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「東洋経済オンライン」◎(2011/08/15) 経営者と戦国武将
>経営を支える基本は,経営者が健康か否かである.
>病に伏せながら頭角を現した戦国武将がいないのと同様,入院しながら経営に成功した人はいないのである.

やる夫で学ぶ戦国の女性武将

やる夫で学ぶ戦国の女性武将 その2

夢の跡(伊達氏)

『蘆名騒動 角館・御家断絶と再興事件』(江井秀雄著 無明舎出版,2017)

 これは秋田の地域出版社から出た本です.
 何で,秋田の出版社が蘆名家の話を出しているのか….

 蘆名氏と言えば,室町・戦国期を通じて会津を支配した大名家で,会津地域100万石の支配を誇ったものの,伊達政宗の会津侵攻の際,摺上原の合戦で呆気なく大敗して御家滅亡に至った家です.
 秋田とは何の関係も無いと思われがちですが,蘆名家最後の当主である義広は,常陸佐竹家の当主鬼義重の息子でした.

 戦国期,余り子宝に恵まれなかった蘆名家は,血筋を維持する為,そして北からの伊達氏の脅威に対抗する為に,近隣の有力武将である佐竹家から養子を貰うしか無かった訳です.
 しかし,それに伴い,佐竹家から義広付の家臣もやって来て,彼等が当主の威光を嵩に着て,家中対立の芽を育み,結果として,摺上原の合戦前に地生えの武将との軋轢を生み,地生えの武将の殆どは義広を見限って,伊達政宗に付いてしまいます.
 その結果,摺上原で一敗地に塗れ,以後も家臣の離反が続き,遂に会津黒川城を落ち延びるしか無くなりました.

 普通はこれで御家滅亡だったのですが,戦国末期,既に天下は豊臣秀吉の下で統一に向かおうとする時期.
 程なくして秀吉による北条攻めが始まり,機を見るに敏な佐竹義重は逸速く恭順を表明して,領土を安堵されます.
 秀吉も,関東に移封した徳川家康を牽制する為に佐竹家を重用し,その歓心を買う為に,御家滅亡に至った蘆名家を常陸江戸崎にて再興させることになりました.

 こうして,100万石には余りにも遠い常陸江戸崎48,000石という小さな所帯で蘆名家は再興を果たします.
 散逸した家臣もそれなりに集まり,体裁も整いました.
 ところが,今度は秀吉が薨去し,徳川家康と石田三成が対立します.
 そして,関ヶ原の合戦に至るのですが,当主の血筋である佐竹家は,石田三成に恩顧があった為,この合戦で日和見をし,徳川家康の怒りを買ってしまいます.
 その結果,合戦後の戦後処理において石高無しで秋田への移封を余儀なくされました.
 因みに石高が決定されたのは1664年の事で,20万5,800石が封じられましたが,60万石になんなんとする大幅減です.

 此の時,蘆名家には徳川家康から相当な好条件で味方に付く様に書状が来ていました.
 しかし,蘆名義広は兄である佐竹義宣に遠慮したのか,佐竹家と行動を共にしてしまいます.
 結果として,この行動も徳川家康の怒りを買い,転封どころか,常陸江戸崎48,000石を失う事になってしまいました.

 となると,今回こそ完全に御家滅亡ですが,佐竹義宣の弟と言う立場がまだ幸いします.
 佐竹家中と共に秋田に移動した義広は,佐竹家中の客分として,角館18,000石を給わることになりました.
 独立した大名では無いにせよ,大名並みの石高を誇る家となります.
 義広は,この角館を,将来大名として独立した際に相応しい場所にしようと,城の無い城下町を形成していきました.

 ただ,これはまだ石高が確定していない佐竹家にとっては,御家騒動の種と見做されかねません.
 江戸初期は大名家の取り潰しが相次いでいたときです.
 外様で,しかも徳川家康から睨まれている佐竹家で,御家騒動が起きると,御取潰しの憂き目に遭うのは確実です.
 その後何があったか判りませんが,蘆名家の当主は何れも短命に終わり,最後の当主である23代千鶴丸が,法要の際,寺の庭石に頭を打ち付けて4歳にして不可解な死を遂げ,蘆名家は完全に命運を絶たれてしまいます.

 佐竹家は蘆名家の家臣からの御家再興要求に対し黙りを決め込み,蘆名家の家臣は過激化.
 ただ,江戸表に対する佐竹家の情報統制と蘆名家臣団の分断は成功し,蘆名家の家臣団は角館に残り佐竹北家の家臣となり,佐竹家から見れば陪臣になった者と,檜山に移住し,微禄ながら佐竹家直臣となった者に分かれてしまいました.

 本書では,大名が御家断絶する際の家臣の動きに注目しながら,この蘆名騒動を描いています.
 ただ,この事件は陪臣とは言え,万石になんなんとする家臣の御家断絶騒動なのに,佐竹家には記録が殆ど残っていません.
 意図的に記録を葬った感じがあります.
 この為,資料が異常に少なく,その再構築は困難を極めています.

 従って,中途半端に思える部分も多々あります.
 これは将来の研究が進んだら,新資料が出て来て,書き換わるかも知れません.
 それでも普通の大名とは異なる,御家滅亡に至った家の研究と言うことで,中々興味のあるテーマを取り上げたもので一気に読み進めることが出来ました.

------------眠い人 ◇gQikaJHtf2 : 2017/12/17

『越前朝倉一族 新装版』(松原信之著,新人物往来社,2006.12)

 「朝倉宗滴話記」は79歳の老年にいたるまで武者奉行一筋に徹し,加賀出陣中に没した朝倉教景(宗滴)の語録集で,生涯を通じて体験・見聞した中から会得したもの,父母・叔父の景冬などから受け取った様々な教訓などを収録した物.
 条目については長文・短文もあり,配列も一定せず,前後に脈絡もなく,折に触れ,時に感じて語ったことを家臣である萩原八郎右兵衛尉宗俊が書きとめた物で,宗滴の生き様・独特の哲学がにじみ出ている,としている.
 写本については群書類従本(81ヶ条)を含めて五点しか見いだせず,欠落部分を含む写本もあり,各本の条数は一致しないが,条文の半数近くは軍略・大将の心得などで,残りが人生訓となっている.

●軍略について(カッコ内の数字は群書類従本の番数としている)
 「勝ち戦には大体,危険な作戦が伴うものだと昔から伝えられているが,英林様はまず敵を知ることこそが戦いを勝利に導く秘訣だと云われた」(38)
(英林様:朝倉孝景(1428~81).越前守護代であった甲斐氏を追放し,越前を平定.この事跡から朝倉氏初代とされている)
「無理な城攻めをすると,かえって味方の兵を無益に損ずることになる」(1)
「敵を攻める時,敵方は持ちこたえられないだろうなどと,安易な予測をしてはいけない」(4)
「敵方の者を買収してでも敵の作戦を知ることが,名大将の基本である」(79)
「戦場での伝令は口頭となるので正確に」(7)
「陣取り,或は陣替えの時は,雨天の用意をして晴天の時に決行せよ」(42)
 この他,敵の夜襲を受けた時の対処(73)や大川に船橋を架ける時の方法(80),野戦の際の馬糧(5)などについて.

●戦時の際の大将の心得
「合戦の場で一切,不可能などとは云わぬこと,対象の心中が見すかされてしまうから」(3)
「大軍が近づいたとの情報を耳にして退却するのも軍略の一つといえるが,一旦,敵軍に遭遇して逃げるのは,かえって危険で全滅の恐れがある.
 耳は臆病でも,目は勇敢でなければならない」(75)
「大事の合戦や大儀な退却の時は,部下が対象の心持ちをいろいろと試そうとするものだから,決して弱々しい言動を見せてはいけない」(9)
「大将となるべき人物は,平素より武芸に心掛けることが肝要である.
 一旦,不器用の汚名を取ってしまうと,戦場で見事な働きをしても,まぐれだと笑われて家臣が大将の命令に従わぬからである」(61)など

 また,
「老巧の名将とは,一度は重大な敗軍の経験があるものである.
 しかし,自分はこの年まで勝ち戦ばかりで敗軍の経験がない.
 従って,自分は老巧の名将とはいえない」(4)
というのは宗滴の逆説的な自負であろうか,としている.

●平時における合戦に対する備え
「国内の道筋については,間道・順道・ふけをよく見極め,馬の足が立つかどうかも調べておけ」(36)
「隣国の場合はもちろんのこと,諸国の道のりや海山川の難所もよく知っておくことも対象として大切である」(37)
「諸国の国取りの次第や合戦の勝負の戦法などについては,近年知らない者が多い.
 もし知っている者がおれば,尋ね探してでも,よく聞いておかねばならない.
 後学のため役に立つからである」(66)
 特に加賀の一向一揆については
「毎年,鷹狩りと称して北川(坂井郡)へ出向くのは,北の道筋をよく見極めるためである.
 一旦,加賀から侵入した時に,あわてて絵画などで作戦を立てるなどは手遅れである.
 平素からよく心掛けておくことが第一である」(35)
として,越前の全ての侍は身分の上下に関係なく,加賀の事を気にかけないのは先祖に対して不孝者であり,利敵行為である(76)と強い敵愾心も忘れていない.

●人心掌握
 戦国時代にあっても国を治め,保つ為に一国の主たる者は軍略・兵法にのみ秀でているのでは十分ではなく,家臣をいかに心服させて統率できるかは主君たる人物の器のいかんによる,とするのが宗滴自身のもつ倫理観であり,帝王学であった,としている.
 これには儒学の影響もあったと考えられるが,古今東西,普遍的な教訓,強いて言えば現代にも相通ずる「人の道」を「武将としての心構え」に置き換えてる,としている.
 また
「家臣から軽蔑されたと思うようでは,我心が狂乱したると悟るべし」(17),
「家来から恐れられるようになってはいけない,慕われる主君になれ」
と戒めるいっぽう,名将・名君としての資格の一つとして家臣に対する温かい心遣い,人使いを教えている.
「平素からうそをつくと,大事な時に用に立たず,敵味方ともに信用を失ってしまう」(6)
「家臣に対し特別扱いはするな」(15)
「家臣の得手・不得手を見分けて適材適所に使え」(28)
「家臣も主人に対する不満を辛抱しているのだから,主人も家来の行き届かぬ所を辛抱してやらねばならない.
 そうすれば,子飼いの家臣が多くできるものだ.」(14)
「家臣の所持する馬・鷹,其外太刀・長刀・絵讃・唐物などを無理に欲しがってはいけない.
 どうしても必要とするならば,時価で求めよ.
 そうしなければ,結局は宝物が他国へ流れてしまう」(13)
「家臣の亡きあと,その子供は大切に取り立てよ.
 もし実子がなければ養子の世話もせよ.
 そうすれば,家臣は命懸けで奉公するものだ」(11)

●愚将の通弊
「愚かな大名とは天下共通なもので,見るからに威張り散らして無礼であり,猜疑心に強く,家来からも愛想をつかされる.
 少しでも主人の意に反すると,うるさく干渉する.
 また,家来たちが自分の無能さをささやいていないか立ち聞きさせたり,家来を非道に落とし入れて領地や家屋敷まで押収してしまい,自分の蔵には米や金銀財宝を積み上げて喜んでいるのだが,一旦,不慮のことが起こればすべては空となり家も滅びさるものだ.
 古今ともによく聞くことだが,透谷では右衛門大夫景高がこの例である」(19)
(右衛門大夫景高:朝倉宗淳孝景(1493~1548 朝倉氏四代目で朝倉義景の父)の弟.
 大野郡司の職にあったが,兄の宗淳孝景と不仲になり,郡司職を罷免され,最後には西国へ没落)

 諸大名にも厳しい目を向けており,人使いの下手な大名として土岐・大内・細川勝元を挙げており(44),人使いの上手な大名としては今川義元・武田信晴(信玄)・三好修理大夫(長慶)・長尾・安芸の毛利など(45)といった総合的な人物評価を下している.

●蓄財について
 在家において代物黄金の充満した富有の商人である冑屋善定,上木覚勝が滅亡したのもおごりの結果だと戒め(20),宗滴は物欲・金欲には冷淡だったとしている.
 その一方で,
「人間として蓄えはなくてはならないが,余りにも富商の如く過分な代物黄金を集め置くようでは武者とはいえない.
 ただし,伊豆の北条早雲は,連歌師宗長が語ったところによると,針ほどの物さえも蔵に積んで置くほどのケチであるが,合戦の用に立つ場合には,玉を砕くほどの思い切った使い方をしているそうだ」(26)
としている.

●宗滴の自己反省
 宗滴が幼少の頃,諸侍に対して無礼であった事を,父の孝景が心配していた事(22)や,食事の作法(29)などで母親から注意を受けて来た事などに対して自己反省している.
 さらに父孝景以来の書状の宛て名の書き方が,近年乱れてきた事を嘆き,戒めてもいる(23・24).

 朝倉義景が若年(16歳)で国主の座に就いた時,老巧な宗滴は最も頼るべき家臣であり,宿老的な存在にまで成長していたが,宗滴は領国支配の政務にはほとんど関与せず,生涯現役の武者奉行であることを表明している(56).
 しかも義景を,大将とは御屋形様の事である,と立てる事も忘れていない(60).
 また,
「普通の老人は夜も寝られず暇でしかたがないと聞くが,自分にはあてはまらない.
 その理由は,北の加賀はもちろん,東からも西からも南からも攻め込む敵を迎え討つ用意,または義景様とただ二人となって,諸国を敵に回して戦う合戦に勝利を得る秘策や,加賀を始め他の隣国を切り取る方策,さらに天下を取って義景様を上洛させ申す策略など,さまざまに思案を重ねているうちに夜が明けてしまうので,少しも退屈なことはない」(65)
と述懐している,としている.
 宿老的な地位にありながらも名誉・権力・富を求めなかった為,人々からは無欲者と噂されていたが,
「決して自分は無欲者ではない.
 なぜならば,加賀でも美濃でも賜わるということで,出陣を命ぜられれば,決して辞退するものではないからで,自分ほど欲深者はいない.
 ただし,道にはずれた欲望を起こしたり,家来に無道な要求をして財宝を奪い取るといった欲心はないから,自分の代になって扶持を与えないのに,陣衆や被官人は多くなったのだ」(68)
とも述べている,としている.

 この語録は家訓ともいうべきものであるが,宗滴の子孫・家臣に対する為のものだけではなく,宗滴の死後も朝倉家がさらに強大となり,永く存続する事を願っていた,としており,特に秘かに心配していたのは,若年で国主の座に就いた朝倉義景の行く末であったと考えられる,としている.

 もし,姉川や刀禰坂の合戦で宗滴がいれば,とは思うが,さすがに無理だよなぁ….
(姉川の時だと94歳,刀禰坂だと97歳になるのか)

 MCあくしずで秋山教官が
「辻(辻政信)の野郎~」
と罵っていたが,朝倉宗滴よりも旧日本軍の将官のほうが劣って見えるのは何でだろう…?

――――――グンジ in mixi,2009年04月12日14:11

『勝つ武将 負ける武将』(土門周平著,中経出版,2013/08/08)

『消えた戦国武将』(加来耕三著,メディアファクトリー,2011/12/27)

『真説 浅井長政嫡子 越後・浅井帯刀秀政』(浅井俊典著,宮帯出版社,2012/11/12)

 浅井長政と言えば,武田信玄による信長包囲網に賛同して,朝倉氏と共に信長に反旗を翻し,戦い利非ずして,奥方と娘等を信長に引き取らせた後,自らは自害します.
 また,落とした嫡子万福丸は,潜伏中に捕えられ,関ヶ原で磔刑に処せられて,男系嫡流は途絶えたことになっています.

 しかし,実は長政には信長に知られていない男子が1人おり,守役に守られて近江を落ち延びたと言う言い伝えが残っています.
 その伝説で一番有名なのが,近江の福田寺に落ち延びた万寿丸が,後に寺を出奔して江戸に出,お江の方と対面して後,細川家に仕官したというもの.
 様々な小説家が,この言い伝えを元に物語を書いています.

 ところが作者はこれに疑問を持ちます.
 元々,この作者自身も浅井家の末流に属する人なのですが,この人の先祖は越後の出だからです.
 その出自も,調べていくと浅井長政に辿り着きます.
 ただ,この事実は長らく表に出ませんでした.

 それは何故か,そして何故越後に浅井長政の末裔がいるのか,その辺りを資料を紐解きながら丹念に追った労作です.
 勿論,資料が乏しく,様々な断片を組合わせて論拠を作っているので,もしかしたら牽強附会と言われうるかも知れませんが,古文書,しかも一次資料を出来る限り当たっての論拠補強を行っているので,九州説よりも越後説の方がかなり有力では無いかと言う説得力があったりします.

 確かに常識で考えても,近江とその周辺で信長が一心不乱に浅井家の残党狩りを遣っているのに,小谷城の城下にほど近い寺に長政の嫡子が生存していると言うのは,余程の僥倖が無いと難しいでしょうし,江戸時代になって寺の僧正の地位を棄ててまで出奔して江戸に出て来ると言うのも,不自然です.
 更に,何の伝手も無い人が急に将軍家御台所に逢えるのかと言う疑問もありますし,何の実績も無い彼が細川家に仕官すると言うのもおかしな話です.

 作者は,近江の福田寺に落ち延びた嫡子は,そこに長くいた訳では無く,直ぐに信長包囲網の有力大名だった武田家を頼って更に落ち延びたのではないかと推測します.
 しかし,そこも安住の地では無く,武田家はその後暫くして信長に蹂躙されてしまいます.
 この為,武田家の家来筋であり,自分と同じ血統の横田家を頼り,更に窮鳥として,蘆名と上杉に両属していた山之内家を頼って行ったと考えています.
 ところが,蘆名滅亡後,上杉に属していた小大名であった山之内家は,今度は秀吉の奥州仕置によって滅亡の憂き目に遭い,浅井の嫡子は再び流浪して,山之内家が昔支配していた越後に更に落ち延び,潜伏する,と.

 これが越後浅井家の祖となったと作者は考えています.
 その後,関ヶ原の合戦で上杉家に呼応して一揆を起こした浅井家は,堀直寄の追討で更に潜伏を余儀なくされ,魚沼の山の中に居を構えます.
 上杉に変わって,会津を支配した保科家によって山之内家が取り立てられると,家来筋も軽輩ながら士分に取り立てられ,その客分格だった浅井氏にもお零れが回ってきます.

 保科家に取り立てられた際,山之内家に属する人々は由緒を書いて会津に提出する事になります.

 その頃,江戸では3代将軍家光の時代.
 その母であるお江の方は,言わずと知れた浅井長政の三女となります.
 また,皇室に目を転じると秀忠の女和子が,後水尾天皇の皇后となり,後の明正天皇を生みます.
 つまり,浅井家は織田家と徳川家に滅ぼされたのにも関わらず,遂には徳川家の乗っ取りに成功し,また皇室の外戚になったことになります.

 そして,お江の方の七回忌法要の時,明正天皇は曾祖父である浅井長政に対し従二位中納言を追贈したのです.
 これは水戸家の極官よりも格上の破格の待遇となります.

 由緒を書き提出する際,越後の浅井家当主は,事実を書くかどうかを悩んだのでは無いでしょうか.
 もし,自分が浅井長政の嫡子であると名乗り出たのなら,彼は将軍家と叔父甥の間柄となり,天皇に対しても血筋となります.
 更に,当時,自らの居住地を支配していた越後高田松平光長も,秀政とは叔父と姪の関係になる勝姫の子供であり,これまた縁戚関係となります.

 しかし,関ヶ原の合戦では上杉遺民一揆に荷担することによって,徳川家に対して弓を引いており,今更名乗り出ても,折角の長政の官位追贈に傷が付く可能性がありました.
 また,今までも生き延びるために余り大っぴらに長政嫡子という事を公にしなかったことから,由緒提出の際,自らを浅井家の傍流であると書き記したのでは無いかと推測しています.

 因みに,越後浅井家が,長政の嫡流である事を明らかにしたのは江戸時代後期に入ってからの事だそうです.

 この様な謎解きに満ちた本なので,中々知的好奇心を刺激されるものとなっています.
 ただ,古文が結構出てくるので,その辺が苦痛な人にはお勧め出来かねますが.

------------眠い人 ◆gQikaJHtf2,2016/06/06 23:08

『戦国史の怪しい人たち.天下人から忍者まで』を読み解く (2013/03/29)◆「国際インテリジェンス機密ファイル」

『戦国武将からの手紙』(吉本健二著,学研M文庫,2008.5)

『戦国大名今川氏と葛山氏』(有光友學著,吉川弘文館,2013/3/25)

『日本をつくった名僧一〇〇人』(末木文美士編,平凡社,2012/09/27)
 蓮如や天海は,怪僧の部類では?

『武将に学ぶ第二の人生』を読み解く (2013/03/13)◆「国際インテリジェンス機密ファイル」

『政宗が殺(け)せなかった男 秋田の伊達さん』(古内泰生著,,現代書館,2014)

 5年前の本で作者は歯科医です.
 ただ,歴史好きが高じてミニコミ誌に歴史コラムを執筆しており,今回の本はそれを纏めたものとなっています.

 政宗というのは,言わずと知れた仙台伊達家当主の伊達政宗のこと.
 「遅れてきた戦国武将」と言われた彼は,秀吉の権力が日本全国に及ぶ寸前まで東北で蠢動していました.
 そして,今まで身内同士の合戦で,戦後処理がなぁなぁで住ませていたものを,「撫斬り」と言う手法で周囲の戦国武将家を震え上がらせ,臣従させるように仕向けてきたわけです.

 元々,伊達家は岩出山に城を構えていました.
 しかし,東北各地,特に北は南部に抑えられているので,南へと進出するしか無く,岩出山では場所が余り良くありません.
 そこで目を付けたのが東北の名門武将ですが,家運が衰退しつつあった国分家です.
 国分家の支配地域は,現在の仙台周辺であり,伊達家にとって南方に進出して北条と領土を分割するとしたら丁度中心になります.
 国分家には,既に祖父の伊達晴宗の息子である盛重が養子として入っていたのですが,政宗はそれを排除しようとし,国分家に合戦を仕掛けます.

 かくして,二階堂などの他の豪族同様に国分家は滅亡し,国分盛重は父祖の地を捨て,83騎の部下を伴い,伊達領内を突っ切り,岩城家を経て,義重の室となっていた姉の宝寿院を頼って佐竹家に亡命しました.
 佐竹家では一門衆の1人として取り立てられ,「南方三十三館」の諸豪族達の筆頭であった嶋崎家が統べていた嶋崎城,次に大掾氏が統べていた地域の柿岡城を統べることになります.

 しかしながら,程なくして関ヶ原の合戦.
 身の処し方に失敗した佐竹家は大減封の上,石高不明で秋田の地へと転封となりました.
 当然,国分盛重もこの移封に扈従し,横手城代として一門に次ぐ地位を誇ります.
 大坂冬の陣では,佐竹家の陣大将として出陣し,佐竹が大被害を出した今福合戦では先鋒を務めました.
 此の時の戦闘で傷を負い,程なく養子となった佐竹東家義久の息子に横手城代の役職共に引継ぎ,隠居して程なくして元和に改元された時に死去しました.
 因みに,養子は程なく失脚して改易されますが,家族の取成しで御家復活となり,秋田にいる伊達家となって幕末まで続きました.

 とまぁ,これだけ活躍した人なのですが,彼の事績は殆ど残っていません.
 確かに,伊達政宗に滅ぼされ,数年で常陸から奥羽に転封となり,息子が失脚したと言う事で資料が散逸したりした可能性も否定できませんが,同じ伊達家でも出奔した伊達成実には記録が残っています.
 ただ,成実の場合,出奔後に一族郎党が磔に処せられたのですが,国分盛重の家族は撫斬りには遭っていません.
 それどころか,数年後には政宗自らによって古内家として取り立てられ,古内重弘は仙台伊達家の奉行職,そして筆頭家老を歴任しています.

ま た,政宗に攻められたにも拘わらず,佐竹の一族である岩城家の領土まで伊達領内を83騎の部下を率いて逃走したのも不可解な話です.
 更に,佐竹にすんなり受容れられて,直ぐに佐竹の重臣として取り立てられています.
 普通他の家から亡命したとは言え,ちょっと前までは敵対していた武将です.
 それをすんなり受容れると言うのも不可解です.

 記録が無いとは言え,こうした異例ずくめの展開は何か裏が有ったのでは無いかと言う可能性を感じさせます.

 この本ではこうした断片を組合わせて,大胆な仮説を立てて検証しています.
 歴史学者では無い,アマチュアの人が考えたので,孔はあるのかも知れませんが,結論に至るまでの論考が,読み物としては十分に面白いです.

 因みに,失脚した伊達盛重の養子の後釜に就任したのが副将の須田盛親です.
 須田盛親と言えば,二階堂氏の一門で,伊達家と尽く敵対した武将.
 国分盛重も当時は二階堂攻めに参戦していました.
 こうした確執もあった可能性があります.

 この辺,歴史小説にすれば面白い作品が出来るかも知れませんね.

------------眠い人 Álmos ember ◆gQikaJHtf2,2019-10-05

『歴史を本当に動かした戦国武将』を読み解く (2013/04/25)◆「国際インテリジェンス機密ファイル」


 【質問】
 江戸時代まで生き残った戦国武将の家系について教えられたし.

 【回答】
 さて,先日から読んでいた『家紋・旗本八万騎』をやっと読み終えました.
 旗本に関する類書は非常に少なく…まぁ,それだけ家が多いのですから当然ですが…,真面に揃えようとしたら,例えば,『寛政重修諸家譜』なんてのは,国主大名から御目見得以上の旗本までなのに,1799年から編纂を開始して14年後の1812年に完成する遠大なもので,現代語訳でも本文22巻,索引4巻に及びます.
これに微禄の旗本や御家人を加えるととてつもない冊数になるのは目に見えている訳で.

 それでも,こうした本を読んでいると,徳川の世の中になって没落していった戦国武将や戦国大名が微禄ながら何とか生き延びているのを目にします.

 大名家としては,例えば織田家,豊臣家一族の木下家とか中世の大名だった京極家なんてのもいますし,足利家こそ消滅していますが,傍系の喜連川家なんてのが大名扱いで生き延びています.

 大名でしくじったり,絶家取潰しとなった家でも,旗本として後に取り立てられている家が結構あったりします.
 前に高家や交代寄合となった家を紹介しましたが,それ以外にも意外に色んな所に,この武将の裔が生き延びていた…なんてのがあったりして.

 『太閤記』で貂の皮の指物を脇坂安治に引き渡す事で知られる,赤井悪右衛門こと直正も,後に当主の兄の遺児が旗本として江戸期に復活していますし,室町時代に四職家の一つとして君臨した赤松家も,嫡流が旗本となって生き延びています.
 織田信長に滅ぼされ,京極家の食客となった浅井長政の家系も,叔父高政の系統が織田家の後,徳川に仕えて旗本として後世まで繋がっていたり.
 それに連座して滅んだ朝倉義景の一党も,一部が生き延びて遠州掛川城主となりますが,忠長事件までは何とか家を保ち,宗家が絶家取潰しになっても,分家が生き延びました.

 織田関連ではこのほか,追放された佐久間信盛の息子正勝が関ヶ原で東軍にはせ参じ,当初三千石を家康から給い,最終的に千石余を保っており,滝川一益の系統も九百石として直系が旗本に取り立てられました.
 滝川一益の系統の他,もと木造氏の滝川雄利系統もありますが,こちらは西軍に荷担して一旦絶家となった後,許されて大名家になったものの,嫡子無く廃され,後に其の内から二千石だけ子孫に与えられ,旗本になってみたり.
 西軍に加わって没落したのは,筑紫家も同じで広門で没落しますが,息子の代に三千石で復活.
 秀吉に抵抗した別所家は,甥の系統が秀吉によって大名家となりますが,関ヶ原を西軍ながら生き延びたのも束の間,病気と称して参勤を怠り,実は鷹狩りをしていたのがばれて改易となり,その長男が建てていた別家も改易されます.
 これまた,家光の代に再生されて復活します.
 金森長近に攻められて領地を失った姉小路(三木)家は,各地を流浪した後,大阪の陣で三木近綱が水野忠清隊に属して奮戦し,七百石の旗本として復活しました.

 秀吉に仕えた越中守護代神保家も,関ヶ原に功があり,一国を賜るまで行かないまでも,七千石を伝えていて大名一歩手前でした.
 小田原落城で秀吉に切腹を命じられた大道寺政重の嫡子直次が,千石の旗本として復活しています.
 因みに,直次は,黒田孝高,豊臣秀次,福島正則と主家を変え,武名が非常に高い遠山長左衛門と当初名乗っていました.
 竹中半兵衛重治の子孫は,叔父の系統が豊後で大名となりますが,意外に直系の方は出世せず,その子重門は小西行長を捕えたのに六千石しか与えられていません.

 一度取潰しされた大名家でも,下野佐野にあった佐野家の様に,家光の裁定で復活した例もありますし,筒井順慶の筒井家も絶家しますが,支流が旗本として生き延び,特に家康の妹市橋姫が筒井順齋に嫁して,禄高を順調に上げています.
 徳永家も寿昌の後に絶家し,曾孫の代で二千二百石を賜りました.
 日根野家も絶家しますが,こちらは男系に恵まれ,男子4人のうち,3人が生き延びて,旗本家として生きていきます.

 最も意外なのが福島正則で,安芸広島五十万石弱から信州川中島四万石に減封され,更に二万石に落とされ,彼の地で卒去します.
 嫡嗣忠勝もこの地で卒去し,弟で養子となっていた正利に残されていた川中島の一部三千石も,無嫡断絶で召上げとなりました.
 更に正則の弟高晴も,以前書いた様に,正胤の代で罪を得て遠流となり絶家.

 加藤清正の加藤家と共に,此の儘福島家も日本史の表舞台から消え去った筈ですが,忠勝の子正長が生き延びており,正利によって育てられ,更にその子正勝の代に至ると,綱吉によって二千石の知行を持つ旗本として復活していたりします.

 宗家より分家の方が大きくなったり,分家のみ生き延びたり,徳川三百年は非常に長いので,浮き沈みが激しい世界でしたが,それなりに再チャレンジの方法は整えられていた訳ですね.

 但し,浮上するには可成りの大金と運が掛かったのでしょうが.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年10月13日22:11


 【質問】
 戦国武将と囲碁・将棋のエピソードが幾つかありますが,碁が下手でも,戦がうまい人っているの?

 【回答】
 秀吉は,まあ「太閤将棋」そのまんまで,駒の動かし方を,かろうじて知ってる程度だったらしい.
 むしろ,秀次が,碁も将棋も素人離れして上手かった.

 だから秀吉はものすごく下手なんだけど,明るい将棋だったらしい.
「おれは太閤なんだから,歩を引いて(落として)指してやるわ!」
と,飛車の前の歩を引いて名人と対局,もちろん先手なので圧倒的に有利.
(普通は,強い方が駒を引いてハンデをつけるけど,この場合は逆効果になる)
 名人が知能の限りをつくして,その下手くそに勝たせる展開になるわけ.
 秀吉が無茶苦茶な手を指しても,自分が詰むように,詰むように.
 で,もちろん秀吉は自分の下手くそさも,勝たせてもらったのも知ってた上で,勝つと手放しで大喜びしたから,かえって周りもなごんで人望があがったと言われてる.

 信長も囲碁・将棋とも好きだった.
 上手いかどうかはわからん.

 古郷物語では,黒田孝高が囲碁打ちながら会話する場面がよく出てくる.
 かなり好きだったのは確か.
 この頃は碁会ばやりで,秀吉在命中のはなしだけど,家康は京都滞在中に,公家や武家,豊臣恩顧の大名を問わず招いて,しょっちゅう碁会を開いてる.
 孝高も,あちこちの碁会によく呼ばれてる.
 本因坊算砂の参加する碁会に呼ばれてたりするから,それなりの腕前だったんじゃないかな?

 長政は,息子・忠之に囲碁将棋禁止令を出した.
 忠之がそんなもの守るわけがなかったが.

 浅野長政は,碁の強かった家康の碁友になれるくらいの腕前.
 上手くないわけがない.
 家康は将棋も上手い.
 家康は秀次と将棋を指していたとき,終盤でつい
「お手並みは先刻承知,おっつけて身上,おっつけて身上」
と突いて,長久手の中入り隊を追撃撃破になぞってつぶやいてしまったことがあったそうな.
 吉川太閤記にも書いてあったね.

 ちなみに,碁はちょうど戦国末期にルールが進化して,ゲームとして凄く面白くなったので,貴族・武家を問わず大流行した.

戦国板,2012/01/23(月)~01/27(金)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 戦国三美少年と云えば,名古屋山三郎,不破万作に浅香庄次郎ですが,或る本(小説・フィクションの類ではありませぬ)に,浅香は「京極高次の小姓」と書かれていました.
 ふつう,この浅香は「木村伊勢守の小姓」とされていますけれど,京極高次に仕えたこともあったのでしょうか?

 【回答】
 京極氏の家臣団リストに,水野庄次郎(浅香左馬)の名があります.
http://www.geocities.jp/kawabemasatake/kyougoku.html

 いつの時代のものなのかはよくわかりませんが,浅香は石田三成の家臣にされているようで.元々三成の父は京極氏の被官でした.
 元亀から天正にかけての京極氏は,同族争いや外戚の浅井氏の下克上,更には信長らの介入,主替えなどがあってワケワカランポですが,形式的には,京極高次の陪臣(家臣の家臣)ということになっていたのでしょう.

 木村家に仕えたのは,もっと後のこと.
http://www5e.biglobe.ne.jp/~nikke/ishidakasindanm.html

日本史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 海道一の弓取りって異名は,今川義元に付いてたんでしょうか?
 それとも徳川家康にも付いてたんでしょうか?
 それとも,東海道のあの辺(駿河・三河・遠江)で勢力を振るうと,自動的にそういう風に呼ばれる様になるんでしょうか?

 【回答】
 通説じゃ,2人共呼ばれてたという事になってる.

 が,海道=東海道ってことで律令に従うと,伊賀・伊勢・志摩・尾張・三河・遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸と関東まで含んで相当広範囲になるが,家康なら経緯的に充分そう呼ばれる資格はある.

 個人的には三河駿河遠江を押さえてたとはいえ,北条に駿河をさんざ荒らし回されてたり,甲斐一国を平定するのに苦労してた武田に,ちょっかい出して逆にフルボッコにされたり,それで
「米も取れない駿河は,もういらねーや」
って飽きた北条に,ゴキブリみたいに湧いて出てくる今川にウンザリしてた武田が呼応して,土下座に近い形でやっと同盟結んで貰った今川の,義元が海道一の弓取り=あの辺りで一番戦がうめぇというのは,かなり無理がある気もするがね.

 桶狭間の話にしても,正直今川って織田から見たら脅威だったかも知れんが,その今川の更に後ろ,武田や上杉や北条からしたら,今川自体がいつでも滅ぼせる様な中小大名でしかなかったんだぜ.

日本史板,2009/05/25(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 今川氏真の晩年は?

 【回答】
 今日も御座さんの日記を転載させていただく.いつもありがとうございます.

~~~引用開始~~~

 慶長17年(1612),75歳の老人が,天下人となった徳川家康を駿府城に訪れた.
 老人は昔,今川氏真と呼ばれた人物であり,かつては駿府城の主であった.
 東海地方に覇を唱える今川氏の御曹司としてこの世に生を受けた氏真であったが,桶狭間の戦いでの父・義元の敗死を受けて当主の座についたものの,今川氏の衰退に歯止めをかけることができず,結局,武田氏と徳川氏に国を奪われた.
 はじめ氏真は姻戚の北条氏を頼り駿河の奪回を目指したが,第2次甲相同盟の成立に伴い,徳川家康の庇護下に入った.

 さて氏真の訪問を受けた家康,元々は主筋の相手だけに疎略にはできず,対面することになった.
 いつしか話題が和歌に及んだ.
 氏真は大名だった頃から,冷泉為和を師匠として熱心に和歌を学んでおり,家康の庇護下に入った後は上京して,冷泉家に出入りして京都歌壇で名声を博していた.
 そこで氏真は滔々と歌道論をぶったのである.

 これに対して家康は,
「和歌などは公家のやること」
と一蹴し,有名な平忠度の逸話
(平家都落ちに際し,自らの死と一門の滅亡を覚悟した忠度は,立ち帰って歌の師匠である藤原俊成に自らの秀歌を託す.
 後世に自らの歌を残すことが唯一の願いと語る忠度の言葉に,感動した俊成は決して疎かにはしないと約束し,実際に忠度の歌を『千載集』に収録している)
も,ちっとも美談ではない,歌なんかを勉強する暇があれば兵法を学ぶべきであったのだ,そうすれば平家は滅ぼされずにすんだだろう,と言ってのけた.
 氏真は赤面して退出したという.

 言うまでもなく家康の発言は,和歌に熱中しすぎて国を失った氏真を皮肉ったものである.
 もし,この会談が史実だったとしたら,家康は相当イヤミなヤツだったことになるが……(笑)

参考:小川剛生『武士はなぜ歌を詠むか』(角川学芸出版)

~~~引用終了~~~

 まあ武将は,むしろ和歌をたしなむのが普通なんですけどね.
 全体的に見れば,徳川家康の方がむしろめずらしいのではないかと・・・.

 足利尊氏も,陣中でたくさんの和歌を詠んでいます.

 〔略〕
 司馬遼太郎も,家康を筆頭とする徳川の武士団は,織豊文化には一切参加していないみたいなことを指摘していますね.

「はむはむの煩悩」,2008年8月30日 (土)
~2008年9月 1日 (月) 16:53

青文字:加筆改修部分


 【質問】
 流刑後の宇喜多秀家の暮らしについて教えられたし.

 【回答】
 さて,八丈島への流人第一号として記録に残っているのは,かの宇喜多秀家一行13名で,1606年の事です.

 宇喜多秀家は関ヶ原の合戦で敗れ,島津家を頼って落ち延びたのですが,島津氏に累の及ぶことを考えて,1603年から1605年まで駿府の久能山に蟄居していました.
 意外にも,家康の直ぐ側に住んでいた訳で,秀家は徳川家による処罰を待っていました.
 本来は,石田三成やら長束正家,安国寺恵瓊などと共に西軍の首魁として死刑に処せられる筈でしたが,彼の妻が外様でも大きな勢力を持つ前田利家の娘豪姫であったばかりでなく,これまた強国の一つでもあった島津家の助命嘆願もあった為,死一等を免ぜられて,1606年4月に八丈島流罪を命じたのでした.

 従三位,参議,権中納言の官位を奪われ,俗名である八郎を名乗らされ,長男である宇喜多孫九郎秀高,次男である浮田小平治秀継と下男であった浮田次兵衛,倅の乳人などの他,前田家から侍医として遣わされた村田道珍齋助六など一行13名が島に渡りました.
 因みに,島に渡った秀家の家系は,嫡流が宇喜多,庶家は浮田,末家は喜多若しくは喜田と称する様になったと言う説がありますが,文献ではこの区別は極めて曖昧であり,秀家ですら浮田と書いているものもあって,本当にこの区分が為されていたのかはよく判っていなかったりします.

 秀家以後,1871年に至る迄合計1,900名余りが流罪人として八丈に送られていますが,この秀家一族だけは,「浮田流人」と称して,他の流人とは別格に扱われました.
 例えば,長男である宇喜多孫九郎(渡島後,秀高は捨てさせられた)は,代官奥山縫殿助の娘と娶せたりしていて,それなりの待遇を受けていた訳です.

 八丈島での宇喜多八郎の住居は,大賀郷村東里銀木犀下にあって,前田家からは1869年に浮田家が赦免されるまで,毎年白米70俵に金子35両,衣類雑具,薬品など多数の物資が送られていますが,当初浮田家は7家に分れ,後には20家にまで分家が出来た為,一般の流人よりは生活がマシだったでしょうが,楽な暮らしではなかったと思われます.
 八郎自身も,江戸から渡島した代官谷庄兵衛が,八郎を代官陣屋に呼んで御馳走した際,握り飯を1つだけ食べて,残り2つは紙に包んで持ち帰り,家族に与えたのを見ていたく同情し,白米1俵を送ったと言う逸話があるくらいですし,「御菩提の種や植えけん此の寺にみのりの秋ぞひさしかるべき」と詠んだ歌は,八郎が宗福寺で終日御馳走に与った際のお礼の意味で詠んだものだったりします.

 そうして俗世間から全く離れ,磯辺に釣り糸を垂れ,偶さかに詩歌を詠み,全くの凡俗に,しかし島では水汲女(俗に言う現地妻)は持たず,34歳から84歳で死を迎える半世紀余り後まで静かに時を過ごした訳です.

 尤も,流罪後何年かして,前田家からそれとなく八丈島に使者を立て,その気があれば徳川家と談合して,小さいながらも一国の主として取り計らっても良いか訪ねたことがあります.
 その時,食事中だった八郎はぴたりと食事を止め,居住まいを正してこう言ったとか.

「私は,曾ては豊家五大老の一人.
 今更徳川家の禄を食む気持ちはないから,折角のご厚意ではあるが,此の儀だけはお断りしたい.」

 こんな愚直な面があったりするのですが,一方で化け猫が出ると言われる寂しい場所は一人で通れなかったとか言う人間臭い一面もあったりします.

 八丈島へは,本土からの便船の他,偶に嵐に遭った船が漂着する事もありました.

 ある時,備前岡山の船が嵐に遭って八丈島大賀郷に漂着した際,生き残りの船頭が辛うじて岸に辿り着き,偶々その近くで釣りをしている老翁を見つけて問いかけました.
 船頭の問いに何かと受け答えをしていた老翁ですが,船頭が岡山であることを聞き咎めて,次の様な問答を交わしたとか.

「今,備前の領主は誰じゃ?」
「松平備前守様でございます」
「松平?松平は関東の総称じゃ.松平では誰とも分からんわい.定紋は何じゃ?」
「鎧蝶でございます」
「ははあー,三左か.運の良い奴じゃ.」
 船頭は変わった爺さんだと思ったそうですが,後からそれが備前の前領主宇喜多秀家その人と知って大いに恐縮したそうです.

 辞世の句は,「み菩提の種や植えけんこの寺へみどりの松のあらん限りは」

 墓は八丈島大賀郷村字外稲葉墓地にあり,当初は卒塔婆型の3尺ばかりの細長い石に,南無阿弥陀仏の6文字を刻んだだけの簡素なものでしたが,元禄年間,4代秀親の時に尊光院殿秀月久福大居士と諡号し,1841年,9代秀邑の時には高さ6尺の五輪塔型の墓石に改めました.

 その八郎の木像が一族の家にありました.

 これは1698年,流罪人の仏師民部が刻んだもので,羽織を着し,帽子を被った座像でした.
 最初は菩提寺である宗福寺にありましたが,時代と共にそれが八郎の木像であることを誰も知らなくなり,文政年間に流人の畳屋源次なる者が,不受不施僧の像であろうと言う事で,寺僧から与えられました.
 源次はそれを真に受けて尊信していましたが,1841年,彼は赦免となったので,これを流僧である日蓮宗の舜教に譲り,1857年に舜教が病死した後は,日蓮大菩薩の像として,同じく日蓮宗の流僧である日寿に渡りました.
 1867年,日寿は木像の胎内に不思議な音がするのに気づき,座下の埋木を取り除いたところ,胎内に秀家の真筆と三社託宣,1681年に3代目浮田秀正が書いた秀家,秀高,秀正の和歌と三代死去年月と法名を書いた紙が出て来ました.
 日寿は驚き,さっそくこれを浮田本家に返そうとしましたが,本家では疑って受け取らなかったので,秀家次男小平次秀継の後裔である9代倉三郎秀種に贈ったそうです.

 この像を受け取った秀種がその像を守護した御陰で,浮田一族は明治維新の大赦に遇ったと言われています.
 信じるか信じないかはあなた次第…ですが.

 因みに,赦免を受けた後,1870年8月11日,浮田一類7戸,村田家(侍医の系譜)1戸とが八丈島を出帆し,14日に相模浦賀着,16日に品川入港,鉄砲洲に着岸上陸しました.
 その後は,旅館に数日投宿した後,本郷6丁目の法真寺に50数日宿泊することになります.
 そうして,板橋平尾にある加賀前田侯の外邸に1棟7戸の長屋を設えて彼等を入居させ,炊飯一般全ては前田家で面倒をみました.

 更に1873年,明治天皇が浮田一族に対し,板橋に19,900坪の宅地を賜った事から,浮田7家と村田1家はこれを分配し,正規に在住することになりました.
 この時も,前田家からは居宅安全,経済要用の為に金1,000両を贈っています.

 それにしても,260年余もこうして面倒を見るとは…豪姫の遺言が相当きつかったのかも知れませんね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/06/01 22:54


 【質問】
 戦国時代の肝付氏について教えてください.

 【回答】
 肝付氏は平安時代の伴兼行の流れを汲む,大隅の武家.
 肝付兼続の代に戦国大名として成長するが,その没後は肝付氏は次第に劣勢となり,やがて
一家臣に転落.
 ま,相手が悪かった.島津だし.

 すなわち第16代・肝付兼続は,戦国の常として,あるときは島津氏に対抗し,あるときは島津氏に近い立場をとりながら大隈半島北部を領国化し,戦国大名に成長.
 1561年,兼続は島津氏に叛き,廻城を攻撃してこれを収めると,一族の治左衛門を守将とした.
 対する島津貴久は弟の忠将,嫡男義久らとともに廻城を攻撃,兼続は伊地知重興,禰寝重長らに支援を求めた.
 こうして,肝付氏と島津氏との激戦が展開され,島津忠将は乱戦のなかで討死,
 弟の戦死を聞いた貴久の奮戦によって,兼続らはついに恒吉に退き,廻城は陥落した.
 以後,肝付氏と島津氏の抗争は繰り返されることとなる.
 よく島津氏に拮抗した兼続であったが,1566年に没し,嫡子の良兼が家督を継いだ.

 1571年7月,良兼が没すると,弟の兼亮が家督を継いだ.

 兼亮も島津氏に抗し,11月には伊地知重興・禰寝重良らとともに水軍を派して薩摩鹿児島沿岸を侵し,転じて帖佐竜ケ水を攻めたが,島津方の平田歳宗らに防がれ撤退.
 1572年2月,島津義久は兵を派して大隅廻・市成を攻め,兼亮は敗退.
 同年9月,義久は弟の歳久をもって伊地知重興の属城を攻め落とし,ついで北郷時久をもって兼亮の所領泰野を略取.
 兼亮は水軍をもって大隈小村を攻めたが島津勢に敗れ,盟友であった禰寝重良は島津方に降った.
 肝付氏は禰寝に兵を出し,浜の拵を攻め落とした.
 対する島津氏は喜入氏らが肝付氏にあたり,ついで,島津歳久,家久らが出撃,さらに義久の命を受けた北郷時久も出陣して,肝付氏を攻撃した.
 1573年,肝付氏は大軍を率いて末吉に押し寄せ,両軍は日向・大隈の境にある住吉原において激突.
 肝付勢は時久の不意打ちによって,多くの兵を失い松山城に追い込まれた.
 島津義久は肝付兼亮を討たんとして,島津以久(征久)・忠長を派し,自らも指宿へ出陣した.
 以久らは西俣で肝付氏の軍を破り,同年12月,兼亮方の大隅国牛根城の安楽兼寛が征久に攻められ,翌年1月,牛根城は落城した.
 1575年,伊地知重興が降り,ついで肝付兼亮も島津義久に帰順した.
 島津氏に降ったものの兼亮は伊東氏に誼を通じており,これを見た兼続未亡人・阿南(島津貴久の姉)は親島津氏の家臣たちと共に兼亮を追放して,その弟・兼護を立てた.

 1577年,島津義久が高原に出陣したとき,兼護も従ったが,積極的に動かなかったため,伊東氏に通じたとの疑惑を招いた.
 兼護は汚名を挽回せんとして,同年10月,一族らを率いて飫肥・南郷において伊東氏の軍と戦ったが敗れ,退いて福島に拠った.
 肝付氏の危難に際して,鎌田政近,島津以久らが救援に過駆けつけ,肝付氏の所領は高山を除いて島津氏に属することになった.
 1580年,島津氏は肝付兼護を薩摩国阿部多に移して,采地十二町を与えた.
 つまり,大名から島津氏の一家臣へとなったのである.
 1600年,関ヶ原の戦いで兼護は討死.

 その長男・兼幸は,琉球国王を江戸に連行する島津家久に同行したが,帰途,筑前国愛島で暴風雨に遭い溺死.享年19.
 肝付家は新納家からの養子を迎え,薩摩藩士として存続した.

 一方,文明年間に本宗家から追われた肝付氏庶流の兼光流は,島津忠良に通じて兼演は帖左,加治木を与えられた.
 天文十年(1541)以来,兼演らは本田薫親とともに大隅北部に島津離反の軍を起こしたが,天文十八年,島津貴久は伊集院忠朗を派して大隅加治木の兼演を攻めさせた.
 兼演らは北郷忠相を通じて貴久に降った.
 同二十三年(1554),貴久の部将祁答院良重・入来院重嗣・蒲生範清らは,貴久に背かんとして兼演の子兼盛を誘ったが,兼盛はこれに応じなかったため,範清らは加治木城を攻めた.
 これに対して貴久は,子の義久とともに兼盛を応援し範清らの軍を打ち破った.
 兼盛の子孫は,その後も島津氏に属し,江戸期には喜入領主,家格は一所持(5500石)となっていた.
 同家より小松清廉(小松帯刀)が出る.

 その他の庶流も薩摩藩士,佐土原藩士として多くが残った.

……と,ここまで長々と書いてきたが,実は戦国時代当代の記録は残っておらず,現在残っている記録は,かなりあとの江戸時代に書かれたものであって,どこまで正しいかは神のみぞ知る.

 ちなみに,

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 亡くなられた肝付兼太さんが,肝付氏の末裔という事で,肝付兼続の子孫と勘違いされてる方が多いようです.
 喜入出身ということは,加治木肝付(兼演)の末裔ですので,大隅高山城を本拠とする肝付本宗家ではありません.
 まあ,近世は喜入の肝付の方が家格は上で,小松帯刀を輩出してます.

たべのむらじ 8:00 - 2016年10月24日
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 【参考ページ】
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kimo_k.html
http://www.page.sannet.ne.jp/kuranosuke/kimotuki.html
http://kimotsuki.info/pages/know/history/post-1456.html
http://www.tarumizu.info/blog_detail/4/344/

mixi, 2016.10.26


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