c
「戦史別館」トップ・ページへ 「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ サイト・マップへ
16世紀
<戦史FAQ目次
『アルマダの戦い スペイン無敵艦隊の悲劇』(マイケル・ルイス著,新評論,1996.10)
類書として石島晴夫著『スペイン無敵艦隊』があるけど,本書は英国海軍軍人の手により,アルマダの戦いと称される一連の戦闘のみに絞って書かれている.
なので戦闘行動や両軍の編成・装備,後のアルマダの遭難などの記述が詳細だけど,アルマダ前後の流れはあまり記述されていない.
できれば『スペイン無敵艦隊』を先に読んだ上で読んだほうがいいかも.
でも流石に海軍軍人の書いた本だけあって,ドレークがどいう戦術意図で行動したのか,まだ手探り状態の帆船同士の大砲による戦い(スペイン側にはガレーやガレアス船があったけど)がいかに困難であったか,アイルランド周辺の海域が,当時としてはいかに危険な海域だったのかという記述は面白かった.
できればこの2冊と『戦略の形成』を併読すれば,両国の戦略意図や戦争の流れがよくわかると思う.
2冊は入手困難だけど・・・・
――――――軍事板,2010/04/15(木)
青文字:加筆改修部分
『スペイン無敵艦隊』(石島晴夫著,原書房,1981.12)
学生の頃に読んだのがなつかしい.
射程の短いスペイン艦隊に対して,長射程のイギリス艦隊によるアウトレンジが,見事に失敗(笑)
結局,停泊中に夜襲をかけたら大成功,という笑えないオチの戦い.
疲弊した艦隊を待ち伏せるというのは,日本海海戦にも通じる勝利の常道ということが再確認できる.
結構古い本だったと記憶しているけれど,いまだにこれがアルマダ海戦では定番なのかな?
――――――軍事板,2010/04/16(金)
『スペイン無敵艦隊の最期 世界のドキュメント 6』(赤井彰著,人物往来社,1968)
『戦略戦術兵器事典3 ヨーロッパ近代編』(学研,1995.10)
これは酷い本.
オーストリア将官カール(カルル)フォン・ロートリンゲンって書くべきところを,シャルルとだけ書いてあったり,
加えて,ロートリンゲン公カールは王子じゃないから,これも間違いだわな.
同じ地名が3行いかないうちに,まったく違う表記になってる.
(ホッホキルヒ→ホックスキルシュ)
洋書のネタ本の内容を理解してないまま,日本語に直したつもりらしい.
――――――軍事板,2010/02/11(木)
【質問】
16〜17世紀のヴェネツィアの戦闘艦艇ってのは,ジーベック含むガレー系一本で,純粋な帆船は無かったんでしょうか?
【回答】
純粋な戦闘用の艦艇ではガレー船が主力となります.
あとはガレアス船でしょうか.
帆船は純粋な戦闘艦艇ではありませんが,大型の帆船であれば,いわば海上要塞と化すため,戦闘能力という意味では十分に戦闘用の艦艇に対抗できました.
しかしこれは17世紀初頭まで.
そのころになりますと大砲の威力向上により,ガレー船の機動船より大砲の火力が優越してきます.
そのためヴェネツィアは,オランダ・イギリスの借り上げ船舶を参考にし,1667年には最初の戦列艦を竣工させます.
以降,ヴェネツィアの主力は戦列艦となり,50年間でおよそ70隻の戦列艦を竣工させています.
ちなみに戦列艦のタイプはイギリス式です.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
マゼラン艦隊が世界一周したのって何年ですか?
【回答】
艦隊の出航は1519年.
マゼラン死亡は1521年.
世界一周達成は1522年.
ただしマゼランは,ポルトガル兵員時代の1500年代にインドに行き,アルメイダ提督の艦隊に配属されている.
アルメイダ艦隊はマラッカへ行っており,マゼランもここまでは同行しているのは確実.
さらに艦隊は分割され,一部はモルッカ諸島へ到達している.
モルッカへ行った艦隊にマゼランが居たかどうかは記録に無いが,居た可能性はある.
その時点での最東到達は1509年あたりだろうか.
後,インド洋を経てアフリカを周回して帰還した.
さらに後,モルッカへ西回り航路を開発してアクセスして帰るという往復計画を立案し,スペインへ捻じ込む.
それでスペイン艦隊を率い,西回りでフィリピン諸島に漂着したのが1521年で,これをもってポルトガル〜スペインとバックボーンを替えての世界一周が成し遂げられた.
マゼランがモルッカまで行っていたという仮定での話でね.
だからそれを計算に入れるなら,1509年頃〜1521年にかけてだな.
勘違いしている人が多いけど,マゼランは世界一周を目的として航海したのではなくて,あくまでも結果として一周してしまったということは忘れてはならない.
スペイン時代の航海計画でも往復する計画であり,マゼラン死後のトリニダッド号も修理後,当初の計画通りに東へ向かって帰還しようとした.
結局,不安に駆られてモルッカ諸島へ戻ったところで,ポルトガル艦隊に拿捕されたけどね.
なお,世界一周したのは「マゼラン艦隊」(といっても帰還できたのは一隻だけだったが)であって,マゼラン自身はフィリピンのマクタン島で原住民の酋長ラプラプに殺された.
マゼラン亡き後の艦隊を率いてスペインに帰り着き,ヨーロッパ人として最初に地球一周を果たしたのに,今いち影の薄いフアン・セバスチャン・エルカノも,忘れないでやってください.
世界史板
青文字:加筆改修部分
【質問】
ハイドゥクについて興味があります.
現代はバルカン半島にもいるようですが,近世のハイドゥクはみんなハンガリー人ですか?
ハイドゥクの実像についてこのようが記述がありますが,本当ですか?
「ときには義賊といえるケースもあったが,大部分が山奥に住み着いて民家を略奪し,墓を盗掘したり賭博や飲酒をしたりすることに時間を費やした.
彼らの眼中には政府もなく,祖国もなく,仁義や道徳もない.
彼らの日常はただ一身の快楽を得られればよく,秤を争って金と銀を分配し,派手な衣装をひっかけて斗酒を飲み,肉の塊を丸ごと飲み込むかと思えば,女を拉致してかわるがわる強姦した後,道端に捨てる肉盗行為以外にはすることがない.」
【回答】
16世紀,オスマン帝国征服後のハンガリーに出現した武装勢力としての「ハイドゥク」は,主にハンガリー人やスラヴォニア人から成っていたが,17世紀には退潮した.
その後,オスマン帝国の衰退とともに,支配下にあったルーマニア,ブルガリア,ギリシャ,セルビアなど各地に野盗の類が出没するようになり,そうした連中も「ハイドゥク」と呼ばれるようになったので,全バルカン的な現象になった.
そのためハイドゥクや類似の匪賊(ギリシャのクレフト,トルコのケレール等)の民族構成はルーマニア系,スラヴ系,ギリシャ系など多岐にわたったが,出身階層としては農村社会で問題を起こしてアウトローになった者が多かったようだ.
遊牧民がどうとかいうより,堅気の社会へのアンチとしての太く短く生きる生活様式だろう.
ハンガリーでハイドゥ民というと,ボチカイ・イシュトヴァーンの反乱時ぐらいから記録にあらわれますが,オスマン軍に追われたり、領主の圧迫から集団で逃れた農民が匪賊化したものと言われています.
彼らはボチカイの援助要請に応えてハプスブルク家と戦い,ボチカイの勝利に貢献したことによって,軍事的な奉仕義務を持つ自由身分の農民とされました.
武装した家畜輸送業者というの市場町に住むようになって以降の話ですね.
彼らはその後もハンガリーで対ハプスブルク家反乱が起こるたびに戦闘に参加しているものですから,ハンガリーの抵抗の象徴のようになっているのでしょう.
余談ですが,クロアチアのクリス城(昔ハンガリー王国の南の防衛線だった)で,今でもハイドゥクの末裔が「羊の丸焼き」を食べさせるお店?をしているそうです.
【質問】
モハーチの戦いって何?
【回答】
1526年8月29日にハンガリー・ブダ南方のモハーチ
Mohács 平原で起きた,ハンガリー王国軍とオスマン帝国軍との戦闘です.
迎え撃つハンガリー軍3万(援軍3万が来るはずだったが,その前に行動を始めてしまった)に対し,スレイマン1世は兵力約7万以上,大砲300門.
オスマン帝国軍は兵力,戦術共に優り,ハンガリー軍は一方的に壊滅して2万人以上が戦死,国王ラヨシュ2世も落馬・溺死しました.
それでもKIA(Killed in Action)のうちと見なせないこともありませんので,厳密さを特に要求されないときは,かわいそうですから戦死と言ってあげてください.
▼ ちなみにこのときにオスマン軍の手によって,ヨーロッパに初めて唐辛子が持ち込まれたのだとか.
ちなみに唐辛子はアメリカ大陸原産の植物でして,コロンブスが1493年に最初にヨーロッパに持ち込んでおります.
その後,インドもしくはアレクサンドリア経由でオスマンに持ち込まれ,ハンガリーなどバルカン諸国にモハーチの戦いの際に持ち込まれました.▲
【参考ページ】
http://members.aol.com/nishitatsu1234/zatsudan/Balkan.htm
http://www.hungarytabi.jp/stepbystep/sbsminadu.html
http://www.h4.dion.ne.jp/~kosak/Ottoman.html
http://www.koparis.com/~hatta/tougarasi/tougarasi3.htm
http://www.hungarian-history.hu/lib/warso/warso19.htm
http://www5d.biglobe.ne.jp/~k-ue/travel/turkey_200604/ottoman/suleyman.htm
【関連リンク】
http://www.youtube.com/watch?v=W0yK2PLlGBk※
http://www.youtube.com/watch?v=bOwyXZhR-jw
【ぐんじさんぎょう】,2008/10/31 22:00
に加筆修正
※
この動画の作者,モハーチの地形を全く知らんのだろうなぁ・・.
ドナウ河畔の丘陵地帯ではあっても,こんな山みたいな場所は一箇所もないのは,グーグルアースでもすぐわかりそうなものなのだが・・.
今の戦跡公園の写真は
http://hungarystartshere.com/gallery?group=O11372
で,これは発見された戦死者の集団埋葬地である.
以前,晩秋に訪問したことがあるが,
「この場所には手をつけてはならない」
と言われていた場所であったという話を聞いた.
発掘した写真を見たことがあるが,遺体が折り重なっていて,まさに死屍累々という言葉がふさわしい.
http://mek.oszk.hu/01900/01918/html/index187.html
しかし,これでも伝えられる戦死者の数からすれば少なすぎるとのことで,主戦場がどこであったのかは,いまだに不明とのことである.
ちなみに現在のモハーチはブショーヤラーシュ(ハンガリー風なまはげ??)祭りで有名です.
私も古戦場を訪れましたが,丘陵といっても非常に緩やかなものでした,現在はセルビアとの国境の向こうまで一面の畑地になっていますが,1526年当時は,平らなな場所といってもドナウが何度も流れを変えた結果,旧河道がくぼ地になっていたり,川岸に近い方は葦原の茂る沼沢になったりした場所が入り組んでいるような場所でした.
また,恐らくは視界をさえぎる低木も存在したようです.
あまり,大軍の激突するにふさわしい場所とも思えませんが,ここを戦場に選んだのは数に劣るハンガリー側でした.
ハンガリー軍の総司令官はカロチャ大司教トモリ・パールでしたが,彼は小競り合いの経験はあったものの,大軍を率いての合戦の経験は乏しかったようです.
国王ラヨシュ2世とトモリに従うハンガリー軍は2万5千〜8千,本来はこれにトランシルバニア候サポヤイ・ヤノシュ率いる軍8千〜1万3千,クロアチア太守フランコパン・クリシュトフ率いる5千の軍が加わるはずでした.
しかし,オスマン軍の進軍速度は思ったよりも速く,軍を集結させるよりも,オスマン軍と接触する方が早い見込みになってしまいました.
(サポヤイに関しては,オスマンに内通し,軍を進めさせなかったという説もあります.
彼は元々,自分には国王の資格があると考えており,先代のハンガリー王ヴワディスワフ2世の時代に中小貴族の支持を得て,国王が嫡子なく死亡した場合はハンガリー人が王に選ばれる旨――もちろん候補者がサポヤイであることは言うまでもありません――の国会の決議を得ていました.
その野望は,国王に嫡子ラヨシュ2世が誕生したことで先送りになっていたのです.)
軍の集結が不可能と判明した時点で,ハンガリー軍としては北部へ撤退し,サポヤイ軍と合流するという作戦を取ることも可能でした,
しかし,その場合はブダを捨て,ポジョニ(ブラチスラヴァ)か,あるいは更に北の現在のスロバキアあたりまで撤退しなければならなかったものと思われます.
結局,作戦会議はハンガリー軍の勇敢さを頼んで,現兵力で約6万のオスマン軍を迎撃することに決定しました.
大司教トモリが熱弁を振るった結果のようです.
で,結局ドナウ河畔でオスマン軍を迎撃することになったのですが,本来なら河を渡るところを叩くべきだったのでしょうが,それもできず,夜襲もかけず,より高い場所のオスマン軍が布陣することを許し,挙句は真夏のさなかに午後に至るまで戦端を開かず,いたずらに体力を消耗し,戦闘開始となったら,敵陣に猛突撃をかけた挙句に包囲され壊滅的な打撃を受けました,
戦死者は1万6千,国王ラヨシュ2世も撤退途中に,湿地地に足を取られた馬から落馬して陣没(下敷きになって溺死),ハンガリー王国は事実上ここに滅亡しました.
戦闘の経過などを読んでいるとハンガリー好きとしては,なさけなくて涙が出てきます.
ギシュクラ in 2008年10月27日00:02〜28日 23:45
モハーチ戦前後のハンガリー騎兵
(画像掲示板より引用)
【質問】
カハマルカの戦いとは?
【回答】
1532年11月16日,ペルー北方の高地カハマルカで起こった,ピサロ将軍率いるスペイン部隊とインカ皇帝アタワルパ率いるインカ帝国軍との戦い.
スペイン部隊はわずか168人しかいなかったにも関わらず,80000人の兵士を引き連れていたアタワルパを捕虜にし,一方的に勝利した.
この戦いの結果,ヨーロッパ人による南アメリカ大陸支配が始まった.
ピサロの仲間達6人の証言によれは,戦闘経過は以下の通り.
カハマルカの盆地に到着したピサロたちは,4km離れたところにあるアタワルパの陣営を見て恐怖した.
あまりにテントが多すぎて,美しい街のように見えたのだ.
スペイン人たちは混乱しつつあったが,インディオたちに弱みを嗅ぎつけられないように態度には出さなかった.
その夜は恐怖のあまり皆が眠れず,身分の上下を問わず武装して歩哨に立った.
このときピサロは土地には不案内であり,地域住民のこともまったくわかっていなかった.
最も近いスペイン人居住地はパナマにあり,1000kmも離れていて援軍を呼ぶこともままならなかった.
一方アタワルパは何百万人もの臣民がいる帝国の中心にいて,内乱を鎮めたばかりの八万人の兵士に守られていた.
翌朝,ピサロはアタワルパからの使者に『どんな侮辱も危害も加えないのでこちらに来て欲しい』という返事を送り,到着を待つ間に待ち伏せの準備をした.
正午になると,2000人の先導役の後に,多数の側近や侍従に囲まれて,輿に乗ったアタワルパがやってきた.
広場はどこもかしこもインディオたちで一杯になり,隠れて待ち構えているスペイン人の中には恐怖で失禁する者が多くでるほどだった.
ピサロは神父を遣わして,アタワルパにキリスト教に改宗するよう求めて聖書を渡した.
しかしインカ帝国には文字が無かったので,アタワルパは本そのものが理解できず,怒りのあまり渡された聖書を地面に投げ捨ててしまった.
神父は激昂してピサロに戦うよう要請し,ピサロすぐさまは攻撃の合図を出した.
小銃部隊が発砲すると同時にトランペットが吹き鳴らされ,歩兵と騎兵が飛び出してきた.
銃声とトランペットの轟き,そして始めて見る騎馬(当時南北アメリカ大陸に馬はいなかった)に脅えてインディオたちは大混乱に陥った.
アタワルパの取り巻きたちは武装していなかったので,スペイン人たちは慌てふためく彼らに飛び掛って滅多切りにした.
インディオたちは逃げ惑い,勝手にぶつかりあって転び,下敷きになり,折り重なって多くが窒息した.
ピサロは自ら剣を抜いて部下と共にアタワルパの輿に突撃し,忠実だが非武装の侍従たちを殺してアタワルパを輿から引き摺り下ろした.
アタワルパがカハマルカから1マイル離れた場所に残してきていた兵士たちは,戦闘準備ができていたにも関わらず,他の兵士たちが逃げ惑うのを見て逃げ出してしまった.
日没と共に戦いは終わり,7000人のインディオたちが死体となって転がっていた.
一方,スペイン人たちに死者は一人もいなかった.
【参考文献】
『銃・病原菌・鉄』(ジャレド・ダイアモンド著,草思社,2000.10)
唯野
この『銃・病原菌・鉄』によれば,アタワルパは本の開き方が分からなかったという説もありますね.
また,スペイン側に一方的に攻撃されているのにもかかわらず,アタワルパの輿を守って担ぎ続けようとした支配階級のエリート層(知事等)も全滅したのも,影響は大きいと思います.
また,アタワルパは神と同格に扱われてたので,この戦いの結果アタワルパが捕らわれて以降,インカ側は政治・外交的にも圧倒的不利になります.
この戦いがどうしてこういう結果になったのかを分析するのが,この本全体のテーマと重なっています.
つまり,どうしてインカ側には馬もしくはそれに類する機動力がなかったのか?
どうしてインカ側に鉄製の武器がなく,スペイン人達にはあったのか?
どうして重要な情報伝達がなかったのか(既に上の文で回答されてますが)?
どうしてインカ側は一つの戦いでエリート層が全滅する様な政治機構だったのか?
一つの戦いという単位で考えると,その後の影響が世界史的に最も大きい戦いの内の一つだと思います.
Fabius (KT)
ダイアモンド教授の同書はすごくおもしろいですよね.
私はPBSのテレビシリーズで知りました.
http://www.pbs.org/gunsgermssteel/index.html
写真は同番組の二回目放送から,ピサロと文字の読めないアタワルパ.
バグってハニー
【参考画像】
インカ帝国の将兵
(画像掲示板より引用)
【質問】
なぜスペイン人たちは500倍の敵を相手に圧勝できたのか?
【回答】
ピサロ側が有利だったのは,鉄製の武器と甲冑,銃器,そして馬を持っていたことである.
一方,アタワルパ側は石・木・青銅の武器しか持っておらず,騎乗して戦場に乗り込んでいける動物もなかった.
特に重要なのは騎馬で,ピサロ側には60騎の騎兵しかいなかったがこれが大活躍した.
騎兵はその後,対騎兵戦法を身につけたインカ帝国軍との戦いでも,少数の部隊で大軍を何度も打ち破っている.
銃については実は大した役割をしておらず,銃声は確かに心理的効果があっただろうが,12丁しかない上に,装填に手間のかかる火縄銃だった.
それよりも鉄製の武器と防具が重要だった.
インディオの主力武器である棍棒では,鉄の鎧や兜に身をつつんだスペイン人を効果的に殺傷することはかなわず,逆にインディオたちの刺し子の鎧は鉄製の武器を防げなかった.
また,より根本的なこととして,アタワルパがピサロの見え透いた罠にはまって,武装した護衛をほとんど伴わずに誘い出されたことも重要である.
インカ帝国は当時南北アメリカ大陸で最大かつ最も進歩した国家だったが,文字を持っておらず,スペインの軍事力や意図についてまったく情報を持っていなかった.
スペイン人の侵略は1510年にインカ帝国から1000km離れたパナマではじまっていたが,インカ人がスペイン人の存在を知ったのは1527年,ペルー海岸にピサロが上陸した時である.
皇帝アタワルパは,中央アメリカ最大最強のアステカ帝国がスペイン人に征服されたことすら知らなかったのである.
アタワルパは海岸から内陸に向かう途中のピサロに関する報告を受け取っていたが,それはいちばん混乱しているときのスペイン人たちで,
「彼らは戦士とはいえない.
200人の兵士で全員縛り上げられる」
と告げられ,スペイン側がおそるべき力を持っていることをまったく理解せず,挑発しなければ彼らは攻撃してこないだろうと思い込んでいたのである.
【参考文献】
『銃・病原菌・鉄』(ジャレド・ダイアモンド著,草思社,2000.10)
そしてインカ帝国の秘宝を巡り,ジャック・スパロウが船を奪われたり,孤島に置いてけぼりを食ったり,海賊たちが呪われたりしましたとさ.
【質問】
ユグノー戦争とは?
【回答】
フランスの宗教戦争(1562〜1598)
ヴァシーで新教徒襲撃
↓
オルレアンで報復
↓
サンスで報復(1562)
↓
戦争 勃発
という経緯.
主要対立軸は,
・ユグノー(新教徒,代表:コンデ公⇒アンリ=ド=ナヴァール)vs旧教徒(代表:ギーズ公)
・カトリーヌ=ド=メディシス(旧教)vsギーズ公
・国政主導権をめぐる大貴族の闘争
・スペイン(旧教)vsイギリス(新教)
とあって,ドロドロ.
結局,宗教問題よりも国民的統一を重視するポリティーク(穏健旧教派)が結成され,その路線上で
アンリ4世即位(1589)
↓
カトリック改宗(1593)
↓
信仰の自由を認めるナントの勅令公布(1598)
↓
やっと内乱収拾.
余談.
「フランス料理に大きな影響を与えたのは,カトリーヌ・ド・メディチとオルレアン公アンリ(後のアンリ2世)との結婚.これにより,イタリア料理がフランス料理に取り込まれ,洗練化された」
という,広く信じられている説があるが,これは現在ではほぼ否定されている.
この立場を取る著者の邦語で読める文献としては,
・バーバラ・ウィートン:味覚の歴史:大修館書店:pp.75ff.
・ジャン・ラッセル・ルヴェル:美食の文化史:筑摩書房:pp.134ff.
などが代表.
Davidson,Alan:The Oxford Companion to Food:に至っては,このカトリーヌの話をCulinary
Mythology:の項目に入れ,完全にネタ扱いしている.
彼らの論拠は,以下である.
(1) イタリア料理の影響は,料理書の翻訳や人の交流を通じ,遙か以前から始まっていた.
(2) 仏王家と比べて身分が低く,しかも次男坊の14歳の嫁,宮廷には他の有力な女性もおり,嫁いで以来長いこと子供も出来なかったカトリーヌには当初,宮廷での影響力などなかった.
(3) なにより,1530年代及び40年代のフランス料理に変化が起こったという証拠は皆無.
(4) フランス料理は17世紀後半からゆっくりと変化しだしたことがはっきりしている.
(5) それゆえカトリーヌの影響は後年,宮廷での宴会の様式を荘厳にした程度にとどまる.
【質問】
インカやアステカ帝国の軍隊って,数の暴力でコルテスやピサロ軍を撃退できなかったのでしょうか?
【回答】
▼ 一般論では,▲
1)ケツァルコトル神伝承があって,戦意が維持できなかった
インカでは「白い肌の神が海からやってくる」と言う伝承があったので,スペイン軍が来た時もそれらを神もしくは神の使いだと誤解したのが,大きく影響したと言われる.
2)彼らが客人として処遇されてる間に,彼らが持ち込んだ伝染病が蔓延してしまってマトモに戦えなかった
というものだけど,
結局,独裁政治というか,帝国そのものが制度疲労を起こしていて,ちょっとしたきっかけで瓦解する寸前だったところに,上記1)2)が最後の駄目押しになってしまった,という認識みたい.
軍事板
青文字:加筆改修部分
▼1) そもそも,スペインの侵入当時の中米地域では一般にアステカ帝国のみが注目される傾向があるが,アステカ以外にもタラスコ王国,トラスカラ人の都市国家連合,ミステカ人やサポテカ人の小王国群などが乱立していた.
特にタラスコ王国やトラスカラ人は,しばしばアステカ軍を撃破するなど強大な国力を蓄えていた.
また,アステカ帝国の支配は政治的に未熟であり,領域内で一様ではなかった.
支配下の国々は貢納を要求されているだけである場合も多く,アステカ支配下にあったマヤ系のワステカ人やトトナカ人などは,スペインと独自に同盟を結ぶなどしていた.
そして南方のマヤ文明圏の大半は歴史上,アステカの支配下に入った事は無かった.
スペイン人はこれら乱立する王国群を,少しずつ制圧していった.
そもそも相互に敵対関係にあった先住民の王国は,スペイン人と同盟を結んで他の国を攻撃する道を選ぶものも多くあった.
特に大きな役割を果たしたのはトラスカラ人である.
トラスカラ人はティサトラン,オコテルルコ,テペティクパン,キアウィストランの四都市を中心とする都市同盟を結成し,長年にわたりアステカの支配を拒んでいた.
1519年にコルテス率いるスペイン人と戦って敗北するとその同盟者となった.
以後スペインのメキシコ地域征服の主力となり,後にはフィリピンの征服にも投入されている.
1521年にスペイン軍がアステカ帝国の首都テノチティトランを包囲した際には,スペインと同盟を結んだトラスカラ人など数万人(一説には20万人とする)の先住民諸国軍が主力であり,スペイン人は数百人しかいなかったといわれている.
テノチティトラン制圧後の破壊と略奪はスペイン人だけでなく,先住民諸国軍も参加して行われ,アステカ帝国は滅亡することになる.
このようにスペインの征服は,「スペイン人vs先住民」という単純な図式では行われていない.
当時の先住民諸国は,「数の暴力」でスペイン人を撃退するなどという芸当ができるような政治状況にはなかったのである.
2) スペイン人が持ち込んだ伝染病がアステカ人の間に蔓延したため.
特にアステカの首都テノチティトランは,1519年から1521年までの2年間に,天然痘などの流行により人口が減少し,社会的にも大きな打撃を受けていたとされる.
また,その他の先住民の間でも伝染病の流行で人口が減少し,アステカ滅亡後にスペインの攻撃を受けた際の防衛力は低下していた.
なお,アステカ人がスペイン軍をケツァルコアトルの使者と勘違いしたという説明が広く知られているが,実際にはこの伝承はアステカ滅亡後にアステカ人の王侯貴族が,屈辱的敗北を正当化するために創り出した神話であるとされる.
詳しくは,『古代メソアメリカ文明』(青山和夫著,講談社,2007.8)228p-249pの内容を参照されたし.
天武 in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分
▲
また金を精製する技術はあったものの,鉄の存在と精製技術を持たなかった為,武器の質でも大きく劣っていたよう.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
塩野七生氏の「ロードス島攻防記」という小説を読んだのですが,1522年,ロードス島の要塞に立てこもる5000人が20万人のトルコ軍と戦い,トルコ軍は数万の死者を出したとあるのですが,これは史実ですか?
史実だとしたら,いくら戦争は防御側のほうが有利だとしても,トルコ軍は被害を出しすぎだと思うのですが?
結局,要塞も攻め落とせずに交渉によって明け渡すことになりましたし,もう少しましな攻め方は無かったのでしょうか?
【回答】
ロードス島遠征は1522年に実際に行われました.
元々この地域は,『オスマンの内海』こと地中海の喉に突き刺さった小骨のようなものだったので,何度も攻略部隊を送っているけど失敗してる.
それどころか逆に,島を守るセント=ヨハネ騎士団は船を駆って,オスマン帝国の貿易路で海賊まがいの行為をするなど士気旺盛.
まさに難攻不落な要塞島だった.
スレイマン1世が攻略する事になるんだけど,この時はヴァチカン法王庁は援助拒否,フランスは対ハプスブルグのため動けず,強力な海軍力を持つヴェネチアは,貿易の関係でオスマンと中立条約を結んでしまった.
つまり援軍の可能性のない八方塞がり.
こういうとき,宗教的情熱を持つ軍隊は超強い.
獅子奮迅の活躍をするもんだ.
そしてこれも大きいが,どうやら島を攻めたスレイマン1世はあんまりやる気がなかったらしい.
5ヶ月の戦闘のすえに最終的に講和したけど,周りの重臣達は大反対した.
「もう少しで勝てるのになぜ!?」と.
講和の内容もかなーり騎士団及び島民にやさしい.
具体的にみると・・・
1:離島希望者はオスマン海軍が責任を持って移動させる
2:離島を望まないものは残留してもOK.イスラム教にのっとり信教の自由は必ず認めるよ
3:残留した者も戦災を受けて生活は苦しいだろう.5年間税金を免除するよ
4:この島でデブシルメ(オスマン帝国の官吏・軍人候補のため子供を強制徴募する制度)はしませんよ
と,はっきりいって大甘もいい所.
こりゃ大臣達は猛反対するわな.
これらから,スレイマン1世は初めっから島の攻略にやる気がなかったと考えられている.
被害が大きくなったのも,騎士団の獅子奮迅の活躍とこれが関係していると思われる.
世界史板住民 in 軍事板
青文字:加筆改修部分
また,読んだのなら分かると思うが,ロードス島の要塞は当時有数の要塞建築家がアドバイスした堅固な要塞だ.
それを攻めるとなれば,そのくらいの死者は出る.
航空機や高性能な砲や爆薬も無い時代に,極めて堅固に構築された要塞に閉じこもる少数が,数が圧倒的に勝る敵を相手に,長期間,篭城戦を繰り広げる・・・ってのは,歴史上,そんなに稀有な話ではないよ.
更に言えば,戦闘の結果を交渉に生かすのが戦争の常であって,最終的に交渉でカタがついたから,被害が出た戦闘は無駄だった・・・・ってのは,あまりに短絡的過ぎる考え方だよ.
さらに,トルコ側の死者は4〜5万というのは史実だが,半分は病死と言われている.
5000人の騎士や傭兵が立て篭もる,城塞都市でも屈指のロードスを陥落寸前にするのに,2〜3万の戦死者って計算なら,まぁ,そんなにビックリするような話ではないかと.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
アルカセル・キビールの戦い(1578)とは?
【回答】
サード朝モロッコとポルトガルとの戦い.
サード朝では,1576年に第4代ムハンマド・ル・ムタワッキル王(在位1574〜1576)から叔父のアブド・ル・マルク(在位1576〜1578)が王位を奪うという事件が起こる.
ムタワッキルはポルトガルへと亡命,ポルトガル王ドン・セバスティアン(在位1557〜1578)にモロッコ遠征をもちかけ,1578年6月,ムタワッキルと共にほとんどが傭兵から成る約2万5000の軍勢を率いてモロッコへと発った.
ポルトガル軍はタンジェ上陸後,8月4日,内陸にあるルコ川沿いのアルカセル・キビールへと進軍し,アブド・ル・マルク率いるモロッコの大軍と交戦.
数の上では圧倒されていたが,火器の性能で優るポルトガル軍は中盤に戦況を盛り返す.
が,指揮能力を欠くドン・セバスティアンが,退いたモロッコ軍を深追いしたため,伏兵のモロッコ騎馬隊に側面から奇襲を受け,戦死約8000,捕虜1万5000の大敗を喫した.
この戦いは,ポルトガルの王ドン・セバスティアン,モロッコの前王ムタワッキル,モロッコの現王アブド・ル・マルクの3人の王が参加し,いずれも戦死したことから「3王の戦い」とも呼ばれている.
詳しくは
http://www.h4.dion.ne.jp/~kosak/Morocco.html#Morocc1
を参照.
【質問】
16世紀ヨーロッパの砲の発射手順を教えていただきたいんですけど,これで合っていますか?
1発射に適した位置に傾斜路などをもうける
2砲を牽引車から外す
3副車に積んである,発射に必要な道具を降ろす
4所定の位置に設置する
5目標に砲を向けおおよその距離を割り出す
6装薬を装填し続いて砲弾を装填する
7火門から錐を差し込み装薬袋に穴を開け導火線を押し込む
8点火して発射
9反動で下がった砲を元の位置に戻して次の発射に備える
あと,一門の砲にどれくらいの人員が必要なんでしょうか?
【回答】
分かる範囲で.
なお16世紀(1500年代)ということですが,部分的には15世紀の話も混ざっていることをご了承ください.
1.発射位置に陣地を設営します.ただ土を盛ったものが主流ですが,後期には「砲欄」と呼ばれる木の枝で編んだカゴに土を詰めたもの(つまり土嚢のようなものですね)を配置したり,攻城戦の場合は煉瓦や石を組んでしっかりした陣地を造ったりしました.
廃墟となった家屋を利用したものもあったようです.
絵画資料によくみられます.
2〜4はそのままでいいと思います.
1494年にイタリアに侵入したフランス軍は,砲と砲車が一体になった砲を既に持っていました.
2は省略されるケースもあったでしょう.
5もOKです.
16世紀中期に書かれたビリングッチョの技術書には,よく知られた発明として,砲身の角度を測るコンパスのような装置が紹介され,角度と射程距離については既に数式的に割り出す方法が考案されつつありました.
おそらく15世紀後半には,角度と射程距離になんらかの関係があることは知られていたはずです.
ここから,前装砲と後装砲で違います.
なお後装砲といっても現代のような尾栓がついたものではなく,単なる筒である砲身に,装薬と砲弾が入った砲尾部をはめ込むものです.
前装砲はあなたのおっしゃるとおりで,火薬を入れ,弾を装填しますが,装薬袋はまだ発明されておらず,硫化した火薬(アルコールなどといったん黒色火薬を混ぜ合わせ,乾燥させて砕いたもの)を器で測って装填します.
射程距離によって装薬量を変えることは基本的にしませんでした.というのは砲の強度がまだ弱いため,装填しすぎると砲が破裂するからです.
15世紀には砲弾の重さの15パーセントが限界であるということが経験的に知られていました.
後装砲の場合,装薬と砲弾が入った砲尾があらかじめたくさん用意してあるので,それを砲尾にはめ込み発射します.
射撃速度は若干速いですが,完全に砲身と砲尾を密閉できないため,どうしても発射ガスがもれ,威力が劣ります.
ゆえにこのタイプの砲は,17世紀までには廃れてしまいました.(鋳造技術の発達も大きいですが)
9について.
フランス式の砲車と砲身が一体になった型の場合,反動で下がった砲を戻す作業が必要ですが,固定式の場合(砲身をそのまま台の上に固定した場合)は当然不要です.
9の次には,
10 砲身内を濡らした布ないしスポンジを取り付けた棒で拭う
という作業がありました.
なお中世初期には,火薬と弾を装填してから,砲門を泥でふさぐという作業があったと聞きます.
これは少しでも発射ガスを効率よく発生させるためらしいのですが,泥が乾くまで待たねばならないので,発射速度は一時間に一発程度に落ちたそうです.
なお,火薬については硫化したものを大きな塊のままで戦場まで運び,戦場に到着後,火薬の塊を砕き,ふるいにかけて大きさを揃える(小さな粒は大きな大砲に,大きな粒は小さな大砲や,火縄銃用になる)という作業が必要でした.
塊のままなら湿気に強いですから.
よって,巨大なウスとすりこ木のような道具や,何段階にもふるいを縦に重ねた装置などが,砲兵隊の装備に加わります.
一門の人員配置について.
ながらく大砲は(少なくとも16世紀中は)正規の軍人ではなく,大砲親方と呼ばれる民間人によって操作されました.
砲手は,その大砲を作った工房の職人がそのままあたることも多かったようです.
よって一門一門装填具から何からことごとく違い,ミラノ公国のある城には200種類の大砲があったそうです.
というわけで,一概に何人ということは出来ません.
絵画には数人の操作員しか描かれていないケースも多いです.
(779)
自分が以前読んだ同じ本には,
1.黒色火薬は現代の火薬と違い,固体のままで燃えていく.
そのため粒の小さい火薬は速く,粒の大きい火薬は遅く燃える.
2.小さい弾体を飛ばすには短時間で燃える火薬のほうが都合がよく,大きな弾体を飛ばす場合ゆっくりと燃える火薬のほうがよい.
そのため小さな銃や砲ほど粒の小さい火薬が,大きな銃砲ほど粒の大きな火薬が用いられた.
3.粉末火薬は燃焼速度が速すぎるため,粒火薬に比べてパワーが出せない.
そのため火薬と砲弾の間にわざと隙間を設け,無理やり燃焼速度を遅くする工夫がなされた.
といったようなことが書いてあったと思います.
(名無し見学者)
装薬の燃焼速度の調定は装薬の表面積で行うという事なので,粒が小さい程(単位重量辺りの表面積が大きい)速い速度で燃焼するのが正解,
追記すると黒色火薬は燃焼,現代火砲の装薬は爆燃,と分類される.
燃焼速度を理論値に近い値にするには,適度な空隙を確保し,適切に突き固める事が必須で,前装銃の薬室もその点を考慮して形状が考案された,と.
(三等自営業 ◆LiXVy0DO8s)
【珍説】
ラス・カサスは50年に渡って,先住民の窮状を訴え続けた.
しかし,その書は後になって,むしろ反スペイン・プロパガンダのために使われ続けたため,やがてスペインは歴史の表舞台には,登場できなくなるのだ.
(小林よしのり「戦争論」3,2003/7, p.166)
【事実】
違います.
16世紀のスペインが勢力をなくす要因は,いわゆる「帝国のオーバーストレッチ(=手の広げすぎ)」です.
新大陸からの銀の流入が落ち込み,大西洋貿易が縮小して,財政負担がカスティーリャのみにのしかかり,
カスティーリャの農民がどんどん貧乏になる一方で,
イタリア統治,
オスマンとの対決,
アルジェリアの海賊退治,
オランダ反乱の鎮圧
フランス・ユグノー戦争への介入
(&アルマダの派遣),
そして翌世紀には三十年戦争への参戦,
・・・・と,金の掛かることばかりやっていたからです.
まあ,プロパガンダ書一冊で没落する国など,あるわけないやろし.
16世紀にスペインはヨーロッパの超大国になり,アメリカ大陸などで巨大な帝国を樹立した.
しかし,国内の産業は後退し,最終的にスペインは遅れた乏しい国になってしまった.
スペインの没落の要因として以下の点が挙げられる.
・永年に継続した大規模の戦争による国勢の疲労
・農業や工業を支えたイスラム教徒と,商業・金融業を担ったユダヤ人の国外追放
・アメリカの植民地から輸入された多量の貴金属によるインフレ.スペインは国際決済に使われていた金・銀が豊富で,国内で品物を生産するより,外国から輸入し,国内産業が空洞化してしまった
・メリノの羊毛を原料として輸出し,国内で加工しなかったので,織物産業は形成されなかった
19世紀初頭,ナポレオンの戦争に大きな打撃を受けたスペインはもはや後進国になってしまった.
その後,植民地もほとんど失い,「ヨーロッパのアフリカ」と見なされるようになった.
(ヴルピッタ・ロマノ〔京都産業大学講師〕「スペインの経済の生成と発展」)
……というのが,教科書的な見解やろなあ.
【質問】
エリザベス1世って誰?
【回答】
エリザベス1世(1533〜1603)は,英国女王で,ヘンリー8世の娘.
2歳で母を失った彼女は,私生児とされ,父の死後11年間を統治した異母弟エドワード6世と異母姉メアリ1世の時代,数度にわたって君主への謀反容疑で,ロンドン塔に幽閉さる.
25歳で即位すると,スペイン船略奪を奨励,海賊たちをうまく海軍として編成して,1588年にはスペインの無敵艦隊を破った.
【質問】
アルマダの海戦(1588)でのイングランドの勝因を教えてください.
射程の長い大砲を使ったらしいですが,当時の技術で命中したのでしょうか?
軽くて速い船で逃げながら戦ったのとして,舷側の大砲で逃げながら攻撃できますか?小型船だと揺れるし,命中率落ちますよね.
ドーバー海峡に誘い込んだり,火計をしたり,内部工作をしたりとかも読んだのですが,劣勢を覆すために色々がんばったのでしょうか?
イギリス海賊たちの忠誠心も高かったのですか?
(Colorful on FAQ BBS)
【回答】
砲戦で相手を倒す作戦を選んだイングランドの作戦勝ち.
戦いの推移としては,本当はスペイン艦隊は500隻を以て,パルマ公爵の軍隊とフランドルで合流させるつもりでしたが,第一陣の130隻が出航後,嵐に襲われてパルマ軍と合流できませんでした.
また,逃げ込んだカレーには,エフィンガム卿Charles
Howardの指揮する英国艦隊が待ち伏せていて,火船で以て混乱させた.
最後に,グレーヴラインズ沖で英国艦隊に攻撃され,壊滅した,と.
英国は水深の深い海が多く,作戦が比較的狭い海域に限定されていた為,余り動かない大型戦艦が主に用いられましたが,イベリア半島諸国は敵を掃討し,遠洋を航走し,交易を行なう多機能の船を必要としました.
従来の研究では,アルマダの敗因は,
第一にスペインが拠点から離れ,慣れない海で作戦行動をしていたのに対し,イングランドはいつでも補給や交代が出来,しかも,建造に当たって想定されていた環境で作戦出来た.
第二に,イングランドの軍艦は前述の通り古かったが,型材が良かった(イングランドの海軍局曰く,「水漏れ穴がどういう意味なのか誰も知らない」と).
第三に,その戦艦の三分の二は,細長く,帆が沢山あり,乗員が少ないガレオン船に改造されていたので,帆走速度が速く,銃砲が多数搭載出来たことが挙げられています.
しかし,イスパニア側は事前に用意していた戦艦用の砲弾50発を殆ど消費していないことが挙げられます.
例えば,砲22門搭載の「トリニダード・デ・エスカーラ」は,8月2日に35発,4日に21発,8日に38発(1門当りではなく総数で)しか撃っていません.
また,砲20門搭載の「サンタ・バルバラ」は7月31日に22発,8月1日に28発,2日に47発.
アンダルシアの「サン・フランシスコ」に至っては,戦い全体で21門の砲から242発,主砲のカノン砲2門からは10発と12発しか撃ってません.
これは,至近距離で砲撃,そして衝角戦術へ移行する場合には極めて有効なもので,最初に1発撃って相手を怯ませようと言うモノでした.
しかし,英国艦隊は衝角,接舷戦術を行わなかった訳です.
となると,砲戦での決着しか無く,砲弾の装填をしなければなりません.
ところが,スペインの大型砲は殆どが二輪砲架で,砲脚が長く引き戻すのに苦労する代物,加えて,砲架だけで甲板と同じ幅があったり.
したがって,艦内に引き戻すのは無理,であれば,船の外で装填器を熱い砲身に跨がせ,清掃と装填作業を敵の砲火の中で行なわねばなりませんでした.
即ち,至近距離での連続砲撃は難しい訳です.
一方の英国艦隊は,同じ状況であっても,砲架は二輪ではなく四輪でした.
四輪ですから極めて安定し,二輪だと必要な砲脚や大きな車輪は不要で,発射後は速やかに複滑車で砲を艦内に引き戻し,艦内で装填し,再び定位置まで戻すと言う作業が円滑に行え,更に作業スペースを取ることもありません.
また,四輪の安定性は,作戦中に砲を自在に旋回でき,目標を定めるのにも有利です.
と言う訳で,イングランド船は優秀な帆走能力でイスパニア船を翻弄し,こちらの有利な射程で砲弾を撃ち込むことが出来た訳です.
従来の海戦は,前述のように,至近距離での砲戦で相手を威嚇(または足を止める)し,衝角で船体に穴を開けて沈める,或いは接舷戦闘で,艦を捕獲するのが主流でした.
しかし,イングランドはその方策をとらず,砲戦で相手を倒す作戦を選んだ訳です.
【質問】
15-16世紀の砲はどのようなものだったか?
【回答】
防衛技術研究家,多田智彦によれば以下の通り.
青銅製の鋳造砲もあったが,主流は,樽を作るように錬鉄の角棒を丸く並べて筒状に組み立て,角棒の間を鉛で充填し,その外側から箍(たが)を巻いて補強し,砲身にするタイプだった.
このようにして作った砲は,両端がオープンなので片方を砲口とし,他方に火薬(発射薬)を入れた薬室を取りつける.
砲身は,丈夫な木材の架台に固定され,薬室の後ろには,射撃時の反動を受けて砲尾を固定する木材が入れられた.
砲弾は薬室側,すなわち砲尾から装填するため,後装式と称された.
砲身(Barrel)の語源となった樽型を改良したものが,糸巻型と称されるもので,錬鉄性の短い糸巻型の筒を繋ぎ合わせて砲身を構成する方法である.
糸巻の繋ぎ目には錬鉄性の箍を嵌めて固定するが,この方式でも薬室を砲尾に取り付け,砲弾を砲尾から装填するようになっていた.
一体構造で砲口から砲弾を装填する前装砲としては,青銅・黄銅製と鉄製があった.
青銅・黄銅砲は鋳造で製造されたが,鉄は技術が確立していなかったため,鋳造は一般的ではなく,鍛造が主だった.つまり鍛冶職人が鉄板を叩いて筒状に加工するのである.
したがって,口径の大きな砲は製造できなかった.
(from 「世界の艦船」,海人社,2003/10,p.76)
【質問】
ゴアって何?
【回答】
ゴア Goa はインド西海岸の港町で,1510年,ポルトガル総督アフォンソ・アルブルケがここを攻略し,首都リスボンを模した都市を建設.
以後,17世紀中期まで,ポルトガルのアジアにおける交易と,キリスト教伝道の拠点として栄えた.
1961年,ポルトガル軍のインド船への発砲を契機に,インド軍によって失地回復を果たした.
【参考ページ】
『日本歴史大事典』2(小学館,2000.10.20),p.1-2
【ぐんじさんぎょう】,2010/10/12 20:40
を加筆改修
インドのゴア接収を境に,ポルトガル海上帝国は崩壊していくわけですが.
バルセロニスタの一人 in mixi,2010年09月24日 21:58
【質問】
サード朝のマンスールは,ソンガイ帝国をどのように征服したか?
【回答】
サード朝とソンガイ帝国の間では,タガザの岩塩鉱山の領有をめぐって軋轢が生じていた.
それに加えて,1471年に黄金海岸に到達したポルトガルやスペインがサハラを経由せずに直接海岸地帯から金を入手し始めており,東からはオスマン帝国がサハラ交易の要地トゥワットに勢力を伸ばし始めていた.
1590年12月29日,火縄銃装備の歩兵2000,同装備の騎兵500,槍と投げ槍装備の騎兵1500のモロッコ軍は,8000頭のラクダと1000頭の馬を引き連れてマラケシュを出発.
1591年3月1日,サハラ砂漠を踏破したモロッコ軍は,3月21日,ガオ近郊のトンディビに駐屯していたソンガイ軍を急襲する.
モロッコ軍はサハラ越えによって1000余人にまで減少していたが,火器をはじめて見たソンガイ帝国の騎馬隊は潰走.
モロッコ軍は,4月25日にトンブクトゥに入城,逃走していたソンガイ王アスキア・イスハーク2世(在位1588〜1591)も翌年に殺害されてソンガイ帝国は滅亡する.
ソンガイ帝国の征服によってサハラ以南の国々に対するサード朝の威信は増大し,毎年1トンもの黄金がモロッコに流れ込んだという.
詳しくは
http://www.h4.dion.ne.jp/~kosak/Morocco.html#Morocc2
を参照.
「戦史別館」トップ・ページへ 「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ サイト・マップへ
軍事板FAQ
軍事FAQ
軍板FAQ
軍事まとめ