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14〜18世紀
<戦史FAQ目次

◆14〜17世紀
【質問】
ドージャ・ジョルジの反乱とは?
【回答】
この事件は,「ドージャ・ジョルジ」あるいは「セーケイ・ジョルジ」の反乱として知られています.
エステルゴムの大司教(?)バコーツ・タマーシュがローマ教皇の同意の元に,対トルコ十字軍(1346)を宣言,これを受けて農民たちが続々と集結,その指揮はドージャ・ジョルジに委ねられました.
農民たちの集まり方に恐れを抱いた大貴族達は,大司教バコーツに募兵の中止と,既に集まった農民の解散を命じるように説得,大司教はこれに応じました.
また,大貴族達は所領の農民の十字軍への参加の妨害,参加者への弾圧も行いました.
激怒した農民たちは反乱を起こし,ドージャの指揮の元に,ペシュトを出陣,大平原を越えてハンガリー南部へ攻勢をかけ,城砦を次々に陥落させて行きました.
しかし,要衝テメシュヴァール(今のティミショアラ)を攻囲している最中に,北部ハンガリーからの軍を率いて救援にかけつけたヤノシュ・サポヤイの軍に破れ,ドージャは捕らえられ,頭に焼けた鉄の王冠をかぶせられ,真っ赤に焼けた鉄の玉座に座らせられて,生きながら焼き殺されました.
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆4yzbf0MFE in 世界史板
【質問】
鄭和の艦隊はどこまで到達したのか?
【回答】
アラビアまで到達したという.
以下引用.
15世紀の明の永楽帝の時,太監鄭和を正史として〔西方使節団派遣が〕行われました.
第1回の永楽3年(1405)のときは,62隻,27800余人の大船団ですから,中国史上空前の南海遠征で,このときはセイロン方面まで達します.
それから永楽22年の第7回まで,南海を西征し,多くの南海の物産をもたらしましたが,中には第5次の分遣隊は遠くアラビアまで行き,アデンからキリン(ジラフ),シマウマなどを中国に運んでいます.
ジラフが中国にもたらされたのは,これが初めてのようです.
この鄭和の西征は,シルクロードの南海ルートを行った最大の旅と言うことができます.
森豊〔シルクロード研究家〕 from 「魅惑のシルクロード」
(講談社,1981/10/15),p.124-125
【質問】
15,6世紀くらいの技術レベルの世界で,2万程度の常備軍を維持するためには大体,どのくらいの生産量が必要なのでしょうか?
穀物(石高)あるいは金もしくは銀貨など貨幣など,国力を図るのに一般的に用いられる単位でお願いします.
あと,人口に占める戦闘員の比率などでもOKです.
【回答】
地域によって大きな違いがあることを,まず念頭に置く.
例えば中国も,北方(乾燥・寒冷な麦作地帯)と南方(湿潤・温暖な米作地帯)では,人口維持力も文化も違う.
さて,日本は米というカロリーの高い主食作物があり,水利日照もよかったので,単位面積あたり大きな人口を養えた.
1万石に200人として単純計算すると,100万石(加賀前田藩程度)で2万人の戦闘員を常備することができたことになる.
これに対してヨーロッパでは,気候が寒冷で冬は日照もほとんどなくいため,麦類と牧畜(秋に刈り取った牧草で冬を越す)に頼らぜるをえなかった.
戦国時代と同時代のヨーロッパでは,単位面積あたりの人口維持力は,フランスのような農業地帯でも日本の三分の一,北方では十分の一程度だったといわれる.
LedifesacostieradelRegnodiNapolidalXVIalXIXsecolo(16-19世紀のナポリ王国の沿岸防衛)
という本によると,1477年に国王フェルディナントが計画した常備軍の兵力がちょうど2万人(そのうち1万2千が騎兵)で,毎年47万ドゥカート(ヴェネツィアの金貨)が必要と試算されていたそうな.
当時のナポリの人口は150万人ぐらい.
ドゥカートが現在の貨幣価値でどれくらいかは勝手に調べてくれ.
ヨーロッパで十万単位の大規模な軍隊の衝突が起きるのは,日本より2世紀以上遅れて19世紀のナポレオン戦争時代だった.
【質問】
戦記風ファンタジーを書いてるんだが,人口と兵力の比率ってどれぐらいが適当なんだろう?
戦国時代ぐらいの規模を考えているんだけど,だいたい一万石につき二〇〇〜三〇〇程度の動員能力があるらしいんだが,実際の人口がよく分からない.
一石=一人という乱暴な換算でいいんだろうか?
中世欧州風な世界観で,国力を石高で表すわけにもいかないし.
【回答】
中世(15世紀)以前では,兵力は国の状況と経済規模によるとしか言えない.
このころの軍隊は,期間契約の傭兵が主体であり,その多くは外国人だった.
したがって,危急の際には多くの兵士を雇い入れたが,平時は必要最低限のみで,兵力は一定ではない.
このころは常備軍は無く,中世から脱却し始めた16世紀以降,ようやく,いくつかの豊かな国で常備軍らしきものを整備できたに過ぎない.
(古代ローマのような)常備軍の発想は,ずっと以前からあったが,主に経済的な理由により実現は不可能だった.
あまり信頼できない数字の上に,すでに近世の時代に入っているが,いくつかの資料では
1660年 イギリス 人口500万以下 6000人(平時編成),人口比0.2% 島国
同時期 プロイセン 人口300万程度 18000人(平時編成)人口比0.6% ドイツの小国
1690年 フランス 人口1800万以下 18万人(平時編成) 人口比0.9% 当時の大国 周囲は敵
ちなみに,戦時には自国兵力に加えて,近隣の同盟国軍が臨時に指揮下に入ることもあり,この場合人口比は,あまり意味を成さない.
加えて,1645年のイギリス内戦(ネーズビーの戦い)の際,議会派は13000人を,王党派9000人を投入した.
両陣営会わせれば21000人になり,人口比0.7%となる.
さらに,他方面に展開していた兵力を含めれば,総兵力はこの二〜三倍になると思う.
このことから見ても,人口比は国の状況によって異なり,また平時と戦時では兵力に数倍の開きがあるので,これといった人口比は存在しないという結論に落ち着く.
ファンタジー書くなら,リアリティーより話の面白さを優先したほうが良い.
設定作るのが楽しいってのはわかる.
俺も経験がある.
でも,物語を書いていると,設定って邪魔にしかならないよ.
軍事板
【質問】
15世紀にはまだレーションも兵站という概念も存在しなかったとききましたが,遠征をする際には兵隊は霞でも食ってたんでしょうか?
【回答】
兵站の概念はないわけではないが極めて貧弱だった.
そもそも保存できる食料が少なかった.
瓶詰めがナポレオン戦争時代の発明.缶詰はさらに後.
当時なら,干し肉とか小麦粉をいくらか持ち込めたら上等な部類じゃね?
だから,どうしても現地調達に多くを頼らざるを得なかったわけよ.
ちなみに「現地調達」と書いて「略奪」と読む.
真っ当に機能している軍隊なら,きちんと代金を払ったり商人を介在させるが,機能してない軍隊が実に多いから・・・
ドイツの30年戦争では内戦でこれをやったので,国土はことごとく荒廃した.
しかも正規軍ではなく,傭兵主体の軍隊だったので尚更.
更に,ちょっとでも戦争が収まると雇用主は傭兵を首にしてしまうので,首にされた傭兵は独自に「現地調達」をやり始める.
つまり,戦争やっててもやってなくても国土が荒廃するという悲惨な状態になった.
それが30年も続くんだから・・・.
また,真っ当に機能している軍隊でも,代金がわりに軍票を貰っても嬉しくないやい,とか,アヘンが通貨代わりになっちゃったとか,偽札を頑張って刷って代金に当てるとか,そういう悲しい話もあるです.
【質問】
中世ヨーロッパで建造された有名な城と,その中で最も堅固を誇った城を教えてください.
【回答】
有名なところではカーフィリー,シャトー・ガイヤールなどではないかと思う.
主観になるが中世に作られた中で物理的に最も落ちがたいという意味では,要塞ではシャトー・ディフが最高だろうと思う.
城壁を攻める十分な兵力の揚陸も困難だからな.
アレクサンドロスのティロス攻略の比ではない.
城郭都市で最も本格的なのはカルカソンヌではなかろうか.
高台の上にあり,東側には広い堀.
合計46の塔に内外二重の城壁で,門一つが独立した要塞といえるほど堅牢なつくり.
でも,城は要するに手間隙かける軍隊に,長いこと取り巻かれちゃうと落ちちゃうものだし,城の中に入ってる軍隊や住民なんかも関係するから,堅固っていう定義は難しい.
歴史的に一度も落ちてない要塞より,陥落したことのある要塞のほうが堅牢である場合は往々にある.
あと,中世ってのの定義次第ですが,コンスタンティノープルなんかも堅固だし,アルビジョワ十字軍に攻められた南フランスにも堅い城とか城郭都市が沢山ある.
またヨーロッパではないが,クラック・デ・シュヴァリエも知られている.
シリアにあった聖ヨハネ騎士団の本拠で,当時の築城技術の粋を集めた難攻不落の城だった.
最終的にバイバルスの調略により落城している.
十字軍の城については,欧州の人らが中近東にわたって建築したということを考えると,欧州の城とは密接な関係にある.
たとえばイングランドのエドワード1世などは中東に行った経験があり,その後ウェールズに多くの城を築いている.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
中世ヨーロッパの軍隊の頂点は国王だったの?
【回答】
中世ヨーロッパの根幹は封建制度.
これはある主君と臣下の契約からなり,理念上この二つは対等.
臣下は自分の収入源である土地の所有と支配を保証してもらう代わりに,軍備を主君に提供する.
だから国王→公爵→侯爵→伯爵→…騎士みたいなピラミッド状ではなく,網目状に関係が結ばれている.
伯爵 公爵→男爵→…
↑ ↓
騎士←国王→男爵→騎士←国王…
↓ ↓
騎士←子爵→騎士→…
こんな↑感じ.
複数の国王や君主の配下になった騎士も大勢居て,A王とB王が戦争したときに,自分の部下10人をA王に,40人をB王に提供する,なんて事もあった.
総司令官は基本的に,一番兵力を提供した人間がなる.
だから普通上位の貴族がなるけれど,兵力の代わりに「盾金」という金を払って兵は出さない事もあった.
そうすると,総司令官が妙に下級で,兵力は傭兵がメインなんて事も起こり得る.
提供した兵力が多い下級貴族と,階級は高いが兵はあまり連れてない高級貴族で,対立が起こったりもする.
軍の階級はいわゆる中世にはまだなく,軍が編成されるに応じて任命された.
だから,この前は侯爵が元帥(総司令官)だったけど,今度の遠征では子爵が…とか.
国王の下に騎士団長とかがいて,騎士団なんて「常備軍」がいて,普段は剣の稽古しかしてなくて,国王の命令一下出陣する,なんて中央集権システムがあるなら,それはもう中世じゃない.
【質問】
いろんな騎士団が存在していますが,その人数は少なそうに思うのですが
,騎士の数百単位でのぶつかり合う戦いなどは存在していないのですか?(騎士になること自体が相当難しいらしいし)
ナイトと言われている一人の下にも,全身を鎧で包んだ部下はたくさん存在していたのですか?
【回答】
根本的に「騎士団」の理解を間違ってる.
「騎士団」は戦闘のための部隊編成単位じゃなくて,ある地域を武装統治するための連合行政組織.少なくとも中世はね.
日本の衆議院じゃないんだから,一地方の統治メンバーが数百人もいたら,やりにくくてたまんないだろ(笑).
騎士団(騎士修道会)の成員であるってことと,爵位的な,あるいは資格としての騎士であるってことと,(←肩を剣でダビングしてもらって成るやつ)騎乗戦士階級(騎士身分)の一員であるってこととは,一応区別した方がいい.
現代の例で類比的に言うと,
騎士団(騎士修道会)員=大手都市銀行マン
タイトルとしての騎士=MBA有資格者
騎乗戦士としての騎士=サラリーマン
>騎士の数百単位でのぶつかり合う戦いなどは存在していないのですか???
騎乗戦士が数百単位でぶつかり合う戦いは,盛期中世には珍しくないと思います.
>ナイトと言われている一人の下にも全身を鎧で包んだ部下はたくさん存在していたのですか??
いました.
ナイトのタイトルを持っているような有力武将の元に,まあたいてい地縁・血縁に導かれてですが,
数人〜十数人の見習い騎士・補助騎兵が付いて一つの戦闘単位が形成されていました.
ただ甲冑・馬はピンキリです.
そこらへんはサラリーマンのスーツなんかと同じ.

【質問】
中世ヨーロッパの戦術を知る上で,良い資料は無いでしょうか?
本にしろHPにしろ,素人では「どれが正しいのか」すら判断が付かないので・・・
初心者ならこれ!みたいな物,ないでしょうか?
【回答】
その分野はあまり研究が行われてこなかった.
歴史学者は伝統的に軍事史に関わろうとしなかったみたい.
19世紀にサー・オーマンが中世の戦争を研究した際には,歴史学会に向けて弁明文を書かなきゃならなかったっていうし,デルブリュックは師匠のランケに「軍事史の研究なんか止めろ」と詰め寄られたって逸話があるくらいだから.
軍事史学者はリデルハートみたいに,中世には戦術も戦略もないとかいって無視するし.
それで,長い間研究が行われていなくて,バーブリュッゲンが1954年に「中世期の西ヨーロッパにおける戦争技術」って本を出してようやく研究が再開されたみたい.
その後は細々と続いて1980年代に入ってようやく活気づいたって感じ.
まともな研究書が出てきたのは1990年代に入ってからだから,日本語に訳されたものや日本語の本にはいいのはたぶんないよ.
最近の本で現在の研究状況を知る上では下の本が一番良かった.
ヘレン・ニコルソンの「中世の戦争」
たぶん,今は出鱈目・極論を中世の軍事に関して唱えるのは難しいよ.
最近,議論が活発で当時の武器の再現実験も結構増えてきているから極論はすぐに叩かれる.
今は研究者間の意見の相違を探っている段階みたい.
本買わなくても,中世軍事史学会のホームページに本のレビューとか論文とか凄いのがたくさんある.
日本語だと,ロジャーズの論文が掲載されている本がある.最近の中世軍事史の動向を知る助けにはなるよ.
中世の戦争の教本となったのは,4世紀頃に書かれたウェゲティウスの「戦術書」だというのが最近の主流説みたい.
(例のにゃあにゃあ ◆9IIO2KvSgc in 世界史板)
【質問】
昔の西洋の鎧って,頭から足まで鉄で固められてますよね.
でもお互いに鉄で固めあってて,どうやって倒したりしてたんですか? 首や胸は全部ガードしてあるように思うのですが・・・
あと,武器(剣はフェンシングっぽいの?それとも普通の剣?)や,盾は使うのか,馬に乗ったまま戦うのか なども気になってます.
もしそういうのに詳しいサイト等がありましたら,誘導でも良いです.回答お願いします.
【回答】
メイスでボコる.どんな硬い鎧に身を包んでいても,中の人は衝撃に耐えられない.
それか,長柄武器でひっぱたいて,転ばせて捕まえる.
プレートメイルは死ぬほど重いから,一旦転ぶと起き上がれない.だから,見た目ほど強くない.
なお,プレートメイルやチェインメイルを装備してるのは,それなり身分の高い人だけで,普通の兵士は革鎧か胸当てだけ装備してる.
あと,剣は野戦ではあまり使わない.野戦の花形は長柄武器と弓.
どっちかって言うと,剣は護身用の武器.
盾は片手武器を装備してる奴なら大抵使う.
弓兵を守るための地面に置いて使う大盾もある.
馬に乗って戦うのは,それなりに身分の高い人だけ.
普通の兵士は徒歩で戦う.
下のサイトを読めば,中世の武器防具の基礎知識は身に付くと思う.
鎧に詳しいサイト
http://www.hal.ne.jp/y-susaki/yoroi.htm
武器に詳しいサイト(読みにくいのはガマン)
http://aineias.hp.infoseek.co.jp/arms/cgi-bin/search.cgi
ちなみに今の話はルネサンス期前のヨーロッパ限定なので,別の時代の話を書く気なら,もう一度言ってくれ.
【質問】
プレートメールを着た騎士は,倒れたら重すぎて自分では起き上がれなかったという話を聞きます.
でも以前テレビで,練習したらプレートメールを着たままでも動けると,鎧を着たまま前転したり起き上がったりしてる映像を見た記憶があるのですが,実際はどうなんでしょう?
【回答】
鎧と言っても,ピンからキリです.
軽装の兵が着る鎧は10kgを下回る物が多いです.機動性を確保したこの鎧は軽いので,来ている人が倒れても起き上がることは簡単です.
しかし,15世紀から登場した重鎧は18〜25kg.倒れたら,起き上がるのは難しいでしょうが,不可能ではないでしょう.
さらに,15世紀中ごろに登場した重騎兵用の鎧の中には,40kgを超えるものも多々あります.
これを着て倒れたら起き上がることは不可能でしょう.ていうか,歩くのも不可能に近くいそうです.
ちなみに,この重鎧を着て落馬すると,あの世行きとなる可能性が高いです.
実際に,15世紀に行われた軍事教練において,重鎧を着た騎士1000名が落馬で死んだことがあるそうな.
つまり鎧を着て起き上がれるかどうかは,着ている鎧の重量によります.
軍事板
ちなみに,
http://avalon.tsukaeru.jp/
に所属しているsporran氏は以前,「2ちゃんねる」にて,
「鎧は重さよりも重量配分が重要だ」
と書いてらっしゃいました.
例えば,体重100kgの肥満男性は歩くことも立ち上がる事もできるわけです.
そしてアメリカでは100kgオーバーは珍しいわけではありません.
重量がちゃんと全身に分散される体にあった鎧ならば,十分動けるそうです.
ちなみに氏の鎧は
【日本の剣術vs世界の剣術:もし闘わば2】
50 名前:ttdd[] 投稿日:03/02/22(土) 01:05 ID:OW3z3wle
ザマは米軍のキャンプです.フリーバザーの催しでの招待.写真付きの身分証明書が必要.
私のプレートアーマーデビュー.しかし,くそ重い.
イタリア,ミラノ14世紀様式.クローズド・バイザーヘルム.
ヘルム5kg ミトンガントレット片方1,1kg バック,ブレストプレート11kg,総重量25kg 厚さ1,2mmステンレス.
鎧を着て,
腕立て伏せ20回
懸垂3回
腹筋0回
立位体前屈ー35cm
床上前転 できない(体を曲げることが出来ない)
逆立ち,バック転0回(元々出来ない)
側転(そのうちしてみる)
鎧を着ての睡眠(そのうちしてみる)
他,実験の提案受付.
まず,脇が閉まらないのは腕のアーマーではなく,胸部のえぐりが浅いから.
したがって,もっとここを深くえぐれば問題ないが,当然,突きの良い目標となる.
通常はペサギュで防御をするが,マキシミリアン式などは,可動リベットなどで動き易くなった.
この部分は日本の鎧の方がえぐりが深い.
今日は外気も涼しく良い天気でした.私は小柄で中年ですが,朝10時から3時まで鎧をつけっぱなし,ほぼ立ちどうしでした.
さすがに新しい鎧だけ有り,首が疲れましたが,体力的にはまだ動けます.
しかし,始めた当初はいまの半分ほどの重さの鎧でも,動けませんでした.
慣れとは大したものです.
鎧の重さと着たときの重さの感じですが,考えてみると例えばブレストプレートとバックプレートは体の軸に対して前後に,やじろべえのように均等に釣り合いをとっています.
ヘルムも,体軸の中心にあります.
これを手で持ってみると,体軸の片側に全ての加重がかかり重く感じますし,肘から先の分だけ体から離れ,更に重く感じます.
体軸に密着させ左右前後のバランスを均等にしているので軽く感じるのでしょう.
現代日本人と中世西洋人では体力なども違うので直接比較はできないかと思われますが,参考までに.
これ↓ならいくら重くても,機動力ばっちし

【質問】
歩兵の,両手で扱う必要があるような大剣って,何に用いられたんですか?
突くなら槍でもよいし,振り下ろすなら斧でよいですよね?
接近されたとしても,もっと短いほうが使い易いだろうし,腰にも下げられないから携行性も最悪に思えて,見当もつかないです.
【回答】
大剣の名前はツヴァイハンダー Zweihänder.英語ではtwo-handed sword.
ランツクネヒト(神聖ローマ皇帝,マクシミリアン1世の傭兵)等が使う.
両手で使う剣に対する一般名詞みたいな名称だが,ツヴァイハンダーは独特過ぎるので,今ではある特定の種類の剣を指す名称のようになってしまっている.
なにせとにかく長い.
2m近い長さがある.
だから重量級の剣というイメージがあるが,実際には2.5〜3.0kgほどと比較的軽量.
しかしそれでも使いこなすには,ガッツ隊長級の相当な体力が必要なことは,言うまでもないだろう.
刀身があまりにも長いため,ツヴァイハンダーには鞘はない.
また全体の長さの他に,長いリカッソ(刃根本)があることも,この剣の特徴.
リカッソと刃の境には左右に突起もついている.
つまり鍔元の,刃がついていない部分も長い.
担ぐ際には,このリカッソに皮紐をつけることができるという仕組み.
(突起はそのときに便利)
また戦闘時にはこの部分を握ることで,押し付ける力を増すことができた.
(突起はそのときに手を保護できて便利)
携行性だが,腰に吊るしてはとうてい歩けないので,背負うか,ただ持ち歩くか,馬にくくりつけて運ぶかする.
肝心のツヴァイハンダー兵の用兵だが,まずパイク兵の槍衾(やりぶすま)を切り崩したいときに投入される.
騎兵の突撃を防ぐため,パイク兵は並んで槍衾を作る.
槍が目の前にずらっと並んでると馬は突撃を嫌がるし,槍兵は何列も並んでいて容易に突き崩せないしね.
そこでツヴァイハンダーで槍の柄を切り払う.あるいは剣の重量をもって,槍ごとパイク兵を叩き割る.
そうやってツヴァイハンダーが切り崩した箇所に騎兵が突進,乱戦に持ち込むという段取り.
また,パイク兵(スイス傭兵やランツクネヒトなど)が敵味方双方に用いられ,戦場でよく見られるようになると,当然パイク兵同士が戦闘になることも考えられるわけだ.
パイク兵は接近戦用に片手剣を持つことが多かったようだが,基本的に懐に入られると無防備だから,ランツクネヒトなんかはパイク兵の隊列の中に,ツヴァイハンダーを持った兵士を混ぜておいて,敵のパイク兵と戦闘になったときに敵の隊列を崩すため突撃させた.
ちなみにパイク兵同士が激突すると,下の絵のようになり,どっちかが隊列を崩し士気が下がって敗走するまで戦闘は続く.
絵の中にハルバードを持った兵士がいることから分かるように,一定の割合でハルバード兵を混ぜるのが一般的だったのだろう.
その後,ルネサンス期になるとツヴァイハンダーは,スピアのように突く方法が一般的になったが.
【質問】
槍衾を切り開くにしてもツヴァイハンダー兵は盾も持てませんが,接近までの間に矢が飛んできたら,あきらめて死ぬってことですか?
【回答】
あらゆる状況を想定して用心していたら,何もできなくなるがな.
また,うろ覚えですまんが,15世紀後半あたりになると板金の甲冑が発達してきて,騎乗の騎士すら盾を持たなくなったはず.
近距離では強力なクロスボウ,アルケブス銃やマスケット銃(初期のデカイやつ)に貫かれることもあったようだ.
〔もちろん「ある程度」の話であって,〕板金甲冑の騎士がパイク兵の槍衾を打ち破ることが出来るはずありませんでした.
むしろパイク兵の登場によって,重武装の騎士たちは戦場での活躍の場をなくし没落して行きました.
ナンシーの戦いでスイス人パイク兵がブルゴーニュ公シャルルを打ち破ったのがいい例ですね.
【質問】
パイク兵の密集陣形は竜騎兵やピストル騎兵の攻撃に弱かったそうですが,馬上で扱えるピストルなんかが登場したのはいつごろなんでしょうか?
また没落しつつあった騎士たちが槍の代わりにピストルを手にとって戦うことはあったんでしょうか?
【回答】
英語Wikiの"Reiter"という記事では,ドイツのピストル騎兵が1540年ごろに登場したとのこと.
また,重装甲騎士がピストルをもって戦った可能性ですが
http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Gendarmes.jpg
の画像の下の解説文には,16世紀のフランス陸軍のジャンダーム騎兵の装備の変遷について書かれています
.
その記述が正しければ,ジャンダーム騎兵は16世紀半ばに馬上槍を捨てピストルを持ったと.
しかしピストル騎兵は,重騎兵相手には強かったけど,歩兵隊列に対する突破力は重騎兵をも下回り,カラコール戦術(ヒットエンドラン戦法)も敵の銃歩兵の的になることが多かった.
【質問】
騎士の従者って戦場で戦闘に参加したって聞いたんだけど,何するの?
14歳の子供が槍持ったところで殺されるだけじゃ?
【回答】
「従者」という訳が誤解の元だと思う.
騎士になるにはまず子どものときから,どこかの領主のお城に行って修行する.
最初はpageで,「小姓」と訳されることが多いが,騎士になるための基本を勉強する.
昇格が認められたらsquireになり,特定の騎士について身の回りの世話をしながら,さらに騎士の修行をする.
そして実力が認められたら騎士になる.
squireは「従者」と訳されるけど,身分ではなく騎士の修行段階なので,自分が付いている騎士が戦場へ行けば,同行して身の周りの世話をしながら,いずれ騎士となるときのために実戦の勉強もする.
世界史板
青文字:加筆改修部分
▼ 日本では全国サービスのなくなった,ポケベルのことを英語でpagerと言いますが,"召使いを呼びつけるもの"ってことですね.
クローム・ツァハル in 「軍事板常見問題 mixi支隊」
▲
【質問】
15世紀ごろの欧州の傭兵に関して質問させてください.
ローマ皇帝マクシミリアンがランツクネヒト"傭兵部隊"を編成したとあるんですが,なぜわざわざ傭兵部隊でローマ皇帝直属の部隊にしなかったんでしょうか?
当時のハプスブルク家の財力でも,常備軍のようなものを組織するのは難しかったんでしょうか?
なぜ傭兵部隊であるランツクネヒトが,ローマ皇帝の命令で組織されるようになったのかが不思議でなりません.
【回答】
マクシミリアン1世が大々的に組織・運営した事は事実なのですが,それがローマ皇帝の一機関として組織されたわけではないのです.
彼は自身の世襲財産のみ(あるいは諸侯からの援助)で,これを運営する必要がありました.
言い方は変かも知れませんが,ローマ皇帝をやっている有力諸侯のマクシミリアンが,スイスの傭兵による歩兵集団を見習って自前で徴募したのがランツクネヒトというわけです.
そもそも当時のヨーロッパでは,傭兵制が兵力整備のスタンダードな形でした.
常備軍の編成には整備された税制度と,これを運用できる官僚制が必要で,この時代のドイツではいずれも発展途上の物です.
さて,南ドイツという地域は地味が肥えていたことから,農民たちは伝統的に分割相続を繰り返していたが
,そのうちに零細農民ばかりになって,農家の次男三男は分割してもらう土地がないという状況を呈するに至っていた.
そして,農村から流れ出した無宿人たちは「ランツクネヒト」となって外国の軍隊に雇われていった.
ランツクネヒトは主に没落貴族出身の傭兵隊長によって切り回される私企業であり,彼らはハプスブルク家に用いられた.
歩兵の重要性を認識した神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世が,南ドイツで大規模な歩兵軍団を徴発したのは,スイス庸兵を雇うのがこの頃の常だったけれども,南ドイツの農村から流れ出した無宿人たちをその代わりとした方が手っ取りと早い,と考えたからそうしただけの話.
既に貴族たちも似たようなことを行っていたし.
【質問】
マクシミリアン皇帝と同時代の人物にマキャヴェッリというイタリア人がいますが,彼は著書で
「戦争に勝ちたくなければ,傭兵を使うべきだ」
と書いたそうです
では神聖ローマの帝国騎士たちは,イタリア戦争でローマ皇帝のために戦いはしなかったんでしょうか?
農奴や山賊の寄せ集めより,没落騎士や盗賊騎士の寄せ集めの方がよっぽど役に立ちそうな気がするのですが.
【回答】
騎士よりも傭兵の方が強いことが実戦で証明されていたから.
スイス傭兵は長槍の密集陣,ランツクネヒトは大量の火縄銃を使って重装騎兵を圧倒している.
マキャベリが傭兵を使うべきだと説いたのは戦術的な理由.
傭兵を重用したのは人件費の問題.
また騎士に依る戦術が最早,時代遅れな時期に突入していたから.
帝国騎士階層もひとつの領主階層という点で,諸侯と同じなのです.
騎士だから諸侯より奉仕する,というような事はありません.
最低限の奉仕を除けば,あくまで自分に有利と思われた際のみに資金的援助などを行いました.
が,当時の有力諸侯は帝国騎士など,小規模な特権保持者への権利の侵害→併呑を志向していたので,これに対抗する為に,帝国騎士が集まって同盟を組み,諸侯と対峙する為に皇帝を支持したという動きもありました.
ただハプスブルク家は皇帝である前に,帝国の最有力諸侯であったので,長期的には余り効果がありませんでしたが.
最後に没落騎士や盗賊騎士というのは,既に皇帝との封建関係を持たないので,彼らを活用したとしても,それは単なる傭兵です.
傭兵群の中にはもちろんこういう層も多かったと思われます.
詳しくは下記参照↓
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ryunosuke/4039/youhei.html
【質問】
戦国以降の日本の合戦では,不意打ちだろうが何だろうが勝てばいい,という気風があったと思います.(桶狭間が好例)
西洋では,戦いの前に,お互いにエールを送る,とまではいかなくても,何か礼儀を尽すような伝統はあったのですか?
「ラストサムライ」終盤の合戦前のシーンで,これは日本では有り得ないな,というさわやかなやり取りがありましたが,あれは西洋人の固定観念ですか?
【回答】
中世絶頂期の戦争では,戦争そのものが儀礼化してた.
お互いに参加兵力,日時,陣形を手紙で事前に教えあい,ウソ書いたりするのは「騎士道にもとる最低行為」とか罵られたり.
戦闘そのものも双方から代表者を数人出して,その人たちが斬り合ったら戦争は終わった.
中には片方が
「すまん,ちょっと金が足りなくてさ,事前に通知した兵力が揃えられなかったんだわ」
と謝り,謝られた方が
「いやいや,それでも戦場に赴いて来てくれたのは光栄の極み」
と双方手を取り合ってお終い,という訳の解らない戦争?すらあった.
ガチで殺し合っても損害が大きいだけで,何も得る者がなかったので,そういう風になったわけだが.
逆に同じ王の臣下なのに,仲の悪い人同士で訓練中,模擬戦やったら双方興奮して本気になってしまい,死傷者続出・・・というこれまた意味不明な事態になったりもした.
【質問】
中世ヨーロッパにも市街戦はあったんですか?
【回答】
ありました.
しかし当時は,町を攻めることは稀で,城攻めの過程で,城下町で戦闘をすることが殆どでした.
当時は爆薬もなく(建物を破壊して通路を遮断したりブービー・トラップを作ったり),連続発射できる火器もなく(十字路で十字砲火を浴びせたり,建物内を通って敵の背後を脅かしたり)がなく,市街戦になればほぼ防御側の負けで,一日で終わったようです.
大通りや広場での白兵戦が主で,建物はあまり利用しなかったようです
野戦に比べて狭く,戦闘が流動的であったため,陣形は組まず,弓兵もあまり活躍しなかったし(火矢よる攻撃くらい),WW2では通りに面した家に機関銃を設置するだけで強力な陣地になりましたが,当時の弓では連射速度,射程で劣り,盾(そこらのテーブルや看板,酒樽)を持った敵に突撃されれば,あっというまに接近され,悪ければ家に火をつけられお終いでした.
当時の市街戦を描いた絵画を見たことがありますが,騎士が旗を持って走り回ってたり(敵が侵入したことを知らせ,男は○○に集合しろなんて書いてある),教会に集まったり(さすがに当時の騎士は教会の前でキリスト教徒を殺したりしなかったし,神父は民衆側の代表として交渉したりした)なんかが描かれてました.
ベルリンやスターリングラードなんかとはかなり違いますね.
ちなみに助けられるのはキリスト教徒のみで,異教徒(特にイスラム教徒)は皆殺しでした
有名な十字軍による聖地エルサレム攻略戦では,城壁や城門のバリケードが排水を邪魔して,町はくるぶしのあたりまでつかる血の海で,ぬるぬるして滑って苦労したと従軍兵の手記にあるそうです.
(燃えるアナーキストたち)
【質問】
本当にモーニング・スターは,中世の戦争で主力といえるほど普及してたんですか?
映画などでは,殆どの兵隊が剣か槍を接近戦武器として使っているもので.
【回答】
全身鎧甲で身を固めた騎士にダメージを与えるには,メースやモーニング・スターなどの打撃系武器がよく使われました.
モーニングスターは13世紀から14世紀に今のドイツで開発されたと言われています.
その後,使い勝手の良さや高威力が認められ,各国でランスと並んで騎士の主要な武器の一つとなりました.
西ヨーロッパを中心に広まり始めたのが13世紀で,ヨーロッパ中に広まったとされるのが16世紀ごろです.
当時,プレートアーマーの発達で,剣や槍では有効な攻撃を与えにくくなっていたので,騎兵に限らず,白兵戦にこうした打撃武器が使われていました.
映画でも渋めに作られた作品では,騎士同士の戦いなどの描写の中にちゃんと登場して,いわゆる「鍛冶屋さんごっこ」を繰り広げてくれます.見てて萎える.
(system ◆systemVXQ2)
【質問】
ドイツ騎士団って何なのか良く分かりません.支配国はドイツじゃないのにドイツってついてるし.
そもそも騎士団とは当時どのような存在だったのでしょうか?
【回答】
ドイツというのは民族名と考えた方がよろしいかと.
宗教騎士団というのは,もともとは十字軍時代に巡礼者の保護や救護のために作られたもので,ドイツ騎士団はもともとアッコンで病院をやっていたようです.
ドイツ騎士団の他にもテンプル騎士団,ヨハネ騎士団などが有名ですが,どれも十字軍がダメになってしまうとシリアから追い出され,ヨーロッパのあちこちに散らばることになります.
一方ポーランドでは,キリスト教徒ではないプルシ人の侵攻に悩まされていたので,マゾフシェ公コンラート1世がドイツ騎士団を招待し,ヘウムノ地方を代償にプルシ人の征服・キリスト教化を依頼します.
ドイツ騎士団はその一方で,神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世から,帝国の諸侯と同じ権利で征服地を支配して良いという約束を取り付けました.
で,1230年にヘウムノ地方に入り,ここを根拠にプルシ人を征服,1283年には全プルシの征服を完了しました.
おかげでポーランドの公たちは,今度はドイツ騎士団という勢力と延々争う羽目になりますが.

【質問】
中世の戦場では槍専門の槍歩兵はけっこうメジャーだったらしいですが,剣歩兵やメイス歩兵というのはほとんどいないのでしょうか?
【回答】
剣歩兵もいましたが,主力は槍でした.
1422年,当時のスイス傭兵達は独自のパイク戦術の中で,前面にハルベルトとバスタードソードを持った兵士で統合した部隊を配置し,ベリーンウェーナにおける戦いで勝利しています.
パイクとは長槍の一種で,ハルベルトというのも槍の一種です.
また,ドイツの30年戦争で傭兵達はカッツバルケルという剣を好んで携行しています.
メイスなどの打撃系武器も,割とポピュラーでした.欧州での登場は13,14世紀のことです.
歩兵達が用いる打撃武器は強力で訓練も少なくて済み,1302年におきたブルーニュという町の一揆で,一揆を起こした側が使用し,鎮圧に来たフランス騎士達を皆殺しにしました.
ある試算によれば,この時,兵士一人で,フランス軍の騎士二人を倒した計算になるそうです.
ある程度は誇張でしょうが,打撃武器が強力なのは事実でしょう.
打撃武器はこの後,パイクとそれに続く火器の登場により歩兵の間では廃れていきます.
しかし,騎士の間では使われ続け,16世紀まで使用さえされています.
なお,中世の歩兵は大部分専門職ではなく,騎士(貴族)の家臣か,領地の農民でした.
専門職としている歩兵の場合は長槍兵か,クロスボウを扱う傭兵など.
しかし,剣は騎士の高貴な武器であると認識されると同時に,農民たちの反乱を抑えるため,長剣や短剣の携帯は禁止されていたため,中世の歩兵は基本的にはメイスしか持てなかったのです.メイスと言っても,ただの木を削った棍棒から脱穀に使う殻竿,金属製のメイスなど,色々でした.
彼らの仕事は落馬した敵の騎士を撲殺することと,自分の仕える騎士の荷物を担ぐことくらいです.
彼らメイスを持った兵士たちは「歩兵」と呼べるほど統一された訓練を施されたわけでもなく,戦闘において何か重大な任務を任されていたわけでもありません.
騎士の添え物として,荷物を運んだり,雑用をしていただけです.
ただし,スイス兵は専門の歩兵でしたが,彼らはブルグンドや神聖ローマ帝国の支配から独立するため,市民や農民が自主的に集まり,共同体ごとに部隊を作ったので団結心もあり,訓練も定期的に行ったので専門化可能でした.
ランツクネヒトは,スイス兵の活躍を見たローマ皇帝が作り上げたものです.
彼らは専門家としての訓練を受ける代わり,部隊ごとに自治権とでもいうものを持っていました.
兵士一人一人が隊の運営(戦闘の指揮は隊長が執りますが,それ以外の生活レベルのこと),犯罪者の処罰などについて,発言する権利がありました.個々の兵士が部隊運営に携わることで,団結心をはぐくんだのです.
つまり,中世から前近代まで,規律正しく,士気にあふれ,訓練も充実した部隊を作ろうと思えば,兵士にある程度の自由を与えざるを得なかったのです.
部隊という共同体の自治に参加して初めて,兵士は団結し,訓練を受ける意欲を持ち得ました.
中世初期の歩兵が専門家ではなかったのは,彼らに義務に服させるだけの権利が与えられていなかったから当然と言えます.
なお,自由都市や都市国家の市民は,都市防衛のため武装していましたが,基本的に彼らは都市の城壁を守備するのが仕事ですから,弓かクロスボウを所有するように都市の法律で決められていたようです.
【質問】
イギリスとフランスが戦争していた時の話.
両軍の弓兵は英軍長弓,仏軍石弓であり,速射性に勝る英軍長弓部隊が,仏軍石弓部隊を圧倒したと,世界史資料集にありました.
そこで質問なのですが,なぜ仏軍は速射性に劣る石弓を使っていたのでしょうか?
長弓より石弓の方が,次の矢を番えるのに時間がかかるのは明らかだと思うのです.
長弓に対して石弓の優位点はあるでしょうか?
【回答】
弓を射るために奇形になるまで訓練された集団がいないと,有効な長弓は使えなかったということのようです. 英国の弓兵は小さい頃から訓練され,鍛えられました.
また,石弓は長弓と比べて速射性で劣るものの,射程・威力の点で勝っているとフランスは考えていました.
しかもそれを用いる場合,少ない訓練で大丈夫でしたので,多くの人員を確保し戦争に投入できるという利点があり,速射性で劣る欠点を数で克服しようと考えていたふしがあります.
●長弓(ロングボウ)の特徴は
高度な使い方をする→山なり弾道で敵に当てるには,非常に高度な訓練が必要.
射程はクロスボウと比べて優位にあるわけではなく,むしろ劣っていたと考えられます.
威力については,ロイヤル・アーマーラーの実験によって,1470年イタリア製のプレートを射た結果,胴部分(最高厚4.75mm)を貫通ししまた.
英国が100年戦争の折に使ったものは,イチイの木によって作られ,長さ150〜180cm,重量0.6〜0.8m,矢は75〜100cm,重量0.5〜0.7kg足らず,矢じりはソケット状で先を尖らせた単純な形状だが,鋼鉄製でした.
よく訓練された兵士が用いる場合,10秒に1本の矢を打つことができ,敵を狙わずに射撃すれば6秒に1本の矢を射ることができました.
ロングボウを扱った兵士は,殆どはヨーマンと呼ばれる自由民でした.
彼らは,エドワード3世の頃には毎週,矢場での訓練を義務付けられ,厳しい訓練を施されていました.彼らの骨格は完全に左右非対称になっており,極端に言えば「シオマネキ」のような状態だそうです.
当然,他の兵士から一目おかれた存在で,給料も優遇されていました.
初期の小銃が速射性などで長弓に劣っていたにも関わらず普及したのは,そのような特殊な集団でなくとも使用することができたからだと,よく言われています.
英国が百年戦争でロングボウを用いた上で,他の国の弓隊の運用とは決定的に違う点があります.
通常,弓は部隊の集結する前面に立って,気勢をそらしたり,自軍の本隊と敵が激突する間に少なからず敵に損害を負わせる部隊です.
しかし,”ロングボウの父”とうたわれるエドワード1世は,長弓を積極的に攻撃する部隊として訓練し,戦列の両翼に配しました.
彼はまず,ウェールズ進攻やスコットランド進攻において長弓部隊を実験的に運用し,これを生かして経験をつみます.
特に1298年7月22日「フォルカークの戦い」において,スコットランドのパイク(長槍)部隊を完敗させました.
エドワード3世の治世になり,百年戦争が勃発しロングボウの優位が証明されるようになります.
1346年8月26日のクレッシー,1356年のポラティエ,1415年10月25日のアザンクール,等の戦いにおいて両翼に配置されたロングボウは,フランスの騎士に多くの出血を強いました.
しかし,戦場の花形であったロングボウはこの時期を境に下り坂にさしかかります.
それにはまず,火器の発達が上げられますが,最も大きな要因はバラ戦争という英国の内乱で多くの優秀な兵士を失ったことです.
また,ロングボウが有利な戦闘を展開するにはそれなりの下準備を必要とします.
というのも,敵が突入してくる場合,接近戦において応戦する方法を持っていません.
なので,木の杭を植えたり壕を掘ることでそれに対応してきました.
しかし,国内の戦争ではお互いの手の内を知るものによって,そうした準備がままならなくなりました.
ちなみにロングボウというと,西欧においては英国が使用したもののみを指すのが一般的です.
●石弓(クロスボウ)の特徴は,ほとんど訓練をしなくても,操作方法を覚えるだけで長弓に比して威力のある矢をより遠くに飛ばすことが出来ることです.
しかし,次の矢を装填するのに時間がかかるのが致命的な欠点です.
この欠点は最後まで改良できず,小火器に場を譲ることになります.
大きさは縦0.6〜1.0m,横幅0.5〜0.7m,重量3〜10kgが相場です.
ヨーロッパにおいてのクロスボウの起源は正確に判っていませんが,1066年にノルマン人が用いていたことは確かだといわれています.
戦乱が続くこのころのヨーロッパにおいてクロスボウの威力は絶大でしたが,キリスト教徒には相応しくない残虐な兵器とされ,法王インノケンティウス2世は使用を禁じました.
ところが逆にドイツのコンラート3世はその治世(1138〜1152)においてクロスボウを正式な武器として採用しました.
この後,第3回十字軍における英国軍で異教徒を撃つための武器として使用しました.キリスト教徒を射るのではないので良いとされたわけです.
本格的なクロスボウを装備した軍隊の登場は,さらに1世紀を経たイタリアの都市国家においてでした.
ここではアルバレストと呼ばれ,いち早くこの武器を大量に取り入れました.
ヨーロッパではジェノバ人がクロスボウを携えて傭兵として雇われるようになり,1340年のフランスには20000人も雇っていたといわれています.
実際,クレッシーの戦いでは,フランス軍の前衛としてロングボウよりも有利と考え,ジェノバ人のクロスボウ部隊を配置しました.
しかし,英国のロングボウ部隊の敵ではなく,多くの被害を出して壊走し,彼らがもたらした混乱はフランスが戦いに敗れる一因となりました.
それでもなお,フランス王はクロスボウを諦めることなく,その軍隊に取り入れていきましたが,クロスボウを上回る威力を示すことは出来ずに,武器としてはその時代を火器に譲ることとなります.
16世紀以降,狩猟やスポーツに用いられ,それほど大きくする必要も無く,軽量化されより扱いやすいものになっています.
ところで,日清戦争における清で,主に防御の時にクロスボウを用いられた記録があります.
短射程ながら威力があり,連射できるように数発の太く短い矢が装填されていました.
これらの記述の多くは「truth in fantasy20
武器と防具 西洋編」市川定春著 新紀元社 によります.
(system ◆systemVXQ2 & 極東の名無し三等兵 in FAQ BBS)
【参照】
「イギリスの長弓」
http://www5e.biglobe.ne.jp/~t-shibu/subB1.htm
【質問】
百年戦争の頃の普通の弓兵って矢を何本くらい持ったの?
矢って高かったって聞いたんだけど.
かといって少なくて足りないんじゃ,洒落にならないだろうし.
【回答】
――――――
http://en.wikipedia.org/wiki/English_longbow
"A typical military longbow archer would be provided with between 60 and 72 arrows at the time of battle,"
(平均的な射手は,一度の会戦で60〜72発の矢を放った)
――――――
とあるので,一人当たりそれだけの矢は持っていたか確保されていたということになる.
ただしcitation needed(出展不明)となっており,これが間違っていないかどうかはわからない.
他にも"An experienced military longbowman
was expected to shoot twenty aimed shots
per minute."などと,やたら景気のいい数字が挙げられてるので,割り引いて読んだほうがいいかも.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
ジャンヌ・ダルクが処刑されたのは,「魔女」だと見なされたから?
【回答】
ジャンヌ・ダルクは,「異端」審問で裁かれ,「異端」として処刑されたのであって,魔女としてではない.
ヨーロッパ大陸では火刑が多く,イギリスでは絞首刑が多い.
自白すると罪が多少軽減され,斬首になる.
火刑は遺体が残らないので,灰にして川に流すなど分散させてしまうことができ,埋葬することによりシンボルになることを防ぐ,という目的がある.
また,火刑はキリスト教の刑罰では一番重い.
体が焼かれてなくなってしまうと,キリストの再臨時に復活できないから.
世界史板
青文字:加筆改修部分
【質問】
中世の長槍兵は,接近戦用武器には何を使っていたのですか?
【回答】
中世イギリスやフランスなら長槍兵は接近戦を行いません.
生きた馬防柵のようなものです.
長槍兵が敵の騎兵の行動を抑制し,味方の騎兵が突入する隙を作るのが仕事でした.
スイス兵は中世からルネサンスにかけて「アレバルド」をつかっていました.
これは斧と槍が組み合わさった物で,騎兵の突入を防ぎ,接近戦にも使える物でした.
ただし,スイス兵は飛び道具を軽視したため,スペイン式の編制(後述)が広まると不利に陥りました.
小銃が普及するとアレバルドに代わり,長槍と銃を装備するようになりました.
ランツクネヒトはドイツ皇帝がスイス兵をまねて作った傭兵隊ですが,装備は長槍が全体の1/3,アレバルド1/3,飛び道具1/3というものでした.
カッツバルゲル(喧嘩剣)は隊列の前方数列のみが装備し,専門の兵士が扱いました.給料も良かったようです.
1500年代に入るとスペイン兵は長槍兵と銃兵の組み合わせを考えました.
のちにテルシオと呼ばれるものです.実は当初は長槍兵が接近戦に弱いので銃兵がそれを補っていました.
当時の小銃の有効射程は短いですからね.
その後主客逆転し,槍ぶすまで敵の突撃をくい止め,銃兵の射撃で撃破するようになります.
つまりどの時代も長槍兵の隙を埋めるための部隊や装備があり,ルネサンス以降は専門分化が進みました. そして最終的には小銃プラス銃剣に落ち着くわけです.
日本語ではいい文献がなかなか無いですから,英語が読めるのでしたら洋書をamazonなどで買うといいと思います.
militaryとかinfantry,medieval,renaissanceなどをキーワードに検索するといろいろヒットすると思いますよ.
【質問】
フニャディ・ヤーノシュとは,どんな人物か?
【回答】
中世ハンガリーの英雄です.
父の代以前の経歴は全く不詳でして,おそらくワラキアの土豪がトランシルバニアに逃れてきたものと思われ,人種的にも恐らくはルーマニア系ではないかと思われます.
歴史上に名前が登場するのは,父ヴァイクがヴァイダフニャド(今のルーマニアのフネドワラ)の城を拝領してからで,フニャドのを意味するフニャディなる姓もその時以来と思われます.
さて,ヤノシュは,若くして当時のハンガリー王にして神聖ローマ皇帝ジギスムントに見出され,イタリアに伴われ一時傭兵隊長として活躍,ハンガリーに戻って後は異例の出世を遂げ,トランシルバニア侯テメシュ県知事等となる.
ジギスムントの死後はウラースロー一世の下,対トルコ戦の指導者としてバルカンの各地で奮戦したが,バルナで国王が戦死するという大敗を喫する.
その後ハンガリー王国の摂政となる.
1456年押し寄せるオスマン軍をナーンドールフェーヘルヴァール(今のベオグラード)にてカピストラノ司教の率いる十字軍とともに迎撃,奇跡的な勝利をおさめるが,戦後,戦場に流行った悪疫に倒れて世を去った.
因みにハンガリー王マーチャシュ・コルヴィヌスは彼の次男.
本当かどうか知りませんが,教会が正午に鐘を鳴らすのはベオグラード戦の勝利を記念して,と一般に言われています.
(ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w in 世界史板)
【質問】
オスマン帝国など北アフリカ(古代のカルタゴのあたり)を領有していたイスラム国家は,イタリア半島へと侵攻しなかったのですか?
地理的にも非常に近く感じるのですが…
【回答】
してるぞ.失敗してるだけで.
オスマン朝のメフメト2世の遠征軍は1480年にオトラントを占領しているが,メフメト2世の急死で撤退している.
ただ,占領地の維持が困難ってのもあるけど,あの時代の大規模軍集団を纏め上げるには,強力な指導者が現場に臨んでないとヤバイ(情報の伝達etc...
それと,メフメト2世が文字通り急死したせいで,オスマン帝国お家芸の跡継ぎ問題で本国が揉める可能性が出てきた(現にバヤジット2世は弟と跡継ぎ争いしてる)ような,そんな時に海を越え,かなりの防御力を持った都市が多いイタリア半島を攻めるなんてのは自殺行為.
なので撤退.
【質問】
「世界史は妄想を超えて (世界史FAQ)」
こちらのサイトのトリビアのコーナーにある,
[quote]
迷信深い同時代人の中で唯一コロンブスだけが, 「世界は球体であり,西に向かってどこまでも行けばアジアに着くはずだ」
という論理を理解しており,この論理に従って船出した──
といったような,コロンブスに関する通俗伝説がある.
しかし実のところ,コロンブスと同時代の欧州人は,世界の形についてほぼ正確な知識を持っており,地球の直径とユーラシア大陸の横幅を基本的には正しく推定していた.
しかしアメリカ大陸の存在は知らなかったので,「大西洋+太平洋」という巨大な海を越えるのは無理と考えていたのである.
[/quote]
というトリビアの確実なソースを教えてください.書籍の名前とかを.
【回答】
多分星新一訳の『アシモフの雑学コレクション』(新潮文庫,1986.7)かと.
pp.235-236だ.
> 地球が丸いと主張したのは,コロンブスだけではない.スペインの宮廷での議論は,丸い
>のを前提として.その大きさに関してだった.対立者たちは,コロンブスは小さく考えすぎ
>ていて,欧州から東洋までの航海は無理だと言った.そして,それは正しかった.
> 途中に未知の新大陸がなかったら,あきらめて戻ったか,消息不明になっただろう.
ハヤカワ文庫から発行されてる『アシモフの科学エッセイ8 次元がいっぱい』(1985.12)には,もうちょっと詳しい話がある.
第15章「地球の形は」(pp.275-293)ね.
それによれば,地球が球と証明したのはアリストテレスで,紀元8世紀の聖ビードや14世紀の『神曲』でも球とされていることを挙げて,
「歴史を通じて,アリストテレスの著書に触れたことのある教養人は,全て地球が丸いことを認めている」
と書いてる.
地球の周の長さについての論争についても触れられてるな.
マイルで書いてるんでわかりにくいんだが……
・エラトステネスは25000マイルと測定
・BC1世紀頃のアパメーアのポセイドニウスは18000マイルと測定
・マルコポーロの旅行から考えてヨーロッパからアジアまでは13000マイル
エラトステネスの計算が正確だった,というのは有名な話.
あと,例えばダンテの『神曲』なんかでも,地球は当然丸いものとして描かれている(つまり地球球体説+天動説).
少なくとも,コロンブスだけが気付いていたという事はないな.
業界人A「ひょっとして地球って球体なんじゃね?」
業界人B「てことは,一周して戻ってこられる??」
業界人C「インドにも行けるじゃん・・・」
てな雰囲気になってて,
・・・1492年
A「おー,やりやがったか!」
B「くそー,コロンブスって誰だよ?」
C「ほら,あいつ.ポルトガルに援助断られた奴」
A「ポルトガルワロスw」
コロンブスが影響を受けたトスカネリの球体説は,実際より地球を小さく見積もっていたので,
コロンブスはインド行き西回り航路を甘く見ていた.
だけど偶然アメリカがあったのでそこにたどり着いた.
―――というのは有名な話.
上述の『次元がいっぱい』によれば,トスカネリは
「地球の大きさは18000マイルだから,西回りだと5000マイルでアジアに到達するよ!」
と主張したという.
で,コロンブスこれを採用.ということらしい.
ただ
「コロンブスと同時代の欧州人は,世界の形についてほぼ正確な知識を持っており」
ってのは言い過ぎかと.
地球が球だと知ってたのは上流階級の知識層だけでしょ.
カラジチ ◆mWYugocC.c(青文字)他 in 世界史板
【質問】
ハイドゥクについて興味があります.
現代はバルカン半島にもいるようですが,近世のハイドゥクはみんなハンガリー人ですか?
ハイドゥクの実像についてこのようが記述がありますが,本当ですか?
「ときには義賊といえるケースもあったが,大部分が山奥に住み着いて民家を略奪し,墓を盗掘したり賭博や飲酒をしたりすることに時間を費やした.
彼らの眼中には政府もなく,祖国もなく,仁義や道徳もない.
彼らの日常はただ一身の快楽を得られればよく,秤を争って金と銀を分配し,派手な衣装をひっかけて斗酒を飲み,肉の塊を丸ごと飲み込むかと思えば,女を拉致してかわるがわる強姦した後,道端に捨てる肉盗行為以外にはすることがない.」
【回答】
16世紀,オスマン帝国征服後のハンガリーに出現した武装勢力としての「ハイドゥク」は,主にハンガリー人やスラヴォニア人から成っていたが,17世紀には退潮した.
その後,オスマン帝国の衰退とともに,支配下にあったルーマニア,ブルガリア,ギリシャ,セルビアなど各地に野盗の類が出没するようになり,そうした連中も「ハイドゥク」と呼ばれるようになったので,全バルカン的な現象になった.
そのためハイドゥクや類似の匪賊(ギリシャのクレフト,トルコのケレール等)の民族構成はルーマニア系,スラヴ系,ギリシャ系など多岐にわたったが,出身階層としては農村社会で問題を起こしてアウトローになった者が多かったようだ.
遊牧民がどうとかいうより,堅気の社会へのアンチとしての太く短く生きる生活様式だろう.
ハンガリーでハイドゥ民というと,ボチカイ・イシュトヴァーンの反乱時ぐらいから記録にあらわれますが,オスマン軍に追われたり、領主の圧迫から集団で逃れた農民が匪賊化したものと言われています.
彼らはボチカイの援助要請に応えてハプスブルク家と戦い,ボチカイの勝利に貢献したことによって,軍事的な奉仕義務を持つ自由身分の農民とされました.
武装した家畜輸送業者というの市場町に住むようになって以降の話ですね.
彼らはその後もハンガリーで対ハプスブルク家反乱が起こるたびに戦闘に参加しているものですから,ハンガリーの抵抗の象徴のようになっているのでしょう.
余談ですが,クロアチアのクリス城(昔ハンガリー王国の南の防衛線だった)で,今でもハイドゥクの末裔が「羊の丸焼き」を食べさせるお店?をしているそうです.
【質問】
カハマルカの戦いとは?
【回答】
1532年11月16日,ペルー北方の高地カハマルカで起こった,ピサロ将軍率いるスペイン部隊とインカ皇帝アタワルパ率いるインカ帝国軍との戦い.
スペイン部隊はわずか168人しかいなかったにも関わらず,80000人の兵士を引き連れていたアタワルパを捕虜にし,一方的に勝利した.
この戦いの結果,ヨーロッパ人による南アメリカ大陸支配が始まった.
ピサロの仲間達6人の証言によれは,戦闘経過は以下の通り.
カハマルカの盆地に到着したピサロたちは,4km離れたところにあるアタワルパの陣営を見て恐怖した.
あまりにテントが多すぎて,美しい街のように見えたのだ.
スペイン人たちは混乱しつつあったが,インディオたちに弱みを嗅ぎつけられないように態度には出さなかった.
その夜は恐怖のあまり皆が眠れず,身分の上下を問わず武装して歩哨に立った.
このときピサロは土地には不案内であり,地域住民のこともまったくわかっていなかった.
最も近いスペイン人居住地はパナマにあり,1000kmも離れていて援軍を呼ぶこともままならなかった.
一方アタワルパは何百万人もの臣民がいる帝国の中心にいて,内乱を鎮めたばかりの八万人の兵士に守られていた.
翌朝,ピサロはアタワルパからの使者に『どんな侮辱も危害も加えないのでこちらに来て欲しい』という返事を送り,到着を待つ間に待ち伏せの準備をした.
正午になると,2000人の先導役の後に,多数の側近や侍従に囲まれて,輿に乗ったアタワルパがやってきた.
広場はどこもかしこもインディオたちで一杯になり,隠れて待ち構えているスペイン人の中には恐怖で失禁する者が多くでるほどだった.
ピサロは神父を遣わして,アタワルパにキリスト教に改宗するよう求めて聖書を渡した.
しかしインカ帝国には文字が無かったので,アタワルパは本そのものが理解できず,怒りのあまり渡された聖書を地面に投げ捨ててしまった.
神父は激昂してピサロに戦うよう要請し,ピサロすぐさまは攻撃の合図を出した.
小銃部隊が発砲すると同時にトランペットが吹き鳴らされ,歩兵と騎兵が飛び出してきた.
銃声とトランペットの轟き,そして始めて見る騎馬(当時南北アメリカ大陸に馬はいなかった)に脅えてインディオたちは大混乱に陥った.
アタワルパの取り巻きたちは武装していなかったので,スペイン人たちは慌てふためく彼らに飛び掛って滅多切りにした.
インディオたちは逃げ惑い,勝手にぶつかりあって転び,下敷きになり,折り重なって多くが窒息した.
ピサロは自ら剣を抜いて部下と共にアタワルパの輿に突撃し,忠実だが非武装の侍従たちを殺してアタワルパを輿から引き摺り下ろした.
アタワルパがカハマルカから1マイル離れた場所に残してきていた兵士たちは,戦闘準備ができていたにも関わらず,他の兵士たちが逃げ惑うのを見て逃げ出してしまった.
日没と共に戦いは終わり,7000人のインディオたちが死体となって転がっていた.
一方,スペイン人たちに死者は一人もいなかった.
【参考文献】
『銃・病原菌・鉄』(ジャレド・ダイアモンド著,草思社,2000.10)
唯野
この『銃・病原菌・鉄』によれば,アタワルパは本の開き方が分からなかったという説もありますね.
また,スペイン側に一方的に攻撃されているのにもかかわらず,アタワルパの輿を守って担ぎ続けようとした支配階級のエリート層(知事等)も全滅したのも,影響は大きいと思います.
また,アタワルパは神と同格に扱われてたので,この戦いの結果アタワルパが捕らわれて以降,インカ側は政治・外交的にも圧倒的不利になります.
この戦いがどうしてこういう結果になったのかを分析するのが,この本全体のテーマと重なっています.
つまり,どうしてインカ側には馬もしくはそれに類する機動力がなかったのか?
どうしてインカ側に鉄製の武器がなく,スペイン人達にはあったのか?
どうして重要な情報伝達がなかったのか(既に上の文で回答されてますが)?
どうしてインカ側は一つの戦いでエリート層が全滅する様な政治機構だったのか?
一つの戦いという単位で考えると,その後の影響が世界史的に最も大きい戦いの内の一つだと思います.
Fabius (KT)
ダイアモンド教授の同書はすごくおもしろいですよね.
私はPBSのテレビシリーズで知りました.
http://www.pbs.org/gunsgermssteel/index.html
写真は同番組の二回目放送から,ピサロと文字の読めないアタワルパ.


バグってハニー
【質問】
なぜスペイン人たちは500倍の敵を相手に圧勝できたのか?
【回答】
ピサロ側が有利だったのは,鉄製の武器と甲冑,銃器,そして馬を持っていたことである.
一方,アタワルパ側は石・木・青銅の武器しか持っておらず,騎乗して戦場に乗り込んでいける動物もなかった.
特に重要なのは騎馬で,ピサロ側には60騎の騎兵しかいなかったがこれが大活躍した.
騎兵はその後,対騎兵戦法を身につけたインカ帝国軍との戦いでも,少数の部隊で大軍を何度も打ち破っている.
銃については実は大した役割をしておらず,銃声は確かに心理的効果があっただろうが,12丁しかない上に,装填に手間のかかる火縄銃だった.
それよりも鉄製の武器と防具が重要だった.
インディオの主力武器である棍棒では,鉄の鎧や兜に身をつつんだスペイン人を効果的に殺傷することはかなわず,逆にインディオたちの刺し子の鎧は鉄製の武器を防げなかった.
また,より根本的なこととして,アタワルパがピサロの見え透いた罠にはまって,武装した護衛をほとんど伴わずに誘い出されたことも重要である.
インカ帝国は当時南北アメリカ大陸で最大かつ最も進歩した国家だったが,文字を持っておらず,スペインの軍事力や意図についてまったく情報を持っていなかった.
スペイン人の侵略は1510年にインカ帝国から1000km離れたパナマではじまっていたが,インカ人がスペイン人の存在を知ったのは1527年,ペルー海岸にピサロが上陸した時である.
皇帝アタワルパは,中央アメリカ最大最強のアステカ帝国がスペイン人に征服されたことすら知らなかったのである.
アタワルパは海岸から内陸に向かう途中のピサロに関する報告を受け取っていたが,それはいちばん混乱しているときのスペイン人たちで,
「彼らは戦士とはいえない.
200人の兵士で全員縛り上げられる」
と告げられ,スペイン側がおそるべき力を持っていることをまったく理解せず,挑発しなければ彼らは攻撃してこないだろうと思い込んでいたのである.
【参考文献】
『銃・病原菌・鉄』(ジャレド・ダイアモンド著,草思社,2000.10)
そしてインカ帝国の秘宝を巡り,ジャック・スパロウが船を奪われたり,孤島に置いてけぼりを食ったり,海賊たちが呪われたりしましたとさ.

【質問】
ユグノー戦争とは?
【回答】
フランスの宗教戦争(1562〜1598)
ヴァシーで新教徒襲撃
↓
オルレアンで報復
↓
サンスで報復(1562)
↓
戦争 勃発
という経緯.
主要対立軸は,
・ユグノー(新教徒,代表:コンデ公⇒アンリ=ド=ナヴァール)vs旧教徒(代表:ギーズ公)
・カトリーヌ=ド=メディシス(旧教)vsギーズ公
・国政主導権をめぐる大貴族の闘争
・スペイン(旧教)vsイギリス(新教)
とあって,ドロドロ.
結局,宗教問題よりも国民的統一を重視するポリティーク(穏健旧教派)が結成され,その路線上で
アンリ4世即位(1589)
↓
カトリック改宗(1593)
↓
信仰の自由を認めるナントの勅令公布(1598)
↓
やっと内乱収拾.
余談.
「フランス料理に大きな影響を与えたのは,カトリーヌ・ド・メディチとオルレアン公アンリ(後のアンリ2世)との結婚.これにより,イタリア料理がフランス料理に取り込まれ,洗練化された」
という,広く信じられている説があるが,これは現在ではほぼ否定されている.
この立場を取る著者の邦語で読める文献としては,
・バーバラ・ウィートン:味覚の歴史:大修館書店:pp.75ff.
・ジャン・ラッセル・ルヴェル:美食の文化史:筑摩書房:pp.134ff.
などが代表.
Davidson,Alan:The Oxford Companion to Food:に至っては,このカトリーヌの話をCulinary
Mythology:の項目に入れ,完全にネタ扱いしている.
彼らの論拠は,以下である.
(1) イタリア料理の影響は,料理書の翻訳や人の交流を通じ,遙か以前から始まっていた.
(2) 仏王家と比べて身分が低く,しかも次男坊の14歳の嫁,宮廷には他の有力な女性もおり,嫁いで以来長いこと子供も出来なかったカトリーヌには当初,宮廷での影響力などなかった.
(3) なにより,1530年代及び40年代のフランス料理に変化が起こったという証拠は皆無.
(4) フランス料理は17世紀後半からゆっくりと変化しだしたことがはっきりしている.
(5) それゆえカトリーヌの影響は後年,宮廷での宴会の様式を荘厳にした程度にとどまる.
【質問】
アルカセル・キビールの戦い(1578)とは?
【回答】
サード朝モロッコとポルトガルとの戦い.
サード朝では,1576年に第4代ムハンマド・ル・ムタワッキル王(在位1574〜1576)から叔父のアブド・ル・マルク(在位1576〜1578)が王位を奪うという事件が起こる.
ムタワッキルはポルトガルへと亡命,ポルトガル王ドン・セバスティアン(在位1557〜1578)にモロッコ遠征をもちかけ,1578年6月,ムタワッキルと共にほとんどが傭兵から成る約2万5000の軍勢を率いてモロッコへと発った.
ポルトガル軍はタンジェ上陸後,8月4日,内陸にあるルコ川沿いのアルカセル・キビールへと進軍し,アブド・ル・マルク率いるモロッコの大軍と交戦.
数の上では圧倒されていたが,火器の性能で優るポルトガル軍は中盤に戦況を盛り返す.
が,指揮能力を欠くドン・セバスティアンが,退いたモロッコ軍を深追いしたため,伏兵のモロッコ騎馬隊に側面から奇襲を受け,戦死約8000,捕虜1万5000の大敗を喫した.
この戦いは,ポルトガルの王ドン・セバスティアン,モロッコの前王ムタワッキル,モロッコの現王アブド・ル・マルクの3人の王が参加し,いずれも戦死したことから「3王の戦い」とも呼ばれている.
詳しくは
http://www.h4.dion.ne.jp/~kosak/Morocco.html#Morocc1
を参照.
【質問】
16世紀ヨーロッパの砲の発射手順を教えていただきたいんですけど,これで合っていますか?
1発射に適した位置に傾斜路などをもうける
2砲を牽引車から外す
3副車に積んである,発射に必要な道具を降ろす
4所定の位置に設置する
5目標に砲を向けおおよその距離を割り出す
6装薬を装填し続いて砲弾を装填する
7火門から錐を差し込み装薬袋に穴を開け導火線を押し込む
8点火して発射
9反動で下がった砲を元の位置に戻して次の発射に備える
あと,一門の砲にどれくらいの人員が必要なんでしょうか?
【回答】
分かる範囲で.
なお16世紀(1500年代)ということですが,部分的には15世紀の話も混ざっていることをご了承ください.
1.発射位置に陣地を設営します.ただ土を盛ったものが主流ですが,後期には「砲欄」と呼ばれる木の枝で編んだカゴに土を詰めたもの(つまり土嚢のようなものですね)を配置したり,攻城戦の場合は煉瓦や石を組んでしっかりした陣地を造ったりしました.
廃墟となった家屋を利用したものもあったようです.
絵画資料によくみられます.
2〜4はそのままでいいと思います.
1494年にイタリアに侵入したフランス軍は,砲と砲車が一体になった砲を既に持っていました.
2は省略されるケースもあったでしょう.
5もOKです.
16世紀中期に書かれたビリングッチョの技術書には,よく知られた発明として,砲身の角度を測るコンパスのような装置が紹介され,角度と射程距離については既に数式的に割り出す方法が考案されつつありました.
おそらく15世紀後半には,角度と射程距離になんらかの関係があることは知られていたはずです.
ここから,前装砲と後装砲で違います.
なお後装砲といっても現代のような尾栓がついたものではなく,単なる筒である砲身に,装薬と砲弾が入った砲尾部をはめ込むものです.
前装砲はあなたのおっしゃるとおりで,火薬を入れ,弾を装填しますが,装薬袋はまだ発明されておらず,硫化した火薬(アルコールなどといったん黒色火薬を混ぜ合わせ,乾燥させて砕いたもの)を器で測って装填します.
射程距離によって装薬量を変えることは基本的にしませんでした.というのは砲の強度がまだ弱いため,装填しすぎると砲が破裂するからです.
15世紀には砲弾の重さの15パーセントが限界であるということが経験的に知られていました.
後装砲の場合,装薬と砲弾が入った砲尾があらかじめたくさん用意してあるので,それを砲尾にはめ込み発射します.
射撃速度は若干速いですが,完全に砲身と砲尾を密閉できないため,どうしても発射ガスがもれ,威力が劣ります.
ゆえにこのタイプの砲は,17世紀までには廃れてしまいました.(鋳造技術の発達も大きいですが)
9について.
フランス式の砲車と砲身が一体になった型の場合,反動で下がった砲を戻す作業が必要ですが,固定式の場合(砲身をそのまま台の上に固定した場合)は当然不要です.
9の次には,
10 砲身内を濡らした布ないしスポンジを取り付けた棒で拭う
という作業がありました.
なお中世初期には,火薬と弾を装填してから,砲門を泥でふさぐという作業があったと聞きます.
これは少しでも発射ガスを効率よく発生させるためらしいのですが,泥が乾くまで待たねばならないので,発射速度は一時間に一発程度に落ちたそうです.
なお,火薬については硫化したものを大きな塊のままで戦場まで運び,戦場に到着後,火薬の塊を砕き,ふるいにかけて大きさを揃える(小さな粒は大きな大砲に,大きな粒は小さな大砲や,火縄銃用になる)という作業が必要でした.
塊のままなら湿気に強いですから.
よって,巨大なウスとすりこ木のような道具や,何段階にもふるいを縦に重ねた装置などが,砲兵隊の装備に加わります.
一門の人員配置について.
ながらく大砲は(少なくとも16世紀中は)正規の軍人ではなく,大砲親方と呼ばれる民間人によって操作されました.
砲手は,その大砲を作った工房の職人がそのままあたることも多かったようです.
よって一門一門装填具から何からことごとく違い,ミラノ公国のある城には200種類の大砲があったそうです.
というわけで,一概に何人ということは出来ません.
絵画には数人の操作員しか描かれていないケースも多いです.
(779)
自分が以前読んだ同じ本には,
1.黒色火薬は現代の火薬と違い,固体のままで燃えていく.
そのため粒の小さい火薬は速く,粒の大きい火薬は遅く燃える.
2.小さい弾体を飛ばすには短時間で燃える火薬のほうが都合がよく,大きな弾体を飛ばす場合ゆっくりと燃える火薬のほうがよい.
そのため小さな銃や砲ほど粒の小さい火薬が,大きな銃砲ほど粒の大きな火薬が用いられた.
3.粉末火薬は燃焼速度が速すぎるため,粒火薬に比べてパワーが出せない.
そのため火薬と砲弾の間にわざと隙間を設け,無理やり燃焼速度を遅くする工夫がなされた.
といったようなことが書いてあったと思います.
(名無し見学者)
装薬の燃焼速度の調定は装薬の表面積で行うという事なので,粒が小さい程(単位重量辺りの表面積が大きい)速い速度で燃焼するのが正解,
追記すると黒色火薬は燃焼,現代火砲の装薬は爆燃,と分類される.
燃焼速度を理論値に近い値にするには,適度な空隙を確保し,適切に突き固める事が必須で,前装銃の薬室もその点を考慮して形状が考案された,と.
(三等自営業 ◆LiXVy0DO8s)
【珍説】
ラス・カサスは50年に渡って,先住民の窮状を訴え続けた.
しかし,その書は後になって,むしろ反スペイン・プロパガンダのために使われ続けたため,やがてスペインは歴史の表舞台には,登場できなくなるのだ.
(小林よしのり「戦争論」3,2003/7, p.166)
【事実】
違います.
16世紀のスペインが勢力をなくす要因は,いわゆる「帝国のオーバーストレッチ(=手の広げすぎ)」です.
新大陸からの銀の流入が落ち込み,大西洋貿易が縮小して,財政負担がカスティーリャのみにのしかかり,
カスティーリャの農民がどんどん貧乏になる一方で,
イタリア統治,
オスマンとの対決,
アルジェリアの海賊退治,
オランダ反乱の鎮圧
フランス・ユグノー戦争への介入
(&アルマダの派遣),
そして翌世紀には三十年戦争への参戦,
・・・・と,金の掛かることばかりやっていたからです.
まあ,プロパガンダ書一冊で没落する国など,あるわけないやろし.
16世紀にスペインはヨーロッパの超大国になり,アメリカ大陸などで巨大な帝国を樹立した.
しかし,国内の産業は後退し,最終的にスペインは遅れた乏しい国になってしまった.
スペインの没落の要因として以下の点が挙げられる.
・永年に継続した大規模の戦争による国勢の疲労
・農業や工業を支えたイスラム教徒と,商業・金融業を担ったユダヤ人の国外追放
・アメリカの植民地から輸入された多量の貴金属によるインフレ.スペインは国際決済に使われていた金・銀が豊富で,国内で品物を生産するより,外国から輸入し,国内産業が空洞化してしまった
・メリノの羊毛を原料として輸出し,国内で加工しなかったので,織物産業は形成されなかった
19世紀初頭,ナポレオンの戦争に大きな打撃を受けたスペインはもはや後進国になってしまった.
その後,植民地もほとんど失い,「ヨーロッパのアフリカ」と見なされるようになった.
(ヴルピッタ・ロマノ〔京都産業大学講師〕「スペインの経済の生成と発展」)
……というのが,教科書的な見解やろなあ.
【質問】
アルマダの海戦(1588)でのイングランドの勝因を教えてください.
射程の長い大砲を使ったらしいですが,当時の技術で命中したのでしょうか?
軽くて速い船で逃げながら戦ったのとして,舷側の大砲で逃げながら攻撃できますか?小型船だと揺れるし,命中率落ちますよね.
ドーバー海峡に誘い込んだり,火計をしたり,内部工作をしたりとかも読んだのですが,劣勢を覆すために色々がんばったのでしょうか?
イギリス海賊たちの忠誠心も高かったのですか?
(Colorful on FAQ BBS)
【回答】
砲戦で相手を倒す作戦を選んだイングランドの作戦勝ち.
戦いの推移としては,本当はスペイン艦隊は500隻を以て,パルマ公爵の軍隊とフランドルで合流させるつもりでしたが,第一陣の130隻が出航後,嵐に襲われてパルマ軍と合流できませんでした.
また,逃げ込んだカレーには,エフィンガム卿Charles
Howardの指揮する英国艦隊が待ち伏せていて,火船で以て混乱させた.
最後に,グレーヴラインズ沖で英国艦隊に攻撃され,壊滅した,と.
英国は水深の深い海が多く,作戦が比較的狭い海域に限定されていた為,余り動かない大型戦艦が主に用いられましたが,イベリア半島諸国は敵を掃討し,遠洋を航走し,交易を行なう多機能の船を必要としました.
従来の研究では,アルマダの敗因は,
第一にスペインが拠点から離れ,慣れない海で作戦行動をしていたのに対し,イングランドはいつでも補給や交代が出来,しかも,建造に当たって想定されていた環境で作戦出来た.
第二に,イングランドの軍艦は前述の通り古かったが,型材が良かった(イングランドの海軍局曰く,「水漏れ穴がどういう意味なのか誰も知らない」と).
第三に,その戦艦の三分の二は,細長く,帆が沢山あり,乗員が少ないガレオン船に改造されていたので,帆走速度が速く,銃砲が多数搭載出来たことが挙げられています.
しかし,イスパニア側は事前に用意していた戦艦用の砲弾50発を殆ど消費していないことが挙げられます.
例えば,砲22門搭載の「トリニダード・デ・エスカーラ」は,8月2日に35発,4日に21発,8日に38発(1門当りではなく総数で)しか撃っていません.
また,砲20門搭載の「サンタ・バルバラ」は7月31日に22発,8月1日に28発,2日に47発.
アンダルシアの「サン・フランシスコ」に至っては,戦い全体で21門の砲から242発,主砲のカノン砲2門からは10発と12発しか撃ってません.
これは,至近距離で砲撃,そして衝角戦術へ移行する場合には極めて有効なもので,最初に1発撃って相手を怯ませようと言うモノでした.
しかし,英国艦隊は衝角,接舷戦術を行わなかった訳です.
となると,砲戦での決着しか無く,砲弾の装填をしなければなりません.
ところが,スペインの大型砲は殆どが二輪砲架で,砲脚が長く引き戻すのに苦労する代物,加えて,砲架だけで甲板と同じ幅があったり.
したがって,艦内に引き戻すのは無理,であれば,船の外で装填器を熱い砲身に跨がせ,清掃と装填作業を敵の砲火の中で行なわねばなりませんでした.
即ち,至近距離での連続砲撃は難しい訳です.
一方の英国艦隊は,同じ状況であっても,砲架は二輪ではなく四輪でした.
四輪ですから極めて安定し,二輪だと必要な砲脚や大きな車輪は不要で,発射後は速やかに複滑車で砲を艦内に引き戻し,艦内で装填し,再び定位置まで戻すと言う作業が円滑に行え,更に作業スペースを取ることもありません.
また,四輪の安定性は,作戦中に砲を自在に旋回でき,目標を定めるのにも有利です.
と言う訳で,イングランド船は優秀な帆走能力でイスパニア船を翻弄し,こちらの有利な射程で砲弾を撃ち込むことが出来た訳です.
従来の海戦は,前述のように,至近距離での砲戦で相手を威嚇(または足を止める)し,衝角で船体に穴を開けて沈める,或いは接舷戦闘で,艦を捕獲するのが主流でした.
しかし,イングランドはその方策をとらず,砲戦で相手を倒す作戦を選んだ訳です.
【質問】
15-16世紀の砲はどのようなものだったか?
【回答】
防衛技術研究家,多田智彦によれば以下の通り.
青銅製の鋳造砲もあったが,主流は,樽を作るように錬鉄の角棒を丸く並べて筒状に組み立て,角棒の間を鉛で充填し,その外側から箍(たが)を巻いて補強し,砲身にするタイプだった.
このようにして作った砲は,両端がオープンなので片方を砲口とし,他方に火薬(発射薬)を入れた薬室を取りつける.
砲身は,丈夫な木材の架台に固定され,薬室の後ろには,射撃時の反動を受けて砲尾を固定する木材が入れられた.
砲弾は薬室側,すなわち砲尾から装填するため,後装式と称された.
砲身(Barrel)の語源となった樽型を改良したものが,糸巻型と称されるもので,錬鉄性の短い糸巻型の筒を繋ぎ合わせて砲身を構成する方法である.
糸巻の繋ぎ目には錬鉄性の箍を嵌めて固定するが,この方式でも薬室を砲尾に取り付け,砲弾を砲尾から装填するようになっていた.
一体構造で砲口から砲弾を装填する前装砲としては,青銅・黄銅製と鉄製があった.
青銅・黄銅砲は鋳造で製造されたが,鉄は技術が確立していなかったため,鋳造は一般的ではなく,鍛造が主だった.つまり鍛冶職人が鉄板を叩いて筒状に加工するのである.
したがって,口径の大きな砲は製造できなかった.
(from 「世界の艦船」,海人社,2003/10,p.76)
【質問】
サード朝のマンスールは,ソンガイ帝国をどのように征服したか?
【回答】
サード朝とソンガイ帝国の間では,タガザの岩塩鉱山の領有をめぐって軋轢が生じていた.
それに加えて,1471年に黄金海岸に到達したポルトガルやスペインがサハラを経由せずに直接海岸地帯から金を入手し始めており,東からはオスマン帝国がサハラ交易の要地トゥワットに勢力を伸ばし始めていた.
1590年12月29日,火縄銃装備の歩兵2000,同装備の騎兵500,槍と投げ槍装備の騎兵1500のモロッコ軍は,8000頭のラクダと1000頭の馬を引き連れてマラケシュを出発.
1591年3月1日,サハラ砂漠を踏破したモロッコ軍は,3月21日,ガオ近郊のトンディビに駐屯していたソンガイ軍を急襲する.
モロッコ軍はサハラ越えによって1000余人にまで減少していたが,火器をはじめて見たソンガイ帝国の騎馬隊は潰走.
モロッコ軍は,4月25日にトンブクトゥに入城,逃走していたソンガイ王アスキア・イスハーク2世(在位1588〜1591)も翌年に殺害されてソンガイ帝国は滅亡する.
ソンガイ帝国の征服によってサハラ以南の国々に対するサード朝の威信は増大し,毎年1トンもの黄金がモロッコに流れ込んだという.
詳しくは
http://www.h4.dion.ne.jp/~kosak/Morocco.html#Morocc2
を参照.
【質問】
デンマーク東インド会社の始まりは?
【回答】
東インド会社と言えば,英国とかオランダとか,うんとどマイナーなもので,Franceなんてのもあったりする訳ですが,他にも東インド会社を作っていた国がありました.
1500年代末,オランダは英国と共に新興海運国として頭角を現し,スペインとポルトガルを市場から駆逐します.
1602年に設立されたオランダ東印度会社は利潤の高いアジア市場を次々に制覇して,アジア最強のパワーとなりました.
当時,欧州でオランダ,英国と共に新教国として商業の繁栄を謳歌していたのが,デンマークでした.
農産物輸出も好調で,好景気を背景にChristianIV世の指揮下に軍備を充実させ,バルト海地域にも均衡が保たれていました.
こうした国内の繁栄と周辺地域の安定を背景に,ChristianIV世は海外進出を行い,祖国に利潤を齎そうと1616年にデンマーク東インド会社を設立した訳です.
(因みに,西インド会社と言うのもあって,今の米国領バミューダ諸島に進出していたり)
その提案は,Jan de WillemとHerman Rosenkranzと言う2名の商人によって為されました.
この2人,実はオランダの商人で,彼らはコペンハーゲンの主立った商人達と語らい,設立提言書を提出し,1616年3月17日付の書簡で国王は設立を認可,7名からなる商人の発起人グループに向こう12年間の東インド,中国,日本との独占貿易を行う特許を与えました.
最初は資本が中々集められなかったのですが,更にオランダ人,Marcelis
de BoshouwerとRoland Crappeの尽力で,1618年に漸く第1船を送り出すことに成功しました.
目的地は,Marcelis de Boshouwerが既に現地の国王と繋ぎを取っていると言うセイロン.
8月に,CrappeがOeresundで出港し,11月に弱冠23歳のOve
Giedde率いるインド艦隊が,Elefanten,Davidと言う軍艦2隻,Christian,Koebenhavnと言う商船2隻で後続しました.
Crappeは,1620年2月にセイロンに到着しましたが,Marcelis
de Boshouwerの言っていた「国王」はKandy地方の首長に過ぎず,しかも,Marcelis
de Boshouwerは航海中に亡くなっており,委任状も空約束も何も役に立ちませんでした.
それでも彼は,Tanjoreの領主と親交を結ぶことに成功し,コロマンデル海岸にあるトランケバーと言う街の割譲を受けることが出来ました.
其の後,5月には後続の艦隊も到着し,トランケバーの正式割譲条約に調印し,ダンスボー要塞を築いて税金と関税を取り立て,自由貿易を行うと共に,宗教活動を行う権利も手に入れました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年02月24日21:45
【質問】
デンマーク東インド会社の経営状況はどうだったのか?
【回答】
GieddeはCrappeを総督に任命し,トランケバーを中心に発展を続けることになります.
彼らの行動範囲は,東インド海岸沿いの南はマスリパタムから北はベンガル,ジャワ島のバンタム,セレベス島のマカッサルにまで足を伸ばし,胡椒や丁字などの香辛料やコロマンデル産の綿織物を送り,順当な発展を続けていました.
しかし,1622年から39年にかけて合計13隻の船がトランケバーに送られたにも関わらず,帰還したのは僅かに4隻に過ぎず,祖国で巨万の富を夢見ていた人々を失望させました.
当時,オランダ東インド会社は,毎年10〜12隻の大型船を送り,ほぼ定期的に積荷を受取ることが出来るのと比べれば雲泥の差です.
それでも,1度船が到着すると相当な利益が出るのは間違いない話で,それなりにトランケバーは発展を続けていたのですが,1625年に30年戦争が勃発すると東インド会社の経営に黄信号が点ります.
と言うのも,この利潤の高さから,高額の軍資金を国王から求められた為でした.
しかもオランダ東インド会社は,このささやかなデンマーク東インド会社をもライバルとして見,監視の目を緩めませんでした.
そして屡々価格競争をして,相手を振り落とそうとしていたりします.
デンマーク東インド会社が何とか生き延びていたのは,戦時に中立国の旗を掲げて貿易を行うことが出来たからと言う,ただこれ一点の理由だけでした.
Crappeは孤軍奮闘したものの,デンマーク東インド会社の成績は振るわず,1636年9月,本国からSt.AnnaとSt.Jacobの2隻の船が久し振りにトランケバーに寄航します.
Crappeは11月に総督の職をこれもオランダ人のBehrent
Pessartに譲り,1637年1月,Crappeは資金も船も不足していた中,少しずつ買い集めてきた丁字と共に船上の人になり,18年ぶりの帰国の途に就きました.
そして,1636年から43年まで,Pessartが総督の職に就いたのですが,先ず彼は前任者Crappeが抱えていた借金を背負わされ,船も積荷もありませんでした.
不運な彼はトランケバーで孤立し,デンマークからの援助も望めません.
商売に熱心になれば直ぐにオランダが価格競争を仕掛けて,資力の小さな,と言うか借金まみれの彼は結果的に市場から惨めな敗北を喫し,借金は更に増え,遂にはマスリパタムの牢獄に収監されることとなりました.
此の間,トランケバーはルーテル派教会の牧師であるChristian
Pedersen,Niels Andersen Udbynederの2名に委任していましたが,彼らは要塞の防衛は疎かにするわ,原住民を虐待するわで,東インド全域に悪評紛々たる有様で,遂にはその悪評が本国に届く羽目になります.
こうして,1639年,ChristianshavnとDenforgyldte
Solの2隻の船がコペンハーゲンを出発しました.
Christianshavnの船長Willum LeyelとDenforgyldte
Solの船長Claus Rytterはトランケバーの状態が噂通りなら,Pessartを解任する任を受けていました.
最初に着いたのはDenforgyldte Solですが,到着直後にPessartの借金を示された,Rytterは,さっさと会社ともPessartとも縁を切り,勝手にベンガル湾で取引を行ったり海賊稼業に手を染めることになります.
1643年,この船はインドを後にしたのですが,本国に戻ることはありませんでした.
もう一艘のChristianshavnは,大西洋のテネリフェで3年間止め置かれ,1643年9月に漸くトランケバーに辿り着きました.
丁度その頃,Pessartは牢獄から釈放されましたが,運の悪い事にその半年後にChristianshavnがトランケバーに着いた訳です.
Leyelは要塞の状態や経営状況を調べ,即刻Pessartを総督の地位から引きずり下ろしましたが,Pessartは再び牢獄に繋がれるのはごめんとばかり,船を盗み,小型船Velbyを従えてベンガル湾に逃走しました.
これ以上,ベンガル湾でデンマークの悪評を拡げたくないLeyelは,Christianshavnで後を追う大逃走劇になってしまいます.
因みに,この2隻を最後に,本国から船が送られる事は無く,次に送られたのは1668年,つまり29年後の事になりました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年02月24日21:45
結局,追いつ追われつの追跡劇の後,デンマークの東インド会社は停滞を余儀なくされます.
1648年にChristianIV世が死去すると,彼の国の東インド熱は完全に冷め,FrederikIII世は,トランケバーをBrandenburg侯に売る事を画策しますが,これは失敗に終わりました.
もし,Brandenburg侯が購入していたら,今頃,本当に世界に冠たるドイツになってたかも知れません(苦笑.
トランケバーに対する国からの援助は途絶え,生き残る為には,ベンガル湾で海賊行為紛いのことまでしなければなりませんでした.
それもこれも,スウェーデンとの間で30年戦争を戦っていたからです.
1669年,やっと30年戦争の片がつき,デンマーク経済が持ち直した為,再び貿易船Faeroe号がトランケバーに派遣されます.
そして新指揮官Kongsbaekの下,トランケバーに設置されていた要塞の築城工事が始められ,ダンスボー要塞が完成します.
Faeroe号はそこから更にジャワ島まで航海し,胡椒を積込んで1670年にコペンハーゲンに帰港しました.
この成功で再び東インド会社の再建が本格化し,1670年11月28日,新国王ChristianV世は新しい特許をデンマーク東インド会社に発布し,以後40年間の東インド貿易の独占権を獲得しました.
これを警戒したのは再びオランダ東インド会社で,オランダの駐デンマーク公使le
Maireは,会社再建の情報を1671年1月24日付書簡で本国に報告しています.
1674年,Fortuna号が東アジアに出発します.
この船には中国,日本,トンキン国王宛のChristianV世の親書が渡されていました.
デンマークはバンタムに商館を設立し,バンタム周辺との商活動は大変活発になります.
この時期,オランダはフランスと敵対関係にあった為,その間に立っての漁父の利を得ていた訳です.
しかし,この争いが終息した1678年以降,再びデンマークは手痛い被害を被ることになりますが,1688年に再び戦争が勃発し,フランスが英国,オランダ,スペインを敵に回してから,再び中立を利用して利益を上げることになります.
因みに,Fortuna号は東アジア交易を夢見て福州まで来たのですが,此処で官憲に足留めされ,航海を差し止められ,国王の親書を手渡すことはありませんでした.
1711年,再びデンマークはスウェーデンと戦争を開始し,またも東インド経営は等閑にされてしまいました.
1729年,この北方戦争の資金が嵩んで,会社は解散を余儀なくされてしまいます.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年02月26日20:28
【質問】
逃げたpessartはどこへ?
【回答】
Pessartが逃げ出しすと,これを追ってRytterはChristianshavn号を駆って追跡を行いました.
ところが,オランダはこの動きを,いよいよデンマークが日本に向けて船を送るらしいと言う風に判断しました.
実はPessartは元々オランダ東インド会社の社員で,日本にも滞在したことがあり,デンマーク東インド会社の総督の職に就いてからも日本交易の可能性を模索していた節がありました.
小なりとは言え商館を構えている国々の動静を推し量っていたオランダから見ると,この判断は妥当なものと思われました.
よもや,総督が借金まみれで,本国から解任された挙げ句,船に乗って逃亡している身とは思わなかった訳です.
Pessartはベンガル湾を北上している様に見えました.
しかしそれは彼の策略で,実は小型船Valby号に乗り移って商館の帳簿の提出を求めるRytterから逃れようとしていた訳です.
そして,南下してトランケバー南部のナガバタムに辿り着きました.
既にRytterとの関係は最悪で,RytterはPessartの逮捕命令を出しています.
ナガバタムでPessartはポルトガルの商船を購入し,積荷としてエイの皮3万枚を用意して,Rytterが到着する前の1644年6月6日,彼はこの港を出港し,一路日本に向かいます.
因みに,エイの皮と言うのは当時刀の鞘や柄に使う為に日本で需要が高かった代物です.
けれども,マラッカ海峡を抜ける際にオランダ船に発見され,乗組員全員が捕えられ,3ヶ月拘留された後,バタヴィアで裁判に掛けられたのですが,Pessartは不当な拘禁に抗議し,釈放されることになりました.
とは言え,船と乗組員を返されたものの,エイの皮は没収,日本への航海も禁止されてしまい,一攫千金大逆転の夢は潰えてしまいました.
しかしオランダはPessartに胡椒と肉桂皮と織物を渡し,マニラで売る様に言い含めます.
実はこれには裏があり,Pessartをマニラでスペインの動静を伺うスパイとして利用しようとした訳です.
当時,オランダはスペインを目の敵にしており,近い将来,スペインの植民地を攻撃する計画を持っていました.
Pessartは監視役としてオランダ人航海士を付けられ,フィリピンに赴きますが,此処でもとことんついていない彼は,途中で船が原住民の戦士に襲われ,Pessartは矢を射られて死んでしまいました.
ついていない人はとことんついていないと言う実例ですね(ぉ.
一方,Rytterですが,彼がPessartに代わって総督になったのですが,オランダ,スペイン,ポルトガルと言った大国の間を漂う木の葉の様なもので,先ずは低姿勢に,かつ現実的な対応を取ることにします.
特にアジアの覇者と成りつつあったオランダの動向には敏感で,彼自身,オランダの機先を制して,フィリピン,中国,日本との交易を行わない様にし,当面は現状維持を優先することになりました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年02月25日22:02
【質問】
デンマーク・アジア会社とは?
【回答】
1732年,今度は東アジア会社ではなく,アジア会社が設立され,東アジア会社が持っていた独占権を受け継ぎました.
アジア会社は,トランケバーでオランダと競争関係にあった東南アジア,日本との交易は行わず,中国貿易に特化することとなり,これが功を奏します.
アジア会社は中国貿易拡大に伴い,1755年には拠点をトランケバーからカルカッタに近いセランポーに移転する事となります.
以後,年々アジアから輸入される積荷の量が増え,関税収入はそれに伴って拡大していきます.
しかしデンマークにとって中国貿易だけで十分であり,それ以上の高望みはしませんでした.
1772年にはインド会社の独占権が失効し,自由競争の時代がやって来ます.
これによりインド会社だけでなく,私有船がアジアに来航できるようになりました.
こうした貿易の自由化は,デンマーク国内の好景気を齎し,デンマークはかつてない経済成長を見せることになります.
これは1775年の米国独立戦争以後,各地で大戦争や革命が起こっていた際にも,中立を保っていた為でした.
米国の独立戦争時は中国貿易の場からフランスとオランダの船が消え,デンマークはその交易を代行しています.
フランス革命戦争の時代は,英国,フランス,オランダ,ポルトガルが参戦していましたから,インド貿易は独占状態で,1795〜96年,トランケバーに入港した船は実に104隻,うちデンマーク船は69隻と我が世の春を謳歌します.
しかし,中立政策は何処かで敵を作るものでして,間接的に英国の敵を利することとなり,英国との摩擦を生じることになります.
この為,1807年には英国艦隊がコペンハーゲンを砲撃し,デンマークはNapoleon戦争にフランス側として参戦,その為,デンマーク領トランケバーとセランポーは,1801年と1808〜15年の間,英国に占領されてしまいました.
こうして,デンマークの我が世の春は三度挫折することになりました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年02月26日20:28
【質問】
30年戦争(1618〜1648)においても,ジェームズ1世が議会と対立した理由は何でしょうか?
【回答】
フリードリヒとの姻戚関係にも関わらず,ジェームズが大陸への不介入政策を追求したため.
この不介入政策は,議会内で力の強かったプロテスタント強硬派を刺激した.
ちなみに,そもそも不介入政策を取らざるをえなかったのは,財政的余裕が無かったため.
というか,軍備拡張案が議会の抵抗にあったためでもある.
議会側の要求は,「タカ派的外交政策+緊縮財政政策」という,なかなかに両立の難しいものであった.
ちなみに次代のチャールズ1世は,スペイン(及びフランス)への出兵に失敗して前者に躓き,
結果,後者にも失敗して内乱への道を開くことになる.
【質問】
1628年と1629年のバタビア包囲について教えてください.
【回答】
オランダは,オランダ東インド会社(VOC)は1609年,東インド総督という役職を置き,翌年ジャカトラ(現在のジャカルタ)に土地を借りて商館を設けました.
第4代東インド総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーン(任1619〜1623)はVOCの地歩を固めた人物で,就任早々イギリスとバンテン王国の連合軍を打ち破ってジャカトラ全域を獲得し,この町を「バタヴィア」と名付けました(1619年).これはオランダ民族の古名「バタウィ」(古代ローマ時代にオランダ方面にいたゲルマン系部族名)にちなむ命名です.
1623年にはアンボン島でオランダ人がイギリス商館員や日本人職員らを拷問にかけて処刑した,いわゆる「アンボイナ事件」が起きています.
イギリス側は猛烈に抗議したものの,結局これを機会に東南アジアからは撤退し,インド経営に総力を注ぐことになります.
こうしてインドネシアにおけるオランダの優位が次第に確立してゆくのです.
しかし,忘れてならないのは,優位とは言ってもあくまでヨーロッパ勢力同士での話であって,ジャワ島の政治勢力としてはまだ弱小だったということです.
この時ジャワで最も強大だったのは,中部・東部ジャワ全域を支配下に置いていたマタラーム王国です.
時のスルタン,アグンは西ジャワの大国バンテン征服を決意し,その前にVOCが領有する良港バタヴィアを奪っておこうと考えました.
マタラーム軍は1628年と1629年の2回,2年続けてバタヴィアを包囲攻撃しました.しかし,オランダ軍の艦砲射撃とコレラの流行の前に敗走を余儀なくされたのでした.
但しオランダ側の犠牲も大きく,再び総督として赴任していたクーンは防戦中の1629年,コレラにかかって死にました.
現地の博物館で聞いたが,クーンは打首だそうです.ジャカルタ歴史博物館に,彼の首を切断したエクゼキューターソードが展示されている.また,隣の人形博物館に彼の墓と彼の首が鎮座した場所がある. (世界史板)
【質問】
英蘭戦争ではイギリスが勝った(?)のに,イギリスが航海法を廃止した理由は,国内で自由貿易を求める声が高まったからですか?
【回答】
英国は勝ったとも負けたとも言えない.
>いずれも中途半端な結果に終わった.しかし,一連の戦争でオランダの国力は疲弊した.
↑ウィキ日本版「英蘭戦争」の項目の,この総括が無難で妥当な評価だと思う.
>国内で自由貿易を求める声が高まったから
基本的にはそういうことです.
ただし廃止が19世紀(1849年)にまでずれ込んだのには国防上の理由もありました.
つまり,17〜18世紀の英国には商船海軍(merchant
navy)の伝統があり,「英国籍船の優遇→英国造船業・海運業の繁栄→非常時に軍鑑に転用出来る商船の増加」というロジックで,航海法はイギリスの国防にも寄与しているとの見方が一般的でした.
(例えば経済的自由主義者のアダム・スミスも航海法を,この理由で擁護)
ところが19世紀初頭にナポレオン戦争が終了し,また,蒸気船の時代がやってくると,「商船海軍」の発想はその歴史的意義を失います.
結果,国防上の理由付けを失った航海法は,ひたすら自由貿易主義者の猛攻を浴び,1849年,穀物法と前後して廃止されることになります.
世界史板
青文字:加筆改修部分
【質問】
ネルチンスク,キャフタと,中国史上最大の版図を描くほどの有利な条約(?)をロシアと結べたってことは,当時の清の軍事力はロシアと同等だったんでしょうか?
なんだかその後のことを考えると,清が強いなんて信じられないんですが.
【回答】
ネルチンスク条約(1689/9/7)はアムール川流域,キャフタ条約はモンゴルでの清とロシアの国境を定めたが,いずれも清の本国に極めて近い地域,首都北京からもさほど遠くないし,それ以前に中国統一前の女真族の根拠地満州とその近接地域である.
それに対してロシアは,はるかなシベリアのタイガ地帯を抜けなければ,その地域までやって来れない.
つまり,その地域までやってこれるロシア軍相手なら互角だったということ.
ちなみに,その当時のロシアは必ずしもヨーロッパで列強といわれるほどの強国でもなかったしね.
日露戦争下に置いては,ロシアがシベリア鉄道を建設していた為に,1日に数千ずつの兵士を極東に送り出せましたが,ネルチンスク,キャフタの両条約の時には,鉄道技術自体が作られてませんから,シベリアを通って大軍を東に展開することはかなり無理があった.
それに確かに当時の欧州は,圧倒的な技術躍進の流れにあったが,17世紀後半,まして欧州最先端の二歩後ろくらいを歩くロシアには,実務経験豊かな清の将兵が,中世的な戦法とはいえ通用しない訳じゃないのかもしれない.
ただネルチンスク条約の際には,高校の教科書なら通商を求めたロシアと遊牧民の越境を防ぎたい清・・・みたいなこと書いてませんかね?
【質問】
オイゲン公などは,貴族として家督を継げないので,軍人を志した,とのことですが,職業軍人は戦に出ずっぱりが当然としても,貴族は年に40日という拘束で,その期間が終わると戦闘中でも,とっとと帰ってしまう事があるそうですね.
そのような不安定な貴族に,将校のような重要な責務を任せてもよかったのでしょうか?
【回答】
従軍期間40日というのは,あくまで封建関係を結んでいる貴族の場合.
長期間の遠征が予想される場合は,傭兵を雇っていた.
で,その傭兵の主な供給源は,貴族の次男坊,三男坊だったわけだ.
そいつらに将校を任せれば,金の続く限りは問題なく働いた.
これがさらに時代が進むと,傭兵隊長に金だけ預けて,軍務一切を委ねる形態になる.
フランス生まれでオーストリアに雇われた(1683〜)オイゲン公も,一種の傭兵隊長といえなくもない.
オイゲン公は莫大な報酬を手にし,夏の離宮としてベルヴェデーレ宮殿を造営.
しかし,その有り余る財産は,後継ぎが無かった為に,死後ハプスブルクに接収された.
【質問】
1700年頃の欧州(具体的にはオーストリア)の軍隊についてですが,傭兵と正規兵とではやはり,部隊内での扱いは違うのでしょうか?
例えば揉め事が起きても,平等に裁かれるか,上士,下士のような差別があったか.
【回答】
その頃のヨーロッパの軍隊は,プロイセン等の一部の国を除けば殆ど傭兵で構成される.
オーストリア軍の指揮官のオイゲンからして雇われフランス貴族.
金で募った傭兵に中心に,若干の徴兵された民兵を加えるに過ぎない.
従って,傭兵と「正規兵」を区別するのは適当ではない.
士官以上は原則的に貴族だが,オイゲンもそうだが,他国の軍隊に雇われるのはごく普通だった.
渡り歩くのも珍しくなく,オイゲンのように1つの国に仕え続けるほうが珍しいかもしれない.
兵は,金目当ての人間,士官が連れてきた領地の住民,誘拐されてきた人間,騙されて入った人間,売り飛ばされた人間,犯罪者など.
兵隊の大半がならず者で,いざ戦闘になると逃げ出してしまうことが多かったのは,この時代も例外ではない.
足りなくなったら,募兵や誘拐などで埋める.
傭兵と民兵は通常別の部隊になるし,仮に同じ部隊になっても上下は階級.
まあ実際には出身やら身分やらで様々な差別があっただろうが.
余談だが,帝政期ローマのいわゆる「ゲルマン傭兵」について言えば,実はゲルマン人出身なだけでローマ正規兵の身分にある者が多かった.
もっとも大なり小なり差別はあったらしいが.
【質問】
17世紀中盤頃の傭兵隊(ランツクネヒト)に関してですが,ひとつの傭兵隊あたり,どれぐらいの規模だったのか,教えてください.
【回答】
うろ覚えでテキトーだけど.
傭兵軍の基本となる中隊は,せいぜい300-500
ただ,これは百年戦争の頃のように,常時各地をうろついていた個人経営の傭兵隊ではない.
17世紀ごろの場合,王公が傭兵隊長に軍の編成を依頼し,傭兵隊長は連隊長,中隊長を任命(あるいは自分の子飼いを選出し),彼らは募兵官を走らせて人手を集める.
兵力は王の要望によるので,千単位,万単位にもなる.
この軍を経営する責任は傭兵隊長にあるので,とらえようによっちゃ,万単位を個人経営しているといえなくもない.
最盛期のヴァレンシュタインは六万の軍隊を一手に動かしてたしな.
もっとも,傭兵隊長がやることは連隊長への指示出しくらい.
実際に前線で部隊を動かすのは,上に書いたように連隊長,中隊長レベル.
そして,戦争が終われば軍隊は解散され,任命された中隊長や連隊長も部隊の指揮権を失う.
ここが百年戦争頃の傭兵隊との違いってわけ.
傭兵軍を現在の企業のようなものととらえれば,中隊長=課長,傭兵隊長=社長,王公=株主,って感じ.
で,傭兵隊長以下は全て,現在の派遣社員のような臨時雇いと考えていい.
世界史板
青文字:加筆改修部分
【質問】
こうした傭兵隊は,普段どんなところで寝泊りしたの?
【回答】
基本的には野営,テント生活.
戦時雇用だけなので,そのまま戦場に送り込まれる.
よって,その辺の野原か,市街の周囲に野営地を置くしかない.
まあ,王公が管理している砦や農村を宿営地として提供される場合もあるけど.
あるいは,占領した街をねぐらにするとか.
世界史板
青文字:加筆改修部分
【質問】
非戦闘員(商人や娼婦など)とはどんな付き合いをしたの?
彼らはどれぐらいの人数だったの?
【回答】
いっぱいくっついてた.
時代にもよるが,おおむね兵力の30%から50%が非戦闘員で占められていた.
三十年戦争頃の記録だと,ある傭兵軍では,非戦闘員が戦闘兵員の三倍もいた,なんて話もある.
酒保と傭兵の関係では,酒保側が圧倒的に強い.
なぜなら,酒保が傭兵隊の兵站全てを握っていたから.
基本的に傭兵はむしられる側で,給料はほとんど酒,女,賭博に消えた.
このあたりはグリンメルスハウゼン作『阿呆物語』(岩波文庫,1986)や,シラー作『ヴァレンシュタイン』(岩波文庫,2003.5)を読むとよくわかる .
世界史板
青文字:加筆改修部分
【質問】
彼らは誰かに雇用されていない時はどうしていたの?
【回答】
プーっす.
手に職を持ってない連中だから,大半は日雇いの単純労働に付くか,どっか他に戦争やってるところに行く.
あるいは野盗団(マロード団とか呼ぶ)に鞍替えして,農村とかを荒らしまわる.
こいつが社会問題化したのが,ごぞんじ三十年戦争.
まあ,詳しくはラインハルト・バウマン著『ドイツ傭兵の文化史』(新評論,2002.10)を読んでくれ.
今,手元にないんで確認できぬ.
世界史板
青文字:加筆改修部分
【質問】
Zentaの戦いとは?
【回答】
ツェンタ(Zenta)は,現在ユーゴ共和国のセンタ(Senta)だそうです.
1697年9月11日(!)ハブスブルグ王国で最も優れた軍司令官,サヴォイ公ユーチェンヌがこの場所でオスマン・トルコのサルタン,ムスタファ2世の大軍を完膚なきまでに打ち破った戦場とのことです.
のちの1699年1月26日のカルロヴィッツ条約でハンガリーをオーストリアに割譲し,中欧南東部に対するトルコの脅威を取り除いた戦いだそうです.
◆沖縄の三山鼎立時代
【質問】
北山王とは?
【回答】
北山王については,王府の正史には詳しい記述がなく,知られているのは,明の記録と,民間の口承によるものだ.
それによれば元々羽地城を拠点としていた,羽地按司(あじ)の●尼芝(はにし・・恐らく羽地の読みを明側で記録する際の当て字かと思われる)が,14世紀のはじめに(1322年頃?)一族の今帰仁按司を攻めて,これを滅ぼし,北山王になったという.
敗れた今帰仁按司の子孫は各地に逃れたという伝承もあるので,ある程度事実であると思われる.
今帰仁按司は初代の●尼芝,二代目のa(みん)と続き,三代目の攀安知(はんあんち)で最後を迎える.
ただし,初代の治世は記録上70年にも及んでおり,恐らく複数の人間を明側で一人と誤認した可能性もあるが,なにせ,正史の記録が全くないのでなんとも言い難い.
さて,最後の北山王の攀安知だが,正史では「武芸絶倫」で「淫虐無道」とされる.
沖縄の王府の正史は,敵対者なり前王朝の最後の当主は皆,暴悪な人物と記載しているので,どこまで本当なのか疑ってかかるべきだろう,
後の経緯を考えると,彼が強圧的な人物で,支配地域の山北の按司たちから信服されていなかったのは確
かなようだ.
ギシュクラ in mixi,2008年01月20日03:22
●=「巾日」
【質問】
第1尚氏王朝はどのようにしてできたのですか?
【回答】
そのころ南の中山王国では,察度が開いた王統の2代目の武寧王の治世であったが,正史によれば例によって暴政を行い,民心が離れていたと記している.
これを正すべく1405年佐敷按司の思紹と,その息子の尚巴志が兵を挙げた.
武寧王は支えきれず王城である浦添城を開城,いずこへかと去った.
その没年も墓所もいまだ不明である.
勝った尚巴志は父の思紹を王位につける.
これがいわゆる第1尚氏王朝(1406〜1469)である.
ギシュクラ in mixi,2008年01月20日03:22
【質問】
なぜ北山討伐は始まったのか?
【回答】
北山・中山・南山の三つの王国だが,その勢力は中山が一頭地抜いていたようで,明に対する朝貢の回数の記録を見ても,北山は中山に全く及んでいない.
にも関らず,あるいはなればこそ,攀安知は武備に力を入れ,兵馬を訓練し,一説では中山王国への攻撃計画を立てていたという.
ギシュクラ in mixi,2008年01月20日03:22
しかし攀安知の企てる中山攻撃計画は,羽地(はねじ)按司によって中山王に通報された.
羽地按司は兵を先に動かし攻めねば悔いを残すと,先制攻撃を薦めた.
同様の通報は北山王の支配下の国頭(くにがみ)按司,名護按司からももたらされた.
ことほどさように攀安知は,その配下に見限られていた訳だが,原因としては口碑では,周辺の按司を攻め,人質を取るといった行動に出て,深く恨まれていたためという.
そのような行動に出ざるを得なかった背景としては,山がちな北山に比して中山は,元より生産力に上回る上,思紹と尚巴志が積極的に明と交易するようになり,国力の差が明確につき,中山に与する方が得なことが誰の目にも明白になっていたのではないだろうか.
ギシュクラ in mixi,2008年01月20日23:32
【質問】
北山討伐の戦闘経過は?
【回答】
1416年(1422年説もある)思紹は息子の尚巴志に北山討伐を命じた.
3月11日尚巴志は浦添(うらぞえ)按司・越来(ごえく)按司・読谷山(よみたんざん)按司の軍勢2000人とともに首里を進発,翌12日に名護に到着,羽地寒天那(寒汀那?)港で,羽地按司・国頭按司・名護按司率いる軍勢約700人と合流し船に乗船,今帰仁に押し寄せた.
当時の沖縄の人口は8万人ほどと言われているので,未曾有の大軍勢と言えるだろう.
攀安知は既に中山軍の進発の情報を得ていたのだろう,勇猛で鳴る腹心の本部太原(もとぶてーはら)とともに万全の準備を整えて待ち構えていた.
13日,ついに決戦の火蓋が切られた.今帰仁城は三方向を急な斜面に囲まれている上に,その城壁は堅固であり,攀安知率いる軍勢の士気も高く,尚巴志率いる中山軍の3昼夜に渡る攻勢はことごとく失敗に終った.
正攻法では城は落とせぬ.
尚巴志は策を練り直すことになった.
彼は地理に明るい羽地按司を呼び,今帰仁城の防備について尋ねた.
羽地按司は,城は西南方向(資料によっては東北になっているものもあり)が堅固であり,そこは防備が薄いであろうことを教えた.
尚巴志は攀安知は「淫虐無道」の人物でその配下は彼に信服しておらず,腹心である本部太原は「勇あれど謀なし.貪欲の人」であるので,利をもって誘えば調略することも可能であるといい,防備の手薄な城の西南部から城内へ密使を送り込み,絹織物を贈って本部太原に内応を約束させることに成功した.
翌日,本部太原は攀安知に
「我らは久しく城門を出でて戦っておらず,敵方はきっと我らを臆病者と思っておりますぞ.
王と臣が交代で城門を出て戦わば,敵が破るるは必定」
と王をけしかけた.
勇猛をもって鳴る攀安知は,まさか罠とも思わず本部太原の言葉を信じ,自ら軍を率い大手門から打って出た.
その勢いは凄まじく,中山軍は蹴散らされ敗走した.
勢いに乗り追撃する攀安知が城を振り返ると,なんと城から火の手が上がっている.本部太原が謀反を起こし,城に火を放ったのだ.
急ぎ城に引き返す彼の前に本部太原が立ちはだかった.
「汝既に道なし.我は中山王に降る」
激怒した攀安知は本部太原に斬りかかり,これを切り倒したが,既に城内には敵兵が侵入し,もはや落城は必至であった.
攀安知は神を呪い,相伝の宝刀「千代金丸」を引き抜くと今帰仁城の守護を祈願していた霊石カナヒヤン(金ヒャブ御嶽のご神体)に
「我を守護もせず.我とともに滅びん」
と叫んで叩き斬り,宝刀を志慶真(しけいま)川に投げ捨て,短刀で自ら首を刎ねて死んだという.
北山王は与論島や沖永良部島も版図に収めており,攀安知の長子である真松千代王子が沖永良部にいて永良部世の主と称していたが,北山王国の滅亡の報を聞いて自害した.
ここに北山王国は滅亡,尚氏によって今帰仁には一族が監主として置かれるようになった.
ちなみに攀安知の一族は逃げ延びたものもおり,現在までその系譜は伝えられている.
また彼の宝刀は「千代金丸」は後に第二尚氏の手に渡り,現在にまで伝えられ,今は那覇市に寄贈されて重要文化財となっている.
ギシュクラ in mixi,2008年01月20日23:32
【質問】
今帰仁城はどんな城だったか?
【回答】
今帰仁城は沖縄の戦国時代ともいうべき三山鼎立時代に,北部を支配した北北王の居城であり,標高100メートルの岩山の上に立つ城の規模は,那覇の首里城(中山王の居城である)に匹敵した.
出土する陶器等は中国や東南アジア各地の各地からのもので,運天の港を支配し,広く交易をして強大な勢力を誇っていたという.
ギシュクラ in mixi,2008年01月20日03:22
なお,YouTubeには「今帰仁城1」という映像があるが,著作権的に微妙.
観光プロモーション用に旅行代理店が作ったもののようだ.
◆チムール
【質問】
チムールは何故,中国に遠征したのか?
【回答】
・元朝を亡ぼした明を敵だと思っていたこと
・チムールからの贈り物に対する中国の返礼が些少だったこと
・中国国内のムスリムが虐殺されるなど不幸な状態に置かれていたこと
が動機になったようだ.
以下引用.
チムールはチンギス・カンを尊敬し,その偉業を復興し,強大な回教帝国を建設することを理想としていた.
彼は自らチンギス・カンの後裔であると称していたが,これは甚だ怪しいとされている.モンゴルの血を持っていたとしても,それは僅かで,トルコ系の血のほうがずっと多かったに違いない.
〔略〕
こうしたチムールにとって,中国への侵冦は当然為らねばならぬことであった.元朝を亡ぼした明国は,チムールが許しておくことの出来ない仇敵であった.明朝を亡ぼして,再びモンゴルの故地を自分の手で快復しなければならなかったのである.
〔略〕
チムールは沢山の物を中国に送っているが,中国からの返礼は些少な物であったようである.
このことに対しても,チムールは釈然としていなかったに違いない.
中国からの最初の使者が来た時には,チムールは既に中国に烈しい敵意を持っていたのである.
これに加えて,元朝が追放され,それに替わって明朝が成立した後,中国国内のイスラム教徒達は決して幸福ではなかった.1399年には,中国国内のイスラム教徒10万人は殺されている.
チムールに元朝復興の意思があったかどうかは分からぬが,チムールはとにかく中国へ向けて兵を動かすことになったのである.
1404年のことである.
(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.110-112)
【質問】
チムールの征明作戦の兵力は?
【回答】
遠征軍20万.
他に国境警備隊4万など.
以下引用.
チムールの最後の遠征について,バルトリドは次のように記している.
――チムールは20万の軍勢を率いて,1404年12月をアクスラトで過ごし,そこから12月25日オトラルへ向かい,1月14日にそこに到着した.
フェルガナに軍勢が集中させられたことについても,アシュパルおよびイシククル湖にいた軍勢の数についても記述はない.
(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.113)
これに先だって,1397年から翌98年の冬にかけて,チムールはその後継者ムハメット・スルタンに対し,アシュパル(現在のシル・ダリヤ州とセミレチェ州との境界を流れている川)河畔に国境要塞を建設することを命じ,4万の軍勢が与えられている.
その後,国境の要塞は,更に東方のイシククル湖岸にも作られた.
いずれも征明作戦へ備えての措置であったのである.
(同)
【質問】
チムールの征明作戦の結末は?
【回答】
遠征途中でチムールが死去した.
――1404年から5年にかけての冬は,トルキスタンで未だ曾てなかったほどの寒さであった.12月から2月にかけて,アム・ダリヤとシル・ダリヤは全て凍結した.
チムールは老衰にも拘らず,この遠征が早急に終わることを期待していなかった.
チムールはオトラルで,金帳汗国から逃げたトフタミシュ・カンの使者を謁見し,中国との戦争が終わり次第,金帳汗国を攻撃し,トフタミシュを汗位に就けることを約束した.
チムールの直接の死因は,体を温めようとして酒を飲み過ぎたせいと考えられている.チムールに死が見舞ったのは1405年2月18日であった.
大遠征を計画し,兵団と共にそこを目差す途中において病に倒れたのは,尊敬していたチンギス・カンの場合と同じであった.そして,その棺が喪を秘めて都へ還ったのも,チンギス・カンの場合と同じだった.
ただ異なるところは,チンギス・カンの亡きあと,モンゴル帝国は隆盛の一途を辿ったが,その点チムール帝国は後継者に恵まれず,不幸であった.
(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.113-114)
【質問】
1449年9月のサマルカンド郊外の戦いとは?
【回答】
チムールの孫,ウルグ・ベクと,ウルグ・ベクの長子アブド・アル・リャチフとの戦い.
ウルグ・ベクは捕らえられ,追放された後,暗殺されたという.
以下引用.
父親のシャー・ルフの死後,また内争が起こり,ウルグ・ベクとその長子アブド・アル・リャチフは協力して,その困難を切抜けるが,漸く国内が安定するようになると,今度は父と子が合い争う因果な運命に見舞われねばならなかった.
そして息子が父親から決定的に離反し,遂に血で血を洗うようなことになったのは1448年のことである.
ウルグ・ベクの如き非凡な教養人の周囲に,どのようなわけでこのようなことが起こったか,理解に苦しむところであるが,詳しくは史書は伝えていない.
1449年9月,父と子の戦闘はサマルカンド郊外で行われ,ウルグ・ベクの軍は完全に敗北を喫した.
ウルグ・ベクは,自ら任命したサマルカンド司令官の許に走ったが,城門は開かれなかった.
やむなく北方のシャールヒー城に向かったが,ここでもまた城門は開かれなかった.
そしてそこでウルグ・ベクは捉えられ,息子のところに送られた.
ウルグ・ベクは一切を息子に取り上げられ,メッカ巡礼に旅立つことを命じられた.
その命令に従うことによって,不幸な父親は生き延びうる希望を持ったかもしれなかったが,その最後の希望さえも許すところとならなかった.
ウルグ・ベクが巡礼のために,ただ一人の供を連れてサマルカンドを出発したのは夕刻であった.
何ほども行かない内に騎馬兵が追いかけてきて,沿道の準備ができていないので建物に入るように言った.
ウルグ・ベクはそのようにした.彼は,指示された建物の中に入っていった.
彼はこの時,死期の迫っているのに気付いたに違いない.
間もなく部屋に数人の刺客が入ってきた.
ウルグ・ベクは縛され,庭に連出され,斬られた.
(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.118-119)
◆18世紀〜
【質問】
スロバキアの作家が書いた歴史小説を,部分的に訳したものを,WEBで公開してた方がいらっしゃった(既に閉鎖)のですが,
内容として,1700年のハンガリー国境線における傭兵達の描写が,リアルな割には余りにも人種雑多で驚きました.(中にはインド人まで)
これは実際に有り得たのでしょうか?
まさかイスラム系の傭兵はキリスト教陣営にはいないでしょうけど,旧教と新教の対決では,自分の信仰とは無関係に,雇い主の為に戦うのですか?
【回答】
17世紀末までハンガリーを領有していたオスマントルコ帝国はインド洋やペルシャ湾沿岸まで版図に納めていたから,アフガンや海路を経由してインドのイスラム教徒傭兵がハンガリーまで行っていた可能性はある.
そのインドではイギリス東インド会社が,傭兵としてイスラム教徒やヒンズー教徒の傭兵を雇っていた.
その傭兵(セポイ)に支給された紙薬莢に豚や牛の油が防水用に塗られているという噂が発端でおきたのが,有名なセポイの乱.
三十年戦争あたりの傭兵は,金次第で動く戦争企業家みたなものだから,クライアントの信教はあまり気にしなかった.
【質問】
スペイン継承戦争の結果オーストリア領になったシチリアとナポリが,ブルボン朝支配下になったのは,どういう経緯ですか?
【回答】
●1713年ユトレヒト条約
シチリア→サヴォイ・ピエモンテへ
ナポリ→オーストリアへ
●1718〜20年四重同盟戦争(theWaroftheQuadrupleAlliance)
シチリア→オーストリアへ
※スペイン戦争での失地回復(特にイタリアでの)を目論むスペインのフェリーペ5世が,サルデーニャ及びシチリアへ侵攻.
これに対し英仏蘭墺が対抗し,その企図を挫いた.
戦後,皇帝カール6世はブルボン家によるスペイン相続を改めて認める代わりに,(サルデーニャよりも豊かな)シチリアを獲得.
一方,代地としてサルデーニャを受け取ったサヴォイ・ピエモンテは,一応割を食った格好だが,この後サルデーニャ国王を名乗れるようになったし,まあOKかな,と.
(元々ユトレヒト条約でおいしい思いしすぎ.)
●1733〜35年ポーランド継承戦争
シチリア及びナポリ→スペイン・ブルボン家へ(というかその分家のナポリ・ブルボン家へ)
※名目的にはポーランド王位の継承を巡る戦争であったが,ユトレヒト条約後の(イタリア支配を巡る)西−墺対決の最終的な精算の場として,半島では最も熾烈な戦いが行われた.
結局,
北伊・中伊→ハプスブルク家のヘゲモニー,
南伊→ブルボン家のヘゲモニー,
ということで確定.
【質問】
ピョートル大帝のヒワ汗国侵攻は,どんな結果になったのか?
【回答】
ロシア軍は近代装備の兵3千で,西トルキスタンのヒワ汗国に侵入したが,夜襲をかけられて部隊は壊滅し,兵の殆どは帰国できなかったという.
以下引用.
アブル・ガージーが亡くなってから53年後の1717年に,ヒワ汗国は突如,ピョートル大帝の派した,近代的装備を持った優秀なロシア軍の来寇を受ける.隊長はベコウィチ・チェルカッスキー,副官はフランケンベル,3千の軍隊であった.
急使によって事態の重大さを知ったヒワ汗国では,兵を動員してロシア軍に夜襲をかけ,これを徹底的に破った.
隊長のベコウィチでさえ裸にされ,首を刎ねられたくらいであるから,他の兵達がいかなる運命を持ったかは想像に難くない.生きて母国へ帰りついた兵は,ごく僅かだった.
ピョートル大帝は,再び軍をアム・ダリヤ下流の砂漠の国に送ることはなかった.
それから150年ほど,ヒワは隊商の町として栄えるが,1873年,ロシアのカウフマン将軍の攻撃を受け,今度は徹底的に破られて,遂にロシアの属国とならねばならなかった.
(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.151)
【質問】
wikipediaの「大北方戦争」の項に
>1709年スウェーデン軍,ポルタヴァの戦いで壊滅.
>カール12世はオスマン帝国に逃亡.
>スウェーデンの優位崩壊.
って書いてあるんですが,オスマン帝国に亡命って他に行く所なかったんですか?
あと帰国が1714年らしいんですが,その間なにをやっていたんでしょうか?
【回答】
まず,カール12世の進軍経路は,ポーランド発→ウクライナの黒海近辺で越冬→ポルタヴァの戦い となってます.
つまり,南のウクライナから北のモスクワ方面への侵攻という形ですから,退路も南へという形にならざるをえませんでした.
ポルタヴァの前哨戦でのカール12世の負傷もあり,スウェーデンと同じくロシアと敵対していた南のオスマン朝を頼らざるを得なかったという事ですね.
1709年7月のポルタヴァでの敗戦から1713年の初めまでカールやマゼッパがいたのは,オスマン朝に亡命したといっても,黒海の北側のオチャキフ(現ウクライナ領)市にあったオスマン朝の砦や,ティギナ(ベンデルィ,現モルドヴァ領)市の郊外にスウェーデン軍が築いた陣地で,カールはそこからオスマン朝やその属国のクリム・ハン国にロシアとの共同戦線を張るように要請.
ロシアへの攻撃に積極的なクリム・ハン国のデヴレト・ギレイ2世の働きかけもあり,ロシアと事を構えるのに消極的だった,オスマン朝のスルタン,アフメト3世はロシアとの戦端を開き,総司令官バルタジュ・メフメト・パシャ率いるオスマン軍はロシア軍を破り,オスマン側に有利な内容の1711年7月21日のプルートの和約を結ぶも,なおも戦闘は続き,オスマン朝は優位を生かせず戦線は膠着し,スルタンはバルタジュ・メフメトを解任し,政策をロシアとの講和に転換.
一転してオスマン朝にとって厄介者になったカールは,ティギナ郊外に滞在中,1713年の初めにオスマン朝とクリム・ハン国の兵士に急襲され,トラキアのディドュモテイコン(ディメトカ)を経て,アフメト3世の宮廷があったエディルネに移送される.
オスマン朝とロシアとの間の講和条約が結ばれて,1714年の10月に本国スウェーデンに帰国できるようになるまでは,オスマン側に不利になるような余計な動きをしないよう軟禁状態.
その間,カールはトルコで何をしていたかというと,まずは怪我の治療と回復.
そして,手紙でのやり取りで内政や外交について様々な指示を出していたようです.
他には,フランス語の習得(元々はフランス語嫌いだったらしい)といった事が知られています.
【質問】
サンドイッチの語源となったサンドイッチ伯爵について教えてください.
【回答】
その語源となったサンドイッチ伯とはサンドイッチ伯ジョン・モンタギューのことである.
モンタギュー家は,1662年のチャールズ2世の王政復古の際の功績でド,ーバーの北にあるサンドイッチの領主に任ぜられ,代々,イギリス海軍の重鎮として活躍.
4代目のジョン・モンタギューは,1749年から1782年まで海軍大臣を勤め,アメリカ独立戦争では強硬派として名を馳せたが,一方で公私混同も目立ち,これが独立戦争での敗因の一つになったとして,戦後失脚している.
私生活では無類のギャンブル好きだった彼は,ある日,ロンドンの賭博場で一昼夜にわたりギャンブルに興じた.その間,食事のためにテーブルを離れる時間を惜しむあまり,召使いに指示してこれを作らせたという.
以来,考案者の名をとってサンドイッチと呼ばれるようになったともいわれている.
また,1778年の第3次世界就航で現在のハワイ諸島に到達したジェームス・クックは,この島々を「サンドイッチ諸島」と命名した.クックの探検航海の推進に力を注いだサンドイッチ伯にちなんだのである.
サンドイッチ諸島は,その後,現地名の「ハワイ諸島と呼ばれるようになり,サンドイッチ伯の名もまた歴史の彼方に消え去ったが,食べ物の方のサンドイッチは,軽食のベストセラーとして,現在も世界の人々に親しまれている.
(世界史板)?
【質問】
1762年 カディス沖でリマの財宝輸送船を英海軍アクティブ号とフェイバリット号が拿捕したが,この時の拿捕賞金は艦長がそれぞれ6万5千ポンド,各水兵が484ポンドだった.
ちなみに,当時のイギリス人の年間所得は大体10ポンドくらい.当時の1ポンドは現在の100ポンド程度らしいので,艦長は現在の邦貨に換算して1億3千万円,水兵は百万くらいを手にしたことになる.
拿捕賞金とか今は国際法違反なのかな?
【回答】
いまでも有まつよ.ロイヤルネービー.
ただし個人に分配やなくて共済組合かなんかに入るらすい.
http://plaza4.mbn.or.jp/~ysino/hansen
によると1739年,熟練水夫の月給は1ポンド4シリング,未熟練水夫の月給は19シリング,強制徴募に応じると賜金として月給三ヶ月分プラスアルファが出たようです.
拿捕賞金という宝くじに当たるような僥倖に恵まれないとしても,まあ,普通の熟練工程度の給料は得ていたようで,しかも普通の熟練工が日雇いなのに比較すると,安定していたとは言えるようです.
(軍事板)
http://www.eh.net/ehresources/howmuch/poundq.php
【質問】
「パトリオット」という映画を見ると,戦闘の時は,太鼓を叩きながらキレイに整列して行進しながら競技のように銃を撃ち合っているんだけど,これがアメリカ独立戦争当時の戦闘スタイルなの?
【回答】
そう.
アメリカ南北戦争で施条銃が普及するまでは,小銃の射程距離は短く有効射程は現在のピストル以下だった.
隊列を組んで射撃する際,敵の白目が見える距離で発砲しろという経験則があるほど.
30メートルとかで,マスケットを撃ち合う場合,隊列を組んで火力を集中する戦闘法が最も優れていた.
太鼓を組むのは戦列を維持しながら行動するための手法.
隊列の端には経験を積んだ兵卒上がりの下士官がいて,隊列を乱したりびびって逃げ出す奴がいないように部下を指揮監視していた.
鉄の規律で知られたプロイセン軍では,隊列から外れた(逃げ出そうとした)兵士は即下士官によって射殺されることになっていた.
また,当時の軍服は赤やら青やら派手な色彩をしていたり,旗手が部隊の旗を持って一緒に進軍している.
これはどの部隊がどこにいて,どういう状況かを,軍を指揮する将軍が遠くからでも把握できるようにするため.
【質問】
ポツダム巨人軍について教えてください.
【回答】
巨人軍とは言っても,発行部数だけは日本一の,強欲ボケジジイに率いられた某新聞の私兵ではありません.
どうなるK−1…チェ・ホンマン,年内にも兵役へ
18世紀前半,プロイセンにフリードリヒ・ヴィルヘルム1世ちゅう君主が居りまして,そのお方,たいそう大柄な兵隊がお好きで,大枚はたいて各地から大男を集めて部隊を編成しました.
それが“巨人軍(ポツダム巨人軍)”です.
始めは同軍の中から長身の兵士を選抜していたのですが,その内エスカレートして行き,国内どころか他国でも,長身の男が居ると聞けば徴兵官を差し向け,通常の何倍もの契約金や給与でスカウトし(その辺,どこかの巨人軍と同じですな),場合によっては誘拐まで行って兵隊をかき集め,王は悦に入っていました.
当然,他国領に押し入ってまで兵士を集めることは当然外交紛争となりましたが,王はまったく反省せず,その王の奇癖は国際的に有名になり,各国の大使は外交儀礼の贈り物として,芸術品や宝石の代わりに長身の兵士を連れて来るようになったそうです.
で,大金を使って育てたその巨人軍ですが,肝心の戦闘力は如何かと言えば,フル編成の状態では,王は一度も実戦に投入していないので未知数です.
その後,息子のフリードリッヒ2世(フリードリッヒ大王)が即位した際,実質解体され,残留希望者だけで一個大隊に再編成されたそうですが,その戦闘力は,他の大隊と比べてもそれ程突出している訳でもなく,かといって目立って劣っている訳でも無い,大金を消費する割には可もなく不可もない程度だったようです(この辺も,某巨人軍と同じ?).
翻って,チェ・ホンマンですが,入隊しても使い所に困るでしょうね.
戦車とかの車両系は身長でダメでしょうし,歩兵とてトラックや兵員輸送車,ヘリとかにも乗らなければならないからキツそうだし,前線はキツいでしょうね.
かと言って,後方で事務やらせるのも事務所が暑苦しく成りそうだし.