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◆中世ヨーロッパ総記
<戦史FAQ目次
http://isweb37.infoseek.co.jp/school/c-freak/(中世西洋史書籍)
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Denei/6804/index.html(中世西洋武器)
乙女同盟(ジャンヌ・ダルク)
カノッサの屈辱(百年戦争)
「哲学ニュースnwk」◆(2014/11/23) 中世ヨーロッパって時代は大きく三つに分けられるから区別を意識しようね
歴史ぱびりおん(フス戦争)
『Armies and Warfare in the middle ages:English experience』
まだ読みかけ.
王の軍における人員構成の分析から始めている.
封建制,俸給制,一括期限契約,栄誉と身分観念からの志願など,様々な動機要因により騎士たちが参じたことが書かれている.
海外遠征やイングランド外のウェールズ,スコットランド遠征が困難なのは,軍を参集させるために国庫を動員する必要があることも与(あず)かっていることが分かる.
英国の封建制は中央集権的色彩が強いとされており,年号などは多少補って読んでやる必要があるが,基本的には1271年のエドワード1世の聖地遠征や,1298年のファルカーク,1314年のバノックバーン, 1346年のクレシー,1415年のエジンコートなどの対戦勢力と,帰結を抑えておけば大丈夫.
専門用語を知らないので,封建制と土地所有の細かい議論などは追いにくいが.
――――――軍事板
『Crusader Castles』
読みやすく図解が分かりやすい.
今のところアマゾンJPで楽に買えて,お得感がある十字軍城郭はこれできまり.
難所にある洞窟を城に転用したり等,いろいろやっているが,守勢時の戦力倍増という意味合いが強いような 観がある.
また,攻城戦ではトレビシェットの威力をかなり大きく見積もっており,城郭建築にそれが反映されていると主張している.
――――――軍事板
『Meadival city under siege』
論文集.
実質的にはそれぞれの研究者の研究テーマと関心を探り,その後の書籍購読に繋げるべき内容.
面白かったのは中世末期における砲兵の発達と城塞建築,城郭構造の関係の話.
どうやらベレンの塔のようなものが一時期,欧州の城にくっついていたことがあったらしいことを知る.
また,十字軍都市の防御構造なども意欲的.
城壁線すら推定のままの所も多いようだが,これは日本の平城京でも同じことか.
レバノン,シリア,イスラエル,ヨルダン,エジプト,トルコ,キプロスと十字軍の足跡は各地に残っており,これらの国々の関係は必ずしも良好ではないだけに,この分野の研究は苦労するのだろう.
――――――軍事板
青文字:加筆改修部分
『中世後期のセルビアとボスニアにおける君主と社会』(唐澤晃一著,刀水書房,2013/2/28)
>「王冠」理念と政治集会を分析,西欧と比較
『中世ヨーロッパの城塞』(J. E. カウフマン共著,マール社,2012.3)
『中世ヨーロッパの武術』(長田龍太著,新紀元社,2012.3)
『ドイツ傭兵(ランツクネヒト)の文化史 中世末期のサブカルチャー/非国家組織の生態誌』(ラインハルト・バウマン著,新評論,2002.10)
面白かったよ.
名称の由来からランツクネヒト消滅後,近現代に至るまでの「ランツクネヒト像」まで触れられていて,広く浅く知識を得ることが出来た.
俺のようなビギナーでも,サクっと読める.
ただ,本の中で紹介されていた文献の殆どが,日本語化されてなさそうで鬱.
とりあえず次は,阿呆物語にでも手を出すことにする.
――――――軍事板,2011/03/02(水)
『マルタ島大包囲戦』(アーンル・ブラッドフォード著,元就出版社,2011.4)
本屋をブラブラしてたら見つけた本.
背表紙を見て,
「お?,WW2のマルタ島攻防戦か」
と思って手に取ったら,まさかの16世紀.
マルタ島を攻略しようとしたオスマン帝国と,マルタ騎士団の戦い.
時期的にはプレヴェザの海戦とレパントの海戦の間で,この包囲戦での敗北により,オスマン帝国の西地中海における覇権が,陰りを見せ始めた.
ちなみに著者はWW2の時に,海軍士官としてマルタ島を訪れたことがあるそうだ.
訳者は,英米側から見た第2次世界大戦の本を何冊か訳してる人.
てか俺は,この本のまえがきを読むまで,マルタ語の存在を知らなかった….
――――――軍事板,2011/05/22(日)
『ヨーロッパの傭兵』(鈴木直志著,山川出版社,2003.6)
読みやすくて面白い.
傭兵の暮らしや,各国が常備軍に移る過程で起きた変化について書かれている.
参考文献に『傭兵の二千年史』が入っていたな.
――――――軍事板,2010/01/31(日)
【質問】
中世ヨーロッパで建造された有名な城と,その中で最も堅固を誇った城を教えてください.
【回答】
有名なところではカーフィリー,シャトー・ガイヤールなどではないかと思う.
主観になるが中世に作られた中で物理的に最も落ちがたいという意味では,要塞ではシャトー・ディフが最高だろうと思う.
城壁を攻める十分な兵力の揚陸も困難だからな.
アレクサンドロスのティロス攻略の比ではない.
城郭都市で最も本格的なのはカルカソンヌではなかろうか.
高台の上にあり,東側には広い堀.
合計46の塔に内外二重の城壁で,門一つが独立した要塞といえるほど堅牢なつくり.
でも,城は要するに手間隙かける軍隊に,長いこと取り巻かれちゃうと落ちちゃうものだし,城の中に入ってる軍隊や住民なんかも関係するから,堅固っていう定義は難しい.
歴史的に一度も落ちてない要塞より,陥落したことのある要塞のほうが堅牢である場合は往々にある.
あと,中世ってのの定義次第ですが,コンスタンティノープルなんかも堅固だし,アルビジョワ十字軍に攻められた南フランスにも堅い城とか城郭都市が沢山ある.
またヨーロッパではないが,クラック・デ・シュヴァリエも知られている.
シリアにあった聖ヨハネ騎士団の本拠で,当時の築城技術の粋を集めた難攻不落の城だった.
最終的にバイバルスの調略により落城している.
十字軍の城については,欧州の人らが中近東にわたって建築したということを考えると,欧州の城とは密接な関係にある.
たとえばイングランドのエドワード1世などは中東に行った経験があり,その後ウェールズに多くの城を築いている.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
中世ヨーロッパのとこですが……
封建社会の安定→教会が西ヨーロッパ世界で普遍的な権威をもつようになる→国王(皇帝)と争う[聖職叙任権闘争]
この流れは正しいですか?
正しいとしたら,いまいちこの流れが理解できないので,肉付けしてほしいです.
中世ヨーロッパで封建社会の安定がもたらしたもの,といえば,@十字軍(人口増加とかによって),A都市の発達(十字軍→交通の発達→東方貿易,という感じで)
以上のこと簡潔ですがこんな感じでわかりますが,聖職叙任権闘争が中世ヨーロッパで他の項目?とどんな関係があるのか,どんな流れで起こったのか,がわかりません.
【回答】
なんか微妙に解釈がおかしいな.
まず叙任権闘争については,キリスト教初期の時代から,つまり中世以前から慣習として,司祭なんかは土地の権力者が任命することになっていた.
はじめはそれで問題なかったけど,やがて土地支配を基盤とする中世になり,豪族諸侯を統括する王,そしてカトリック世界の世俗の最高権威として神聖ローマ皇帝の位が創設されると,この皇帝に聖職者の任命権が集まるようになる.
本来教皇に任じられて位に就く神聖ローマ皇帝が,聖職者に対して絶大な権力をもち,ひいては枢機卿,教皇の選出を決定するようになった.
この卵と鶏の矛盾が問題なわけ.
この問題はなかなか解決せず,幾度の宗教会議を経てカトリック世界を二分してしまう.
しかも単純な教皇皇帝いずれかに関する利害の問題だけではなく,あらゆる政治対立や個人間のいさかいにまで持ち込まれてしまったために,いっそうこじれたわけ.
嫌いなあいつが皇帝派だから,俺は教皇派にしようとか,そういうノリだ.
後にはイデオロギー対立でさえなくなってしまい,叙任権闘争自体が大きく歴史を方向付けることはなかったが,中世のあらゆる事件の背景には必ず,叙任権闘争に関わる話が出てくるのも,当時ほとんどの政治宗教勢力が教皇派皇帝派をタテに対立していたからだな.
一応,12世紀には決着したことになっているが,実際には後々までしこりは残り,結局宗教改革,反宗教改革という,より深刻な対立が生まれるまで,この溝は残ることになる.
十字軍というのは,その主要な動機は紛れもなく信仰心だ.
中世前期の混乱からようやく立ち直った西欧が,にわかに興隆したことを背景に,損も得もなく,ただ聖地奪還は神の意思であるという標語の下に,当時いまだ素朴な信仰の中にいた,カトリック教世界の中でも後進地域の農民階級を中心に沸き起こった運動だった.
その結果,外界と接触を持たず閉鎖的だった荘園世界が攪拌され,思想経済面で活性化が起こったというのは教科書どおり.
東方貿易とは直接はあまり関係ない.
イタリアやアラブの商人にとっては,十字軍参加者はいい商売相手,言ってしまえばカモだったが,それ以上のものではない.
世界史板,2009/12/05(土)
青文字:加筆改修部分
【質問】
中世ヨーロッパの軍隊の頂点は国王だったの?
【回答】
中世ヨーロッパの根幹は封建制度.
これはある主君と臣下の契約からなり,理念上この二つは対等.
臣下は自分の収入源である土地の所有と支配を保証してもらう代わりに,軍備を主君に提供する.
だから国王→公爵→侯爵→伯爵→…騎士みたいなピラミッド状ではなく,網目状に関係が結ばれている.
伯爵 公爵→男爵→…
↑ ↓
騎士←国王→男爵→騎士←国王…
↓ ↓
騎士←子爵→騎士→…
こんな↑感じ.
複数の国王や君主の配下になった騎士も大勢居て,A王とB王が戦争したときに,自分の部下10人をA王に,40人をB王に提供する,なんて事もあった.
総司令官は基本的に,一番兵力を提供した人間がなる.
だから普通上位の貴族がなるけれど,兵力の代わりに「盾金」という金を払って兵は出さない事もあった.
そうすると,総司令官が妙に下級で,兵力は傭兵がメインなんて事も起こり得る.
提供した兵力が多い下級貴族と,階級は高いが兵はあまり連れてない高級貴族で,対立が起こったりもする.
軍の階級はいわゆる中世にはまだなく,軍が編成されるに応じて任命された.
だから,この前は侯爵が元帥(総司令官)だったけど,今度の遠征では子爵が…とか.
国王の下に騎士団長とかがいて,騎士団なんて「常備軍」がいて,普段は剣の稽古しかしてなくて,国王の命令一下出陣する,なんて中央集権システムがあるなら,それはもう中世じゃない.
【質問】
封建制ってさ,家臣に領地分けるわけやん,
攻め取った領地なんかの取り分はちゃんと決まってて,一番領土取るのはやっぱ王様とかなん?
戦で功績あげまくった家臣の方が,領土大きくなるとかないの?
【回答】
別に土地を新しく攻め取らなくても親戚とか婚姻とかの関係で,いつのまにか一つの家が色んなところを相続して大きくなることもある.
分け与えてると言っても取り敢えず家臣に領土運営を任せてる状態だしな.
初期の頃なら
「傘下に入りますから守ってください.代わりにいざという時には手足として働きますから」
と言う相互扶助な関係だし,王がどっかの領主の家臣なんて状態もあった.
忠義なんてもっと先の話.
ヨーロッパの封建制度と中華や日本の封建制度は,名前が同じでも中身は全然違う.
だから最終的には絶対王権へと発展していった訳だし.
上下関係も初期はあくまで契約に依って決まるから,AはBの主人でもAはCの家臣なんて状態はあった.
世界史板
青文字:加筆改修部分
「昔々,あるところに,恩賞を与えすぎて,とうとう与えるものが何もなくなってしまった王様がいました」
(イソップ童話)
(うそ)
【質問】
中世の封建貴族は戦争のとき,騎士とかの家臣を従えて戦っていたが,そういう家臣団はいつ消滅したのだろうか?
日本の場合は明治維新で藩がなくなったときだが,ヨーロッパの場合はよくわからない.
【回答】
自前の家臣団に言うことを聞かせるのは凄く面倒らしく,金で傭兵を雇った方が楽だから.
中世最盛期の貨幣流通の増大,諸都市の繁栄によるヨーロッパ世界の経済成長や,中世後期における農村地帯の荒廃により,地主層である騎士階級が経済的に没落し多くの騎士が傭兵業を営む結果となり,封建領主の傭兵に対する依存の流れを,更に加速させて行ったとの事.
この為,下級騎士や家臣を引き連れた小領主たちは傭兵となって戦場を駆け巡り,貴族が傭兵隊長を勤めるという流れは,中世末期から近世初期にかけて登場するランツクネヒトたちにも継承され,連隊長や中隊長の位は貴族が独占して行ったそうだよ.
または貴族が自費で連隊を編成し,傭兵隊長を雇って指揮官にする.
この場合は編成した貴族が連隊所有者,傭兵隊長が連隊長.
世界史板
青文字:加筆改修部分
【質問】
騎士って何?
【回答】
簡単に言えば knight とは,主に中世ヨーロッパで,馬に乗って戦う身分の者を指した言葉.
つまり,馬に乗っている騎兵であれば,それがすなわち騎士と言うわけではない.
というか厳密に言うと,最初は身分を示す言葉ではなかったが,
「騎士の装備を維持するのはお金がかかるよね.化け物みたいな鎧とか馬とか.
そうなると貧乏人には難しいよね」
てなことになって,領土持ちが騎士の大部分を占めるようになり,事実上,身分を示す言葉に.
みんなビンボが悪いんや.
たいていは貴族の生まれで,まずは主君の下で小姓とならねばならない.これが7歳頃.
14際頃になると,元服し,従士(スクエア)として武術訓練を積んだり,戦場にでたりできる.
そして一人前と認められると,先輩騎士によって叙任される.
叙任の儀式は,時代が下るにしたがって無意味に複雑化している.
その後,小火器の発達によって,騎士の出番はなくなってしまい,単なる階級を指すだけの言葉になってしまいましたとさ.
今では英王室から叙任されるときくらいしか,騎士の実物を見ることはないでしょう.
ミック・ジャガーとかエルトン・ジョンとかボノとかビル・ゲイツとかベッカムとかが,現代では「騎士(ナイト)」の称号を持ってます.
……ビル・ゲイツのは納得いかねえなあ.
(画像掲示板より引用)
written by スティーブ・バルマー(うそ)
【質問】
複数の主人を持つ騎士は,契約で定められた期間だけ味方につき,それが過ぎると居城へ帰ったり,他の戦場へ向かってもよし,なんてこともあったそうですが,つまり日によって敵になったり味方になったりしてたの?
【回答】
契約で定めている軍役の日程が終了したら,サッサと退却しても契約通りに行動しているとされ,その行為は一切非難されたりはしない.
主君が不利な状況だろうがお構いなし.
敵対している君主側とも契約していれば当然、今度はそちら側の戦力として加担するでしょうから,昨日は味方だったのに今日は敵って状態は当然発生する.
また,複数の主人を持っているのは騎士に限った事では無く,場合によっては王が地方の領主の臣下なんて事もある.
実際,イングランドとスコットランドとの戦争のとき,イングランドとフランスのときとかに,両方に領地を貰ってる貴族は,
「こっちについて参戦しなければ,領地を取り上げる」
「ちゃんと勝てば向こうの領地も安堵するし,御褒美に新しい領地もやる」
と両方から言われて,てんやわんやだった.
百年戦争やら三十年戦争やらが断続的で長期間の戦争になったのも,みんな夢見ていたのに1500年も天下取り(ローマ帝国の再統一)ができないのも,そういう事情から.
世界史板
青文字:加筆改修部分
【質問】
医療行為を目的に設立された騎士団ってなかったっけ?
テンプルだかマルタだか氣志團だか.
【回答】
医療目的で作られたのは聖ヨハネ騎士団です.
イタリアの都市国家の一つ,アマルフィの商人が,エルサレムに巡礼者用のホスピスと修道院を建てたのが,その始まりとされています.
1023年頃とも,1050年頃のことだとも,他の年代だとも.
その後,施設はフランス人騎士ジェラール・タンクらによって継承・運営され,巡礼路の警備も行いました.
1113年,教皇パスカリス2世から,騎士修道会としての認可ゲット.
次第に戦闘集団としての側面が強まり,クラク・ド・シュヴァリエ(騎士の城)要塞など要塞2,砦140を防衛する勢力に成長.
しかし1187年にイェルサレムが陥落し,1291年にはキリスト教との最後の砦アッコンも陥落.
そのため騎士団はキプロスへ逃れ,イスラーム教徒相手の海賊業を開業.
これに対してキプロス国王は,彼らに領土を奪われることを恐れて行動を制約(そらそーだ)する.
そのため騎士団は,「自由な新天地」を求め,海賊ヴィニョーロ・デ・ヴィニョーリと組んで,1308年までにビザンツ
Byzantine 帝國領だったロードス島を攻略.
(それが聖ヨハネの名を冠する連中のやることかい!というツッコミは無視の方向で.
まあ,ローマ教皇とビザンツ帝国とは対立していたから,一応の大義名分は立つかもしれない)
そこを根城にした彼らは,当時の最高水準の医療技術をうたわれた病院を経営するかたわら,周辺の小島を攻略したり,イスラーム教徒の船への海賊行為にせっせと励む.
イスラーム教徒から見れば大迷惑.
そこで1444年,エジプトのスルターンが島を攻撃するも失敗.
そうした中,1453年にコンスタンティノープルが陥落してビザンツ帝国が滅亡.
オスマン帝国のロードス島侵攻は必至の情勢となり,プエール・ドブッソン団長以下の騎士団側は防備を固める.
はたして1480年,オスマン帝国のマホメット2世は兵力10万をロードス島へ差し向ける.
3ヶ月に及ぶ激戦の末,騎士団は防衛に成功.
西欧諸国では,イスラーム勢力に対する久しぶりの勝利のニュースに沸くことになる.
けれども,オスマン帝国が一度で諦めるとは,誰も思わない.
島では城壁の補強・改装が進められる.
そして予測は当たる.
1522年,スレイマン大帝は兵力20万,船団400隻をロードス島へ派遣.
対する騎士団は兵力7千.
「攻撃側兵力3倍の原則」どころの話じゃない.
とうとうロードス島は陥落し,騎士団はシチリア島に撤退する.
そんな彼らに目をつけたのが,スペイン王カルロス1世(カール5世).
当時,地中海に進出し,「スペインの庭」としていたカルロス1世は,マルタ島防衛を彼らに任せようと考えた.
そこでシチリア王に話をつけ,騎士団にマルタ島を貸すことに同意させる.
ときに1530年.
そのときの賃貸料が毎年1羽の「マルタの鷹」であり,それが巡り巡って,300年後に自分を厄介な立場に追いやるとは,さすがのサム・スペードもそのときはまだ夢にも思わなかった.
それはともかく,騎士団はこうしてマルタ島に移り,マルタ騎士団となる.
当然,海賊稼業も再開.
マルタ島では捕らえられたイスラーム教徒が奴隷として売買されるようになる.
それに怒ったのか,単なる戦略上の必要からか,あるいはその両方か,1565年に皇帝スレイマンは,5万の兵力でマルタ島攻略作戦を発動する.
対する騎士団側は,ジャン・ド・ヴァレッテ・パリゾン団長以下,兵力6千.
グロスター「グラディエーター」戦闘機もないという有様だったが,4ヶ月に渡って抗戦.
とうとうオスマン帝国軍は,シチリアからの救援兵力が敵に到着したのと,スレイマン1世の死(1566年)を機に,島から撤退する.
その後,1571年のレパントの海戦にも騎士団は参加.
この海戦の結果は,皆さんも良くご存知の通り.
イスラーム勢力にとっては,実に癪な相手だったといえよう.
このようにしぶといマルタ騎士団だったが,16世紀に入ると,意外なところから敵が出現する.
敵の名前は「宗教改革」.
この機運に乗って,西欧各地の騎士団領はどんどん没収されていく.
存在意義もなくなって,17世紀にはロシア海軍に加わったり,フランス海軍に加わったり.
そんなこんなでやる気もなくしていったのだろう.
1798年,ナポレオン軍が島に上陸すると,堅固な要塞を持っていながら,なんと戦わずしてマルタ騎士団は降伏してしまう.
パリゾンが聞いたら泣くだろうな,こりゃ.
とうとう領土を失ったマルタ騎士団だったが,ナポレオン亡き後,ベロナ会議で「国家」としての地位はヨーロッパ各国から承認される.
領土なき国家の誕生だ.
島を失ってロシアを頼り,ロシア皇帝パーヴェル1世を総長に据えたり――おいおい,ロシア正教だろ? いいのかい?――,フェラーラに移っていたりしていた騎士団は1834年,イタリアからローマの宮殿と本部ビルを与えられる.
これは領土というわけではなく,外交特権が認められているだけの施設.
領土はないのに,大使館だけが存在しているような状態だ.
そして現在ではどうなったかというと,
「彼らはまだそこにいるのです」
現代は戦闘集団でなく,元の医療集団として活動しています.
【関連動画(うそ)】
「YouTube」:聖☆おじさん
軍事板・改
(加筆部分:青)
▼ 【余談】
今朝起きて,シャワー浴びて,着替えていたら急に
ピキーン
と背中に激痛が走り,動けなくなった.
背骨でもない,腰でもない,右より.内蔵系?とちょっと不安になる.
ちょと前屈みになったまま,動くことができない.
とりあえず服を着ようと思ったけど,まったくままならない.
息子に手伝ってもらってなんとか服を着た.
結局救急車を呼ぶことに.
甥が119番かけて住所をいい,救急車を頼む.症状を聞かれている模様.
しばらくしてかわれというので電話をとると,
「あー,なんで119番してきたんですか」
と実にどうでもよさそうに聞く.
症状を説明すると,
「ホームドクターのところにはいきましたか」
内心,「きた!」と思いながら,引っ越して間もないのでホームドクターはいないことを説明.
すると,国籍,名前,年齢などを聞いてくる.
横で聞いてる甥が
「関係ないこと聞いてないで早く来いーー(怒」
のポーズをつくっている.
住所云々の質問になったところで甥にかわるが,その後も「保険証がないと」とかがたがたいっている模様.
終いに甥が切れて
「朝起きたら動けなかったんだよ!
どうしろっていうんだ!
保険証ができるまで待てっていうのか!」
と叫んでるので,こっちは
「あー,もーいいよー,自力で診療所いくからー」
という気分になっているが,キレが効いたか救急車が来ることに.
どれくらい時間かかる?,と聞くと
「一時間以内には」
との返事.
甥が「それは『救急』っていわないだろ!」と怒っている.
ここでハンガリーの医療システムを簡単に説明しておくと,みんな保険証を持っていて(息子も甥も持っている),住所に医者が割り当てられている,
つまり病気になったら保険証持って担当医のところにいけば,ただで診てもらえる.
保険証を持たない私みたいな人は,現金決算してくれる医者を探していかないといけないのだ.
だから救急車を呼ぶのに消極的だったんだけど,動けないんじゃしょうがない.
あと,あまり救急車を呼びたくなかったのは,大学の頃に夜胸が痛くて動けなくなって,友達が車で救急病院に連れていってくれたのだけど,待ち合い室がいっぱいで診てもらえず,別の病院でやっと診てもらえることになった時には痛みが治まっていた,という過去があるからだ.
さて,意外と早く救急車はやってきた.
しかしやってきたのはなんと,マルタ騎士団だった.
保険証を持たない外国人を持て余したハンガリー救急センターは,マルタ騎士団に助けを求めたようだ.
騎士団の方たちは明るく丁寧で,しかもタダで(!),結果無愛想な救急員たちに囲まれて救急車でたらいまわしにされるよりずっとよかった.
そして気になる診断の結果は,
「運動不足」
ということで,その後医者にいって薬を処方してもらってきた...
くー in mixi,2009年03月26日23:59
マルタ騎士団
http://www.youtube.com/watch?v=Oynyo7z-ajk
http://www.youtube.com/watch?v=rHnI9e1Snr4&feature=related
国歌?
http://www.youtube.com/watch?v=J1Z4Ascd4Wo&feature=related
ギシュクラ 2009年03月27日 01:23
▲
【質問】
昔(現存も)は宗教騎士団というものがあって,修道士と騎士を兼ねていたそうですが,戦闘=殺人が認められていたのは,そういう特殊な騎士団に属してる者だけですよね?
例えば異教徒に攻められた都市で,イエズス会やドミニコ会の修道士が,実際に刃物を持って流血の戦いに参加するのは,認められていない事ですよね?
【回答】
異教徒からキリスト教徒を守るための戦いは,「信仰を守るための戦い」として,他教団の修道士たちにも認められていました.
中世のヨーロッパでは,バイキングの侵攻に際して修道院が周辺住民の避難所となり,避難民の生命と聖具を守るために修道士たちが弓を取って戦うこともしばしばありました.
この時代の北仏の修道院などには,胸壁や矢狭間などの防戦に配慮した建築様式が見られます.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
古代ローマやギリシア軍の会戦(カンナエやマラトンの戦いとか)での戦術を見ると,大きな軍団の塊同士がぶつかりあって戦うってイメージがあるんですが,戦場での主な兵種がマスケット兵とパイク兵になった,中世後半での戦術は,少数で編成された部隊が(敵も味方も)わらわらと前進して,戦場のそこらじゅうで戦ってるっていう訳ではないんでしょうか?
うまく言えないけど,運動会の騎馬戦のような
「さて,どの騎馬を潰しに行こうか・・・
おっ右前方の騎馬がこっち向かってきてるな,よし突撃!」
というような割と自由な感じ・・・・.
【回答】
興味があったので調べてみた.
参考になるかわからんが,
http://www.pikeandshotsociety.org/photogallery.htm
たぶんこんな状況で,一斉射から突撃だったのではないか.
ブレンヘイムの戦いの模型図らしい.近世だけど.
この辺も参考になるか.テルシオで.
http://www.geocities.com/ao1617/TactiqueUk.html
会戦したときは,先遣した火縄兵部隊同士の射撃で始まるようだ.
(敵陣形の擾乱を狙って)
こっからは想像だが,どちらかの翼が押し込めてきたら,場合によっては騎兵突撃で陣形を乱し,後方のパイク兵が前進して突撃,という流れになりそうだ.
16世紀の段階で,火縄銃の射程は30mほどらしい.
先遣してきた火縄隊を,敵騎兵が狙ってきそうな場合は,ハルバード部隊を護衛につけることもあるそうだ.
30年戦争時のスウェーデン軍は,記載の陣形で両翼のマスケット兵が30−65mで一斉射,剣とパイクで突撃という流れらしい.
場合によっては火砲も使ったとか.
騎兵にも敵の突撃破砕用のマスケット兵をつけたようだ.
守りに強い戦法のよう.
あとはクレヨンしんちゃんの映画などを見て参考にするとか.
【質問】
いろんな騎士団が存在していますが,その人数は少なそうに思うのですが
,騎士の数百単位でのぶつかり合う戦いなどは存在していないのですか?(騎士になること自体が相当難しいらしいし)
ナイトと言われている一人の下にも,全身を鎧で包んだ部下はたくさん存在していたのですか?
【回答】
根本的に「騎士団」の理解を間違ってる.
「騎士団」は戦闘のための部隊編成単位じゃなくて,ある地域を武装統治するための連合行政組織.少なくとも中世はね.
日本の衆議院じゃないんだから,一地方の統治メンバーが数百人もいたら,やりにくくてたまんないだろ(笑).
騎士団(騎士修道会)の成員であるってことと,爵位的な,あるいは資格としての騎士であるってことと,(←肩を剣でダビングしてもらって成るやつ)騎乗戦士階級(騎士身分)の一員であるってこととは,一応区別した方がいい.
現代の例で類比的に言うと,
騎士団(騎士修道会)員=大手都市銀行マン
タイトルとしての騎士=MBA有資格者
騎乗戦士としての騎士=サラリーマン
>騎士の数百単位でのぶつかり合う戦いなどは存在していないのですか???
騎乗戦士が数百単位でぶつかり合う戦いは,盛期中世には珍しくないと思います.
>ナイトと言われている一人の下にも全身を鎧で包んだ部下はたくさん存在していたのですか??
いました.
ナイトのタイトルを持っているような有力武将の元に,まあたいてい地縁・血縁に導かれてですが,
数人〜十数人の見習い騎士・補助騎兵が付いて一つの戦闘単位が形成されていました.
ただ甲冑・馬はピンキリです.
そこらへんはサラリーマンのスーツなんかと同じ.
【質問】
中世ヨーロッパの戦術を知る上で,良い資料は無いでしょうか?
本にしろHPにしろ,素人では「どれが正しいのか」すら判断が付かないので・・・
初心者ならこれ!みたいな物,ないでしょうか?
【回答】
その分野はあまり研究が行われてこなかった.
歴史学者は伝統的に軍事史に関わろうとしなかったみたい.
19世紀にサー・オーマンが中世の戦争を研究した際には,歴史学会に向けて弁明文を書かなきゃならなかったっていうし,デルブリュックは師匠のランケに「軍事史の研究なんか止めろ」と詰め寄られたって逸話があるくらいだから.
軍事史学者はリデルハートみたいに,中世には戦術も戦略もないとかいって無視するし.
それで,長い間研究が行われていなくて,バーブリュッゲンが1954年に「中世期の西ヨーロッパにおける戦争技術」って本を出してようやく研究が再開されたみたい.
その後は細々と続いて1980年代に入ってようやく活気づいたって感じ.
まともな研究書が出てきたのは1990年代に入ってからだから,日本語に訳されたものや日本語の本にはいいのはたぶんないよ.
最近の本で現在の研究状況を知る上では下の本が一番良かった.
ヘレン・ニコルソンの「中世の戦争」
たぶん,今は出鱈目・極論を中世の軍事に関して唱えるのは難しいよ.
最近,議論が活発で当時の武器の再現実験も結構増えてきているから極論はすぐに叩かれる.
今は研究者間の意見の相違を探っている段階みたい.
本買わなくても,中世軍事史学会のホームページに本のレビューとか論文とか凄いのがたくさんある.
日本語だと,ロジャーズの論文が掲載されている本がある.最近の中世軍事史の動向を知る助けにはなるよ.
中世の戦争の教本となったのは,4世紀頃に書かれたウェゲティウスの「戦術書」だというのが最近の主流説みたい.
(例のにゃあにゃあ ◆9IIO2KvSgc in 世界史板)
【質問】
昔の西洋の鎧って,頭から足まで鉄で固められてますよね.
でもお互いに鉄で固めあってて,どうやって倒したりしてたんですか? 首や胸は全部ガードしてあるように思うのですが・・・
あと,武器(剣はフェンシングっぽいの?それとも普通の剣?)や,盾は使うのか,馬に乗ったまま戦うのか なども気になってます.
もしそういうのに詳しいサイト等がありましたら,誘導でも良いです.回答お願いします.
【回答】
メイスでボコる.どんな硬い鎧に身を包んでいても,中の人は衝撃に耐えられない.
それか,長柄武器でひっぱたいて,転ばせて捕まえる.
プレートメイルは死ぬほど重いから,一旦転ぶと起き上がれない.だから,見た目ほど強くない.
なお,プレートメイルやチェインメイルを装備してるのは,それなり身分の高い人だけで,普通の兵士は革鎧か胸当てだけ装備してる.
あと,剣は野戦ではあまり使わない.野戦の花形は長柄武器と弓.
どっちかって言うと,剣は護身用の武器.
盾は片手武器を装備してる奴なら大抵使う.
弓兵を守るための地面に置いて使う大盾もある.
馬に乗って戦うのは,それなりに身分の高い人だけ.
普通の兵士は徒歩で戦う.
下のサイトを読めば,中世の武器防具の基礎知識は身に付くと思う.
鎧に詳しいサイト
http://www.hal.ne.jp/y-susaki/yoroi.htm
武器に詳しいサイト(読みにくいのはガマン)
http://aineias.hp.infoseek.co.jp/arms/cgi-bin/search.cgi
ちなみに今の話はルネサンス期前のヨーロッパ限定なので,別の時代の話を書く気なら,もう一度言ってくれ.
頭だけでも,この固めよう
(画像掲示板より引用)
【質問】
プレートアーマーとプレートメイルって,何が違うんですか?
【回答】
●プレートメイル
(Plate Mail)
正式名称『プレートアンドメイルアーマー』(Plate
and Mail Armor)
アクトン(Aketon),クロースアーマー(Cloth
Armor)と言った布を身に付け,チェインメイル(Chain
mail)を着込んだその上に,更に板金の部分鎧を身につける形式の鎧.
●プレートアーマー(Plate Armor)
正式名称『フルプレートアーマー』(Full Plate
Armour)
基本的にプレートメイルと同じものだが,間接部分が蝶番,尾錠,掛け金などで連結された全身一体型の鎧.
世界史板
青文字:加筆改修部分
【質問】
中世のプレートアーマーみたいな鎧は,どういう銃弾までは耐えられるんですか?
【回答】
初めから銃を防ぐ事を目的としたような特別分厚い奴(胸甲とか)で,低威力の銃を防げることがあるレベル.角度とか.
低威力とか(昔の)ピストルみたいな小型銃や有効射程を超えた弾丸ね.
マスケットは口径が大きいから,100m程度の有効射程内で撃たれたら厳しいんじゃないかと思う.
ライフルになってくるとどうあがいても無理.
普通のプレートアーマはスパスパ抜ける.
最近の研究で,鋼製プレートアーマは意外にロングボウ防げたんじゃないかと言われ始めたレベル.
現代の防弾ベストやボディーアーマでようやく拳銃弾を止められるようになったんだよ.
昔の鎧にそんな防弾を期待しちゃだめよ.
ちなみに,SWATが持ってるような20kgぐらいの鋼盾だと,拳銃弾ぐらいは防げるらしいよ.
モッティ ◆uSDglizB3o in 軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
プレートメールを着た騎士は,倒れたら重すぎて自分では起き上がれなかったという話を聞きます.
でも以前テレビで,練習したらプレートメールを着たままでも動けると,鎧を着たまま前転したり起き上がったりしてる映像を見た記憶があるのですが,実際はどうなんでしょう?
【回答】
鎧と言っても,ピンからキリです.
軽装の兵が着る鎧は10kgを下回る物が多いです.
機動性を確保したこの鎧は軽いので,来ている人が倒れても起き上がることは簡単です.
しかし,15世紀から登場した重鎧は18〜25kg.
倒れたら起き上がるのは難しいでしょうが,不可能ではないでしょう.
さらに,15世紀中ごろに登場した重騎兵用の鎧の中には,40kgを超えるものも多々あります.
これを着て倒れたら,起き上がることは不可能でしょう.
ていうか,歩くのも不可能に近くいそうです.
ちなみに,この重鎧を着て落馬すると,あの世行きとなる可能性が高いです.
実際に,15世紀に行われた軍事教練において,重鎧を着た騎士1000名が落馬で死んだことがあるそうな.
つまり鎧を着て起き上がれるかどうかは,着ている鎧の重量によります.
軍事板,2005/11/14(月)
青文字:加筆改修部分
ちなみに,
http://avalon.tsukaeru.jp/
に所属しているsporran氏は以前,「2ちゃんねる」にて,
「鎧は重さよりも重量配分が重要だ」
と書いてらっしゃいました.
例えば,体重100kgの肥満男性は歩くことも立ち上がる事もできるわけです.
そしてアメリカでは100kgオーバーは珍しいわけではありません.
重量がちゃんと全身に分散される体にあった鎧ならば,十分動けるそうです.
ちなみに氏の鎧は
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【日本の剣術vs世界の剣術:もし闘わば2】
50 名前:ttdd[] 投稿日:03/02/22(土) 01:05 ID:OW3z3wle
ザマは米軍のキャンプです.フリーバザーの催しでの招待.写真付きの身分証明書が必要.
私のプレートアーマーデビュー.しかし,くそ重い.
イタリア,ミラノ14世紀様式.クローズド・バイザーヘルム.
ヘルム5kg ミトンガントレット片方1,1kg バック,ブレストプレート11kg,総重量25kg 厚さ1,2mmステンレス.
鎧を着て,
腕立て伏せ20回
懸垂3回
腹筋0回
立位体前屈ー35cm
床上前転 できない(体を曲げることが出来ない)
逆立ち,バック転0回(元々出来ない)
側転(そのうちしてみる)
鎧を着ての睡眠(そのうちしてみる)
他,実験の提案受付.
まず,脇が閉まらないのは腕のアーマーではなく,胸部のえぐりが浅いから.
したがって,もっとここを深くえぐれば問題ないが,当然,突きの良い目標となる.
通常はペサギュで防御をするが,マキシミリアン式などは,可動リベットなどで動き易くなった.
この部分は日本の鎧の方がえぐりが深い.
今日は外気も涼しく良い天気でした.私は小柄で中年ですが,朝10時から3時まで鎧をつけっぱなし,ほぼ立ちどうしでした.
さすがに新しい鎧だけ有り,首が疲れましたが,体力的にはまだ動けます.
しかし,始めた当初はいまの半分ほどの重さの鎧でも,動けませんでした.
慣れとは大したものです.
鎧の重さと着たときの重さの感じですが,考えてみると例えばブレストプレートとバックプレートは体の軸に対して前後に,やじろべえのように均等に釣り合いをとっています.
ヘルムも,体軸の中心にあります.
これを手で持ってみると,体軸の片側に全ての加重がかかり重く感じますし,肘から先の分だけ体から離れ,更に重く感じます.
体軸に密着させ左右前後のバランスを均等にしているので軽く感じるのでしょう.
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現代日本人と中世西洋人では体力なども違うので直接比較はできないかと思われますが,参考までに.
これならいくら重くても,機動力ばっちし
(画像掲示板より引用)
【質問】
>馬が今みたくでかくなったのは17世紀以降なのよ
>ギリシャローマはもちろん,中世でも肩高は1mぐらいで,
>現代の家畜でいえば羊ぐらいの大きさ
>大柄なポニー並みっていうべきかな
>日本古来の木曾駒なんかはそれよりちょっと小さいね
霞ヶ浦の住人の回答.
上記,信じられません.
中世の騎士は,重い甲冑を着て「大柄なポニー並み」の馬に乗っていたのでしょうか?
ウィキペディアには,重種の馬に乗っていたと書いてあります.
下記,ウィキペディアのウマの重種を参照ください.
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%9E
【回答】
カスミン,馬関係ならコレでもみてごらん.
ポニーってのが,観光牧場に居る「シェットランドポニー」だけじゃない事が分かるから.
http://www.geocities.jp/koyodaikisoumabokujyo/index.html
http://www.geocities.jp/koyodaikisoumabokujyo/index4.html
http://www.geocities.jp/koyodaikisoumabokujyo/ridingjnp00.html
ナポレオン軍でも軽騎兵は,この手の乗用に適した「ポニー並みの馬」に乗ってるわけだが,乗用系の和種はソレに比べて著しく馬格が劣ってるって訳でもない.
もっとも,乗用系の和種なんてモノは写真にしか残ってないんだけどね.
中世は大規模な馬の改良期なため一概には言えないのですが・・・
初期の馬は小型〜中型ですががっしりした馬がメインでした
本格的な馬の改良が始まるのは,十字軍の自愛である1200年ごろからです
ポニーの定義は147p以下の馬なので,中世初期〜中期の馬はポニーと呼んでも差し支えないと思います.
(ただしそもそもポニーは品種改良で19世紀に誕生したもので,いわゆる現代のポニーの品種と中世の馬はまったくの別物です)
(軽農作業や炭鉱作業に特化して小さいのを選び続けたのが,現代の観光牧場に居る「ポニー」(シェットランドポニー)なので,「大柄のポニー」でアレを想像されちゃ困る)
http://www.geocities.jp/womb_archi/hkk/memo/memo76.htm
11世紀でもやっぱり「アンダルシア馬,最高」って評価なんだよね.
アンダルシア馬が買えない貧乏騎士は,選別された在来種に乗ってたんじゃないかと思う.
和種も軍馬は「八寸(やき)の馬とぞ聞えし」って具合で,五尺近くを選別してたようだし.
(で,この手の選抜を続けて,現在のアラブやサラブレッドに行き着いてる訳だ)
その後,中世後期の1500年くらいから,アラブ種がヨーロッパに持ち込まれました.
確かアラブ種は150cm位だったはず.
近代の17世紀位の馬が155センチくらいだったと思います.
なので中世の馬はポニー(並みの馬)で突撃!っていうのは間違えではないです.
さすがに末期のトーナメント用の鎧は,ポニーではきついでしょうが,実戦用の鎧は重くても40`程度なので十分ポニーでもいけます.
で,今に残る立派な騎士の甲冑は,大柄な馬を入手できる金持ちの見せびらかし用.
中世の騎士物語にあるような一対一の騎士の決闘では,馬自身の体格も重要な要素.
中世騎士道本場フランスの騎士は,イギリス人にぼろぼろにされますので,それ以前とそれ以後とで分けて考えないと.
馬について調べたいなら,競馬んとこ調べてみな.
馬体については競馬系の文献やサイトが1番詳しくて正しい.
なんせゼニが賭かってんだから.
(画像掲示板より引用)
【質問】
歩兵の,両手で扱う必要があるような大剣って,何に用いられたんですか?
突くなら槍でもよいし,振り下ろすなら斧でよいですよね?
接近されたとしても,もっと短いほうが使い易いだろうし,腰にも下げられないから携行性も最悪に思えて,見当もつかないです.
【回答】
大剣の名前はツヴァイハンダー Zweihänder.英語ではtwo-handed sword.
ランツクネヒト(神聖ローマ皇帝,マクシミリアン1世の傭兵)等が使う.
両手で使う剣に対する一般名詞みたいな名称だが,ツヴァイハンダーは独特過ぎるので,今ではある特定の種類の剣を指す名称のようになってしまっている.
なにせとにかく長い.
2m近い長さがある.
だから重量級の剣というイメージがあるが,実際には2.5〜3.0kgほどと比較的軽量.
しかしそれでも使いこなすには,ガッツ隊長級の相当な体力が必要なことは,言うまでもないだろう.
刀身があまりにも長いため,ツヴァイハンダーには鞘はない.
また全体の長さの他に,長いリカッソ(刃根本)があることも,この剣の特徴.
リカッソと刃の境には左右に突起もついている.
つまり鍔元の,刃がついていない部分も長い.
担ぐ際には,このリカッソに皮紐をつけることができるという仕組み.
(突起はそのときに便利)
また戦闘時にはこの部分を握ることで,押し付ける力を増すことができた.
(突起はそのときに手を保護できて便利)
携行性だが,腰に吊るしてはとうてい歩けないので,背負うか,ただ持ち歩くか,馬にくくりつけて運ぶかする.
肝心のツヴァイハンダー兵の用兵だが,まずパイク兵の槍衾(やりぶすま)を切り崩したいときに投入される.
騎兵の突撃を防ぐため,パイク兵は並んで槍衾を作る.
槍が目の前にずらっと並んでると馬は突撃を嫌がるし,槍兵は何列も並んでいて容易に突き崩せないしね.
そこでツヴァイハンダーで槍の柄を切り払う.あるいは剣の重量をもって,槍ごとパイク兵を叩き割る.
そうやってツヴァイハンダーが切り崩した箇所に騎兵が突進,乱戦に持ち込むという段取り.
また,パイク兵(スイス傭兵やランツクネヒトなど)が敵味方双方に用いられ,戦場でよく見られるようになると,当然パイク兵同士が戦闘になることも考えられるわけだ.
パイク兵は接近戦用に片手剣を持つことが多かったようだが,基本的に懐に入られると無防備だから,ランツクネヒトなんかはパイク兵の隊列の中に,ツヴァイハンダーを持った兵士を混ぜておいて,敵のパイク兵と戦闘になったときに敵の隊列を崩すため突撃させた.
ちなみにパイク兵同士が激突すると,下の絵のようになり,どっちかが隊列を崩し士気が下がって敗走するまで戦闘は続く.
絵の中にハルバードを持った兵士がいることから分かるように,一定の割合でハルバード兵を混ぜるのが一般的だったのだろう.
その後,ルネサンス期になるとツヴァイハンダーは,スピアのように突く方法が一般的になったが.
【質問】
槍衾を切り開くにしてもツヴァイハンダー兵は盾も持てませんが,接近までの間に矢が飛んできたら,あきらめて死ぬってことですか?
【回答】
あらゆる状況を想定して用心していたら,何もできなくなるがな.
また,うろ覚えですまんが,15世紀後半あたりになると板金の甲冑が発達してきて,騎乗の騎士すら盾を持たなくなったはず.
近距離では強力なクロスボウ,アルケブス銃やマスケット銃(初期のデカイやつ)に貫かれることもあったようだ.
〔もちろん「ある程度」の話であって,〕板金甲冑の騎士がパイク兵の槍衾を打ち破ることが出来るはずありませんでした.
むしろパイク兵の登場によって,重武装の騎士たちは戦場での活躍の場をなくし没落して行きました.
ナンシーの戦いでスイス人パイク兵がブルゴーニュ公シャルルを打ち破ったのがいい例ですね.
【質問】
この画像を見ると銃を持ってるのに剣?も持ってますがなぜですか?
銃剣にしては長いように思えるし,槍にしては短いし,他にも腰に色々ぶらさげてますが,何なんでしょうか?
http://www1.neweb.ne.jp/wb/kaname/dord/arms/I1.jpg
【回答】
腰のは火縄や黒色火薬の筒.
再装填に時間が掛かる,発射速度の遅い火縄銃なので,懐に飛び込まれたらやられる,
なので銃兵は剣も携帯してた.
ちなみにまだ銃剣は発明されてない.
また銃剣発明後も,初期の銃剣は,銃口にナイフを突っ込んだだけの代物であり,銃剣を付けると射撃が出来なくなるため,帯剣していた.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
パイク兵の密集陣形は竜騎兵やピストル騎兵の攻撃に弱かったそうですが,馬上で扱えるピストルなんかが登場したのはいつごろなんでしょうか?
また没落しつつあった騎士たちが槍の代わりにピストルを手にとって戦うことはあったんでしょうか?
【回答】
英語Wikiの"Reiter"という記事では,ドイツのピストル騎兵が1540年ごろに登場したとのこと.
また,重装甲騎士がピストルをもって戦った可能性ですが
http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Gendarmes.jpg
の画像の下の解説文には,16世紀のフランス陸軍のジャンダーム騎兵の装備の変遷について書かれています
.
その記述が正しければ,ジャンダーム騎兵は16世紀半ばに馬上槍を捨てピストルを持ったと.
しかしピストル騎兵は,重騎兵相手には強かったけど,歩兵隊列に対する突破力は重騎兵をも下回り,カラコール戦術(ヒットエンドラン戦法)も敵の銃歩兵の的になることが多かった.
【質問】
騎士の従者って戦場で戦闘に参加したって聞いたんだけど,何するの?
14歳の子供が槍持ったところで殺されるだけじゃ?
【回答】
「従者」という訳が誤解の元だと思う.
騎士になるにはまず子どものときから,どこかの領主のお城に行って修行する.
最初はpageで,「小姓」と訳されることが多いが,騎士になるための基本を勉強する.
昇格が認められたらsquireになり,特定の騎士について身の回りの世話をしながら,さらに騎士の修行をする.
そして実力が認められたら騎士になる.
squireは「従者」と訳されるけど,身分ではなく騎士の修行段階なので,自分が付いている騎士が戦場へ行けば,同行して身の周りの世話をしながら,いずれ騎士となるときのために実戦の勉強もする.
世界史板
青文字:加筆改修部分
▼ 日本では全国サービスのなくなった,ポケベルのことを英語でpagerと言いますが,"召使いを呼びつけるもの"ってことですね.
クローム・ツァハル in 「軍事板常見問題 mixi支隊」
▲
【質問】
三十年戦争での傭兵の蛮行は有名ですが,戦死・飢え・過労・薄給ばかりの傭兵になろうとする人ってどんな人々なのでしょうか?
小作人とか逃亡農奴とか失業町民が供給源?
【回答】
傭兵と一口に言っても,中身はさまざま.
辺境の蛮族を雇い入れたもの.
貧乏貴族などを首領とする強盗集団.
カネ次第で傭兵稼業も行う小領主.
スイス人傭兵のように常備契約を結んだ職業軍人.
領主が強制的に領地から掻き集めた徴兵的傭兵もいる.
もちろん小作人とか逃亡農奴とか失業町民が,一旗あげようと傭兵になる場合もあるが,厳しい職場だから野垂れ死にが相場.
まあ,戦場で掠奪したものは自分のものになるから,頑張ればそれなりの収入にはなるが,農民だってしっかり武装して追剥やってたしな.
あと,毛並みが良くて貴族とつながりがあるか,軍事的・政治的才覚を発揮して傭兵隊長にでもなれば,そのうち城や都市を奪取して領主様になれるかも.
世界史板
青文字:加筆改修部分
【質問】
15世紀ごろの欧州の傭兵に関して質問させてください.
ローマ皇帝マクシミリアンがランツクネヒト"傭兵部隊"を編成したとあるんですが,なぜわざわざ傭兵部隊でローマ皇帝直属の部隊にしなかったんでしょうか?
当時のハプスブルク家の財力でも,常備軍のようなものを組織するのは難しかったんでしょうか?
なぜ傭兵部隊であるランツクネヒトが,ローマ皇帝の命令で組織されるようになったのかが不思議でなりません.
【回答】
マクシミリアン1世が大々的に組織・運営した事は事実なのですが,それがローマ皇帝の一機関として組織されたわけではないのです.
彼は自身の世襲財産のみ(あるいは諸侯からの援助)で,これを運営する必要がありました.
言い方は変かも知れませんが,ローマ皇帝をやっている有力諸侯のマクシミリアンが,スイスの傭兵による歩兵集団を見習って自前で徴募したのがランツクネヒトというわけです.
そもそも当時のヨーロッパでは,傭兵制が兵力整備のスタンダードな形でした.
常備軍の編成には整備された税制度と,これを運用できる官僚制が必要で,この時代のドイツではいずれも発展途上の物です.
さて,南ドイツという地域は地味が肥えていたことから,農民たちは伝統的に分割相続を繰り返していたが
,そのうちに零細農民ばかりになって,農家の次男三男は分割してもらう土地がないという状況を呈するに至っていた.
そして,農村から流れ出した無宿人たちは「ランツクネヒト」となって外国の軍隊に雇われていった.
ランツクネヒトは主に没落貴族出身の傭兵隊長によって切り回される私企業であり,彼らはハプスブルク家に用いられた.
歩兵の重要性を認識した神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世が,南ドイツで大規模な歩兵軍団を徴発したのは,スイス庸兵を雇うのがこの頃の常だったけれども,南ドイツの農村から流れ出した無宿人たちをその代わりとした方が手っ取りと早い,と考えたからそうしただけの話.
既に貴族たちも似たようなことを行っていたし.
【質問】
マクシミリアン皇帝と同時代の人物にマキャヴェッリというイタリア人がいますが,彼は著書で
「戦争に勝ちたくなければ,傭兵を使うべきだ」
と書いたそうです
では神聖ローマの帝国騎士たちは,イタリア戦争でローマ皇帝のために戦いはしなかったんでしょうか?
農奴や山賊の寄せ集めより,没落騎士や盗賊騎士の寄せ集めの方がよっぽど役に立ちそうな気がするのですが.
【回答】
騎士よりも傭兵の方が強いことが実戦で証明されていたから.
スイス傭兵は長槍の密集陣,ランツクネヒトは大量の火縄銃を使って重装騎兵を圧倒している.
マキャベリが傭兵を使うべきだと説いたのは戦術的な理由.
傭兵を重用したのは人件費の問題.
また騎士に依る戦術が最早,時代遅れな時期に突入していたから.
帝国騎士階層もひとつの領主階層という点で,諸侯と同じなのです.
騎士だから諸侯より奉仕する,というような事はありません.
最低限の奉仕を除けば,あくまで自分に有利と思われた際のみに資金的援助などを行いました.
が,当時の有力諸侯は帝国騎士など,小規模な特権保持者への権利の侵害→併呑を志向していたので,これに対抗する為に,帝国騎士が集まって同盟を組み,諸侯と対峙する為に皇帝を支持したという動きもありました.
ただハプスブルク家は皇帝である前に,帝国の最有力諸侯であったので,長期的には余り効果がありませんでしたが.
最後に没落騎士や盗賊騎士というのは,既に皇帝との封建関係を持たないので,彼らを活用したとしても,それは単なる傭兵です.
傭兵群の中にはもちろんこういう層も多かったと思われます.
詳しくは下記参照↓
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ryunosuke/4039/youhei.html
【質問】
戦国以降の日本の合戦では,不意打ちだろうが何だろうが勝てばいい,という気風があったと思います.(桶狭間が好例)
西洋では,戦いの前に,お互いにエールを送る,とまではいかなくても,何か礼儀を尽すような伝統はあったのですか?
「ラストサムライ」終盤の合戦前のシーンで,これは日本では有り得ないな,というさわやかなやり取りがありましたが,あれは西洋人の固定観念ですか?
【回答】
中世絶頂期の戦争では,戦争そのものが儀礼化してた.
お互いに参加兵力,日時,陣形を手紙で事前に教えあい,ウソ書いたりするのは「騎士道にもとる最低行為」とか罵られたり.
戦闘そのものも双方から代表者を数人出して,その人たちが斬り合ったら戦争は終わった.
中には片方が
「すまん,ちょっと金が足りなくてさ,事前に通知した兵力が揃えられなかったんだわ」
と謝り,謝られた方が
「いやいや,それでも戦場に赴いて来てくれたのは光栄の極み」
と双方手を取り合ってお終い,という訳の解らない戦争?すらあった.
ガチで殺し合っても損害が大きいだけで,何も得る者がなかったので,そういう風になったわけだが.
逆に同じ王の臣下なのに,仲の悪い人同士で訓練中,模擬戦やったら双方興奮して本気になってしまい,死傷者続出・・・というこれまた意味不明な事態になったりもした.
【質問】
中世ヨーロッパにも市街戦はあったんですか?
【回答】
ありました.
しかし当時は,町を攻めることは稀で,城攻めの過程で,城下町で戦闘をすることが殆どでした.
当時は爆薬もなく(建物を破壊して通路を遮断したりブービー・トラップを作ったり),連続発射できる火器もなく(十字路で十字砲火を浴びせたり,建物内を通って敵の背後を脅かしたり)がなく,市街戦になればほぼ防御側の負けで,一日で終わったようです.
大通りや広場での白兵戦が主で,建物はあまり利用しなかったようです
野戦に比べて狭く,戦闘が流動的であったため,陣形は組まず,弓兵もあまり活躍しなかったし(火矢よる攻撃くらい),WW2では通りに面した家に機関銃を設置するだけで強力な陣地になりましたが,当時の弓では連射速度,射程で劣り,盾(そこらのテーブルや看板,酒樽)を持った敵に突撃されれば,あっというまに接近され,悪ければ家に火をつけられお終いでした.
当時の市街戦を描いた絵画を見たことがありますが,騎士が旗を持って走り回ってたり(敵が侵入したことを知らせ,男は○○に集合しろなんて書いてある),教会に集まったり(さすがに当時の騎士は教会の前でキリスト教徒を殺したりしなかったし,神父は民衆側の代表として交渉したりした)なんかが描かれてました.
ベルリンやスターリングラードなんかとはかなり違いますね.
ちなみに助けられるのはキリスト教徒のみで,異教徒(特にイスラム教徒)は皆殺しでした
有名な十字軍による聖地エルサレム攻略戦では,城壁や城門のバリケードが排水を邪魔して,町はくるぶしのあたりまでつかる血の海で,ぬるぬるして滑って苦労したと従軍兵の手記にあるそうです.
(燃えるアナーキストたち)
【質問】
本当にモーニング・スターは,中世の戦争で主力といえるほど普及してたんですか?
映画などでは,殆どの兵隊が剣か槍を接近戦武器として使っているもので.
【回答】
全身鎧甲で身を固めた騎士にダメージを与えるには,メースやモーニング・スターなどの打撃系武器がよく使われました.
モーニングスターは13世紀から14世紀に今のドイツで開発されたと言われています.
その後,使い勝手の良さや高威力が認められ,各国でランスと並んで騎士の主要な武器の一つとなりました.
西ヨーロッパを中心に広まり始めたのが13世紀で,ヨーロッパ中に広まったとされるのが16世紀ごろです.
当時,プレートアーマーの発達で,剣や槍では有効な攻撃を与えにくくなっていたので,騎兵に限らず,白兵戦にこうした打撃武器が使われていました.
映画でも渋めに作られた作品では,騎士同士の戦いなどの描写の中にちゃんと登場して,いわゆる「鍛冶屋さんごっこ」を繰り広げてくれます.見てて萎える.
(system ◆systemVXQ2)
メース(戦闘用棍棒)
(画像掲示板より引用)
【質問】
ドイツ騎士団って何なのか良く分かりません.支配国はドイツじゃないのにドイツってついてるし.
そもそも騎士団とは当時どのような存在だったのでしょうか?
【回答】
ドイツというのは民族名と考えた方がよろしいかと.
宗教騎士団というのは,もともとは十字軍時代に巡礼者の保護や救護のために作られたもので,ドイツ騎士団はもともとアッコンで病院をやっていたようです.
ドイツ騎士団の他にもテンプル騎士団,ヨハネ騎士団などが有名ですが,どれも十字軍がダメになってしまうとシリアから追い出され,ヨーロッパのあちこちに散らばることになります.
一方ポーランドでは,キリスト教徒ではないプルシ人の侵攻に悩まされていたので,マゾフシェ公コンラート1世がドイツ騎士団を招待し,ヘウムノ地方を代償にプルシ人の征服・キリスト教化を依頼します.
ドイツ騎士団はその一方で,神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世から,帝国の諸侯と同じ権利で征服地を支配して良いという約束を取り付けました.
で,1230年にヘウムノ地方に入り,ここを根拠にプルシ人を征服,1283年には全プルシの征服を完了しました.
おかげでポーランドの公たちは,今度はドイツ騎士団という勢力と延々争う羽目になりますが.
【質問】
盗賊騎士団とは?
【回答】
悪人認定
法制史において,法廷外の係争処理のための制度であるフェーデの克服運動として出現したラント・フリーデは,直接には当時ドイツで猖獗を極めた盗賊騎士団raubritterの活動を封じ込めることをその主たる目的の一つとしていた.
1389年に,ライン,バイエルン,シュワーベン,フランケン,ヘッセン,マイセン等の各地方に施行されたエーガーのラント・フリーデでは次のように記されている.
「神の意志に反し悪しき集団が力を得てこのラント・フリーデ地域で再結成されたり,またはこのラント・フリーデ地域にやってくることがあれば,我々は全力を挙げてそれに対処し,その全員を追放するであろう」
この,「悪しき集団」とはすなわち当時ドイツに跳梁していた盗賊騎士団のことである.
このような盗賊騎士団への抑圧は,多かれ少なかれ他のラント・フリーデにおいても重要な関心事だった.
「呪うべき,しかして聖なる法律に違反せる,都市の内と外,都市相互,私人相互,私人と都市の間に結ばれた種々の不法な団体や,我々が堕落と認めた方法によって設立された同盟や協定は,いかなる口実を持つ誓約団体であっても,我々はこれを拒否し否認する.
(中略)
我々は,我々の前任者たる神聖なる皇帝たちの聖なる法が躊躇なく禁止し解散を命じたがごとき団体を,現在までに結成し,将来においても結成せんとする動きがあることを知るが故に,此処にこのことを宣言する.
ただし,諸侯や都市やその他のものが,州や国土の一般的な平和のために相互に組織する同盟や協定は,少なくともこの禁止令からは除外される」
この1356年の金印勅令の規定は,当然のことながら大空位時代(1253〜1273年)以後,あらゆる禁令を無視して事実上の政治勢力となっていた都市同盟には適用されていない.
ここで主に取締の対象となっているのは,多くのラント・フリーデで結成を禁止された盗賊騎士団に他ならなかった.
そんだけ.
仁義なき人々
実際のところ,盗賊騎士団raubritterなる名称自体が,史料の上で明確な用例を持つ用語ではなく,後世になって諷刺語として普及した用語だった.
このような諷刺語が通り名とされた背景には,フェーデを完全に犯罪視する近代的概念によるところが大きい.
むろん,フェーデ権の濫用による逸脱行為により盗賊騎士と呼ばれるに相応の騎士が存在していたことは事実だが,だからといって盗賊騎士団が単なる武装難民の群れだったとは言い難い.
ゼルバッハのハインリヒ・ズルトの年代記によると,1356年,アプリア,トスカナ,イタリアその他で略奪や暴行,放火を働いていたソキエタスと呼ばれる武装集団が,アウグスブルクの司教アルクゥルトに率いられ,ミラノ領主に対して攻撃を仕掛けたが,彼は500名の兵士とともに捕虜になった.
1357年,プロヴァンス地方のマルセイユ及びエークト市近郊でカールなる人物がソキエタスを結成し,城を襲撃し人命を殺傷し財産を略奪したが,教皇領を荒らすことはなかったため,教皇はカールに対しプロヴァンス地方からの退去を条件に2万4000フローリンを与えている.
1361年及び1362年には,ブレティニーの休戦によって解雇されたイングランド傭兵が中心となってアヴィニヨンでソキエタスが結成された.
彼らは聖堂及びローヌ河の橋梁を占拠して教皇領への糧道を遮断し,その周辺地域で略奪を働いている.教皇は皇帝と諸侯に対し援助を請い,結局3ヶ月余り暴れ回ったソキエタスは結局金銭によって和解し,ミラノに向けて立ち去った.
このソキエタスはその後再び舞い戻ってアヴィニヨン市に侵入したが,この際に一部が捕らえられ,10名がローヌ河で溺死刑,11名が絞首刑に処されている.
そんだけ.
大強盗団が往く
ニュルンベルクのマティア年代記では,1354年にミラノ大司教がソキエタスの隊長ヴェルネルスに金を与え,ソキエタスは帰国してシュワーベンで解散したと記されている.
彼は「神の敵,信心の敵,慈悲の敵」と刻まれた胸当をつけ,1500から2000の騎士団を率いてイタリア半島を荒らし回っていた.
その後1万人の兵士からなる別のコムパニアが結成され,プロヴァンスのメモリアレスなる者を隊長として,ロンバルディア地方に進出した.
このコムパニアはプロヴァンスに戻ってシュワーベンのランドウという男を隊長としてミラノ市の近傍に野営地を構え,同市を攻撃しないかわりに食糧の提供を受けたり,領主や都市に食糧の提供を強制した.
このコムパニアは永年にわたってヴェニスに雇われて皇帝の側に立って戦い,その後ラヴェンナに向けて移動している.
1365年には,主任司祭と呼ばれるイングランド人に率いられた1万2000の騎士を含む無数の兵からなるソキエタスが,アルザス地方に侵入したと記されている.彼らは夜を徹して多くの家屋を焼き払いつつ前進し,夜明けとともに攻撃準備を整えてシュトラスブルク市の城壁の前に到着し,都市と周辺の住民は防備の整えられた城壁内に逃げ込んだ.
同じ頃,アヴィニヨンから来たカールという人物がこのソキエタスを撃退するためにゼルツ市で軍勢を募った.
このことを知った主任司祭は麾下の軍勢を率いてアルザス地方を退去したが,この際に彼は,
「我々は皇帝の命でやってきたのに,その我々を追放するために軍勢を集めるとはけしからぬことだ」
と,皇帝を非難したと言われている.
また,1375年にもイングランド人のソキエタスによるアルザス侵入があったと記されている.
リムブルク年代記では,1365年に大ゲゼルシャフトがアルザス地方の各地を1ヶ月にわたって略奪した.このゲゼルシャフトは婦女子を除いても2万人の大所帯だったと記されている.
また,1380年には,リムブルク市の近くで大きな戦闘があり,ニーダーラントやオーベルラントの優秀な騎士,あるいは日出ずる東洋の国の人々など,300グレーフェン(グレーフェンは重騎兵1名と軽騎兵2〜3名からなる騎兵の編制単位)からなる軍勢が,リムブルク市の前市で放火と略奪を行ったと記されている.
そんだけ.
犯罪が起こるのは社会のせいです
これらのエピソードは,年代記という史料の性質上,時期や人数,地名やその他細部について錯誤や恣意,誇張が見られることは避けられない.
しかしながら,ここに出てくるソキエタスやコムパニア,ゲゼルシャフトと呼ばれる集団を構成した兵士が各地で展開した略奪や破壊は,彼らが字義通りの意味での盗賊騎士と呼ばれるべき存在であり,年代記作者にとって彼らが野盗の群れに他ならなかったことを示している.
特に1361年にアヴィニヨンに出没したソキエタスや1365年にアルザスを襲撃したソキエタスは,1360年のブレティニーでの英仏休戦の結果,解雇され見知らぬ大陸で生計の途を失ったイングランド人傭兵の成れの果てだったことを考慮すれば,彼らが野盗化して各地を放浪するのはある意味当然のことだった.
1338年,ニーダーラインのエッセン女子修道院長が,
「エッセン修道院領内の住民は,悪しき人々の攻撃のために非常に苦しめられ,彼らの生命財産は,日夜冷酷残忍な手によって脅かされている.
領民がかかる不当な暴力や悪意ある侵入に対して自発的に抵抗し,乱暴者の乱暴を防ぐためには(以下略」
と語っているのも,このような盗賊騎士団を対象にしたものだった.
しかし,このように年代記作者の目には好ましからざる存在として映ったソキエタスやコムパニア,ゲゼルシャフトの,アウグスブルク司教と同盟したり,教皇やミラノ大司教から金銭を貰ってアヴィニヨンやミラノから退去したり,皇帝の命を装ってアルザスに侵入したり,または野営地を構えて食糧を要求した等の行為は,彼らの行動が必ずしも強盗団のそれと同一ではなく,金になる仕事を求めて各地を放浪するうちに,適当な機会に恵まれず野盗化したという事実を示唆しているに過ぎない.
1385年,教皇ウルバヌス6世はオーストリアのヘンゼルなる男が率いるドイツ人ゲゼルシャフトを雇ってルツェルンで作戦させており,1394年,神聖ローマ皇帝ヴェンツェルは盗賊騎士団を傭兵として雇い入れ,1396年に解散させた後はその成員を自らの臣下として丸抱えで抱き込んでいる.
この手の盗賊騎士団の真の目的が傭兵として活動することにあったことは否定できない.
そんだけ.
お呼びとあらば即参上
盗賊騎士団が一個の独立した部隊として軍務に就いていたことを示す史料は少なくない.
1328年,イゼンブルクのヨハネス以下25名の人物が皇帝ルードヴィッヒ4世と傭兵契約を交わした. この契約書は,
「我々は,我々自身と我々の仲間全員のために皇帝と次の如き協定を結んだことを宣言するものである」で始まり,「良好にして合法的に奉仕」することを約した彼らに対する具体的な賃金とその支払方法が約された後,「皇帝は,我々がヴィナリとケルグリの両要塞を保有してそこに駐留し,もし上記の賃金の支払が定められた期限までになされない場合には,我々傭兵が敵と通じて勝手にこの要塞を処分することを許した」とした上で,「しかし支払が満足に行われて所定の期間が経過した場合には,我々はこの二つの要塞を皇帝に返還することを約するものである」と記されている.
1303年,ボヘミア・ポーランド王ヴェンツェスラウスとフランス王フィリップ4世が神聖ローマ皇帝アルプレヒト1世に対抗すべく結んだ軍事協定では,両者が来る使徒ヤコヴの祭日までに10万プラーグ銀の軍資金を費やしてドイツで傭兵を掻き集めることをお互いに約している.
外国の君主が短時間のうちに大量の現地傭兵を動員できるという事実は,すなわち盗賊騎士団が有力な兵力供給源として機能していたことを示唆している.
1327年,皇帝ルードヴィッヒ4世がその勅令で,
「もし何らかの重大な理由により貴下自身が出陣し,または貴下の軍隊を派遣することが不可能な場合,貴下の希望によっては,傭兵を集めるための資金の提供によって貴下の出陣義務を免除することを余は承認するものである」
と言っているのも,容易に傭兵として雇用し得る盗賊騎士団の広汎な存在が前提にあったことに疑問の余地はない.
教皇庁をはじめとするイタリアの各都市が,しばしばドイツ人傭兵を多用していたという事実も,同様に解釈することができる.
特に,教皇のアヴィニヨン捕囚,皇帝権の失墜等に象徴される14世紀のイタリアでは,諸都市の分裂抗争が続き,盗賊騎士団の活動に絶好の場を提供していた.
フィレンツェで権勢を得たイングランドの傭兵隊長ジョン・ホークウッドの成功の陰には,このようなイタリアの社会状態が背景となっていた.
そんだけ.
【質問】
中世の戦場では槍専門の槍歩兵はけっこうメジャーだったらしいですが,剣歩兵やメイス歩兵というのはほとんどいないのでしょうか?
【回答】
剣歩兵もいましたが,主力は槍でした.
1422年,当時のスイス傭兵達は独自のパイク戦術の中で,前面にハルベルトとバスタードソードを持った兵士で統合した部隊を配置し,ベリーンウェーナにおける戦いで勝利しています.
パイクとは長槍の一種で,ハルベルトというのも槍の一種です.
また,ドイツの30年戦争で傭兵達はカッツバルケルという剣を好んで携行しています.
メイスなどの打撃系武器も,割とポピュラーでした.欧州での登場は13,14世紀のことです.
歩兵達が用いる打撃武器は強力で訓練も少なくて済み,1302年におきたブルーニュという町の一揆で,一揆を起こした側が使用し,鎮圧に来たフランス騎士達を皆殺しにしました.
ある試算によれば,この時,兵士一人で,フランス軍の騎士二人を倒した計算になるそうです.
ある程度は誇張でしょうが,打撃武器が強力なのは事実でしょう.
打撃武器はこの後,パイクとそれに続く火器の登場により歩兵の間では廃れていきます.
しかし,騎士の間では使われ続け,16世紀まで使用さえされています.
なお,中世の歩兵は大部分専門職ではなく,騎士(貴族)の家臣か,領地の農民でした.
専門職としている歩兵の場合は長槍兵か,クロスボウを扱う傭兵など.
しかし,剣は騎士の高貴な武器であると認識されると同時に,農民たちの反乱を抑えるため,長剣や短剣の携帯は禁止されていたため,中世の歩兵は基本的にはメイスしか持てなかったのです.メイスと言っても,ただの木を削った棍棒から脱穀に使う殻竿,金属製のメイスなど,色々でした.
彼らの仕事は落馬した敵の騎士を撲殺することと,自分の仕える騎士の荷物を担ぐことくらいです.
彼らメイスを持った兵士たちは「歩兵」と呼べるほど統一された訓練を施されたわけでもなく,戦闘において何か重大な任務を任されていたわけでもありません.
騎士の添え物として,荷物を運んだり,雑用をしていただけです.
ただし,スイス兵は専門の歩兵でしたが,彼らはブルグンドや神聖ローマ帝国の支配から独立するため,市民や農民が自主的に集まり,共同体ごとに部隊を作ったので団結心もあり,訓練も定期的に行ったので専門化可能でした.
ランツクネヒトは,スイス兵の活躍を見たローマ皇帝が作り上げたものです.
彼らは専門家としての訓練を受ける代わり,部隊ごとに自治権とでもいうものを持っていました.
兵士一人一人が隊の運営(戦闘の指揮は隊長が執りますが,それ以外の生活レベルのこと),犯罪者の処罰などについて,発言する権利がありました.個々の兵士が部隊運営に携わることで,団結心をはぐくんだのです.
つまり,中世から前近代まで,規律正しく,士気にあふれ,訓練も充実した部隊を作ろうと思えば,兵士にある程度の自由を与えざるを得なかったのです.
部隊という共同体の自治に参加して初めて,兵士は団結し,訓練を受ける意欲を持ち得ました.
中世初期の歩兵が専門家ではなかったのは,彼らに義務に服させるだけの権利が与えられていなかったから当然と言えます.
なお,自由都市や都市国家の市民は,都市防衛のため武装していましたが,基本的に彼らは都市の城壁を守備するのが仕事ですから,弓かクロスボウを所有するように都市の法律で決められていたようです.
【質問】
中世の長槍兵は,接近戦用武器には何を使っていたのですか?
【回答】
中世イギリスやフランスなら長槍兵は接近戦を行いません.
生きた馬防柵のようなものです.
長槍兵が敵の騎兵の行動を抑制し,味方の騎兵が突入する隙を作るのが仕事でした.
スイス兵は中世からルネサンスにかけて「アレバルド」をつかっていました.
これは斧と槍が組み合わさった物で,騎兵の突入を防ぎ,接近戦にも使える物でした.
ただし,スイス兵は飛び道具を軽視したため,スペイン式の編制(後述)が広まると不利に陥りました.
小銃が普及するとアレバルドに代わり,長槍と銃を装備するようになりました.
ランツクネヒトはドイツ皇帝がスイス兵をまねて作った傭兵隊ですが,装備は長槍が全体の1/3,アレバルド1/3,飛び道具1/3というものでした.
カッツバルゲル(喧嘩剣)は隊列の前方数列のみが装備し,専門の兵士が扱いました.給料も良かったようです.
1500年代に入るとスペイン兵は長槍兵と銃兵の組み合わせを考えました.
のちにテルシオと呼ばれるものです.実は当初は長槍兵が接近戦に弱いので銃兵がそれを補っていました.
当時の小銃の有効射程は短いですからね.
その後主客逆転し,槍ぶすまで敵の突撃をくい止め,銃兵の射撃で撃破するようになります.
つまりどの時代も長槍兵の隙を埋めるための部隊や装備があり,ルネサンス以降は専門分化が進みました. そして最終的には小銃プラス銃剣に落ち着くわけです.
日本語ではいい文献がなかなか無いですから,英語が読めるのでしたら洋書をamazonなどで買うといいと思います.
militaryとかinfantry,medieval,renaissanceなどをキーワードに検索するといろいろヒットすると思いますよ.
軍事板,2004/09/19
青文字:加筆改修部分
【質問】
17世紀中盤頃の傭兵隊(ランツクネヒト)に関してですが,ひとつの傭兵隊あたり,どれぐらいの規模だったのか,教えてください.
【回答】
うろ覚えでテキトーだけど.
傭兵軍の基本となる中隊は,せいぜい300-500
ただ,これは百年戦争の頃のように,常時各地をうろついていた個人経営の傭兵隊ではない.
17世紀ごろの場合,王公が傭兵隊長に軍の編成を依頼し,傭兵隊長は連隊長,中隊長を任命(あるいは自分の子飼いを選出し),彼らは募兵官を走らせて人手を集める.
兵力は王の要望によるので,千単位,万単位にもなる.
この軍を経営する責任は傭兵隊長にあるので,とらえようによっちゃ,万単位を個人経営しているといえなくもない.
最盛期のヴァレンシュタインは六万の軍隊を一手に動かしてたしな.
もっとも,傭兵隊長がやることは連隊長への指示出しくらい.
実際に前線で部隊を動かすのは,上に書いたように連隊長,中隊長レベル.
そして,戦争が終われば軍隊は解散され,任命された中隊長や連隊長も部隊の指揮権を失う.
ここが百年戦争頃の傭兵隊との違いってわけ.
傭兵軍を現在の企業のようなものととらえれば,中隊長=課長,傭兵隊長=社長,王公=株主,って感じ.
で,傭兵隊長以下は全て,現在の派遣社員のような臨時雇いと考えていい.
世界史板
青文字:加筆改修部分
【質問】
こうした傭兵隊は,普段どんなところで寝泊りしたの?
【回答】
基本的には野営,テント生活.
戦時雇用だけなので,そのまま戦場に送り込まれる.
よって,その辺の野原か,市街の周囲に野営地を置くしかない.
まあ,王公が管理している砦や農村を宿営地として提供される場合もあるけど.
あるいは,占領した街をねぐらにするとか.
世界史板
青文字:加筆改修部分
【質問】
非戦闘員(商人や娼婦など)とはどんな付き合いをしたの?
彼らはどれぐらいの人数だったの?
【回答】
いっぱいくっついてた.
時代にもよるが,おおむね兵力の30%から50%が非戦闘員で占められていた.
三十年戦争頃の記録だと,ある傭兵軍では,非戦闘員が戦闘兵員の三倍もいた,なんて話もある.
酒保と傭兵の関係では,酒保側が圧倒的に強い.
なぜなら,酒保が傭兵隊の兵站全てを握っていたから.
基本的に傭兵はむしられる側で,給料はほとんど酒,女,賭博に消えた.
このあたりはグリンメルスハウゼン作『阿呆物語』(岩波文庫,1986)や,シラー作『ヴァレンシュタイン』(岩波文庫,2003.5)を読むとよくわかる .
世界史板
青文字:加筆改修部分
【質問】
彼らは誰かに雇用されていない時はどうしていたの?
【回答】
プーっす.
手に職を持ってない連中だから,大半は日雇いの単純労働に付くか,どっか他に戦争やってるところに行く.
あるいは野盗団(マロード団とか呼ぶ)に鞍替えして,農村とかを荒らしまわる.
こいつが社会問題化したのが,ごぞんじ三十年戦争.
まあ,詳しくはラインハルト・バウマン著『ドイツ傭兵の文化史』(新評論,2002.10)を読んでくれ.
今,手元にないんで確認できぬ.
世界史板
青文字:加筆改修部分
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