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「関ヶ原ブログ」◆(2009/09/26) 石垣技法のスタンダード野面積み

『「城取り」の軍事学 築城者の視点から考える戦国の城』(西股 総生著,学研パブリッシング,2013/04/30)

『戦国の城 軍事分析 歴史群像シリーズ』(歴史群像編集部編,学研パブリッシング,2011.4)

 発売されてたので確保.

 これは戦国の堅城の後継艦ですね.
 また,各城の火力配備やら機動経路の分析に加え,樋口氏が作戦術の観点から,戦国城砦を軍事システムとして捉えて解説し始めたのが面白いです.

 もっと…軍事視点からの城郭研究って,普及しても言いように思えるんですが…
 どうしても人が限られてしまうようですね…
 城砦って,そもそも軍事的施設ですから,歴史面だけでなく,軍事面からこそ見るべき部分も多いと思うんですけどね.
 でも,軍事面から研究する人は,すさまじく少数派だって愚痴ってました…orz

――――――Lans ◆xHvvunznRc :軍事板,2011/04/24(日)
 面白いな.
 戦略,戦術レベルからのアプローチだけでなく,作戦レベルで築城について書いているのがいいね.
 『軍事の事典』で復習しながら読んでるわ.

――――――軍事板,2011/04/27(水)

 【質問】
 戦国時代の城の特徴は? 跳ね橋みたいなものは,日本の城にもあったのですか?

 【回答】
 今残っている日本の城の遺構のほとんどは,戦国末期から江戸時代にかけてのものです.
 一応,戦国日本にも落とし戸はありましたし,跳ね橋もありました.
 落とし戸は姫路城に遺構があったかもです.
 ただし,ほとんどは小さなもので,文献上でしか確認できず,戦国時代の跳ね橋で現存しているのはないかとおもいます.
 いわゆる西洋の城にあるような大きな仕掛けの物は,戦国時代の日本の工業水準からいって製作困難です.大きくて十分な荷重に耐えられる丈夫な歯車を作る技術が無かったからです.
 そのような技術が熟成してきたのは平和な江戸時代になってからであり,明治になるまで,日本の歯車技術はからくりや軽工業どまりでした.

 日本の城は小銃戦への対応を目指して創られたもので,大砲の集中運用に対しては正直,強くありませんが,日本の攻城戦で大砲の集中運用を行った例は,きわめて少数であり,ある意味では合理的に考えた結果です.

 当時日本の城を見ることができた,宣教師なんかは美しさや豪華さ,大きさや見た目から,日本の城をそれなりに評価していますが,当時の西洋軍人ではないので,純軍事的な西洋人の評価は探し出すしかないかと思います.

軍事板

▼ 余談だが,以下のコメントは,「城」に対するイメージの男女差が分かって面白い.

――――――

「女の子にとってのお城は,ドレスを着ているお姫様のイメージなのですが,男にとってのお城は,敵の侵入を防ぐ要塞という意味のものじゃないですか.
 そこの意識も違いますよね」

――――――野口美佳(ピージ・ジョン社長) in 『カンブリア宮殿』(村上龍著,日本経済新聞出版社,2007.5.25),p.203

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 戦国時代の築城技術は?


 【回答】
 一般的に城を築く場合,地選,地取,経始,普請,作事の5つの工程で以て進められます.
 地選は,城郭の位置を選定すること,地取は地選とセットで城郭内の区画決め,経始は縄張りの事で,絵図,砂図,木図を用いてプランを決め,土木工事である普請,建築工事である作事へと進んでいく訳です.
 このうち,設計段階である地選,地取,経始には呪術が深く関わり,例えば,高松城の地選には,安倍晴明の子孫である安倍有政に吉凶を占わせ,地祭をして城名を吉祥のある名に変更していますし,経始にも陰陽師,軍配者,軍師が関与し,地鎮祭を執り行っていました.

 経始は,先に北条流軍学の項でも取り上げたように,絵図,木図,土図の3種の図を作成して,城取,城郭と城下町の設計を思慮し,其処から寸町分間図と言う縮尺図を作成していきました.
 北条流軍学では,城郭と城下町の設計に使った寸町分間図は,1分が1間,6寸(60分)が1町の縮尺でした.

 甲州流軍学での縄張は,荻生徂徠の言に依れば,この様な感じでした.

 第一に縄張の大綱を決める.…甲州流では砂で模型を作り,案を練ったりして,徒に月日を過ごすのは無駄な事だとする.
 なぜなら,城取の地形は複雑で,その地形を考慮に入れない限り,そうしたものは到底適用出来ないからである.
 何れにせよ,この縄張に基づいて絵図を作成する.

 次に,その絵図に基づいてこれを土図に移す.
 つまり,現地にあたって縄が張られ,実際の寸法と形が割出される.
 かくて,本丸の坪矩(現場寸法)がまず決定される.
 不具合があれば,普請奉行に申しつけて絵図の手直しをする.

 この絵図を元にして砂で模型(砂型)を造る.
 此処で本丸,二の丸,三の丸内の建物の配置計画は勿論の事,城下の町屋,寺社の町割の大要を踏まえて算者に見積もらせる.
 かくて決定された最終的な縄張を寸町分間図に仕立てる.
 大体,北条流で書かれていたことと大差がなかったりします(まぁ,北条流も元が甲州流だし).

 また,1589年,毛利輝元が安芸吉田城から広島の地に移る時の手順は,概略以下の通りと伝えられています.

 先ず,候補地を捜します.
 この候補地は二ノ宮信濃守なる普請方と思しき人物が,「己斐の五箇ノ荘」を提案してきました.
 その提案に従って,秀吉に相談した所,黒田官兵衛孝高に見て貰えと言う事になり,官兵衛がこの地に出張ってきます.
 官兵衛は宅を相して,この地を「究竟無上ノ地」と見立て,かくて1588年11月初旬より,二ノ宮信濃守を奉行に,官兵衛の指揮を受けて,城の方位を決めました.
 この方位決めには,土圭と言う道具を使います.
 土圭は鉤形で地面に対して垂直に立てる8尺の表竿で,地面に平行にする土圭が1尺5寸,『周礼』の大司徒に土圭法として取り上げられています.
 土圭を用いて日の出と日の入りの日陰を観測し,北極星の位置を参考にして,東西南北を決めた訳です.
方位が決まると,天守の位置決めです.
 中国の古式である「右社後市」と言う手法に従って,神社を基に天守の位置を正していきます.
 こうして,草を刈り繁った蘆を刈る刈込を行って,城予定地に空間を作り上げ,匠人(工人)が鈎(鉤形に曲がった用具,則ち曲尺)と縄(測量用の縄,則ち間縄)を用いて,方角の勢覆(良し悪し)を明らかにして,高低遠近を計り頃合(位置)を決めました.

 方位が重要視されるのは,鬼門の鎮護を行う寺社の設置位置を決めなければなりませんし,天守から敵が攻めてくるのを確認出来る見通しがある(逆光状態で攻められると不可也)様にしなければならないからです.

 因みに,「右社後市」と言うのは,周代の『周礼』の「考工記」に「左祖右社面朝後市」とあり,王宮の左が宗廟,右は社稷で,前方に朝廷,後方に市場を配置計画する都城プランの理想型とされています.
 毛利輝元が広島城を築くにあたって,その天守位置決めには,輝元が崇敬していた安芸宮島厳島神社の御神体山である弥山を見立山(新山)から視軸に見通す位置に天守を決めました.
 この構成は,天守位置に南面して立てば,「右社」の方位に当り,最も尊崇する厳島神社の弥山を基準にして城郭や城下町設計の中心天守の位置を決めたと考えられます.

 その黒田官兵衛孝高は,1587年に秀吉から豊前6郡を与えられて入封後,山国川に面する丸山の地を求菩提山の僧玄海法印をして適地と見て縄張して,1588年正月に玄海法印が地鎮祭を執行し,築城工事を開始しました.
 後の中津城ですが,官兵衛は,自分の城であること,又秀吉の軍師としての矜恃からも,雄大な城郭を構築したいと考えていた様ですが,1600年に筑前に転封されてしまったので,城は「嵩上げばかりにて土手に松など植えられていた」と言う状態でした.

 この地は黒田家の後,細川家に与えられ,1602年の小倉城築城後は,嫡子忠利が中津に残りました.
 1604年,忠興は剃髪して三齋と号し,6万石の隠居所として忠利と入れ替わりに中津に入り,以後,中津の整備に燃えて1607年9月に中津城を再構築しました.
 彼は,官兵衛が構築した本丸と二の丸の間の堀を埋めて一体化して本丸とし,天守台をも総地形ほどに取壊し,土塁を改め石垣とし,更に櫓楼を要所に起こし,三の丸を新設して町割を制定し,城下町を包囲する外郭を築造しました.

 この中津城,黒田氏の時代も,細川氏の時代も,天守はありませんでしたが,両方の絵図には二重櫓や主櫓が描かれていました.

 この場所には現在,奥平家の模擬天守が建てられていますが,この場所から冬至の旭日の上る方向には宇佐神宮があります.
 宇佐神宮と言えば,武神である八幡神の総本山です.
 冬至崇拝と八幡信仰が重なって,この冬至の旭日を拝しうる位置に主櫓を置いたと考えられます.
 また,冬至の旭日の方位は,古くから辰巳信仰として,生産霊が坐すと信じられていました.

 さて,その逆方向と言うか,この宇佐神宮から主櫓方向に延びる直線を其の儘延長させると,それは菅原道真が九州に上陸した地とされる古社,綱敷天満宮に突き当たります.
 この位置は夏至の落日の方位に当り,この方位は穀霊神信仰,又,祖霊・地霊が坐すとして戌亥信仰が盛んであった事から,宇佐八幡宮-主櫓-綱敷天満宮は,一直線で視軸を構成しており,それは祥瑞思想に基づく巽乾軸と言えます.

 一方,冬至の落日方向には何があったかと言えば,これまた北部九州の修験の山,英彦山があり,英彦山神宮があります.
 この方位には藩主の祈祷所で修験の山,求菩提山があり,細川氏の後に中津に入った奥平氏の菩提寺,自性寺を後世に置く事になった方向でもあります.
 冬至の落日は裏鬼門基軸と考えられています.

 則ち,官兵衛も忠興も,冬至・夏至の旭日と落日の祥瑞ラインと,鬼門・裏鬼門ラインのクロスする位置に主櫓を設置した訳です.

 天守の位置関係はこうした大きなランドマークから見て取れたりするのですが,城郭の方は,それより少し小さめのランドマークでのクロス軸から展開されます.
 主櫓から見て,南東方向にある古社である薦八幡宮は直線で結ぶ事が出来ます.
 主櫓からその線を北西方向に延長すると,これまた古事記伝に出て来るような古社である古表八幡宮に行き当たります.
 此処で真方位を11度ほど時計回りに回転した見立方位で見ると,薦八幡宮-古表八幡宮は見立の南北方向とは45度の関係にあり,巽乾軸となります.
 それと直交した方位が鬼門・裏鬼門軸になるわけですが,忠興はこの鬼門除けに日霊神社本殿を主櫓に向けて創建し,更にその先には官兵衛が中津に入る以前からある古社,闇無濱神社本殿が設置されており,この2つの神社が鬼門を守る守護神としていました.
 逆に裏鬼門方向には,奥平氏が,その菩提寺である自性寺本堂を転封時に設置し,更にそれを延長していくと,修験の霊山である求菩提山犬ヶ岳に向かい,意図的な山当ての構図を見て取れます.
 他の櫓も同じ様に古社古刹と視軸との関係で形作られたと考えられます.

 街路については,中津川の河岸地形を利用して,それを斜辺とした曲尺を参考にした様な60間モジュールの1:√2:√3の三角形を等倍していった形で構成されており,官兵衛の町割は主櫓を中心として造られ,忠興の方はそれとは別の視座から同じ様な三角形で構成していっています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/11/19 22:14

 織田信長の安土城建設に先駆けて建設された羽柴秀吉の長浜城の都市政策と設計・建設は,その後の織豊政権,また初期の徳川幕府の城下町建設に強い影響を与えています.
 長浜は,近世城下町の典型的な空間構成理念を実現しており,建設に際しては元八幡町(現在の朝日町)に鎮座した八幡宮を城下外に移転して,琵琶湖に臨む城郭と武家地を二重の堀割で画然と隔て,移転した八幡宮から大手門に向かう大手町並びに天守からの「お見通し」になっていた本町を基軸にして長方形街区を以て整然と町割が行われています.

 また,長浜城天守は,夏至の旭日に近い修験の山,伊吹山と,冬至の落日に近いこれまた修験の山,大悲山の見通しの軸上にあったりします.
 更に長浜城天守から見て,夏至の落日の方位には,竹生島の宝厳寺がありますが,宝厳寺は水神の浅井姫命が鎮座し,浅井氏が手厚く保護したのですが,秀吉は長浜城建設の1574年1月にはその準備の為,宝厳寺に浅井長政が預けていた材木の引渡の書状を発しています.

 則ち,長浜城天守の設定は,夏至の落日方位に宝厳寺があり,逆方向の冬至の旭日方位にはずっと延長して熱田神宮に届く線と,修験者の霊峰である伊吹山と大悲山を結ぶ線とのクロス位置にあり,尚かつ,長浜城と大悲山を結ぶ線を底辺とした1:√2:√3の三角形を展開すると,建部大社に行き当たり,建部大社からずっと延長して長浜城を通り,更に北東へ線を延長すると,長浜城と伊吹山を結ぶ線を底辺とした三角形の一方の頂点に達すると言う複雑な手法で創り出されています.
 こうした複雑な手法での天守位置の設定は,黒田官兵衛の中津や堀尾吉晴の松江城を含め,織豊系の城下町にも幾つか見られるもので,1576年に織田信長の築いた安土城,1578年に津田信澄の築いた大溝城,1585年に豊臣秀次が築いた近江八幡城,1586年に浅野長吉が築いた大津城などにも影響が見られます.

 藤堂高虎と言えば,二股膏薬の代名詞みたいに言われる戦国大名ですが,一方で趣味,城造りと呼ばれる様な感じの人でもありました.
 1594年に宇和島に封ぜられてから,今治や大洲,伊賀上野,津など転封された先々で城を築き,更に徳川家康の要請で,篠山城の縄張も行っています.

 高虎は1594年に伊予国内宇和8万石に封ぜられますが,その領内を彼方此方歩き回り,20カ所の城跡を検分した結果,1596年に板島に城を築く事にし,1601年頃まで堀や石垣を築いて,天守や櫓,門を建設しました.
 この地は西側に海が開け,水軍の基地にするには都合が良く,加えて北,東,南に城下町を建設するのに十分な広さがあったからです.
 城下町は,東部に辰野川,南部に神田川を外堀として整備され,1604年に竣工しました.
 城自体は高さ73mの城山に築かれた平山城ですが,外郭平面形態は不等辺五角形であり,これを「空角の経始(あきかくのなわ)」と称して,一大特徴となっています.
 因みに,後に幕府の隠密が潜入して,この地を探り,報告書を提出したのですが,その時,隠密は四角形と誤認している程の巧妙な形だったそうです.

 天守の選定では,秀吉と同じく,権現山山高神社と天満神社を結ぶ直線と,天神と坂下津三島神社を結ぶ直線との交点に配しています.
 また不等辺五角形の採用は,軍略上の要点として天守と主要な門との間は全て視軸上に置くと言う観点で,仮想敵の進軍を陸側から(海側は圧倒的な水軍により制海権は握れると判断した)設定し,陸方向への視軸が重視され,海側の辺には視軸が少なくなっています.
 一方で,この不等辺五角形は陰陽五行に基づくものと考えられます.
 五角形の5つの隅の内,北より19度東に振った線上には黒門・黒門櫓があり,この黒門の「黒」は陰陽五行に当て嵌めると「水」(黒・北)です.
 その延長線上には藤堂高虎他歴代当主が崇敬する伊吹八幡神社があり,それを更に延長すると大三島大山祇神社に至ります.
 この軸と直交するのが,「木」(青・東)であり,その延長線上に藤堂家の後に宇和島に入った伊達秀宗の代になって,宇和島伊達家菩提寺等覚寺が建立されました.
 次の角は「火」(赤・南)で,この線上に一宮と呼ばれた宇和津彦神社があったとされています.
 次の角が「土」(黄・中)で,その延長上に歴代当主敬神の三島神社があり,最後は「金」(白・西)で,延長上に住吉社があったと言われています.
 この様に,城地の形成については,陰陽五行説の五行相剋図を当て嵌めた構図が成立するとされ,万一籠城する羽目に陥った場合でも,城兵を精神的に鼓舞する策を講じていた訳です.

 1600年になると,高虎は関ヶ原の戦で福島正則と共に,東軍の先頭に陣取り,その戦功で宇和8万石から一挙に加増されて,伊予半国20万石に封ぜられます.
 高虎は宇和島城を出て,河野氏の国分城に入城しますが,これを即座に撤収して,新たに海沿いに約39町北方の蒼社川左岸の「今張」と呼ばれていた遠浅の海岸を城地に決めて城普請を始めました.

 高虎の狙いとしては,瀬戸内海交通の要衝である来島海峡を挟んで対岸の大島に睨みを効かせ,芸予諸島近海の制海権を握る事にありました.
 1602年6月に,「今張」を「今治」と改め,大山祇神社の本殿と拝殿を補修し,無事完成を祈願して新城建設工事を開始しました.
 この城の縄張は増田長盛の旧臣で新規召し抱えの渡辺官兵衛了が,普請奉行は木山六之丞が努めました.

 1604年9月に城は完成します.
 この今治城は平城で,高さ8間の天守台の上に5層5重の天守が築かれ,本丸東方には城主の居館を持つ二の丸を置き,幅30間の内堀で囲み,その外には上級武家屋敷が構えられ,更に幅20間の中堀で囲み,外側に下級武家屋敷を置いて幅8間の辰ノ口堀・外堀で囲い込んでいます.
 何れの堀にも海水を引入れ,中堀の海側には広い船溜りを置きました.

 本丸には天守を含めて櫓数4,二の丸・三の丸は櫓数3で東門を大手とし,その外には海に面して12の櫓が設けられて北門を搦手とし,城門を9カ所に配しています.
 総櫓数19のうち,海に面しているのが12箇所,城門の内,本丸より海側に配置されているのは西門以外の8カ所となっているのは来島海峡を睨んでの事で,宇和島とは仮想敵の進軍方向が全く違います.
 これは,万一,徳川家討伐を叫んで西から東上する軍勢が来た場合,対岸の来島城と今治城で挟み込み,制海権を握ろうとする高虎と家康の戦略がありました.

 で,この今治城の天守の位置は,真北に産土神で伊予国の総社,一ノ宮である三島大山祇神社があり,真南には須賀神社があり,両社で北辰軸を構成する配置でした.
 一方,大濱八幡神社と最初にこの地に封ぜられた高虎が入った時の居城国分山城とを結ぶ視軸があり,更に大濱八幡神社を延長すると来島城に達する海峡軸となります.
 この海峡軸には,天守の他,三の丸北門,辰ノ口,衣干八幡神社など城下町の主要な施設を通る視軸でもありました.

 縄張については主流だった円形の縄張をせず,又,宇和島とも違って,今治の場合は方形の「方郭の経始(かくのなわ)」で設計しています.
 この方形の郭は,死角が出来る欠点を見抜き,「歪」つまり軍学上の「邪」「斜」「横矢」の工夫を入れていました.
 「歪」とは,石垣の一部を張り出し,屈曲を付けて横矢などの側防効果を狙ったものです.
 方形であれば,石垣や城壁を一直線上にして,火砲を幾重にも配置して一斉射撃の反復による敵の撃滅を狙う事が出来る訳で,取分け,火砲による敵との戦闘を重視した縄張だった事が言えます.
 更に今治には「御船手」と言う水軍基地が設けられており,今治城は徹底した対水上戦の城だった事が判ります.

 で,紙数が尽きたので,篠山と伊賀上野城は又明日.
 しかし,高虎と言う人,楽しんで城の縄張をしていたような気がしますね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/11/23 21:34

 家康が江戸に幕府を開き,秀忠に跡を継がせると,徳川家の支配は盤石のものとなり,大坂の豊臣家は既に存在意義を失っていました.
 そして,家康が死ぬ前に後顧の憂いを取っておこうと,動いたのが大坂冬の陣であり夏の陣です.

 幾ら兵力量に勝っているとは言え,豊臣恩顧の大名や伊達家や上杉家,毛利家,島津家,鍋島家,前田家,佐竹家と言った外様の有力大名の寄せ集めでは,万一の事もあり,又,大坂に集まった浪人達の動向も予断を許さないので,家康は各地に大坂包囲用の城を築かせました.
 西には女婿の池田輝政により姫路城を修築し,南は浅野幸長の和歌山城を修築し(これも元はと言えば羽柴秀長の為に高虎が縄張をしたものと言われている),京都防備用には伏見城(余談ながら,昔あった桃山城遊園地の初代営業部長だった人の奥さんが木下勝俊家の出だそうで)と,それぞれ防備を固めて,大坂方の侵攻に備えていましたが,北部と東部には防備用の城が無く,ポッカリと空白が空いていました.

 其処で,東部には今治から伊賀に転封してきた藤堂高虎により伊賀上野城の建設が行われ,北部は豊臣系と目されていた丹波八上5万石の前田茂勝(前田玄以の息子)が1608年に発狂して,多数の家臣を斬殺して改易されると言う事件が起き,その後に常陸笠間から家康の実子である松平康重が5万60石で転封して来て,これで北部の抑えが出来ました.

 しかし,八上城は近世の城に適さないとして,新たに城を建設する事になり,地選を行います.
 候補地は,八上城西北の王地山,篠山,飛ノ山の3カ所で,地形の高低を示した模型絵図を作成し,清洲城に居た家康に説明した所,篠山に即決しました.
 この篠山の地は,「指針相応の規則に叶い陰陽の原理」に則していたからとされています.
 これは後で理由を述べるとして….

 家康は普請奉行として女婿の池田三左衛門輝政を,縄張奉行に藤堂高虎を,普請奉行に幕府から石川左衛門重次,内藤金左衛門忠清を命じ,目付役に家康側近の松平大隅守重勝を命じ,15カ国20大名家による天下普請で1609年3月に着工(鋤初め)を行い,10月初旬に奉行衆と諸国大名が帰国,12月26日に松平康重の新城入城が行われると言う突貫工事が行われ,その普請は縄張奉行高虎の家臣渡辺官兵衛了の指揮の下に総勢8万人に及ぶ労力と財力を投じた工事でした.

 篠山城は比高15mの平山城で,縄張は今治で高虎が行った方形を基調としたものであり,天守台,本丸,二の丸が梯郭式,三の丸はそれを囲んで輪郭式となっています.
 三の丸の大手(北),東,南の3門は土橋で外堀を渡り,それぞれに角馬出が付くのが特色で,二の丸の高石垣の裾に広い犬走があったのも特徴的でした.

 城下町は1610年正月から家老岡田内匠重綱を地割奉行として,最初に八上城下にあった尊宝寺,来迎寺,誓願寺,真福寺,観音寺,妙福寺を鬼門などの重要な地点に移築し,町人町を立町,呉服町,二階町,魚屋町を形成して,その後,西町,河原町へと続けて八上城下から移したものです.

 天守台は内堀より10間の石垣を積み,南北10間2尺,東西9間2尺で5層の天守を築くに見合う土台が築かれましたが,本多佐渡守正信の意見により天守は築かれず,単層隅櫓と塀だけが造られたに過ぎませんでした.

 その天守の位置は,清洲城にて1609年1月25日から2月4日に名古屋城城地を相したのと同時に行われたもので,その地選は,伊賀上野城と軌を一にしており,三輪山から日吉大社を基軸にした南北軸(北辰軸)を境に,日吉大社を頂点として底辺を西に延ばし,南北軸途中の若草山を頂点とした斜辺として大三角形を築いた頂点に篠山城の地が選ばれ,南北軸途中の山城国分寺をから水平に延ばした頂点に底辺を延ばし,日吉大社を頂点にした斜辺との交点に伊賀上野城が設置されています.
 その南北軸の始点と終点,則ち三輪山から東に線を水平に延ばすと共に,日吉大社から斜辺を南東に延ばすとその交点の位置には伊勢神宮にぶち当たり,これまた大三角形が形成されるという寸法です.
 因みに,篠山城の緯度は北緯35度04分12秒,日吉神社の緯度も北緯35度04分12秒と全く同じであるのに驚かされます.

 日吉大社は,天台宗比叡山延暦寺の守護神山王権現を祀り,この山王権現は『延暦寺護国縁起』によれば667年に天智天皇が大津京に遷都した翌年に王権の象徴として「三輪山の神を移して」山王権現として勧請したとあり,このことから,南北軸は北辰軸として考えられた事が判り,伊勢神宮の天照大神は,大神神社の『三輪大明神縁起』によれば,三輪山の神を移したものとされ,三輪山と結ぶ事で,東西軸(太陽軸)を構成したと考えられていたようです.
 因みに,家康薨去後の久能山への葬送,その後の家康の遺言と称した日光への遷座を目論んだのは天海僧正であり,その実現に奔走したのが高虎と考えると,こうした考えにも天海の影がちらつく訳で….
 序でにこの時期,家康は天海に比叡山東塔南光坊への在位を命じています.
 それだけに,久能山と日光東照宮の話も結構呪術的だったりする訳で.

 で,その伊賀上野城ですが,家康は筒井定次を改易して1608年に伊予今治から高虎を伊賀に移し,伊勢と合せて22万石を領しました.
 伊賀上野の地は,筒井定次が平楽寺,薬師寺の旧地を削平して大規模な城郭を築いていましたが,高虎は1611年1月から上野と津城の大改修を開始します.
 上野では,古城の西尾根を削平して本丸を広げ,天主をこれに移して堀を掘り,重厚な高石垣を築きまました.
 一切の縄張は高虎自身で行い,高石垣の普請は服部左京,渡辺掃部などの石垣造り巧者を,天主の作事は粉川以来の次郎三郎,伊予より随従の助五郎,九十郎に加えて伊賀の棟梁小町田仁助,荒木村兵衛を起用すると言う自身の築城の集大成とも言えるものでしたが,天守は1612年9月に台風で倒壊してしまいました.

 天守はその後再建されることなく,大坂夏の陣で豊臣家が滅亡すると,豊臣討滅作戦基地としての機能も消滅し,元和偃武の下に武家諸法度を敷いて城郭の普請を禁止した手前,要塞としての機能は無くなり,又,高虎自身も32万石に加増されて津城に移ったので,伊賀上野は城代家老の治める土地となります.

 この伊賀上野城は不思議な事に,軍学者が説く「天守の十徳」を満たす条件の1つ,天守が展望の良い本丸の最高所に置かれていません.
 本丸の東側には一段と高い筒井の旧本丸があって,東方への視界を遮り,十徳の条件から外れてしまっています.
 この原因には諸説在りますが,天守完成後,東大手の作事小屋へ引平一面に多聞櫓を立地する計画があり,その計画が未完成の侭,大坂城が落城してしまい,元和偃武により普請が中止されたと言う説が妥当とされています.

 天守台の位置は,大所から見れば,日吉と山城旧国分寺から引いた直角三角形の交点にあるのですが,一方では冬至の旭日位置に国分寺金堂跡があり,夏至の旭日位置には伊賀国の一ノ宮である敢国神社が,冬至の落日位置には城代家老となった藤堂采女家の歴代墓所となった天台宗の名刹西蓮寺があります.
 つまり,夏至旭日~冬至落日の鬼門・裏鬼門ラインと,冬至旭日~夏至落日の巽乾軸ラインの交点に天守台が設置されている訳です.

 う~みゅ,両者の防備についてもう少し突っ込んで書こうと思ったが,時間がねぇ.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/11/24 21:57

 さて,昨日も触れた篠山城ですが,高虎にとって宇和島城,今治城に続く,今度は陸の平城とも言うべき作品です.
 篠山城の特徴をお復習いすると,縄張は輪郭式で本丸と二の丸が今治城に用いた方形の「方郭の経始」を基本的に踏襲し,方形の本丸の南東隅に長方形の天守郭を配し,本丸の周囲に大きな二の丸を配置して,二の丸の北と北東,南西の3つの虎口に内側に入り枡形,外側前面に長方形の角馬出を備えるシンプルな形態でした.

 とは言え,単純な方形の本丸と二の丸の東北隅が鬼門である為,欠き込みを造って単調な縄張に変化を与え,本丸の大手側(北側)には鬼門の欠き込みに加えて「歪」に富んでおり,火網を此処へ集中する意図を読み取れます.

 本丸と二の丸の周囲には広大な堀があり,堀を渡る橋は本丸へは廊下橋になっており,二の丸へ入る橋には全て胸垣と言うべき土塀が付いており,側防と共に秘匿の意図が見え隠れしています.

 二の丸の単調に見える土居の上には胸垣状練塀が4周に作られ,その各辺に5つの「屏風折り」が設えてありました.
 また,南馬出にも2つの「屏風折り」があります.
 これらの「屏風折り」は,石垣がない土居の上の練塀に特定して使われ,攻撃側が土塀に取付く兵士を鉄炮で撃退するのを目的としたものでした.

 この城の弱点を挙げるとすれば,本丸周囲の犬走りが帯曲輪のような広さになっていることです.
 本丸の石垣の下に広い犬走りがあるのは本来余り好ましい事ではないのですが,石垣を軟弱な地盤に築く際の基礎としては止むを得ない仕儀だったと考えられています.

 この様に,高虎の縄張した篠山城は,守り手側が鉄炮を縦横に駆使した火砲戦を行い,攻城側を射竦めるのを目的とした城だったと言え,これまでの守勢防御の城の常識を超越したものと言えます.
 歴史に「もし」はありませんが,もし,大坂の七手将が攻めてきたとしても容易に攻略出来る城ではありません.

 また,天守台からの視軸としては,城郭の主要な城門,3つの出丸門,主要な櫓は全部天守から見通せるようになっており,天守を司令部として,全体の統制が取れる様に成っていると共に,城下町の主要な街道である京都との出入口である京口,大坂との街道の出入口である石山口を始め,これらを防備する番所や木戸門も天守台からの視軸で構成されていました.

 勿論,籠城兵の士気に対する配慮として,天守の真北にある宮山に,地域の氏神として鎮座していた春日大明神を置き,堀割や街路線引きの基軸として活用したほか,鬼門除けとして来迎寺,尊宝寺を八上城下から移転して設置し,その延長に若宮八幡宮を鎮座させ,裏鬼門除けとしては,光専寺を置いて万全を期しています.

 一方,伊賀上野城は井伊家の彦根城と共に,大坂城に対する境目の城としての役割を持つべく築城されたものです.
 こうした境目の城は,「陰陽和合之縄」と言う方式で,攻勢防御(陽の縄張)と守勢防御(陰の縄張)に良穂に対応出来る縄張で造られるものであり,本丸と二の丸は小さく堅固に造り,三の丸は大きく構築する様に成っていました.
 つまり,防御の際には小さな本丸と二の丸に籠城して守り抜き,守兵が大勢の場合は三の丸を中心に守り,気を見て攻勢に転じると言うものです.

 伊賀上野城は,二の丸と言われている所が実は三の丸で,この三の丸は極端に大きくできています.
 そして,大手門は西大手と東大手の2つがあり,守勢から攻勢に転じる際に,城兵の突撃を容易にする為に設けられたもので,更に筒井氏が造った縄張の時代には大手であった北の虎口を搦め手として,南の搦め手を大手に逆さまに変更して軍事本意の城郭として縄張されています.

 実際には大坂の落城が早かった為に,伊賀上野城は未完成で終わってしまい,筒井氏が築いた本丸御殿や城門を除き,本丸には櫓も城門も造られる事はありませんでした.
 又,本丸の西部高石垣を除けば,城門・石垣の構えは非常に簡素で,正に戦闘専用の城でした.
 一方で,二の丸の土居の上には,2層櫓が2棟,単層櫓が8棟建ち,枡形を持った東西両大手が建てられるなど,本丸に比べると可成り重厚な設備が備えられています.
 本来,天守台には5層の天守が建てられていましたが,1612年9月の台風で倒壊し,以後は天守の建設はありませんでした.

 伊賀上野城は,広大な三の丸の周囲に土居と塀を巡らせ,東西の大手門に10の櫓をその土居の上に建設しており,正に先述の「陰陽和合之縄」を忠実に守った城である訳です.
 勿論,視軸は天守を基点にして設計されており,櫓や城門の配置状況や城下町の要所を見通す事で,効果的な指揮命令が出来ると言う目的に徹した城と言えるでしょう.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/11/25 22:10

 1615年,豊臣家が滅亡し,日本から漸く戦火は絶えます.
 そうなると,城は攻撃又は防御の要塞としての機能を減じていきます.
 とは言え,外様大名に対する要地防御としての機能を持つ城は未だ必要とされました.

 例えば,1617年,明石に転封した小笠原忠真は,当初,明石西方にあった船上城に入城しました.
 しかし,一国一城令により船上城は破却され,陣屋に近いものになっていました.
 1618年3月,将軍秀忠は,忠真に対し,譜代大名で且つ小笠原10万石の格式に相応しい居城を建設するように,築城命令を下しました.
 城郭の資材は,伏見城,三木城,船上城の遺財を使って構築され,坤櫓は伏見城,巽櫓は船上城のもの流用しています.
 普請は1619年正月から,作事は1620年4月から始められ,10月に完成すると忠真は明石城に入りました.
 しかし,1632年忠真は豊前小倉に転封し,譜代大名の居城として,本多,松平,大久保,松平,本多の5家が相次いで入城し,1682年2月,本多政利が陸奥岩瀬に転封して,5月に松平直明が6万石で入城し,漸く定着しましたが,城は1739年に早くも大修築が行われました.
 と言うのも,安く上げる為か,流用材を多く用いていたのが裏目に出,彼方此方が老朽化したからと言われています.

 明石城の建設は,将軍秀忠の肝煎りで行われました.
 地選は,本多忠政を派遣し,領内を巡視させて戦略上の拠点を幾つか選択させ,築城の縄張案の報告を求めました.
 候補地は塩屋,和坂,人丸山(赤松山)の3カ所でした.
 この中から選ばれたのが,六甲山系の台地の西端に位置し,台地の南側には絶壁が形成され,西側には明石川,北側には伊川が流れており,台地の崖下から狭いながらも平地が広がり,明石海峡を前面に臨む堅固な自然の要害となっていた人丸山でした.

 1618年10月,将軍秀忠は都筑為政,村上吉正,建部長政等を築城奉行とし,縄張は軍学者志多羅将監に,工事全体を本多忠政に命じ,作事奉行には小堀遠州を任用しました.
 因みに,町割にはあの剣豪宮本武蔵を起用したと言われています.
 明石城は連郭梯郭混合式の平山城で,本丸を中心に配し,東側に二の丸,その東に東の丸が配され,南側に三の丸,西側には稲荷郭が設けられました.
 これだけ壮大な規模だったのですが,本丸に天守台が築かれたものの,天守は築かれず,四隅に巽櫓,坤櫓,乾櫓,艮櫓が建設されたに止まりました.

 この城の役割としては,西国の外様大名が反旗を翻した場合,防御の第一線には姫路城を充て,第二線と姫路城に対する兵站補給基地としての役割を果たす城となるべき位置にあります.
 この為,堅固な城にする必要があり,更に補給と封鎖に便利なよう,西国街道を付け直して城下町の中に引き込み,戦闘が勃発すれば,直ぐに封鎖出来るようになっています.

 当時は,武家諸法度の制定や一国一城令の制定など,江戸幕府の安定化の為にも,城郭管理政策の仕上げが行われた時期でした.
 その中で,例外的に外様大名の旧地に譜代大名が配属された明石,福山,尼崎は例外的な措置になっています.
 それだけ,これらの地を要地と見ていた訳で,これらの城を築く為に,幕府の関与も積極的に行われ,資金の融通,奉行の派遣,資材の転用などの優遇措置が採られました.
 この時期の新城建設は,「公儀の為の城普請」であり,大名家当主と雖も,その城は,自ら統治する為の城ではなく,公儀が建設した城を預かる性格が強くなっていきます.

 当然,その建設には公儀の意志が強く働いている訳で,天守の代役としては天守台の側にある坤櫓を設定しています.

 その視軸は天守台から見ると,本丸,二の丸,東の丸,西の丸の櫓や門に限定,則ち,公儀からの預かりの空間に限定した形で構成されており,城下町全体を見渡す様な城ではありません.
 坤櫓からの視軸は土と堀から侍町への入口及び三の丸への城門,本丸,二の丸の主要門・櫓との視軸関係が生まれ,こちらは軍事的機能を果たしているように見えますが,西方に偏った視軸構成であり,東方の軍事施設を補っているのが巽櫓であり,双方の櫓でやっと天守の役割を果たしているものになっています.

 どちらかと言えば,平時への転換にシフトしてきていると言えます.

 もう一つの例として,赤穂城を挙げてみます.

 赤穂と言えば忠臣蔵の話で有名ですが,城明渡しの場面で,籠城か開門かを巡り大議論をするところがあります.
 この地には,1600年池田輝政が姫路に入封後,末弟長政を配しました.
 1603年,長政が備前下津井に転封すると,赤穂郡代垂水半左衛門が治めますが,輝政の死後,1631年に輝興が赤穂池田家を再立藩し,再び当主を頭に頂く地になりました.
 しかし,輝興は発狂し改易,1645年に常陸笠間から家康の妹の孫で名君の誉れ高い浅野長直が転封してきました.

 1646年,長直は甲州流軍学を修めた軍学師範の近藤正純を総奉行に命じて縄張を行わせるなど築城の準備を進めました.
 設計図が出来上がると1648年6月11日に絵図を添えて幕府に伺いを立て,17日に早くも許可が下り,11月15日に地鎮祭を執り行い,縄張工事を2ヶ月掛けて行った後,1649年正月2日に吉日を卜して根石置きとして本丸東北隅櫓の石垣を築き始め,1661年に完成します.

 その間,長直は1650年に,小幡景憲と北条氏長の斡旋推挙で養子長澄と共に山鹿素行の門人となる誓詞を提出し,兵法を学び始めました.
 山鹿素行は,1636年に小幡門四哲の1人だった北条氏長の弟子となり,1642年に奥義を伝授された軍学者です.
 因みに,当時,幕府の命令で二本松城を築いていた丹羽光重も山鹿素行の門下に入っており,幕府としても新進気鋭の軍学者の理論を実際の城造りに役立てようとしていたと考えられます.

 そして素行は,1652年,長直に招聘されて1,000石を与えられ,赤穂に赴き,1653年10月15日から1654年5月上旬まで赤穂に滞在し,二の丸周辺(虎口)と三の丸の縄張の一部を変更しました.
 北条流や山鹿流には「方円の縄」と言う考えがあり,本丸は四角で構成されていますが,二の丸は円形に近い形をしている事からも,二の丸は山鹿流を取入れた事が判ります.

 当然,天守台は築かれたものの,天守は築かれず,かと言って,天守台からの視軸も肝心の大手門や二の丸門,塩屋門と言った主要門への目配りが出来ていません.
 その代わり,本丸南隅にある南隅櫓台がその天守の代わりを為し,実は天守台よりも重要な機能を持つ建築物だったのです.
 この南隅櫓台からは城と城下町を結ぶ主要な大手門,二の丸門,本丸門,清水門や天守台を見通し,城下町と街道を結ぶ姫路・龍野からの東惣門枡形,備前岡山からの西惣門を見通す視軸もありました.
 天守台の高さは4間半,南隅櫓堀水際まで高さ4間半であり,全く天守台と同じ高さであることが判ります.
 因みに,東北隅二階櫓の石垣の高さは3間4尺でそのほかもこれと同じ高さなので,当初から天守を建てる気はさらさらなく,南櫓を天守代用とするのが明白だったのですが,何故か南隅櫓は建てられませんでした.

 浅野時代の赤穂城下町は池田時代の城下町を拡張整備し,池田時代の侍屋敷を北,西,南に拡張して東惣門の南には浅野家舟入,清水門の東には御蔵屋敷が設けられ,町の北部の要所には花岳寺を始め10ヵ寺ほどが置かれ,城の出丸的意味を持っていました.
 この寺の内,随鴎寺,遠林寺は水軍の屯所,常清寺は東惣門の為の屯所,普門寺,妙慶寺は姫路街道の守り,高光寺,長安寺,福泉寺は北の抑えで,花岳寺は浅野家の菩提寺としての機能の他,横町の屈曲部の守りとして配置されています.

 城下町の北東,北西の惣門は枡形として城の外構えとし,姫路街道から天守に向かう街路を一部西に移動させ,城へ向かう道をT字形,鉤形の交差に造り,城郭への直進進入を阻むと共に,遠見が出来ない造りとし,侍屋敷の区画は南北に長く町屋が東西に長くなっていて,城下町の町割自体を防御の手段として使用するプランで,これは甲州流軍学に忠実に造られた城でした.

 因みに,山鹿素行の『武教全書』に書かれた城の地選条件に赤穂を当て嵌めると,南一面は海に開け,三方は山に囲まれ,南北に長く千種川が延びており,東に千種川,南は瀬戸内海,西が備前街道,北は山崎山から雄鷹台,黒鉄山などの山々が連なる四神相応の土地となっており,素行の地選条件に忠実に造られた城地だったりします.

 もし,南隅櫓が建てられていれば,もしかしたら,吉良邸討入りはなく,華々しく一合戦して大石内蔵助以下の家臣は散ったかも知れません…それは凄惨な事になったかも知れませんが.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/11/27 22:48


 【質問】
 鯱(しゃちほこ)は何のために天守閣にとりつけられているの?

 【回答】
 火事よけのおまじないの意味を含ませた装飾として.
 その大きな口から「水を吐く」という言い伝えがあり,戦難火災から護ることを祈願して天守閣に飾られるようになったらしい.
 寺院堂塔内にある厨子等を飾っていた鴟尾(しび)がルーツで,織田信長が安土城天守閣の装飾に取り入れたことで普及したといわれている.

 【参考ページ】
http://homepage3.nifty.com/~bbf/31tour.html
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Labo/9156/REKISI/shatihoko.html
http://www.museum.or.jp/nagoyajo/menu02.html
http://www.fujimura-art.com/wp/?p=1075
http://blog.sensya.com/manyu/index.php?ID=111

【ぐんじさんぎょう】,2009/4/10 22:30

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Labo/9156/REKISI/shatihoko.html
>元々の弘前城天守閣は5層の大きなものであったが,
>火事を鎮めるはずの鯱に落雷して焼失した.

 (;´д`)エェェェェェェェェ

フナムシ 2009年04月09日 02:26

 イタリアでしたっけ.
 教会に火薬を備蓄しといたら,天辺の十字架に落雷して大爆発ってのは.

ゆきかぜまる 2009年04月10日 00:38

 付けるようになったのは,安土城を作った岡部又右衛門がもともと宮大工だったからかも.

味噌グラム in mixi,2009年04月12日 10:26

 実は取り外しが出来る大砲だったりします.

割れ煎 in mixi,2009年04月11日 16:06

しゃちほこ
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 戦国時代の山城が廃れた理由は何ですか?
 篭城に徹するのなら平城よりも守り易く,攻め難く,それに山菜とかの食料も調達し易いと思うのですが?

 【回答】
 山城は攻めにくいのであって,「篭城」はちょっと微妙だ.
 山菜なんて食べつくすし,土壁の藁も食べるまでいく・・・
 それでも包囲され続けたら・・・.
 おまけに「水」を集めるのが大変だった.

 でもって山深い城ほど,「防御」はいいけれど.統治としては不便極まりない.

 鉄砲が登場してからは,平山城でも十分防衛可能になっちまった.
 山深くなくても平野の丘を使えるし平野があれば町も整備できる.

 まぁ,山城は最後まで使われてはいたよ.
 「本拠地」みたいな使われ方として「廃れた」が正しいかな.

 江戸になって役目を完全に終わらされた.

軍事板,2009/06/12(金)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 山頂ぽい城の井戸って,そんなに水が出るのかね?

 【回答】
 山登ったことないのか?
 山頂付近に井戸のある山なんていくらでもある.
 特に,近くに高山があれば大抵は湧出する.
 たとえば海ノ口城は,八ヶ岳の麓.

日本史板

 学研歴史群像シリーズの「戦国の堅城」によると,山頂部で井戸の水脈を探すスポットとして
・谷のでき始めの窪み
・屋根上の鞍部(二つの峰を結んだ稜線上の凹所)
などは水がでる可能性があるそうです.
 しかし,堀を掘った時などに地下水の水脈が切断される事もあり,雨水を溜める溜め井を作ったり,下った所に水の手を見つけて通路などを確保するなどの工夫が為されたそうです.
(131頁)

グンジ in 「軍事板常見問題 mixi支隊」

山城の一つ,尾道城
(うそ)
撮影:ベタ藤原


 【質問】
 安土城は,山の頂上に天守閣や屋敷があったようだけど,飲み水などは麓から誰かが担いで運んだんでしょうか?
 森蘭丸の屋敷なども,側に水が湧くようには見えなかった.

 【回答】
 山上でも,尾根と尾根の間のくぼ地など水の出やすい地点に井戸を設けるか,深い井戸を掘るのが普通かと.

 安土城の井戸の記述↓を見つけました.
 このページの書いてある場所から見ると,廟所近くみたいですが,城跡の詳しい地図が見つからず,場所が分かりません.
http://suzurin.net/shiro/19990521/index.html

 飛騨ではないけど,郡上八幡のお城の井戸は天守の一段下でしたね.

>麓から誰かがかついで運んだんでしょうか?

 水が切れるのが,落城の大きな原因の一つだから大名の居城などの城ではそういうことはないでしょう.
 国境などを見張るための小さな城で,敵が来たら城を捨てることが前提ならそういうこともあるでしょうが.

日本史板
青文字:加筆改修部分


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