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◆インドシナ戦争 Indokínai háború
戦史FAQ目次


 【link】


 【質問】
 インドシナ戦争とベトナム戦争の違いを教えて.

 【回答】
 簡単に言えば,インドシナ戦争はフランスとの戦い,ヴェトナム戦争はアメリカとの戦い.

 インドシナ戦争は,別名をフランス・インドシナ戦争と言い,四回に渡って行なわれています.
 最初が1858-63年で,ナポレオンIII世がインドシナへのシャムの進出を牽制し,かつ,フランス人宣教師がヴェトナム人によって迫害されるのを止めさせようとしたもので,1858年の晩夏にフランス,スペインの連合軍が,ダナンを占領したのが最初.
 しかし,熱帯病と食糧不足に悩まされ,首都フエへの進撃をせず,代わりにサイゴンを占領.
 ところが,ダナンでは新たにこれらが発生した上,フランスは第二次アヘン戦争にも関わっていたので,和平を模索したが,翼帝嗣徳※1が拒否.
 サイゴンでは,ヴェトナムの包囲軍に対し,良く持ち堪え,1861年に援軍によって解放された.
 また,第二次アヘン戦争で中国からフランス軍部隊は解放され,その兵力を以て東コーチシナに進軍,また翼帝側もトンキンで叛乱が起きた為,和平を受諾.
 フランスは,サイゴン,ミト,ビエンホアの東コーチシナ三省とコンソン諸島を割譲され,フランス貿易のために三つの港を開港,信仰の自由の確認と多額の賠償金を得る.

 第二次は1873~74年,フランソワ・ガルニエが当時まだ開かれていなかったハノイに派遣され,フランス人密輸業者の釈放を強要.
 ハノイ当局がその指示に従わなかった為,彼が連れていた軍隊はハノイ要塞を占領し,紅河デルタ地帯の要塞軍を占拠,北部の主要都市の大半を掌握.
 しかし,黒旗海賊と言われるヴェトナムと清の連合※2が決起,1873年末にガルニエを捕らえて殺し,フランス船は拿捕,トンキン地方のフランス寄りの街は襲撃を受けたため,一旦フランス軍は北部から撤退.
 但し,翼帝に対して,フランスのコーチシナ支配を認めさせ,キリスト教徒の迫害を認めさせないとした上,紅河の交易路の使用を認めさせる.

 第三次は1882~83年.
 清がヴェトナムに対する主権を宣言し,軍を派遣の上,トンキンを占領.
 フランスは未だにキリスト教徒迫害が続くのに憤慨し,植民地拡張政策を実施して清と対立.
 リヴィエール大尉を中心とした軍をハノイに派遣して,清軍と黒旗海賊の掃討を実施.
 彼はハノイ要塞,ナムディン沿岸,ホンゲイ炭坑を占領したが,大尉は反撃を受けて戦死.
 フランスは増援部隊を送り,トンキンをヴェトナムから割譲させる協定を翼帝から取り付ける.
 清がその協定に反対すると,フランス軍はハイフォン,ハノイを攻め落とし,フエを砲撃.
 最終的に,トンキン,アンナンはフランスの保護領トンキンは保護領,アンナンは保護国※3になった.

 第四次は最終戦争みたいなもので,1946~54年.
 1945年の日本軍撤退後,ホーおじさんのヴェト・ミンが独立国家「ヴェトナム民主共和国」の独立を宣言したが,フランスは自治国家としての独立を主張.
 これに反発したヴェトミン軍が,46年12月,フランスの守備隊を攻撃し,各地でゲリラ戦を展開.

 ホーおじさんは当初は交渉路線で,しかも自治国家もやむを得ずとしたのに,再進駐してきたフランス軍がこれを認めず,攻撃してきたので戦争になった.※4
 1949年には廃帝バオ・ダイをフランスは担ぎ出し,彼の下にフランスの傀儡政権,「ヴェトナム臨時政府」を樹立させ,支配の正当性を主張.
 しかし,徐々にヴェトミン軍は浸透し,54年3月13日から5月7日にかけてのディエンビエンフーの戦いでフランス軍が降伏,その間に交渉が進められ,フランスは北緯17度線まで撤退
 その間の交渉により,ジュネーブ会議でアメリカとの対立を回避したかったロシア・中国からの「説得」によって,ベトミン側はやむなく17度線まで後退.※5

 ヴェトナム戦争はその後,1956年から75年にかけて行なわれたもので,ホーおじさん率いる,ヴェトナム民主共和国を後ろ盾とするヴェトナム独立同盟会南部解放民族戦線ことベトコン(アメリカ・南ベトナム側からの蔑称)※6と,ヴェトナム共和国との間での内戦が勃発.
 その内戦に介入したのがアメリカ軍で,彼等はまずヴェトナム共和国軍に軍事顧問団を派遣.
 1961年からはその軍事顧問団に戦闘権限を与え,64年8月2日,トンキン湾にいた米海軍駆逐艦を攻撃したと言うニュースにより,ジョンソン大統領が介入を決断し,議会から武装攻撃撃退の権限を与えられ,北爆とヴェトナム共和国での戦闘の為に米軍部隊が派遣される.
 一方,ヴェトナム民主共和国側も直接戦闘に関与し,南に侵攻を開始.
 68年1月末のテト攻勢,69年7月には陸上部隊のヴェトナム化による米軍部隊撤退.
 72年,ヴェトナム民主共和国軍は南部ヴェトナムの北側を占領し,米軍は報復としてハイフォン港を機雷で封鎖し,12月には徹底的な都市爆撃を行なった.

 73年1月27日に停戦の合意が成ったが,戦闘は散発的に続き,74年にヴェトナム共和国軍部隊は遠隔地の前哨部隊を撤退,大都市部に軍隊を集中したが,75年にヴェトナム民主共和国軍の攻勢を支えきれず,ヴェトミンは中央高地を支配し,共和国軍はクァンチ,フエを放棄,残存米軍も撤退を開始.
 4月30日,ヴェトナム共和国は無条件降伏し,民主共和国軍とヴェトミン軍解放戦線軍※6はサイゴンを占領.
 長く続いた戦いは終りを告げる.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 世界史板

※1
 正しくは翼宗嗣徳帝です.翼宗が廟号.嗣徳は年号.
 阮朝は一世一元なので通称嗣徳帝.
 「翼帝」という表記は熟していません.
 翼宗という呼び方も通常は使いません.

※2
 劉永福率いる黒旗軍は太平天国の残党(他にも数種類いた)で,山岳部(現在の行政区画で言うと西北山地地方)を拠点としていました.
 水賊はそれ以前からトンキン各地で跳梁跋扈していたが,基本的に黒旗軍とは別系統.
 フランスはそう見なしていたのかもしれませんが,「黒旗海賊」という呼称は不適当かと.
 また,黒旗軍は清朝から見れば反乱軍の残党なので,ベトナム・清連合が結成されるのは多少遅れます
(清朝側が使えるものは何でも使おうと言うことで,黒旗軍にお墨付きを与えたはず).
 日本語で詳しい書籍は
山本達郎(編)『ベトナム中国関係史』(山川出版社),
坪井善明『近代ヴェトナム政治社会史 ――阮朝嗣徳帝統治下のヴェトナム』(東大出版会).

※3
 トンキンは保護領で,アンナンは保護国です.
 フランス語での区別はちょっと今出てきません.ごめんなさい.

※4
 このように記憶してます.
 最初の一手はフランス側だったのでは?
 東南アジア史に関する概説書は概ねそのように記述しているはずです.

※5
 これは視点の置き方ですが,ベトミン側の支配地域はもっと広かったけど,ジュネーブ会議でアメリカとの対立を回避したかったロシア・中国からの「説得」によって,やむなく17度線まで後退したというのが通説だと思います.

※6
 「ヴェトナム独立同盟会」はベトミンのことです.
 ここで当てはまるのは「南部解放民族戦線」ことベトコン(アメリカ・南ベトナム側からの蔑称)でしょう.
 最後の文の「民主共和国軍とヴェトミン軍」も,「民主共和国軍と解放戦線軍」となるはず.

HASU in 「軍事板常見問題 mixi支隊」


 【質問】
 フランス軍は,ヴェトミンのゲリラ戦にどう対処したか?

 【回答】
 柘植久慶「麻薬戦争地図」(銀河出版,'93)によれば,以下のように説明されている.

 フランス軍は46年末,ヴェトミンのハイフォン蜂起を完全に叩き潰す.
 しかしこれにより,ヴェトミンが戦術を180度転換,農村部を中心とするゲリラ戦に転じ,なかなか正規軍の作戦行動では捕捉できなくなる.
 そこで特殊作戦の必要性が痛感され,山岳部族の組織化が考えられた.潜入してくるゲリラの侵入路を,山を熟知した山岳民族の部隊で攻撃せんとする計画だ.偵察行動にしても山岳民族には卓越したものがある.音一つ立てずに山岳地帯を移動し,敵を発見すれば,弓矢で音もなく倒した.
 その組織化の中心となったのが,フランス軍落下傘部隊のトランキエ少佐だった.彼は通称「レッド・ベレー」の優秀な指揮官として知られ,陸軍士官学校を卒業しているが,実に柔軟な発想の持ち主であり,現地人傭兵の組織化を実行に移した.
 彼は大佐としてアルジェリアの反ド=ゴール叛乱に参加.後,コンゴにおいてカタンガ共和国傭兵隊を組織化し,その地の共産化防止に尽力した.近代フランスの伝説的軍人の一人で,フランス人は「タンキエ」に近い発音で彼を呼ぶ.

 インドシナにおける少佐の活動は,中部高原からトンキン地方にかけ,山岳部族の集落ごとに接触することから始まった.気長に交渉しては説得し,味方につけるという,本格的な宣撫工作を徹底した.

 トランキエ少佐の考えは,軍首脳部から拒絶反応を食った.そうなると軍資金が問題となる.そこで活路を阿片に求めた.山岳民族に芥子を栽培させ,収穫した阿片を安定した価格で買い上げ,彼らに収入の道を与える.それを阿片専売公社に売却し,収益を得た上で軍資金とする.
 これを少佐が麻薬取引に関係したと直接,結びつける訳にはいかない.なぜなら,阿片を10倍精製するとモルヒネができるが,それは鎮痛剤として合法的な物であると同時に,重要な軍需物資として欠かせない物でもあるからだ.モルヒネこそ軍隊が戦闘する際の基本的な薬品と言える.
 豊富な軍資金を得た少佐は,それを元手に山岳部族の若者達を徴募した.彼らはヴェトナムへ連れていかれ,サイゴン近郊のヴンタウ訓練キャンプで教育された.〔略〕
 余談だが,後のラオス政府軍第2軍団を率いたヴァン・パオ将軍は,こうして徴募されたメオ族兵士の一人である.彼は軍曹としてフランス軍に在隊し,その後に才覚を発揮して,瞬く間に昇進を遂げた.
 彼はメオ族軍人で最も成功を収めた人物として知られた.1932年生まれで,その人生は戦いで終始した.54年にゲリラ戦の経験を買われ,陸軍少佐としてラオス陸軍に奉職.内戦下ではプーミ・ノサヴァン将軍を支持,第2軍司令官に任命された.

 こうして編成された山岳部族の反共ゲリラ部隊は,インドシナの山地を縦横に活躍していく.彼らはインドシナ3国の他の民族より勇敢で,敵に積極的に立ち向かった.

 戦果は上がったものの,軍首脳部は以前としてトランキエ少佐に100%の支持を与えようとはしなかった.
 〔略〕
 トランキエ少佐は大佐に昇進,インドシナにおけるレッド・ベレーの司令官となる.
 しかし,この地での彼の活躍は,54年で終わりを告げた.フランスの敗北が決定的となり,ジュネーヴ協定が締結されたからである.

(P.17-20)


 【質問】
 インドシナ戦争時,フランス軍外人部隊には本当に元SSが多かったのか?

 【回答】
 古是三春・ビトウマモル『フランス外人部隊の全て』(イカロス出版ミリタリー選書,2009.9),p.141-142 によれば, 外人部隊は1950年までには15000人だったのがインドシナへの派遣などから,程なく約二倍の30000人に増加.
 その主な供給源となったのは,旧独軍の戦争捕虜や東欧からの難民であり,インドシナに送られた外人部隊兵に多かったのは,旧独軍兵士や失業した独の若者たちで,全体の六割占めていたとしている.
 但し,後に共産主義者達の
「多数の元武装SS隊員が外人部隊としてインドシナで戦い,残虐行為をほしいままにした」
という宣伝については,基本的に公職追放されていた元武装SS隊員が,例え外人部隊とはいえ,仏軍部隊に参加する事は許されておらず,そうした事実が判明すれば連合軍構成国からの厳しい非難は避けられない,として誇張だとしている.

( -_-)(たしかディエンビエンフーではホルスト・ヴェッセル・リート(ナチ党党歌)が歌われていたという話を読んだことがあるが…
 でもまあ,ナチ党員のみが歌っていた訳じゃ無いだろうし)

グンジ in mixi,2010年01月02日15:08


 【質問】
 インドシナ戦争の,ジュネーヴ会議までの経緯は?

 【回答】
 太平洋戦争末期,1945年3月に日本軍は明号作戦を決行し,フランス植民地軍の武装解除を敢行します.
 そして,8月15日の日本敗戦と共に一時的な権力空白が発生し,それに乗じてヴェトナム独立同盟(ヴェトミン)の指導者のホー・チー・ミンはハノイに臨時革命政府を樹立,9月2日にヴェトナム民主共和国の独立を宣言しました.

 しかし,連合国はポツダム会談で北緯16度以北を中華民国軍が,以南を英軍が担当する様に決定しており,それに基づき,7月に誕生したアトリー政権は,9月中旬にダグラス・グレーシーを司令官とした英印軍をサイゴンに空路派遣しました.
 英印軍は,日本軍の武装解除,連合国軍捕虜の救出,治安維持を実施しました.
 一方で,フランスのインドシナへの復帰を支援し,兵士移送や現地植民地軍の再武装を実施すると共に,サイゴンへ戒厳令を布告し,ベトミンに対する活動を規制して,彼らを追討する為や物資輸送に,国際法を無視して捕虜となった日本軍兵士を使役することまでしています.

 こうしたフランスへの配慮は,仏領インドシナの崩壊が自国が維持していたマラヤ,シンガポール,北ボルネオなどに波及する事を恐れ,また,当時,米国政府が標榜していた反植民地主義への批判が英国に集中するのを懸念していた他,フランスの影響力回復は戦後欧州の国際秩序再構築に不可欠であり,その為にはインドシナ支配の再確立は不可分の問題でした.

 ところが,こうしたフランスへの配慮は,アトリー政権内部の軋轢を生み出すと共に,帝国内部の不協和音を表面化させます.
 労働党内には対仏支援に反対する左派グループの存在がおり,彼らはアトリーを批判しましたし,インドシナに兵を拠出していたインドからも反発を招いたのです.
 インドは当時,英国からの独立を模索している最中であり,一方で,独立運動弾圧の先鋒を担がされている事に大きな不満を持っていたからです.

 この様な国内外からの批判を考慮し,アトリー政権は1946年4月末にインドシナから手を引きました.

 フランスは英国の支援を得てインドシナに復帰すると,1946年2月に重慶協定を締結して共産党との戦争を優先する国府軍の北部からの撤退を取付け,北部への進軍を本格化すると同時に,ホー・チー・ミン政権との交渉に乗り出し,3月6日,フランス本国政府とホー・チー・ミン政権は,ヴェトナム民主共和国を,「インドシナ連邦及びフランス連合の一部として,その政府,議会,軍隊,財政を持つ自由な国家」として承認する事で合意しました.

 しかし,この予備協定では2つの大きな問題が未解決のままでした.

 1つ目は,ヴェトナム民主共和国を,トンキンの1地方政府として扱い,アンナンやコーチシナを含む地域統一の政府として認めなかった事で,統一政権を目指したホー・チー・ミン政権としては当然これを不服としました.
 2つ目は,インドシナ連邦とヴェトナム民主共和国との関係で,フランスは自国の高等弁務官が管理するインドシナ連邦を頂点に,その下位にヴェトナム3地域とラオス,カンボジアの5つの「自由国」に制限付の内部自治権のみを付与する意向でした.
 これも,完全な独立国として国際連合加盟を目指していたヴェトナム民主共和国が呑める条件には程遠く,幾たびかの会談の末,交渉は決裂して,1946年12月に両国は戦闘状態に入り,此処に第1次インドシナ戦争が勃発する事になります.

 ところで,アトリー政権は一旦インドシナから撤退したのですが,東南アジアへの関与は引き続き行います.
 特に,1947年夏以降,マラヤで中国系住民を中核とする共産党の武装蜂起が活発化し,ゲリラ部隊がゴム農園,錫鉱山への襲撃や鉄道路線や輸送路の爆破・妨害が多発するに及び,6月にエドワード・ゲント高等弁務官がマラヤ全土に非常事態宣言を宣言し,共産党とその関係団体を非合法化して,多くの指導者を逮捕,投獄すると共に,1949年初めまでに15個大隊の軍を投入して,掃討戦に当ると共に,住民と共産ゲリラとの接触を遮断する目的で,「新しい村」と呼ばれる一般住民の再定住化政策を推し進め,1950~52年の間に57万人が480カ所の居住地に移住させられました.

 こうした一連の流れは,戦後経済的苦境に立つ英国にとってマラヤのゴムと錫は重要な輸出物資であると共に,対米輸出を増大し,ドル不足を解消する重要なツールでもありました.
 また,インドやパキスタンが大英帝国から離脱し,インド亜大陸からの政治的・軍事的後退を強いられた英国にとって,マラヤを始めとする東南アジア植民地の喪失はその世界的影響力の減退を食い止める上で,避けなければならない事であり,この地域はインド喪失後のアジアに於けるプレゼンスを維持する為の戦略的重心と言う位置づけが為されていた事から絶対死守しなければならない地域でもありました.

 その為,アトリー政権内部では次第に,インドシナとマラヤを連動する問題として考える動きが強まり,インドシナが共産化すると,東南アジアへの共産主義の拡大が留まらなくなり,その危険がタイに及ぶと,地続きのマラヤも危うくなると言う認識を持つ様になります.
 これにより,アトリー政権内部では,インドシナ戦争を,「アジアに於ける冷戦の最前線」と位置づけ,マラヤの防衛線を仏領インドシナとタイの境界を為すメコン河に位置すると考えられる様になっていきます.

 そんな折,1949年10月1日に中国では国民党軍が大敗して台湾に逃れ,毛沢東が中華人民共和国の成立を宣言しました.
 こうした状況に衝撃を受けつつも,不思議な事にアトリー政権は1950年1月に中華人民共和国政権を承認しました.
 また,アトリー政権は例えインドシナに人民解放軍が介入してもフランス支援を目的とした軍事介入を行わない事を決定します.
 インドシナに武力介入して傀儡政府を樹立したとて,民衆の支持を得ていない政権では,共産主義政権をドミノ的に創り出すだけだという結論に至ったからです.
 寧ろ,頑迷なフランス政府を説得して,早くインドシナ諸国を外交的に独立させ,幅広い国民の支持を得た安定政府を樹立する方が良いと考えました.

 しかし,フランス政府はホー・チー・ミン政権への対抗政府を樹立する事に力を注ぎ,1949年3月,ヴェトナムの統一や特定諸国への外交官の派遣,独自軍隊の創設などの権限を阮朝最後の皇帝であったバオ・ダイに付与するエリゼ協定を締結して,6月,バオ・ダイを元首とするヴェトナム国を発足させました.
 これは英国が懸念していた,民衆の支持を得ていない傀儡政権そのものでした.

 アトリー政権はヴェトナム国の外交承認を検討しましたが,これをフランスの傀儡政権と非難するインドを始めとするアジア諸国の厳しい反発に遭いました.
 傀儡批判を躱すには,アジアの英連邦諸国,インド,パキスタン,セイロン,ビルマなどが英米に先行してバオ・ダイ政権を承認するのが望ましく,その為には最低でもフランス国民議会によるエリゼ協定の批准が必要でした.
 1950年1月の英連邦諸国会議では,英国のベヴィン外相が各国にバオ・ダイ政権の承認を訴えかけましたが,インドはフランス帝国主義批判を繰り返して承認に異議を唱えています.

 1月29日にフランス国民議会は激論の末に,やっとエリゼ協定を批准します.
 ところが,1月18日には中華人民共和国政府がホー・チー・ミン政権を承認し,31日にソ連政府がこれに続きました.
 それを見て,英国と米国は慌てて2月7日にバオ・ダイ政権を承認し,エリゼ協定と同種の協定を結んでいたラオス,カンボジアの両政府へも外交承認を与えました.
 その後,英米に倣って,オーストラリア,ニュージーランド,タイ,大韓民国がバオ・ダイ政権を承認したものの,インドとセイロンは,ホー・チー・ミン政権を承認しない代わりにバオ・ダイ政権に対しても不承認の姿勢を貫きました.

 1950年代は,インドシナ戦争の「国際化」が進む年代でもあります.
 1950年春に,中華人民共和国政府はホー・チー・ミン政権への軍事支援を決定すると,それに対抗する米国は,対仏支援を強化しました.
 元々,米国は東南アジアを英国の伝統的な責任圏と見なして介入を控えていたのですが,中国が共産化し,朝鮮戦争が勃発して以降,フランスの戦費の大部分を肩代わりするなど,積極的にインドシナへの関与を強めていきます.
 但し,1950年2月作成の「インドシナに対する合衆国の立場」と言う報告書で既にトルーマン政権は,インドシナでの共産主義陣営の活動を東南アジア全域の奪取を目指す計画の第1段階と見なしており,あらゆる可能な措置を講じてこの地域を守り抜く事を最優先課題に掲げています.
 以後,米国もこの泥沼に引きずり込まれる事になるのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/05/09 21:50

 さて,1951年,マラヤでの武装蜂起が最高潮に達する中,アトリー政権は倒れ,10月から保守党のチャーチルが政権を担う事になります.
 ただ,東南アジアに関してはチャーチルもマラヤの確保に重点を置き,インドシナに対しては一定の距離を置いて,フランスが米国の支援によってインドシナで持ち堪える事を望んでいました.
 また,50年代初頭の時点では,未だチャーチルはインドシナでのフランスの勝利を期待しており,インドシナ戦争の外交的解決を提唱した訳ではありません.

 それが変化しだしたのは,1954年の1月から2月にかけて行われた連合国四カ国によるベルリン外相会議です.
 会議本来の目的であったドイツ問題に関しては,何ら進展が無かったのですが,副産物として,朝鮮半島とインドシナの問題を討議するジュネーヴ会議の開催が合意されました.

 一方,現地では3月中旬から,ヴェトナム北西部のラオス国境に近い仏軍要衝地であるディエンビエンフーに対し,ホー・チー・ミン軍が総攻撃を仕掛けました.
 世に言う,「ディエンビエンフーの戦い」です.
 フランスに取ってみれば,この地が陥落しても,即座に敗北に繋がるものではなかったのですが,その敗北は兵士の士気に影響すると共に,フランス国民の間に厭戦気分が広まる上,そうなるとラニエル内閣の存続が危うくなる恐れがありました.

 それを阻止すべく,米国の新しい大統領であるアイゼンハワーは積極策に打って出ます.
 まず3月29日,ダレス国務長官が海外記者クラブで「赤いアジアの脅威」と題するスピーチを行い,ソ連と中華人民共和国の東南アジア支配に対抗する西側諸国のUnited Actionを呼びかけました.
 ダレスはこのUnited Actionに,深刻な危険が伴う事を認めつつも,共産主義者の挑戦に断固立ち向かう事が急務だと訴えました.
 更に4月7日には,アイゼンハワー自らが記者会見で,有名な「ドミノ理論」をぶち上げます.
 大統領は,インドシナの喪失が,ビルマ,タイ,インドネシアを含む東南アジア全域の共産主義化を促し,更に日本が貿易相手を求めて共産主義陣営に接近を図っていく可能性もあると述べたのです.

 その3日前,チャーチルに宛てた書簡でも,アイゼンハワーはドミノ理論を用いて,共産化されたアジアのマンパワーと天然資源,そして,日本の潜在的工業力の結合に注意を喚起し,チャーチルに,ダレスが発表したUnited Actionに支持を求めると共に,
「共産主義の拡大阻止に重大な関心を持つ諸国家からなる,新たな特別な集団,若しくは連合体の設立」
を呼びかけ,最後にこう書いて書簡を締めくくっています.
「もし…歴史を参考にするなら,我々は適切な時期に団結して行動出来なかったが故に,ヒロヒトやムッソリーニ,ヒトラーを食い止める事に失敗したのです.
 それがその後,何年も続く事になる完全なる悲劇と絶望的危機の始まりとなりました.
 我々両国は,この教訓から何か学んでいたのではなかったのでしょうか」

 この頃は,日本が未だ敵視されていた訳です.
 そう言えば,ANZUS条約が締結されたのも,対日戦争の為の同盟だったりする訳で,現在の様に日米同盟なんて言っているのは,つい最近の話だったりします.

 米国の呼びかけに対し,チャーチルは先ず,米政府が示唆した東南アジア集団防衛体制の構築に,賛成の意を示しました.
 ジュネーヴ会議でインドシナの休戦を成立させた後,共産主義の拡大を阻止するには,集団防衛機構を設立させるのが不可欠でした.
 同時に,こうした集団防衛機構の設立で,大英帝国の植民地防衛に米国を巻き込み,一方で,米国の危険な単独行動を封じ込める事が出来ました.

 元々,チャーチルは米国主導で英連邦に属するオーストラリアとニュージーランドを防衛するANZUS条約から,自国が排除されている事を不満に思っていました.
 この為,英国も加わる新たな集団機構を設立して,香港やマラヤなどの防衛に米国の力を利用しようと考えていました.
 但し,その設立はジュネーヴ会議が閉幕してからでなければなりませんでした.
 一旦,それを受け入れると,共産主義陣営が会議の進行を妨害する可能性があったからです.

 一方で,インドシナへのUnited Action,即ち,共同しての軍事介入にはチャーチルは断固反対しました.
 米国の見通しとしては,強硬姿勢を取る事で,実際に軍事介入することなく,中華人民共和国によるヴェトミン支援を中止出来ると考えていました.

 しかし,イーデン外相を始めとする英国側首脳は,
こうしたブラフが通用する保証はなく,逆にインドシナ介入を拡大した場合,朝鮮戦争で起きた様に,人民解放軍と米軍が直接対決するかも知れない,
その上,中ソ友好同盟相互援助条約を発動してソ連が新たに参戦する可能性も否定出来ない,
そのインドシナの混乱に乗じて,韓国の李承晩が北朝鮮への軍事的冒険を再び発動したり,台湾の蒋介石が大陸反攻に打って出れば,アジア全域の戦争,下手をすれば第三次世界大戦を引き起こしかねない,
と考えていました.

 チャーチルは,その戦争では状況如何で米国は躊躇無く核兵器を用いる可能性があると考えていました.
 チャーチルはアイゼンハワーと会談をした際に,アイゼンハワーにとって,核兵器は,抑止力ではなく使用可能な「最新の通常兵器」であると言う認識しかないのに懸念を強めていましたし,1954年3月に米国がビキニ環礁で行った水爆実験で,破滅的な核戦争の恐怖を痛感していました.

 英国の軍指導部も,米ソ両国の内,核の使用に訴えやすいのは米国であり,特に中国との対決ではその可能性が一層高まっていると分析していました.
 こうした状況で,一旦軍事介入が始まると,そのエスカレーションを抑えるのは容易ではない為,核戦争の危険を回避するには,最初から米国をインドシナに介入させない様にしなげればなりませんでした.

 もう1つ,チャーチルが軍事介入に反対した理由は,英連邦諸国の意向でした.
 アイゼンハワー政権が構想していたUnited Actionと集団防衛機構の両方で,主要メンバーとして期待されていたのは,英国の他にオーストラリアとニュージーランドです.
 しかし,結果的に両国も軍事介入に協力しない意向を固めました.
 英連邦諸国はこの2カ国だけでなく,それ以上に英国が気を遣っていたのが,アジアの連邦諸国,特にインドの動向でした.
 米国と共同歩調を取ってしまうと,アジアの英連邦諸国の反発を招き,英連邦の瓦解が起きる事を恐れたのです.

 4月25日,インドのネルー首相は議会での演説で,
「アメリカの態度は,戦争の国際化を図るもの」
と強く非難し,ジュネーヴ会議でのホー・チー・ミン政権とフランス政府の直接交渉と,インドシナへの域外諸国の干渉を排する協定の締結などの6項目を提案しました.
 更に,ネルーはこの提案をインド,パキスタン,セイロン,ビルマ,インドネシアから構成されるコロンボ諸国会議に持ち込み,参加国の支持を取付けます.
 これは,アジアの意見を無視した欧米諸国による,力でのインドシナ支配に異議を唱えるものでした.

 イーデン外相はこの点に留意し,インドシナ戦争を
「軍事的闘争ではなく,思想の戦争」
と捉え,アジア諸国の意見を味方に付ける重要性を説き,特に非同盟運動の指導的立場にあり,新興独立国の中で多大な道義的権威と政治的影響力を持つネルーを疎遠にする行動を,西側諸国は取ってはならないと考えていました.
 また,イーデンはインドの中華人民共和国に対する影響力にも注目しています.
 先日触れた「平和共存五原則」の提唱により,両国は接近し,ネルーと周恩来は,この原則がインドシナ戦争の平和解決にも適用可能であると確認していたからです.

 インドと中華人民共和国との関係を考慮すると,中華人民共和国はインドシナで露骨な干渉行動に出られないであろうし,そうなるとインドシナの中立化を尊重せざるを得ないのではないか.
 もし,それを無視して干渉行動を起すのであれば,アジア諸国は中華人民共和国に不信感を抱いて西側諸国に接近する事になると言う分析により,イーデンはインドの支持獲得が,インドシナ戦争の休戦や集団防衛機構創設の鍵になると考え,ジュネーヴ会議の進捗状況を,インド,セイロン,パキスタンに逐一報告して彼らに疎外感を持たせない様に配慮しています.

 一方,ダレスはインドを疎ましく思っていました.
 英国はインドの影響力を通じて中華人民共和国の抑制を期待したのに対し,米国はその英国の動きが逆にインドをして「拒否権」を与える事になり,インドが中華人民共和国に接近する余り,中国にも「拒否権」を与える事になると考えた訳です.

 4月11日,ダレスは訪英し,イーデンの説得に努めます.
 23日に開催されたNATO閣僚会議でも,ダレスは長広舌を振い,西側の断固たる対抗の意思が,中華人民共和国の侵略を阻止し,ディエンビエンフーで苦境に立つ仏軍の士気を高め,ジュネーヴ会議でのフランスの交渉力を増大すると力説し,英国政府の承認が得られれば,大統領は直ぐにでも議会に赴いて,戦争権限の付与を求める意向だとイーデンに詰め寄ります.
 更に,ダレスは英国の具体的貢献として,英国に香港やマラヤから2~3個飛行隊のインドシナへの派遣を要求しました.
 しかし,イーデンも負けておらず,軍事介入の危険性を指摘して,United Actionに対する支持を与えませんでした.

 4月25日,チャーチルは臨時関係閣僚会議で,8項目からなるインドシナ政策を決定し,米国の要求を最終的に拒絶します.
 その要点は,ジュネーヴ会議の席上でフランスに外交的支援を与える事に傾注し,その会議終了以前には如何なる軍事行動にも参加しない,一方で,会議が不調に終わった場合は,その時点で取るべき対応策を同盟諸国と協議するとして,含みを残しつつ,軍事介入に関しても明快なコミットメントを与えなかったのです.

 因みに,この会議に出ていたマクミランは次の様に書き残しています.

――――――
 昨日の協議や,このおかしな話の全体をよく考えてみると,良き助言を持たないアメリカ人と言うものが,如何に危険であるかに気づかされて恐ろしくなる.
 (中略)
 我々はよく考え,注意深く仕上げた計画を持って,適切な時に適切な場で対抗しなければならない
――――――

 4月26日,英国の最後の説得に,米国のラドフォード統合参謀本部議長が訪英します.
 この時,チャーチルはアイゼンハワーのドミノ理論を退け,万一インドシナが共産主義支配に陥っても,英国は独力でマラヤを防衛出来ると語りました.

 こうした自信をチャーチルが示せたのは,1951年をピークにマラヤ共産党の活動が衰えてきた為でもあります.
 マラヤ情勢が深刻だった頃には,ドミノ理論も説得力を持ち得たのですが,マラヤ情勢が落着くと,インドシナの戦略的重要性は低下し,英国にとっては最早どうでも良い存在になっていました.
 チャーチルはラドフォードに,インドが帝国から独立した時点で,英国にとってのインドシナの重要性は既に失われていたのであり,今更英国の軍隊を介入させてフランス帝国を守らなければならない理由は存在しないのだと率直に語りました.
 インドシナを失う事でフランスが世界大国の座から転落しても,それは英国には関係のない事であり,英国が自力でマラヤ情勢を好転させたのと同じ様に,フランスも「2年の兵役」を設定するなどして,自助努力すべきだと突き放しました.

 こうして,米国による最初のヴェトナム介入は,英国の反対で頓挫しました.
 ま,理由はそれだけではありませんが.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/05/10 23:07

 さて,朝鮮半島とインドシナ問題に関するジュネーヴ会議は,1954年4月26日から開催されました.
 この会議は,予想通り朝鮮半島問題では成果を得る事が出来ず,5月8日からのインドシナ問題に世界の注目が集まりました.
 その前日の7日,遂に要衝ディエンビエンフーが陥落し,フランスは当初から脆弱な立場からの交渉を強いられる事になります.

 このジュネーヴ会議には,共同議長国として英国とソ連,紛争当事国のフランスとヴェトナム民主共和国,それに,ヴェトナム国,ラオス,カンボジア,米国,中華人民共和国の9カ国代表が勢揃いしました.
 ただ,米国人もフランス人も,共産主義陣営の代表と接触しようとしなかったので,勢い,英国が走り回る羽目になりました.
 また英国は,こうした会議の進捗を逐一,英連邦諸国にも知らせる様苦心しています.

 この会議が幾度も瓦解に瀕したのに,何とか妥結出来たのは,共同議長を務めた英国のイーデンと,ソ連のモロトフの舵取りの賜物でした.
 両者の関係は,ベルリン外相会議から親密の度を増しています.
 元々,ベルリン外相会議ではドイツ問題の解決など端から諦めており,英国のイーデンは,スターリンとチャーチルとの間で悪化した英ソ関係を打開する事に力を注いでいました.
 それ以降,英国とソ連との外交当局者間には,ある種の仲間意識が芽生えていたと言います.

 一方で,英米関係は冷え切っていました.
 イーデンはダレスと個人的に不和であり,ダレスはイーデンにほぼ病的とも言える怒りを抱き,英国代表団が中華人民共和国の周恩来の米国批判に対抗しない事に失望して,「同盟は終焉間近だ」と語っていたと言います.
 その結果,5月3日にはダレスは帰国し,代わりにスミス国務次官が米代表団を率いる事になりました.
 これは事実上,米国がジュネーヴ会議から手を引き,参加者ともオブザーバーともつかない中途半端な立場で,会議の進展を見守る事になります.

 そうした状況を受けてイーデンは,自らの調停外交が英米同盟の結束を乱しているのではないかと不安を抱きましたが,チャーチルは究極の目標を,米ソ首脳会談による緊張緩和に置いており,ジュネーヴ会議の成功はその為の第1歩として,極めて重要な位置づけである為,イーデンを鼓舞し,支持を与え続けました.

 ソ連と中華人民共和国もそれぞれの思惑から,インドシナ戦争の終結を望んでいました.

 ソ連は,西側諸国との戦争のリスクを冒してまで守らなければならない戦略的・経済的利益をインドシナに有していませんでした.
 クレムリンから見れば,ヴェトミンの勝利によるインドシナの共産化よりも,米国との対決に繋がる紛争回避が重要でした.
 また,インドシナの休戦により,西欧諸国が進めてきた欧州防衛共同体構想を破綻に追い込みたいという狙いもありました.
 特に,欧州防衛共同体に参加する西ドイツの再軍部を警戒するソ連は,インドシナ休戦で協力する見返りに,フランスにこの構想を破棄させようと画策していました.

 中華人民共和国はより切実でした.
 米中両国は,朝鮮半島で戦火を交えたのですが,それは置いておいて,西側との新たな対立を回避させて,国内開発・経済発展に注力する事が先決でした.
 特に1953年からは第1次5カ年計画が策定されたので,それを阻害するインドシナ戦争への参戦を避ける目的がありました.

 英国は,マラヤの防衛に関心がありました.
 英国はマラヤへの共産主義伝播を避け,インドシナを中立化して,出来るだけ北方に効果的な防壁を構築する計画を持っており,それには,ヴェトナムの南北分割を固定化して,南部地域を西側世界に保持すると同時に,マラヤ北方のタイを共産主義から守る為にも,ラオスとカンボジアに侵攻したヴェトミン軍を撤退させて,両国を共産主義陣営から隔絶する事が重要でした.
 但しイーデンにとっては,ラオスとカンボジアは西側陣営に属する必要が無く,緩衝地帯として中立化する事が望ましいとしています.

 会議当初,共産主義陣営は,インドシナ三国の一体的解決を求め,三国それぞれの個別休戦協定を求める西側諸国と対立しました.
 ホー政権側は,ヴェトナム全土の75%を支配しており,その軍事的優勢を利用しての,ラオスとカンボジアへの有利な条件での妥結を試みたのです.

 逆に西側諸国は,ヴェトナム問題とラオス,カンボジア問題は切り離すべきだとの考えでした.
 そもそも,ヴェトナム問題は国内問題であるのに対し,ラオス,カンボジア問題は両国へヴェトミン軍が侵攻し,両国内の抵抗勢力と結託して王国政府の打倒を画策していたからです.
 西側諸国は,ラオスとカンボジアからヴェトミン軍を撤退させ,抵抗勢力を武装解除させて,安定政権の下,国民統合を図る事を考えていました.
 それに対し,ホー政権側は両国にヴェトミン軍が駐留している事すら認めていませんでした.

 事態が動いたのは,6月16日のイーデンと周恩来の会談でした.
 周恩来は,ヴェトナム問題とラオス,カンボジア問題の切離しを認め,その上で,ラオスとカンボジアをインドやビルマ,インドネシアの様に自由で独立した生活を送る事を要望し,米国が両国に軍事基地を設置しない事を誓約するのであれば,中華人民共和国はホー政権側を説得し,両国から撤退させる用意があると表明したのです.
 イーデンは周恩来に同意して,米国に軍事基地建設の考えがない事を「保証」しました.

 こうして7月3日から5日にかけて,周恩来は柳州にホー・チー・ミンを招き,ホー・チー・ミンの説得に当りました.
 周恩来は,米国の軍事介入の危険を冒してフランスと戦い続けるよりも,ジュネーヴ会議で休戦を締結し,政治的手段を通じて中長期的な影響力の拡大を狙う方が賢明であると説きました.
 周恩来は続けてインドシナ問題は,「6億の人口を抱える10カ国」に影響を及ぼす問題であると述べました.
 ラオス,カンボジアからヴェトミン軍が撤退して,両国と良好な関係を結べば,インド,ビルマ,インドネシアなどの周辺国は,ヴェトミンによるヴェトナム全土の支配に反対せず,選挙を通じた国家統一が必要になると言い,更に戦争の継続よりも和平の討議をした方が,西側世界を分裂させて米国を孤立させるのに有効な戦術だと説きました.

 ホー・チー・ミンは中華人民共和国の説得を受入れ,ラオス,カンボジアからの撤退に応じました.
 更にヴェトナムに関しても,北緯16度線を軍事境界線とする暫定分割に応じましたが,北緯18度線を主張するフランスとの間で協議が難航し,7月20日,モロトフの仲裁で,両者の中間である北緯17度線での分割で妥協が図られました.
 同じ日にラオスでの休戦が,翌日にはカンボジアでの休戦が合意され,此処に8年に及んだ第1次インドシナ戦争は終結を見ました.

 ジュネーヴ協定は,単一協定ではなく,ヴェトナム,ラオス,カンボジアに関する3つの休戦協定と,ヴェトナム国,ラオス,カンボジア,フランス,米国の各国が発した9つの単独宣言,それに会議の「最終宣言」を併せた13文書の総称です.
 3つの休戦協定は,ヴェトナム,ラオス,カンボジアの軍事同盟への不参加,三国での外国軍事基地の設置禁止,武装解除や休戦協定を規定しました.
 但し,ヴェトナム国やラオス,カンボジア,フランス,米国がそれぞれ留保条件を単独宣言中に盛り込んだので,拘束力のない,抜け穴だらけのものとなり,特に米国がヴェトナム,ラオス,カンボジアでの選挙に言及した最終宣言への参加を留保して,「留意する」に留まった事は,将来的に暗い影を落としました.

 そのインドシナでの休戦・選挙監視の為に,インド,カナダ,ポーランドによって構成される国際監視委員会(ICC)がインドシナ三国に設置され,議長国にはインドが就任しました.
 しかし,米国が発した単独宣言ではICCの権限を認めず,国際連合の監視下で南北ヴェトナム統一選挙を実施すべきだと主張していました.
 これは,ポーランドを通じた共産主義諸国,特に中華人民共和国の影響力排除を狙って,中華人民共和国が加盟していない国連を用いての選挙監視を狙ったものでした.

 こうした抜け穴だらけで不完全なジュネーヴ協定でしたが,兎にも角にも戦争は終結し,ラオスとカンボジアが中華人民共和国とタイの間で独立した中立緩衝地帯となり,英国としては所期の目的を達成しました.
 しかし,この会議を通じての米国の行動は,イーデンに強い対米不信を抱かせ,米国を東南アジア和平の障害と見なすまでに至っています.
 特に中華人民共和国の関係について,排除しようとする米国と,利害関係国として東南アジア秩序の構築に関与させようとしていた英国との対立は,決定的になっていきました.

 その対立の火種となったのが,東南アジア条約機構(SEATO)です.
 英国はジュネーヴ会議が締結してからが望ましいとしたのに対し,米国はそれよりも前に行うべきだとしました.
 結局,英国側が折れ,6月から英米間での検討を開始しました.
 その結果,9月1~4日にフィリピンで事務レベル協議を重ね,8日に東南アジア条約機構(SEATO)の創設を謳ったマニラ条約が締結されました.
 加盟国は,米国,英国,フランスの他,オーストラリア,ニュージーランド,タイ,フィリピン,パキスタンの8カ国でした.

 英国は非常に不満でした.

 1つ目は加盟国の問題です.
 英国としては,東南アジアと銘打っているのであれば,地域大国であるインド,セイロン,パキスタンも参加させるべきだと考えていました.
 アジア諸国がまるっきり参加していない軍事機構は,SEATOが欧米帝国主義による軍事的再支配の試みだと,誤解される恐れがありました.
 英国は将来的な影響力の衰退は不可避であることを見据え,SEATOを核にして,アジア防衛機構としていく事を考えていました.

 一方の米国は,インドを参加させるのならば,日本や台湾を参加させなければバランスが取れないと牽制します.
 結局,インド,セイロン,パキスタンに集団防衛機構参加に関するイーデンの書簡を送ったところ,マニラ会議に参加を表明したのはパキスタンだけとなりました.
 カシミールなどの対立で,インドを差し置いて,パキスタンだけが加入するのであれば,印パの反目を益々深めて,英連邦の紐帯を阻害する恐れがありました.

 2つ目はインドシナ三国の扱いでした.
 米国としては,これら三国への共産主義伝播を防止する為の同盟であり,当然これらの諸国は保護対象となる存在であるとします.
 実際,米国務省は三国を保護対象国として,条約本文に明記する方向でした.
 一方,英国はフランス,フィリピン,パキスタンと共に,三国を保護対象として明記するのに反対しました.
 周恩来との会談で,米国はインドシナ三国に軍事同盟への参加を強要しないと伝えていたからです.
 また,英国はインドシナ三国の中立化を以て,マラヤへの共産主義防波堤にする目的もありました.
 最終的に,米国の目論見は崩され,議定書に付記する事で妥協を図ります.
 更に,英国はマニラ条約の第4条3項として,
「インドシナ諸国に関しては,当該政府からの招請又は同意がない限り,如何なる行動を取ってはならない」
と言う条文を追加する事にも成功しました.

 ただ,インドシナへの軍事介入に関して一定の歯止めが掛けたにせよ,インドシナを保護対象に指定した事で,ヴェトナム民主共和国側と中華人民共和国の敵愾心を高めただけでなく,コロンボ諸国のSEATOへの不信感も強め,更に英国にとっても,三国政府の要請が条件とは言え,インドシナ介入の方法が残ったので,ラオスやカンボジアの中立化という英国の目的の核心部分にも傷が付きました.

 最後の問題は,脅威の定義でした.
 米国は明確に,「共産主義者の侵略」への対処に限定する事を望みました.
 これは,反共組織としてSEATOを規定して,中華人民共和国とヴェトナム民主共和国への抑止力を高めると同時に,目的の特定化により,アジア諸国が経済・軍事援助を引き出す事を封じると共に,非共産主義国間の紛争には関与しない事を明確化しようとしたものでした.
 英国は,こうした露骨な米国の提案は,中華人民共和国の反発を招く上に,インドやビルマ,セイロンなどの反発も買って,非同盟諸国のSEATO加盟の芽も摘むものだと反対しました.
 結局,この「共産主義者の侵略」という文言は,マニラ条約本文に記載する事は見送られ,「アメリカ合衆国の了解」と言う別文書に,自己の行動が「共産主義者の侵略に対してのみ適用される」と宣言した事で妥協が図られました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/05/11 22:01


 【質問】
 ジュネーヴ会議以後のインドシナ情勢は?

 【回答】
 さて,ジュネーヴ会議でインドシナ情勢が安定したかと言えば,全くさに非ずでした.
 特にラオスでは,その動きが顕著で,アイゼンハワー政権はラオスに反共親米政権を樹立させる為,巨額な財政・軍事援助を行いました.
 1955年以降米国が行った支援の総額は3億1,160万ドルを超える巨額なもので,これは年平均5,200万ドル,不思議な事に,ラオスの国家財政の112%に相当します.

 そのラオスで勢力を伸張してきたのがパテト・ラオです.
 この組織は,第2次大戦後に抗仏戦を目的に結成され,ホー・チー・ミンとは共闘関係にありました.
 当然,北ヴェトナムは元より,中華人民共和国とも関係を持ち,ジュネーヴ会議後も北ヴェトナムと中華人民共和国の支援を得ながら,両国に隣接するポンサリー,サムヌア両県を拠点に勢力を維持していました.

 アイゼンハワー政権はパテト・ラオを打倒する為,1955年10月にラオスの米国大使館内に軍事援助を指揮監督する計画評価部(PEO)が設置されました.
 ジュネーヴ協定は外国軍事要員の駐留を禁止していたため,PEOは文民組織の体裁を取っていましたが,職員の多くはペンタゴン派遣の退役軍人でした.
 この援助を通じて,米大使館は様々な非公然活動を行っていましたが,それには「自主防衛」軍への支援や民生援助計画も含まれていました.

 自主防衛軍というのは,ラオス陸軍の工作員とポンサリー,サムヌア両県から選ばれた民間人からなる特定の部族指導者を,パテト・ラオ支配地域の特定目標に対する小規模攻撃を仕掛ける為,小さなレジスタンス集団に組織したものであり,軍や警察への支援と同時に,装備の供与などを通じて自主防衛軍の強化に努め,その活動にCIAを関与させました.
 この他,ラオス王国陸軍や移動部隊を村落に派遣して医療・健康,教育,土木などの民政事業支援活動を行い,民心を王国政府側に惹き付け,パテト・ラオとの離反を促す為の心理作戦の一環としていました.

 1955年12月にラオスで選挙があったのですが,これにも米国は悉く干渉します.
 パテト・ラオはボイコットした為に,それ以外の政党が入り乱れたのですが,アイゼンハワー政権はポスターや映像を駆使した宣伝工作や,買収の為の直接資金援助を通じて特定候補者への梃子入れを図り,結果的に39議席の国会の議席中,非左翼系政党が31議席を占めるまでになりました.

 ジュネーヴ協定が締結された後,時の首相プーマとパテト・ラオ指導者のスパーヌウォン殿下との間で,1957年11月にビエンチャン協定が締結され,ポンサリー,サムヌア両県の行政権とパテト・ラオ戦闘部隊の王国政府軍への統合,パテト・ラオの政治団体である「ラオス愛国戦線」の公認なども規定し,11月19日にはスパーヌウォン殿下も入閣してプーマ連合政府が成立し,ラオスが安定したかに見えました.

 しかし,米国は干渉の手を緩めず,1958年5月に行われたポンサリー,サムヌアでの補欠選挙でも50万ドルをばらまいて保守系候補を支援しました.
 ところが,結局はパテト・ラオが21議席中9議席,同系の平和党が4議席を占め,左派が過半数を占める結果に終わりました.
 これにより,59議席のラオス国会議席中,左翼政党が3分の1を占める結果となり,米国の懸念は益々強まりましたが,補欠選挙の実施による国内統合のプロセスが完全に終了した事を理由に,1958年7月,ラオス政府はICCによる国際管理状態からの脱却を図りました.

 この平穏状態は長く続きませんでした.

 1958年6月に,左派系政党の台頭に脅威を覚えた軍部首脳,右派勢力,王室関係者が「国益擁護委員会」を結成して,プーマ連合政権の中立路線の修正と左派勢力排除に打って出ました.
 この結果,8月18日にプーマ内閣は総辞職し,国益擁護委員会4名を含むサナニコーン内閣が誕生しました.
 サナニコーンは親米路線を打ち出し,閣内からラオス愛国戦線閣僚を締めだした上,スパーヌウォン殿下を含むパテト・ラオ幹部8名を逮捕,投獄しました.
 以後,1960年5月に脱走に成功するまで,彼らは獄に繋がれる事になります.
 そうなると,王国軍とパテト・ラオの対立が再燃し,1959年にはラオスは事実上分裂状態に陥りました.

 1960年4月に実施された総選挙では,国益擁護委員会の右派勢力が勝利して,ソムサニットが首相に就任します.
 この選挙への米国の干渉は徹底しており,CIA要員が袋一杯の現金を持って村落長の買収に奔走し,サムヌア県のある選挙区では,当選者6,508票に対し,愛国戦線候補の得票数は僅か13票と言う結果が出たところもありました.

 米国としては,これで枕を高くして寝られるはずでしたが….

 1960年8月9日未明,空挺部隊第2大隊長のコン・レ大尉が,シーサワン・ウォン前国王の葬儀により,主要政治指導者がルアンプラバンに集合して首都ビエンチャンを不在にした隙を突いて,空挺部隊の部下500名と共にクーデターを敢行し,政府機関,放送局を占拠して短時間のうちに完了しました.
 そしてソムサニット政権下での国内分裂,同胞間の悲劇を訴えて,その政権を背後で操る米国を強く非難する演説を行いました.
 この演説は,国民の間に爆発的な人気を博します.
 その人気を背景に,コン・レはプーマの再登坂を促し,プーマは新国王サワーン・ワッタナーの信任の下で,16日に挙国連立内閣を組閣しました.

 しかし,この連立内閣は累卵の危うきに瀕します.
 ソムサニット政権下で国防相を務め,米国の支援する右派勢力の実質的指導者であったノサワンが9月10日,チャンパーサック王家のブン・ウム殿下を担いで「反クーデター委員会(後に革命委員会と改称)」を組織して事実上の対抗政権を樹立したのです.

 当然,コン・レの反米演説に対して米国は激怒して援助を停止し,アイゼンハワー政権は南部サバナケットを拠点とするノサワン軍を支援します.
 また,ノサワンとは縁戚関係にあったタイ首相のサリットもラオスに対する経済封鎖を実施して,ノサワンを側面から支援しました.

 そうなると,敵の敵は味方….
 10月7日,プーマはソ連政府との外交関係樹立に踏み切り,中華人民共和国との友好関係樹立と,北ヴェトナムへの使節団派遣を11月7日に発表し,8日にはスパーヌウォン殿下との間でパテト・ラオとの共同戦線樹立を宣言しました.
 12月初旬からは,北ヴェトナム経由でソ連によるコン・レとパテト・ラオへの武器・年強の空輸支援が開始されます.
 これは,第2次大戦以来,ロシア革命以後最大規模の外国援助でもありました.

 これを見て困惑したのは,英国のマクミラン政権です.
 元々,英国としてはラオスはカンボジアと共にインドシナで緩衝地帯を形成して,北方の中華人民共和国と北ヴェトナムからタイやマラヤを防護する役割を期待していました.
 此処で内戦を長期化させる事は,結果的にパテト・ラオの共産主義支配の拡大をもたらすだけだとし,全ての物事に白黒を付けたがるアイゼンハワー政権と違って,中立派と左右両勢力を糾合した連合政権の樹立を目指し,プーマを唯一の指導者候補と考えていました.

 英国外務省は,アイゼンハワー政権がラオスへの軍事介入を検討していると言う情報を得ていましたが,英国側にはそれに賛成する者はいませんでした.

 例えば,西側諸国がSEATOの集団防衛措置として介入した場合,中華人民共和国と北ヴェトナムが「義勇兵」を動員して参戦してくるかも知れない,そうなると通常兵器では対処しきれず,核兵器の使用も検討せざるを得なくなる,と.
 また,戦域を拡大すると,英国も西ドイツに展開しているライン駐留軍(BAOR)や英国本土,或いはグルカ兵を徴募してラオスへの兵力補充に充てねばならない,しかし,現実にはベルリン情勢の緊迫化によりBAORや本土からの兵力移動は不可能でした.
 更に,1960年は「アフリカの年」とも呼ばれ,欧州諸国の植民地支配から17カ国が一気に独立しました.
 12月14日には,アジア・アフリカの43カ国の提案により国連総会で,「植民地独立付与宣言」が採択され,あらゆる形態の植民地支配を「急速且つ無条件に終結」させることが謳い上げられました.
 この動きは,多数の植民地を有する英国への批判ともなって表われてきます.

 こうした動きに英国が苦慮していた時期,1961年1月6日にはフルシチョフ共産党第一書記が,第三世界での民族解放闘争を鼓舞する演説を行い,西側諸国がラオスに介入した場合,一層,AA諸国の批判の高まりが予想される様になりました.
 マクミランとしては,介入が新たな「欧州人とアジア人の戦争」と解釈される事があってはならないとし,それが新たな植民地主義と批判されるのを強く警戒していました.

 …それに対し,米国は余りに脳天気だったりします.
 正に,この時期の米国は「バカが戦車でやって来た」という感じです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/05/12 22:56

 さて,1961年,米国はラオスに介入したがっていました.

 しかし,英国はと言うと冷めていました.
 朝鮮戦争の時代の様に,敵が明らかに不法に戦争を始めた訳でなく,自らが火を付けておいてそこに飛び込もうとしている状態なので,これでは国連の支持を得る事は難しく,更に現在では第三世界に属する国々が多く加盟している状態なので,米国の行動は支持を得るどころか多数派の反対に逢うであろうと分析しています.
 同様の懸念は,ニュージーランドのホリオーク首相も抱いており,彼はマクミランに対し,ラオス問題は国連安全保障理事会では決着が付かず,総会に持ち込まれて3分の2の多数派に非難されるだろうと述べています.

 英国外務省は,この問題を巡っては,当然の事ながら,第三世界の雄を自認しているインドや,自らも植民地支配を受けている自治領のマラヤへも影響が出るだろうと危惧しています.

 これらのリスクを考慮した結果,マクミラン政権としては,先ず交渉による解決の模索が先決であると判断しました.

 一方でアイゼンハワー政権は,相も変わらずパテト・ラオ封じ込めに邁進していました.
 彼らはラオスを,東南アジアに於ける「瓶のコルク栓」に例え,ラオス内戦を東南アジア全域の安全保障を左右する鍵と見なしていました.
 要は,相変わらずドミノ理論に終始していた訳です.

 1960年12月のNATO閣僚会議に於いて,米国のハーター国務長官は,ラオスでの「力の政策」を披瀝していました.
 仮に内戦が悪化して軍事介入が必要になったら,米国はそのリスクを負う覚悟が出来ていると言い,米国が介入してラオスが安定化したら,北ヴェトナムはラオスを重要視していない為に直ぐに関心を失い,ソ連も飛行場を占拠すれば直ぐに関心を失って撤退するだろうと楽観的な見通しを語っていました.

 この楽観的な見通しの根拠として,ラオスでは米国の支援の下,12月17日にノサワン軍がビエンチャンの奪取に成功し,それに先立つ10日にはプーマは政権を投げ出してカンボジアへ逃亡しており,ノサワンが担ぐブン・ウム政権が王国議会から正当政府としての信任を勝ち取っていたりします.

 英国は米国と異なり,プーマを最適なラオスの指導者と考えており,プン・ウム政権を説得してプーマ中立派と連合政府を形成させる事に力を注いでいました.
 そして,ネルーが提案したICCの活動再開に支持を与えました.

 因みに,インドがラオス和平に熱心だったのは,何もラオスのことを考えていたからではありません.
 SEATOの軍事介入に参加する見返りに,敵国であるパキスタンが米国から軍事援助を受け,印パ間の軍事バランスが崩れるのを懸念していたからです.
 パキスタンに米国の武器が流入するのであれば,インドとしても対抗上軍事費を増大せねばなりませんが,インドにはその余裕が無かったと言う理由もありました.

 一方でカンボジアのシハヌークは,ジュネーヴ会議の再招集を提案して国際的な関心を集めていましたが,これにソ連が乗り,1954年のジュネーヴ会議参加国の9カ国に,タイ,ビルマ,ICC3カ国を加えた14カ国での会議開催を唱えました.

 丁度その頃,米国では共和党のアイゼンハワーから民主党のケネディへと政権が交代しました.

 ケネディ政権はICCの活動再開や,ジュネーヴ会議の再招集に何れも難色を示しています.
 ケネディとしてはラオス内戦を通じて,フルシチョフのソ連が自分の政権とどのような関係を結ぶつもりでいたのか,ラオスを重要なテストケースと見ていました.
 このラオスでの米ソ対応如何で,ベルリンやキューバ,コンゴを巡るホットスポットの対応策が変わる可能性があったからです.
 新大統領にとっては,ソ連が提案する国際会議の場では非難合戦の場と化す可能性が高く,交渉破綻の場合のダメージが大き過ぎるものでした.

 更にソ連外交部は,ラオスの休戦合意や連合政府の樹立と言った妥協策よりも先に,国際会議の招集を求めたのも問題視しました.
 米国の国務省側は,国際会議を開催するにしても,先ず実効的な休戦の成立を最低限の条件としていました.

 1961年春,事態は再び動きます.
 ラオスではパテト・ラオが再び巻き返しを図って,ジャール平原など国土の半分以上を支配するようになり,ビエンチャンやルアンプラバンの陥落が危ぶまれていました.
 今度は,ここで暫く時間を稼いで軍事的優勢を更に拡大させたい共産主義諸国と,即時休戦でパテト・ラオの進撃を食い止めたい米国側の思惑が対立します.

 しかし,ケネディの思いの方が強く,何とかジュネーヴ会議の開催に歩み寄りを見せる様になりました.
 3月21日のホワイトハウスでの会議に於いて,交渉による問題解決の模索と,その外交的努力が破綻した場合の軍事行動計画を同時に進める事が決定されました.
 そして,ラスク国務長官は,正式な休戦の定義を巡って時間を空費させるよりも,パテト・ラオ側の戦闘停止を事実上の休戦と見なして,実質的な交渉のスタートを切る事になり,マクミラン政権はフルシチョフと共にジュネーヴ会議を召集して,ラオス内戦の収拾に乗り出そうとします.

 ところが,ソ連からジュネーヴ会議を巡る回答を待っている間に,事態が急変しました.
 燻っていたケネディ政権内部での軍事介入論が燃えさかったのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/05/13 23:14

 さて,昨日書けなかったラオス情勢ですが,ケネディになってからは和戦両面の方向で行く傾向が見られたのですが,大統領は兎も角,下の人々はそう考えた訳ではありません.
 寧ろ,主戦論が台頭してきます.

 事の発端は,訪米中のワトキンソン英国防相とマクナマラ国防長官の会談でした.
 マクナマラ国防長官は,ラオスで検討されている準軍事的工作強化や軍事介入計画に言及し,ラオス全体の喪失を避けるには,数日以内に何らかの具体的行動に出なければならないと警鐘を鳴らしました.
 更に,晩餐会に出席したラスク国務長官も,英国に対し,SEATOを介した支援要請を非公式に伝えました.
 米国のこの方針転換は,SEATOの集団防衛を米国の東南アジア政策の中心に据え,タイやフィリピンに対し,米国の信頼性の維持を図ったものです.

 但し,米国の思いと裏腹に,SEATOを構成する非アジア諸国は軍事介入に慎重な姿勢を見せます.
 フランスはSEATOを,単に意見交換の場としか捉えておらず,英国も同様な態度を見せていました.
 オーストラリア,ニュージーランドの姿勢も消極的である事を考えると,SEATOの集団防衛は機能せず,寧ろ,積極策を採ろうとする米国を封じ込める場として活用されていた様な状態でした.
 こうした態度に,SEATOを構成するアジア諸国,特にタイが幻滅するのを米国務省は強く心配していました.

 マクミラン政権は米国からの介入要請に対して,緊急閣議を召集して対応を検討します.
 その結果,英国としては,先ず米国の時期尚早な介入を抑制しつつ,外交交渉でラオスを中立化する事が確認されました.
 英国の閣僚達は,如何なる形式であろうと,西側の軍事介入が中国や北ヴェトナムの対抗措置を促す事になり,ソ連が提案した和平プロセスをもぶち壊す,そうなると,ソ連の面子は丸潰れとなって,以後のソ連の協力が得られないのではないかという懸念が有りました.
 とは言え,英国は米国の「最良のパートナー」であり,「特別な関係」を維持するには,ラオス内戦は同盟国としての自らの価値を,ケネディ大統領に印象づける重要な機会でした.
 また,手をこまねいて何もせず,結局は第2次大戦と言う悲劇を招いたナチスドイツのラインラント進駐の教訓を,マクミランは脳裏に描いていました.

 こうして,外交交渉を優先させながら,共産主義諸国との交渉が不調に終わった場合は,米国を支援してラオスに軍事介入する覚悟を決めていた訳です.
 ただ,軍事介入と言っても,マクミラン政権は全面的なSEATOの組織的介入は避けようとしていました.
 SEATOの介入は,米ソの軍事戦争,引いては核戦争へのエスカレーションの危険を孕んでおり,これを回避して,米国が主導する作戦に,SEATO加盟各国の有志が参加協力する限定介入を想定していたのです.

 当然,これには英連邦諸国への配慮も作用しています.
 ラオス介入がどの様に行われたとしても,間違いなく第三世界諸国からの非難を浴びるのが必至な出来事になります.
 特に,米国を始めとした,英国,フランス,オーストラリア,ニュージーランドの介入は,「欧州人対アジア人」或いは白人連合対有色人種と言う対立の構図を創り出す恐れがありました.
 また,英国のラオス介入には,介入に否定的なインドの反対のみならず,マラヤの反応も気がかりな点でした.
 ラオス介入の場合,その兵力はマラヤに駐留していた,英国,オーストラリア,ニュージーランド軍で構成されるコモンウエルス極東戦略予備軍を派兵する事になりますが,これにマラヤ政府や国民がどう反応するのか未知数だったからです.
 実際,サンズコモンウエルス関係相と会談したマラヤのラーマン首相は,戦略予備軍の展開に理解しつつ,飛行場の利用など,マラヤを作戦基地とする権限は英国側に与えませんでした.

 こうした英国側の回答は,親書としてケネディに届けられました.
 ケネディは,米英が個別に実施した1958年7月のヨルダン,レバノンへ介入を例に挙げていた英国の態度を見逃しませんでした.
 丁度,マクミランがカリブ海の英連邦諸国を訪問する事が明らかとなり,キーウエストで急遽,マクミランとケネディの英米首脳会談が実施されます.

 この会談でマクミランは,外交交渉によるラオス中立化を英国政府の第一義的目標に掲げ,軍事介入はあくまでも外交努力が破綻し,「準軍事的」措置の強化でも対応出来ない場合の「第三段階の措置」,つまり最終手段であると想定していると語りました.
 更に,1956年に英仏がスエズ介入で直面したのと同じ困難に遭遇しない様,国連で周到な根回しが必要であると主張し,介入の場合はSEATOの軍事介入ではなく,米国とタイ,その他(パキスタンを含まない)諸国の主導での介入が望ましいと述べました.
 これはケネディに対し,米国とタイ以外の参加を示さず,英国の参加すら曖昧にしたものであり,その上,米軍主導の介入に対する英国の「物理的支援」は再度内閣の同意が必要であると言明して,軍事協力に対する言質を与えなかった訳です.

 このマクミランの説明に対し,ケネディは納得しませんでした.
 米国側としても,SEATO全諸国の参加は不要であると考え,数カ国のチーム編成を考えていました.
 ただ,米国のパズルには英国は外せないピースでした.
 そして,遂にケネディは,「もしラオスを救済する唯一の方法が兵力の投入となったら,それに英国は加わるつもりでおられるか?」,ラオスへの兵力展開の意思表明を求めたのです.
 ケネディがラオス介入に当って,米議会や世論を説得する材料として,英国の軍事介入の参加は不可欠でした.

 これに対し,マクミランも英国には空母「ブルワーク」の投入用意があると明かすと共に,当面,米英タイの3カ国のみの介入を想定し,その他の加盟国は待機させておく事を提案しました.
 つまり,米国に単独行動を強いる事の無い様,他国に先んじて英国の参加を決意表明した訳です.
 ケネディは,マクミランに対し,具体的な作戦計画を練る為の米英軍事協議を提案し,マクミランもこれに同意しました.

 この会談での英国の姿勢については,後世様々に批判されていますが,マクミランは暴走する米国を御する手綱の持ち手として振る舞おうとしていました.
 またこの会談で,ケネディは国内から強い介入圧力を受けて(アイゼンハワー前大統領はラオス介入を後任政権たるケネディに進言したり,国内の強硬派に強い影響力を有していた)いましたが,大統領本人は介入に消極的な姿勢を持っていたのも確認出来ました.
 英国が最も懸念していたのは,米国が外交交渉による解決を試みる前に国内圧力に屈してラオス介入を性急に進め,これに英国が巻き込まれる事でした.

 この為,マクミランは,個人的友人の書簡という形でアイゼンハワーに書簡を送り,強硬派を焚きつけたりしない様に釘を刺したりもしています.

 一方,この期間中,バンコクではSEATO閣僚理事会が開催されていました.
 此処で,英米首脳会談の議論をよそに,米国,フィリピン,タイが連携しての軍事介入を決議する可能性が残っていたからです.
 マクミランは,ヒューム外相に対し,「軍事的・財政的に多大な影響」を被る計画に引きずり込まれない様に注意を促す訓令を発信していました.

 これを受けて,ヒューム外相もまた,SEATOの介入を極力制限する為,マニラ条約第4条第2項の規定を超える如何なる関与も,全力で回避する決意でした.
 マニラ条約は,条約区域に対する「武力攻撃による侵略」への対処を第4条第1項で,「武力攻撃以外の方法」への対処を第4条第2項で規定していました.
 第1項ではこれに対しては,共同対処を実施する事を規定していましたが,第2項に対しては採るべき対応を協議する事になっていました.

 案の定,SEATOの活動を協議レベルに止めたい英代表団に対し,米国やアジア諸国はSEATOの迅速な行動を要求し,タイ首相サリットは,ラオスが第2のディエンビエンフーになるのを断固阻止する決意でした.
 こうした空気の中,米国代表団が用意した決議案は,ソ連や中華人民共和国に対する最後通牒的なニュアンスを持つ過激なものでした.
 とは言え,英国は,タイやフィリピンは,SEATOを都合良く利用して,米軍や英連邦軍を自らの問題解決に利用する一方で,自分達は如何なる戦闘にも加わらないと言う不信感を抱いていました.
 同様に,SEATOの介入には,以前この地域で痛い目に遭ったフランスも反対であり,ミルヴィル外相は,インドシナでの過去の経験から,ラオス内戦は軍事力で解決出来る問題ではないとし,「東南アジアの戦争」にフランスが関与する事は二度と無いと言明しました.

 こうした英仏の姿勢により米国は折れ,結局,バンコク会議の最終決議は,軍事介入を最終手段として留保しつつ,介入に慎重な各国の意見を反映して交渉によるラオス中立化を支持する内容となりました.

 これによって又もラオス介入は寸前で防がれたのですが,バンコク滞在を通じて,ヒューム外相は,東南アジア駐在の米国の高官達が何れも積極介入論者である事を知りました.
 その急先鋒であったジョンソン駐タイ大使(後に国務次官代理に就任)などは,ケネディ政権首脳部を介入路線に取り込む為に,「事実を歪曲した報告」をワシントンに送付していると言う言質をヒュームは得ていたりします.
 こうした現地の米高官にとって,ジュネーヴ会議とは,英国がソ連と共にラオスを共産主義に売り渡す為の仕掛としてしか見ていませんでした.

 賢明な大統領や国務長官が,こうした報告を鵜呑みにする事はないと思いつつも,それでも周辺の好戦的な態度を覆すのは容易ではないとヒューム外相は,改めて米国に対する警戒を緩めない様になっていきます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/05/15 22:03

 さて,キーウエスト会談とSEATO事務局会合で,ラオスへの軍事介入に同意せざるを得なくなったマクミランとヒュームですが,彼らの帰国後,会談したバトラー内相,ロイド蔵相,ヒース玉璽尚書は軍事介入を検討すればする程,それを厭がる様になっていきました.

 特にロイド蔵相は英米の共同作戦にしろ,SEATOの作戦であろうと,外国為替市場に与える軍事行動の影響を憂慮しており,閣僚達はラオスへの直接介入を避け,タイへの派兵が望ましいと述べ,タイからラオスに軍を移動する場合は,事前にコミットメントを与えるべきではないと考えていました.

 ヒューム自身も,軍隊の移動が英連邦諸国に与える動揺を憂慮していました.
 彼は,シンガポールはどんな兵力移動も憂慮する事になる上,パキスタンは政府レベルでは頑強だが,世論の圧力に屈しないかと言えば大いに疑問,間違いなくインドはラオスからの退去運動を国連で先導するであろうし,英連邦のアフリカ人も世論の反対に抗しきれないであろうと分析していました.

 一方,ワトキンソン国防相は米国に対する支援の重要性を強調していました.
 ラオス内戦は,「英米の特別な関係」が本物か問われる試練の場である,としています.
 勿論,大規模な戦闘,特に地上戦には引きずり込まれない様にしなければならないと考えていました.
 しかし,一旦米国が限定的な介入を決断したら,英国はそこで役割を果たさなければならないとし,新しい米国の政権にとって初の主要な試練であるラオス内戦で英国は彼らの味方に立たねばならないと述べて,「我々にとって優先順位は,第1に彼らを支援する事であり,第2に彼らの抑制を試みる事である」と見解を披瀝しています.

 マクミランはこれら閣僚の消極的な姿勢を見込んで,ケネディとの会談では極力介入を小規模に止めるべく協議をしています.

 英米の介入計画は,SEATOのPlan5/61を土台にして作成する事になりましたが,この計画は野心的すぎるとし,その修正を行う事になります.
 元々,Plan5/61は,ビエンチャンを含むメコン河沿い3カ所の戦略拠点を,約4~5個大隊,総兵力1.2万人で確保し,防衛する事でしたが,ケネディと議論してその計画を修正しました.
 その結果,Plan5/61 Mod.1では,作戦地域から王都ルアンプラバンを除外すると共に,派兵兵力はコモンウエルス連邦軍全体ではなく,英国軍1個大隊のみの投入に修正されています.

 マクミランが検討していた介入計画は,次の様なものでした.

1. 米国のB-26などによる準軍事的作戦
2. 米国人を中隊レベルに配置しての米国による拡大準軍事作戦
3. タイ砲側員
4. ラオスへの移動に備えた同盟国軍隊の我々の地域での予備的移動
5. ラオスへの移動
  この承認には次の2つが必須
   a. ラオス国王の要請
   b. SEATO諸国政府の承認
6. 以下略
 このうち,1~3は米国が独自に動く事が可能で,4~5は英国政府の承認を必要とするものです.

 ところが,マクミランの想定を超えて,ペンタゴンは大幅に異なる規模と目的の計画を策定する様になります.
 米国の計画は,投入兵力を8個大隊と想定し,コモンウエルス戦略予備軍全体の参加を期待していた上,元々の介入計画の骨子は王国政府軍地域の「保持」であったものが,パテト・ラオの支配下にある地域の奪還や「征服」を目指す様になっていきます.

 こうした情勢の中,ソ連政府は4月1日に国際会議の開催と早期の休戦締結に前向きな姿勢を表明しました.
 マクミランは出来るだけ早く国際会議の招集を外交当局に指示します.

 しかし,英米のギクシャクした関係はなおも続きます.
 1961年4月13日にはケネディは,ラオスのPEOを軍事援助顧問団(MAAG)に格上げし,その要員400名に軍服着用と戦闘作戦への参加を許可しました.

 この措置は,全く英国の了解を得ずに行われたもので,ヒューム外相は驚いたのですが,現場の駐ラオス英国大使であるアディスはさほど驚きませんでした.
 と言うのも,既に長い間,ラオス駐在の米国人は文民を装いつつ「半ば公然と」航空偵察に従事し,前年のビエンチャン攻防戦以降は地上戦にも直接関与する様になっていました.
 ただその一方で,ノサワンは2月半ば頃からパテト・ラオとの和平交渉に前向きな対応を示していました.
 にも関わらず,米国が介入を叫ぶのは,ワシントンが和平の到来を望んでいないからだ,として,彼らに強い不信感を示しています.

 当のワシントンは,ラオスを依然深刻な状況にあると判断していました.
 米国の諜報機関は,パテト・ラオの進軍は続き,4月中旬にはソ連による過去最大規模の物資支援が行われたと報告されています.
 4月6日にジョンソン米大使,タイ首相サリットとバンコクで会談したノサワンは,北ヴェトナム軍が大規模に侵入した為,ラオスの共産主義勢力は前線の1万2千を含め総兵力6万にまで拡大していると訴えて危機感を煽りました.

 米国と同じく,ソ連もこの時,二重政策を採用していました.
 片方では外交的解決を模索していましたが,一方ではパテト・ラオへの支援を継続していました.
 更に,休戦を遅らせてパテト・ラオの軍事的支配地域を拡大したい中華人民共和国と北ヴェトナムとの意見調整にも手間取っており,国際会議の延期を要求しています.
 しかし,何とか調整が成り,4月24日に英ソ両政府は関係12カ国にジュネーヴ会議への参加を要請しました.

 ところが,丁度この時期の4月17日,全然違う場所で起きた国際的事件が,ケネディのラオス政策に影響を及ぼしました.
 これは亡命キューバ人に軍事訓練を施し,カストロ政権の転覆を謀ったピッグズ湾侵攻作戦の失敗です.
 この事件はケネディ政権の威信を大きく傷つけると共に,作戦の失敗によって,今まで軍部やCIAが行ってきた進言に対する,ケネディの信頼が大きく揺らいだのです.
 しかも,この作戦を勧告したのと同じ軍指導者がラオス介入を進言していた事から,ケネディは自分が得ている助言に疑念を抱く様になりました.

 もし,ピッグズ湾侵攻作戦が失敗していなければ,ケネディは同時に「ミルポンド」作戦の一環としてラオス・ジャール平原にあった共産主義勢力拠点への爆撃を命令しており,それが実施される筈でした.
 4月16日夕刻,B-26爆撃機の操縦士は,ラオス王国空軍から任務遂行の命令を与えられ,作戦準備を完了していました.
 しかし,出撃予定の数時間前になって突如空爆が中止されてしまいます.
 ピッグズ湾侵攻作戦の失敗が原因でした.
 もし,これが失敗していなければ,この爆撃は予定通り実施され,ラオス内戦は激化の一途を辿り,外交的解決が困難になっていたかも知れません.

 後にケネディは特別顧問のソレンセンに,「良い時にコチノス事件(ピッグズ湾侵攻作戦)が起きたよ.あの事件がなかったら,今頃はラオスに入っていたところだろうね.こいつは100倍も悪いよ」と漏らしていたと言います.
 以後,ケネディはCIAからの報告に懐疑的になっていきました.

 4月27日,ラスクはトルコの首都アンカラで酷く狼狽してヒュームと会談しましたが,その会談の感触で,ヒュームは米国が威信の回復を狙って,ラオスで瀬戸際政策に打って出るのではないかと憂慮しました.

 更に,4月末には,コン・レとパテト・ラオの連合軍がビエンチャンへの進軍を再開し,同時にルアンプラバンの道筋に当るムオンサイを占領しました.
 これによって,米国の駐ラオス大使であったブラウンはパニック状態に陥り,それまでの介入慎重路線から一転して,ワシントンに対し,B-26の使用と米軍或いはSEATO軍の投入を勧告する様になりました.
 米軍の介入により,政治的解決は困難になりますが,パテト・ラオの進軍を食い止めるには仕方ないと観念したのです.

 4月27日の米英首脳による電話会談で,ケネディはB-26投入を否定しましたが,実はその直前のホワイトハウスの会議では,ノサワン軍瓦解の危機には,少なくとも南ヴェトナムとタイへの相当規模の軍隊配備が必要であると言う話し合いが為されていました.
 更に,介入主義者達は大統領不在の下で行われた4月29日の国務省と国防総省の会議で,介入論を進めます.
 ラオスで屈服する事は,東南アジア敗北の第1章を刻む事になり,南ヴェトナムでも共産主義者の圧力に屈服する事になると言う,例の「ドミノ理論」が首を擡げてきたのです.

 軍部は特に強硬派で,紛争拡大の危険を冒してもラオスへ介入すべきだと主張しました.
 デッカー陸軍参謀総長は,
「東南アジアで通常戦争に勝利する事は出来ない.
 介入するなら,我々は勝ちに行かねばならない.
 それはハノイや中華人民共和国に対する爆撃を意味し,恐らく核爆弾の使用さえも意味する事になるだろう」
と意気盛んにまくし立てます.

 これに対し,ボウルズ国務次官は,中国との2年,3年,5年,或いは10年の対立を覚悟しなければならないと述べました.
 当時,ジャカルタを訪問していた陳毅外相が
「もし,SEATO軍がラオスに介入し,プーマ首相の要請があれば,中国はラオスに派兵するであろう」
と語っていた為,そのボウルズの懸念は杞憂として切り捨てられませんでした.

 にも関わらず,空軍のルメイは,「中国が1,2年のうちに核爆弾を保有する可能性がある」為,尚更早く戦わなければならないと反駁し,マクナマラ国防長官もラオス情勢は,「刻々と悪化しており,介入の場合は早期の実施が望ましい」と加勢しました.

 更に,5月1日,英連邦諸国のオーストラリアとニュージーランドがラオスへの軍事介入の参加を決断しました.
 特にメンジーズ豪首相は,作戦に消極的な英国政府を批判し,その場合は豪州本国から兵力を抽出しなければならなくなるとして憂慮していました.
 英本国には,5月2日にSEATO本部に於いて米代表がタイへのSEATO軍配備を提案し,警戒態勢への発令を決定する意向であると言う情報も届いていました.
 そうなると,先のオーストラリアとニュージーランドの展開から介入論が優勢な状態にあるのは明らかでした.

 マクミランはICC議長国のネルーに書簡を送って休戦交渉の斡旋を求め,同時にケネディにも電報を送って,代表者会議の開催を1日延期する事を求めました.

 その時,ラオス時間の5月1日,交戦勢力間で接触が持たれ,休戦交渉が翌日も継続されることになったことが判明しました.
 これを受け,マクミランはタイへのSEATO軍派兵を反対する事を決定しました.
 但し,共産主義諸国による「休戦の妨害が明らかになった場合,SEATOで合意されるあらゆる活動に参加する」として,最終手段としての軍事介入を決定しました.
 幸い,3日にラオスで休戦が成立し,SEATOによる警戒態勢の発令と,タイへの派兵は見送りとなりました.
 当時,ケネディ政権内では介入論議が最高潮に達していました.

 正に瀬戸際でラオスへの派兵は見送られたのです.
 もし,これが成立していなければ,米国はヴェトナムより前にラオスで泥沼に陥っていたかもしれません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/05/16 21:38


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