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戦史FAQ目次


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 【質問】
 石高とは?

 【回答】
 さて,今日はすこぶる難解な話.

 江戸時代,大名家の格式を表わすものは,石高と呼ばれるものでした.
 軍役も普請役も石高で定められました.

 この石高は一般に,法定生産玄米高とされています.
 石高というのは検地によって公定され,一筆毎に,上田であれば反当り1石5斗の石盛に面積を掛けて算出するものであり,別名を検地高と言います.
 その検地は平均竿入なので平均高であり,それぞれの田位に相当する標準を定めた高とされました.
 ところが,大名家によっては,玄米ではなく籾納めの租税のことを言う場合もありました.

 元々,石高とは,籾納めの租税であったものが,慶長以後の貨幣経済の進展に従って米納めとなり,五合摺の勘定で,籾高の半分の米を納めるようになったと『地方凡例録』には書かれています.

 石高のことをまた分米とも言います.
 『地方凡例録』では,分米は中世では年貢米高を意味していたが,太閤検地の過程で生産米高を意味する様に変化したとされています.
 1583年の江州蒲生上郡保内今在家村の太閤検地の検地帳では,分米は年貢高ではなく生産高を示しており,以後,太閤検地の石盛は,反当り生産高を意味するようになり,分米と表記しても生産高を表わすものになっていきます.

 今の学説では,石高は米の生産高であると言うのが通説です.

 しかし,単純な米の生産高ではなく,米を産出しない畑や屋敷も石高として算出される他,町場でも石高は実施されており,町場の場合は農村より石高が高かったりするなど,これには単純に米の生産高ではない,米の換算値であると言う立場を取る説もありますし,更にその土地である生産高を把握出来ない場合は,自己所有の権利に基づいて収納しうる高のみ把握すると言うものもあったりします.
 単純に米の生産高という訳ではないから,話がややこしい訳で.

 元々,石高制というのは太閤検地によって生まれたものです.
 これを江戸期に入って,徳川幕府が修正を加えてその礎としたものが,幕末まで使用されました.

 その太閤検地は,一般には1582年に光秀を山崎で破って秀吉が信長政権を継承した直後に山城国で行った検地が最初,と言われていますが,実際には1580年に秀吉の領国であった播磨で家臣の知行が検地による宛行になると言う事実もあります.
 これは検地が行われた後,知行高が石高で示され,その知行地の所在地を特定し,その所在地に対して,知行給付に伴う年貢高が指示されたと言う事から裏付けられます.

 この検地はその後,山城国を皮切りに各地で行われていき,最後が1590年に奥羽の総検地を実施して,ほぼ全国の検地を完成させました.
 実際には1598年まで検地は続きましたが,大きな地域的には奥羽の総検地が最後です.

 1590年に実施された奥羽の総検地では,上杉景勝が大谷吉継を監視役に,荘内・最上から由利・仙北を検地し,前田利家が石田三成を監視役に,秋田・津軽・南部の検地を実施しました.
 この奥羽の総検地で特徴的なのは,石盛が石高ではなく永楽銭の貫高で表わされるものがあった事です.
 例えば,上杉景勝宛の秀吉朱印「出羽国御検地条々」では,上田一段を永楽銭200文宛,中田一段を180文宛,下田一段を150文宛,上畠一段を100文宛,中畠一段を80文宛,下畠一段を50文宛としています.
 また,小野寺義道宛,大森五郎宛の知行充行状にも知行高が貫文高で表わされています.

 しかし,1591年1月17日付の秋田・仙北諸領主への知行充行状では石高で表わされており,田畑は上中下の三等級に分けられ,屋敷は上畠に換算されて,町・反・畝・歩の単位に分かれています.
 石高は,田が上12,中10,下8,畑は上10,中8,下6となっています.

 ところが,少し時を遡った1590年10月20日に,大谷吉継が景勝の部将である色部長真に宛てた書状では,指出は苅高とし,年貢は100苅に700文,7斗の換算基準を示しています.

 つまり同じ地域なのに,貫高,刈高,永高と3種類あって,最終的には石高に収斂されて行く形になりました.

 常陸の検地は,この奥羽検地よりも更に下って1594年10~12月に掛けて行われています.
 この検地では石田三成と増田長盛が検地奉行となり,佐竹氏の石高を54万5,800石と打ち出して,1595年に秀吉から知行割朱印状が与えられました.
 この時には既に石高になっており,その石高の内訳は以下のようになっています.

――――――
 佐竹義宣には15万石,加えて義宣蔵入地として無役を9万石含み合計10万石を宛がう.
 佐竹義重には5万石を宛行,その内4万石は無役とする.
 東家の家老である佐竹中務大輔(東義久)には,6万石を宛行,その内1万石を無役とする.
 佐竹家の与力家来には16万8,800石.
 秀吉の蔵入地は1万石とし,1,000石は秀吉の蔵入地を管理する佐竹家の代官分とする.
 石田三成と増田長盛にそれぞれ3,000石を宛がう.
――――――

 こうして見ると,当主である義宣の頭越しに,家中の人間である筈の父義重,東家の義久,与力家来の知行まで宛がわれているのが特徴的です.
 特に,東家の義久には6万石と義重よりも大きな知行を宛がっています.
 これは一種の,秀吉もしくは三成や長盛が考えた当主に対する牽制かも知れません.
 一方で,義宣だけでなく義重,義久にも無役高を合計16万石を宛がっています.
 この無役高は,軍役免除を認めた分であり,その分は佐竹家の丸々収入になります.
 一方で,この知行の中に,中央政権分の太閤蔵入地と三成,長盛分16,000石も含んでいます.
 こちらは中央政権に無条件で差し出す分です.

 検地の石盛は,上田13,中田11,下田9,下々田7,上畠10,中畠8,下畠6,下々畠3,屋敷10となっていて,四等級が設定されました.
 また,この年に太閤検地の検地条目が完成しますが,佐竹領の石盛はそれより2つ下がっていて,佐竹家に対する配慮も伺えるものになっています.

 時に貫高と言うのが,信長の時代までは多く用いられていますが,石高とはどう違うのか,今度はそれを見てみたり.

眠い人 ◆gQikaJHtf2, 2010/01/04 20:24


 【質問】
 戦国時代や江戸時代初期には米を常食している人間の割合は極端に低かったんですよね.
 するとたとえば100万石の国には,200万人も300万人も住んでいたということでしょうか?

 【回答】
 一石とは一人の人間が一年間に消費される量と定義されている.
 しかし,その一石の決め方だけど,国の偉いさんが勝手に,一人の人間が一年間に消費する量は150㎏だ!と決めたわけ.
 つまり「勝手に決められた値なので」実際は違う.現実に人ひとりが一年間に生活できる量と考えるのは間違い.

 その後,江戸時代も安定してくると大名の格付けに使われるようになり,米が取れなくても○万石とかいうようになった.(例:松前藩)
 で,格付け競争が起こって,毛利藩は50万石にしてくれいと土井利勝に頼んだら,軍役令とか大名行列とか物入りになるんで7掛けにしとけとか言われたと言う話もある.
 実高と表高が異なり,ますます経済の原単位から乖離して行った.

 次に石高の意味合いだけど,江戸時代では米を売った金と思って欲しい.
 つまりは税収.江戸時代初期では一石あたり一両と言われているので,100万石の国とは100万両分の収穫がある国と思って欲しい.
(だから実際の税収はそれより下.たとえば5公5民なら,税率50%で50万石.
 しかも,家臣に知行地(領地)を与えていたらその分は減るから,実際に大名家の税収はもっと低くなる)

 なので石高から人口を割り出すのは単純には無理だって事です.
 もっとも,石高が大きい国(税収が多い国)ってのは大きな国なので人口は多いですが.
(人口が多いから税収も多い,とも言える.)

 参考までに,100年ほど前の歴史家の吉田東伍(だったけな?うろ覚え.ゴメン)が,石高と人口は一致するという説をおったてたが,それは偶然であって実際は違う.
 なので石高から人口を導くのはやっぱり無理です.

 鬼頭宏著「人口から読む日本の歴史」講談社学術文庫,2000/05/10)という本があるので,読んでみるといいかも.

日本史板


 【質問】
 貫高とは?

 【回答】
 さて,信長政権下での知行充行状には,石高ではなく,貫文と言う単位が使われています.
 これは中世で行われた土地面積の表示方式であり,土地に対する課税額を銭(貫文)高に換算し,その税高で土地の面積を表わすものです.
 未だ天下統一が為される以前なので,その生産物との換算率は,領主によってまちまちでした.

 そもそも,この貫高制が始まったのは,年貢の銭納を領主が企図したものであり,戦国時代,特に鉄炮が入ってからの戦国大名には,貨幣の集積が重要な政策となっていったからとされています.
 前に金の話を書いた際にも,当初,砂金は褒美とか海外貿易の決済に充てられるくらいでしたが,戦国期には軍資金として利用されるようになったと言うのと同根です.
 鉄炮を導入するには,自前で国産化出来ない限り,外部から購入する必要があります.
 その為には,鉄炮生産地域と決済が可能なもの,即ち貨幣とか金が必要な訳です.
 ただ,市の立つような都市部は兎も角,貨幣経済が浸透していない農村部が貨幣を貢納する事は,容易なことではありませんでした.

 貫高制の起源は,『地方凡例録』では,鎌倉期の北条時宗の時代としており,知行領地はその貫高を用いて全国に広まっていきました.
 当初はその貫高の「貫」とは永楽銭などの貨幣の単位を意味するものではなく,軍役の定を田地の坪に割り振ったことから始まったものです.
 1貫は田地1,000坪の事であり,これが6貫,つまり6,000坪になると,軍役1騎を割り当てることになっていました.

 その後,貫高は土地の単位を意味するようになり,凡田1歩から取れる籾を1升と見積もって,10貫は籾100石,100貫は籾1,000石と換算するのが定法となっていきました.
 300貫の知行地にて,田地が100町有れば籾高は3,000石と見なし,当時の石高15の石盛い準じて高1,500石となり,籾数でも5合摺,五公五民五つ取りとしても高1,500石と言う算用が為されています.
 慶長期には石高が主流になっていきますが,1貫は石高換算で5石替が常法となっていました.
 ただ,未だこの頃は諸大名家の力も強く,必ずしも常法通りになっていません.
 例えば,1562年の佐竹家文書には永高1貫文は石高5石5斗になっていますし,仙台伊達家は1640年代でもなお,1貫文の換算を10石と定めたりしています.

 一般的に上方関東は1貫5石ですが,下野宇都宮は1貫5石9斗,会津白河長沼では1貫6石3斗,陸奥仙台では1貫10石,出羽米沢は1貫12石5斗,福島は1貫14石3斗と,結構差異があり,大名家の収入増強の為の政策や農民と大名家との力のバランスによって,減ったり増えたりしているのが実情でした.

 ところで,貫高の他に,上述でも永高と言うのが出て来ます.
 この永高は,永楽銭の価値を基準に算定した年貢の収入高の事で,東国だけで通用した税法です.
 永楽銭は明の永楽帝が1411年から鋳造した銅銭「永楽通宝」の事です.
 これが通用し始めたのは,応永年間,つまり14世紀末から15世紀初めにかけて,鎌倉管領足利満兼の時分に,相模三崎に漂着した唐船から永楽銭数十貫を発見したのが始まりです.
 その永楽銭は満兼が押収し,それが関東で通用し始めました.
 以来,度々日本に輸入されて室町期を通して日本全国で標準的な通貨として通用するようになります.

 その後,関東では足利管領家が実質滅んで,それに代わって後北条家が関東一円に勢力を扶植しました.
 そして,後北条家は永楽銭の価値を精銭の2倍として,これを基準とする永高制を始めます.
 因みに,精銭と言うのは撰銭が行われた際,無条件で通用を認められた良質な貨幣のことで,悪銭との交換比率が定められていました.
 しかし,永楽銭の通用は関東中心で,西の境界は東海の尾張辺りまででしたので,永高制は全国で主流になり得ませんでした.

 この永高と石高の換算率は,永楽銭1貫文が10石にも5石にもなって一定しなかった為,後北条家が滅亡した後に関東に入った徳川家は,永高と貫高の換算比率が異なることによる無用な混乱を避ける為にも,常法通り,永楽銭1貫文=1貫=5石と言う換算比率を定めました.
 実際には,この永楽銭は,徳川幕府が成立した後の1608年に通用が禁じられたのですが,相模など地域によっては貨幣計算や田畑評価の基準として,明治初期まで貫高と同一の換算率で用いられています.

 それにしても,一般に経済政策に於いては重商主義を採用したと言われる豊臣家が石高制を採用したのは意外ですね.
 天下統一が為されて,世間が落ち着いていくと,農本主義への転換を図ったのでしょうか.

眠い人 ◆gQikaJHtf2, 2010/01/05 23:07


 【質問】
 戦国時代の兵力動員能力はどのくらい?

 【回答】
 戦国大名の最大動員数は,1万石あたり約1500人.
 これは領民から,健康な青壮年の男を全部引き抜いた数.
 戦国中期までは農民が戦闘員を兼ねていた.農閑期で戦場が近距離なら動員可能.
 信長以降,農民と戦闘員の分離が進むと200~400人/1万石になった.

 北条氏は所領8貫(レート無視で約40石)に軍役1人.
 ただしこれは派兵分かもしれん(小田原征伐時の下総の小領主は,軍役の内9割を小田原に動員されたが,これは段階的で,先遣は3割が召集された).
 結城氏は所領5貫(レート無視で約25石)で具足1領,10貫で馬1匹・具足1領,15貫以上から従者同伴.
 上杉氏は所領16石に軍役1人,馬上は雑役も含めた全体の1割強
 天正末期の甲斐一国で5800人~14500人の兵が動員可能.
 ただし総動員すると国元がすっからかんになるので,派兵の場合はこの半分以下だろう.

 文禄慶長の役だと1万石当たり250人,
 小田原の役,関ヶ原だと1万石あたり300人,
 江戸元禄期の書類上の編成だと1万石当たり350人ぐらいがおおよその平均値.
 江戸期に人数が増えてるのは,騎馬武者の数が減って鉄砲足軽の割合が増えてることの影響が大きいようだ.

日本史板

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 およそ1万石につき兵300人というのが戦国時代の動員力だったそうですが,この数は当時の世界では多いほうですか? 少ないほうですか?

 【回答】
 日本の戦国時代と言うのは,他国と比べて異常に多くの兵を動員できた.
 当時の日本は20人に1人を動員出来たが,同じ時期の英国は100人に1人程度.
 また,人口も軽く見積もって英国の2,3倍はあった.

 麦が主食のヨーロッパは人口の約1%程度,米が主食の日本だと人口の約2~3%もの比率が動員できる兵士の目安らしい.
 小麦は一本から3~5粒収穫できれば良いほうだが,米は一本から10粒以上は余裕で取れるからね.

 遊牧騎馬民族はなんと人口の10%も戦闘に動員できたらしいけど,健康な成人男子の半数近くを駆り出して,軽快な馬に乗って部族ぐるみで略奪に出かける様なもんだから,これは一種の特例と思った方がいいかも.

 ちなみに,一石というのは千合のこと.
 だいたい(当時の)人間が一年で消費する米の量.

軍事板
青文字:加筆改修部分


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