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D.B.E. ミニ型」◆ もしも,関ヶ原で東軍が勝っていたら/情報源Ak(リンク切れ ⇒ 元スレッド

関が原研究所

「関ヶ原ブログ」◆(2010/07/07) 7月7日は豊臣秀頼が徳川家康に七夕の祝いを述べた日

「それにつけても金のほしさよ」◆新・やる夫の関が原戦線異常アリ


 【質問】
 なぜ東西決戦の場が関ヶ原となったのか?

 【回答】
 河合敦によれば,功名に焦る味方大名の勢いを徳川家康が押えられず,押しきられる形で関ヶ原に雪崩れ込んだ結果だという.
 石田三成は第1の防衛線として,尾張・三河の境の矢作川で東軍を迎撃することを考えていた.
 だが,豊臣系大名が三成の挙兵を知り,猛スピードで会津征伐から戻ってきたため,防衛ライン完成前に矢作川を通過され,第2の防衛線だった関ヶ原が戦場となった.

 小早川秀秋が布陣することになった,関ヶ原の松尾山には,大規模な砦が構築されていたことが,近年判明している.

 詳しくは,河合敦著『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』(光文社,2006/6/30),p.185-188を参照されたし.

関が原の合戦,開戦の地
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq17b09a04.jpg
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq17b09a05.jpg

撮影:HN「割れた草加煎餅」 by mail


 【質問】
 西軍の総大将・毛利輝元は,関ヶ原の戦いじゃあ何もしなかったの?

 【回答】
 実際には,多分瀬戸内の覇権を取り戻す的な野心が見える行動を色々やってる.
・九州には大友再興を煽って大友義統を上陸させる
・伊予には河野再興を煽って河野旧臣や村上水軍らを上陸させる
・阿波などの東軍諸将の居城接収
など.
 結果が出なかったのはまあ,別の話で……

 たしかに輝元本人は大坂城に留まったままだったが,これは
「増田長盛,東軍に内通」
という噂を聞いたからで,これがなければ,豊臣秀頼を奉じて佐和山に向かっていただろう.

 【参考ページ】
http://blog.livedoor.jp/mansaku21/archives/50969547.html
http://homepage2.nifty.com/shinkei/yamashiro/sekigahara.htm

漫画板,2015/04/18(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 三成が篭城策を取ってたら,西軍の布陣はどうなるんだ?
 大谷吉継は大垣篭城説を主張したらしいが,その場合どんな利点があるんだ?

 【回答】
 戦ってのは古今東西を問わず,敵と共に補給との戦いでもある.
 補給無くして戦闘を継続する事は不可能であり,補給の困難さは補給線の長さに比例する.
 一応畿内周辺を本拠とする西軍側と,関東周辺を本拠とする東軍側では,どうしても東軍側の補給の方が不利になる.
 篭城=長期戦に持ち込めば,それだけ補給の維持が必要になり,対陣しているだけでも東軍側がどんどん不利になっていく.
 篭城を主張するならこんな理由じゃないかと思うが,まぁそれは他方面からの脅威がない場合の話.
 黒田が九州制覇してったら,本国守るために,西軍最大兵力の毛利軍の大半は帰還する事になるだろうから,一概に篭城すれば有利だったってわけでもないんじゃないかな.

戦国板,2007/04/10
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 関ヶ原の合戦の戦端を開いたのは福島正則? 井伊直政?

 【回答】
 福島正則.

 福島隊が弓・鉄砲で宇喜多秀家勢に攻撃を開始したのが慶長5年/9/15(西暦1600/10/21),午前8時.
 ただ,これは本格的な戦いとは見なされなかったようで,家康は井伊直政へ伝令を出して,松平忠吉を補佐して戦いを始めるよう命じている.
 忠吉隊は福島隊の前に出る――ここで福島隊の可児才蔵との間に一悶着起こる――と,宇喜多勢へ発砲.
 驚いた正則は全隊攻撃を命じ,本格的な戦いが開始された,という経緯.

 ちなみにこのあと,忠吉隊は向きを変え,島津義弘勢へ攻撃を掛けている.

written by 北政所(うそ)

松平忠吉・井伊直政の陣跡
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq17b09.jpg
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq17b09a02.jpg
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq17b09a03.jpg

撮影:HN「割れた草加煎餅」 by mail


 【質問】
 関が原の戦いのとき,東軍側についた加藤清正や福島正則など,いわゆる豊臣恩顧の武将は,この戦いが 天下が豊臣から徳川に移るかどうかの天下分け目の決戦,という認識はあったのでしょうか?
 それとも,この戦いはあくまで豊臣家臣団の内紛で,東軍側が勝っても豊臣政権は続くという認識だったのでしょうか?

 【回答】
●前者を支持する見解

 前田利家の生前,徳川家と他の大名家の婚姻(秀吉の法度への違反)が原因となって,利家と家康が対立したときには,関が原で家康についた細川とか加藤清正・嘉明などは,利家の方を支持している.
 このときは家康を抑えることが出来れば,豊臣氏を中心の政権が続けられると考えたかもしれないけど ,関が原時点では,家康が勝ったときに対抗できる大名が残っていない.
(五大老で唯一東軍の前田家は,既に人質を江戸に出している)

 それに秀吉自身が,有能な当主が死んで,跡継ぎが器量がないと判断したら領地を減らし,重要拠点から外している(蒲生とか丹羽).
 同様に,秀頼に天下人としての実力がないと,豊臣政権の継続は無理と考えていたのでは.

 そもそも,将来の政権構想にまで考えが及んだのだろうか?
 仮に石田三成派が豊臣政権で権力を握り,徳川が追い落とされでもしたら,まず第一に自家の存続に危険を感じてたってことじゃないのかな.
 過去にどれだけ恩を受けたかではなく,この先自分の家と領地を守ってくれそうな人こそが戦国武士にとって良い領主.
 だから徳川についたというだけの話だろう.
(福島正則は最終的に改易されたけど)

●後者を支持する見解

 加藤や福島は明らかに「天下人は秀頼様」という意識を持っていた.
 そして,君側の奸=石田を始めとする五奉行を殲滅すれば,五大老と加藤・福島ら豊臣恩顧の大名による豊臣政権が成立する,と思っていた.
 それが裏切られたのが,宇喜多の改易と毛利・上杉処分以後の徳川政権成立の流れであった.

日本史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 関が原の戦いでは,実際に陣を出て戦った西軍の兵士は半分にも満たなかったとのことですが, 当時はこのような日和見作戦は普通に行われていたんですか?
 素人考えでは,そんなことをして味方がもし勝ったら,フルボッコだと思うんですが?

 【回答】
 洞ヶ峠って知らんか?
 当時はそんなもんだ.
 勝てそうにない奴のために本気で戦うバカはいないし,”勝ち馬”に乗るのは普通のことだった.

 勿論,「勝った側についていたけど実質何も働いてない」だと,戦が終わったあとの恩賞とかが貰えなくなるか,大幅に目減りするだろうし,不利な扱いを受ける可能性は飛躍的に高まる.

 でも,関が原の西軍で言うなら,石田三成にとっては「徳川方につかれないだけマシ」って状況であったから,あの状況で仮に西軍側が勝っていても,強気の立場が取れる面があった.

 実際,西軍は大将に人望がないわ,軍内の和が取れていないわで,
「付き合いとしがらみでこっちについたけど,これでよかったんだろうか・・・?」
という人ばっかりで,真面目に戦う気のあった人は少なかった.
 地理的要因から渋々西軍に入った連中とかもいるし,半分は調略済み.
 それなら勘定は合ってるだろ.

 あれで,豊臣秀頼が出陣して,馬印を東軍に見せ付けてたら,また違っただろうといわれてる.
(秀頼ちゃんは関ヶ原でも大阪城の陣でも,一番必要とされてる時に,ことごとく戦場に出てこないからな・・・.
 まぁそれは,必死で止めてた淀殿のせいでもあるんだろうけど)

 そう言うの抜きにしても,兵だけ出して睨み合いして終わりとか,国境犯して焼き働きして終わりって戦の方が,よっぽど多い.
 川中島の戦いだって,ガチンコの戦いは5回の内1回だけだ.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 関ヶ原の戦いにおいて,西軍諸大名を寝返らせたのは誰か?

 【回答】
 河合敦によれば,黒田長政.
 彼は武功派の代表として,石田三成と激しく反目し,家康の養女を娶(めと)るなどして家康派に属していた.
 彼の工作により,小早川秀秋以外にも,吉川広家に「西軍から離反する」旨の誓約書を家康に提出させることに成功している.

 詳しくは,河合敦著『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』(光文社,2006/6/30),p.189-190を参照されたし.


 【質問】
 関ヶ原の合戦において,黒田長政は活躍をしたのですか?

 【回答】
 長政の関ヶ原での活躍はすごい.
 というか,東軍は長政の切り崩しと懐柔工作で勝ったようなものだし,上手い形で家康に恩を売ったものだと思う.

 調略も見事だけど,合渡川から合戦当日の槍働きが張り切りすぎ.
 関ヶ原の乱戦の最中,小早川秀秋がなかなか裏切らずに焦れた家康が,長政の許に使者を送って,
「お前の調略は一体どうなってるんだ?!」
と詰問した時,
「馬鹿を言うな! 調略は戦の前にすべきこと.
 戦いが一旦始まれば,槍働き以外は俺の知ったことか.
 金吾が裏切れば討ち果たしてやるから,うろたえるな!」
と,怒りにまかせて怒鳴り返した逸話がある.
 武断派の本領とか戦場で血が滾ってる感じが,思わず出ている.

 そして関ヶ原直後に,家康から直筆の感状をゲットしておく手堅さは,地味ながら大金星.
 あの感状一本で黒田騒動も乗り切って,幕末まで家名を保ったようなもの.


207 名無しさん@お腹いっぱい.[sage] 投稿日:2006/09/21 01:15:24  ID:6KDjZNcb

 うん,地味にものすごく堅実で有能なんだよ(戦場以外では)
 しかしそういうところが,如水の癇に障るんだよ.
 ギャンブル狂いで借金も辞さない人の前で,
「車を一括で買ったら,小学生以来の貯金が半分になっちゃったー」
とか言ってごらんよ.


107 名無しさん@お腹いっぱい.[sage] 投稿日:2006/08/18 19:06:36  ID:YLO+y8Pc

如水「すると,そちの左手はいったい何をしていた」
長政「……(いま,左手で父上を殴りたくなりました…)」

 これ,かっこいい台詞だけど,確かに如水が無茶苦茶言ってるな.
 黒田家が天下取るのは,現実的には無理だとは思うんだけど,座視できずに動いちゃうところが,見果てぬ夢という感じで,好きだったりする.
 火事場泥棒ともいうけど(笑
コメント1件

108 名無しさん@お腹いっぱい.[sage] 投稿日:2006/08/18 23:53:29  ID:QGLK+z9p
>107
 その話って,後の世の創作でないの?

戦国板,2006/08/17〜09/21
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 島津は関が原の合戦では,戦意がなかったの?

 【回答】
 島津が真面目に戦ってなかったってのは,家康に対する言い訳で,本当は結構真面目に戦ってたらしい.
 東軍布陣図見れば分かるけど,東軍の豊臣恩顧の武断派は,石田三成に対する個人的な恨みまくりで戦場に出てたから,石田隊5,000に対して,東軍のうち黒田・細川・加藤あたりの約15,000が密集する形になっていた.
(おかげで,西軍主力の宇喜多にあたったのが福島と井伊だけになり,ここが膠着した)

 んで,島津は石田の篭った高台から,浅い谷を隔てたまた別の高台に陣取っていたから,谷を伝って石田の包囲を図る加藤隊あたりとは戦っていたし,隣の小西隊が若干頼りなく,筒井や田中あたりに押されていたので,部隊の一部を割いて後詰もしている.
(この後詰に回された部隊の300人ほどが,本隊からはぐれて,他の西軍と一緒に山越えで逃げ,半分ぐらい帰還している)

 まあ,関ヶ原開戦時に1500いた部隊が,撤退時には本隊300ぐらいだったって点で,「戦ってない」ってのはどうかと.

 ちなみに昨日,地元の祭りのついでに大垣城行って,CGで再現された,関が原最終局面の島津vs東軍の兵の動き見てきた.
 島津の挙動,まじキチガイ沙汰にしか見えなくてワロタ(笑

 友軍が全員踵返した後からの,敵陣中央突破→捨てがまり戦法.
 チマチマしたCGで,兵ひとりひとりの動きとかはぜんぜん描かれてないのに,陣の動き見ただけで「こいつらやべー」って思った.

 東軍としても勝ち確になってから,「合戦中は西軍でハブられてたのに,突如死兵化したキチガイ」とか,意味わからんレベルじゃなかろうか.
 しかも方言キツ過ぎて,何言ってるか分からない集団という…

漫画板,2013/05/13(月)
漫画板,2014/11/30(日)
青文字:加筆改修部分

▼ で,島津家が関ヶ原でなんであんなことになっちゃったかというと,「兵隊がいなかった」,それに尽きる

 義弘は朝鮮から帰還後も,上方で豊臣政権と島津家の窓口のようになっていたが,従う兵は300ほど.
 「これじゃ,いざという時何もできないから」と,伏見在番を家康に(口頭で)申し付けられたから兵を送ってくれと手紙を出したり,忠恒を上方に呼び寄せるという口実で,忠恒が連れてくる兵を吸収してやろう――といろいろ工作してたが,結局まともに兵隊が集まらず,会津攻めに参加できなかった.
(どちらかと言えば,家康と行動を共にするつもりだったらしい)

 そのまま数百人で西軍に囲まれた状況になり,かつて伏見在番を申し付けられたことを口実に,鳥居に一緒に籠城することを持ちかけたが,断られた.

そうなると,鳥居に恥をかかされたとかは関係なく,西軍に合流する以外に選択肢が無かった.
(義弘を慕って,国下から三々五々と集まってきた兵隊が1,000人を超えたのは,西軍についてから後)

 ちなみに,家康に伏見在番を申し付けられた経緯を,義弘の主張通りに書くと,
1 政治の中心地が伏見だったのが,大阪に移った
2 義弘には(豊富政権のどこかから)伏見に残れと命令が来て,大阪に行けなかった
3 大阪に用で行って家康に目通りした時,義弘を伏見に残したのは備えなので,励んでくれと言われた
4 義弘はそれを,「伏見で兵を集めておけ」ということだと解釈し,工作を開始した

「でも兵隊は集まらないし,鳥居には拒否されるし,しょうがないじゃん」
ってのが,戦後交渉の島津側の主張.

漫画板,2013/09/29(日)
青文字:加筆改修部分

島津義弘陣跡
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq17b09s.jpg
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq17b09s02.jpg
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq17b09s03.jpg

撮影:HN「割れた草加煎餅」 by mail


 【質問】
 関ヶ原の合戦時,なぜ島津義久の軍勢は,たった300人しかいなかったの?

 【回答】

 秀吉に降伏した後の島津の領土は,おおまかに義久・義弘・悪久の三人に分配されていたが,義久がとにかく秀吉に関わりたくないという態度だったので,秀吉政権下での軍務に兵を出さなかった.
 だから朝鮮出兵は義弘領と悪久領の武士で戦ったようなもので,酷く疲弊していた.
 そんななか,伊集院との戦いが勃発.これには義久も参加したが,義弘領の武士もさらに疲弊して,関ヶ原の前に義弘が「軍隊欲しいよー欲しいよー」と何度手紙送っても動けない状態.
 そこにさらに義久が悪久にも動くことを禁止して,実際には家康が会津に旅立った時,義弘の手元には300ほどしか軍が無かった.

 家康の会津攻めは豊政権下の五大老筆頭の名で行われたので,本当は参加は義務.
 当時は石高によって軍に参加するのに,これだけは集めていかないと奉公してないとみなされて罪を問われる数があったが,島津のそれは4000人ぐらいで,300じゃさすがに特例も無理.
 ただ,家康は「島津含め来ない大名や兵力の足りない大名は来なくていい」ってことで,島津はそのまま残された.

漫画板,2014/11/30(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 なぜ島津義久は伏見城に入城しようとしたの?

 【回答】
 話は会津攻めの前に遡るが,豊臣政権の中心地が伏見から大阪に動いた時,義弘が伏見在番で取り残されたことがあり,用事で大阪に行った時に,
「伏見は誰もいなくなって政権から取り残されたみたいです」
と義弘が家康に言った所,
「いや,伏見は大事な場所だから義弘殿に任せるのです,頼みましたよ」
家康から言われたことがあるらしい.

 会津攻めに参加できず,300の兵で再び伏見に残された義弘が,鳥居元忠のところに行って「一緒に城を守ろう」と言ったのは,その時の家康の発言を実行したんだ――というのが義弘の戦後の主張.
 元忠は「聞いてないよ」と追い返した.
 まあ当然.

 ただ,この義弘の主張を家康は戦後,否定していない.

 ともあれ,伏見城からすら追い出され,300の兵で集結しつつある西軍数万の中に残された義弘には,あとは大阪の人質を守るために西軍に参加する選択肢しかなかった.

漫画板,2014/11/30(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 もし伏見在番を家康から申し付けられていなかったなら,島津も会津攻めに参陣できたでしょうか?

 【回答】
 できなかっただろう.

 豊臣政権には石高での動員義務があって,兵数が足りない状況で参加すると義務を果たしてないってことで,よくても譴責,悪いと取り潰しの可能性すらあったからだ.

 会津攻めは一応豊臣家の命令という形だったので,この義務が生じ,義弘が会津攻めに参加するなら,4-5,000名は集めないといけなかった.

 しかし,庄内の乱で金はねえわ,
旧伊集院領は収まってないわ,
元から石高過大申告だわ,
国は義弘と忠恒と義久で3分されてるわで,
どうしても義久と忠恒の両方から兵隊を出してもらわないと,定数に達しなかったのに,むしろ義久も忠恒も,義弘領からすら兵隊が出るのを止めたぐらいで

漫画板,2013/09/29(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 関が原での島津の敵中突破は有名だが,あれははたして本当にそうする必要があったのだろうか?
 いくら戦場で孤立していたとはいえ,各隊同士の間がそれほど密集していたわけではない.
 実際に関が原の各大名の陣屋跡に行ってみれば分かるが,他の大名の陣が見えそうにはないほど離れている.
 敵中突破せずとも, 陣と陣との間をすり抜けて退却すればよかったのではないか?

 【回答】
 ええと,鹿児島にいたことがあって,そのテーマは昔先生と一緒に研究した事があります.

 あの時点では,既に東軍が西軍を追撃・掃討する局面に入っていて,西軍の陣地は東西入り乱れた状況になっていたと考えられます.
 島津の陣からすれば,背後は乱戦,はるか前方は徳川の本陣(家康はもう桃配山から降りていた).敢えていうなら,島津−徳川の間が最も戦闘が少ないところなんです.
(ない訳ではないが)
 かと言って,徳川の陣の間を抜けて行く訳には行かない.
 ご存知のように徳川主力(秀忠率いる)はこのとき関ヶ原にもいないのですが,それでも数は3万近くいて,島津はわずか1600です.
 従って島津の選択した方法は,徳川方面に突撃体形で進み,攻撃もあり得る風を装って,撤退を模索するという事でした.
 松平忠吉・井伊直政の隊とは実際に接触したようです.
 敵中突破ではなく,敵を掠めて奈良方面から堺を目指す進路を取ったのでしょう.
 威力偵察という言葉がありますが,これは威力撤退?
 1600ですから,全軍=殿(しんがり)軍と考えれば良いのではないでしょうか.

日本史板,2006/12/05
青文字:加筆改修部分

▼ 【余談】
 関が原の撤退行で,どうにか関が原を抜けて伊勢街道に入った頃,道脇で小休止して,「目立つ幟や飾りは外そうか」って話し合ってたら,思いがけず東軍の大勢が,街道を埋めながらやってきた.
 これはいかん,もうダメかもと家臣が言うと,
「もうこうなったら突き崩すか,さもなくば切腹しか無いぞ」
と義弘が言ったので,皆そっと,街道脇から東軍に合流するように何気なく近づいてから,いきなり大声をあげて邪魔するものを撃ち切り叩きながら,大軍の中を突っ切った.
「よほど驚いたんだろうな.打ち倒され逃げ惑うのは敵ばかりで,こっちには小勢なのに損害なしだったよ」
(家老伊勢貞成談)

 ↑プロの通り魔の犯行

漫画板,2013/05/05(日)
青文字:加筆改修部分

 【質問】
 島津勢の敵中突破は作り話なの?

 【回答】
 というか,徳川に突っ込む前からもう「敵中」なんだよ.
 ただ,島津は合戦の最中終始どことも戦っていないから,両軍とも何を考えてるんだか分からなくて,東軍としても攻めようがないというか.
 吉川みたいに動かなかった軍勢は他にもいる.
 小早川やその他大勢で,動かなかったけど,途中で裏切ったものいる.
 相手が襲って来ない限り,東軍としては,自分から攻めないという考えだろう.
 福島正則みたいなのは,目前の宇喜多・石田と乱戦で,島津を気にしている余裕はない.

日本史板,2006/12/06
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 関ヶ原の戦い後,石田三成を捕えた田中吉政ってどんな人?

 【回答】
「それでは,ヒーロー・インタビューです.
 今日は,配下の者が石田三成を捕えた田中吉政選手にきていただきました.
 まずは東軍の勝利,おめでとうございます!」
「ありがとうございます」
「今回の戦いでは,先鋒を務めたり,三成を捕らえたりと,大活躍でしたね」
「はい,武士の誇りのため,一所懸命がんばりました」
「(お前の親父,百姓だったじゃん.いきなり経歴詐称かよ)」
「何だって?」
「ところで,名目だけとは言え,豊臣秀頼お墨付きの軍勢に対して,よく戦闘する気になれましたね?」
「……まあ,私の見るところ,これはしょせん豊臣家中の派閥争いに過ぎませんから」
「ということは,秀次事件のようなものですか? あのときは,大勢の家臣が連座したにも関わらず,田中選手は逆に加増されていますよねえ?」
「……何が言いたい?」
「ところで田中選手,佐和山城攻めでも勇猛果敢でしたね!」
「はい,ありがとうございます!」
「城の搦め手からの突入,見事でした!」
「そうですね,あそこが弱点と思ったんで,思いきってやってみたらジャスト・ミートしました」
「関ヶ原で大勢は決しているのに,あそこで力攻めしたことが意外でしたが? 戦死者も余計に出たようですし」
「……まあ,任務第一でしたから」
「そうですよね! あそこには三成の親族がいたわけですからね!」
「そう,その通りですよ!」
「秀次事件のときにも田中選手をかばってくれた,あの三成の親族ですからね!」
「……おい」
「そもそも田中選手が百姓から大出世できたのも,三成から田中選手が目をかけられていたおかげですし,その三成の親族ですからね!」
「おい!」
「やっぱり,忠義とか義理とか人情とかより,戦国武将にとってはなりふり構わない出世が一番ですよね?」
「……」
「あれ,どうしました? 肩なんか小刻みに震わせて?
 では田中選手,最後に一言!」
「てめえ,ブッ殺す!」

田中吉政陣跡
撮影:HN「割れた草加煎餅」 by mail


 【質問】
 関ヶ原の合戦において,鍋島家が西軍に味方したのは何故?

 【回答】
 秀吉死去後の鍋島直茂は本来,家康党だった.
 加藤清正が家康に気持ちを寄せたのも,直茂の働きかけによるところが大きいといわれている.
 清正は朝鮮で同軍であった直茂を信頼していたからだ.

 慶長6年(1600年)6月15日,家康が会津討伐に発向したとき,直茂は地元・佐賀にいた.
 家康が彼に,「加藤清正とともに九州を守護せよ」として帰国を命じていたからである.
 このため直茂は,代わりに勝茂と龍造寺高房に兵7千余を率いさせて従軍させることにしていた.

 そこで,黒田長政は勝茂に,会津討伐に同道するよう誘ったが,鍋島勢は出立できなかった.
 一つは勝茂の病.
 腫れ物と伝えられ,乗馬もできないほどだったという.
 もう一つは兵の武具が揃わなかったため.
 破損した武具の多くを京都で修理していたというのである.

 そのため鍋島勢は,発向を7月上旬まで遅らせた.
 ところが,この間に石田三成が兵を起こし,三成の兄・石田正澄が近江愛知川の関を閉じ通行を禁じてしったため,鍋島勢は物理的に東下できなくなってしまった.

 ところで鍋島勢と書いたが,正式には龍造寺軍,佐賀の名目上の大名家は龍造寺高房であって,鍋島直茂は家宰に過ぎなかった.
 勝茂らは軍中の龍造寺一門らと協議が重ね,結局東下をあきらめ,軍を近江八日市まで退けた.
 さらにその後の情勢を見て,大坂城に毛利輝元,宇喜多秀家が入ると,西軍方についてしまう.
 このとき勝茂21歳,高房15歳で,経験も浅く,危機管理能力も乏しい.
 上述のように,竜造寺一門との協議でしか動けない軍でもある.
 大坂には勝茂の母が人質となっていたことも影響したであろうと言われている.

 よく,「鍋島は米(東軍)と息子(西軍)に分けて,どっちが勝ってもいいように,賢く保険かけた」
と言われるけど,実態は,西軍に巻き込まれて想定外→何とか善後策で米集めて凌いだだけで,むしろ東軍で関ヶ原参加の絶好の機会を逸した大失敗に近かったとは思う.
 普通に息子が東軍に参加してれば,大幅加増も夢ではなかったし.

 【参考ページ】
http://roadsite.road.jp/history/daimyo-sp/nabeshima/nabeshima-f.html
http://www.snk.or.jp/cda/tanbou/ooki/hatiingassen/hatiinsen.htm
http://wazaemon.sagafan.jp/e334850.html
http://jiten8.biz/history/sengoku/kyusyu/nabesima.html

戦国板,2011/07/04(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 西軍について以降の,鍋島勢の行動は?

 【回答】
 まず,家康の将鳥居元忠が籠る伏見城攻撃に加わり,8月1日の総攻撃では大手口を受持って,これを破り,感状を得た.
 次いで伊勢方面に転戦し,伊勢松坂,安濃津両城攻略戦に参加した.
 しかしその後,東軍方の伊勢長島城への備えと称し,関ヶ原の6里南方の野代に布陣.
 ここを動かず,関ヶ原本戦には参加しなかった.
 これは直茂からの使者・下村左馬助によって,直茂の本意があくまで家康の与するものであることを知った勝茂が,軍を留めたのだとされる.

 勝茂は自刃も考えたが思いとどまり,黒田長政・井伊直政を通じて家康に謝罪.
 家康は直茂の忠心に免じて,これを赦し,代りに西軍方の猛将立花宗茂の居城筑後柳河城攻めを命じた.
 「川角太閤記」によれば,上杉討伐が行われ帰国が命ぜられた直茂は,帰国後ただちに尾張以東の米の買い付けを命じて要所に備え,一部を宇都宮で秀忠に献上し,会津討伐が中止されて家康が関ヶ原に向って西上すると,要所の備えた米を献上したという.
 これが家康の心証をよくしたらしい.

 勝茂は急ぎ九州に戻り,直茂とともに柳河に向かった.

 鉄板で東軍だった鍋島が,不本意ながら西軍になって寝返り組扱い,逆に,東軍の名目を借りて独自行動していた黒田如水と加藤清正を,軍目付につけられるという皮肉な展開.
((久留米と柳川が鍋島に包囲されたとき,加藤は筑後に居なかったが,鍋島は書状で加藤・黒田に方針を尋ねてる)

 この城攻めは,意外にも(?)如水の方が強行策だった.
清正「いいじゃん形式だけ攻囲して,速攻で降伏交渉でいけ」
如水「最初から戦いもしないで交渉なんて,ご冗談でしょ,鍋島さん.ガチで戦って,できれば立花殺ってこい」
 清正は宗茂と親しかったし,如水は東軍に寝返った鍋島の立場の方を重視した(目に見える形で戦果を徳川にアピールする必要がある)とも言えるけど,交渉で城を落とすのが常の如水にしては珍しい.
 結果,発生したのはガチ・バトル.
 10月19日に城外で小競り合いが始まり,20日黎明時より本格的な戦闘に入った.
 鍋島勢は十二段備えであったが,九段まで崩された.
 しかし兵力差がありすぎ,立花勢は柳河城に押し込められ,やがて宗茂は降伏した.
(江上・八院合戦)

 更に,東軍の諸将と共に,島津の攻撃を準備するが,直前に中止となった.

 この一連の戦いが家康に認められ,戦後,鍋島家は旧領安堵.
 そして龍造寺家断絶後,鍋島勝茂に肥前1国の安堵状が出され,鍋島家佐賀藩として,鍋島家は幕末まで存続することなった.

 【参考ページ】
http://roadsite.road.jp/history/daimyo-sp/nabeshima/nabeshima-f.html
http://www.snk.or.jp/cda/tanbou/ooki/hatiingassen/hatiinsen.htm
http://wazaemon.sagafan.jp/e334850.html
http://jiten8.biz/history/sengoku/kyusyu/nabesima.html

戦国板,2011/07/04(月)〜07/14(木)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 関が原の合戦以降の,四国の状況は?

 【回答】
 さて,1600年9月15日,世に言う関ヶ原合戦が起こります.
 この時の四国大名の動向は,東軍に阿波の蜂須賀至鎮,讃岐の生駒一正,伊予の加藤嘉明と藤堂高虎が,西軍には,讃岐の生駒親正,伊予の安国寺恵瓊,小川祐忠,池田高祐,来島康親,土佐の長宗我部盛親,阿波の赤松則房が与しました.
 結果は,ご存じの通り東軍の勝利に終わりました.

 そして,合戦後の論功行賞では,伊予の西軍は総て領知を没収され,加藤嘉明と藤堂高虎に二分されます.
 土佐の長宗我部盛親は除封され,その代わりに山内一豊が土佐一国支配を認められました.
 阿波の蜂須賀家政は,領国と家臣を豊臣秀頼に返上して高野山に隠居します.
 この為に徳島城は西軍の支配下に入りましたが,一方で,至鎮を僅かな手勢で東軍に参戦させた事から,戦後は領知召上げは行われず,旧領に復する事が出来ました.
 生駒も然りです.

 この様に,特に蜂須賀と生駒に生温い措置となったのは,関ヶ原の合戦で東軍が勝利したのは良いのですが,徳川勢の主力を率いていた秀忠が遅参した為,東軍を豊臣恩顧大名中心に編成せざるを得ず,この為に,徳川家康の圧倒的な支配が達成出来ずに,その後も徳川家と豊臣家の二重公儀体制,東西分知体制を行わざるを得なくなった為です.

 こうして,四国は丸ごと,外様大名領となりました.

 また,土佐浦戸城の受取りには井伊直政が派遣されましたが,長宗我部軍の一領具足達の抵抗を受け,阿波,讃岐,伊予の軍勢を動員して12月に漸く城が明け渡され,1601年1月にやっと山内一豊が入城し,浦戸に代って新しい城地,高知城を築城して,1603年に本丸の完成を見ました.
 この間,前任の長宗我部家は土佐一国の拝領高が98,000石だったのに,山内家は202,600石を打ち出し,以後,この石高が,山内家の格式になると共に,応分の軍役を負担する事になり,土佐の人々を苦しめる事になります.

 さらに,伊予では松前城の加藤嘉明が,石手川を改修して城下町を整備し,1603年に松山城に入りました.
 それに対抗するかの様に,板島城から国府城に入った藤堂高虎は,今治に新たな城と城下町を建設し,1608年に入城しましたが,領国が錯綜する加藤家と藤堂家は相変わらず不仲で,紛争が絶える事がありませんでした.

 その後,家康の対豊臣包囲網に参加する為,高虎は8月に伊勢国の津に加増転封となり,伊予を離れる事になります.
 高虎の旧領大津には,淡路洲本から高虎に近しい脇坂安治が53,500石で入り,また津から板島へは高虎と交換で,富田信高が入りますが,1613年に信高は改易され,一時期幕領となって高虎の預り支配とはなります.

 なお,高虎は,大坂城包囲網として,家康の意を汲み,洲本城を大津に移し,板島城を改築して,伊賀城と共に包囲網を完成させました.
 1614年,富田信高の跡を継いで,伊達秀宗がこの地に100,000石で入国し,板島を宇和島と改称しました.
 その後,秀宗の隠居時に幕府に願い出て,5男宗純に吉田30,000石を分知した為,宇和島伊達家の石高は72,000石に減ってしまい,後に高直しを行って100,000石に復帰します.

 大坂の陣では,四国勢も各々出兵します.
 この戦の四国勢では,蜂須賀至鎮がもっとも活躍し,その武功により淡路1国7万石が加増されました.
 こうして,徳川,豊臣の二重公儀体制は終焉を迎え,パックストクガワーナが実現しますが,西国を豊臣恩顧の大名が占めると言う問題はまだ解消されませんでした.

 これが変わるのが,家光が将軍の座に就いた寛永期です.
 禁教令や貿易制限令,ポルトガル船来航禁止令や,島原の乱など,この時代は西日本に対外的,軍事的緊張が高まっている時でした.
 当時,瀬戸内の中国・四国地域に御家門は無く,唯一,備後福山に譜代の水野家があるばかりで,西国の万一の叛乱に際しては,幕府軍は大坂からの兵力派遣,後,あっても姫路や備前の池田家からの兵力派遣しか手が無く,紀州を除くと水軍の掌握が全く出来ていません.

 この対策として行われたのが,1635年の久松松平家の転封で,久松松平家には松山150,000石,今治30,000石が与えられ,それぞれ大名家として立藩しました.
 これが早速役立ったのは,1647年の長崎へのポルトガル船の来航で,幕閣より長崎警固を命じられて,九州筋の外様大名達を統御する指揮官を期待されています.

 また,所謂生駒騒動により,生駒家が領知を没収されて出羽に減封しての転封に処せられると,1642年にはその高松に水戸徳川家連枝の松平家が入りました.
 高松に入った松平頼重は,徳川政権下で瀬戸内海掌握を期待されており,城の海側への拡張工事が行われ,軍事機能を充実させていきました.
 因みに,頼重の高松就封に当たっては,家光から「西国,中国の目附たらんことを欲す命」があったと言われています.
 そして,朝鮮出兵も経験した歴戦の生駒家水軍42艘をそのまま引き継ぐと共に,更に紀伊徳川家からも軍船が武器を携えて贈呈された上,自らも入国と同時期に2艘の大船を建造して,瀬戸内海の巡視も行っています.
 この瀬戸内海の巡視は,領内の諸島のみならず,阿波沖から豊前小倉まで行われており,計画では長崎に行く予定もありました.

 更に,1670年には伊予西条に,紀伊徳川家から松平頼純が30,000石で入封し,讃岐と伊予の瀬戸内海沿岸の殆どの地は,家門大名が占める事になりました.

 なお,加藤嘉明は松山200,000石から1627年に会津400,000石へと加増転封となり,跡には蒲生忠知が240,000石で入りました.
 しかし,1630年に蒲生騒動が起き,1634年に忠知が没すると継嗣無く断絶となり,翌年,久松松平家の松平定行に松山150,000石が与えられる訳です.
 また,高虎の跡,今治城には養子の藤堂高吉が入りましたが,1635年に伊賀名張に転封となり,その跡に久松松平家の松平定房が30,000石で入ります.
 大津の脇坂安元は,1617年に信州飯田に55,000石で加増転封となり,代って伯耆米子から加藤定泰が入って,喜多,浮穴,伊予,風早4郡の内60,000石を領し,大津を大洲に改めました.
 1623年には2代泰興が弟の直泰に喜多郡13ヶ村,浮穴郡7ヶ村,伊予郡4ヶ村の10,000石を分封して新谷加藤家を立藩させ,本家は50,000石となりました.

 この他,伊予西条には河野家の末裔を称する外様の一柳直盛が大坂の陣後に68,000石で入りますが,就封の途次に病死し,領知は幕命により3つに分け,各々子供に分知します.
 この内,長子の直重家の30,000石は次代の直興が25,000石,弟の直照に5,000石が与えられますが,1665年に直興の不行届により所領没収となりました.
 次男直家家は加東郡5,000石と伊予周敷,宇摩両郡のうち23,600石が与えられますが,1642年に無嫡断絶の為,領知没収となる所,直家の女婿に末期養子を認める代わりに伊予の所領を手放し,直家家は加東郡30ヶ村10,000石で相続を許される事になります.
 結局,一柳家で伊予に領知が残ったのは,三男直頼に与えた小松10,000石のみでした.

 讃岐では,生駒騒動の後,高松に水戸家の連枝が120,000石で入りましたが,丸亀には肥後富岡から山崎家治が50,000石で入りました.
 しかし,山崎家も治頼の代に無嫡断絶となり,一時幕領となりましたが,1658年に播磨龍野から京極高和が西讃に50,000余石,播磨揖保郡に30ヶ村10,000石で入ります.
 その後,近江蒲生郡内で1,400石を加増され,揖保郡の領知の内2ヶ村を近江坂田郡の京極家代々の墓所の地と交換して石高を維持していましたが,1694年,3代高或の就封時に庶長子の高通に多度津10,000石を割き,丸亀京極家は51,400石で推移します.

 こうした複雑な大名鉢植えを経て,1700年までに阿波と土佐が1国1藩,讃岐3藩,伊予8藩体制で固まり,幕末まで以後それが変わる事は無かったのでした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/10/01 22:59
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 東北において小野寺義道は,なぜ西軍に与したのか?

 【回答】

 秋田県大仙市の雄物川沿いに角間川地区と言う場所があります.
 此所は嘗て地主町だったのですが,元を質せば,この地は小野寺給人達の集団居住地でした.

 戦国期,横手を中心に現在の大仙市近辺まで勢力を伸ばしていたのが小野寺義道でした.
 義道の時代には既にピークが過ぎていましたが,父親の景道の時期には最盛期となり,院内峠が隆盛を極める前,山形と秋田を結ぶ重要な街路だった有屋峠を越えて,現在の山形県真室川付近にまで及んでいました.
 ところが,山形で勢力を伸ばしていた最上義光の謀略で,軍師の八柏大和を上意討ちした後,勢力が急速に衰えていきます.
 そして,山形の領地を失い,更に防衛上の生命線とも言える有屋峠を破られ,秋ノ宮,横堀,院内,川連,湯沢,岩崎と言った仕法に点在する支城を次々に失っていきました.

 最上義光は湯沢城に,秋田侵攻軍の総指揮を執る館岡豊前守満茂を置き,勢力は皆瀬川を越えて現在の横手市になる十文字や平鹿方面にまで及ぶ事になります.
 そして,1600年の関ヶ原合戦の直前の平鹿郡は,最上と小野寺は馬鞍城と鍋倉城を結び,西方は雄物川を挟んでの攻防戦となっており,既に小野寺氏の本城である横手城下直前にまで迫っているという追い詰められた状況でした.

 となると,この頃には小野寺氏は三成方にかなり与しているような感じを受けますが,7月の時点では未だ去就を決めかねている状態であり,家康も大坂方も再三に亘って,幕下に就くように工作を行っています.
 特に東北では米沢に転封となった上杉景勝の動向が焦点であり,米沢への進軍が家康から求められていました.
 上杉景勝の叛乱と言うのは一応,豊臣秀頼からも認められたものであり,大坂方もそれに従うように求めています.

 しかし,その上杉景勝に対する出羽の触頭となったのは,外でもない,宿敵である最上義光でした.
 つまり,上杉攻撃軍に参加する事は,これまでの宿敵であった最上の配下に編入されて,徳川に奉公することを意味しています.
 この為,小野寺家としては大いに悩むことになります.
 現在の情勢としては,徳川方として動いた方が,小野寺家存続の為には得策なのですが,長年の宿敵である最上家の配下となる事は,小野寺家としての武門の意地が全く立たないことになります.
 家の存続の為,笑って煮え湯を飲むのか,それとも滅亡覚悟で武門の意地を採るのか…
 多くの配下の武将達が,固唾を呑んでその選択を見守ることになりました.

 結局,8月中旬の段階では,小野寺義道は最上に膝を屈して,その一員として山形の天童まで出兵しました.
 ところが,皮肉にも家康からの書状により,折角天童まで出兵して申し訳ないが,一旦横手に帰陣して,次の命令を待って欲しいと言う知らせが届きました.
 この帰陣が,皮肉にも義道の考えを揺るがすことになります.
 と言うのも,丁度その頃,直江兼続が米沢を発して,全面的に最上攻撃を開始し,最上の居城山形から,それ程遠くない長谷堂で最上軍を圧倒しました.
 これが9月14日の事です.

 これを見て,義道は考えたと思われます.
 即ち,最上配下で幾ら戦功を挙げたとしても,最上氏に奪われた旧雄勝郡を取り返すことが出来ない.
 しかし今,山形では破竹の勢いで石田方に与した上杉軍が勝利を得ている.
 毛利や上杉,宇喜多,島津と言った大軍勢を率いている石田方が,このまま勝利する可能性が高い.
 この時,上杉景勝に与しておけば,その配下で戦った小野寺は恩賞として敗北者となった最上義光から,少なくとも旧領の雄勝郡を取り返すことが出来るのでは無いか….

 翌日の9月15日は,所謂関ヶ原の合戦でした.
 当初の予想に反して,戦いは正にわずか1日で東軍の勝利に終わりました.
 当然,家康を始め,東軍諸将は各地に一斉に東軍の勝報を知らせることになります.
 合戦から3日後には金沢にその報は届き,金沢城主の前田利長からの書状で,出羽の秋田実季などは9月下旬にはその結果を知っていたと思われます.

 正にタイミングは最悪の時に義道は反最上の行動を取ってしまったのです.
 9月27日,秋田家から最上義光に対して関ヶ原合戦の東軍勝報が届くと,雪崩を打ったように諸将は最上に靡き,10月14日には秋田と山形の大軍に横手城を囲まれ,小野寺氏は本城である横手城を放棄して,難攻不落の地である大森城に籠城することになりました.

 この地は平鹿平野と由利海岸の間にある標高300〜400m程の丘陵地帯です.
 地図上では出羽山地となっていますが,その麓に作られた小野寺義道の舎弟である五郎康道の居城で,背後にこの山々を持ち,前面に雄物川を擁し平野全体を見通せる,攻めるに難しい天然の要害の地でした.

 攻撃軍は総勢1万余.
 最上義光方の武将清水大蔵大輔義之を筆頭に,秋田城介実季,戸沢政盛,由利諸将の一員である仁賀保兵庫守,打越左近,岩屋右兵衛尉,滝沢刑部少輔,赤尾津孫二郎,更に六郷政乗.
 これに対し,小野寺方は一族の大森五郎康道,吉田孫市,家臣の岩崎伊豆,前郷内記,落合左馬之介,大築地又二郎,庄司勝三郎,日野小左衛門と言う小勢.
 初期の頃は小野寺方の奮闘目覚ましく,攻撃軍は一旦陣を調える為,撤退します.
 その後,後詰軍が到着して攻撃軍の総勢は3万余となり,数度の衝突を経て,10月23日に至ってやっと大森城は開城しました.

 結局,その後の論功行賞により,1601年8月,小野寺義道は改易となり,出羽から遠く離れた石見津和野の坂崎出羽守直盛の下へ配流となってしまいます.
 因みに,北奥羽の大名の中で改易となったのは,たった1つ,小野寺家だけでした.

 配流先へは弟の大森城主小野寺康通,最上の重臣であった坂紀伊守に護られて,幽閉先の横手城から京都まで行き,そこで坂崎家に引き渡されたと言います.
 時に1601年11月のことでした.
 京都で暫く滞在した義道は,その後,1602年1月に津和野に入り,配流生活をする事になりました.

 当時の標準的な領知高では,1万石で約300名の家臣を抱えていましたから,小野寺3万石の家臣は凡そ900名程度はいたと考えられます.
 勿論,直臣だけでは無く,その家来,つまり陪臣もいた訳ですから,1,000名以上の人々とその家族が失業したのです.
 彼等は主家が滅亡したことで,一気に路頭に迷う事になりました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/12/03 23:45
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 小野寺義道配流後の,その家臣の身の振り方は?

 【回答】

 さて,1601年,出羽横手城主だった小野寺義道は改易となり,津和野へと配流されてしまいます.
 当時の朱印高は3万石だったので,平均的な家臣数とすると,直臣で約900名,陪臣も含めると1,000名以上の家臣が路頭に迷うことになりました.
 謂わば,会社が倒産してしまったと言う訳です.

 彼等家臣達の採る道としては大きく3つに分かれていました.

 1つは「帰農」,つまり,農民階層になると言う事です.
 農民階層になると言っても,東北の大名家の殆どは,中央の大名の様に,家臣を集住させて知行高から米を支給する形を採ることは稀でしたから,殆どの家臣は自分で切り取った,或いは受け継いできた知行地をそれなりに保有しています.
 よって,彼等は肝煎,即ち地主層に転化していきました.

 実際,雄勝,平鹿,仙北の旧肝煎層の多くを調べていくと,「我が家のご先祖は,昔小野寺家の家臣だったが,主君改易後は旧知行地に住み,村の代表として長く肝煎を務めてきた」と言う事例に多く行き当たります.
 例えば,羽後堀廻村の肝煎石垣六郎兵衛の出自は,西馬音内小野寺氏の家臣であるとされていたり,大仙市花館の高関下郷村の寄郷だった馬鞍村の治兵衛家は平鹿馬鞍城の家臣,雄物川流域の沼館の小柳庄兵衛は沼館小野寺信之助の臣で照井宮内少輔を祖とするなど,枚挙に暇がありません.

 そう言う意味では,不動産を保有していた人々の多くは自分の支配地に戻って,その地で庄屋として上層農民を形成した訳で,主家が滅亡した後の転職先としては最もありふれたものだった訳です.

 2つ目は主君を慕って召し抱えを求めると言うものです.
 確かに,局面局面でマイナスの選択ばかりして,遂に自家を滅亡に導いてしまった小野寺義道は,凡庸な人物であり,家臣から余り信頼されていなかったりするのですが,とは言え,下克上の世の中,そんなことばかりしていては,却って寝首をかかれかねません.
 そう言う意味では,全然信頼されていない訳でも無く,ある者は旧主を慕って,横手から遙々津和野まで,旧主に面会し,自分を再び雇い入れてくれ,と願い出たりしています.

 例えば,甲斐光行と言う家臣の孫に当たる滝沢弥三郎道吉なる人物は,黒沢甚兵衞と言う人と共に,石見津和野に出掛けて義道に目通りし,その様子を確認して横手に帰ってきました.
 その際,召し抱えを求めたのですが,尾羽うち枯らした義道は僅かに50人扶持と言う捨て扶持を与えられただけで,既に新たに家臣を雇い入れる余裕は無いと断っています.
 また,義道が配流される際に京都に同道した八木藤兵衛,水上与九郎,東海林庄三郎の3名は,義道が津和野に赴いた後も,暫く京都の動静を探り,併せて旧主の様子を情報収集し,もし,義道の家計が内福ならば,家臣として雇い入れて貰おうとした様です.

 これは,昔,それなりの地位を築いていた人々が,主君の下で再起を図り,もし,旨く主君が再起出来たならば,家の中枢で安定した地位を望めると踏んだのでは無いか,と考えられる訳です.
 ただ,義道自身の家計が苦しかったことから,大部分の家臣は再仕官が叶わず,帰農を選んだのですが….

 3つ目が,関ヶ原の合戦の結果,新たに石高を増やした他の大名家やその家臣に仕官すると言うものです.
 とは言え,当時は西軍大名家の多くが改易,または石高減少となり,その結果として大量の浪人が生まれ,その多くは他家への仕官を考えたことから,あらん限りの伝手を頼りに就職活動をしていた訳ですから,かなり競争率が高いコースです.
 彼等の仕官のコースは,大名家の直臣になる型と有力家臣の家来,つまり,領主から見れば陪臣となる型もありました.

 小野寺家家臣の他家への仕官先については,余り事例が残されていないのですが,当時の情勢からすれば,新たに秋田に入部した佐竹氏の直臣,もしくはその家中の士の陪臣,六郷氏の直臣,最上氏の直臣や陪臣,戸沢氏の直臣,由利地頭の家臣などが考えられます.

 例えば,西馬音内小野寺茂道の子小野寺八之丞は,義兄の土肥半左衛門を頼り,これまでの敵方であった最上義光に使えました.
 しかし,仕官後頼りの土肥半左衛門が密告により死を賜ったので寄る辺を失い,最上家を去って戸沢氏に身を寄せたとあります.

 ところで,この旧小野寺領は領主不在の儘,最上氏がその旧領を預かる形で統治していたのですが,1602年9月,常陸を支配していた佐竹義宣が,秋田,仙北を支配する新領主として入部することになりました.

 佐竹の先遣隊として和田安房守と川井伊勢守が秋田に向かっていたのを聞いた,旧家臣の黒沢甚兵衞と八木藤兵衛は,相談して義宣が秋田に入国する際,小野寺家譜代の者共を率いて有屋峠で出迎えると言うパフォーマンスを行い,その場で家老の向右近に佐竹での仕官を願い出て即座に認められたほか,現在の横手市である平鹿郡百万刈の開発を許可されました.

 佐竹も,一応常陸一国を支配していた大名家であるとは言え,関ヶ原の合戦の際にはその去就を家康に疑われ,結果として,関東から左遷させられる形で秋田に飛ばされた大名家であり,そんなに裕福でも無かったのに,何故,彼等の仕官がすんなり許されたのかと言う疑問が湧きます.

 当時,佐竹を迎えようとしていた秋田,とりわけ旧小野寺領地の地侍勢力の中には,佐竹は家康に疎まれて罪人同様に秋田の地に来るのだから,いっその事,秋田の入口で義宣を待ち構え,暗殺してしまえば,家康にとって後顧の憂いが1つ消えることになり,結果として家康が賞して恩賞をもらえるのでは無いかと言う考えがありました.
 これは,何処から出た考えかは判りませんが….

 兎にも角にも,こうした動きがあった事は事実の様です.
 佐竹がやって来ると,従来から保持してきた地侍達の諸既得権が否定され,厳しい態度で臨むのでは無いかと言う不安もあり,それなら秋田入りの第1歩となる有屋峠で待ち伏せ攻撃を仕掛けて佐竹義宣を暗殺しようと言う動きがありました.

 それを案じた黒沢と八木が,轡を並べて整然と佐竹先遣隊を出迎えることで,未然に防止する効果があったと思われます.

 この黒沢と八木は前にも出て来たのですが,まず八木藤兵衛は,居城が現在の横手市である旧増田町八木にあり,義道とは乳兄弟の間柄と言われて信頼の厚い家臣でした.
 一方の黒沢甚兵衞は,現在の横手市である旧山内村の山内黒沢城主で,南部和賀衆の抑えの役目を持つ黒沢長門守の子で,若家老として活躍し,義道の命令で横手城大手に於いて,軍師の八柏大和を上意討した人物でした.
 何れも,城主格の有力武将であり,しかも義道にかなり近い人物で,旧小野寺家臣団の中では最も頼りになる武将だった様です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/12/04 23:46
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 佐竹家に残った旧小野寺家家臣は,どういう待遇だったか?

 【回答】

 さて,小野寺の地侍の内,入部した佐竹家の先遣隊を有屋峠に迎えた八木藤兵衛と黒沢甚兵衞等ですが,何とか佐竹家に仕官が叶い,梅津半右衛門組下の角間川給人となりました.
 しかし,佐竹家では既に上層階級は水戸以来の家来が多く犇めいており,幾ら城主格だった人物とは言え,彼等新参者が抜擢された訳ではありません.
 彼等は,一応,武士階級を有してはいますが,その知行は自分で角間川流域を開拓して稼ぎ出さねばなりませんでした.

 1623年の段階で57名の角間川給人がおり,その知行高合計は590石前後,1668年には75名で934石を有していました.
 ピークは1694年頃で,76名の給人に対し,知行高は948石となっています.
 以後は右肩下がりとなり,1745年には69名に減って900石,1841年には65名で871石となっています.
 給人1軒当りの平均持高は,ピーク時で12石余,1745年で13石余なので,その昔の城主格でふんぞり返っていた時期からすれば,かなり微少なものでした.

 角間川給人は記録に依れば当初36家だったと考えられています.
 1623年の段階では,更に弟や叔父などが分家しておりその数は22家に達し,急速に一族の解体と庶子の独立が進んできているのですが,その中には先ほどの平均石高よりも低い1〜2石程度の者もおり,此の場合は知行地で家族を養うのは不可能な位,零細な生活単位です.

 以前,日向の飫肥家について書いた時にも触れましたが,この角間川給人も佐竹領内では特殊な知行形態です.
 それは一応武士とは言え,給人自らが農地を耕作すると言うもので,知行高に見合う土地の耕作者は給人そのものとなり,謂わば半士半農とも言える形態でした.

 1648年の場合,角間川の村高は1,430石余です.
 この内,給人分として870石余,残りの562石余が村の残高となります.
 この残高562石余から,蔵分,即ち藩収入となる当高は60%(物成六ツ)であり,これは藩庫に納められますが,残りの40%は農民分となります.
 但し,ここで農民と言うのは,即ち角間川給人そのものなので,225石余が村に残ることになります.
 これは謂わば,給人分の簿外の収入です.

 そして,給人分の869石余は,本来,これが知行取の領地の場合なら,この内60%が村から年貢として知行取の当人に徴収され,残りの40%が耕作農民に残る訳です.
 ですが,此所では給人は総て自分たちの領地として持っているものですから,869石余はそっくりそのまま自分たちの給与分に引き当てることが出来ます.
 即ち,表向きは870石余を収入としていたのですが,更に225石余の余得分が有りましたから,例え1石や2石しか知行高が無い給人でも,余得分を割り当てることで,少なくとも生活が出来るくらいの収入は得られていたことになります.

 因みに,彼等給人はどんな由緒があったのか.

 先ず,松岡家,この一族は44石と比較的大規模な領地を持っています.
 この松岡家は元々小野寺輝道の時代に家老職であり,京都出水にあった小野寺京都屋敷の留守居役を勤めていた松岡平蔵を祖としています.

 杉沢家は12石を領していますが,この家は元々小野寺輝道の時代に杉沢城主となっており,1598年の太閤杉板発送人にもその祖である杉沢与八郎道継が名を連ねています.

 大友家は31石とこれも比較的大きな領地を持っています.
 此の家も,唐松城主と城主を務めていた大友太郎左衛門が祖です.

 鍋倉家は11石で,ここも鍋倉城主.
 関口家は26石余で,兵衛門が関口城主から馬鞍城主を務め,祐四郎が関口城代を務めていました.
 芦田家は15石で,輝通に仕えて岩崎城代.
 大沢家は7石しかありませんが,大沢郷を支配した城主格でした.
 高田家は12石で,川連城代.
 幡江家は金沢郷を支配した城代格でした.

 ここまでが最有力の武将とも言える人々だった訳です.

 八木家は91石と最も大きな領地を保有しており,角間川給人の代表とも言える人物でした.
 もう1つの関口家は僅か5石ですが,関口小平なる人物が横手居住で,川連城代だった川連蔵人が伊達に内通した際の合戦で活躍しています.
 日野家は53石余と旗本では大きな石高を持っていますが,岩崎合戦や大森合戦で活躍した治左衛門が祖で,妻が黒沢甚兵衞の妹と,かなりの有力武将だったと思われます.
 因みに,日野家にはこの他,久保田城下で採用され,1714年に知行170石を得ていた日野又左衛門がいます.
 もう1つの芦田家は11石で,横手柴崎を支配してました.
 石山家は20石余で,横手に居住していた旗本武将の一人でした.
 落合家は17石余で,これも横手に居住していた旗本武将です.

 ここまでは旗本とも言える存在.

 小野寺家には,仙北地域で政争に敗れたか何かで客分となっていた武将もいました.
 六郷家は8石ほどしかありませんが,1562年に小野寺家に仕えた武将です.
 ただ,本荘2万石の六郷政乗の親族関係ではないかと考えられています.

 陪臣から一気に同格になった人々もいます.
 田中家は小野寺義道の弟康道が大森城を支配する際に,輝道家臣から付人的に康道家臣として付けられた田中甚助が祖です.
 もう1人,金子家は26石で,これも康道に付けられた家臣である金子仁助が祖です.

 他にも由利十二地頭の系譜もありますが,それは明日にでも.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/12/05 23:48
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 米沢転封後の上杉家の領国経営は,どんなものだったのか?

 【回答】
 関ヶ原で西軍が敗れると,上杉家は敗北者の側に立ちました.
 とは言え,兼続は家康の知恵袋である本多正信とも親交があり(1604年,後に兼続は本多正信の次男政重を息女の婿に迎え入れていたりする.),正信や友人である前田慶次達の奔走もあって,改易は免れ,会津120万石から米沢30万石への大減封で決着しました.

 その米沢へ上杉家が越してきたのですが,兼続が先ずしたのは治水事業でした.
 領国経営の基として,安定した農産物収入が必要であり,その為には治水が絶対だった訳です.
 米沢の地は盆地であり,この地の東側には羽黒川,西端に鬼面川,中央東寄りに松川の3つの川が流れています.
 この地での治水上最大の問題は,松川の氾濫による水害で,この為,盆地南部に当る上流部が平野部であるにも関わらず農地が得られず,その北側で西岸に位置する城下町は,被害極限の為,最大1kmもの空間を空ける必要がありました.
 また,松川が東に寄っているので,その西側に広がる広い平地の部分に水を得る事が出来ず,荒れ地になっているのも問題でした.

 こうした地に上杉家が移封されたのですが,30万石で養える家臣団の数は,普通精々1,000〜1,500名程度と言われます.
 元々,上杉家は120万石ですから,その規模からすると家臣団の数は,4,000〜6,000名に達しました.
 即ち,大減封されたのですから,家臣団を大リストラする必要があります.
 ところが,上杉家は移封されても家臣団をリストラする事はせず,殆どの家臣(約5,000名と言われています)が米沢に付いてきました.

 後に,上杉家の経営はこの家臣団の数によって逼迫し,幕府との外交上の失点を重ねた事で,更に石高を半減され,家臣団を維持する為に借金を重ねて,「上杉と書いて新しい鍋の底に貼っておけば,鍋の金気が取れる」とまで江戸雀達に言わしめたくらいの状態に陥り,上杉鷹山が出て来るまで四苦八苦するのですが,それは置いておいて.

 兼続は先ず松川の氾濫を抑える為,大規模な堤防を築造しました.
 これは現在でも一部が「直江堤」として残っているのですが,大きな丸石を使って積み上げられたもので,これにより,松川の氾濫が抑えられて,南部の平地では松川西岸部の農地利用が可能となりました.
 更に兼続は,西側の方の荒れ地を開墾すべく,城下町への水道や荒れ地への農業用水を3本掘削します.

 そのうちで最大のものは堀立川で,この川は米沢盆地南端部の東寄りを流れる松川に取水口(猿尾堰)を築いて取水し,北西方向に斜めに流してから北方向に向きを変え,平地西寄りを城下町にまで流したものです.
 これにより,城下町の南側に広がる荒れ地に水が引かれる事となり,兼続はその荒れ地に,城下町に収まりきらない下級家臣を住まわせ,開拓地として農地化させていきます.
 彼等は「原方衆」と呼ばれましたが,これは,米の増産に繋がり,下級家臣の生活の糧を与える事が出来,更に農地拡大に伴う農民不足解消と言った多くの利点を得る施策となっていました.

 一方で堀立川は,城下町に入ると防衛施設の役割を果たします.
 この川は城下町に入ると水勢を抑える為に細かく蛇行しながら,城下町の西側に沿う様に流れていきます.
 両岸はわざと低地にされていて,有事の際には三の丸北端(周防殿橋北側)など数カ所で堰き止めて水を溢れさせ,幅20mの堀と化す様に造られており,更に堰き止めた場所では,堀になった堀立川がそれ以上溢れない様な水量調節機構も備えていました.
 この堰のある地区の住民に対しては,毎年1回,実際に堰き止める訓練をさせていたそうです.

 こうして,米沢の城下町は,東は松川,西は堀立川に守られる事になり,堀立川は城下町を出て再び松川に合流しています.

 第2の水路は御入水と言う生活用水路です.
 城下町南東部から町に入り,3本に分かれて主に上級家臣団の屋敷地を巡っていました(後に増設されて,城下町全域に張り巡らされていきます).
 その内,中央部の1本は,三の丸に入り,二の丸の堀の上を越えて二の丸内にまで達していますが,これも防衛上の工夫がありました.
 もし,米沢城が包囲された場合,城門は全て閉じられますが,下級家臣は南側の平地を中心に配置されており,場合によっては城門の閉鎖に間に合わない場合があります.
 その場合の抜け道として,この御入水を使う訳です.
 彼等は,三の丸の外から御入水の中をジャブジャブと歩き,堀を越え,水門を潜り,道路や城門を一切通らずに二の丸内に入り込める仕組みでした.

 最後の水路は木場川で,盆地西端を流れる鬼面川に帯刀堰を築いて取水し,三の丸西外の木場町まで流し込む水路で,こちらは御入水が上級家臣団用の水路であるのに対し,北西部の三の丸外に位置する中級下級家臣団の生活用水となっていましたが,最大の目的は,上流山間部からの木流しで,此処から供給される木材が城下町建設に用いられたほか,冬の暖房用の薪を確保するのに必要な水路でした.

 こうした努力もあって,最終的に米沢は表高30万石に対し,内高52万石を打ち出していました.

 その米沢の城下町は,視座によるものかどうかは判りませんが,兼続が秀吉の話を聞いていれば,もしかしたらその考えを取入れたかも知れません.
 とは言え,高い石垣に広い堀,そして天守閣のセットは元々西国方面の考え方でした.
 東日本で,この構成の城は,大抵が秀吉関係の武将(蒲生氏郷とか),徳川家もしくはその要請で造られたもので,本来の東日本の城は,館・櫓と土居(土塁)・堀と言う構成です.

 これでどの様に敵の攻撃から守るかと言えば,城下町に防衛機能を持たせた訳です.
 これは町割や道路,水壕,土居を組み合わせて造り上げていくもので,小田原城が典型的です.

 米沢城は,本丸・二の丸・三の丸を土居と堀で囲みました.

 また,上級・中級家臣団の屋敷地である三の丸内は,本丸・二の丸の東に上級家臣団の大屋敷が建ち並び,北東・南東隅には兼続の腹心である平林氏・志駄氏の屋敷,北端には兼続が信頼を寄せる色部氏の屋敷,鬼門である西北には禅林寺,西には景勝の旗本である五十騎組,西南には直江家旗本の与板衆,南には謙信の旗本であった馬廻組と強力な家臣団を隙間無く配置しています.
 更に,その外側は東に大規模な東寺町,堀として機能する松川があり,北には北寺町,西には同じく堀として機能する堀立川と兼続生家の樋口家家臣団である直峯衆,南には先述の原方衆が置かれました.
 その上,その周りには,東に前田慶次と堂森善光寺,北に色部氏の家臣団と千眼寺,西には伊達家が造り上げた防御施設を流用し,南には開墾地からはみ出た原方衆と普門院…以降,十重二十重に家臣団が置かれています.

 一方,米沢の商業地は,三の丸東側(三の丸外縁の堀と東寺町の間)に整備して6つの商人町を置き,その中に北は最上街道,南は会津街道と福島街道に繋がるメインストリートを整備しました.
 結果として,米沢を通過する旅人は,ほぼ全ての商人町を歩く事になり,それは同時に南北に長い三の丸の東縁に沿って歩く事でもあります.
 この三の丸東側には,大身の家臣が軒を連ねていますので,来訪者は視覚的に上杉家の威厳と繁栄をアピールさせられる訳です.
 また,西側の住民の檀那寺は東寺町へ,南側の住人の檀那寺を北寺町へと置き,住民と檀那寺を城下町のそれぞれ反対方向に配置する事で,城下町の人の往来を活発にする効果を狙っていました.

 交通の動脈は,街道と水路ですが,兼続はこれを直接管理下に置く事にも意を配っています.
 北の最上街道の入口には色部氏,平林氏の屋敷を,南の会津・福島両街道の入口には志駄氏の屋敷を,西の越後街道沿いには兼続の下屋敷(直江田屋)と重臣である千坂氏の屋敷を置きましたし,堀立川は城下町に直接入ってきますので,南の入口に与板衆,北の出口には禅林寺を配置,城下町外側を流れる河川には,盆地東側の羽黒川近くには前田慶次を置き,鬼面川から続く木場川は兼続の下屋敷を通る様になっていました.

 1664年に家政の混乱から半知召し上げとなった上杉家は,信夫地方,猪苗代,高畠から家臣団が流入してきて,城下町の周辺に新たな屋敷地が造成されましたが,兼続が縄張した町割は全く変わってはおらず,現在も連綿と続いていたりします.

 これまで何度も前田慶次が出て来ましたが,彼は決して武芸馬鹿ではありません.
 特に米沢に兼続を訪ねて落ち着いた後は,現実社会を離れ隠遁生活に入りますが,現実社会に縛られることなく,寧ろ現実の諸問題から超越するくらいの知的能力を持っている人で,その思考や想像の世界に心を遊ばせる人でなければ,慶次と話が出来ません.
 また,遊び心もあり,優れた,かつ,美しいセンスが必要です.
 そうすると,慶次を受容れ,且つ,慶次と共に過ごせる兼続と言う人物も,実は大いに傾き者の性質を持っていたと言える訳で.

 ついでに,兼続の傾きの心の極致と言うべき行為は,1人の息子,2人の娘が早世し,養子政重も本多家に戻ったのに,決して後継を求めず,直江家の給与・財産を主家に没収する道を選んだと言う点にあるでしょう.
 元はと言えば,兼続自身,上杉家の財務を切り盛りする為の直江家入りな訳です.
 その代わり,禅林寺に兼続は膨大な蔵書,自分で出版した出版物を集めた禅林文庫を造って,後の時代に継承しています.

 実は,慶次以上に傾き者だったのが,直江兼続という人物だったのではありますまいか.

 来年の大河ドラマは,此処までの描写は無理だろうねぇ.
 それにしても,現在の日本の政治には今ほど兼続が必要とされている時代はないと思うのですが.

 …ああ,来年はどうなるんでしょうね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/12/31 20:29


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