に,下絵を中務卿法眼栄川が描いた龍門の図の彫刻を施し,家治はその非凡な技を賞して白銀を送るほどでした.
その後,充昌は帰郷しますが,江戸の評判はついて回り,諸侯は競って彼の作品を求め,彼は名人と崇められました.
1776年に56歳で没しますが,その後も,文化文政期の国友には楽水堂常成(市九郎),姉川堂各亮(平四郎),永川堂完度(新四郎),藍水堂一徳など,彫金の名手が続出しますが,その根にあるのは何れも臨川堂の教えでした.
もう一つ,困窮した鉄砲鍛冶が自分の技を生かして収入の道を得たのが,花火製造でした.
彼らは関西一円から岡山,広島まで出向き,昭和初期まで花火の興業を行っています.
国友で大きな行事を行う場合は,必ず花火が打ち上げられましたし,花火競技会が姉川の河原で行われたと言います.
この国友には東西南北に,花火の陣屋と呼ばれる建物が残っています.
これは打ち上げを指令する場所でもあり,見物の桟敷でもありました.
この他,江戸との行き来をすることで,多数の村人が江戸に出る機会を持ちました.
それが,国友鉄砲の発展には繋がらなかった訳ですが,江戸の空気を持ち帰った人々は,国友の地に能楽,茶道,華道,書道などの芸能を持ち帰り,この地でそうした文化が華開くことになります.
著名なのは,茶道で小堀遠州流茶道を再興した辻宗徳であり,儒学者の富永滄浪が『古楽弁疑』を著わすなど多くの文人や学者を輩出しています.
鉄砲は廃れてしまいましたが,それを通じて習得した技術が,国友に根付いていった訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/02/20 22:09
【質問】
「薪水給与令」
これなんて読むの?
あと,内容を簡単に説明して.
ペリーから三国干渉までを水曜までにマスターせなあかん.どうしよう.
【回答】
諦めて寝ちまえ.
【しんすいきゅうよれい】1842(天保13)7月異国船打払を停止し,漂流船には薪水を給与し,援助することを命じた海防令.
アヘン戦争の情報が日本に伝わり,憐恤を名目に発砲が戦争につながるのを回避した.
発令と同時に海防掛老中を置き,諸藩に海防強化を命じた.
【いこくせんうちはらいれい】1825(文政8)2月の海防令.外国船を二念なく打払うよう命じたところから無二念打払令とも呼ばれる.
前年の常陸大津浜の英捕鯨船員の上陸事件などから,国家間の戦争には至らないという予想のもとに発令.
アヘン戦争の情報が伝わると,天保薪水給与令に転換した.
ペリー来航後が海防強化がもっとも緊急課題となった時期で,江戸品川沖に台場が構築された.
海防問題は朝廷の発言力を高める糸口になり,はやくから伊勢神宮海防問題では幕府を越えて津藩などに独自の指令を出すようになった.
日米修好通商条約後も幕府は,海防強化の後に鎖国に戻ることを朝廷に約したため,海防は国是のようになり,攘夷に置換されるようになっていった.
【質問】
フェートン号事件前後の,鍋島藩の軍備状況について教えられたし.
【回答】
幕末には屈指の洋式軍隊を持っていた鍋島家ですが,19世紀初め頃はお粗末な装備でした.
しかも,他の大名家と同じ様に財政難に苦しみ,隔年で行っていた長崎港警備の負担が馬鹿にならず,財政は破綻寸前に陥っていました.
其所で,取り敢ず削れる所からと言う事で,負担が最も重かった長崎港警備の人員を幕府に無断で減らしてしまいます.
平和な時期なら問題になりませんでしたが,この時期,欧州ではナポレオン旋風が吹き荒れ,オランダ本土はナポレオンに占領されており,英国は亡命してきたウィレムV世の依頼により,海外植民地を英国の勢力下に置こうとしていました.
そうした折も折,長崎にあるオランダ商館を威圧する為,英国から軍艦フェートン号が派遣され,オランダ国旗を掲げて入港したフェートン号を出迎えたオランダ商館員と長崎通詞が捕らわれ,薪水と食糧を要求される,所謂フェートン号事件が起きてしまいます.
時の長崎奉行,松平康英は切腹し,鍋島斉直は叱責を受けて逼塞を命じられると共に鍋島家の家老は責任を取って切腹しました.
こうして斉直の跡を襲って襲封したのが10代当主の鍋島斉正です.
▼斉正は17歳で襲封しましたが,元々は斉直の娘を娶っていた義理の兄でした.
斉正は斉直の17男であり,17歳で襲封しました.※▲
斉正は襲封した後,武雄領領主である鍋島茂義の指導の下,直ちに鍋島家中の財政改革に乗り出し,有田焼等の陶器生産,茶の栽培,高島炭坑などの石炭採掘などの産業を育成し,更に地の利を活かして,長崎での交易に力を注いで利益を上げると共に,冗費を削減し,役人の数を減らして財政を改善していきます.
藩校の弘道館では優秀な人材を育成し,其所から育った人々を登用して行政改革を行うと共に,地主の土地は鍋島家が没収して均田制を実施し,農民を保護育成して農村の復興を支援したりしました.
この様な改革が成功し,財政が潤ってくると,斉正は蘭学をことのほか熱心に学び,蘭学書を通して西洋文化の吸収に努め,遂には精錬方を創設して西洋科学技術の導入を図りました.
その中には製鉄,冶金と製鋼,鋼鉄の加工技術と言った基礎技術の他,蒸気機関や大砲の製作なども行い,1849年には製鉄所を稼働させたり,1852年には反射炉を完成させて稼働させたりしています.
更に,日本初の西洋型砲艦千代田形の機関は,1863年10月に佐賀鍋島家の三重津造船所で蒸気罐を製作し,蒸気機関本隊は長崎製鉄所で製作されました.
更に,フェートン号事件を契機として,佐賀鍋島家の軍備は西洋式に大きく舵を切り,英国製螺旋線条式元込め砲であるアームストロング砲の模倣や,米国製螺旋線条式元込め7連発銃などを装備する様になりました.
ところで,鍋島家は石高35万7,000石ですが,本家の直接支配地は僅か8万石程度しかありません.
残りは,鍋島家「親類4家」,旧龍造寺家「親類4家」,他に小城鍋島家が7万3,000石,蓮池鍋島家5万2,000石,鹿島鍋島家2万石の3つの支藩を自領地から割いています.
特に鍋島家「親類4家」,旧龍造寺家「親類4家」の土地は,本藩の支配が及ばない自治領としての扱いでした.
そのうち,旧龍造寺家の「親類4家」は鍋島家3支藩並びに鍋島家「親類4家」の土地よりも広大で財政的に豊でもありました.
鍋島茂義は旧龍造寺家「親類4家」の1つ武雄鍋島家の当主で,ここは特に財政が豊かであり,西洋科学技術導入を積極的に進めました.
その中でも特に蘭学の書籍が多く,その中にはアームストロング砲の製作図面や炸裂砲弾の構造などの軍事技術から,医学,解剖学,薬学,薬草学,自然哲学,航海術,天文学,幾何学,蒸気機関学などの機械学,測量術,百科辞典,オランダ語やフランス語の文法からナポレオン伝に至る迄あらゆる本を購入しており,このうち,138冊は現在でも武雄市立図書館に残されています.
物品の購入では,兵器の他,時計,懐中時計,エレキテルライト,測量器具,コンパスなどの定規,地球儀,顕微鏡,スペンサー銃の弾丸製造機械,円錐形弾丸を発射させる火薬を包むスペンサー銃ハトロン製造機械,旋盤機械一式,製図器械,写真機,弾丸製造機,絵具,画材などに至る迄,色々と揃っており,ペリーが電信の実験を見せる前に,彼の地では既に電線を張って電信の実験も行われていたそうです.
この内,スペンサー銃については,他家に渡すことなく,佐賀鍋島家内部で独占し,旧式となった先込銃は他の大名家に売払い,最新の銃を装備しましたし,大砲は開港に伴い要塞砲を装備する必要は無くなり,陸上戦闘用の運搬可能な小型軽量の砲を多数装備すると共に,他の大名家に代わって西洋式装備を買い込み,それを手数料を取って売ると言う商売もしています.
そして,武雄領で行われた実験成果は本家にも伝えられ,前述のように1851年から本家では精錬方を設け,理化学研究を開始しました.
この中では,火薬や雷管の研究,蒸気機関の開発研究が行われ,造船所を開設して1865年には蒸気船凌風丸を建造しています.
火薬や砲弾の雷管の研究に必要な理化学用陶磁器やガラス製理化学用具は,有田焼の技術を応用して作られていました.
幕末の戊辰戦争では,武雄鍋島家の兵士達は,英国から輸入したアームストロング砲を4門,砲はそれを含めて10門保有して出撃しています.
他にアームストロング砲は1866年11月頃に10門の注文を出していますが,これだけ西洋学問が盛んで,アームストロング砲の設計図も輸入し,製作過程も詳細に翻訳していた武雄鍋島家ですが,装備した大砲の数量からすれば,実際に国産化出来たかどうかと言えば,疑問符を付けざるを得なかったりする訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/08/25 23:19
▼
※ 以下のページでは斉正(明治になって直正と改名)は斉直の17男とされており,斉直の義理の息子や義理の兄ではないようです.
http://ja.wikipedia.org/wiki/鍋島直正
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/154.html
ていせい in FAQ BBS,2009年9月3日(木) 16時11分
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
幕末における房総半島の防備の状況は?
【回答】
1842年以降,房総半島の防備を一手に担っていたのは忍松平家でした.
同家の担当区域は,上総の富津崎から大房(富津),北条に至る海岸とされ,富津,竹ヶ岡,北条に台場と陣屋,白子と洲崎に遠見番所を設置し,藩兵300名を常駐させ,警備に当りました.
しかし,川越松平家と同様,たかだか草高10万石の家に広大な房総半島の警備は手に余り,1847年からは会津松平家が加わって,忍松平家の担当区域は安房国だけに縮小されました.
これに伴い,富津,竹ヶ岡の台場と陣屋は引渡し,大房崎に台場を新設したり,北条陣屋を改修して藩兵の再配置を進めました.
1853年当時,忍松平家は,大房崎台場,洲崎遠見番所,白子遠見番所,北条陣屋前海岸の備場を管下に収めた他,伊戸,川下,布良,忽戸の各村に大筒を用意して,海防の任に当っています.
この内,大房崎台場は1847年に新設されたもので,一之台場から三之台場の3つの砲台によって構成されていました.
一之台場には6貫目玉筒1梃,3貫目玉筒1梃,1貫目玉筒3梃,二之台場には6貫目玉筒1梃,10貫目玉筒1梃,1貫目玉筒1梃,三之台場にはモルチール13貫700目玉筒1梃,1貫目玉筒1梃,500目玉筒1梃が配備されていました.
他の台場に比べると,余り戦闘力が高いとは言えませんね.
洲崎遠見番所は白河松平家が以前この地域を警備していた時期の1811年に整備したもので,1842年から1853年まで忍松平家の管轄下にありました.
備砲は1貫目玉筒3梃,500目玉筒2梃,白子遠見番所も同様に白河松平家によって整備されたもので,此処には500目玉筒2梃,200目玉筒2梃,300目玉2梃が配備されています.
北条陣屋は1847年に忍松平家によって建設された陣屋で,東西2町20間,南北2町の敷地に,本陣,地方役所,馬場,稽古場と共に長屋21棟を建て,房州詰の家士150名と家族が居住する大型のものであり,陣屋の前の海岸に備場が設けられていて,1貫500目玉筒1梃,1貫目玉筒1梃と500目玉筒2梃が備えられていました.
この他,北条陣屋の武器蔵には,300目から3匁5分までの大筒,中筒,小筒が計894梃保管され,有事の際には忍から藩兵が駆けつけ,これで武装して海防の任に就くことになっていました.
他にも伊戸村に1貫目玉筒1梃,300目玉筒2梃,200目玉筒1梃,川下村に500目玉筒1梃,300目玉筒1梃,200目玉筒1梃,布良村に500目玉筒1梃,300目玉筒2梃,忽戸村に200目玉筒3梃を用意し,有事の際には臨時の備場とする予定でした.
相模側がこの頃,洋式砲を備えていた時期,未だ房総側は和式砲しか備えられておらず,余り防備が厳重とは言えません.
この為,1847年2月15日から会津松平家を加える事になりました.
会津松平家の持ち場は,安房国平塩入村,坂之下村辺より上総国周淮郡富津村辺迄とされ,6月以降会津松平家では番頭以下将士300余人を房総常詰に命じ,現地に派遣しました.
この時,先行の忍松平家からは富津,竹ヶ岡の台場と陣屋を引継ぎ,小久保の七曲に台場を新設しています.
富津台場は1811年に白河松平家が建設したもので,忍,そして会津に引き継がれてきたもの.
会津松平家では1848年に洲の東端に新たに砲座を増築しました.
備砲は洋式砲主体で,1851年にペキサンス砲を江川太郎左衛門に鋳造を依頼し,1853年当時には,17貫300目玉ペキサンス砲1梃,15貫目玉モルチール筒1梃,7貫目玉ホウイッツル筒1梃,4寸径ハンドモルチール筒1梃,3寸5分径モルチール筒1梃,10貫目玉筒1梃,5貫目玉筒1梃,2貫目玉筒1梃,1貫目玉筒6梃,850目玉筒1梃が配備されています.
富津陣屋も白河松平家のものを引き継いだもので,富津,七曲両台場の守備に当る守備兵の詰所となっていました.
因みに,会津松平家の房総警備の基本方針は,「我の小船を以て彼の大艦に敵するは難し」と現実的判断をしており,万一外国船との交戦に及ぶ事態になった場合は,陸地からの砲撃,両岸から撃ち続けて相手を疲労困憊させて退散させるのを是としています.
また,藩兵主力は上陸してくる敵を迎撃する事に主眼が置かれ,それに備えた練兵が繰り返し行われています.
この為,富津陣屋にも50目玉筒から500目玉筒に至る大筒39梃,15匁玉筒から30目玉筒に至る中筒が68梃,3匁5分玉筒から10匁玉筒に至る小筒390梃に,大筒用の棒火矢282本が配備されていました.
竹ヶ岡台場は,1811年に白河松平家が以前整備したもので,山腹の高地に置かれた陰の台場と,低地砲台である十二天の鼻台場,石津浜台場の3箇所から成っています.
此処には,15貫目玉モルチール筒1梃,7貫目玉ホウイッツル筒1梃,4寸径ハンドモルチール筒1梃,3寸5分径モルチール筒1梃,10貫目玉筒3梃,5貫目玉筒1梃,2貫目玉筒2梃,1貫目玉筒6梃が配備されています.
竹ヶ岡陣屋も同じく白河松平家の整備したものを引き継いだもので,元々は百首と言う地名でしたが,縁起が悪いと竹ヶ岡と改称されています.
此処にも,陸戦用に大筒30梃,中筒56梃,小筒128梃,大筒用棒火矢約300本が配備されていました.
他に備砲の種類は不明ですが6門を保有していた七曲台場がありました.
会津松平家では,房総警備に際し,長沼流兵法師範黒河内高定を軍事奉行として派遣し,守備の方策を担当させています.
但し,築城法に関しては長沼流兵法の中に指針となるものが無い為,『兵要録』中の練兵を修得した者に対し,山神流の築城法の内,平山城,平城,山城の三法の講習を行っていました.
この為,会津松平家でも台場の建築や改修には洋式築城法は取入れられていません.
この他,房総の海防施設としては,上総国に本領を持つ佐貫阿部家が大坪山に石垣を築き台場を構築したとの記録があります.
此処には大筒3梃を据付け,陸戦用に大小筒7梃を備えているとされていましたが,記録の中には「丸太を黒く塗ったもの」というものも残っているので,恐らく木砲の類ではないかと考えられています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/07/05 18:50
【質問】
幕末以後の日本の,洋鉄導入について教えられたし.
【回答】
日本で鞴を用いて砂鉄から銑鉄と鋼が作られる踏鞴製鉄が発達してきている頃,欧州では送風用の動力源として水力が用いられるようになり,14~15世紀になると高炉が誕生します.
この時期の燃料は木炭でしたが,高炉によって高温が得られるようになり,鉄は溶融状態にされるようになります.
更に製鉄炉に水車が利用されると,鞴ばかりではなく,鍛造ハンマーにも水車による動力が用いられる様になりました.
高炉法では,炉内の温度が高くなると鉄が木炭中の炭素を吸収する度合いも高まって鉄の熔融点が下がり,湯となります.
この状態を銑鉄と言い,踏鞴製鉄の銑と同じもので,炭素を約2%含有したものとされていますが,通常の炭素含有量は3~4%の炭素を含んでいました.
炭素を含むと,熔融点は純鉄の1,530度に対し1,200度まで下がります.
こうした組成により,銑鉄は可鍛性は無いものの,青銅や銅の様に鋳造が出来るようになり,欧州に於いては鉄の鋳造が新たに始まりました.
では,可鍛鉄を得るにはどうするか,
可鍛鉄は炭素量が約2%以下となっています.
つまり,銑鉄中の炭素を酸素で燃やして除去してしまえば,可鍛鉄に生まれ変わります.
これを脱炭法と言い,それに使われる炉のことを精錬炉と呼びます.
但し,初期の可鍛鉄は始めは完全に湯にならず半熔状でした.
と言うのも,脱炭をすると言うことは熔融点が純鉄のそれに近づくことを意味しますが,17世紀までは高火力のエネルギーが手に入らず,完全に溶かすことが出来なかった為です.
因みに,可鍛鉄は,「鋼」と「鍛鉄又は鉄」に分かれます.
刃物や発条に使用する堅くて強いものが鋼で,炭素含有量は鍛鉄より多く,焼き入れをすることが出来ました.
また,鉄の鋳造は,西洋に大砲と弾丸の発展をも促す要因ともなりました.
当初,高炉法はライン川流域で生まれ,ライン川の水力と,その背後にある森から得た木炭から製鉄を行うことで成り立っていましたが,それが15世紀末に英国に上陸すると,彼の国の成長の大きな原動力となりました.
ただ,高炉の乱立は夥しい量の木炭を消費し,国内の森林資源の枯渇を招き,1709年に石炭とコークスを燃料とする高炉が出来るまでその克服に四苦八苦することになります.
石炭へのエネルギー革命が起きた後も,銑鉄を可鍛鉄に変える精錬過程では依然として木炭が用いられていました.
1783年には反射炉によるパドル法が開発されて木炭から解放され,更に蒸気機関と組み合わされて,出来た鉄を蒸気機関で動く圧延機に掛けることで,ハンマーによる鍛造を過去のものに追いやっていきました.
これより先,1735年にはこれまで溶かすことが出来ないとされていた可鍛鉄も,コークスを使って溶かす坩堝鋳鋼法が発明されました.
こうして,英国では水車とハンマーと木炭で作られていた鉄を,石炭とコークスと蒸気機関での圧延で生産することが出来る様になります.
また,坩堝鋳鋼法の発明によって,小規模ながら高品質の鋼を得ることが出来る様になりました.
しかし,高炉による製銑,パドル炉による精錬,そして蒸気機関による圧延の3過程に於いて,量産のボトルネックとなったのが,中間にあるパドル炉による精錬でした.
パドル炉は,反射熱によって銑鉄を溶解し,火焔の酸素によって炭素を酸化除去する方法でしたが,炭素を失う過程で鉄は熔融点が高くなるので流動性を失います.
この為,反応を促進する目的で,人力を用いて反射炉の中の鉄をかき回していました.
つまり,この部分はどうしても人力に頼らざるを得ず,炉の大型化にも限界がありました.
長らくこの部分がボトルネックとなっていましたが,1856年にベッセマーにより転炉製鋼法が発明されたことで,この部分のボトルネックが解消されました.
ベッセマー法は,熔銑の中に直接空気を吹き込むことで,その酸素で不純物の珪素や炭素を酸化して取り除き,鋼に変えてしまうもので,その際に発生する高温度の熱によって,生産された鋼は熔融状態で保持されます.
この吹き込みを適当に中止することで望み通りの材質が得られました.
但し,原料鉱石は珪素の含有量が多く,燐分や硫黄分が少ないものが最適でした.
次いで,平炉が発明されました.
これは,反射炉の様に熔銑を半熔鉄に変えるだけでなく,反射炉を熔鋼製造炉に転化するものでした.
その原理は,熔銑に鍛鉄(錬鉄)を挿入して炭素量を調節することで,熔けた鋼にするか,或いは銑鉄に更に鉄鉱石を添加して,鉄鉱石の酸素成分で銑鉄を脱炭して熔けた鋼に変えるかです.
こうして,ベッセマー法と平炉法が誕生したことで,19世紀の欧米各国は鉄から鋼の時代へと移っていきました.
ただ,パドル法で解決出来ていた問題がその両方の炉で解決出来ない問題が一つだけありました.
それは,燐の除去と言うものでした.
皮肉なことに,欧州で採掘される鉄鉱石は,含燐鉱石が多かった訳で,これが折角のベッセマー法と平炉法があるにも関わらず,パドル法を捨て切れていない原因でもありました.
この燐の除去が達成されたのは更に時代が下った1879年のことで,トーマスにより塩基性ベッセマー法が発明されました.
これは,燐分の多い鉄鉱石で作られた銑鉄を精錬する場合,まず石灰を挿入して滓を強い塩基性とし,その滓中に燐が取り込まれることで,脱燐が行えると言うものです.
但し,ベッセマー法では,耐火材には従来の珪酸を主成分とする酸性耐火材を用いていたので,塩基性滓が出来るとそれと反応してしまい,炉壁が侵食される為,石灰の投入が行えませんでした.
そこで,耐火材をドロマイトとタールで塩基性耐火材を作る事で,石灰の投入が可能となり,名実ともに鉄の工業化が完成した訳です.
因みに,この「鉄から鋼へ」の時代に,丁度日本の明治維新がぶち当たっています.
明治政府は海外の技術を積極的に導入し,先進技術を取り入れることによって,西洋が400年掛けて築き上げた技術蓄積を50年で消化し,20世紀には取り敢えずではありますが,技術的には世界に追いつくことが出来た訳です.
ただ,それは,既存の砂鉄精錬を圧迫するものでした.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/12/19 21:25
さて,西洋の製鉄が技術開発により発展したのに対して,アジア諸国のそれは,西洋の発展を受けてのものでした.
アジア諸国では日本以外にもインド,中国等を中心に古来から製鉄が行われていました.
特にインドのウーツ鋼は優れた性質を持つ鋼として有名です.
日本の場合,釜石の鉄鉱石と九州の石炭が西洋式の製鉄に必要なものでしたが,インド,清には既にその資源は無尽蔵にありました.
近代的製鉄所は,インドが最も早くに造りあげました.
1833年には既に高炉とパドル・圧延工場を建設しています.
これは銑鉄を主に生産し,出来た銑鉄を英国に移出するのが目的でした.
1875年にベンガル鉄鋼会社が高炉と鋳造工場を建設しましたが,こちらは経営が上手くいかずに英国本国の資本が経営を引き継ぎ,規模を拡大して再開します.
但し,英国本国の意向が強く働き,民族資本が介在する余地がなかった為,国内需要の大部分は英国本国からの輸入に頼ることになりました.
清はそもそもが工業的な鉄の需要がありませんでした.
鉄道の建設も遅々として進んでおらず,レール生産に必要な鉄材需要が少なかったこともあります.
清の近代化政策である洋務運動の一環として1894年に漢陽製鉄所が建設され,鉄鋼一貫製造工場として稼働しましたが,当時は良質の製鉄用コークスが得られず,英国からコークスを輸入した為に採算が取れませんでした.
更に,同年に勃発した日清戦争に敗北したことで賠償を課せられた清朝政府はこれを維持出来なくなり,大実業家の盛宣懐がこれを引き継ぎました.
因みに,その賠償を元手に建設された日本の官営八幡製鉄所は1899年,盛宣懐との間に大治鉱山で産出される鉄鉱石の長期購入契約を締結しましたが,これは漢陽製鉄所のコークスを日本の九州炭導入で解決しようとした為のバーター取引とも言われています.
一方,日本の場合は江戸末期の黒船来港による防備強化の為,各地で鉄製砲の鋳造と蒸気船の建造を目的に建設した反射炉とその原料である銑鉄の高炉による製錬が最初です.
幕末の反射炉による鉄製砲の鋳造事業は,幕府韮山代官所が行ったのと前後して,佐賀鍋島家,薩摩島津家,水戸徳川家,長州毛利家,鳥取松平家,岡山池田家で行われ,鋳鉄砲材料である銑鉄の高炉による製錬の試みは,盛岡南部家の釜石でのそれに加え,薩摩島津家と幕府の函館奉行所管轄下の蝦夷地渡島半島,後に仙台伊達家でも行われています.
特に日本の近代製鉄業形成過程では,南部家による釜石鉱山での高炉法操業と,それを惹起した水戸徳川家の反射炉,鋳造砲製造事業の果たした役割は極めて大きいとされます.
尤も,反射炉,鋳造砲製造事業は,1850年に佐賀鍋島家が行ったのが最初ですが….
日本での反射炉導入の目的は,大砲の様な大型鋳鉄品の生産と共に,鉄鉱石とか青銅の溶解にありました.
丁度,欧米でも鋼の時代に差し掛かる前後であり,実は日本の取り組みはそう遅れていなかったことが伺えます.
1850年代には欧米でもコークス高炉法はまだ英国に於いて主流となっているに過ぎず,日本が導入したのも,大陸で主流となっていた木炭高炉法であり,送風方式は水車を用いたものでした.
これは蘭書の『リェージュ国立鋳砲所に於ける鋳造法』と言う本を翻訳した伊東玄朴の『鉄熕全書』などを下敷きとして独学で学んだ結果でした.
とは言え,伊東玄朴が高野長英と共にシーボルトに学んだ蘭医でしたし,水戸反射炉や釜石高炉の中心的役割を果たした大島高任も医師坪井信道の門人で,伊東玄朴の謦咳に接した人でもあって軍人ではありません.
しかし,長崎奉行直轄の御鉄砲方である高島秋帆やその弟子の江川太郎左衛門英竜は,洋式砲術や銃砲製造に積極的役割を果たし,伊東玄朴も又,英竜の蘭書翻訳顧問であった事から,双方のコラボレーションの結果,技術的な諸問題を解決していきました.
こうした設備機械の設計と操作指導は彼ら蘭学者でしたが,実際の築造や製作,操業には,従来からいる大工であり,瓦や陶磁器の職人であり,鋳物師や刀鍛冶,器械細工師などの伝統的な手工業技術の持ち主がいたことで乗り越えることが出来ました.
彼らにとっても,このプロジェクトへの参加は新鮮でした.
ともすれば,徒弟制度の元で秘伝や口伝の類で技術継承が行われた為に,進歩も遅々として進まないのに対し,こうした大規模プロジェクトでは知恵を出し合って解決しなければならなかった為です.
これにより,彼らも刺激を受け,新しい技術の導入や,既存技術の進歩が急速に進んだりします.
木炭高炉製錬法もまた,踏鞴製鉄の延長線的な技術であり,決してオーパツー的なものではありませんでした.
ただ,原料については従来の砂鉄では技術的に不適当で,鉄鉱石を必要としました.
因みに,幕末に踏鞴製鉄法で製作した大砲はその悉くが破れて役に立たなかったと言います.
つまり,踏鞴炉では小さ過ぎて十分に還元が進まず,鉄滓などの不純物が混入したままである為,大強度を必要とする砲身を製作するのは不可能だったのです.
木炭高炉が作られたのは南部家の釜石鉱山で,大島高任がその中心となって造りあげました.
釜石鉱山とは,大橋,橋野,鎌ヶ峯,栗林の各鉄鉱山を含む総称です.
高炉は,大橋と橋野に作られ,1862年には既に大橋3基,橋野3基の両高炉で,年間約50~60万貫の銑鉄を生産していました.
以後も釜石鉱山一帯に高炉が10基築造され,1868年までに総生産量は年産70~80万貫に達しました.
こうして,1860年代末には日本で木炭高炉法の完成を見たのですが,欧米ではコークス高炉法による銑鉄をパドル法で製錬して錬鉄を造り,それを圧延すると言う方式から,コークス高炉銑を転炉製鋼法で製錬して熔鋼とし,それを圧延する方式へと転換し始めていました.
洋鉄を導入したと言っても,日本はまだ2段階遅れていたのです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/12/20 21:24
さて,昨日は明治維新前までの洋鉄導入について書いた訳で,今回は明治初期からの話になります.
明治維新まで,鉄の需要は建築や造船用の釘,農具,針や鍋釜の日用品と言ったものから武具に至るまで,踏鞴製鉄で十分賄えるものでした.
しかしながら,文明開化は,鉄道のレールや船舶の船体を始めとしてあらゆる場所で鉄が必要とされ,鉄の需要が一気に拡大しました.
踏鞴製鉄は元より,反射炉などの従来の生産ラインだけでは賄えないので,政府ではまず海外からの輸入で凌ぎ,その間に鉄の生産技術を高めることを選択しました.
1875年,政府は釜石鉱山の内,大橋鉱山のみを官営として,採掘と製錬事業を開始しました.
それに先立つ1874年,鉱山助の官職にあった大島高任は,工部省の御雇外国人ビヤンヒーと共に釜石を検分し,新製鉄所建設地の選定と,その他操業計画の立案に着手しました.
ビヤンヒーはドイツの技術者で,産業革命を経験していることから,立地適地として平地を選び,比較的大規模で高能率の高炉と,これに鉱石を運ぶ為の近代的鉄道の建設を企図していました.
一方,大島高任は,今まで釜石高炉を造りあげてきた経験から,作業のしやすい安全な場所に製鉄所を立地し,高炉は最初から大規模なものを造らずに,比較的小規模のものを5基造る,更にその運搬手段もいきなりの鉄道ではなく,鉄道馬車で始めると言う漸進案を示しました.
こうした対立から,ビヤンヒーと大島高任との間に論争が巻き起こり,結局工部省当局は大島案を退け,外国人技術者案を採用してしまいます.
その結果,大島高任は製鉄現場を去ることになり,彼抜きで官営釜石鉱山の事業が開始されることとなりました.
官営釜石鉱山では,日産能力25t熔鉱炉2基を柱に,熱風炉その他の付属設備から錬鉄工場諸機械に至るまで,更に釜石港と採掘場或いは製炭所を結ぶ鉄道の機関車・貨車に至るまで,全て英国から輸入されました.
これにより,幕末期に導入された産業革命前の水準を飛び越えて,一足飛びに,本格的機械制工業段階に発展した訳です.
こうした技術的に背伸びした発展は,身についているものではないので,何処かで破綻を来します.
案の定,1880年9月から操業を開始した官営釜石鉱山は,高炉作業が上手く進行せず,高炉操業の為の木炭が不足すると言う問題が露呈しました.
この燃料問題が足枷となって操業は失敗に終わり,1882年12月,釜石鉱山の閉山が決定されてしまいました.
以後,官営八幡製鉄所が誕生するまで,鉄材の供給がままならない状態が続きます.
余談ですが,この時の釜石鉱山鉄道の設備一式を払い下げを受けたのが,難波~大和川を結ぶ阪堺鉄道,現在の南海電鉄です.
その為,当初の阪堺鉄道の軌間は838mmと歪なものでした.
官営釜石鉱山の閉山から5年,1887年に民間の1商人であった田中長兵衛が釜石の払い下げを大蔵大臣松方正義に願い出ています.
この田中長兵衛と言う人は鉱山経営に素人でしたが,山陽や山陰の踏鞴製鉄を検分し,官営工場内の残存鉄鉱石や木炭を地所と共に借り受けて,苦労の末,小高炉での銑鉄試製に成功しています.
彼が上げた目的の一つには,輸入鉄の増大による外貨流出を防ぐ事にありました.
因みに,1889年の鉄類供給総額は11.1万t,これに対し,日本国内産は19%に過ぎず,残りは輸入で賄われていました.
需要のうち10%は軍需用,民需用は残りの90%で,軍需用の10%は全て外国産鉄類でした.
これに外国製軍艦と大砲の鉄類換算トン数である5,000tを加算すると,更に日本国内産の比率は減ります.
また,軍需用の半分は大阪砲兵工廠で消費していました.
こうした状況を鑑みて少しでも国内産の比率を上げる為に,1887年,釜石鉱山の払い下げを受け,釜石鉱山田中製鉄所が設立されました.
その高炉の容量は,嘗て大島高任が計画した日産5~6tの小規模高炉を造り,送風動力を水車としています.
こうして1890年,釜石銑鉄で試製した弾丸が大阪砲兵工廠で試験され,「伊国『グレゴリニー』鋳鉄並本邦釜石鋳鉄ヲ以製造セル弾丸ノ比較試験報告」にて,外国銑製のものに比して決して劣らぬと言う評価を勝ち取ります.
以後,釜石鉱山田中製鉄所に対しては,陸軍大阪砲兵工廠からの大量発注を受けると共に,諸都市から水道用鉄管材料の引き合い,その他一般産業分野からの発注も盛んになり始めました.
需要が増大すると,従来の小規模高炉では賄えなくなり,遂に廃山以来捨て置かれていた英国式大高炉が復活し,銑鉄の大量生産が開始されました.
この復活には,当時の最も優秀な製鉄技術指導者であった野呂景義と,弟子の香村小録が関わっています.
彼らは木炭銑鉄を少量生産する傍ら,漸進的に技術を積み重ねつつ,1894年に大高炉を改造し,これにより木炭銑を増産するまでに至ります.
更に,1895年からは北海道夕張炭によるコークスを用いて日本最初のコークス高炉操業が開始されました.
この技術は英国で1735年に開発されたもので,日本への導入は160年遅れでした.
1894年の釜石製鉄所の生産量は,年間約1.3万トンに達し,日本全体の鉄類生産高の65%を占めることになります.
これは,鳥取,島根,広島,岡山の各県で生産されていた銑,鉧,錬鉄,鋼と言った踏鞴生産の全鉄類の総生産高を凌駕し,近代製鉄業の基礎が築かれた年でもありました.
とは言え,生産規模はまだまだ小さなものでした.
民間でも造船や車輌などの機械工業に鉄需要が旺盛になっており,民間資本も次々と育っていましたが,敢えて国産品開発と言う茨の道を歩むことなく,海外から自由に低廉な鉄鋼を輸入する方が有利であるという考え方が産業界を支配していました.
しかし,軍部としては,鉄が無くなれば,弾丸も作れませんし,大砲も整備出来ません.
万一,経済封鎖で鉄が輸入停止となったら,継戦能力が失われてしまいます.
事実,官営釜石鉱山の失敗により,鉄材供給が不足したにも関わらず,大砲の必要数を満たす必要があったことから,威力の低下を忍んで,イタリアから青銅砲の技術を導入せざるを得なかったりします.
そこで,政府に対し,民間資本が駄目ならば国営でも良いからと言うので,一貫製鉄所の建設を強く主張していました.
その為,新たな官営製鉄所は当初から鋼製造を目的とし,軍需優先が考慮されていました.
1888年,その萌芽となる計画が松方大蔵大臣に提出されます.
提出したのは広島鉄山技師の小花冬吉で,彼はフランスで砂鉄製錬に関する技術改良に一定の成果を上げたので,広島鉄山改良案を提出します.
これは旧来の砂鉄製錬による銑鉄をそのまま利用する為に,これを1カ所に集約して,これに新開発の精錬法を用いて錬鉄を造る計画で,これにより錬鉄の半分以上の自給と鋼鉄の輸入を全量阻止出来ると言う目論見でした.
但し,その経営は集約が直ぐには無理であろうから,旧来のまま分散的な踏鞴製鉄を続け,次の錬鉄生産段階で集約を図ろうと言うものでした.
1891年,松方正義が首相となると,農商務省技師の小花冬吉と,野呂景義にそれぞれ製鉄所案を提出させています.
小花案は釜石,仙人山,中小坂,松尾,山越内の鉄山を買収し,官営広島鉄山と併せて6カ所に官営木炭銑炉を設け,出来た銑鉄を中央精錬所に輸送して,これを原料の土台として製鋼所を運営する案を主張しました.
3年前の案と違うのは,錬鉄1万tの生産能力だったのが新製鉄所案では製鋼所中心として鋼1.8万tを計上していました.
野呂案では小花案の2倍の数字を計上し,鋼3.7万tとし,官営方式でまずは運営して陸海軍用資材の供給に主力を注ぎ,余剰能力を鉄道建設その他の産業用資材の供給を為すこととしています.
こちらは銑鉄生産を民間の分野とし,輸入銑鉄を中心に原料を確保して,まず製鋼圧延工程を確立するのを第1段階とし,製銑工場は第2段階としました.
当初,松方首相は農商務省の管理下で製鉄所を運営する予定でしたが,国防目的からそれは海軍所管へと移管されました.
海軍省配下の専門委員会では野呂案を元に検討し,予算を縮小して鋼2.8万t規模の製鋼所建設を議会に提出しましたが,国産原料の調査不備と経済界の恐慌による景気減速を理由に否決としました.
ただ,議会も官営製鋼所建設そのものを否定することはせず,全国の鉄鉱資源の調査が詳細に行われることになります.
これには中国地方の砂鉄や北海道の砂鉄は殆ど無尽蔵であることを言及し,銅鉱中に含まれる鉄の利用についても別子銅山で実験しました.
結局,製鉄所そのものは日清戦争に間に合わず,この時の教訓を踏まえて,国産での鉄鋼安定供給を議会も認識し,1896年に改めて農商務省により,殖産興業を目的として官営八幡製鉄所の計画を提出しました.
これは形態は銑鋼一貫で,銑鉄8万t,鋼材6万トンで,軍需確保と一般民需の半分を供給すると言うもので,原料は国内鉄鉱石,石炭,一部の国内銑鉄を利用する計画でした.
しかし,1898年に再度計画が変更され,軍需の供給はほぼ無くなり,製鋼一貫となって,銑鉄の買い入れは中止されると共に,銑鉄生産は12万t,鋼材9万tを生産すると言う,当時の世界最先端技術体系の「高炉→転炉・平炉→圧延」と言う「鋼の時代」にふさわしいものとなりました.
最終的に軍需が抜けたのですが,陸軍では釜石鉱山からの供給によりそんなに危機感は抱いていませんでした.
しかし,海軍では危機感を抱き,1901年に装甲板設備の拡充として呉工廠に特殊鋼の大製鋼所を建設して装甲板の自給を図ることにし,また,室蘭に日英共同経営による特殊鋼の製鉄所設立を支援していくことになります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/12/21 22:32
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