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戦史FAQ目次

秀吉

(画像掲示板より引用)


 【link】

「2ch.戦国板」◆(2006/07/28~) 【智・勇魚の如き】黒田孝高総合スレ【縦横無尽】
 レス回収済

D.B.E 三二型」(2013/05/12)◆官兵衛が賤ヶ岳の前線に…秀吉サイン指令書発見

「朝目新聞」(2013/03/12)●秀吉の懐刀 田中吉政

やらない夫で学ぶ豊臣秀長~太閤を支えた男

やらない夫で学ぶ豊臣秀長~太閤を支えた男(金ヶ崎撤退戦)

『石田三成の末裔として育った』(澁谷理恵子著,近代文芸社,2013/07)

『黒田官兵衛・長政の野望 もう一つの関ヶ原』(渡邊大門,角川学芸出版,2013/08/24)

『戦国茶の湯倶楽部 利休からたどる茶の湯の人々』(中村修也著,大修館書店,2013/07/25)

『秀吉の出自と出世伝説』(渡邊大門著,洋泉社,2013/05/10)

『秀吉の忠臣 田中吉政とその時代』(田中建彦・田中充恵著,鳥影社,2012/11/14)

『秀吉の手紙を読む』(染谷光廣著,吉川弘文館,2013/06/07)

『秀吉を支えた武将田中吉政―近畿・東海と九州をつなぐ戦国史』(市立長浜城歴史博物館,2005/10)


 【質問】
 最近の山川の教科書には,秀吉を「尾張の地侍の出身」と書いてあったが,これはちょっと勇み足じゃないのかな?
 今までどおり,農民と言ってた方が穏当だと思うが?

日本史板

▼ 【回答】
 実父が名字つきで足軽として戦場に出る村長レベルだった,という話はよく聞くが.
 秀吉の家は清州織田家の織田達勝に仕えていた,というが最近の定説らしい.
 もともと中村一帯の広大な土地を所有する豪農で,戦になると足軽たちを動員し指揮を執る,格式的にそれなりの在地武士.
 ここ数年で,親父さんの名前で織田信秀の村方相談役になってる資料も見つかって,神社にも親父さんが代表者として記録されてる資料が出たとかで,有力な名主クラスだったことは間違いないみたい.
 大政所も百姓じゃなく,(階級は低いものの)武士の娘だということが判明したそうだ.

 だから極貧の最下層貧農の出ってのは,少なくとも嘘っぱちもいいところなんだと.

 確かに下士と農民は差のなかった時代だから,百姓といってもいいのかもしれないが,あれはどちらかといえば平民ウケするための脚色であり,マルクス主義史観の時代,さらに強固にされてしまった認識なだけのように思えてならないよ.
 まさに「穏当」な言い方.

 いろいろな脚色もあるようだけれど,ティーンのころ信長に仕え,既に清正や正則を部下に従え,注目され,スルスルと清洲城の奉行に出世しているのは事実なのだから,全くハシにも棒にもかからない貧民のわけはない.
 いくら実力社会でも,初めの初めは相応の身分でなければ領主信長の近侍にはなれないし,上司の注目を浴びることもできないよ.

▼ 実父も継父も,小名主,小庄屋くらいの,一つの荘に発言力のある身分であったろうと考えるのが妥当かと.
 何の記録も残らなかったのは,秀吉兄弟以外の後継者はなく,秀吉自身がかなぐり捨てた家門だったからに過ぎないのでは.

 びっくりだね.
 立身には幼少期からそれなりのバックは要るってことか.

日本史板
世界史板(黄文字部分)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 作り話か実話かは置いておくとして,信長の草履を懐に入れて温めた秀吉の行動は,美談と言っていいのですか?

 【回答】
 「砂漠に塩」,2008年02月27日号
http://archive.mag2.com/0000135791/index.html
によれば,気づいた信長も共に立派だという.
 なぜならば,企業にたとえるなら,社員が10人もいれば,尽くしている奴は1人はいるが,そんな努力に気づく社長などほぼ皆無だからだという.
 すなわち,いくら人知れず尽くしたところで,それが伝わるとは限らず,一方,見え透いたパフォーマンスがサラッとできる奴は,賢いかちょっと足らないかそのどっちかなのだという.

 詳しくは同メール・マガジンを参照されたし.

 行き過ぎると臭いスタンド・プレーになるけどね.


 【質問】
 豊臣秀吉の松茸狩りの逸話について教えてください.

 【回答】
 秀吉が天下を取ってからのこと.
 京都の東山に松茸がたくさん生えていると聞き,「松茸狩りをして遊ぼうではないか」と言い出した.

 ところが家臣たちが下見に行くと,すでに京の人々がほとんど採ってしまった後で,僅かしか残っていない.

 そこで彼らは,あちこちから松茸を取り寄せて,こっそりと山に植えることにした.
 夜を徹して作業を続け,何とか間に合わせた.

 秀吉はお祭り騒ぎのようにして,やってきた.
 見ると,そこらじゅうが松茸だらけ.
「これは見事」
と,非常に機嫌がよい.
 子供のようにはしゃぎながら,松茸を採っていた.

 すると,傍にいた女性が,秀吉の袖を引いて
「これは自然に生えたものではありません.
 誰かが植えたものでございます.
 殿下にはそれがお分かりになりませんか」
と,小賢しく言った.

 秀吉は手を振って,さえぎり,
「こら,言うな.
 俺たちを喜ばせようとして,皆がやったことだ.
 これだけ植えるには,相当の苦労があったはずじゃ.
 その気持ちをありがたく受け取ってやらねばならぬ」
とニッコリ笑ったという.

戦国板,2008/06/20(金)
青文字:加筆改修部分

「こんなに松茸があるのは不自然だ.きっと誰かが植えたに違いない」
と言ったのは三成であるとするver.もある.

戦国板,2012/01/01(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 秀吉の「水攻め発動」条件は?

 【回答】
 『歴史群像アーカイブVol.6 戦国合戦入門』にて,桐野作人「秀吉流「水」戦略」(歴史群像1998年冬春号初出)が,これについて考察している.
 曰く,
秀吉の水攻めの事例に共通しているのは,地形(城郭の立地,河川の有無)や天候などの自然条件といった客観的条件の他,付城戦術から創出された高度な土木技術の蓄積や,労働力・資材を短期間で集中できる組織力・経済力といった主体的条件である.
 東国大名では客観的条件はともかく,主体的条件を欠いている為に水攻め戦術が採用できず,また技術的に不可能だったとしている.
 また,秀吉の水攻めの中で,高松城水攻めは毛利軍主力を誘引する後詰決戦戦略の一翼をなす壮大な物であるが,太田城水攻めは
「中世的な惣国一揆による在地支配を粉砕し,豊臣政権による近世的な天下一統を誇示する一大イベントとして遂行されたと思われる」
事から,太田城水攻めを水攻め戦術の最終到達点ではなかったかとしている.

グンジ in mixi,2010年08月22日18:56
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 羽柴秀吉が豊臣秀吉と呼び名が変わったのは何故?

▼ 【回答】
 現代の感覚を歴史を学ぶ場に持ち込むと,混乱や誤解のもとになる.

 羽柴秀吉が豊臣秀吉に改姓したと誤解している人は多い.
 羽柴という苗字は引き続き存在していて,豊臣という姓を苗字とは別に獲得した,という流れを理解するのに障害になっているようだ.
 姓を持つような家柄の出自じゃなかったから,ないなら作ればいいじゃないという発想だったのだろうけど.
(源氏の名家の養子になろうとしたが,断られたとか)

世界史板
青文字:加筆改修部分

 豊臣賜姓以降,豊臣秀吉・秀頼が名字を使った形跡はありません.
 書状は名前のみか印章ですし,かの方広寺の鐘銘など,各地に残る寺にある秀頼の名はすべて「豊臣朝臣秀頼」です.
 ちなみに同時に名前が残る片桐且元の表記は,名字有りの「片桐東市正豊臣且元」です.

 したがって質問の答えは,秀吉がこの時期以降,羽柴と表記することをやめて,「豊臣」のみを名乗ったから「羽柴秀吉」が「豊臣秀吉」と表記が変わったということが正しいとおもわれます.

 前は羽柴を名乗っていたし,名字を改めてないから羽柴というのは早すぎる結論で,姓をもつものが必ず別の名字をもっているというわけでもないですし(津守氏・紀伊国造紀氏・阿蘇氏),秀吉は一度近衛家の養子になっているので,この時点で秀吉の名字が「近衛」になったと考えることもできます.

ばっし in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 秀吉が源氏の名家の養子になろうとしたが,断られた,という話は本当ですか?

 【回答】
 これは林羅山が書いた本の,
「足利義昭の養子になって将軍になろうとした」
という記述が元だと思いますが,以下のような理由から現在では疑問視する声が優勢です.

・征夷大将軍は清和源氏でなくてもなれる.
・養子の話が羅山以外の史料にない.
・朝廷は将軍を罷免することもできる.(足利義稙)

ばっし in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 大坂城浮城計画とは?

 【回答】
 『歴史群像アーカイブVol.6 戦国合戦入門』内の,桐野作人「秀吉流「水」戦略」(歴史群像1998年冬春号初出)が,これについて考察している.
 曰く,
秀吉の水を制御する戦略は,築城思想にも反映としており,初めて城主となった長浜城は,琵琶湖に面した一種の水城だった.
 また伏見城も巨椋池を後背地とし,宇治川によって大阪湾と通じていた.
 大坂城ではその特徴がより一層明確に表れており,北は淀川や天満川,東は平野川や猫間川,西は人工運河の東横堀川に囲まれていた.
 文禄年間(1592~95)に,淀川左岸に築かれた文禄堤を決壊させて淀川を氾濫させ,河内平野を水浸しにしようとする計画があったとしている.
 これが成功すると,上町台地の上にある大坂城は水の孤城となるが,敵にも水に阻まれて城を攻められなくなるという物で,実際に大坂冬の陣では慶長19(1614)年10月,大坂方は河内出口村狭田宮の堤を切ろうとしたが,徳川方に撃退されて失敗に終わった.
 逆に徳川方は淀川の流路を,城北新庄村から鳥飼方面に変える事で天満川を涸らし,大坂城の北の惣構えを突き崩そうとした.
 工事はほぼ順調に進捗し,天満川の水位は膝ぐらいまで低下した.
 大坂の陣は水を巡る戦いの一面があり,大坂方は秀吉の浮城計画に失敗して水を利用できなかった為,豊臣氏は滅亡したのかもしれないとしている.

(ただ,浮城計画が成功したとしても,当時の豊臣家が孤立無援である事には変わり無く,結果はあまり変わらず,むしろ三木城やガダルカナルみたいな事態になるんではないかなぁ,と思ったりする訳で)

グンジ in mixi,2010年08月22日18:56
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 大坂・船場を開発したのは秀吉?

 【回答】
 船場と言えば,大阪の経済活動の中心地となっている場所です.
 船場は,東西を東横堀川と西横堀川,南北を長堀川と土佐堀川で囲まれた地域を指し,本町通を境として北船場と南船場に分けられる事もあります.

 江戸期,大坂市街地は三郷と呼ばれ,天満組・北組・南組の3つの組がありました.
 船場では,安土町以北と西横堀沿いの浜側が北組,本町以南が南組になっていました.

 この地域の開発が始まったのは,豊臣秀吉の時代にまで遡ります.
 秀吉の大坂城を築城するに当たり,その工事は数次に分けられ,第1期が天守と本丸を,第2期には二の丸,第3期が惣構堀を完成させました.
 その後,1598~99年にかけて三の丸を造成するに当たり,「大坂町中屋敷替」と言われる大規模城下町改造を実施しました.
 この時,惣構えの中にあった上町から町家や寺院が移転を命じられ,1594年に開削されていた東横堀川以西の新市街地に移されました.

 この計画的な市街地が船場で,東西・南北に直線の街路を築いて1辺が約42間(76.4m)の碁盤目状の街区を持たせ,家屋は秀吉の威厳を飾るに相応しく,檜の木造2階建てで統一され,「太閤下水」と呼ばれる下水道も完備していました.

 因みに,「太閤下水」は秀吉が整備したもので,大坂城西側の三の丸一帯一帯は,排水が悪い低地であった事から,大坂築城が開始されると同時に,下水道が体系的に整備されていきました.
 下水道はこの街区の中心線に設けられ,下水道を挟んで宅地と宅地が背中合わせになる為,こうした下水の事を「背割下水」と呼びます.
 この背割下水は,城下町の町割や宅地割の基準線ともなっています.

 背割下水は東西の横堀川に主として東から西に流される形で東西に設けられました.
 溝の幅は通常1~4尺(0.3~1.2m)でしたが,中には2間(3.6m)に及ぶものもありました.
 広報は素堀した後,間知石又は栗石で護岸し,更に漆喰を施し,道路横断箇所には石蓋が設けられていました.
 この背割下水には屎尿を流すのは御法度でした.
 屎尿は,完全に肥料として用いられる様になっていたからです.

 後に江戸参府の途上,大坂に寄ったシーボルトは,この事実を知り,驚嘆しています.
 管理は公儀所管で,維持作業は分担制となっていました.
 維持については,町民が個人的に使う下水道は個人の責任で,共同で使う下水道は町内の共同責任で実施され,公儀は大幹線の堀川を担当しましたが,公事を嫌って借家人を貫く様な土地柄の事,幾度となくこうした下水道の維持管理をきちんとする様に,と言う町触れが出され,罰金や罰則強化も行われています.

 この背割下水は江戸期に入っても整備され続け,幕末の頃には総延長が約192,000間(約346km)にも達しています.

 しかし,江戸幕府の重しが取れると,この背割下水の管理は等閑となり,背割下水はゴミ捨て場と化しました.
 この為か,大阪は1877年,1879年,1882年,1885年,1886年,1890年と相次いでコレラ渦に襲われ,その最悪の年である1886年と1890年の流行時には,最悪の日で一日の死者が200名を超えてしまいました.

 これを機に,太閤下水の補修が緊急の課題となり,1892年測量に着手し,1893年9月に改良計画が固まりました.
 計画案では太閤下水を暗渠化し,内部をコンクリートでU字型に固めて汚水の浸出を阻止すると言うものでしたが,それでもこの改良計画は総延長約67,000間(約121km),総事業費約69万円と言う我が国最初の大規模下水改良工事でもありました.
 現在の様に,下水管は未だありませんし,鉄筋コンクリート技術も無く,技術的には当時の最高峰の工法を用いたのですが,そのお陰か否か,現在に至るまで500年以上前の下水道が形を変えつつも残っている訳です.

 下水の話に寄り道してしまいましたが,こうした下水も完備した船場地区は,大坂冬の陣,夏の陣には戦場となり,遂には焦土と化してしまいます.

 その焦土を復興させる任に当ったのが,家康の孫である松平忠明です.
 忠明は1615年に亀山から大坂10万石に封ぜられ,焦土と化した大坂を復興させる為に尽力しましたが,1619年には幕府の政策が変わり,大和郡山に移封となりました.
 その後,大坂には誰も封ぜられず,幕府直轄地として大坂城代が置かれ,初代大坂城代として,伏見奉行だった内藤信正が任命されました.

 この時,伏見城は廃城となり,伏見城下の町人は大坂への移住を命じられています.
 西横堀川はこの頃完成し,船場の南を区切る長堀川も1619~1622年に完成しました.

 ところで,伏見の町人達の移住は,船場の発展に大きく寄与する事になりました.
 彼らは上町の本町近辺,大坂城南東玉造近辺,船場の伏見町・呉服町付近,長堀川の川沿いに居住しましたが,長堀川の開削には,元伏見町人であった岡田心斎,三栖清兵衛,池田屋次郎兵衛,伊丹屋平右衛門が関わった事から,別名伏見川とも呼ばれました.
 長堀川の両岸は農地から市街地に転換され,長堀心斎町,長堀清兵衛町,長堀次郎兵衛町,長堀平右衛門町と言った開発町人の名前を付けた町が出来ました.

 因みに,1700年に編まれた『大坂 北組・南組・天満組 水帳町数家数役数寄せ帳』には,船場には138の町がありましたが,天保期には128町,1872年の大改正で108に整理統合されました.
 これにより,東横堀から西に向かって1丁目から5丁目もしくは4丁目となり,川に沿って縦に横堀1丁目から7丁目迄の街区構成となり,通し町名が付けられました.
 また,西本願寺と東本願寺の西には北渡辺町と南渡辺町が,東本願寺の南には上難波北之町と上難波南之町が作られました.
 以後,1970年の中央大通が出来て船場中央町が出来るまでは大きな変化も無く,1989年に中央区が誕生するまでは明治期の町名をなるべく保持していました.
 現在の船場の町は,東から堺筋,三休橋筋,御堂筋で区切られ,それぞれ1~4丁目を構成しています.

 その船場の町名を覚えるのに用いられたのが以下の歌です.

 浜梶木,今は浮世と高伏道,平野淡路,瓦備後,安土本町,米屋唐物,久太久太に二久宝,博労順慶,安藤塩町,浜北から順に,土佐堀浜通(北浜通)~梶木町(内北浜)~今橋~浮世小路~高麗橋~伏見町~道修町~平野町~淡路町~瓦町~備後町~安土町~本町~米屋町~唐物町~北久太郎町~南久太郎町~北久宝寺町~南久宝寺町~博労町~順慶町~安堂寺町~塩町~末吉通りの浜を読み込んでいます.

 船場では東西に走る道を「通り」,南北に延びる道を「筋」と呼びます.
 嘗て,通りの道幅は筋の道幅よりも広かったそうです.
 通りに沿って東西に通し町名が付いているのは,通りが幹線道だったからです.

 こうなったのは,東横堀以西については,秀吉が大坂城に向けて道路を作った為でした.
 また,一説には,西風が多いので,暑さを和らげる為に風を通しやすくしたとも言われています.
 反対に,東横堀以東は天王寺,堺に通じる松屋町筋や谷町筋の様な南北の道が幹線になっています.
 なお,島之内の周防町筋,三津寺筋は筋ではありますが,東西の道で,船場とは異なります.

 船場の筋は東側から,高麗橋浜,一丁目筋(板屋橋筋),八百屋町筋(鳥屋町筋),堺筋(紀州街道),難波橋筋(藤波橋筋),中橋筋,栴檀木橋筋(三休橋筋),丼池筋,心斎橋筋,淀屋橋筋,渡辺筋(魚棚筋),横堀筋です.
 但し,東横堀川の本町橋から南に大きく東に1町分膨らんで曲がり,一筋増えていて,これを箒屋筋と呼びます.

 筋の名前は通じている橋や街に由来するものが多く,例えば御堂筋は南北御堂に通じる道,堺筋は文字通り堺に通じる道筋ですが,この沿道には砂糖を扱う店が多かった事から,大坂では砂糖の隠語を堺筋と言いました.
 栴檀木橋筋は北浜三丁目の浜から中之島公会堂の南側に架かる橋のたもとに大きな栴檀の木があった事に由来します.
 因みに,難波橋は現在は堺筋に架けられていましたが,以前は1つ西の筋に架かっていた事から,その筋の事を難波橋筋と呼んでいました.

 更に,船場には両側町と片側町があります.
 両側町は,通りを挟んで向かい合っている家々が一つの町を構成しています.
 船場の場合,既述の様に42間(72m)平方が町割の基本で,東西に走る太閤下水が町の境界になっていました.
 そして,町の真ん中を幅4間の通りが貫くのが基本形でした.
 船場の宅地は一般に短冊形で,間口が狭く奥行が深いのが普通でした.
 一方,片側町は堀割に面した町で,川岸を浜と言い,荷揚げに使いましたが,納屋や町家などが建てられる場合もありました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/03/07 23:02


 【質問】
 豊臣秀次って誰?

 【回答】
 豊臣秀吉の姉・ともの息子で,子供のできなかった秀吉の養子となり,関白職を譲られるなど秀吉の後継者とされていた人物です,秀頼が生まれるまでは.
 秀頼誕生後,「自分は邪魔者なのでは?」という猜疑心に駆られ,しばしば奇行をとるようになりました.
 そしてとうとう秀次謀反事件(といっても,蒲生氏郷の遺児への会津領相続を勝手に認可しただけ)が起こって,1595年に切腹させられたばかりか,秀次の子女・妻妾39人も京都三条河原で斬首されました.

【ぐんじさんぎょう】,2008/9/4

 【関連リンク】
『豊臣秀次―「殺生関白」の悲劇』

豊臣秀次の墓


 【質問】
 秀吉には秀頼以外に子供がいたというのは本当ですか?
 早死にしたのも含めると,全部で何人ぐらいいたのでしょう?

 【回答】
 豊臣秀吉の実子は,長男鶴松(夭折)と次男秀頼の2人.
 いずれも母親は浅井長政の長女,淀君.

 ほかに,豊臣秀吉が長浜時代,戦乱で荒れた竹生島宝厳寺の復興をした時の「竹生島奉加帳」に,寄進者として石松丸と南殿という名があり,石松丸(=秀吉の子),南殿(=石松丸の母親)という説があるが,詳細は不明.
 長浜で秀吉に信仰された妙法寺に,羽柴秀勝と伝わる子供の肖像画が残り,竹生島奉加帳との関連から,秀勝とは石松丸のことだと現在されているが,関連性は不明.
 妙法寺に葬られた羽柴秀勝が,秀吉の実子であったことを証明する資料はない.

 簡単にまとめると,

●実子
鶴松  幼名棄.母は淀殿.秀頼の兄.3歳で夭逝.
?秀勝  幼名石松丸.長浜時代の側室南殿の子.存在や関係を疑問視する声もある.
?女子  南殿の子.こちらはより存在や関係を疑問視されている.
?女子  北政所側近の孝蔵主の姪の子.丹羽家家臣に嫁ぎ娘が3人いたとされる.こちらも以下略.

●養子
羽柴秀勝  織田信長の四男.
小早川秀秋  北政所の甥.
結城秀康  徳川家康の次男.
豊臣秀勝  秀吉の甥,姉日秀の次男.
豊臣秀次  秀吉の甥,姉日秀の長男.
豪姫  前田利家の娘.宇喜多秀家の室.
菊姫  前田利家の娘.7歳で死去.
?お江  淀殿の妹,浅井長政とお市の方の娘.

●猶子
宇喜多秀家  宇喜多直家の子.母おふくは秀吉の側室.
智仁親王  正親町天皇の皇子・誠仁親王の第六皇子.

●淀殿の猶子
完子 淀殿の妹お江と羽柴秀勝(秀吉の甥で養子)の娘.

●北政所の養女
辰姫 石田三成の娘.

日本史板,2007/10/10(水)
青文字:加筆改修部分


「へうげもの」より


 【質問】
 豊臣家は滅びたと聞きました.
 血筋も絶えたのでしょうか?
 また,豊臣姓の人は,いるのでしょうか?
 いるなら豊臣秀吉と血縁関係(養子もある?)でしょうか?

 【回答】
 血筋は秀吉の甥の豊臣秀勝と豊臣秀次の女系で残ってる.
 秀吉の女系も一説に残っている.
 男系は絶えてる.
 生存説や落胤説もあるけど.

 秀勝は娘の豊臣完子が公家の九条家に嫁いで,その血は今の皇室にも入ってる(らしい).
 秀次は娘2人が秀次事件の粛清を免れたといわれ,ひとりは公家の梅小路家に嫁いだ.
 もうひとりは真田幸村の側室になって一男一女がいる.
(ただ,秀次の娘ではないという異説もある).

 秀吉の女系は,秀吉の側室の徳子(徳殿)が娘を産んでいたというもの.
 徳子の実家川副氏の史料で,その娘は丹羽家の家臣に嫁いだとあるらしい.

日本史板
青文字:加筆改修部分

▼>豊臣完子

 嫁ぎ先の九条家が,養子なく続いてれば,貞明皇后(九条節子)で天皇家に入ってるけど.輔嗣,尚忠あたりの関係が血が続いてるかwikiだけでは検証出来ず.
 と,思ったら,この二人,九条家から二条家に養子にいった連中の子孫が九条に戻ったようなので,続いているっぽいです.

>真田幸村の側室になって一男一女

 男が三好(秀次の旧姓ですね)幸信,女が岩城宣隆の継室顕性院.
 2代目の重隆は顕性院との子なので,岩城氏が養子なく続いてれば.

水上攝堤 by mail,2009/6/10


 【質問】
 石田三成の実像ってどんな?

 【回答】
・茶坊主なんて言われてるが武家の子
・賤ヶ岳で先陣だった小姓衆の中に混じっていた「らしい」から,自身で武器振り回して戦ってたっ「ぽい」
(ただし秀吉に評価されたのは,松明かざして夜道を案内させた手柄のほう)
・よくバカにされる忍城攻略の水攻めは,秀吉の命令で三成のせいじゃない
・朝鮮の役では深く侵攻してきた敵に,補給線の大元が襲われることがあり,三成の部隊が迎撃してかなり圧勝している
・侍大将として名の通った人物を高禄で雇っていた
・部隊としての鉄砲の使い方は,割りと上手かったらしい
・関ヶ原で三成の部隊に直接あたった東軍の武将は,三成の部隊を褒めている

 一人の武士としても,数千人までの部隊長としても無能ではなかったらしいが,いかんせん致命的な証言が;
「あいつは早急な対応が必要な時も,長時間考えこんでる.
考え込んだ末に出るのは正しい答えのことが多いが,答えが出た頃には勝機を逸していることが多い」

 非常に優秀で私心のない官僚だったので,現場判断とか手心とか融通が必要な局面で三成と口きいた武将は,一人残らず三成を嫌った.

 たとえば備中高松城攻めで,ここは急場だと睨んだ藤堂高虎(当時豊富秀長家臣)が,殆ど破産するほど私財を投げ打って堤の完成を急いだことに対して,それが天下取りの一因にもなった秀吉が,後から高虎のつぎ込んだ金を全額補償しようとしたら,三成が,
「役目が果たせるように封禄を支払っているし,加増もしたのだから,補償したら二重払いになる」
と,あまりにも尤も,かつ空気の読めないことを言ったのが,三成と高虎の対立の始まりとか.

 三成の言うことは御恩と奉公の関係で言えば間違いなく正しい.
 御恩は先にあって,その収入の中での奉公を期待されているんだから,期日内に期待された仕事をやり遂げた上で,なおかつ主君に+αな仕事をするのは確かに理想だけど,それをちゃんと自分の出せる財力の中で行うことも才覚で,報酬を期待して今の財産や領地を纏めて質に入れてまで+αの部分のために働くってのをいちいち補填してやってたら,真似する奴が続々出てきて収拾つかなくなる.
 それに「水攻めの準備が予定より早く完成したから大返しができた」なんて結果論だ.

 でも,高虎がそこを急場と見込んだことは間違いなく正しい.
 そういう戦略的に見る目のある奴には,恩を押し売りしてでも手元にとどめておくべきだ.
 それが人の使い方ってもので,秀吉や秀長やもちろん家康にあったそういう観点は,三成には綺麗さっぱり,無い.

 また,三成はルール作りも得意だった.
 豊臣政権の役に立つルールだから出世はするけど,やっぱり諸大名から恨みを買う.
 その辺の上手い落とし所を見つけるさじ加減が上手かったのは,秀長だったんじゃないかと思う.

 つまり三成は,良くも悪くも筋論・べき論ルール内でしか物事を処理しない.
 だからこそ官僚としては優秀.
 でも,それ故に官僚以上は無理.

 しかも,公平なルール作りや公私の別に厳しいような気がするけど,実際はお館様べったりで誰よりもえこひいきの差別主義.
 いわゆる盲目的な「犬」の服従.
 そりゃ若いときはともかく,老境の秀吉の覚えは良かったろう.
 主人は天邪鬼な面を持つ信長でもダメで,「国家」を考える家康もダメだろう.
 ある意味,一人の主人の下でしか伸びない人.

 関ヶ原の戦いの前には,大谷刑部からこう言われたっていう;
「お前がトップに立ったりしたら,本来味方になってくれる筈の者まで徳川につく.
 だから毛利と宇喜多に任せて,お前は目立つな裏方に徹しろ」
 これ言えるって本当に親友だったんだなと思うけど,親友からそこまで指摘されるって,周囲からどんだけ嫌な奴だと言われてたんだ三成.
 そしてそこまで言われても結局口出しして目立つって,どんだけ自分の性格に自覚ないんだ三成.

 面白いのは,西洋でも同時期に似た様な宰相や大臣が現れている事.
 既存の勢力を君主の統治機構に組み入れるのが仕事で,その権力は君主から与えられた信任のみで裏付けされている.
 だから,既存の勢力からは恨みを買うし,君主からの信任が無くなると,あっという間に失脚したり暗殺されたりする.

 ただ,個人としてどういう男だったかというと,大谷吉継の口つけた茶碗に,
「誰も次飲まないのは非礼ですし,ここでどうかというなら,大谷殿の病ではなく私の天命ではないですか」
と続けて同じ茶碗の同じ口つけた所から茶を飲むような男でもあった.

 【反論】
 高虎の件だが,そこら辺まであからさまに「配慮」やったら,あのお猿さん一家がおとなしくしてるかな?って懸念もあるけどな.
 そういう懸念はやっぱりトップがやることであって,中間管理職がしゃしゃり出てきてやることじゃない.
 まあ,実際には秀吉や秀長は上司のもとでそれなりにやってるわけだけど,それでもやっぱり軋轢は起きてる.

 ぶっちゃけみっちゃんは,偉大すぎる上司の影に隠れて,本領が見えないまま,いきなり時代の主人公たる狸親父の相手(踏み台)なんて大役担っちゃったのが不幸なのよ.
 みっちゃんに殉じた人らが結構いたこと考えても,結構な傑物だったのは間違いないんだが,その本領が明らかになることはないのだろうなあ.
 そこら辺は金柑頭にもいえることで,だからこそこんなふうにああだこうだ言い合うのが楽しいのだろうけど.


342 :名無しんぼ@お腹いっぱい@転載は禁止:2015/04/18(土) 14:31:44.84 ID:HVpHhfm80

 「花の慶次」の,鼻水垂らしながら心情を訴える三成が,一番好きだな.

漫画板,2015/04/18(土)
青文字:加筆改修部分

頭蓋骨を元に復元された三成の顔
(こちらより引用)


 【質問】
 加藤清正とは?

 【回答】
 戦国時代の武将(1562~1611)

 尾張の土豪,正左衛門清忠の子として,尾張国愛知郡中村に生まれる.
 幼名,虎之助.
 幼い頃に父を亡くしたが,母親が豊臣秀吉の生母の伯母にあたることから,長浜城の羽柴秀吉子飼いの武将となる.
 元服後,秀吉に従って戦功をたて,1583年の賤ヶ岳の戦いでは一番槍.
 1588年,肥後20万石を与えられ,熊本城城主となる.
 1592年からの朝鮮出兵では蔚山城篭城戦で活躍.

 秀吉死後,秀頼の後見役となるも,石田三成らの文治派と反目したため,関ヶ原の戦いではでは東軍に属し,九州の西軍小西行長の宇土城,立花宗茂の柳河城を攻略.
 その功により行長の旧領及び豊後(大分県)鶴崎地方を加封され,合計54万石の大大名に.

 二条城での秀頼と徳川家康との会見を見届けた後,間もなく熊本城にて死去.

【ぐんじさんぎょう】,待機稿
を加筆改修

鳥取県 倉吉市:倉吉泥人形/加藤清正(明治末期)
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 加藤清正は朝鮮の役で虎退治が有名だけど,当時の朝鮮半島に虎っていたの?

 【回答】
 戦前までは,有り触れた猛獣だった.
 朝鮮総督府が作った,虎の駆除についての資料が残っていたかな.
 ハングル板で見たことがある.

 昔は亜種としてチョウセントラと名づけられていたが,DNA調査などから,今ではアムールトラ(シベリアトラ)と同種といわれている.

 北朝鮮には今でもいるらしいが,韓国では絶滅したといわれている.
 金日成から一つがいの虎が贈られたこともある.
 既に物故していて,その仔が神戸市立王子動物園に飼育されている.

日本史板
青文字:加筆改修部分

▼ 朝鮮の虎といえば……

 李承晩にこういうエピソードがあるそうで;

 李承晩と日本の高官が会談をした際,ひょんなことから虎の話題になった.
日「朝鮮半島にも虎はいるんですか?」
李「昔はたくさんいたらしいが,秀吉の侵略の時にほとんど絶滅してしまった.今生きているのは1頭だけだ」
日「ほう,その虎はどこにいるんですか? 動物園ですか?」
李「あなたの目の前に座っている」

 いかにも李承晩が言いそうだということで広まっているそうですが,「若き将軍の朝鮮戦争」によると,出所不明の作り話だそうで.

唯野 in 「軍事板常見問題 mixi別館」,2011年04月07日 08:34


 【質問】
 小出秀政(こいで・ひでまさ)って誰?

 【回答】
 小出秀政(1540~1604)は,尾張国中村に生まれた戦国武将.
 豊臣秀吉に仕え,1582年に姫路城の留守居役,1585年に岸和田城主3万石となり,1598年8月の秀吉死去の後は豊臣秀頼の後見となった.
 関が原合戦後も所領は安堵され,片桐且元と共に摂津・河内・和泉を中心に,豊臣氏の家政を担当した.

 【参考ページ】
『日本歴史大事典』2(小学館,2000.10.20),p.5

【ぐんじさんぎょう】,2010/11/03 21:20
を加筆改修


 【質問】
 小出吉政(こいで・よしまさ)って誰?

 【回答】
 小出吉政(1565-1613)は秀政の息子で,母親は豊臣秀吉の叔母.
 秀吉に仕え,1593年には播磨国龍野に2万石付与され,1595年には出石6万石に移った.
 関が原の戦いでは西軍に属したが,弟・秀家が東軍に属したため,知行を安堵された.
 1604年,秀政没後,岸和田藩主となり,出石を嫡子・吉英(よしひで)に譲った.

 【参考ページ】
『日本歴史大事典』2(小学館,2000.10.20),p.5

【ぐんじさんぎょう】,2010/11/05 21:10
を加筆改修


 【質問】
 千利休って誰?
 3行で教えて!

 【回答】
 千利休こと,田中与四郎(1522~1591)は,信長や秀吉に仕えた茶人で,茶道千家流の始祖.
 信長から重用されたのは,堺の政財界の中心にいた一人である利休を通じて,信長が堺とのパイプを堅固なものにしたかったためらしい.
 信長の後継者・秀吉からも,引き続き重用され,大友宗麟をして「秀吉に意見を言えるのは利休しかいない」と言わしめたほどの権勢を誇ったが,秀吉が堺に対して圧迫を強めるようになると対立し,1591年,切腹させられた.

 【参考ページ】
http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic21.html
http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E5%8D%83%E5%88%A9%E4%BC%91
http://www7a.biglobe.ne.jp/~gakusyuu/rekisizinbutu/sennorikyu.htm

正木美術館「千利休図」
(こちらより引用)

「へうげもの」の「利休」
(朝目新聞より引用)

山科けいすけ描く「利休」
(こちらより引用)

【ぐんじさんぎょう】,2012/09/09 20:00
を加筆改修

 宗麟は「内々のことは利休殿に,政のことは秀長様に相談せよ」とも言ってましたっけね.

ソフトヒッター99 in mixi,2012年08月23日 11:17


 【質問】
 古田織部について3行以上で教えてください.
Kérem, mondja el Furuta Oribét a három vagy több sorban.

 【回答】
 安土桃山・江戸前期の武将・茶人.
Furuta Oribe a katonai parancsnok és a Japán teaszertartás teamester volt tól azucsi-momojama-kor amíg előző Edo-kor.
 茶道を好み,千利休に学び,その高弟七哲の一人に挙げられる.
 利休亡きあと茶の湯名人として武家茶道,織部流を確立,徳川秀忠・本阿弥光悦・小堀遠州らの師となった.

 名は重然,通称は左介,号は印斎,法名は金甫宗室.
 また,景安,古左,古織(こしょく)とも称した.

 1543年または44年,美濃(岐阜県)の生まれ.
 美濃国本巣郡の山口城主・古田重安の弟,古田重定の子.
 後に伯父・重安の養子入りした.
 重定は茶人としても高名であり,自然と重然もその薫陶を受けて育った可能性もあるが,諸説入り乱れており,真相不明.

 初め美濃の守護大名・土岐氏に属していたが,1567年,織田信長の美濃平定の際,実父・重定とともに信長に従った.
 1568年,信長の上洛に従軍し,摂津攻略に参加.
 1569年,摂津茨木城主・中川清秀の妹・せんと結婚.
 1576年,山城国乙訓郡上久世荘(現在の京都市南区)の代官となる.
 1578年7月,織田信忠の播磨神谷城攻めに使番として手柄を立てる.
 同年11月,荒木村重謀反の際には,義兄の清秀を織田方に引き戻すのに成功.
 その後も羽柴秀吉の播磨攻めや,明智光秀の丹波攻め,甲州征伐に清秀と共に従軍.
 1582年頃より利休と親交し,その高弟七哲の一人に挙げられるようになる.

 信長死後は豊臣秀吉の同朋衆となり,山崎の戦に出陣.
 1583年に伊勢亀山城の滝川一益を攻め,同年4月の賤ヶ岳の戦いでも軍功をあげる.
 この時,清秀が戦死したため,重然は清秀の長男・秀政の後見役となり,1584年の小牧・長久手の戦い,1585年の紀州征伐,四国平定に秀政と共に参陣.
 1585年,秀吉が関白に任ぜられると,織部も年来の戦功により従五位下織部正 (おりべのかみ) となり,山城国西ヶ岡に3万5000石の領地を与えられた.
 1587年,九州征伐従軍.
 1590年,小田原征伐従軍.
 1592年,文禄の役において,肥前(佐賀県)名護屋(なごや)に在番衆として留まる.
 1591年2月,利休が堺に蟄居を命ぜられたとき,細川三斎(忠興)と共に,これを淀の舟本で見送ったことは有名.
 利休亡きあと茶の湯名人として一家を成し,武家茶道,織部流を確立.
 「へうげもの」(ひょうきんなもの)と呼ばれるゆがんだ造形の茶陶を用い,奇抜な美的感覚が「織部好み」として一世を風靡(ふうび)し,諸大名の師となった.
 秀吉の最晩年には,御咄衆(おはなししゅう)の1人に加えられた.

 1998年の秀吉没後は徳川家康に仕え,1600年,関ヶ原の戦では徳川方について功をあげる.
 「天下一の宗匠」などと称され,1603年から8年間,小堀遠州に茶の湯を伝授(慶長伝授)
 1610年には江戸城において,将軍秀忠に茶の湯指南.

 しかし1615年の大坂夏の陣の折,重然の重臣である木村宗喜が,豊臣氏に内通して京への放火を企んだとされる疑いで,京都所司代の板倉勝重に捕らえらる.
 「重然も冬の陣の頃から豊臣氏と内通しており,徳川方の軍議の秘密を大坂城内へ矢文で知らせた」などの嫌疑をかけられる.
 この背景として,利休の「反骨精神」を受け継いでいた古田織部は, 江戸幕府の方針・意向を無視することもしばしばであり,かつ,茶人として確固たる地位を手に入れて,茶の湯を通してさまざまな方面とつながりを持つようになり,幕府からその影響力を危険視されるようになっていた模様.
 また,二代将軍秀忠の茶道指南役として江戸へ下向した機会をとらえ,徳川・豊臣両者の平和的共存はできないものかと和平工作に動いたことが,家康の意に反したとの説も.

 大坂落城後の6月11日,伏見木幡の屋敷において自刃.
 切腹に臨んでの言葉は
「かくなる上は,申し開きも見苦し」
 72歳であった.

 今日,織部焼・織部灯籠・漫画「へうげもの」などにその名をとどめる.
 茶室に興福寺八窓庵,藪内(やぶのうち)家燕庵などがある.



 【参考ページ】
https://kotobank.jp/word/古田織部
http://bushoojapan.com/tomorrow/2015/06/11/51949
http://www.choeisha.com/column/column02.html
http://www.oribe.gr.jp/cgi-bin/oribe/siteup.cgi?category=2&page=1

古田織部肖像画
(こちらより引用)

『へうげもの』の織部

実写版・織部
※原因不明の症状により表示できません, 16.10.30
(画像掲示板より引用)

【ぐんじさんぎょう】,2016/10/25 20:00
を加筆改修


 【質問】
 利休七哲のうち,芝山監物の石高や役職を教えてください.
 ググったのですが,生没年不詳というばかりで.

 【回答】
 この人,いわゆる荒木村重・中川清秀・高山右近らと同じ摂津衆で,大和田城にいたとき城主安部仁右衛門(二右衛門)と一緒に信長に帰順し,黄金を賜った……と信長公記巻十一にあります.
 どうもこれが,歴史に登場する最初のようです.
 だからかしら,帰順後も高山と行動を共にしています.

 で,安部のほうは川辺郡を与えられ,池田恒興隷下で役に就いていますが,
http://www.geocities.jp/kawabemasatake/nobunaga.html
ここ(↑)に芝山の名はないんですよね…
 将としての才覚はなかったのかもしれません.
 小田原陣韮山城攻めのときに戦目付をやってたり,聚楽第御幸の際,先駆をやってたりしてたみたいだけれど,……

日本史板,2007/09/30(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 利休七哲の一人,瀬田掃部の石高や役職を教えてください.
 ググったのですが,生没年不詳というばかりで.

 【回答】
【瀬田掃部】(1547?-1595)

 正忠,清右衛門.馬允・掃部頭.
 出身は近江瀬田とも武蔵国ともいう.
 初め後北条氏に仕え,天正10年頃,高山右近の推挙で秀吉に仕える.
天正12年(1584) 小牧長久手の合戦で兵150を率い,秀吉軍に従う.
天正13年(1585) 秀吉関白就任に伴い,従五位下掃部頭叙任.
天正15年(1587) 九州征伐で兵120を率いる.
天正16年(1588) 後陽成天皇の聚楽第行幸の際,騎馬で左の前駆を勤める.
天正18年(1590) 小田原征伐で相模玉縄城攻略戦に参加.
文禄04年(1595) 豊臣秀次秀次に近かったため,秀次自刃後,処刑.

日本史板,2007/09/30(日)
青文字:加筆改修部分


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