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『のぼうの姫 秀吉の妻となった成田甲斐姫の実像』(三池純正著,宮帯出版社,2012/10/19)
『支倉常長遣欧使節 もうひとつの遺産』(太田尚樹著,山川出版社,2013/08)
【質問】
佐竹氏の秋田経営について教えられたし.
【回答】
佐竹氏と言えば,八幡太郎義家の弟である新羅三郎義光の後裔です.
義光の孫に当る昌義が常陸国久慈郡佐竹郷に土着して佐竹氏を名乗るようになりました.
佐竹郷は,元々,義光が義家から与えられて別業(別荘)としたもので,佐竹郷を含む奥七郡は義光の長子義業が馬飼料の地として義家から与えられた土地でした.
因みに秋田佐竹家の『佐竹家譜』では,新羅三郎義光を初代としていますが,常陸にいた頃は,昌義が初代となっていました.
本来は佐竹氏になったのが昌義ですから,当然と言えば当然でしょうが,義光流清和源氏の方が当時は有名でしょうから,幕藩体制期には少しでも箔を付けるべく,この様な形になったのではないでしょうか.
その昌義の子の忠義,隆義兄弟の時に太田に移り,嫡長子の隆義が太田城に入ることになります.
しかし,隆義が平氏方になったことから1180年に源頼朝の攻撃を受けて忠義は金砂山で戦死してしまいました.
隆義の方は,平家の配下として京都に存し,1183年に66歳で死去しています.
そんな波乱もありましたが,兎に角,佐竹氏は太田城を根城に,20代当主の義宣が府城を水戸に移すまで,府城として機能していました.
戦国時代,各地に土豪が盤踞しましたが,名門の佐竹氏も一時期は衰微したりしています.
ただ,佐竹氏には鬼義重と呼ばれた,佐竹義重と言う一大英傑が登場して,常陸一国を統一していくと共に,陸奥の南郷や会津に勢力を伸ばし,佐竹の存在は中央に注目されるようになります.
中央では織田家,豊臣家と大きな勢力が力を得,遂には北条を攻めるまでになってきます.
当然,バランス感覚に優れていた鬼義重は中央政権と良好な関係を築いていきますが,1586年,鬼義重は引退して,義宣が家督を継ぎ,義宣は豊臣家に臣下の礼を執ることで常陸一国を安堵され,『慶長三年大名帳』では全国第8位の領地を誇ることになりました.
また,豊臣家との取次として有能な官僚である石田三成と良好な関係を築いていますが,それが,秀吉が没し,家康が天下を窺う様になると,徒となってしまいます.
其の上,義重の代から上杉家とは良好な関係を築いており,これも徳川家康の疑いを招いてしまいました.
この為,徳川家康は上杉征伐に際しては,佐竹家に人質を要求し,三成挙兵の報が伝わると佐竹への戦備を整えて踵を返します.
そうしておいて,関ヶ原の合戦で,家康は大勝利を収めた訳です.
関ヶ原の合戦後の処分は即座に行われましたが,薩摩島津家と,常陸佐竹家,それに会津上杉家への沙汰は最後まで行われませんでした.
1602年5月8日,伏見に上った義宣の下へ家康の上使が訪れ,突然に国替えの命令を受けました.
7月27日付で義宣は正式に国替えの判物を受けましたが,その文面はこうでした.
――――――
出羽国内の秋田仙北両所進め置き候,すべて御知行ある可く候也
慶長七年七月廿七日 御居判
佐竹侍従殿
――――――
有名な話ですが,此処で言う「秋田」とは秋田,桧山(山本),豊島(河辺)三郡を指し,「仙北」とは山本(仙北),平鹿,雄勝の三郡を指す,所謂秋田六郡なのに,石高は書かれて居ません.
佐竹氏の石高が正式に決まったのは,60年後の1664年4月5日,次代の佐竹義隆の御代です.
この時,秋田6郡20万石と下野国河内,都賀両郡の内5,818石,合計20万5,818石で,常陸一国54万石から半分以下の減封となった訳です.
さて,7月27日に判物を受けた義宣は,29日に直ちに伏見を発って秋田に向かい,江戸を経て安東秋田氏が常陸宍戸に国替えになった後に,空き城となった土崎湊城に先ず入りました.
湊城は,秋田県土崎駅の駅前にある神明社境内を本丸とする海に近い狭小の小城でした.
これは,安東氏が日本海交易で利を得ていた事から水軍を重視した為に生まれたものであって,太田や水戸の様な地形ではない為,また,佐竹は然程海を重視していた訳ではなかったので,使える場所ではありません.
其所で,直ちに新しい城地を探し,久保田の神明山(千秋公園台地)を適地として決定,1603年5月から築城を開始して,1604年8月28日に湊城を破却した後,新城に移ることになりました.
以後,1867年まで久保田城が佐竹の居城となった訳です.
神明山は,元々手形山に連続する段丘の末端でしたが,古い時代に手形の辺りで旭川の浸食を受けて切断し,三段段丘からなる独立の台地となりました.
これらの地は三森山,三岳山,矢留山,保戸野村山等の名称で呼ばれていましたが,これは本丸南西隅の御出し,北西隅の御隅櫓,八幡山の三箇所がそれではないかと言われています.
旭川は,仁別川とも呼ばれ,所によって添川,泉川,保戸野川と呼ばれたりしています.
この川は,太平山を源流として仁別,添川を流れ,転封当時は手形から北の丸下の中島の底地を流れ,神明山の西裾すれすれに南流し,穴門の堀から上長町,中長町,下長町の辺りを経て,穀堀の辺りから現在の旭川の河道になっていたと考えられています.
そして,築城時には,手形から中島土手の外側を廻り,通町橋から五丁目橋附近までへと付け替えられています.
神明山東部には長沼,手潟,赤沼と言った連続する広大な低湿地が広がっていました.
これは,旭川の古川が堰き止められて水を湛えたものです.
また,古い旭川は手形の辺りを浸食して手取山と神明山とを切断し,其の儘神明山の東を流れ,長沼を作って神明山南部の平野を斜めに流れて,現在の旭川の下流に達していました.
内町の中にある大堀,上堀,下堀はそれを整備したものと考えられています.
手潟は後に手形となり,旧練兵場の北部3分の2と秋田大学の構内にかけてが独立した沼地であり,南部は泥炭湿地で長沼と分離しており,これが手潟であろうと考えられています.
更に長沼の東北部には赤沼があり,太平や下北手から手形への通行を遮断する形になっていました.
現在の秋田大学医学部付近がその一部であり,赤沼から太平方面に抜ける道路は,藩政期後半にこの沼に水を貯える為に造った堤防と思われ,赤沼は,長沼に近い遙か南方まで広がっていたのではないかと考えられています.
神明山の南西部には広い平原が拓けていました.
一部に台地がありましたが,大体が低地で湿地も多かったと言います.
即ち,神明山を中心として川とその一部を利用した堀,更に湿地により防御に適した地としてこの場所を選んだであろう事は十分に考えられる訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/05/21 22:18
さて,秋田に転封された佐竹氏は新たに居城として,神明山に城を築くことにしました.
転封前のこの地区は,安東秋田氏の所領であり,川尻村,楢山村,保戸野村,手形村の村落が存在しています.
川尻村は神明山周辺にある旭川両岸の大部分を占め,安東秋田氏所領中,秋田郡内で最大規模の1,737石6斗2合ある村であり,楢山村は,牛島村と合せても276石9升6合,一番小さな村が保戸野村の129石2斗8升8合で,川尻村のとてつもない大きさが分かります.
とは言っても,現在の様な人口密集地ではなかったので,城地の選定はそれに関係なく行われています.
先ず,川尻村の集落は,太平川河畔に移す事にして,その跡の無人の荒野に思う存分縄張と町割を実施しています.
東部は,先述のように完璧な大沼沢地であり,特に長沼は城地に隣接した防衛の要地となっており,万一敵が攻め寄せても機動が損なわれます.
その為,この方面には手形に侍町を置いただけに留まっています.
南部は奥深く続く平原であり,これは城正面として侍屋敷を配し,土手と堀で囲んだ中通の郭,その外側には亀ノ町郭,更に外側には楢山の足軽町などを配して,厳重な守備を行っています.
城内の上中城から広小路へ出る追手門(大手門),中通の郭から亀ノ町郭に移る追手二ノ門,亀ノ町郭から楢山足軽町に出る追手三ノ虎ノ口と連続して門が続きますが,これは正面の方向を示しています.
中通の郭,亀ノ町郭は,土手と堀で囲んだ防禦陣地で,大堀,上堀,下堀は古い旭川の古川を利用した堀であり,侍町を本城と一体的な防衛上の見地から考えられており,城の正面と郭の出入口には重臣を置いて,警備を厳にするようになっています.
更に神明山の麓を流れていた仁別川の流れを西方に掘り変え,これを堀川と称しています.
この工事はこれは築城と同時に開始されました.
この堀川を境に,西部は町人町の外町とし,侍と町人の住居を画然と分離しました.
侍町の内町は防禦陣地として機能する為のものであるのに対し,外町は碁盤目状の町割をして商工業の便を図りました.
同時に,他国へ通じる羽州街道は外町を通し,旅人は内町を通過することを禁じています.
外町を開放的にする反面,内町は閉鎖的にする事で更に防禦を高めようと言うものです.
また,旭川対岸にある保戸野地区は城地に接近していることもあって侍町とし,外町の西縁には寺町を配して防御網の一環を担わせています.
城地は,標高約40mの神明山という台地です.
これは先に述べたように,三箇所の高地のある起伏した台地で構成されており,この最高所を均して南北120間(約215m),東西65間(約117m)の長方形の高地とし,本丸用地としています.
此処には,当主の住居である本丸御殿と,政庁である政務所を設置し,周辺に表門(一ノ門),裏門,帯曲輪門,埋門の4つの門と切戸口の5つの出入口を設置しました.
また,西南隅には御出し書院,西北隅には御隅櫓,その他隅櫓があって,これらの間の土手に多門長屋を廻し,東側の正面には板塀を建てています.
二の丸は本丸の一段低い細長い地区で,南北240間(約432m),東西39間(約70m)の長方形で,本丸に次ぐ要所であり,勘定所,境目方役所,祈祷所安楽院,時鐘,金蔵,厩を置いています.
中には二の丸広場があり,城外からの道は全て二の丸に集まるようになっています.
本丸と二の丸が城の中枢部で,内堀で囲みます.
此処から外部へ通じる出入口は松下門下の唐金橋,黒門下の唐金橋,不浄門である二の丸厩門下の土橋,土門からの長橋の4箇所です.
二の丸の北,東,南の三方を取巻き,外堀で囲まれた地区が三の丸で,重臣の屋敷が置かれます.
東部は上中城,南部を下中城,東北部を山ノ手と良い,山ノ手の西に続く八幡山も三の丸に含まれています.
但し,この八幡山は重臣屋敷とは異なる為,別郭と呼ばれています.
その八幡山には当初,佐竹氏の氏神である小八幡と稲荷社,別当寺金乗院を置いていましたが,1767年に外町の大火で大八幡と一乗院が類焼すると,金乗院は北の丸に下ろして,その代わりに両寺社をこの場所に持ってきています.
北方の北の丸は,大小屋と籾蔵を置き,西方には半月状の捨曲輪を掘りで囲んで設置し,其所には兵具蔵を置いて,細い土橋で通行させました.
こうして,本丸,二の丸,三の丸,北の丸,兵具蔵の周りを外堀と土手で囲い,外堀を渡って城外へ通じる道は,まず1つが穴門から穴門橋を通って通町方面へ出る出口,2つ目は搦手門(中土橋門)から中土橋を渡って広小路へと出る搦手口,3つ目は追手門(上土橋門)から上土橋を渡って広小路へと出る追手口,4つ目は追手北門から手形堀反町方面へ出る手形東口,5つ目は山ノ手から手形休下町へ出る手形北口,この他に,北の丸から台所町へと降りる八幡坂があります.
これらの内,穴門橋のみ木橋で,他は土で造った土手状の橋,所謂土橋となっています.
なお,土手の内側下部2段3段の石垣がある所謂鉢巻土手はありますが,本格的な石垣はなく,また天守閣の構想もありませんでした.
そう言う意味では典型的な近世城郭の形ではあった訳です.
但し,これら城の築城年代は実はよく判っていなくて,1603年5月の着工と,1604年8月28日に湊城を破却して新城に移っていますが,取り敢ず当主の居館と土手や堀と言った防禦陣地の最低限の施設が出来たのであろうと思われます.
それ以後も普請は続けられ,1630年頃も未だ三の丸の普請の届出が出ていたりしているので,完成までには相当長期間が費やされたのではないか,と考えられています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/05/22 22:28
さて,久保田城の城下町は,旭川を外堀の役目とすると共に,東岸を侍町,西岸を町人町と画然と分ける狙いもありました.
侍町は,侍,足軽,中間が居住する町で,足軽町は楢山南部と保戸野鉄砲町,川口町の3つに,中間町は保戸野表諏訪町,保戸野愛宕町通以西と,上中島土手町の3つにあります.
侍町の中心は,中通の郭と,亀ノ町曲輪にあり,此処には中上級の高禄家臣が居住する屋敷がありました.
但し,東岸には例外として楢山米沢町と十軒町の2つのみ,町人町が残されています.
これは元々川尻村に属する百姓町ですが,米専売の家督権を持ち,外町の米町庄屋扱いとなっています.
もう1つ,向馬口労町は対岸にある馬口労町の続きとなっています.
内町の町割は3期に亘って整備されました.
第1期は,1607年から実施されました.
当初は仮住まい的なものだったので,計画的な町割はしませんでしたが,1606年,義宣が家老向右近宣政に書状を送り,領内から高100石につき2名ずつの人夫を出させ,1607年2月から窪田の普請を進めるよう,大膳屋敷の山(後の八幡山)から先ず手を付けて縄を引かせる様,指示を出しています.
大膳屋敷とは,石塚大膳義辰の住んでいた屋敷のことで,義辰の屋敷を広小路の東根小屋町西角に移し,その跡地に佐竹氏の氏神である小八幡と稲荷社を祀りました.
その他,城内上中城,下中城,山ノ手と中通の郭の屋敷割がこの時に行われています.
1619年,幕府の一国一城令に基づき支城破却が行われていましたが,秋田佐竹家は幕府の異例の措置で,横手,大館を残して破却しました.
これにより破却されたのは,角館,十二所,桧山,湯沢の4城で,院内は屋敷構えだった為に破却対象とはなっていません.
そうして,破却対象となった秋田,仙北の各地方に散在していた上中級家臣の城下集住が実施された訳です.
この為,中通の郭を割直しし,亀ノ町郭の新設が行われ,根小屋町の曲りを直して,長野の下から堀川土手際まで5町の割直しを実施しています.
1619年には保戸野中町に六郷衆,1620年には手形堀反町に刈和野衆が割り付けられています.
こうして,先ずは侍町の中心部が構成されました.
第3期は1629年から8年に亘って行われたもので,これは転封以後に抱えた家臣が増加して,現行の侍町では収容しきれなくなったことと,1614年の検地による知行割付けの結果,家臣団の再編成が行われた事に因ります.
この時には,中通の郭,亀ノ町曲輪の外郭に当る楢山,保戸野,手形,川口の各地区に対して行われました.
街道の入口には足軽町を設置して,防備を整えた為,楢山足軽町と保戸野鉄砲町の足軽町,川口の足軽町がこうして出来上がりました.
こうして,ほぼ現在の久保田城の侍町は整い,後は1671年に楢山愛宕下に愛宕下新屋敷,1673年に築地と長野下,1699年に手形東新町,手形西新町が整えられて以後は明治維新まで変わることなく続いています.
一方の外町,寺町の町割もほぼ同じ頃に実施されたものと考えられています.
最初は,1607年頃,川尻村の本村であった場所が町人町として最初に整備され始めた場所と思われ,この場所は大町となりました.
1612年頃になって,大町の整備が落ち着いた頃に,茶町三町が整備され始めます.
1613年に穀丁の米小売の者を移して米町四町を整備し,また肴町が通町の川岸に整備されましたが,川が汚れるとされて,1619年に茶町筋の上肴町が町割されて移転しました.
以後,1631年までに外町は整備されていったのではないかと考えられています.
外町の町割の全体構想は,湊から城内に向かう通町筋と,それに並行して南端を東北に走る馬口労町の間に,これを結ぶ数本の道路を通します.
これが,大町筋,茶町筋の2本の街道と,東の川反筋,西の亀ノ町筋,その西側に途中で合流する米町筋で,更にこれと直角する様に,9本の横小路によって町は碁盤目状になります.
当初茶町筋は湊から馬口労町への往還として町割されていましたが,1631年に鍛治町と馬口労町を直通させ,大町筋を街道,即ち羽州街道としました.
それに先立つ1629年には,通町と大町三町の二階造を命じて大通りの体裁を整えるようにしています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/05/23 21:54
安東秋田氏時代は,陸上交通よりも海上交通の方がよく利用されています.
従って,街道の整備は余り行われておらず,土崎湊から戸島へ行き,戸島から何処かで岩見川を渡り,黒沼を経て畑の部落から下北手の宝川を越え,松崎で太平川を渡って平野に出,赤沼村の東は沼沢地だったのでこれを避けて北に周り,五平山(現在の秋田大医学部の辺り)後方の鞍部を越えて推古の沢に下り,手形山の頂上を越えて旭川の沢に入り,泉山の南端を周り,水口,神田,八柳を経て湊に赴くのが唯一の街道らしい街道でした.
これだけ大回りすると言うのも,戸島,四ツ小屋,牛島一帯の雄物川の氾濫原が通行を阻んだ為です.
しかし,佐竹氏は海上交通より陸上交通を重視します.
久保田に城を築いたのもその現れでもありますが….
先述の様に,その為に築かれたのが羽州街道で,城下町から牛島を経て戸島へ通じる街道となっています.
これが開通されたのは不明ですが,1627年に久保田の百姓町から峯吉川までの道普請の奉行任命の記録があるのと,刈和野~大曲間,川ノ目~沼館間,沼館~岩崎間の道奉行も任命されていることから,この頃に工事が行われてたのではないか,と考えられています.
百姓町とは楢山南部の川尻村で,入川橋附近か下浜辺りから峯吉川までの道とすれば,牛島から御所野を通したものと推定出来ます.
当初は,茶町筋から馬口労町に通っていましたが,1631年に大町筋の鍛治町から馬口労町への通路を割り直して直通させ,大町を通す様にしました.
御所野を通る街道普請が1628年開始とすれば,開通時に付け替えた事が考えられますが,馬口労町から牛島へ抜ける街道の突き当たりには,後に架橋される牛島橋がありません.
一方,楢山入川橋通町を直進した下浜に太平川の橋があり,これが最上街道に直結していました.
これはその後の洪水などで流されたかして,現在ではその痕跡すら残っていません.
記録からは,余りに太平川の移動が激しかった為,2代義隆の頃に楢山橋は諦められ,比較的安定した牛島に架橋したものと考えられています.
ところで,当時の街道の道筋には,きちんと目的が決められていました.
当主の参勤交代用,幕府から将軍の代替わり毎に派遣される巡見使用,当主の葬送用などです.
佐竹氏の参勤交代の道筋としては,二の丸から上中城へ出,追手門(上土橋門)から広小路,東根小屋町を進み,追手二の門(虎ノ口門)から中亀ノ丁へ出,追手三の虎の口から楢山登町,入川橋通登町,牛島橋通町,牛島を通り,御茶橋で茶を喫する古例だったそうです.
このうち,追手門,追手二の門,追手三の虎の口は,正門であり,その順番に沿って進む形です.
城下町を通過した他の大名家としては,弘前津軽家があります.
彼等も羽州街道を通過するのが慣例となっていましたが,1683年,1693年,1736年は,入川橋が洪水や普請で利用出来なかった為,五丁目橋から亀ノ町本町,信太小右衛前虎ノ口,御歩行町,金照寺脇新橋(後の百石橋)を通って牛島に出るルートを通りました.
しかし,別家の大名筋でもきちんとルートを変更した記録が残っているのは凄いですね.
巡見使は先述の通り,幕府が三代将軍家光以降,将軍の代替わり毎に各大名家に派遣する政情,民情の視察使で,通常は3名で構成され,多くの供回りを従えていました.
その数は,実に100名を超えたと言われています.
巡見使と言っても,時代小説の隠密みたく,密かに城下に入って,大名家の非違を正すと言うものではなく,幕府側が視察の内容を明らかにし,各大名家に対し,巡見使の為の道路や橋の修理,巡見使に対する贈与,宿舎の造営等を禁じています…あくまでも名目的ではありますが.
巡見使は,家光以降,家綱,綱吉,家宣,吉宗,家重,家治,家斉,家慶の各将軍の代替わりの合計9回派遣されています.
巡見使の通る経路は常に一定しており,酒田,象潟,本庄,亀田から現在の大内町の新沢に入り,老方を経て雄勝郡の大沢村から秋田佐竹氏領に入ります.
そうして,西馬音内,湯沢,横手,刈和野,戸島を経て久保田城下を訪れ,その後,一日市,能代,大館を経て碇ヶ関から弘前津軽氏領へと抜けていくルートです.
更に,久保田城下の経路も一定しており,牛島村から馬口労町に入り,鍛治町,本町6丁目から下肴町に曲り,茶町筋を通って中通町,大工町を経て湊へと向かいました.
城下には1泊し,内町や城内に入ることは有りません.
茶町を通るのは宿舎の為で,例えば家宣の代替わりの際に来た巡見使3名の内,北条新左衛門は茶町梅ノ丁,新見七右衛門は茶町扇ノ丁,細井左次右衛門は大町一丁目に宿泊し,大町の宿舎には最短の小路を往復し,行列は茶町を通る様になっていました.
最後の葬送ですが,城内から当主菩提寺の天徳寺までの葬送行列が行われる道筋も決まっていました.
城内の死者は,基本的に不浄門から送り出されます.
久保田城の不浄門は,現在の弥高神社前にあった二の丸廓門です.
但し,当主の遺骸を不浄門から出すのは憚りがあります.
とは言え,表門を使う訳には行かないので,裏門から二の丸に下ろし,搦手門(中土橋門)から広小路に出しています.
初代義宣の葬送の道筋は不明ですが,2代義隆は裏門から二の丸へ下ろし,長橋を通って三の丸山ノ手へ降り,北の丸を通って保戸野新橋を渡ったと推定されています.
4代義格の場合は,御寝の間御庭から御入門を出て,裏門から降りて二の丸安楽院前,松下門,中土橋を通って広小路に出,小野崎権太夫前から土手長町を北へ曲がり,通町橋を渡り,鈴木平蔵前,梅津大蔵前,御中間町,諏訪之前,八丁を通って天徳寺に至っています.
御殿の裏口は御入門,そして裏門,二の丸を経て搦手である中土橋を通って城外広小路と,何所までも正道を避けているのが興味深い所です.
広小路からは旭川に突き当たり,北に折れて通町橋を渡り,保戸野川反から通町かげの程の本町を真っ直ぐに西へ行き,表諏訪町,愛宕町,八丁と,城外でも外町を避けています.
この4代の葬送ルートが以後の慣例となったらしく,3代義処夫人宝明院の遺骨が江戸表から久保田に到着した際も,城内に入らず,東根小屋町からこのコースを通っています.
勿論,道の両側には家臣や一般町人達もその葬送の行列を見送った事でしょうね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/05/24 22:10
【質問】
立花道雪って誰?
【回答】
「立花道雪」こと戸次鑑連(べっき・あきつら)は永正10年3月17日(1513/04/22),豊後の戦国大名・大友家の一族である,豊後鎧岳城主戸次親家の子として生まれる。
天文19年(1550年)2月の二階崩れの変において,大友義鎮の家督相続に力を尽くす.
また,下半身不随のハンデを背負いながら,肥後侵攻や毛利氏との抗争にて功績を挙げ,「鬼道雪」と呼ばれて畏れられるが,島津氏との抗争中,天正13年9月11日(1585/11/02),病没した.
【参考ページ】
http://www.m-network.com/sengoku/sen-12.html
http://bungo79.hp.infoseek.co.jp/tatibana.dousetu.html
http://x71.peps.jp/sengokunet/sbbs/c_index.php?cn=11&tnum=9
http://sengoku.sekibutuudono.michikusa.jp/tatibanadousetu.html
http://www7a.biglobe.ne.jp/~echigoya/jin/TachibanaDousetsu.html
肖像画
http://x71.peps.jp/sengokunet/sbbs/c_index.php?cn=11&tnum=9より引用)
【ぐんじさんぎょう】,2010/08/25 21:00
を加筆改修
▼「士卒で本来弱い士卒という者はいないものなのだ.
もし弱い者がおれば,その人が悪いのではなく,その大将が本人を励まさないことに罪がある.
わが配下の士卒はいうまでもない.
ごく身分の下の者でも,たびたび功名をあらわしている.
他の家に仕えて遅れをとった士卒がいれば,わしの方にきて仕えるがよい.
うって変わって逸物(すぐれた者)にしてやろう.
四月朔日(わたぬき)左三兵衛は,若いときに,はじめておくれを取ったことがあったが,いつの頃よりかたびたび血なまぐさいことに出会っているうちに次第に慣れ,いまは五,六人のなかに入る剛の者と世の中にたたえられているのだぞ」
――――――戸次鑑連(へつぎ あきつら)談
▲
【質問】
伊達家と浅野家って,何で仲違いしたの?
って,浅野家って赤穂の浅野家?
【回答】
赤穂の本家,広島の浅野家.
政宗は慶長元年に浅野長政と絶交している.
きっかけは伊達家家臣の殺害事件であるが,ここに至るまで積年の恨みがあったようで,それは以下のようなものである.
1) 指南として秀吉との交渉を長政に頼み従ったにも拘わらず,小田原の陣以後所領を没収されたことへの不審.
2) 高麗での晋州城攻撃の時,長政の子息幸長と政宗は,同陣し,申し合わせて一夜の内に城に攻め寄せ,城壁の石垣を取り崩すばかりに押し詰めたところ,長政が烈火のごとく怒り,政宗は退却するよう命じられ,友軍の前で屈辱を与えられたこと.
3) 高麗在陣の時,上より御扶持方下され,長政の指図で受け取るべしとのことであったので待っていたが,自分の在陣中は一切給与されなかった.
兵糧枯渇という危急のため,伊達家は自力で兵糧を調達するに至った.
4) 奥州仕置の執行者である長政が木村吉清,蒲生氏郷と親しく交わり,政宗に対しては同情的でなかったこと.
5) 木下・島津屋敷前における家臣殺害事件について,犯人究明に積極的でなかったこと.
日本史板,2003/09/03
青文字:加筆改修部分
【質問】
伊達の騎馬鉄砲隊は創作ですか?
【回答】
常設部隊では無いが,ちゃんと馬上で鉄砲を使う装備が,記録に残っている.
ただし,これの実態がどんなものだったかは不明.
下馬射撃も,「騎乗射撃は無理だろう」って言われてるので,そっち(下馬射撃)が比較的有力なだけで,実際どんな形だったのか不明
装備類は残ってるが,運用形態が判らないという一例.
軍事板,2008/09/24(水)
青文字:加筆改修部分
【質問】
伊達政宗が欧州に使者送ったときの船って,和船だったの?
和船は外洋航行能力に不安があるとのことだけど…
【回答】
太平洋横断なんて,和船では言語道断.
石巻にて幕府,伊達家共同で西洋式ガレオン船「サン・ファン・バウティスタ号」を建造して,太平洋を2往復しています.
500tクラスの三本マスト船で,全長55m,幅11m,高さ48mあります.
日本で建造された最後の洋式ガレオン船で,以後は江戸末期に戸田村で建造された100tのロシア軍艦(ブリッグだっけかな)ヘダ号まで,洋式帆船は建造されませんでした.
最後はフィリピンで,借金のカタに売り払われたんだっけ.
元々はスペインの宣教師が乗ってきた船が,彼の地で難破して,彼らに帰国の手段を提供する必要があったため,また,家康と正宗が太平洋を越えて,直接メキシコ(ノヴァ・イスパーニャ)と交易したかったため,両者の利害が一致して,建造されました.
この辺の経緯は,「影武者徳川家康」を始めとする,一連の隆慶一郎作品に詳しいです(苦笑
ついでに蘊蓄たれると,江戸初期に家康の顧問,三浦按針が伊東で80t,120tの洋式帆船を建造していますが,これは1604~05年頃の話.
三河水軍の人々は兎も角,それ以外の人々は,侍が水夫の役割を果たすのは…と言って,かなり非協力的だったそうです.
で,このサン・ファン・バウティスタ号は,石巻で忠実に復元されていたりします.
余りにも当時の船に忠実に復元されているので,現在の安全基準に合致せず,船籍が取得できなかったらしいですが.
ググれば,一発で画像が出てきますよ.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 軍事板,2003/02/25
青文字:加筆改修部分
【質問】
今更ながら田母神って珍しい苗字ですね.
横溝正史の小説に出てきそうな名前だなあ.
島の人
【回答】
田母神と言う姓は,陸奥国田村郡田村荘田母神(現在の福島県郡山市田村町田母神)の発祥で,田村氏支流とありますね.
江戸時代は仙台藩士で,陸奥国宮城郡蒲生(仙台市)で300石を領したとか.
現在も郡山市に集中しているそうです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
田村家中の結束を誓った田母神家に残る血判状.
http://www.town.miharu.fukushima.jp/rekishi/digital/tomizawa.htm
伊達政宗の正室・愛姫の実家である田村家の家臣に,この姓がみられます.
おそらくは,この一族でしょう.
「田母神氏旧記」という古文書も残しておるようです.
しまだ
あ,同級生に田母神姓がいました.
やはり伊達藩ゆかりの由緒のある姓でした.
ITAL
おお,出身大学のそばだった…>郡山市田村町田母神
田んぼしか無いぞ,今は.
bernoulli
その田村氏は・・・
>平安時代,桓武天皇より征夷大将軍に任命されて
>蝦夷討伐で活躍した坂上田村麻呂を祖とし,
>以下連綿と田村郡を領してきたとされる.
幕府を開ける家系らしい・・・
しまだ
ということは,田母神幕府という歴史のifも……
消印所沢・改
以上,「軍事板常見問題 mixi支隊」より
【質問】
宮本武蔵と戦った吉田一門のその後は?
【回答】
日本の染色の世界で,近代になって大きく変わった色が「黒色」です.
明治以降に黒紋付や黒留袖に使用されたものは,ログウッドという西インド諸島原産の植物でした.
この植物を用いて染めた黒は,正に漆黒という言葉が相応しいもので,江戸期までの黒とは全く異なるものです.
更に,ログウッドの媒染剤となったのが,二クロム酸カリウムです.
この技術導入により,それまでは茶系染料の鉄発色と言う染法に変わって,黒染めの主流となっていきます.
現在では,クロム公害が発生することから,何所でも染めが出来ると言う訳ではなく,この黒染めだけは,専門業者の手に委ねられているのが現状です.
そうした意味から言えば,平安時代から江戸時代に掛けて,人々が喪に服す時の色と言うのは,黒と言うよりも墨色の系統が用いられました.
墨色を染める場合は,布を鶴喰や矢車と言った樹の実を煎じた汁で染め,その色を定着させる媒染剤として,鉄分のある液に浸けて発色させます.
これを何回か繰り返せば,濃淡を出す事が出来ます.
この色は源氏物語や古今和歌集にも,「墨染の衣」とか「鈍色」として取上げられていますが,平安期,妻の場合は3ヶ月,夫の時は1年間濃い色の喪服を着ることになっていました.
因みに,この色は真っ黒というわけではなく,どちらかと言えば茶鼠系の色で,死んだ人の縁が深いほど濃い色を着ることになっていました.
室町時代末期の『胡曹抄』に
「移し花ニテ染也.又云花田染也.又云青花ニスミヲ入也」
という風に,移し花,つまり月草の花で染めたり,それに墨を加えるとありますが,これは間違い.
青花は水に遭えば流れてしまいますし,万一定着したとしてもどちらかと言えば,青緑色になるからです.
この黒系統の色は,身分の低い人の衣服の色としても用いられていました.
鶴喰で染めるものは,鈍色の一つですが,鶴喰を煎じて椿の木灰とか明礬などアルミ分を含む媒染剤で発色させると黄味のある土色になります.
更に,矢車と呼ばれる榛の木,夜叉五倍子も併用されました.
南北朝期以降江戸期に成ると,檳榔樹の実を煎じた液で染めて,鉄気水で発色させた檳榔樹黒が出て来ます.
檳榔樹は,インドから東南アジアの熱帯・亜熱帯に産する椰子で,その果実を檳榔子と称し,それを乾燥させたものが染料となります.
古くは奈良時代に輸入され,薬物や香木として正倉院に伝えられていますが,染色に使ったのが判断されるのが『太平記』の記述からです.
江戸時代には,大量輸入され,紅や藍で下染めをして,鉄発色で黒く染められたものが,紅下檳榔樹,藍下檳榔樹と呼ばれて黒紋付に用いられました.
この檳榔樹は輸入品であって高価な為,代わって用いられたのが,五倍子と言う白膠木の樹に出来る虫の瘤で染めた黒色で,これを空五倍子色と言います.
五倍子は,白膠木の木の枝に寄生するヌルデミミフシと言う虫の幼虫が孵化して樹液を吸うため,虫に傷つけられた部分に細菌が入り込まないよう,タンニン酸を集めて防禦する為に出来た瘤です.
その幼虫が成虫になって穴を開け,其所から飛び出す前に収穫し,これを煎じて鉄漿などの鉄分を加えて発色させて,墨色系の色にしたものですが,檳榔樹を染める場合にも,五倍子を加えたり,檳榔樹を使わず五倍子で染め,恰も檳榔樹色でございと偽装した布も多く出回ったようです.
墨染の衣という表現がありますが,既述の様に,鶴喰や五倍子,檳榔樹などの茶系の色を鉄分で発色したものでした.
墨自体は,古くから有りましたが,これを染め物に使うのは滅多になかったようです.
ところで,宮本武蔵と戦った吉田一門のその後を御存知でしょうか?
吉田一門は兵法の流派である吉田流を名乗り,室町幕府足利将軍家の兵法師範を務めて名声を博していました.
宮本武蔵と戦ったのは,この当主の三兄弟だと言われています.
彼等は,足利将軍家が滅亡した後は,関ヶ原の合戦まで豊臣家に仕えて録を食んでいました.
そして徳川方勝利の後,大坂冬の陣が勃発するに及んで,家康が直々に努々豊臣方に味方しないように,と通告していたのにも関わらず,一門は豊臣方に付いてしまいます.
結果は豊臣方の滅亡に終わり,最終的に武器を捨てた吉田一門は兵法を捨て,京都堀川の流れに近い四条西洞院に於て,門人であった李三官から伝えられた黒染法を専らとする,染色業を興しました.
この黒染は憲法黒若しくは憲法茶と呼ばれ,始めの頃は檳榔子を鉄分の液で発色する方法で染め,一説には,文様は型染による鮫小紋が得意だったと言います.
型染とは,薄い和紙を柿渋で何枚か貼り合わせた,渋型紙に小刀で文様を彫って布の上に置き,糯米で作った糊を置いて防染して染めるもので,技法自体は室町期からありましたが,黒染や茶染で流行させたものです.
吉岡染はその後も中々に興隆し,吉岡から分家して染色業を営んだ家は,京都ではかなりの数に上り,「吉岡」は京都では染屋の代名詞になっているほどでした.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/10/03 23:57
【質問】
秀吉の九州出陣で討ち死した長曾我部信親に嫡男はいたんでしょうか?
【回答】
信親は二十二で戦死したが,娘が一人いただけ.
その娘は信親の弟盛親に嫁ぐ.叔父姪の結婚だ.
五人の男子に恵まれたが,大阪夏の陣後,盛親と共に全員処刑された.
ちなみに,信親の妻は,明智光秀の家臣だった石谷頼辰の娘.
頼辰の義理妹(養父石谷光政の実娘,斉藤利三の義妹でもある)は元親の妻で信親の母だから,義理の従兄弟結婚になる.
日本史板
【質問】
北条氏の人気のなさは異常.
【回答】
・下手に長く続いたため,個人単位ではなく一族単位で語られることが多い
・最も名の知れた早雲の登場時期が早すぎる
・隣の上杉,武田に華がありすぎる
・配下の風魔一族がイメージ的に目立ちすぎる
・攻めよりも守りのイメージが強い
・最後の大一番が籠城→降伏という地味な結果に終わる
一言で言えば地味なのよな.
創作物では勢力よりも,個人にスポットが当たりがちだが,北条氏はその焦点の当てどころがはっきりしないんで.
この人ならこういう格好という外見上のイメージがはっきりしてる人物がいれば,ゲームとかにも出しやすいんだが.
早雲がもう少し後の人物で,上杉・武田と直接やりあってたなら,あるいは.
【質問】
後北条って,どういう理由で「北条」という姓に変えたのですか?
もともと伊勢でしたよね?
【回答】
支配正当性のためのようだ.
1524年(大永4)氏綱は江戸城に上杉朝興を攻めこれを河越城に追って武蔵に進出.
この江戸城奪取前後に,氏を伊勢から北条に改めている.
これは朝興の〈他国の凶徒〉論理に対抗して,相武支配の正当性を主張するための改姓とみられる.
この〈北条〉は,鎌倉幕府の執権北条氏によるものであるが,その系図的結びつけは,現在まだ明らかでない.
鎌倉近辺は,源氏より元々は北条氏のもの(開発領主)と考えられていたようだから,土着の正当性を出したかったのだろう.
日本史板,2003/07/15
青文字:加筆改修部分
【質問】
前田慶次は実在したの?
【回答】
http://www.yamagatakanko.com/tokushu/maeda/
より,著作権に抵触しない範囲で紹介すると,前田慶次は
------------
前田利家の甥にあたり,戦国の世を自由に生きぬいた傾奇者(かぶきもの).
上杉家に仕え,晩年は米沢に庵を結んだと伝わる慶次の足跡は,今も米沢市内の各所に残っています.
慶次は織田信長の知将として知られる滝川一益(たきが分かずます)のいとこ,益氏(ますうじ)の子として生まれましたが,前田利久(としひさ)の後妻となった母・ひさの連れ子として,前田家に入りました.
ゆくゆくは尾張荒子(おわりあらこ)城を継ぐはずでしたが,信長の命により,城は利久の弟・前田利家に与えられることとなり,利久・慶次親子は放逐されてしまいます.
羽柴秀吉(はしばひでよし)(豊臣秀吉)の天下統一後,前田家に呼び戻されてしばらくは利家に仕えますが,養父利久の永眠で前田家との実質的なつながりがなくなると,慶次の「傾奇者」ぶりが始まりました.
ある寒い日,慶次は茶の席に招いた利家になんと水風呂を勧め,あまりの冷たさに利家が悲鳴を上げている間に,名馬「松風」に乗って前田家を出奔.
窮屈な武士の生活を嫌い,その後は京都に仮住まいを求め自由気ままな生活を送りました.
とはいえ慶次は和漢古今の書物に親しみ,千利休に茶を学ぶ風流人であり,一方で馬術・武道にも優れ多くの戦場で活躍したと伝えられています.
そんな慶次が文武ともに己を凌ぐ人物,生涯の友として認めたのが直江兼続(なおえかねつぐ)であり,兼続が仕える米沢藩主・上杉景勝(うえすぎかげかつ)に,慶次もまた仕えることになったのでした.
上杉家には一千石で召抱えられ,組外御扶持方組頭(くみほかおんふちかたくみがしら)と呼ばれる自由な立場であったといいます.
仕官にあたって慶次の条件は,
「禄高(ろくだか)は問わない.
ただ自由に務めさせてもらえば良い」
というものでした.
天下分け目の関ヶ原の戦いでは,黒い具足に猖々緋(しょうじょうひ)(黒味を帯びた鮮やかな赤色.中国の伝説上の怪物,猖々の血で染めた色といわれる)の陣羽織,首には金の数珠という派手ないでたちで戦いに臨んで,武将達を驚嘆させ,主君景勝についてめざましい活躍をしたといいます.
その後は米沢で堂森山北東のほとりに「無苦庵(むくあん)」を結び,風花吟月を友として悠々自適の生活.
この庵で記されたのが「無苦庵記」で,自らの人生を“欲もなければ罪もない”とし,
「生きるまで生きたらば 死ぬるでもあらうかとおもふ」
と結んでいます.
没年には諸説がありますが,多くの史料によれば慶長十七年(1612年)六月四日に亡くなり,米沢藩内にあった堂森善光寺または北寺町一花院(現在は廃寺)に葬られたとされています.
------------
前田慶次逸話集
がおもしろいのでは?
書籍は
中村忠雄著「米沢史談」
中村晃著「直江兼続」
市立米沢図書館発行「前田慶次道中日記 資料編」
日本史板,2002/12/08
青文字:加筆改修部分
【質問】
松永久秀って誰?
【回答】
「松永弾正(だんじょう)」こと松永久秀(まつなが
ひさひで,1510?~1577)は,大和の戦国大名であり,真偽不明ながら
「三好義興を暗殺した」
「讒言により三好長慶に弟安宅冬康を殺させた」
「奈良東大寺の大仏殿を焼いた」
などの逸話で知られる悪役キャラ.
初め三好長慶に仕えたが,長慶の死後は三好三人衆と共に第13代将軍・足利義輝を永禄の変で殺害し,畿内を支配.
織田信長上洛後は,信長に降伏して家臣となるが,その後,信長に反逆して敗れ,一説には「平蜘蛛釜」という茶釜に火薬を詰め込んで自爆死したという.
【参考ページ】
http://www.m-network.com/sengoku/hisahide/hs01.html
http://www.marinenet.co.jp/jinpati/lastsong/hisahide.html
http://www7a.biglobe.ne.jp/~echigoya/jin/MatsunagaHisahide.html
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/matunaga.html
【ぐんじさんぎょう】,2011/05/21 20:40
を加筆改修
【質問】
毛利元就って誰?
【回答】
室町時代後期から戦国時代にかけ,安芸(現在の広島県西部)にて覇権を争った戦国大名であり,策略家として名高い.
有田中井手の戦いにて,安芸武田氏の武田元繁を討ち取ったことをきっかけに,勢力を拡大し,尼子氏,大内氏,陶氏などと争って,安芸を手中に収めた.
また,「三本の矢」の逸話でも知られるが,これは後世の創作という説もある.
しかし三子教訓状などを通じ,元就が生前から,一族の結束を繰り返し息子たちに説いていたことは事実である.
【参考ページ】
http://ww1.tiki.ne.jp/~josiah/retudenn/motonari.html
http://www2.harimaya.com/sengoku/mouri/index.html
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/n412493/sengoku/sengun/topic/sensanbon.html
http://www13.ocn.ne.jp/~dawn/choreki1.htm
http://ansaikuropedia.org/wiki/毛利元就
【ぐんじさんぎょう】,2011/08/04 20:20
を加筆改修
一本の矢は簡単に折れるが,数本の矢を束ねたところで元就には無意味じゃ!
faq110503mu.jpg
faq110503mu2.jpg
遠吠犬 in 「軍事板常見問題 mixi別館」,2011年05月03日 06:16
【質問】
最上義光って誰?
【回答】
最上義光(もがみ・よしあき 1546~1614)は,出羽国の戦国大名であり,出羽山形藩初代藩主.
出羽統一のため,天童,伊達,上杉勢らと戦い,1590年,豊臣秀吉の小田原の役に参陣.
関が原の戦いの前哨戦的な慶長出羽合戦(1600年)では,義光は上杉と戦って,戦後57万石を与えられ,領内復興に尽力して善政を敷いた.
【参考ページ】
http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E6%9C%80%E4%B8%8A%E7%BE%A9%E5%85%89
http://dic.nicovideo.jp/a/最上義光#
http://mogamiyoshiaki.jp/?p=list&c=847
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-84.html
http://yamagata6.blog118.fc2.com/blog-entry-11.html
http://yamagata6.blog118.fc2.com/blog-entry-371.html
http://2chcopipe.com/archives/51288302.html
肖像画
(http://yamagata6.blog118.fc2.com/blog-entry-371.htmlより引用)
【ぐんじさんぎょう】,2011/06/23 20:00
を加筆改修
信長の顔グラの影響とかもあって,最上義光ってどっちかというと理知的寄り(でも前線に突っ込む)かと思ってたのだが,地元的にはそうでもないらしい.
どうでもいいけど,その指のぐるぐるなんやねん.
【質問】
山名宗全の一族の.その後は?
【回答】
さて,その昔,最初に東京に転勤した当時,私が住んでいたのは木場でした.
今では現代美術館だか何だかが建ってハイソな雰囲気漂っているのですが,バブル初めの頃はまだ下町の雰囲気が漂っていました.
木場の独身寮から,1駅歩くと門前仲町で,この当りの商店街をよく徘徊していたのですが,その中に1件の印鑑屋さんがありました.
その名を「山名宗全堂」と言います.
山名宗全と言えば,西日本の9カ国を領し,応仁の乱では細川勝元と共に覇を競った人物ですが,戦国時代が進むと領地はどんどん狭まり,但馬と因幡で細々と生き延び,因幡守護家の系統は,秀吉の因幡攻めの際に恭順を主張して家臣から追放されてしまいました.
しかし,因幡守護家を務めた山名豊国は,1587年に徳川家康に迎え入れられ,関ヶ原後は但馬国七美郡(現在の美方郡)内で6,700石の領地を受けた旗本となり,綱吉の代には交代寄合表御礼衆に列せられ,万石以上の格式と,乗輿,白無垢着用,金紋先箱,爪折傘,屋形号を許されています.
因みに,この村岡山名家の系統の4代当主は,福島正則の孫で2,000石の旗本の福島正長の次男だったりします.
本来ならば旗本のままですが,幕末と明治の狭間である1868年6月20日,どさくさに紛れて新田開発分を本高に組み入れたか,或いは年貢徴収率を上げる帳簿操作による増石なのか,兎も角,1万1千石と称して新規立藩が認められ,正式に大名となり,村岡藩知事を経た後,男爵となり,貴族院議員を勤めました.
ところで,この村岡山名家は,因幡守護職・山名家嫡流ではありますが,実は本家ではありません.
村岡山名家は惣領家の分家であり,惣領家はあくまでも但馬山名家です.
1580年5月18日,出石にあった有子山城は織田勢により,落城の憂き目を見ます.
この時,山名氏政は因幡へ敗走し,病床にあった父の山名祐豊はその5日後に没しました.
しかし,山名氏政は何時の間にか秀吉に従い,1582年には播磨で2,000石の領地を宛がわれ,秀吉の馬廻衆となりました.
その子堯政も秀吉に仕え,秀吉亡き後も豊臣家に忠誠を尽し,関ヶ原では父子共々西軍に属した上,堯政は1612年9月28日に秀頼から,摂津国能勢郡与野村で596石2斗を宛がわれました.
とは言え,徳川家の治政は盤石であり,1615年5月7日,堯政は大坂夏の陣で討ち死にし,8歳の子恒豊が残されました.
山名豊国は,恒豊を引き取るべく幕府に願い出たものの許されず,その後に280俵取りの旗本,清水正親が恒豊を養子にすることを認められました.
この清水正親は但馬山名家の旧臣で,出石落城後に但馬を出て,1590年以降に徳川家康に仕えていました.
その裏には,京の六条で逼塞していた恒豊と,その祖父である氏政の処遇を,山名豊国が正親に依頼したのではないかと言われています.
そして,正親は家を山名恒豊に譲り,以来,清水家が但馬山名家の血統となり,分家や支流も山名姓に復して,本国を但馬と称し,山名家定紋の丸に二引き両,五七の桐七葉根笹を伝えています.
その後,この清水家は加増や分封を経て,380石を知行する旗本として維新に至っています.
つまり,山名惣領家の系統は秀吉によって滅ぼされた訳で無く,連綿と現在に続いていたりする訳です.
因みに,冒頭の山名宗全堂は,本当に旗本山名家の系統です.
流石に,本家では無く恒豊の次代である豊頼の次男を分家独立させた系統ですが,それでも領地は現在の茨城県筑西市に当たる,常陸国真壁郡古郡村に45石余,下江連村に53石余,羽方村に67石余,山崎村77石余の合計243石を有し,後に蔵米200俵と合わせて高400石となっています.
この清水分家の幕末の山名家当主である豊政は,幕府陸軍歩兵予備隊である別手組に属し,その後別手組肝煎となり,更に組頭になります.
この別手組は新政府に引き継がれ,1868年8月12日に外務省雇・別手組伍長に任じられ,1869年8月24日には弁官支配となり,旧禄の割合で家禄を受けることになりましたが,常陸国の200石の領有は認められませんでした.
結局は,この別手組での給金が生活の糧となっていた訳ですが,これも1872年8月24日に廃止され免官,1874年2月5日に家禄奉還願を提出し,6月10日に一時金を受けました.
その後,新たに東京の浅嘉町郵便支局書記役となり,牛込,浅草,駒込と異動し,1890年に逓信省判任官六等・郵便電信書記補となりました.
元旗本は,家禄奉還による一時金を資本に色々と商売に手を染めてみたものの上手くいかずに,本家に無心した挙げ句,その後の行方が判らないとか,家臣が借家業で成功したものの,当主が営んでいた質屋が当主の死後に整理してみたら借金まみれだったとか言うケースが多かったりするので,逓信省の下級役人と言えど,きちんと勤め上げたのですから随分と堅実な人生を送った様です.
その子の豊吉は,印房を開業しました.
その開業に当たり,先祖の山名宗全墓所である京都南禅寺の真乗院に参詣し,仙波住職と図って,店舗名を「山名宗全堂」とし,1923年8月5日に京橋区竹河岸町に開店しましたが,1ヶ月を経ずして関東大震災で焼失します.
しかし,直ぐに再起し,豊吉は印房組合の副頭取や組合長を務めるまでになり,現在も門前仲町に店を構えていたりします.
つまり,冒頭の「山名宗全堂」は,山名家に縁のある人物だったりする訳で,真乗院の山名宗全墓所の祭祀も此の家が継承しているそうです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/06/16 23:17
青文字:加筆改修部分
【質問】
山中鹿介について胡散臭く教えてください.
【回答】
山中鹿介幸盛(1545?~1578)は,出雲尼子氏の家臣.
尼子十勇士の筆頭にして,尼子家再興のために「願わくば,我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話で有名.
通説では1545年,出雲国富田庄に生まれる.
山中家は尼子清定の弟である山中幸久を祖とし,幸盛はこの幸久の4代(又は6代)後裔と言われている.
山中家は代々尼子家の家老をしていたが,幸盛は父を早くに失い,亀井家の養子となる.
8歳のころより尼子家に仕え,兄・幸高が病弱なため,実家に帰って山中家を継ぐ.
そして,三日月の前立(まえだち)に鹿の脇立(わきだち)のついた山中家の家宝の冑(かぶと)を譲り受け,このときより鹿介を名乗る.
1566年,尼子義久が毛利氏に降伏して以後,京都東福寺にあった尼子勝久を擁立し,立原久綱らとともに尼子氏再興に尽力.
1569年,豊後の大友義鎮(よししげ)と連携して隠岐にて挙兵.
一時は出雲の大半を回復したが,毛利方の将,吉川元春の反撃により,1571年,伯耆末石城を陥されて捕えらる.
幸盛は尾高城へ幽閉されたが,隙をついて脱出.
伝説では,幸盛は「赤痢になった」と偽って何度も厠へ通った.
そのあまりの頻度に,付き添っていた監視役が付いてこなくなると,その隙を突いて逃走したという.
京都に落ち延びた幸盛は,織田信長の援助をうけ,1573年,因幡に侵入.
鳥取城を陥すなどして再び吉川勢と戦ったが,1576年,因幡若桜鬼城を陥されて京都に逃れ,明智光秀の寄騎となる.
1577年,羽柴秀吉の中国征伐が始まると,その先手組となり,1578年1月,秀吉が播磨西部の毛利方の拠点である上月城を攻略すると,幸盛は尼子孫四郎勝久と共にその城に入城.
ちなみに勝久は,新宮党滅亡の際,ただひとり落ち延びた尼子の遺児.
だが2月,三木城の別所長治が信長に叛旗を翻,毛利氏に味方すると,上月城は包囲されて孤立.
7月,尼子勢は毛利軍に降伏し,勝久は自害.
幸盛と立原久綱は生け捕られ人質となる.
幸盛は,備中松山城に在陣する毛利輝元の下へと連行されることとなったが,その途中の途上の備中国合(阿井)の渡(現在の岡山県高梁市)において,毛利氏の刺客により謀殺された.
伝説では,毛利元就は盲目の琵琶法師を幸盛のもとへ送った.
琵琶法師は琵琶を弾きながら,幸盛から与えられた盃を返杯するときに,密かにその酒の中に,鴆(ちん)という鳥の羽を浸してから返杯した.
鴆という鳥は全身が猛毒という,伝説上の怪鳥で,その羽の翮(かく;付け根の部分)を酒にちょっと浸しただけで,その酒は毒酒に変わるというもの.
そうとは知らぬ幸盛は,返杯された盃を飲み,死亡したという.
その尼子の落ち武者たちの祟りが後に,あの禍々しくて忌まわしき八つ墓村の事件を引き起こすことになるのだが,それはまた別の話.
【参考ページ】
http://www.yasugi-kankou.com/index.php?view=5618
http://senjp.com/yamanaka/
https://kotobank.jp/word/山中鹿介
実吉達郎『世界の怪動物99の謎』(二見文庫,1992), p.92-93
mixi, 2016.8.4
鴻池家の祖先は山中鹿介の子供だと言われています.
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B4%BB%E6%B1%A0%E8%B2%A1%E9%96%A5
ギシュクラ in mixi,2016年08月04日
【質問】
山中鹿之助(幸盛)は尼子家再興のため働き,武士の鏡と言われますが,主君のために忠誠を尽くして働くという武士道は,江戸時代以降のことであり,戦国時代の武士道は,藤堂高虎のように自分の出世や一族郎党の発展のために,主君をたびたび変えたり,生き残るために主君を裏切るのは普通だったと言います.
山中鹿之助は何故,江戸時代以降の武士道のような考えを持つようになったのでしょうか?
【回答】
ではない.
山中鹿助(「鹿之助」は後世の改変)は,尼子をかつて裏切ったこともある.
数度の尼子復興挙兵も.織田勢力を頼んだ領地入手の望みだったと考えるべき.
▼ しかも再興運動当時,毛利に降伏した尼子義久たちは健在で,しかも毛利の監視下にあったので,勝久をかつぎあげたのは忠臣……とはいえないかも.
旧主が危険に晒される恐れが高いのに.
本能寺の変の時.羽柴秀吉はいち早く毛利と和睦をして明智を討ったが,
1578年,山中らの拠城・上月城(城兵3千)が毛利軍3万に包囲される.
秀吉は救援に駆けつけようとしたが,三木城の別所氏が織田に背いたため,そちらに集中しなくてはならなくなり,動きがとれない.
そこで秀吉は信長に助けを求めたが,信長は上杉謙信や石山本願寺の攻勢に備えるため,秀吉に対して
「三木城攻めに専念せよ」
と命令.
この時点で中国地方の反毛利独立勢力は,秀吉に見捨てられた.▲
その為,見捨てられた山中鹿助の最後が,殊更に悲劇的に見えるようになってしまった.
これは山中鹿助自身も意図していなかったことであった.
日本史板
&蒼野青 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」(黄文字部分)
青文字:加筆改修部分
▼御徒町のギャラリーで土日のみ開催の12インチカスタムフィギュアの展覧会,「CUSTOM FIGURE EXHIBITION 2007」より.
今一番気になるのが,この手の侍フィギュア.
まだ,有名どころの武将しかモデル化されていませんが,そのうち鉄砲足軽とか出たら一体欲しいかも(^^;
faq110516cv.jpg
因に,右の赤い甲冑は,FRPと金属のフルスクラッチで,これなど売り物だったら幾らになるのか,想像つきませんー.
よしぞう maro' in mixi,2007/11/25/06:20
青文字:加筆改修部分
▲
【関連リンク】
山中鹿之助は忠臣か?(忠臣説の側に立つページ)
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