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◆◆◆◆黒田史 Kuroda Története
<◆◆◆黒田如水&長政 KURODA Zsoszuj s Nagamasza
<◆◆人物
<◆戦国時代 目次
戦史FAQ目次

黒田家家紋
(偽物)
(本物)
こちらより引用)


 【link】


 【質問】
 「黒田家譜」は,どの程度信頼できるの?

 【回答】

 家譜なんてもんは,事績を誇張して書いてる部分があるものとして読み取るのがあたりまえ.
 黒田家譜は,身びいきはわりと激しい方で,史料的価値はちょっと?と言われている.
 如水の名声の根拠となる事績や逸話は,黒田家譜にしか書かれていないのも多く,如水が参加した戦いで,如水がどこまで家譜に書かれたほど活躍・貢献したかについては,いまいち信憑性がない.
 どこの大名家でも,家譜は多かれ少なかれ,自家の誇大宣伝になるけれどね.

戦国板,2006/08/17
青文字:加筆改修部分

▼ この流れで黒田家譜を誤解してしまいそうな人のための補足;

 黒田家譜は大人気学者・益軒先生が書いた,超読みやすくて面白かっこいい本だよ!
 先生の全集に収録されてる版なら,大きめの図書館で見つかると思うので,暇な時にでも読んでみてね!
 ちょっと長いけど,興味のある時期をパラ見するだけでも楽しいので,全然OK!
 最終巻は如水や長政の逸話を集めた感じの内容なので,これがとっつきやすいかも?
 益軒全集五巻に同時収録の黒田家臣伝もオススメ(`・ω・´)

戦国板,2009/01/23
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 『黒田家譜』を書いた貝原益軒って,どんな人?

 【回答】
 江戸時代には,学際という意識が今より低かったのかもしれない.
 たとえば蘭学者・高野長英が,飢饉対策のための作物栽培・貯蔵法である『救荒二物考』を著し,
平賀源内などは活躍分野が本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家と幅広い.
 貝原益軒もまた,本草学者、儒学者,農学者,歴史家などと,ジャンルを超えた活動をした一人である.
 シーボルトは彼を「東洋のアリストテレス」と呼んだ.

 貝原益軒(えっけん)こと貝原久兵衛篤信は,1630年,筑前の黒田家中,貝原寛斎の五男として生まれた.
 1648年,18歳で筑前黒田家に仕えたが、仕えた時期が悪かった.
 藩主は黒田騒動などで悪名高き黒田忠之.
 貝原篤信もまた,藩主の怒りに触れ、7年間の浪人生活を送ることとなる.
 浪人時代,彼は医学修行のため,長崎に移ったが,そこで同時に唐渡りの儒学にも触れることになる.
 医学を学んで帰郷後,藩主も代が替わって3代目・光之となり,1656年,篤信も藩医として帰藩が叶った.
 この再出仕後,篤信は損軒と号した.
 1657年,京都遊学の藩命を受け,本草学や朱子学等を学ぶ.
 1664年,筑前へ帰国し,150石の知行を得、藩内での朱子学の講義や、朝鮮通信使への対応をまかされ、また佐賀藩との境界問題の解決に奔走するなど重責を担った。
 また、藩内をくまなく歩き回り『筑前国続風土記』を編纂にも当たった.
 1671年,藩命により『黒田家譜』編纂開始.
 1678年にこれを黒田光之に献上するが,その後も改修を続けた.
 1684年には,幕府より黒田長政の戦功事歴の報告が,黒田家に求められたため,損軒にこの調査の藩命が下ってもいる.
 黒田如水・長政の逸話の多くは,この『黒田家譜』のおかげであろう.
 1700年,藩の職を辞し,このときに益軒と改号.
 これは,損は益を含み,益は損を含み,陰が極まって陽に転じ,陽が極まって陰に転ずるという,『易』の思想によるもので,藩の仕事から解放されて自由になったことから,心機一転,改号したと言われている.
 医学の心得により,健康には気を付けていたことから,益軒は老いてますます盛んで,本草学,医学の探究のため,各地を歩き,また,書物を著した.
 没年は1714年.
 当時,病床にあって,なお自著『大疑録』の最後の校訂を終えた後の事であった.

 【参考ページ】
岡田武彦監修『ふくおか人物誌 貝原益軒』(西日本新聞社,1993)

【ぐんじさんぎょう】,2014/01/27 20:00
を加筆改修


 【質問】
 黒田如水の先祖は?
 Ki Kuroda Zsoszuj őse?
 3行で教えて!

 【回答】
 『黒田家譜』では官兵衛の先祖は近江佐々木流黒田氏だとされているが,播磨姫路の古記によれば実は播磨黒田氏であり,荘厳寺本系図によれば播磨黒田氏の元祖は赤松円心の弟,赤松円光であるという.
 黒田氏初代・重光は,観応二年(1351)多可郡黒田城に移り,黒田庄五千貫を領し,黒田志摩守を称した.
 これが播磨黒田氏の起源である.

赤松円光─黒田重光─重勝─重康―光勝―重貞―重昭―重範―重隆┬治隆
                                            |
                                            └孝隆(小寺職隆猶子.後の如水)

 【参考ページ】
http://kurodakanbei.nerim.info/kuroda-family/family-tree.html
http://www.kakeiken.com/report0020.html
http://www.geocities.jp/kurodazensi/200.html

mixi, 2016.7.25


 【質問】
 黒田官兵衛の生涯を,簡単に教えてください.

 【回答】

 天文15年11月29日(1546年12月22日),小寺職隆の嫡男としての誕生.
 父親の武具に戯れる幼年期.
 母を亡くし,文学に耽溺した思春期.
 小寺政職の家老として.
 赤松政秀襲来(1569).織田,赤松を支援.
 あえて織田家の家来として(1575)

 英賀合戦.孝高,500の兵で毛利・三木軍を退ける(1577)
 両兵衛,播磨戦線に立つ.
 三木合戦.別所長治,反旗を翻す(1578)
 荒木村重と主君の裏切りによる一年の幽閉(1578~1579)


 黒田姓を名乗り,秀吉の寄騎に(1580)
 黒田二十騎の活躍
 兵糧攻めと水攻め(1581-1582)
 中国大返しと天王山(1582)
 賤ヶ岳の合戦(1583)
 小牧・長久手時の大坂播磨戦線(1584)
 キリスト教入信(1585)と,禁令による,あっさり棄教(1587)
 西伐(1585~1586)
 東伐(1590)


 宇都宮鎮圧
 文禄・慶長の役
 秀吉の死と退却戦


 関ヶ原序章;七将三成襲撃事件
 如水の九州戦線
 関ヶ原の合戦
 関ヶ原後日
 黒田藩五十二万石
 太宰府天満宮内に草庵を構えた晩年
 慶長9年3月20日(1604年4月19日)の死.京都伏見藩邸にて.享年59.

A.H:日本史板,03/12/25 23:21
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 九州征伐において,黒田官兵衛・長政はどのような活躍をしたのですか?

 【回答】
 事の起こりは,島津義久による九州制覇に遡る.
 義久は1578年11月,日向の国,耳川の合戦において,大友宗麟を下し,1584年3月には,肥前島原,沖田畷(おきたなわて)において龍造寺隆信を敗死させることにより,九州全土をほぼ制覇.
 その大友宗麟が豊臣秀吉に泣きついて,これにより秀吉は島津討伐を発令,黒田官兵衛・安国寺恵瓊・宮本豊盛の3人を九州征伐軍の軍奉行に任命した.

 その主力部隊の九州上陸(1587年3月)に先立つ1586年7月,毛利氏を主力とする先鋒部隊を豊前へ派遣.
 黒田官兵衛はその軍監として従軍した.
 官兵衛は当時4万石の弱小大名.
 であれば,1000人程度が兵力の目安とされるところ,2500名もの兵力を彼は動員して,九州へ上陸している.

 官兵衛は,まず豊前国京都郡刈田に布陣.
 刈田から3里半(13km)離れた場所には宇留津城があり,2000人が籠城していた.
 官兵衛は,小早川隆景と吉川元春の軍勢を率いて,宇留津城を包囲.
 そして,黒田官兵衛の家臣・母里太兵衛が,1番に攻め口を突破して宇留津城に攻め入ると,我も我もと宇留津城に攻め入り,宇留津城は即日落城した.
 黒田官兵衛は見せしめのため,籠城していた兵士1000人の首を刎ね,残る男女373人を生け捕りにして磔にすると,刈田の陣へと戻った.

 一方,毛利軍が上陸したという知らせを受けた島津軍は,撤退開始.
 これを好機とみた立花道雪が,立花山城から打って出て,島津軍に奪われた城を奪還し,筑前での形勢が逆転する.

 官兵衛は次いで,九州北部の領主たちを寝返らせる調略活動を開始.
 天正14年(1586年)11月には,吉川元春が病に倒れ,豊前の小倉城で死去するという不幸もあったが,時枝城主・時枝平太夫(時枝鎮継)らの降伏もあり,天正14年(1586年)12月までに官兵衛は豊前を制圧した.

 続いて本隊が上陸すると,全軍を東西二手に分けて薩摩へ進軍することになった.
(当初,秀吉は親征する予定は無かったが,九州征伐に向かわせた軍勢のうち,戸次川の戦いにおいて,四国勢が島津軍の前に敗走,四国へ逃げ帰ってしまったため,秀吉自ら乗り出すことになったという)
 豊臣秀長が総大将をつとめる東軍8万は,豊後から日向(宮崎県),大隅(鹿児島県東部)へ進攻.
 秀吉自らが大将をつとめる西軍10万は,豊前から筑前,筑後(福岡県南部),肥後(熊本県)を経て薩摩へ進軍する計画.
 この策戦も官兵衛の創案とされており,彼自身も秀長の東軍に属した.

 ところで秀吉親征が決定されると,黒田官兵衛は秀吉到着に先だって,各地の豪族に豊臣秀吉の威風を流布し,
「羽柴秀吉に味方すれば,領土は保障される.
羽柴秀吉が到着したら降服を申し出ろ」
という怪文書をばらまいた.
 そして実際に秀吉が南進すると,その怪文書の効果により,続々と豊臣秀吉の帰順する者が現れ,北九州は豊臣秀吉の勢力下となり,九州の勢力図は一気に塗り替えられた.
 対する島津義久は,北九州を放棄し,薩摩(鹿児島県)・大隅(鹿児島県)・日向(宮崎県)の本拠地3国で羽柴秀吉の軍を迎え撃つ作戦に出た.
 このため,島津軍は豊後(大分県)からも撤退.
 天正15年(1587年)3月,黒田官兵衛を先鋒とする豊臣秀長の軍勢は,豊後(大分県)から撤退する島津軍を追撃する形で,日向(宮崎県)へと侵攻した.
 そして,天正15年(1587年)4月6日,豊臣秀長の軍勢は,日向(宮崎県)にある耳川を渡り,島津家の名将・山田有信が守る日向の高城(宮崎県児湯郡木城町)を,8万の軍勢で取り囲んだ.

 また,このさなか,黒田長政耳川において,敵と水中で組打ちとなった.
 この時は感状もらったぐらいの暴れっぷりだったけど,刀を叩き落され,2箇所も斬られ,何とか脇差で刺し返して助かった.
 岸で見ていた孝高がはらはらして,後で「お前は端武者か!」とごっつい怒った――と伝えられている.

 島津義久は,大友宗麟を追い返した時と同じように,高城を防衛ラインとし,高城で豊臣秀長の軍を追い返すつもりであった.
 ところが,豊臣秀長は高城を力攻めにせず,8万の大軍で高城を取り囲み,高城の周りに砦を築いて兵糧攻めに出た.
 知らせを受けた薩摩(鹿児島県)に居る島津義久は,山田有信の窮地を救うため,島津家久・島津義弘を従え,主力部隊2万の兵を引き連れて高城を目指した.

 だが,黒田官兵衛は蜂須賀家政・尾藤知宣・宮部継潤らを率い,高城から南方1里の場所にある,根白坂という要所に陣を敷いており,島津義久は同地で,黒田官兵衛らと対峙.
 島津義久は豊臣秀長から高城の明け渡し要請を受けたが,これを拒否し,天正15年(1587年)4月6日深夜,根白坂を守る豊臣軍の宮部継潤の陣に奇襲攻撃をかけた.
 しかし宮部継潤は,柵を築いて奇襲攻撃に備えており,島津軍は反対に大打撃を受けた.

 それでも怯むこと無く島津軍は,宮部継潤の部隊に突き進み,宮部勢を攻め立てた.
 宮部継潤の窮地を知った豊臣秀長は,宮部継潤の援軍に向かおうとしたが,軍艦・尾藤知宣が島津軍の策略を警戒して,豊臣秀長に出陣を中止させた.
 豊臣秀長の援軍中止により,宮部継潤は絶体絶命の危機に追い詰められてしまう.

 黒田官兵衛は,この窮地を打開するため,家臣・村上彦右衛門に命じて,
「豊臣秀長が6万の兵を率いて援軍に来る」
という嘘の情報を流すと,島津義弘の陣を目がけて突撃した.
 欺瞞情報によって,宮部継潤の兵は持ち直し,逆に,援軍の噂を知った島津軍は動揺する.
 そこへ,黒田官兵衛が島津義弘の軍勢に突撃し,島津勢を撃破.
 島津義久は,島津忠隣など多くの武将を失い,敗走した.(根白坂の戦い)

 黒田官兵衛は,このまま島津軍を追撃して島津義久の本拠地・鹿児島まで攻め入るべきだと進言したが,尾藤知宣が島津軍の伏兵を警戒して追撃に反対したため,豊臣秀長は追撃を行わなかった.

 一方,肥後方面を下った秀吉の西軍は,かつて薩摩の中心地だった川内(せんだい,鹿児島県薩摩川内市)の平佐城を猛攻の末,同29日に開城させ,翌月8日,島津家16代当主・島津義久は,正式に降伏した.
 このとき,島津義久は処刑されることを覚悟し,磔にする木を持参して羽柴秀吉に謁見した.
 義久は,磔の木を金色に塗装していたとも伝わる.
 派手な演出を好む豊臣秀吉は,磔の木を持参した島津義久を許し,本領を安堵した.

 戦後,日向国財部城攻めの功により,長政は豊前国中津12万石を,父と共に拝領した.

 一方,尾藤知宣は,根白坂の戦いの時の消極的な姿勢を,秀吉に責められ追放.
 後に処刑された.

 【参考ページ】
http://washimo-web.jp/Report/Mag-KyusyuSeibatsu.htm
http://senjp.com/naga/
http://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/KurodaNagamasa.html
http://netabare1.blog137.fc2.com/blog-entry-3020.html
http://netabare1.blog137.fc2.com/blog-entry-3031.html

戦国板,2006/09/26
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 黒田親子による宇都宮(城井)鎮房謀殺について教えてください.

 【回答】

 端から殺る気満々で,騙して政略結婚して,舅とその家臣を騙し討ちでヌッ殺し,14歳の嫁を磔にしたとされる謀殺事件.
 時に1588年のこと.


 亀姫の年齢は諸説あるし,自害させたとも磔にしたともあるが,長政が舅の城井鎮房ともども中津城の宴に呼んで殺しています.
 肥後遠征中に如水も連携して,鎮房の幼い嫡男を家臣ともども,館ごと火をつけて焼殺してる.

 九州遠征や豊前切取りの時は,この他にも降した城の女子どもや兵を磔にしたりと,黒田親子も一通りの残虐行為はしている.
 孝高に「城井の娘と長政を結婚させて,一時停戦して謀略で一族を殺してしまえ」と命じたのは秀吉だけどな.
 秀吉としては,肥後が一揆で混乱している時に,豊前まで豪族の反乱が長引いて不安定になると厄介なので,早いとこかたをつけたかった.

 ちなみに豊前の城井攻めでは,長政は負けっぱなし.
 黒田・吉川・毛利の連合軍1万2000を率いて,城井1500に滅茶苦茶に負け,殆ど壊滅状態.
 影武者が代わりに死んでたりする.

戦国板,2006/09/17~09/18
青文字:加筆改修部分

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 18:42:49 ID:GjrCDrzG

 豊前つながりでちょっと書いたんで貼ってみる.
 黒田は主人公じゃないけど.


312 名前:1[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 18:43:48 ID:GjrCDrzG

秀吉  おまえにくれてやった豊前の国に,城井なんちゃらって地侍がいるだろ
官兵衛 はい
秀吉  あいつ,転封命令に従わないでゴチャゴチャ言ってるから,殺しといて
官兵衛 はっ

313 名前:2[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 18:44:31 ID:GjrCDrzG

鎮房  あの猿は,父祖伝来の土地を朱印状ひとつで取り上げるつもりか
朝房  どこで聞きつけたのか,当家の家宝も召し出せと言って来ております
鎮房  今度ばかりは覚悟を決めた.鎌倉の世よりこの地に住んで四百余年,民百姓と共に耕した城井谷の山河が我らの枕ぞ
朝房  とーちゃんかっこいい!


314 名前:3[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 18:45:47 ID:GjrCDrzG

長政  鉄砲もろくに扱えぬ田舎侍どもめ.コテンパンに叩きのめしてやる
又兵衛 親父殿にも相談せずにおまえが総大将なんて,大丈夫かよ
長政  うるさい.農民が教えてくれたこの山道から攻め込まれるとは鎮房も予期してないはずッ
旗本A 若様!前方の岩陰より猛烈な矢の雨!待ち伏せされていたようです
又兵衛 おいおい・・・
長政  相手はせいぜい千五百,こちらは毛利の援軍含めて二万.負けるはずがない! 突撃!!
旗本B さらに左右より兵! 狭い山道にて我が軍は身動き取れず,隊伍が分断されております!
長政  なんの,相手は寡兵! 押しつぶせ! まだ俺のターンだ!
旗本C 背後に軍勢! 旗印は左三ツ巴! 城井勢です!
長政  なんの,相手は(以下同文
旗本C もはや下知も届きません! ここは早くお逃れくだされ!
又兵衛 あ~あやっぱりな・・・


315 名前:4[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 18:46:48 ID:GjrCDrzG

官兵衛 (城井に呼応して近隣各地で地侍が蜂起か.面倒なことになったな・・・)
恵瓊  拙僧にお任せを.城井の鶴姫と長政殿の婚姻を条件に和睦を纏めてみせますぞ
長政  え?ぼくにお嫁さん!?
官兵衛 かたじけない.ではその間に他の乱を平定するとしよう
長政  美人系? それとも可愛い系?
又兵衛 おまえもう氏んで良いよ


316 名前:5[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 18:47:59 ID:GjrCDrzG

鎮房  中津城にて鶴姫の婚儀だと
家老  典礼にかこつけた黒田の謀でしょうか
鎮房  まあよい,これも時代じゃ.ご先祖の高恩には先の戦で報いた.父上,よろしいですな
長房  頭領の貴様が好きにせい
鎮房  谷も色づき,もう収穫期じゃ.領主の座を守るために田畑を荒らすは本意ではない
家老  殿!
鎮房  儂は武士として死にに参る.朝房の身重の嫁御を実家に逃す手筈だけは整えておけ
家老  はっ・・・


317 名前:6[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 18:49:33 ID:GjrCDrzG

長政  父上,いよいよ鎮房を騙し討ちですな!
又兵衛 静かにしろ馬鹿
長政  馬鹿とはなんだ馬鹿
官兵衛 いいから黙れ馬鹿.おまえの嫁に聞かれたらどうする
長政  (´・ ω・`)
官兵衛 (緒戦でこっぴどく負け,娘を人質に誘き出して騙し討ちか・・・残したくない歴史だな)

鎮房  やあやあ,婚儀と聞いて参りましたが,随分簡素な席ですな
長政  武家の不調法,お許し下され.時にお供衆はどちらに?
鎮房  ご城下の合元寺に置いて参った.ほんの四十名ほどなので安心めされよ
長政  寡兵にござるな.安心いたした
又兵衛 (この馬鹿が・・・)
鎮房  名高き後藤殿がお相手とは,この鎮房一生の誉にござる
又兵衛 ・・・


318 名前:7[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 18:51:40 ID:GjrCDrzG

 鎮房は小姓と二人で数十名を道連れにし,最後は又兵衛の槍にかかった.
 城井谷の館は急襲を受け,老父長房ほか一族が誅せられた.
 同じ頃,事前に肥後一揆鎮圧の与力として参陣させられていた朝房も,逗留先で夜討ちに遭って果てている.
 合元寺では血で血を洗う激闘が繰り広げられ,寺の土壁は赤く染まった.
 その後,洗っても洗っても血の色が滲み出てくることから,同寺は赤壁寺とも呼ばれるようになった.
 中津城下では城井の怨霊伝説が囁かれ,官兵衛は城井神社を祀って慰霊に努めた.

 豊前宇都宮氏は,城井谷の地で代を重ねて城井氏となり,領民に愛され,一族郎党は結束して戦国の世を勇戦した.
 武門の名を惜しみ,潔く散った鎮房が見事なら,かの地から一族を引き離すが肝要と見た秀吉の慧眼もまた,見事と言える.
 こうして,城井家は歴史の表舞台から去った.

 朝房の妻・竜子は,進壱岐守らに護られて英彦山に逃れ,忘れ形見の男児を産んだ.
 子は朝末と名付けられた.
 江戸初期,朝末を城井谷の領主として迎えるべく,遺臣たちが諸方に働きかけた記録が残るが,ついに願いは叶わなかった.
 朝末は福井松平家の旗本として,一生を終えたという.


319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 19:00:04 ID:GjrCDrzG

 以上,前に見聞きした話をベースに書いた.
 多少端折ってるけど,一応史実のはず.


322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 20:06:58 ID:+DFSwLNX

 戦国期は,こういう謀殺を汚点とは考えないよね.
 長政はこの時城井さんを殺った刀を,ずっと持ち歩いてたし.


323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 20:08:55 ID:NGAJTAnG
>>319
 中津周辺の出身?
 別に逸話スレッドだから史実じゃないけどいいですよ.


324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 20:09:39 ID:141DWTZy

 本当に汚点みたいな暗殺は,歴史の表舞台には出てこないだろうしね.


326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 20:17:40 ID:+DFSwLNX

 そういや,フロイスは
「殺したい相手を饗宴に招いて油断させたところを騙し討ちにするのが,この国の慣習」
とか書いてたな.


327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 20:21:40 ID:vkhWPP4N

 中央の政局に関わってないローカルな話だから有名じゃないけど,城井谷関連の怨念の史実浸食ぶりはやばいからなあ…
 黒田節とかマジで歌うのタブーらしいよ.

酒は飲め飲め飲むならば
日の本一のこの槍を
飲みとるほどに飲むならば

 「宇都宮鎮房に酒を飲ませて騙し討ちした歌」だから.

 前にどっかのスレッドで黒田関連の話題になった時,自称地元の人がとんでも説を書き込んでフルボッコされてたけど,実は本人は地元に伝わる伝説に懐疑的な人だったらしく,
「まだ現実味のある話を選んだのに,これもデタラメですか…」
と落ち込んでいたのが印象的だった.


329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 20:49:51 ID:GjrCDrzG

 祖先が城井の殿様に仕えてた(自称)から,バイアスが掛かってるのは間違いない.
 でも別に謀殺酷いウキョー!!ってつもりも無い.
 個人的には苦労人の孝高さんも好きだし.

 流れを読み誤って滅びた一地方領主にも,ちゃんと通すべき筋目があったって話を書きたかった.
 荒らしてしまったならスマン.

>>327
 子供の頃聞いた昔話の「いい殿様」は,たいてい「うつのみやのお殿様」だし,地元の人に愛されてたのは,きっと事実なんじゃないかと.
 あと,黒田節が歌われてるのは確かに聴いたことがなかった.
 なるほどタブーなんだ.

 史実が浸食される課程としては,文中に挙げた猟官運動の経緯が入るだろうね.
 徳川さんに「こんなに正当な領主なんですよ!」って主張するために,偽書屋で書物を偽造するのが当たり前だったらしいし.
 そのための資金集めをするのが遺臣の仕事だったってことも,宇都宮本に書いてた.

戦国板,2010/04/12(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 なんで宇都宮(城井)鎮房は謀殺されることになったの?

 【回答】

 城井一族が秀吉を舐め過ぎたんじゃね?
 城井の豊前を孝高に与えるかわりに,城井は伊予12万石へ移封するっていう朱印状与えたのに,豊前にこだわって突っぱねたんだから.
 この時点で終ってるよ.
 この時代の城主・豪族は,地元の利権の代弁者だから,色々と事情があったのだろうが,どう考えても城井の判断は失敗.
 秀吉に朱印状突っ返して無事に済むわけないだろうが.

 肥後出陣で孝高が不在なのを見計らって兵を挙げたのも,あっちが先なんだし.
 鎌倉以来の田舎豪族が,単に時代情勢読み間違って滅んだだけ.
 宇都宮一族は名流だから,秀吉や黒田は成り上がりにしか見えなくて,つい余計な意地を張りすぎたんだろう.
 黒田家はもともと目薬屋あがりだし.
(そういえば「目薬大名」って,島津にも馬鹿にされたことがあったしさ)
 宇都宮一族は本家も秀吉政権下で改易されたし,名流だけど時勢の変化を乗り切る力はもうなかった.

 なんでこの話だけ,ごっつい悪行のように言われなきゃならんのか,正直よく理解できない.
 切取りの時は,どこでも似たようなことやってんのに.
 筑後の蒲池鎮漣も,肥前のクマーに騙し討ちされ,一族皆殺しにされてる.

戦国板,2006/09/23
青文字:加筆改修部分

▼ しかし,長引かせて佐々成政の二の舞ってのを避けたってことは,とりあえず評価しないとな.
 成政も勇将として名が通っているが,この件での失敗はやはり評価を落としているはず.

 【反論】
 騙し討ち自体は戦国ではよくあることだし,状況的に仕方なかったというのはまだ分かるんだけど,騙した方の黒田家を誉める,というのはなんか根本的に違う気がする.

 城井の叛乱の際は,近隣から毛利や吉川に大軍を援兵してもらっていたのに,長い間手こずって,結局のところ武力で鎮圧できなかったのは,武門としては不名誉なわけで.
 肥後の一揆の鎮圧に手間取って,秀吉から責任問われて腹切らされた佐々成政の二の舞になりかねない状況に追い込まれたのは,むしろ黒田長政の方なわけで.
 だからなりふり構わず,片をつけるために仕物にかけたんだから,普通に黒田家の汚点ではあるんじゃないの??

戦国板,2012/05/14(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 黒田の様に自己申告制にした甘い検地でも,城井に付くやつが続出したところを見ると,佐々や黒田の様な余所者にとって,九州は扱いにくい土地だったの?

 【回答】
 九州や東北は,古くからの土着の家系・名族が,戦国後期まで大名として多く残ったから,豊臣恩顧の鉢植え大名には,治めるの難しい.

 織田や豊臣恩顧は,地侍・下級武士クラスが出世して,別の地方の鉢植え大名になったのが大半だけど,城井のような古くからの地元の豪族は,一族も家臣も地縁が強すぎて,太閤に命じられても「はい,そうですか」と,簡単に別の土地に移封できないという事情もある.
 このへんの温度差は大きいだろうね.

 逆に豊臣恩顧の鉢植えで,短期間しか肥後を治めなかったのに,今でも熊本で愛されてる加藤清正は,とんでもなくすごいわけだど.

 しかし城井は頑な過ぎた.
 薩摩側だったゆえに,筑前36万石から高鍋2万7千石に転封の秋月氏は,仕方ないとは言え,
豊臣方に付いていたにも拘わらず,3万石は持ってたであろう麻生氏は,筑後に転封で4千六百石,
5万石程度あった宗像氏は,当主不在で,記紀の時代から続く宗像大宮司家は消滅,
原田氏は領地の過少申告がバレて,領地没収で筑後に転封3百町
…と,それぞれ減封・転封を甘んじて受けただけに,城井氏の転封拒否は余計に目立っちまった.
 豊前の2万石から筑後に減転封二百町じゃ,受け入れがたいのは分かるが,時流読めてなかったね.

戦国板,2012/05/15(火)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 城井宇都宮家は,鎮房謀殺と共に滅亡?

 【回答】
 肥後国人一揆に参陣した嫡男城井朝房も,同時期に暗殺され,さらに居城を攻められ,一族ことごとく殺害されている.

 しかし
傍系は見逃したし,宗家の城井朝房の奥方も逃げきれた.
 その遺子・朝末は宇都宮姓に復し,お家再興を運動したがかなわなかった.
 関ヶ原の戦いでは,城井旧臣が西軍の大友義統に味方して再起を図ったが,石垣原の戦いにおいて黒田如水に敗れた.
 朝末の子の種房も,旧臣の援助を受け,江戸幕府幕臣への取り立てを運動した.
 宇都宮氏は近世初期,元禄期頃までは,そうした旧家臣筋の家(進氏や白川氏など)に,加冠状を出して主従制の確認をしていたという.
 その結果,1690年(元禄3年),種房の子の重房が越前松平家に召し抱えられ,子孫は藩士として存続した.

 また,鎮房の弟の弥次郎は島津家臣となり,薩摩国で子孫を残している.

 よって,大名でこそなくなったものの,
城井宇都宮家は絶えてない.

 事件後,中津城内の城井神社を立てて,城井一族と殺した家臣を祀ってる.
 というか,長政が怨霊に祟られて情緒的に不安定になってしまったんで,如水が立てざるをえなかった.
 殺った黒田家にも,かなりのトラウマになった事件だった.

 【参考ページ】
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kii_k.html
http://www.scs.kyushu-u.ac.jp/~hatt/irarekiutu.html
http://www.bekkoame.ne.jp/~gensei/zuisou/nakatu.html
http://blogs.yahoo.co.jp/houzankai2006/50279685.html

戦国板,2006/09/23
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 朝鮮出兵では,黒田如水は何をしていたの?

 【回答】
 軍事顧問格で渡韓するが,在韓軍の実権は秀吉奉行として全体を指揮する石田三成と,その一派,宇喜多秀家,小西行長らに握られていて,ことごとく如水と対立.
 というか初っ端から,一旦決まった軍議の決定を,戦下手の三成の横槍で無理に覆されて,如水がキレてる.

 その背景には,豊臣政権内部における,武功派(福島正則・加藤清正ら)と,吏僚派(しりょうは:石田三成・大谷吉継ら)の対立があった.
 黒田親子と石田・増田は,日本にいたときから仲悪いしな.
(朝鮮出兵以前から,黒田親子&蜂須賀親子と三成&増田は,内政面で対立してる)

 そのため,如水は嫌気が差し帰国.

 文禄2年,名護屋(現・佐賀県)の本陣において秀吉は,征韓軍の不振に対し,秀吉自身が渡韓し軍の指揮を執ると言い出した.
 家康らはこれを止めに入ったが,なかなか聞き入れない.
 そのとき,隣の部屋にいた如水が大声をあげて聞こえよがしに,
「韓国のわが軍の過ぎるところ残虐至らざるなく,人民はみな恐れて山林に逃げ込み,田畑は荒れて,徹発すべき五穀もなければ人もいない.
 諸将は戦功を争って,統制は全くない.
 こんなことでは明国はおろか,朝鮮平定もおぼつかない.
 今,在韓軍を統制する能力のある人物は,江戸大納言(家康)か加賀宰相(前田利家)然らずんば,かく申す如水のみである」
と,わざと聞こえるように独り言を言った.
 秀吉も閉口して,如水を再び渡韓させることにした.

 そうして再度渡韓.
 しかし依然として石田&宇喜多らに実権を握られていて,思うさまに手腕を振るうことは出来ない状態.
 そんなあるとき,漢城に陣を置いていた石田三成が,軍議のため官兵衛の陣を訪問すると,官兵衛は浅野長政と碁を打っている最中であるという理由で三成を待たせた.
 これに三成らは激怒して,帰ってしまう.
 これを三成は秀吉に讒言し,官兵衛は無断帰国,秀吉の勘気を蒙る.
 これを避けるために剃髪,如水と号し,自ら謹慎する.

 慶長2年(1597年)の慶長の役では,三たび渡韓し,総大将・小早川秀秋の軍監として釜山に滞陣.
 第一次蔚山城の戦いにおいて,加藤清正の救援に向かった長政が留守にした梁山城が8,000の軍勢に襲われた際,救援に駆けつけ,1,500の兵で退ける.
 両城における戦勝後,戦線縮小を図ったが,これらを福原長堯などの軍目付たちが酷評して秀吉に報告し,秀秋,長政,蜂須賀家政など,多くの武将が叱責や処罰を受ける事となった.
 こうした軍人と文官の対立は,後の関が原合戦までシコリを残すこととなる…


130 名無しさん@お腹いっぱい.[sage] 投稿日:2006/08/27 00:30:52  ID:tG9h8j4V

 如水が碁を打って三成待たせたのは,まあただの意地っ張りだけど,そこでいきなり無断で日本に帰ってくるのは,何考えてるのか分からんな.
 まだ軍監を解任されてもないのに.
 秀吉もこの時点では,「許してやれ」って言ってるのに.
 ふつう職投げ出して遠征先から帰るか?
 関ヶ原の時より,このとき何を考えてたのか謎.


131 名無しさん@お腹いっぱい.[sage] 投稿日:2006/08/27 09:18:09  ID:a9yJVVmi

「なんとなくむしゃくしゃしていた.
 日本に帰れるなら理由はどうでも良かった.
 今は反省している」

 この人,結構ノリというか思いつきで行動してるとこ多いと思うけどな.
 でも,頭はいいからあとからそれなりに理屈をつけるというか,周りが深読みして深謀があるように見えるっていうか….


132 名無しさん@お腹いっぱい.[] 投稿日:2006/08/27 20:00:36  ID:m3Zq/EOG

「なんとなくむしゃくしゃしてやった.
 本気で天下とろうとは思ってなかった.
 今は反省している.(息子にも迷惑かけたし…)」

 …っつーか,死ぬまで変わらんな.

 【参考ページ】
http://kitabiwako.jp/kanbee/people/
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1446551304
http://www.relatedknb.com/
http://ameblo.jp/igokyoto/entry-11383481181.html

戦国板,2006/08/17~09/24
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 朝鮮出兵の間,長政の領地の経営は,官兵衛がやっていたの?

 【回答】
 Yes.
 領国での大名の親族のサポートは結構重要.
 近距離に領国がある石田三成でさえ,領国経営は実質的に父と親族に任せていたわけで.

 文禄・慶長の役と出兵させられ,戦争のないときにも上方にいる期間の長かった西国大名は,どこも領国経営が大変だった.
 長政はその点恵まれてた.
 凄腕の隠居が国許にいてくれたんだから.
 検地では石高を実高よりかなり低く申告し,名より実を取ったし,関ヶ原では長政が5000人ほど動員した上で,まだ傭兵を9000人ほど即座に雇える黄金を,中津城に溜め込んでたんだから,財政的には十分有能に切り盛りしていると思う.

戦国板,2006/09/
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 黒田長政vs立花宗茂の的当て勝負について教えてください.

 【回答】
 碧蹄館の戦いの後,戦勝祝いとして武将達が宴会をしていたときのこと.

 長政は鉄砲を自慢して,「もはや弓など不要」とか言ってたら,立花宗茂に,
「使い方次第では,弓のほうが役に立つこともある」
って言われて口論になった.

 いるよなー,最新技術にテンションあがっちゃって,そんなこと放言するやつ(笑
 「もう携帯買ったから家の電話は要らない」みたいな.

 そこで笄を的に,鉄砲と弓で競うことになって見事に負けて,自慢の名銃「墨縄」を宗茂に譲り渡す羽目になった.
 こいつに恨まれたら面倒だと思ったのか,あとで宇喜多秀家(この宴会の主催者が宇喜多秀家だったから)が立花宗茂に,巻き上げた鉄砲の代わりに,長政に弓を贈るように勧めたんで,交換した形になったけどね.
 長政は,鉄砲に関しては,自分自身が稲富流砲術の免許皆伝の腕前だったから,ぶっちゃけ勝負しても宗茂に負ける気しなかったんだろう.
 立花宗茂は一つ年上なだけだし,戦勝後の宴の席だったから,つい勝負したんだろう.
 ここでうっかり負けるのがなぁ・・・
 「いいから勝っとけよ!(笑)」とは思うが.

222 名無しさん@お腹いっぱい.[sage] 投稿日:2006/09/22 18:46:21  ID:/nwXJNUC(3)

 親子揃って,いらんこと言う家系だよな(笑

漫画板,2013/09/22
青文字:加筆改修部分

 【参考ページ】
http://www.suzukine.com/html/news/news_plate.html
http://yuujyuufudann.seesaa.net/article/52801111.html


 【質問】
 関ヶ原の合戦と時を同じくして,隠居していた黒田如水が,九州で参戦したのは何故?

 【回答】
 豊後の細川家の飛び領地(6万石)を,大友の軍勢が攻めたから救援を頼まれたっていう理由がある.
 細川忠興は,城代の松井康之に,「開戦したら周りの西軍に攻められるから,そのときは黒田如水と連携して戦え」って伝えてる.
 数少ない九州東軍勢として,両家の間には,あらかじめ協力体制をとる約束があった.
 実際,細川の城は如水の救援が到着した時に,本丸まで攻められ落城寸前だったし.

 ただ,城内の兵の大半が長政に同行していて少なかったため,彼は備蓄していた米や銭を大量に放出して老若男女を問わず兵を募り,ひたすら浪人をかり集めた.[1][2][3]
 騎馬武者ならば銀200匁,徒歩武者ならば銀100匁,その他の一般侍は10匁と渡す銀子を定めて,大々的に募集を始めた.仕官希望者を数列に並ばせ,片っ端から採用.[3]
 採用した者には,その場で準備金として,銀子を渡した.[3]
 こうして,第一次募集だけで三千六百人を集め,あっという間に八千程の兵力を作り上げたという.[1][2][3]

 ちなみに石田三成からも,西軍へ勧誘する書状が届いたが,朝鮮出兵での確執によって両者は不仲だったので,如水は
「九州7ヶ国を恩賞としてくれるなら参戦してやろう」
と回答,事実上拒否している.[1][3]

 【参考ページ】
[1]http://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/ishigakibaru.html
[2]http://www.rekishijin.jp/rekishijinblog/enomoto/11-1115-3/
[3]http://blog.livedoor.jp/mansaku21/archives/50375444.html

戦国板,2006/08/28
青文字:加筆改修部分

▼ 黒田家譜でも長政自身の後年の言葉として,加藤清正について
「如水はおれと違って,関ヶ原のときは,必ずしも内府への忠義から一途に働いたわけではない.
 だから如水と一緒に九州で戦った清正は,徳川家から警戒されて当然だ.
(なのに加藤家は油断している.あいつは脇の甘い男だ)」
と言ったとあるから,東軍にとっても(長政にとっても),当時から如水の九州戦が胡散臭い動きだったのは確かだと思う.
 東軍の枠組みで動いてるのは確かなんだけど,その意図が不明確というかな.

 実際,家譜での関ヶ原前(8月)の如水のはしゃぎぶりは凄い.
 ごっついハイテンションで,
「九州平定したら,次は毛利領をさんざん切り取って,広島城を燃やしてやるぜ!
 それから西進して播磨に入れば,おれの故郷!」
と,大友と戦う前から,中国制覇の道のりを,家臣の前で演説していて,このひとどこまで本気なのかと,心配になるくらいの大風呂敷を広げている.

戦国板,2007/03/30
青文字:加筆改修部分

 その上,如水は「広島を清正と一緒に攻める」なんて書状に書いてるからね.
 実際は水軍力と兵力で劣るから無理だろうけど,如水ならやりかねないと言う意味ではケレン味あるよね.
 小早川秀秋が関ヶ原で東軍化したから,一気に筑前を通過して,鍋島を服属させて柳川攻めができたわけで.
 関ヶ原で東軍勝利の情報が来てなかったら,門司や小倉など豊前北部をすでに輝元が占拠してたから,寡兵の如水が勝てたかどうか微妙だよな.
 清正は小西領攻めを始めたばかりだし.

戦国板,2011/06/30(木
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 関ヶ原の時に,仮にもし黒田官兵衛が天下をったとしたら,上手くいったでしょうか?

 【回答】
 家康が如水に停止命令を出した時には,既に家康は大坂入りしている.
 これじゃ駄目だ.
 秀頼人質だ.
 如水が聞き入れなけりゃ,秀頼に言わせりゃいいし .
 そういう時点でこれから島津を調略に取り掛かってるようじゃ,かなり厳しい.

 だからたぶん,早期に島津を取り込み,それが成った時点で大坂に瀬戸内海経由の早舟を出す.
 その報せで淀殿を説得できるかにかかってる.
 説得できれば,城内の毛利も自動的に落ちる.
 また,そういう状況下で長宗我部を改めて説得する必要もない.
 上杉と真田は反徳川だから,直江と真田も当然西だ.

 徳川が大坂に来たら締め出す.
 籠城するもよし,脱出するもよし,いずれにせよ家康は引き返さざるを得ない.

 しかも,福島らの離脱も濃厚と来てる.
 マジ関ケ原が長期化してたら,終わっとる可能性あるよ,家康.

 常套手段だが,褒賞を吹っかける手もある.
 上杉と真田の領地は徳川でいいが,京都,大坂,播磨,大和は全部黒田に寄こせとかね.
 拒否すれば徳川と戦闘,受け入れれば豊臣家と朝廷を抑える.
 徳川が受諾すれば協力者は必要ないと思う.
 そこまで徳川に譲歩をさせて,豊臣や朝廷を抑えれば,実質的に天下を取ったも同じ事といえる.

 徳川が拒否をするかどうかは,前田,藤堂,京極,丹羽あたりがどう対応するかに関わってくるだろうけど.

 【反論】
 拒否パターンは思う壺で家康不利で間違いない.
 問題は受諾パターン.
 というのも俺のシミュレートでは,大坂方を味方につけることができる根拠は,西側の協調性なんだよ.
 だから後で協力者はどうでもいいって態度だと,協力者の不満から再び大坂方が揺れる恐れがある.
 だから如水は,大いに協力者を遇するだろう.

 ただその結果,秀頼の後見役に収まるにしても,何か中途半端じゃないか?
 天下をとるってのは,思い通りに国をデザインすることでもあり,そういう意味じゃ自由度が
史実の家康>史実の秀吉>ファンタジーの如水
になってしまう.
 だから俺としては,間に褒賞のワンクッションを置くとしても,徳川打倒は既定路線だと思うんだが.

戦国板,2007/03/30
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 黒田如水が建てた当時の福岡城は,どんな感じだったの?

 【回答】
 1600年,黒田孝高・長政父子は,関ヶ原の戦いの功績により筑前一国52万3千石を得た.
 彼らは最初,名島城に入城したが,便宜上の理由により,この城を廃城.
 1601年から福岡城築城を開始し,1607年に竣工した.

 築城時の福岡城周辺は,警固村という小さな村.
 城の北,長浜の屋台辺りは,細長い砂州か海だった.
 従って面積は狭いし足場が悪いので,攻撃側は大部隊は展開できなかったろう.
 西は大濠の浅い内海で,小舟しか寄せられない.
 南側は,薬院通りにかけて大きな掘りが作ってあった(明治になって埋め立てた).
 天守台の石垣は残っているが,天守閣は作らなかったらしい.
 城跡の看板によれば,二の丸は藩主の住居や執務,会議用の部屋等.
 それほど大掛かりでもなかったようだ.
 ただ,あちこち要所には櫓が廻らされ,今でも幾つかは残っている.
 残りのスペースは,非常時は兵員だけで精一杯だったろう.

 白の北側に大身の家臣屋敷が並び,南側,赤坂から桜坂にかけて下級武士の住居とか聞いた.

 ちなみに,福岡市美術館に「梅にとまる鴉」という障壁画が来たことがある.
 なんでも小早川隆景が築城した名島城にあった絵だとか.
 が,どうも黒田長政が福岡城の自分の居室,梅の間を飾るために,雲谷等岩に描かせたものらしい.

 淡々とした構図の中にも寂寞感も漂い,歴戦の武将が好んだらしい見事な絵であった.
http://www.fukuoka-art-museum.jp/jc/html/jc03/fs_jc03fus.html

戦国板,2009/01/23 & 02/08
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 黒田長政家臣から音痴って言われた一件について教えてください.

 【回答】

 江戸時代に入ってからのことだが,立花さんチの飲み会で,詩を褒められた長政クン.

 如水パパから,
『お前の詩は下手糞なんだから,他人に披露するんじゃねェぞ!』
とも言われていた反動からか,いたく感動し,お家に帰ってから,家臣団の前で披露することに.

 家臣連中も口々に,
『天下一の詩や!』
『流石殿!最高や!』
と褒めたたえる.

 が,ふと気づくと,古参の家臣・母里太兵衛が涙をこぼしている.
 どうした?感動したのか?何事か?と問うてみると,答えて曰く,
『御世辞を真に受けるバカ殿と,それを分かって褒めちぎる家臣しかいないようでは,この黒田家も長くは無いな…と考えますと,涙を禁じ得ない』
と.
 するとそれを聞いた家臣団,一転して,
『殿,音痴過ぎや!』
『こんなんで調子乗るとか最低やな!』
『下手糞なんだよ音痴!!』
と責め立てる.

 長政クン・・・・・・(´・ω・`)

 黒田家譜ではこれについて
「治世では主君が楽をして怠け心を起こし,国が乱れるものだが,敢えて厳しく諫言し,主君に善心を起こさせて,国をよく治めさせる母里の言葉こそ,乱世の言葉である」
と誉めたたえている.


759 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2014/01/06(月) 14:45:23.65 ID:/w+5HM8MO

 黒田さん家は主君だろうが息子だろうが,割と容赦なく(というか長政をメインに),たまに必要以上にdisるのが家風だからなあ.

漫画板,2014/01/06(月)
戦国板,2008/11/23(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 光雲(てるも)神社って何?

 【回答】
 如水と長政をご神体として祀った,福岡にある神社.
 如水と長政の法名をくっつけて光雲.
 でも神社.
 つか,いつの間に神?
 キリシタンに仏教に神道,ほんと無節操に何でもありだな,黒田父子は.

 福岡まで旅行できたので,折角だから行ってきた.

 境内では,なぜか後ろを向いたでかい狛犬がお出迎え.
 賽銭を入れると,天井の鶴がなぜか「クェーッ!」と鳴く仕様.
 ここん家は変わり兜だけじゃなく,変わり神社か…

 光雲(こううん)とひっかけて「幸運の鈴」とやらを,無理やり売っている.
 合渡川で流されて変な兜で命拾いした,ラッキー長政にあやかったそうだ.
 これまた初代藩主の間抜け逸話を,なぜ選りによって…

 開運の「幸運の目薬」を売っていなかったのが残念だ.

 狙って外したんでなく,良かれと思って気を利かせたら,素でちょっと外れてしまった感じが,如水らしくていい神社.
 本当に長政が地元民に好かれているのか,ちょっと微妙なところも素敵.
 とりあえず,誰かに幽閉されそうな人,川に泳ぎに行く人は,参っとくとご利益あるかもよ.

戦国板,2006/09/29
青文字:加筆改修部分


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